■一人だけ北京に残った朝日特派員■
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog042.html 昭和40年に日中交換記者協定が実現し、朝日、毎日、読売、産経
など9社が北京に特派員を派遣した。翌41年11月、文化大革命が
勃発すると、漢字の読める日本人記者団は壁新聞から情報を得て
大活躍をした。中国政府はこれを「外国反動分子による反中国宣伝」
と非難し、日本人特派員を次々と追放し始めた。
たとえば、42年9月には、毎日や産経が毛沢東の顔写真代わり
に似顔絵を使った事を理由に追放され、43年6月には日経の鮫島
特派員がスパイ容疑で逮捕・拘留される、という具合である。こう
して45年9月には、北京に残るのは、朝日の秋岡特派員だけにな
ってしまった。
毎日、産経が追放された時、9社で抗議と追放理由の詳細な説明
を求める共同声明を出そうということになったが、朝日新聞が脱退
までちらつかせて強硬に反対した。[1,p34]
当時の朝日新聞社の広岡社長は、「中国文化大革命という歴史の
証人として、わが社だけでも踏みとどまるべきである。そのためには
向こうのディメリットな部分が多少あっても目をつぶって、メリット
のある部分を書くこともやむを得ない」という趣旨の発言を社内でも
していたと伝えられている。
中国代表部は、こうして日本国内で数百万人が読む新聞に内部から
検閲を加えていたわけである。その恐るべき政略には脱帽せざる
をえない。