【ハマトラ】横浜隼人野球部PART-5【一心懸命】

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89名無しさん@実況は実況板で
自称進学校の鑑定ポイント

@滑り止めによる受験者が異様に多く、経営に貢献している。
A20〜30年前は県下に轟く底辺のヤンキー学校。
Bスポーツ特待制度がある。
C時代が移っても地元の評判は悪い。
D一学年の生徒数は400〜500人以上
E「特進」「特選」「医進」など、少数者のコースを作って本命落ちを拾う。
F大半を占めているのは低い偏差値の普通科の生徒。
G過去の苦々しい経験から校則は異様に厳しい。
H生徒の能力とは裏腹に、受験指導は異様に厳しい。
I半強制で長丁場の補講、長期休みの講習などがある。
J大学の合格実績は、一握りの生徒が複数合格したものが大半。
K中学の偏差値が目茶目茶低い割に、高校の偏差値は超インフレで不自然。
L高校の偏差値と必死な受験指導が空回りしている。
Mスポーツ選手以外に著名な卒業生がいない
Nことに政、財、官、法曹、会計、研究、医歯薬界などの分野にいたっては皆無に等しい。

あの学校かも?と思ったらWikipediaをまず参照。

90名無しさん@実況は実況板で:2011/01/27(木) 04:17:07 ID:anASIjx50
>>89
ウィキ覗いてみたんだけど、これすごいな。

当初は男子校として昭和52年高校設立(中学校は昭和54年設立)、初期の教育方針は初代校長である大谷卓郎の方針から男塾に近い厳しい教育で知られ、
教師は「教官」、教頭は「学官」と呼ばされていた。 
教育方針の基本は学校正門奥にあった「指説打放」の石碑(現在は撤去)通り、「指導」→「説明」→「打撃(教育的制裁)」→「追放(退学)」であり、
防衛大学校に似た制服(高校)と通学時を除く学内での白い校内着の着用義務、教師による鉄拳制裁、教師、上級生への反抗禁止等独特の校風を持っていた。
しかも四大行事(春は一日がかりの箱根登山行軍、夏は二泊三日の野戦訓練に近いキャンプ、秋は一泊二日の伊豆大島徒歩一周、冬は二泊三日の剣道合宿)
と呼ばれた各行事は過酷で、特に校内宿泊の剣道合宿では、合宿中に複数の脱走者が出る程であった。
校風や四大行事の厳しさもあり、卒業時の一学年生徒数が入学時の半分以下になる事(殆どは退学によるもの)もあったが、昭和60年の中学校男女共学化前後
より教育方針は変化し、現在では一般的な男女共学の中高一貫校となった。

>教師は「教官」、教頭は「学官」と呼ばされていた。
>学内での白い校内着の着用義務、教師による鉄拳制裁、教師、上級生への反抗禁止
>教育方針の基本は学校正門奥にあった「指説打放」の石碑(現在は撤去)通り、「指導」→「説明」→「打撃(教育的制裁)」→「追放(退学)」

カネを払わせておいて、教師の好きなように服従させ、刃向かうと拷問の末にお払い箱・・・・・・・・まさにドS
これじゃ社会人の研修で有名な御殿場の地獄の研修の高校版だw
漫画の脚本になるぞ。

今となっては校訓を書いた石碑も地獄の行軍も時代錯誤の遺物か。