核廃絶の志継承こそ責務 広島原爆の日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000089-kyodo-soci 被爆から60年の「原爆の日」を迎え、平和と核廃絶を願い営まれた
平和記念式典=6日午前、広島・平和記念公園
広島は6日、史上初めて原爆が投下されてから60年の「原爆の日」を
迎えた。爆心地近くの広島市中区・平和記念公園で「原爆死没者慰霊式・
平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、秋葉忠利・広島市長は平和宣言で
「核廃絶に努力し続けた被爆者の志を受け継ぎ、果たすべき責任に目覚め、
行動に移す決意を」と呼び掛けた。
また戦争の放棄をうたった日本国憲法を「21世紀の世界を導く道標
(みちしるべ)」と位置付け、原爆慰霊碑の碑文の言葉を引用し、被爆60年の
節目の時に、「過ちは繰り返さない」との誓いを謙虚に再確認するよう求めた。
式典には国境や世代を超え、被爆者や遺族ら約5万5000人が参列。
投下時刻の午前8時15分、「平和の鐘」が打ち鳴らされると、参列者が
一斉に黙とうし、犠牲者に鎮魂の祈りをささげた。
(共同通信) - 8月6日14時1分更新
広島・原爆の日 「核廃絶」世界へ60年 「責任と決意」訴え
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000073-nnp-kyu 広島は六日、史上初めて原爆が投下されてから六十年の「原爆の日」を迎えた。
爆心地近くの広島市中区・平和記念公園で「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」
(平和記念式典)が営まれ、秋葉忠利・広島市長は平和宣言で「核廃絶に努力し
続けた被爆者の志を受け継ぎ、果たすべき責任に目覚め、行動に移す決意を」
と呼び掛けた。参列した子ども代表の岩田雅之君(11)と黒谷栞(しおり)さん
(12)は「わたしたちは、核兵器の恐ろしさを世界中の人々に訴え続けます」と、
「平和への誓い」を読み上げた。
式典には国境や世代を超え、被爆者や遺族ら約五万五千人が参列。投下
時刻の午前八時十五分、「平和の鐘」が打ち鳴らされると、参列者が一斉に
黙とうし、犠牲者に鎮魂の祈りをささげた。
「核のテロ」さえ現実視される中、五月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議は、
軍縮と不拡散に何の成果も残せなかった。国内では平和憲法を見直す動きが
活発化、慰霊碑に刻まれた「過ちは」の碑文が傷つけられる事件も起きた。
秋葉市長は宣言の中で、十月に開かれる国連総会の第一委員会(軍縮)に
特別委員会を設置し、二〇二〇年までの核廃絶を実現する具体的なステップを、
一〇年までに策定するよう提言した。
五年連続の参列となる小泉純一郎首相に加え、衆参両院議長、最高裁長官の
「三権の長」が十年ぶりにそろってあいさつ。小泉首相は「在外被爆者への
支援を含め、援護施策の推進に努力する」と述べた。
河野洋平衆院議長は碑文に触れ、「過ち」とは「アジアの中で針路を誤り
戦争への道を歩んだこと」と、人類が核兵器を使用した事実の二つを意味する
と指摘した。
米国、ブラジル、韓国の三カ国と各都道府県から招かれた被爆者も参列した。
この一年間新たに死亡が確認された被爆者は五千三百七十五人。氏名が
書き加えられた原爆死没者名簿三冊が慰霊碑に納められた。死没者数は
計二十四万二千四百三十七人、名簿は八十五冊に。広島市内の被爆者の
平均年齢は昨年の七二・二歳から七二・八歳に上がった。
(西日本新聞) - 8月6日14時32分更新
<広島原爆忌>「継承と目覚め、決意の年」と市長が平和宣言
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000024-mai-soci 被爆地・ヒロシマは6日、60回目の「原爆の日」を迎え、秋葉忠利・広島市長は
平和宣言で「継承と目覚め、決意の年」を掲げた。核拡散防止条約(NPT)再検討
会議が決裂し、核兵器の拡散や新型開発への懸念が高まっていることについて、
「核保有国や核保有願望国が、世界の大多数の市民や国の声を無視し、人類を
滅亡に導く危機に陥れている」と批判。核兵器廃絶を求める被爆者の志を継承し、
国際世論を高めて国際社会を平和へ導くことを誓った。そのための行動として、
今秋の国連総会で、特別委員会設置を求める。
同市中区の平和記念公園で催された平和記念式典(原爆死没者慰霊式・平和
祈念式)には過去2番目の約5万5000人が参列。その前で秋葉市長は、核保有
を宣言した北朝鮮や、使用しやすい小型核兵器の開発を進める米国など8カ国を
厳しく非難。そのうえで、核兵器廃絶を目指す世界の都市でつくるNGO「平和
市長会議」の加盟都市が1080都市に急増していることなどを列挙。国際政治の
現実とは裏腹に、世界の人々が核兵器のない社会を求めていることを指摘した。
さらに、平均年齢が73.1歳に達した被爆者の志を「汝(なんじ)殺すなかれ」
の真理と述べた。「この真理を、国家や宗教を超える人類最優先の公理として
確立する必要がある」とした。さらに、「この真理を永久に採用した憲法は、
21世紀の世界を導く道標」と憲法改正への動きにもクギを刺し、日本政府に
核兵器廃絶と、在外被爆者問題の解決など援護策の充実を求めた。
式典は午前8時に始まり、秋葉市長と遺族代表2人が、この1年間に死亡、
または死亡が確認された被爆者5375人の名簿2冊を同慰霊碑下の奉安箱に
納めた。原爆死没者名簿は計85冊、死没者数は24万2437人に上る。
続いて、小泉純一郎首相、伊藤一長・長崎市長らが献花。原爆投下時刻の
午前8時15分、参列者は1分間の黙とうをささげた。その後、市内の小学生
2人が「平和への誓い」を朗読した。
あいさつに立った小泉首相は「平和憲法を順守し、国際社会の先頭に立って
核軍縮・核不拡散を推し進める」と明言。続いて河野洋平衆院議長は、「日本は、
アジアの中で針路を誤り戦争への道を歩んだ。その帰結の一つが原爆投下
だった」と、日本の戦争責任に言及した。
式典には核保有国のロシアなど過去最多の32カ国の駐日大使らが参加した。
【遠藤孝康】
◇在外被爆者、10年ぶりに出席
平和記念式典には、10年ぶりに広島市が招待したり、渡日治療中の米国、
韓国、ブラジルなどの在外被爆者や遺族らが出席した。在外被爆者への現行の
援護策は、被爆者手帳取得や手当申請のため一度は来日しなければならず、
高齢や病気の被爆者には大きな負担。この「来日要件」の撤廃が課題になっている。
韓国・ソウル市の朴源釦(パクウンク)さん(70)は、被爆時、広島市の国民学校
3年生。1人でいた自宅が突然崩れ落ち、頭を切って服は血だらけになった。
あまりの熱さで海に飛び込んだ後、家にあった布団を水に浸して逃げたという。
45年12月に帰国後、体調の良い日はないと言い、これまで3回、同市内の
病院などで渡日治療を受けた。
式典は初参加。「あまりの人の多さにびっくりしました。帰国後、朝鮮戦争が
あり、2度戦争を体験した大変な人生でした」と振り返った。
1歳で同市の旧西観音町(爆心地から約1.3キロ)で被爆したブラジル・サン
パウロ市の金子ユウさん(61)は「いつも被爆後何年たったかを(自分の歳と
一つ違いなので)意識する。亡くなった皆さんのために祈りたい」と語った。
【牧野宏美、中野彩子、武内彩】
(毎日新聞) - 8月6日14時45分更新
「原爆で人生台無し」 遺族・岸本さんが参列
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000015-ryu-oki 長年、原爆症で苦しみ亡くなった夫・久三さんの妻岸本芳子さん(右から4人目)と、
