なぜ智弁和歌山OBはプロで通用しないのか Part10

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智弁和歌山野球史

1979年〜1985年(創生期):甲子園0勝(甲子園ベスト16)
→甲子園をどのようにでるのかを試行錯誤していた。
主な教え子:三宅部長、梅本投手(85年選抜出場)

1986年〜1993年(中期):甲子園2勝
→コンスタントに甲子園に出場できるようになったがいかに甲子園に勝つかが課題だった。 
 投手を中心とする守りの野球。
主な教え子:小久保、石井、上出、有木

1994年〜2000年(全盛期):甲子園29勝(優勝3回、準優勝2回、ベスト4、1回)
→いうまでもなく平成の王者と呼ばれる所以はこの時代にあり、決して過言ではない。
 しかし、黒歴史として投手重篤故障者続出という事件があった。中学関係者(投手を送ること)は
 敬遠する結果になる。これが打撃重視にならざる得ない出来事。00年マシン購入(プロへ行った教え子のプレゼント)
 により、マシン打撃練習の比率が非常に高くなる。
主な教え子:中本、笠木、井口、川原、高塚、喜多、中谷、清水、児玉、佐々木、久米など多数。

2001年から2008年(全盛期に比べてやや落ちる繁盛期):甲子園18勝(準優勝1回、ベスト4、1回、ベスト8、3回)
→2002年に金属バットの重さが変更される事項が高野連より、伝えられ、以前よりも空中戦を重視するスタイルから変わりつつある。
 2001年に智弁凋落の危機があったが、翌年準優勝と約1年でチームレベルを立て直した。投手重篤故障者は激減し、野球スタイルも
 超攻撃型からバランス型へ移行しつつある。金属バット改正に対応でき、足を極端に大きく上げる長打狙いの選手が少なくなった。
 高嶋監督の引退説(膝の状態が良くないため)が近づいており、後任が智弁特有の1学年10人の少数精鋭スタイルを続けるのかどうか
 がちゅうもくされている。
主な教え子:武内、中家、田林、岡崎、本田、嶋田、滝谷、橋本、広井、勝谷、坂口、浦田など