71 :
岡崎久彦:
百年の遺産-日本近代外交史−17
【政党政治の揺籃期】 主義と信念に徹した星亨
陸奥宗光の死後、日本の議会政治は試行錯誤を重ねつつ成熟していきます。
日清戦争後の議会運営のため、伊藤博文は板垣退助と提携しますが、こうなると当然、
与党を持つことの便利さがわかってきます。すると薩派も改進党と提携して松方・大隈
内閣ができます。
そうなると、今度は民党としては代わる代わる利用されるだけではつまらないという事
になって自由党と進歩党を合体して憲政党を作り、伊藤は山県有朋などの反対を押し
切って政権を大隈重信、板垣の憲政党に譲ります。
ここでも伊藤の柔軟さが憲政を救っています。もし山県などの超然主義を貫いていれば、
藩閥内閣は解散に次ぐ解散で野党と対決し、日露戦争の準備もできず、あえて戦争の
準備をするためには憲政の停止もやむを得なかったかもしれません。
隈板(大隈と板垣)内閣は準備不足でもあり、短命で終わりますが、憲法発布の時にプロ
シャ的超然主義を標榜して発足した日本の憲政が10年たたずに、ドイツでは第一次大戦
で敗れるまで実現していない政党内閣を作ったのです。日本は再び平和革命に成功した
と言えます。
その裏には日本人同士の信頼関係があったのでしょう。伊藤にとって、大隈・板垣は維新
以来の同志です。国を思う心には変わりはないという信頼関係があって初めて政権を譲
れたのです。
72 :
岡崎久彦:02/07/27 12:16 ID:0HM6EBpy
次いで伊藤は旧自由党系を中心に立憲政友会を作り、自ら総裁になりました。300議席
中155議席を占める大政党です。この政友会内閣も準備不足で短命には終わりますが、
この政友会が将来の大正デモクラシーへの大道を開きます。
ところで、この政党の揺籃期にあたって山県有朋などを中心とする藩閥勢力は政党政治
に対する歯止めを考えます。それは軍部大臣現役制と文官任用令です。
文官任用令の方は、政治が役人の人事に容喙(ようかい)できる範囲を狭めたもので、そ
れまでは藩閥が勝手に藩閥の人間ばかり登用していたことを考えると、民党が政権を掌
握した途端に官吏の任免権を政治から奪った事に対する民党の憤懣(ふんまん)は解り
ますが、この時決めた政官関係はその後日本では定着しています。
軍部大臣現役制こそは、昭和期に議会民主主義を否定させ、軍閥の専制に道を開かせた
元凶です。統帥権の独立よりも、実際の運用上猛威を振るったのはこの制度で、軍の意向
に従わない内閣は陸海軍大臣を得られないので組閣不可能になってしまいました。
政党政治の揺籃期に、政党政治の歯止めとして山県が作ったこの制度が昭和期になって
国を誤らせることになるのです。
この間の政局で台風の目となるのは、陸奥の子飼いの子分、星亨です。星は、士族階級の
出身者を中心とする明治の指導者達の中で例外的に庶民の出でした。左官屋の父は大酒
飲みで家出し、母は乳飲み子の星をかかえて下女奉公をして一時は生活に疲れて赤坂の
溜池に星を投げ込もうかと思ったといいます。
73 :
岡崎久彦:02/07/27 12:16 ID:0HM6EBpy
星は、生涯を通じて、上流階級、士族階級には傲岸不遜(ごうがんふそん)でしたが、自分
の結婚に際しては母と嫁との折り合いを考えて、畳屋の娘を貰(もら)うなど、庶民の情け
のある人でした。
若い頃から終始陸奥が世話をみましたが、イギリスにも留学し、日本人で初めてイギリスの
弁護士という栄誉ある資格を得、帰国後、法律事務所を開いて成功します。
星は自由党に入り、知識階級ぶった改進党を嫌悪します。実は、板垣も陸奥も改進党嫌い