娘の規子さん(左から5人目)、孫ら=6日午前10時、広島市中区の広島平和記念公園
【広島で新垣梨沙】広島市に原子爆弾が投下された1945年8月6日から
15日の終戦日まで、爆心地周辺の被爆者の救援作業にあたり、長年、
原爆症に苦しみ亡くなった岸本久三さん(享年67歳)の妻・芳子さん(75)
=名護市=は、娘や孫らと共に「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和
祈念式」に参列した。「原爆で夫の人生が台無しになった。子どもたちにも
苦労をかけた。国にはたくさん文句を言いたい」。「宝物」の久三さんの
写真2枚を手につぶやいた。
久三さんは42年、19歳で県立三中を卒業。拓殖大学に在学中徴兵され、
45年8月当時は、広島市宇品の陸軍船舶司令部(通称暁部隊)に所属して
いた。原爆が投下された時間帯は講堂の中におり、直爆は免れたが、
まだきのこ雲が残っていた6日午前から終戦の15日までの間、爆心地
周辺の被爆者の救援作業にあたり、残留放射能を浴びた。
戦後、古里の名護に帰り教師となったが、結婚して長女・規子さんが生まれた
あたりから、高熱や倦怠(けんたい)感、体のしびれなどの症状が出始めた。
外傷はなかったが、戦後の報道規制などで広島・長崎の被爆の事実が公に
されなかったことから周囲のつらい偏見や差別にも遭い続けた。
芳子さんは「治療費、生活費のために夫の父の土地を切り売りした。
実の母からも『フユーナームン』(怠け者)と言われ、本人は相当つらい思い
をした」と目を伏せる。
平和祈念式に参列するのはこれが二度目だが、「もう年で今回が最後」と
芳子さんは語る。母を気遣い、福岡から駆け付けた規子さん(54)は「父は
8月6日のことはあまりに悲惨すぎて言葉にならないと言ったが、戦争は
絶対にしてはいけないということだけは強調していた」
父の面影を振り返りながら、原爆の、戦争のもたらす苦しみと平和の尊さを
「子に伝えたい」と誓っていた。
(琉球新報) - 8月6日14時22分更新
原爆の掛け図 未来に託す 自ら被爆体験福知山の元教師
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000009-kyt-l26 原爆の悲惨な体験を描いた掛け図と、寄贈した妻の瀞さん(左)と道彦さん
自らの被爆体験を描いた掛け図で子どもたちに原爆の悲惨さを語り続け、
昨年亡くなった京都府福知山市の元男性教諭の遺作が、このほど遺族から
京都府原爆被災者の会(京都市南区)に寄贈された。大型用紙に描かれた
12枚の絵は、忘れてはならない60年前の広島の記憶と、未来に託す
平和の願いが込められている。
昨年3月、79歳で亡くなった福知山市牧、福井満夫さん。当時、軍の
見習士官だった福井さんは、広島市で訓練中に爆心地から約1キロの距離で
被爆した。戦後は福知山市の中学校で教諭をつとめ、子どもたちに被爆体験を
語り継いできた。
掛け図は「ヒロシマのゲンバク」と題し、横1・6メートル、縦1・1メートルの
12ページ。「全身を殴られる衝撃が続き、空気が焼けた」という原爆さく裂の
瞬間や、崩れ落ちた広島城の天守閣、街を包み込む猛火など、自らの体験を
語る場面ごとを、迫力ある絵で表している。
多くのけが人で埋まった救護所の場面では、助かる見込みがないため
処置しないよう体に赤チンで番号が書かれる重傷者が、痛々しい姿で描かれ
ている。最後は、ふるさとの山からミズゴケを抱えて駆けつけた母が、急性原爆症
の息子の体を冷やそうと懸命に看病し、やがて死んでいく姿で幕を閉じる。
掛け図は1978年に作製されてから福井さんガンで亡くなる前年までの25年間
にわたり、福井さんが語り部で訪れた京都や滋賀の小中学校で使われた。
府原爆被災者の会では、掛け図と残された台本を使ってビデオに残し、被爆体験
の継承に役立てていくという。
妻の瀞さん(76)は「夫に病名を告げた時、しばらくベッドに正座し、涙を流した。
無念だったのでしょう。子どもに託した平和な時代がいつまでも続くことを願って
やみません」と静かに語り、長男の医師、道彦さん(49)は「晩年はどんなに
体調が悪くとも子どもに話すことに力を捧げた。まだ、伝え続けたかったと思う」
と振り返った。
(京都新聞) - 8月6日11時40分更新
本で語り継ぐ戦争 彦根で200冊展示
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000004-cnc-l25 【滋賀県】彦根市尾末町の市立図書館で、企画展「戦争と平和を考える」が
開かれている。21日まで。
同館が所蔵する戦争や平和をテーマにした本を多くの市民に見てもらおうと、
終戦記念日が近づくこの時期に毎年企画している。
1階フロアの会場では第2次世界大戦や原爆を扱った書籍をはじめ、
戦争をテーマにした漫画「はだしのゲン」や紙芝居など約200冊が並ぶ。
その場で親が子どもに読み聞かせたり、手に取って静かに読みふける
来館者の姿が見られた。
このほか会場では、県内の空襲被害の規模を示した解説パネルなどを
展示している。月曜は休館。(島 将之)
(中日新聞) - 8月6日13時51分更新
上映会:「歴史を風化させない」 戦争映画5本−−きょうから、福井で /福井
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000236-mailo-l18 ◇きょうから19日まで
戦争を描いた映画の上映会「日中戦争、太平洋戦争を忘れない 歴史を
風化させないために」が6日から、福井市順化1のメトロ劇場で行われる。
19日まで、「土と兵隊」「真空地帯」「ビルマの竪琴」「戦場のメリークリスマス」
「鬼が来た!」――の5本。
「土と兵隊」(1939年)は、中国を行軍する日本軍を描いた国策映画。
戦時中、国民がどのように戦争を知らされていたかを知ることができる。
「真空地帯」(52年)は、召集された青年が訓練され帝国軍人として送り出
されるまでの、野間宏の小説を映画化。「ビルマの竪琴」(56年)は、
敗走する日本軍の物語を美しい琴の音色とともに描く。
「戦場のメリークリスマス」(83年)は、42年のジャワでの日本軍の俘虜
(ふりょ)収容所と、46年の戦犯拘置刑務所での極限状態での兵士たちの
心情を描く。大島渚監督。デビッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしらが出演。
「鬼が来た!」(00年)は中国北部の山村に預けられた日本兵の捕虜と
対応に苦慮する村人をコミカルに描いた、00年カンヌ映画祭グランプリ作品。
主催の福井映画サークル協議会とメトロ名作上映会は「戦争の事実、悲惨さ
を記憶にとどめ、平和を考えるきっかけになれば」としている。
ビルマの竪琴=6〜11日午前11時、午後1時10分▽土と兵隊=12〜15日
午前11時▽鬼が来た!=16〜19日午前11時▽戦場のメリークリスマス=
6〜11日午後7時半、12日同1時10分、同7時半▽真空地帯=13〜19日
同7時半――。当日一般1200円、学生1000円。
問い合わせは同劇場(0776・22・1772)。
【樋口岳大】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日16時42分更新
ヒロシマ原爆60年 星野村でも広島の火囲む
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000071-nnp-kyu 被爆直後の広島で採られた「平和の火」をともし続けている福岡県星野村の
星のふるさと公園でも六日、原爆死没者を慰霊する同村主催の平和式典が
あった。被爆六十年を迎える今年は、詩の朗読会なども開催し、参加者たちは、
