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国連な成しさん:05/08/14 21:16 ID:pzGTYMFw
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靖国神社を肯定する遺族は、実は全体の半分以下。キリスト教遺族会、平和遺族会などは
靖国神社への強制祭祀に反対しているが、靖国はファシズム時代そのままに、
遺族の声を拒否し続けている。
▼小泉首相は靖国神社参拝の中止を! アジアの平和と和解・共生をめざそう!
8・15集会と平和行進
◎基調報告 西川重則(平和遺族会全国連絡会代表・戦没者遺族)
「今こそ靖国神社問題の根本的解決を」
◎記念講演 進藤榮一(しんどう・えいいち)さん
(筑波大学名誉教授)
演題「戦後60年と日本外交のゆくえ――東アジア共同体を構想する」
◎日時=8月15日(月)午前9時15分開場、9時45分開会〜正午まで
集い終了後、靖国神社周辺を戦没者遺族を先頭に平和行進
◎場所=千代田区一ツ橋の日本教育会館8階第1会議室(03・3230・2831)
(地下鉄神保町駅・竹橋駅・九段下駅下車5分〜7分)
◎参加費=500円
◎主催=平和遺族会全国連絡会
英タイムズ紙、「つくる会」教科書採択を批判
▼Wounds still to be healed
For Asians, Japan has yet to take the steps requiredfor reconciliation
「今なお癒やされねばならない、傷ついた人々
〜アジアの人々のために、日本はまだ
和解のための措置を続ける必要がある〜」
@『タイムズ』(英)
http://www.timesonline.co.uk/article/0,,542-1732864,00.html >戦時捕虜に対する補償の問題がなおくすぶるとはいえ、西洋諸国は
いまや、国際社会の一員としての強い責任感を持つ平和的民主主義国家
として日本を受け入れている。しかしアジアにおいては、日本はまだ
そのように受容されてはおらず、信頼もされていない。
この状況のすべてが日本の失敗のせいではない。日本によるアジアへの
寛大な戦後の経済援助は、民間投資とともに、この地域の経済成長を
支援してきた。・・・「大躍進」政策に対する中国の沈黙を見ても、
気まずい過去の歴史を直視するのが困難な国は、アジアで日本だけでは
ないことはわかる。
しかし、日本はなお理解すべきであろう。「遺憾の意」の表明を繰り返して
いるにもかかわらず、適切な償いを求める声にまだ応えてはいないという
ことを。過去を反省しないことで論議を呼んでいる学校教科書を、
日本政府は教科書検定制度で通過させた。激しい怒りが引き起こされたが、
これらは日本の教育政策がもたらした「不和」であるとの強い主張がある。
実際には学校に選択権があるし、この教科書は日本の学校のわずか
1%が使用しているにすぎないのも事実である。しかし、このような選択肢は
許されるべきではない。ドイツはナチス時代の過去について、言い抜けする
ことを許してはこなかった。日本もまた、その国益の観点から、少なくとも
ドイツと同様に、毅然とした態度をとるべきである。
8・15記念講演会 遺跡耳塚をたずねる
戦後60年 日韓歴史の回顧と展望
05年8月15日(月)午後2時半〜4時 在日大韓基督教京都南部教会
講演後、豊国神社前の耳塚をたずね平和記念のつどい
私たちは日本人としても、日本の教会の一員としても、日本が第二
次世界大戦において、アジア諸国及び他国の人々、ならびに我国の
同胞に対して、多くの悲惨と恥辱の苦しみを与えた事実を想起し、再
び罪に陥ることのないため終戦60年、日韓国交正常化40年の8月15日
終戦記念日の機会を捕らえ、平和の君主イエス・キリストによる和
解を求めて祈り、心新たに神の愛の責任を果たしたく決意をするも
のです。誘い合ってお集まりください。
お話 李元植先生
1924年生まれ。文学博士。
元 韓国成均館大・台湾国立政治大・近畿大教授、京都大学講師、
現 韓国翰林大客員教授
会場 在日大韓基督教京都南部教会
京都市南区東九条北松ノ木町38
電話 075−671−4922
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.46.11.7N34.58.30.8&ZM=11 会費 席上自由献金にご協力ください
共催 在日大韓基督教京都南部教会
関西超教派キリスト者戦争責任告白者会 代表 小島十二
■8・15 2005 平和を語る八月名古屋集会
(略称=8・15名古屋集会 )
──────────────────────────
八月名古屋集会実行委
・日時 2005年8月15日(月)午後1時30分から
・会場 愛知県勤労会館小ホール(地下鉄鶴舞下車)
・内容 日本国憲法第9条 劇的輪読 = 名古屋高野会
講演とスライド=高遠菜穂子さん
「命に国境はない〜イラクで見たこと考えた こと」
演劇公開稽古=平和を願う演劇の会 「育子さんの夢」テーマは教育
高遠さんへの質問と意見交換
司会=もとNHKアナ沖野浩一さん
みんなで歌おう、平和への思いを
歌 若尾眞理子さん ギター 本 秀樹さ ん
・資料代 ひとくち1000円 (学生700円)
<主 催> JCJ東海、愛知県平和委員会、愛知憲法会議、新聞労連東海地連 、 民放労連東海地連、全印総連愛知地連、愛高教、名高教、平和を願う演劇の会
ロンギ元NZ首相が死去 核めぐり米艦寄港拒否
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050814-00000029-kyodo-int 【シドニー14日共同】ニュージーランドの非核政策を導入したデービッド・
ロンギ元首相が13日、腎不全による合併症のため北部のオークランドの
病院で死去した。63歳だった。
1983年に労働党の党首となり、84年に首相就任。85年、米海軍の
艦船が核兵器搭載の有無の通報を拒否したことを受け、同艦船の寄港を
拒否する厳しい非核政策を掲げた。
原子力船や、核兵器を搭載可能な外国艦船などの寄港を禁じる反核法案を
議会に提出し、87年に可決。非核政策は現在も堅持されている。国営企業の
民営化にも着手したが、同政策に対する反発などで89年に辞任した。
(共同通信) - 8月14日10時57分更新
ロンギ元NZ首相死去=反核政策で米と対立
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050814-00000019-jij-int 【シドニー14日時事】ニュージーランドの元首相、デービッド・ロンギ氏が13日、
腎不全に伴う合併症のため、オークランド市内の病院で死去した。63歳だった。
1942年、オークランド近郊の医師の家に生まれ、弁護士などを経て84年から
5年間、労働党政権の首相を務めた。在任中、原子力船や核兵器搭載艦の
寄港を禁じる「非核法」を制定。この反核政策をめぐり対米関係が悪化。
米国はニュージーランドとの豪州・ニュージーランド・米国相互安全保障条約
(ANZUS条約)を凍結した。
85年にはオークランド港で国際環境保護団体グリーンピースの船「虹の戦士」号
がフランスの工作員によって爆破された際、「下劣な国家支援テロ行為」と非難し、
フランスとも対立した。
(時事通信) - 8月14日11時1分更新
<大阪大空襲>モニュメント完成 大阪国際平和センター
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050814-00000035-mai-soci 大阪大空襲の犠牲者を悼むモニュメント「大阪空襲死没者を追悼し平和を
祈念する場」が14日、大阪国際平和センター(ピースおおさか、大阪市中央区)
に完成した。同センターが寄付を募って建て、これまで判明した8816人の
死没者名が銅板に刻銘されている。家族の名をなでながら胸を詰まらせる
遺族の中に、父と兄を失った梅原雅子さん(73)=大阪府茨木市=の姿があった。
1945年3月13日の大空襲の日。梅原さんは学童疎開先から大阪市西区
の家に戻ったばかり。翌日に国民学校の卒業式を控えていた。母が卒業式
のために手作りしたセーラー服と革靴を枕元に置いて眠った。
午後10時ごろ、警戒警報は空襲警報に変わった。274機のB29の大編隊が
上空から焼夷(しょうい)弾を集中投下する初めての大爆撃だった。「先に逃げろ」
と叫んだ父の中村馨さんは、偶然帰宅していた船乗りの兄泰三さんと残り、
くすぶり始めた家を守ろうと水をまき続けた。
梅原さんと弟浩三さん(67)は母むめのさんに手を引かれ、焼夷弾の中を
必死に走った。防空頭巾(ずきん)にも火が着き、焦げた死体につまずいたが、
恐れる余裕すらなかった。「無言の母の手はものすごい強い力だった」。爆撃後に
自宅付近に戻ると、一面焼け野原で父と兄の姿はなかった。母は「金歯が目印
になる」と父を探したが、父と兄をしのぶ物は何も見つけられなかった。この日
約4000人が犠牲となり、市中心部の全域が燃えた。
消された命を「名簿」に残そうと、大阪戦災傷害者・遺族の会の伊賀孝子会長
(73)らが、聞き取りなど20年以上かけた調査が今回のモニュメントにつなが
った。子どもたちが戦災と平和への祈りを“体感”できるよう8回の大空襲と同じ
八つの鐘に囲まれている。
「中村馨」「中村泰三」。2人並んで刻まれた銅板にそっと手を触れた。「ありが
たい。誰も語れる人がいなくなって、忘れられてしまうところでした」。かばんの
中には、親せき宅に残されていた古ぼけた家族写真をしのばせていた。
【田中謙吉】
(毎日新聞) - 8月14日20時43分更新
●「抗日」展覧会を視察=「平和発展の道」強調−中国主席