でした。改進党は結党に際して自由党の了解を得ようとして、自由党は剛直な正義派だか
ら、穏健な人はついていかないので別動隊を作るのだと説明したのに対し、板垣は「我々
を猟犬としてその獲物を取ろうとするのか、狡猾も甚だしい」と面罵し、改進党側は一言も
なかったといいます。これが自由党と改進党、進歩党、後には政友会と民政党の対立の
歴史的な源です。
板垣が自由党を解党した時、独り解党に反対し、その後も私財を投じて自由民権運動の火
を細々と守ったのは星です。また、第2回議会の衆議院議長として、大選挙干渉をした松方
内閣を苛(いじ)め抜いて潰したのも星ですし、代わった伊藤内閣では内々陸奥と呼応して
条約改正、日清戦争の準備に協力しました。
隈板内閣ができると、駐アメリカ公使だった星は、東京の許可も待たずに帰国し、外相の
ポストを要求しますが、大隈が星を警戒して断ると、今度は旧自由党系を分離させて隈板
内閣を潰します。そして、その後の山県内閣では、政府と協力して日露戦争の準備をする
中心的役割を果たし、次いで伊藤政友会内閣にも実力者として入閣しますが、汚職の疑い
で辞職します。
星は庶民出身として反骨精神の権化でしたが、他面、金銭を卑しむ士道とは無縁の人で
あり、臆面もなく金を集め、腐敗政治家の代表のように思われ、これを憤った壮士に刺殺
されます。しかし、彼の死後残ったのは借金だけで、私財は全く貯えていませんでした。
星は、あくまでも、主義と信念に徹した人でした。
74 :
岡崎久彦:02/07/27 12:17 ID:0HM6EBpy
百年の遺産-日本近代外交史−18
【小村寿太郎の登場】 強烈な国権意識と度胸の良さ
小村寿太郎という人物を知ることは、戦前日本の指導者の一つの型を知ることにもなりま
す。まず第一に大秀才でした。かつての日本では、若い頃から周囲の誰もが「あいつにだ
けはかなわない」と思うような大秀才を皆が尊敬し、社会のトップになるまで皆が推すの
が普通でした。
新井白石から、戦前の外相幣原喜重郎、重光葵、東郷茂徳までそうでした。むしろ、戦後
日本の反エリート風潮の方が、日本の伝統にも世界でも、あまり例のない特異な現象です。
現在の東京大学の前身である開成学校には、全国300余藩から推挙された若者達が集ま
りましたが、小村は飫肥(おび)藩からただ1人選ばれて入り、その中で50名選ばれた給
費生となり、また、初めての省費外国留学生の中の法科4名の1人に選ばれ、ハーバード
大学に留学します。
開成学校時代に書いた英語の文章が最近アメリカの図書館で発見されましたが、日本が血
を流すことなく明治維新で封建制を廃したのはイギリス仏の歴史と較べても特筆すべき成功であ
り、それは国民の封建領主への忠誠心よりも愛国心の方が強かったからだと論じています。
英語といい、自らの体験に基づいたその論旨といい、20歳前後の若者とは思えない立派
な文章です。
第二は、強烈な国権意識です。既述のように外務省の局長でありながら、クビを覚悟で国
辱と思った条約改正案をロンドン・タイムズに洩(も)らして、これを葬(ほうむ)ったのは
小村でしたし、日清戦争の際「よしっ、この俺が戦争を始めてやろう」と、訓令の到着を
待たず北京の公使館の旗を降ろして引き揚げてしまったのも小村です。そして常に近衛篤
麿、杉浦重剛などの国粋主義者の支持を背後に持っていました。
75 :
卵の名無しさん:02/07/27 12:34 ID:NdtyYuh9
68 :卵の名無しさん :02/07/27 09:44 ID:ptTwRmY/
社長がポkトオマネーで2億円ほど社員に還元って話はどうなったの?