思いを新たに平和の尊さを語り継ぐことを誓った。
平和の火は昨年五月、八十八歳で亡くなった同村の山本達雄さんが、
叔父を捜して被爆直後の広島に入り、焼け跡にくすぶっていた炎をカイロに
入れて持ち帰った。一九六八年からは村が管理している。
式典には約三百五十人が参列し、原爆投下時刻の午前八時十五分、
全員で黙とう。秋葉忠利・広島市長のメッセージが読み上げられた後、
山本さんの長男郁雄さん(60)が「『人間同士が殺し合う愚かなことは、
もうやめにゃいかん』と語った父の言葉をあらためて皆さんに伝えたい」と訴えた。
その後、同村総合保健福祉センターで、紛争地域の地雷の悲惨さをつ
づった詩の朗読会や児童らによる平和をテーマにした合唱会を催した。
(西日本新聞) - 8月6日14時32分更新
被爆60年:平和への思い、石川県原爆被災者友の会・西本多美子さんに聞く /石川
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000230-mailo-l17 ◇「記憶、風化させてはならない」語り部として各地へ
−−石川県原爆被災者友の会事務局長・西本多美子さん(64)
原爆投下から60年。当時4歳だった石川県原爆被災者友の会事務局長、
西本多美子さん(64)=金沢市額谷3=は、広島市段原末広町の自宅で
被爆した。家を失ったが、奇跡的に家族も含めて大きな負傷は免れた。
移り住んだ石川で今、原爆の語り部として活動を続ける西本さんは
「数少なくなる被爆体験者として、原爆の実情を伝えていきたい」と語る。
【聞き手・花牟礼紀仁】
「B29だ」という近所の男の子の声がして、窓の外を見に行った母の後に
くっついて行きました。2、3歩内側に下がった瞬間「ピカッ」。カメラのフラッシュを
千も二千も光らせたような銀白色のせん光は、子ども心にも強く印象に残っています。
家は壊れましたが、市外の勤め先にいた父、姉はじめ、家族7人に幸い大きな
けがはありませんでした。市街地と私が住んでいた地区(爆心地から2・3キロ)
の間には山があり、その陰になったため、市街地のような惨状にはならなかった
のだと思います。
27歳で結婚し、初めて広島を出ました。31年前、夫の転勤で金沢市に住み、
そこで被爆者に向けられる「世間の目」を初めて意識するようになりました。
広島では、被爆者であることを隠す人はいませんでしたが、石川では自ら
語ろうとする人は少ない。子どもや家族への偏見を恐れてのことです。
かつて約250人いた石川県原爆被災者友の会も、現在は149人まで減り、
平均年齢は70歳代半ばとなりました。「このまま原爆の記憶を風化させては
ならない」との思いから、語り部としての活動を続けています。
地元の小中学校はじめ、英米やロシア、ギリシャ、コスタリカなどでも子ども
たちに体験を伝えています。ワシントンの小学校で、「サダコ(「原爆の子の像」
のモデル)の話を知ってる」と聞くと、口々に「知ってる」と返ってきました。むしろ、
日本の小学生の方がこういうエピソードを知らない。
知り合いの教員は校長から「平和教育を控えてくれ」と言われたそうです。
教育現場での締め付けがそうさせているのでしょう。日本の子どもたちも、
私たちが話すと、とても熱心に聞いてくれるのです。これからも、核兵器廃絶を
信じて語り継いでいきたいと思います。
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日16時41分更新
被爆60年:平和への思い、県被爆者協議会事務局長・田島正雄さんに聞く /富山
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000225-mailo-l16 ◇今も耳に残って離れない「助けてくれ」の声−−田島正雄さん(77)
原爆投下から60年。広島市民に加え、出征や学徒動員で赴いた人、投下後に
救援で向かった人ら、数多くが犠牲になり、生存者も体や心に計り知れぬ“傷”
を負った。現在、富山県被爆者協議会事務局長を務める田島正雄さん(77)=
富山市水橋新町=も被爆者の1人。核兵器廃絶を願い、講演活動などを続ける
田島さんに、当時の体験や平和への思いを聞いた。【柳沢和寿】
「その時」を田島さんは、広島県・江田島(爆心地から約15キロ)にある陸軍宿舎
で迎えた。学徒動員で実家のある富山を離れ、陸軍船舶特別幹部候補生隊に
配属。朝から兵舎内で、部隊の出動準備に従事していた。
「突然、ものすごいせん光を受け、体全体に熱さを感じた。直後に『ドカン』と
大きな爆発音が響き、暴風に襲われた。落ち着いてから辺りを見ると、兵舎の
天井や窓が吹き飛んでいた」。幸い、けがはなかった。
「広島に敵の新型爆弾が落ちた」との情報だけを元に、部隊が船で急行した
司令部のある宇品港(爆心地から約4キロ)では、既に多くの兵員が死亡または
負傷。爆心地へと移動し、遺体の整理や倒壊家屋からの負傷者救助などを続けた。
「爆心地に近づくほど生存者は見つからなくなった。『兵隊さん、水をくれ』と
頼まれて飲ませると亡くなる人も多く、途中から水を与えぬようにしたのがつらかった」
原爆投下から4、5日後の救助活動中に激しい下痢、脱毛に見舞われた。
数日で回復したが、終戦後に富山へ戻り2年近く過ぎた1947年春、今度は
激しい熱を伴う肺炎を患った。約2カ月間入院し、退院後も体のだるさが続いた
という。「当時は『被爆者』という言葉すら知らず、何が原因かわからぬまま。
被爆の恐怖について知ったのは、戦後だいぶ経ってからだった」と振り返る。
我が身の被爆に改めて不安を抱いたのは、二十数年前に孫が生まれた時。
「そのころ、ようやく放射能の恐ろしさを知るようになっていたので、無事に生ま
れるか心配だった。でも、おかげさまで健康に育ってくれてます」と笑顔を見せる。
20年ほど前から県被爆者協議会の活動に参加。さまざまな場で自らの体験を
話すなど、多忙な日々を送っている。
「女性や子どもの遺体も、数多く見た。『なぜ、この人たちはこんな目に遭わ
ねばならぬのか』と。人々の『助けてくれ』という声は、今も耳に残って離れない」。
講演の最中、涙をこらえきれなくなることも多い。
「二度と核兵器を使わせたくない。被爆二世や三世にもどんな影響が出るか
わからず、それこそ人類滅亡につながりかねない。平和がいかに大切かを
伝えていくことが、私たちの役目です」。60年前の光景を目の前に浮かべつつ、
力強く語った。
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日16時35分更新
戦後60年の原点:長崎爆心地1.7キロで被爆、葛飾区・長岡和幸さん /東京
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000016-mailo-l13 ◇生き残った者の宿命 廃絶へ被爆体験語り継ぐ−−長岡和幸さん(71)
原爆が落ちた時、父は出征中で、残りの家族、私と母、弟4人、妹1人の7人は
みな、長崎市内の家にいた。家は洋服店で、私は台所近くで母親が昼食を作る
のを手伝っていた。
その時、音は無く真っ白い光に包まれた。2、3秒。最初、家族と表通りの方に
出たが、真っ白い光に包まれていたので、「そっちに行くな、こっちだ」と言って、
急いで裏手の竹やぶに逃げ込んだ。その後、ものすごい爆風が襲いかかり、
家族全員が竹林の根元にうずくまっていた。幸い全員けがは無かった。ただ、
爆風が過ぎて家に戻ると、家の正面玄関のガラスの戸が粉々に砕けていた。
それから家族で200メートルほど離れた避難所へ逃げ、一晩を過ごした。
私は58年に東京へ出てきた。その2年後に結婚して、娘が2人生まれた。
娘が出来た時は、被爆の影響が出ないかと心配だったが、健康な子で本当に
