基地外固定ニチヨウを人生相談から追放しよう

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≪2ちゃんねるにおける道徳的・倫理的非難は実効的であってはならない≫

@<2ちゃんねるにおける道徳的・倫理的逸脱行為が一般的に許容される可能性>
例えばセクハラは一般的に非難される行為である。
しかし、ある女性Aが同意の下、男性Bとラブホテルに「休憩」に入った上で、
セクハラの被害を訴えたとしたら、その訴えは無効であるのが普通であり、
仮にAの著しい無知に同情の余地があったとしても、少なくともBに対する非難可能性はない。
即ち、原則的には逸脱行為であっても、社会通念的にそれが許容される特殊な場というものの
認識は可能であるということ。2ちゃんねるはまだそれほど社会全体の認知を得たとは言えないが、
経験者やここを利用しうる環境にある者の多くに、程度の差こそあれ、
こうした認識が広がっていることは事実だろう。
つまり、ある人物Aが2ちゃんねるを「情報交換」目的で利用したところ、人物Bによって
文字による酷い攻撃を受けたと被害を訴えたところで、万一それに同情すべき事情があったとして、
人物Bに対する非難可能性はない、という通念の形成は今後の認識の広がり次第で可能である。
471:02/12/16 17:14 ID:tSx+fLwT
A<2ちゃんねるにおける道徳的・倫理的逸脱行為を非難することの弊害>
もしも2ちゃんねるにおける道徳的・倫理的非難が有効であったと仮定する。
この時、利用者の中には逸脱行為に関する被害者と加害者の構図が生まれることになる。
被害者には同情が集まり、加害者には道徳的・倫理的非難が加えられる。
しかし、こうした価値観が有効であるということは、利用者一般が他の利用者に対して
道徳的・倫理的規範を守ることを期待していいということになる。
しかし、このような期待がある限り、利用者には「攻撃されたら攻撃する人が悪い」という
責任転嫁が助長され、自分が文字上の攻撃に対する耐性をつけるという責任の意識は育たない。
翻って2ちゃんの現状を見ると、攻撃分子はありとあらゆる所にはびこっている。
毒が蔓延している現状で毒に良心を期待してもはじまらない。
むしろ、そのような期待を助長させることで、利用者の免疫力が低下し、
いらぬ被害者を生み出す結果にもなりかねない。
被害者が生まれ、大きな事件にでもなれば、2ちゃんねるという場の存続にも支障をきたす可能性がある。
そもそも2ちゃんねる不要という立場からはこれは弊害でも何でもないであろうが、少なくとも
2ちゃんねるの存在価値(これは別論する必要があるがここでは省略する)を認める立場を前提すれば、
以上の被害予防、2ちゃんねる存続の観点から、道徳的・倫理的非難の弊害を指摘できる。
472:02/12/16 17:15 ID:tSx+fLwT
B<2ちゃんねるにおける道徳的・倫理的逸脱行為を許容すべき理由>
一方、この現状を踏まえ、被害者を最小限にとどめるための方策として最も近道といえるのは、
個々の毒に対する非難ではなく、毒そのものの無効化である。
そしていかに無効化するかといえば、リアリティーそのものを転換させることである。
例えばどんなに危険な事故に遭遇したとして、それが夢やゲームであればいかなる実害もない。
どんなに残虐な行為を目の当たりにしたとして、それが小説・漫画・テレビの話なら何も問題はない。
そこで、全てが文字によって構成されている2ちゃんねるという性質を考えれば、
これらと同様のリアリティーの転換によって全ての毒を一挙に無効化することが可能である。
事実、2ちゃんねるではネタとマジの区別は決定不能であって、既に独特のリアリティーを帯びている。
ゆえに、利用者のリアリティーに関する認識の転換を徹底させることが、
Aの弊害に対する(近道かつ有効な)最善の方策なのである。
しかし2ちゃんねるにおける道徳的・倫理的非難が有効である時、上記のリアリティーの転換は行われない。
例えば物語上の人物の行為に対して、人は非難をしない。非難をするというのは、まさにそれを
リアルな行為として受け取っているからである。現実的でないと認識している行為に対して、
人が本気で非難するということがあるだろうか。したがって、この点を踏まえるならば、
Aの対策としてリアリティの転換を行う上で、また現実の制約を受けない自由なコミュニケーションを
特徴とする2ちゃんのメリットを発揮させる上でも、道徳的・倫理的逸脱行為は許容されるべきである。
473:02/12/16 17:17 ID:tSx+fLwT
<注>
*1
リアリティーの違いということを補足すれば次のようなことである。
例えば、AがBである可能性を高く見積もる(予測する)ことと、AがBであると疑うことは違う。
普通、人は推理小説の登場人物Aを犯人だと予測することはあっても、Aを「疑う」ことはしない。
つまり、その世界に外在した視点からの認識と、その世界に内在した実践との違いである。
内在的な実践上の事故のみが、当人の身体の危険を伴い、道徳的・倫理的価値観が有効となる。

*2
2ちゃんねるにおける道徳的・倫理的逸脱行為を許容すべきといっても、
ただし、当人のリアリティーの転換に関わらず実害が生じ得る個人情報晒し等は例外である。
というより、個人情報晒しは純粋に文字上で完結した行為とは言えない。
474:02/12/16 17:39 ID:tSx+fLwT
<Q&A、結論>(要約も兼ねて。とりあえずこのレスだけ読むことも可。)
Q1:2ちゃんねるといえども守るべきマナー・道徳・倫理はあるのではないか?
A1:そうした価値観は社会生活上は確かに大切である。しかし、2ちゃんねるという場においては、
そうした価値観の維持がかえって被害を生み、Aのような弊害をもたらす可能性がある。
これに対してはBの方策が最善であり、かつこれはまた2ちゃんの特性を最大限に活かすことでもある。
2ちゃんねるという場は@という可能性にかけてその存続のための通念形成を目指すべきである。

Q2:2ちゃんねるは何でもありなのだから、非難もまたありではないか?
A2:確かに、非難を禁止する道理はどこにもない。しかし、まさにこの「何でもあり」の場を
維持するためにこそ、安全装置としてのリアリティーの転換が求められることを述べた。
つまり、仮に非難的な言動がなされていても、それから一歩引いて、世界から外在して眺める「視点」、
それに同調して身体的な実践としての非難に流されないだけの「距離」をどこかで確保する必要がある。
こうした視点、距離の確保こそが、非難が現実的に有効ではない、つまり無効であることの意味である。

結論:
初心者に対しては、2ちゃんねらーの反倫理的攻撃の被害に同情し加害者を非難するよりも、
「そもそもここでの出来事は全てフィクションのようなものと思うこと」という啓蒙に励むべし。
(単純にフィクションでないところが2ちゃんの面白さの一つだが、完全なリアルという認識
を「外す」ことで、安全装置の確保が必要なのである。これがリアリティの転換。)
この認識が徹底された時、もはやここでは「被害」も「加害」も「非難」という概念も消滅する。