1 :
古森義久:
『Part8』を書き忘れた馬鹿は偽物です。
■ アメリカとその敵 ペルーからの連行 (1)
無理やり連行…17年間の空白
カヤオの港は夏のペルー独特の明るい陽光の下でも、どことなく沈み、悲しげにみえた。この港
で半世紀前に繰り広げられた悲劇を聞いていたせいだろうか。港に面した市街の貧しさと汚さが
胸を刺すほど強烈なせいだろうか。
首都リマから北西へ、海岸沿いの道を30分ほど車を走らせると、人口ではペルー第2の都市カ
ヤオに入る。貧者と富者との極端な断層は、どんな鈍感な訪問者でも真っ先に気づくペルー社
会の特徴だろう。日本大使公邸の人質事件に象徴される政治テロがなぜ絶えないのか、という
疑問への答えの一端でもあろう。
《くすんだ海》 リマは貧富の差は激しいが、中流や富裕な市民の住む地域も大きく広がってい
るし、日本ではドラマの中にしか登場しないような広壮で華麗な大邸宅の並ぶ通りも珍しくない。
だが、隣接する港湾都市カヤオはどこをみても貧しげな光景ばかりなのだ。白亜の豪邸が緑し
たたるなかに連なる日本大使公邸周辺をみなれた目には、このコントラストはとくに強烈だった。
カヤオ市内では、あちこちが崩れかけた石造りの小屋の人家が、ゴミ捨て場を拡散したような街
路に密集する。ホコリで汚れ切ったような小商店の軒先を老朽の車がへしあいながら走る。港近
くではペルーでもエリート集団だという海軍の基地だけが整然としていたが、他はみなもの悲し
げな無秩序のなかにあった。岩盤のような古めかしい埠頭からみる海は灰色にくすんでいた。
泉彦造がこのカヤオの港からアメリカへと連れ去られたのは、1943年7月13日だった。晴れ
た日だったが、眼前に広がる海はやはり灰色にくすんでみえたという。日米開戦から既に1年半
以上が過ぎたものの、日本軍の決定的な敗退はまだ始まっておらず各地で激戦が続いていた。
彦造泉はまるで凶悪な重罪人のようにペルーの武装警官に両脇をはさまれ、カヤオの港に停泊
したチリ籍の輸送船に連れ込まれた。船内には銃剣を持ったアメリカ兵が待ち構えていた。
泉彦造はこのとき32歳、広島からペルーに移住してすでに16年が過ぎていた。この地に骨を
埋めることを決意して、営々と働いてきた。だがいまやその努力の積み重ねのすべてを一挙に
断ち切られ、ペルーを即刻、立ち去ることを強いられたのだ。連行される先のアメリカ合衆国に
は、それまでなんの縁もなく、関心も知識もなかった。だがアメリカ政府の側は泉を「危険な敵
性外国人」とみなしていた。
「ペルーの人間になるつもりで一生懸命、働いてきた自分がなぜ縁もゆかりもないアメリカへ
引っ張られていくのか。まして警官や兵隊がぴったりとついて、完全な囚人扱いですからね。
どうにも納得できませんでしたよ。カヤオの港を出るときは、これでもうペルーとは一生、お別
れだと思い、悲しくて、腹が立って…」
54年が過ぎ去った今、リマ市内で静かな引退生活を送る泉彦造は、当時の苦難を穏やかな
口調で語る。「アメリカの敵」とされるに至る半世紀以上前の体験の細部をそう淀むことなく、
まるで去年の出来事のように再現していった。
《海外雄飛》 1911年(明治44年)、広島県安佐郡(広島市安佐南区)の農家に生まれた泉彦
造は、16歳で姉夫婦を頼ってペルーに移住した。「海外雄飛」などという言葉が青少年の胸を
かきたてていた時代である。着いた翌日からリマ市内の日系人の洋品店で売り子として働き始
めた。以後、日系人社会のいくつかの小商店に勤めた末、田尾商会という洋品雑貨の卸売企
業に腰を落ち着けた。
田尾商会で10年ほど働いた泉は1941年2月、ペルー北部のチクラヨ市に送られる。田尾商会
の支店がこの市の小さな日系人地域に開設され、泉がその駐在支配人に選ばれたのだ。その
年の12月に日本軍がパールハーバーを奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まる。
42年1月、ペルー政府が日本やドイツ、イタリアとの国交を断絶し、アメリカ寄りの姿勢を鮮明
にした。やがてアメリカ政府の意向を受けたペルー当局は日本人、日系人の財産の没収や国外
への追放という敵視政策をとるようになる。一九四二年後半からはアメリカ当局が関与をはっき
りとさせて、日系社会の主要人物の抑留や連行を進めるようになった。だが対象は日本人会の
幹部、県人会の会長、有力実業家といったリーダー格に限られていた。地方都市でひっそりと卸
売業にかかわる、まだ三十代に入ったばかりの泉までが連行されるとは、だれも考えてはいな
かった。
だが1943年1月6日、チクラヨ市の日本人社会の有力者16人が一斉に逮捕された。みな「危
険な敵性外国人」とみなされ、アメリカへ送られていった。後に残った泉はしかたなく地元日系人
社会の連絡や調整の役を担わされるようになった。ところが6月ごろから今度は彼にもペルー警
察の尾行がつくようになり、7月には抑留とアメリカへの強制連行の決定を告げられたのだ。
泉彦造は1942年に結婚したが、相手はペルー生まれの日系二世の政子、彼女のペルー名は
クリスティーナだった。すぐに長男のアグスト久雄が生まれた。だからカヤオ港からアメリカへ送
られるときは、妻と長男がいっしょだった。アメリカではテキサス州南西部クリスタルシティーの
敵性外国人専門の抑留所に入れられる。抑留所での生活中、二男のエンリケ勝彦が誕生した。
《いやな思い》 泉は1945年8月に太平洋戦争が終わると、自由の身とはなった。だが新たな
母国のつもりだったペルーは戦後、日本国籍の人間の再入国を認めないと通告してきた。
泉彦造が日本への帰国を決めると、妻も同意した。泉は家族とともに四六年春に故郷の広島に
戻り、ペルーでの仲間たちと半商半農の仕事を始めた。そして再び姉の支援でペルーに帰った
のは1960年だった。また元の洋品雑貨の卸売りの仕事にもどった。本来ならペルーに住み続
けたはずなのに、アメリカの敵とされたがゆえに、振り返ると17年間の空白がぽっかりと穴を
あけていた。
「恨みがないといえばウソですね。アメリカとも日本の戦争遂行ともなんの関係もない私をなぜ
無理やり、連行したのか。いやな思いはいまでもありますよ」この言葉を口にしたときだけ、泉
は顔つきを目にみえて険しくした。
■ 豆事典
☆カヤオ ペルーの首都リマの外港の機能を持つ港町。人口65万。太平洋にそそぐリマック川
の河口に位置し、沖合にはサン・ロレンソ島がある天然の良港に南アメリカの太平洋岸では有
数の港湾施設がつくられた。ペルー第1の貿易港であり、軍港、漁港としても使われている。ホ
ルヘ・チャベス・リマ国際空港もカヤオにある。
☆チクラヨ リマの北約770キロの太平洋岸の都市。人口約20万。周辺は年間を通してほとん
ど雨が降らない海岸砂漠であり、そのオアシスとして発達した。最近は付近に古代文化の遺跡
が見つかり、観光都市としても注目されている。
☆ペルーの対日断交 第2次大戦ではアメリカの影響が強かったラテン・アメリカ諸国の多くが
日米開戦後直ちに連合国側につき、真珠湾攻撃の翌月の1942年1月末までにアルゼンチンと
チリを除くすべての国が日本を含む枢軸国に対し宣戦または断交に踏み切っている。ペルーは
41年12月に邦字新聞閉鎖などの措置をとり、42年1月24日に日本と国交を断絶した。中立を
保っていたチリ、アルゼンチンも戦局が連合国有利に傾く中で、最後は対枢軸国断交、宣戦へと
転じていった。
>>1 >ここの社員はひどいらしい
ひどいのは社長と聞いていましたが、そうでしたか。
7 :
卵の名無しさん:02/05/06 17:15 ID:NvUUzXdE
>>2 あえてPart8つけませんでした
みんな頑張ろう
>>2 インチキ(偽者)はお前だが。沢井の犬がえらそうに。
他人の著作物をコピペのみ。ここの社員、特に2はひどい。
■ アメリカとその敵 ペルーからの連行 (2)
夫に会うため選んだ抑留生活
人間は自らの過去のむごい苦難を振り返るとき、多種多様な表情をみせる。不当な辛苦を昨日
の出来事のように思いだし、怒りや悲しみをどっとよみがえらせる。あるいは逆に、もうとっくに
完結してしまった他人事のように、全てを淡々と回顧し、笑いとばしさえする。そんな違いはどこ
から生じるのだろうか。
《故郷を離れ》 21歳の若さで、しかも幼児を連れて生まれ故郷のペルーを離れ、未知のアメリ
カへいくことを強いられた中尾・ロサ芳江は、往時の模様をこちらが拍子抜けするくらい朗らかな
口調で語った。半世紀という長い長い時間の経過や、苦難のあとの人生の好転もあろうが、や
はり本人の性格のタフなほどの明るさのせいだろうと感じた。
「兵隊に引き立てられていくんですからね。そりゃあ、なにか悪いことをして捕まった罪人のよう
な気持ちにさせられましたよ。ただ連れていた一歳四カ月のこの子がすごく手間のかかる赤ん
坊でね、その世話に追われて、怖がるひまはあまりなかったですね」
いま74歳となった芳江はリマ市内の日本大使公邸からそう遠くない中規模の自宅で、かたわら
の長女のイリス恵子に笑いかけながら、スペイン語まじりで話し続けた。幕の降りたドラマの筋
書きでも告げるように、肩の力をすっかり抜いての回想だった。
ペルー国籍の芳江が首都リマ近くのカヤオ港からアメリカに連行されていったのは1944年(昭
和19年)3月である。太平洋戦争では日本の敗色が濃かったが、芳江が生まれ育ったペルーは
平和だった。だが芳江の夫の中尾岩三はアメリカ政府から「危険な敵性外国人」と断じられ、43
年1月にアメリカへと連れ去られていた。
岩三は1920年代に広島県からペルーへと移住した。永住を決めていた。日米開戦時にはリマ
北西のチンボテ市で日本人学校の代用教員をしていた。新婚早々だったが、アメリカの意を受
けたペルーの官憲に逮捕され、アメリカへ送られた。1年以上が過ぎて、家族を呼び寄せること
を認められたのだった。芳江はためらわずアメリカ行きを決めた。
「私と娘はどうしてもペルーに残りたいといえば、残れたでしょう。でも家族が離れ離れには暮ら
せません。だから私も連行されたのと同然です。アメリカというなにも知らない国にいくのは、と
ても気味が悪かったですけどね。まあ夫に会うためには夢中でしたよ」
《悲劇の裏に》 芳江を乗せて44年3月1日にカヤオ港をたった「クーバ」という名の船には合
計339人のペルー在住日本人、日系人が詰めこまれていた。大多数が芳江母子のように、すで
にアメリカに連行された日本人男性の家族だった。
「家族呼び寄せ」の名の下に、本来はペルーで一生を過ごすことを当然とみなしてきた婦女子が
遠い地の夫や父のもとへ向かわされるという悲劇の背後には、第二次世界大戦という歴史のう
ねりのなかでのアメリカ、ペルー、日本の各政府、そしてスペイン政府までが入り乱れた複雑な
駆け引きがあった。
芳江はテキサス州のクリスタルシティー家族抑留所で夫と再会した。岩三は当初、パナマ経由
でニューオーリンズからアメリカに連行され、テキサス州のケネディ抑留所に収容されていた。
この抑留所はペルーはじめ中南米各国から連行されてきた日本人の単身の男性だけを拘束し
ていた。クリスタルシティー抑留所で不安にさいなまれながら新生活をおずおずと始めた芳江
は、そこでの扱われ方にまずびっくりした。抑留された人間の衣食住の待遇が想像していたより
もずっとよかったからだった。
「一家ごとにバラックにせよ、住宅を与えられ、食料も豊富で、商店もいろいろあるんです。理髪
店も洗濯店も、病院、図書館、学校も完備され、悪いことをして捕まったような最初の気分はだ
いぶ薄れました。かえってなにか裏の計略でもあるのかと、気持ちが悪くなるほどでした」
だが捕らわれの身であることは冷酷な事実だった。抑留所は鉄条網で囲まれ、五十メートルおき
に監視塔があった。塔では武装兵士が日夜、銃を構え、周囲に鋭い視線を配っていた。芳江よ
りも八カ月ほど前にペルーから連行され、ここに入所した泉彦造も述懐する。
「いくら生活は保障されていても、外部の風景は鉄条網を通してしか、見られません。それに、銃
を持った兵隊が毎日毎日、監視塔に登り降りするのを目の当たりにするんですから、いやな思
いでしたよ」
日米戦争の多層な歴史のなかでも、このクリスタルシティー抑留所が刻んだ一章はきわめて異
色である。抑留所とか収容所といえば、だれもがまず連想するのはアメリカ太平洋岸地域の日
系米人十一万人以上を強制疎開させ、内陸部に閉じこめた収容所だろう。この作業は日米開戦
から三カ月後にサインされた大統領命令に基づき、陸軍が担当した。転住や収容の実務は陸軍
省の下部機関に等しい戦時転住局(WRA)にゆだねられた。アメリカ政府が日系米人収容所を
公式には「転住センター」と呼んだのも、そんな経緯からだった。
ところがこのクリスタルシティー抑留所は司法省の管轄のまったく別のカテゴリーだった。陸軍当
局が日本軍の攻撃対象になりうるアメリカ西海岸に日本人の血が流れる人間がいてはならない
として、大ざっぱな投網でも投げるように「転住」を実施したのに対し、司法省は開戦前から「危
険な敵性外国人」に標的をしぼり、開戦と同時に逮捕を始め、拘留所に連行していった。
だからクリスタルシティー抑留所も正式に「抑留キャンプ」と呼ばれていた。だがペルーにいた日
本人たちがこの「危険な敵性外国人」という要件に果たして合致したかどうかは、また別の話で
ある。
「終戦五十周年のときに、ペルーからも日系人が観光団をつくって、クリスタルシティーをまた訪
れるという旅行がありましたけどね。私はもうたくさん、いきませんでしたよ」中尾芳江は明るい
笑いで回想を結んだ。だがそこでの拘留はペルーの日系人の運命を北米の日系人のそれより
もさらにずっと数奇にもてあそんだのだった。
■ 豆辞典
☆強制立ち退き大統領命令 「アメリカ移民百年史」(加藤新一著)によると、1942年2月19日に
発布されたアメリカ大統領命令は「必要に応じてアメリカ国内に軍事区域を指定し、その地域に
居住するものにしてアメリカの国防に危害を及ぼすと認められるものは、市民、外国人の別な
く、強制的に立ち退かしめる権限を陸軍省に与える」とされており、日系人を名指しにしてはいな
かった。このためドイツ、イタリア両国人にも適用されるとの噂がでたが、結局、対象となったの
は日系人だけだった。
☆戦時転住局(WRA) アメリカ大統領の命令を受けて1942年に設置され、軍の監督による集
団強制立ち退きに対処するため転住先の開設および管理全般の業務を担当した。大統領命令
に基づいて軍事区域に指定されたカリフォルニア、ワシントン、オレゴン、アリゾナ各州から敵性
外国人として強制的に退去させられた日系人約11万人は、マンザナア(カリフォルニア州内陸部)
などの収容所に入れられた。WRAは終戦の翌年の1946年に業務を終了した。
12 :
卵の名無しさん:02/05/06 18:27 ID:NvUUzXdE
今年の医療費改定でゾロが扱われるようになったから
かなり大変だった
レセプトではきちんとゾロ薬で登録しないといけなかったので
かなりの作業量でした,
どうせMRっていってもすることないんでしょう?改定作業手伝って欲しかった。
今度はお願いします.