ほっとした。その娘たちはいずれも専業主婦で孫が4人いる。
今、他の被爆者10人と地元の小中学校で毎年夏休み前に、被爆体験を
語ったり、被爆者運動の総会のチラシを作っている。そういう時、娘がチラシを
作ってくれ、娘たちの夫も「父親を手伝ってあげなさい」と言ってくれる。本当に
感謝している。
私はどういう形でも、戦争には反対だ。核の抑止力なんかに守られている
ようでは、本当の平和ではないと思う。
核廃絶は実際は難しいのかもしれない。しかし、被爆者として私は、あの時
死ななかったことを「生かされている」と思って核廃絶を訴える。それが生き
残った者が背負った宿命と感じる。【聞き手・反田昌平】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日16時31分更新
戦後60年・鳥取:広島・長崎の悲惨さ、魂に刻もう−−被爆の戸田重治さん /鳥取
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000250-mailo-l31 ◇20世紀の一番大事な教育現場−−広島で被爆の戸田重治さん(81)=米子
ヒロシマに原爆が落とされてから、6日で60年がたった。旧日本軍の鉄道隊員
だった戸田重治さん(81)=米子市宗像=も、広島市内で被爆して白血球が
少なくなり、2カ月間の療養を強いられた。「広島と長崎は、20世紀で一番大事な
教育現場」。爆心地から2・2キロで放射能を浴びた当時21歳の生き証人は、
広島で14万人、長崎で7万人の命を一瞬に奪った“悪魔の兵器”廃絶に向け、
60年前の惨事を語り、平和の大切さを静かに訴えた。【山下貴史】
あの日は午前6時半ごろに起きました。掃除をして、顔を洗って、食事を済ませ
てから、8時過ぎに広島市楠木町にあった兵舎(今の私立崇徳高校)2階の教育隊
長室に行きました。
私は山口県萩市生まれで、萩市立商工実業学校を2年で中退後、鉄道省下関管区
に奉職しました。昭和18(1943)年10月に徴兵検査に甲種合格しましたが、機関士
だったこともあり、広島市の東部駐屯派遣大隊の鉄道隊に入りました。
6日に上官の部屋に行ったのは、前日までの出張報告をするためです。出張先で
もらったトマトと大豆を上級班長と同僚に上げて、隊長が来るのを待っていました。
その時でした。
◇せん光で気絶、兵舎の下敷きに
白熱でしかも黄色のせん光が、一瞬にして部屋中に広がりました。まぶしくて、
私は廊下に飛び出し、かがみました。爆風が窓側から一気に入り、ザザザー、
ザザザーという大きな音がしました。まるで将棋の駒が倒れていくように、瓦や板
が飛び、木造2階建ての兵舎は吹っ飛び、私は気絶してしまいました。
どのくらいたったのか。目の前に光のようなものが、すうっと、私に向かってきました。
つねってみても痛くない。ここは地獄だろうか、極楽だろうか。すると中隊長の声が
聞こえました。私は兵舎の下敷きになっていたのです。はりとはりの間のすき間に
落ちたため、助かりましたが……。
太田川の土手道には、顔が火ぶくれた人、皮膚が焼けてぶら下がっている人が
たくさんいました。約4キロ先の長束村(現在の長束町付近)に歩いて向かう途中、
川で顔を洗うと、手のひらが血で染まりました。頭や顔にけがをしていたんです。
◇背中にガラス片、死体焼くにおい
小高い山の上のお堂を目指してはっていくと、天ぷらを揚げたように皮膚が
ただれた人、背中にガラスの破片が刺さった人が40〜50人はいました。山の上
からは広島港が良く見えました。街にはぽつ、ぽつと、青い火が5、6カ所上がって
いました。死体を焼くにおいもしました。戦争に負けると思いました。
玉音放送は、長束村の民家で聞きました。進駐軍にどこかへ連れて行かれる
のではと思いましたが、これで明かりを自由につけていいんだなとホッとしました。
20日ごろだったと思います。母のシゲが1人で萩から汽車を乗り継いでやって
来ました。母は私の遺骨を持って帰ろうとしたそうです。「よう生きとった。よう
生きとった」と。29日に無期休暇で除隊しました。
◇惨劇の記憶伝え、平和国家作ろう
戦後は国鉄に戻り、米子市議を8期務めました。昭和50(75)年に被爆者手帳
をもらい、健康管理手当を受給しています。現在は常に健康管理をして、最大限
努力していくしかありません。
10回ぐらい体験を話しました。被爆の記憶は風化しています。被爆経験がない
から、今の人は原爆の悲惨さを分からないのかもしれません。原爆投下は、
二度と戦争してはいけないということを日本人の魂の中に刻んだ悲劇ですが、
政府はイラクに自衛隊を派遣するなど憲法9条をないがしろにしています。
広島と長崎に行って原爆がどれだけ悲惨だったか、若い人たちにはその実相を
学んでほしい。修学旅行などを利用して広島と長崎に行ってもいい。現場に教材は
あります。広島と長崎は、20世紀の中で一番大事な教育現場です。平和国家を
作るため、社会全体で原爆を勉強することが、今こそ求められているとの念を
強くしています。
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時5分更新
’05湖国・平和考:被爆60年への思い、大津在住の2人に聞く /滋賀
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000311-mailo-l25 ヒロシマは6日、ナガサキは9日、60回目の原爆忌を迎える。陸軍に入隊し、
広島駐屯中に被爆した大津市中央の小寺博さん(81)と、学徒動員中に長崎
市内で被爆した大津市日吉台の杉野佳志さん(79)に当時の状況や、被爆60年
の思いを聞いた。
◇「戦争は最大の人権侵害」−−大津出身・小寺さん
小寺さんは大津市出身で、陸軍入りして44年12月に広島へ。45年8月6日、
爆心地から約1・3キロの地点で被爆した。
1等兵だった小寺さんは、現地で負傷者の搬送に当たった。激痛にのたうち
回ったり、やけどで皮膚がただれた人々が無数に並び、倒れてゆく光景が、
今も印象に残る。「いっそ一思いに焼け死んだほうが楽だったのかもしれない」
と思うほどだったという。
58年に県被爆者友の会を設立。会長として「再び被爆者を出さないため」と
写真展の開催やスピーチ、デモ行進など、精力的に活動を続ける。
体験を語り継ぐ上で、障壁も少なくない。「被爆者は被爆という1点だけでつな
がっている」。個々の思いはさまざまで、社会的差別などが原因で表に出たがら
ない人も多い。小寺さんは「被爆者は肉体以上に精神を痛めつけられている。
戦争という国家の行為で傷ついたのに国は十分な対応をしてきたのか。最近は
国会などでも被爆者支援が大きな話題になることもなく、現状では身の不幸と
あきらめるしかない」と語る。小寺さんは次世代へ向けて、「戦争は最大の
人権侵害。再び繰り返さないために、国民は声を上げていくべきなのに、
最近の『自分さえよければ』という風潮が心配」とメッセージを送った。
【高橋隆輔】
◇「人生で一番の悲惨な体験」−−神戸出身・杉野さん
杉野さんは、神戸市出身。松山経済専門学校(現在の松山大学)在学中の
1944年、学徒動員で長崎市の三菱長崎造船所に行き、魚雷艇の製作に従事した。
45年8月9日午前11時過ぎ、いつものように造船所の2階で作業していると、
窓の外が真っ赤になり、数秒後爆風で建物が大きく揺れた。とっさに床に伏せ、
再び顔を上げると、造船所中の窓ガラスが割れ、鉄製の窓枠がアメのように
変形、床の上に工具類が散乱していたという。
「とにかく逃げなあかん」。そう思い、近くの防空ごうに向かう途中、けがをした
のか工員ら数人が岸壁から海に飛び込むのを目撃したという。杉野さんは幸い、
背中に爆風で飛ばされた木片が刺さった程度のけがで済んだという。
終戦の日の晩、憲兵隊らしき兵士が寮にやって来て「われわれは降伏しない。
