【まとめサイト】高遠のボランテリア34【削除必死だな】

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922国連な成しさん
いやそれなら、信濃国http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/01/post_8.html

共同のニュースを引用する。「『信州』への改称検討 田中康夫長野知事」というニュースだ(参照)。
長野県の田中康夫知事は5日の仕事始め式で、長野県から「信州」への改称を検討していることを明らかにした。理由として「『信州』は既に認知され、評価されている」などと語った。
 ひぇ〜である。やるなぁである。そんなの他府県人にはまるで関心なかろうが、それこそ信州人の悲願でもある。信州ナショナリズムの泣かせ所を突いている。それをやったら、私ですら、
 ヤッシー贔屓になってしまうかもしれない、と、理性が飛ぶ。いやそれなら、信濃国のほうが…とか。ああ、海こそなけれ物さわに、よろず足らわぬことぞなき、である。かくいう私はディアスポラの信州人でもある。
 この関連は「トラジ、トラジ」(11.20)や「仁科五郎盛信を巡る雑談」(11.02)など。
 長野県人は他府県人には「長野県人」というが、内心では「信州人」だと思っている。沖縄県人と「うちなーんちゅ」みたいなものだ。
 もっとも、若い世代はそうもいかないのだが、それを言えば、キムチを食わない韓国人だっている…てな話になる。
 しかし、そういう信州というのは、実は近代の産物でもある。信州は、もともとは、中世イタリアみたいに、小国家的な14藩が盆地を中心に寄り添っていただけだ。
 信濃の国はじっしゅう(10州)にぃ、である。大政奉還、明治になってもまだ当初は長野県と筑摩県に分かれていた。このほうがまだ自然だ。
 だが、明治政府は長野を県庁所在としたことで、勝手に長野県にまとめてしまった。信州人が合点したわけでもない。ヤッシーの今回の方針は象山佐久間先生の信州人の遺恨でもあるのだ。
 信州人は政治的な民族でもある。こたつに足をつっこみながら、そして若者は政談を交わし、老人は「たくらねごと」と呟く。いいぞ、そうではなくては信州人とは言えない。
 長野県が信州に改名したら、今度は「ずくなし追放運動」を推進してもらいたい(ディープなジョークですみません)。