1 :
マジレスさん:
最低な継母っていますよね。
2 :
マジレスさん:2011/01/01(土) 01:36:22 ID:bitw3rsU
3 :
マジレスさん:2011/01/01(土) 13:28:38 ID:ccd+hjeS
好きな奴なんかいない
4 :
マジレスさん:2011/01/01(土) 16:07:30 ID:itj3/9+J
ここは人生相談板なんだが
相談ではないなら、別カテゴリー化する必要がないなら、
いちいちスレ立てんじゃなくて既存の毒親スレでやれよ
5 :
マジレスさん:2011/01/01(土) 19:58:42 ID:ccd+hjeS
ウザイなぁ自治厨
6 :
マジレスさん:2011/01/07(金) 00:14:39 ID:LCdhRhXR
継母w
7 :
マジレスさん:2011/01/09(日) 00:48:47 ID:9BMbCdkS
死ねばいい
8 :
マジレスさん:2011/01/15(土) 02:34:49 ID:eOATGhhC
俺父子家庭で父親なんだけどね、
興味本位で聞くんだけど、
色々なケースがあってしかるべきとは思うのだが、
継母との軋轢ってのは確実に起こるものなのかな。
っていうのは、俺の子供たち(小学校低学年)は早く再婚しろと言うんだ。
俺はそんなつもり全くないし、いないんだけどなw
ましてや、己の気持ちを優先して子供との折り合いのつかない女なんかと
再婚なんてありえないわけでさ。
ただ、今後緩やかなカタチで我が家とともに人生を一緒にしていく
パートナーができたらとどうなんだろうと思うんだ。
思春期になれば、やはりそういうのはキタナイものに見えるのかなぁ。
9 :
マジレスさん:2011/01/27(木) 19:01:18 ID:5oSAuf6X
>>8 子供の本心じゃない
親に気に入られようときをつかってんだよ
真に受けちゃいかん
10 :
マジレスさん:2011/01/30(日) 19:09:57 ID:+k9UutCv
継母なんて、子持ちのバツ一(もしくはそれ以上)男にしか相手にされない、
低スペック生ゴミ婆だからな。
そこを指摘されると、発火するクソ継母どもが別スレでわんさかいた気がする。
図星だから反応するのが、ミエミエで笑えたけどw
うちもそうだぜ。
寝たきりの祖母+姉+俺の世話係、飯炊き婆に一生なるしかないのに、
うちしか貰い手がなかった、36overの低脳、超低スペッククソ婆。
俺は継母をもう一生視界に入れたくなくて、
大学進学を期に実家離れたけど、
今や、父親に、
「継母は世話係だと思って、我慢してくれ」
と言われる始末だぜ。
もう10年帰ってねえ。
姉なんか、継母の虐めに精神病んで廃人。
11 :
マジレスさん:2011/02/04(金) 03:22:31 ID:Qft182Fn
ずっとずっと継母には虐待されてきた
女からの愛情を優先して子供が虐待されているのに放置
常に継母の肩を持つ父親
家では勉強だけが自分の逃げ場だった
成績と有名校の社会評価がなければ家での扱いはもっと惨めだったろう
ようやく社会的評価の高い職についた今、
親戚中にこれまでの継母の狂った虐待を話し、将来への根回しを始めた
未だに過去を反省せず、虐待態度が通常態度になったままの継母に
今まで受けてきた恩をこれからじっくりと継母が死ぬまで返していこうと思ってる
継母は自らの教育の成果を自らの身もって味わえるのを
心から喜ばなくてはならない
大好きなお母さんから教えてもらったことを
大好きなお母さんに教えてあげられるなんて、とても楽しみで心が踊る
全力で教えてあげるから待っててね
12 :
マジレスさん:2011/02/11(金) 09:29:02 ID:K48ANOL6
継母が発狂してるよな別スレ
あいつら子供虐待して、自分かわいそうだからな。
13 :
マジレスさん:2011/02/13(日) 12:41:16 ID:7i5JeIBm
誘導よろしく
14 :
マジレスさん:2011/02/26(土) 20:24:40.52 ID:h5eTdBRU
重い
15 :
マジレスさん:2011/02/27(日) 02:09:32.24 ID:C1vokQCk
>>8 父子家庭の一人娘だけど、高校生の時に再婚した
思春期だから、義母とは滅茶苦茶不仲だったよ
今は大学生なんだけど、義母には感謝してる
父を支えてくれる人だからね
再婚するなら「お母さんと呼びなさい」とか強要するのは止めてあげて欲しい
子供からすればやはり他人だから
16 :
マジレスさん:2011/02/27(日) 18:09:41.40 ID:rVi6CiBX
他人どころか相手はクソガキって思ってんじゃんw
17 :
マジレスさん:2011/02/28(月) 20:22:07.36 ID:fuKzOCcw
私がたけのこの里買うと、翌日それを買ってくる継母
2日連続で食べたくないし…
気持ちは有り難いけど、頭悪いなって思ってしまう
前はペヤング好きって言ったら5個ぐらい買ってきたし
食わねーしそんなに
18 :
マジレスさん:2011/02/28(月) 21:41:58.62 ID:Tul7XNAa
私がたけのこの里買うと、翌日それを弟(実子)にだけ買ってくる継母
2人一緒で食べたいし…
気持ちは分からないけど、性格悪いなって思ってしまう
前は弟がペヤング好きって言ったら弟にだけ5個ぐらい買ってきたし
食わねーしそんなに
19 :
マジレスさん:2011/03/01(火) 15:52:02.27 ID:OkEzNhok
好きであろう物をよかれとおもい買ってきてくれるんだから、
少しくらい暖かく受けとるべきだ。
あんたも、大人になればわかるさ。
20 :
マジレスさん:2011/03/01(火) 15:54:37.27 ID:OkEzNhok
あ、実子だけつーのを見て前文キャンセルするわ。
21 :
マジレスさん:2011/03/04(金) 13:03:04.70 ID:Wbop3rlB
22 :
マジレスさん:2011/03/09(水) 15:08:33.85 ID:8f37VNns
平日休みだが
これから、長い間別居していた継母と対決してくる
奴に虐げられるばかりでも、
ずっと黙って耐え抜くしかなかった
圧倒的にでかく力も強い大人の糞婆と、無力なガキじゃ、力関係は明白だったが
こいつのおかげで廃人になるまで精神病んだけど、
もう我慢はしない
奴の精神破壊には屈さない
23 :
マジレスさん:2011/03/10(木) 22:40:49.67 ID:6wltQBj4
こんな時間に「ご飯食べる?」だって
何時だと思ってんだよ!
もう食ったっつーの
偽善者
話しかけるなやうざい
24 :
マジレスさん:2011/03/11(金) 23:53:45.61 ID:pQwB91ih
継母が中国語で「ガスがどうのこうの」って騒いでて、
何がしたいのか分からん
地震でガスが止まったから、復旧は夕方に私がやったんだけど、
今になってガスがふじこふじこ喚いてる
私に懐中電灯渡してきた
は?直ってるだろ…なにがしたいんだ
マジうるせーこいつ
死ねば良かったのに
トラブル起きればワーワー喚いてマジ使い物になんねえこいつ
やっぱ頼れるのは父親だね
25 :
マジレスさん:2011/03/12(土) 17:31:26.99 ID:IJqnOnuq
そんな女とヨロシクやって再婚した父親は大好きなのか
26 :
マジレスさん:2011/04/07(木) 17:49:11.91 ID:uqD3YCB5
パンとサラダ買いに行きたいからダイエーのカード寄越せよ
なんで自分だけ当然のように使ってんの?
だったら代わりに買って来いよマジイライラするわ
金足りる?じゃねえよ
足りるけどせっかく実家いんだから野菜食いてーんだよマジ死ねや、糞女
早く死んで
27 :
マジレスさん:2011/04/10(日) 13:43:30.81 ID:xUIOiBb9
終わってんな
28 :
マジレスさん:2011/06/09(木) 01:35:13.30 ID:NMZ3FN9L
継母嫌いだなあ。今は自分も成人して独立してるけどさ。
父と継母は、連れ子同士の再婚で、なおかつ相手は私の母さんと結婚前に二股かけてこっぴどくふられてたもんだから、私への風当たりが超きつかった…
でも母さんが死んだからって、二股でふった元カノと再婚する父も父ですよね。情けない男です。
29 :
マジレスさん:2011/06/09(木) 01:41:39.92 ID:NMZ3FN9L
続いてすみません。風邪をひいても私だけ放置されて、咳がうるさいって叩かれて。
義姉と義妹は頭よくないのに、大学行かしてもらってて羨ましかったな。
私は京大の推薦をもらえたけど、反対されて就職したよ。
母さんに似てる私は「美人だからって調子のるな」って嫌味もたくさん言われた。
外食も私だけ連れていってもらえなかった。毎日泣いてたな。
その代わり、なんでもちょっとやそっとじゃ悩まない。強い心がついたよ。
今は、出来婚して金をせびるだけの姉妹に辟易してるようで、こちらにすり寄ってきますが、、
可哀想ですが無視してます。
30 :
マジレスさん:2011/06/09(木) 01:46:13.24 ID:NMZ3FN9L
でもね、そんな状態でも継母の言葉の暴力はすごい。
「姉ちゃんと妹ちゃんは大学に行って頑張ったのに、あんたみたいにいいお給料をもらえないんだから、あんたが家にお金を入れるべき。美人なんだから女の武器使って貢いでくれる男でも捕まえろ」って。
なんだか、書いてて恥ずかしくなってきました。こんな身内がいるなんて
31 :
マジレスさん:2011/06/10(金) 03:10:18.86 ID:h8YWc5uB
俺、継母小3の時にできたんだけど、
あんまり感情を出さない人でずーっと馴染めなかったんだけど、高校の時に十年以上姿みせなかった実母が現れて、隠れて会ってるのがバレた時に、初めて継母が泣いたの見た。
相当ショックだったらしくて俺も家にいれなくなって高校の途中で家出たんだけど、家出る時に親父から通帳と印鑑渡されて、中見たら90数万円入ってた。
いつか俺が進学したりする時の為に継母が働いたお金の中から、少しずつ貯めた金だって言われて、いつも親父にもうちょっとパリっとした服買えって言われてたのに、
『これがオシャレなのよ』
ってヨレヨレのTシャツを何年も着ていた継母の姿思い出したら申し訳なくて頭が上がらなかった。
裕福な家じゃなかったし、それだけのお金を貯めるの本当に大変な事だったと思う。
年月がたって今は普通に話せるようになったけど、俺にとって継母は実の親以上の存在だな。
継母嫌いじゃなくてスレチでごめん。
32 :
マジレスさん:2011/06/15(水) 23:00:23.19 ID:cFcAdUXa
どれも父親の不甲斐なさが原因な気がするんだけど。
33 :
マジレスさん:2011/06/21(火) 10:30:49.64 ID:VgoniQ/3
子育て出来ない父親が一番あかん。
為さぬ仲の苦しみを見て見ぬふりが多い。
自分の子供は自分で育てよう。
他人任せにしちゃいかん。
34 :
マジレスさん:2011/07/31(日) 01:24:15.16 ID:nC43zHf4
長文すまん。
逆にうちはしばらく父子家庭だったぜ。
ちゃんと育児してくれていたと周囲やばーさんから聞いている。
まだ1歳半くらいの俺、病気で寝たきりのばーさんと、建てたばっかの家のローン抱えて、
仕事も激務で、もうぶっ倒れる寸前で、惰性で再婚した、と。
まぁ激務だからと配偶者に生活の運営を頼ってる面は、
上記の通り、否めないけどな。
それでクリーチャーレベルの継母を俺が6才の時にもらったわけだが。
こいつは、俺が使った食器を、洗わない。
食器を置くスペースも、俺だけ別のスペースに置く。
ガキの頃から、同級生とかにも不潔だとか言われたことすらねーのに。
当たり前だが、毎日風呂にも入ってたし。
俺は奴からしたら、他の女の腹から出てきた、汚いもの扱いだったわけだ。
悲惨なのは、激務の親父が出張とかでいない時な。
虐待し放題。
俺の飯を作らなかったり。
35 :
マジレスさん:2011/07/31(日) 01:26:58.04 ID:nC43zHf4
34です。続き。
あまりにも空腹で、冷蔵庫を開けたりすると、
「いじきたないガキが!」と、罵り、
「継子がいじきたなすぎる!私が来る前、どんな教育受けてたんだかねー!アハハハハ!」
と、親戚に電話しだしたり、近所に吹聴。
自分ちの冷蔵庫開けて、いじきたねえ、って、何なんだ?
結局、お茶だけ飲んで過ごした。
少し痩せたとき、それを学校の先生に指摘された。すると、
「この子は食が細いんですぅ〜」と。
俺、給食残したことねえぜ。
あとは18で大学進学を機に家を出るまで、ほとんど実家の記憶が無い。
大学の精神病理学の先生いわく、それはトラウマになっているからかも、と。
先日、11年会わなかった継母とガチで口論したが、
こいつは異様に頭が悪い。
「お前には頭では勝てない」と逃げやがって、俺から逃げまくる。
次は、友達の弁護士に相談してやりたいもんだ。
まぁ、どこまで、何ができるかはわからないが。
36 :
マジレスさん:2011/07/31(日) 02:28:50.28 ID:q1ae9DDh
合法的に存分に復讐してヤリなwwww!
(`∀´)
37 :
マジレスさん:2011/07/31(日) 11:56:05.80 ID:Q9MhtMfT
38 :
マジレスさん:2011/07/31(日) 14:40:44.52 ID:xo5mwbuv
>>36 34、35です。
ありがとうな!
継母を訴えた判例ってあまり無いらしいけど、
何もしないよりかましだわ。
継母に精神やられて精神病になった兄のためにも、
一矢報いたいわ。
>>37 確かにそうだよな。
よくもあんな腐った外道豚連れてきやがったな!と数年絶縁してたわ。
でも親父も、あんなクリーチャーを妥協しまくってもらっちまうくらい、大変だったんだな…と俺も社会人になって思ったんだ。
あ、俺の母親とは死別な。
39 :
マジレスさん:2011/07/31(日) 22:04:56.25 ID:BddCCHPP
ベビーシッター目的でそんな女と結婚して
虐待を見て見ぬふりしたおまえの父親が一番悪い。
40 :
マジレスさん:2011/08/01(月) 01:52:41.08 ID:e1k4DKf7
プギャーwwww
ろくに働いたことない寄生虫継母乙wwwww
そうやって子蟻との結婚という自分の選択を棚に上げて、
男や継子責めてれば楽だよな、ゴミブサイクババアww
お前らにベビーシッターと家政婦と肉便器以外の、
どんな利用価値があるというんだwwwプゲラwwwww
ろくに養母の責務も果たさず愚痴ばっかww
醜すぎw
「私は悪くない、父親と継子が全部悪いの!」
お前らの頭と顔と人生残念すぎ。
乙www
41 :
マジレスさん:2011/08/01(月) 05:38:16.86 ID:R8ruw6tk
もしかして、父親が悪い、って言ってる継母は、
旦那に大事にされてないんじゃないか?
自分を大事にしてくれない、尊重してくれない旦那に不満があるとか。
旦那にとっちゃ、継子は自分の血を分けた子供だから、
なんだかんだ、可愛がると思うぜ。
だから、継母らは面白くないのかなと。
「私の子のほうが可愛いのに!」と、継子を中傷してやりたくなるのかなと。
でも日本って、子供>>>>>>>>(超えられない壁)>>>>>妻、だと嘆いてる継母は多いと聞いた。
俺の大学の同期の女が継母になったんだが、話し聞いてると、こんな感じだな。
貰い手があってよかった、と安心していたんだけどな・・・
42 :
マジレスさん:2011/08/02(火) 04:34:57.09 ID:pAKMnevJ
>>37 うわぁ…
この人責任転嫁ひどすぎ。
>>12の言う通りだと思う。
継母って絶対自分を省みないし、反省しないよね。
いつも継子や夫の悪態ばっかりついて、自分可愛さの自己弁護ばっか。
疑問だけど、そんなに自分で自分を可愛がるほど、価値ある女なの?継母って。
本当に性根の腐ったのしかいないんだ。そりゃ世間から嫌われてばっかりなわけだ。
継母になるのを選んだのは、自分のくせに。バカだね。
43 :
マジレスさん:2011/08/02(火) 16:38:07.38 ID:49UA74/q
いや、価値があるとかじゃなく、
誰も継母を大事にする奴がいないから、(旦那、継子など含む)
自分で自分をかわいがるしかねーんだろ。
だから過剰な自己愛の持ち主が多いんじゃないか?
自慰行為だな。
44 :
マジレスさん:2011/09/08(木) 04:20:29.82 ID:XqDP34Qo
自分が子どものころに受けた事の償いを大人になってからする人は
心が病んでるに違いない。
人格形成するとき、継母の影響を受けたと思う。
自分が書いたことをもう一回振り返ってみてください。
自分が何をするべきか、分かるのではないでしょうか?
45 :
マジレスさん:2011/09/11(日) 05:46:28.54 ID:mO6JQgPp
>>34 私もそんな感じだった。
冷蔵庫のヨーグルトを食べようと思ったら
それは弟(継母と父の)のだから食べるなって言われたり、
母の日にカーネーションをお小遣いで買って言ったら
いらない。と捨てられたり。
弟と遊んでいたら「汚い手で触るな」って言われたりね。
でも私は祖父母が同居だったから、何かと助けてくれたし
父も継母の態度に気付いて、離婚してくれた。
その後、懲りない父親は私が高校の時にまた再婚したんだ。
何年か前に継母と大喧嘩してそれから一度も実家には戻ってないし、
今後、仲良くなることも無いと思う。
でも今は父親が1人暮らしじゃないって思うだけで
大嫌いな継母にもちょっとは感謝しているよ。私は海外に住んでいるし。
実家が宮城なんだけど、震災のときは特にそう思った。
大人になった後の継母はなんてことない、近所のおばさんみたいな感じ。
でも、子供の頃に受けた、ああいう小さな苛めは本当に
今思い出しても苦い気持ちにさせられる。
だから虐待の話とか聞くとさ本当にやりきれない気持ちになるんだ。
あの時、誰にも相談できず一人で泣いてた夜を思い出すと、
そんな寂しい子供が居なくなることを心から祈ってるよ・・・・
46 :
マジレスさん:2011/09/14(水) 02:13:32.37 ID:K7RNMGhT
小学校3年の女の子と4年の男の子を持つ父子家庭の父親です。
離婚して、もう7年になります。
皆さんの意見とても参考になります。
ですので、あまり再婚は考えていません。
子供達が巣立って行った後、自分の老後をどうするか考えるつもりです。
ただ、ちょっと聞いてみたいのは、
仮にみなさんのお父さんが再婚しなかったとして、
こうしてくれたら良かったのになと思う事はありませんか?
(元嫁とのよりを戻せ!というのは、すいませんが無しの方向で)
47 :
マジレスさん:2011/09/14(水) 03:56:38.53 ID:kp0qZZ4k
>>46 父親が自分と兄連れて再婚しましたが、
今では再婚してくれて良かったと思ってます。
小学四年の時です。離婚したのは小学一年。
継母が悪い人じゃなかったのと、妹ができたのが自分には大きかったです。
お子さんの成人してからを考えると再婚しないと決めてしまう事はないのではと思います。
お子さんも結婚するでしょうし、そうなるとやっぱり独りでいられるより、誰かと一緒にいて貰う方が安心です。
反抗期とかで揉めると思うけど、離婚してない家庭でも揉めるものは揉めると思うので、
崩壊しない程度の舵取りをお父さんがしてくれればある程度勝手にしても良いと思う。
成人した子供の意見ですが…。
48 :
マジレスさん:2011/09/15(木) 01:48:23.91 ID:P9pCUS3M
>>47 レスありがとうございます。
良い方と巡り会えたのですね。
離婚してしまった自分の責任を感じることがとても大きく、
これ以上ややこしいことに巻き込みたくないというのが本音ですが、
それも、大人次第な所が大きいのかもしれませんね。
49 :
マジレスさん:2011/09/15(木) 03:35:33.89 ID:8Vr3ydDp
自分の家事は手伝われて当たり前
他人の分は「これワタシの仕事じゃありません」と明確に分ける継母
お前ほんと死ねよw
早く死ぬことを願ってる
既に心臓弱いみたいだけどさっさと逝っていいよ
家事も料理もまともにできねーし
父と私が働いてる間主婦のお前は何してるわけ?
足しか引っ張れない奴は生きてる価値ないから
50 :
マジレスさん:2011/09/15(木) 03:47:56.15 ID:8Vr3ydDp
>>34 あるあるあるあるw
全く同じだよ
うちの父も出張で長期不在とかあるんだけど父がいないのをいいことに1日中寝てる
なにもせずただただ寝てる
それで鬱(笑)とかパニ障(笑)になった時期があったんだけど1日中寝てりゃ鬱になるに決まってるよね
馬鹿じゃねぇのって思う
正直頭のレベルが違いすぎて馬鹿すぎて一緒に居られない
51 :
マジレスさん:2011/09/15(木) 03:50:56.32 ID:8Vr3ydDp
>>34 でさー、こっちは継母の食器洗うんだよね
分けること自体が馬鹿馬鹿しいし洗剤無駄だし
やり返すのも低レベルすぎて付き合ってられないから
本当にあいつは人を暗い気持ちにさせてくれるよ
52 :
マジレスさん:2011/09/20(火) 21:12:11.54 ID:Ex7bLtvg
そんな対応に父親はなんて言ってるの?
53 :
マジレスさん:2011/09/26(月) 22:34:33.49 ID:X3TMy4UN
継母がいるって最悪だよね
だったら一生父子家庭でいい
実家がくつろげないって終わってる
54 :
マジレスさん:2011/09/27(火) 03:42:40.66 ID:A6ZG2ZaV
できた継母は、継子や実子も含めて家族として見れる人。
問題ある継母は、実子は家族で継子は異分子とみている。
だから継子に対して醜悪になるというあたりまえの話
だから洗濯物も別々にするし、なにかにつけて別扱いする。
よっぽど豊かな心を持っていないと、子持ちと再婚すれば
誰もが醜悪な継母になっていくように思う。
55 :
マジレスさん:2011/10/08(土) 19:51:21.39 ID:aJSD8bVn
実家の近くの会社に内定出たけど、家出るわ
自分に実家は存在しないことにする
もう疲れたわ
継母だけじゃなく父も悪い
最初から無理なんだよ家族ごっこなんて
56 :
マジレスさん:2011/10/08(土) 20:00:53.90 ID:aJSD8bVn
お前ら財産分与はどうしてるの?
継母と養子縁組にならないと、父の死後は家と土地が継母の物になってしまう件
あまりこんな話はしたくないが、父が元気な内に話を付けとかないとな
57 :
マジレスさん:2011/10/11(火) 15:41:35.51 ID:aB2FcB9W
無責任な父親
自分の子供と、継母がうまくいかなくても
どちらからも頼られる立場で存在価値が高くなる。それにあぐらをかいて
自分の子供が虐待されていても、
継母が継子の教育に苦慮していても、「まあまあま〜」
で済ませる父親は無責任そのもの
「おまえがしっかりと家族をまとめて、継母と継子の問題解決に
誠心誠意取り組めよ!」と言いたい。
物事の核心を避けて人任せにし、どちらにも良い顔をし、
世間体ばかり気にする父親
継母と継子がうまくいかない原因に父親も大きく関わっている
少しは悪者になって筋を通すぐらいのことをしろやと思う。
58 :
マジレスさん:2011/10/11(火) 18:08:08.86 ID:z71Cuz41
なんで父親ってあんなにナアナアなんだろうね
今日父親からメールが来た
すると、宛先が私と継母になっていた
ん?と思いつつスルーしてたら3通ほど続いたので不審に思い訊いてみると、
「両方に送った方が便利だから」とのこと
へ?なにそれ?