一緒にやってくれ」と話し、学生らも「僕たちもがんばる」と答えたという。
しかし、造船所にいることも出来ず、学生たちはいったん郷里に帰ることにした。
この時、原爆で焦土と化した街を目の当たりにし、初めて投下された特殊爆弾の
威力を知った。
杉野さんは「人生の経験の中で、一番大きな体験が原爆に遭ったこと」と
言い切る。「一緒に学徒動員で行った学生の多くは途中で、召集され兵隊として
亡くなった人もいる。私は軍隊には行かなかったが、原爆に遭ってしまった。
たまたま命があったという気がする。そんな経験から、どんな悲惨な出来事も
乗り越えられる。それを信念にして、これまでずっとやってきました。子や孫ら
にも困難にあった時、そう考えるよう言ってきました」と静かに語った。
【高田房二郎】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時10分更新
戦後六十年展:旧日本陸軍の銃弾、薬きょうから「平和」の紙片−−下市 /奈良
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000284-mailo-l29 下市町下市、町アメニティセンターで開催中の「戦後六十年展―振り返って
みよう! あの日あの時」で、銃弾の薬きょうに入れられていた「平和」と
書かれた紙片が展示されている。町文化連盟副会長の大西一則さん(50)が、
中学生だった36年前、友人から譲り受けた。上質な紙で、戦後に入れられた
ようだ。大西さんは、「どんな思いがあったのだろうか」と話している。
旧日本陸軍の三八式歩兵銃で、弾(長さ約6・5センチ)は2発あった。薬きょう
には火薬が残っていたため「危険だから抜こう」とピンセットで外し、内側に
巻かれた白の紙片に気づいた。「平和」の文字は鉛筆書きで、丁寧に書かれて
いた。
当時、教師に見せると「三八式小銃の弾。軍需工場に動員された女学生が
入れたのでは」と話したという。しかし防衛庁防衛研究所では「紙を黒色火薬に
長く入れると黒くなる。弾は機械で作られて抜き取り検査し管理は厳重だった。
紙を入れると不発、暴発し責任を問われる」と、戦時中に入れられたのでは
ないと説明する。
「六十年展」には、千人針、志願兵募集のポスターや同連盟の菊田仁郎会長が
収集した戦争中の新聞なども展示。9月30日まで(午前9時〜午後5時)。
土日曜、祝日休み。問い合わせは同センター(0747・52・8234)【栗栖健】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時5分更新
原爆・私の証言:垣貞博子さん/妹尾要さん /岡山
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000261-mailo-l33 60年前にあった戦争の最大の惨禍(さんか)である広島、長崎への原爆投下。
広島県と県境を接する岡山県にとっても、それは決して対岸の火事ではなかった。
県内には今も大勢の被爆者が暮らし、「8・6」を語り継いでいる。岡山市被爆者会
副会長の垣貞博子さん(76)=岡山市あけぼの町=と、県原爆被爆者会会長の
妹尾要(かなめ)さん(74)=同市北幸田=の2人に、改めて当時の惨状を語って
もらった。
◇体の左側、次々に発病−−岡山市被爆者会副会長・垣貞博子さん
当時、女学校の4年生で、爆心地から2・5キロ離れた航空機部品工場で作業
をしていました。工場の北西側に窓があり、青白い光に気付いて窓の方を見よう
とした瞬間、オレンジ色の光が迫ってきて伏せました。建物は倒壊し、体のすぐ横、
3センチくらいのところに梁(はり)が落ちてきました。
外へ出ると、急ごしらえの救護所に目を開けられないほどに顔を白く腫らした
友人が横になっていました。熱線でやけどすると白くなるんですね。おなかを
パンパンに腫らしたブタの死がいのような感じでした。全身に大きな水ぶくれを
何個も付けた老人が歩いていました。何が起きたのか分かりませんでした。
帰宅すると、全身にやけどを負い、顔の皮をあごからぶら下げた妹(13)が
いました。妹は女学校1年で、爆心地近くで野外作業中、熱風の直撃を受け
ました。私は頭がボーっとしていて、なぜか「かわいそう」と思いませんでした。
「外にいるのと同じようなのが家にもいるな」と。妹はその夜、息を引き取りました。
翌朝、打撲で体中に痛みが走り、寝返りも打てないほどになりました。私は
痛さで「妹と代わってあげるから殺して」と言ったのですが、今は、どんな思いで
両親はその言葉を聞いただろう……と思います。
5年後に故郷の岡山に戻りました。40年ほど前から卵巣膿腫(のうしゅ)、
乳房の腫瘍(しゅよう)、緑内障と発病し、大腸ガンにもなりました。当時、
爆心地の方に向いていた体の左側ばかり。被爆の影響だと思います。
これまで原爆のことは思い出したくないので、語りませんでした。しかし十数年
前、名古屋に暮らす孫から「聴かせてほしい」と電話があり、初めて被爆体験を
話しました。「誰かが話さなくてはいけない」と思いました。市被爆者会での活動も
始め、語り部をしています。
若い人には私のような苦労はさせたくないです。私だけでたくさん。戦争さえ
なければ、あんな恐ろしい原爆を使うことはなかったはず。戦争だけは絶対に
嫌です。【構成・若狭幸治】
◇60年間、頭離れぬ不安−−県原爆被爆者会会長・妹尾要さん
あの日の朝、私は国有鉄道の広島駅で広島車掌区の同僚ら約40人と線路に
下り、いつものようにラジオ体操をしていました。空がピカッと光ったかと思うと、
ドーンという轟(ごう)音が響き、訳が分からないまま数メートル吹き飛ばされ
ました。気付いたら腕や脚が熱くなっていて……。本当に一瞬の出来事でした。
私は満鉄に就職しようと思い、1945年4月に広島県三原市の私立糸崎鉄道
学校に入学しました。広島車掌区の鉄道員として学徒動員されたのは7月下旬
です。8月4日に岡山市北幸田の実家にいったん帰省し、下着などの忘れ物を
持って6日早朝に広島に戻った途端、被爆したわけです。これも運命だった
のかもしれません。
やけどの痛みで「あちー」と声が出て、倒れたまま泣きました。周囲を見回すと、
駅舎の屋根は崩れ、同僚らはうつぶせになって倒れています。とにかく避難
しようと思い、みんながばらばらになって走りました。至る所が燃えており、
空襲で一面に爆弾を落とされたのかと思いました。1発の爆弾の被害だとは
今も信じられません。
広島駅の二つほど隣の駅まで走り、動いていた貨物列車で夕方ごろ広島県
三次市まで逃げました。国民学校が教室いっぱいにけが人を収容しており、
私も毛布1枚で寝ました。周囲の大人から「特殊兵器で死者が相当出た」と
聞かされ、恐ろしくなりました。
健康な人が後から市に入り、被爆して亡くなった例もあります。私はすぐ
市外に脱出できたのが良かったのかもしれません。でもいつ倒れるかと心配し
続けてきました。被爆の影響か、20年ほど前から狭心症で月1回病院に通って
いますし、将来の健康にも不安があります。この60年間、原爆が頭から離れた
ことはありません。
次の世代には戦争や核兵器のない平和な世界をつくってほしいと思います。
核兵器を廃絶できないとしても、核の恐怖を伝え、話し合いで争いを解決して
ほしいと願っています。
【構成・四谷寛】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時20分更新
追憶・戦後60年目の夏に:「戦争嫌い」作りたい−−童話作家・山本さん /和歌山
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000307-mailo-l30 ◇悲惨さ、子どもに−−岩出の童話作家・山本真理子さんに聞く
◇きょう広島原爆忌