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050814-00000080-jij-int 【北京14日時事】中国の胡錦濤国家主席は14日、抗日戦争勝利60周年を
記念し、北京市郊外の中国人民抗日戦争記念館で開催中の大型展覧会
「偉大なる勝利」を視察した。中国中央テレビによると、胡主席は「歴史を
心に刻み、過去を忘れず、平和を愛し、未来を開く」と強調し、「中国が
平和発展の道を歩むことに変わりはない」と述べた。
同展覧会は、日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件(1937年)記念日
の7月7日に開幕し、温家宝首相らほかの指導者は同日に参観。胡主席は
同日、外遊中だったため、日本が降伏した記念日に当たる8月15日を前に
視察した。
(時事通信) - 8月14日23時1分更新
●南北、対日批判の共同声明 歴史認識の是正促す
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000019-kyodo-int 【ソウル15日共同】日本の植民地支配からの解放60年を記念する韓国と
北朝鮮の共同行事に参加している南北の民間代表団は15日、植民地支配の
象徴的施設の1つとされるソウルの西大門刑務所跡地を訪れ、日本の歴史認識
の是正を促す共同声明を発表する。
今年に入り竹島(韓国名・独島)の領有権や歴史教科書問題などに関して
南北はそれぞれ対日批判を繰り返している。
共同声明は南北が一致して、植民地支配の責任をあらためて追及。小泉
純一郎首相の靖国神社参拝や日本の「軍事大国化」への動きを強くけん制する
狙いとみられる。
西大門刑務所は植民地時代に朝鮮半島の独立運動家を弾圧した場所として、
韓国では歴史教育の場となり、当時の獄舎がそのまま保存・展示されている。
(共同通信) - 8月15日7時58分更新
福岡の劇団ソウルで公演 長崎原爆を題材平和訴え
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000015-nnp-kyu 【ソウル14日原田正隆】長崎被爆六十年と朝鮮半島光復(植民地解放)
六十周年に合わせ、長崎で被爆した韓国人をテーマに韓国公演を行っている
劇団「道化」(福岡県太宰府市)のソウル公演が十四日、開幕した。東徳女子大
公演芸術センターホールには韓国の若者を中心に約三百五十人が詰めかけ、
七人の俳優が訴えかける「なぜ長崎で韓国人が被爆したのか」に考えを巡らせた。
同劇団は今月一日の長崎公演を皮切りに、十一日からは韓国西南部・居昌
(コチヤン)で公演し、ソウルから釜山へと韓国三都市で計七ステージを上演
する予定。
作品は韓国初上演の「ナガサキ’ん グラフィティ」。一九七一年の長崎市爆心地
周辺の中学校運動場を舞台に、サッカー少年らが、長崎で被爆した叔父がいる
韓国人少年と触れ合う中で、「在韓被爆者」「被爆二世」「創氏改名」の存在と
不条理を知る物語。実際に爆心地に近い中学校を卒業した篠崎省吾・同劇団
代表(46)らが、多くの被爆者が住み「韓国の広島」と言われる東南部・陝川
(ハプチヨン)などを取材して生んだ、長崎弁と韓国語が入り交じる作品だ。
七〇年代初めの日本の中学生が使っていた差別的な言葉や、朝鮮半島の
人々をさげすむ意識もありのまま描いており、公演ではそうした場面で観客席の
空気がピンと張りつめた。篠崎代表は「日本の戦後世代が、韓国人に韓国人
被爆被害を伝えるのは難しい仕事。光復六十周年を十五日に控え、街じゅうに
太極旗(韓国国旗)があふれる中での緊張した公演だったが、笑える場面では
笑ってくれたり、拍手もあったりして受け入れられたと思う」と語った。
観劇したフリーター金素(キムソ)瑛(ヨン)さん(25)は「韓国では被爆者に
対する認識が不足している面があるので、公演は貴重な試み」と話した。
ソウル公演は十五日まで。十七、十八日は釜山公演。
(西日本新聞) - 8月15日2時15分更新
映画で「戦争」考える 平和のつどい改憲反対も訴え 大分市
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000008-nnp-l44 【大分】 終戦記念日を前に、県平和委員会(阿部充満会長)は十四日、
大分市府内町のコンパルホールで「終戦・被爆六十年平和のつどい」を開催。
日中戦争などを題材にした映画を上映して、平和の尊さを訴えた。
「つどい」は終戦記念日に合わせ、一般市民でつくる同委が毎年開いている。
今年は国会で進む改憲論議を意識して護憲派グループが監修した映画
「新しい憲法の話」を上映。日中戦争をテーマにした「侵略(パート1)語られ
なかった戦争」も取り上げられ、約四十人の参加者は真剣な表情でスクリーン
に見入っていた。
上映後は参加者が「一人ひとりの力は弱いが、結集して平和を訴えなけ
れば」「戦争は過去の話ではない」など意見発表し、憲法改正反対などを
訴えたアピール文を採択した。
(西日本新聞) - 8月15日2時15分更新
平和の大切さかみしめ 戦中の「だごじる」40人食べる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000005-nnp-l41 【佐賀】 終戦記念日を前にした十四日、戦時中の庶民の食事だった
「だごじる」を食べるイベントが佐賀市天神三丁目のアバンセであり、
お年寄りら約四十人が参加した。
新日本婦人の会佐賀県本部など六団体が一九八二年から開催。毎年
参加している同市丁畷町の関家さよ子さん(71)は「平和の大切さを若い
世代に伝えていきたい」と話した。
会場では、広島・長崎の原爆被害を伝えるパネルの展示のほか、戦時中に
上野動物園のゾウが殺されたテレビ番組のビデオを上映。同会が作った
だごじるを全員で食べた後、参加者が戦時中の体験などについて語り合った。
(西日本新聞) - 8月15日2時15分更新
<大阪>終戦記念日に「赤紙」配って反戦訴える
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000001-abc-l27 終戦から60年を迎えたきょう、大阪・なんばで、市民グループが復刻した
赤紙を配って戦争反対を訴えました。
この活動は、大阪の市民グループが、太平洋戦争終戦の日を忘れず、
平和の大切さを訴えようと始めたもので、今年で33回目となります。
グループのメンバーは、軍隊への召集令状だった赤紙を復刻したチラシを
街行く人に配って、戦争の不条理さや平和憲法の大切さを訴えました。
赤紙を受け取った人は「伝えていくことの大切さがわかった」と話していま
した。市民グループは、イラクへ派遣されている自衛隊の即時撤退なども
訴え、世界の平和を願っていました。
(朝日放送) - 8月15日14時35分更新
反戦一人芝居300回超 福岡市の玄海椿さん 被爆者らの体験伝え
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000001-nnp-l40 【福岡】 戦争経験者や被爆者から聞いた体験談を基に、反戦の一人芝居を
続ける福岡市東区多々良の玄海椿さん(46)。大ホールから公園、学校、民家
まで、求められればどんな場所でも演じ続け、公演回数は三百回を超えた。
「私たちが死んだ後も伝えてほしい」。被爆者らの願いを胸に、戦後六十年の
今年も舞台から平和を訴える。
玄海さんは大分県中津市出身。短大卒業後に福岡市の劇団テアトルハカタ
に入団し、一九九九年から独立して一人芝居を始めた。
独立して最初に演じたのは、出征した夫の帰りを終戦後も待ち続ける助産師を
演じた喜劇「嘆きのサンバ」。上演後に楽屋を訪れた観客が泣いて自分の戦争
体験を語りだしたのを見て、「戦争の悲惨さを演技で語り継いでいこう」と使命感
を抱いた。
一人芝居のレパートリーは八作品。うち四作品は戦争がテーマだ。三十日に
福岡市で公演する「父と暮(くら)せば」は、広島の原爆投下後に生き残った
後ろめたさに悩む娘の前に父親の霊が現れて励ますストーリー。初めて演じた
ときは、広島の被爆者に方言指導を依頼し、かたくなに断られた。
「(被爆体験を)語り継いでいってくれるのなら」。ようやく引き受けてもらったとき
は、引き換えに反戦芝居を続けることを約束した。戦争体験がない玄海さんは、
図書館で戦争について勉強し、多くの戦争経験者から話を聞いたという。
演じた後には観客にアンケートをとり座談会を開く。時に厳しい意見もあるが、
「自分が泣いたことに感動した」という学生の声はうれしかったという。
米国や英国でのテロなど、最近の情勢には不安を感じるが、「戦争やテロは
人間が起こすことだから絶対解決できる」と考えている。「自分ができることは
演技をして観客に訴えること」。一人芝居で平和を訴えていく覚悟だ。
三十日の公演は午後六時半から、福岡市中央区荒戸のふくふくホールで。
入場料千円。問い合わせは芝居屋企画=092(672)6380。
(西日本新聞) - 8月15日2時16分更新
平和の思いを鐘の音に 十五日集いサビエル記念聖堂で 山口市
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000011-nnp-l35 【山口】 世界五大陸に一つずつしかない平和の鐘の音に平和を誓う集い
「平和の鐘を鳴らそう!」が、十五日午前十一時から、山口市亀山町の
山口サビエル記念聖堂で開かれる。終戦から六十年。参加者が鐘を鳴らし
ながら、それぞれの平和への思いを宣言する。
この鐘は、同聖堂の「大聖年平和の鐘」(直径八十センチ、重さ三百八十
キロ)。二〇〇〇年のキリスト生誕二千年を記念し、当時のローマ法王、
