政治も、ゲージ化できる問題ならいいのにね。
株式の投資信託運用なんかならね、投資家にとって途中の事はよくわからんし
どうでもいいから、この金をもっと増やせ!って。それにつきるわけで。
そのための専門家なんだから。
そんな契約と同じで、民主主義国家における国家と人民ってのは、支配と被支配の
関係ではなく、あくまで"契約"なんであって。
税金上げようがなにしようがいいから、全ての行動ベクトルは「国民の幸せ」と、
「その幸せ量の更なる増大」に向かいつづけなくてはならない。
人民がその規律に従う義務は、幸せを保証することが前提になっているわけで、
国家が国民に幸せでいさせつづkるというその義務を果たせない時は、当然国民が
暴動起こそうがアナーキーになろうがしょうがない。 というより「あたりまえ」だと
思うのよ。
この社会不安の中、将来に渡ってただ絶望だけが用意されている誰かが、
そのヒトという動物一匹が行使できる自由を最大限に行使することに、誰がとやかく
言えるというのだろう。
いや、言うなら言えばいい。言いたいのならば。
それを言うことが可能であるのと同様に、誰しも可能であることはできるんだよ。
もし誰かがそれを阻みたいと思うなら、そんな不幸な誰かに幸福を与えてあげる
以外に方法はないだろうね。