☆日本人3人拘束事件の本スレ part148☆

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479かなり長文だけどよかったら読んでください 1/6
【社会と個人 自由と責任】

近代理念としての個人の概念には
 (1) 「個人は自由である。と共に自己の行為の結果は(利益・不利益共に)自己に帰す」
と言うものがあると思う。これがまず大前提で原則。原則的個人論。

例えば、Aが道を歩いていてBに襲われ金を取られた場合、(1)ではこうなる。
Aは弱かったのでその結果の不利益を、Bの方は強かったのでその結果の利益を自己に帰した。
歩くのも襲うのも原則自由なので誰にもその権利は侵せない。
Aは弱いので道を歩かない自由もあったのに歩く自由を選択したので金を失った。それだけ。
もしAが金返せといっても「それは自己責任だろ」になる。BがAを襲って回収するしかない。
>>479続き

しかしこれでは、社会(国際社会、国家、地方自治体、家庭)の秩序は保たれない。
社会的動物である人類の生存と繁栄は望むべくもない。

そこで社会はその社会の性質に基づく一定のルール(法、倫理、道徳、マナー、常識等)を作る。
これにより個人の行為にそのルールを基準とする善悪の判断が生まれる。
同時にその善悪に基づき、社会はその社会を構成する個人に対し、
自己の行為の結果について利益不利益の軽減、免除、加重なのどの配分が出来るようになる。

前述の例で言えば、刑法という社会のルールに照らすと、
Aについては、道を歩いた自己に帰すべき不利益は免除され、歩く利益を保護し、
Bについては、襲った自己に帰すべき利益は接収され、その上刑罰という不利益が課せられる。
Aは社会のルールを守り、Bは破ったからだ。
Aに自己責任は問われず、本来Aがすべきことを社会がしてくれる。

つまり、個人を私的側面から見た(1)に、公的側面から見た項(2)が加わり、
 (1) 「個人は自由である。と共に自己の行為の結果は(利益・不利益共に)自己に帰す」
 (2) 「社会は個人の自由を保護する。と共に個人は社会のルールを遵守する」
これが社会的個人論というべきようなものだろう。
>>480続き

【今回の人質事件での「自己責任論」】

現在、イラクには退避勧告が出されている危険地帯だが、渡航自体は不法行為ではない。
しかし常識的には行くべきでないだろう(常識も社会ルールの一つ)。
だから、行く人は(2)の後段を破っているので、前段の社会の保護の対象外。
(1)の完全に個人の責任で行くべき。

それにも拘わらず、もしその個人に自らの生命・身体・財産の危機が生じた場合、
日本政府は法人保護の原則により個人の救出に着手するだろう。
法で定めた義務であるからだ。
ただし、政府の行為に重大な過失がない限り、結果の責任についてはすべて個人に帰する。
個人の不利益のみならず政府の不利益も、その個人の行為の結果でありその個人に帰する。
費用も、政府に法的な求償権があるとは思えないが、個人は自然債務として自ら支払うのが常識的だろう。