たぶん継母が私と父のメール内容を知りたがってる故に、父に自分にも送るよう頼んだんだろうな
それに従う父って…
「継母さんが見たいって言ったの?」と送信すると返事なし
もう嫌
父も情けないけど継母もつくづくつまらない女だと思う
見てどうするんだろう
私の肉親は父しかいないのにメールですら邪魔したいんだろうか
59 :
マジレスさん:2011/10/12(水) 01:31:50.60 ID:bb9rIen3
継母に嫌われるとまた一人になるんで
言うに言えないんだろう
自分の父親は再婚する際、「お前にもまだ母親が必要だから」
と言い、あくまでもお前のために結婚するようなことを
言っていたな・・継母は結婚する前に前妻の子供を育てるのはは嫌だと
言っていたようで 養子縁組も嫌だってね
それに対してこどもは飯さえ食べさせておけば勝手に成長するような
ことを言っていたそうだな! そして折り合いもつかないのに再婚ですか
今から考えれば、第一に自分が幸せになれるかどうかを
考えていたんだろうな
浅はかな嘘やごまかしは、子供が大人になればわかるんだよね
今では継母より軽蔑してます。
60 :
マジレスさん:2011/10/12(水) 16:11:12.06 ID:49kBg9Um
なぜあんなブサイクで家事も出来ないヒステリー女を失うのがそんなに怖いんだろうね
理解不能
61 :
マジレスさん:2011/10/12(水) 17:45:50.88 ID:49kBg9Um
父も憎い
なぜ実母を失った上に継母に敵視されなくてはいけないのか
実家まで失いそうだ
だったらせめて父子家庭として生きた方がマシだった
どいつもこいつも憎くて堪らない
心が完全に死んでる
クスリともできない
62 :
マジレスさん:2011/10/12(水) 17:59:50.71 ID:6kW54aon
>>60-61 ヒステリーの原因が、いつまでも親離れ出来ないお前だからだろ。
63 :
マジレスさん:2011/10/12(水) 18:59:49.12 ID:49kBg9Um
子蟻に寄生することしか出来ないゴミ継母が自立を語るな
64 :
マジレスさん:2011/10/13(木) 00:30:19.72 ID:mzJ7wtBi
継母は本能的に個の保存を守るために
継子に敵愾心をもつものだと思う。
里親になるには何回も公に面接で真意を確認し
適任として選ばれた人が里親になるのに
継母になるには結婚届け1つでなれる。
その継母がジギルとハイドであっても関係ない。
家庭とは次世代の人間を作っていくため、子供を保護し
教育していく最低単位の組織であることは考えればわかること
そこには父としての役割、母としての役割がある。
そのことを前提にできないなら父親と駆け落ちでもすればよい
と思う。もちろん世間体や職も失う可能性は大であるが・・
継子が嫌なら、世間から望まれないそういう選択もある。
しかし、ほとんどは世間体、経済、も大事なことはわかっているので
継子の継母になる。
継子がかわいくないのは、○○だから腹が立つ、○○だから好きになれない
など継母は継子の責にするが、継子にはまったく責任はない。
継母は自分の個とは関係ないものを排除したいという自分の本能が
そういった形ででていることに気づいているのだろうか。
そんな継母に気に入られようと継子がいくら努力しても
報いられることはない。
悲しい堂々巡りになる。
65 :
マジレスさん:2011/10/13(木) 20:19:18.67 ID:U70mzprl
明日実家に用があるから帰んなきゃ
嫌だなー
66 :
マジレスさん:2011/10/14(金) 00:42:39.67 ID:x6jtc38b
この2CHは本当に勉強になります。大まか同じ境遇の方は同じようなパターンで悩んでいる。
だらしなくご都合主義の父親がいて、家庭内のコントロールができていない。いわゆる無法地帯化し、
継母の本能(個の保存)が解き放たれ継子蔑視が始まる。
それはどんどんエスカレートし、自分でも常識的なラインがわからなくなるほど鬼畜化していく。
そんな中一番の被害者はやはり継子と言わざるおえない。
継母にもレベルがある。
レベル1、継子の母親になろうと真摯に努力をしている。継子のために自分の子供は産まないという選択肢も頭にある
いづれは継子から母であると認められるケース
レベル2、○○家の嫁という意識がある。その中で継子の世話もしていこうとする責任感がある。
継子とは妥協点を見出そうと努力する。
レベル3、継子の母親にはなれない(なる気がない)と割り切っている世間体があるので、世話はするがボランティアである。
淡々とボランティアを継続するか、我慢が出来ずレベル4に落ちていく。
レベル4 基本的に自分は継子の継母になるためでなく旦那と結婚したのだと認識である。
継子のことは二の次三の次で、旦那との間に子供を作り安定した家庭を作りたいと思っている。
子供ができれば継子は邪魔になり敵外視する。
レベル5、最初から目的は旦那、経済であり 継子を邪魔者扱いにするそれは衣・食・住に現れてくる。
子供の服を買わない、ろくな食事をさせない、家に入れない
など、子供を窮地に追いやることを平気でする。その原動力は敵外心であり、その対象は継子である。
「あなたはここには必要のない人ですよ」と間接的に執拗で陰湿ないじめを継続的にする。
レベル6 旦那に取り入り継子を養子に出す。
レベル7 継子を抹殺する。
67 :
マジレスさん:2011/10/14(金) 22:21:39.50 ID:3lAVSLdv
継子の世話が嫌なら自分で働いて生きてきゃいいのにね
どこまでも恥を知らないよね継母って
私は継母嫌いだから世話とか必要ないけど家は綺麗に使って欲しい
どっちかと言うと、継母が養子として来てるようなもんだよね
家系と全然関係ない人なんだし
居られるだけ有り難いと思って欲しい
遺産?元々あんたの金じゃないからってw
68 :
マジレスさん:2011/10/17(月) 01:42:41.63 ID:BhVZ30cO
自分の家なのにすっごい疲れる
普通家庭が羨ましい
69 :
マジレスさん:2011/10/17(月) 02:54:33.26 ID:OuCjnlle
他人だからどうしても違和感がでる。
他人同士の生活はルールが必要だ
70 :
マジレスさん:2011/10/17(月) 19:16:38.28 ID:BhVZ30cO
窓開けたまま外出する継母がうざい
どんだけ頭悪いなんだろう
71 :
マジレスさん:2011/11/01(火) 02:17:52.90 ID:6ZBf1m5+
もう嫌だ
72 :
マジレスさん:2011/11/30(水) 13:54:15.31 ID:OKNShvsI
このブログ酷いね
ttp://ameblo.jp/terueshinkawa/entry-11068177735.html 一昨日の継母飲み会で話題になった話の中には当然ながら
「あるある〜♪話」が沢山ありました。
継子が作った工作などをもらう時の継母の気持ち。
「ママ、これ私が作ったのあげる」
と言われて子どもが手づくりしたものをくれることがあります。
しかし、素直に喜べない・・・というか親ばかになれないんですね。
これが実の子どもからだったら
「ありがとう\(^o^)/なんて、上手にできてるのかしら。あなたって天才だわ」
くらいのことを口にして喜びを表現できるんだけど、継子に関してはこれができない。
嬉しくないわけではないんだけど、なんか実子にされる感激はないから、シラけた気分になるんだよね!!
73 :
マジレスさん:2011/12/31(土) 14:28:41.34 ID:GrZIYuxi
>>17 それ本物の母でも一般的にやることだと思われ。
虐待(物理的・精神的どちらか1つでも)とかされて無いならとりあえずましなほうかもね。
「継母」というだけで嫌、という場合はしょうがないけど。
74 :
マジレスさん:2012/01/01(日) 01:11:47.08 ID:jzZz6glS
継子は最初無力だが成長するうちに力関係は逆転する。
継子が成長するうちに継母が脅えていくような話を聞きたい。
75 :
マジレスさん:2012/01/29(日) 13:17:17.82 ID:tYsbanCY
えーままやんか。わたしなんか実親やのに
菓子なんかこーてきてくれたことないわ。
自分の食う分はかいよるけど。
76 :
マジレスさん:2012/01/29(日) 17:21:49.63 ID:5P1p7MyO
よっぽどの人徳者でも継母は難しいだろうなぁ
普通の女じゃ期待するだけ無駄
継子は勉強して強くなって家を飛び出すまで、ひたすら堪える事だね
自分の忍耐力しか自分を守ってくれるモノはいない、と思って
77 :
マジレスさん:2012/01/30(月) 11:09:54.66 ID:0i/dn+Ub
継母5年目。良い人だったけど慣れてくるにつれて本性出してきた
自称元やり手の実業家。副業始めるとかでオークション始めるも上手く行かず
モバオクに目をつけて、私に協力を強要。モバオクに多いエロ写メで釣って売る商法をしようと目論む
最初は普通に「モデル」って感じで付き合ってあげてたけど、胸元開けろだの要求が酷い
ウザくなって断るとあっさり引いてアレ?って感じ。1月後に気づいたのが妹使ってやがった
妹は小6だけどスタイルは抜群で、胸もDあって大きい。私より騙しやすいだろうし、男が釣れそうな体の妹は格好の獲物
現に妹がアイドル好きなのに漬け込んで「AKBみたい!」「この写真AKBのオーディションだそうね」と言って写真取ってた
継母の出品ページ見ると、胸強要した写真や下着同然の格好させられた妹の写真だらけ。結構売れてる
しかも、ないなと思ってた私の服とか小物まで売ってた。継母に注意するもシカト。妹は継母信じて洗脳されてる
父に言うと言ったら継母のページが消えててなかったことにされてた。父に言っても「親子でAKBごっこ」してるだけと思い込んでる
次に継母が目をつけたのがジュニアアイドルで、子供が際どい水着とかでDVD出すアレ
結構収入がいいらしく、知らない間にオーディション通過してた
妹はそこからAKBとかアイドルなれるって思ってるし、父も芸能界は好意的でダメだった
その会社の出してるDVD見たら、アイスを変な感じに舐めさせられるとか、いやらしい感じの表現が多かった
妹が心配で父に言ってても、「水着の仕事は最初1,2回だけ」という継母の言うことを信じてる
父は妹の夢のアイドルを叶えてあげたいんだろうけど・・・
水着DVDのオーディション用って継母にビキニ着せられてM字開脚とか胸寄せさせられてる妹見るとやるせない
78 :
マジレスさん:2012/02/12(日) 23:21:58.22 ID:Rx0wdEDs
うわ〜その継母終わってるでしょ
人として底辺だよ
79 :
マジレスさん:2012/02/12(日) 23:35:41.78 ID:Rx0wdEDs
「家出ればイイ」って言うけどさ〜最終手段じゃない?
来年から社会人だから出ようと思えば出れるけど
会社近いし家賃勿体ないわあのクソババアの為に金使いたくない
あんな馬鹿な女連れてきて、私が仮にチンピラみたいな男連れてきて実家に住まわせても、
親父が文句言う権利はないよね〜
まあ狭すぎて彼氏なんか連れて来れないけど誰か味方がいて欲しい
80 :
マジレスさん:2012/02/13(月) 12:53:39.39 ID:bCNzqPAx
>>72 マジひどいな
呆れてしまう
恋愛はしても結婚なんかするなって感じだよ
81 :
マジレスさん:2012/02/14(火) 14:07:51.47 ID:GABNZjpJ
>>72 継母に喜んでもらおうとけなげな子供の姿を想像すると泣けてくる
継子がどんなに愛してもらおうと努力しても、
継母からしたら継子なんて、前妻の股から生まれた死んでほしいくそガキでしかないんだよね
極限までいい子になっても、絶対無理
だって前妻の股から生まれた子供なんだもん
82 :
マジレスさん:2012/02/15(水) 21:43:18.06 ID:asu5nUjl
ほぼ、毎日、継母に酷い虐待を受けていました。
身体は青あざや傷だらけで、友達や父親や先生に、
傷やあざのことを聞かれて「こけた」「階段から落ちた」と答えていました。
毎日、毎日、学校へ行く前に家事をさせられ、学校から帰っても家事、
合間に怒鳴られ殴られ、蹴られ、もう、くったくたでした。
毎日、毎日、お風呂やトイレで、
本当のお母さんが早く迎えにきますように。
どうか、もう殴られませんように。
お父さんが仕事から早く帰ってきますように。と祈っていました。
継母が怖すぎて、継母が好きとか嫌いとか、そんなことすら思っていませんでした。
高校生の時、住み込みで働ける所を探して、家出をして、やっと自由になれました。
そして、子持ちの男性と知り合いました。
自分の生い立ちを思うと、縁とは、なんとまあ、不思議なというか、因果なというか。と。
子供と彼と私、3人で楽しくてなりません。
この子が愛おしいのです。お母さん居ないで寂しいでしょう。私も居ますからね。と。
よう、あんた、生まれてきてくれたね。出会えて私は幸せです。と。
日に日に生意気になって叱ることもありますが、
生意気になっていく様子も可愛らしく微笑ましいのです。
子供は、愛おしいものです。
子供を平気で虐められる、可愛がれない人間は絶対に駄目です。
83 :
マジレスさん:2012/03/13(火) 20:25:58.22 ID:pMjEBRJ+
正直「継母だから虐められた。実母だったら愛情たっぷりだったはず」って
血のつながりに夢を持ったまま生きていけるなら
それはそれでけっこう幸せな気がする
実母から虐められたとか男兄弟とひどい差別されたとかで
傷ついて誰も信じられなくなった女の子のケースをけっこう見たので
84 :
マジレスさん:2012/03/26(月) 01:01:10.12 ID:P1JR3Z9l
私も誰も信じられないのか攻撃的になった女の子のケースみたわ
継母を擁護するわけじゃないけど、継母が自分の子供よりも手がかかる継子を優先して、献身的に世話してても、それが当たり前だと豪語して、継母イジメてた。
自分も同じ継子の立場だから、気持ちはわからなくないけど、ちょっと酷かったな。
そんなに継母がイヤだったら、一人暮らしすればいいのに…って思った。
85 :
マジレスさん:2012/04/22(日) 23:20:02.60 ID:0akvzzT/
継母に育てられた立場から。
俺みたいに最高の継母に恵まれた者もいることを聞いて欲しい。 遠い記憶を思い起こしながら。
俺が6歳の幼稚園児 弟が3歳の保育園 親父は働き盛りの38歳の時 実母を病死で失った。
だが俺達父子親子は負けなかった。 とりわけ親父には尊敬している。 仕事での帰りも遅かったが炊事洗濯 幼稚園への送り迎えもやってくれた。 幸いに親父の姉 つまり伯母が車で20ほどのところに住んでいてたまに面倒見にきてくれていたが 長く続くはずもない。
一年後俺は小学校に入学した。入学式には親父が会社を休んできてくれた。嬉しかった。が母親と写真を撮る廻りの友人達がうらやましかった。 母親のぬくもりが欲しかった。
月日のたつのは早かった。 俺が3年生 弟も幼稚園の年長組になった年 親父も41になる年の春だった。
いつだったか親父が「新しいお母さん欲しいか」と言った言葉が実現する日が来る。神様は俺達父子を見捨てなかった。
(続きます。)
86 :
マジレスさん:2012/04/23(月) 00:04:59.33 ID:IFomp8m5
親父は俺達兄弟を可愛いがってくれた。 俺達のためにも母親は必要と思ってたに違いない。
ある人を介して一人の女性を紹介してもらった。 今の母だ。親父は猛烈にアタックしたに違いない。なにしろ若くて綺麗だった。
当時母は31 親父と10歳離れていた。母は小学校の先生をしていた時に結婚。結婚を機に教師を辞めたが離婚。いわゆる×1 子供はいなかった。当時は隣町で塾の講師をしていたらしい。
だが簡単に結婚とはいかなかったみたいだ。 まず母に断られたらしい。そして父方の親族 伯父伯母 祖父母からも。
理由はわからないこともない。
だが親父は諦めなかった。
(続く)
87 :
マジレスさん:2012/04/23(月) 00:28:55.45 ID:IFomp8m5
親父が電話で母に会いたい旨のことを話してる姿を見たこともある。
あとになって母がそれとなく聞かせてくれたが 「お母さんはね 結婚するつもりはなかった。 子供産んだことないしあなた達男の子2人も育てられる自信なんてなかった。 でもお父さんの情熱に負けたのかな。お母さんももう一度賭けてみようと 。 あなた達にも。」
親父は再婚した。そして俺達兄弟にも新しい母が誕生した。
親父は俺達兄弟にとにかくお母さんを困らすことは絶対するな と厳しかった。
俺達は甘えたかも知れない。 しかし母から怒られたこともあった。
いつだったか忘れたが母から聞いたことがある。 あなた達はお母さんとすぐに呼んでくれた。お母さん嬉しかった。 お母さんはね お父さんと結婚してあなた達がグレるのが一番怖かった。 だからお母さんも必死だった。 でもお母さんの取り越し苦労だったみたい。
俺達は母のぬくもりを感じながらわんぱく盛りであったが順調に成長して言ったと思う。
(続く)
88 :
マジレスさん:2012/04/23(月) 01:13:53.05 ID:IFomp8m5
弟がいつの日か母に聞いたことがあった。 「お母さん 赤ちゃん産まないの?」
結婚したら自然に子供が産まれる。あるいはコウノトリが運んできてくれる その程度の知識しかない頃だ。
母は笑いながら「男の子2人もいてそれで十分。産まないよ。それとも 産んで欲しい? 」 と弟に聞き返した。
弟は「妹が欲しい」と言ってたな。
やがて継母に育てられるようになって二年半が経ち 俺が5年生 弟も2年生の冬休みに入った頃だったと思う。
父から聞かされた。 「お母さんに赤ちゃんが出来た。来年産まれる予定だ。 困らせたりしては絶対するな。 男の子だから重たい物は持ってあげるとか いたわってやれ」 少々厳しい口調だったと思う。
産まない言ってたじゃん。 見事に裏切られた格好だが 弟は喜んでいた。
(続く)
89 :
マジレスさん:2012/04/23(月) 21:54:59.03 ID:IFomp8m5
母の妊娠を聞かされてからは俺は少しグレていた。
子供はいらない言ってたじゃん。作りやがって 嘘つかれた。
そんなことではなかった。母が今までのように俺達に接してくれるのか
その不安だった。毎日の態度や言動 顔にも出ていたのだろう。まだ子供だった。
母がある日 「○○ ちょっと来なさい。お話があります。」と呼び捨てで俺を呼んだ。
明らかに怒っていた。大体こんな内容だったと思う。
「あなたの今の気持ちは痛いほどわかります。お母さんも悩んだ。お父さんにも相談した。
でもお母さんはあなた達を信じてた。今までお母さんを困らせることもなかったし お母さんも必死であなた達を守ってきたつもり。
少しずつ自信も湧いてきた。 これからもきっと大丈夫だ。 と思って決心した。これからも今まで通りです。心配無用!
お父さんとも約束したよね」 母の目には光るものがあった。母はこのあと「お父さんに言っちゃうぞ」とでも言いたかったに違いない。
俺達にとっては親父はやはり怖い存在だった。 「お母さん ごめんなさい」 言いたかったが言葉が出なかった。
(続く)
90 :
マジレスさん:2012/04/25(水) 00:28:29.56 ID:1Ohvav+d
少し話がそれるが俺はその時5年生。性にも興味を持ち始めてた頃だった。 当然のように父母にはある関心を持っていた。
2年前に結婚した父母はその時31と41。 子作りはコントロールしてたみたいだったが営みは当然あったはず。 その時の様子を見てみたいと思っていた。
親父達が結婚した時は俺と弟は一緒だったが子供部屋をもらっていて寝る時もその部屋だったが その時は弟はまだ幼稚園児。
よく親父達の寝室に潜り込んで一緒に寝ていた。まだ甘えたい時だからわからないでもない。
父母もさすがに心得ていてそんな時には出来ないはず。俺も残念ながら一度も 本番 は見ることはなかった。
ただ父母も人間。 隙・油断はあるもの。数年後 弟も思春期を迎えた高学年になった頃 弟から 「告白」されたことがあった。
「兄貴 お父さんと お母さんのエッチみたことあるか? 俺一度だけあるぜ。」とこっそり教えてくれたことがあった。
どうやら弟が小さかった頃 親父達の寝室に忍びこんで寝てた頃ではないらしい。後述のお楽しみだ。
(続く)
91 :
マジレスさん:2012/04/26(木) 01:34:39.42 ID:yjnSYvwv
6年生になり弟は3年生。俺達は父からも注意されてたし 母にはなるべく心配や負担をかけないように努力した。
母は俺達の参観日や学校行事にはほとんど顔を出してくれた。しんどい時もあったと思うが 小学校の先生をしていた母は理解してくれていた。
夏休みになり 母の腹も相当目立ってきた。暑いししんどかったと思う。愚痴も言わず今まで通りだった。勉強もよく見てくれた。
8月になり毎年恒例の花火大会が伯母宅の近くであった。 毎年父に連れられて行っていたが 今年も車に乗せてくれて 伯母宅まで行った。
花火大会が終わればいつもまっすぐ帰ってくるのだが 今年は父が前もって伯母宅へ泊まれ と言われてた。
父も伯母には言ってたみたいで 母をわずかの間だが楽にしてやろうとした父の配慮もわかっていた。伯母宅では伯母が色々聞いてきた。
母のことが中心だった。 結婚するときは反対してた伯母ということは知っていたので俺も余計なことはしゃべらないつもりだったが俺の思い過ごしだった。
「若くて優しい綺麗なお母さんで本当に良かったね。おばちゃんも本当に良かったと思ってる。」本心だったと思った。
翌日父が迎えにきてくれた。父と伯母がしばらく話してたがお互い笑いを交えた あの時 の険悪な雰囲気ではなかった。
家に帰ると母が「おばちゃんに迷惑かけなかった?」と真っ先に聞いてきた。 そしてすぐ電話していた。こんな内容だった。
「義姉さん(おねえさんですか。 ○○子です。2人がお世話になりました。ご迷惑おかけしなかったですか? はい。9月6日です。 ありがとうございます。これからも色々アドバイス下さい。」律儀な母だった。
伯母の声は聞こえなかったが会話の内容はすぐにわかった。 9月6日が予定日? もう1ヶ月もないじゃないか。二学期は小学校最後の運動会もあるし修学旅行もあるんだ。
忙しい時に産んでくれるわ。 こんな気持ちになるところだがその頃の気持ちは覚えていない。
あっという間に夏休みも終わり 出産が秒読みの9月 二学期がスタートした。まもなく 俺達兄弟に異母兄弟が誕生する。
(続く)
92 :
マジレスさん:2012/04/27(金) 01:53:05.28 ID:VrsfY6Oa
大きくなって 俺はネットで妊娠について調べてみた。生理 排卵日 受精日等々 詳しく書いてあった。
俺がその時知りたかったのは母がいつ受精したか つまり父と母はいつ子作りに励んだのかだった。
ネットには出産予定日から受精日がわかるように自動計算式があり 9月6日を入力すると12月15日が自動計算で出てた。
日にちのズレは多少あるにせよ母の妊娠を聞かされたのが年も押し迫った12月の暮れ 冬休みの時。妊娠第2週に入った頃だ。
俺は5年生 弟は2年生の12月中旬 寒い夜 布団にくるんで寝てた日 父と母は暑い夜だったに違いない。後述するが弟が 目撃 した父母の行為日とは異なっていた。
話がそれたが9月の始め 残暑の厳しい日だった。 母は出産の為 車で10分 歩くと25分程の病院に入院した。やはり母のいない家は寂しかった。
朝飯はパン 晩飯もス-パーの弁当。 運動会の練習で空腹で帰ってきてカップ麺と冷たいジュ-スのうまかったことは覚えている。
9月6日が来た。父から母の出産日が1日遅れると聞かされた。弟がため息をついた。 早く帰ってきて欲しいのは俺も一緒だった。
9月7日 学校は休みだった。父も仕事が休みで家にいた。 病院から電話がかかってくるのを待っていた。そして夕方遂に病院から電話がかかってきた。
俺達も父の車に乗り母の病院に同行させられた。病院には隣町の祖母 母の母。父方の祖母も来ていた。親父は母の出産に立ち会った。
白衣をまとい分娩室に父が入ってから とにかく長かった。弟がぐずり始めた。 早く帰ろうよ。 そんな気持ちもわからない訳ではなかった。
祖母が弟を諭してた。 どれぐらいたったか 父が出てきた。 「男」と照れくさそうにみんなに言った。俺にとってもう1人の弟が誕生した瞬間だった。妹が欲しかった弟はどんな気持ちだったか。
やがてベッドに横たえた母が出てきた。お祝いの言葉をかけてくれる祖母2人だったが とりわけ母方の祖母の顔を見た瞬間 母は泣き出してしまった。
涙を流して泣く姿を見たのは初めてだった。 俺も弟もびっくりするだけだったが あとになって思うに 母なりの気持ち 感極まっての涙だったに違いない。
(続く)
93 :
マジレスさん:2012/04/27(金) 02:45:37.85 ID:VrsfY6Oa
父方の祖父 母方の祖父 近所に住む伯母まで祝いを兼ねて見に来た。 みんな一様に同じことを口にした。「パパそっくりだね」
当たり前だ。 父の子供だよ。 やがて母は退院して家に帰ってきた。 33になろうとしてた母 43になってた父 弟は3年 俺は6年 新しく末弟を迎えての新生活がスタートした。
授乳してる母の姿もよく見たが何とも言えない気がした。 母が炊事洗濯してる時の末弟のオムツ替えは俺と弟の係。弟は 「臭い臭い」と鼻をつまんでのオムツ替えは それでも憎めない顔をしていた。
やがて9月下旬 俺にとって小学校最後の運動会の日を迎える。
(最高の継母に育てられた回想記 まだまだ続く)
94 :
マジレスさん:2012/04/27(金) 16:56:51.50 ID:G5bjbKCn
a
95 :
マジレスさん:2012/04/27(金) 21:22:12.65 ID:VrsfY6Oa
9月下旬 小学校最後の運動会が行われた。毎年来てくれた母だったがまだ生後半月しか経ってない子供がいては さすがに無理だった。
父が撮ってくれたビデオを夜 皆で楽しんだ。いよいよ母にとっては3人の子供を抱えての新生活が始まったわけだが ここらあたりで少し息抜き。
前述した弟の 目撃談 を先に書きたい。 実際に聞いたのはまだ後の方だが 弟の話によると次のような内容だった。
「子作りしてた12月頃か?」 違ってた。
「兄貴 5年生の夏 林間学校に行ったよな。 あの時 俺は夜 聴いたんだよ」
整理するとこんな事実を教えてくれた。 俺は5年生の時の6月下旬 学校の林間学校で2泊3日 家を留守にした。
梅雨時期で家の中も夜は蒸し暑かった。 俺と弟の2階部屋もク-ラー無しでは寝られなかった。タイマーにしてたが切れるとまた付ける。そんな夏の夜だった。
俺がいなくてもその日は弟は父母の寝室で寝ることはなかった。 2年生の男の子。「今日はお兄ちゃんいないけど1人で寝れるね。」子供部屋に帰り寝付いた。
弟から聞いた話は〜。
(続く)
96 :
マジレスさん:2012/04/28(土) 00:53:40.53 ID:CbTh02mh
次のような内容だった。
あの日も暑くてさ。 寝られなかった。
クーラー付けてたんだろ?
