203 :
諸富祥彦「人生に意味はあるか」より:
ふつう人は、みな「これが現実だ」と思っている「この世界」(共同現実世界)に主軸を置き、
そこを立脚点として人生や世界を見ています。ミンデルが「コンセンサス・リアリティ(同意された現実)
と呼ぶ世界の位相であり、吉本隆明が「共同幻想」と呼んだ世界です。
どれだけどっぷり社会につかっているかによっても違ってくるでしょうが、ふつう人は、ここに視座を置き、
そこを立脚点として、人生や世界を眺め、意味づけ、自分の行為を決めているのです。
そこでは「幸福」や「平和な家庭」「自己実現」「社会や国家の繁栄」「人類の進化」などが価値あるものとされ、
それが人生の意味や目的となっています。
もちろん、これはこれでまったくかまわないのですが、およそ四分の一くらいの人は、
何らかのきっかけで社会との違和感を感じ始め、脱・社会的な傾向を強めていくと思います。
そして、さらにそのうちのごくわずかな人、おそらく百人に一人くらいの人は、何らかのきっかけによって、
まず「脱・社会的な世界」へ、そしてさらには、それを含んで超えた「未知の世界」へと視座が移っていきます。
そしてついには、人生の中心的な立脚点が「そちら」へ転換してしまう、ということが起こります。
すると、人生や世界がこれまでとはまったく違って見えてくるのです。
自分という存在の、重力の方向がひっくり返る、とでも表現すべきでしょうか。
そうなるともう、わかる人にはわかるけれど、わからない人にはわからない、ということになってしまうのですが、
人生や世界のさまざまなものごとを見る立脚点がひっくり返り、
いろいろなものの意味や価値もまったく異なって見えてくるのです。
204 :
諸富祥彦「人生に意味はあるか」より:2006/06/18(日) 14:04:29 ID:e4TSAV0Y0
強引にたとえるならば、私たち一人ひとりの人間は「波」で、そしてそれを含んで超えたものとは「海」
のようなものということになります。ここで言っているのは、「波」が「波」としての意識も保ちながら、
同時に「海」の立場に立って「波」である自分自身を振り返るような視点も持つこと。
そして、単に一時的にそのような意識を持つのではなくて、「波」が恒常的に「海」の立場に立って
そこから「波」自身を振り返るようになり、ついには、通常の立脚点が「海」のほうにシフトしてしまうような出来事です。
人生や世界を眺める立脚点のシフト(転換)についてお話していますが、これはものすごく重要なことです。
個人の自己成長、内的成長、という観点から言っても、これが最大の分かれ目になるでしょうし、
大げさに言えば、人類が精神的にさらなる進歩を遂げることができるかどうかは、このシフトが人類規模で、
同時発生的かつ集合的になされうるかどうかにかかっている、とさえ思います。それくらい、大切なことです。
社会の枠の中で、共同現実世界を立脚点として、そこでの価値(例:幸福、自己実現、社会の平和や安定)
に人生の意味を求めて生きるか。それを含んで超えた世界の側に身を置き、そこを立脚点として
人生や世界を捉えるか。その違いはあまりにも大きな変化を人生にもたらすのです。
(前略)
「もう、どうにでもなれ」。心身の疲労が限界に来ていた私は、なかば魔が差したのも手伝って、
実際に、その場に倒れこんだのです。うつぶせに。けれど、何かが、いつもと違う・・・。
からだがとても軽いのです。不思議だな、と思って、あおむけになってみると、横たわった私の、
おなかのあたりの、ちょうど一メートルほど上の位置でしょうか、
そのあたりに、何かとても強烈な「エネルギーのうず」のようなものが見えたのです。
「あああぁぁ……」。言葉に、なりませんでした。
けれども、なぜだか見たとたん、わかったのです。「これが私の本体である」と。
ふだんこれが自分だと思っていた自分は、単なる仮の自分で、むしろその「エネルギーのうず」
こそが、自分の本体だ。疑うことなく、そう思えたのです。
「何だ、そうだったのか」。その瞬間、すべてがわかりました。私は何であり、これから私がどうしていけばいいのか、も。
私は、そのときそこに、思いがけずも「答え」を見たのです。真理を「知った」のではなく、「見た」。
「ああぁ……」と驚きのあまり口を開けつつ、そこに「真理」が現成し、立ち現れるのを、ただ「見た」のです。
その「エネルギーのうず」は、時には私と一体化し、時には私の頭上に場所を移して、今も私を導いてくれています。
しかし、この私の本体を、私の自我を含んで超えたこの「エネルギー」そのものを、
私はいったい、そんな言葉で説明することができるのでしょうか。
それは、言語を絶したリアリティ。もう「これ」と言うことしかできない。それ以上遡って説明したり、
何かを付け足してしまうとすべて嘘になってしまいそうな、このリアリティ。
その前では、押し黙って、立ち尽くすしかないこの究極のリアリティ。
「あぁ、これ」と、直に指し示すことはできるけれど、そうすることしかできない「はたらきそのもの」。
これ以上、遡って説明することができない。いや、体験した人には、
遡っての説明などまったく不要であることが即座にわかる、この究極のリアリティ。
この「最も確かなもの」と私は、直接出会った。そこですべてが終わったのです。