69 :卵の名無しさん :02/07/27 11:06 ID:UNmBrMOT
地下室は入室にIDカードが必要で
5人分しかありません。
70 :卵の名無しさん :02/07/27 11:19 ID:IGgaHuVy
>>67 >それでいいだろう。。。
自分の所は関係ないという思いこみは危険だぜ。
統領様こそ、地下室の怪人という噂もある。
76 :
岡崎久彦:02/07/27 13:19 ID:5Yvvat6S
政治思想も、民主主義よりも国家政策本位です。当時は議会政治の勃興(ぼっこう)期です
が、「こう政党屋ばかりできては仕方ない。何か中立のしっかりしたもの」が欲しいと言
い、当時高級官僚のお決まりのコースは政党入党(にゅうとう)でしたが、大隈重信総理か
らの誘いを「暑いのに入湯(にゅうとう)などは真っ平」と断っています。
第三に、これも江戸時代以来の日本知識層の風(ふう)として、辺幅(へんぷく)を飾らず、
つまりバンカラでした。小村の貧乏は本人の責任でなく、親の借金を引き継いだためでし
たが、家具のほとんどない家に住み、夏も冬も着古しのフロック・コート一着だけで、昼
食時には袖のほつれ糸を鋏(はさみ)で切るのが習慣でした。夏は暑いだろうと訊(き)かれ
ると、貧乏していると暑さを感じないと答えたといいます。小村の度胸には天性のものも
ありましょうが、これ以上失うものはないという環境もあったでしょう。
小村が日本外交に登場する頃、東アジアの情勢は激変期を迎えていました。その引き金は
日清戦争で、それまで「眠れる獅子」と思っていた清国が小国日本にあっけなく負けたこ
とです。
これをみた帝国主義列強が、これは東洋史では何度も使い古された言葉ですが、それなり
に正確なので使いますと、「死屍に群がる禿鷹(はげたか)のように」清国に襲いかかった
のです。日清戦争の翌年、ロシアは李鴻章を買収して、シベリア鉄道の満州通過と鉄道を
守る駐兵権を獲得し、その翌年ドイツが膠州湾を占領して租借権を認めさせたのに乗じて、
大連、旅順を租借します。ウィッテの回想では、もし清国が同意しなければ、ロシア軍は
行動を起こしてどのみち占領しただろうといっています。するとフランスは広州湾を租借
し、イギリスは威海衛と九竜半島を租借します。
77 :
岡崎久彦:02/07/27 13:20 ID:5Yvvat6S
日本はまだ、到底列強と争う力はなく、わずかに台湾の対岸の福建省を他国に割譲しない
ことを約束させます。ちなみにアメリカは、その年の大統領選挙のスローガンとして清国
の領土保全政策を掲げますが、選挙後は列強と競って三又湾に貯炭所を求めます。しかし、
それが日本の勢力圏である福建省なので、日本に婉曲に断られて、かえってアメリカの原則の
一貫性を傷つけないですんだ、という経緯があります。
ここに至って、ついに清国も目覚めます。光緒帝は明治維新にならった変法運動を始めま
すが、これは「百日維新」に終わって、かえって政治の実権は西太后に移ります。他方、
民衆による排外運動も当然起こって、団匪(だんぴ)が跳梁(ちょうりょう)し、外国人の生
命財産を脅(おびや)かしたので、列強は軍艦から水兵を揚げて、これを救おうとしますが、
これに対して西太后の朝廷は、こうなっては「かりそめに生き延びて恥を万古にさらすよ
りも戦って雌雄を決する方が良い」と諸外国に宣戦を布告します。これが北清事変です。
この時、孤立無援の北京城内の外国人は、日本の柴五郎中佐の指揮するわずかな数の義勇
兵で生き延びました。そして、連合軍が北京に入城した際、「北京篭城(ろうじょう)の功
績の半ばはとくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と公正な発言をして日本に讃辞
を送ったマクドナルドイギリス公使は、後に駐日公使となり、日英同盟の推進のための力とな
ります。
地理的に最も近い日本は、一個師団をおくりますが、白人兵の暴行掠奪(りゃくだつ)が横
行する北京市内で、日本軍は規律厳正で日本軍管轄区に大勢の市民が流入し、また、北京
の家々には暴行を避けるために日の丸が掲げられ、師団長がこれを禁止しなければならな
かったほどでした。
78 :
岡崎久彦:02/07/27 13:21 ID:5Yvvat6S
百年の遺産-日本近代外交史−19
【ロシアの東進と日本】 意図見抜いて行動する小村
当時の日露の国力の差を考えると、日本がロシアと戦争するなどは狂気の沙汰でした。
当時の鉄や鋼の生産は、日本はロシアの30分の1ぐらいでした。真珠湾の前にウィンス
トン・チャーチルが松岡洋右外相に対して、鋼の生産が700万トンしかない日本が合計