タイマー切れて目が覚めたんだよ。喉乾いて下に降りてジュ-ス飲もうと思った。
家の構造は俺達子供部屋は2階。階段を降りて正面がバストイレ 階段を降りて左が父母の寝室(和室) 右がキッチンになっていた。
「キッチンの電気消えてたので父母も寝てると思い 忍び足で階段を降りていった。 階段を降り切る手前にきた頃
父母達の部屋から聞こえたんだよ。」「何が。」「母のあの時の声だよ。」「どんな声だ?」「 呻き声 悶え声だよ。」 「マジかよ。やってたのか?」
「間違いない。」「覗いたのか?」「 なわけねえだろう。」「ジュ-ス飲めたのか?」
「もうびっくりしたよ。部屋に引き返した。」2年生の弟はまだ知識はなかったとはいえ父母のその時の姿は想像出来ただろう。
弟の見たというのは嘘だった。 聴いたのだ。
「バカだな。部屋を開けて「2人何やってるの?2人とも裸で。言ってやればよかったのに。言えないよな。でも 最後まで聴いとけよ。」
「気付かれたらどうする?」 無理もない。まだ弟は2年生だ。 刺激が強過ぎたか。「部屋に戻っても寝れなかった。 しばらくしたら父母2人揃って部屋から出た気配がした。こっそりドアを開けて下を見ると
風呂の電気が付いてた。 そしてシャワーを流す音がしたんだ。2人揃って入ってるようだった。」「マジか? 2回戦でもしてたのか?」「知らねえよ。」弟の告白を信じた。「 何時頃だったんだ?」「覚えてねえよ。」
俺はいない。 弟も寝てる。 変に気遣いもすることなく父母が燃えた一時だった。 弟にまさか聴かれたとも知らず。
父母には夫婦の普通の行為だったにしろ ちょっとした油断 隙が出たな。
正直弟がうらやましかった。 このことは父母にもまだ言っていない。 弟との秘密にしている。
もし階段で聴いてる最中弟が咳でもして父母に気付かれたら。もし弟がジュ-スを飲みに降りてキッチンの電気付けてたらシャワーから出てきた母は何と言ってただろう。
父母のエッチ話は終わり。
弟を産んでからも良き継母だった回想日記はまだまだ続く。
97 :
マジレスさん:2012/04/28(土) 02:29:14.84 ID:CbTh02mh
父と実母についても記しておきたい。 実母を失ってから今の母と結婚するまでは本当に大変だったと思う。
厳しかったが子煩悩でよく面倒見てくれた。 仕事も夜遅く帰ってくることが多く時々母から八つ当たりされるような言葉を言われたりしてたが
近くの墓地で眠る実母の墓参りは毎年俺達を連れて欠かしたことはない。真面目一本で休みの日はたまにパチンコに行くぐらいでギャンブルもしない。
実母に抱かれた俺達の幼かった頃の写真を今の母が見たことがあるが 「優しいお母さんだったんだろうね。 天国で見守ってくれてるから
がんばろうね」と最初に言われた通り いい母だった。 病気がちで結局病に勝てなかったことが本当に悔しかったに違いない。
弟を次男 末弟を三男と呼ぶことにする。 三男が産まれて母は当然のように三男に手が取られる時間がふえた。
俺は6年だったから気にはしなかったし母を少しでも助けたいと思っていたから手伝いはよくしたと思っているが
次男はまだ3年生。 まだ母の愛情が必要な年だった。 わかってはいたもののやはり三男にどうしても目が向いてしまう母には
不満があったらしく 自分でやりなさい。 一人でしなさい。 お兄ちゃんに手伝ってもらいなさい と母から言われる度に不満な顔をしていた。
そんな折り 次男に母からカミナリが落ちた。 母もストレスがたまってたはずだ。何だったが忘れたが母から頼まれたことを次男が無視した時だった。
温厚だった母が初めてといっていい乱暴な言葉を三男に浴びせた。 「ふざけるな」「ちゃんということを聞け」 こんな言葉だったはずだ。
父もいたが俺も一瞬凍りついた。あとで父がフォローして収まったが子供に対して初めて使った乱暴な言葉だった。
父に対しても時々当たっていた。 「パパ(俺達の前ではこう呼んでた)もたまには早く帰ってきてよね。」
母にとってあの頃が一番苦しかったに違いない。 父と相談して子供を作ったはず。覚悟はしてたはずだが現実は甘くなかったと感じた時期だったはずかも。
(続く)
98 :
マジレスさん:2012/04/28(土) 03:06:28.26 ID:CbTh02mh
それでも俺から見れば母は俺達によくしてくれた。 やがて俺は小学校を卒業。中学生になった。
父から私立に行くかと勧められた時期もあったが小学校の友人が多かった地元の公立中学を選んだ。
次男は4年生になった。母は相変わらず学校行事や参観日には来てくれた。 ただ事情を知らない友人達から幼い三男を連れて来ている母を見て
あの赤ん坊 誰んちの子だ? と興味本位で言ってた時はさすがに恥ずかしかった。
さて弟の次男だが世の中 狭いと言うか偶然と言うか 弟の担任の先生を知った時 授業参観 家庭訪問で その先生と「 再会」した時はさすがに
びっくりしたと言うか 喜んでいたと言うか 懐かしがってた。
「次男の担任の女の先生 お母さんが結婚する前 隣町の小学校で先生をしてた時に新任で入ってきた先生なの。」
「結婚して名前変わってたから全然気付かなかった。 顔見て初めてわかった。懐かしい。」
母の後輩らしい。 3回目の異動で次男の小学校に赴任してきて4年生を受け持つことになったらしい。それも次男の担任とは。
その先生 当然 母の離婚歴も知ってるはず。母も再会は嬉しいだろうがまさか担任になるとは。 偶然のいたずらか
その先生も今の母の姿 離婚から今の経緯を知ったわけで お互いどんな気持ちだったか。次男は知る由もなかった。
(続く)
99 :
マジレスさん:2012/04/30(月) 23:50:41.31 ID:kKJiQ5Xn
バスケット部に入っていた俺はまだ補欠で試合には出られなかったが弟は少年サッカーチームに入っててよく試合に出ていた。
母は三男を連れてよく見に行ってた。俺や弟には今まで通り優しさはあったがやはり子供が一人ふえた負担は相当だったと思う。
俺達も成長していたが母から注意される言葉も時には厳しかった。 むしろストレスの発散的に感じる時もあった。
三男を寝かせるために寄り添っていてそのまま寝てた母の姿も何度か見た。気苦労 ストレス 相当溜まってたのは間違いないだろう。
中2になった。 弟も5年生。 末弟も9月がくれば2歳になる。ますます目が離せなくなっていた。
俺達も末弟の面倒をよくさせられた。 特に弟は手加減が下手でよく泣かせていた。母の叱責が飛ぶ。賑やかな頃だった。
そんな母もわずかな憩いの時間もあった。 三男を寝かせたあとや 4人でテレビを一緒に見てる時間。また父が休みの朝など よく居間のソファーに父と並んでテレビを一緒に見ていた。
ここでもよく母は自然に眠りにつくことがあった。たまにそんな時 母は自然体ではあったと思うが父に寄り添って目を閉じていた。
父の手を握って眠ってる時もあったかな。無意識のうちにそんな格好になったのだろうが子供の前では見せるなよな。父45 母35の頃の微笑ましいワンシーンだった。
俺達2人が部屋に入ってる時間等 父と母2人きりになった時などソファー上ではキスぐらいしてたかも。
この頃だったかな。弟から 告白 されたのは。
そしてあの日が再びやってきた。 今度は弟が林間学校で家を留守にした。残念だがあの日のように母の 声 を聴くことはなかった。
でも父母の年齢からみて 週1〜2 月4〜5回ペースぐらいは交わっていたのかな。まあその頃は俺は異性 エロ雑誌の方が興味あった頃だ。
三男も目が離せない年になった。順調に成長していた。時が経つのは早い。 あっという間に俺は中3に 弟も6年生になった。 末弟も9月に3歳を迎えようとしていた。
(続く)
100 :
マジレスさん:2012/05/04(金) 15:11:11.90 ID:ow67Ssa+
継母が嫌いなのは当たり前。何も問題ない。
向こうだって先妻の子なんてただの邪魔者。
101 :
マジレスさん:2012/05/06(日) 00:50:41.58 ID:Na4qAIHK
中3 小6 と俺達兄弟は進学に向けて頑張っていた。 俺は塾通いもした。が 弟はサッカーに夢中で夜も遅い日が多く勉強よりそちらに力が入っていた。
三男も日毎に大きくなりますます目が離せなくなっていた。 俺達の 仕事とはいえ三男の世話は想像以上に大変だった。
父母は俺達に私立進学も勧めてくれたが 益々金のかかる時 俺達は父母に負担をかけるわけにはいかなかった。
母も働きたかったみたいだが三男を保育園などには預けず主婦に専念していた。学校での三者懇談会などにも必ず出てくれたが
とにかくまだ幼い三男を連れての懇談会には正直恥ずかしい時もあった。家庭での賑やかさは相変わらずだった。
もう俺達兄弟も お母さん お母さんと甘えてた小さかった頃が懐かしい年になっていたが宿題等 勉強でわからない問題等 父に聞いても降参する
問題も母には甘えてよく聞いた。 小学校の教師をしてたことは伊達ではなかった。 分かり易く教えてくれた。やはり自慢出来る母だった。
弟の小学校最後の運動会が終わった日の夜 俺達家族は車で久し振りの外食に出掛けた。
そこでは母の何気ない仕草 自然な仕草だったと思うが また父に対する甘えみたいな仕草を見せられることになる。
父は何とも感じてない様子だったが 子供の前でいちゃつくなよ と言いたくなる。ソファーに座ってる父の肩に顔を寄せて寝てた姿では無い。
(続く)
102 :
マジレスさん:2012/05/09(水) 01:22:07.87 ID:oAuj9zo+
食欲旺盛な俺達に比べ3歳になったばかりの三男はまだ外食で食べられる物には限りがあった。
母が砕いたり小さく切って柔らかくして食べさそうとしていたが三男はなかなか受け付けない。
そんな折 母が口の中で砕いた物も受け付けなかった時 母がそれを一旦皿に戻し 箸でつまみ 「パパ食べて。 もったいないから」みたいなことを言って
父の口の中に持っていった。 別に口の中まで持って行かなくても父も食べるのに。別に不思議なことではないが俺にとってはアツアツシーンを
見せられたような気がした。 母は俺達の前では父のことを最初から お父さん と呼んでいた。前述の通りいつだったか怒りの涙を浮かべて
「お父さんに言っちゃうよ」と言われたように。 しかし三男が産まれてからは特に三男のいる前では パパ と呼んでいた。
まもなく弟は小学校の修学旅行。 俺も中学での修学旅行で数日家を留守にした。 三男を寝かせたあと 父と母はまたやってるのか 思春期の俺は妄想にふけっていた。
(続く)
103 :
マジレスさん:2012/05/09(水) 19:02:18.11 ID:oAuj9zo+
俺は地元の公立高校へ 弟も俺と同じ地元の公立中学へ進学した。満3歳で9月に4歳になる末弟も幼稚園に入園した。
整理すると家族のこの年に迎える満年齢は 父母俺弟弟の順で 48 38 16 13 4 。
他の家庭同様 朝は戦争だった。母の怒号が飛ぶ。そして弟を幼稚園に送って行く母。元気な盛りの子供3人を育ててくれた母には本当に感謝している。
50前で徐々に歳を感じてきた父に比べ まだ40前の母には若さがあった。
成長していく命があれば劣化していく命もある。父方の祖父が病にかかり入院することになる。
80を超えてるし 祖母との2人暮らしも長く 無理も無かった。母にとって義父の看病という負担が新たに加わることになる。
(続く)
104 :
マジレスさん:2012/05/09(水) 20:04:31.52 ID:oAuj9zo+
父の実家 祖父母の住んでる田舎は車で1時間半ほどの静かな田園地帯にあった。よく正月にお年玉をもらいに行ったり
夏休みに遊びに行ったものだ。農業やってたのでよく米や野菜を送ってくれて母は助かると言ってた。
父には2人の兄姉がいた。俺の伯父伯母だが 父より8歳上の伯父は都会に出ていた。父母の結婚式 お盆や正月にも会ってお年玉貰ったことがあるが
恰幅があって風格があった。会社では重役になってるらしい。父より8歳上ということは母から見れば18も歳の離れた義兄になる。
伯母は父より5歳上で前述したように我が家に比較的近い所に嫁いでいた。花火大会を見に行った時によく寄ってた。
ちなみに母には4歳下の弟 つまり俺の叔父がいたがまだこの頃は独身で よく母が嘆いていた。 まもなく結婚して母の実家近くに住むようになるが
叔父の結婚式には俺達も呼ばれた。 末弟が花束を渡したが嫁さんが綺麗だった。
祖父の看病だが祖母も歳とってるし無理は出来ない。 伯父も遠くに住んでてたまにしか帰ってこれない。必然的に近くにいる伯母 そして父が中心で病院通いが多くなる。
父は仕事がありいつも一緒にいれるわけもない。 伯母や母が中心になって看病することになる。
(続く)
105 :
マジレスさん:2012/05/09(水) 23:21:50.35 ID:oAuj9zo+
母も可能な限り病院通いをした。父も仕事帰りに寄ることも増え 祖父の看病に尽くした。
母はよく父に聞いてた。「お義姉さん 来てた?」 母は伯母が気になっていたのか。息子の嫁なんだからもっと面倒見ないとダメでしょ。
わからないわけではない。 でも父からすれば「主婦業専念で子供も手を離れたオネエとは違うんだ。子供もまだ小さいのに頻繁に行く必要はない。」
「ワシも仕事帰りに寄る。 気にするな」おそらく母をかばってたにちがいない。
入退院は繰り返したが祖父は回復した。 90を超えた今でも80半ばの祖母と元気で生きている。
さすがにもう農業は出来なくなったが 末弟が 「じいじ ばあば」と呼べるようになるまで生きていてくれたのは良かったと思う。
医学の進歩もあるが昔の人間の生命力は本当に凄い。
106 :
マジレスさん:2012/05/10(木) 00:08:19.03 ID:fgejo5fm
いずれ俺達も経験するだろうが 親の介護等を通じて経験する 親族間の関係。複雑だと思う。
もう何のわだかまりもなく 最終的には賛成してくれたが 父の再婚話が出た時 親族は揃って反対してたと聞く。
連日の親族会議の内容を勝手に想像してみた。
「○○(父の名前) 子を想うお前の気持ちはよくわかる」「○○さん(実母)が亡くなってそんなに経ってない」
「べっぴんさんだし若いし あんたが惚れたのもわかる。」「でも結婚するってことは○○達の母親になるってことだよ。」
「子供も産んだことない女にいきなりあの子達の母親が出来ると思う?」「10歳も離れてて合う?」
「バツイチだろ 無理無理」「あの子達がかわいそうよ」
「時々 世話しに行ってあげるから。 よく考えて」「もう今日は遅いからまた今度話しよう。もう一度よく考えてみろ」
こんな感じだったのか。 だが父は屈しなかった。母も俺達と父を信じて飛び込んできてくれた。
本当に感謝している。今の母がいなかったら逆に俺達はどうなっていたかわからない。
父と母の結婚式の写真を見せてくれたことがある。 俺と弟が母に花束を渡してる写真がある。 あの時ウェディングドレスの母は俺達を抱きしめてくれた。
あの時の感触は忘れてない。「あなた達をどんなことがあっても守る。私もやり直す。だから私を信じて付いてきて。」言いたかったにちがいない。
父が惚れたのもわかる。当時母は31。化粧効果もあっただろうが改めて写真をみる限りとにかく綺麗だった。
父の結婚に反対してた親族も参列してくれていた。 母方の親族も多くの参列者がいた。父と母 俺達兄弟の再出発を祝福してくれた。
父母の結婚式の話題になったのであの時のわずかな記憶を思い出してきた。
(続く)
107 :
マジレスさん:2012/05/10(木) 01:12:05.11 ID:fgejo5fm
俺が小3 弟が幼稚園の年長組の年の夏休み 父と母は結ばれた。俺達兄弟に新しい母が誕生した。
結婚式 披露宴も終わり 普通なら2人だけで甘い新婚旅行に向かうところ。 当然のように父母も計画していたみたいだが
なにしろ2人のコブツキがいる。当初は伯母の配慮で俺達兄弟は伯母宅に寝泊まりして父母の帰りを待つ予定だったみたいだったが
母の意向で俺達兄弟も 参加 することになった。 本当は海外あたりに行っても良かったのだろうが一泊2日の超割安の国内の温泉だった。
それでも俺達はしばらく旅行らしい旅行も連れて行ってもらって無かったし 新しい家族4人での旅行は楽しみにしていた。
結婚式場から車で15分くらいで新幹線の駅についた。 その新幹線に約2時間半乗った。席は2席を向かい合わせにし4人で座った。
父母が隣合わせに 俺と弟が隣合わせに座った。 どんな話をしたか残念ながら覚えていないが母が絶えず笑顔で俺達に話しかけてくれてたのは覚えている。
目的地の温泉のホテルに着いたのは夜の7時前だったと思う。 食事の前に温泉に入ることになった。
父が配慮したのか俺達兄弟と父は男風呂に 母は女風呂に行く予定だったと思うが母が急に「一緒に入ろうか?」と俺達に言ってきた。
さすがに俺はたじろいだ。 が弟はまだ空気を読めない歳だった。母に付いて女風呂に入って行った。
俺と父は男風呂に入って行く。父の背中を流したのはハッキリ覚えている。 あとから聞いたが弟は女風呂では飛び回ってたみたいで 母を困らせてたみたいだ。
全く空気を読めない奴だ。 だが弟は父よりも早く俺よりも早く母の眩しい裸体を見たことになる。
(続く)
108 :
マジレスさん:2012/05/10(木) 02:02:13.98 ID:fgejo5fm
風呂上がり 母のそばに行くと女性特有のいい匂いだった。新しい母がすぐ横にいることがまだ信じられなかった。
父と母がうまそうにビールを飲んでいた。 母は飲めないのか遠慮してたのかグラス半分くらい飲んでやめてたかな。
父に灼をしていた。父にとっても母と結婚して初めて灼をしてもらった時のはず。最高だったにちがいない。
食事が終わり 浴衣姿で夜の街に繰り出した。父と母だけの世界にしてやりたかったな。 あとになって悔やんだ。
土産店に入ってのことだった。 母が「ねえねえ見て。これ 可愛い。」と父を見つめて言った。「(買って欲しいな)」と言いたかったに違いない。
子供の存在など気にせず 母が父の顔を見つめて甘えた声を出した瞬間だった。
子供向けの観光地ではなく 俺達はそんなにホテル周辺の土産店での印象は強くないが 母は俺達にも何か買ってやろうと色々物色してたのは 何となく感じられた。
ホテルに戻り寝る時間が来た。 部屋は二部屋とっていた。 披露宴会場だったと思うが 伯母か伯父か忘れたが
「今夜はあなた達2人で一つの部屋で寝る。お父さんとお母さんで一つの部屋で寝るんだよ。」と言われていたのをしっかり覚えていた。
俺は意味はわかっていたが弟にはまだ無理だった。 父母と一緒に寝ると言い出した。全く空気が読めない奴だった。
母が笑いながら 「いいよ 一緒に寝よう。○○君(俺の名前)はどうする?」
「一人で寝る。」 とにかくハ一ドな1日だったから疲れてた。 一人部屋で横になったらすぐ眠りについた。 朝まで目が覚めることはなかった。
隣の部屋では新婚初夜の父母に弟が忍びこんでた。 何が行われたか 俺は知らない。 弟にも聞いたことはない。
寝ている弟を俺の部屋に移動させて 父母だけの時間が取れたのか 今日まで父母には聞いたことはない。これからも聞くことはないだろう。
ただ翌朝目が覚めた時は俺の横には弟はいなかった。 少なくとも弟は朝は父母の部屋で迎えたことは間違いない。
(続く)
109 :
マジレスさん:2012/05/11(金) 01:23:18.01 ID:PTkSWxEF
新しく母を迎えることが決まっても 引っ越ししたりはしなかった。 今の家のままだった。
ただ家の中の大掃除は父に手伝わされたのを覚えている。カーテンや絨毯の入れ替え 襖やドアのメンテナンス等々。