1945年8月の広島、長崎への原爆投下から60年。自身の被爆体験などを
基にした童話を執筆し、原爆の悲惨さと平和の尊さを訴え続ける岩出町の
童話作家、山本真理子さん(78)に当時の記憶や今の思いなどを聞いた。
【聞き手・岸川弘明】
◇被爆、がれきの下敷き
姉と二人、自宅(広島市打越町208、爆心地から約1・8キロ)の茶の間で
朝食を取っていました。窓の向こうにすごい閃光(せんこう)が見えて。光った
なと思った瞬間、もう吹き飛ばされていました。もちろん何が起こったのか
わかりません。一時的に目が見えなくなり、耳も聞こえなくなりました。気が
付いたらがれきの下敷きに。屋根の瓦の中に首まで埋もれました。
どれくらい時間がたったのかわかりません。「真理ちゃん、真理ちゃん」と
叫ぶ声が聞こえました。姉の声でした。後で聞いたんですが、姉は光った瞬間、
ちゃぶ台の下に身を隠したそうです。
私を見つけると、姉は泣きながら周りにある瓦を一つずつ取り除き、私を
引き出してくれました。姉もけがをしていました。足の傷から血がどんどん
流れていて。私を助けるのに必死で、自分のけがには気がつかなかった
のでしょうね。今度は私が泣き出してしまって。二人ともよく命が助かったなと
思います。
◇後遺症をずっと心配
被爆の体への影響はずっと心配でした。私には子どもが3人いますが、
幸い影響が出なかった。それでも、小さい時は子どもが風邪をひいただけで
被爆の影響かもしれないと思ったほどです。
今はもう大丈夫だけど、若いころは雷の音やカメラのフラッシュが怖かった。
それと、何か物が上から落ちてくるのではという不安感。初めて入る建物を
くぐる時は、「もしかしたら崩れてくるのでは」となかなか入ることができなかっ
たんですよ。
若いころは、それはもう「アメリカ憎し」でした。でもね、それでは憎しみの
連鎖を生むだけだって気づいたんですよ。それよりも、原爆の悲惨さを伝える
ことの方が大事だって。
◇核兵器はなくせる
原爆を知らないっていう若い人をテレビで見たことがあります。原爆の記憶は
確実に風化していると思います。広島、長崎に落とされたのはいわば「原爆の
赤ちゃん」。今の核兵器はその何千、何万倍の威力を持っているんでしょう。
使用すれば、人類が全滅してしまいますよ。それなのに今でも核実験は続いて
いるのだから。
でも、核兵器をなくすことは可能です。だって人間が作ったものでしょ。人間が
作るのをやめたら済む話です。自然災害などとは違うんですから。
若い人たちに原爆の悲惨さを知ってほしくて、私は小中学校などを回って
語り部みたいなことをしています。「戦争嫌いの子どもたちを作ること」。
それが私の使命だと思っています。
………………………………………………………………………………………………………
■人物略歴
◇やまもと・まりこ
和歌山市出身、和歌山高等女学校卒。童話作家。陸軍に勤務していた
父の転勤で広島に住んでいた18歳の時、被爆した。主な著書に「広島の
姉妹」「広島の母たち」など。
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時15分更新
原爆:園児ら「平和の祈り」 広島原爆の日を前に追悼−−松江 /島根
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000244-mailo-l32 広島原爆の日を前に、多くの被爆者を子どもたちが追悼する「平和の祈り」が
5日、松江市の松江カトリック教会であった。教会に隣接する「松江暁の星
幼稚園」の園児約100人が平和を願い、小さな手のひらを合わせた。
同幼稚園の園長も務める原田豊己神父(51)は、原爆を描いた絵本
「おこりじぞう」(山口勇子作)を読み聞かせた。被爆して全身が焼けただれた
女の子が、死ぬ間際に「水が飲みたい」と道端に立っていた地蔵のもとへ
倒れ掛かると、地蔵は仁王のような怒りの顔を見せて涙をぽろぽろとこぼし、
涙を女の子の口へ運ぶ――。
「戦争をすることで、戦争と関係ない女の子が原爆を受けて死んでしまう。
地蔵はそのことに怒ったんです」。原田さんはそう語りかけ、川中淳太ちゃん
(5)は「爆弾がなかったら、女の子は死ななくてすんだのに」と話した。
【酒造唯】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時15分更新
広教組関連ホテル発砲事件:発生1年、解決に至らず−−広島・東区 /広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000263-mailo-l34 県教職員組合(広教組)の関連団体が運営するホテル「東方2001」=
東区光町2=を狙った発砲事件は、6日で1年を迎えるが、容疑者逮捕には
至っていない。8月6日の祈りの朝を銃弾で切り裂く凶行に市民の怒りは
いまだに大きく、付近に住む女性会社員(43)は「銃を使ってしか自己表現
できない犯人は情けない」とば倒した。
事件は、昨年8月6日未明に発生。内外で二重になっている同ホテル玄関
の自動ドアの外側ガラス1枚が粉々に割られ、内側から銃弾2発が見つかった。
広島東署捜査本部は、銃弾はロシア製拳銃「マカロフ」で、銃弾は38口径と
みている。
同本部は、現在も聞き込みなどを進めている。捜査員は「暴力で社会活動を
封殺しようとする許されない犯行だ」と改めて検挙を誓う。
同ホテルの支配人は「今年4月に委託運営業者が変わった。私は事件に
ついてはほとんど知らない。嫌がらせもまったくない」と話す。昨年、平和記念
式典に出席するために小学生などを引率して関東地方から来た市民団体は、
今年も同ホテルを利用。引率した男性は「ホテルを変える考えは全くなかった。
今年は静かに平和を祈りたい」と話した。【吉川雄策】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時20分更新
ろうそく手に核兵器廃絶や世界平和 中京区の三条大橋で反戦活動
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000055-kyt-l26 ろうそくをともし、戦争の犠牲者を追悼する参加者たち
(6日午後7時半、京都市中京区・三条大橋)
広島への原爆投下から60年目を迎えた6日、京都市中京区の三条大橋で
市民有志がろうそくを手に原爆犠牲者を弔う反戦活動「キャンドル・ビジル」
を行った。多くの人出でにぎわう週末の三条大橋に平和の火が静かにともった。
2001年9月に起きた米中枢同時テロ後の世界平和を願い、団体職員や
学生らが同年結成した市民団体ピースウォーク京都の主催で、「原爆の日」の
活動は初めて。ビジルは「寝ずの番」や「通夜」などの意味で、反戦の意思
表示活動として世界に広がっている。
核兵器廃絶や世界平和を願う親子連れやお年寄り、若い人たち約50人が
参加し、ペットボトル製のカバーをかけたろうそくを手に三条大橋に立った。
「PEACE」や「核兵器のない世の中を」などと書いた手作りの看板を掲げ、
通行人に平和の尊さを訴えた。
京都市左京区のアルバイト浅井桐子さん(49)は「今なお、多くの犠牲者が
出ている戦争の実態をあらためて考えたい」と話していた。
(京都新聞) - 8月6日22時9分更新
広島の鐘、静かに鳴り響く=原爆犠牲者に祈り−ドイツ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000012-jij-int 【ベルリン6日時事】広島への原爆投下から60年に当たる6日、ドイツでは
キリスト教団体や平和活動家らが未明から広場などにろうそくをともしたり、
第2次大戦で空襲を経験した人々らが教会を訪れるなどし、各地で原爆
犠牲者に祈りがささげられた。
原爆投下時刻の午前1時15分(日本時間同8時15分)、広島の姉妹都市、
