【変な奴がいっぱいw】 福岡・北九州のマイコン文化
ではタイムマシンに乗って1977年へ…
3 :
ナイコンさん:2011/12/02(金) 10:43:42.66
班長…ここは…この荒れ放題の田舎はどこですか…?
ここは飯塚という片田舎の町だよ。
5 :
ナイコンさん:2011/12/02(金) 10:48:32.19
飯塚って…福岡にも北九州にも関係ないのでは…?
ところがおおいに関係あるんだよな。
ここはマイコン文化を支える産業技術地域だ…。
しばらくの間、世界市場の牽引役となる。
7 :
ナイコンさん:2011/12/02(金) 10:53:44.48
聞いたことないな
8 :
ナイコンさん:2011/12/02(金) 10:54:44.10
いい質問だな…。
飯塚にはいくつかマイコン製品の関連企業があって、表向きはキーボード製品、
内部では海外製品を含めた新製品の設計・開発・生産が行われていたと言う。
このため、東京やシリコンバレーより情報が早いと言う利点があった。
海外製品って、具体的には?
コ■ドールとかア■リとか…思いつくものはだいたいここじゃないかな。
へぇ〜。
じゃあここから二大消費地の福岡と北九州に出荷して…と言う具合?
まさか…w
そのまま世界市場だよ。
班長、その頃の二大消費地の様子は…?
福岡が生活産業として取り入れていく一方で、北九州は鉄鋼を中心とした産業界がマイコン
文化を取り込んでいった。
家電と工業製品の違いと言うコトになる…。
一般市民の様子は?
17 :
ナイコンさん:2011/12/02(金) 14:15:54.85
DQNばかりだよw
>>16 スタートラインは人それぞれ。
電子工作の好きな子供に、物珍しさに釣られてやってきた子供たち。
子供たちにとって初めて大人不在の独立した世界が与えられる。
スペース・インベーダーブームも手伝いましたね。
高度経済成長期が終わって円高不況に差し掛かるこの頃には、勝ち組と負け組が鮮明に分かれた。
当時テレビは ” 馬鹿製造機 ” と罵られていたが、スペース・インベーダーは 「 億万長者製造機 」 と
して持て囃されていた。
ただ買って置くだけでみるみるうちに大金持ちになっていくもんだから笑いが止まらない。
脱サラしてインベーダーハウス(ゲームセンター)を開業する者が続出した。
懐かしいなあ。
初めのバージョンはアップライトの筐体にボタンが3つだったよね。
右手で左右移動、左手でショットだったね。
ブロック崩しが緊張を強いられる守りのゲームだったのに対して、スペース・インベーダーは
緊張と攻めの姿勢で行けるゲームに変貌した。
市場的には、手軽にドットグラフィックスを実現できるまでメモリの価格が下落してきたので
それまでのロジック回路で構成してきたゲーム画面が一新された。
マイコン(8080)を搭載して、コンピュータとして機能できるテレビゲームが登場したコトになる。
どこを見てもインベーダーハウス…。
この頃になると、家電メーカーが揃ってマイコンキットを出すようになる。
マイコンキットとは、剥き出しの基板にセグメント表示のLEDを付けてI.C.E.(イン・サーキート・
エミュレーター)のデバッガーのようにプログラムを実行できる組み立てキットのコト。
これは市場的にはほとんど無視され、一部のマニアにしか受け入れられなかった。
そりゃそうだよな、アタリもアップルも既にあったんだから…。
アタリもアップルもあったけど、当時40万円以上する飾り物だったような感じがする…。
しかも5年遅れで日本に入ってきて値段を吊り上げると言う異常な商法となると、誰も相手にしない。
ところで…タイムマシンの年代は?
おっと、年代の更新を忘れてたな…。
この頃になると、シャープからMZ-80Kと言うディスプレイ一体型のマイコンが登場する。
もちろん、コモドールのPET-2001のパクリで、CPUが違う以外には仕様はほぼ同じだった。
コモドールはMZ-80Kの登場で大ダメージを食らう。
MZ-80Kはサウンド機能を搭載しましたね。
サウンド機能と言っても単純なトーンジェネレーター(音階発生のみ)でしかない。
しかしPET-2001にはないのだから決定的な格差になる。
インベーダーブームからそのままマイコンブームに変貌していきましたね。
そうだったなぁ〜。
どこに言ってもインベーダーハウスがあったのに、1年ぐらいすると半分以上が店を畳んだ。
一過性のブームでここまで激しい変動を見たのはインベーダーが始めで最後だろうな。
当時のゲーム少年たちは行き場を失った?
