私小説〜しゃがみこむ三十代

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1賢治 ◆E.KmoeX.CE
「あんたさ、私に隠してる事があるなら今のうちに言いや−」
これから出掛けようとする私に、通代は投げ捨てるように言った。
「何をまた言ってんだか・・」
気にも掛けずに部屋を出ようとする私に向かって更に
「あんたは知らんかったやろうけどな、昨日まであんたに
               興信所の人間つけとったんでぇ−」
と通代(みちよ)が叫んだ・・この女はいつもこうだ。
意表をつく行動に出ては私の挙動を観察し、そこから何かを推し量ろうと
するのが結婚以来のこの女の常套手段なのだ。
「まあとにかく釣りに行くで、帰ってからにしいや」
そう言ってドアを閉めようとする私の背中越しに、通代の
「その報告書が明日届くねん白状すんなら今夜やでぇ
           ・・まぁエエわ、ほな行ってらっしゃい」
という声が聞こえた。
振り向いて眼が会うと通代は上機嫌で「くっくっく・・」と
まるで悦にはいるような笑いをしながら、私を視線から外した。
2賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/11(月) 10:55:24 ID:???
浜名湖のほとりを走らせながら、車の窓からその見慣れた景色を眺めた。
今は見慣れ、眼を閉じても浮かぶこの風景も二年前に移り住んだ時には
やはり新鮮だった。
潮の流れの側で暮らす事は、気持ちを新たに再出発したい私にとって
山村育ち故からの憧れをも叶えてくれる、有り難い環境だった。
過ぎ去った時間の何かを精算するとともに、これからの生活に何かしらの
希望を持たせてくれるような気がしたのだ。
その希望が、さほどの根拠も展望もないものである事に気付いてはいたが
今はただただ、煩わしい現実をほんの一時でも
            過去のものと思わせてくれるだけで良かった。
見慣れる程に新鮮さは失いつつも、だからこそもたらしてくれる
安らぎに満ちた風景を窓の外に眺めつつ・・
ふと、通代とのここまでの生活の中で果たして私達夫婦の間には、どれ
だけの信頼が育ったのだろうと思うと、やりきれないものがあった。
3賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/11(月) 10:57:19 ID:???
妻である通代に対する絶望は常に、そのまま私自身の不甲斐なさに
対する絶望でもあった。
婚姻届を受理された時から、我々は法的にも間違いなく夫婦であり
それを告知するしないに関わらず、客観的にもそう見えたであろう。
違う土地で産まれ育った二人が、制度にのっとった形式上の夫婦から
婚姻後間も無くの懐妊に依って「親」であり「家族」になった。
私と通代は結婚しているのだから夫婦であるし、子供が存在するのだから
親である事は紛れもない事実だが、しかしそこに家庭らしい安らぎはなかった。
「空想だった・・」
結婚を人生の墓場だという諸先輩を、真っ向から否定する程は青く
ないつもりだったが人並みの夢はあった。
やがて親としての立場が生活の比重をしめ、夫婦関係も馴れ合いになって
ゆく中でそれもまた平凡ではあるが幸せなのだろうと、自分は月並みの
暮らしにこそ満足出来る人間だと思っていたが、それさえ叶わなかった。
4賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/11(月) 11:01:31 ID:???
自宅から浜名湖を半周して対岸にまわり何時もの場所に何時ものように
陣取り、そこに腰を降ろした。
魚が釣れるにこした事はないが、こうして出掛けてくる事それ事態に
意義のある釣りでもあった。
家族としての形態は整いながら時間だけは過ぎたが、こうして浜名湖に向かい
漂う浮きを眺める時だけが、心落ち着く時間である事にかわりはなかった。
あえて感傷に寄り添い自愛する事に女々しさを感じはしたが、所詮虚勢を
張っているだけの毎日である。

目の前の浜名湖を、外海に漁に出る船がいさましく出て行く・・
明け方まで湖畔にいると、一度落ち着きをとりもどした理性が
沈みきった底に跳ね返りまた感傷へと誘われてしまう。
通代ばかりに非があった理由ではないが、我々の出会いと結婚は
辿り着く港を探すところから始まった正に苦悩への船出であったと思う。
5賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/11(月) 11:03:57 ID:???
私達夫婦は,結婚と同時に子供が出来た.
自分が親になるという事実に戸惑いはあったが、待望の我が子にふくらむ
希望と至福の量は計りようもなかった。
本来、本能として備わっている筈の懐妊、出産、育児について
科学者である医師の支持に従うしかないのは、若干屈辱的ではあったが
第一子でもあり産婦人科の指導の下、風呂掃除から布団の上げ下ろし
に至るまで雑務は夫である私の役目とする日々になった。
そんな中で向かえた妊娠四ヶ月頃・・・
ある日帰宅するとマンションに身重の通代が見あたらず、居間に
「出掛けて来る」とだけのメモが残してあった。
何時から出掛けていたのかは解らないが、夜も十時をまわったこの時間に
まだ帰っていない通代の行動に不安とも不信ともつかない、なんとも
嫌な気持ちが私を覆った。
6賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/11(月) 11:20:22 ID:???
結局通代が帰ってきたのは日付が変わってからであったが、それは
私が心配する事を充分に承知しての事だ。
「何処に行ってたん、こんな時間まで」
普段はあまりしない化粧をした通代から、酒の匂いがする。
「ああ、ちょっとね」
と、はっきり答えない通代に
「お腹の事考えて少し気を付けなイカンぞ」
それ以上問い詰めなかったのは、常日頃から私に関する干渉の激しい
通代への私からのあてつけでもある。
客観的に見れば「やきもち」というだけの事であろう通代のそれは
尋常ではなかった。
私の職場に若い女性職員がいる事を快く思わない通代は、時折そっと
裏口から職場を覗きに来ている事があった。
決して自分から声を出して入って来る事はなく、そっと入ってきては
私とその職員との様子をジッと伺う通代の姿を発見する度に、何とも
言い表せぬ思いをしたものだ。
7賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/11(月) 11:23:43 ID:???
ある日、クシャミをした私に女性職員がタイミングよくティッシュを
手渡してくれた現場を目撃した通代は
「あの気の合い方はタダ事ではない」と一晩中、私の胸ぐらを掴んで
泣きわめいた。
果てには深夜の職場に忍び込み、その女性職員の制服をハサミで
切りきざむ始末なのだ。
職場の責任者でもあった私は、恥をしのんでその女性職員に事実を
話し、精一杯の謝罪をしなければならなかった。
その女性に離職の意志を告げられた時には、申し訳ない思いと同時に
正直ホッとしたのだが、通代は次に採用した女性職員の勤務三日目に
今度はその彼女の靴を床に釘で打ち付けたのだ。
8賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/11(月) 11:35:09 ID:???
実際、感情が頂点に達した時の通代は手がつけられなかった。
鼻息が荒くなり、肩で息をはじめるとどんどんテンションが上がって
いき、やがてひっくり返ったような目つきになるともう手遅れだった。
体育系畑でばかり過ごしてきた私に、暴れる通代を腕力で押さえつける事は
容易いのだろうが二人の仲が円満でなくなる事はつらかった。
自宅に訪れる100kgを越す後輩達に、時には威嚇的な言葉使いで先輩風を
ふかしていたがその実、女房一人の御機嫌の善し悪しに常にオドオドしながら
生活する亭主でもあった。
例え気の利いた女房ではなくても、せめて穏やかな生活をしたかった。
妊娠初期の通代がアルコ−ル臭と共に午前様で帰宅した晩も、責めることを
よしとしなかったのは、もとより開き直る体勢が出来ている事も
承知であったが、何より自分自身が更に不愉快になる事を避けたのだ。
9賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/11(月) 12:52:12 ID:???
あの時に強く追求するべきだったのかもしれないが、あそこでもし私が
どんなに追求をしても通代がありのままに話す事はしなかっただろう。
勿論私自身もまさか新婚間もない妻が、しかも妊娠四ヶ月という身重で
この晩、風俗店に働きに行っていたなどとは想像の範疇にもなかったが                   想像もしていなかった。
それでも事実は事実、この日から私の長い苦悩が始まったのだ。
あまりに懸け離れた思考を持つ通代に、私もやがて徐々には感化されて
いくのだが、そうなる以前の苦悩は私にもがき苦しみ嗚咽の日々を
強制した。
己の若さ故にこれほどつらいのか己の未熟故につらいのか、果たして
今のこの不甲斐なさを、誰かに自嘲出来る日が来るのだろうかと
頭を抱え、しゃがみこむ時間ばかりが増えていった。
10賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/11(月) 13:00:27 ID:???
通代が興信所へ調査を依頼したのは私が毎晩出掛ける事のみに
端を発した、彼女特有の思いこみに依る「確信」からなのだろう。
明日届くという調査報告書の内容に私はさほどの興味もない、それは
現に私の行動に何も後ろめたい事などはないという理由だけではない。
もし私に不貞行為があったとしてもそれがどうだというのだ、開き直って
も尚有り余る通代のそれに、これまで私がどれだけ苦しんできた事か。
夫婦としても馴れ合いになり、お互いに対しての配慮に欠けてくる
時期の、一つや二つの特に夫側の過ちはありがちな事である。
しかし新婚間もなくしかも身重でありながら、頼まれたからというだけで
性風俗で客の相手が出来る、通代はそんな女であった。
11賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/11(月) 13:08:50 ID:???
私があの晩の事実を知ったのは、ほんの偶然からだった。
通代の帰りが午前様となった晩から数日が過ぎたある日、通代の
服のポケットから一枚のメモ用紙が出てきた。
そのメモにはどうやら通代があの晩に出掛けた事に関する事が
書いてあるようだったが、抜粋すると大体次のような事だった。
「     注意点
 ・上着から下着まで脱がしてあげる
 ・とにかく「すいません初めてですから」と言う
 ・名刺→今日限りのバイトだと言う
 ・電話番号、本名は絶対に教えない
 ・本番は絶対になし
 だいじょ−ぶだいじょ−ぶ。
 何か聞きたい事があったら電話してね−     」
そしてそのメモ用紙には待ち合わせの場所と日時、そのメモを
書いたと思われる通代の友人の署名、そして店名らしきものと
電話番号が書いてあった。
12賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/12(火) 07:09:00 ID:???
このメモが意味する事を推し量るのは容易だった。
そしてそこにある通代の友人にも、そうかコイツが絡んでいたかと
思える節が私にはあったのだ。
この「ひとみ」という女は以前、私と通代がいずれ一緒になる約束を
交わしている事を知りながら、通代をいかがわしいバイトに誘った
前科があるのだ。
通代のクラスメ−トであったこの女は度々我々の部屋に顔を出しては
その度に私に不愉快な思いをさせた。
理知的であるとかないとか依然に、その配慮に欠ける言動が不愉快で
あり、派手な服装もそうだが年齢に不相応な色香を振りまくのもまた
ひどく不愉快だった。
通代の懐妊の祝いに現れた時に目の前で煙草を吸い、控えていた通代にも
平気ですすめるような女でもあった。
13賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/12(火) 07:11:51 ID:???
当時から私は、通代に対して優しい気持ちでいられなくなった時は
なるべく同じ空間にいないように心掛けた。
それが不器用でもあり短気でもあり、未熟者でもある私にとれる
最良の行動だと思っていたからである。
メモについて通代を問い詰めるつもりもなかったが、その代わり
休日であっても同じ部屋にいる時間も少なくなっていった。

その日の休日も朝から出掛け、昼過ぎにマンションに戻った。
部屋のドアを開けると玄関まで煙草の匂いが届き、靴を見ると
通代のものではないヒ−ルが、白々しく揃えて並んでいた。
「来てるのか」
こめかみが熱くなるような怒りが、クッと湧き上がるが
どう口火を切ろうと今はただ感情的になってしまうし、何よりも
それを明らかにする事が、我々夫婦にいい結果をもたらす事はあるまい
とまた外に向かう事にした。
14賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/12(火) 07:15:24 ID:???
自分の仕事場と同じビルのフロアにある喫茶店に入り、さほど
興味のない雑誌を手にとるとコ−ヒ−を注文した。
コ−ヒ−専門店という看板には疑念を感じるこの店ではあるが
若いマスタ−の、客のあしらいは卆がなくいつも感心する。
何時も通りに入店したつもりのこの日も、やはり不機嫌な気分を
察したのか愛想のよい挨拶をした後は一切、私に声を掛ける事を
しない。
それでいてこれでもし、私が何か話題を振ろうものなら小気味よく
しかもあくまでも出しゃばらずに返してくれるのだ。
惜しむらくは本分であるコ−ヒ−の味であるが、そこをのけて
これだけの繁盛をしているのも充分納得出来る。

