>>596 >「宮崎あおい」の たった一人の魂に
これ、面白いよね。何に執着しているのかが、とてもよく分かる。
フラクタルの奇妙なところは、冒険譚をうたっておいてその「冒険の舞台」の設定がグダグダなこと。
それとは対照的に、フリュネとネッサの「魂の変遷」の設定については偏執狂的に深く執着しているところ。
おそらく、ヤマカンと一般視聴者のフラクタルに対する決定的な視点の違いも、そこ。
一般視聴者はクレインやグラニッツ一家に注目して観ている。なぜなら、冒険譚だからね。
しかしヤマカンは、おそらく最初から最後までフリュネとネッサしか見えていない。ヤマカンがグラニッツ一家について熱弁したことなんてないだろう?
フラクタルという作品は、だからヤマカンにとって「美しいフリュネとかわいいネッサ」をひたすら追いかけて連れ回してもらって最後に一緒になるという作品。
あの世界の中心は、フリュネなんだよ。クレインやグラニッツ一家は、ただの平凡な取り巻き。
そうだな、B級アイドルがファンを集めて温泉バスツアーしてるようなものだ。
一般人から見たら安っぽいくだらない出来損ないツアーけれど、アイドルを神聖視してる集団には「至高の体験」だろうね。
「アイドルは物語だ」ってヤマカン言ってただろ。僧院は芸能事務所。フラクタルシステムは芸能界のシステム。ザナドゥはテレビのセット。
アニオタには理解できずに非難轟々のフラクタルも、アイドルオタのヤマカンにとっては自分の感性や生理に嘘つかないで忠実に作った「最高傑作」なんだよ。
たぶんね。