■ アメリカとその敵 ペルーからの連行−4
評して“カフカふうの悪夢”
「カフカふうの悪夢」−第二次大戦中のペルーなど中南米諸国からの日本人連行を現代のアメ
リカの歴史学者はこう評した。アメリカではペルーの日本人抑留についての書籍や資料はアメリ
カ内の日系人の転住収容のそれとくらべれば、はるかに少ない。とくにこの悲劇を正面から調査
し、追及した書籍は数えるほどである。
そんな、希少な書のひとつに『密やかな行路』と言う本がある。カンザス大学出身の歴史学者ス
コット・コーベットが1987年に書きあげたこの本は「無実の犠牲者・中南米の日本人たち」とい
う章で、アメリカによるペルーその他の中南米の日本人の連行をまるで「カフカふうの悪夢」と表
現したのだった。
真実は複雑怪奇なもやに包まれ、秘密の表層をいくらはがしても、なおぼやけた風景が広がる
のみ。抑留する側も、抑留される側も理由や目的がわかっているようでわからず、そんな様相は
カフカの世界だ、というのである。
その実例として戦後派のアメリカ人学者コーベットはアメリカ政府の公式記録をもとにオカムラ・
ヤスタロウという日本人移民にスポットをあてる。
《まさに悪夢》 オカムラは1941年12月の日米開戦時、中央アメリカコスタリカに入植してい
たが、ペルーの多くの日本人移民同様、すぐに逮捕された。当時、51歳の彼はもちろん何の犯
罪を犯したわけでもなく、重要な地位も、日本政府とのつながりもなかった。おそらくはたまたま
その時点でその国にいたという理由だけでコスタリカ当局に逮捕され、アメリカに送られた。ルイ
ジアナやニューメキシコに抑留され、日本側の手中にあるアメリカ人との交換として日本へ送還
される予定となった。
しかしオカムラは43年7月、食道癌と診断された。死の近いことを感じた彼はわ、ずかな所持金
の全てを抑留中に親しくなったイソベ・シゲミに与えるという遺言を当局者に伝えた。
8月3日、ニューメキシコ州のサンタフェの抑留所内でオカムラは手術を受けたが、うまくいかず
そのまま静かに息を引き取った。遺体は火葬され、遺骨と全財産の16ドル99セントはイソベに
渡された。
イソベはやがてその遺骨と現金とをオカムラの弟に必ず渡すのだと、アメリカ係官に告げて、日
本への送還船に乗せられていった。オカムラは自らのこんな運命を、一体どう感じながら死んで
いったのか。なぜ抑留されたのかさえ、わからなかったのではないか。抑留した側も理解できな
かったのではないか−歴史学者コーベットはこうした疑問を示しながら、カフカの悪夢にたとえる
のである。
ではアメリカはなぜペルーの日本人を敵とみなして連行し、抑留したのか。敵国民とはいえ、戦
場からも自国からも遠く離れた第三国にいる民間人多数を、なぜわざわざ自国まで運び、長期
抑留を続けたのか。
14 :
卵の名無しさん:02/05/06 18:30 ID:NvUUzXdE
age
《打算と妄想》 これらの問いに対する答えの解明はパンドラの箱を開けることとなる。箱のなか
からは、アメリカの戦略的誤算から自国民保護の過剰な打算、被害妄想、人種偏見、そしてペ
ルー政府の不当な要請、ペルー日本人社会の独特な特徴まで、黒くゆがんだ因子の数々が複
雑にからみあって飛び出してくるはずだ。
但し、それら全てを悪しき愚行と断じるのも、半世紀以上が過ぎた今だからできるのであろう。当
時の大戦争という歴史の異常なうねりのなかでは、たとえ不当や違法を排そうとしても、それな
りに避けられぬ事情が働いた側面もあろう。
古い歴史の特定部分だけを切りとって、現代の価値観の検証台におき、拡大してみるという作
業には、どうしても空疎な「あと知恵」や「結果論」の陥穽の危険がつきまとう。いまの日本の戦
争史論議でも明白なように、そうした危険を先に意識しておくか否かで、論議のバランスはがら
りと変わってくる。
当時のアメリカがペルーをはじめとする中南米諸国の日本人たちに険しい視線を向けるように
なった背景にまず、1939年9月にヨーロッパで火ぶたを切った第二次世界大戦があった。ドイ
ツ軍のポーランド侵攻とイギリス、フランスの対ドイツ宣戦である。アメリカはかたくなに不参加を
言明してはいたが、大西洋、太平洋ともに戦雲は濃くなっていた。
アメリカでは、間もなく司法省の下部の連邦捜査局(FBI)のエドガー・フーバー長官が中心となり
中南米でのドイツ、日本、イタリア三国、つまり枢軸の支持勢力の動きに、真剣な関心を向ける
ようになる。
当時、中南米には日本人だけでなくドイツやイタリアの人たちもかなりの数が種々な形で住んで
いた。FBIは40年、大統領命令で秘密裏に中南米各国の枢軸の動きを監視するようになった。
《特別諜報部》 FBIにはすでに、いざ戦争という場合にアメリカ内部で「危険な敵性外国人」と
なりうる人物を抑えるための「特別諜報部」(SIS)が新設されていたが、このSISが中南米をも担
当した。
中南米各国のアメリカ大使館にSIS捜査員がひそかに送られ、地元での枢軸支持のプロパガン
ダ、破壊工作、スパイ行動などの阻止にあたり始めた。そもそもアメリカは国際孤立主義をうた
ったモンロー・ドクトリンのなかでさえ、中南米は西半球という自国の勢力圏に加えていたように
ラテン・アメリカの安全保障には一体感を抱いてきた。
その一方、当時の日本は中南米諸国とのきずなを移民の連帯や貿易の拡大で強めようと努め
ていた。そんな状況のなかで、ペルーに3万、ブラジルに30万という日本人・日系人社会の動き
が、米側には不気味にみえたのだろう。米側にとっては、いざ戦争の際には、彼らは大日本帝
国への支持や忠誠をあくまで貫き、実際の破壊工作に従事しかねない存在にさえ映っていたと
いうことになる。
■ 豆事典
☆フランツ・カフカ(1883−1924年) オーストリア・ハンガリー帝国領当時のプラハ出身のユダヤ
人作家。城から仕事に呼ばれながらいつまでも中に到達できない「城」、明確な理由もないまま
裁判を受け処刑される「審判」など不条理で夢幻的な作品をドイツ語で書いた。しかし、それらの
作品はカフカの生きていた時代にはほとんど注目されることがなく、第2次大戦後になって20世
紀社会を先取りした文学としてブームを呼んだ。
☆ジョン・エドガー・フーバー(1895−1972年) ジョージ・ワシントン大卒業後、1917年、米司法省
に入り、24年に連邦捜査局(FBI)の前身の同省捜査局長に就任した。その局長時代も含めると
48年間にわたってFBIのトップとして君臨。30年代のアル・カポネなどマフィアの摘発、大戦中の
対ナチ防ちょう、戦後にかけての原爆機密スパイ事件、強烈な反共思想に基づく共産主義者糾
弾などを指揮した。歴代大統領のスキャンダルまで握る隠然たる実力のため、更迭が不可能だ
ったといわれる。
☆コスタリカ 1502年にコロンブスが命名したスペイン語で「豊かな海岸」を意味する中央アメリ
カ南部の共和国。1821年にスペインから独立し、人種・社会・経済的問題の多い中南米諸国の
中では「ラテンアメリカのスイス」と呼ばれる豊かな国で、所得格差も小さい。スペイン系白人・混
血が95%を占める。
☆モンロー主義(ドクトリン) 「西半球でのヨーロッパの勢力拡張に反対し、一方でアメリカは欧
州に関与しない」とするアメリカの伝統的外交政策。1823年にモンロー米大統領が唱えたことか
ら、こう呼ばれる。19世紀末には西半球でのアメリカの覇権・干渉を正当化するため拡大解釈さ
れ、アメリカは中南米地域を自らの勢力圏としてとらえるようになった。
17 :
卵の名無しさん:02/05/06 21:12 ID:NvUUzXdE
こういうのを『馬鹿のひとつ覚え』とか言うんだな、
>>17
■ アメリカとその敵 ペルーからの連行(3)
日米戦雲急を告げ、偵察の任へ
ジョン・エマーソンといえば、日米関係ではかなり知られた人物だった。日本専門のアメリカ外交
官として40年近く、彼が残した足跡は日米関係現代史の縮図そのものである。なにしろ国務省
職業外交官としての勤務のスタートは1936年(昭和11年)1月、日本語研修のための東京赴任
にまでさかのぼる。27歳の彼は着任した翌月、雪の東京の山王ホテル周辺で2・26事件の騒
乱を目撃した。
エマーソンの外交官としての最後の在外ポストは62年7月から4年半の日本駐在公使だった。
このときの大使がかのエドウィン・ライシャワーである。日本側では池田勇人首相が所得倍増計
画を高らかに叫んでいる時代だった。
私がエマーソンに何度か話を聞いたのは、彼が国務省から引退し、カリフォルニアのフーバー研
究所の上級研究員だったころ、1977年から78年にかけてである。日米両国間の経済や防衛
の摩擦が少しずつ浮上していた時期だった。切迫した目前の懸案についての私の質問に、彼は
その現象をまず現在から突き放し、歴史のプリズムにかけて、多角的な分析を示してくれること
が多かった。
スタンフォード大学の構内にあるフーバー研究所の日当たりのよいオフィスで、エマーソンはい
つも背筋をぴんと伸ばして座り、姿勢を崩さずにこちらを正面からみつめて話した。引退後も日
光に小さな別荘を持って、日本では毎年、欠かさず数週間を過ごしているという。
「東京を訪れるたびに、銀座などで大日本愛国党の赤尾敏氏が電柱にはりつけている政治ビラ
の文句をじっくり読むことにしています。彼のビラの政治スローガンには私はもう30年も注意し
ていて、それがどう変わってきたかをよくみてきました。彼の主張を支持はしませんが、その宣
伝文句は日本人の国際情勢に対する認識の変遷を判断するのに、実に貴重な指針となると思
うのです」
エマーソンがこんなことを一気に語ったので、意表をつかれたことをよく覚えている。随分とキメ
細かな、ユニークな観察をする人だなと感じたものだった。全体としては、日本や日本人にはごく
自然に好感を抱き、深い関心を保って、日米関係の円滑で友好な保持に努める、という印象の
人物だった。
《リマへ赴任》 しかしそのエマーソンも日米戦争中にはペルーの日本人の逮捕や連行に重要
な役割を果たした。日本軍のパールハーバー奇襲からまだ2カ月もたたない1942年1月下旬、
ワシントンの国務省本省勤務になっていたエマーソンはひそかにペルーに出向くことを命じられ
た。日米開戦の二カ月前まで東京のアメリカ大使館に在勤していた彼は、一時休暇でアメリカに
もどったが、日米の戦雲が急を告げ、そのままアメリカに残ることになった。そしてワシントンの
本省で働いていたのだった。
日本語の学習に没頭し、在日アメリカ大使館で日米間のぴりぴりと緊迫した外交交渉に末端と
はいえ、直接に関わってきたエマーソンは、ワシントンにいても視線を常に日本の方角へ向けて
いた。なのに、日本からは丁度地球の裏側にあたる、南米のペルーでの任務を命じられたので
ある。ペルー赴任の命令はエマーソンにとっては予想もしない事態だった。
そのときの模様をエマーソンは回想録『日本の糸』(日本語訳のタイトルは『嵐の中の外交官』)に
書いている。
「1942年1月のある日、国務省でも最も有能な極東専門家、ローレンス・ソールズベリーが、リ
マのアメリカ大使館が日本語を話す外交官が必要だと本省に求めていることを、私に告げた。そ
の1月に日本との国交を断絶したペルーの政府は、アメリカと同様に、ペルー在住の多数の日
本人が西半球の安全保障にとって脅威となることを深刻に懸念している。だがペルーでは日本
人以外には日本語がわかる人間が1人もいないのだという。上司のソールズベリーは私をじっと
みつめて『どうだ、リマへいく気はないか』と迫ってきた」
エマーソンがリマのアメリカ大使館に密かに赴任したのは、42年2月だった。南半球のペルーで
は丁度、夏の盛りである。彼が日本語に練達している事は特に秘密だった。妻のドロシーと3歳
の娘と、1歳の息子を伴ってのリマ赴任であった。エマーソンの任務は、まずペルーの日本人社
会の動きを密かに偵察することだった。
《商業で活躍》 そのころのペルーには合計2万6千人ほどの日本人が住んでいた。1940年の
国勢調査では日本生まれが17,598人、ペルー生まれの二世が8,790人、計26,388人とさ
れていた。リマのアメリカ大使館では42年はじめの時点で日本人、日系人の総数は密入国など
も含めて3万人ほどとみていた。
日本の移民が初めてペルーの土を踏んだのは、1899年(明治32年)4月3日だった。日本郵船
の佐倉丸が790人の日本移民を乗せて、カヤオ港に着いたのだった。大多数が農園での契約
労働者で、新潟、山口、広島などの出身が多かった。
その後、日本からの移民は着実に増え、沖縄、福岡、熊本からの人たちも多くなった。農園主と
の契約でやってくる契約農業移民が1923年に禁止となったが、日本からは呼び寄せなどの形
でなお移住が続いた。
ペルーの日本移民の特徴は、早い時期から農業を離れ、商業、工業、サービス業へと切り替わ
る人たちが多いことだった。1934年の時点では、日本人移民全体のなんと63%が商業分野で
活動していた。農業が28%。製造業が8%だった。この点はアメリカやブラジルの日本人移民と
くらべると、異色である。
日本人農民の多くはこつこつと自分で資金をためたり、頼母子講という相互出資の方式で資金
を得たりして、商業へ転進した。大多数が首都のリマに集中した。1930年代には食品店、雑貨
店、理髪店、ベーカリーなどはリマだけでなくペルー社会全体でも日本人が最も活躍する職種と
なった。そのダイナミズムが、地元住民の間に複雑な反応を生んでいった。
■ 豆事典
▽2・26事件 「昭和維新」により国家の改革を図った陸軍の皇道派青年将校による1936年(昭
和11年)2月26日のクーデター。斎藤実・内大臣、高橋是清・大蔵大臣、渡辺錠太郎・教育総監
が殺害された。青年将校らが率いる部隊は東京・麹町区(千代田区)永田町一帯を占拠し、27日
未明、戒厳令が施行された。しかし、27日に占拠部隊撤収の奉勅命令、28日には「反乱部隊」武
力鎮圧命令が下され、29日には鎮圧された。
▽エドウィン・ライシャワー(1910−90年) 元駐日アメリカ大使。東京生まれ。16歳まで日本で育
ち、その後もアメリカのオーバリン大学、ハーバード大学大学院で日本、中国の文化を学んだ。
戦後、ケネディ大統領時代の1961年(昭和36年)にハーバード大学教授から駐日大使に就任。
安保問題でほころびかけていた日米関係を修復して「ライシャワー時代」を築いた。66年に大使
を退いてからもアメリカを代表する知日派として日米友好に尽力した。
▽池田勇人(1899−1965年) 石橋湛山内閣、岸信介内閣の蔵相や通産相などを歴任した後に
1960年(昭和35年)から64年(昭和39年)まで首相を努める。岸内閣が倒れ、60年安保の政治
の季節が幕を閉じたところから出発した池田内閣は高度経済成長政策を推進した。
22 :
卵の名無しさん:02/05/06 21:57 ID:h0/fr71B
古森!おまえが出てくるからこのスレッドが永遠に続く。
おまえは沢井に恨みがあるんだろう!
