俺はその日、上野駅の立ち食い蕎麦屋でかけ蕎麦を啜り込んでいた。
「御免よ」
声と共に暖簾をくぐって来たのは、俺より頭一つ背の高い中年
――いや、壮年というべきか――の男だった。
短く刈った頭髪、高い頬骨とがっしりした顎、モスグリーンのジャケット。
男は鋭く店内を一瞥すると、ニキビ面の若い店員に「コロッケ蕎麦をひとつ」注文した。
低いが、よく響く声。あくまで静かで丁寧な物腰ながら、俺はどこか気圧されるものを感じて男を見た。
ニキビ面の店員も同様に感じたらしく、目をしばたかせて口の中で何かもごもご云いながら、
それでも手際良く麺を茹で上げ、汁を注ぎ、コロッケを載せて男に差し出した。
男は小気味のいい音を立てて割り箸を割るとおもむろに蕎麦をすすろうとして、
ふと顔を上げ、店員に声をかけた。
「兄さん、悪いがコロッケをもうひとつ追加だ。…あぁ、俺じゃない。そっちのお兄ちゃんにな」
そう云うと男は俺を顎で示し、にやりと笑ってみせる。
「あの…」
「なんだ、コロッケは嫌いか?」
「いえ。ですが、その」
何故、見ず知らずの人間にコロッケを奢られなければならないのか。
訝しがる俺に、男は人差し指を一本立てて左右に小さく振った。
「いいかい、兄ちゃん。揚げたてじゃないと食えないコロッケは二流。冷めても美味いコロッケは一流。
そして、冷めたのを蕎麦に載せて、少し温まったのが美味いのは超一流だ。――ここのは、美味いぜ」
ニキビ面の店員が無言で俺の丼にコロッケを落とす。
「若い頃ってなぁ金が無いもんだよな。俺もそうだった。蕎麦屋に入っても"かけ"しか食えなくってな。
だがなぁ、兄ちゃん。コロッケ蕎麦だ。コロッケ蕎麦を、いつでも食えるぐらいになりな。
それが金持ちすぎでも無ぇ、貧乏人すぎでも無ぇ、丁度いいところってもんだ」
男はそう云うと凄い勢いで蕎麦を啜り、汁を一滴残らずきっちりと飲み干すと、
空になった丼をカウンターに置いてそのまま店を出ていった。
惚れ惚れするような食いっぷりだった。
俺は男の置いていった丼を見ながら、ゆっくりと男の言葉と、自分の蕎麦に載ったコロッケを噛み締めた。
たっぷり二分ほども経った頃、ニキビ面の店員が呟いた。
「やられた……。食い逃げだ」