そんなコトはない…。
県内の主要拠点(天神、小倉、久留米)では ” マイコン少年 ” が誕生した。
マイコン少年たちは、「 タダでゲームができる 」 と言う甘い誘惑に乗る。
電子部品の販売店にはゲームセンターから下取りしたインベーターとMZ-80Kが並べてあった。
機動戦士ガンダムと同じですね。
モビルスーツとの出会い…おっと、マイコンとの出会いで…妙にシンクロしてるなw
その頃がそういう時代だったから妙な感じはするよな。
当時のマイコンの機種構成は…?
ベーシックマスターレベル2に、COMPO-BS80に、MZ-80Kに、TRS-80に、PET-2001に…。
マニア向けの店ではAppleIIも置いてたな。
当時のマイコン少年たちは自分のPCを所有してた?
ないない、ある筈がないw
当時はみんなナイコン族。
ゲームセンターより高く付く遊びに親が金を出す筈がない。
マイコンショップは…親にとってはタダで子供たちを遊ばせる場所。
ちょうどその頃I/Oとアスキーが創刊しましたね。
そういえばそうだな…。
マイコン少年にとってはタダのゲーム雑誌でしかなかったが、大人にとっては自分を誇る
優位性のシンボルとしてI/Oやアスキーが重宝された。
当時はタイプライターすら満足に普及してなかった時代だから、マイコンを使える者は完全
な別格扱いだった。
当時のマイコン少年に人気のあった機種は?
圧倒的にMZ-80Kだったな…。
カセットデッキが一体化されてるからソフトのコピーが普及したんじゃないかと思う。
PET-2001はあまり相手にされてなかったな。
では魔法の呪文をどうぞ。
ネ木1 ネ木4 ←
それは何ですか?
これはMZ-80Kの内部ルーチン(SAVEコマンド)を呼び出すプログラムで、VRAM上に
書かれたプログラムにジャンプさせるとテープにコピーする仕組みになっている。
GOTO$D000↓
これでコピーできる。
いやぁ〜、マシン語って言うと懐かしいよなぁ〜。
Z80をオブジェクトコードから直接学んでいく。
ハンドアセンブルと手書きの相対アドレス計算…。
当時はみんなこうやってた。
マイコンで遊んでばっかりで学校の成績は大丈夫だった?
学校の成績は…数学と英語で100点を簡単に取れるようになって上位グループに仲間入りした。
習うより慣れろと言ったところか。
MZ-80KにはいろんなBASICがありましたね…。
シャープ純正のSP-5000系とハドソンのHu-BASICがあったな…。
Hu-BASICはマイクロソフトBASICの記述を取り入れた。
16進表記を&Hにしたり、スクリーンエディターにオートリピート機能を付けた。
ただし、Hu-BASICはほとんど普及しなかった。
MZ-80Kの黄金期はそんなに長くは続きませんでしたね…。
そうだな…。
PC-8001の登場であっと言う間に消え去った。
どれくらいの期間?
1年ぐらいかな。
ここでタイムマシンの年代を更新。
東京やシリコンバレーより情報が速いと言うことですが、展示ショーには行きましたか?
当時はマイコンは工業製品の一環として扱われていたので展示ショーは工業関係の方面に
行くコトになった。
西日本総合機械展と言う展示ショーが年に1度あって、そこの一角にマイコンブースがあった。
そこには最新のマイコンはありましたか?
たいしたものはなかったな…。
案の定、PC-8001のゲーム大会(笑)だった。
あ、TI-99/4と言う機種に初めて触れたな。
TI-99/4は当時の5年前ぐらいから市場に出てて、いまさら相手にするような機種ではなかった。
その頃はゲームセンターに異変が起きていますね…。
ドットグラフィックスに限界を感じたメーカーの中に…スプライト機能を初めて搭載したのが、
ナムコだった。
ギャラクシアンと言う2Dシューティングから技術革新の時計が進み始める。
スプライト機能と言うのは新しい技術ですか?
