ほとりAnReal

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603ほとり@f136236.ap.plala.or.jp
>>396
 理解してもらえるよう言いかえるならば、自分を始めとする人間(それの核となる意識)に、
価値が無いものだと感じたとき、その事を恐ろしいと思うことはありませんか?
 世界を置き去りにして、自我を失った自分が世界そのものへと溶けて、自分を認識する方法を
失ってしまうことを、恐ろしいと思うことはありませんか?
 ただ指先をすり抜けるように過ぎていく時間の中にしか自分がいない、そして過ぎ去って
しまった時間においては、その有ったこと、無かったことを判断する方法すら持たないことを
考えたとき、安定した確かなものとして認識していた今この瞬間を生きている自分の意識が、
実はとても不安定で混沌とした中にいることに気付き、次の瞬間に脆く消え去ってしまいそうな
不確かなものであることを認識してしまうことはありませんか?

 それらが理解できない、というのであれば、自分はもうそれを説明する理屈を持ちません。
 いまのところ我々には「無」や「無限」というものを認識する方法がありません。
 ほとりが思い描く「無」のイメージは、ここまでの時間によって作られたほとりの意識
そのものが“感じとっている”ものなので、それは言葉による説明は不可能なのでしょう。
 余談ですが、言葉という拙い意思伝達方法を用いてでは、既にほとりの中にイメージと
してあるものを、どこかに移すというだけのことすら満足に出来ないと言うことです。
 言葉の出来ることは、ただそれへの「ヒント」を与え、理解してもらえるようにする
だけのことなのでしょう。逆にこれから先、新しい決まりごと、新しい言葉を取り決める
ことによって、スムーズで損失の少ない(究極的には全くない)イメージの伝達を可能に
することにより、色々な可能性が見えてくるかも知れません。