ブキッチョ(子豚)ですけど…

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86頭痛
呂布 奉先  ?〜198
五原郡九原県の人。勇猛さを買われ、并州の役人に取り立てられた。并州刺史の丁原によく気に入られた。
霊帝が崩御すると丁原は洛陽に乗り込んだ。何進の死亡後、董卓は都の実権を掌握した。呂布に目をつけた董卓は、彼を唆し丁原を殺させた。呂布は丁原の首を持って、董卓に寝返った。董卓は呂布を非常に信愛し、親子の契りを結んだ。
董卓はいつも護衛として呂布をそばに置いていた。しかし気性の激しい董卓は、あるとき腹を立て、呂布に手槍を投げつけた。呂布をそれを避け、何度も謝った。これ以来、呂布は董卓を恨むようになった。また、呂布は董卓の侍女に手をつけ、いつか発覚するのではないかと不安に思っていた。
司徒の王允は同郷の呂布と親しくしていた。王允は董卓暗殺計画を企てており、呂布を仲間に引き込んだ。呂布は自らの手で養父の董卓を殺害した。王允は呂布を奮武将軍に任じ、温侯に封じた。董卓が死去すると、李たちが長安を攻撃し、呂布は支えきれずに、数百騎と共に長安を脱出した。
その後、袁術を頼ったが拒否され、袁紹の元に身を寄せた。しかし、袁紹に疑われ、張楊を頼った。張は呂布を迎え入れ、曹操と敵対した。しかし、二年のうちに、諸城を曹操に奪回されたため、呂布は東に逃げて、劉備を頼った。
劉備が袁術討伐で留守の間に、呂布は劉備の本拠地下を奪った。劉備は呂布に降服し、呂布は勝手に徐州刺史と称した。陳珪陳登親子に従って、袁術と敵対し曹操と手を組んだ。しかし、劉備を攻めたことで、再び曹操と敵対した。呂布は下で曹操軍に包囲された。三ヶ月がたつと、呂布陣営はまとまりを失い、侯成・宋憲・魏続が陳宮を縛り投降してきた。呂布も逃げられなくなり、降服した。
呂布は曹操に向かってこう言った。「あなたが歩兵を率い、私が騎兵を率いれば、天下は平定したも同然です。」曹操はこの言葉に少し戸惑ったが、劉備が呂布の裏切りを強調し、曹操は呂布を絞首刑にした。
呂布は勇猛な男であったが、策略に欠け、目先の利益ばかりを追ったのである。そして、配下をうまく統率できず、負けることになった。