23 :
卵の名無しさん:02/05/06 22:02 ID:NvUUzXdE
>>18 ん〜それは自分自身のことを言ってるんですね
■ アメリカとその敵 ペルーからの連行−5
運命を狂わせた運河への熱意
1898年(明治31年)のアメリカとスペインの戦争では、アメリカ海軍の太平洋艦隊がサンフラン
シスコから大西洋側のキューバ沖の海戦に加わるための緊急航海に、なんと68日をも要した。
南米最南端のホーン岬沖を通過しての気の遠くなるような大迂回だった。そんな遅滞への反省
はアメリカのパナマ運河の建設計画を一挙に早めた。
《重大な要衝》 アメリカは20世紀に入ってもパナマ運河に異様なほどの熱意をそそぎ続けた。
フランスが1880年代から保有していた運河建設の権利を買い受けたアメリカは、地元の関係
諸国との摩擦の曲折を経て、1907年から7年間かけて大運河を完成させた。マラリアや黄熱
病と戦いながらの炎暑の地での難工事には、陸軍工兵隊を投入した。運河の管理権はアメリカ
政府が固く保持した。
大西洋と太平洋と、アメリカにとって二つの世界を初めて67キロという短距離の水路で結んだこ
の運河は軍事上、経済上、中南米では最重視すべき要衝となった。そのパナマ運河へのアメリ
カの懸念が過熱してペルーの日本人の運命まで狂わせた。戦争となった際、日本側の手でパナ
マ運河が破壊されるようなことがあっては絶対にならない、という警戒心がエスカレートしたので
ある。
アメリカ政府は日米開戦の1カ月半前の1941年10月、パナマ政府から「アメリカから指示があ
り次第、パナマ政府は運河の安全確保のためにパナマ在住の日本人すべてを逮捕し、パナマ
領タボガ島に抑留する。抑留施設の建設と運営に必要な経費、抑留から生じる法的責任は、ア
メリカが全面的に引き受ける」と言う誓約を取りつけた。
駐パナマアメリカ大使のエドウィン・ウィルソンは当時、こんな秘密合意の成立を国務省本省へ
報告していた。いざ開戦となれば、日本人の外交官も軍人も移民も、すべて投網をかけるように
全面排除というわけである。
隣国のコスタリカの日本人についても同様の取り決めがひそかに結ばれた。合意どおりパナマ
とコスタリカ両国では開戦とほぼ同時に、日本人はみな危険とみなされ、全面逮捕された。この
方式がアメリカ当局のペルーにおける日本人対策でも大きな指針となった。だがパナマなどは
日本人が数百人単位という小人数だったのに対し、ペルーではその人数がずっと多かったこと
が、事態を複雑にしていった。
パナマ運河への心配とは別に、日本の精強な艦隊が南米の太平洋岸を急襲するのではないか
という予測も米軍の一部に存在した。ペルーでの日本人逮捕の陰の主役となるアメリカ外交官
ジョン・エマーソンも回想録で認めている。「あとからみれば信じられないことだが、当時はアメリ
カ軍は本当に日本海軍の南米海岸部攻撃を恐れていた。ひとつには開戦までの1年間に東京
のペルー公使館でペルー入国の外交ビザを47人の日本当局者に出したが、そのうち15人が
軍人だった事実がアメリカ側の警戒を高めることになった」
《過剰な反応》 日本とアメリカが開戦した後の42年1月下旬には、リマ駐在の日本大使館付き
武官がペルー軍参謀本部あてに出したという書簡も、アメリカ側の手に入っていたという。書簡
は、日本の連合艦隊が間もなくパナマ運河をはじめ南北アメリカの太平洋沿岸の主要軍事基地
を海空から攻撃し、南北大陸を往来する商船をも沈めると予告してペルーに中立を求めていた
というのだ。
エマーソンが「あとからみれば信じられない」と評したように、アメリカのこうした反応は今みれば
皆過剰であり、誇大だった。だが、パールハーバーで日本軍の奇襲により、太平洋艦隊の主力
を1日にして失った当時のアメリカのショックやパニックも、それなりに銘記すべきだろう。
いずれにせよ、この種のパニックがアメリカのペルーを含む中南米の日本人に対する敵視政策
を駆り立てた。その政策に国際的合法性の衣をかぶせようとする試みが、42年1月15日からリ
オデジャネイロで開かれた米州外相会議での決議だった。
南北アメリカ大陸の各国の外相が集まったこの会議では、アメリカの国務省と司法省が起草し
た「危険な枢軸国民の抑留と追放」と題する決議案が、ほぼ原文どおり採択された。中南米各
国は日本、ドイツ、イタリアという、アメリカにとっての敵国の危険な国民を西半球の安全保障
のために敏速に拘留する。拘留の施設が不十分な場合は、他国に送還し、拘留の権限をゆだ
ねる−という趣旨である。
送還先の他国とはもちろんアメリカを意味し、拘留の経費もパナマ方式で、アメリカ側が負担す
ることになっていた。
ペルー、コロンビア、メキシコ、エルサルバドルなど中南米14カ国が、この決議通りにアメリカへ
の送還を前提としての枢軸国民抑留を実施する意向を明らかにした。ブラジル、ウルグアイ、パ
ラグアイの3国は自国独自の抑留計画を実行すると表明した。
こうした中南米諸国間の対応の違いはブラジルの日本人、日系人人口が当時30万にも達して
いながら、なぜペルーの同胞とはまるで異なる道を歩んだのかを説明している。
ブラジルがまず太平洋に接していなかったことが、アメリカのブラジル在住日本人への関心をぐ
っと低くしたこともあったが、ブラジル当局がペルー政府とは違って、日本人、日系人の抑留に
意欲を示さなかったのである。
だがペルーでは南北アメリカ大陸がいまや日本軍の重大な脅威にさらされたというアメリカの恐
怖の認識の下に、ペルー政府自身の異様なほどの協力への熱意が加わって、現代史にも珍し
い大量の第三国在住民間人の連行と追放とが幕を開けたのである。
■ 豆事典
▽パナマ運河 1914年に開通した太平洋と大西洋を結ぶ運河。この運河の建設には、スエズ運
河の建設者として名高いフランスのレセップスらも挑戦したが、海面と内陸の高低差100メートル
というパナマ地峡の険しい地形と黄熱病、マラリアなどの熱帯病に阻まれて断念しており、その
後、アメリカが大工事の末、完成させた。運河は太平洋側に2つ、大西洋側に1つの3つの水門
を作ることで水位の上下を操作し、高低差の問題を解消した。パナマ運河の技術者たちは「スエ
ズ運河などはわれわれの運河に比べれば、単なる巨大な溝にすぎない」と語るほど、この技術
に誇りを持っている。パナマ運河管理権は建設時からアメリカが握っていたが、77年の米パナマ
新運河条約により、99年12月31日にアメリカが基地などに使っていた周辺14万ヘクタールの土
地や関連施設とともにパナマに返還される。
▽米州外相会議 アメリカは1930年代後半、フランクリン・ルーズベルト大統領の「善隣外交」に
よって中南米諸国の同意を得て、39年9月に第1回米州外相会議を開催。全参加国が欧州での
大戦に対する当面の中立の維持に合意した。42年1月のリオデジャネイロでの会議は第2回と
なる。
▽ブラジルの日系人 ブラジルへの日本人の移民は1908年(明治41年)に笠戸丸によって開始さ
れ、戦前だけで18万9000人、最盛期の1933−34年(昭和8−9年)には年間2万人以上が移住し
ている。戦争による中断をはさんで戦後は1952年(昭和27年)に再開。ブラジルは現在、海外で最
大の日系人社会(約130万人)を持ち、その多くがサンパウロ州、パラナ州に住んでいる。
27 :
卵の名無しさん:02/05/06 22:21 ID:j5pKHYQl
古森のおかげでゾロのスレッドがすごく増えたなあ (冷笑)
関係ないなあ(嘲笑)
■ アメリカとその敵 燃えあがる市民の反日感情
アメリカによるペルーからの日本人連行に関する日本側の資料で最も詳しいのは、東出誓一著
の『涙のアディオス』という回想録だろう。表紙には「日系ペルー移民、アメリカ強制収容の記」と
いう副題が日本語と英語で記されている。
1909年(明治42年)に北海道で生まれ、東京の保善工業(高校)を卒業した東出は、1930年に
ペルーへ移民として渡った。44年にアメリカへと連行された彼は戦後、アメリカに残るという道を
選び、シカゴで不動産業を営んで成功する。アメリカ市民権も取って、81年には日系人抑留補
償に関する大統領委員会の公聴会でペルー日系人の代表として証言し、ペルーからの連行や
抑留の不当をアメリカ一般に向けて初めて訴えるという重要な役割をも果たした。八十八歳とな
った東出はいまもハワイに健在である。
《悲壮な覚悟》 「ペルーの日本人抑留について新聞に書いてくれるのは大歓迎ですよ。私の本
も自由に使ってください」ワシントンからホノルルの東出に電話をすると、びっくりするほど元気な
声が返ってきた。こちらの補足の質問にも、簡潔明快に答えてくれた。
東出は日米開戦当時、リマ南東のイーカ市で洋品店を開いていた。日本の短波放送で対米宣
戦布告の報を聞いた彼は、事の重大さに身の引き締まる思いを感じたことを回想記に詳述して
いる。
「アメリカ合衆国傘下のペルーに住む私たち日系人は、いつどのような事態に見舞われても、文
句のいえない立場に追いやられてしまった。腹だけはくくっておかねばならない。しかし腹をくく
るといっても、一年前に起きた排日暴動の記憶が生々しく残っていたときだけに、その覚悟たる
や、とても言葉ではいいがたいほど悲壮だった」
彼がここで指摘する排日暴動はペルーの日本人連行の背景を考えるうえで、非常に重要であ
る。アメリカが連行を推し進めるプロセスではペルー政府が一貫して異様なほどの熱意を示し続
けた。マヌエル・プラド大統領はペルー在住の日本人、日系人すべてを国外へと排除することを
アメリカ側に何度も、何度も提案していた。
プラドのそんな姿勢は、当時のペルー社会に急速に広がっていた日本人移民への激しい反感に
も発していた。その反感の爆発が一九四〇年五月十三日のリマでの大規模な排日暴動だった
のだ。
この暴動は日本人の海外移住の長い歴史でも特記される大惨劇となった。その原因は多層だ
が、日本人の急激な経済進出も背後では明らかに作用していた。
ペルーは本来、原住のインディオと各種の移民が築いた国だから、移民が経済的に進出するこ
と自体には問題はなかった。だが日本人の場合、移民集団としては四十年たらずの歴史しかな
い新参だった。それなのに農業からいち早く商業や小工業に目ざましく転進し、しかもリマをはじ
め都市部にその活動を集中させた。
どの都市でも雑貨店や小食堂は日本人の独占経営で、タナカ、ヒガ、ヤマシロといった商号が大
きく記されていた。首都のリマで日本人はとくに成功し、目立つ存在となった。 日本人経営の
雑貨店は貧しいペルー人が必要とするあらゆる品物を売り、日本人は貧乏人の犠牲で生計を立
てるという恨みの声さえを生んだ。そのうえに日本人は都市ですでに確立されていた小商業活
動の秩序を突き崩す形で進出を重ねていったから、別の方角からも反発を受けた。
日本人側からすれば、刻苦によるささやかな商売ではあっても、それより先に社会の下層から
やっとはい上がった弱小のペルー人商店主たちへの打撃は深刻だった。これら商人層はのんび
りと楽天的な貧困層とは異なり、個人のおん念を政治的にあおりたてる術を知っていた。
《強い閉鎖性》 当時の日本人社会はそのうえに、東出が自著で率直に認めているように、閉
鎖性が強く、ペルー人の一般社会には容易になじもうとしなかった。リマでインタビューした日系
三世女性の人類学者アメリア・モリモトも戦前の日本人社会のそんな特徴を指摘した。モリモト
は日本人移民の歴史を専門に研究し、著作も多い。
「日本人移民の大多数はやがては日本に帰りたいと考え、子供の出生届も日本領事館だけに
出して、ペルー国籍を求めない傾向が強かったのです。子供をあえて日本へ送り、日本の教育
を受けさせるケースも多かった。ほとんどの人は大日本帝国の臣民としての意識も明確だった。
出稼ぎという考えが強いため、スペイン語もできず、自分の店の従業員に日本人のみを雇うのも
普通でした」
たしかにアメリカへ連行された人たちをみても、家族を除けば圧倒的多数は日本国籍だった。こ
の連載で「ペルーの日系人」というよりも「ペルーの日本人」という表現をあえてより頻繁に使っ
てきたのも、そのためである。 だが、いくら経済進出が過激で特異であっても、ペルー社会に
対し閉鎖的であっても、それだけで迫害の対象になってよいはずはない。事実、リマの排日暴動
にはほかにも、直接の引き金となる出来事がいくつかあった。まず大きかったのは、日本人社会
の内部で起きた暴力ざたの激しい争いだった。
1939年当時のリマには日本人理髪店が乱立していた。全市で195店のうち140までが日本
人経営だったという統計もある。日本人社会でも理髪店は飽和状態で、日本人理髪業組合長の
比嘉敬次という人物が39年5月、リマ市役所に働きかけ、日本人経営22店に閉鎖命令を出さ
せた。過当競争の防止が動機だったが、直接の理由は衛生状態の不備などとされていた。
日本人理髪業界には比嘉組合長とかねて対立する派閥があった。閉鎖命令を受けたのはこの
派閥のメンバーだった。そのリーダーは古屋時次郎という理髪店・美容院の経営者だった。彼も
また比嘉と同様、気の強い人物で、旧知のペルー人の有能な弁護士に頼んで閉鎖命令の撤回
に成功する。この比嘉対古屋の対立が理髪業界から日本領事館を巻きこんで、ものすごい衝突
となり、一般ペルー人の反日感情を燃えあがらせていった。
古森ってガイキチさん?
