【ウテナ】 脚本家・榎戸洋司さん 【トップ2】

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104セラムン脚本解説
・第96話「冷酷なウラヌス?まことのピンチ」
まことがはるかに懸想するエピソード。
この話に登場するダイモーンの名前、スカーは、スカーフのもじりであると同時に"傷"(SCAR)という意味でもある。物語の中で、まこととはるかが互いに与えあう"傷"のことだ。"傷"を与えあうことは、人と人とのふれあいの基本的な形だ。
これを書いたのがすでに三年前か。う〜ん、時の経つのは、なんと早いことか。
フィルム制作の現場でいつも思うことは、共同作業とは感性のぶつかりあいだってこと。それは楽しいだけではない。
だが、もちろん苦しいだけでもない。傷には傷の心地好さがあるのさ。
それにしても、今、見るとなんて初々しいシナリオなんだろう。ああ、いつまでもこういう青臭い気持ちで物語を書く者でありたい。いや、ありつづけるんだい!

・第100話「セーラー戦士をやめたい!!美奈子の悩み」
たしか美奈子とアルテミスのラストシーンをまず思いついて、そこから逆算して考えたエピソードだった。雰囲気はセーラーVに近い。
はるかと美奈子の会話――普通の生活、普通の幸せなんてものは幻想でしかない――というのがテーマかな。
「美奈子を主人公にした構成案(あらすじ)を明朝までに」という依頼の電話がプロデューサーからかかってきたのが午前三時だったのをなつかしく思い出す(笑)。
演出は芝田監督。路上で語り合う美奈子と浅井の淡い恋の気分は、後の『劇場版SuperS』におけるちびうさとペルルの出会いのシーンに発展する。
土萠教授の『踏み台昇降運動』のギャグは、われながら秀逸だと思うんだけど
ダメ?
105セラムン脚本解説:2007/04/05(木) 17:15:55
・第106話「運命のきずな!ウラヌスの遠い日」
「今夜は帰さないぜ」「ま♥」の話ね(笑)。
完成したフィルムは非常にクオリティの高いものでした。五十嵐さん、感謝!
セーラームーンという作品には不適当な主題だという声も聞くけど、"三年目のセーラームーン"にはこれくらいの試みがあってもいいのでは、と当時は思っていた。(実は今でも思っている(笑))。
"戦うこと"ではなく、"自分の手を汚すこと"を恐れていたはるかが、なぜ戦士の道を選べたのかを、みちると出会うストーリーでやりたかった。道を選んだものが越えねばならないハードルを、どうしても描きたかったのです。
うーん。このエピソードは自分で解説しちゃうとどんどん色気が褪せていくようなので、このへんにしておきます。

