あぼーん

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234卵の名無しさん
いなげや百年の原点は、大八車を引いた一人の行商人にたどりつきます。
「おれは商人になる」。
猿渡浪蔵翁が、そう決意して生まれ育った多摩郡稲城領(現・東京都稲城市)の
農家を飛び出したのは明治の中頃のことです。翁は、当時はまだ一寒村に
すぎなかった甲武鉄道(現・中央線)の立川駅前に居を構えて、周辺の府中、
村山や東大和、国分寺あたりまで引き売りを始めました。
翁の口癖は「お客さまの喜ばれるお顔が何より嬉しい」。
雨や雪など、どんなに悪天候の時でも必ず約束の日時に訪問する、
真摯で誠実な商売ぶりがあちこちで評判になり、どんどんお得意さまも
増えました。そのうち「今度来る時には砥石を持ってきて」「鎌が欲しい」
等々のご注文をいただくようになり、帰り車には、農家から物々交換で仕入れた、
産みたての卵や採りたての野菜を持ち帰って、引き売りの合い間に自宅の戸板に
並べて販売することを始めました。
「あの浪蔵さんが店を出した」そう言ってお馴染みさんが次々に立ち寄って
くださるようになりました
235卵の名無しさん:03/03/05 21:23 ID:fy8zGLAd
大八車に載せられる品物はわずかです。そこで、店売りに専念することを
決意して住まいを改築し「稲毛屋」を開業しました。店名は翁の出生地一帯を
鎌倉時代に統治していた地方豪族・稲毛三郎侯にあやかったものです。
今からちょうど百年前、明治三十三年(1900年)のことです。
しかし、店を構えてからも商売は引き売りの時と同様「まずお客さまありき」。
お客さまのご要望に最優先で対応するという姿勢は、全く変わることが
ありませんでした。
翁は三男一女の子供に恵まれました。
長男は勤め人の道を選びましたが、次男、三男は父親のもと家業を手伝い、
お店は順調に発展しました。魚・塩干物から缶詰、調味料などの加工食品、
菓子、野菜等も順次取り扱うようになり、店舗面積も当時としては
あまり例のない六十坪余りになりました。文字通り多摩地区随一の
繁盛店として、店頭はいつも大勢のお客さまで賑わっていました。
236卵の名無しさん:03/03/05 21:26 ID:fy8zGLAd
稲毛屋に最初の大きな転機が訪れるのは、戦後の混乱が続き、社会も人心もまだ
安定していなかった昭和二十三年(1948年)のことです。
個人商店からの脱皮をはかるべく、株式会社稲毛屋に生まれ変わったのです。
初代社長に就任したのは、父親とともに稲毛屋の基礎を築かれた、次男の
猿渡源二郎(現会長の父)です。 物不足で売る商品に事欠いた時代、
リュックサックに現金を詰め込んで単身樺太に渡り、ニシンや昆布を
大量に買い付けて貨車で運んで築地でさばき、翌日には九州に飛んで
干物や海苔を買い付けてくる、というように年中全国の産地をまわって、
現在でいう産地開発・単品大量仕入を先取りされました。
「稲毛屋は良い品物が安い」
店頭は、評判を聞きつけたお客さまでひきもきらぬ状態でした。
当時世の中では日常の品物すらなかなか手に入らないのですから、
それも当然のことでした。
しかし、源二郎社長は昭和三十年、心不全のため四十三歳という若さで
急逝されました。
237卵の名無しさん:03/03/05 21:28 ID:fy8zGLAd
昭和三十年代は、都心に本店をもつデパートや全国での出店をめざす
総合スーパーの多摩地区への出店が相次ぎ、立川も各社の侵攻に
さらされました。大黒柱を失い、さらに大型競合店の出店もあって
売上高の減少が続いたことから、稲毛屋の先行きを不安視する人も
少なくありませんでした。
二代目の社長には、弟の猿渡栄一が就任しました。そして、
進取の精神あふれる栄一社長のもと、昭和三十一年(1956年)、
稲毛屋は多摩地区で初のセルフサービス店として生まれ変わり、
この難局をのりきります。