婚礼家具が運び込まれた日も父に手伝わされた。 まだ子供だった俺にはさすがに力仕事はこたえた。
父が初めて母を連れて来て「お前達の新しいお母さんだ」と紹介された時 俺も弟も固まっていた。母はそんな俺達を見て
「○○子と言います。 一生懸命頑張ります。 よろしくね。」みたいなことを言ってたのは覚えているがとにかく固まっていたのでよく覚えていない。
ただ父と10歳も離れているのだから若かった。 実母よりも若くてとにかく笑顔が素敵な人 そんな印象はあったと思う。
結婚式 披露宴での母の姿は更に若く 綺麗だった。そして何より記憶から抜けないのは俺達が花束を贈呈した時にしっかりと抱きしめてくれた時に匂った香水の匂いだった。
披露宴ではやはり俺達の母の披露というより父の新妻の披露だった。後日ビデオを見せてもらったが父を見つめる母の顔は最高だった。
弟はキスシーンを何回も一時停止して母をからかっていたが 父の顔に比べ母は絶えず笑顔で本当に嬉しそうだった。
旅行から帰って来て いよいよ4人での新生活が始まった。 夏休み中で朝はゆっくり寝たいのに 父の仕事に出掛ける時間に合わせて朝飯も一緒に食べる習慣は守らされた。
(続く)
110 :
マジレスさん:2012/05/11(金) 01:55:39.51 ID:PTkSWxEF
「おおい 2人とも起きろ。朝ご飯だぞ。 お父さんと一緒に食べよう。」 俺達を起こしに来る母はいつもこんな感じだった。
前述の通り弟はよく父母の寝室にもぐり込んで寝ていて 朝もよく寝ていた。「○○君を起こしてきて」と
よく母に言われて父母の寝室に弟を起こしに行ったが 父母の布団はまだたたまれずにそのままのことが多かった。(ベッドではなく布団)
まだ寝ている弟の位置は父母の布団の間ではなく 母の布団の左横だった。 母と一緒に寝ていたのだが母の右隣は父の布団だった。
ま いいか。自然の姿かな。 子供部屋で俺と寝なかった弟も少しは空気を読んだかな。 いや「こっちにおいで お母さんと寝よう。」 父母の間には入れさせなかった母だったのだろう。
眠そうな目をこすりながら弟が起きてきてようやく朝飯だった。 朝飯はほとんど洋食だった。食パンにベーコン ハム 目玉焼き等々 実母に食べさされてたメニューからは違っていた。
おかげで箸は無し。スプーンもヨーグルト用に使うぐらいでフォークとナイフが主流。フォークとナイフの正しい使い方は早く教えられたかな。
反対に子供の前で悪い癖が出る父にはよく 注意してた。
(続く)
111 :
マジレスさん:2012/05/11(金) 02:38:18.39 ID:PTkSWxEF
父はコーヒーをすすりながら新聞を見るのが癖だった。 別に悪いこととは思わなかったが 母から見れば行儀が悪く映ったのか
「お父さん(俺達の前ではこの呼び方だった) 行儀悪いよ。」 よく注意してた。
「ごちそうさま」席を立とうとしても食べ残しがあるとよく母から言われた。「もう食べれない? 頑張って食べよう。ドレッシングもっとかけてもいいよ。」
母なりに気を使ってたと思うがそんな問題ではなかった。なにしろ量が多かった。 朝からそんなに食えるはずなかった。
そんな母も朝飯が終わって片付ける暇もなく仕事に行く父を送り出していた。 俺は夏休み中で学校に行くこともなく部屋に戻っていたが
玄関先で「行ってらっしゃい。気をつけてね」の声はよく聞いた。が「早く帰って来てね」は聞けなかった。
(続く)
112 :
マジレスさん:2012/05/12(土) 23:04:39.53 ID:9hXiWuUg
その年は暑い夏だった。父と母が結ばれて半月後 お盆がやってきた。この時は祖父(父方)の掛け声で父の兄弟一家が祖父宅に集合した。
先祖への墓参りが表向きだったみたいだが真相は改めて父母の親族への結婚披露だったようだ。母も初めて父方の先祖の墓前で手を合わせた。
東京の伯父さん夫婦 そして伯母さん夫婦その子供達も来ていた。俺達のいとこにあたる人達だ。結婚式に来てなかった伯父さんの娘さんも来ていた。
久しぶりに会ったが「○○君 覚えてる? 大きくなったね。新しいお母さんが出来て良かったね」と声かけてくれたかな。
伯父さんの娘さんは既に大学生だった。 確か二回生だったはずでハタチぐらいだったかな。伯母さんの子供は高校生と中学生の女の子。
祖父母にとって孫の中での男は俺と弟だけだった。孫全員に囲まれてさぞ嬉しかったにちがいない。
俺と弟は いとこ のお姉さん達とゲームしたりトランプで遊んでいた。弟には少しレベルが高過ぎたみたいだ。
その頃 大座敷では大人達の 宴 が賑やかに行われていた。 俺達子供にとってはあの酒の匂いが何とも嫌だった。
113 :
マジレスさん:2012/05/13(日) 00:01:57.76 ID:/SP6FWpX
出前物もあったが酒のつまみや小料理は伯母さんや母が作っては座敷に運んでいたように思う。
酒のお代わり 皿を下げたりと伯母さんや母は忙しそうに走り回っていた。
伯父さんだったか祖父だったか誰かが 母に「○○子さん もういいからこっちへ座り」と声かけてたかな。
主役のはずの母がテーブルに居なくては洒落にならなかったのだろう。エプロンを外してテーブルについた母
年上の伯父や伯母を前に緊張もしてただろうと思う。「ありがとうございます。」「よろしくお願いします。」笑顔の中にもやたらとこの言葉が出てたように思う。伯父や伯母からも披露宴でのあのシーン 俺と弟を抱きしめてくれた時のことが話題になってたようだ。
父母の結婚には反対していたはずの親族も もうこの席では遠い過去の話だったみたいだ。とりあえず母はみんなから受け入れられた日だったのか。
とはいえまだ生活も始まったばかり。この時点では「あなたの女房振り、母親振りをお手並み拝見させてもらいます。容赦しないからね」
こんな気持ちを持ってた親族もいたことは容易に想像出来る。血の繋がった弟(父のこと)可愛い孫 甥っ子(俺達)を
苦しめることがあったら許さないからね。冷ややかな目でまだ見られてた頃でもあったはずだ。
母も覚悟して決断したとはいえ 後妻 継母の立場は相当なプレッシャーだったにちがいない。
(続く)
114 :
マジレスさん:2012/05/13(日) 02:05:43.79 ID:/SP6FWpX
宴も終わり お開きになった。 弟は半分寝ていたかな。最後に父と母が皆の前で正座した。 何が始まるのかと思ったが
父が照れくさそうに「まあよろしゅう頼んますわ」みたいなことを言っていた。母は両手をついて深々と頭を下げていた。
顔が畳につくぐらい。 横綱や大関の昇進の時の伝達式の時におかみさんが深々と頭下げてる あんな格好だったな。
「本当によろしくお願いします。」一言だけだったが気持ちは伝わったはずだ。 「こちらこそよろしく」「大丈夫 大丈夫」「2人の子をよろしくね」
誰ともなく声が飛んでいた。 母も少し涙ぐんでたかな。「早く子供を作れよ」みたいな声はなかったかな。
しかし田舎とはいえ凄い儀式があるもんだ。伯母はご主人が翌日仕事があるとのことで一家でまもなく帰って行った。
どちらが運転したか知らないが今から思えば飲酒運転だったはず。もう時効過ぎてるからいいか。
東京の伯父一家とこちら一家と二部屋に別れて寝た。
翌朝目が覚めた時はまだ弟は寝ていたが皆起きていた。 庭先では祖父を囲み伯父と父が話し合っていた。久しぶりの親兄弟水入らずの時間だったのかな。
台所では祖母を中心に女性陣が朝飯の準備をしていた。焼き魚や味噌汁のいい匂いがしていた。
母はここで祖母から料理の秘伝でも教わっていたのかな。 親父からいうお袋の味というやつを。
洋食中心だった母の料理から田舎の朝飯の和食も格別だった。 父も久しぶりに お袋の味 を満喫したかな。弟はいきなり白ご飯にふりかけをかけていた。
車で一時間半とはいえ 田舎の朝はやはり気持ち良かった。セミの鳴き声や鳥の鳴き声 我が家でも聞けたが やはり田舎の方が多かった。
伯父さんが「 お父さんが子供だった頃」一緒に遊んだ場所や山を指差して色々教えてくれた。伯父も父も仲のいい兄弟だったに違いない。
(続く)
115 :
マジレスさん:2012/05/13(日) 02:39:11.20 ID:/SP6FWpX
父に連れられて俺と弟は午前中の涼しい間にセミ取りに出かけた。伯父や父が子供の頃使っていたカゴや網が残っていた。
骨董品だったが使えた。 絵日記に書いたのでよく覚えている。 弟は必要以上に虫よけスプレーをかけて父に注意されていた。
その頃 祖父宅では 祖父母 伯父夫婦 大学生のいとこ そして母が 色々話してたんだろうな。
伯父夫婦の子供 大学生のいとこも話の中にいたと思う。 あくまで空想の世界だが〜。母は当時31 いとこは20
「あのう」「どうしたの?」「おばさんと呼んでいいですか? お姉さんのほうがいいですか?」
「えっ? どうして? おばさんで全然いいよ。 気にしないで。」「小学校の先生されてたんですよね」「数年間だけね。 どうして?」「教職取ろう思うんです。 色々教えて下さい。」「おばさんでお役にたつなら。 頑張って」〜
確かその後小学校ではなかったが中学の教員免許は取ったと聞いた。
虫取り セミ取りから帰ってきた。 相変わらず弟はブツブツ言っていた。 目的のカブトムシがいなかったからだ。
あっという間に昼飯の時間がきた。 母が忙しそうに料理を並べていた。いとこの大学生も手伝っていたかな。
(続く)
116 :
マジレスさん:2012/05/14(月) 01:38:38.44 ID:WzvzI/kq
昼飯が終わり 伯父一家が東京に帰るということで父が車で一家をJRの駅まで送った。
俺と弟 母も見送った。俺と弟は バイバイと手を振った。 母は深々と頭下げてたかな。
〜再び記憶にない妄想の世界〜 。
見送る母と車に乗り込む大学生のいとこの会話。「○○ちゃん。頑張って勉強してね。」「おばさんも頑張って! 今度会う時は赤ちゃん見せて下さいね。」にやりと笑ういとこ。「えっ?どうだろう」
〜一方 車の中では伯父一家と父の会話〜「○○子さん しっかりしてるな。お前もいい嫁もらったな」「兄貴達 大反対してたじゃないか。」
「叔父さん。 おばちゃん メチャ綺麗。本当に30超えてるの?20代でも通じるね。うらやましい。早く赤ちゃん見せてね。」「からかうなよ。」
「あら? もしかして既におばちゃんのおなかの中には」「着いたぞ。 気付けて帰ってな。 兄貴 また。お義姉さん ありがとうございました。わざわざ。」
「○○ちゃん。 しっかり勉強するんだぞ。」「はあい。またお姉ちゃん いえおばちゃんに電話するね。」
楽しかったお盆も終わった。 しかし残暑厳しい夏休みはまだ終わっていない。 次の父の仕事の休みの日 全員で遊園地に行った。
身長制限のあるアトラクションには残念ながら弟は乗れなかったがジェットコースタ―には皆で乗れた。
前の席に母と弟 後ろの席に父と俺が乗ったと思う。そこで母の悲鳴を数回聞いた。とにかく初めて聞く母の悲鳴。なんとなく色っぽかったかな。
プ―ルにも入りたかったが来週の週末また来ると父が約束してくれたので乗り物だけで我慢した。
とにかく人も多過ぎてプ―ルの中も人 人 人だった。一週間後の最後の日曜日 父母と再び遊園地に来た。母の水着姿を初めて見ることになる。
117 :
マジレスさん:2012/05/17(木) 02:27:44.95 ID:IQIBCVcN
夏休み最後の日曜日にプ―ルに皆で行ける 楽しみの中にも宿題の追い込みは苦痛だった。父 母に頼ろうとしたが甘かった。
特に母は数年前までは小学校の教師。間違った答えの時はその答えを出した根拠 .式から聞かれた。特に厳しくはなかったが妥協はしなかった。
おかげで漢字帳みたいにノ―トに書いて埋めればいいという訳にはいかなかった。 ようやく宿題もメドがつきプ―ルに行く日が近づいてきた。
弟はよく庭で水遊びをしたり幼稚園でプ―ル遊びをしていたのでそんなに遊園地のプ―ルにこだわっているようではなかった。
母も短パンでよく弟の相手をしていた。 あと3〜4日で日曜日という水曜日か木曜日に父母が「金曜日夜におじいちゃんおばあちゃんんちに皆で泊まりに行く」と言い出した。
母の実家だった。 近々に行くとは聞いていたがまさかこの頃とは思わなかった。
父も仕事を早く終え帰ってきた。 隣町だったから車でそんなにかからなかった。 父母の結婚後 1ヶ月目の頃だった。
父母の結婚式以来の再会だったから母方の祖父母の顔はあまり覚えていなかった。お盆の時のように親族が集まって宴をするようなことはなかった。
母にとっては結婚後初めての里帰りだった。母の実家にはまだ元気で農業をしている祖父母と まだ独身で20代後半で会社勤めの母の弟が同居していた。
俺達の叔父にあたるわけだが父方の伯父や伯母とは違い歳も若かった。 無理もない。10年歳の差のある父と母 その父は末っ子。母は2人姉弟の姉。
母もさすがに実家では緊張感はなかった。お盆の父の実家での宴は異常だったのかもしれない。
叔父が俺達の相手をしてくれてる時に叔父がアルバムを持ってきてくれた。 母の生まれた時から教師をやってる頃の写真だった。
〈続くゝ
118 :
マジレスさん:2012/05/20(日) 04:07:37.78 ID:M6+zILaR
119 :
マジレスさん:2012/05/21(月) 10:51:48.67 ID:Y+MmDy0s
父母 祖父母達の延々と続く会話の場の雰囲気を察してくれたのか 叔父が俺と弟を別の場に連れて行ってくれた。
母の独身時代の部屋だった。約1ヶ月前まで使っていたとはいえ整理されて閑散としていた。
本棚には多くの本があった。 教師時代に使っていたと思われる 教育 のタイトルがついた本がやたら多かったような気がする。
叔父さんと色々話をしているうちに母のアルバムを見せてくれた。母はアルバムは実家に残していた。叔父は母の了承は取ってたと思うが
1ページずつ1枚ごと丁寧に見せてくれた。 生後から幼女時代 青春期と多くあり教師時代の写真もあったが 最初の結婚に関係するような写真はなかった。
もちろん別アルバムであったと思うがもう処分したのか 見せてくれなかったのか母の最初の結婚式で撮ってると思われる写真は見ることはなかった。
(続く)
120 :
マジレスさん:2012/05/28(月) 01:04:34.20 ID:QFewhRxd
祖父母に抱かれた幼女時代 小学生の頃の少女時代 いずれも可愛かった。面影もあった。
中学 高校時代の写真も見せてくれた。修学旅行先で悪ふざけしている男子生徒から
抱きつかれているようなスナップ写真もあった。頭がよく 美人だった母 男からももてたと思う。
大学で教職を取り 小学校の教員をやってた時の写真も数枚見せてくれた。やがて結婚。しかし
俺達の知らない世界で離婚。この話はいまだに真相は知らない。またこれからも俺達にはわかることは
ないだろう。
母の実家で叔父からこっそりお小遣いをもらい 家に帰ってきた。いよいよ夏休み最後の日曜日
約束のプールに皆で出かける日が来た。暑さとうれしさで早く目が覚めたことは覚えている。
キッチンに行くと既に母が弁当を作っていた。余談だが母を迎えての一カ月は真夏の暑い日々の連続だった。
当然のことながら母も家での服装は夏服だったが俺達子供の目から見ても結構きわどい服装だった。
実母のイメージがまだあった頃だけに余計に印象に残っていたのかも知れないが 上はTシャツ1枚 下は短パン1枚の
恰好がほとんどだった。Tシャツから透けて見えるブラは子供心にも少々興奮させられた記憶がある。
少なくとも実母の普段着にはない格好だったことは覚えている。伯父や伯母の前では当然ながらそんな恰好は
しなかったが もし突然伯父伯母が訪ねてきたら一言二言小言を言われていたかも知れないな。
父の運転する車でプールに向かった。プールに着くと先週程ではなかったが結構人が多かった。夏休み最後の日曜日だけの
ことはあった。水着に着替える為に俺と弟は父に連れられて更衣室へ 母も女子更衣室へ入って行った。
外で待つこと数分 母が出てきた。水着姿の母を見るのは初めてだった。小3 何気なく大人の女性には興味を引きはじめる
頃だったのか 母の水着姿にも ある期待 はしていた。 それはビキニ姿だった。
残念ながらその期待は外れた。が黒だったか紺だったか忘れたが母の水着姿は子供心に結構眩しかった。当時母は31。豊満な胸
ふっくらとした尻 普段見慣れてるはずの母だったがやはり水着姿は独特の色っぽさがあった。
121 :
マジレスさん:2012/05/28(月) 01:44:11.33 ID:QFewhRxd
弟と滑り台を一緒に滑る母は楽しそうだった。パラソル下で食べる母の手作り弁当も
うまかった。が俺と弟は売店で買ったかき氷や焼き鳥 フランクフルトの方がうまかったかも
知れない。閉園ぎりぎりまで居た。楽しかった。 帰りは外食だった。さすがに母も帰って
夕飯を作る気は無かった筈だ。冗談だが伯母に知れたら母は怒られてたかな。
「○○子さん ダメでしょ。ちゃんとご飯作って食べさせなきゃ それが母親の務めです!」
そこまで鬼ではないはず。伯母も。
回転寿司だったと思うがさすがに疲れてたのか あまり食欲が湧かなかったのは記憶している。
父母の結婚式で始まった夏休み 花火大会 父母の実家での思い出 遊園地 そしてプール
あっという間に終わったが一生忘れられない夏休みだった。
ただ一つだけ挙げなさいと言われたら 結婚式のあの時 母が俺達を抱きしめてくれた時でも
新婚旅行に同席したことでも 遊園地に行ったことでもない。父の実家での宴の時
伯父の子供の大学生のいとこ 伯母の子供の中学生高校生の女の子を含めた 父方の親族の前で
土下座して両手を畳について「宜しくお願いします」と深々と頭を下げたあの母の姿だ。
何故か強烈に記憶に残っている。
残暑厳しい中 二学期が始まった。
(続く)
122 :
マジレスさん:2012/05/30(水) 23:26:22.63 ID:Vm3adDjG
男なら誰でも経験があると思うが異性 女性の体に興味を持ち始めるのは小学校3年生〜ぐらいからではなかったか。
その中でもやはり母親が一番の身近な存在であったはずだ。幼い頃 一緒に入った風呂などで見た母親の体は記憶に残っているものだ。
俺も当時は小学校3年生。興味を持ち始めた頃だったかな。6歳で失った実母の記憶はもちろんまだあった。一緒に風呂に入ってた時も
覚えている。だが新しい母とは当然のことながらまだ体を接したことはない時だった。父と母が結ばれた日 その夜の宿でいきなり弟は
母と一緒に風呂に入った。父は婚約中 母とどこまでいってたのか知らないが 弟はもしかして父より早く母の裸体を見たかも知れない。
実母を失った時 俺は6歳 弟は3歳 父は38歳だった。その頃 後に父の妻となる母は28歳 結婚していたか離婚していたか知らない。
教員を続けていたか辞めて塾の講師をしていたかも知らない。俺達家族とは何の縁もなく隣町に住んでいたのである。28歳 さぞ綺麗だったと思う。
毎年夏は異常な暑さが続いているが 父母が結ばれたあの年の夏も特別暑かった記憶がある。7月の終わりだったがまだまだ熱くなる頃だった。
連日の暑さに家の中では夜を中心にクーラーはかけていたがやはり暑かった。当然皆薄着になっている。この頃 俺は前述のように母の姿に異性の
魅力というか興味を覚えたのは間違いない。母31歳 実母よりとにかく若かった。それだけではない。そして実母の時には見なかった姿というか恰好を
連日見せられる。小学校3年生とはいえやはり男の本能みたいなものが芽生えた頃だったと思う。暑さもあったと思うが皆で旅行から帰ってきて新生活が