■ 豆事典
☆短波放送 電離層で反射して数千キロ遠方に届く性質がある短波は長距離放送に向いてお
り、第2次世界大戦前にドイツが宣伝放送に使ったことから注目されるようになった。日本では
昭和10年(1935)、日本放送協会が「海外放送−ラジオ東京」として太平洋沿岸に向け日本語・英
語で放送を開始。戦後の昭和20年9月にGHQ命令で停止されたが、27年2月に再開している。
☆対米宣戦布告 ハーグの「開戦ニ関スル条約」(1907年)で、敵国政府への事前の文書通告な
しの開戦は禁じられたが、1941年(昭和16年)12月6日午後8時半から在米日本大使館に約22時
間かけて送信された対米最後通告は井口貞夫参事官、奥村勝蔵・松平康東・寺崎英成各書記
官らが不在で電信が放置されていたことから7日午前中(米東部時間)の解読・浄書に手間取り、
ハルアメリカ務長官への手渡しが真珠湾攻撃開始に約1時間遅れた。このため、米側は事前に
暗号解読で内容を知っていたにもかかわらず、日本はだまし討ちの汚名を受けた。この点につ
いて米側は「最後通告がくることはわかっていても、真珠湾が攻撃されることはわからなかった」
と主張している。
☆インディオ 紀元前1万4000年ごろ、アジアからベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に移住し
たとされる民族。コロンブスが新大陸でインドに到達したと思い込み、インディオと呼んだ。広義
にはアメリカインディアンも含まれ、狭義には中南米先住民のみを指す。白人との混血が進み、
人種的区別は難しいが、ラテンアメリカ全体で約1800万人と推定される。
☆イーカ リマの南約300キロ、太平洋に注ぐイーカ川の中流に1563年に建設された町。周囲の
乾燥地帯はペルー最大の綿作地帯となっており、綿花などの集散地として発展した。
■ アメリカとその敵 ペルーからの連行 (7)
日本領事が強制送還を告げた
「金大中事件とそっくりですよ。なにしろ日本人領事が先頭になってペルー在住の日本人の身柄
を押さえ、本国へ強制送還しようというんですから。あのときの怒りはいまも絶対に忘れません」
船津孝があまりに熱をこめて語るのに、たじろがされた。彼は1939年(昭和14年)、ペルーの
首都リマで、日本人理髪業界の内部対立から発展した大事件の核心にあった人物なのである。
今もリマ在住の船津はもう87歳だが、58年前の事件を語る時は、すっかり青年の口調だった。
《便箋32枚》 熊本出身の船津は20歳でペルーに渡った。一般移民とは異なり、当初は留学
生としてリマのカトリック大学に入り、学業を終えてからも現地に残り、小さな貿易業を開いた。
彼は事件の体験の詳細を32枚の便箋にびっしり綴っており、「これをぜひ読んでください」と手
渡した。この手記を他のいくつかの記録と照合すると、事件の展開は以下のように要約できる。
リマの日本人理髪業界の比嘉敬次と古屋時次郎の対決に日本領事の佐藤舜が介入した。当時
の日本人社会で日本領事といえば、強大な権力の持ち主である。船津の評だと「唯我独尊の独
裁者として在留民に君臨」ということになる。実際に日本領事が日本移民を地元の法律を無視し
て日本へ強制送還した例がその前にもあった。
理髪業界の事件で佐藤領事は比嘉側を支持した。理髪業組合長の比嘉は現地採用の領事館
員の早坂久を顧問として雇っていた。また、古屋が日本赤十字社から依頼を受けて行っていた
ペルーでの募金業務を佐藤が領事館へ移管させたことから、かねてから古屋と佐藤が対立して
いたという事情もあった。
領事がいったん、旗幟を鮮明にすると、日本人社会の多数派もどっと古屋糾弾に傾いた。古屋
は日本人会からも理髪業組合からも除名された。当時の日本語新聞、『リマ日報』と『ペルー時
報』も比嘉側を全面支持して、反古屋キャンペーンをはった。だがペルー国籍を得て、リマ政府
の要人とコネのあった古屋も反撃し、比嘉側を名誉棄損でリマの裁判所へ訴えて、騒ぎは大きく
なった。
39年9月、裁判が始まりつつあるなかで、古屋は自分の主張を日本人社会にアピールするため
独自に声明書を出すことを考え、その起草を知人の船津孝に頼んだ。船津が書いた声明書は
数千部が日本人社会に配布され、このことがまた佐藤領事を激怒させた。佐藤領事は比嘉側の
意向を受ける形で古屋と妻の理江、船津の強制送還を密かに決め、12月26日にカヤオ港を出
る日本郵船の銀洋丸に三人を乗せる計画を立てる。
12月25日夜、比嘉、早坂ら十数人は古屋宅を襲い、古屋夫妻と住み込みのペルー人美容師
マルタ・アコスタ、見習いのユゲの4人を無理やり日本領事館へ連行した。その間、比嘉腹心の
坂田若松らは古屋を殴打し続け、止めようとしたアコスタをも強く殴りつけた。
佐藤領事は古屋夫妻に日本人社会の秩序を乱すという理由で強制送還の決定を告げ、銀洋丸
へと連行させる。一方、船津も領事館に呼ばれ、佐藤から直接、日本への送還を命じられて、銀
洋丸に乗せられた。
その間、領事館から解放されたアコスタは理江の指示で古屋夫妻と親交のあったペルー人の弁
護士と外務省高官に訴える。弁護士らは銀洋丸へ急行し、ペルーの法を無視してペルー市民ら
を誘拐したと抗議する。緊迫したやりとりの末、古屋夫妻と船津は一度は下船を許されるが、ま
た日本側に捕まる。ペルー側は最後は海軍の艦艇まで動員して、港を出ようとする銀洋丸を止
め、強引に3人の身柄を引き取った。
《偽りの報道》 このような経緯だった。異様な出来事にせよ、これだけなら日本人社会の内紛
として収まったかもしれないが不運にもアコスタ美容師が殴打の負傷が原因で死んでしまった。
彼女の縁続きの人物が経営する週刊新聞が、まず「若きペルー女性が日本領事館に監禁され
て日本人暴力団に殴り殺された」と大々的に報じた。他の新聞や雑誌もこれに続き「日本領事ら
によるペルー女性殺人」としてキャンペーンを展開し、ペルー社会には日本政府や日本人移民
への怒りや憎しみがどっと火の手をあげた。
日本側にとってさらに不運だったのは、ペルーの新聞各紙が反日報道を過熱させ、明らかに根
拠のない「スクープ」を連日、派手に載せたことだった。「日本人は極秘に大量の武器をチンボテ
港(ペルー北部の港)に陸揚げし、リマ市内に隠している」「日本はペルー国内に治外法権地域を
設け、日本の法律を適用している」「日本の第五列(敵国に潜入し自国の軍事行動を助ける組
織)がすでにペルー各地で暗躍している」−といった報道である。
《激しい略奪》 時は1940年春、ヨーロッパでは日本と同盟したドイツが目ざましい戦勝を重ね
ていた。かつて、日本から兵器を買い、菊の紋章の入った戦車や大砲を自国の陸軍が使ってい
たペルーにとって、日本の軍事力の強大さはよくわかっている。アメリカ寄りの立場を鮮明にす
ればするほど、日本の脅威は大きくなる。
こんな土壌の上に爆発したのが40年5月13日のリマでの排日暴動だった。まずシマ市内グア
ダルーペ高校の生徒たちが手に手に日本を非難するスローガンを書いたプラカードを掲げ、街
頭を行進した。一般市民がこれに加わり、ふくれあがった。この集団は市内各地域で日本人の
各種の商店に石を投げ、打ち破り、侵入して、商品を略奪した。戸を下ろした商店にはトラックで
突入した。
暴徒の数は増し、リマから隣接のカヤオ市にまで攻撃の対象は広がった。日本人の商店だけで
なく住宅も襲われ、窓ガラスから床板まではがして持ち去るというすさまじさとなった。狙われた
のは日本人、日系人だけで、同じアジア系でも中国人の店にはまったく攻撃は及ばなかった。
日本領事館がペルー外務省を通じて、警察の保護を求めたが、不思議なことに警察は全く動か
なかった。略奪は翌5月14日まで続き、軍隊が鎮圧に出動する構えをみせるに至ってやっとお
さまった。
被害を受けた日本人は約620世帯、うち500人ほどは日本人小学校に避難した。再起不能と
なった54家族316人は2カ月後、みずから望んで、日本へ帰っていった。
■ 豆事典
☆領事 大使など外交使節と違って自国を代表し相手国と交渉する権限はないが、外交関係
が断絶しても領事関係は存続しうる。主な任務は自国民の商工業上の利益の保護で、領事に
は外交特権に準じた特権も認められている。しかし外交官・領事には自国民が対象でも、相手
国内で身柄拘束・強制送還・捜査活動をする権限はなく、その種活動は国際法にも違反する。
一方、船舶は「旗国主義」で公海・他国領海通過中は船籍国の主権下にあるが、入港中は寄港
国の主権が限定的に及ぶとされ、自国民拉致(らち)の十分な嫌疑のある船の出港を阻止するた
め軍艦を使用しても国際法違反とはみなされない。
☆金大中事件 昭和48年(1973年)8月8日、東京・九段のホテルグランドパレスで、韓国新民党
の金大中議員が韓国の情報機関(KCIA)要員に拉致された事件。金大中氏は目隠しのまま大
阪港から小船で韓国船「竜金号」に移され、13日夜になって韓国の自宅近くで解放された。昭和
48年の金鍾泌首相の謝罪特使来日、50年の宮沢外相のソウル訪問で“政治決着”が図られた。
平成5年(1993年)10月に金大中氏が来日、警視庁公安部の事情聴取に被害届を提出したが、そ
の後の進展はない。
☆銀洋丸 大正10年に横浜の浅野造船所で東海汽船の客船として建造、総トン数8600トン。大
正15年の合併で日本郵船籍へ。太平洋航路に就航したが昭和18年12月、台湾・高雄に向かう
途中、高雄南南西沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没した。
☆第五列 スペイン内乱で4個部隊を率いてマドリードを攻めたフランコ派モラ将軍の「市内に
はわれわれに呼応する第5の部隊がいる」という言葉から、敵中で進攻部隊に呼応し謀略活動
を行う不正規部隊をさす。
36 :
卵の名無しさん:02/05/06 23:59 ID:NvUUzXdE
ほんとアホな会社だと思う
何もせず放置しておけばよいものを
ここまでコピペするとは
沢井の社員がやっているってことを言っていると
同じこと.
所詮ゾロ会社だからしかたがないのかな?
せいぜい頑張って.
沢井の社員数と2chの見てる人の数どっちがおおいかな?
いつまでもこんな状態続くよ.
そうするとますます沢井はあほ企業だってわかるよ
まぁすでにあほ企業ってわかってる人が大半ですが
ここで沢井の社員は嘲笑って書くのかな?あまりにも稚拙すぎる
社長が社長だから仕方が無いね
■ アメリカとその敵 ペルーからの連行−8
暴動が人種偏見に火をつけた
1940年(昭和15年)5月のリマでの排日暴動はペルーの日本人社会の立場を根底から変える
ほどの衝撃的な事件だった。日本人の海外移住の歴史を通じて見ても、歴史的な大惨事だった
といえる。
さてこの「排日」という言葉からすぐ連想されるのは「人種偏見」とか「人種差別」である。リマの
事件のように、日本人集団が海外で迫害されると、その原因としてまっ先に指摘されるのは人種
偏見という場合が多い。日本の識者の間には特にそんな傾向が強い。アメリカがらみのケース
に関して、それはことさら顕著である。
アメリカを眺める日本の識者は往々にして、歴史上の出来事に限らず、現代の事件でも、不祥
事の背景の解明にはまず人種偏見の要因をあげ、それが全てであるかのようにして片づける傾
向があるが、そんな場合の人種偏見とは必ず、いわゆる白人の黒人やアジア人に対する差別
意識である。
私は、人種偏見は目にみえにくく、数量で量り難い部分が大きいと思うので、物事の理由の説明
に使うには雑になりがちであり、他の要因を見失いやすいから、トラブルをなんでもかんでも白
人の有色人種への偏見に帰する傾向には危惧を感じてきた。
この種の人種偏見論は日本の進歩的人士がアメリカがらみで気に入らない事件や理解できな
い出来事が起きると、よく調べもせずに「CIAの謀略」と断じる癖によく似た側面がある。人種偏
見もCIAもそもそも捉え難く、決して反論はしてこないから、悪者にするのが簡単で安易なのだ。
白人が有色人種を差別し、抑圧し、搾取してきたことは歴史の事実である。白人対有色人種の
摩擦から派生する問題が20世紀の世界にとって主要課題の一つだったことも疑いはない。だが
有色人種の側にも人種偏見はあり、差別も存在する。有色異人種同士の反感や憎悪もときに激
しい。私がここでこんなことをあえて論じるのは、57年前のペルーの排日暴動を人種偏見だけ
で理由づければ、大変なミスとなるからである。暴動は人種偏見そのものとは別の諸要因から
起き、むしろそれがあとから人種偏見に火をつけるかたちになった感じが強いのだ。
当時、リマ在住の東出誓一は自書『涙のアディオス』のなかで「排日暴動のきっかけを作ったの
は日系人」と総括し、その契機は日本人社会の内紛や日本領事が仕組んだ強制連行にある、と
の判断を詳述している。
暴動はその後、日本国内でも反響を呼んだ。41年2月の国会で静岡県選出の山崎釼二代議士
が大橋忠一外務次官に日本領事の行動が一般ペルー人の反日感情を生んだとして、糾弾して
いる。大橋も答弁でその因果関係を認めた。
「ペルーにおける排日暴動の裏に複雑な関係がありまして、日本領事館員が関係していること
は私も聞きました。聞きましたが、そういうことをあまり表面に出すと、恥さらしとなり、国家のた
め、在留民のためにおもしろくない。ただ在留民の取り扱いは日本の法律に準ずるものではあり
ません。日本の領事館は現地で本来なんら権力は持っていないことは明白であります」
時の外務次官が暴動の原因について、日本領事館が介入した暴力事によってペルー女性を死
なせたことにあるという経緯を認めたのである。現地では暴動が起きてから日本人への反感が
露骨となった。ペルー人の子供たちまでが日本人を「チーノ・マカッコ」と呼んで、平然と侮辱する
ようになった。
「チーノ」とは本来は中国人という意味だったが、東洋人ということで日本人にも適用し、奴隷と
いう意味の軽蔑語「マカッコ」をつけて、特に日本人に的をしぼって「東洋人の奴隷野郎」という
感じで頻繁に街頭でも口にされるようになった。暴動前にはない現象だった。
東出は「軽蔑の極致のひどい言葉を小さな子供にまで浴びせられ、それでもただひたすら小さく
なって生きる」ことが当時の日本人、日系人の実情だった、と書いている。暴動の10日ほど後に
ペルーは大地震に襲われ、迷信深い人たちは日本人を略奪した罰だろうとおびえたが、なお反
日の潮流を変えるにはいたらなかったという。
更に興味あるの事実は、暴動の最中でも後でも、日本人迫害の先頭に立ったのが白人ではな
かったことだ。ペルーは原住民のインディオとスペイン系の白人と、その両者の混血とで国民の
95%以上を占めてきた。排日暴動の当時、17歳だった中尾・ロサ芳江は語る。
「暴動のころ私はリマで学校に通っていましたが、日本の商店を襲ったのは原住民の人たちが
多かったですね。白人は貧乏ではないせいか、暴動騒ぎでは、ほとんど姿をみた記憶がありま
せん。暴動後に私たちを『チーノ』とののしったり、いじめたりする子供たちもどういうわけか、ほ
とんど白人ではありませんでした」これまた人種差別といえば自動的に白人の偏見のみと断じる
傾向がいかに短絡かを示す歴史の実例だろう。
さて、日米開戦後のペルーの日本人の逮捕はこうした対日感情のなかで始まった。逮捕に先だ
ち、1941年12月24日、ペルーの2大新聞に、まず日本、ドイツなど枢軸国系の危険人物なる
約30人のブラックリストが載った。アメリカ政府の意向を受けた枢軸側資産凍結をからめてのリ
ストだった。
本格的な逮捕の開始はペルーが日本に対する国交断絶を発表した42年1月24日の直後から
である。日本の公使館、領事館は閉鎖され、スペイン大使館が利益代表を請け負った。逮捕は
当然、日本の政府や軍に近い人間から始まる。日本陸軍関連の国策会社だった昭和通商職員