いや、古い技術だ…。
ブロック崩し以前のロジック表示回路の頃の技術を使って、CRTCレジスタの表示座標を直接
変えるコトによって物体が動いているように見せる仕掛けだ。
ドットグラフィックスではメモリの内容を書き換えるコトで物体を動かしていたが、これでは表示
のスピードが間に合わない。
そこで、表示座標を持たせた小さいスクリーン…つまり、スプライトを複数持たせて問題を解決
した。
当時のアトリビュートカラーのドットグラフィックスから、固有のカラーを持つキャラクターを画面
に出せるようになった。
PC-8001では表示スピードの課題をセミグラフィックスと言う形でクリアしていますね…。
PC-8001は80桁表示とセミグラフィックスの実現でうまく交わしてるな…。
それ以前に、TI-99/4にはスプライト機能があったが、これは注目されなかった。
BASICの処理速度が遅すぎたのと、中間コードがVRAM上に格納されていると言う
仕様の問題も背景にあった。
マイコ少年たちはゲームセンターとマイコンショップを往復するコトに…?
当時はスプライト機能の存在すら知らなかったから、ドットグラフィックスで実現してると思う者も
多かった。
ここからプログラミングテクニックの意識向上が自然と芽生えるようになる…。
そろそろ年代更新では…?
そうだな…。
ちょうどその頃、コモドールからVIC-1001と言う低価格のマイコンが登場した。
それまではPC-8001の16万8千円が安いと思われていたのだから、VIC-1001の\69,800と
言うのは正真正銘の価格破壊だった。
しかし、安かろう悪かろう…でしょう?
それがそうでもないんだな…。
それまでは朝一番にマイコンショップにPC-8001が山積みされて夕方にはなくなっていると言う
破竹の勢いだったのが…VIC-1001が登場してからその勢いが完全に遮断された。
PC-8001より10万円も安いのだから試しに買ってみようと言う…新規の顧客が拡大した格好に
なった。
それまでナイコン族だったマイコン少年たちがVIC-1001に群がっていった…と。
まあその一人になるな…w
VIC-1001を買ったのはいいけど、実際にTVに映すところで色々と問題が発生した。
RFモジュレータの調整と、音声の出具合が悪いので外部アンプを付けるコトになった。
ナイコン族からマイコン(所有)族になると、学校での評判も変わってきますね…。
校内ではマイコン派閥みたいなものがあって、PC-8001が圧倒的な勢力を誇ってたな。
これと新興のFM-7の勢力があって情報収集に役立ったな…。
VIC-1001ユーザーと言うのは、その中でどのように位置していましたか?
比較的中立的な立場で味方でも対立関係にもなかったな…。
PC-6001のユーザーはかなりコケにされてた覚えがある(笑)
やはりVIC-1001はユーザー数が少ない…と?
隠れユーザーが多かったと言うのが正解だろうな。
一台目に試しにVICを買って、2台目以降に本命機種を買うパターンが存在してたと思う。
アスキーからMSX規格が発表されましたね。
仕様書をしばらく眺めてて面白そうだなー、と思いながらスルーしてたな…w
どうしてスルーしたの?
どうしてもヘチマもないんだよな…w
ハード構成的にTMS9918にZ80、PSG(AY3-8910)なんてのは見飽きてる。
明らかに売れ残ったTI-99/4の画像チップの在庫整理に使ってる感じがした。
そんなにVIC-1001が面白かった?
VIC-1001では画像処理の基本にハンドアセンブルに…たいていのできるコトは試したな…。
メモリが5KBしかなかったから、できるコトにはある程度の限界はあった。
画像処理って…例えば?
ユーザー定義文字(P.C.G.(Programmable Character Generator))を使ったドットグラフィックスに
パターン表示(スプライト機能)…。
実際にドットグラフィックスを実現するだけの文字数もメモリもないから、画面上に仮想スクリーン
を割り当てて書き込む部分だけにユーザー定義文字を配置して仮想ドットを書き込んでいく。
スプライトも同じ要領で仮想スクリーンの概念で書き込む…。
VIC-1001は基本的な画像処理を行うのに必要な情報は公開されていたので…アトはユーザーの
力量次第と言うコトになる。
それを全部…マシン語で?
まさかw
始めはBASICで書いて、そこからハンドアセンブルして6502の機械語に書き換えていく…。
…って、言うのは簡単だけど、まったくの素人だから誰かが補助して教えてくれる訳でもなく、
基本的にはすべて独学で突破するしかなかったな。
もちろん秘伝の方法はあったんですよね?
6502の文献がほとんどなかったから、Z80の内部構成と比較しながらCPUの動作原理とブロック
ダイヤグラムを習得していくコトになる…。
少しして気が付いて、6800と仕様がある程度似通ってるコトが分かってきて、6800の文献から
6502の習得ができるようになった。
ただし、6800にはインダイレクトアドレッシングモードはなかった。
苦にならなかった?
