【福島】逮捕された産婦人科医師を救え6

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713有罪確定
【和田心臓移植の実態と医療界の体質】

移植のためのドナーには必須(不可逆的な脳死を脳波平坦という事実で証明する必要)と当時でも認識されていた脳波をそもそも取っていなかったり、
ドナーの検視時に心臓提供者だという事実を警察に伝えていなかったために、詳細な検索を監察医から受けることなく火葬に付され、死の真相解明は不可能となった。
数時間後に和田教授自ら、警察に連絡を取り、事情を説明したが時間が経過していたため病理解剖は出来なかった。

一方、レシピエントの死後、彼の元の心臓が3ヶ月以上にも渡って行方不明になり、病理解剖学者の手元に渡った時には、検索前にも関わらず、何者かが心臓中央部から切断しており、
さらには4つの弁もばらばらに摘出されて、心臓移植適応かどうかで問題になっていた大動脈弁が心臓の切り口に合わない(他人のものの可能性がある)など、不可思議な事実が次々と明らかになった。

1968年12月、和田心臓移植は大阪の漢方医らによってついに刑事告発される。1970年夏に捜査が終了し、告発された殺人罪、業務上過失致死罪、死体損壊罪の全てで嫌疑不十分で不起訴となった。
札幌地検はこの捜査のために、3人の日本を代表する医学者達に、各一人ずつ1つの項目について鑑定書作成を依頼したが、それらは終始曖昧で決断を下しかねているような論調で、全ての鑑定人に対する再聴取が必要なほどであった。

当時、札幌医科大学整形外科講師の地位にあった作家の渡辺淳一は、この心臓移植を題材に地の利を活かして関係者から詳しく話を聞き、「小説心臓移植(のちに白い宴と改題)」を発表した。
綿密な調査で知られる吉村昭も心臓移植を追った小説「神々の沈黙」の中でこの手術に関して触れており、後にその取材ノートともいえる「消えた鼓動」を発表した。