コ−ヒ−一杯のオ−ダ−では常連しか居座れない程の時間を
過ごし、部屋のドアを開けると客のヒ−ルはまだあった。
仕方なく、気は重かったが家の中に入った。
15賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/12(火) 07:17:39 ID:???
「おじゃましてま−す」
私が居間に入っても、くつろいだ体勢を全く変える様子もなく
煙草を手に持ったまま声を掛けて来た。
顎で軽く挨拶を返す私の目に、テ−ブルの上の山盛りになった灰皿が映った。
それに眉をひそめたのを見るやひろみが
「すいませ−ん、私ちょっと吸いすぎちゃってぇ」
と戯けるような調子で言ったその途端に、私の理性を縛った紐が
スルッとほどけた。
「ほう、お前はいちいち口紅を拭いたり
             また塗ったりしながら煙草を吸うのか」
ハッとした表情で灰皿を見直すひろみだったが、誰が見ても
その中には真っ赤な紅がついた吸い殻とそうでないものが、しかも
御丁寧に向き合った方向から並べてあった。
「お前なぁこの野郎」
次の台詞を考えていたわけではなく私は、ついそう声に出していた。
16賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/12(火) 08:40:27 ID:???
「帰れ!」
そう叫ぶと同時に私の右脚が蹴りあげたテ−ブルから、灰皿とカップが
吹っ飛んだ。
「何すんねんな、あんた」
通代は立ち上がると私の胸ぐらを一度掴んだが、放るように突き放して
ひろみの方に向いた。
「ごめんな、ごめんな−勘弁したってな」
眉を寄せて申し訳なさそうにひろみを気遣いつつ、クルっと私の方を
向き直った時の通代の表情は完全に戦闘体勢にはいっていた。

十代の終わりには柔道の三段をとり、体力も並以上にはあるつもりの
私が、この通代との夫婦喧嘩にはある種の危機感を感じる。
怒りに達した時の通代は手がつけられず、実際その凄まじい程の
攻撃力は一度味わえば、男女の枠を越えた警戒心を持たざるを得ない。
通代の「戦い」におけるセンスには天才的なものがある。
17賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/12(火) 08:42:41 ID:???
この時に、私が完膚無きまでに通代にしてやられた話しは後々我々
夫婦の間で、また我々夫婦共通の友人との間で何度も笑い話になった。
私自身この時の出来事には、男として弁解の余地もなくやられてしまったと
認めざるを得ない。
通代が近づいた時にその細かい動きから、私の股間を狙っている気配を
察した私は咄嗟に中腰になり警戒した。
しかしそこに絶妙のタイミングで、突き上げるような通代の頭突きを
くらい腰を落として手を着いた私の顔面に今度は、通代のゲンコツが
まるで釘打ちをする金槌のように縦に振り落とされる。
鼻を潰されたように殴られ吹き出た鼻血を両手で押さえ、無防備に脚を
開いたままの下腹部を蹴り上げられた時点で私は悶絶してしまった。

「ひろみ、ごめんな勘弁してな」
「ううん、旦那さんによう謝っといてな」
玄関先から聞こえる彼女達なりの友情らしき会話を聞きながら、私は
まだ床に転がり唸りつづけていた。

18賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/12(火) 15:38:40 ID:???
やはり、通代にあの晩の事を問いただす事を私はしなかった。
本人の口から、悪びれるでもない態度で事実を話されるのもつらかったし
傷ついた私が癒えるように説明をしてくれるとも思えなかったのだ。
今後の行動への抑止力にはなったかもしれないが、私に知られたからと
いって、簡単に心改めるような通代ではない事も充々承知の上である。
何よりも、少しでも早く自分の記憶の外に放り投げたかったというのも
正直な気持ちかもしれない。

結婚以来、通代に振り回されっ放しの生活であった私がどうしても
譲れなかった事が、こうして自分だけの時間を持つ事である。
浜名湖に向かい潮の満ち引きを眺めていると、今日が終わりまた違う
一日が始まるのだという事をあらためて教えてくれた。
浜名湖は、荒々しい波を持つ日本海のように励ます事もせず
静かに寄せては引く大きな波を持つ大海のように、優しく語り掛ける
事もせず、何時もただ静かに漂っていた。
自分の中に答えも持たず、またそれを探そうともしない自分にとって
その干渉しない佇まいが何よりの安らぎを与えてくれた。
19賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/14(木) 18:09:37 ID:???
結婚以来、家事一切育児一切を軽んじる通代への不平を抑えて
家事全般を私の役割としてきた。
洗濯をしながら朝食をつくり子供の登園の準備をする、という毎朝は
例え夜明けまで浜名湖のほとりにいても欠かす事はしなかった。
正直に白状をすれば全てを受け入れて今、夫婦として通代を愛している
という自信はない。
それでも私達の形態が在り続ける以上それを自覚してはいけない、と
自身に言い聞かせながら過ごす私は、夫としてどうなのだろう。
20賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/14(木) 18:11:27 ID:???
最初の子である長女を出産しても、母性を持つ事が出来なかった通代は
娘の世話を億劫にし、おざなりにする事が多かった。
帰宅時間が何時になろうとも娘を風呂にいれるのは私の役目で、結局
通代は娘が歩くようになるまで、ただの一度も入浴させた事はなかった。
適度に交換してくれないオムツからは、吸収しきれなくなった尿が
逆流し、衣類まで湿らせている事もたまにではなく世話をされないので
日中に眠ってばかりいる娘は、夜になるとまったく寝ないのだった。
相手をすれば機嫌はよいのだがいくら娘が可愛いくとも、睡眠時間を
削らざるを得ないのはつらい事だった。
しかし一旦これを愚痴として同僚にこぼそうものなら、非難の的は
この私になるのだと予想する事は出来なかった。
「女房が家事をしないのは、亭主であるお前にも責任はある」
「結婚生活を甘く考えていたんじゃあないのか」

私の苦悩は、やはり私だけの苦悩でしかなかった。
21賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/14(木) 18:16:49 ID:???
良くない事と知っているうえで悪戯をしていた子供の頃、真っ向から
叱りつけ大人の正義を振りかざしてくる人間が、好きになれなかった。
感情の赴くままに行動をとってしまった時に、「お前も悪い」と言って
くれる友人のその強さを尊敬し、媚びず動じず悔いぬ人間に惹かれたのは
学生時代だ。
既に守るべく家族を持つ大人でありながら、安易に愚痴をこぼした自分の
不甲斐なさを悔いた。
責任を果たすべく努力をして来たという自負はあったが、しかしそれは懸命に
現実から逃避し、非を免れようとする惨めな私の姿でもあった。
だが都合のいい言い方をすれば、結果として通代をも含む家族を支えて
これたではないか。

その通代が、私の不貞を疑って興信所に調査の依頼をしたという。
浜名湖に漂う浮きを見ながら、やり切れない想いが静かにしかし
染み込むように私の感情を占領していった。
22魚類 ◆yrycargCMg :2005/04/18(月) 10:52:07 ID:???
お久しぶり。
頑張って☆
23賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/20(水) 09:08:39 ID:???
通代との出会いと同時に、その原因が彼女に起因するしないに関わらず
私の周囲には通常考えられないような出来事が次々に起こった。

その始まりは長女が生まれてまだ間もない頃、当時住んでいた岐阜県での仕事場に
掛かってきた一本の電話からだった。
「もしもし・・・」
それはどうやら小さな女の子の声のようだった。
「もしもし、どうしたのかな」
私が話しかけると、その子は傍にいるらしき父親に
「お父ちゃん出たよ、どうするの、こわいよ」
そう言うとバシッ≠ニまるで頬を叩くような音と、それに重ねて
「ギャッ」
と、女の子の悲鳴ともとれる声が聞こえ電話は切れてしまった。
何とも後味の悪い奇妙な電話に、釈然としないまま仕事に戻る私の耳に
幼い子供の悲鳴だけが残った。
無論思い当たる節もなく、気にはかかるものの何とする術も
                       在りようがなかった。

現在ほどは児童の虐待が取り沙汰されていなかった平成四年の春、この時
悪夢は既に私の身にそっと擦り寄って来ていた。
24賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/20(水) 09:58:56 ID:???
次の日には五回ほどの無言に近い電話があるのだが、やはり受話器の
向こうに幼い子供の気配がする。
強要されて無言の電話をさせられているのか、ただならぬ雰囲気とその
怯えた様子はほんの小さな声や息づかいだけでも充分に伝わってきた。
こちらに付け入る隙をくれず切れてしまうタイミングには、すぐ傍に
あの男の存在を感じた。
そして次の日には数十回にとその回数は急激に増え、通常ならば完全に
営業妨害であり、そこに憤慨するところなのだろうが今懸念すべきはとにかく
あの子供の周囲状況である。
「もしもし、あなたは誰なの、お名前は?」
この不可解な出来事の糸口を見つけ解決すべく様々に試みるが、殆どの電話は
やはりすぐに切れてしまう。
私の問いかけに答えようとするかのように
「えっと・・」
という声を裁断するように切られてしまった何回かの電話は、その後あの子が
ひどい仕打ちを受けるのではあるまいかと、どうにもならない気をもんだ。
自身が娘を持つ親になったばかりという事もあり、どうやら女の子であろう
この子の境遇に胸が痛み強い憤りを感じた。
25賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/20(水) 10:09:24 ID:???
時には受話器をとっても無言で、時には手をかける間もなく切れてしまう
電話が二十回三十回とある日が一週間ほど続いたが、なぜ私の仕事場に
そのような出来事が起きるのかはさておき、とにかくあの子のために
自分が出来る事をと考えた。
そして思いつく事は即、実行にうつす緊急性があった。
まず市内の小学校すべてに連絡をとり事情を話して、該当する生徒が
いないかどうかの確認を依頼した。
その子はどうやら虐待されているようである事、午前中の電話は無言である
のに対し午後の比較的早い時間からは子供の気配がすることから、小学校の
低学年ではないかなど、思い当たる限りを告げてお願いをした。
とにかく対象者がすぐに見つかり事の展開が
              よい方向へと向かうことを願うだけだった。
26賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/20(水) 10:20:13 ID:???
一日が過ぎ二日が過ぎ、数校の小学校から回答があったもののいずれも
期待していたものではなく、いよいよ行政に委ねるしかないのかと
思い始めたとき事態に意外な動きがあった。
「すいません、いたずら電話をしていた者の家族ですが・・」
思い懸けない電話がかかってきたのである。
「電話はうちの主人がかけていたのです、どうかお許し願えないでしょうか」
日に数十回の無言電話に対応しながら、理不尽な境遇にある女の子に
気をもむ日が続いていた私は正直ホッとしたものだ。
「それじゃあ、あの子はお宅の娘さんですか」
「はい、事情もお話し出来ませんし名乗ることも出来ませんが、電話は私が
 責任を持って止めさせますのでどうかこれで許して頂けませんでしょうか」
申し出に特に不満も不足もなく、むしろ丁寧な言葉使いに恐縮する思いだった。
「そうですか、当方としては電話がなくなればそれで何も問題はありませんし
 ただ娘さんの事が気になったものですから・・・
 いや、これでもう昨日までのような電話がないと思うと寂しいぐらいですよ」
そう話しながら確かにこの時、振り回された日々が急に日常に戻ってしまう事に
拍子抜けするような物足りなさ≠感じる自分に気付いていた。

しかしその虚無感が、やがてはじまる次のステ−ジへの予感だったのだと
愕然とさせられたのは、それから間もなくだ。
27賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/20(水) 10:43:06 ID:???
次の日、これで全てが終結したのだという思いで向かった職場にはもう一切の
嫌がらせの電話もなく、通常の生活に戻ると更にその翌日には私の意識の中では
あの不可解な出来事はすっかり過去のものになりつつあった。
だが本当に心の底から振り回される日々はここから始まった、日常に帰したと
思った平穏な時間はたった一日であったのだ。
出勤と同時に鳴った電話はその日鳴り止むことはなく、そしてその日を境に
それは毎日続くようになりその回数は、日に400回以上にも達した。
一度終わったという安堵を与えておいてからの総攻撃は、敵の作戦だったのだ。
実際その効果のほどは覿面だった・・
あんなに丁寧に謝罪をしてくれたのになぜという思いと、それではまたあの子は
という思いやらが一気に私の交戦意欲を奪い、押し潰されそうな不安が膨らんだ。