スタートした日から母は案外服装には無頓着だった。というより普通だったかも知れないが少なくとも俺には少し刺激が強かったかも知れない。
短パンに上はブラがはっきりと透けて見えるシャツがほとんどだった。記憶にはほとんどないが実母では見たことのないような服装がほとんどだった。
母はそこまで気にはしていなかっと思うが 短パンの上からはパンツのラインも浮かんで見えることもしばしばあった。
やはりそろそろ異性に興味を持ち始める歳になっていた俺には少々刺激が強過ぎる格好だった。父も特別注意することもなかったのだろう。
夏が終わるまで変わることはなかった。
123 :
マジレスさん:2012/06/01(金) 02:12:00.47 ID:YmE7QQDO
ネットで調べてみた。31歳というと芸能人では誰が該当するのか。
小池栄子 内山理名 小野真弓 広末涼子といったところだ。彼女達がある日突然
6歳と9歳の男の子の母親になれと言われたらどんな気持ちだろう。
父は母に対し 最初のプロポーズで断られた。親族も大反対した。もし父がすんなり
諦めていたら 再度猛烈なプッシュをしていなかったら 今の幸せな生活は無かった。
父には本当に感謝している。もちろんそれ以上に火の中に飛び込んできてくれた母も同様の気持ちだ。
前述通り異性に興味を持ち始めてた頃 ある意味ターゲットは身近な存在の母だった。
父41母31 俺達兄弟は9歳と6歳 父母の年齢差はともかく俺達と母の年齢差は22と25。親子の年齢差
としては珍しいことではない。だが産みの親のように小さい時から体を接してきた関係ではない。
弟のように初日からいきなり風呂に入ったりその後も同様のことを続けてたわけでもない。
父母の寝室で一緒に寝たこともなかった。ある意味弟は凄かった。空気を読めなかっただけだが。
そんな弟に母も拒むことはなかった。俺が最初に母の 「裸」 に遭遇したのは たまたまの偶然からだった。
就寝前 歯磨きをするために脱衣所に入った時に風呂から出たばかりの母と鉢合わせだったり
歯磨きをしている最中に母が風呂から出てきたりと本当に数回しか遭遇していない。母も慌てて前を隠したり
俺に向かって怒ったりすることはなかった。オープンだった。ただ魅力的な女性の体だったことは
子供心にも覚えている。
(続く)
124 :
マジレスさん:2012/06/01(金) 10:04:24.57 ID:YmE7QQDO
子供心にも素敵だった母の体 当然父からも魅力的だっただろう。
俺達の目の届かないところで何回も父に抱かれてたと思う。俺も大きくなるに
つれていやらしい想像をしていた。男なら誰でも経験あることだし 父母もわかって
いたとは思うが お互い話をすることはなかった。父母の夫婦だけの秘密だし。
3年生の後半 4年生の1年間 5年生の前半と約2年間の720日の間 一体父母は何回
夜の営みがあったのか そんなことまで考えたこともある。だがこの2年間 弟が欲しがってた
「妹」も出来た話はなく いつか母が言ってた「男の子2人もいれば十分」という言葉を信じて
もう俺たちに弟妹は出来ないなと悟っていた。
弟は相変わらず父母の寝室に忍び込んでいたが父母も やりたい と思った時も当然あっただろう。
どんな気持だったのか。そんな中でも父母は営みはあったはず。俺もその気になれば父母の本番を
覗くことは出来たかも知れないが・・・。
そんな父母も人間。やはり隙はあるもの。5年生の6月の終わり 林間学校で家に居なかったある日
弟も2階で寝てた日 遂に弟が目撃 いや母のあの時のいやらしい 声 を聞くことになる。(前述通り)
母も 声さえ出さなければ弟に気付かれることもなかったのに・・・。弟がもしあの時 襖を突然開けていたら
100% 絡み合ってる2人を見れたのに・・・・。 この時のことは今もなお 俺と弟の間での秘密にしている。
父母の為にもしゃべっていない。「お母さん あの時エッチしてたでしょ 凄い声だったよ。外まで聞こえてた」なんて弟も
言えるはずがない。この時の行為が既に子作りをしていたかどうかはもちろんわからないが それから約半年後の12月のある日
前述通り父母は2人の愛の結晶作りに成功する。
(続く)
125 :
マジレスさん:2012/06/01(金) 23:01:51.67 ID:YmE7QQDO
今でもよく聞くが母の口癖に「あちゃあ」「やだよ」「やだあ」「ねえねえ」があった。
「あちゃあ」は弟が服を汚した時や末弟のおむつを替える時 料理でちょっとしたミスをした時
「やだよ」は俺や弟の要求にやんわり拒否する時 弟が「一緒に風呂入って」「一緒に寝る」と言った時は
「やだよ」は無かったが。「やだあ」はTVのバラエティ番組等で変なシーンを見たり「あちゃあ」の代わりに
よく使っていた。「ねえねえ」は父を呼ぶ時だった。「ねえお父さん」「ねえねえお父さん」もたまにあったが
「お父さん」は省略していた。末弟が出来てからは「ねえねえパパ」が増えたが。
子供の前とはいえ 元教師なんだから正しい日本語を使って欲しかったな。
もし俺と弟の例の秘密を母に言ったらこれらの言葉が出てきただろう。「お母さん お父さんとエッチしてた時の声
聞いたことあるよ」 「あちゃあ」「やだあ」 「あのあと一緒にシャワー浴びてたよね。汗一杯かいたんだね」
「あちゃあ」「やだあ」「ねえねえ(お父さん)何か言ってよ」
あの頃 俺達の目の毒だったものに前述したが 母が父に寄り添うというか横たわるというかそんな姿を何度も目撃した。
キッチン等の片付けが終わり母がソファでTVを見ている父の横に座る。疲れも溜まっているから知らず知らず居眠りに入る。
不思議と体が父の体に傾く。父とは反対の方に傾くことはなかった。無意識ではなかったな。そしていつの間にか父の手を握っていた。
子供は小さなしぐさもよく見ているものだよ。あれは子供心にも目の毒だった。俺達がいなかったらキスぐらいしていたかもしれない。
息をつくわずかな時間 子供の存在も忘れて新婚気分に浸っていたのかも知れない。写真でも撮っておくべきだったな。
父も握られてる手を無理に離すことはしてなかった。無言でTVを見てたな。ニュース番組が多かったかな。
126 :
マジレスさん:2012/06/02(土) 00:10:54.21 ID:AEmC/x6i
俺は母から本気で怒られたことが記憶にあるだけで2回ある。一度は前述したように
母が妊娠して少しグレた時だった。母の予測通り俺たちへの愛情が薄れることへの嫉妬心からだった。
「お母さんを信じて」「あなた達を裏切るようなことは絶対しない。約束します」そんな内容だったと思うが
説教された。母も涙目だった。母が一番心配してたことだったかも知れない。「お父さんに言っちゃうよ」
この一言はとにかく効いた。もう一つは6年になってまもない頃だったと思う。母も妊娠中の時だ。
学校から帰ってすぐに遊びに出掛けた。母から声を掛けられる前に逃げたかったのが本音だった。
遊びから帰ってきたら母は夕食の準備をしていたと思うが「○○ お母さんに何か見せる物無い?」俺はとぼけたと思う。
「今日 算数の模擬テスト返ってきてない?」なおも俺はとぼけたと思う。 だが母の方が上だった。完全に読まれていた。
かばんの中を既に見られていた。90点以上取ると約束したテストだった。確か60〜70点しか取れなくて母に怒られるのが嫌で
隠していた。母は点数が悪かったことより隠していたこと 嘘を言ったことを怒った。弟の前でも容赦しなかった。
「お父さんに言っちゃうぞ」ではなく「お父さんに言っちゃおう」 殺し文句だった。その夜は母とマンツーマンの復習だった。
きつかったのを覚えている。まさに先生に戻った時だった。
127 :
マジレスさん:2012/06/02(土) 00:15:13.75 ID:AEmC/x6i
母の教え方は間違った問題をもう一度やらせることから始まる。「なぜその式を使ったのか説明してごらん」 そして「変だよね。じゃあ正しい式は? そうだよ。それが正解。もうわかったね」
本番のテストではなかなかうまくいかないが とにかく勉強は熱心に教えてくれた。宿題などでわからない問題があるとついつい父に助けを
求めたこともあったが 高学年の算数などは大人でも解けない問題も結構ある。父も「難しいな。自信ないな。お母さんに教えてもらえ」と結構
逃げられたこともある。そして母の出番だった。元教師のプライドはあったと思う。問題を見て一瞬考える時もあったが「よ〜し。教科書持ってきてごらん」
教え方がうまかったのかその時は理解出来た。母が作った問題もやらされたこともあった。今から思うとありがったかったが 当時は母とのマンツーマンでの勉強は
本当にきつかった。弟もそうだったがテストが悪かったり勉強がわからないことへの叱りはなかった。ただ嘘と隠しごと 女の子等弱い者いじめだけは絶対にしては
いけないと厳しく言われていた。 当たり前のことだが。
当時の俺と弟にとってはちょっとした悪戯 母を困らせたことも当然あったと思う。母を怒らせたこともあったと思う。そんな時母は必ずと言っていいほど
開き直った言い方で「やだよ。もう。お母さん嫌になっちゃった。お父さんに言っちゃおうと」 母なりの俺たちに反省を促す言葉だったと思うが 当時はこの言葉は
本当に効いた。びびったものだ。
(続く)
128 :
マジレスさん:2012/06/06(水) 08:46:54.62 ID:OQR15nw8
で?
129 :
マジレスさん:2012/06/22(金) 01:08:09.12 ID:DmTbw1s3
「やだ」「やあだ」「ダ〜メ」俺達の要求を拒否する時の母の決まり文句だったが
俺達は逆らえなかった。父の耳に入るのだけは避けて欲しかったからだ。
しかし俺達とのやりとりは当然父の耳には入ってたはずだ。「可哀そうだったけど
断わったよ」「構わない。甘やかす必要はない」こんな会話もあったはずだ。父は
常々「お母さんの言うことを聞け」が口癖だった。母が妊娠してからは「重たいものは
持ってあげなさい」もよく言われた。母は車の免許は持っていたが 教員時代 通勤用に
使っていた車は持って来ていなかった。処分したのかどうかは知らない。買い物は自転車が主だった。
米などを買ってきた時はよく玄関からキッチンまで運ばされたものだ。
6年生になり母の腹も次第に目立つようになる。弟がまだ実母の腹の中にいる時 つまり実母の妊婦姿は
残念ながらほとんど記憶にない。身近な女性の妊婦姿は子供心にグロテスクに見えたものだ。
130 :
マジレスさん:2012/06/22(金) 02:39:15.49 ID:DmTbw1s3
今までの中で一部間違いに気付いたので訂正。
まず
>>93 母の出産は34 父の歳も44 の間違い。
>>97 母が弟に切れて
乱暴な言葉を使ったのは三男ではなく次男の間違い。
補足で
>>91 花火大会の夜 伯母宅に一晩泊った時 伯母からはやはり母のことを
聞かれた。伯母も色々聞きたかったのだろう。父母の結婚には伯母も最初は反対してた
わけだし 「この子達に何かあったら容赦しないからね。母親振りをお手並み拝見」が
まだ心底どこかにあったのは間違いないと思う。聞かれた中に「朝ごはんは何食べてるの?」が
あったように思う。正直に洋食中心と答えたと思うが 伯母は「白ご飯食べさせなきゃダメでしょ。
伸び盛りの男の子なんだから。」とでも言いたかったかも。
>>105 「お義姉さん来てた?」祖父の入院時の事だがやはり母も伯母には気を使っていたんだろうな。
>>120 伯母から見れば信じられない格好だったかも知れない。「そんなに肌を出すもんじゃないでしょ」
2人だけで会ったかどうかは知らないがもし突然家に来てたら皮肉のひとつぐらい言われてたかな。
まあ伯母さんとは歳も離れてるし別にいいじゃん。「自分の子供産むのもいいけど2人の子も忘れたら
許さないからね」も思ってかも。まあいずれも想像の世界だが伯母に説教されたことも泣かされたことも
なかったと思う。 伯母さん ありがとう。
高校2年の時 弟が中学2年 三男が5歳の時 母の4歳下の弟 叔父さんが結婚した。俺達も結婚式に呼ばれたが
母もホッとした様子だった。母にとって義妹が誕生した時だ。母の実家近くに新居を構えていた。
重なる時は重なるもので本当に不思議だ。翌年東京にいる伯父さんの娘さん あの時大学生だったいとこが結婚した。
俺達も東京に呼ばれた。伯父さんは会社でも重役になっていた。つまりいとこは令嬢だった。教員免許は取ってたらしいが
普通のOLさんになっていたが披露宴はさすがに豪華だった。三男にとっては初対面だったかな。「叔父さん 遠くから
有難うございます。おばさん お久しぶりです。あらあ僕 大きくなったね。叔父さんそっくり」こんな会話があったかな。
あと親族で結婚まだなのは伯母さんの2人の子供ぐらいかな。年月だけはどんどん過ぎて行く。
131 :
マジレスさん:2012/06/22(金) 02:53:36.31 ID:gEre/XYb
132 :
マジレスさん:2012/06/26(火) 01:34:29.10 ID:+AHK7aaf
父と結婚=俺たちの母となり 自分のお腹を痛めた子供も産んだ。父の妻であり
3人の男の子の母親も結婚以来ずっと家の中にいた。子供の成長とともに長引く不況。
父の収入だけでは苦しかったはずだ。俺も弟も公立の中学高校に進学し 小さい頃から
欲しいものも母の「ダーメ」の一言で我慢してきた。贅沢はしていなかったつもりだが
やはり父母しかわからない家計の苦しさはあったと思う。叔父さんや東京のいとこの結婚お祝い金などが
重なったこの頃だったかな。父母がそれとなくお金の話をしているのが自然に耳に入ってくることも
あった。母は末弟を預けるなりして また幼稚園に行ってる午前中だけでも働きに出たかったみたいで父にもそれとなく言ってたみたいだが
父の答えはいつも「ノー」 末弟がもう少し大きくなるまでは弟に付いていてくれ そんな気持ちがあったのか 母を仕事に就かせることは
しなかった。やはり俺たちが小さかった頃の良き母親振りを末弟にも経験させてやりたかったのだと思う。
俺たちは母に見送られ学校に行った。そして帰ってくるとそこには必ず母がいた。そして愛情一杯に育ててくれた。
父もわかってていたと思う。末弟にも同じようにしてくれ。そう言いたかったに違いない。母も父には逆らわなかった。しかしわずかでも
母の貯金 母の収入を当てにしないといけない時が忍び寄っていた。俺が大学受験 弟は高校受験 末弟も小学校入学の年を迎えた。
133 :
マジレスさん:2012/07/06(金) 02:55:50.04 ID:L5eLpDVw
俺も弟も高校受験の時は人並みに塾通いもした。塾代は母が出してくれたみたいだった。
父の収入もあったが母は結婚前にいくら貯金があったのか知らないが 食費代や俺たちへの
教育費は結構出してくれてたかな。最も余計な買い物には「ダ〜メ」でほとんど断られたが。
母は小学校の教員をしていたが高校受験時 すなわち中学の数学などは問題なく教えてくれた。
関数 方程式 図形等々俺達よりは上だった。ただ1問の解説が長過ぎるのは正直ありがた迷惑だったかな。
定期テスト 模擬テスト等々 もう母にも父にも隠すことなくオープンにしていたがとりわけ母は
教育には力を入れてくれた。やはり教員時代の血が騒ぐのか。母も一瞬考える問題も多くあったが解いてる
顔つきは真剣そのものだった。自分が解けなければ教えられない。そんな気持だったと思う。
おかげで俺は高校は地元の普通科の高校に進学出来た。私立でもいいよと父も母も言ってくれたが
やはり家計の負担を重くすることは出来なかった。俺と弟は3年離れていたから俺が高校受験の時は
弟は中学進学の年 俺が大学受験の時は弟は高校受験とまさに父母も大変だったと思う。
そして末弟の小学校入学と重なる。俺や弟にとっては遠い昔の思い出だったが末弟のランドセル 学習机等々
小学校入学のために購入したものはやはりそれなりに金もかかったと思う。
俺も弟も中学高校進学の時は東京の伯父 近くに住む伯母からも祝い金をもらった。俺達は自分でお礼を言わされたが
正直嬉しかった。祖父母からももらったかな。末弟の小学校入学時も親戚から祝い金をもらってたかな。
父母がよく電話でお礼を言ってた。さて俺の方だが大学進学は正直国公立に行きたかったが悲しいかなその実力はなかった。
浪人も考えたが家計のことを考えると無理は出来なかった。父母も勧めてくれたし地元の私立大学に合格していたので
そこに進学した。俺の夢は弟 末弟に託すことにしよう。
母もようやく働く決心をしたみたいで父も反対はしなかった。小学1年生の末弟も学童保育に預け母も久しぶりに働くことになる。
134 :
マジレスさん:2012/07/09(月) 00:59:10.63 ID:tQybT8mB
母の新しい仕事は 「学童保育指導員」 末弟の学区とは違う小学校の先生で働くことになる。 末弟を学童保育に預けて
自分も別の学校の学童保育の先生になるのも何かの縁かも知れない。小学校が終わり家に帰れば そこには必ず母がいた俺や弟の
ように末弟にも同じことをしてやりたかったと思うが生活していくためには母の収入も必要だったと思う。父の理解もあったはず。
学童保育指導員は特に資格や免許は要らなかったみたいだが やはり小学校の教員免許を持ってる者はやはり強かったのだろう。
即採用されたみたいだ。昨今の共働きの家庭が増え低学年の子供を学童に預ける親は増えてると聞く。人数が増えれば面倒を見る先生の
数も増やさなくてはいけない。母にとっては運が良かったのかも知れない。再び 先生 と呼ばれる日がやってきた。
末弟をお迎えに行って買い物をして家に帰り夕食の準備をする。父は仕事で帰りが遅いから俺や弟も必然的に家の手伝いはするようになっていた。
洗濯物の取り込みやご飯の炊き込み等はやらされていた。母1人に負担をかける訳にはいかなかった。
今俺は20 弟は17の高2 末弟は8歳の小学2年生 母を迎えて10年が過ぎた。母も42になった。学童保育の先生として子供達と接している。いくら給料を
貰ってるかは詳しくは知らないが家計の足しにはなってるはずだ。弟は俺の高校時代より成績はいいみたいだ。塾にも通っている。俺の果たせなかった
国公立に是非入って父母を楽にしてやって欲しいと願ってる。
俺は小さい時から実母似と言われてきた。弟はどちらかと言えば父親似 それ以上に父そっくりの顔になってきた末弟は俺達が経験したように
わんぱくな少年になってきた。年が離れているからまだ話が合わない事が多いがいずれは俺達の味わった母の愛情を聞かせてやりたいと思っている。
135 :
マジレスさん:2012/07/12(木) 01:36:31.62 ID:1VKyEU+N
好きな子供に囲まれてまた仕事が出来る。母にとってもよかったと思っている。俺もアルバイトをしながら少しは家計の手助けをしているつもりだ。
母を迎えての10年間 あっという間だったがやはり最初の頃の印象が強く記憶もまだ鮮明に残っている。
男なら誰も経験がある筈だが小学校高学年から中学生の頃の思春期 女性への興味を持ち始めた頃の身近な存在が俺にとっては30前半の母だったことは
間違いない。弟もいずれ同様のことを思ったに違いないが実母だったらここまでは感じなかったことも多々ある。やはり血の繋がっていない女性が間近に
いたことへの影響は大きかったと思う。まずは父母の営みに興味を持っていた。前述の通り俺達兄弟の子供部屋は2階にあり階段を降りてすぐ左の部屋が
父母の寝室だった。和室で鍵の掛かるドアではなく襖だった。いつでも自由に出入り出来る部屋だった。当然父母も夜の営みはあったはずで
その気になれば見ることも出来た筈だが残念ながら俺も弟もその経験はない。ただ弟は前述通り1回だけ母のあの時の声を聞いている。母の1回きりの油断?
