>>780 e.g. フーコーは以下のよう言う。
貧者=理性に反するもの、「労働しないこと」=「神への反抗」=「非理性的人間」
「今や労働は神聖な行為である!その神聖な行為のできない貧者は救済すべき存在じゃない。
慈善事業は罪悪だ。貧困は非難すべきものだ。」という宗教的な道徳感性が生まれるわけである。
つまり貧困は道徳的に悪いことだ、と。「労働しないこと」=「神への反抗」=「非理性的人間」という図式が成立する。
そしてフーコーは経済的な有効性よりも宗教改革による「労働に対する考え方」の変化こそがその最たる要因だ、
というわけである。同様に、誰かが「狂○」であるかどうかは「道徳的要素」で判断される。つまり、狂○社会的な悪と
してではなく、道徳的な悪として監禁されると考えられる。理性と非理性、理性と狂○の分割の線を引き狂○とは何かを
定義したのは「道徳」だった。
et seq.
フーコー『狂○の歴史』
その他、「キリスト教道徳」(あるいは「フランス革命の正体」)は多くの「人間的営為」を否定し
その根絶を図るようになった。それらは今もプロパガンダとして学校制度の中で「自明」なのもとして埋め込まれる。
プロパガンタなる言葉はおそらくカトリック教会が作り出したのではないか。
Congregatio de PROPAGANDA fide, 1962、教皇グレゴリウス15世による「信仰布教のための聖省」がそうだろう。
「キリスト教道徳」の世界支配には大きな論点に『性』の問題があるが、いずれまた。
( ´`ω´) 「社会制度もモラルも」また「科学」も、みな同じ場所からやって来たのだ。