私が毎日の嫌がらせを受けていたこの時期に、新聞記事でやはり嫌がらせの
電話に依って潰瘍を患うほどに追い詰められた女性が、間接的な行為による
傷害罪で相手を訴えたという記事を読んだ。
その記事には《電話の回数はのべ二万回にも及んだ》とあったが、最終的には
十一月の終わりまで、都合八ヶ月にも及ぶ攻防を繰り広げその何倍もの電話と
手紙葉書の嫌がらせがあった私だが
          しかし結論から言うと警察はまるで頼りにはならなかった。
28賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/23(土) 10:10:18 ID:???
最初の頃は無言電話ばかりだったが、やがて
「世話かけるのぉ」
「いつまでもがんばるのぉオマエら」
「わしじゃ、わしじゃぁ」
酔っ払いのような濁声で、ひとこと言い捨てては切れる電話が来るようになり
そして今度は、多い時には十通にもなる手紙や葉書が届くようにもなった。
相変わらずあの小さな子供も強制的に関与させられているらしく、その片鱗が
見える度になんともたとえ難い思いをした。
その中でも切なかったのは親がいない時を見計らって、私のところへ
こんな電話があったときだ。

「おじさん、ゴメンね」
「今日はお父さんいないの?」
「うん、今日は仕事行ったから・・
        おじさん、いつもゴメンね」
「いいよいいよ、名前教えてもらっていいかな」
「名前教えたら怒られるもん・・」
「そうか、そうだよね・・ご飯食べてる?」
「・・・・ない時もある」
「そっか・・」
「うん、もう切るけど・・
        おじさん、本当にゴメンね」

この会話のあと、私は地元の警察署に相談をしに行く決意をした。
29賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/23(土) 10:22:39 ID:???
警察署の窓口で簡単に事情を説明すると、通されたのは防犯課であった。
しかし、その対応はあまりにも期待外れで愕然とした・・
「あのね、個人が個人のところへ何度電話をしても
      その回数が多いからといって取り締りの対象にはならないんですよ」
まるでその程度のことでワザワザ警察署に出向いてきたのか、と言わんばかりだ。
「警察官をしていると、我々でも逆恨みなんかから嫌がらせを
 受ける事が多いんですが、その仲間でも何ともしてやる事が出来ないんですよ」
と更に、まるでマニュアルじみた事をいう警察官に思わず
「増してやオマエらなんか、ということですか」
そう叫んでしまった。

「じゃあ刑事課に行ってみますか
          でも、なかなか刑事事件にはならないと思いますよ」
返答もしない私に、あきれた表情で立つように促すとその警官も席を立った。
部屋を移り刑事課に出向いたが、私を引き継ぐ際の警官と刑事のその態度を
見た段階で期待はなくなった。
しょうがないから相手をしてやってくれとでも言っているのか、遠目に見ても
舌打ち混じりのそれは不愉快だった。
案の定、刑事事件として立件するにはいかに手続きが大変であるかをコンコンと
説明されるに終始した。
困り果てた市民が駆け込みさえすれば、親身になってくれるものだろうと
思っていた私は、失望だけを持って署を出ることになった。
30賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/23(土) 10:24:53 ID:???
白々としてきた浜名湖のほとりに、昨夜あれだけ賑わっていた釣り人が
ぽつぽつと減り始めたかと思うと、今度は夜明けからの釣りをねらう人達で
あっという間にまた周囲に人が増える。
一日の生活に疲れ夜明けまでの釣りに疲れた人たちと入れ替わり、さあこれから
だとスタミナ十分な連中の侵略は辺りの雰囲気を一変させる。
私の憩いの時間はここまでなのだ、自宅に戻るべく釣道具の片付けをしながら
感傷につかりきった気持ちを切り替えていく。
通代が手配したという興信所の報告書が本日届くという。
例えば疑惑ありとしても夫婦の信頼関係を優先するならば、直接私に何らかの
問いかけがあって然るべきである。
しかし、どこまでも穏やかで真っ平らな浜名湖にじっくりと癒された今
             もう道代のそんな背信行為などに憤りはなかった。
滅多にお目にかかれるものでもなかろう調査報告書なるものを見せて
もらえるのだから、むしろ楽しみなぐらいだ・・・

さあ帰る時間だ、今日はまた昨日と違う風がふいているぞとでも言いたげな
湖面に見送られながら、車に乗り込んだ時には闇はすっかり明けていた。
31賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/23(土) 10:34:29 ID:???
出勤時間の早い人達の車で混雑する浜松方面を尻目に、快調に車を走らせるのは
優越感にも似た心地よさがあった。
さて調査報告書に何も期待通りの事が記載されてないとなると、通代は
一体どう切り替えして来るだろうか。
プロに依頼をしておきながら、自分が納得いかないとなると平気でその仕事に
クレ−ムをつけかねない女でもある。
しかし無理を通して道理をへこませる女だが、その無体さと常識はずれの感性に
救われながら生活した事もあった。

それは岐阜県でのあの、無言電話や嫌がらせの郵便物等が続いた
                         半年余りの日々である。
32賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/23(土) 10:51:32 ID:???
事態は徐々にエスカレ−トして自宅への深夜や早朝の電話は勿論、休日に
買い物に出掛けると身に覚えのない呼び出しのアナウンスがあったり
我々家族の帰宅直後に電話が鳴って
「今日のお昼はファミレスでハンバ−グだったね、美味しかった?」
と、監視していたことを匂わせる威嚇をしてくるようにもなった。
しかし通代は、そんなことにはまったく動じることもなく
「あんた、見とったんなら声かけてくれりゃあオゴッたったのに」
などとまったく呑気なものだった。

< お宅の娘、愛代(まなよ)ちゃんっていうんだね  可愛いね >

という葉書が届いた時にはそれを読んだ通代が
「へえ〜うちの娘が可愛いやて、それはわかるんやなあ」
と言うので
「そうじゃないよ、直接脅すと罪になるからそうやって遠まわしに
              うちの娘の存在も知ってるよと言ってるんだよ」
と説明をしてやっても、驚いて娘の心配をするどころか
「なるほどな、なんや‘火曜サスペンス劇場’みたいな事しよるな」
と言ってのける通代には、むしろ頼もしささえ感じたものだ。
通代が動揺して騒ぎ立てようものならば、あの長丁場の局面を
            通過する過程はもっとつらかったのかもしれない。
33賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/04/30(土) 18:13:41 ID:???
ある日曜日の朝、いつものようにかかってきた電話に
「おはよう、こんな早い時間からご苦労だね」
と話し掛けてみると、悪態をつくでもなく切るでもなく黙っている。
その日執りたてて急ぐ用事もなかった自分は、向こうが受話器を置くまで
付き合ってやろうと更に言葉をつないで話し続けた。
「何でこんなことやっとんの?ちゅうてもまあ
                そう簡単には答えてくれんわなあきっと」
相手を警戒させないようにそして興味をそそるようにと、軽快な調子で
「うちの娘あんたも知ってるだろうけど
             最近な少し這いよるで、今も後ろで動いとるわ」
身近な話題から自分の故郷岩手の話しまで、とにかく思いつくところから
二時間三時間と延々と話し続けた。
最初はこちらの話し掛けに応答するつもりはなかったのだろうが、そのうちに
油断したのか受話器の向こうでほんの少し「くすっ」と笑った。
それまで果たして聞いてくれているのか、ただ受話器をつなぎっ放しにして
あるだけなのかが気になっていた私は、脈ありとみるや
             先ほどから思い立っていた計画を実行する事にした。
「いやぁ、朝から食事も取らずにだから流石に腹が減ったよ
      ちょっとコ−ヒ−入れてくるから待っててね、本当にすぐだから」
34賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/10(火) 11:25:07 ID:???
さて、敵は電話を切らずに待っていてくれるだろうかと少々気に掛けながら
ゆっくりお気に入りの豆に湯を注いだ。
ここで少しぐらい時間をとっても向こうが待っててくれさえすれば、もうこちらの
思惑通りに展開することだろう。

「もしもし申し訳ない、お待ちしましたか?」
返答のないことは案の定であり、次のひと言からこそが私にとって重要だった。
「あれ、もう切れちゃったかな
         もしまだ聞いてるなら受話器をコツコツ≠ニ叩いてみて」
すると意外にもすぐにそれに応じてコツコツ≠ニ二回叩く音が聞こえてきた。
(よしやった)という気持ちを抑えて間髪いれずに
「おお待ってくれてましたか、ところであなたの方は朝食は済んだのかな?
                済んだのならまたコツコツとお願いしますよ」
しかし今度は反応がなく、一瞬警戒されたかなと思ったが
「じゃあ、もしまだ済んでないなら一回だけ叩いてみて」
と言うとコツ≠ニ音が響いてきた。
「じゃあどうしますかね、お昼休憩とりますか?
                 休憩希望なら一回叩いてくださいよ」

そう問い掛けながら、敵はそんなにひどく性根の悪い人間でもなさそうだなと
そう思う私の耳にコツコツ≠ニ二回叩く音がまた聞こえてきた。
35賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/10(火) 11:29:13 ID:???
結局その電話は八時間にも及んだ、そして基本的には受話器をノックするという
方法でイエスかノ−での会話が成り立った。
途中では肯定でも否定でもなく応えたくない≠ニいう意思表示の信号を
取り入れる事も、会話をスム−ズにするために必要が生じた。
そして午後も中盤にさしかかった頃に、こちらの都合というかたちで
「悪いけど、どうしても済まさなければならない用事があるから」
そう言ってまだ充分に盛り上がっているさなかに、あえて私から会話を終了した。
何となくそうする事が、これからの向こう側とこちら側との関係によりいい
雰囲気を残せるのではと思ったのである。
いってみれば今までは一方的に攻められ、主導権の隅も掴めない立場にあった。
しかしだからと言って、今回をきっかけに少しでも優位な立場になろうというもの
でもない。

日に数百にも及ぶ回数の電話を掛けてきたり、日曜の度に我々家族の監視をしたり
するその並々ならぬ労力の原動力はどこにあるのか。
どんなかたちにしろ、こうしてコミニュケ−ションを図ってくれるからには
激しい憎悪によるそれではなかろうと思える。
そこに何かしら病んだものを感じずにはいられず、解決などには至らなくとも
自分に、いや自分にしか出来ない事があるのではという使命感が芽生えていた。
受話器を叩き意思表示をするだけの会話であったが、必ず応えてくれる姿勢には
好感が持てたし、だから私もしつこく食い下がり素性を探るような事を避けたのだ。
36賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/10(火) 11:38:08 ID:???