の船津孝もその逮捕第一陣に入っていた。船津は今、リマの自宅で当時の模様を語る。
「1月26日夜、日本公使館で陸軍武官らと送別会をひっそりと開いていると、『日本人が捕まり
始めた』という電話連絡がありました。武官らにリマの警察本部で事情を探ってこいと命じられ、
いってみると、知りあいの刑事が『これが逮捕者のリストだ』といって書類をみせてくれた。一読
すると、なんと私の名前もあるのです。その後、覚悟して、着替えなどを取りに自宅へ戻ると、も
う別の刑事たちが張り込んでいて、闇の中でピストルを突きつけられました。いよいよくるべきも
のがきたという感じでしたね」
■豆事典
▽CIA(米中央情報局) 国防総省・国家安全保障会議などとともにアメリカのトルーマン大統領
が国家安全保障法(1947年)で設立した大統領直属の世界最大の情報機関。冷戦期には主にソ
連の軍事、政治、経済に関する情報収集に力を注いだほか、共産主義の脅威の拡大への対抗
策として政権転覆などの謀略工作も行った。人員、経費、活動内容は議会にチェックされるが、
一般には非公開となっている。
▽大橋忠一(おおはし・ちゅういち=1893−1975年) ハルビン総領事、満州国外務局長官を経
て昭和15年(1940年)、松岡洋右外相就任とともに外務次官に就任。しかし、翌年の松岡の外相
辞任とともに次官から退いた。戦後は公職追放にあったが、昭和27年(1952年)から衆議院議員
に3期連続当選した。昭和34−36年にはカンボジア大使も務めている。
▽山崎釼二(やまざき・けんじ=1902−58年) 静岡県出身の社会運動家で、戦前の衆議院議
員。戦後は日本社会党の沼津市議の後、離党し昭和29年(1954年)にブラジルに移住。
▽在米日本資産凍結 国家が金銭、土地、証券など資産の処分、移動を禁止する措置を資産
凍結という。戦時には資産凍結を発令し自国内にある敵国人の資産を接収または管理すること
はしばしば行われる。在米日本資産の凍結は1941年(昭和16年)7月26日、アメリカのフランクリ
ン・ルーズベルト大統領が、日本の南部仏印進駐の企図に対抗する措置として発令。米、英、オ
ランダはそれ以前からタイ、仏印(現ベトナム、ラオス、カンボジア)、蘭印(現インドネシア)の錫・
ゴム・マンガンなどの戦略物資の対日輸出を極力制限する政策(ABCD包囲網)をとっており、英
国とオランダもアメリカに続いて対日資産凍結を発令した。
>>36 社長がアホだと社員までがアホに見えてしまうと云いたいのかな。
■ アメリカとその敵 危険な敵性外国人−1
書簡は日本人警戒を訴えた
1942年(昭和17年)2月に、ペルーへ密かに派遣されたアメリカの外交官ジョン・エマーソンは、
早速日本人を対象に「危険な敵性外国人」の選定に取りかかった。日本の文化や風土をこよ
なく愛し、日本人に友人知己が多かった彼も、戦争では日本を敵とし、その打倒をめざす任務
に熱意をそそいだ。
彼が首都リマで最初に足を運んだ場所のひとつは市街中央のサンマルティン広場だった。独
立の英雄サンマルティン将軍の銅像が立つこの広場の界わいはスペイン統治時代の面影が
濃いが、広場に面した高級ホテルのバーやロビーには、きちんとした服装で髪を短く刈りこみ、
体格のよい男たちの姿が目立った。アメリカの政府や軍の関係者だった。
司法省管下のFBIや、陸海軍所属の諜報部門から、それぞれ秘密裏に派遣された係官は、エ
マーソンが考えていた以上に数多く、みな試行錯誤を繰り返しながら、日本やドイツの側につく
危険分子を見つけだそうと努めていた。だがその活動は思うように進まず、高級ホテルの一角
で、お互いに情報を交換することが多かった。
エマーソンの責任は大きかった。3万人に近いペルーの日本人の言動をチェックするアメリカ、ペ
ルー両当局全体を通じ、日本語がきちんとわかるのはなんと彼一人だったからである。エマーソ
ンも当初はペルーの日本人たちを、大日本帝国のためにアメリカ・ペルー側に対する破壊工作に
も手をつけかねない潜在的危険を有する集団とみていた。
三等書記官のエマーソンによる報告を基に、リマのアメリカ大使館がコーデル・ハル国務長官宛
に送った42年4月の書簡は、日本人の危険を強調していた。「ペルーの日本人たちの強固さと
能力とはこれまで極めて過小に評価され、彼らの狂信的な精神は真剣に認識されてこなかった。
彼らの実際の危険に対する警戒も少なく、アメリカ政府側も積極的な対抗措置をほとんどとらな
いできた」
ペルー駐在のヘンリー・ノーウェッブアメリカ大使の名による同書簡はその上で、日本人社会の
リーダーたちの排除と、ペルー側に向けて日本人の危険性を強調するプロパガンダの展開とを
訴えていた。とくにプロパガンダについてはエマーソン自身がノーウェッブ大使あてに、アメリカ
大使館の関与を隠してペルー側に資金や材料を与える方法を具体的に進言していた。
エマーソンは回想録ではこうした進言や警告には直接、触れていないが、地元の有力紙『コメル
シオ』に「イジン(異人)」というペンネームで日本の民族主義の危険を説く論文を載せたことを記
している。かつて彼が英語で書いた論文をスペイン語に訳して掲載したわけである。それを読ん
だ日本人の一人が理髪店で「このイジンという筆者は日本に住んだ経験があるに違いない」とも
らしたことがエマーソン自身に事後に伝えられたという。 こうした地元紙への「寄稿」は彼が大
使に進言した反日プロパガンダの典型だといえる。この種のアメリカの工作がペルー国民の間に
「日本の第五列の破壊活動」とか「武器の秘密貯蔵」という黒いウワサをさらに広げたのだろう。
エマーソンのもとにはペルー当局からの日本人に関する情報もどっと寄せられるようになった。
警察が一時押収した日本人あての手紙が彼のところにひそかに持ちこまれることも多くなった。
ただし彼は日本語を集中的に習得したとはいえ、読み方となると、楷書を勉強しただけで、草書
ふうの文字には慣れていなかった。日本人同士の手書きの書簡は一読しただけでは、まったく
わからないことも多かったが、「日本語の専門家」といわれていたため、読解できない手紙があ
ることは同僚たちにも秘密にし、「辞書と想像力を駆使して」必死で処理を試みた。
「だが、どの手紙をみても爆破計画、秘密会合、暗殺工作、暗号発信などの存在を示す記述は
なく、ペルー警察当局を失望させることとなった」回想録でこう述べるエマーソンは、ペルー側か
ら「これこそ日本人の謀略工作の証拠だろう」と渡された手紙が実は結婚式の招待状だと判明し
たという経験を明かし、もし彼が勝手に「日本人の陰謀」をでっちあげても、だれもその真偽は判
定できなかっただろうと認めている。
それでもエマーソンは国外追放の対象となる「危険な敵性外国人」のリストを作っていった。破壊
工作などの罪を立証する材料がないため、日本人社会での指導力とか影響力を「危険な敵性」
の基準とする以外になかった。だからまず日本人会組織の幹部、県人会の幹部、日本人商工業
界の有力者などを自動的にリストアップしていった。
ペルー側はこのリストに基づいて日本人を逮捕し、やがてアメリカへ強制移送したが、腐敗で定評
のあったペルー官憲関係者が日本人側からのわいろで簡単に逮捕する人間を入れ替えたり、
抑留した人間を解放してしまったりすることが米側にわかり、アメリカ関係者が日本人連行により深
く関与せざるをえなくなる。 エマーソンはペルー各地の日本人社会を調査して回った。リマの
中国大使館のジョージ・ウーという外交官とコンビを組み、地方を旅することが多かった。
国民政府下の中国は当時、日本の宿敵であり、日本と戦うことならなんにでも熱意をみせて、米
国に協力した。ペルー在任の長いウーのスペイン語能力やペルーに関する知識、コネはエマー
ソンにとって重宝だった。とくに各地の中国人移民は日本人社会に隣接して活動する場合が多
く、ライバルにとって不利となる情報の提供には非常に積極的だった。エマーソンはこの時期を
「これほど美味な中華料理をこれほどふんだんにもてなされたことは、一生でもほかにない」と述
懐している。
エマーソンはリマ市内の高級住宅地の広壮な官舎に数人の使用人を与えられて家族と住んだ。
到着後にすぐ四歳となった長女ドロシーがスペイン語の環境にとまどい、自分の小部屋に閉じこ
もって、しばらくは口をきかないこともあった。エマーソン自身はわずかな余暇の時間を少年時
代から学んだピアノ演奏で費やした。ハンガリーから亡命したピアニストやオーストリアからの指
揮者と交友し、ショパン、モーツァルト、バッハなどを弾いて、みずからを慰めたという。
■ 豆事典
▽コーデル・ハル(1871−1955年) 大学を卒業後、弁護士となり、1898年には米西戦争に義勇
兵として従軍した。1907年には、民主党下院議員、また31年に上院議員となり、33年からフラ
ンクリン・ルーズベルト政権の国務長官に就任した。40年の日独伊三国同盟以来、対日交渉で
日本の中国進出に厳しい態度を取り続け、「アメリカが石油供給を保証したら南部仏印から撤兵
する」との日本の対米乙案を拒絶して、41年11月26日に「支那・仏印からの全面撤兵」「重慶
政府(蒋介石)以外の不承認」「三国同盟の死文化」などを日本に要求する「ハル・ノート」を野村
吉三郎大使に突き付けた。経済問題・所得税法の権威で自由貿易論者でもあり、国連の樹立に
尽力した功績で45年ノーベル平和賞を受賞した。
▽サンマルティン将軍(1778年−1850年) 両親がスペイン人のアルゼンチン軍人で、ベネズエ
ラのシモン・ボリバルとともに南米のスペインからの独立運動の最大の英雄とされる。1813年に
アルゼンチン独立運動に身を投じ、1917年には同国西部から軍隊を率いてアンデス山脈を越え、
スペイン軍を撃破してチリを独立に導いた。さらにチリから約4500人の艦隊を率いてリマに進攻、
ペルー独立を宣言した。しかし、ペルーでは王政採用を主張してボリバルと見解が対立し、フラ
ンスに去った。
▽コメルシオ紙 1839年創刊の日刊紙で、現在の発行部数は約12万部。ペルーでは最も発行
部数が多く、最も権威ある新聞とされている。創刊当時は奴隷解放と先住民租税免除などの論
陣を張ったリベラルな伝統を持ち、現在は中立・公平を社是として、フジモリ政権に対しても是々
非々の態度で臨んでいる。
■ アメリカとその敵 危険な敵性外国人−2
「日本人排除は正当化される」
近代史で「敵性外国人」の抑留が初めて国の政策として体系的に実行されたのは、1870年か
ら71年にかけてのフランスとプロイセンの戦争だった。戦争の当事国が自国領や関連地域に
いる敵国の国民を官民を問わず「敵性外国人」と断じ、そのうちの危険とみなした人物を逮捕
し、抑留し、多くの場合、敵国との間で身柄の交換をするという慣行である。
この慣行は1914年からの第一次世界大戦で交戦国の権利として国際的にも認知され、各国
がこぞって実施した。途中から参戦したアメリカもドイツ人など計6300人の敵性外国人を逮捕
し、うち2300人を抑留している。第二次大戦でもアメリカにとってこの問題は参戦前から真剣な
関心の対象となった。ドイツや日本と戦争になった場合、アメリカ国内の敵性外国人への対処
は司法省が主にあたるが、相手国で敵性外国人となったアメリカ人の扱いは国務省の任務と
なった。
そのために国務省内に設置されたのが「特別戦争問題部」である。特別部と略称されたこの部
門は、ドイツがポーランドに宣戦する前の日、1939年9月1日に新設された。戦争となった際に
ドイツや日本の国内や占領地域にいるアメリカ人の安全を図ることがその主任務だった。同時
に、アメリカ側の手中に入る敵性外国人を扱う作業にも、司法省を助けて関わることになるのだ。
その一環として、中南米の日本人やドイツ人への対処も、この国務省特別部が司法省管下の
FBI特別諜報部とともにあたることになった。だからペルーに送られた外交官ジョン・エマーソン
もこの国務省特別部から命令を受けることが多かった。
《強い愛国心》 特別部の最高責任者には民主党の大物政治家ブレッケンリッジ・ロングが国務
省の特別次官補として任命された。時の民主党大統領のフランクリン・D・ルーズベルトとも、国
務長官のコーデル・ハルとも親交の深かったロングは、排外主義に走りがちなほど強烈な愛国
心の持ち主とされ、ペルーの日本人対策でも強硬派としての影響力を発揮し続けた。 「中南米
にいる日本国籍の民間人も日本への公式送還の対象となりうる。その場合、それら日本の民間
人の身柄がアメリカ内にあった方が便利となる」
「ペルーからアメリカに送られた日本人の処遇に対して、日本政府から抗議された場合には、ペ
ルー政府が国外追放した日本人を単に受け入れたにすぎない、と反論すればよい」、「ペルーか
ら日本人を排除するための措置はすべて正当化されるだろう」
ロング特別次官補は一九四二年一月末から八月にかけて、こうした考えをアメリカ政府部内で表
明し、ペルーの日本人抑留を進める作業の本来の主役だった司法省よりもずっと強固な姿勢をと
った。ハル国務長官も一時はロングの意向に同調して、「中南米諸国にいる日本人をすべて国外
に退去させ、アメリカに抑留することはアメリカの国益に合致する」という進言を42年8月、ルーズ
ベルト大統領あてに送っている。
《旅行も禁止 》 当時の副大統領ヘンリー・ウォレスの言動もペルーの日本人には不運なイン
パクトを投げた。ウォレスは42年2月ごろには、どういうわけか日本軍がペルーの日本人社会
を拠点に南米での攻撃を開始する、という「予測」を口にするようになった。そんな警告をルーズ
ベルト大統領に書簡で伝えたこともあった。
ちなみにこのウォレスという農業技師出身の政治家はルーズベルト政権でも最左翼のリベラル
派で、ソ連との密接な協力を提唱した。第二次大戦後のトルーマン政権のソ連への対抗策に反
対し、アメリカの共産主義者の支持まで得て、48年には「進歩党」を結成し、大統領選挙に出馬
する。朝鮮戦争ではアメリカの参戦に反対したが、のちに左翼勢力とは手を切り、それまでの共
産主義にソフトな路線を間違いだったとして「転向」を宣言するにいたる。
こうした背景の中で、ペルーの日本人をアメリカに運ぶ第1回輸送船『エトリン』が42年4月5日
にカヤオを出港した。合計141人が乗っていたが、ほぼ全員が日本への送還を希望した人たち
だった。
第2回の船『アケーディア』は4月14日にカヤオを出る。日本の公使館、領事館のメンバーとそ
の家族計25人のほか自ら望んで国外に出る日本人21人が乗っていた。淀川正樹代理公使も
在ペルーの日本人たちに天皇の臣民としての誇りを保ち、ペルーの法律を順守することを訴え
る別れの言葉を残して、乗船した。
この2回の送還の対象はみなペルーからの出国希望者だった。さらに同様に自分から出国を望
む日本人が相次ぎ、ペルー、アメリカ両当局に、少なくとも975人がアメリカへの送還を求めて
きた。当初こうした送還希望者が多かったことも、アメリカ政府によるペルーの日本人・日系人連
行を複雑にした。
日本人はすでに資産を凍結され、経済活動を禁じられ、日本人会も、日本人学校も、日本語新
聞もみな閉鎖され旅行も禁止されていたから、自分から出国を望むのも一面、当然だった。
アメリカ当局が42年の後半からペルーの日本人を脅威や危険としてよりも、日本側に抑留され
たアメリカ人との交換要員としてみるようになったことも、連行される日本人側の悲劇をさらに深
刻にした。この時点で日本本土には約700人のアメリカ民間人が「敵性外国人」として抑留され
ていた。
それに加えて、中国の日本占領地域に3300人、フィリピンに3000人のアメリカ人が日本側に
身柄を押さえられていた。こうした敵性外国人は交戦国が相互に交換するというのが国際合意
だった。
アホ会社のアホ社員か?