ヨハネ・パウロ二世の呼びかけで鋳造され、五大陸に一つずつ贈られた。
法王が一九八一年に広島から平和メッセージを世界に発信したことから、
広島教区に属しフランシスコ・サビエルにゆかりの深い同聖堂が設置場所に
選ばれた。
「平和の鐘を鳴らそう!」は、県青年ユネスコ連絡協議会(岡田元子会長)が、
同聖堂などの協力で二〇〇〇年の終戦の日に始めた。この年、戦争のない
二十一世紀にするために一人一人ができることを行おうと、国連が「平和の
文化国際年」を定めたのがきっかけだ。
集いでは、ノーベル平和賞受賞者らが「平和の文化国際年」のために起草
した「わたしの平和宣言」の唱和などに続き、参加者が鐘を鳴らして思い思い
の“平和宣言”を行う。だれでも無料で参加できる。
同協議会の有田知永事務局長は「鐘の音に平和への願いを込め、世界に
届けたい。身近にできることから始めませんか」と呼びかけている。
有田さん=090(4695)0118。
(西日本新聞) - 8月15日2時16分更新
基地の本土移転主張 小林よしのり氏
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000004-ryu-oki 【宜野湾】漫画「新ゴーマニズム宣言・沖縄論」の著者・小林よしのりさんの
講演会(小林よしのりを沖縄に呼ぶ会主催)が14日、宜野湾市のコンベン
ションセンター劇場で開かれた。若者を中心に約1300人(主催者発表)が
訪れた。小林さんは基地問題について「属国の状態に慣れてほしくない。
沖縄の中で基地をたらい回しにしても決着はつかない。米軍は思いやり予算
があるからいる。移転するなら、本土が引き受けなければいけない」と訴えた。
小林さんは米軍ヘリ沖国大墜落事故に触れ「日本の主権侵害だと訴えたが、
本土の人間に伝えるのは難しい」と本土と沖縄の温度差を指摘した。ただ、
沖縄側に対し「非武装中立(の論調)はまずい。思考停止せず、平和をつくる
ためにどんな戦術があるかを徹底的に考えなければならない」と強調した。
また、日本の地域文化が近代化によって失われつつあることに警鐘を鳴らし
「沖縄には本土で失われた文化がある。コンプレックスを持つ発想はやめ、
誇りを持って守り続けてほしい」と求めた。
(琉球新報) - 8月15日10時24分更新
糸洲壕のごみ撤去 ボランティア清掃呼び掛け
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000007-ryu-oki ボランティアらにより次々に廃棄物が収集された糸洲壕=13日、糸満市伊敷の糸洲壕
沖縄戦で避難壕だった糸満市伊敷の糸洲壕(ウッカーガマ)入り口のごみや
廃棄物の撤去作業が13日行われた。同壕の入り口には古いタイヤやプラス
チックのパイプなどが捨てられており、平和ガイドや同壕に補助看護婦として
動員された積徳高等女学校(積徳高女)のふじ同窓会(新垣道子会長)などが
問題視していた。
撤去は県観光ボランティア友の会(安里芳子会長)が呼び掛け、同会会員
約10人と積徳高女ふじ同窓会役員らが参加した。糸満市役所がごみ収集車
2台を提供し、市生活環境課職員5人も参加した。
壕から2トントラック2台分のプラスチックや鉄製のパイプ、トタン、タイヤなどが
次々と運び出され、ビニールやガラス瓶などの生活ごみも集められた。
元積徳学徒隊の名城文子さん(78)=宜野湾市=と田崎芳子さん(78)=
那覇市=は「(糸洲壕は)命を助けてもらった忘れられない場所」と話し、
「終戦直後は学徒隊や遺族で清掃したが、最近は年を取って大掛かりな掃除
はできなかった。いつも気になっていたので、きれいになって涙がでるほど
うれしい」と感謝した。
自身も戦争体験者で、友の会の吉嶺全一さん(73)=那覇市=は「(清掃
ができて)良かった。去年から平和学習で糸洲壕を使っていて何とかならない
かと思っていた」とほっとした表情を見せた。
(琉球新報) - 8月15日10時32分更新
映像から真実学ぶ、村民ら熱く見入る 伊江島平和映画祭
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000013-ryu-oki 多くの人が訪れ、思い思いにスクリーン(写真上)を見詰めていた平和映画祭
=伊江村の「はにくすにホール」
【伊江】豊かな平和とは何なのかを映像を通して問い掛けようと、伊江島
平和映画祭(同実行委員会主催)が7月31日、伊江村のはにくすにホールで
開かれ、一挙に6作品が上映された。村民ら約100人が訪れ、思い思いに
スクリーンを見詰めていた。
映画祭は同日午前10時開幕し、戦後伊江島で起きた故阿波根昌鴻さんを
中心とした土地闘争を描いた「教えられなかった戦争〜沖縄編」(高岩仁監督)
を皮切りに、フィリピンの山岳地帯に住む人々の生活から真の平和を訴え
掛ける「アボン・小さい家」(今泉光司監督)、1人旅のさなかで目の当たり
にしたチベットの生活を撮影したドキュメンタリー「チベットチベット」(金森
太郎監督)などが放映された。
2003年に当時の伊江小6年生が演じた劇「ガジュマルは生きている」
「花は土に咲く」のビデオ映像も上映された。
会場ロビーには同村の写真家、金城盛和さんが撮影した伊江島遺骨収集
の写真も展示された。
映画祭出席のため今泉、金森両監督も伊江島を訪れた。伊江島は初めて
という金森監督は「実際、その場所(チベット)に行ってショックを受けた。
直接目にすることで認識することは多い。伊江島についても映画祭を通して
知ることができて良かった。知らないことには何も始まらないから」と知る
ことの大切さを強調した。
「教えられなかった戦争―」を見た同村の名嘉トネさん(79)は「素晴らしい。
みんなこの話自体は分かっているかもしれないが、知らない部分も多いと
思う。だから多くの人に見てもらいたい」と当時のことを振り返りながら語った。
(琉球新報) - 8月15日10時51分更新
戦場の惨状を後世に 松本で「愛と平和のつどい」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000001-cnc-l20 【長野県】戦争体験者の生涯やその周囲の人々の思いから戦後60年を
振り返る「愛と平和のつどい」(中日新聞社など後援)が14日、松本市
美術館であり、100人近い市民が人命と平和の尊さに触れた。市民
グループ「平和を愛する会in松本」(平田和文代表)が戦争の悲惨さと
むなしさを後世に伝えようと企画した。
今年2月に87歳で亡くなった松本市の医師相野田啓(あいのた・はじめ)
さんに焦点を当て、軍医として従軍した第2次世界大戦後に捕虜として
フィリピンの収容所で過ごした6年間や、帰還後も消えなかった自責の念を、
妻重子さんや長男慶司さんが語った。
重子さんは「赤紙(旧日本軍の召集令状)一つで大切な命が捨てられる
ことがないよう、一人ひとりが子どもを守り、命の尊さを教えるチャンスに
してほしい」と強調。相野田さんから伝え聞いた戦場の惨状を話し出すと、
戦争を知らない高校生もうつむくように聞き入った。(赤川 肇)
(中日新聞) - 8月15日12時58分更新
平和願い折り鶴 川に渡す 日吉ダムで丹波の学生たち
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000033-kyt-l26 「平和」を願って川に渡された折り鶴(日吉町中・日吉ダム)
口丹波の大学生や専門学校生らが平和への願いを込めた折り鶴を川に渡し、
戦後60年目に思いを寄せる初の取り組みが終戦記念日の15日、日吉ダム
(日吉町)であり、約2000羽の折り鶴が夏空に舞った。
「平和を願う人ぞれぞれの気持ちを折り鶴に託し、一つにつなげよう」と、
京都学園大(亀岡市)の学生自治会が企画。京都伝統工芸専門学校(園部町)や、
明治鍼灸大(日吉町)にも参加を呼び掛け、各自治会のメンバーらで実行委員会を
組織した。
折り鶴はビラなどの古紙を使用し、3校に回収箱を置いて学生らに折り鶴の
制作協力を募った。集まった折り鶴は、縦に50個ずつ重ねた束を1本のロープに
二十束ほど垂らし、同ダムの円形展望橋(直径約70メートル)に渡した。
また、この日は、一般の来場者にも折り鶴の制作を呼び掛け、家族連れら
約70人がゆっくりと丁寧に鶴を折った。
発起人の田端昇吾さん(20)=京都学園大3年=は、「平穏な日常が当たり前に
なっている今、みんなで『平和』について考えたかった。学生同士の交流も生まれ、
このムーブメントが平和の架け橋になれるように期待したい」と話している。
(京都新聞) - 8月15日21時29分更新
8・15絵本のつどい:戦争体験談に20人が耳傾け−−札幌 /北海道
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000013-mailo-hok 絵本の朗読や講演を通して平和の大切さを語り継ぐ「8・15絵本のつどい」が
14日、札幌市内で開かれ、小学生を含む市民約20人が戦争体験者の話に
耳を傾けた。
このつどいは、市民グループ「ハンマダン」(金時江代表)が、00年8月14日
から毎年開いており、今年で6回目。はじめに金代表が、絵本「いえなかった
ありがとう」(文・徳永和子/絵・吉田郁子)を朗読。作者が少女時代に体験した
出来事をベースにした物語で、日本で行われていた朝鮮人への不当な差別が
描かれている。
続いて、原爆症認定集団訴訟原告団の一人で、札幌市在住の柳谷貞一さん
(79)が、広島で被爆した時の様子を証言し、「市街地を流れる川の中に死人
の山ができて、目を疑うほどひどい状況だった」と、戦争の悲惨さと平和の尊さ
