“子ども手当て”は、国家権力による国民生活の最もプライベートな部分への介入です。
この“バラマキ政策”の背後には、人間が子どもを生むこと、育てることに、
“国家権力”が踏み込み、その基本の判断を決めるという思考が浮かびあがっています。
子どもを生み、育てることに国家がまず第一に責任を持つ、
あるいは『子どもは国家が育てる』、という発想がにじんでいるともいえましょう。
これまた純粋な福祉政策であれば、国家が介入するのは自然ですが、
その場合の基準はまず「弱く貧しい」当事者から優先することになります。
だが民主党の子ども手当にはその前提がありません。
人間の社会でも国家でも出産や育児が不可欠であることは自明です。子どもは宝です。
ですが出産や育児というのは人間の個人の最も深遠な判断に基づき、
個人個人が決定を下す生き方といえる部分でしょう。
国家に判断をゆだねられることではないでしょう。
ところが鳩山政権の子ども手当ては、とにかく子ども全体に巨額の国費を出して、
“国に子育てを任せろ”、という姿勢です。
その実、子どもを健全に育てるための施策はなく、ただ巨額の金を出すだけ、
そうなると、「子どもをつくるという“生殖行為”にのみ国家がカネを出す」という感じにさえなってきます。
しかしこれだけの国家資金を出すのですから、
やがて「その資金の使い方にまで“国家は介入”してくる」でしょう。
国家が子どもを育てるというのは、“全体主義国家”の特徴です。
人間を育てる。人間が生きる。その過程や内容は個人が最も個人であるべき領域です。
親としての個人の価値観、社会人としての個人の判断、そして人間を人間たらしめる個々の人間の自助努力、
自律努力…こんな基本を軽視あるいは無視するかのように、子どもは国家の資金に頼ればよいと断ずる、
そして国家が巨額の資金の投入で大きな一律の網をかぶせてくるという姿勢は、
“ナチスの国家社会主義”までを連想させます。
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