【共産主義】戦争をなくす唯一の方法【しかない!!】
772 :
112:
■ 日米関係試論
かなりの反発があると予想されるが、あえて書いてみる。
長いが、勘弁してくだされ。
▽中核派の体質
このあいだ、革命的共産主義者同盟中核派のホームページを訪れてみた。
「日米の帝国主義が最終決戦をする」という、20年ほど昔の「日米・決戦論」は、今では
ようやく取り下げられたようだ。
現在の理論では、「日米両帝国主義は経済決戦の時を迎えつつ、アメリカ帝国主義は
世界への、日本帝国主義はこれに対抗し単独での朝鮮と中国への侵略戦争を画策して
いる」ということになっていて、昔の「日米のレーニン帝国主義論的・決戦論」に比べれば、
だいぶ理論的深化のあとがみられるようではあったが、あいかわらずであった。
この党派に、精緻な理論を期待してもしょうがない。
なんとか、マルクス、レーニン、トロツキー、および自派の過去の文献と訓古学的に
整合性を取り、正統性を主張し続けなければならない党体質なので、仕方がないのだ。
「日米・決戦論」が取り下げられただけでも、かなりの前進とせねばならないのだ。
この党派のいいところは、他党派にみられぬ「戦闘性」が保たれているところだから、
これはこれでよしとするしかない。
774 :
112:04/04/04 11:24 ID:???
▽戦旗派の変貌
一方、たしか 「人民史観」 だったかに基づき、「現在は、世界人民が革命の時代を
迎えつつあり、帝国主義各国は反革命同盟を結んで、共同反革命をせざるをえない立場
に追い込まれている」 「帝国主義の反革命干渉戦争を内乱に!」 と、威勢のよかった
共産主義者同盟戦旗派のホームページは、「ブント(bund)は人権と環境をテーマに行動する
NGOです」 という旨のスローガンに変わっていて、いったいどうしちゃったの、という感じで
ある。
この党派の日米関係論は、「世界から孤立するアメリカから離れて、日本は独自の外交
戦略を!」 というブルジョア評論家レベルにまで後退していて、かつて「米帝国主義との
反革命同盟のための、成田空港・粉砕!」を叫んで管制塔突入占拠を戦った面影は、
もはやほとんど無い。
「世界革命などありえない」「マルクス主義、新左翼主義からは脱却した」とすら宣言した、
この80年代には期待の星であった新左翼党派は、しかし、裏切り者になったかというと、
そうではないと私は思う。
拙稿
>>708-709>>560のような問題意識により、エコロジー闘争に関わる中で、さまざまな
NGOとの共闘を通じて、実践的な課題から生まれてきた路線であろうことは、充分に想像
できるのだ。
ただし、労働者階級という階級視点を捨ててしまって、「人類」という類的意識にのみ
運動の基盤を置いたのでは、これは本末転倒であろう。
革命党たるもの、NGOや市民団体と連帯して戦っていくのは当然である。しかし、自分が
NGOになってしまっては、ちとまずかろう。そういう党も、中にはあってもいいとは思うが、
それがBUND(共産主義者同盟)と主張されると、いくらなんでもちょっとな、と思うのだ。
この党派のことは、後日また。
775 :
112:04/04/04 11:25 ID:???
▽反米派への違和感
さて、2ちゃんねるに多いチンコメというのは、今までさんざん分析してきたように、
「国家」という幻、「美しい日本」という、もはや死んだ幻覚にとりつかれた脳内存在であり、
勃興する中国人民、韓国人民に対するやっかみを燃料として、自分の経済的困窮化を
「これでいいんだ、これでいいんだ」と、脳内調整している存在だということは明らかだが、
私は、これに真っ向から対立する、この板に多い 「反米」 といわれる意見の束にも、
反発こそ無いものの、しばしばいまひとつ違和感を感ずることがあった。
この違和感というのは、いったい、なんなのだろうか。
一昨年、副島隆彦氏にお会いしたときにも感じた違和感であり、彼は「反米愛国」だが、
私は「反米反日」だからだと、片付けていたのだが、どうもそれだけではないような気が
するのだ。
日本は、言われているほど、「対米追従」をしているのだろうか。
日本は、アメリカに占領されて以来、ずっと「米国に従属」していたのだろうか。
小泉外交は、「米国の言うがまま」 というのは、本当なのだろうか、ということである。
776 :
112:04/04/04 11:26 ID:???
▽アマルガム国家
たしかに、表面上は、それは疑う余地が無い。
しかし、アメリカは軍事的には大国であるが、現在、戦争を同時に二か所で行う
戦闘能力しか持たないという点で、ローマ帝国やイスラム帝国、モンゴル帝国ほど、
他に対して圧倒的に強い軍隊というわけではない。
経済的には、アメリカは純債務国であり、毎年毎年かなりのカネが、日本から吸い
上げられていくにしても、日本の持つ対アメリカ債権は、天文学的数字に膨らんでいる。
どうしてもアメリカが、それほど強いようには、思えないのだ。
ただし、アメリカと日本を、「ひとつのブロック」として考えると、その「経済規模」は、
借金にしても、GNPにしても、廃棄物の量にしても、生産力マシーンの桁外れの量と
しても、とんでもなく大きなものとなる。
思い浮かんだのは、「癒着」という言葉だ。
そして、いよいよ、21世紀に入り、「日本という独立国家」がなくなりつつある状態が、
「チンコメ」、「反米」という二つの相似系のイデオロギーを生んでいるように思えてきたのだ。
じっさいには、かれらの論が守ろうとしている 「独立国家としての日本」 というものは、
すでにだいぶ影が薄くなっていて、「アメリカ×2+日本」という、一つの「アマルガム国家」
が、誕生して久しいのではなかろうか。
777 :
112:04/04/04 11:27 ID:???
