【マジ質問】何故早稲田に入ってうれしいの?

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63エリート街道さん
慶應は、実学をモットーとし、その拠点が理財科であった。
 都市銀行の上位行に理財出身の頭取が、三、四人一斉に顔を並べたこともある。
 その理財科が経済学部と名を変え、さらに経済学部から商学部が派生した。
 理財科が本家だとすれば、経済学部は本家の跡継ぎであり、商学部は分家という関係になる。
この関係は塾関係者、在校生含めての共通認識であった。したがって、特殊な能力や思い入れがない限り、
高校の文科系コースの人間が選択する第一志望は経済学部、第二志望は商学部ということになるのだ。
ちなみに、なぜ早稲田出身者の政治家が多いかについて、父はこう解説してくれた。
 昭和初期の不況期、早稲田の学生の就職率がきわめて低かったという。
在野精神を標榜し何かとうるさい早稲田の学生を、企業が忌避したためである。
職にあぶれた彼らの進む道は限られていた。一つは、政治家の秘書から政治家へという道であった。
もう一つは新聞記者の道である。赤新聞などという言葉が存在した頃のことだ。
 年を経て、気がつけば、政界には稲門会という党派を超えた大グループが形成され、言論界にも早稲田の人間が勢力を張るようになったというのだ。
 大学3年の頃、加藤寛氏(現千葉商科大学学長)の授業を受けたことがある。当時は少壮気鋭の助教授であったが、彼も父と同じようなことを言っていた。
ところで、早慶戦ですが、昔は慶早戦と言っていたんですよ。
ところが、新聞記者の連中が勝手に早慶戦と変えてしまった。新聞社を早稲田の出身者ばかりだったですからね。」
脂ぎってまん丸な顔をした加藤助教授の憤懣やるかたない表情が、今も目に浮かぶ。
付け加えれば、第四に勢力などと自称するジャーナリズムが、その実、政界とツーカーの仲というのも、早稲田パワーのなせるところかもしれない。
俺たちの入試のときは雑誌などがメジャーな情報源であったが、その雑誌などのマスコミの連中が、旧帝や国立が嫌いな早稲田出身が多かった。
私大の難化やバブルで浮かれて、早稲田過大評価の記事を喜んで乱発したのである。