を訴えた。【鈴木勝一】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時1分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 石田国夫さん /北海道
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000014-mailo-hok <45年8月15日・終戦>
◇家族一緒の生活こそ−−札幌郷土を掘る会世話人、共同代表・
石田国夫さん(73)
終戦時、私は13歳で網走管内美幌町にあった国民学校高等科2年生
でした。玉音放送をどこで聞いたのか、自分が泣いたかどうかも思い出せ
ません。親元を離れて暮らしていたことが寂しくてたまらなかったのと、
食糧がなかったことがつらくて終戦の実感がわかなかったのかもしれません。
ただ、終戦直後に体育の先生が「新日本建設の第一歩を踏み出すんだ」と
グラウンドに集まった生徒を励ましたことは覚えています。「戦争に負けたの
にいいこと言うなあ」と思いました。
美幌の学校に来たのは「立派な軍人にさせるために大きい学校にやりたい」
と親が希望したからです。ボロ家を借りての自炊生活で、食べ物はジャガイモ
や麦など、昼の弁当はトウモロコシが1、2本。焼いたでんぷんカスや馬の餌も
食べました。
学校は2年間通ったけれど、勉強した記憶があまりない。「援農」といって
農家を手伝う労働がほとんどでした。毎朝手にかまを持って出かけ、疲れて
フラフラになったところに農家の人がイモやカボチャを煮て持ってきてくれた
のが楽しみでした。
終戦の年の暮れ、女満別の実家に18歳年上の兄の戦死公報が届きました。
「ラバウルで戦死」とありました。母は仏壇の前で手を合わせて泣いていました。
戦後は教師として働き、70年代から戦争体験者からの聞き書きや郷土史の
発掘に取り組んでいます。家族が一緒に暮らせることが平和の第一歩だと
思います。家族をバラバラにし、子供を飢えさせる愚かな戦争を二度と繰り
返してはいけないという気持ちを一層強くしています。【報道部・鈴木勝一】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時1分更新
あの夏を忘れない:戦後60年の記憶/4止 新聞記者 /秋田
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000080-mailo-l05 ◇「戦争は狂気の日常化」−−むのたけじさん(90)=横手市
玄関先で遺骨が入った箱を受け取った母親は涙を見せずに一礼したが、
その唇は震えていた。真珠湾攻撃の成果に国内が沸いた太平洋戦争の
開戦後間もないころ、戦死した兵士の故郷・秋田への「名誉の帰還」。
その場面を報じた翌日の新聞の見出しには「靖国の母、毅然(きぜん)と」
の見出しが踊り、母親の悲痛な思いを伝えるくだりはなかった。新聞記者
として取材していたむのたけじさんはその後、家の中で一人泣き崩れる
母親を目の当たりにしていた。「あの悲しみこそが戦争の真実。でも
『お国のため』の枠にはめないと記事にはならなかった」と振り返る。
戦後、新聞をはじめとする報道機関は日本軍の軍国主義に追随したとして
非難を受けた。むのさんは終戦前日の1945年8月14日、「戦争に加担した
新聞社の責任は免れない」と退社。「東京が大空襲に遭っても、大本営発表の
『被害は軽微なり』で焼け跡の写真は載せられなかったわけだから。そのけじめ
を付けなければならなかった」
戦時を取材した経験から「戦争は狂気の日常化」と言ってはばからない。
開戦すれば、社会が進んで戦時体制のアクセルを踏む。止めようもない
民衆の力が作用し、人間らしい真実の感情は徹底的にねじ曲げられる。
そこに報道が乗せられ、戦死は軍国調のベールで覆われた美談に仕立て
られていく。
「もし戦死兵の母親の悲しみの事実を書こうものなら、憲兵が来る前に
民衆に、新聞と家族がひねりつぶされる。戦時体制からはみ出る者は
『非国民』としてはじき飛ばされてしまう」。その意味で「戦争は民衆の
集団発狂」とその危うさを表現する。
だからこそ国民保護法の成立や自衛隊のイラク派遣など、国民と自衛隊を
めぐる最近の動向にはきな臭さを感じる。「いったん戦時体制に入ってしまえば、
法律に明記されている国民の権利、自由の約束はすべてストップする」と
危機感をあらわにする。「その前に民衆が何が何でも戦争体制を拒否しな
ければ、人権は成り立たない」
新聞社を退社したむのさんは48年、横手市で反戦と平和を訴える週刊新聞
「たいまつ」を発行。その中の一節で平和をこうつづる。
「人間には水と空気と平和が必要だ。水と空気は、人間の生まれる前から
あった。平和は生きていこうとする人間たちが自分で作っていかねばならない」
戦後60年。自らにけじめを求めた「あの夏」を原点に、むのさんは今なお
平和への強烈なメッセージを社会に発し続ける。【津村豊和】=おわり
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時10分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 山折哲雄さん /岩手
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000055-mailo-l03 <45年8月15日・終戦>
◇国家と宗教、調和し平和−−宗教学者・山折哲雄さん(74)
当時私は、東京から花巻市の母の実家に母と弟と3人で疎開していました。
宮沢賢治の生家から300メートルの寺でした。
1945年8月10日、勤労動員で石鳥谷町で稲作を手伝って帰る途中、
米軍機1機が100〜200メートル先に銃弾を浴びせました。パイロットの
顔が見えるくらい急降下したことを覚えています。その後、市の中心部から
黒煙が見えました。家族を案じましたが、家の手前で火は消し止められ無事でした。
日中戦争や太平洋戦争により「日本人は暴力的だ」と言う人もいますが、
平和をつくるのに夢中になった民族です。平安時代の350年間、江戸時代
の250年間。こんなに長期間、2回も平和が続くのは日本以外にはないことです。
島国だからということもあります。ただそれ以上に、国家と宗教の調和が
保たれていたことが大きいのです。宗教と政治権力が対立したときは、ヨー
ロッパを見ればわかるように乱れます。日本で国家と宗教の調和のベースと
なったのが神仏共存です。平安時代はこの社会システムを国民に普及させて
いったのが政治だった。政治的な権力と宗教的な権威の二元的な構造が
できたから、平和が続いたのです。
今の若い人は宗教心が希薄だと言われますが、私はそうは思いません。
気付いていないだけです。賢治の作品を読んだり、宮崎駿の映画を見て
感動するのは、内々に宗教心を持っているからです。
平和史ではなく革命史を基本に作られた戦後の歴史教育も見直さなければ
なりませんし、宗教を含めた平和文化という価値観を我々の世代が伝え続け
なくてはいけないと思っています。【盛岡支局・安田光高】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時6分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 佐藤藤三郎さん /山形
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000040-mailo-l06 <45年8月15日・終戦>
◇平和を尊ぶ心、教育で−−「山びこ学校」の卒業生・佐藤藤三郎さん(69)
終戦当時、私は山元村(現上山市)の国民学校の4年生でした。1942年4月
に入学。徹底した軍国主義の時代で、2年生の時に教育勅語を暗記させられた
のを覚えています。
先生は大半が代用教員で人数も少なかった。2年生の1年間は、代用教員が
辞めたり軍隊に召集されたりで、担任が3回も代わりました。学校近くに防空壕
(ごう)を掘るのも、村内の家の田畑を耕すのも授業の一環。日本は「神の国」
だと教え込まれ、講堂には「米英撃滅、常に戦場にある気持ち」と書いた紙が
飾ってありました。自由に発言できる雰囲気ではなかった。
終戦の数週間前、低空飛行するB29を、桑の木に登って眺めた記憶があり
ます。まさか山村の集落が爆撃されるとは思っていなかったので、恐怖感は
なかったです。
8月15日の玉音放送は、家のラジオで聞きました。よく聞き取れなかった
けれど、戦争に負けたことは分かった。防空壕に逃げたり、サイレンで家の
電気を消したりする生活が終わることがうれしくて、近所に終戦を触れ回りましたね。
同年秋ごろ、米軍が学校に来て、軍事用具を隠していないか査察しました。
先生が真っ青な顔をして教科書で隠していたのが印象深かった。戦後は漢字
表記が変わるなど、勉強することがたくさんあったのに、学習する余裕はなか
ったのです。
小学校時代に十分勉強できなかったのが、何より悔やまれます。平和を大切
にする心は、教育でしかつくれない。中学で出会った無着成恭先生のように、
上からのきまりにただ倣うのではなく、自分が大切だと思うことを独自に教え
られる先生が必要だと思います。【山形支局・山根真紀】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時10分更新
戦後60年:敗戦の日も「学童に食事を」 疎開先旅館の元女将、体験記す /福島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000046-mailo-l07 ◇記憶伝える言葉重く−−会津高田・根本さん
太平洋戦争中の集団学童疎開の体験を書き残そうと、受け入れ先の旅館で
若女将だった会津高田町の根本タカさん(87)が体験をつづった。集団疎開で