給料は安いし、仕方がないわ。
外資が待っとるがな。
気落とさず、頑張りや。
48 :
卵の名無しさん:02/05/07 07:38 ID:2PK31f11
給料が安くて待遇が悪くてなにが悪い!
どうせ同族のゾロ会社
>>48 こんなに不満があっても辞められない。
愛社精神? 愛着? ゾロ依存症?
人間って、悲しいね。
50 :
古森義久:02/05/08 06:57 ID:z0isxL7G
>人間って、悲しいね。
だから、せっせっとコピペに励むのさ。
何とも言えない刹那の快楽さ。
52 :
卵の名無しさん:02/05/08 23:03 ID:LvPUvOQs
大株主に一族がぞろぞろいるぞ! まいったかぁ!
53 :
古森義久:02/05/08 23:22 ID:z0isxL7G
>52
まいるもんですか!
××一族のため、大いに働いてちょうよ!!
《頭数あわせ》 アメリカ側は、日本に送還できる日本国民の数が足りなくなることを恐れるあま
り、ペルーの日本人をその頭数あわせに使おうとした。ハル国務長官は42年8月のルーズベル
ト大統領宛の書簡で以下の趣旨を述べている。
「日本側に捕まっているアメリカ民の身柄の返還には同数の日本人をアメリカ側から送還する必
要がある。次回の相互交換がいつ実施されるかは不明だが、アメリカ側は十分な数の日本人を
アメリカ本土に確保しておくことが必要となる。このため中南米の日本人をアメリカで抑留するこ
とも継続せねばならない」
国務省のロング特別次官補も43年10月、ペルー駐在のヘンリー・ノーウェッブ、アメリカ大使に
「日本との交換用の日本人の数が不足する恐れがある」と告げ、ペルーの日本人連行をやめな
いよう指示していた。この結果、ペルーの日本人・日系人はアメリカにとっての危険や脅威という
よりも、アメリカ民の身柄と引き換えの抵当となる人質としての要素を濃くしていったのである。
■ 豆事典
☆普仏戦争(1870−71年) 統一ドイツの実現を目指すプロイセン(現ドイツ北東部)のウィルヘル
ム1世と、それを阻もうとするフランスのナポレオン3世との戦争を言う。セダンの戦いでナポレ
オン3世が捕虜となり、パリが陥落するなど大敗したフランスは多額の賠償金を支払い、アルザ
ス・ロレーヌ地方の大半を割譲した。また、この戦争の結果、ベルサイユ宮殿で統一ドイツ帝国
成立が宣せられ、ドイツ第2帝国が誕生した。
☆フランクリン・デラノー・ルーズベルト(1882−1945年) ニューヨークの名門に生まれ、1910年
に上院議員、13年にウィルソン大統領の海軍次官補。21年に小児まひで歩行不自由となるが、
政治活動を続け33年には民主党から大統領選に立候補して当選した。大恐慌で経済的打撃を
受けたアメリカで銀行への公的資金融資、商工業の賃金や価格、競争条件の規制、農業生産
制限など統制色の強☆いニューディール政策を実施し、最高裁の違憲判決を受けながらも経済
の立て直しに成功した。また第2次世界大戦では国民の愛国心に訴え、アメリカ大統領選史上
例のない4選を果たしたが、大戦終結前の45年4月12日、脳出血で死去した。
☆敵性 一般に交戦国の国民、法人、財産、船舶には敵性があるとみなされる。敵国在住の中
立国民も敵性があるが、中立国在住の敵国民は敵性なしとされる。しかし、第2次世界大戦でも
これに従わない例が多く、普遍的ルールは存在しない。在米日本人、日系人の一部が敵性あり
として抑留された。日本でも昭和16年末時点で2万9326人の在留外国人の多くは神奈川県足柄
村や長野県軽井沢の抑留所に入れられた。
☆ヘンリー・エイガード・ウォレス(1888−1965年) ルーズベルト政権の農務長官として社会福祉
拡大や巨額の補助金による作付け制限政策を進め、1940年には農業州の支持を得て副大統領
に就任した。46年にトルーマン大統領の対ソ強硬姿勢に反対して辞任。48年に左派「進歩党」の
大統領候補となったが落選した。
■ アメリカとその敵 危険な敵性外国人 (3)
大統領の目標は日本人排除
第二次大戦中に日本人の国外追放に異様なほどの熱意をみせたペルーの大統領マヌエル・プ
ラドは、大統領になるまでは波乱に満ちた道を歩んだ。2回も大統領となった高名な将軍を父に
リマに生まれたプラドは軍務を終えてから工学を学び、大学教授を務めたあと、電気会社の重
役となった。その直後に30歳で国会議員に当選したが、4年後にクーデターに加担したとして時
の政権から敵視され、ヨーロッパに亡命する。9年間もヨーロッパ各国で学究生活を送ったあと
に帰国し、中央銀行総裁を経て一九三九年(昭和十四年)に大統領に選出される。
プラド大統領は民主主義を唱えてはいたが、富裕な大地主の利益を代弁し、中産、貧困の層に
は冷淡だった。ただしアメリカの民主主義には協調し、第二次大戦では中南米の他のどの国よ
りも早くドイツに対する抗議の措置をとって、ドイツの通信社や航空会社を国外追放した。このプ
ラドが日本人や日系人に対し徹底した排除の政策をとった。アメリカによる日本人の連行と抑留
はこのペルー大統領の言動と切り離せないだろう。
日米開戦後、間もなくプラド大統領はペルーの日本人、日系人を国籍の別なく、すべて排除した
いとの意向をアメリカ側に明確に伝え、その目的のためなら最大限の努力を惜しまないと強調し
ていた。同大統領と会談したペルー駐在のヘンリー・ノーウェッブアメリカ大使は1942年7月、
国務省に報告している。
「プラド大統領はペルーの日本人をすべて排除することに熱意を示した。この機会に日本人を大
量に国外へ送り出し、日本人問題の最終的な解決を図るということだ。同大統領は日本人連行
のためのアメリカの船舶が増加されるかどうかを知りたがる一方、アメリカに抑留された日本人
は決してペルーに帰還させないでほしいという要望を明らかにした。要するに大統領の目標は
ペルーの日本人社会をなくしてしまうことなのだ」
プラド大統領は日本人の全面排除の意向をアメリカ側に繰り返し繰り返し伝えている。アメリカ
政府が経費を出すならばペルー政府は日本人全員を逮捕して抑留してもよい、とも提案する。
ペルー国籍の日系人に対しては市民権を取り消す特別立法措置をとればよい、とまで言明して
いた。日本人が警察を買収して、逮捕を逃れる可能性があるため、警察官の給料は高くしなけ
ればならない、とも述べている。一国の元首が他国の戦時体制を利用して、自国内の特定住民
グループの全面排除を図るという近代史でも珍しいケースである。
44年8月には同大統領に任命されて、ワシントンに着任したペルーのペドロ・ベルトラン駐アメ
リカ大使も、さまざまな理由をあげて、ペルーの日本人すべてを追放し、アメリカに押しつける計
画をアメリカ側に売りこもうとした。こうしたペルー側の熱意がアメリカの日本人連行継続の動機
の一つとなったのである。
ペルーの警察の腐敗もひどかった。アメリカ側から受け取ったリストをもとに日本人を逮捕する
わけだが、わいろで勝手にその対象を変えた。1943年2月にリマで逮捕された日系人のパン
店住み込み従業員アーサー・ヤカベは後に証言している。
「ある日の深夜、警察が踏み込んできて、店主を逮捕しました。でも店主はすぐに警官にカネを
渡して難を逃れ、私が替わりに連行されました」この種の証言は多い。逮捕されるはずの日本人
有力者が、たまたまプラド大統領夫人の属するカトリック教会に大口の寄進をしていたため、逮
捕を逃れたというケースも報告された。特に、リマの警視総監ミルイ・テランが日本人社会の有
力者を捕らえるかわりに、勝手に他の一般日本人や日本人に似た服役者をアメリカ向けの船に
乗せようとしていたことは、アメリカ側で逮捕者の選別にあたったジョン・エマーソンが回想録で
詳述している。だからアメリカ側は連行者の身元確認に気を使うようにはなった。
ニシノ・チエコという日本女性の異色なケースを見れば、とにかく、できるだけ多くの日本人、日
系人を国外に送り出そうというペルー当局の意欲は立証される。国務省の記録によると、チエコ
は敵性外国人としてアメリカに連行されていた夫のニシノ・ヨシオから呼び寄せの連絡を受けた
が、すでに夫とは不仲で、ペルー軍人と同居していた。そのためアメリカ行きを拒んだ。だがペ
ルーの日本人たちはこの彼女の言動を「日本人社会全体の恥」として、ぜひともアメリカの夫の
もとに連行させることをまずリマのスペイン大使に要請した。
ドイツとのきずなの強いフランコ将軍が内戦に勝って総統となったばかりのスペインは、第二次
大戦では中立を宣言しながらも、枢軸側の利益代表国となり、アメリカでもペルーでも日本の立
場を外交的に代弁していた。
そのペルー大使がペルー政府にニシノ・チエコの送還を強く要求した。チエコは43年6月にカヤ
オ港をたった輸送船「アコンカグア」に子供2人とともに乗せられるはずだったが、呼び寄せに応
じてのアメリカ行きは本来、任意の行動であることを指摘し、ペルーを離れることを断固として拒
否した。もし、強引に連行されるなら子供とともに船から飛び降りて死ぬと宣言した。
アメリカ側はチエコが本当に自殺すれば、日本政府の抗議を受け、ペルーからの日本人連行計
画全体に支障が起きかねないという懸念から、ノーウェッブ大使がペルー政府やスペイン大使
に彼女の残留を認めたいと伝えた。だがペルー政府はさっさとチエコを危険な敵性外国人と断
じ、逮捕の対象とする手続きをとってしまった。アメリカ行きを公式の強制措置にした訳だ。これ
もまた当時のペルー側が日本人排除をいかに積極的に、いかに無法に推し進めていたかの実
例だろう。
アメリカ側もペルーのこの措置に、もうあえて逆らわなかった。チエコは自宅でノドをハサミで切
り、自殺を図った。だが失敗し、43年7月にカヤオ港を出航する「インペリアル」に乗せられ、も
う愛着をなくした夫のもとに送られていったという。
プラド大統領をはじめとするペルー政府側のこうした異様なまでの熱意がアメリカの意向に相乗
効果を起こし、暴走していったのが、ペルーの日本人連行の大きな特徴なのである。
>>52 >大株主に一族がぞろぞろいるぞ! まいったかぁ!
こんなの後発業界の一般常識じゃないの。
先発さんとは棲む世界が違うのですよ。
■豆事典
☆マヌエル・プラド(1889−1967年) 1939−45年と56−62年のペルー大統領。サンマルコ大学教
授から1919年に下院議員に当選し、政界に転身した。最初の大統領時代は保守派と進歩派の
対立が続く中で穏健派として支持を集め、戦後の第2次政権時代は進歩派の支持を受けた。日
本に対しては戦後、第2次大戦中とは打ってかわって親日路線をとり、61年(昭和36年)5月に国
賓として来日、「ペルーには日系社会があり子弟はペルー人と融合一体化している」として日本
の技術・資本との連携強化を求めた。62年の軍部クーデターで追放された。
☆スペイン内戦(1936−39年) スペインでは1931年、王制が廃止されて共和制に移行し、36年
には左派連合の人民戦線政権が発足した。これに対し、右派のフランコ将軍は「国民戦線」を率
い、国外でクーデターを宣言して本土に進攻し、内戦となった。フランコ側にはヒットラー・ドイツ
の支援があり、人民戦線側にはソ連の強力な支援があったため、「第2次大戦の前哨戦」といわ
れる激しい戦闘が3年近く繰り広げられた。反ファシズムの名の下にアメリカのアーネスト・ヘミ
ングウェーやイギリスのジョージ・オーウェルら多くの作家、知識人が銃をとって人民戦線側に参
加したが、内戦がフランコ側の勝利に終わったことや人民戦線内部の対立を目の当たりにした
ことで、共産主義に幻滅して戦場から去るケースも多かった。
☆フランシス・フランコ(1892−1975年) スペインの王政時代の1910−20年代に植民地モロッコ
の反スペイン運動を鎮圧して、陸軍内部で頭角を現した。共和制下では国外に左遷されたが、
クーデターを起こして政権の座につき、総統となった。スペイン内戦でドイツやイタリアの支援を
受けたことからフランコ政権は枢軸国よりとみられていたが、第2次大戦ではヒトラーの要請にも
かかわらず、ドイツ東部戦線に義勇軍を送っただけで中立の立場をとった。戦後は75年に82歳
で病死するまでスペインの独裁者として権力の座を維持した。
大正も大塚も一族が大株主。
ゾロのSだけじゃないよ。
結局、たまたま先行したから先発・ブランド
遅れたから後発・ゾロ
国産製薬の同族体質は何ら変わらない
一族経営の弊害はもうでていますよ
やる気があってもどうにもなりません
62 :
卵の名無しさん:02/05/10 20:42 ID:u4yv42Ml
営業所はボロい。もう少し金かけたら?
63 :
卵の名無しさん:02/05/11 00:45 ID:m7mYn3Zg
S井一族のために働け!
>>63 少しは還元して下さい。
女房は電子部品の内職(最近は仕事もすくない)、
漏れもアルバイトでもしょうかと考えている。
66 :
卵の名無しさん:02/05/11 11:22 ID:UePreVba
>>65 営業所長も外資の平社員ぐらいの給料で我慢してるんだから贅沢いうな
>>66 つまりゾロの平社員は悲惨なわけね。
人材となったら外資へ流出するわけだ。
納得!
なのに外部へ大量流出しないのはなぜか
すべての社員が統領さまの愛で包まれているからでございます
69 :
卵の名無しさん:02/05/11 14:20 ID:m7mYn3Zg
優秀な人はかなり流出してるみたいですよ
残ってる人は・・・
>>69 >残ってる人は・・・
同族ばかりってこと?