2千万トン生産するイギリスアメリカと戦争できるだろうかと忠告したのと較べても、そのまた10倍
の較差です。陸軍の兵力は、ロシアが日本の約十倍でした。
それでも、開戦に慎重だった明治天皇や伊藤博文まで、最後には皆、もう戦争するしかな
いと覚悟を決めたのは、結局はロシアの意図を正確に把握していたからです。北清事変を
機に、ロシアは満州に進撃します。1900年8月にはチチハル、9月には長春、吉林、
10月1日には奉天を占領して全満州を制圧します。ロシアは、満州を永久占領する意図
のないことを公式文書で声明しますが、小村寿太郎駐露公使は、早くも9月24日の電報
で、「ロシアは完全かつ永久に満州を管理することとなるであろう」と分析し、報告して
います。
実は小村はそれよりも早く行動を起こしています。ロシアが満州進撃を開始した7月20
日に、この際日露両国で、韓国と満州がそれぞれの勢力範囲であることを認め合うべきだ
と、本省に意見具申して、10月には自らヤルタに保養中のウィッテを訪れて、それを説
得しようとします。
つまり、ロシアはどうせ満州を取る気なのだから、取ってしまう前のこの時期に、それを
認めてやって、代わりに日本による韓国の自由裁量権を取ろうということです。小村の冷
徹なパワーポリティックスとそれを実現しようとする思い切った行動力の面目躍如たるも
のがあります。
79 :
岡崎久彦:02/07/27 13:22 ID:5Yvvat6S
日露戦争の後になってみれば、それはロシアにとって良い取引だったでしょうが、当時の
ロシアは弱小日本など相手にしません。ウィッテの反応は、平たく言えば、ロシアは満州
を取ろうと思えば何時でも取れる、日本の承認など必要としない、むしろ満州を併合する
と韓国は隣接地域となるのでロシアの方が日本より大きな利害関係を持つようになる、と
いう返事でした。
ここで割り切りの早い小村は、ロシアと話しても無駄だ、満州を取らせたら、次は韓国を
取りにくる、と見極めてロシアと戦うしかないと臍(ほぞ)を固めるのです。これが「満韓
交換論」から「満韓一体論」への転換です。
戦後の史論の中には、ロシアにそこまでの侵略的意図はなかったという論もあります。た
しかにロシアの公式発言だけ引用すればそういう立論も可能でしょう。しかし、そういう
作業は無意味です。ロシアの中央アジア侵略の歴史では、イギリスから咎(とが)められる度に
永久占領の意図もなく、それ以上進む意図のないことを確約しつつ、結果はどんどん進撃
して併合しています。
ロシアの意図は、普通の帝国主義的発想と、極東の地図を見ればわかる話です。ロシアと
いう国はよくよく因果な国で、西も東も大洋への出口が閉ざされています。ピョートルが
やっとバルト海に出ても、その先にはデンマーク海峡があり、黒海北岸、東岸を制圧して
もダーダネルス海峡があります。東は千島、北海道から対馬に至る日本列島に出口を抑え
られています。ウラジオストクの出口を扼(やく)する朝鮮半島は絶対に日本に渡せない、
というのはツァー(ロシア皇帝)も含めてロシア側が陰に陽に洩らしているところでした。
日本の心配はそれだけではなかったでしょう。もとより文書に残るような公式発言にはあ
り得ないことですが、口伝に残る当時の雰囲気では、朝鮮を取られたら、次は北海道も対
馬も取られると思っていました。たしかにロシアが朝鮮半島を完全に制圧すれば、その後
は、いずれそれが正確な判断となったでしょう。
80 :
岡崎久彦:02/07/27 13:23 ID:5Yvvat6S
もちろんロシアは、イギリスが干渉してくることは十分覚悟していたでしょう。しかし、すで
に日英同盟も結ばれ、日露戦争も始まった後で、ウィッテはイギリスに対して、対日講和条件
として、満州、朝鮮の併合はもちろん、「日本は永久に戦闘力を失わねばならず、太平洋
沿岸のロシアの優越は保障されねばならない」と探りを入れています。強国ロシアの隣で
無防備となるということは、問題の決着でなく、始まりです。「太平洋沿岸のロシアの優
越のため」必要な北海道、対馬などの運命は、ロシアの手に委(ゆだ)ねられるわけです。
この強大かつ危険なロシアに勝つためには、極東がロシア中心部から遠く離れているとい
うロシアの弱みをつくしかありません。それは完成間近で輸送能力も限られているシベリ
ア鉄道で遥かに送られてくるロシア軍が十分に増強される前にたたくことです。事実、も
し開戦が半年遅れていたら、日本の勝ち目はなかったでしょう。
開戦時の小村外相の粒々の苦心が、早く交渉を打ち切って戦争に持ち込むことにあったの
はこのためです。
>>71-80 地下室の話題に反応したか。
やはり統領様とゾロの地下室には密接な関係があるようだ。