奔走した関係者が亡くなる中、根本さんは「児童や親、住民の苦労をいま字に
残しておかないと何も残らない」と危機感を抱き、戦後60年の節目に原稿を
書き上げた。【町田徳丈】
根本さんの家は以前は旅館「紅葉館」だった。1944(昭和19)年8月16日
から東京都台東区の西町国民学校の児童百数十人を受け入れた。だが、
町史には集団疎開受け入れについて、数行の記述しかない。記録を残したい
と考えた根本さんは、当時の校長が保存していた学校日誌と自身の記憶を
もとに原稿をまとめ、会津高田ペンクラブが年1回発行する「高田文学」に寄稿した。
体験記は、自粛していた盆踊りが児童歓迎のため警察の特別許可を得て
行われたことや、旅館の裏庭を畑にしてジャガイモを植えたなど、戦時のにおい
を漂わせている。
夕暮れ時に親を思って泣く児童の姿に、根本さんは胸を痛めた。「目をこすり
ながら、だまって泣いた。『帰りたい』とは言わなかった」と振り返る。面会に来る
両親も涙を見せなかった。「あのころの親は気丈で大したものだった」
警戒警報が出て煮立つコメを消すよう命令されたが、無視した。「今消したら
おまんまになんねえ。子めら達にくわせらんにぐなんべ(食べさせられないで
しょう)」。配給制度で食料確保に悩んでいた。少しの食料も無駄にできなかった
気持ちを今回記した。
終戦の8月15日正午の玉音放送。昼食の用意で放送は聴けなかった。
人づてに敗戦を知って虚脱感に襲われた。しかし、「食事を用意しないと」と、
いつも通り食事を作ったという。
「いまの人たちは終戦直前のあの状況に耐えられるのか」。根本さんは戦時の
体験を残すことで平和の重さを伝えようとしている。
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時15分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 金相泳さん /群馬
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000007-mailo-l10 <45年8月15日・終戦>
◇「何か」が消えた解放感−−パチンコ機器製造「平和」元社長、金相泳さん(71)
追浜(おっぱま)(神奈川県横須賀市)の住宅街の、屋根が飛ばないようトタンに
石を数十個乗せた小さな平屋に住んでいました。8月15日、私を呼んだ父は
厳かな顔で告げました。
「お前の本当の名前は、金相泳(キムサンヨン)だよ」
当時私は11歳。急に言われても、初めて聞く名前はピンと来ません。日韓併合、
創氏改名の時代です。父母は心の中だけで、私の名前を大切に呼び続けていて
くれたのです。
戦後も貧しさは変わらず、リヤカーで残飯を集め養豚を手伝いながら通学する
日々。それでも終戦は、空襲や命の危険が去っただけでなく、子供心にも萎縮
(いしゅく)したり虚勢をはらなければならなかった「何か」が消えた解放感があり
ました。
学生時代、本名ではアルバイトにもなかなか採用されない現実に直面します。
通名を使うにも戦争中強制された名前には抵抗がある。大学卒業を前に、東京
六大学野球で活躍していた選手の名と金(きん)と同音の漢字を組み合わせ、
「小柳錦二」と自ら命名。卑屈な気持ちではなく、新しく生まれ変わったつもりで
ビジネスに励みました。前橋へ来て42年、「小柳」も県内外で少しは知られた
名前になったことに誇りを持っています。
縁あって入社した「平和」もまた、創業者の中島健吉氏が「戦争に加担しない
事業を」と誓って名付けた社名。戦争は風化させてはならない、二度と繰り返し
てはならない、という思いは私たちの世代に共通した願い。そして、日韓に
再び不幸な歴史が繰り返されてはならない、友好親善のために何かを残したい
と思っています。県日韓親善協会副会長として、後に続く人たちの道しるべと
なれれば、と。【前橋支局・藤田祐子】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時21分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 早乙女勝元さん /東京
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000058-mailo-l13 <45年8月15日・終戦>
◇生き残る発想なかった−−作家・早乙女勝元さん(73)
「重大放送がある」
両親や姉たちがいそいそとラジオを聴きに町内会の詰め所に出かけ、
家で留守番をしていた私は「とうとう一億玉砕のときが来た」と思いました。
「神風が吹いて勝つ」と教わってきた子どもですから、戦争に負けて生き
残るという発想はみじんもありません。ところが、帰ってきた父が「戦争に
負けたらしい」と言い、信じがたいが自分たちは生きている。「天皇の
ラジオ放送一つで戦争が終わるなら、なぜもっと早くそうしなかったのか」
と思いました。
生まれる前から日中戦争が始まっていて平和がどういうことか分からない。
8月15日を過ぎても頭の中が混沌(こんとん)としている。その私が平和を
実感したのは8月20日。つまり灯火管制解除の日ですね。実家は東京の
向島という下町にあり、かろうじて全焼を免れた。15日以後もB29は
上空を飛んでいて、警戒警報も鳴っていたんです。公式に解除が発表
されて焼け残りの家から明かりがぽつぽつと点(とも)りだす。私の家も
黒いおおいをはずして裸電球に照らされる家族の顔を見たとき、心の底から
「ああ、これが平和なんだ」と安堵(あんど)しました。
戦後は町工場で働きながら文学を志しました。日本が本格的に復興
するのは50年の朝鮮戦争の特需景気からで、これは戦争への間接関与。
それに耐えられず私は文章書きになったようなもの。そのころから東京
大空襲の記録も書いていました。
戦後60年のこの夏、「小説 東京大空襲」(草の根出版会、全3巻)を
刊行しました。戦争を知らない子どもや孫の世代に、過去の戦争の実態を
民衆の視点から伝えられたらと願っています。【東京社会部・明珍美紀】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時33分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 阿刀田高さん /新潟
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000139-mailo-l15 <45年8月15日・終戦>
◇我が子、戦地に送らない−−長岡に疎開した作家・阿刀田高さん(70)
長岡市で生まれ、3歳で東京の自宅に移りました。戦火が激しくなった1944年、
再び家族で長岡に疎開し、中学卒業までの6年間を過ごしました。
長岡空襲に遭ったのは5年生の時。夜、目を覚ますと、大手通の空が赤くな
っている。急いで家族と近くの土手に避難しました。30機ほどのB29が機体を
赤く染めて東の方に向かっていました。焼夷弾がしだれ柳のように降っていて、
「花火だな」と思ったのを覚えています。
体育館は遺体でいっぱいでした。近くの防空壕では、子どもを抱えるようにして
死んでいる母親の遺体も見ました。私の自宅は幸い無事でしたが、それで嫉妬
(しっと)され、よくいじめられました。
空襲の数日後、いとこと焼けた町を歩きました。当時いとこは、海軍の研究所で
戦艦を造る研究をしていました。少ない鉄で大きな船をつくる研究していた彼が、
落ちていた焼夷弾の筒を拾い上げ「勝てないな」とつぶやいたのをよく覚えて
います。空からばらまいて捨てていくものに、日本では考えられないほど質の
良い鉄を使っていたんですね。私もそれを聞いて「だめだ」と思いました。
戦争が終わって平和憲法を聞いた時は、すがすがしい気持ちになりました。
私は、現代の母親に期待したい。60年前、母親は我が子を戦地に送った。
母親は、あの悲惨さをもう許さない。男がうっかりと変な戦争に進む可能性は
あります。だけど、我が子を戦争に送りたくないという母親の切実な気持ちは、
60年前よりははっきりと理性的に表れる可能性がある。それは力であり、
戦前から大きく変わった点だと思います。【新潟支局・北上田剛】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時38分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 吉田喜重さん /福井
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000188-mailo-l18 <45年8月15日・終戦>
◇生活奪った福井空襲−−映画監督・吉田喜重さん(72)
終戦の時、生まれ育った福井にいました。12歳で中学1年。福井市の外れに
家族で疎開していましたが、玉音放送も「天皇は甲高い声だな」と思っただけ
で、何を伝えているかは分からなかった。父が小声で「戦争は終わったよ」と。
周りも内容をあまり理解していない様子で、たぶん、1カ月前に福井を襲った
大空襲が、思考能力を奪ったんだと思います。
7月19日の夜。私と父は市中心部の実家にいて、寝ていると、父から
「すぐに逃げなさい」と起こされた。父は、ラジオで各地の爆撃情報を聞いて
ました。「琵琶湖をB29の大編隊が飛んでいる」と知り、先に逃がしてくれたんです。
私は半信半疑で速足で歩く程度。でも、しばらくして突然、閃光(せんこう)が
走り、昼間のような明るさになった。照明弾です。気付いたら来た道を戻って
いました。
ザー、ザーと夕立のような音がしてきて、大きな筒が何百個もヒラヒラと
揺らめき落ちてくる。怖くて父のもとに走ったがいなかった。またきびすを
返したら焼夷弾(しょういだん)が落ち始めて、木や住宅、川も燃え出した。
