江戸三大そば「砂場」の発祥地を発見!江戸の三大そばといえば
「更科」「藪」「砂場」。その「砂場」発祥地がなぜか大阪に!?
大阪の中心地といえばキタ(梅田)でもなくミナミ(道頓堀)でもなく船場。
その船場界隈から南西に向かうと新町にたどり着くが、ある日、新町界隈を
歩いていると何の変哲もない公園の片隅に、奇妙な石碑を見つけた。
読むと「ここに砂場ありき」。
新町南公園にある「ここに砂場ありき」。初めて見る人には全く意味がわかりませんが、この石碑には知られざるドラマが……
http://img.allabout.co.jp/gm/article/15161/topimg.jpg 「砂場」というのは江戸三大そばの1つの「砂場」のことで、この大阪・新町が
その発祥地なのだという。詳しく石碑を読むと、まず1583年(天正11年)9月に
太閤・豊臣秀吉が大阪城築城を開始。その際に日本全国各地から集められた良質の
砂をここに置いたので、この辺りが砂場と名づけられたらしい。
大阪城築城は、当時の日本では東京五輪や大阪万博に匹敵するぐらいの超大型の
公共事業で、土木工事関係者がそれこそ砂糖に群がる蟻のようにたくさん集まって
きた。人が集まればそこで商いをする人間も出てくる。特に土木工事のおやっさんが
好きなグルメといえば「早い!」「安い!」「うまい!」が三拍子そろった麺類。
そこで登場したのが我が国初のうどんとそば屋の「いずみ屋」や「津の国屋」だった。
この「大坂新町・砂場のそば」というのが流れ流れて江戸に渡ったことが、江戸三大
そば「砂場」の起源につながるのだとか。なるほど。それで「ここに砂場ありき」
なのか……と至極、納得させられた。
ちなみに大坂・新町というのは、江戸時代には江戸の吉原、京都の島原と並ぶ
「日本三大遊郭」の1つとして有名で、これも大阪城築城と関係している。
日本全国各地から土木工事に従事する若者が集められ、彼らは築城の仕事で
お金は手に入るが遊ぶところがない。若い男の迸るパトスを発散する場所が
どうしても必要になってくるので、それで作られたのが「日本最大の花街・新町」
だった。
昼は仕事で城を作って、夜は「傾城」(遊女のこと)と一緒に遊ぶ。いまの
大阪・新町はただの無味乾燥なオフィス街だが、400年前のそういう光景を想像
するとなかなか面白い。
http://allabout.co.jp/gm/gc/15161/ さらに最近の調査によると「更科」の初代店主が大阪人だったという事が明らかに!!
[関西系列ニュース情報番組ANCHORにて 2013/5/9放送分 ]