外道 Part30

このエントリーをはてなブックマークに追加
780( ´`ω´) ◆BusaikuHX6
「理系」と「文系」の区分が生む両者の煽りあいは、今も香ばしい(w。
特に理系から文系への罵倒が多いが。
明治において最初の国立大学「東京大学」が生まれる際に時の政府は、
「実学」と「それ以外」とを区別した。前者に予算と優秀な学生を獲得し配分するのが
その目的であった。(もっとも前者に法学等が後者に理学等が入っているが)。
特筆すべきは前者に「工学」が入っていることだろう。
これこそが日本において『科学技術』なる(本来別物であった「科学」と「工学」の合体)造語が
誕生する起源になったと思われる。以来『科学技術』は「自明」のものとして今に至っていると考える。
そして「理系」と「文系」の不毛で硬直化した現在の対立関係の起源も容易に見ることができる。
もちろん社会・人文の分野が「(理系)科学」に対して抱くコンプレックスは世界中で見られる。
それゆえ社会・人文の分野は、新しい神聖・聖性と権威をもった「(理系)科学」に自らもならんとして、
無意味な計量化(数学化)の道を歩み様々な奇異な分野に次々と細分化されていった。
また「理系」も啓蒙的理性の夢を追うばかりでオルテガの意味で「大衆」と化していった。
かくして「理系」と「文系」も時代の要請に答えられず、また硬直化しその意義の多くを失った、と
オイラは見ている。見たくないから見ない、気がついても言わない、言ってもきかない。そして破局を迎える。
我々が「自明」であると「刷り込まれているもの」がじつは自明ではない。

781( ´`ω´) ◆BusaikuHX6 :2007/03/31(土) 18:05:26 ID:??? BE:431092894-2BP(6222)
>>780
e.g. フーコーは以下のよう言う。
 貧者=理性に反するもの、「労働しないこと」=「神への反抗」=「非理性的人間」
「今や労働は神聖な行為である!その神聖な行為のできない貧者は救済すべき存在じゃない。
慈善事業は罪悪だ。貧困は非難すべきものだ。」という宗教的な道徳感性が生まれるわけである。
つまり貧困は道徳的に悪いことだ、と。「労働しないこと」=「神への反抗」=「非理性的人間」という図式が成立する。
そしてフーコーは経済的な有効性よりも宗教改革による「労働に対する考え方」の変化こそがその最たる要因だ、
というわけである。同様に、誰かが「狂○」であるかどうかは「道徳的要素」で判断される。つまり、狂○社会的な悪と
してではなく、道徳的な悪として監禁されると考えられる。理性と非理性、理性と狂○の分割の線を引き狂○とは何かを
定義したのは「道徳」だった。
et seq.


フーコー『狂○の歴史』


その他、「キリスト教道徳」(あるいは「フランス革命の正体」)は多くの「人間的営為」を否定し
その根絶を図るようになった。それらは今もプロパガンダとして学校制度の中で「自明」なのもとして埋め込まれる。
プロパガンタなる言葉はおそらくカトリック教会が作り出したのではないか。
Congregatio de PROPAGANDA fide, 1962、教皇グレゴリウス15世による「信仰布教のための聖省」がそうだろう。

「キリスト教道徳」の世界支配には大きな論点に『性』の問題があるが、いずれまた。

( ´`ω´) 「社会制度もモラルも」また「科学」も、みな同じ場所からやって来たのだ。