更科氏の文章読んでアニメ業界の閉鎖体質に驚いたな。
ここにいるヤマカンアンチみたいなのが騒ぐのは可愛いもんだが
原作者とか出版社から圧力かけるとか本当にあるんだね。
山本寛氏の推薦、ということで『季報 唯物論研究』という研究誌に原稿を書いたんだけど、
「そのジャンルの専門家に悪いから、もう、ジャンルの内側で批評の仕事をすることはない」というだけの内容なので、
山本さんには悪いことをしたかも知れない。
更科ブログより
>>110 別に悪く言われたからってファンはファンをやめたり
しないのにね。気にしてるのはコンテンツホルダーだけ
ってのは、何か別の方向に病んでる気がしてしまうよ
ヤマカン振られたな
>>111 いや、でも更科のあの記事は勇気があったと思うぜ
何か俺、更科のこと見直したわ
>>112 最近は「炎上」ってのが加わったけどな
TYPE-MOONからの圧力は非常に残念だ
ユーザの声の力で盛り上がった会社だと思ってたからな…
よくも悪くも全部受け入れているのかと勝手な妄想をしてしまっていたよ
グレンラガンの方はガイナからではなく中島かずきからって書いているのが味噌なのかね
>>115 ガイナが肛門の小さい連中だってことはわかった。
滅茶苦茶好評だな
買うか
工作必死過ぎw
>>106 む〜。おれも見たけど…。
木上さんのコンテには無地でもキャラクターの目線とかしっかり分かるが、
基本的に絵のかけないヤマカンコンテはそこんとこが怪しい。
レイアウトは原画に丸投げかフレーム修正のみな気瓦斯。
そもそも、筆者が二〇〇四年に美少女ゲーム批評を断念したのは、
外注編集者/評論家としてのクライアントの大半を失ったことにある。
『月姫』(二〇〇〇年)『Fate/stay night』(二〇〇四年)への批評に対し、
二作の制作元であるTYPE-MOONから「強い要望」が行われ、
講談社、一迅社など、数社から取引を打ち切られたのだ。
筆者が活動する出版社には版権の二次使用を許可せず、
コンテンツの提供も行わない――という「強い要望」の内訳は講談社の
担当者から説明されたが、他社が暗黙の了解を強いたのに比べれば、
説明責任を果たした分だけ、まだ良心的であった。
>>122 アニメやマンガ・ゲームは娯楽作品だから気に入らなければ観てもらえない
工業製品なら気に入らなくても買わざるおえないことがあるけどそれとは全く違う
だから作り手は受け手から直截に評価を下されてると思ってる
ゆえに批評家なんて邪魔なだけと思われてるよ
作り手には似非評論家の批評よりブログや2ちゃんの書き込みの方がはるかに貴重なんだよアンチの意見も含めてね
それをこの人はよく分かってないんだろうね
>買わざるおえない
やは、こりは手におえない。
視野の狭い馬鹿ばかり
>>126 誰も信用してないから無視してればいいw
そもそも「なぜ批評家が必要なのか。」がよくわからないんだよね
そのへんを、納得いくように説明してほしい
例えば、夏目房之介がいてもいなくても、漫画界の発展自体には
影響なんて無かったと思うんだけど
作家性を作家に意識させるためだろ
似たようなのが多すぎる
作家性w
アホ臭w
>>132 だから漫画は芸術扱いされてない。
いつまでもサブカル扱いのまま。
そりゃあなた、文壇には淀川長治がいないと言った
ハスミ先生の顰に倣っただけですよ
>いつまでもサブカル扱いのまま。
これでいいんじゃないの?
高尚さだの芸術性だの、漫画やアニメに必要か?
一般人(ライトヲタ)が見てワケワカランようなものに、一体何の意味がある?
>>137 べつに高尚である必要はないと思うけど
時代の徒花扱いは寂しいじゃない。
人生かけて取り組んでる人もいるのに。
ヤマカンは血反吐吐きながらアニメ作ってる
他のアニメータは見習うべき
>>122の前後
しかし、最適化抑止型の批評を書こうとすれば、結局、「comic新現実」のような専門誌以外の媒体で書くしかなく、
その「comic新現実」に於いても『交響詩篇エウレカセブン』(二〇〇五年)への批評に対して、同作品のコンテンツホルダーの一つである
角川書店の該当部署から警告を受け、最終的に執筆陣から外されている。
というのも、このケースに限らず、クリエイターやコンテンツホルダーが「強い要望」で暗黙の内に批評的な評論家や
クリエイターを排除することはオタク向けコンテンツ業界に於いて日常茶飯事であり、ユーザーも支持しているため、
排除される側への配慮など必要ないのだ。
批評の真髄が仮構された秩序の破壊にある以上、それは仕方のないことであり、本稿で述べた以上の異議を唱えるつもりもないが、
一方で、批評の排除が正義の行動として肯定されるカルト性――閉鎖的な原理主義の是非は最低限、問われるべきであろう。
あとこれも衝撃を受けたな。中島かずき好きだっただけにショックだわ
なお、「オトナアニメ」降板後は唯一、毎日新聞社『まんたんブロード』のアニメ関連記事に携わる予定だったが、
「オトナアニメ」Vol.6の編集後記対談で『天元突破グレンラガン』(二〇〇七年)を批評したことに対し、
原作者の中島かずき氏からコンテンツホルダーのアニプレックス経由で(既に「オトナアニメ」を降板していたことから)
毎日新聞社へ「強い要望」が行われ、結果、アニメ批評からは完全に離れることとなった。
もっとも、筆者にとって、アニメはオタク向け――数ある「十歳児のような大人向け」娯楽商品の中でも、
SFと並んで最も保守的なジャンル/島宇宙であり、批評対象としても優先順位の低い選択肢の一つでしかない。
前述の逆説的な方法論を思いつかなければ、アニメ批評やその専門誌に関わることもなかったろう。
ただ、逆説的な批評実験とは別に、ジャンルの最適化を拒絶する意識的な作品は積極的に取り上げるべく努めていたし、
何も思い入れのない提灯記事だけは書くまいとも思っていた。
『天元突破グレンラガン』への批評も、関連書籍の版権が欲しいという営業的理由から
一切の批評性を排した翼賛的な第一特集を二号連続で組んだ編集部と、
「大本営発表」をそのまま垂れ流す矜持なき評論家たちの怠惰な姿勢を批評することが目的であったが、
その顛末が「強い要望」による排除となったのだから、過剰反応するタコツボのカルト性ここに極まれり、であろう。
これは筆者の評論家としての矜持であると同時に、消費環境整備としての批評が困難であることを示している。
カルトの全体主義と個人主義が必ず衝突するように、評論家の矜持も最適化の夾雑物とみなされ、ジャンルから排除されていくのである。