弟はよく父母の寝室にもぐり込んで寝ていた。「お前 見たことないのか」弟の答えはいつもノー。ただあの時 弟が勇気を持って襖を不意に開けてたら間違いなく
父が母に行ってた行為が見れたのに。2人揃ってシャワー浴びに風呂に入っていくところまで目撃していただけに弟のこととは言え悔いが残るな。
母に聞いても答えてくれるはずも無いが一度は聞いてみたかった。「(初夜を含め)弟が横で寝ていた時 やったことある?」「週何回ぐらい」「最初のうちは
避妊具使ってたの?」等々。あとは母の下着かな。洗濯物の取り込みの手伝い等で自然と母の下着を目にすることもあったが何も知識の無い頃だ。女性の下着ってこんなに
種類が多いのか これが生理用パンツか 案外小さいパンツ穿いてるんだ 等々 母の裸体も間近で見たこともあるがエロ雑誌もようやく見始めてた頃 やはり異性への興味は
母とダブらせることが多かった。
136 :
マジレスさん:2012/07/12(木) 02:11:18.46 ID:1VKyEU+N
その他ではやはり母の服装だった。父母が結婚したのは夏休みが始まった頃。暑かった季節で自然の姿だったかも知れないが
母の家での服装は前述通りほとんど短パン というかショートパンツ姿もあったかな。ズボンやスカート姿はほとんど見たことなかった。
尻の割れ目もくっきりで屈んだ時などはパンツのラインが丸見え。上もシャツ一枚でブラ1枚。インナーも着用していなかったと思う。ノースリーブの時なんか
ブラの紐が時々覗いていたこともあった。挑発行為では無かったにせよあれは子供の目には毒だった。父もよく注意しなかったと思う。外で近所の人と話している時も
買い物に行く時もその格好だった。お盆に祖父母宅へ親族が集結した時はさすがに普通の服装だったが伯父伯母を始め祖父母等 親族はあの頃の母の服装は誰も知らないはずだ。
比較的近い所に住んでいた伯母がもし不意に訪れて来たらどう思ったか。まあ子供の俺が刺激的に感じただけで父をはじめ大人の世界では不思議ではなかったかも知れないが。
前述したことの繰り返しになるが最初の頃の思い出のひとつに母の涙がある。
137 :
マジレスさん:2012/07/13(金) 17:51:24.20 ID:7qqVE0KH
あの日の夜の出来事 すぐに弟から報告を受けていたら俺は母に聞いてたかも知れない。
「僕が林間学校でいなかった夜 ○○(弟)は1人で寝てた?」「うん ちゃんと部屋で寝てたよ。」
「あいつ 夜のどが渇いてジュース飲みに下に降りて行ったらお母さん達の部屋の近くで変な声 聞いた
言うんだよ。お母さんもお父さんも寝てたよね。」「うん。何かの間違いじゃないの?」
「そのあと誰もいないはずの風呂に電気がついて人らしき姿を見た言うんだよ。」「お前寝ぼけていたんじゃないのか」
「それともお前幽霊でも見たんじゃないの 言っといた」
「ねえねえ あの夜 ○○に聞かれたかも知れない。」「お前が変な声出すからだよ。」「えっ?私のせい?あなたが変なこと
するからでしょ。やだあ もう」「お前も気持ちよさそうだったじゃないか」「やだよ もう。 今まで子供達には気付かれないように
していたのにね。2人でシャワー浴びてたのも見られてるかもしれない」「別にいいじゃないか。本番を見られたわけじゃない」「やだ もう」
こんな会話になっていたのだろうか。
138 :
マジレスさん:2012/07/13(金) 18:27:50.48 ID:7qqVE0KH
母の涙を見たのは最初の頃しかない。確か結婚披露宴でも泣いていなかったと思う。
最初はあのお盆の祖父母宅での宴での場。親族の前でとりわけ俺達のいとにあたる中学生高校生
大学生達の年下がいる前で土下座して深々と頭を下げた母。父の「よろしゅうたのんますわ」とは
正反対に「本当に宜しくお願いします」と言った母。○○家の嫁と認められた嬉しさか 顔を上げた時は
確か目が赤かった気がする。しかし凄い儀式だった。次は母の妊娠が発覚して俺がすねてた時 母からみれば
一番心配していたことだっただろう。本気で怒られた。泣きながら説教された。そしてもう一つは母が出産した時だ。
分娩室から出てきて祖母の顔を見た時「お母さん」と言った後突然泣き出した。祖母が「何泣いてるの おめでたい場で」と
言ってたと思うがあの涙の理由は今も知らない。母しかわからない理由があったにちがいない。その後も少なくとも俺達の前で
父と言い争った姿も無かったし 伯母をはじめとする親族からもいじめられたこともなかったはず。俺や弟の卒業式でもなかった。
母の涙を見たのはこの3回しかない。父方の祖父母 母方の祖父母もまだ健在。まだ母は親族の葬儀を経験したことがないはず。
次に涙を見せるのはいつか来る葬儀の時ぐらいか。
あとの思い出は実母の時とは大きく変わった食事のメニューだろうか。
139 :
マジレスさん:2012/07/17(火) 03:40:17.31 ID:6P3FZUlj
「お〜い。起きろ。朝だぞ。皆でご飯食べよう!」新生活は母のこの一言から
始まった。旅行疲れもあってか俺も弟も2階で爆睡していた。眠い目を開けると
目の前に母が立っていた。夢ではなかった。目覚まし時計でもなく父から起こされた
わけでもなかった。目の前の母はエプロン姿だった記憶があるが短パンだったかどうかは
残念ながら記憶にない。眠い目を擦りながら1階へ降りて行った。少し遅れて弟も来た。
新しいスタートの日 一家揃っての朝食だった。父も母も希望していただろう。
ただ食卓に並べられてるメニューをみて驚いた。洋食だった。箸がなかった。スプーン フォーク ナイフに
見慣れないドレッシングもあった。食パン サラダ ハムエッグ ウインナー ヨーグルト ジュース(父はコーヒー)等が
並べられていた。以後も洋食中心だった。ただ量が半端ではなかった。3年生の俺から見ても少し多過ぎるのではと
思ったくらいだから幼稚園年長組の弟には無理があった。たまに「もう食べれない」と泣きべそをかいていたかな。
母は決して怒ることなく「頑張って食べよう! ドレッシングもっとかけていいよ」とよく励ましていた。
白ご飯にふりかけ 味のり 味噌汁と実母がよく食べさせてくれたメニューが懐かしくなる時もあったが父も特に要求することも
なかった。完全に朝食は洋食に染まっていった。
初日の朝 一足早く「ごちそうさま」と言って父が仕事に出掛けた。後を追い玄関まで送っていく母。「行ってらっしゃい」が
聞こえたかな。よく見かける新婚さんそのものだったな。ただ夏休み ゆっくり寝たいのに連日母が起こしに来て
ボリュームたっぷりの朝食 朝からそんなに食欲もないのにしっかりと食事させられたのは 正直少々きつかったのは今もはっきり
覚えている。
140 :
マジレスさん:2012/07/24(火) 00:02:43.40 ID:qGfNhqCd
父との婚約が決まった時はまだ30だったかも知れない。10歳も離れた2人のコブつきの男
そして3年生と幼稚園児の男の子がいる。そんな環境の中に本当によく来てくれたものだと
思う。前述したように女優だと31といえば有名なところでは小池栄子。彼女が突然9歳と6歳の2人の男の子の
母親になったと想像してくれたらいいと思う。父の再婚 とりわけ母との再婚には大反対していた伯父 伯母は
当時は40半ばから後半の歳だった。母から見れば お義兄さん お義姉さんになるわけだが父との年齢差が10だから
当然それ以上の差になる。歳の差だけでは無いにしても伯父伯母が不安視し 反対したのもわかる。
だが俺たちにとっては最高の継母だった。参観日などで見る他の友人達の母親とどうしても比較してしまうが
若さ 美貌 どれをとっても自慢できた。もし俺と弟が母になついていなくて嫌がらせをしていたら〜
例えば朝食の洋食が食べきれずに泣きべそをかいてる弟の顔を写真なんかにとって伯母などに見せて誇張して言ったり
父に寄り添って寝ている写真を撮って「俺たちには全然かまってくれない」とか言ったり 短パン・ショートパンツ姿の
写真を撮って伯母などに見せていたら 等々 俺と弟がグルになって伯母などに告げ口していたら 間違いなく伯母などは
怒鳴りこんできて母のみならず父とも一波乱あったのではないか。そう思うだけでも本当にぞっとする。
141 :
マジレスさん:2012/07/24(火) 00:29:46.26 ID:yQq85WxV
「やだ」「やあだ」 しつこいが子供心に母のこの言葉だけは強烈に印象に
残っている。色々と学ぶことが多かった頃だから元教師の母から勉強を始め
色々と教えてもらい身についたことも多かったが元教師なら正しい言葉も
使って欲しかったと思ったのはあとになってからではあるが子供向けに
使っていたのかとも思ったがそうでもなかった。今でも出てくる言葉だ。
やはり癖は簡単には直らないし母も人間 100%ではない。
父の実家の祖父母もまだ元気で生きているがいつかは亡くなる時が来る。
そうするとあの大邸宅はどうなるのか 父と母が時々話していることがある。
「(東京の)兄貴は帰ってこないだろうしな。いずれは(定年後は)帰らんと
いかんだろうな」「私 お百姓出来ないよ」「しなくてもいいが(屋敷を)空にも
出来んだろう。(田畑も)荒らさない程度の手入れも必要だろう」
いずれ父は生まれ育った実家に帰るつもりがあるらしい感じだが母がどうなのか。
俺や弟にはあまり関係なく今の家が故郷には違いないが父母にとっては今後の大きな
問題か。10年後20年後には母は大邸宅の嫁に収まってるかもしれない。
142 :
マジレスさん:2012/07/28(土) 11:10:32.24 ID:5gU1t/V8
殺してやる
143 :
マジレスさん:2012/07/30(月) 23:51:31.33 ID:X8fPUJoH
今一度整理してみる。
「お前たちの新しいお母さんだ」 父から紹介された時から俺たちの新しい生活が始まった。
今までも そして今も最高の継母だ。改めて父に感謝している。父と母の婚約が成立した時は母は30だった。
年齢はその時は聞かされてなかったと思う。そして父母が結ばれた時 母は31 父の妻であり3年生と幼稚園児の
母になった。 その後詳しい会話はもちろん記憶にないが大体こんな感じだったと思う。
父「お母さんとの結婚式が終わったら2人で旅行に行って来る。すぐに帰って来るから1日だけ伯母ちゃんちに泊ってくれるか?」
弟「僕も行く」 父は母に相談したと思われる。母「みんなで行きましょう。」 結婚式終了時 伯母「今夜のホテルでのお部屋は
2つあるからね。お父さん達とあなた達の寝る部屋は別々だよ。わかるよね」 俺も弟も「うん」
ホテルでの入浴時 父「お母さんは女風呂に入るからお前たちはお父さんと一緒に男風呂へ行こう」 弟「お母さんと一緒に入る」
母「いいよ 一緒に入ろう」 女風呂内で飛び回る弟 母も困ったに違いない。 就寝時 弟「お父さんお母さんと一緒に寝る」
母 微笑みながら「一緒に寝よう。○○君はどうする?」 俺「隣で寝る」 まったく空気の読めない6歳時の弟だった。
あの日から11年が過ぎた。母の優しさ 愛情に支えられ 俺も弟も順調に成長した。 だが俺も弟も男。成長過程の中で思春期を迎えた時
若くて綺麗な母を1人の女と見た時も正直あった。弟と2人で 「色々と」話したことも1人で夢想したこともあった。
144 :
たこ:2012/08/01(水) 15:23:06.10 ID:P8wGDhKm
書けない
145 :
┐('〜`;)┌:2012/08/01(水) 15:31:54.01 ID:P8wGDhKm
とにかく早く死んでくれないと、こっちが死にそう。
146 :
マジレスさん:2012/08/09(木) 01:35:03.19 ID:mdv3RJri
俺も弟も小学校高学年〜中高と成長する中で母に対し色々と想像したこともあった。
少々いやらしい過激な表現も入るが記してみたい。
父母の婚約時代は正直あまり知らない。婚前交渉があったかどうかも当然知らない。
しかし父と母が正式に結ばれたのが41と31の時。子作りの為の性交渉は別として
普通に夫婦としての行為はあったはず。そのあたりから好奇の想像をしたものだ。
前述通り父母は結婚式披露宴が終わると俺達同行で旅行に出掛けた。父母の新婚旅行だ。
そして初夜 子供用と父母用と2部屋用意されていた。だが空気が全く読めなかった弟が
父母の部屋で一緒に一夜を共にした。「お前 何も見てないか?」「多分やってないだろう。
俺が横にいたんじゃ さすがに無理だろう。」
翌日の夜 俺たちは2階の部屋で熟睡した。階下で父母は結婚後 初の営みを行った。そう考えるのが
自然か。3年生の7月下旬だった。そして8月9月10月11月12月1月2月3月 時々弟が忍び込んで寝た日も
あったがごく自然にやっていたんだろうな。まだ俺も弟も ほとんど知識のない頃だ。興味もなかったかも知れない。
だが母は子供を作る予定はまだ無かったと思う。父の要求願望は知らないが 避妊には注意してたと思う。
「安全な時は中に出してるよ」 4年生になり父42 母32の年だ。まだ2人とも性欲十分 週何回くらいやってたんだろうな。
時には母が例の色気を使って要求したこともあるんだろうな。「今日は中でいいよ」「今日は中はダ〜メ」 例の調子で
言ってたのかな。まだ母は子供を作る決断は出来てなかったのか。「お母さん 赤ちゃん産まないの?」「欲しい?でも
男の子2人もいたら十分だよ。もし産むとしたらどっちが欲しい?」「妹が欲しい」 弟はそんな会話をしてたこともあったな。
だがこの1年も父母から子供の話はなかった。父母間ではどんな計画があったかは当然知らない。自然に夫婦の営みをしていたのだろう。
覗いてみようかとかの好奇心もまだなかったかな。
147 :
マジレスさん:2012/08/09(木) 02:11:02.02 ID:mdv3RJri
5年生になった。弟は2年生。弟もさすがに父母の寝室に忍び込む回数も減ってたと思う。
父43母33になる年だ。4人での新生活になって1年半が過ぎていた。母は伸び盛りの男の子2人を抱えて
いたが俺と弟は母には従順だったと思う。もちろん怒られたこともあったが母を困らせることも特に
なかったと思う。母もようやく自信がついてきた頃ではなかったか。
4月5月と過ぎ 6月下旬学校行事で俺は林間学校の為家をあける日が来る。そして前述通り弟が母の
その時の声を聞く日がくる。「ねえねえ。赤ちゃん欲しくなっちゃった。」父におねだりをした頃だったのか
勝手に想像してみた。
「お前 あの時 母が何されてあんな声出してかわかってる?」「後になってわかったよ」
「思い切って部屋に入ったらよかったのに。間違いなく本番見れたのに」「出来なかった」「最後まで
いたらよかったのに。あのあと2人揃ってシャワー浴びてんだろ? 汗かいたんだよ」
父母にとっては普通の行為だったかもしれない。子作りはまだ決めて無かったかも知れない。
7月8月9月 3年生の時ほどではなかったかも知れないが 暑い季節の母の服装は少なかれ俺には刺激的だった。
10月11月 もう父も母も 目標 は決まってたと思う。 「妹が欲しい」 弟の希望を叶えようと。
そして12月X日 母の体内に新しい生命が誕生する。 父から聞かされた。母も同席してたが母は何も言わなかった
ような気がする。下を向いて父の話を聞いてたかな。
148 :
マジレスさん:2012/08/09(木) 02:34:14.43 ID:mdv3RJri
翌年6年生になっての9月 末弟が誕生する。連日母の授乳姿を自然に見るようになるが
あとになって思ったが もしその頃 俺か弟が母にこんなことを言ってたらどんな
言葉が返ってきただろうか。「お母さん 俺にもおっぱい吸わせて」 俺も弟も実母の
母乳で育った。だがもちろん記憶にはない。母乳の味を知りたいと思ってそんな言葉をかけたら・・・。
「やだ。それだけは絶対ダーメ。お父さんに言っちゃうよ」例の調子で言われるに決まってるか。
母の乳房を吸えたのは末弟と父だけか。
あと印象にあるのは母の下着だった。俺も弟も小さい頃 お手伝いで洗濯物の取り込みをよくやらされた。
当然母の下着も入ってる。まだ女性の下着についての知識がほとんどない頃だったから 母の下着を通じて
知ることが多かった。 (続く)
149 :
マジレスさん:2012/08/12(日) 12:43:01.85 ID:HUCCgSOe
もし俺や弟が子供の頃いたずらで母に痴漢行為をしていたらどうなっていただろうと
想像したこともあった。母の胸や尻を触っていたら・・・・。
「やだ だけでは済まないだろうな」「ビンタが飛んできたかもな」
「何するの!あなた今やったことわかってる?」「何でそんなことするの?」
「ダ〜メ 絶対許さない!お父さんに言っちゃうね」こんな会話にはなっていたかも。
母の下着。俺は小さい頃 乾いた洗濯物の取り込みの手伝いをよくさせられた。
「○○ 洗濯物 入れてくれない?」皆経験のあることだ。たたみ方も早く覚えられたかな。
家族全員の洗濯物なので当然母の下着も入っていた。まだ知識の薄い頃だ。何でこんなに
色 形 大きさの種類が多いんだと素朴に感じたものだ。何枚の母の下着をたたんだことだろう。
実母の下着はほとんど記憶にない。女性の下着の種類の多さを知ったのも この体験を通じてからだ。
丸めれば子供の片手の中に収まってしまうような小さめのパンツから生理用 妊娠してからはマタニティ用も見ることに
なる。フリル付き ゴム付き 色も無地からベージュ ピンク ブルー 黒と多彩だった。今となっては不思議ではないが
当時は不思議に感じたものだ。母の下着が収納されているタンスの引き出しの中をこっそり覗いたこともあったが
黄色や紫 赤のパンツは無かったかな。 ブラもデザインや色も豊富だったし(子供心に)キャミ フレパン ぺチコート ガードルと
子供心に驚いたものだ。3年4年5年生と学年が進むごとに次第に知識 変な想像力もふえたことも間違いない。妊婦用の下着も何せ自然に覚えられた。
思春期を迎える男の子に母も意識はあったと思うが深くは考えていなかったと思う。
俺も弟も母からビンタを受けたことは無い。尻を叩かれたことも記憶にない。いい子 だったのかも知れないが子供の頃はビンタとはいかないまでも
尻を叩かれたことは皆1〜2回は経験はあるはず。やはり俺たちにはどこかで手加減 遠慮はあったのだろう。末弟が小さい頃 よく尻を叩かれているのを
何度か見ているだけに尚更そう思う。
150 :
マジレスさん:2012/08/12(日) 14:27:37.41 ID:HUCCgSOe
母は離婚の経験がある。こんな素敵な母がと不思議に思うが 母の前の夫がどんな人だったのか
何が原因で離婚したのかもちろん知らない。聞いたことも無いし今後も聞くことも無いし
聞いても教えてくれるはずもない。この件は俺達家族の間で口にすることは暗黙でタブーとされてきた。
父母の結婚には親族間で最後まで伯母が反対していたとその後何となくわかった。伯母は父の姉でうちと
比較的近い所に住んでいる。伯母が母の情報をどこかでキャッチしていたかも知れない。最後は父の説得に
折れてくれたらしいが母もそんないきさつは当然知っているだろう。その後も伯母に対してはどことなく
遠慮・気兼ねしているのが子供心にもわかったこともあった。一時期 祖父が入院した時があった。娘の伯母 母も
よく見舞い 介護に病院通いをしたが 仕事帰りに病院に寄って帰ってくる父に「お義姉さん 来てた?」と
よく聞いていた。やはり嫁としては気にしていたのだろう。俺たちは特別伯母には悪いイメージは持っていない。
「若くて綺麗な優しそうなお母さんでよかったね」父には「2人で(旅行)行ってらっしゃいよ。○○と○○は私が面倒見ててあげるから」父は「いや ○○子が一緒でいい言うんだ」「今夜ホテルで寝る時は お父さん達と部屋は別々だよ」
「花火大会の時 また寄りなさいね」こんな会話はまだ覚えている。俺たちだけの前で「新しいお母さん どう?」と聞かれたことはあった。これ以上の会話は無かったが このあとに続く言葉として
「お父さんお母さんに言いにくいことや困ったことがあったら言いなさいね。伯母ちゃんがお母さんをこらしめてあげる」容易に想像出来る。 母に対しても
「可愛い甥っ子を困らせることをしたら容赦しないからね」 もし最悪のことになって父が伯母に相談してたら 「だからあれほど反対したのよ。今からでも遅くない。別れなさい。」ぐらいは言っていたかも。
まあ心配無用でよかった。母は虐待・いじめという言葉は知らないし縁も無い。伯母も早くしてわかってくれてたと思う。披露宴の時 来てた中学生高校生の伯母さんの2人の子供 俺達のいとこもまだ結婚していない。
母に早く「お義姉さん おめでとうございます」と言わせてやりたい。
151 :
マジレスさん:2012/08/14(火) 01:51:21.79 ID:NgU8ojdl
伯母の話が出たので父の兄弟について。父は車で1時間半程の祖父母宅で生まれた。
兄弟は8歳上の兄(俺達の伯父さん)。伯父さんは地元の高校を卒業後 東京の公立大学へ進学。
製薬会社に入り今は重役になってるエリート。小さい頃から勉強が出来て祖父母の自慢だったらしい。
東京で知り合った今の奥さんと結婚し 1女を設ける。(俺達のいとこ。披露宴の時に来てた当時は20歳の大学生)
恰幅があってさすがに貫禄がある。物静かな伯父さんだ。弟は東京の大学へ行きたいとも言ってる。受験の時は伯父さん宅へ泊りホテル代を節約すればいい。
伯母は父より5歳上。地元の短大を卒業後 民間企業に勤めていたが結婚を機に退職。ご主人はサラリーマン。
わが家から車で15分程の所。花火大会が近くの河川で毎年行われる為 よく小さい頃 伯母さん宅へ寄った。
子供は女2人。(俺達のいとこ。披露宴の時に来てた時は中学生 高校生だった)実家が車で1時間半ほどなので
時々祖父母の面倒を見に行ってると言ってた。母から見れば煙たい?
そして父。地元の私立大学を卒業後 地元の民間企業に就職。そこで知り合った俺達の実母と結婚。アパート暮らしだったが
俺が生まれたのを機に1戸建ての今の家を購入。伯母宅と比較的近いのは伯母の紹介もあったのか。弟が生まれて病弱になり帰らぬ人となる。俺たちにとっても忘れられない実母であり
父にとってもさぞ悔しかっただろう。でも今の母が来るまでの2年あまり俺達を男手1人で育ててくれた。尊敬しているし 感謝もしている。そんな父の姿を見て来た神様が放っておく
訳がない。素敵な女性と結び付けてくれた。これが父方の家系だ。年齢で整理すると 11年前今の母が来たときの年齢は 伯父49歳(いとこ20歳女 大学生) 伯母46歳(いとこ中学生と高校生の女)
そして父41歳 母31歳 俺は小学3年生 弟は幼稚園の年長組だった。伯父伯母から見れば弟の嫁 つまり義理の妹になる母と15〜18も離れている。おまけにいきなり男の子2人の母になることについて
不安を感じて当たり前だったかもしれない。でも最後は父を信じて認めてくれた伯父と伯母。今更ながら感謝している。父は伯父伯母と喧嘩してまで母と結婚するつもりはなかったはずだから。
152 :
マジレスさん:2012/08/15(水) 16:45:59.43 ID:GCL0Ip6/
153 :
マジレスさん:2012/08/19(日) 02:13:29.94 ID:RJmGU1z0
母は俺達が想像してた以上の人柄で本当に感謝している。ただ母には申し訳ないが
父と結婚するにあたって何が決め手になったのか 未だに不思議に感じるところがある。
父とは全然面識無かったし父と見合いをした時はまだ30歳。10年も離れていておまけに子供が
2人もいるヤモメ。結婚するということは同時にこの2人の子供の母親になるということ。自分自身は
離婚の経験があり子供は産んだことは無い。再婚には慎重にならざるをない。それ相応の覚悟があったはずだ。
父からの猛烈なプロポーズがあったにせよ 最初は断ったと聞いている。それでも執拗に迫る父の熱意に決心したわけだろうが
父は特別イケメンでもないし普通の40過ぎのサラリーマンだったはず。父の何処に惹かれたのか。
ただ小学校の教師をしていて子供が大好きだったことは間違いない。俺達を可愛がってくれてる間に自分も子供が欲しくなった。
ただ2年間は子供は作らず俺達の様子を見ていて決断したことはほぼ間違いないだろう。末弟の誕生は計画的であったはずだ。
154 :
マジレスさん:2012/08/19(日) 02:56:56.75 ID:RJmGU1z0
「おおい 2人とも起きろ。朝ご飯だぞ。お父さんと一緒に食べよう。待ってるよ」
俺達の新生活は母のこの言葉で始まった。わざわざ2階で寝ていた俺と弟を起こしに来てくれた。
母が来るまでの3人での生活の時は父が起こしに来てくれて簡単な朝飯を食べ(味噌汁もインスタントだったな)
鍵を持って学校に向かう。その繰り返しだった。
俺が先に起きてキッチンに向かう。遅れて弟が眠たそうに目を擦りながら降りてきた。父は一足早く1人でコーヒーを
飲みながら新聞を読んでいた。キッチンのテーブルの上には前述したとおり母の手作りの洋食が大量に並べられていた。
こんな朝飯は見たことがなかった。夏休みだったしまだ寝ていても大丈夫だったが 皆揃って朝飯を食べたい 父母どちらともなく
希望があったのだろう。「旅行で疲れたかな。よく寝れたでしょう?」母がこんな言葉を言ってくれたような気がする。
旅行先のホテルでの一夜は父母と弟が一緒に寝てた。父母にとって昨晩が初めて2人だけでの一夜だった。
「お母さんこそ疲れてないの? 昨晩燃えたんじゃないの?」知恵がついてたらこんな言葉も掛けていたかも知れないがさすがにそのときは
そんなことまで考えたことはなかった。その後も甘えん坊の弟はよく父母の寝室で寝ることがあった。「○○を起こしてきて。お母さん達の部屋で
まだ寝てるから」とよく弟を起こしに行ったものだが父母の布団はまだたたまれずにそのままのことが多かった。その横でまだ弟が寝ていた。
朝飯を皆で食べて父が仕事に出掛け 落ち着いた頃に母は布団をたたんでいた。父母の布団はくっついていた。そして母の布団の横で弟はまだ熟睡
していることが多かった。弟が侵入した時は父母は何も無かったのか 気になるところだが想像の世界にしておきたい。「今夜はお兄ちゃんと部屋で一緒に
寝なさいね」こんな言葉を父母がかけたことがあるかどうか これもさすがに記憶にない。しかし父母と一緒に寝たがる弟を追い出したことは無かったように思う。
今更ながら本当にその頃の弟は空気が読めなかった。無理もないか。まだ幼稚園児だったのだから。本心はどうかわからないが父母も嫌がらずに弟と3人でよく
寝てくれたものだ。3年生だった俺はさすがにそこまではしなかった。
155 :
マジレスさん:2012/08/21(火) 01:52:01.44 ID:xJUvj1rM
「2人も男の子がいれば十分」 もう子供は産まないよ と暗に俺たちに言ってた母。
現に3年生の7月末に結婚した父と母。当時父は41 母は31だった。すぐに子供が出来ても不思議ではなかったが
2学期3学期と過ぎてもその気配もなかった。4年生になり弟も1年生になった。入学式で母と写ってる写真はどちらも
輝いていた。母の怒号も家中に響いている頃だ。男の子2人だ。どこの家にもある風景だった。「おおい 2人とも起きろ」
「いつまで寝てんだ。○時だぞ。」「言うこと聞きなさい」そして例の「ダーメ。や〜だ」「お父さんに言っちゃお」
毎日の母の言葉だった。ただ勉強では1年生の弟には丁寧に教えていた。教科書を開いてノートにとにかく書かせていたのは
覚えている。4年生の俺にも宿題を中心によく見てくれた。「あれ?おかしいよね」「そう。正解」「よし お母さんが問題作ってあげる」と
即席で問題を書いてくれたこともあった。この時ばかりは教師時代の血が騒いだのだろう。「ごはん作るから洗濯物入れて」手伝いをよくやらされたのも
この頃だったかな。夕飯は仕事帰りの遅い父とは別々の日が多かったが すべてにおいて楽しい頃だった。俺も弟も父母に赤ちゃんのことを聞くこともなくなっていたかな。
父母からも話しすることはなかった。
156 :
マジレスさん:2012/08/21(火) 02:40:19.62 ID:xJUvj1rM
5年生になり弟は2年生。益々家の中は母の怒号が飛び交っていた。それでも
父が帰ってくると必ず玄関に迎えに行き「お帰りなさい」と嬉しそうだったな。
そしてソファでは自然と父に寄り添い自然に父の手を握ることもあった。子供の目には
毒だったが1日の疲れを癒す数少ない憩いの場だったのかも知れない。
小学校の参観日 学校行事には100%来てくれた。まわりの友人達の母親よりとにかく若く綺麗だった。
一番若かったかも知れない。それが俺の自慢でもあった。そして6月下旬。俺が林間学校で家をあけた日の夜が来る。
弟が 幽霊の声を聞くことになる。 お母さん達の部屋で あ〜 と変な声が聞こえたんだよ。影も形も見えない。
しばらくすると誰もいないはずの風呂で水を流す音が聞こえた。その時は影も見えた。俺 幽霊を見たのかな。
お前 寝ぼけていたんだろう。 いや確かに聞こえたし見たんだよ。 ねえお母さん あの日 あいつ幽霊の声 聞いた
言うんだよ。喉が渇いてジュース飲みに階段を下りて行ったら聞こえた言うんだよ。お母さん達 寝てる時間だよね。そのあと
シャワー流す音も聞いた言うんだよ。誰もいない風呂から聞こえた言うんだ。 やっぱりあいつ寝ぼけてたんだ。
父と母は燃えた夜だったに違いない。 夏休み 母も一緒に伯母さん宅近くで行われた花火大会に行ったかな。終わって伯母さん宅で
冷たいものをご馳走になったかな。父も母も伯母と一緒に談笑していたかな。俺と弟は中学生高校生のいとことも女の子ではあったが話をしていたかも
しれない。「弟か妹 欲しくない? お父さんお母さんに聞いた?」みたいな会話ではなかった。2学期になり運動会。父も母も揃って見にきてくれた。
熱い声援を送ってくれた。俺と弟が給食の時間 父母は仲良く弁当食べていたんだろうな。まさか1年後弟が産まれてるとはその時は俺も弟も想像もしていなかった。
そして12月冬休みに入って何日か過ぎた夜が来た。母が病院の 産婦人科で検査を受けた日の夜だったのか(正直母が病院に行ってたことも記憶にない。多分外で友人達と
遊んでいたと思う) 父から話があるから集まれ と召集がかかった。別に父に怒られることをした記憶もないのに一体何の話だ? そんな気持だったかもしれない。
俺達を前に父が口を開いた。父の横にはうつむき加減の母が座っていた。
157 :
マジレスさん:2012/08/23(木) 02:37:26.31 ID:W6hAn2M4
「お父さんに言っちゃおう」と母から言われ 現に父から怒られたことも何度かある。だから母の「お父さんに言っちゃうよ」の
一言は当時はとにかく効いた。だからその一言のあとには必ず「ごめんなさい」と謝ったものだ。だから12月の終わりのある日 父から2人揃って
呼び出された時はまた怒られると察したものだが さすがにその時は心当たりになるものはなかった。何も悪いことをした覚えもなかった。
弟も一緒だったと思う。疑心暗鬼で父母のいるキッチンに行った。父から聞かされた。大体こんな内容だったと記憶している。
「お母さんのおなかの中に赤ちゃんが出来た。産まれてくるのは来年の9月だ。でもまだ赤ちゃんが死んでしまうこともある。無事に産まれてくるように
お母さんに負担をかけることは絶対にしたら駄目だ。お手伝いもしっかりしろ。特に重いものは持ってあげる。お前たちの弟か妹が出来るんだ。わかったな」
途中 母の顔も見たがほとんど下を向いていたように思う。こんな母を見たのも珍しい。父の話が終わって母も何か言ったと思うがほとんど覚えていない。
後日俺がすねて母から涙ながらに怒られたことがあったがすねた原因は母の妊娠だった。母も悩んだと思う。母からあとになってはっきり言われたことがある。
その怒られた時だったか。こんな内容だった。「ごめんなさい。子供はいらないと嘘を言って。あなた達と一緒になってお母さんも自信ついた。本当にあなた達は
すぐにお母さんになついてくれた。すぐにお母さんと呼んでくれた。本当に嬉しかった。最初はお母さんも不安だった。うまくやっていけるかと。お母さんも必死だった。
お母さんもやることはほとんどやったつもり。あなた達が本当に素直な子でよかった。これからも大丈夫だと安心した。そうしているうちにお母さんも赤ちゃんが欲しくなった。
もちろんお父さんにも相談した。お父さんもOKしてくれた。赤ちゃんが出来てもあなた達とは今までと一緒。約束する。お母さんを信じて。お母さんの気持もわかって。お願い」
父から聞かされた直後は正直俺は相当ショックを受けていたと思う。母の愛情が間違いなく薄れていくと思っていたからだ。
158 :
マジレスさん:2012/08/23(木) 02:59:57.16 ID:W6hAn2M4
父と母が結婚したのは3年生の7月の終わり。3年生が終わり4年生の1年間 5年生も
間もなく終わろうかという12月の終わりの時だった。もう子供の話 話題も全くといいほど
なくなっていた頃だった。でも母は父には話をしていた。「ねえねえ 赤ちゃん欲しくなっちゃった。
いいでしょ? (中略) あの子達がどう思うか心配」 父は「わかった」こんな会話はしていただろう。
父も母も決心するまでは性行為もコントロールしていたと思う。避妊はしていたと思う。しかし2人で決めた以上
あとは計画をたてていたはず。逆算すればすぐにわかったが母の受精日は12月の上旬から中旬。子作りの合意から何回目の
性行為だったかは父母のみ知ることだが少なくとも俺や弟には「子供を作る」話は一切なかった。まあ言うはずもない。もし
聞いてたら間違いなく変な好奇心が芽生えていただろう。毎晩父母の寝室の外に立っていたかも知れない。
母の妊娠がわかってからは俺達も微妙に生活の変化が起きてくるようになる。
159 :
マジレスさん:2012/08/25(土) 02:34:31.32 ID:D+mPrLgK
あんた、何が書きたいの?
