【岩手】東北乗り鉄の思い出【青森】

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1回想774列車
子供の頃に親に連れられて東北にある親の実家へ行った人。
学生時代に行った東北の乗り鉄の思い出をマターリと語りましょう。

2回想774列車:2010/04/27(火) 02:52:04 ID:p0+5V5/g
大阪生まれの自分に、東北はずっと遠いところだった。大学三回生の夏、友人を訪ねて
初めて訪れた夏の東北。目を射る緑が本当に鮮やかだったのを覚えている。
盛岡で乗り換えると、ホームに待っていたのはED75と50系客車。しばらく鉄から
離れていて、もう客車の普通列車なんて無くなってしまったと思っていたからこれは
嬉しかった。開け放した窓から入る夏の風の、素晴らしく爽やかだったこと!

まだ15年、もう15年。1995年の夏の話。
3武庫川女子大学総長 ◆gqBBZUnUPk :2010/04/27(火) 06:37:10 ID:ntCCKbsY
「恐山参拝」にかこつけて、この自分が初めて青森駅に降り立ったのは
大阪発急行「きたぐに」で揺られること19時間の後のこと。
既に時間は17時を回っている。
外は台風接近のために大雨だった昭和56年8月下旬。

なんと、このときの青森駅の構内アナウンスはもろに東北弁!!
(但し、それが津軽弁なのか南部弁なのかは、この自分には分からない)

…青森市内で1泊した翌朝、野辺地に向かうべく10時07分発DC急行「深浦」に乗車。
床が板張りなのが<南の国>から来た者の眼には実に新鮮だった。

この「深浦」に乗車する際に、ちょっとした面白くもお気の毒な様子を目撃。

…それは、青森で降車する乗客らがみんな降りてしまったと思って我々が乗車を始めたのだが、
降車に遅れた、背中に大きな箱のようなものを背負っている老婆が1人
「降ろしてくんせー、降ろしてくんせー」と哀願しておいでた光景。

長閑で素朴な印象の青森駅でありながらも、駅の規模のほうは、
少なくも”四国の表玄関”を自負する高松駅よりは大きいことに気付いたときには
「やはり青森も日本の大動脈の一部だったんだな」と改めて思い直す羽目となった。

ちなみに、この朝の青森駅の構内アナウンスのときには標準語(幾分の東北弁アクセントが感じられながらも)に変わってたw
4回想774列車
http://www.dpj.or.jp/news/?num=17940
小沢一郎幹事長は28日午後、青森県青森市内の会場で開かれた
「民主党青森県連躍進パーティー」で挨拶した。
主催者を代表して、横山北斗県連代表が「昨年の総選挙では、まさに革命と呼ぶに
ふさわしい出来事として、私たちは政権交代を実現したが、革命の後は、反革命が起こる」とし、
「今、民主党を批判する反革命分子に負けずに、この
危機を乗り越えて行かなければならない」と強い決意を述べた。

民主党青森県連http://www.dp-aomori.com/giin.html

横山北斗オフィシャルサイト
http://webhokuto.com/days.php?itemid=239

反革命 (10.03.18)

主張 ……aomori ……
半世紀以上も続いた一党支配の終わりは、武装蜂起であれ、国民の一票であれ、「革命」として表現されるべき出来事である。
歴史上、革命を経験した国で、革命の後に起きることは何か。「反革命」運動である。
鳩山政権の発足から半年、支持率が急落している。反革命運動にしてやられた結果だ。
反革命勢力にとっては、我々が革命の余韻に浸っている時が最大のチャンスだった。
だから、事業仕分けで支持率がさらに上がったと浮かれていた後に、このざまだ。
民主党議員はマニフェストの早期実現に努めるという強迫観念に駆られていた。
私もそう考えた一人であった。しかし、不況、借金、しがらみなど、自民党の負の遺産の大きさを前に重要な改革は立ち遅れている。
その間に、自民党利権構造の中核勢力であった一部官僚、大マスコミ、そして自民党内の日和見分子は淡々と復活の機会を窺っていたのだ。

我々には大いに油断があった。支持率を下げられても、動揺してはダメだ。まして、執行部批判を繰り返し、自らを反革命のスパイに貶める必要はない。
革命の後には、必ず反革命が起きる。
歴史に学ばなければならない。
国民やマスコミの厳しい批判にさらされるのは、そもそも与党の宿命だと思って、現下の危機を乗り越えていかなければならない。