「仲良うなれたみたいやなあ、お疲れさん」
くつろいだ体勢から労いの言葉を掛けてくれる通代ではあったが、私が電話をして
いる間自分の食事こそ出来合い物で済ませてくれたものの、受話器を頭と肩に
はさんで、娘のミルクをつくりオムツを替えながらしかも殆どの時間は娘を
                         抱っこしながらだったのだ。
だがまあそれは我が家の日常の姿でもあり、むしろ折角いい雰囲気をつくりかけた
あたりで、通代に邪魔をされなかっただけでもよしといなければならない。

翌日、月曜日の仕事場への特に一回目の無言電話をとった時の落胆は大きかった。
前の日にあれだけの時間を費やして、自分としてはそれなりに親近感を
持った直後だっただけに、なぜという思いが空しく滲んだ。
そしていくらこちらが問い掛けても昨日のような反応のない、今までと同じく
ただただ切れば掛かってくるの繰り返しなのである。
結局このようなことをする輩に、普通の人間が普通の感覚で何かを期待し求める事は
このような結果しかもたらさないのだろうか。
無言電話の張本人の奥方と名乗る人物から、終結宣言ととれる宣告が
      あった時もそうだが、安心した直後だけにそのダメ−ジも大きくなる。
いつもと若干ちがうところといえば、午前中に無言電話が何度もあり夕方になると
濁声の男性から罵声のようなひと言ふた言があるというパタ−ンが多い中、この日は
夕方から何事もなくなり電話もピタリと止まったことだ。
37賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/10(火) 11:47:12 ID:???
仕事が終わり、帰宅しようと仕事場の明かりを消した瞬間に電話がなった。
そのタイミングに偶然ではないものを感じたが、電話をとるとやはりその予感は
正しかった。
無言の電話に、いや正確には無言の筈の電話に「やっぱりあんたか」と言うと
コツコツ≠ニ受話器を叩いてこたえてきたのである。
「なんだ、日中はあれだけ無言だったのに今度はこたえるんかい」と半ばあきれた
口調で言ってしまったのはしょうがないと思った。
「それにしても今日はまた本数が多かったな、仕事にならんかったよ」
と言うと、ここで予想外の展開があった。
「そんなにひどかったのかあ・・」
その声は臆するでもなく力が入るでもなく、まるで周知の間柄での会話のように
極々自然に聞こえてきたのだ。
「んん、な、なんだ?」
突然、普通に返事をされて理由もわからず私は口ごもってしまった。
38賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/16(月) 17:04:28 ID:???
「ゴメンね、悪いけどわたしにはどうしようもないんだ」
しかし、相変わらず返答も出来ずにいる私がいた。
面食らったからということもあろうが、語りかけるような口調にくわえて
     心地よく耳に残るふわりとしたその声に、すっかり聞き入ってしまったのだ。
こんなにもやわらかに私に話しかけてくれる女性に出会ったのは、ついぞ久し振りの
ことであり、無防備にその余韻に浸っていた。
世の御亭主が決してみなそうではあるまいが、少なくとも私は一番身近な女性である筈の
妻からそんな癒しを感じることはない。
いや、だが通代との微笑ましからざる夫婦関係に起因した感情とはしまい。
とにかく一連の出来事がこの声の主の仕業だとはとても合点がいかない、一体なぜ
どうしてという思いを、まずゆっくりと聞いてみることにした。
「あんたは、日曜日の電話の人なの?」
「うん、そうそう」
「そうか、俺はすっかり男性なのだと思っていたよ」
「ああそうだよね、きっと」
独特のテンポでそおっと言葉をおくように話すその声を、全身で聴き噛み締めようと
する自分のなかには、この声の主に対する被害者意識などはもうありようもなかった。
39賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/16(月) 17:24:14 ID:???
「そう思わせるようにしてたからね」
「してたって、だって男性の人もいたでしょ、ええと旦那さんかな」
「ああ、あれねみんなアタシがやってたの」
言葉の意味そのものはともかく、私の頭の中は今声≠ノ集中したいこともありうまく
思考することが出来ず、その意図とするところが理解できない。
気もそぞろで「いやいや、濁声のさあ」と言いかけた私の言葉を遮って
「ワシじゃワシじゃあ」
と、まさにその声が聞こえてきた。
「これでしょ、ワタシの声だったのゴメンね」

「うわ、本当かあ」
というのが精一杯だった、これが共に同一人物の喉から発せられる声だとはとても
思い難いし、とにかく想定の範囲を超えた事実だ。
「そ、それじゃああの子供は・・?」
即座には理解しにくい展開に戸惑う私にさらに追い討ちをかける。
「おじさん、おじさんいつもゴメンね」
「いやあ、子供の声もあんただったんかい」
「ウフフ・・」
もう何が何なのか混乱しそうな中、自分が何ヶ月も振り回されてきた事への憤りも忘
れ受話器の向こうの、この声の持ち主への興味だけが大きく膨らんだ。
40賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/16(月) 17:31:26 ID:???
「みんなあんた一人でやっていた事なのか」
「ううん違うよ六人いるんだよ」
「六人、それもまた・・」
そういってまた絶句してしまう自分の胸中は、聞かされた事実への戸惑いとは別に
                   まったく違う次元の感情にもとり乱されていた。
既に数ヶ月にも及んでいる種々の嫌がらせには確かに嫌気がさしていたし
                       それのない快適な生活も望んではいた。
その解決への糸口を掴むチャンスが、今まさにそれなのだがそこに集中出来ない程に
その「声」に惹かれてしまう自分を抑えきれなかった。

性への嗜好には時に常軌を逸したものがある。
自分の知人の中にも覗き≠ェどうしても止められない男がいた。
彼はとても勤勉で尊敬に値する仕事をする男であり、情にも深く通常の生活においては
衝動的な感情の起伏をみせるような人間でもなかった。
しかし、高校生の時に偶然女性の入浴シ−ンに遭遇したことに端を発する覗き≠ノ
        異常なまでに執着し、他に性的な興奮を得られるものはないのだと言う。

その彼が、ほんの少しの月明かりさえあれば昼と同様の視界がえられる二十八万円も
したのだという夜間スコ−プを手に、熱くその想いを語ったことがあった。
41賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/16(月) 17:35:16 ID:???
彼の聖地は住まいから程よい距離にある大きな公園である。
覗き≠ネんていうものは、それらしき男女が思いつきそうな場所に潜んで待ち受け
あわよければ思い通りの展開にありつけると、そんなものかと思っていたがそこは素人の
浅はかさと、すかさず否定をされた。
「そんな不埒な考えだけじゃあとてもても続かないよ」
今話題にしている事とお互いの立場をもって私が彼から「不埒」と言われるとは合点が
いかないが、場所の選択は確かに大事だけどと前置きして彼は話しをつないだ。
「それよりも大事なのは、その場所の環境整備なんだ」
環境整備とはこれまた一体どういうことなのか、それは表現が本当に適切なのかも
見当がつかず、掃除でもするのかと茶化してみたが
「それはそうだ、大き目の小枝が落ちていても寝転がりにくいし
    例えば、近くのゴミ箱が山盛りになっていても若い二人なんかには興ざめだろ」
そう至極真顔で答え、そんな事は基本の基本じゃないかとでも言いたげな彼の実直そうな
顔から、端から見て今まさか覗き≠ノついて説いていると思う人はあるまい。
「困るのはだから、そんな素人に覗きに来られることなんだ」
ここで言うところの「そんな素人」とは私の発言を受けてのことなのだろうが、無論私は
その道に関しては多分生涯素人のままであろうと思う。
42賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/16(月) 17:39:02 ID:???
「まずポジションの取り方がいけないんだよね」
とにかく見やすいところへ構えようとして、対象者にきずかれてしまいそうな
ポジショニングをする奴にも困ったものだが、見掛けぬ奴のくせに我々ベテランの位置を
先取りする奴もたまにいるのだと、彼は舌打ちしながら首を揺らす。
我々?見掛けぬ奴?と私がそんな認識があるのかと問うと
「常連は殆ど顔見知りだよ、もちろん普段の付き合いはないけどね」
何年も前から見知ってはいるけど会話は一度もした事がなく、時にゼスチャ−での意思の
疎通をする相手が殆どだが、その仲間意識はなかなか強固なものだと力説する。
「一度見掛けない奴が常連の場所を陣取っちゃってさ、その常連がオレの方を見て
            それを眼で訴えてきたから迷わず追い出しの手伝いに行ったよ」
常連の中にも映像や音をを録ったりする輩もいるが本来はあれもよくないのだとも彼は言う。
とにかく、我々の需要に対して供給してくれる対象者に絶対に不具合があってはいけない、と
言い切る彼の話しは何だかすべて正論のように聞こえてくる。
増してや、決して若すぎもせず経済的にも潤いながら
「いや、今の趣味を続けている以上は家庭を持つつもりはないんだよ」
いつか家族に迷惑をかけることになっても切ないからな、というその姿勢にあっては
筋が通っているとさえ思える。
43賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/16(月) 17:43:19 ID:???
彼曰く、覗く玄人がいれば覗かせる道の玄人もいるらしい。
違う相手と公園を訪れてはまず明かりのあるベンチに腰掛けて、隠れ見る立場にも
ジックリと女性の表情を見せてくれるらしい。
それがあることによって供給される側の立場は、この後この女性がという想像を膨らませる
喜びがあり興奮の度が増すのだよと、そこは少し照れくさそうにそう話した。
しかしそれはどうだろう、果たして積極的に覗かせようとする人間がいるのだろうか、彼の
思い違いでないかと問う。
すると彼は、いやいや間違いないその証拠にと続ける。
「一度さあ、その男性がもう少しというところで女性に、に、逃げられてさ」
そう言いながら彼の眼、口元はもう満面の笑みを浮かべていた。
「そ、そしたらさあアッハハハハハハ」
今度はこらえきれずに大笑いしながら、私の肩に手を置いてこう言った。
「その男性が両手を合わせて周囲にグルッと頭を下げたんだよお、アッハハハハハ」
それにはさすがに私も一緒に大笑いするしかなかった・・・
                本当に様々な嗜好の人間がいるものである。
44賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/16(月) 17:45:57 ID:???
学生時代の同期には匂い≠ノよわいのだという奴がいた。
他の人間にはおよそ好まれない匂いだと知りつつ、惹かれるというのだから仕様がない。
もちろんそれは香水の香りなどではなく、身体部分そのものから放たれるまさに
匂い≠ネのだがその同期にとっては容姿とも性格とも並べ、譲れない条件なのらしい。
覗き≠ノしろ匂い≠ノしろ私にはとても虜になどなれない種類の趣味ではあるが
正直に言えば、自分の欲望の焦点がそれだけハッキリしている人間を羨ましいという
想いもなくはなかった、自身が気付いていないだけでそうしたものは
                      少なからずあるものなのかもしれない。
迷惑な筈の、嫌がらせ電話の主と会話をした時にはまだ自覚はなかったのだが、どうやら
私は自分の好みの声≠ノ惹かれる傾向があるようだ。

高校入学後まもなくの頃であったと思うが、友人宅にかけた電話をとり応対してくれた
友人の姉の、包み込こまれそうな何とも甘い声に悶々とした想い出がある。
しかしなんとかその声の持ち主の顔がみたいものだと思ったわりには、初めて友人宅で
その顔を見た途端、本人には失礼だが自分の理想とのギャップに落胆したものだ。
それでも電話をする際には彼女が取り次いでくれる事を、必ず期待したあたりにやはり
声≠ノ対する執着がある。
45賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/17(火) 16:00:57 ID:???
そして今、こうして仕事場で聞くこの電話の声にまた艶かしい女性を感じている。
「6人なんて人数でこんなことをする目的が、さっぱり解らんなあ」
と会話の流れを汲みながらも、会話そのものが途絶えてしまうことの方が気に掛かった。
「うん、なかなか全部は話せないけどね」
「それはそうだろうなあ」
「とにかく、とにかくゴメンね」
私の身の回りには四月から始まった出来事であったが、実はその前二ヶ月を費やして
私の行きつけの喫茶店、本屋、友人関係を念入りに調査していた事もわかった。
道理で、出掛ける時にいくら周囲に気を配りて尾行のないことを確認してから出発しても
目的地が知れるわけである。
「それにしても児童虐待の手法はいかんなあ、すっかり胃が痛んだよ」
「う〜ん、だから効果的でもあるんだけどね」
こんな普通の会話を交わすことの出来る状態の彼女が、なぜ加担しているのかという
核心部分にはあえて触れる事をせず、とにかくこの雰囲気を味わう選択をした私の態度は
まるで、下心を抱えた者のごとくであった。
しかし、それが彼女にとっては紳士的に受け取れたのであろう。
「だけどあなた不思議な人だね、どうしてそうやって普通に相手してくれるのかなあ」
46賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/17(火) 16:05:32 ID:???
「そりゃあ腹は立ってるさ、立たないわけがないだろう」
相手に警戒させないために、ごく普通の感覚であればするであろう答えを選んだ。
本音は、この声を聞いていてどうしても君が悪い人間には思えないんだよと、付け加え
たいところだったがそれもやはり警戒されるであろう。

会話が途切れた受話器を耳にあてたまま窓の外を見ると、目の前の交差点にはもう車も
まばらで、いつもの帰宅時間からは随分と離れた時間になっていた。
ふと、また通代がよこしまな妄想に憤慨してコッソリ仕事場の様子でも見に来ては
いまいかと、辺りを見回しそれを忘れていた自分にきづいて慌てた。
電話の相手は多分紛れのない女性であり、今自分はその声に聞き惚れ浮かれている。
すっかり油断した表情もしている事だろうし、営業用の声使いとも友人との会話とも違う
微妙なニュアンスを感じとることなど、通代にとってはたやすいことだ。
何処から見られてもいい表情づくりと、いつふいに声をかけられても動揺しない心構えが
必要だなと思うとやはり少し興ざめがした。
47賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/17(火) 16:08:59 ID:???
「あのさ、奥さんとは仲いいの?」
短い沈黙のさなかに何を考えていたのかを、まるで察しているかのような問いかけに
小さく唸るが精一杯で私は黙ってしまった。
それは芳しくないと答えるのは家庭を持つ身として無責任であろうし、何かに不適格者と
自ら烙印を押してしまうような気がした。
「ねえねえ、あんたとは直接顔をあわせることってないんだよね、きっと」
反応はさほど気にならないのか、言葉を出さない私をほっといて話し続ける。
「あたしはあんたの顔も名前も行動パタ−ンも、最近は癖まで発見したのにね」
まるで擦り寄ってくるような、しかしあからさまでもないその言い回しがまたなんとも
私の胸の内をくすぐるのである。
「そうだよなあ、そっちだけが俺の事を知っているのはズルイよなあ」
ゆっくり話す私のその戸惑いは、努めて平静を装う程の必要があったが期待とも予感とも
つかない胸の鼓動が勝手にそのリズムを速めていった。
「わたしさあ、こんな形でなくてっていうかさあ」
そこで一旦言葉を切ったところに彼女の次の言葉へのためらいを感じたが、それは同時に
私の緊張の糸を強く張られる瞬間でもあった。
「って言うかさあ、奥さんと出会う前にこうして話したかったね」
48賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/20(金) 13:01:24 ID:???

