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名無しさん名無しさん:
★聖教の顕彰記事に振り回されるメディアは、肩書や嫉妬に囚われた底の浅いジャーナリズム★
★記事を行事紹介や広告に頼り、病人と貧乏人の教育・指導が二の次で、一般紙と変わらない★
★政治の混乱や異常気象の解決方法を、御書根本に言い切れない軟弱さは、一般紙と変わらない★
★名誉会長の執筆に依存し、自らの足で記事を集めた形跡の乏しさは、一般紙よりはるかに劣る★
権威や名誉、形式を戸田は最も嫌っていた 第12巻・寂光(391)
紙面を刷新していくには、結局は、記者の一念を刷新していくしかないんだよ。
挑戦の気概を忘れ、惰性化し、努力も工夫もなく、受け身で仕事をするような記者では、
何千人、何万人いようが、とても世界の新聞とは太刀打ちすることなどできない。
必要なのは、全学会を背負って立ち、ペンをもって世界を変えようとする、獅子のような、
一騎当千の記者だ。そうした記者が、5人か10人もいれば十分だよ。新01巻・慈光(256)
新01巻・慈光(245)
そうした社会の中で、人々が、どうすれば、希望を見い出していけるのか、歓喜を沸き立たせて
いくことができるのかを考え、編集している新聞はない。また、人生の苦悩に対して、いかに挑み、
克服していくかを教えている新聞もない。しかし、社会が最も必要としているのはそういう新聞だ。
聖教新聞の使命は極めて大きい。学会にあっては、信心の教科書であり、同志と同志の心をつなぐ
絆になっていかなくてはならない。また、社会にあっては、不正・邪悪と戦い、仏法の慈光を
もって、まことの人間の道を照らし、万人に幸福と平和への道を指し示していく使命がある。
軍部政府と命を懸けて戦った、牧口先生、戸田先生の精神を受け継ぐ学会の機関紙以外に、本当の
平和の道は語れないからね (246)
そのうえで、根本的には、大仏法の慈悲の精神をもとに、世界の平和、人類の幸福の追求を
めざすことだよ。国の利害やイデオロギーによるのではなく、地球民族・地球家族として、ともに
人間の道を探り、創ろうという主張が大事になってくる。
私は、聖教新聞を『世界の良心』『世界の良識』といわれるような新聞にしなくてはならないと、
かねがね思っている。これこそ、本来の大仏法の精神であるからだ