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845エリート街道さん
徳光さん、立教を語る

あれは昭和32年の11月3日でしたかね。長嶋さんは大学の4年で、慶応の林投手から、確か第2打席だと思ったんですが、
当時の東京六大学新記録になる8号ホームランを放ったんです。最初は入ると思わなかったので一塁から二塁まで全力疾走だったんです。
それが入ったことがわかってから、二塁ベースを回ったところで腕をぐるぐる回して、三塁ベースを回ってからはコーチの人と肩を組みながら
ホームインしました。 僕は高校2年生で神宮球場で見ていました。そのころの学生野球の本分は、決して派手さをきわめてはいけない、つまり、
喜怒哀楽をあんまりプレーに出してはいけないというような教育だったんです。早稲田や明治にもスラッガーがいて、ホームランを打ってもダイヤ
モンド一周を全速力で無表情で回るという時代でしたから。でも、長嶋さんは小躍りしながらホームインした。しかも、三塁コーチスボックスにいた
選手と一緒に肩を組んでホームインした。それを目の当たりにした時、僕はスポーツの躍動感というのはこれじゃないかと、本当にうれしい時というのは、
こういうふうに体全体で表すっていうことではないだろうかと。当時はそういう分析はしておりませんでしたけれど、感性ですね、感性で長嶋さんに一番
ひかれたといいましょうか。長島さんとの最初の出会いがですね、長嶋茂雄という人を目撃した最初がそれだったわけですから、それが非常に心に残って、
そのあとは『長嶋茂雄の後輩になりたい』と、立教大学を目指して受験勉強に専念するわけですね。
うちの親父はどうも立教という学校が大変嫌いだったみたいで、「なんでお前明治を受けない、法政を受けない」みたいに言うわけです。僕らの世代は
846エリート街道さん:2005/12/18(日) 10:27:47 ID:gHjg+2Qh
>>845続き

東京六大学がそれこそ華でしたから。それで、早稲田用にもらった受験料を立教の経済学部に、慶応用にもらった受験料を法学部の受験料に充てたり
いたしまして、親には立教の社会学部だけを目指すように言っていたんです。そんなことで、親にもらった受験料を全部立教に振り分けてですね、それで受けて、
通ったのは社会学部の補欠だけということでありました。いずれにせよ、長嶋さんとあそこで出会わなかったら、立教大学という学校はそんなに知らなかったですし、
いざ実際に受けるとなりましたらば、キリスト教系の学校だということを初めて知ったくらいです。そういう中で、要するに長嶋さんの後輩になれたというだけで、
僕は有頂天でしたからね。とにかく、これは長嶋さんが導いてくれた、と、いうぐらいに思っておりましたので、長嶋さんとの出会いがなかったら、
きっと、東京六大学には行かれなかったんじゃないかなと、自分の中で、入学式迎えた時なんかに非常に強く思ったわけです。
 学校に行ったりしますと、小さいキャンパスではありますけれど、なんとなく、池袋の雑踏から離れたところに、ちょいとした緑があってみたいなところで、
長嶋さんの歩いたところは全部歩いてみようと、4年間で、というふうに思っていたわけです。