仏教にも色々な教説がある。
本来は梵我一如を否定するものだという。(私個人は、梵我一如を完全否定してるとは思えないのだが、まあ世間では梵我一如否定論が主流のようだ)。
その思想をまとめると、↓になる。
宇宙は絶対者が作ったものではなく、法に基づいて無始無終の消滅と流転を永久に続ける。
有情(生命体)は、常変化・流転する法則の上で、何の目的もなく、何の使命もなく、何の意味もなく、諸条件が結合して誕生し、動く存在である。・・縁起の法。
5大エレメント等において、その組み合わせの相違・欠如があれば、全く異なる生命体になるか、もしくは誕生し得ない。
永遠なる絶対的自我は存在せず、非実体的な存在である。
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だが、私にとってはどうでも良いことだ。
釈迦は真の自己・霊魂を否定したのではなく、その件に関する 「考察や議論」 を否定したに過ぎない。
おまけに、その否定も絶対的ではなく、戒律的な役割に過ぎないと思量される。
それは過去レスでも考察した通り、魂の実在性や永遠性を希求するマインド自体が、釈迦の提唱する道の修行において、マイナスになる可能性を考慮したものだろう。
様々な戒律が 「真理の法則そのもの」 ではなく、「修行法」 に分類されるのと同じことだ。
輪廻を肯定しようが否定しようが自由。
存在の目的意識や諸価値を否定するニヒリズムもそうだ。
私はそこに普遍的真実を見出さない。
「数多い道の一つ」 という位置づけである。
まして特定思想からのリバウンドは、釈迦の掌の孫悟空。
否定も肯定も、自分の中の恐怖心・不安・欲望・現実逃避ベースの裏返しから発生したものならば、真理の感得には繋がらない。
釈迦が霊魂云々の考察を否定したのも、生命の永遠性を希求する者の恐怖心を見抜いたからだろう。
つまり真の問題は、その恐怖心であり、霊魂そのものではないのだ。
教学 (アビダルマ) を検証するなら、その背景まで洞察せねばならない。
ヒンズー教では牛食いを否定する。
牛は神聖な動物だから・・が理由。
しかし、牛食い禁止のベースに有るのは、「真理」 「法則」 ではなく、修行における方法論なのである。
現代社会と違って、当時は衛生的処置の技術が未発達であっただろう。
牛が原因の伝染病が蔓延した可能性がある。
それを防ぐために、牛食い禁止の戒律が生まれた可能性もあるのだ。
人間は、あらゆることに 「意味」 を見出し、付加価値を作り出そうとする。
単なる病気予防・衛生的概念から出発したはずの戒律が、宗教的真理のベースに取り込まれた時、本来の意味を失ってしまう。
このような本末転倒な動きは、あらゆる面で見受けられる。
三十二面相の神格化に見られる一仏派が、多仏派と対立したことがある。
また、業論においても、真・口・意の中の「意」を重視する釈迦仏教のシンプルな業論を離れ、複雑化の一途を辿った。
だが、経典として編纂した者は、当時のインドの思想的基盤を無視できなかったはずだ。
あらゆる議論・論争や、新教学成立の背景を考察するが良い。
あの釈迦でさえ、教えを教えとして純粋に説いたのではなく、六師外道との対立・戦争を通じて、教えを確立していったのだ(※沙門果スートラ)。
釈迦との神通力決戦で死亡した論師もいた。
極めてタントリックで複雑怪奇で、呪術的信仰ベースのバラモン社会で布教するには、他の思想体系との差別化を図らなければならない。
「学問僧」 と 「修行僧」 の違いにも着目されたし。
修行方法に様々なアイデアが出て、見解の相違が生じるのは当然だが、肝腎の真理の法則そのものにも数多くの見解相違・対立が生じたのは何故か?
教学の樹立と熟成は、得てして学問僧が主導になりがち。
体験ベースの修行僧の見解は、しばしば切り捨てられたり、歪曲されてしまった。
後期仏教における、「機械的な動作、儀式的な動作は阿頼耶識に蓄積されない」 という説など典型的である。
禅定体験による正悟を軽視し、表層的思考レベルで考えるから、こんな妄説が飛び出すのである。
また、後世の求道者も、この点に無知だから、迷いが生じるのである。
老子の思想を、虚無的だと勘違いする者が多すぎる。
体験ベースに生きる者が、老子の言葉を読めば、極めてタントリックな道ということに気付くだろう。
呪術を禁止した仏教の系統から、真言密教が誕生した理由を洞察されたし。
沙門果スートラを読めば、釈迦は呪術的信仰の背景にある真理を否定したのではなく、「生活の手段」 として禁止したのである。
だが、その釈迦だって、在家信徒の布施が無ければ、修行生活を維持できなかった。
法則としての否定と、手段としての禁止を混同するのは愚かだ。
真言密教は梵我一如を肯定している。
理趣経の説く 「絶対性」 も興味深い。
「梵」 がブラフマ神ではなく、仏教的ダルマカーヤ(法界)として位置づければ、有相と無相・ 運命論と自由意志論の違いは、大した問題ではなくなる。
実践と体験をベースにする限り、鏡に映った映像と、その元になる実体との関係が重要であり、反映システムの調整こそが眼目なのだ。
まして、媒体としての 「鏡」 の有無が重要なのではない。
鏡に付着した汚れを落とし、傷を修復することで、アストラルの傷が消える。
つまり、教義や神話としての梵我一如・ 実体・ 非実体を主体にしても意味がない。
我々は、学者や評論家ではないのだ。
故に、特定の教えが、実体験に基づく真理なのか、机上の学問に過ぎないのかを見分けるのは簡単である。
老子の説く道tao(無)を起点にすれば、 色即是空の 「空の世界」 さえも無相となり、他動となる。
空の世界の相対性が指し示す 「バランス維持の役割」 を観照し、実践することが本来の目的であり、それを忘れての無相諦観に堕してはならない。
生まれた物はやがて消滅すると言うが、正確には 「回帰」 なのだ。誤解してはならない。
空において、特定の神や霊のエネルギーが増減することはあるが、全体のエネルギーは増減しない。
もし全体のエネルギーが減ったり、消滅した場合は、無(※道tao)が回収した結果に過ぎない。
我々が道を歩く時、通常は 「無」 を思索する必要はない。
自分の力ではどうにもならないのだから。
故に、「空」 を出発点にする必要がある。「今・ここ・自分」なのだ。足元を見つめよ。
無と空を混同してはならない。
まして、機根や応病与薬を弁えない教義は、相手を混乱させる罪業と言えよう。