周りは静か。本当はそうじゃないけど、子どもだったから生きるのに必死で
聞こえなかったんでしょう。
家は焼けてなくなった。みんな、そうでした。だから、終戦を知って「平和に
なる」とか、「負けて悲しい」とかの感情はありませんでした。生活を奪われた
悔しさの方が大きかった。
空襲と原爆投下は「心の内」でつながってました。でも「原爆の死者だけが、
本当のことを知っている。私に描く権利があるのか」という葛藤(かっとう)が
あって、「鏡の女たち」(03年)まで半世紀かかってしまいました。
【福井支局・田辺一城】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時41分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 三枝礼子さん /山梨
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000151-mailo-l19 <45年8月15日・終戦>
◇火の海だった甲府中心街−−軍需工場に動員された、三枝礼子さん(74)
国民学校5年だった1941年、太平洋戦争が開戦しました。43年にはあこがれ
の甲府高等女学校に入学しましたが、学校は勉強をするスペースなどなく、
落下傘作りの工場になっていました。私たちはもんぺをはき鉢巻きをして
軍需工場に通い、飛行機の翼をやすりで磨く作業をさせられました。
45年7月6日。その日の夜は家族で甲府市高畑町(現国母2)の自宅に
いました。空襲警報が鳴り、父親から「遠くに逃げろ」と指示されました。
6人兄弟の長女でしたので、私が末っ子を、二女が5番目の子を背負って
逃げました。警防団長をしていた父は、自宅に残りました。走ったり、歩い
たりして2キロほど行った橋の下で、疲れ果てて座り込んでしまいました。
甲府の中心街の方向は火の海で、まるで真昼のようでした。
銀色のB29が次々に飛んで行くのが見え、目の前の家に焼夷(しょうい)弾
が命中し、鴨居(かもい)に掛かっていた浴衣に火が燃え移り、舞い上がり
ました。2歳の妹が「怖い」と背中にしがみつきました。父の無事を祈りました。
翌日、自宅で父と再会し、身内の被害はありませんでしたが、顔見知りの
おばさんが中心街の防空壕(ごう)の入り口で死んでいるのを見ました。
「これが戦争なんだ」と実感しました。
8月15日。「大事な放送がある」という父の言葉で家族全員がラジオの
前に座り、日本が負けたことを知りました。私はもちろん、まち全体が
虚脱状態になりました。
52歳まで小中学校の教師として働き、時折教え子たちに戦争体験を
話してきました。これからも平和がどれだけありがたいものかを伝えて
いきたいと思っています。【甲府支局・中村有花】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時45分更新
戦後60年:東海 戦火逃れた「子午の鐘」、10年ぶり響く−−三重・久居 /愛知
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000145-mailo-l23 ◆忘れ得ぬ、あの日あの時
◇戦後60年の節目に犠牲者を弔い、世界平和の願いを込めて鳴らしたい
◇終戦記念日、10年ぶり響く
三重県久居市幸(さや)町に数奇な運命をたどった鐘がある。「子午(とき)の
鐘」。太平洋戦争の末期、消失の危機に遭いながら、偶然にも無事で残った。
終戦記念日の15日、この鐘が美しい音色を響かせる。地区住民は「戦後60年
の節目で犠牲者を弔い、世界平和の願いを込めて鳴らしたい」と話している。
鐘が造られたのは江戸時代中期の1736年。時を知らせる役割を担っていた
が、その後火事の合図としても利用された。
それから200年余たった戦争末期、国内では軍事資源として鉄の需要が
高まった。各地で金属の強制供出が相次ぎ、銅や錫(すず)で出来たこの
鐘も例外ではなかった。
しかし「兵器」に変わっていたはずの鐘は、戦後間もなく思わぬ所で発見
された。地元の長老が津市の国鉄・阿漕(あこぎ)駅に行った際に、駅の
貨物用ホームの端に置かれていたのを偶然、発見したという。幸町自治会長
の冨永勝次さん(74)は「終戦の年、駅付近は大きな爆撃に遭っている。
だから鉄道で鐘を運ぶことが出来なくなって放置されたのかもしれない」と
推測する。鐘は地区住民により荷車で元の場所に運ばれた。その後、
1959年の伊勢湾台風でも鐘堂が崩れる災害に見舞われたが、鐘は
無傷で現在まで残っている。
鐘を突くのは、毎年6月10日の「時の記念日」と大みそかの2回だけ。
終戦記念日に鳴らすのは、戦後50年の年(1995年)以来だ。戦争を
くぐりぬけた、いわれのある鐘の音は午前11時40分から久居市内に
響きわたる。【鈴木顕】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時57分更新
大阪大空襲:不戦の誓い、忘れないで 体験者、平和願い合掌−−京橋駅慰霊祭 /大阪
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000253-mailo-l27 60年前の8月14日、大阪城内の陸軍造兵廠を狙った空襲があった。
B29が投下した1トン爆弾は、京橋駅にも落ち、約500人が犠牲になった。
吹田市南吹田の田中耕一さん(76)は「あの日は本当に死を覚悟した」
という。入隊する先輩を見送り森ノ宮駅に戻る途中、空襲警報がなった。
電車は直前に発車、上空には既にB29が。「グォーン」というさく裂音。
地面に伏せ、恐怖で気を失いそうになった。土埃(ほこり)で横の友人の
顔も見えなかった。駅周辺は木っ端みじんに吹き飛び、大きな穴がいくつも
あった。後に京橋駅で多くの人が犠牲になったと知った。生かされた命。
「戦争をしないと誓った60年前を忘れかけているのではないか」。そう感じる。
豊中市蛍池中町の山縣宏子さん(69)は、父と自宅に向かっていた。
電車の扉が開いた途端、乗客が飛び出した。父の手を握りしめ踏切小屋に
逃げ込んだ。B29が去り、線路を歩いて大阪駅に向かう途中、大勢の
うつぶせの死体を覚えている。直後に降った黒い雨にぬれた。「運が良か
ったとしか思えない」。14日、同駅前で営まれた慰霊祭に参列し、手を
合わせた。【粟飯原浩】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時7分更新
戦後60年:東海 戦争絵画で平和を訴える−−春日井の山田昭さん /愛知
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000146-mailo-l23 ◆忘れ得ぬ、あの日あの時
◇子供たちがこんな絵を描く時代に二度としてはならない
◇ゼロ戦、軍艦…少年時代の古い絵
60年前の古い絵からは、軍国教育の跡がありありと浮かび上がる。愛知県
春日井市鳥居松町の元会社経営、山田昭さん(68)宅に残る絵。少年時代に
描いたゼロ戦や軍艦など戦争絵画ばかりだ。山田さんは「子供たちがこんな
絵を描く時代に二度としてはならない」と平和の大切さを訴えている。
山田さんは三重県波瀬村(現一志町)に生まれ育ち国民学校に入学。絵画が
得意だったため、終戦を迎えた3年生までの絵画や通信簿を大切に保管して
きた。伊勢湾台風で家財道具が流されたが、絵は奇跡的に残った。
粗雑なわら半紙約20枚にクレヨンで描かれているのは、軍艦の前に立つ
軍人や急旋回するゼロ戦、戦う兵隊など。裏には教師が押した「優」の印が
残る。山田さんは「夢は兵隊になることだった。敵を殺す兵隊は偉いと思って
いた」と振り返る。
敗戦直後。女性の担任が教室で「日本は負けました。これから一生懸命
日本のために頑張りましょう」と話しながら、ボロボロと涙を流したという。
「先生まで泣かしてしまう戦争が一気に嫌になった」。山田さんの絵のモチーフ
は戦後、風景画や女優などに代わった。
山田さんは伊勢湾台風で画材を失い、絵画から遠ざかったが、今年4月から
再び絵筆を握り、油彩画に取り組んでいる。小学生の孫に当時の絵画を見せ、
戦争の話をすることもあるという。
世界ではテロが頻発し、日本では自衛隊のイラク派遣などが議論を呼んで
いる。山田さんは「終戦当時は一億総玉砕に向かい、子供の心まで戦争に
駆り立てられた。一度戦争が始まれば核兵器も何でも使われる可能性が
ある。戦争を二度と繰り返してはいけない」と語気を強めた。【桜井平】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日16時57分更新
’05湖国・平和考:沖縄の歴史学ぶ 映像作品を上映、集いに40人−−湖南 /滋賀
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000091-mailo-l25 ◇阿波根さんの生涯演じた劇基に制作
沖縄の歴史などについて学び、平和について語り合う「平和の集い」(滋賀・
沖縄県人会、沖縄館三線倶楽部、結の会共催)が14日、湖南市中央5の
「沖縄館」で開かれた。終戦の日に合わせて毎年8月に開催され、今年で
10回目。滋賀・沖縄県人会のメンバーや同館の利用者など約40人が集まった。
集いでは、米軍に対する抵抗で非暴力を貫いたことから「沖縄のガンジー」
と呼ばれた阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんの生涯を、伊江村立伊江
小学校の6年生が演じた劇を基に制作された映像作品「花は土に咲く」を
上映した。阿波根さんは、住んでいた伊江島の土地を米軍が強制収容した
ことから、沖縄本島各地を島民と歩いて実情を訴えるなど、土地闘争の