面白かったな…。
I/Oにもアスキーにも載ってないレベルのコトを突破していくモンだから、流行を無視した独自の
価値観ができあがっていった。
自信が付いていった。
ちょうどその頃、VIC-1001の報道はほとんど無視されていたのに、パックマン問題で裁判が開始
されると、その部分だけが大々的に報道されるようになりましたね?
その頃は ” インベーダー裁判 ” も並行してて、プログラムに著作権を認める動きが加速していった。
異なるプラットフォームで作られた独自のプログラムでも、製品の概念を著作権に関連付けるコトで
製作者の権利を守ると言う考え方だ…。
それまではハードウェアの特許に関連付けた権利しか獲得できなかった。
それにも関わらず、技術革新はどんどん進んでいきます…。
その頃は、ナムコからポールポジション、セガからズーム909と言う3Dゲームが登場した。
スプライトを拡大・縮小表示させて、立体感を表現していく…。
ところがマイコンは別の方向性に針路を取った。
任天堂からファミリーコンピュータ、シャープはMZ-80B、NECはPC-8801を発表しましたね。
その頃はPC-8801mkIISRが市場の牽引役で、MSX規格が行き詰まり状態だった。
ただし、これは開発者向けの報道で、実際には安売りのMSXが市場を独占していった。
ファミコンはまったく売れない状態が続いて…ナムコに泣きついてタイトルを分けてもらった。
それでも店頭には ” ソフト5本付きで\9,800! ” の投げ売り状態が続いた。
ファミコンにはそういう過去があったんですね…。
ファミコンが売れるようになったのはゼビウスが登場してから。
それまでスーパーカセットビジョンとどんぐりの背比べをしながらMSXを上目に見ていたと言う…。
リアリティある展開ですね…。
その後…どうなったのですか?
ファミコン版ゼビウスの大ヒットで、ファミコンとMSXは立場が互角になっていった。
これを見越してアスキーはMSX2規格を発表する…。
MSX2はMSXからどう進化しましたか?
256色表示とインテリジェント画像チップ(V9938)の搭載。
それまでドットグラフィックスの表示はCPUのプログラムで行われていたが、V9938では画像
チップ内部でCPUと並行して画像処理が行えるようになった。
スプライト機能については進化はほとんどなかった。
110 :
ナイコンさん:2011/12/03(土) 12:24:17.29
くだらん作文ごくろうさん。
ちなみにファミコンを爆発的にヒットさせたのはゼビウスじゃなくて、スーパーマリオな。
111 :
ナイコンさん:2011/12/03(土) 12:29:58.98
嘘吐きは今に始まったことじゃないし、クビになったのもそれが原因だし
VIC-1001の変人は九州人だったんだな〜。
他板の連中がやってくるということは、このスレのリンクを貼りまくってるわけか・・・
愚 か も の め
●【電気機器】東芝、北九州工場を来年度にも閉鎖…超円高で[11/11/30]
1 :やるっきゃ騎士φ ★:2011/11/30(水) 14:48:45.38 ID:???
