解説「反・産業萌アニメ」としてのラブライブ2nd 〜革命者としての京極尚彦論〜
ラブライブ2nd(以下、2期と表記)を観て、私は愕然とした。
なぜならこの物語が、非常に高度な否定を多層的に有していたからである。
そして、その観点から1期を観直すと、まったく別の大きな陰謀(志といってもいい)が観えて来たからである。
この作品は中身だけを観た時には、とても拙く、稚拙な物である。
けれども、その中身には大いなる野望が込められているのである。
始めに、ソーカル事件(実験)という出来事を皆さんはご存知だろうか?
96年、ニューヨーク大学の物理学者アラン・ソーカルが、
当時現代思想論界で権威のあった雑誌『ソーシャル・テクスト』に夥しい引用と専門用語の羅列の含められた
【内容的には破綻している】擬似論文を投稿し、それがそのまま掲載されたという出来事である。
この出来事により、フランス現代思想界は大きな批判を浴びる事になった。
そして、ラブライブというアニメ作品にも同様の意趣が見られるのである。
そう、ラブライブというアニメ作品も【内容的には破綻している】である。
1期の最後の2話を観てもらえれば、分かりやすいが。
そこまでの11話は「廃校を阻止する」という物語(ストーリー)で展開されている。
しかし、12話で唐突にそれまでの物語の中心であった「廃校を阻止する」という主題は放擲され、
こちらも唐突に表れた、キャラクターの留学話へと移動している。
これにより、ラブライブ1期は【内容的には破綻している】作品となった。
では、この内容の破綻、物語の破壊はなぜ行われたのだろうか?
脚本家の花田十輝氏はインタビューで
「私は最後の2話を書き直すべきであると主張したが、監督の強い意向でこういった形になった」と答えている。
「監督の強い意向=強い意志」それによる明確な破壊である。
ラブライブという作品には1期から物語の破壊という、外的な主題を有していたのである。
そう、ラブライブ1期という作品こそが、ソーカルの破綻した擬似論文と同義だったわけである。
ソーカルにとっての擬似論文は、現代思想界の欺瞞を暴くために作られた物である。
(ソーカルは後に「我々の目的は、まさしく王様は(そして女王様も)裸だと指摘することである」と言っている)
では、京極尚彦監督にとってのラブライブは何への攻撃のために創られたのであろうか。
それはラブライブという、作品が有する物を見れば理解できると思う。
ラブライブという作品から、物語性を排除すると残るのは、
可愛い女の子達が歌って踊るだけの「産業萌アニメ」、所謂「美少女動物園」である。
京極監督が否定したかったのはそれなのである。
しかし、そこで不幸な擦れ違いが起こってしまう。
京極監督としては明確な批判、【内容的には破綻している作品】として呈した物が好意的に受け取られてしまう、という悲劇だった。
ラブライブが京極監督の初監督作品だったのだが、それが一番の要因だと思われる。
実は私も初見で1期を観た時には、最後の展開が「稚拙な監督が、稚拙なマスターベーションを行っただけ」と感じてしまった。
(今から見れば、あれは痛々しいほどの問題提起であったのだが)
結局1期は商業的な成功を収め、2期が制作されることになる。
(もちろん京極監督が望んではいなかっただろう)
こうして創られたのが今作である。
京極監督は2期になり、1期よりも過激に過剰に、徹底的に「物語の破壊」を行っている。
具体的に見てみよう。
・1話:主人公が「大会には参加しないでいい」と提案する→<大会という主題の破壊>
・2話:合宿で主人公が寝ていただけ→<大会という主題の破壊>
・3話:前話で寝ていただけの主人公が「自分達は勝てる」と根拠のない激→<大会という主題、物語性の破壊>
・6話:海外のドラマからシーンと台詞の盗作→<作品の正当性の破壊>
(ツイッターで「海外ドラマから盗作する」と宣言して、きちんと露見するようにしている)
・7話:何もしてないのにダイエットが成功→<物語性の破壊>
・9話:校庭にいる間だけ猛吹雪、交通機関が麻痺しているのに雪かきマラソン→<世界観の破壊>
・9話:前話で1話をかけて作られた楽曲の披露が唐突→<大会という主題、物語性の破壊>
・10話:主人公が自分達がどれだけ支えられていたのか、ここまで気がついていない→<世界観の破壊>
・11話:前話で「みんなでμ's」と謳ったのに、「9人だけがμ's」と手の平返し→<物語性の破壊>
・12話:アライズの悲劇→<大会という主題、世界観、物語性の破壊>
(作中で唯一登場するライバルチームなのに、前半では活躍を描き、後半ではあえて一切描かず、最後はその他扱いにする)
・12話:大会でいきなりアンコール、瞬間移動の裏方→<世界観、物語性の破壊>
・13話:卒業式の送辞でミュージカル→<世界観、物語性の破壊>
・13話:実はほとんど描かれていない卒業→<物語性の破壊>
(描かれて当然の、進路や葛藤などの卒業まで過程が、実際には作中では一切描かれていない)
・13話:ドリフエンド→<物語性の破壊>
大きな物だけ上げても、これだけの破壊が緻密に、精密に行われている。
(細かい台詞の齟齬などは、上げていけばきりがないほどである)
京極監督はこのように、この作品を通して【内容が破綻している作品】を露骨に(露悪に)披露したのである。
そして作品が持つ欠点と批判は上記の「美少女動物園」へ換して向けられる。
京極監督が問うたのは「物語の破綻した作品に、いったいどれだけの価値があるのだろうか?」という事であろう。
そして同様に、もう一点、これは商業的な面なのだが、
この作品はメディアの販売数が過去のTVアニメ史上最高記録の売り上げを達成した。
これは各大手店舗に全巻購入特典の個別曲や、ライブの優先的な抽選券、携帯ゲームのコードなどの特典による物である。
そう、これはそういった特典商法への警告なのだろう。
【内容が破綻している作品】が史上最高の売り上げを記録するなど、笑止千万だと誰もが感じるであろう。
京極監督は「作品は内容で評価されるべきで、特典などによる売り上げに一体どれだけの意味があるのか?」そう問うている。
以上がラブライブ2期の解説になる。
この作品の中身を否定するのも、肯定するのも正解ではないのだ。
これは情熱的な一人のアニメ監督が現状のアニメ業界を告発する、そういった作品だったのだ。
そして、彼はその作品の中で、史上最高記録を嘲笑で塗り替えるなど、見事な、あまりにも見事な作品を見せてくれた。
実際、これは大きな信念がなければ達成できなかった、偉業であろう。
作中で最後に主人公が口にする。
「やり遂げようね、最後まで」→「やり遂げたよ、最後まで」
という台詞は、(物語的には)本当には作中では登場するはずがない台詞である。
この台詞は、自分やそれに続く若き情熱溢れる芸術家達に向けられた物であろう。
京極「やり遂げたよ、最後まで」
こういう事である、そして実際に彼はやり遂げた。
初監督作品でアニメ業界の欺瞞を粉々に破壊しつくしたのだ。
この天才監督に私は心からの快哉を送りたい。
最後に、この作品は劇場映画化が発表された。
天才京極尚彦がこの破壊しつくされた物語を、どのように創造するのか、私は心より楽しみにしている。