「まあ、気は合わんでもなさそうだなあ」
不本意ではない展開だがあまりに唐突な流れに、とりあえず何気ない素振りを繕うだけで
気持ちの所在も明確にならないが、そんな事に構わず更に私の理性を揺さぶる言葉が続く・・
「ねえねえ感じてる?感じない?」
どういう意味で発したに関係なく、言葉そのものに動揺して「何なんだよ、それは」と
辛うじて受け流すと同時に、受話器を手で覆って大きく深呼吸をした。
もはや駆け引きだとか慎重になるだとかいう選択肢はないな、と私の理性が旗を降ろした。
「わたし達って何か運命的なものを感じるんだけど」
ああそういう意味か、と思いつつそれもこの流れを切るものではないと判断し
「今のこの雰囲気だから、そろそろ言ってもいいと思うんだけど」
と、今度はこちらから会話の主導権をとりにいった。
「最初に声を聞いた時から、会話の内容はさておき
               とにかくこの声をもう少し聞いていたくて仕様がないんだ」
追い詰められたら、とにかく自分の気持ちに正直に対応するのが後々一番後悔が少ないという
のが、過去の数少ない経験から得た教訓であった。

「ああん≠ニか言ってあげようか」
「ははははは、それはいいよ」
「何だ、御希望なら本当に言ってあげるのに」
「そんなん、ただ余計に悶々とするだけだよ」
「それもそうか、はははは」
元々非日常的な関係にあった二人が益々妙な位置関係になりつつある事を感じながら、私は
そっと仕事場の明かりを消した。
49賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/20(金) 13:05:29 ID:???
あ、明かりが消えた」
「ここが見えるところにいるのか」
「ああそうかバレちゃったね、どうする?探す?」
「やめとくよその方がいい、明かりを消したのは女房対策だよ
                  明るいと何時ここに来るかもしれないからね」
「そっか、こわいんだ」
「ああ、あいつの機嫌をこわすのは今、何よりもこわい事だね」
妻の御機嫌を損なう事に危惧する男への評価がどんなものか、気にならないでもなかったが
不思議なくらい素直にそう答えていた。

それからまた二時間ほど、いろんな話をした。
最初こそこれもまた何かの作戦ではあるまいかとの、若干の思いもあったがさすがに
これ程の時間を心地よく共有するとその疑念もなくなった。
彼女の生い立ち、現在の職種、大まかな年齢と容姿などの話のほかに無論、我が家への
攻撃の話題にも触れた。
六人がそれぞれ仕事を持ちながら綿密な計画と協力のもと行っていること、そしてその構成は
指示を取る男性と五人の女性で成り立っている事など、にわかには信じがたい部分もあったが
それはそれで向こうの都合もあろう。
50賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/20(金) 13:11:16 ID:???
何の為にそんな人数でそんな事をしているのか聞くと、それはお金のためだという。
「こんな事していて何でお金になるの?」
当然の疑問だと思い、してみた質問だったが相手は半ばあきれたという口調で
「そうか本当に何もこたえてないんだね、だからこんなに頑張れるんだ
                 普通はもうとっくにお金の話になってる頃だもんね」
「お金の話ったって、いつも何も言わないできれちゃうじゃないか」
「そりゃあ、こちらからそんな話を持ちかけたらヤバイからね
            だけど大概もう、そちらからお金で解決出来ないかなと思う頃だよ」
今までに何件か個人営業を狙い同様の手口で攻めて現金を手にしたらしく、ある職種内では
現金さえ渡せば即座に解決するからと達しがあり、知られている連中でもあるらしい。
「そんな簡単にお金を渡す人がいるのかな」
と不思議がったり、世の中にはけったいな事を考えたり実行したりする人間がいるものだと
感心する私にまた彼女が警告をする。
「呑気なことを言ってる場合じゃないよ、長くなってきたからこっちはイライラしてるし
           経費もかさんできてるから、これからどんどん攻めがきつくなるよ」
「あんたがそんな事を言いなさんな、そっち側の人間でしょうに」
「そうなんだけどさ」
この時はまだ、そんな大層な事にならずに済むのではという希望的な観測のもと和やかな
雰囲気であったが、やがて我が家はこの事が原因でこの街を去ることになる。
51賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/20(金) 13:17:18 ID:???
当初まったく相手にしてくれなかった地元の警察署が、わざわざ私の職場を赴いてまで
事情を聞きに来てくれたのは十月の最初の頃だったと思う。
私の仕事上でのお付き合いがある地元の有力者が事情を知り、はたらき懸けてくれたらしい
のだが、その事実は益々警察という機構へ対しての幻滅を大きくした。

しかしそんなこちらの動きを知ってか知らずか、相手も動きを変えた。
私の仕事と取引のある方への個人攻撃を始め、それは瞬く間に苦情を申し出る人で職場を
あふれさせた。
中には結束を訴え徹底抗戦を望む動きもあったが、受験生を抱え大切なこの時期にそんな事を
してはいられないのだと私の目の前で泣き崩れる母親もいた、
              言うまでもなく全ては私の判断ひとつで解決することなのだ。
十一月に入って間もなく、静岡在住の知人に新居と仕事場の確保の打診をした。
妻にでさえも内密で始めた転居の準備であるが、果たして自分が岐阜県を脱して去る事で
周囲に損失のない終演が迎えられるかどうかという懸念は、拭いきれるものではなかった。
しかし金銭授受による解決を彼らに提案し、屈辱のままこの地で生活を継続するつもりはなく
かといって、あげたくもない重い腰を渋々あげた国家権力に期待している時間もなかった。
52賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/20(金) 13:20:03 ID:???
一週間で師走に入るという祭日の午後、私は仕事場で電話一味の彼女と最後の会話を
交わしていた。
「ここ二日三日の間、奥さんが家にいないね」
「そんな事言って、本当は行き先も調べてあるんだろ」
「実家にでも帰ってしまったんやら?」
少し茶化すようでいて相変わらず人懐っこいその声に、そうか本当に知らないのだなと
確認してからこちらの計画を明かす事にした。
「実はさ、ここでの仕事も止めて住まいも他県に移すことにしたんだよ」
「え・・・・」
「どうだろう、その場合そちらにどういう動きがあるのかなあ」
「本当に引越ししちゃうの?」
「うんそれは決定なんだ、だから女房と子供を先に雲隠れさせたのさ」
「じゃあもう近い話なんだ」
「うんそうだね、悪いが期日までは言えないけどさ」
時折差し障りのない範囲で情報を流してくれたり、とりとめもなく話がはずんだり
こうして何度も言葉だけの密会を交わしてきた私達だった。
実は会おうという話もあったのだが約束の夏祭りの晩、結局彼女は現れず
               そしてそれは今となってはかえって好都合な結果となった。
「ねえまたこの街に帰って来ることあるの?」
「はははは、また苛められに戻ってくるか」
「今晩会おうって言ったらあたしと会ってくれる?」
53賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/22(日) 21:00:05 ID:???
静岡に引っ越してきた過程は、決して明るい将来を暗示していたわけではなかった。
住まいを静岡に移し住所だけは岐阜県にしばらく置いて、その後一度九州の知り合いのもとへ
住所変更をしてもらった。
静岡県内の住まいに住所を移したのは、念を入れてそれからまた半年を過ぎてのことだ。
今の生活が平穏であるわけではないが、この地に移り住むことで過去の記憶を自分の中から
切り離して考られるようになったのは有難いことだった。
あのときあの晩、電話の女性に会いに行かなかったのは怖気づいたわけではなく、また彼女に
興味がなかったわけでもない。
彼女の正確な素性や顔は知らず終いであるが、向こうは日常ありえないほどの観察に依って
私に関するかなりの情報をもったはずである。
その上で彼女が私に好意を抱いてくれた事に対して、それ以上でも以下でもない思い出に
変えてしまう事に戸惑ったのだ。

私の運転する車は、浜名湖の波打ち際から離れたりまた近づいたりを繰り返しながら、徐々に
その目的地である自宅へと向かっていた。
通代が依頼した興信所からの報告書と対面するのは帰宅後間もなくなのか、それとも午後から
になるのか、何れにしろ徹夜で浜名湖のほとりに座っていた今の我が身には、興味の対象と
いうよりも面倒なことである事に間違いはなかった。
54賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/22(日) 21:09:18 ID:???
通代はいつものごとくにまだ布団の中にいた。
昨夜は何時まで飲んでいたのか、肴にしたスナック菓子がグラスの周りに散乱している。

釣竿を見張りながらウトウトはしたものの、熟睡した時間があるわけでもない身体が朝日を
浴びて一時的に目を覚ますこのタイミングに、こなさなければならないことがある。
何をおいても洗濯機をまわし米を研いで炊飯器のスイッチを入れる、これさえすれば後は
少し落ち着いて味噌汁の具の検討にはいれる。
充分に沸かしきらずに火を止め適量の味噌を皿に用意、洗濯機の残り時間をチェックして
それに合わせ時には卵を時には魚でも焼くのだ。
洗濯物を一枚々々干しだす頃には再び襲って来る睡魔にこらえ切れなくなり、しかしこれが
また直後の爆睡を予感させ何とも心地よい。
「おい通代、起きろ交代だ」
味噌汁の仕上げ等の指示をすると、倒れ込むように仕事開始の直前まで意識を失う。
僅か一時間半前後の睡眠で完全に復帰し、十分でシャワ−と着替えを済ませ仕事場へ向かうと
一息つけるのは午前の仕事が落ち着く十時半頃である。
かなり遅めの軽い朝食とコ−ヒ−を摂りながら朝刊に眼を通していると、ふと今頃はもう
通代のもとに報告書が届き読んでいるころかなと気がつき、そう思うと急に朝刊に興味が失せ
机に置いた。
55賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/22(日) 21:19:03 ID:???
殊更に私が不利になる情報などありよう筈もないそんなものに、なぜか落ち着かないその
感じは運転をしていて真後ろにパトカ−がついた時のあの謂れのない不安に似ていた。