東芝は30日、設立から90年超と同社で最も歴史が古い北九州工場(北九州市小倉北区)を
来年度にも閉鎖することを決めた。
同日午後発表する。
携帯電話の半導体部品などを製造しているが、1ドル=77円台前後の円高が続き、
海外勢との競争に太刀打ちできないと判断。500人強の従業員は他の工場に配置転換する。
今年に入っての円高局面で国内電機大手が工場の生産停止に踏み切るのはパナソニックに次いで
2例目。
同工場は、1920年に白熱電球を製造する東京電気(現・東芝)の小倉工場として操業を始めた。
39年に東京芝浦電気小倉工場に名前を変え、高度成長期にはトランジスターなどを生産した。
白熱電球は東芝の草創期の主力商品で、生産拠点の象徴的な存在だった。
現在は、「発光ダイオード(LED)ランプ」や、デジタルカメラや携帯電話などに搭載される
「フォトセンサー」などを製造している。閉鎖に伴い、製造ラインは他の国内工場に移して集約する。
ソースは
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20111130-OYT1T00676.htm?from=top
●関門海峡 細る動脈フェリー40年の歴史に幕・・・物流生活に影響も
40年にわたって北九州小倉北区と山口県下関彦島を結んだフェリーが30日、最後の営業
を終えた。運行する「関門海峡フェリー」(下関市)は赤字拡大から営業休止と会社の
清算を決めた。
関門橋や関門トンエルを利用出来ない、大型特殊車両の輸送を担ってきただけに
経済活動への影響は少なくないが、事業譲渡は難航している。頼みの行政も腰が重く
航路復活の見通しは立たない・・。 (西日本新聞 2011年 12月1日木曜朝刊 )
------------------------------------------------------------------------------
■北九州地区の廃止船便: 関門連絡船(1964年廃止)関門汽船釜山便(2004廃止)
国際定期フェリーモジライン(2009年廃止)シーマックス廃止(2007年廃止)
ボイジャー(2008年廃止) 関門海峡フェリー(2011年廃止)(その他多数
門司港レトロ地区の観光客は、2003年をピークに減少の一途
西鉄バス6区間廃止(2011年) 市内チンチン電車廃止(平成12年)
昔、九州は「シリコンアイランド」と呼ばれていたものよ。
話を九州全体の事に責任転嫁w
119 :
ナイコンさん:2011/12/06(火) 14:47:39.22
マイコンショップ北九州
>>120 んー、256色と512色パレットを使って見たかったから買ってみた。
123 :
ナイコンさん:2011/12/10(土) 18:47:09.44
【変な奴がいっぱいw】 福岡・北九州のマイコン文化
>>122 見た目だけで機能性はほとんどなかったな。
>>124 それではMSX2を買ったメリットはなかったのですか?
127 :
ナイコンさん:2011/12/10(土) 22:00:43.23
BASICしか使わなければどの機種でもタダだな
>>128 …よく使ってたのが、SimpleASMと言うROMカートリッジベースのアセンブラ。
オンメモリでアセンブルするから開発効率が高い。
まるでBASICインタープリターのように繰り返しでエディットとアセンブルを往復できる。
>>129 面白いツールを使ってたんですね。
しかしZ80では限度があったでしょう?
>>130 SimpleASMにはマクロ命令がなかったから、M80を使い始めて一気に変わったな。
機械語を高級言語のように使いこなす技法はここから習得していった。
MSX-DOS TOOLSがタダ同然か
>>131 この頃にX68000が発表されますね。
>>133 X68000は前評判と市場価格のギャップがあって、そっぽを向かれた機種だったな。
海外ではAMIGAが出た頃だったな…。
>>134 X68000とAMIGAはどちらが魅力的に見えましたか?
>>135 もちろんAMIGAだったな…。
これは68000CPUの学習用に重宝させてもらった。
>>136 その頃はアーケードゲームのハード仕様も68000CPUが主流になってきましたね。
>>137 グラディウスが8MHzでX68000が10MHzだったな…。
あんまり参考にならないけど、X68000のグラディウスは本物に比べて処理落ちしなかったなw
>>139 大半が ” 糞ゲー ” と呼ばれるレベルの低いものだったけど、意外と遊べるものもあったな。
マニュアルプロテクトと呼ばれる手法もAMIGAの頃から始まったな…。
>>140 マニュアルプロテクトが国際コピー対策として有効だったかどうかは疑問に残りますね。
>>141 じゅうぶんに有効だったと思うよw
英語の読めないユーザーはそこでゲームが中断されるからな…。
欧州系と北米系では路線が違いましたね。
ここでFM-TOWNSの発表をお知らせします…w
この頃になると、福岡や北九州にある古いPCショップは消えていった。
残っているものも業態転換が迫られる形となった。
コピー対策が法制度化されて、警察の取り締まりが強化された頃ですね。
著作権の保護と運用を実施したとところまでは頷けるけど、著作権のあり方自体には
疑問が残る時代だったな…。
これは既存の権益者の営利活動を妨げる要因にもなるし、係争も増えていった。
もっとも、それまで自然で良心的な営利活動が、著作権の法制度化によって正式に
保護されるルールに変わったけど、どこか引っかかる部分は残ってしまったな…。
運用する側の考え方…即ち、倫理観の問題に帰結する。
ところでFM-TOWNSは普及しましたか?
まったくダメだったな…w
当時のアーケードゲームの開発者たちはX68000を好んで所有してたと言われるし、
PCゲームの開発者たちはPC-9801かX68000かに分離していった。
FM-TOWNSが入り込む余地はまったくなかった。
商売としては完全に失敗したと言えるが、教育市場に入り込んで生き残るコトになる。
この頃になると、マシン語(アセンブラ)からC言語に主流が変遷していきましたね。
>>149 当時は商用ベースのまともなBASIC(BASICコンパイラ)がなかったから、生産効率向上の
ために、やむなくC言語を選択するようになっていった。
しかしこれは裏目に出るコトになる…。
>>150 裏目に出るとは、具体的にどのようなことでしょうか?