全国でも二十七番目、東京では青山の紀ノ国屋に次いでの導入でした。
不退転の決意でスタートしたセルフサービスでしたが、当初は店も
お客さまも混乱と戸惑いの連続でした。
それまで商品は全て対面で販売されていました。例えば、味噌は
大きな樽をいくつも並べて、菓子の場合には一斗缶からガラス蓋つきの
ケースに移して、お客さまのご注文を受けその都度量り売りをしていました。
それをセルフ販売用に、店で小分けして袋詰めしたうえ値付けをしたり、
お客さまに新しい買い物の仕方を繰り返しPRしたりというような
産みの苦しみが一年以上続きました
238卵の名無しさん:03/03/05 21:29 ID:fy8zGLAd
しかし、時間とともにこの新方式は着実にお客さまに浸透していきました。
セルフサービス方式が軌道にのった昭和三十年代半ばは、岩戸景気とよばれた
好況期。池田内閣の所得倍増計画が発表され、小売業界も活況を呈し、
各地に続々とセルフサービス店が誕生しました。しかし、生き残ることが
できたのはごくわずかでした。
こうした情勢に対処する稲毛屋は、機敏で大胆でした。
当時まだ入社して数年の一社員に過ぎなかった現会長が、『チェーンストアへの道』
という一冊の本との出会いを契機に、一カ月強にわたって視察されてきた
アメリカのチェーンストアシステムを全面的に採用して、本格的な
チェーンストアづくりに邁進したのです。
組織をはじめ、店舗の立地、規模、店内のレイアウト、オペレーション体制等々、
次々に新しい施策に挑戦しました。
例えば立地の郊外化。当時、業界では店を出すなら駅前の商業地に、
というのが常識でした。しかし、稲毛屋が出店したのは周りはまだ
田圃と畑ばかり、開店時には蛙が飛び込んでくるような新興住宅地でした。
239卵の名無しさん:03/03/05 21:31 ID:fy8zGLAd
システムの稲毛屋の名を高め、効率経営体制を確立するための大きな武器に
なったのが、流通センターの開設とコールドボックスの開発でした。
昭和四十八年、店舗数はわずか十数店という段階で、百店舗構想のもと
生鮮食品の集中加工・包装・値付処理を行う生鮮センターとグロッサリーの
一括納品・各店配送を行うドライセンターを開設したのです。
生鮮センターはどこにもモデルのない、実質的に業界初のものでした。
このセンターの稼働により、多店舗展開のネックになっていた生鮮技術者、
いわゆる職人の育成問題が解決しました。
また、試行錯誤の末完成したコールドボックスは、出店エリアの拡大を
可能にしました。これは、いわば自冷装置のない可動式の大型冷蔵庫で、
これによって高鮮度の商品が鮮度劣化なく、遠方の店舗まで
配送できるようになりました。
生鮮食品の一品一品に賞味期限を表示する我が国初の
ODS(オープン・デイティング・システム=鮮度保証制度)の導入も、
この新兵器があればこその一大革命でした。
240卵の名無しさん:03/03/05 21:32 ID:fy8zGLAd
しかし、本格的なチェーンストアづくりにむけて体制が整い、上場を目前にした
昭和五十二年、栄一社長が五十三歳で逝去されました。
三代目社長には、先代のもとでチェーンストアづくりを実践してきた猿渡清司が
就任しました。時に三十七歳。新社長のもと、稲毛屋のめざましい発展が続きます。
昭和五十二、三年と連続して二桁出店を成し遂げ、その成長性が評価され、
東証二部上場を果たします。
さらに、大店法の改正によって出店規制が強化され、また第二次オイルショックの
混乱が続く逆風の環境の中、「日本一のスーパーマーケットチェーンづくり」というビジョンのもと、東証一部昇格・年商一千億円・百店舗体制づくりを目標に掲げて「599作戦」と名付けた強気の中期経営計画をスタートさせました。
昭和五十九年(1984年)、予定どおりに一部上場を果たすとともに
年商は一千億円の大台を突破、名実ともに我が国有数のスーパーマーケット
チェーンへと成長を遂げました。