71 :
卵の名無しさん:02/05/12 01:41 ID:GoRZ4mbG
東和のスレは荒れないね
>残ってる人は・・・
行く所はありません。。。
■ アメリカとその敵 危険な敵性外国人 (4)
薄弱な根拠で行われた連行
ペルーの日本人連行の任務を命じられたアメリカ外交官ジョン・エマーソンは、この連行が結局
は不当だったことを回想録で率直に認めている。「ペルー、アメリカ、そして他の中南米諸国の
政府間の戦争中の協力から生まれたペルーの日本人の強制抑留は明らかに人権の侵害であ
り、西半球の安全保障への脅威に関するいかなる理由からも正当化はできなかった」
《罪状示さず》 不当な点といえば、まずこの連行がアメリカの敵性外国人法に則して実施され
その法律は敵性外国人を交戦相手国の国民と定義づけているのに、ペルーから連行された中
には、日本人の家族以外にもペルー国籍の日系人が含まれていたことがあげられる。
第二に連行される日本人、日系人は旅券を奪われ、ペルーからは国外追放の形式をとり、アメ
リカへの入国では違法入国者として扱われていた。
第三には「危険な敵性外国人」として抑留された日本人たちは、何が危険なのかの容疑や罪状
が明示されず、またその容疑の確定のための法的な審理がペルーでもアメリカでも一切、実行
されなかった。
アメリカの統治の基本には「チェックとバランス」という原則がある。国家の権力の暴走を防ぐた
めに行政、立法、司法の三権が相互に監視し、均衡をとるという原則で、1787年夏にフィラデ
ルフィアで、後に第四代大統領となるジェームズ・マディソンらによって起草されたアメリカ憲法も
真っ先にそれをうたっている。
いくら戦時下の異様な状況とはいえ、これほど無理な点が多かったペルー在住日本人の連行と
抑留に対して、アメリカ政府機構内でチェックとバランスの原則は全く機能しなかったのか。現実
には同じ行政府の内部で異議や抗議をぶつけあう動きはあったのである。
《警告の書簡》 1943年(昭和18年)1月にはフランシス・ビドル司法長官がコーデル・ハル国
務長官にあて、警告の書簡を送った。「ペルー政府が危険とみなす日本人が、実際に危険であ
ることを立証する証拠はほとんどない。また、連行された人間のなかにはアメリカの友好国の国
民(ペルー国籍の日系人)が含まれている。これまでの連行には明白なミスがある。こうした無差
別な抑留は避けなければならない。アメリカ側としては、連行される人間が日本社会での危険な
リーダーであることを示す証拠を取得せねばならない。またアメリカ内で抑留する日本人に対し
てはその理由を認定する法的審理を実施する必要がある」
このころペルーでは国務省の特別部が日本人連行の作業の主体となっていた。それを受けての
司法長官の警告だったが、背景には国際法の明白な違反に対する日本側の報復行為への懸念
も当然、あった。同時にペルー政府がこの時期、アメリカに向かって、ペルー国内のすべての日
本人、日系人を無差別に排除したいという意向まで述べていたから、法の執行を司るビドル長
官としては、第三国からのそんな大量の日本人の違法受け入れはできないという見解を明示す
る必要があったのだろう。
ハル国務長官の側は、司法省のこうした警告を無条件に受け入れることは全面協力を惜しまな
いペルーへの侮辱になりかねないと判断して、その警告をあまり重視しない姿勢をみせた。だが
ビドル司法長官は、さらに態度を硬化させ、司法省が独自に調査官をペルーなどに送り、日本
人の逮捕や連行の実態をチェックすることを提案した。その結果、ワシントンの司法省本省で敵
性外国人管理の中南米部門担当だった若き調査官レイモンド・イッキースが43年春、ペルーほ
か数カ国の中南米諸国へ派遣された。
イッキースはリマではエマーソンとも行動をともにして調査を重ねた末、43年8月に本省に対し
大胆な報告を送っている。「ペルーだけでなく他の中南米諸国からの日本人の追放の諸事例の
うち、真の安全保障上の理由で正当化されるケースは極めて少ない。特にペルーでは一般のペ
ルー人が日本人のビジネスや職を横取りしようとする試みが、日本人国外追放の動機となって
いる観が強い」
イッキースはこうした観察に基づき、実際にペルーからのこれ以上の日本人連行をやめることま
で進言した。現実にはその進言でペルーでの日本人連行が終わることはなかったが、以後の連
行の選別の決定権がエマーソンらによってペルー側からアメリカ側へと大きくシフトする結果と
はなった。このごく小さな部分だけをみるならば、チェックとバランスが機能したともいえようが全
体としては不当な連行はなお継続された。
日本でもペルーの日本人・日系人連行は一部の学者により調査、研究されている。その数少な
い研究者の一人、天理大学の山倉明宏助教授は合計15回1771人に及ぶアメリカへの連行を
追い、「最初の2回の追放はほとんどが日本人の外交官など自分から求めてペルーを去る人た
ちだったので、別個に考えるべきでしょうが、残りは明らかに不当な連行であり、抑留だと思いま
す」と語る。
連行の手段は、船舶には限らず、緊急とみなされた場合、アメリカ陸軍の軍用機までが使われ
ていた。その典型が、42年12月に連行された15人だった。この人たちはリマの日本人社会で
「国民服事件」と呼ばれた騒ぎの「容疑者」だった。
《国民服流行》 このころ日本国内では戦争に備えての士気の高揚や倹約のために、成人男子
の多くが軍服に似たカーキ色の制服を着用した。国民服と呼ばれたこの服はペルーの日本人社
会でも流行となった。リマの洋服店で作って売ると、注文が殺到したという。
この動きがアメリカやペルーの当局にも知れ、「日本人が軍服を着用し始めた」とされて、摘発
の対象となった。国民服を仕立てた人、注文した人、着用した人が捕まり、そのうちの首謀者と
された人物、15人がアメリカ軍機で、あっという間にアメリカへ運ばれていったのである。当時、
ペルーに住んでいた東出誓一は自著『涙のアディオス』などで述べている。
「日本ではだれでも国民服を着ているということで、リマのある仕立屋が、カーキ色の軍服地を
使って国民服を作っただけだった。なのに危険扱いされて、一網打尽で逮捕され、軍用機に国
民服で乗り込む日系人の姿はいささか滑稽ですらあった。だがこの逮捕に肝をつぶした人は決
して少なくなかった」国民服だけで緊急の逮捕と軍用機での追放というのだから、この日本人連
行全体がいかに薄弱な根拠で進められたかがわかる、ということだろう。
■豆事典
▽ジェームズ・マディソン(1751−1836年) 「アメリカ憲法の父」と言われるアメリカ第4代大統
領。1776年にイギリスから独立したアメリカは各州の上に立つ「連邦政府」の権限をどう位置づ
けるかで、ニューイングランド地方の商工業者を中心に強い連邦権限を志向する「フェデラリス
ト」と、各州権限を尊重する南部農民中心の「リパブリカンズ」が対立。マディソンはバージニア
州の大農園主だったが、1787年の連邦憲法制定会議に「中央政府の強化こそ自治を保証する」
とするバージニア案を提出して草案をまとめた。1809年に大統領に就任後は内陸部の開発を進
めた。
▽権力分立(三権分立) 行政は立法の権限付与により行動し、司法は他の2権に違法性があ
れば無効を宣するなど、政治権力同士の相互抑制・均衡(チェックとバランス)によって独裁化を
防ぐ仕組み。西欧封建君主の絶対権に制限を加えるための立法権(議会)や司法権(裁判所)の
分離から出発して近代憲法の原理となった。1748年、フランスのモンテスキューがこの仕組みを
「法の精神」でイギリスの政治的自由を示す例として称賛し、アメリカの憲法制定者にも大きな影
響を与えた。
▽国民服 国民が着用すべき服として昭和15年(1940年)11月の「国民服令」によって制定され
た。ワイシャツ、カラー、チョッキを廃し、軍服にも簡単に転用できる新背広服を作ることを目的
にして、デザインは東京日日、大阪毎日新聞の協力で公募した。男性用は開襟ベルト付きの「甲
号」と詰め襟の「乙号」があり、色は国防色(カーキ色)。古代紫色の儀礼章を胸につければ礼服
にもなるとされた。女性用も洋服型とモンペ型があったが、こちらは男性用ほど普及しなかった。
76 :
卵の名無しさん:02/05/12 08:24 ID:aVDgGA0x
どうせSTS軍団
■ アメリカとその敵 危険な適性外国人(5)
好待遇だった抑留者の生活
「クリスタルシティー抑留所に入れられた人たちを研究テーマとしたのは、以前から国際的な大
動乱のなかで普通の市民がどう生きるのかに関心があったからです。それと私の父が日米戦争
でのフィリピンの日本軍との戦闘で負傷して身体障害者となったことも、戦争と人間のドラマに
引かれた理由です」
テキサス大学助教授のキャリン・ライリーは、博士論文のテーマにこの抑留所内の学校教育を
選んだ理由について説明した。第二次大戦中、この抑留所には合計4751人の日本人、ドイツ
人、イタリア人が収容された。「危険な敵性外国人」とみなされた人とその家族である。
アメリカでは太平洋岸の日系人十一万人以上を収容した転住収容所の実態が広く知られ、映画
にまでなっているのにくらべ、敵性外国人の抑留の実情はいまもまだ一般にはほとんど知られ
ていない。ライリー助教授の論文はその数少ない研究であり、クリスタルシティー抑留所内の生
活を教育という面から詳しく伝え、分析している。ちなみにライリーは大学を卒業後、看護婦や中
学教員として10年ほど働いてから学究の道に入った現在50歳の女性で、教育学のこの博士論
文は九六年夏に書きあげた。
《1万6千人》 アメリカ当局は第二次世界大戦中、少なくとも合計約一万六千人の敵性外国人
を逮捕したことを認めた。そのなかではドイツ国民七千、日本国民5500、イタリア国民1200と
いう人数が確認されている。パールハーバー奇襲の日だけでも司法省管下のFBI(連邦捜査局)
は全米各州で日本人とドイツ人合計二千人ほどを一挙に捕らえた。かねて標的とした「危険な
敵性外国人」である。
「危険」とは敵国を利する騒乱、スパイ、破壊、政治宣伝などの活動にかかわる可能性がある、
という意味だったが、その定義の範囲にはあいまいな部分も多かった。結果として危険ではなか
ったペルーの日本人がそのなかに加えられたのは前述のとおりである。だがその一方、逮捕者
には実際に危険とみなされてもおかしくはない日本の政府や軍、国策会社などのメンバーも多
かった。
これら危険な敵性外国人は大小あわせて全米十三カ所の抑留所に入れられた。そのなかでも
最も多くの人たちが家族とともに抑留されたのがクリスタルシティー抑留所だった。これら抑留所
はその所在自体が秘密とされ、管理には司法省下の移民帰化局(INS)が軍の協力を得てあた
った。クリスタルシティーでは季節労働者用の農業作業地と宿舎区域だった広大な地域120万
平方メートルが抑留所用に供され、そのうち四十万平方メートルの地域に鉄条網が張られた。
抑留所の施設の建設や整備には当初、ドイツ人の抑留者が動員された。本来、この抑留所は日
本人用の予定だったが、立派な施設が築かれていくのをみてドイツ人抑留者たちがそこでの滞
在を要求して、認められた。一九四二年十二月に開所するかたちとなった同抑留所には、まず
第一陣としてドイツ人の敵性外国人とその家族計百人ほどが運ばれてきた。43年3月には日本
人の第一陣が着き、同月末には日本人百四十五人、ドイツ人378人となった。
イタリア人はいなかった。その後、クリスタルシティーの抑留者は増え続けた。94年8月に中立
国のスイス政府代表が調査したときにはドイツ人800人、日本人2200人を確認した。抑留さ
れた人の数はたえず増減があったが、ざっと通算して日本人が3千人、ドイツ人が千人だった。
日本人のうちアメリカ本土とハワイで逮捕され、連行されてきた人が1700人ほど、中南米から
の人が1300人ほどだった。その中南米から連行された人の8割以上がペルーの日本人、日系
人だったのである。
《多彩な施設》 さてライリー助教授の論文によると、抑留所ではドイツ人が北西部、日本人は
北東部と南東部にきちんと居住区を分けて収容された。しかし日常の生活では共用の領域も多
く、全体として日本人とドイツ人の交流や協力はスムーズだった。管理にあたるINSの側は所内
に食料品店、食肉店、洗濯施設、理髪店、美容院、病院、図書館、学校などを開設した。娯楽や
スポーツの面でも映画をはじめテニス、野球、バスケットボール、ソフトボール、水泳プールと、
多彩な施設が充実していた。
抑留者には一定額の金券が与えられ、それを使って食料などを買い、自分の居住区で料理す
ればよかった。簡素なアパートふうの居住区には食器類から冷蔵庫、調理用ストーブ、家具、ベ
ッド、毛布、シーツまで立派にそろっていた。食料も衣料も豊富で、ミルクや氷は各家族に毎朝、
戸別に配達までされた。この衣食住の待遇は一九四四年春にリマから夫に合流するためここに
入所した中尾・ロサ芳江が「びっくりして、かえって気持ちが悪いほどだった」と述べたほどの高
い水準だった。
《職員が抗議》 実際にこの待遇の異常なほどのよさは、抑留所の管理にあたるINS職員から
「自分たちより捕虜の敵国人の待遇がよいのはおかしい」と、激しい抗議が爆発したほどだっ
た。アメリカ人は官民を問わず、戦時下の厳しい配給を課され、砂糖や肉を得る量は制限される
のに、抑留者はふんだんに食べているのは我慢ができないという不満だった。
だがバランスを欠いたようにもみえるこの待遇にはそれなりの理由があった。この抑留所に収容
された人たちは捕虜なみにジュネーブ条約の対象となり、公正で快適な待遇を与えることが義
務づけられ、しかも日本の利益を代表するスペインや中立国のスイスの査察を受けていたので
ある。
ここでの抑留者の待遇は詳細に日本側に知らされ、もし不当と判断されれば、日本側が抑留し
ているアメリカ民にすぐ報復の措置がとられる、とアメリカ当局は考えたのだった。同時にここで
の日本人やドイツ人への待遇をよくすればするほど、アメリカ人の捕虜や抑留者の扱いがよくな
るだろうという期待があったわけである。
その結果、後にはクリスタルシティー抑留所は第二次大戦全体でもおそらく収容者が最高最善
の待遇を受けた施設とさえ評されるようになった。だがそれはどこかが大きく欠けている奇妙な
ユートピアだった。そこにいた人たちが捕らわれの身である事実には変わりなかったからだ。とく
に日米戦争とは直接の関係がなかったペルーから連行されてきた人たちにとっての運命は過酷
だった。
■ 豆事典
▽アメリカ移民帰化局(INS) アメリカ司法省に属する組織で、日本の法務省出入国管理局に
相当。現在では2万人以上の職員を抱え、アメリカへの移民・帰化・難民受け入れ・入国審査の
他、FBIなどと協力して不法入国・滞在者を防ぐ警察活動などを行う。アメリカでは1995年1年間
で約71万6000人の新移民と約10万人の難民を受け入れている。また国境パトロールでは毎年1
万人以上が不法入国で逮捕されている。INSの前身は1864年に移民奨励を目的に創設された
移民事務所で、移民が急増した1880年代には「望ましくない外国人」の入国を認めない法律が
作られ、財務省管轄下の組織となった。さらに、国際的緊張の高まった1940年、「外国人をより
効果的に管理する目的」で、管轄が司法省に移された。
▽ジュネーブ条約 1864年に赤十字社の創設者アンリ・デュナンが提案したジュネーブ国際会
議で12カ国が「戦地軍隊ニ於ケル傷病者ノ状態改善条約」(赤十字条約)を締結した。この条約
以来、武力紛争の犠牲者保護のために改正、追加された一連の条約がジュネーブ条約と呼ば
れた。第2次大戦後の1949年、戦争犠牲者保護のための4つの条約(ジュネーブ4条約)に引き
継がれ、現在はジュネーブ条約という場合、この4条約を意味することが多い。
▽利益保護国(利益代表国) 戦争などで外交関係が断絶した場合、一方の国の国民の利益を
相手国から保護するために間に立つ国。第2次大戦時のアメリカ、イギリス、カナダなどの日本
での利益保護国はスイス。日本の利益保護国は当初がスペイン、後にスイス、スウェーデンに
引き継がれた。利益保護国は傷病者、抑留者などが公正な待遇を受けているかどうかを調査し