もっと簡素にまとめろよ。
160 :
マジレスさん:2012/09/04(火) 01:38:43.07 ID:A5cttOfm
5年生の12月末 父から母の妊娠を聞かされてすぐに新しい年を迎えた。父の車に乗り初詣 父方母方の祖父母宅へ新年の挨拶巡りをするのが
毎年の恒例だった。この年もどちらが先だったか忘れたが行った記憶がある。もちろん俺も弟も目的はただ一つ。お年玉だった。運が良ければ東京の伯父さん
近所の伯母さん 母の弟の叔父さんからも貰い裕福になった時もあったがこの年の正月は伯父伯母は里帰りしていなくて少々寂しかったがまあ貰えただけでも幸せと思っていた。
母の妊娠の報告は父母どちらともなくこの正月に顔を合わせた時に祖父母に言ったと思う。いずれ伯父伯母にも知らされていたと思う。
冬休みはあっという間だった。宿題に追われる日が来た。母の怒号が飛ぶ。妊娠したと言ってもまだ初期。母の体に変化が起きる時でもなく普段と変わりはなかった。
ただ俺たちは父から言われた通り重たい物を運んだり母の言うことは素直に聞くなり子供心に気を遣ったつもりだった。あえて変化といえば 仕事の段取りがあったにせよ 父の帰りが
今までより幾分早くなったような気がした。父もそれなりに気を遣っていたのか。おかげで夕飯は全員揃って食べる日が以前よりは増えたような時だった。
3学期になり学校での参観日 行事のある日は母は100%来てくれた。2学期までと違うところはまわりの母親達の中でただ1人だけおなかの中に赤ちゃんを身籠っていることだった。まだ目立つ時でもないし
まわりの母親達も気付いていたかどうかは知らない。俺も弟もまだ言ってなかったと思うし母もまわりのお母さん達には言ってなかったと思う。別に隠しているつもりもなかったと思うが。
3学期もあっという間に終わった。春休みは宿題のない時。それはそれで嬉しかった。そして6年生 小学校最後の学年を迎える。弟も3年生になった。この頃から母に少しずつ妊婦特有の変化が表れて来たように思う。
161 :
マジレスさん:2012/09/09(日) 19:14:49.49 ID:vcrUpI56
3年生になった弟は相変わらずサッカーに夢中で学校から帰ってくるとすぐ練習に飛び出して行った。(帰ってくると母とのマンツーマンの勉強が待っていたが)
俺も弟も伸び盛りの頃 母の手伝いは最低限のことはしていたと思うがわんぱく振りも発揮していたと思う。当然のように母の怒号が飛び交うことも多くあった。
母は以前から夕食は比較的早い時間から支度を始めゆっくり時間をかけて作っていた。栄養を考え献立を工夫しながらで有難かったが その間の洗濯物の取り込み
風呂の準備等は俺達の仕事だった。だが俺達もわんぱくの盛りの頃 おまけに母のおなかも少しずつ目立ち始めていた。ストレスも溜まっていたと思う。
妊娠前のような甘い言葉も減り当たり気味の乱暴な言葉も増えていたように思う。「早くしなさい!」「いつまでTV見てるんだ?」「ちゃんと言うこと聞きなさい」
「いい加減にしなさいよ」どこの家庭の母親も口にする言葉とはいえ妊娠してからの母の言動には少し変化があったように思う。あとはフットワークよく駆け回っていたが
やはり動きも以前よりは鈍くなっていたかな。妊婦だから仕方ないとはいえ料理の途中でも頻繁に椅子に座ったり時にはソファに座っておなかをさすったりしていた。
身近で妊婦の人を見るのは初めてだったし俺達もわかっていたと思うが母の心労は相当なものだったと思う。父も仕事で遅くなる日が多くイライラも増えていた頃だったのかも。
もしあの頃俺達が母に切れて父ではなく伯母に泣きついていたらどうなっていただろうと後になって考えてみたこともあった。「困ったことがあったら伯母ちゃんに言いなさいね。
伯母ちゃんがお母さんをこらしめてあげる」の伯母だ。「伯母ちゃんに言う」と言ってたら母はどうだったか。「いいよ。勝手にしなさい」「伯母ちゃんの子供になったら?」と
逆切れされてたか。伯母は怒鳴り込んで来てたか。「○○子さん いい加減にしなさいよ。自分の子供が可愛いからと言ってあの子達に当たることは無いでしょう。私が一番心配してたことが
起きてしまったようね。子供なんか作らなければよかったんだよ」「もういいです。私が悪いんです」母とバトルを繰り広げていたか勝手に想像したこともあった。
162 :
マジレスさん:2012/09/10(月) 00:56:03.36 ID:Vyw5ULyj
父や伯母に泣きついたところで怒られるのは俺達だし母を信頼していたから馬鹿な真似はしなかったが母も初めての妊娠 本もよく読んでたし不安な精神状態の
時だったと思う。やはり俺達ももう少し母の気持ちを汲んで行動してたらとは思った。子供想いの母は学校行事には前述通り100%来てくれた。だが3年生の弟はどうだったか知らないが
6年生の俺にはおなかの膨らみが目立つようになった母が参観日などで教室に入って来るとやはり少し恥ずかしい気持ちになったこともある。クラスメイトの母親の中ではおそらく一番若かったであろう母も
家庭事情を知らない母親から見たら母の妊婦姿はどう映ったのか。
父母から私立中学への進学も勧められたが特別受験勉強もしてなかったし多くの友達が進学する地元の公立中学へ進学するつもりだった。6年生の勉強はさすがに難しくよく母の力を借りた。母も一瞬考えることもあったが
さすが元小学校教師 6年生は受け持ったことはなかったかも知れないがわかり易く教えてくれた。体調のすぐれない時もあったと思うが弟を含め勉強に関しての母の熱心さは本当に嬉しかった。中学校に進学しても変わらなかった。
とりわけ数学の宿題では大いに助かった。おなかの中の子供も順調に成長してたと思う。もう母には男の子か女の子かわかってたと思うがこれだけは教えてくれなかった。やがて暑い夏を迎えまもなく夏休みに入った。母の出産まで
約1カ月余りになっていた。もう身近で見る母の体は子供心に異常というかグロテスクにしか見えなかった。やがて毎年楽しみにしている伯母さん宅の近くで行われる花火大会の日が近づいていた。父から今年も連れて行ってやるが
今年は伯母さんちに泊まれと言われた。1日だけでも母を楽にしてやりたい 父の気遣いからだったと思う。
163 :
マジレスさん:2012/09/10(月) 01:41:30.30 ID:Vyw5ULyj
父に連れられ花火大会に行った。帰りに伯母宅に寄った。父も伯母宅で一緒に夕食を食べた。
父は伯母宅の人達と少し話をしてから母の待つ家へ帰った。俺たちは予定通り伯母宅へ泊まることになった。
伯母とも久し振りに会ったし伯母や家族の人達からも色々聞かれたかな。「たまにはお父さんお母さん2人きりに
してあげたらいいよ。また泊まりにおいで」みたいなことも言われたが話の中心はやはり母のことだった。もう伯母には
わだかまりは無かったにせよ最後まで父母の結婚には反対していたはずだし血の繋がってる俺や弟の子育て振りがやはり
気になっていたはずだ。どんな食事をしているの? お母さんに怒られたことは?等々結構聞いてきたような気がする。
俺たちは正直言ったつもりだったが「そうか 若くていいお母さんで本当によかっ
たね。伯母ちゃんも安心している」的な
ことは言ってくれた。翌日昼過ぎだったか父が迎えに来てくれた。家に帰ると母がすぐ「伯母ちゃんに迷惑掛けなかった?」と
問いかけてきた。すぐに伯母に電話しているのが聞こえた。父も帰り際にお礼言ってたし別に母が改めて電話するほどでもなかったと思うが
やはり母は伯母に気を遣ってたのか。「お義姉さんですか?○○子です。2人がお世話になりました。有難うございました。ご迷惑お掛けしませんでした?」
みたいな会話だったと思う。その後「9月6日の予定です。有難うございます。色々またアドバイス下さい。〜 有難うございます。」みたいな会話が聞こえた。
やたらと 有難うございます と言ってたのは記憶にある。その電話で母が言った9月6日 出産予定日だったはずだが俺たちはそこで初めて知った。具体的な予定日は
聞かされてなかった。もう1ヶ月もなかった。秒読みに入っていたと言ってもいいかも知れない。予定より早く産まれることもあるはずだから。まもなく弟か妹が産まれてくる。
ようやくというか初めてそんな昂った気持になった時だったかも知れない。
164 :
マジレスさん:2012/09/10(月) 11:46:49.64 ID:WLpEO5Yv
スレチ覚悟で書きますけれど、うちの実母は最低。
同じ父親、母親から生まれた妹を溺愛して、私に劣等感を植え付けたり、私が学校でいじめられるきっかけを作ったのもあの人です。
165 :
マジレスさん:2012/09/12(水) 02:29:18.70 ID:bTgrqZ0Z
2学期が始まってまもなく母は出産した。俺と弟に年の離れた弟が誕生した。
母の出産時のことは前述した通りで簡潔に済ませるが祖父母 伯母が病院に来てくれていた。
父が分娩室から出てきて照れくさそうに一言「男」と皆に告げる。やがて母が出て来た。
母は俺達の方も見たような気がするが祖母が「よく頑張ったね。おめでとう」的な言葉をかけた後は
もう駄目だった。「お母さん」と言ったきり泣き出してしまった。祖母も「何泣いてんの。めでたい時に」
と言ったような気がするが俺たちはあの時ばかりは正直びっくりした。あんな母の泣き顔を見たのは初めてだった。
その時ばかりは母娘の姿だったかな。
母も異常なく数日後 末弟を抱いて家に帰って来た。予想していたとはいえ今まで以上に手伝いが増えた。
とりわけオムツ替えには参った。弟は露骨に「臭い臭い」を連発。結局オムツ替えは俺の仕事になってしまった。
しかし身近で見る末弟の顔は可愛かった。生後数日しか経ってないのだから当たり前ではあるが。
今までとは違い家の中の空気も違ってきていた。学校から帰ると母乳を与えている母の姿も多く見るようになる。
添い寝していて一緒に寝ている姿を見ることもあった。洗濯物を自発的に取り込んだりTVの音量を抑えたり
俺達もそれなりに母や末弟のことを考えて行動するようになっていたのは間違いない。
166 :
マジレスさん:2012/09/12(水) 02:49:57.51 ID:bTgrqZ0Z
親族からのお祝い物も届くようになった。祖父母 父の会社の人からも頂戴したと
父は言っていた。とりわけ東京の伯父からのお祝いには父母も恐縮していたようだ。
やはり役員クラスになるとスケールが違うのか。父も電話で丁寧にお礼を言ってたようだ。
後日伯母夫婦がお祝いを持って家まで来てくれた。父もいたから日曜日だったかな。
午前中に電話が掛かってきて昼から行ってもいいかな みたいなことだったらしいが
母は「えっ お義姉さん来るの?ちょっと掃除機かけるね」「気にするな。○○が起きてしまうぞ」
みたいな話もしていたかな。伯母夫婦が来てくれた。「病院ではお恥ずかしい姿をお見せして」「気にしない
気にしない。感極まったね」みたいな話もあったのかな。ただ伯母が末弟の顔を覗き込んで
「パパそっくりだね。」と言ってたのは覚えている。当たり前だよ。父の子だよ。12月X日の寒い夜 俺と弟が2階の
部屋で布団にくるまって寝ている頃 1階の父母の寝室では熱く燃えてたんだよ。父から放たれた精子が母の体内で見事に
命中したんだ。父そっくりで当たり前。
母も末弟の育児で大変そうだったが俺や弟のこともしっかり今まで同様気にかけてくれた。中学進学の準備もそろそろ必要な頃
父母もよく話をしてくれたが受験するわけでもなく当の本人はそんなに気にすることもなかったように思う。
167 :
マジレスさん:2012/09/12(水) 15:44:10.56 ID:ANrjLjES
親父が糞若いねーちゃんと再婚するほうが悪い
なんか継母21とか23で継子13とかみるとアホかこの親父と思ってしまう・・・
俺の場合は親父が43で相手が38のおばさんだったが
若いころから不妊治療してて、子供ができたことをすげー喜んでたので
スレチだがまだ仲良くやってけてる。子供欲しくてたまらなかったみたいだし
若いのと結婚するのは自分の下半身しか考えてないからだろ
俺の親父はシングルファーザー暦長くてちゃんと俺とも向き合ってくれてたから
そんなねーちゃんは選ばず、ちゃんと(母親)と結婚してくれたぞ
相手も親父いらんから俺だけ養子縁組するっていうくらいだしw
実母亡くなってるからおかんてどんなんか分からんかったが
なんとなくあーこういうのがおかんなんかなーって今は思ってる
168 :
マジレスさん:2012/09/16(日) 16:45:57.73 ID:rdpjU4Yt
自分はむしろ嫌われるのが怖いわ
本当に血がつながってたらそんな事全然思わないんだろうな…
突っ込み合う関係とか憧れる。
今めっちゃ嫌われてるけど。
169 :
マジレスさん:2012/09/17(月) 01:02:19.20 ID:SZVsy8aR
末弟が産まれてから家の中の空気も随分と変わった。ベビー用の玩具 ベビー服 外にはベビーカー。
当たり前のことだが末弟中心の生活に変わりつつあるのが自然とわかっていくようだった。いつもより早い夕飯
末弟をあやす母 授乳 添い寝 俺と弟の面倒見 更に手が離せない末弟 父も休みの日はよく末弟をあやしていた。
親子のスキンシップは十分取れていたと思う。それでも6年生の俺 3年生の弟の参観日等 学校行事には100%来てくれた。
末弟を抱いてだから大変だったと思うし 俺も恥ずかしい気持ちになったこともあったがやはりそれでも母は誇りだった。
6年生にもなると勉強もどの教科も難しくなる。算数はもちろんのこと 理科も生物化学地学と幅も広い 社会も歴史地理政治経済と
小学生の最高レベルでの知識を勉強させられる。宿題も増えた。正直今までのように算数を中心に母の力を借りていたものが
理科社会国語と範囲も増えていく。教員だった母も教職から離れて何年もたっているはずだがやはり違った。母も問題を見てしばらく
考えることもあった。鉛筆で紙に書きながら解くこともあった。だがさすがだった。「難しいね。でも解き方がわかれば簡単。いい?」と
いつもの調子で丁寧に教えてくれた。辞書こそあったが受験するわけでも無かったし特別参考書や問題集等を多く揃えていたわけでもなかったが
授業にも十分ついていけたしテストもそこそこの点は取れた。やはり母は生きた参考書だった。最後の運動会を始め数々の思い出を胸に6年間の
小学校生活も終わり卒業式の日を迎えた。母は当然来てくれた。末弟を抱いて。式のクライマックスを迎えた時 クラスメイトの女の子や他の親は
当然のように涙にくれていたが母はしっかりとしていた。最後の記念写真ではしっかりと寄り添って一緒に写ってくれた。
「お母さんありがとう」 口にこそ出せなかったが3年生の途中から今日まで育ててくれた母への感謝の気持ちがあったのは間違いない。
170 :
マジレスさん:2012/09/17(月) 01:54:02.57 ID:SZVsy8aR
新しい希望を胸に間もなく中学生活が始まろうとしていた。弟も4年生になろうとしていた。
毎年新聞には春の教職員の異動名簿が載る。隣町で教員をしていた母もよくこの名簿を見ていた。
「へえ ○○先生 異動か」「○○校長先生 ○○教頭先生も変わるんだ」 ひとり言のようにつぶいていたように思う。
やはり懐かしい名前を見た時は感慨深いものなのだろう。そんな中 母も気付かなかった1人の女の先生が異動で母校に赴任
することになる。隣町で教員をしていた時 その小学校に新任で来た先生 母から見れば可愛い後輩だっただろう。その先生が
偶然にも異動で母校に赴任 しかも弟の担任になったのだから本当に世の中は狭い。新聞にも載ってたはずだが結婚して姓が変わって
いたのだろう。母も気付かなかったのだろう。参観日だったか家庭訪問だったか知らないがその先生と久し振りに再会した母 しかも
弟の担任だとは。お互い涙にくれたのは容易に想像出来る。「お久しぶりです」「お元気そうで」「あらあ 可愛い坊っちゃまですね 先輩」
2人の子持ちと再婚し子供ももうけた と聞き「そうなんですか 先輩尊敬します」 そんな会話があったかどうかは2人にしかわからない。
やがて弟の授業参観では後輩の授業振りをじっくり見ることとなる。弟は関係なかったにせよ担任の先生はやりにくかったのではないかな。
俺の方も中学になって初めての参観日にも母は生後半年足らずの末弟を連れて来てくれた。回りの親達も大半はこちらの家庭事情を知らないはずだから
そんな母を当然好奇の目で見ていたのは容易に想像出来る。 俺も部活に入り弟も相変わらずサッカー少年 夜も帰りが遅くなる日も増えていった。
末弟もまだまだ目が離せられない時 家事に専念する母も知らず知らずのうちにストレスがたまっていってたように思う。
171 :
マジレスさん:2012/09/20(木) 02:47:38.22 ID:cNtMeWED
末弟も生後半年が過ぎ 寝返りが一人で出来るようになった頃 よく父が相手をしていた。
俺も弟も同じように育てられたはずだが当然この頃の記憶は無い。1階で父が末弟の相手をしている頃
母は2階に上がって来て弟の勉強をよく見ていた。俺も必然的に勉強せざるをえない。4年生の弟は算数では
2桁の掛け算割り算 小数点のついた掛け算割り算をよく母と復讐していた記憶がある。俺も懐かしく横で聞いていたが
とにかく母の教え方はわかり易かった。「よし 次は理科だ。月と地球やろうか」 社会は都道府県を覚えるのが
4年生であった。「ここの県はど〜こだ?」「トリニ―タがあるとこは?」「大分」「正解!」「じゃここは?」
「フロンターレとマリノスは?」「川崎と横浜」「そう。でも川崎と横浜は県じゃないよね」「そう。神奈川県」
「よし じゃJリーグのチーム全部教えて。お母さん全部知らないんだ」「凄いね。さすが! じゃ一つずつ県名教えて」
弟の好きなサッカーに例えてこんな感じだった。ただ前述通り母との勉強は長かった。目の離せない末弟を見ながらも
俺と弟にも今までと変わらない愛情を注いでくれた母。いい思い出として残っている。
172 :
マジレスさん:2012/10/05(金) 23:09:50.56 ID:1wQSxtHF
実母を失った時 弟は3歳だった。ほとんど実母の記憶が無い弟は母への甘えは相当なものだった。仕方ないかも知れない。
ホテルでの父母の初夜を一緒に寝室で過ごしたり その後も幾度なく父母の寝室で寝たりまだ幼稚園児だった頃はよく母に
まとわりついていた。小学校の入学式の時の母とのツーショットの写真なんか本当に嬉しそうだ。サッカーに夢中で試合を
母もよく見に行っていたが勝った時なんか家でもよく母に自慢話をしていた。学校での事もよく話をしていた。甘えが災いして
母から「ダ〜メ」「やだ」の言葉を引き出す原因もほとんど弟が発端だった。
その弟も今は高2 進学に向けて勉強に精を出しているが 間違いなく俺より成績はいい。愚兄賢弟はまさに俺と弟のことだ。
父母の負担を軽くするためにも是非頑張って国公立大に進学して欲しい。思いっきり甘えた母に恩返しするためにも。空気が読めず
幾度なく父母の寝室に忍び込んでも優しく迎えてくれた母の為にも。
今でも弟はよくわからない問題を母に聞いている。母もさすがに一緒に考える時間が増えたが「多分これでいいんじゃないかな」と解いてくれるようだが
さすがだ。いくら小学校の教員免許を持ってると言っても 中学校3年や高校の数学・理科などはそう簡単に解けるとは思えないのだが 父との結婚前は
小学校の教員を辞めてからも塾の講師をしていただけのことはある。俺もそうだったが弟もありがたいと思ってるはずだ。
そんな教員上がりの母だが元教員とは思えないところもあったのも事実だ。前述したが父との結婚後 末弟が産まれるまでは俺も弟も目のやり場に困ったことも
正直あった。考え過ぎだったかも知れないが教員という職業とは別に母も1人の女性には違いなかった。
173 :
マジレスさん:2012/10/12(金) 01:00:26.88 ID:Zs9Sd+PZ
実母を失ってからの2年半は家庭内もどことなく暗く女性に対する意識・興味も全くと言っていいほど無かった。
実母の愛情も殆ど記憶に無かったし たまに世話に寄ってくれる伯母も40半ばで おばさん でしかなかった。
1年〜3年生の時の担任の先生も女の先生であったがやはりおばさんでしかなかった。クラスの女の子もまだ女性として
見るには当然早かったし好きな女の子がいたわけでもなかった。そんな環境を一変させてくれたのが今の母だった。