「今な、届いた報告書これから読むとこやねんけどな」
そう通代からすこぶる上機嫌で電話があったのは午後の三時くらいだ、今のうちに白状したら
どないや、まだ読む前にこの報告書以上の事をここで白状すれば許したらんでもないでと
うかれ調子で喋りあげ一方的に切れてしまった。
その傲慢な態度が、最後まで読み上げても何も期待した情報がなかった時にどう変わるのか。
やがて二時間ほどすると読み終えたという報告が通代からあるのだが、そこで私にある疑問が
浮かんで来ることになる。
「今、読み終えたとこやねん、何か言う事あるのんちゃうか?」
「俺はまだ読んでもないし、何も言うことなんてないさ」
「まあエエわ、じゃあまず帰ってからな」
そう言ってきれた電話だったが、どうも通代の態度に腑に落ちないところが出てきた。
どこを散策されても思い当たる節のない私の調査報告書を読んだにしては、虚勢なのか
通代の強気な態度に変化がないのだ。
本当は興信所への依頼などしていないのでは、という思いが私の中で頭を上げ始めた。
考えてみれば一ヶ月にも及ぶ挙動調査など依頼しようものなら、その費用は莫大な金額に
なろう。
そこから考察してみても本当に依頼した可能性は少ないのではないか、そう考え合わすと
一貫して強気な通代のあの態度も頷けるものがある。
56賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/24(火) 11:33:30 ID:???
ただのハッタリならば、多少なりとも振り回された感のある自分が疎ましい。
しかしもし事実として今自宅に調査報告書なる物があるならば、それはそれで夫婦間の信頼は
いよいよ崩壊したなと思わざるを得ない。
何れにしろ煩わしいことだと思いながら自宅のドアを開けた。
居間に入ると通代がソファに寝転がっているのが目に入り、その手にあるのはどうやら
本物の調査報告書であるらしかった。
「本当だったのか」
「何がやねん」
「いやな、もしかしたらハッタリだけかとも思ってたんだけどさ」
「何ゆうてんの」
仕事場にかかってきた電話の時とは打って変わった仏頂面の通代に少々戸惑った。
「一ヶ月の調査費用ってどれぐらいかかったんだよ」
「九十八万円・・」
「九十八万円ってお前、そんな金額がどこから出せたんだよ」
「お母さんがな、お母さんが浮気の証拠を掴んでおけばこれから優位や言うてな」
その資金が通代の母親から出されていたと聞かされ、この母と娘への私の信頼はこれほど
までに薄いものだったのかと、あまりに情けなくなった。
57賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/24(火) 11:39:23 ID:???
「ねえあんた浮気してるんでしょ」
「またえらい唐突だなあ、報告書にそんな事でも書いてあったんか」
「ねえ浮気してるんならしてるって言えばいいやん」
どうやらあてが外れてしまいそれでも私に対する疑念がとれない通代は、強引に白状させる
作戦に切り替えたようだ。
「なんで言わないねん、卑怯者!!」
ここまでの結婚生活に耐えてこれたのは、社会的な体面も考慮せざるをえなかったという事も
あろうが、自分に与えられた使命感のようなものが一番大きかったのではなかろうか。
家族として子供達の母親としての通代を守るべく立場に、自分はあるのだという意識が
辛うじて通代に対しての態度を理性的にしてくれていたのだろう。
しかし卑怯者と罵倒されたこの瞬間に、初めて純粋な怒りだけが込み上げてくるのが解った。
百歩譲ってやってもいい、確かに私は通代を最愛の女性≠ニして彼女が充分にそう感じる
よう接してきたとは言わないしそれに依る不満が私に向かう事もあろう。
だが少なくとも懸命に努力し責任を果たしてきたではないか。
通代への妻として母としての期待を打ち消しながらの日々が、私の結婚生活というものへの
夢を、どれだけ捨て去るをえなかったのか解るまい。
それが私にとってどれだけの人生設計の変更であったかも解るまい。
そのお前が今、これからの生活を自分優位にするがために母娘ぐるみで私の落ち度を探す
お前が今、私に向かって卑怯者と言うのか。
「お前という奴はぁ−」
そう叫ぶと通代の胸ぐらを掴んだ私の右手は開いておらず、初めて女性を拳で殴った。
58賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/24(火) 11:44:00 ID:???
流石に顔を殴ることはせず頭を狙ったが、女である通代を拳で殴ってしまった後悔なんて
いうものはなかった。
自分の思考だとか理性が一瞬感情だけに支配されて、私は声にならない声を張り上げては
周りにあった物にあたりちらした。
それは通代にたいしての怒りというよりも自分自身に対しての無力感の方が強く、やがてそれは
激しい空虚感となり私の感情を掻き毟り、たまらず頭を抱えしゃがみこんでしまった。

全てを投げ出してしまえればどんなに気が楽になれることか、しかしそれが許されるよう筈も
なく、家をとび出した私はまたいつもの浜名湖のほとりへと向かっていた。
通代が子供達に感情の矛先を向けるのではという不安もあったが、とりあえず夕飯用に炊飯器の
スイッチを入れ近くのス−パ−から惣菜を買って、置いてから出てきた。
普段でもそうだがあの状況では尚更、通代が子供達の空腹に配慮しようとは思えないからだ。
いつも我々夫婦の不仲の煽りを喰うのは幼い子供達である。
夫婦喧嘩が始まると、この頃まだ小学校にあがったばかりの長女が弟や妹を一箇所に集めて
かばうようにして成り行きを見ている姿がせつなかった。
しかしまだこの時私の中に、通代との夫婦関係を解消した人生を歩むという発想は
                        不思議なほどに沸いてもきていなかった。
59賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/31(火) 14:03:46 ID:???
いつもの場所に向かう途中、国道沿いにあるコインゲ−ムの遊技場の駐車場に入った。
ゲ−ムに興じるつもりはないが今晩は釣竿を出す気持ちにもなれず、助手席に置いてある調査
報告書に眼をやった。
出掛けに咄嗟に手にとったそれは大袈裟な厚みがあり、まるで支払われる金額に無理やり
見合わせたようだった。
パラパラとめくって見ると見慣れた名前が何度も出てきた。
<山下氏と・・><山下氏が・・><山下氏と共に・・>
名前の主は学生時代からの後輩であり私が彼の地元に越してきたのを機に、一週間と間をあけず
行動を共にしているのだから、一ヶ月に及ぶ挙動調査の中に何度登場しても不思議はない。
携帯を手にとり早速本人に連絡を入れた。
「おい、興信所の調査報告書って読んだ事あるか」
今なぜ私の手元にそんなものがあるのかを手短に説明すると、少々興奮気味に
「じゃあ自分も先輩と一緒に観察されてたって事っすね、すぐに行きます行きます」

即座に決定した我々の調査報告書歓談会は、その場所を行きなれたファミリ−レストランに
決めて待ち合わせた。
24時間営業で時間の心配がない上に、ホット&コールドのドリンクが一定料金にて飲み放題で
あるのが我々にはありがたいシステムだ。
60賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/31(火) 14:08:24 ID:???
山下が到着する前に読み始めてみた私は、唖然とした。
一ヶ月前、今まさに座っているこの席での私の周囲の動きが手にとるように解る記載だ。

・11時28分、山下氏と共にファミレス高州店に入店、窓際のテ−ブルに着席談笑。
◎入店時の店内の様子
隣のテ−ブルに男女二人組(五分後に退店)、向かいに四人の男女若者グル−プ、その他は
ス−ツ姿の男性二人組がつい立の向こうにおり、何れも退店まで両氏との接触確認せず。
・11時45分、オ−ダ−後に山下氏がお手洗い退席、その間対象森上氏携帯を手にするも
                          メ−ルチェックか電話の様子なし。
・12時03分、最初の料理到着す
・12時06分、新たに男女二人組入店す
・12時22分、追加オ−ダ−の様子

延々と数分おきにチェックしているその観察労力はまさに専門職のものであり、時に遊び心を
加えた描写をするあたりには観察する側の人間性が垣間見えた。
きっとこの人は興信所の仕事が好きなのだろうなと、最初の方こそ客観的にとらえ余裕も
あったが読み進むほどに今度は、これだけ観察されている中で自分はその気配すらも察する事も
出来なかったのかという屈辱感が湧いてきた。
61賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/31(火) 14:13:24 ID:???
明け方、浜名湖での釣りから家路に着くまでの私の行動の一部である。

・04時11分、東小学校入り口手前路側にて駐車、仮眠をす
◎仮眠時の車内の様子
エンジンかけたままにてラジオは1242hz、顔をまんがタイム七月号にて覆い
              助手席に飲みかけのコカ・コ−ラ500ccペットボトルあり
・04時28分、車外に出て放尿す
・04時32分、自宅前到着、夜間行動が連日続けられる森上氏の体力に敬服しつつ
                                本日の任務を終了す

あの時もこの時も見られていたのだという事実をつきつけられ、まるで自分が警戒心の欠片も
ないオスである事を証明されているような絶望感があった。 
そして明らかに見当違いの怒りではあるが、この調査に携わり報告書を作成した人間に対して
ひと言物申さねば気が済まないという思いに駆られた。
62賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/31(火) 14:18:42 ID:???
「先輩、お待たせしました」
ゆうに百キロを越す巨体であるが軽快な動きであらわれた山下は、いかにも興味津々という
眼で視線は既にテ−ブルの上の報告書に向いていた。
「しかし本当っすか、奥さんが興信所に先輩の調査依頼をしたっていうのは」
現物を目の当たりにしても、やはり確認したいものらしい。
「まあごらんの通りだよ、まずは読んで見てくれよ」
「いいっすか、じゃあ」
冒頭に今我々がいるこの店での事が書いてあることをやはり山下も指摘しながら、感心する
ようにしきりに頷きながらで読み進んだ。
「すごいっすねこれ、こんなん大体いくらぐらい掛かるもんっすか」
「九十八万かかったらしいよ」
「いや、それもまたすごいっすね」
話すときも眼もあげず読みふけっていた山下だが、
「お前もひと月にそれだけの日数俺と出かけているからさ、お前の女房もきっと本当は浮気
でもしてるんじゃあないかと疑っているよ、どうだその報告書を見せて安心させてその費用
を折半しないか」
と、持ちかけると初めて顔をあげて、
「申し訳ないんすが、我が家の夫婦関係は至って平和ですから無用ですよ」
そう言うと二人で大笑いをした。
63賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/31(火) 14:21:23 ID:???
「しかしいくら先輩の奥さんが依頼したって、これはプライバシ−の侵害になりませんか」
「そう思うだろ、増してや当の俺は非常に不愉快だよ」
どうにも、この件の担当者にはその不愉快な気持ちをぶつけてやらんと気が済まぬのだ、と
私が言うとすぐさま山下も同意した。
「どうですか先輩、今ここから電話してみましょうよ」
「もうこんな時間だぞ」
「夜中にも動きまわってるんだからそんな観念はないっすよきっと」
そういう事で早速報告書に記載されている連絡場所に電話をしてみると、意外にもすぐに
私の担当であった渕澤という調査員と話すことが出来た。
「ああ、森上さんの旦那さんですか、どうもどうも」
意気込んでした電話であったが、やたら親しげなその話術に少々調子が狂ってしまった。
「まさかこうして直接森上さんご本人とお話し出来るとは思いませんでした、僕は一ヶ月もの
 間ずっと森上さんだけを見てましたから、お人柄も解りますし
                        もう他人のような気がしないんですよ」
64賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/31(火) 14:25:05 ID:???
この渕澤なる人物は我々のような用件への対応も、小憎たらしいほど心得た人間であった。
「森上さん、コ−ヒ−の懸賞では何か当たりましたか」
そう聞かれても言葉に詰まる私に、更につづけて
「いやあ、山下氏と二人で浜松駅付近の自販機のクズ籠から延々と夜明けまでカンコ−ヒ−
                のシ−ルを集めていたのには新鮮な驚きがありましたよ」
それは冬場にだけ缶コ−ヒ−のメ−カ−が行う懸賞であり、その応募シ−ルをクズ籠から
集めるだけ集めて腱鞘炎になりそうなほど葉書を書き応募するのが、私と山下の冬場の
イベントでもあったのだ。
「確かに、いい大人があんまりああいう事はしませんからね」
「だから素晴らしいと思ったんですよ、社会的な地位をお持ちの森上さんが
                  ああいう事をなさるからこそ僕は感動したんですよ」
そう言って愉快そうに大笑いするこの男に、私はすっかりしてやられてしまった。
一応電話をした趣旨も伝えはしたのだが、それはごもっともです僕もそこは引け目を感じる
のですがなどと言ってはまた、
「しかし毎晩あんなに出掛けられるなんてスゴイ体力ですよね、本当は報告書に私見などは
書き入れてはいかんのですが、森上さんの健康が心配でついつい入れてしまいましたよ」
と、終始こんな調子で私の御機嫌をとりきってしまった。
丸め込まれたと言えば言えなくもないが、不愉快な思いがひとつ消えたのだからそれでよい。
65賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/31(火) 14:31:27 ID:???
「先輩も大変っすね」
目の前に運ばれた料理にやっと集中しだした後輩からの労いに、まあそんな人生だよと
こたえながら、少し自分が疲れはじめている事に気付いた。
それは今回の事のみに発生したものでもここ数日の疲れでもなく、深層部分にあったものが
一気に表面まで押しあがってくるような不安を伴っていた。
それを認め自覚することは、現状の生活を維持していく事を否定するものかもしれない。
「山下、遊びに行くか」
「いいっすね、何でも付き合いますよ」
急に威勢のいい声を出した私に、その気持ちを察したのか山下からも同様の勢いで返事が
返ってきた、そこは長い付き合いの成せる技である。
気分転換が必要だと思ったことなど今までの人生の中にどれだけあったか解らないが、この
晩ほど強く感じたことはそんなにない。

この後輩との行動が多くなる必然的な理由の中に、年齢にそぐわない私のお遊びに気持ちよく
付き合ってくれるという事がある。
「さあ先輩、どこへ行きましょうか」
「コンビニ強盗でもやらかすか、どこかタ−ゲットに向いてるとこ知らないか」
「あそこなんかどうですか、先輩んとこの近くの小学校のとこの」
「いくら何でも自宅の近くはイカンだろう」
「そうっすよね、でも惜しいなあ夜中は車も少なくていいとこなんすよね」
繁盛しているファミレスでのこの会話である、気付いて怪訝な表情でこちらを見る客をよそに
我々は構わず計画を練りはじめる。
66賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/05/31(火) 14:37:19 ID:???