▽多国籍企業と国家
現在、米日間の「国家利益の対立」となって、顕著に争われているのは、BSE牛肉の
輸入問題だけである。あとは、ほぼ、まったくの無風状態と言っていい。このこと自体が、
この動乱の時代にあってはおかしなことである。
たとえばトヨタの自動車工場は、アメリカのフォードなどとはシェアを争うが、アメリカの
工場で労働者を雇い、アメリカ国家に税金を払う。アメリカ資本に乗っ取られた日本の
銀行は逆に日本人の銀行とシェアを争いつつ、日本人を雇い入れ日本国に税金を払う…、
というぐあいに、そして、日本でも、アメリカでも、人びとは 「ソニーの新しいDVDでハリ
ウッドの映画を見る」…というぐあいに、「国家対国家の利益の対立」は、「個々の多国籍
企業同士のシェアの争い」に、とってかわられてしまっているのではないか。
国家の権力が、多国籍企業の権力に、内部から相当程度、侵食されて、どちらの国
でも、ほぼ乗っ取られている状態なのではないか。
それが新しい国家というものの形なのではなかろうか。
だからこそ、米日は、これら多国籍企業の「共通の利害」のために、イラクに出兵し、
中国に元の切り上げを一緒になって求めるなど、「何から何まで、共に歩む」ことにした
のではないか。
日本政府がドルを買い支えるのも、アメリカの経済を支えて、アメリカにモノを輸出する
ためである。日本政府が自国の農業を壊滅状態にしながら、アメリカの農産物を大量に
輸入するのも、輸出の黒字幅を解消するためである。
二つの国家のバランスシートをまとめてしまえば、案外、安定した状態なのではないか。
つまり 「昔の大坂と東京の関係のようなもの」 ではないのか、ということだ。
778 :
112:04/04/04 11:28 ID:???
▽米日共同体
このようなありかたの、いい実例がある。EUだ。アメリカと日本は、EUのように、
政治経済において癒着した「ひとつの国家」に編成しなおされたのではなかろうか。
そしてこのブロック国家(米日共栄圏)は、「社民的なべつの資本主義」をめざすEU
ブロックと分岐して、多国籍企業資本の論理のより冷酷に貫徹するマシーン国家へと、
向かっているように思われる。
もしそうだとすると、「日本国を今後どうするか」という地点から、アメリカとの関係を
「同盟、あるいは非同盟」、というように考えていく、それを最重要課題に据えるチンコメ、
あるいは反米の 「国際関係論」は、もはやあまり現実に対して実効性をもたないの
ではないか、と考えられるのである。
「小泉の外交」が、アメリカに追随しているのではなく、今後、誰が首相になっても、
民主党が政権に就いたとしても、この「相互癒着した国家の構造」がシステムとして
根本から変革されないかぎりは、この米日関係は、大同小異であろう。
しかし、日本国は、アメリカ国に「従属」したのでも、対等の「同盟」をまっとうするという
のでもなく、たんに 「相互貫入して癒着」 してしまったのではなかろうか。
これは、アメリカから見ても、同じなのではないか。狂牛病問題では、ジャパニーズ
スタンダードが、アメリカ牧畜農民に突きつけられているのである。
この観察が正しい場合、チンコメというのは現状肯定をし、その空しさを「麗しき日本国家」
という幻想で誤魔化しているだけの存在であるし、反米というのは日本国の主体的役割
(犯罪性)を過小評価し、アメリカに責任のすべてを転嫁していることになる。
779 :
112:04/04/04 11:30 ID:???
▽ 「国境を越えたこの新国家を、解体せよ!」
革命の路線として、「民族民主+社会主義革命」か、それとも「世界同時革命」か、
というのは、1958年と同じく、大変な分岐点である。
非現実に思われるかもしれないが、 「国境を越えたこの新国家を、解体せよ!」
というニュアンスを、グローバル時代の共産主義のスローガンはもつべきなのでは
なかろうか、と思う。
軍隊のような武装装置やテレビ放送局のようなイデオロギー装置といったものは、
具体的実在であり、脳内の作用だけで消し去ることはできない。
しかし、国家や民族といったものは、貨幣と同じく、資本主義のつくりだした「イデオロギー
的現実」にすぎない。
いわば多数の脳内での幻想的現実として、信じさせられている現実である。仏教でいう
ところの「マーヤー(色即是空)」であるにすぎないと言える。
テレビを消し去ることはできないが、そのプロパガンダは、電源のスイッチをひねれば
簡単に消え去る。
貨幣を燃やすのには勇気がいるが、ライターで火をつければ、やはり数分のうちに
灰となる。
「国家」というのも、同様に、火を放てば燃えあがる脳内の存在である。