北部ハノーバーの教会では、犠牲者をしのび、広島から贈呈された鐘が
3回静かに鳴り響いた。
(時事通信) - 8月7日7時1分更新
原爆誕生地で反核デモ=「ヒロシマ、ナガサキを後悔」−米
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000016-jij-int 【シリコンバレー6日時事】広島への原爆投下から60周年を迎えた6日、
人類初の原爆を製造したロスアラモス国立研究所(ニューメキシコ州)など
米国内の原爆ゆかりの地で、核廃絶を求める抗議行動が繰り広げられた。
研究所周辺には平和団体関係者ら500人以上が集まり、「ヒロシマ、ナガ
サキ(への原爆投下)を後悔する」「石油を求める戦争をやめよ」と書かれた
プラカードを掲げて抗議。日本の被爆者も駆け付け、「広島、長崎の悲劇を
繰り返さないで」と訴えた。
(時事通信) - 8月7日9時1分更新
被爆した「友のため歌った」=鎮魂の祈り、初の野外コンサート−平和公園で・広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000112-jij-soci 「平和の聖地」に力強い歌声−。広島市中区の平和記念公園で6日夜、
「広島平和コンサート2005」が開かれた。原爆慰霊碑に並ぶように組まれた
大型ステージ。気鋭の指揮者、佐渡裕氏のタクトで、鎮魂と平和の祈りが
音楽となった。
平和記念公園は原爆死没者の慰霊の地。大音量での演奏はふさわしく
ないとして、市は従来オーケストラなどの野外演奏を認めなかった。それが
被爆60年を迎え、平和のメッセージが込められた楽曲を中心に今回の
コンサートが実現した。
この日のために編成された「平和巡礼合唱団」が市民に歌い継がれて
いる「ひろしま平和の歌」を、被爆者を励ますかのように力強く歌い上げた。
最年長の同市西区、森本範雄さん(77)は「友のために歌った」。路上で
被爆。立ち話をしていた親友は熱線を浴びて即死し、森本さんは陰に
隠れる形で助かった。動転し、その場に放置した遺体は行方不明に。
「心に重くのし掛かっており、振り払うために合唱や被爆体験の語り部
活動に打ち込んできた。これからも友のために歌い続けたい」と最後に
笑顔を見せた。
(時事通信) - 8月7日0時0分更新
平和を願い風船に短冊 大津で原爆の日法要
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000004-cnc-l25 【滋賀県】「原爆の日」の6日、犠牲者の冥福と世界平和を祈る法要が、
大津市園城寺町の三井寺でしめやかに営まれた。
同寺の福家俊明長吏(83)ら僧職や一般市民ら約100人が参列。原爆が
広島に投下された午前8時15分に黙とうをささげ、「世界の子どもたちが
笑顔で暮らせますように」などと書かれた短冊を付けた風船約3千個を空に放った。
読経の後、福家長吏は「今こそ唯一の被爆国国民として平和憲法を生かし、
仏教の寛容の精神で核のない平和な世の中を目指します」と「反核平和への
三井寺アピール2005」を読み上げた。
法要後には、原爆をテーマにした紙芝居上演や俳句会などもあった。
(吉岡雅幸)
(中日新聞) - 8月7日11時1分更新
原爆:旧日本軍収容所で被爆のオランダ兵捕虜2人、平和祈念館に遺影登録へ /長崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000079-mailo-l42 長崎市で旧日本軍の捕虜として被爆、死亡したオランダ兵2人の遺影が
4日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録申請された。広島市の
歴史研究家、森重昭さん(68)が仲介した。国立長崎原爆死没者追悼
平和祈念館で登録される。
クリスチャン・H・H・アールダルス大尉(当時30歳)とヨハネス・H・F・ベ
ールさん(同22歳)。森さんの仲介で、オランダ兵モーリッツ・J・L・メーゲ
ンスさん(同23歳)の遺影も7月26日、同祈念館に申請され登録が済んでいる。
森さんは昨秋、外務省外交史料館(東京都)の資料で連合国軍総司令部(GHQ)
などの調査によるオランダ兵捕虜7人の死亡記録を発見した。3人は爆心地
から1・65キロの長崎市幸町にあった旧日本軍の収容所第14分所で被爆。
アールダルス大尉は8月14日に頭がい骨骨折、ベールさんは同17日に
全身やけど、メーゲンスさんは9日に圧死したと記してあった。
アールダルス大尉は捕虜番号1号で捕虜の司令官的存在。収容所では弟の
ウィリー・アールダルスさんも原爆で死亡したと考えられていたが、森さんの
調査で生存してオランダに帰国、99年亡くなったことも分かった。
長崎市によると、オランダ人捕虜9人が原爆死没者名簿に記載されている。
【横田信行】
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時40分更新
広島原爆忌 被爆テーマのTシャツコンテストを企画
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000015-maip-soci 被爆60年Tシャツコンテストを発案した木戸祐子さん=広島市中区の
平和記念公園で6日午前7時43分、貝塚太一写す
平和記念式典に、初めて参加した経営コンサルティング会社社員、木戸祐子
さん(23)=広島市=の姿があった。身につけた紺色Tシャツには「NUKE
FREE(核をなくそう)60」の文字。今年5月、勤務先の会社で「ヒロシマ被爆60年」
をテーマにしたデザインコンテストを企画し、商品化した。「やってみたら、そんなに
難しいものじゃないってわかりました」。これからも自分なりの形で平和にかかわ
っていこうと思っている。
広島に生まれ育ったが、身内に被爆者はいない。小中学校時代の平和学習の
時間には被爆体験を聞いたりしたが、どこか人ごとのように感じた。しかし、高校を
卒業したころから「広島に生まれ育ったのに、自分は何もしてないなあ」と思うよう
になり、ずっと心にひっかかっていた。02年に現在の会社に入り、田原実社長
(40)が、出身高校の原爆慰霊祭の手伝いをしている姿を見て、思いは強くなった。
被爆60年を伝える新聞記事がきっかけとなって、アイデアを練るうちに普段
着ているTシャツが目に止まった。「Tシャツなら8・6の時期にちょうどいいし、
誰にでも身近。平和問題を意識したことがない若い人たちに着てもらえたら」
コンテストの審査委員長を務めたデザイン会社社長、福原勘二さん(44)は
被爆2世。木戸さんについて「肩の力が抜けて、自分にできる平和を考えよう
という姿が心地よかった。関わらなかったら、自分も原爆を意識することはなか
ったかも知れない」
Tシャツの話を紹介した福原さんのブログには、「私も実は2世」と名乗る人が
次々と書き込みをし、平和教育の大切さなどについて意見が交わされた。
式典に出て木戸さんは、「若い人が意外に多くて親しみを感じた。一歩を踏み
出せたような気がする。来年も参加しようかな」と話し、一緒に行動してくれる
仲間が増えることも期待している。【牧野宏美】
(毎日新聞) - 8月6日17時50分更新
鎮魂、平和願い灯籠流し 被爆60年の広島、暮れる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000165-kyodo-soci 被爆60年を迎え、鎮魂と平和の祈りを込め元安川に流された灯籠。
後方は原爆ドーム=6日夕、広島・平和記念公園
安らかにお眠りください─。広島市中区の原爆ドーム横を流れる元安川
などで、灯籠(とうろう)流しが6日夕行われた。平和を願う言葉が書かれた