「車は駐車場にケツから入れてエンジンそのまま、ドアは閉じずに入店する」
「そこは基本ですね、顔はどうしますか」
「車おりる時に覆っていたらその時点で通報されるよ、素顔でいいから
              うつむき加減で入店してすぐカウンタ−に背を向けるさ」
「了解です、先輩ちょっと、」
まるで警戒するかのようにわざとらしく耳打ちをしてくる山下に応じて、顔を近づけ小声で
話し始める我々に益々周囲からの視線が集まる。

「結構反応してたお客もいましたね、先輩」
私の車を先程のファミレスの駐車場に置き、我々は一台で目的地に向かい移動していた。
「まあ大概の人は冗談で言ってると思っていただろうけどな」
「そりゃあそうっすね、まさか本当にやるとは思ってないでしょう」
この男と一緒にいると気持ちが学生時代にスリップするのか、日々のしがらみから解き
放たれる自分を感じる。
この時ももう、自分が女房から浮気調査を依頼されるような惨めな男であることなど
とりあえずはどうでいいと、ただ愉快な気持ちになっていた。
「先輩着きましたよ、案の定この時間に客はいませんねえ」
「こんな寂しい通りでコンビニを営業するなんて、警戒心が足りないなあ」
そう言いながら車を転回させ駐車場に後ろから入れると、ドアを半開きのまま我々は
車を降りた。
67賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/06/01(水) 08:19:00 ID:???
少しうつむき加減で店に入り、すぐ直角に右折してカウンタ−内の店員に
背を向ける体制をとり雑誌コ−ナ−へ向かう。
選ぶ仕草も見せず目の前の雑誌を手にとり無造作に開くと、不自然なほど顔に近づけて
立ち読みの振りをしながら店員の様子を伺った。
「どうだ、山下」
「店員は結構あたふたしてますよ、気付きましたね」
「そうか、よし」
周囲の人間から人相が悪い目つきが悪いと言われる私であるが、山下のそれには足元にも
及ばないであろうこの二人組の不審な挙動に、店員の態度は明らかに動揺している。
そしてそれは我々の目論見どおりの展開なのだ。
頃合いよしとばかりに山下が私の傍をスッと離れ、店内を一周するようにワザワザ遠回り
をしながらカウンタ−にゆっくり近づくと、学生であろうか若いその店員の眼はいよいよ
ソワソワと泳ぎだした。
全国に名立たる強豪校の柔道部で主力選手であったその巨体と、あの人相を初めて見た
若い店員の今の心中を計ると気の毒な以外にない。
「申し訳ないんだけどさ、」
腕を大きく広げて勢いよくカウンタ−に両手を置くと無表情で、しかもせり上がるような
重い物言いである、店員は震えるような声で「はは、はい」とこたえた。
その怯えように、雑誌で顔を覆いながら見ていた私は内心もうそこで勘弁してやらねばと
山下に信号を送るが、まったくこちらを見ようとしない。
「あ、の、さ」
と、間延びした口調でその場の緊張を助長しつつ
                   山下は店員の眼を直視しながらこう言った。
「お手洗い、お借りしたいんだけど」
68賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/06/01(水) 08:29:01 ID:???
一瞬、事態が理解出来なかったと見えて若い店員は固まってしまったが、やがて
やたら大袈裟な手振りでトイレを案内しながら
「あ、あちらですので、ど、どどうど、どうぞ」
と、山下を追い払うように繰り返した。
その店員が山下の背を見送りながらまるでドラマの役者のように、肩で大きく息をしながら
胸を撫で下ろす姿を見るのは悪戯冥利につきる瞬間である。
缶コ−ヒ−を二本手にとると、まだ余韻にあるその店員から清算を済ませ一足先に車に戻り
山下を待った。
「どうでしたか、先輩」
運転席に乗り込んで来るや発進した山下には答えず、黙って缶コ−ヒ−を差し出したが
眼が合うともうたまらず、二人同時に噴出した。
「あっはははははは、今回はかなりよかったっすよね」
「そうだなあ、お前すこし脅しすぎだよ」
「出てくる時にコンビニ強盗に気をつけろよ≠チて言ったらはい≠チて言ってましたよ」
「そこまでするか、やっぱりお前の方が人が悪いよな」
「そんな、発案は先輩じゃあないっすか」
そう言うとまた二人で大笑いしながら、浜松の街に向かった。
69賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/06/01(水) 08:36:41 ID:???
我々のコンビは、ともすれば世間に迷惑を掛けてしまうような悪戯をよくした。
コンビニ強盗ごっこ≠ヘ山下に言わせれば店側にとっていい防犯訓練になって、言わば
社会貢献であるらしいが、中には洒落ではすまないような結果になってしまった事もあった。

長距離運転手などに的を絞ったような24時間営業の定食屋があり、そこでは市販のソ−スを
そのままの容器でテ−ブルに置いていた。
我々が入店して食事した際に、それを逆さまにして蓋の部分にたっぷりソ−スを溜めてはまた
元の向きに戻して帰って来るという悪戯を何度かしたことがある。
その容器は構造上一度溜めてしまえば逆流することがなく、次に使用する客が開けた瞬間に
ザバッとソ−スが溢れるという具合だが、これは時になかなか根気がいる遊びになった。
定食屋の店内からは死角になり且つ我々からは店内がよく見える場所に陣取り、様子を
伺うのだがなかなか客がなかったり仕掛けたテ−ブルに座らなかったり、はたまたソ−スを
使わないオ−ダ−であったり思うようにいかない。
二時間も三時間もねばり交代で仮眠しながら見張る時もあったが、そのくだらなさに疑問を
持たずに真剣に取り組むからこそおもしろいのだ。
大抵は最終的に予想内の結果に満足して終了するのだが、ある晩我々の仕掛けたテ−ブルに
着物姿の御婦人二人と男性との三人が座ったときがあった。
70賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/06/01(水) 08:56:39 ID:???
深夜のこの時間になぜ年配の方が選りによってあんな格好でと、他人事のように心配したが
そういうときに限って期待を裏切ってはくれず、事は順調に運んでしまうものだ。
上品で穏やかな表情の御婦人はあっさりソ−スに手をかけ、それも見かけほど器用では
なかったのか力が足りなかったのか、手間取った挙句いきおいをつけて開けてしまった。
ソ−スが容器から太い線をひくように伸びて、座っている人たちの頭よりも高く宙に舞う
様子が、まるでスロ−モ−ションのようにゆっくりと映った。
バッシャ−ン!!
テ−ブルに落ちたソ−スが跳ね返り見事にそのテ−ブルを囲む三人の、顔に衣装に飛び散った。
容器の大きさから見ても残量からも、なにもあんなに見事に振り分けたように飛び散らんでもと
思うほど、三人は上半身が斑点模様になった。
このときは流石に後味の悪い結果になったが、一店舗で一回限り有効のこの悪戯はチェ−ン店の
店舗数だけ繰り返した。

自分の車をとりにファミレスまで戻り山下と別れ、気が晴れた今のこの気分で帰る事にした。
そうする事で、家庭内でも棘のない態度がとれるような気がしたからである。
いつもよりも大分早い時間の帰宅だが、睡眠も充分にとって通代にも少し落ち着いた態度で
接することにしよう、自分が荒立てさえしなければ起こらない揉め事を回避することなど
実に簡単なことではないか。
それが例え、自身の迷いと疲れを否定するが為の現実逃避であろうが結果として、家庭が
円満であればそれ以上の事はないではないか。
私は吹っ切れたように鼻歌を鳴らしながら、松の並木が続く旧東海道を家路に向かった。
71賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/06/01(水) 09:02:41 ID:???
我慢だとか辛抱なんてものは、出来る人間と出来ない人間があろう。
私は元来、出来ないほうに分類される人間であり基本的にそこが変わる事はないと思って
いる。
つい我を忘れて通代に拳を振り上げ周囲の物にあたり散らした昨夜の私は、そう長い時間で
はないが完全に自分をコントロ−ル出来ていなかった。
確かに私の浮気調査を興信所に依頼した通代の行為は、夫婦関係を根底から揺るがすもので
あることに間違いはない。
しかし無理をしても堪えなければならない事が多い通代との生活の中で、腹が立ったら
とりあえずその場を去り気分転換をはかるという知恵もついたではないか。
浜名湖に向かい佇むことで、山下と二人で大笑いすることで案外自分と言う人間は簡単に
忘れられる才能があるという事も知っていたではないか。
なのに耐えられなかったのは通代のせいだとして納得するのは容易い事だ、だがそれで
済ましてはいけない理由が私にはあった。

あれはまだ通代と生活を共にする以前の出来事であった。
間もなくその日の仕事も終わりだという時間になって、職場に私をたずねてきた者がいた。
外見で判断するのは申し訳ないが、目つきが嫌らしくいかにも感情の激しそうなその男性は
一見しただけで、私には生理的に受け付けないものがあった。
用件を伺うと「仕事が済んでからがいいでしょう」と、暗に二人きりでの時間を要求して
待合室で煙草を吸いはじめた。
ニタニタと気味が悪く笑うその表情から、利のない用件で出向いていない事は推察されるが
それが何であるのかは皆目見当もつかなかった。
72賢治 ◆zZeG7TJIaY :2005/06/07(火) 13:08:57 ID:???
「どういったご用件ですか」
お待たせしましたと声をかけながら早速本題へと促したのは、なるべく関わりたくない類の
人間だと本能のどこかで感じていたからなのかも知れない。
「御結婚に向けての準備は忙しいですか」
素性も解らない人間にいきなり私の個人的な話題を持ち出されたその無礼に、つい怪訝な
表情を見せてしまいそうになったが、得策ではないと判断し自制した。
「それが何か」
あえて、コ−ヒ−の準備をしていた手を止め男性の真正面に腰掛けたのは、初対面同士の
礼に失するこの男に私の不快感を察する機会を与える為だった。
「通代とは、あんたが知り合う前からの付き合いなんすよ」
私との婚姻が決定している事を知りながら通代を呼び捨てにするこの男に対して、果たして
どのような態度で応対したものかと思案しながら
「ほう」
と、返事とも相槌ともつかない声を投げて男の眼を直視した。
「オレが何を言いたいのかサッパリわからないでしょ」
そういうと相変わらずユラユラ揺れながらその男はニヤついていた。
こちらの動揺を誘ったり腹を探ったりする為に発した言葉なのか、それともただその程度の
人間なのか何れにしろ、この男に細かい戦略は必要なさそうだ。
73賢治 ◆TFSttz4G.c :2005/06/07(火) 13:14:45 ID:???