>>151 具体的には、コンパイル言語特有の癖を理解できない人たちが脱落していくと言うコト。
例えばエラーが出てもランタイムルーチンからエラーコードが出ると…内部動作をきちんと
理解できていないとどこでエラーが起きてるか分からない。
デバッガーを呼び出してトレースしても分からない。
挙句の果てに人に頼って悪循環に陥る。
ここから生産効率が低下していって、人件費が増大して予期しないマイナススパイラルに
陥っていった。
できる人とできない人の格差が鮮明に現れてきて、スキルの格差が明確に示された。
しょせんはマシン語とアセンブラができていないとC言語はできないので、プログラマーの
大量切り捨てが始まった。
>>152 ところであなたは当時何をしていたのですか?
>>153 AMIGAから大量に仕入れた海外PC文化の良さを広めようとしてたところだったな…w
この頃になるとMSX2に埃が被るようになって使わなくなってきたな。
アーケードゲームでは技術革新が進行していた頃ですね。
ナムコのスターブレードを皮切りに、ポリゴン(面塗り潰しの3Dグラフィックス)の実用化段階に
入っていった。
ゲーム業界では高価なS.G.I.のWSセットが次々と導入されたいった時期とも言われる。
>>156 ところで疑問に思うのですが、情報はどこから入ってたのですか?
>>157 当時から ” パソコン通信 ” というものがある。
これは電話回線を使った文字情報の伝達手段で、ソフトウェアの伝送にも使われた。
いつの時代にも情報の抜け穴はあるんですね…。
抜け穴があると言っても勘違いしちゃいけない…。
企業にはちゃんと守秘義務既定が存在するし、違反すれば法律に問われる。
あくまで公開された情報の内訳部分だ…。
任天堂からスーパーファミコンが発表されましたね。
>>161 技術的には見栄えのしない、つまらないゲーム機だったな…。
シムシティーとドラキュラぐらいしか遊んでないなw
>>163 現状打破の手段として、” FM-TOWNS ” に乗り換えると言う手法を採用した。
ゲーム業界からもPCソフト業界からもそっぽを向かれた機種を敢えて採用する。
自分にとっては大きな転換点の1つとなる…。
>>164 まったく無関係な機種に移ると言うのは、かなり無謀な選択とも言えますね。
>>165 AMIGAコミュニティーに残っても、自分に未来がないコトは分かってたからな…。
かと言って似たようなX68000にも行かず、技術水準の低いPC-9801にも行かない。
振り出しに戻った…。
>>166 FM-TOWNSに移って開発環境の移行は進みましたか?
>>167 AMIGAの手法はまったく役に立たないから、MSX2当時からノウハウを移行していった…。
F-BASIC386と、PharLapの386|ASM。
基本的にはこの2つで揃った。
>>168 インテルのCPU(386)は複雑難解なイメージがありましたね。
>>169 386は実際に複雑で、アプリケーションを記述するだけならそれほど困らないけど、システムを
記述しようと思えばかなりのノウハウが必要になる…。
286の時点から戻って、CPUの動作原理から学習し直すコトになった。
68000CPUが簡単だったせいもあって、ギャップはかなりあったな。
>>170 当時はオーバードライブプロセッサやマザーボードの交換によって、PCの性能向上が
安い価格で実現できるようになりましたね。
>>171 IBM-PC互換機(AT機)が独自に発展していった時代だったな…。
これをよそ目に見ながら、FM-TOWNSのハードウェアと386の動作原理を学習していったな。
この頃は平成不況の始まりで、遠隔地に飛ばされたり、かわいそうな人たちがたくさんいましたね。
>>173 技術革新が進んで、対価に見合わない業態が淘汰され、効率のよさが求められていった。
そしてWindows95が発表される…。
海外ではインターネットの普及が加速的に進んだ頃ですね。
この頃はまだパソコン通信の終焉期と、インターネットの紹介報道が多かった時代だったな…。
FM-TOWNSのシリーズも終焉期に差し掛かってきて、暗にAT機に移行するように誘導されて
た感じがするな…。
ゲームセンターでは3D格闘ゲームのブームになりましたね。
>>177 サターンとプレイステーションの場外乱闘がゲームセンターでも起こってた感じとは少し違うな…。
バーチャファイター3(モデル3)の登場によって、リアルタイムでアンチエイリアスや環境マッピングが実現された。
この頃が3Dグラフィックス技術革新の原点かもな。
ちょうどこの頃、携帯電話とインターネットの爆発的な普及が始まりましたね。
>>179 それに合わせて…過去のゲームソフトの不法転載と思われる、PC上で動作するエミュレー
ターが登場した。
エミュレーターとインターネットの爆発的な普及で、ゲームセンターの廃業が進んだ時期とも
言えるかもな…。
県内の様子を見ても、公衆電話が撤去されたり、社会インフラの変化が進んだ時期でもあっ
たと言える。
>>180 FM-TOWNSでの技術習得はうまくいきましたか?