赤、青、黄色など色とりどりの灯籠約1万個が川面に揺れ、被爆から60年の
「原爆の日」は鎮魂の祈りとともに暮れた。
被爆者の主婦井関正子さん(72)=同市佐伯区=は、がれきを運び出す
作業の最中に被爆して亡くなった多くの級友を思って川辺にたたずみ、
孫の武田真美さん(22)と一緒に「戦争のない幸せがいつまでも続きます
ように」と書いて灯籠を流した。
東京から両親と弟2人と来た中学2年生の本田健志君(14)は「原爆ドーム
を初めて間近で見て、原爆の恐ろしさを知った」と灯籠を見つめた。
(共同通信) - 8月6日20時51分更新
広島で灯籠流し平和へ思い新た 派遣の県内高校生
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000004-ryu-oki 【広島で新垣梨沙記者】原爆死没者の霊を慰める「ピースメッセージとうろう流し」
が6日夜、広島市中区の原爆ドームの横を流れる元安川など4カ所で行われた。
北谷町の「広島・長崎平和学習派遣事業」の一環で広島を訪れている同町の
高校生2人も、メッセージを添えて灯籠(とうろう)を流し、明日への平和を願った。
2人は同日午前、北谷町と毎年交流を重ねる広島被爆者援護会の献水式に
参列し、体内被爆者の家族の原爆体験などを聞いた。「すべての人々が平和に
暮らせるように」とのメッセージを添えた玉城美歌奈さん(15)は「原爆と地上戦、
状況は違っても悲惨さは変わりないと感じた」と話した。
(琉球新報) - 8月7日9時29分更新
灯ろう流し 「原爆の日」の夜、川面に鎮魂の炎 広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000000-maip-soci 平和の願いを込め、元安川に流される灯ろう=広島市中区の平和記念公園
で6日午後7時47分、貝塚太一写す
原爆犠牲者の冥福を祈り、平和を願う恒例の「とうろう流し」が6日夜、
広島市中区の原爆ドーム脇を流れる元安川など3カ所であった。60回目の
「原爆の日」の夜、色とりどりの灯ろうの鎮魂の炎が、川面に揺れた。
今年は、大学生ら若者約10人が高齢の被爆者に代わって灯ろうを流す
試みに取り組んだ。若者らは、福祉施設や病院にいる被爆者125人を
事前に訪ね、灯ろうに記す平和へのメッセージや被爆体験を聞き取った。
自分たちと同じ年ごろで深い傷を負い、身近な人を失った被爆者の体験を
継承する機会も作りたかったという。
灯ろう流しは戦後間もなく、水を求めて被爆者が飛び込んだ川で始まった。
現在は、ボランティアが約1万基の灯ろうを有料で用意している。
【久木田照子、山口一朗】
(毎日新聞) - 8月7日11時2分更新
原爆:広島・長崎投下から60年…被爆者の思いは 宮崎の楠木さん /宮崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000197-mailo-l45 ◇悲惨な記憶、今もなお
1945年夏――。
「暑いから外で食べます」。少女3人はそう言って、柳の木で陰になった食堂の
外階段に腰掛けた。
3人は長崎市の造船所に勤める工員で、いとこ同士。この日、8月9日は、
造船所で防空ごう造りを手伝い、製材所に材料を取りに来た。
3人は階段に縦一列に座った。宮崎から親せきを頼って家族で長崎に来た
当時14歳の楠木妙子さん(74)=宮崎市吉村町=は上から2段目に座った。
作業前に腹ごしらえしようと、ひざの上に弁当を載せた時だった。
楠木さんはこの60年間、8月が近づくにつれ、あの夏の記憶がよみがえって
くる。「あと何日したら8月が来るかを考えてしまうんです」。8月6、9日にテレビで
広島、長崎の平和祈念式典を見ると涙が出てくる。
爆心地から南に約1・5キロ。爆風で飛ばされ意識を失った。気が付くと、
積み重なった材木の間に頭を入れ、うつぶせになっていた。すぐに起き上がれ
なかった。
あたりが火の海に一変していた。顔をやけどして片方しか目を開けられないで
いたいとこを見つけたが、もう1人は探し出せなかった。
自分の体を見ると、服の後ろ側が破れて背中から尻まで赤くただれ、右ひじは
骨が見えるほど肉がえぐられていた。治療を求め、山腹の学校に行ったが、
死体と重傷者がひしめき合っていた。
「家に帰ろう」。途中山の中で、手を引いていたはずのいとこがいなくなって
いた。「自分のことだけで精いっぱいだった」。日が暮れていく中、一人、泣き
通しで歩いた。「自分が生きてるのかどうかも分からなかった」
ようやく探し当てた家は崩れ、誰もいなかった。窓から入り、タンスの脇に
背中を上にして、小さな体を横たえた。「ここで死んでもいい」
「妙子か」。父親が見つけ出し、家族のいる防空ごうまでおぶってくれた。
その後、列車を乗り継ぎ、線路を歩いて、清武町の父の実家に着いたのは
1カ月後だった。
「帰郷後も近所の人から『この子は助からないだろう』と言われた。それ以来、
体が弱って健康への不安は常にある」
右ひじのけがは毎日何回も薬を塗って治療した。若いころは夏でも長袖を
着て過ごした。「なぜ原爆というひどい物を造らねばならなかったのか、落とさ
ねばならなかったのか。核兵器は二度と使わないでほしい」。悲しげな目で
語った。【関谷俊介】
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◇9日から連載します
6日、広島に原子爆弾が落とされて60年の歳月が流れた。県内の被爆者や
その周辺にいた人々は60年間に何を考えどう生きてきたのか。長崎原爆の
日の9日から連載します。
8月6日朝刊
(毎日新聞) - 8月6日17時50分更新
かぐや姫 ヒロシマで平和の歌
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050807-00000013-dal-ent 5年ぶりに再結成して平和コンサートを開いた「かぐや姫」。左から伊勢正三、
南こうせつ、山田パンダ=広島市西区のホール(撮影・神子素慎一)
1970年代に活躍したフォークグループ・かぐや姫が6日、約5年ぶりの再結成
を果たし、広島市西区の広島サンプラザホールで「被爆60年特別コンサート
ヒロシマ60」を開いた。これまで広島で慰問活動を行ってきた南こうせつ(56)が、
被爆して60年目の「原爆の日」にメンバーを招集。ヒット曲「神田川」などを披露する
とともに世界平和を訴えた。
世界平和、核兵器廃絶を願うかぐや姫の歌声が会場に響き渡った。2000年の
ツアー以来、この日限りの再結成。1986年から広島で慰問コンサートを開いて
きた南の「被爆して60年の今年、僕の原点でもあるかぐや姫でコンサートをやり
たかった」という声にこたえて、メンバーの山田パンダ(59)と伊勢正三(53)が
駆けつけた。
客席からの盛大な拍手を浴びて登場した3人。南は「被爆国の国民である
われわれが、核のない世界を願いコンサートを開きました」とあいさつ。
山田は「60年前の今日が繰り返されないよう、子供たちの平和を願い歌います」
と語りかけ、伊勢は「3人で並ぶと、僕もかぐや姫だったとしみじみ思う」と言った。
愛・地球博の現場へ中継されたステージでは被爆者に向けて黙とうした後、南が
「世界平和のため一緒に」と音頭を取り、約4500人の観客と「神田川」「妹」
「22才の別れ」など32曲を熱唱。戦争を知らない世代と60年前の悲劇を経験
した人々がひとつになった。また特別出演した大友康平(49)が「上を向いて
歩こう」、森山良子(57)が「さとうきび畑」を披露し、盛り上げた。
これまでの収益金を広島市に寄付し原爆養護ホーム新設に貢献した南。
応援に来た山田と伊勢をうれしそうに見ながら「今回は経費がかかったけど
収益の一部を市に寄付します」と冗談めかして約束した。
(デイリースポーツ) - 8月7日11時20分更新