・第110話「ウラヌスたちの死?タリスマン出現」
アニメグランプリにも選んでもらった幸運なエピソード。
BGMを抑えたAパート、水族館からいきなりヘリポートが現れる画面転換、これでもかという敵の銃弾を一身に浴びつづけるクライマックスのネプチューンなど、構成案の段階から、かなり演出家と綿密な打合せをおこなった。
演出はわが宿敵、幾原邦彦。あまり認めたくないが、やはり才能だけはあるようだ。ちっ(笑)。
だけどこれだけは言っておく。もし僕が"事故で"死んだら、まずあいつを疑ってくれ。
いや、あいつのことだから、どうせアリバイ工作も完璧だろうが(笑)。
ちょっと内容について。質問に答えようのコーナー。
この話で再登場したプルートは、未来から来たのに、どうしてメシアがうさぎだと教えなかったのか。
その答えは"まだ"メシアではなかったからです。
「助けにいきますか?」とせつなが問う。「でも変身できないあなたは、あの二人より危険なめにあうかも」
うさぎはためらうことなく答える。
「お願いです、どこに行けばいいのか、知ってるなら教えて―」
そのとき、せつなは小さく微笑む。
このせつなが微笑むカットは、かなり意図的に挿入したものだ。
106名無しさん名無しさん:2007/04/05(木) 17:16:53
・110話続き
セーラームーンの世界は多元宇宙なので、プルートは、多くの"同じ時"を経験している。
「そうね、変身できなきゃ助けられないよね」とうさぎが臆したために、メシアが出現しなかった時間世界も、たぶんせつなは経験しているのだ。
自己の危険をかえりみず、ウラヌスたちを助けにいこうとする想いこそがきっと少女をメシアにしたのだ、というこれはおとぎ話です。
あのせつなの微笑みは、「ああ、"この時間軸のうさぎ"は、メシアになれるうさぎだ……この時間軸は、救われる可能性のある世界だ」という想いを隠しているのです。
あるいはメシアになれないうさぎのいる世界ばかりを十万回、百万回と遍歴した末に、ついにめぐりあったうさぎだったのかもしれない。(と、この話のプルートの解説、こんなところで納得してくれるかな?クマさん)
ついでに。はるかの「どうせこの手は汚れている」という言葉の意味に対する質問の手紙もいくつかもらった。質問というより確認かな。はるかとみちるの二人は、実際に誰かを犠牲にしたことがあるのか、という。
僕は、はるかとみちるは、すでに何人かの少年少女の命を奪っていると解釈していた。
"手を汚す覚悟"のキャラクターであるはるかとみちるを描くとき、僕にとって"その部分"はどうしても無視できない要素だったので、わかる人にだけわかってもらおうと、あえて、あのセリフを入れたのだ。
フィクションだからこそ、現実のシビアさをどこかに映していなければ、と考えるのです。楽しいだけの逃避の物語では、作る方も見る方も現実に負けてしまう。それは、フィクションという武器で戦う者には、いちばん悔しいことのような気がするのです。
(おっと、つい熱くなっちまったい。本当は自分が気持ちいいものを書いてるだけです、はい)
「すいません、また子供にわからないシナリオ書いちゃいました」と言いつつ、内心では反省のかけらもないのだった。(子供でもわかる子はわかるんだい― その証拠に大人でも、わかってない人は全然わかってないもん(笑))
107セラムン脚本解説:2007/04/05(木) 17:18:08
・第114話「アイドル大好き!悩めるミメット」
「あ〜あ、大好きな荒木クン死んじゃうのか……かわいそ」という淡白さこそが、実はミメットのいちばん恐いところだな。
美奈子とミメットの対比の物語。実は、美奈子が主役だった第100話と、物語りの構造も対になっている。
ストーリーの枠組みは同じだ。個人の利益のために組織をやめたいという話。
組織と個人の利益のどちらを選ぶかの葛藤に悩む話である。最終的に、組織(セーラーチーム、デスバスターズ)にそれぞれ戻った、という点も同じ。
違うのは、その戻った理由が、意思的決断か、状況的依存か、ということである。
今後、美奈子は素敵な男の子と出会っても、それを理由にセーラー戦士をやめることはない。けれどミメットは、同じチャンスがきたら―、またあっさりと組織を裏切るだろう。
うーん。だけどそう考えてみると、やっぱ幸せをつかむのはミメットの方かもしれないな(笑)。