>>181 プロテクトモードの動作チェックと、簡単なゲームを作って区切りを付けるコトになった。
ここからAT機に本格的に移行するコトになる…。
いろんな時代の移り変わりで、機種固有の技術水準やノウハウが通用しないと言うことを
実感していった訳ですね…。
>>183 切り捨てる側と、切り捨てられる側…。
そのどちらにも属さない、流行を無視した独自の価値観があるからこそ、時代の
移り変わりを冷静に見届けられる立場になれる。
まあそれでも最新の技術水準はしっかりと獲得していくワケだけどな…w
WindowsMEの登場で、PC-9801が切り捨てられましたね…。
186 :
ナイコンさん:2011/12/12(月) 01:07:33.03
【変な奴がいっぱいw】 福岡・北九州のマイコン文化
>>185 AT機に移行してWindows95からWindowsMEに変わって、FM-TOWNSもパソコン通信も
使わなくなったな…。
その代わりにインターネットと、WindowsMEのCDに付録されてるQ-BASICを使うように
なった。
” 白紙状態 ” からの再スタートと言うコトになる…。
>>187 まったくの白紙ではありませんね…?
それまでの膨大なノウハウがある訳ですから。
>>188 確かに ” まったくの白紙 ” とは異なるが、物理的には 「 白紙状態 」 にした…。
プレーステーション2用のBASIC STUDIOを買ってからは、過去のPCや文献をほぼすべて
廃棄処分にした。
ノートPCとPS2のシンプルな開発環境に一新した。
このおかげで 『 大書斎 』 がなくなって部屋がスッキリしたw
>>189 思い切った決断ですね…。
この頃になると映像機器の技術革新も同時進行していきますね。
>>190 2003年はデジタルカメラの ” 普及起爆元年 ” で、動画性能を引き上げるコトによって
ビデオカメラのシェアを少しずつ獲得していった。
それまでビデオカメラはメディアにテープが使われていたけど、デジタルカメラの普及に
よってメモリカードに順次置き換えられていく。
これに併せて情報発信力の学習を始める。
Webページを作る…つまりはHTMLが書けないと、自分のホームページは作れない…。
それだけではダメで、文章作成能力も問われる。
さらには、動画フォーマットの変換や、編集加工のノウハウも同時に習得していく。
>>191 つまり、既存のメディアに左右されない、独自の発信力を獲得すると言うことですね。
・・ずっとありふれたゴミみたいな内容を、一人自演問答で言って
虚しくないのかよ 汚い小倉ホモのおっさん
>>192 そのとおりだよな…。
” ノー ” と言える技術者、独自の発信力を持つ技術者の存在が必要不可欠となった。
ここからしばらくデジタルカメラとHTML、動画フォーマットの最新技術の習得に取り掛
かるコトになる。
>>195 PS2 BASIC STUDIOでは3Dグラフィックスの最新技術を習得させてもらった。
ここでしばらくプログラムのほうはお休みするコトになる…w
>>196 ちゃっかりおいしいところは戴いてる訳ですねw
デジカメや動画フォーマットは日進月歩で技術革新が進んで行きますね…。
HTML作成と合わせて忙しかったでしょう?