先頭に立った。作品では、座り込みや「乞食行進」など、非暴力による抵抗
の様子を、子どもたちが懸命に演じる姿がスクリーンに映し出された。
参加した大津市大平、教員、斉道説子さん(57)は「伊江島の戦いを演じる
ことにより、忘れてはならない伊江島の原点を、子どもたちが真剣なまなざし
で訴えていたことが印象的だった」と作品の感想を語った。
上映後は沖縄の伝統楽器「三線」の演奏も行われた。「ひめゆりの歌」
「軍人節」など戦争にまつわる歌が披露され、参加者は平和への思いを
募らせながら、聴き入った。【高橋隆輔】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時2分更新
戦後60年:日野町と町民が事業実行委を組織 20日にシンポやつどい /滋賀
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000093-mailo-l25 ◇来年1月、記念誌も刊行
戦後60年にあたり、戦争を二度と繰り返さず平和な社会が続くことを願って、
日野町は町民と「戦後60年事業実行委員会」を組織。20日を中心に「戦争と
平和のシンポジウム」「戦争体験を語り伝えるつどい」「戦争の記憶展」などを
開く。来年1月には「戦後60年記念誌」も刊行する。
最初は20日午後1時半から町林業センターで開く「戦争体験を語り伝える
つどい」。戦地に赴いた人、学徒動員で軍需工場で働いた人、疎開で日野町
に来た人など町民9人が、3グループに分かれて戦争体験を語り、戦争を
知らない世代に当時の体験を伝える。
同日午後7時半からは、日野公民館で藤沢直広町長をコーディネーターに
「戦争と平和のシンポジウム」。戦争体験者、疎開者、連合青年会長ら4人が
パネリストとなり、体験談や平和への思いについてディスカッションする。
20、21の両日、町勤労福祉会館では町民47人から集めた戦時中の
写真、物品、資料など約500点を展示する「戦争の記憶展」が開かれる。
開戦を伝える電文のコピーや出征ののぼり、水筒、飯ごうをはじめ兵士の
遺品などを展示する。
実行委には、町民十数人から戦後60年についての手記も寄せられた。
つどいやシンポジウムの内容と併せ、「戦後60年記念誌」にまとめる。
【斎藤和夫】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時2分更新
平和の灯:戦没学徒の広場に 十数年ぶりNPOの手で−−南あわじ /兵庫
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000260-mailo-l28 第二次大戦の戦没学徒を慰霊する南あわじ市・大見山の「戦没学徒記念
若人の広場」に14日、広島市の平和記念公園から採火された平和の灯
(ともしび)が運ばれ、メモリアルタワーに十数年ぶりに火がともった。
広場は67年に開設されたが、運営する財団法人動員学徒援護会の財政
が悪化し、阪神大震災で施設が損壊したため閉鎖された。戦時資料は
昨年暮れ、立命館大国際平和ミュージアムに寄贈されている。
NPO法人「動員学徒記念若人の広場復興委員会」(谷安司理事長)が
「戦後60年を機に平和を訴え、広場の復興気運を盛り上げようと」と、
消えたままになっていたともしびに再び火をともすことにした。
この日は関係者ら約40人が参列。メモリアルタワーのバーナーに点火
されると、戦争で亡くなった学徒の冥福を祈り、秋葉忠利・広島市長のメ
ッセージを読み上げた。【登口修】
〔淡路版〕
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時7分更新
神戸空襲:アジアの人々と平和を 犠牲の朝鮮人慰霊、市民団体が開催 /兵庫
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000258-mailo-l28 ◇パゴダの見学会も
市民団体「KOBEピースiネット」は14日、神戸で強制労働をさせられ、
神戸空襲で犠牲になった朝鮮人を慰霊するパゴダ(仏塔)の見学会などを
開いた。戦後60年の節目に、「アジアの人々とともにつむぐ平和」と銘打って
戦争について考える機会を設けた。
約20人の参加者は中央区の東福寺へ。パゴダは高さ約2・2メートル。
勤務中に犠牲になった朝鮮人労働者約50人の遺骨が安置されている
という。86年に当時の住職が無縁仏だった労働者たちを慰霊しようと
建立。参加者は「ここにあるなんて知らなかった」とパゴダを触っていた。
続いて同区の神戸YMCAで兵庫朝鮮関係研究会の高祐二さん(39)が
「神戸大空襲と朝鮮人」のテーマで講演。1940年代のピーク時には
県内に12万人の朝鮮人が住み、約10万人が強制労働をさせられていた
という。
高さんは「当時の川西航空機は、空襲があると知りながら朝鮮人を働か
せた」と指摘。「神戸空襲は何人亡くなったかも分かっていない。大阪の
空襲では名前も分かっているのに腹立たしい」と憤っていた。【小川昌宏】
〔神戸版〕
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時7分更新
終戦記念日:平和の鐘打鐘や原爆パネル展、灯ろう流し…不戦の誓いも新たに /和歌山
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000110-mailo-l30 ◇きょう、多彩な催し
60回目の終戦記念日となる15日、平和を願い、戦没者の冥福を祈る行事が
県内各地で行われる。
和歌山、貴志川、紀北、那賀青洲、橋本の各ユネスコ協会は、平和の鐘打
鐘会を実施。和歌山市内では岡山の時鐘堂や紀三井寺など23カ所で、
正午から1分間黙とうした後、鐘を打つ。那賀町内では、住民に黙とうを呼びかける。
和歌山市のJR和歌山駅西口地下広場では「戦後60年 8・15メモリー〜
風化させてはいけない〜」を開催。午前10時からドキュメンタリー映画の
上映や原爆パネル展、午後1時からは戦争体験者の話とパネルディスカ
ッションがある。
海南市の燦燦公園内にある「日中両国平和の塔」の前では、午前8時から
「8・15平和の集い」が開かれる。終戦を中国で迎えた戦争体験者の話に
耳を傾け、改憲の動きや靖国神社参拝問題などを語り合う。
打田町の竹房橋近くの紀の川河川敷では午後7時半から「第4回平和と
慰霊の祈り 万燈会」が行われ、市民グループが700本のろうそくで「命」
の文字を描く。尺八の演奏もある。橋本市向副の紀の川河川敷で開催さ
れる「紀の川祭」でも、灯ろう流し(午後7時)が行われる。県護国神社
(和歌山市)では午前10時から平和祈念祭がある。【水津聡子】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時14分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 小畑昭子さん /和歌山
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000112-mailo-l30 <45年8月15日・終戦>
◇古里にも及んだ空襲−−和歌山ユネスコ協会副会長・小畑昭子さん(76)
終戦記念日の15日、平和の鐘が正午から、和歌山市内の寺院などで一斉に
打ち鳴らされる。主催する和歌山ユネスコ協会の副会長、小畑昭子さん(76)は
学徒動員や和歌山大空襲を経験。平和への祈りを込めて、今年も参列する。
1944(昭和19)年7月25日、小畑さんら和歌山市立高等女学校の4年生
約180人は、学徒動員で兵庫県明石市の航空機工場に送られた。「夜の部屋
では、ホームシックになって、一人が泣き出すと、また一人と泣き出した。
気づいたら、全員が泣いていた」
工場では、ネジなどに不良品がないかを検査。「食事も粗末で、最初は臭くて、
のどを通らなかった」。疲れた体から空腹と寂しさがあふれていた。
軍需工場の空襲が相次ぎ、娘の身を案じた父親に勧められ、小畑さんは
和歌山市に戻り、臨時教員になった。しかし、空襲は古里にも及んだ。
和歌山大空襲があった45年7月9日、小幡さんは、勤務先の野崎国民学校
(現・市立野崎小)で宿直をしていた。深夜、空襲が始まると、他の教員2人と
電車の線路伝いに避難。市内が燃えて、まるで真昼のようだった。焼夷(しょうい)
弾が降る中、小さな橋の下に逃げ込み、空襲が終わるのを待った。
和歌山大空襲の犠牲者は1100人以上。明石市の工場では、小畑さんが
帰郷した後の45年1月、県内から動員された他校の女生徒11人が空襲で
亡くなった。
平和の鐘は全国に先駆け、和歌山で始まり、58回目の今年は市内など
25カ所に広がった。小畑さんは「人の心に平和のとりでを築き、戦争を
二度と起こさない」との思いで鐘をつく。【和歌山支局・青木勝彦】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時14分更新
戦後60年・語り継ぐ記憶:第1部/12 漫画家・平野勲さん /島根
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000217-mailo-l32 ◇平和な時代に夢かなう−−平野勲さん(82)=青森県三沢市
◇「軍国少年」から「漫画少年」に
軍靴の響きを聞いて育った少年時代。出雲市出身の漫画家、平野勲さん
(82)=青森県三沢市=は「戦死は日本国民最高の美徳」と教えられた。
遊びは「戦争ごっこ」。「お国のために銃を取り、戦場に行かねばならない」。
自分に言い聞かせていた少年だった。
そんな時代、楽しみは田河水泡の漫画「のらくろ」。主人公の野良犬「のら
くろ」が猛犬連隊に入隊、失敗しながらも明るく活躍する軍隊生活を描いた
