http://www.bukyu.com/seck/s9.html 9月9日を重陽の節句というわけは?
重陽の節句の起源は、ほかの節句と同様古来中国にさかのぼることができます。
中国では、奇数は縁起のよい陽の数とされ、一番大きな陽の数である九が重なる
9月9日を、「重陽」として節句のひとつとしてきました。
中国ではこの日、茱萸(しゅゆ=ぐみの実のこと)を袋に入れて丘や山に登ったり、
菊の香りを移した菊酒を飲んだりして邪気を払い長命を願うという風習がありました。
これが日本に伝わり、平安時代には「重陽の節会(ちょうようのせちえ)」として宮中の
行事となり、江戸時代には武家の祝日に。
http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0725.htm 人日の節句(七草の節供・七草の節句)
五節供の一つ。旧暦正月七日の行事。
七草の節供といわれるとおり、現在でも「七草粥」を食べて祝う行事が行われている。
江戸時代の公式な祝日(式日)であった五節供の最初の節供。当時は七日の朝食に
将軍はじめ皆が七草粥をたべたそうだ。
●「人日」の由来
人日は、他の節供同様中国に由来するもの。
古代中国では正月一日から、「鶏、狗、猪、羊、牛、馬」の順に獣畜の占いを立て、
七日になって人の占いを始めたということで、人日。ちなみに翌日八日は穀の占いを
立てた。
この占いは、新しい一年の運勢を占うものである。なお、この日の天候もその一年を
占うものであったらしく、晴れなら幸ありとされる。
また、唐の時代には「七種菜羮」を食べて無病のまじないとしたとのことで、日本の
七草粥と通じる。
古代日本の古代中国・朝鮮からの文化的影響大なのだが
全部が全部を受け入れたわけではない。これも又、重要な事実だね。
中国は易姓革命による単なる王朝交代劇の繰り返しの歴史であり
自立的な近代化の基礎になる封建制度の発展は見られなかった
という説は今日では一部見直しの機運があると聞くが・・・
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/ta77rekisi.htm 七夕行事の歴史
●晋の時代(A1)
周処の「風土記」によりますと、「天の川に(中略)五色の輝きを見たものは、
これを良い兆候として、富・寿・子を授かることを願う。但しかなう願いは1つ(後略)」
(大意です)とあります。
この時代は「祈る」ことのみで行事は行われなかったようであります。
●梁の時代
古代中国の風俗などを著した書物「荊楚歳時記」には
七月七日為牽牛織女聚会之夜 是夕 人家婦女 結綵縷 穿七孔針 或以金銀
鍮石為針
陳几筵酒脯瓜菓於庭中 以乞巧 有喜子綱於瓜上 則以為符応。(B1)
「牽牛織女が会う七月七日の夕べに、婦女は五色の糸を針で通して、瓜果を庭に
並べて、裁縫の腕が上がるように祈り、蜘蛛が瓜の上に糸を張れば、願いに応じて
くれたとした。」(大意です)
時代がここまで来ますと、唐代の乞巧奠とほぼ同じような風習であったことがわかり
ますね。(A1)
●唐の時代
以下略
http://homepage2.nifty.com/calendar/3gatu/3-3.html 雛祭り
雛人形をかざり、桃の花、菱餅、菓子、白酒などを供えて祭る、3月3日の節供行事。
上巳の節句、桃の節供、女の節供ともいう。白酒、菱餅、雛あられ、ちらしずしや
ハマグリの吸い物をいただく。
中国の漢代には、3月の最初の巳の日である上巳(じょうし)に水辺で身を清める節供行事
があった。魏の頃には、呼称は上巳節のままだが3月3日に固定するようになり、晋代には
杯を流水に浮かべて詩歌をよみあう遊びの曲水の宴が行われた。日本にも伝わり、
701年(大宝元)の3月3日には宮中で宴が催され730年(天平2)には曲水の宴が設けられて
いる。律令はこの日の宴を節会(せちえ)のひとつに定め、時代が下って江戸幕府は、
上巳節を五節供のひとつとした。
…
中国では三月三日に、草もちを食べていたが、日本では江戸時代からよもぎもちなどを
ひしもちにし始めた。ひしもちは白青紅の順に重ね、白は雪、青は若芽、紅を桃の花に
なぞらえたものである。
その他、白酒、あられ、はまぐりの吸い物などがあるが、ハマグリは二枚貝で、他の
他の貝をいくつ持ってきても身と蓋が合わず、会うのはその二枚だけであることから
貞操を意味している。
http://web-japan.org/kidsweb/master/chado/1-his01-j.html 茶道の歴史
そもそも日本人が茶を飲むようになったのは奈良時代からと言われています。
最初は中国から茶葉が輸入され、おもに貴族や僧侶の特別な飲み物となりました。
鎌倉時代になると中国へ留学した禅僧が茶の種や茶器を持ち帰り、僧侶を中心に
広く茶が飲まれるようになりました。また茶はどんな病気にも効く薬とも言われ、
当時の将軍源実朝(1192-1219)が好んで飲むようになったことから、武士の間でも
飲まれるようになりました。そして室町時代には大勢の人を招待し、豪華な食事や
見事な道具類で接待する茶会が盛大に催されるようになりました。
得意げにコピペを貼っているところを誠に恐縮だが
そんなことを言えば今の中国・韓国・北朝鮮など
明治日本の近代化以降の歴史の模倣ではないかと
自身で言っているのに等しいと思うんだけど。
http://syajyo.tamacc.chuo-u.ac.jp/~kozuem_j/i_natto.html ★納豆★
★由来と歴史★
納豆は大豆を原料とした発酵系食品の一つです。醤油、味噌、さらに塩納豆と
いわれる、浜納豆(浜松)、大徳寺納豆(京都)、浄福寺納豆(奈良)など、中国の
「くき」が伝わってその製法で作られたものです。「くき」には塩を使わない淡くきと
塩を入れた塩くきがありました。
また、関東や東北地方の人に好まれる一般的な納豆というものは、強い粘りを
持つ、糸引き納豆のことです。
http://www.hanayoshino.com/m_003.htm 豆腐と納豆はどちらが先に生まれた?
●大豆は弥生時代に伝わってきた?
世界でも類を見ないような大豆の食文化を築いてきた日本人ですが、大豆や
大豆製品自体のルーツは、中国にあります。
大豆という植物そのものの起源は、シベリアから中国の東北部あたり、あるいは
中国の南部だろうといわれています。
その大豆が日本に伝播したのは、弥生時代の前期、紀元前三世紀ころではないかと
考えられています。稲作などとともに伝えられたとされますから、日本人と大豆は
たいへん長い付き合いということになります。一方中国では、紀元前一二〇〇年ごろ
から、みそやしょうゆなどの発酵食品のルーツである醤(ひしお)というものが作られて
いました。肉や魚を麹菌で発酵させて塩蔵したもので、秋田のショッツルと似たような
ものです。現在の「寺納豆」「塩辛納豆」の元祖である、大豆を使った(し)という食べ物も、
紀元前一〇〇年ごろにはあったという記録があります。
こうした発酵食品の製法が日本に伝わったのは、奈良時代に遣唐使が中国に赴いて
からのようです。