最近の僕の思想的到達点と言えば、「腐女子論」、これに尽きると言っていいかもしれない。
まだ大成していませんが、そのとっかかりをここで発表するというのもアリでしょう。
さらに話を進めよう。
例えば、萌えヲタと腐女子の犯罪、そうだな例えば傷害罪のデータを見比べた時に、
仮に腐女子の犯罪が萌えヲタの数字を上回っていたとしても、
それでも腐女子はサディスト犯罪者だと言う批判は、あたらないと考えている。
それは、例え腐女子の傷害犯罪(被害者の多くは、同じ婦女子かいたいけな男子小中学生だろう)
の件数が多かったとしても、
それでも圧倒的多数の腐女子はなお、
そういった犯罪には関わっていないということになるはずだ。
大多数の腐女子が傷害事件を起こしているわけではない以上、
仮に、萌えヲタと比較した際の腐女子による暴行事件発生率が統計的に見て、有意に高かったとしても、それでもなお、
「腐女子は弱いものを暴行して快楽を得る猟奇サディストだ!」という批判は
不当だと考える。
という訳で、僕は、
特厨十勇士の新しい思想的よりどころとして、
「腐女子論」という思想モノを発行するべきだと考えるようになった次第なんです。
テーマは、腐女子との共生。
腐女子というものの立場を、腐女子でないものの立場から擁護してみる。
そういった試みが、僕はイカスと思うんだよね。
その為の、「腐女子論」です。
副題は、「2ちゃんに舞う大義―腐女子は2次元の代替物(者)となりえるか―」
です。
もちろん初めのとっかかりは、
「アンチ・腐女子運動を討つ!」というところから始めるんだけど、
そこでの主張の要点は、「木を見て森を見ず」というところに集約されると思う。
http://jiten.www.infoseek.co.jp/Kokugo?qt=%CC%DA%A4%F2%B8%AB%A4%C6%BF%B9%A4%F2%B8%AB%A4%BA&sm=1&pg=result_k.html&sv=DC&col=KO >――を見て森を見ず
>事物の末梢的部分にこだわりすぎて、本質や全体をとらえられないことのたとえ。
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要するに、最低限、人々の集合体を批判する場合には、
マクロでの視点を持ちましょうということだね。
一部の腐女子がおかしな行動を取っていたからと言って、腐女子全体がそうであるかのような主張をすることは、
ミクロの個別事象を全体に還元しているという点で、はっきり言って的外れであり、不当な責任転嫁であると考えられる。
どうしてもその個別の腐女子ではなく、腐女子全体を叩きたいのであれば、最低限統計的データを出すべきだし、
そのデータ自体が、統計学的に見て、本当に比較可能なデータなのか、という吟味も必要なはずなんだ。
ただ、もちろんそのデータが正しいと分かった結果の後でも、その批判されるべき性質が過半数を超えていない場合はなお、
>>175で示したような観点から考えて、腐女子全体を叩くことはできないと、僕はそう思うけどね。
まぁ個別の事例をいくつか引っ張り出してきて、それを元にどうこうって話よりはマシではあるけど。
腐女子のA子さんがまたぞろワイドショーで話題になってます。
容疑は少年に対するレイプ未遂。
その時に、
「また腐女子かよ!」
「これだから腐女子は・・・」
「事件を起こしたのは最近ボーイズラブにはまっている通称・腐女子と呼ばれているタイプの女性で・・・」
違う違う違う!
事件を起こしたのは純粋にA子さんなんだよ。そのA子さんがたまたま腐女子であっただけの話で、
「腐女子のA子さん」という括り方が最初からおかしいの。