75 :
回想774列車:
下鉄車庫撤去闘争
大阪市の地下鉄で最も古い御堂筋線。かつて御堂筋線の最南端の駅であった我孫子(あびこ)。
我孫子駅から徒歩で一〇分ほどのところに地下鉄車庫がつくられたのは一九六〇年のことである。
車庫建設計画がもちこまれたとき、地元の浅香地区の人たちは強く反対した。
ムラの北側の広大な土地に車庫ができれば、ますます周辺地域と隔絶される。
騒音問題も起きる。さらに耕作権や通学路の問題などもある。
浅香の人たちは車庫反対闘争に立ち上がったが、大阪市はこれをはねつけ、
一九六〇年に車庫を完成させた。
しかし車庫に反対してきた浅香の人たちの願いはやむことなく、
年を追って車庫撤去の運動は広がっていた。
車庫建設から五年後の一九六五年、部落解放同盟大阪府連浅香支部が結成された。
ムラを二分する激しい住宅闘争を経て結成にこぎつけた。
浅香支部は車庫撤去闘争を組織あげて取り組んだ。
そして一九七六年、部落解放浅香地区総合計画実行委員会が結成された。
浅香支部を中心に浅香町会、社会福祉法人あさか会などが加盟する
浅香あげての組織であった。
さらに地区内の施設で働く人たち、「同和」教育推進校の教職員、
また車庫で働く労働者らも参加。一番大きな目標はもちろん車庫撤去と
その跡地を利用しての街づくりだった。
そして何度も大阪市と交渉を重ね、車庫の全面撤去などの要求を認めさせることができた。
要求をかち取ることができたものの、それが実現するまでにはさらに歳月を要した。
一九八七年四月一一日午後八時一二分、最後の列車が出て、車庫は二七年に及ぶ歴史に終止符をおろした。
浅香地区住民や共に闘ってきた人たちにとって待ちに待った瞬間であった。
悲願は実現したものの、実はそれ以降の闘いがまた大変だった。
三万三千坪という甲子園球場三つ分もある車庫跡地をどうするのかという大きな問題が待ちうけていた。
もちろんこのことは撤去以前から論議されてきた。
それがいよいよ現実のものとなったわけである。
跡地利用について浅香支部が最も重視したのは周辺住民と
いっしょになって考えるという共同闘争の精神だった。
これだけ広大な土地を浅香の人だけが
利用するのはいかがなものかという考えから出発。
跡地は部落差別をなくすこと、市民も広く利用できるものに
することという二つの大きな柱を立てたのである。
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回想774列車:2008/12/07(日) 03:44:10 ID:9UPlxXuA
浅香の概要
浅香の街は、大和川の堤防と河川敷上にできた東西800mの同和地区で、
1970年代で900世帯くらいあった。市内12地区のなかでは中間くらいの規模である。
1965年に支部が結成された当時は、南に大和川、西に大阪市立大学、
北側には、地下鉄の車庫があり、まさに陸の孤島と呼ばれていた。
JR杉本町、地下鉄我孫子から入ってくる道は二本しかなく、
地区の周りには住宅がなかったので、この道を通っている人は部落の人、
部落に関係ある人ということがわかりやすかった。
地理的な差別の実態である。支部結成当時に、環境改善ということで、
地下鉄車庫の撤去、河川敷の改修、堤防上の改修3つの要求を出し、
街づくりを展開してきた。