【うなる!】産経の賛戦報道をチェキすれ10【大向こう】
七十七歳で逝ったジャーナリスト青木彰氏に「マスコミ界の重鎮」という新聞見出しがつ
いていた。たしかに重鎮は重鎮だが、ご意見番でありお目付け役だった。口やかましい小言
幸兵衛や頑固おやじだったが、しかし心温かい“記者養成師”なのだった。
▼戦後の新聞激動期を生きた青木さんのマスコミ批判の視点は、決して高いところからも
の申す評論家のそれではない。あくまで地べたをはい回る記者の目だった。つまり実践的ジ
ャーナリズム論である。根っからの新聞記者、それも社会部記者だったのである。
▼肩書はとても書き切れない。出発は産経新聞で社会部長や編集局長やフジ新聞社長をし
た。筑波大教授になり、朝日や読売や東京やNHKの各種委員まで務めた。東京新聞連載の
コラム「メディア評論」をまとめた『新聞力』(東京新聞出版局、近日発売)が遺作となっ
た。
▼記者経験からくる青木さんの「もの申す」切り口は鋭く、深かった。いま日本はなぜ輝
きを失ったか。それはほかならぬ新聞ジャーナリズムが衰弱したからである。新聞は横なら
び体質から脱却し、テレビの後追いなどするな。記者魂を取り戻し、新聞よ再生せよと叱咤
(しった)するのだった。
▼青木さんが育てたジャーナリストは何百人にもなるだろう。小欄もその一人だが、社会
部記者時代、青木デスクから原稿をほめられた記憶がない。いつもぎりぎり油を絞られた。
「もう、ちょいだな」というのが最高のほめ言葉なのだった。
▼まだ三十六歳のヒラ記者をいきなり論説委員にし、「明日から産経抄を書け」と命じた
のも当時論説委員長の青木さんである。あれから三十ウン年、「もう、ちょいだな」という
青木さんの言葉を聞くことができるのはいつの日か。