しかし父が紹介してくれた母とは2〜3度くらいしか会ってないしいきなり お母さん というイメージも正直湧かなかった。
(幼稚園児の弟は嬉しそうだったが) だがそんな俺のイメージを変えたのがまず父母の結婚披露宴での母の姿だった。
父母が結婚したのは3年生の夏休みに入ってすぐの頃 母の誕生日は5月だからまだ31になって間がない時だ。婚約が成立したのは
おそらく30の時だったはず。とにかく綺麗だった。そして若かった。亡くなった実母 友人達の母親とは明らかに違って見えた。
化粧や衣装の影響もあったと思うが父が惚れて何度も口説いたのも今になってわかる。披露宴での母は絶えず笑顔を絶やさず
嬉しそうだった。時折父の顔を見つめる姿は今も記憶に残っている。緊張気味の父とはえらい違いだった。
174 :
マジレスさん:2012/10/12(金) 01:20:13.18 ID:Zs9Sd+PZ
この日の母は俺と弟の新しい母ではなく完全に父の新妻の姿だった。
2〜3度会った時の姿ではなかった。女性は衣装や化粧でこんなにも変わる
ものなのか大きくなって気付くがまだこの頃の俺には無理だった。そして宴も
クライマックスに近づいた頃 伯母のテーブルに座っていた俺と弟は伯母に促されて
席を立ち花束を持って父母の前へ進んで行った。何を言ったかよく覚えていないが
花束を母に渡しながら「宜しくお願いします」的なことを言ったと思う。母は最高の笑顔で
俺と弟を一緒に抱擁してくれた。そしてその時の 匂い だけは鮮明に記憶に残っている。
ファンデーションか香水か知らないが母の体から匂ってくるものが初めて嗅ぐようないい匂い
その瞬間が女性を感じ取った時だったような気がする。
その次は早速その夜だった。風呂上りの俺と父が待つ部屋へ少し遅れて女風呂から上がってきた
母と弟が帰って来た。母は当然ながら髪も洗ってて昼間とは違う髪型で帰って来た。部屋に帰ってくる前に
化粧もしていたのだろう。やはりいい匂いがした。そして浴衣を着ている。別人に見えた。
風呂上りの独特の女性の匂いみたいなものを感じ それとなく女の色っぽさみたいなものを感じた時だった。
175 :
マジレスさん:2012/10/22(月) 17:13:45.80 ID:jEjFPM+3
部屋には既に料理が並べられていた。風呂上りの夕食 外食でもよかったのだろうが 部屋で皆で食べることにしたみたいだった。
「おいしいそうだね。食べようか」父母どちらともなく言っていた。初めての4人揃っての食事だった。俺も弟も温泉ホテルなんかでの
食事は初めてだった。真夏の風呂上りの乾杯。俺と弟はジュースだったが父母はさぞかしビールがうまかったと思う。昼間の宴では母はほとんど
出された食事には手を付けていなかったと思う。母は腹が減ってたと思う。俺達に気を遣いながらも箸は進んでいたように思う。
「今日から4人で新しい生活が始まる」「皆 仲良く頑張ろう」「皆 頑張ろうね」「お母さんと呼ぶんだぞ」「一生懸命頑張るからね 宜しくね」
食事をしながら父母の言葉が飛び交っていた。弟は既になついていたようだったが俺は突然父が連れて来た女性 しかも実母とは10歳以上も離れてる女の人を
目の前にして ましてやまだどんな人かわからない人に お母さん と呼ぶことにはまだこの時点では抵抗があったのも確かだ。
176 :
マジレスさん:2012/10/22(月) 18:09:21.33 ID:jEjFPM+3
食事が終わり皆で夜の散歩に出掛けることになった。全員浴衣姿だった。夜と言っても真夏の季節 まだ真っ暗ではなかった。
散歩と言ってもホテルの周辺の土産物店を散策する程度のものだったが 既に弟は母と手を繋いで歩いていた。母に近づくとまだ香りのいい
化粧の匂いがしていた。母と言うより女性のイメージがまだ強かったかも知れない。土産店に入ると母は「ねえねえ これ可愛い」
(買って欲しいな)とでも言いたそうに父を見つめる母 弟とまだ手を繋いでいたかどうかは別にして あとから思ったがやはり此処へは
俺達は来るべきでは無かったと思った。父と母の二人だけの世界にしてやりたかった。母と手を繋ぐのは父でよかった。俺と弟は一晩だけでも伯母の
家で世話してもらえばよかった。空気の読めない弟がわがままさえ言わなければ・・・。
ホテルに戻りまた色々と談笑していた。母も色々と俺と弟に聞いてきた。1日でも早く溶け込みたいと思う母の姿は十分わかっていたつもりだ。
寝る時間が来た。俺と弟は隣の部屋で寝る予定だった。弟も披露宴が終わり伯母から言われた時まではわかっていたはずだった。そして
「お母さんと一緒に寝る」これには正直参った。というより怒りを覚えたのも事実だ。
微笑む母。「いいよ。一緒に寝よう。」「○○君はどうする?」「隣でいい」 苦笑する父。あの時の光景は未だに忘れられない。
弟を寝かせた後 父と母の会話 その後のことは10年経った今でも知らない。弟も寝た振りをしてたわけではない。耳を澄まして二人の会話を聞いていたわけでもない。
弟も全く記憶に無い。俺や弟が想像するようなことがあったかも知れない。無かったかも知れない。あの時はそれでよかったのかも知れない。
俺も1人だったがよく寝れた。そして朝を迎えた。父母弟が寝た部屋で朝食を取ることになる。
かすかな記憶しかないがそこには前日とは髪型を変えた母が微笑んでいたように思う。
177 :
マジレスさん:2012/11/10(土) 11:24:26.63 ID:8hXKvVXp
実母がまだ生きていたら絶対にこんな感じにはならなかったと思うが 身近に若い女性が突然現れて
毎日生活を一緒にするようになれば必然的に女性特有の色っぽさ エロさというものを感じるようになっていた。
その対象がははであった。 当時俺は小3 幼稚園児の弟はまだそんな気持ちはなかったかも知れないが 血も繋がっていない
まして今まで比較的身近な存在であった伯母や学校の先生よりも10歳以上も若い女性と一緒になれば自然と目がいく場所
感じるものは男なら皆 共通だと思う。俺もようやくその仲間に入りかけの頃だったと思う。
弟はいきなり初日から母と一緒に風呂に入った。(温泉の女風呂) 母の裸体も当然目にしている。変な知識も好奇心もまだなかったと思うが
夜も母と一緒に寝た。父も母もよく許したと思うが以後も色んな場面で 感じる ものを経験する。
披露宴で俺達を抱きしめてくれた時の母の匂い 風呂上りの浴衣姿の色っぽさ 髪を何気なく触る仕草 父を見つめる目 わずか1日〜2日で今まで
味わったことのないものを母は提供してくれた。
まだまだ続く。前述の繰り返しになるが当時は真夏。当然母も家では薄着だった。母はおそらく意識はしていなかったと思うが俺には身近で見る初めての
ゾーンだった。やはり目の毒だった。
178 :
マジレスさん:2012/11/10(土) 11:49:37.98 ID:8hXKvVXp
母の家でのスタイルはほとんど上はTシャツ 下は短パンだった。別に不思議ではないがTシャツの下はブラ1枚だけ。
よく透けていた。短パンもよくパンツラインが浮き出ていた。意識していなくても自然に目に入る。母も別に意識してそんな
恰好をしていたわけでもないだろうし自然だったと思うが 父も特別注意もしなかったのだろう。まだまだ母から見れば
俺たちは子供だったのだろう。もしあの頃 変な気持ち が働いて母に手を出していたら 胸や尻を触るような痴漢的な行為を
していたらどんな反応が母からあったのか 今となっては想像もつかない。
たった数日ですべてが変わった。実母を失ってからの2年半の家の中が嘘のようだった。
絨毯 カーテン等 父が変えたものや母が持ってきた婚礼家具も雰囲気を変えた一因にもなると思うがとにかく女気が加わったことが
雰囲気をがらりと変えた。女性ホルモンというか女性の匂いというものが増えただけでも こんなに感じ方がちがうものだったのか。
母の体から見えるものだけではなかった。幼稚園児の弟と幼児向けのTVを見ながら一緒に歌ったり踊ったりしている姿 絵本を読み聞かせている姿
昼間は庭に幼児向けのプールを出して水しぶきを浴びてる姿 何もかも新鮮に見えた。まだまだ 母 というイメージは湧いてこなかった時だと思うが
とにかく弟は本当に嬉しそうだった。物心がついた頃は病気がちの実母のイメージしかなく やがてその実母も失い 父子3人での暗い印象しかなかったはずだから。
弟にとってはもう完全に 母 になっていた。よく買い物にも一緒に行っていた。弟にとっては皆に見てもらいたい自慢の母だったに違いない。
179 :
マジレスさん:2012/11/10(土) 12:31:58.07 ID:8hXKvVXp
家の中での母はとにかくフットワークは軽快だった。別に普通だったかも知れないが少なくとも俺にはそう見えた。
31歳という若さから来るもの 新生活のスタートから来るものもあったと思う。前に31歳の女優を記したが最近では
父がよく見ている夜のNHKの ニュースウォッチ9 の 井上あさひ 廣瀬智美両キャスターも31ということがわかった。
今の彼女達が10歳年の離れた男性と結婚 同時に3年生と幼稚園児の男の子の母親となったというイメージだ。やはり俺には
眩しかった。母から感じるエロさは昼間だけでは無かった。朝は食事が終わり父を送り出した後 弟を幼稚園に送って行った後
鏡台に向って改めて化粧をしていた。女性なら普通のことだがそこから匂ってくるものも何故か印象に残っている。
夜は炊事の片づけが終わった頃 ソファでTVを見ている父の横に自然と座って一緒にTVを見ている。そのうち目が閉じてきて
体が自然と父に傾く。よく見れば父の手を握っている。幾度となく目にした光景だ。(前述通り) 精一杯頑張った1日の疲れからくる
自然の仕草だったとはいえやはり目の毒だった。 ハッとして目が覚め「やだ もうこんな時間 ○○君(まだこの頃は俺達のことを君付けしていた)
早く寝なさいよ」 もしあの頃返す言葉を知っていたら「お母さんこそ早くお父さんと寝室に行けば」くらいは言ってみたかったな。
「やだ」母の口癖だった言葉だが俺たちはお小遣いをもらう条件として家の中のお手伝いが課せられていた。どこにでもあることだがそのなかのひとつに
洗濯物の取り込みがあった。誰しも経験のあることだがそこでまた予期せぬ エロさを 体験 することとなる。
180 :
マジレスさん:2012/12/07(金) 09:21:45.23 ID:K+tqj71a
何も知らないのに親子だから特別な繋がりがあるんだよって薄っぺらい説教してくる継母がウザい
あんた不倫相手だろ。実母が病気で急死してから18年も家空けてそれで何を言ってるんですかと。
しかも祖母の介護が1番大事な時期に猫を手放せないから顔も出さない、それを嘘で隠すとか
やっぱりおまえ常識ないんだなってよく分かったしもう綺麗事並べてもただの色ボケババアだから。
40過ぎて変な声出すな。気持ち悪い。勝手に部屋入るな。
換気でドア空けてたら部屋に入っていいとかバカ丸出しの言い訳ウザい。
仕事から帰って来て疲れてるのにムカつかせるな。人がリフォームしてから住み着くな。
181 :
マジレスさん:2012/12/07(金) 20:57:51.10 ID:ub8t7NE2
>>180 何を言ってるのかさっぱりわからん。
お前がいい歳をこいてるのに家を出られない。
人に物事を伝える能力がないヤツだと言うのだけは判ったが。
182 :
マジレスさん:2012/12/08(土) 10:58:43.37 ID:j1qn/3wj
>>180はい?家にお金も入れない帰らない借金作る両親いなければ孫が介護するしかないでしょうが。
ちゃんと継母本人にも言いましたが。介護仕様に家をリフォームしたのも私です。
あんたにクズ呼ばわりされる意味の方がわからないんですけど。
おまえみたいな奴が軽薄って言うんだよ能無しが
183 :
マジレスさん:2012/12/08(土) 20:20:02.22 ID:/MK3cwpx
>>180 貴方の文章からきちんと内容を読み取れる人間がどれだけいるのか...
要はこういう事?
・父親は今の継母と再婚
・継母は父親の不倫相手だった
・貴方の父親と継母と祖母の3人暮らしだったが一時期別居してた(父親も)
・祖母が要看護状態になっても看護(同居)しなかった
・祖母の為に貴方がお金を出して家をリフォームした
・家がキレイになったら戻ってきた
・家の中で父親の前で女を演じる継母が鼻につく
・母親面して貴方に干渉してくるのがむかつく
・家族の繋がりを説くくせに継母の実母が急死してから18年実家に寄り付かない位薄情だ
ってことで良いのかな?
でもこの場合、不倫して、母親の面倒みない、リフォームのお金も出さない
貴方の父親が一番悪いんじゃないの?
なんで継母が一番悪者みたいに言うの?
貴方の実母を遠くに追いやったのは貴方の父親であって、
例え継母が誘ったとしてもそれに惑わされなければこういう事はなかったはずでしょ?
184 :
マジレスさん:2012/12/09(日) 12:48:20.14 ID:dIfAw7ZN
それに。普通は母親が親権持つだろうに、
借金・不倫をする父親に親権が行くってことは
実母にもそんな父親に負けないくらいの問題があったって事ではないの?
でも実の親を否定したらあなたのアイデンティティが崩壊するものね。
他人を責めるのが一番楽。
私もそうだったからわかります。
185 :
マジレスさん:2012/12/11(火) 01:40:57.61 ID:FvaXqooV
ん?ざっと斜め読みしたら
>>180は未婚で実家暮らし。
実父はまともに実母の面倒をみない。
祖母がいて、リフォームして自分がある程度面倒見てる。
その実父に付いて来た愛人が180とコミュニケーションとりたがってる。
あとからしゃしゃってくる愛人(継母)がうざい。
ってことであれば、180はよーやってると見たが...。
できれば、180が良い嫁さん見つけてバーちゃんを最後まで面倒みてやれば、
糞親はイラねで、立派じゃないか。
186 :
マジレスさん:2012/12/11(火) 01:42:36.16 ID:FvaXqooV
>>185 X)実父はまともに実母の面倒をみない。
○)実父はまともに祖母の面倒をみない。
だな。ごめん。
187 :
マジレスさん:2013/01/12(土) 07:17:34.27 ID:/VQLrfcd
継父が嫌いスレも立ててくれないかな。継母も酷いけど継父もかなり酷いよ。男のが残酷で怖い。
188 :
マジレスさん:2013/01/12(土) 09:35:17.78 ID:abeasmae
189 :
マジレスさん:2013/01/26(土) 07:17:32.87 ID:vepmo8ev
継母にあたらないかもだけど、父の再婚相手がイヤでしょうがない。他スレに悪口書き込むはケンカになって後は必ず猿芝居で父に味方してもらってんのみると性根も顔もくすんでる汚いメスババアだなぁと思う。見下して反面教師にしますw
190 :
マジレスさん:2013/03/03(日) 14:42:36.63 ID:APfwQXin
離婚してすぐに(それぞれ)再婚した両親が嫌い
略奪婚の継母はもっと嫌い
そんな両親に中元歳暮を欠かさず送る夫の両親。
「あなたの気持ちはわかってるから。
私たちが好きでしてることだから気にしなくていいのよ」
って、人が良い。
年賀状ひとつも送ってこない毒親なのに申し訳ない。
それとね。
実父、実母、継母の葬儀に私は出ません。
「なんていう嫁だ」と思うかもしれないけど
それぐらい関係は根深いものになってるの。ごめんね
191 :
マジレスさん:2013/03/08(金) 13:29:52.05 ID:NDWeQq/y
昔立てたスレがまだあったのか、
いまだに継母は嫌い
祖母を虐待して祖母を家から追い出した。
追い出したのも、継母が祖母を罵りまくってたとき、
祖母の堪忍袋が切れて平手一発入れただけ。
それで暴力だああああって喚いて、
親戚が引き取っていった。
哀しいね、自分の母親を家から追い出す父親ま父親だけど
192 :
マジレスさん:2013/03/17(日) 07:06:14.86 ID:We1DNghL
継母に完全に負けました。勝には殺すしかないです。私と兄は死んだ母の子供です。子供の頃から、洗濯物は「お前のは汚いから洗わない」食事も作ってくれず、自分の子供だけにやっていました。
兄は辛い思いから酒に溺れ死んでしまいました。その死亡保険金で新しい家をたてて、継母は宝石買いまくりです。
父親は言いなり、高見博子と言う女は悪魔です。
193 :
マジレス:2013/04/25(木) 10:17:48.89 ID:CfasxJFI
継母です。
継子(女11歳)が苦手で… でも継子も私のこと苦手、嫌いなんだろうなと思い、
ここを覗かせていただきました。
わたしは実家や、姉、友人と頼る人はたくさんいますが、
継子は、実父しか頼る人が身近にいないて思えば、
異様なまでの実父への執着、甘えはしかたないのかな…
それを判っていても、女同士だからなのか
ベタベタて甘え、子離れ、親離れできてない
継子と主人の様子を見てるとイライラしてしまいます>_<
別にイジメたい訳ではない。ただ愛する自信もなく、
好きになれるかもわからないんです。
ごめんなさい…
194 :
マジレスさん:2013/04/25(木) 15:03:00.33 ID:21auT77r
>>193 心の中で詫びるだけの弱虫でいればいるだけ
10年20年後の193の不幸を大きくしてるだけだよ。
勇気を振り絞って、一瞬でも自分の感情を乗り越えて、好きだと思ってみて。
継子のことを好きだと思うのは、継子の為というより、193自身の幸せの為になるので。
195 :
マジレス:2013/04/25(木) 18:42:50.03 ID:CfasxJFI
>>194さん
お返事をありがとうございます。
確かに… ここで詫びても 何も変わらないですよね。
「一瞬でも自分の感情を乗り越えて…」
それをしなくちゃ、継母の資格もないよな…
今更かもしれないけど、頑張ってみます‼
ありがとうございます!
196 :
マジレスさん:2013/06/02(日) 18:10:41.15 ID:g6uFloI2
私も継母のせいで精神病みそうです。
でも絶対お金貯めて家出て幸せになります。
197 :
マジレスさん:
私(一人っ子女)が28あたりで、50過ぎの父親が再婚。
幼少期に離婚して以来、不自由なく育ててくれた父に幸せになって欲しかったので再婚には大賛成。
お相手は私の職場の取引先にいた父の若い時の同級生だったが、
私も話したことがあり、すごく楽しいおばさんだったのでこの人が相手で凄く嬉しかったのを覚えている。
(ちなみに私は独身、自立しているので家庭に直接絡むことはなかった)
(相手も同年代の子供が何人かいたが全員自立or、結婚している)
再婚当初は優しくて性格が良いおばさんだったのに
だんだん化けの皮がはがれてキチガイ行為を繰り返すようになり本当に苦痛になった。
後で知った話だが、このおばさん(継母)バツ4、前夫を車でひき殺そうとして裁判になった過去がある。
最初は父に気に入られたくて猫をかぶり、もちろん私にもいい顔をしていたのだが、
私と父が仲が良く、また一人娘で可愛がられていたところを嫉妬されたようだった。
嫌がらせみたいな電話が主体だった(夜中にヒステリックな奇声をあげ怒鳴り散らして切ってはまたかける・・・みたいな)
苦痛で私が父に相談し、父に注意された継母が更に嫌がらせをするといったループにはまってしまった。
話が通じないから落ち着いてもらって話も出来ない。
敵は常に攻撃していないとすまない。
本当に疲れた。
パチンコで浪費して私に借金を擦り付けてきたこともあった。
(借入先に私の住所電話番号などを勝手に言われた)
継母の子供(3つ下男)と話す機会があり、軽く話した時、自分は小学生で別アパートで一人暮らしさせられたと言っていた。
男と住むために平気で子供を捨てる女だった。
育児放棄し、男にのめり込み感情に任せて子供に包丁をふりまわす真性のキチだった。
私の話を聞いて「母ならやるw」と言われた。
父には目を覚まして欲しかったけど、見た感じ父の方が惚れている感じ。
私にはどうする事も出来ないのがくやしかった。
自分は人を見る目はあると思ってたのが本当に恥ずかしい。
こいつの凄いところは外ヅラが完璧なところ。
父の幸せってなんだろうな。
本当このババアには今でも殺意しかない。