「お前、アタマ悪そうだな」
私がそう口に出した途端にそれまで半開きだったその男の眼が、カッと開き眉をひそめた。
「やっと動きを止めたな、ユラユラくらげみたいに揺れやがって」
「なっ・・」
「何が言いたいのか知らんが、とにかく無礼なヤツだ」
ここまでに私の理性をなくすような事が、まだ特にあった理由ではない。
なのになぜかもう私の思考を支配しているのは、どうやってコイツを圧倒しこの不愉快な
時間を早く終わらせるかということだった。
分が悪いと怯んで退散すればそれでよし、さもなくばこれ以上の無礼を積んだ瞬間にもう
爆発する用意が私の中で整っていた。
しかしその男は、そんな私の発する気配をまったく気にもせず
「何にも知らないからなあ」
と言って、ソファに大きくのけ反るように足を組んだ男のその動きが私のスイッチを押した。
ガツ−ンッ!!
私が蹴り押したガラステ−ブルが男の下腿部前面にぶつかった。
74賢治 ◆zZeG7TJIaY :2005/06/07(火) 13:19:00 ID:???
ウウッと唸って前のめりなったその男の茶色い髪の毛を掴み上半身を引き起こすと、そのまま
頭を壁に押し付けたまま小刻みに数発顔面を殴った。
「この野郎・・」
と鼻息の荒い声で威嚇しながら、周囲に見えるその位置から男を引きずって仕事場の奥へと
連れ込んだ。
言い訳になるかも知れないが、普段は決してこんなに簡単に感情のコントロ−ルを失うような
事はなく、この時の私には男の用件が通代のことだと聞いただけで思い当たる節があったのだ。

通代自身が話す彼女の性歴に私がどれだけ打ちひしがれたことか。
今思えばあれほど掻き毟られるような思いをせずともと思えるのだが、免疫が無いという事は
それだけ打たれ弱いということなのだろう。
実際そのような事に疎い環境で生活し勝手な想いを育ててきた自分には、なかなか吹っ切れる
ものではなかった。
頭が割れるような思いの中それは自分が固執する価値観のせいなのだと、必死に己に
言い聞かせながらも強く失望する日々でもあった。
苦しんだ要因が目の前に現れたこの種類の男達と通代との関わりこそ、正にそれであり
私の感情の全てがこの男に向けられた。
75賢治 ◆zZeG7TJIaY :2005/06/07(火) 13:24:40 ID:???
その登場の仕方と態度がまた私の感情に油を注いだ。
私は男に弁解の余地を与えず、逃亡の隙を与えず声を出す事も許さず殴りつけ蹴り上げそして
踏みつけた。
やがてグッタリした男の人相はすっかり変わってしまい、割れて垂れ下がった下顎が鼻血と
ヨダレで汚れていた。
その姿を見ても冷静になれない状態の私にとって、唯一救いだったのはこのとき既に男の
反応がなくなっていた事であった。
少しでも動いたり声でもだそうものなら確実にまた手を加えていただろう、それほどまでに
正気を失っていた私は動かなくなった男を見つめていても、何も特別な感情は
湧いてこなかった。
男の懐に手を入れ鼓動は確認したが、正直に言えば生きていても死んでいてもどちらでも
よかったような気がする。
それよりも、自分の手のひらが直接男の肌に触れたという不愉快な思いの方が強かった。
76賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/06/18(土) 00:32:16 ID:???
夜中には人の視線が殆ど向くことのない仕事場の裏口に車をよせ、後部座席に男を積み込んだ。
血だらけの身体を座席に置くことに抵抗もあったが、トランクに人間をつめるところを誰かに
見られては言い逃れようがないと判断したのだ。
新聞紙をひいて男を引きずるように積み込み、念のため手足を縛り車を発信させるまでの間
依然として私には何等後悔の念もなかった。
ある種の興奮状態ではあったのだろうが、落ち着いて行動をしていたし目的地も設定して
その場でどう処理しようかも既に胸の内にあった。
時々ル−ムミラ−で後部座席を確認しながら少し街を離れ、心当たりのある山道に入って行った。
この山の向こう側を走る国道沿いにモ−テルがあり、どうしても人目を避けて入りたい車がたまに
この道を通るが、そうでもなければ夜中に走る車などないところだ。
山頂にいくと砂利をならしただけの駐車場があり、そこに車を止めてエンジンを止めると
街の灯りは思ったよりも近くに見えた。
「おい、動けるか」
後部座席に声をかけると明らかにそれに反応した動きがあった、返事はしようにも顎が割れて
いるのだから声は出せまい。
「動けるのなら自分で外に出ろよ」
先に外に出て後部座席を開け放つと縛った手足をほどいてやり、私はトランクからスコップを
取り出しそれを片手に男が車から出て来るのを待った。
77はじめまして名無しさん:2005/06/24(金) 22:36:56 ID:a2AgSg5q
78模様:2005/06/29(水) 22:13:11 ID:rlMyReHl
強い衝撃を覚えました。
この先、どうなるのでしょう・・・。
今の賢治さんは、幸せなのかな・・・。
幸せでありますように・・・・。
79賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/07/12(火) 08:49:18 ID:???
男は起きあがり後部座席に座りはしたものの、いつでも振り下ろせるように
構えた私のスコップがやはり気になるのか、なかなか車から出ようとは
しなかった。
「いいから出て来いよ、今の俺をこれ以上イラつかせるなよ」
出来る限り挑発的に、そして威圧的に言ったつもりだった。
スコップを構えて待ったのは反撃を警戒したこともあるが、意図的にこの男に
「殺されるかもしれない」
という恐怖心を与えようと思ったからである。
「早よせぇやぁ」
そう叫んで、上がったままのトランクのドアにスコップを思い切り叩きつけると
大袈裟な音と共にベコリと凹んだ。
「うぅっ・・」と男は小さく唸りガタガタと震えながらゆっくり外に出て来た。
これもあえて自分の車を傷つける事で、それだけ今の自分は理性をなくして
いるのだ、というこの男へアピ−ルだったがその効果は覿面だった。
砂利の上に座るように促すと男は私の顔を見ながら「ああああ・・」と言葉にも
ならない声を出し、その眼からは溢れるような涙が流れていたがそれを見ても
同情の気持ちが湧くどころか余計に感情が高ぶった。
「座れと言ったら座れ」
そう怒鳴ると力無くその場にへたりこみながら、男は相変わらず
「ああああ・・ああ」
と力無い声を出した。
「黙れよ・・・眼をつぶって歯を食いしばれ」
80賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/07/12(火) 08:52:18 ID:???
先ほど車を叩きつけ、その威力を見せたばかりのスコップを振り上げて言った
その言葉に男は大きく手を振って拒んだ。
本来は首も大きく振りたかったところなのだろうが、割れて垂れ下がった顎が
余程痛いのか首は僅かに左右に動いただけだった。
命乞いともとれるその弱々しい姿と、まだ高校生であった通代やその同級生に
この男達がしてきた卑劣な行為との間にはあまりに違うものがあった。
「お前はここで俺に殺されてもいいし、ここで死んでもいいようなヤツだよ」
私がそう言うと男は両手を合わせて「あああ、うううぅ」泣きながらガタガタと
震えた。
「俺に殺されても・・」
自分が口にしたその言葉を聞いた時にに、なぜか急激に自分の今している事に
対しての実感と大きな不安が覆いかぶさってきて、咄嗟に、手にしていた
スコップを大きく振り回して山の茂みの中に放り投げた。
殆ど無意識に腕が動いて放り投げたスコップだったが、それはもしあと一秒長く
手に持っていたら男の眉間に振り下ろしたかもしれない。
「死んでもいいようなヤツだ」
言葉にした瞬間に、それをしてしまいたいような激しい衝動が襲ったのだ。

私は車に飛び乗ると、男をその場に置き去りにしたまま夜中の山道を下った。
先ほどまでの現実を振り払うように、頭の中を空にしようと大声で叫びながら
ギリギリのスピ−ドまでアクセルを踏んだ。
81賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/07/12(火) 09:09:30 ID:???

隣街との境にあるアミュ−ズメントの駐車場に車を入れ、飛び込むように中に
入ると真っ直ぐ両替機に向かった。
震える手で必要以上とも思える量の百円玉を用意すると、カ−ドゲ−ムの前に
座りポ−カ−を始めると意外に不思議なくらい熱中する事が出来た。
独身の頃にはこうして苦いコ−ヒ−をガブガブ飲みながら、よく朝まで
ポ−カ−マシ−ンに向い徹夜明けで仕事をしたものだと思うと、ふと今もまだ
そうであって今晩の出来事も、実は全て夢なのではなかろうかという典型的な
希望的錯覚に落ちそうになった。

しかし流石にそこまでは精神が崩壊もしてはくれず、次第に自分の胸の中に
「今ならまだ間に合う」
という思いが膨らみ始めどんどん大きくなった。
いったい何に間に合って、何にはもう取り返しがつかないのかは
解らなかったが、とにかくこのままではいけないという思いに駆られ車に戻った。
82賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/07/12(火) 09:12:35 ID:???
もし既に誰かの手に依って救出されているのなら、通報されている可能性も
充分にある。
今こうして現場に向かう事が自分の人生にどのような影響があるのか、もし
現場付近で警官に職務質問を受けた場合に、自分はどう対処すべきか。
どのような結果が待っていれば一番よいのか、自分は何をする為に今あの場に
向かっているのかも解らないまま車を走らせた。

しかし、自分が立ち去って三時間余りの頂上にあの男の姿はなかった。
歩いて自力で山を降りようとすれば出来ただろうし、もしかすると通りかかった
車に助けられたのかもしれない。
何れにしろあの怪我なら治療せずにはいられまいし、病院に行けばおのずと
受傷原因に触れるところとなり事件となるであろう。
私は自分がやってしまった事に対して責任をとる覚悟をしなければならない、そう
思うと頬を熱いものがつたった。
それは自分の犯した罪を悔いてではなく、どうしてこんな事になってしまったのか
という、自分を憂い慈しむ涙であった。
更に正直に言えば、果たしてあの男に申し訳ないという思いがあったかどうかは
覚えてもいない。
83賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/07/12(火) 09:15:40 ID:???
仕事場に向かいながら、これから自分の身に降りかかる因果に想いを馳せた。
今日にも警察官が私の同行を求め現れるだろう、そうあって当然なだけの事を
自分はしてしまったのだから・・
もしそうなったら流されるように状況に従おう、という気持ちになってはいたが
覚悟なんていうものではなく、このまま有耶無耶になってくれはしないかと
願ってもいたし逃げたい気持ちもあった。
だが、それ以上に自分の弱さに幻滅し絶望し疲れ切っていた。
通代の人生は彼女自身のものである事など解っている、彼女がどのような
生き方をしようがそれに対して私が心を痛めるのは私だけの問題だ。
過去の性歴をあっけらかんと話す通代に唖然とした晩以来、私はまるでどこかに
置き去りにされた子供のようにべそをかく毎日だった。
本人を責めるのは筋違いだし、してはいけない事だと知りつつも通代に対して
思いやりに欠けていく自分が情けなかった。
純粋に通代に対して同情出来る状況であればまだ救いがあったが、自業自得と
とれるところもあり、それがどうにもやり切れなかった。
自分自身の中だけで抱えねばならなかった筈の葛藤を抱え、のたうちまわる思い
をしていた渦中での、「あの男」の登場だったのだ。
しかしこれで、どのような形にしろ自分で悩み考えながら過ごす日々からは
解放されるのかも知れない。
社会から隔離された生活が始まるかもしれない可能性に、同時に違う何かの
可能性にも期待し始める自分がそこにいた。
84賢治 ◆E.KmoeX.CE :2005/07/12(火) 09:21:02 ID:???
何事もなく一日の仕事が終わろうとする時間になり、帰宅の準備をしながら
「こんな思いで明日も過ごすのなら、いっそ出頭した方が」
そんな事を考えていた時、玄関のドアが開いた。
「森上さん、仕事は終わったかね」
そう野太い声で言いながら入って来た大柄の男性は見覚えのある顔だった。
いわゆる「堅気」ではない世界の人間で、個人的にはあまり親しくなりたくない
が、仕事での付き合い以来なぜか私はこの人に気にいられていた。
何度も声を掛けてくれる誘いを断りきれず、一緒に繁華街を歩いた事があるが
その異質な雰囲気にはやはり馴染めない。
常に周囲に対して影響力を誇示するこの人達の側にいる事は、それだけで自分の
気も緩むことがなくひどく疲れるのだ。
「こんばんは、どうしたんですかこんな時間に」
昨晩の寝不足と一日の疲れを隠して、精一杯覇気のある声を出したつもりだった。
それは、思い掛けない登場にも少しの不快感も感じたと伝えてはいけないという
いつの間にか身に付いた処世術だった。
「森上さん、若いのが迷惑掛けたみたいやのぉ」
「えっ・・」
85はじめまして名無しさん:2005/07/25(月) 23:52:24 ID:RVuO0tti
なは
86はじめまして名無しさん
私は狼狽と屈辱でその場に突っ伏してしまいたいほどの衝動を抑え柔和に笑って見せた