悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】18

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797AZX ◆0D3Y4.Xp0c
>>795
貴方が指摘した問題は、むしろ宗教家ほどよく知っていることです。
しかし、何の疑いも無く信じている僧侶もいるでしょう。
それでも良いのです。本人が「信仰」に最も重きを置くならば・・・。

しかし、真理の探究が目的ならば、疑いも必要です。
でも、それを必ずしも表に出す必要は無いのですよ。

元々宗教とは、証明できないものまで人に説明する必要があるわけで、何を以って釈迦の言葉とするかは、各宗派で違いますし、個人でも異なるでしょう。
厳密に証明されたことだけを語るべきならば、仏教どころか、あらゆる宗教的真理も語れなくなるでしょう。

しかし、宗教的真理を求める人にとっては、教えが必要となる。本人が自ら教えを求める。
自分自身が納得できるかどうかです。
その選択が人によって異なるが故に、私は>>756で「目的」と「適性」に触れました。
各自が自分の深い心の声に基づいて選択することになります。

私は仏教の枠のみに囚われた行者ではないし、釈迦を崇拝しているわけでもないので、必ずしも釈迦の言葉を借りる必要性はありません。
しかし、対話の相手が仏教者ならば、選択が異なってきます。
経典の言葉が真実かどうかは別にしても、仏教者には「仏典」という一つの判断基準があります。
釈迦の名の下に仏典をねじ曲げる教えを説く者に対しては、私も仏典を根拠に批判します。
798AZX ◆0D3Y4.Xp0c :2012/12/01(土) 15:24:04.51 ID:Ri4EzD85
>>797からの続き

私は信仰心がありますが、それは私の道の主役ではありません。
信仰よりも真理の探求が最大の目的です。
その場合でも釈迦の言葉を借りることがありますが、本人がその意味を自覚していれば良いのです。

私はよく偏見・固定観念を批判しますが、本人が観念に過ぎないことを自覚しているのであれば、問題はありません。
生きるためには様々な観念が必要です。
ただ、気付いているかどうかが問題になるだけです。

だから何を認識し、どう解釈し、選択するかが肝要です。
大乗仏教の空性の教えや難解複雑な業論も、本来の釈迦の教えではありません。初期の業論は単純でした。

しかし、全く無関係というわけではないのですね。
修行者自身が「正覚(悟り)」を得たならば、それに基づいた経典を、仏教の名の下に著すことも有るでしょう。
後世の仏教では、人間界に肉体を持って現われた釈迦のみを釈迦と称しているわけではありません。
法体の仏陀という概念もあります。

学問的には、原始仏典は釈迦の本当に教えに近いとされています。
しかし、釈迦が本当に一人一人きめ細かく対機説法していたならば、その本来の教えに迫れば迫るほど普遍性が減退するでしょう。
つまり教えが多彩になり、機根の違いが要点になります。
799AZX ◆0D3Y4.Xp0c :2012/12/01(土) 15:41:29.28 ID:Ri4EzD85
釈迦の言葉は断定的に引用することがありますが、それは自分の中でそれを必要と判断した場合の一つの選択です。
ただ、伝説的にも聖者として崇められている聖賢のことならともかく、現代の行者については私ももっと厳しい判断基準を用いますよ。

そして厳しい基準を自分に課すからこそ、私は他人の悟りについて安易に判定はできないですね。
自分が大悟してるわけじゃないですから。
鬼和尚さんが言う「ミラレパ以来居ない」というのは本当に正しい見解かもしれないし、または間違っているかもしれない。

つまり「分からない」が正解です。
でも、真の観照ができていない者は、簡単に「先入観」「観念」の幻想に囚われてしまい、分かったつもりになってしまう。
真実だと錯覚してしまうわけです。

私は、「誰が本当に悟ったか」については分からないことが多いですが、偽物ならば多少は見破ることはできます。
その人の虚偽を観ればよいだけですから。