関西系のそばや饂飩が全国で評価されない理由

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975名無しさん@お腹いっぱい。
>>922
日本橋の大通りの大店は江戸店(たな)持ち上方商人=三井・住友・鴻池(旧三和銀行=三水会グループ)に
ほぼ独占されていた。
また、日本橋本町〜浜町近辺の製薬業を始めとする問屋街は上方の大坂屋(現・風月堂)が開発。

東京の佃島は、現在の大阪市西淀川区佃島の漁民に戦国時代に助けられた家康が
彼らの一部を江戸に移住させた人工島(お茶の水台地を削り、埋め立ての下町を作った頃)。

佃島住民は東京湾の漁業権を与えられ、日本橋にあった魚河岸(現在の築地市場)も与えられた。
佃煮も発明。江戸前寿司にも貢献。
関西の佃島は現在の尼崎市に接しているが、
尼崎は3世紀から畿内の漁村として栄え、優れた漁業技術を持っていた。
また、深川には尼崎藩邸があり多くの尼崎人が入植した。
976名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/27(木) 23:16:59 ID:n1Vh4Hui
関東の一流料亭=蘆月・つる家(京都)・吉兆・大和屋(以上大阪)・なだ万・花外楼等は全て関西が本店。
(大和屋は現在東京が本店?)
東京発祥の料亭は山花か八百善などがあるが…。
977名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/27(木) 23:48:37 ID:n1Vh4Hui
明和8年(1771)頃に、「江戸っ子」という言葉が登場、江戸生え抜きの文化が勃興してくる。
江戸が言葉や文化の中心になったのは明治維新の50年前に、
やっと江戸文化が華開いた「文化・文政時代(1804年〜1830年)」。

また、京都の虎屋黒川の羊羹、一保堂の茶、
「およげ!たいやきくん」のモデルになった東京・麻布十番の浪花家総本店。

うどんに話を戻せば、
関西の淡口醤油の始まりは寛文6年(1666)、関東の濃口醤油は元禄10年(1697)
江戸のそば屋は当初、三河の味噌味のつゆを使っていた。
http://www.nichimen.or.jp/zatsugaku/index.html
現代の関東の醤油は江戸時代1700年頃、紀州・和歌山から銚子・野田などに伝わる。
http://kanko.tabimado.net/kanko/go/resource$id=SHCH050015