ものだ。当時、大人気で、小学生だった平野さんも同級生から借りて夢中になった。
「絶対に漫画家になるんだ」。そう心に誓った平野さんは、いつしか「軍国
少年」から「漫画少年」になっていた。
◇
だが、中学卒業時の41年、太平洋戦争に突入した。夢を語り合った友人の
多くは海軍兵学校や陸軍士官学校へ進学。軍隊がいよいよ目の前に迫って
来た。44年、長崎県の陸軍歩兵部隊に入隊。同年9月、香川県の陸軍船舶
幹部候補生隊に移り、出征せぬまま終戦を迎えた。
軍隊では毎日厳しい訓練の日々。絵を描くことも許されない。一人になると
手帳を取り出し、隠れながら漫画を描いた。
軍隊生活を支えたのは古里・出雲の思い出だった。家族、友人、そして
にぎやかだった祭り。娯楽が少ない時代。高揚感とにぎわいを思い出しては
古里をしのんだ。
◇
戦後、同級生らの大半が戦争で死んだことを知った。
「自分は昔、軍国少年でした。でも今、戦争には大反対。大嫌いです。友人、
親類…。随分多くのものを失いました。二度とあってはならないものです」
悲壮感はなく、明るい平野さんの漫画。これまで描いた祭りの画は約3500枚
に上る。戦後、中学教員になったが、漫画家の夢を捨てきれず上京。漫画家
として大成し、今年、日本漫画家協会賞特別賞を受賞した。
「戦時に遠く離れてみて、初めて古里の良さ、ありがたさを知りました。絵を
通じて子どもらに古里の素晴らしさを感じてもらえたら」
戦後の平和な時代に平野さんの夢はかなった。【細川貴代】
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8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時18分更新
戦後60年:鳥取の保育園で体験聞く会 園児ら、慰霊碑前で反戦誓う /鳥取
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000220-mailo-l31 ◇銃弾の雨、馬車に死体の山
鳥取市河原町曳田の市立八上保育園(小谷禎子園長)が、戦争体験者から
戦争について話を聞く会を開いて、今年で3回目を迎えた。今回は長崎への
原爆投下から60年に当たる9日、近くに住む田村史妻さん(73)が、2〜5歳
の園児19人に戦争の恐ろしさ、や平和の大切さを話した。
田村さんは同市気高町で生まれ、1936年に4歳で家族と満州(中国東北部)
に渡り、15歳まで過ごした。終戦後は、ソ連軍の侵攻や中国の内戦に巻き
込まれ、大変な思いをしたという。
田村さんはこの日、空から雨のように機関銃の弾が降ってくる中を逃げた
ことや、馬車やトラックで亡くなった人が大勢運ばれていったことなどを話した。
園児たちは「戦争って何」「どうして戦争は終わらないの」などと質問しながら、
熱心に耳を傾けていた。
同保育園の裏には、集落から出征し戦死した人たちを弔う慰霊碑があるが、
話を聞き終えた園児たちは慰霊碑に手を合わせ「もう戦争はしません」と
誓った。前嶋優奈ちゃん(4)は「戦争は人を殺し合いっこするから嫌」と
話した。小谷園長は「去年までは漠然と戦争がいけないと理解していた
子どもが、今年は戦争の悲惨さや怖さを自分なりに考えるようになった。
繰り返し語っていくことが大切」と話している。【田辺佑介】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時18分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 南良行さん /鹿児島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000201-mailo-l46 <45年8月15日・終戦>
◇次世代に戦争を語る−−万世飛行場建設を手伝った・南良行さん(74)
万世飛行場は加世田市の吹上浜に建設された陸軍の秘密飛行場でした。
1945年3月に運用が開始され、特攻隊が出撃していきました。
私は当時、国民学校に通っていました。43年ごろから近くの児童たちは
奉仕作業として飛行場建設を手伝いました。
飛行場は海沿いの松林を切り開いて建設されました。私たちは伐採した
松を運び出しました。何の目的で飛行場を作るかは知らされませんでした。
何しろ地図にも載っていない秘密の飛行場でしたから。松の運び出しが
終わると芝を張ったり、ドラム缶を貯蔵する穴を掘ったりしました。学校の
授業はほとんどなかった。雨が降った時に本を読むぐらいでした。
終戦の年になると、加世田市でも空襲や戦闘機の機銃掃射が激しくなり
ました。機銃掃射の時は、操縦士の顔が見えるほど低空を飛んできました。
空襲警報が鳴る度に奉仕作業も中断され、仕事にならなくなる時が多くなりました。
空襲の被害で、木の上に人体がぶら下がっていたり、ほとんど皮のむけた
遺体を見ました。ひき肉が飛び散ったようになっていた光景は、今でも忘れ
られません。
飛行場から特攻隊が出撃していたと知ったのは戦後のことです。戦争が
終わり、地元の消防組合に勤めて、91年に退職してすぐ、飛行場跡地へ
加世田市平和祈念館を開館させるために働きました。遺族から遺書や遺品を
集める中で特攻隊について学びました。
戦争の記憶は薄れ、体験者も少なくなりました。戦争の恐ろしさは体験しない
と分からない。自分が子供や孫の世代に戦争を語ることが大事と考えています。
【鹿児島支局・河津啓介】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時51分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 坂和寿々子さん /愛媛
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000163-mailo-l38 <45年8月15日・終戦>
◇平和願う気持ち皆同じ−−サカワ社長・坂和寿々子さん(75)
戦争中は松山市の済美高等女学校の生徒でした。戦争が激しくなると授業が
なくなり、勤労奉仕で毎日、特攻隊員が身に付けるマフラーなどを縫っていました。
当時、私は威圧的な軍人は好きになれませんでしたが「最前線に送られる兵隊
さんが身に付けるのだ」と思うと、無事に帰ってきてほしいと願わずにはいられ
ませんでした。今でも「私のマフラーを身につけた隊員のうち、帰ってきた人は
いるのだろうか」と考えることがあります。
3年生になると、兵庫県伊丹市の零戦の部品工場に学徒動員されました。
連日のように空襲があり、そのたびに田んぼの中を逃げ惑いました。一度、
目の前に六角形で緑色の爆弾が落ちたことがあります。田植えの時期で、
泥に沈み込んだため爆発せず、助かりました。あと50センチずれていたら
命がなかったかもしれない。
戦後、黒板製造の会社経営に携わっていた夫と結婚しましたが、39歳の時に
夫を亡くし、私が後を継ぎました。ずっと「何があっても後悔しない」という気持ち
で仕事に打ち込んできました。戦争でいや応なしに死を意識したせいかもしれません。
仕事を通じ、芸術家・岡本太郎さんの養女、敏子さんと知り合ったのが縁で、
先月から東温市の工場を、太郎さんの巨大壁画「明日の神話」の修復場所
としてお貸ししています。壁画は、太郎さんが「原水爆の悲劇を乗り越え、
平和な世界を築こう」との願いを込めた作品。戦争では私よりもつらい体験を
した人はたくさんいると思いますが、平和を願う気持ちは皆同じ。修復が成功し、
太郎さんのメッセージが世界に伝わることを願っています。【松山支局・小林祥晃】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時35分更新
戦後60年の原点:その時、子どもだった 朝倉邦夫さん /広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050815-00000208-mailo-l34 <45年8月15日・終戦>
◇焦土の呉の軍国少年−−「呉戦災を記録する会」代表・朝倉邦夫さん(69)
1945年3月19日、呉軍港を狙った空襲は中国地方では初めてのもので、
沖縄上陸作戦を前にした海軍への先制攻撃だったのでしょう。街中を逃げ惑い
ながら、撃墜されて灰ヶ峰中腹に落ちるグラマン機数機を目撃し、興奮した。
その後、家へ帰ると爆弾の破片が屋根を突き抜けていた。本通国民学校3年生
でした。
間もなく、6年生の兄と一緒に三原市郊外の仏通寺宿坊へ集団学童疎開しました。
母と姉も疎開先の寮母やお手伝いとして住み込みで働くことになり、呉海軍工廠
(しょう)工員だった父親だけが呉に残ることに。
お盆休みで農家に分宿していて聞いた「玉音放送」の意味は理解できなかったが、
「学寮へ帰れ」と指示があり、敗戦を知った。
呉へ戻ったのは9月17日のこと。13回の空襲を受けた市街地は一面焼け野原
だった。床下の防空ごうで難を逃れたものの、家を焼かれ、顔や腕に大けがをした
父は三角兵舎の簡易住宅で暮らしていた。家族5人は再会の喜びをかみしめた。
9歳までとはいえ、日本は勝つと信じ、特攻機にあこがれた軍国少年だった。
大学で歴史学を学んでようやく、戦時教育の怖さから解き放たれた。市内の中・
高校で教べんをとり74年、「呉戦災を記録する会」を発足させた。平和教育の
ための原爆の参考資料は多かったが、呉の近現代史を学ぶ公的な資料は
極端に少なかった。
戦後60年たっても生々しい戦災体験記が集まってくる。アジア外交の行方、
有事立法、テロ続発、米イラク攻撃と、国益を振り回す現代社会の危なっかしさ。
まだ5年や10年は戦災体験記を集める必要性を感じている。【呉支局・牧正】
8月15日朝刊
(毎日新聞) - 8月15日17時22分更新