・第弐話「見知らぬ天井」
……おっと、これは別の作品だった(笑)。

・第115話「沈黙の影?あわき蛍火のゆらめき」
ちびうさとほたるの前に現れたのが、うさぎと亜美なのは、友達コンビとしての対比です。幼い二人の女の子は、かつてのうさぎと亜美の関係に似ている。
だからこそ、いずれは先輩の友達コンビのようにいい関係になればいいな、という思いから。
登場するキャラの選択は、こんな風にテーマを軸におこなうのは普通だけど、もっと別の種類の理由によることもある。
たとえばこの話の後半のアクションシーンで、外部太陽系の戦士がウラヌスしか登場しないのは、作画のコストパフォーマンスのためです。
ストーリーの展開上、外部太陽系の戦士を出さないと、新旧の戦士の対立は描けない。けれど、すでに登場している以上、ウラヌス、ネプチューンが揃えば、プルートだけいないのは戦いに参加していないようで不自然になる、というわけです。
(すでにセーラー戦士だけでサイボーグ009以上の数だから、全員だすとアクションシーンはモブシーンとなってしまう)
ま、ちびムーンとウラヌスのミスマッチコンビの戦いは、この話数だけの珍しい組合せとなり、結果的にはよかったんじゃないでしょうか。
108セラムン脚本解説:2007/04/05(木) 17:18:59
・第119話「沈黙のメシア覚醒?運命の星々」
そろそろデス・バスターズ編のクライマックスにさしかかる。
沈黙とはなにか。サターンとはなにか。とりあえず設定を整理しようとしたエピソード。
問答無用でほたるを殺そうとする外部三戦士。それだけ、サターンの恐ろしさを思い知らされている、ということなのだろう。
『う』で始まるダイモーンのシリーズも、そろそろネタ切れ。『う・チョウテン』なんて、名前だけの思い付きで、まったくとっかかりのないキャラである。
われながら無責任だったが、スタッフのみなさんのおかげでかなりナイスデザインなダイモーンに仕上がってて、どうもどうもでした。
この頃の自分のメモノートを見ると、レイの父親がらみで政治家の話をつくり、ダイモーンは『う・ダイジン』にするとか、国語の教師がらみで『う・カンムリ』なんてのはどうか、なんて記してあって、ダイモーンに対する真剣な取り組みの姿勢がうかがえる(笑)。

・124話「迫り来る闇の恐怖!苦悩の8戦士」
よい子にしてれば、クリスマスにはサンタクロースからプレゼントがもらえる。
だけど、気のきいた者から順に気付いていく。
サンタクロースのくれるプレゼントは、結局、オモチャでしかないことに。
オモチャよりも、もっと欲しいものができたら、もう、よい子にしてればいいというルールだけでは、生きていけなくなる。
それで普通だ、それが大人だ、と思うんだけど――
誰かにほめられたくて、誰かに認められたくて、誰かに安楽に従属したくて、不幸にも、いつまでもよい子の枠から抜け出せない者もいる。
その、ほめてくれる誰かに、利用されてしまう者がいる。
「残念だよ」と土萠教授は二人に言う。
「天王はるか君、海王みちる君、きみたちのような優秀な生徒は、ぜひダイモーンの器になってもらいたかった」
ワールド・シェイキングやディープ・サブマージの破壊力が通用しない敵に、なぜタリスマンが有効だったのか?
タリスマンとは、はるかとみちるのピュアな心だったから。
二人のピュアな心は、道徳や既成概念に縛られない、二人の人間性の証だから。
最初から、必要なら自分以外のすべてを敵にまわす覚悟を持つこと。
まやかしを暴く鏡を、見えない呪縛を断ち切る剣を心に持つこと。
それが彼女たちの強さと魅力だろう。
109セラムン脚本解説:2007/04/05(木) 17:20:24

・第125話「輝く流星!サターンそして救世主」
デス・バスターズというのは、体内に侵入してくる異物、というイメージだった。で、セーラー戦士たちは、太陽系の免疫システムみたいなものかなと思った。
外部からの侵入者はウラヌスたちが排除し、内部で育つ文明をムーンたちが進むべき形に育てている。
デス・バスターズ――ファラオ90というのは、たぶんそうしたセーラー戦士の役割と強さを知っている敵だったんだろう。
現時点の文明をリセットする覚悟でその力を発揮すれば、すべてを消滅さすことができるセーラーサターンを、だから彼らはまず手中に納める必要があったのだ。
ウラヌス・ネプチューンがついに見つけた真のメシア――セーラームーンとは、圧倒的な戦力で異民族を排除する英雄ではなく、人と人との絆、関係性、その豊かさにすべての価値を置くヒューマニストだった。ムーンはそのために、ためらうことなく身をなげだす。
ドラスティックな戦士である二人の心をうったのは、むしろムーンのやさしさより、その志の高さだろう。
至高をめざすセーラームーンの"生き方の価値"に比べれば、世界が滅ぶかどうかなんてことは、むしろ些事に思えてしまったのだ。
聖杯を受け継ぐ少女は、そうして真のメシアを体現する。



とりあえずSまで。スーパーズは後ほどうpします。