>>479続き
しかしこれでは、社会(国際社会、国家、地方自治体、家庭)の秩序は保たれない。
社会的動物である人類の生存と繁栄は望むべくもない。
そこで社会はその社会の性質に基づく一定のルール(法、倫理、道徳、マナー、常識等)を作る。
これにより個人の行為にそのルールを基準とする善悪の判断が生まれる。
同時にその善悪に基づき、社会はその社会を構成する個人に対し、
自己の行為の結果について利益不利益の軽減、免除、加重なのどの配分が出来るようになる。
前述の例で言えば、刑法という社会のルールに照らすと、
Aについては、道を歩いた自己に帰すべき不利益は免除され、歩く利益を保護し、
Bについては、襲った自己に帰すべき利益は接収され、その上刑罰という不利益が課せられる。
Aは社会のルールを守り、Bは破ったからだ。
Aに自己責任は問われず、本来Aがすべきことを社会がしてくれる。
つまり、個人を私的側面から見た(1)に、公的側面から見た項(2)が加わり、
(1) 「個人は自由である。と共に自己の行為の結果は(利益・不利益共に)自己に帰す」
(2) 「社会は個人の自由を保護する。と共に個人は社会のルールを遵守する」
これが社会的個人論というべきようなものだろう。
>>480続き
【今回の人質事件での「自己責任論」】
現在、イラクには退避勧告が出されている危険地帯だが、渡航自体は不法行為ではない。
しかし常識的には行くべきでないだろう(常識も社会ルールの一つ)。
だから、行く人は(2)の後段を破っているので、前段の社会の保護の対象外。
(1)の完全に個人の責任で行くべき。
それにも拘わらず、もしその個人に自らの生命・身体・財産の危機が生じた場合、
日本政府は法人保護の原則により個人の救出に着手するだろう。
法で定めた義務であるからだ。
ただし、政府の行為に重大な過失がない限り、結果の責任についてはすべて個人に帰する。
個人の不利益のみならず政府の不利益も、その個人の行為の結果でありその個人に帰する。
費用も、政府に法的な求償権があるとは思えないが、個人は自然債務として自ら支払うのが常識的だろう。