福田沙紀(肥後で帰農した一族の末裔と思われる)

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1ファンクラブ会員番号774
平姓福田氏
歌人である平兼盛の子孫が平安時代半ばに九州の肥前国福田荘
を領して土着後、その地名を名字としたのが九州平姓福田氏の
始まりである。
元寇にも現地の在地勢力として参加し、それ以降の南北朝の騒
乱にも参加。南北朝の対立で大村氏と同じ南朝方の雄であった
菊池氏の配下になった一族もおり、福田氏の庶流は九州全域に
広がっていくのである。
2ファンクラブ会員番号774:2007/09/18(火) 16:23:20 ID:dtpo43dU
戦国時代には福田荘に残った嫡流の一族が福田の地に福田城
を築き、福田兼次、福田忠兼、福田兼親と続き、領主として
の地位を確保するのである。福田忠兼は息子の福田兼親の妻
に大村純忠の娘を迎え、この頃までには完全に大村氏の支配
下に入っている。
1565年(永禄8年)にはポルトガルの定期船が来航し福田浦
に入港した。福田は長崎湾の外側にあり、外洋に面した小さ
な漁港であったが、初めてポルトガル船を迎え、活気を呈し
教会も建設され、各地からキリシタンらが集まってきた。大
村純忠も幾度かこの地を訪れて、キリスト教の神父達やポル
トガル船の司令官とも会談している。
3ファンクラブ会員番号774:2007/09/18(火) 16:24:33 ID:dtpo43dU
同1565年に南蛮貿易の権益を巡って松浦氏の襲撃を受けるが、
忠兼はこれを撃退した。
江戸時代になると忠兼の子・福田兼親やその子孫は大村藩に
仕えている。子孫の大村藩士福田長兵衛は、甲斐徳美藩主の
伊丹勝守の娘を妻としている。(この頃までに大村氏直系は
絶え、伊丹氏より養子を迎えている縁があったと推測される。)
















庶流は肥後菊池氏に仕えて、南朝側として数々の戦に参加している。しかし戦国時代となり当主の菊池義武が大友義鎮に謀殺され菊池氏が滅びた後は、在地領主として大友氏に仕え、筑後国に進出した高橋氏の配下に付けられたようである。
ただ、高橋長種が1549年に死去した際に、大友義鑑に養子を依頼し
た重臣の中に福田氏も見えることから、大友氏の勢力が肥後に伸張していった初期に大友氏に従ったか、または別系統の福田氏が以前より高橋氏に仕えていた可能性がある。
1586年の岩屋城の戦いにおいて福田民部少輔が虚空蔵砦の守備に就き、島津軍の猛攻により城将・高橋紹運と共に討死している。
大友吉統改易後、福田氏の一族は元の所領である肥後に戻り、帰農している。

4ファンクラブ会員番号774:2007/09/18(火) 16:25:08 ID:dtpo43dU
すげぇ。姫じゃねぇか。
5ファンクラブ会員番号774:2007/09/18(火) 21:47:24 ID:HDZL9iM2
マナかわゆすぎる!
6四国の帝王 うらかん:2007/09/18(火) 21:52:07 ID:3NCmbpra
ぉぱょぅ!ぉニューな下着よく似合っていて可愛い沙紀ちゃんにピッタシだよ!
7ファンクラブ会員番号774:2007/09/18(火) 22:29:39 ID:wOx1bMQj
おまんこ女学院
8ファンクラブ会員番号774:2007/09/19(水) 09:55:53 ID:k2sUb5om
9ファンクラブ会員番号774