渇望の仕組みと構造、共同幻想の価値の序列、粋(いき)という、緊張をはらむ美意識
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90年当時は世界史上最高の貴族型消費と言われた。この時、大衆消費社会に特
有の価値序列ができあがった。一握りの人たちの贅沢であったものが大衆化した。
生活に懸命のときは価値序列が希求の対象になることは少なかった。世俗的価値
の共同幻想の世界が大部分の人に手が届くように思えた。これらに接近すること
が人生の成功とされ、共同幻想の成功序列が心に渇望構造としてプリントされた。
世俗的価値の階段の序列の最高ランクが満たされたとき、幸せや安定した充足が
あるのか?そんなものがあるわけがない。心の底ではよく分かっている。外形の
充足は幸せの幻であるとの意識は、明確にある。それは、ホンモノのゴールでは
ないと、みんなが了解している。じゃゴールとは?ホンモノとは?ここで、心の
分裂が起こり、亀裂する。
1)外形的な豊かさへの渇望は、至れない時の挫折感と嫉妬を生む。焦燥が住み
つく。
2)外形の豊かさでは満たせない内面的な幸福への渇望は、現在の生活がニセモ
ノであるとの意識を生む。現在が仮の人生になる。
こうして、物心両面での欠落感と焦燥感を抱え、多くの現代人が生きているよう
に思える。
豊かさや幸せが将来に投影され、透視図ができ、可能性が見えれば、仕事と生活
のエネルギーが生まれ、やる気と努力が生まれる。しかし、それがつかの間の豊
かさや充足の経験の気分として残るとき、方向を持たない不健康な焦燥、欠落感、
敗北感になる。自分の可能性や将来の成功と幸福に信念をもてない状態、自分で
は方向が設定できない状態のとき、心の世界では「依存や嗜癖」が生じる。
ttp://plaza.rakuten.co.jp/boushiyak/diary/200702090000/ 大量消費社会の到来は、消費に絶えずいざなうべく、新たな差異=モノ=記号の
産出による幻惑作用 ――― ベンヤミンのファンタスマゴリー(幻灯)論、
「主体(精神)−客体(物質)」の対立において、主体を無意識的に規定にして
いるとする、記号論的パラダイム(ボードリヤール)への転換 ――― の支配
する社会の到来である。
「熱い社会」では、日常生活そのものが「蕩尽」(使い尽くすこと)化し、絶えず
新しい差異が産出されて崩壊を先延ばししているだけにすぎない。
ファンタスマゴリー(魔術幻燈):
ttp://blogs.yahoo.co.jp/tetorarukia/archive/2007/04/09 ファンタスマゴリーとは、ある物体に光を当てたときにできる影を、スクリーン
上に巨大な化けもののように映し出す幻灯装置のこと。
「商品自体は必ずしも使用価値がそれほど高くないつまらないオブジェであって
も、商品市場というスクリーンに映し出されれば、化物のように拡大されて魔力
を発揮することもあり得る」
「私たち自身の欲望が、ありふれた商品に大きな交換価値を付与しているが、私
たちはそのことになかなか気づかず、商品のファンタスマゴリー的な魔力に翻弄
されているのである」
蕩尽:財産などを使い尽くすこと