>>197 忙しいなんてモンじゃあない…。
最新機種の実験と、動画編集加工の効率化、Webページの作成に…とにかく面白かったw
この中でも、MS-MPEG4と言う古いコーデックを掘り起こして、性能の低いPCでも再生環境
が実現できるように配慮した。
情報発信力を高めるための基礎理論として、普及しているものに浸透しなければ…発信力
は獲得できないと言う壁にぶち当たる。
>>198 市場分析を行いながら最新技術の習得に当たる訳ですね…。
しかしこの頃から新機種にはH.264やAVCHDが採用されていきましたね。
>>199 H.264やAVCHDは、編集加工の大きな妨げとなって普及を減速させた要因とも言える。
一方、デジタル一眼レフ機に動画機能が搭載されるようになる。
これによってビデオカメラの市場はさらに縮小していく。
>>200 膨大な映像ファイルに対応するためには、PC環境の更新が必要になりますね。
>>201 それも一理あるけど、そろそろプログラムのほうに戻るコトになった…。
PC環境の更新と合わせて、99BASICとDarkBASICをインストールした。
>>202 苦手分野を克服しながら元のスタートラインに戻った訳ですね。
>>203 まず始めはDarkBASICを自分で操作しながらHPでプログラムを公開していったな…。
ただこれは有料ソフトだから反応がいまいちだった。
フリーソフトの99BASICに切り換えると、反応が多くなってきた。
>>204 99BASICを使ってて、その使い心地はどうでしたか?
>>205 半分は仕様のパフォーマンステストに費やした。
残りの半分は…DarkBASICのコンソールエンジン、” CONSOLE 2011 ” のほうに引き継ぐ
コトになった。
膨大なノウハウを活かしながら最新技術を獲得していくと言う…流行を無視して、独自の
価値観を形成すると言う目標は達成されつつある。
なにより、「 自分のやってきたコトが活かされる 」 と言うメリットは大きい。
>>206 時代の移り変わりの中で、あなたに不足しているものはどう対処しましたか?
>>207 例えば、サウンド開発はPC本体から分離した。
外部にシンセサイザーを繋ぐか、もう一台PCを繋いで99BASICから演奏させてサンプ
リングする。
効果音も同じ手法をとる。
性能の低いPCなら新品でなくても中古で腐るほどあるから、サウンド開発用にはこれ
でじゅうぶんだ。
既存の手法を使いながら、なければ別の手法を考えると言った発想も必要になる。
一般的なDTMの手法とはまったく異なる。
>>208 それならわざわざ高いDTMソフトを買わなくても、安い価格でサウンド開発環境が
整いますね…。
ところで、今まで使ったPCの中で思い出に残るようなもの、変わったものはありま
したか?
>>209 変わったものとしては…” ORIC-1 ” と言うイギリスのPCだな…。
MZ-80KやPC-8001の出た頃の後期に出たPCで、シンクレアのPCとシェア争いをしてたと思われる。
だいたい仕様も40桁のテキスト表示にローレゾグラフックスと、その時代を象徴している。
ただしCPUは6502で、当時イギリスの主流はZ80だったからシェア争いには敗北している。
実際に使ってみると、RFモジュレーターの仕様が違うからRGBコネクターから信号線を引っ張ってきて
コネクターを変換する作業が必要になった。
キーボードはおもちゃそのもので、プログラミングに使える代物とは言い難い。
たぶん少年向けのステップアップ用のPCと言う位置付けと思われる。
>>211 県内のどこかで…怪しいPCショップかもな…w
あるところにはあるんだな。
>>213 もちろん新品だよ…w
当時は確か山積み在庫してて、捨て値で売ってたような覚えがあるな…。
たぶん中身は日本製と思われる。
本国メーカーの生産中止意向で、残った在庫が市場に放出された形だ…。
>>215 もちろん ” イギリス方言 ” の英語だよw
-erが-reになってたり、colorがcolourになってたりする。
217 :
ナイコンさん:2011/12/12(月) 15:24:07.11
【変な奴がいっぱいw】 福岡・北九州のマイコン文化
219 :
─☆─ [ X | I.I.T. ] COURANT DE CONSOLE ◆TXFAX7cidQpG :2011/12/12(月) 15:49:15.73
220 :
─☆─ [ X | I.I.T. ] COURANT DE CONSOLE ◆TXFAX7cidQpG :2011/12/12(月) 15:54:15.22
…今回はちょっと重労働だったなw
1977年から2011年までの34年間を、200レス程度にまとめるってのは大変な作業だ…。
我ながら感心♪(微笑)
222 :
─☆─ [ X | I.I.T. ] COURANT DE CONSOLE ◆TXFAX7cidQpG :2011/12/12(月) 15:59:47.57
ホント、” 世界の時差 ” を直接感覚できる環境ってのは必要不可欠だな…。
ではそろそろ雲隠れ…っと(ゲラゲラ