て本国に報告するなどの活動を行う。
>>76 >どうせSTS軍団
それをいったら、お終いでしょう
■ アメリカとその敵 国と国との間で (1)
終戦で「不法滞在の外国人」に
クリスタルシティー抑留所に収容された日本人もドイツ人も、多彩な才能の人物が多かった。な
にしろアメリカ側から「危険な敵」とされるだけあって、社会のそれぞれの分野で平均以上の活
動をしていた人が集まる結果となった。管理側はこの人たちに所内での自主的な労働や作業を
許した。働いた場合はどんな仕事でも一時間十セントの報酬が払われ、管理側から与えられる
金券に加えて、抑留者の生活水準をさらに上げることになった。
テキサス大学のキャリン・ライリー助教授の論文によると、一般食料品店や肉専門店はもちろん
洗濯、修理の施設も、すべて抑留された人たちで運営された。理髪店は日本人男性、美容院は
ドイツ人女性のそれぞれプロが仕事を任された。病院も薬局も学校も日独の医師、薬剤師、教
員が作業の先頭に立った。抑留者はさらに野菜を栽培し、衣料品を製造し、靴を修理し、所内の
住民集団を自給自足へと近づけていった。その間、スポーツや娯楽も盛んだった。ある面では、
ちょっとした町もかなわないほど質の高い地域社会ともなった。
ペルーから連行されて抑留所に入った東出誓一も著書『涙のアディオス』で書いている。
「食糧事情はすこぶるよく、肉も魚も十分、あった。刺し身にビールというぜいたくもできた。日本
のアメリカに似たカリフォルニア米もあったし、ハワイ産のみそ、しょうゆもあった。油揚げ、豆腐
は所内で作った。すしや天ぷらからお好み焼き、おせち料理まで所内でできた」
日本人にもドイツ人にも自治が大幅に認められ、日本側では日本人自治会をさっそく組織して、
食料部、家屋部、作業部、医務部など十四の部門を設けて、集団の自治にあたった。この機能
は非常にスムーズに進んだ。だがドイツ人たちはもともとアメリカ社会でも個々ばらばらに住ん
でいたため、まとまりが悪かったという。集団主義と個人主義という国民性の違いもあったのだ
ろう。
所内には医師も多く、葬儀の専門家もいたから、特に葬儀は盛大だった。東出が「あとにも先に
もあれほど豪華な葬儀はみたことがなく、写真に撮りたかったが撮影は禁止されていた」という
程だった。彼はそこでの生活を物質面では文字通りの「揺りカゴから墓場まで」の理想郷だとも
評した。だがもちろん有刺鉄線に囲まれた異様な幽閉の世界である基本には変わりなかった。
東出も抑留者が捕らわれの身の将来を悩み、生活が楽なことがかえって精神のバランスを崩
し、不眠症や絶望感を起こすケースが多かったことを伝えていた。当面の物質的なニーズが満
たされたあとの「疑似ユートピアの試練」が予想以上に厳しかった、とも回想している。
クリスタルシティー抑留所には日本、ドイツ、アメリカの三学校が開設された。いずれも小学校と
中・高校レベルである。教育はそれぞれの国の言葉と教科内容で実施された。ライリー助教授
は博士論文でこの三学校の実態を詳しく報告している。
所内の子供たちは自由に学校を選択できた。もちろん親の意向が鍵ではあった。アメリカン・ス
クールへの入学希望が最も多く、小学校とハイスクールを併せて最高時には600人に達した。
おもしろいことにその95%は日本人の子弟だった。ドイツ人はほぼ全員がドイツ学校を選んだ
のである。
日本人の間でもアメリカ本土で生まれ育った日系人の子供たちは圧倒的にアメリカン・スクール
を選択した。ただしそのうちの170人ほどは日本学校の毎日1時間の日本語クラスに通った。
ペルーをはじめとする中南米とハワイの子供たちは、ほとんどが日本学校を選択した。
フルタイムの生徒数が250人ほどとなった日本学校では、本国と同様の教科内容に沿って修身
や愛国主義の教育にも力が注がれ、大和魂への誇りが強調された。ドイツ学校ではナチの教え
がもっと強烈に説かれていた。
ドイツ人と日本人のこの種の違いは、成人レベルではさらに顕著だった。ドイツ人抑留者は、ヒト
ラーの誕生日には集会ホールでナチの鉤(かぎ)十字の旗を掲げ、祝宴を開いた。管理側もジュ
ネーブ条約が戦争捕虜に国の祝日の国旗掲揚を認めているため、黙認していた。1945年(昭
和20年)4月12日、時のルーズベルト大統領の死が伝えられると、日本人は予定していた行事
をすべて中止して、弔意を表した。だがドイツ人は対照的に敵の大統領の死を歓声をあげてよろ
こんだという。
しかし日本人の間でも「神国日本の不敗」を信じる人たちは多かった。東出の回想では、アメリカ
側から発表される日本軍のサイパンや沖縄での壊滅も「アメリカのデマ」とみなすのが多数派だ
った。この種の日本必勝論者はペルーから連行された人の間に意外と多かった。日本の降伏の
報にもペルー出身のある実業家は「こんなニュースがもし本当なら、われわれはこの場で互いに
胸を刺しちがえて自害しますよ」と一蹴したという。だが終戦までにはペルーからアメリカに連行
された日本人の数もかなり減っていた。二度にわたる日アメリカの捕虜・抑留者交換船で自ら望
んで日本へと帰った人たちがいたからである。交換船は二度ともスウェーデン籍のグリップスホ
ルム号だった。
第1回は42年6月21日、野村吉三郎、来栖三郎両大使はじめアメリカ在勤だった外交官や武
官を含む計1421人を乗せて、ニューヨークの港を出発した。第2回は43年9月2日、同じ港か
ら1340人を乗せての出航だった。この2隻で合計500人以上のペルーからの日本人、日系人
が日本へ向かった。そのなかには日米開戦までリマで貿易業を営んでいた船津孝(現在87歳で
リマ在住)も含まれていた。
終戦時には結局、1300人ほどのペルーからの日本人たちがアメリカに抑留されたまま残った
がこの人たちは戦争の終わりとともに「危険な敵性外国人」から「不法滞在の外国人」へと一転
してしまった。入国時にすべての身分上の書類を奪われていたから、終戦で「敵性」が消えれ
ば、こんどは自動的に不法入国扱いとなったのである。戦火が消えてもペルーからの日本人の
数奇な運命はさらに数奇な展開をたどった。
■豆事典
☆ルーズベルト大統領の死 第32代アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは第2次大戦末
期の1945年4月12日、脳出血で死去した。連合国の勝利は当時すでに確定的となっており、ル
ーズベルトは連合国側の戦時協調体制を維持、活用しつつ戦後の新たな国際秩序作りを進め
ようとしていた。その中心となるのが国際連合であり、サンフランシスコでは同年4月15日から2
カ月余りにわたって国連憲章起草のための国際会議が開かれた。ルーズベルトは会議直前に
死去したため、自ら青写真を描いた戦後体制を見ることはできず、アメリカ大統領の座はトルー
マンに引き継がれた。
☆サイパン島 西太平洋の火山島で、1914年から日本が統治し、多数の日本人が移住して製
糖業などに従事した。44年6月15日、アメリカ軍が西海岸に上陸。日本軍は島の北側に追い詰
められ、7月7日までに全滅した。このとき非戦闘員も島の北側の岬から海に身を投じて自殺し、
この岬は「バンザイ・クリフ」と呼ばれるようになった。現在はアメリカ自治領・北マリアナ諸島連
邦の中心となっている。
☆野村吉三郎(1877−1964年) 日米開戦時の駐アメリカ大使。海軍兵学校を卒業し、第1次大
戦中はアメリカ大使館付き武官として後のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトらと親交を
結んだ。1932年(昭和7年)には上海爆弾事件で片目を失う。翌33年、海軍大将。39年、阿部信行
内閣の外相を経て、40年に駐アメリカ大使となり、開戦直前までハルアメリカ務長官と交渉を重
ねた。戦後は参議院議員。
☆来栖三郎(1886−1954年) 駐ペルー公使、駐ベルギー大使などを経て、駐ドイツ大使時代の
1940年(昭和15年)に日独伊三国同盟に調印。翌41年11月、特派全権大使としてアメリカに出張
し、野村駐アメリカ大使とともに開戦前のアメリカとの交渉にあたった。アリス夫人はアメリカ人。
84 :
卵の名無しさん:02/05/12 09:02 ID:1GLlYxr5
あげ
85 :
卵の名無しさん:02/05/12 09:14 ID:1GLlYxr5
ageage
86 :
お邪魔虫:02/05/12 11:04 ID:PTcVLjc6
大阪地方裁判所御中
李悠紀(イ ユ キ)さんの家族は、母親の高銀烈(コ ウン ヨル)さん、小学校3年生の李悠紀さん、保育園
年長組の弟・李悠太(イ ユ テ)さんの3人です。
母親の高銀烈さんは1997年に外国人登録をするとともに、在留特別許可の申請を行いました。ところが
4年2ヶ月が経過した2001年8月13日に突然、理由も開示されないまま申請が認められず、大阪入国管
理局より悠紀さん家族に退去強制の命令が出されました。その日、加美小学校に母親と相談に訪れた悠
紀さんは、学校長の前で「友達と別れて、韓国に帰りたくない」と泣いて訴えました。
李悠紀さんは、1999年4月に加美小学校に入学しました。3年生になる現在まで、同級生の子どもたち
とともに元気に、そして朗らかに小学校生活を送ってきました。優しく思いやりのある性格で、級友からも慕
われ、学習についても努力家で、さまざまな課題にまじめに取り組み、成果を上げています。
また入学する以前も、出生以来ずっと加美北の地域に育ち、近隣の子どもたちや保育所の友だちとも仲
よくともに育ってきました。
退去強制の命令が出されて以後、李悠紀さんは、住み慣れた加美北の町や友だちとも離れ、言葉の分
からない地で生活しなければならいかもしれない事への不安を抱きながら毎日を送っています。
李悠紀さんが退去強制の命令を受けるに至った経緯については、小学校3年生の李悠紀さん自身には何
の責任もなく、出生から現在に至るまで、他のどの子どもとも同じように、ただ健やかに成長してきたにすぎ
ません。もちろん、現在も李悠紀さんはこの地域で仲の良い友だちとともに、学校に通えることを願っていま
す。今までどおりに家族で平和に暮らすことを望んでいます。もし、その純粋な願いが叶えられないならば、
李悠紀さんの心身に大きな痛手を被ることは想像に難くありません。また将来を展望するにあたっても、多く
の精神的な障害を受けることが容易に想像されるでしょう。
李悠紀さんはまだ小学校3年生です。家族をはじめ、学校や地域、社会の大人たちに守られて育ってい
かなければないりません。
日本が批准した子どもの権利条約第3条にも「子どもに関する全ての措置をとるにあたっては、公的もしく
は私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局または立法機関のいずれによって行われるものであっても、子
どもにとって最前の利益が主として考慮されるものとする」と規定されています。
渡日後、誠実に生きてきた高さんと二人の子どもたちの教育を受ける権利を保障し、李悠紀さんが今まで
どおりに自分の生まれた場所で生活し、学習を続けられるため、在留特別許可を与えるよう、強く要望する
ものです。
李悠紀さん家族3人の生活と裁判を支える会
代表 梁 富美子
金 栄 玉
宮崎千代子
87 :
お邪魔虫:02/05/12 11:05 ID:PTcVLjc6
今、流行なのだ。子供ができて日本の学校に通っていれば永住資格が
受けられるというデマが流れて、それに乗って不法滞在者どもが次々
と在留許可申請をしている。
この家族だけでないし、大阪だけの事でもない。
ただし、この件は非常に示唆に富んでいる。
韓国へ送り返す事が、何か非常に野蛮で人権を蔑ろにする事であるか
のように言う。市民運動家と、断固帰国したがらない親。
韓国というのは、その出身者がこれほどまでに帰国する事に抵抗する
国なのだ。
送還すると、人権侵害にあたるような国なのだ。まともな国では無いと
言っているようなものではないか。
88 :
お邪魔虫:02/05/12 11:12 ID:O1Pbh26Q
まったくふざけた話ですな。
例えこの話が彼等の主張する通りの事実であったとしても馬鹿げた話。
半万歩譲ってこの親子を受け入れるとしてこの親子だけだ。
同様の、或いは類似のケースの特別扱いは絶対に認められない。
つーか、上の方でも出たいたがそれが目的なんだろうな。
このケースを足掛かりに・・・ってヤツだろうね。
気をつけないとイカン。あいつらは一歩許せば半万歩はズカズカと入り込んでくる。
そしてニダニダ笑いながら『住んでやるニダ!』とかほざきだす。
そんな生物だよ連中は。大体、葬式で泣き女なんてのが出てくる国だしな(w
泣くだけで 権利(エサ)をくれる チョロイ国
連中の気持ちの悪いニダニダ笑いが聞こえてきそうだな。
89 :
お邪魔虫:02/05/12 11:13 ID:O1Pbh26Q
普通は絶対許可が下りないのだ。あれは難民等、何らかの理由で在留
する必然性を「入管が認める」場合だけにおりるものだから。
だから理由など開示する必要は全くない。
というよりも、不法滞在を続け、連れてきた子供が大きくなって日本に馴染んでいる、と
いう理由で、どうして在留特別許可がおりると思う?
本来絶対に許可がおりない理由で、強引に在留許可を申請しにかかっているのだから、
「理由も示さず」と言うのはおかしいのだ。
90 :
お邪魔虫:02/05/12 11:14 ID:O1Pbh26Q
「在留特別許可」とは
在留特別許可というのは出入国管理及び難民認定法の第50条第1項3号に
基づくものであるが、これは法務大臣が個別の事由を勘案し、国内に滞
在せしむる必要性を認めた場合、その在留を恩恵的に認める、というも
のだ。本来、政治亡命者などの政治的案件を想定した例外条項である。
しかももともと50条は強制退去手続きの一環で、最終的な段階で法相が
例外的に与えるものであるから、元来「申請」できるようなものではな
い。申請様式が用意されていないものを申請できるわけもない。従って
法的な意味を持たない申入書という自由文書の形式になるはずで、これ
は「申請」とは言わない。
従ってそもそも在留特別許可を「申請」したと言うのは明白に嘘である。
外国人登録をしたというのも嘘だ。不法滞在者ができるのは入管へ出頭
する事だけであり、合法的に入国、滞在していない者が外国人登録でき
るはずがない。
なぜ彼らは嘘ばかり書くのかと言うと、基本的に不法滞在者は確実に累
犯しており(日本滞在から職業、納税等生活すべてにおいて)、同情の余
地が無いからだ。
91 :
お邪魔虫:02/05/12 12:16 ID:Ge4Sv81v
そもそも特別永住権というのがおかしい
なんでそんなものを認めなきゃならんのだ?
旧植民地出身者に対する一種の生活保護的温情措置が強いと思うが
あまりにも歪みすぎてる
日本人の「なんでそんなに嫌いな日本にわざわざ居るの?」という問いに言いつづけてきた
「祖国が統一するまでモラトリアム的に居る」という理由がほぼ崩壊した今(今でも徳山がそうか)
在日が旧日本軍の植民地化だの強制連行だのに自身の存在理由を求めるようになるのは当然
例え本音では徴兵が嫌だから、日本より生活水準が低いから、日本より酷い差別をされるから
韓国に帰りたくないと思っても日本悪玉論、朝鮮被害者論、在日被害者論という建前を守るため口にできない
いくら併合が合法であったと言っても、強制連行ではなく単なる同一国民としての徴用であると言っても
ましてや日本とは何ら関係無い朝鮮民族の民族的階級制度である白丁差別から逃れるために密航してきた上
日本人の罪悪感と責任感からくる特別永住権という制度を悪用したんだろうと言っても無駄
92 :
お邪魔虫:02/05/12 12:17 ID:Ge4Sv81v
それに、この問題はどこからどこまでが旧植民地出身者に対する
特別永住権付与の対象であるか明確な線引きと
なぜ植民地支配を直接受けてないような人間にまで永住権が必要なのか
その説明をしてこないことに起因する
本当に対等な国と国の日韓関係を考えるのなら
こんなこっかてきに考えて根拠の不明瞭な特別永住権制度を廃止するべきだね
帰国に際してもほとんどの在日の出身は南であって
北朝鮮籍の人間は思想的な理由から北朝鮮籍と申請しただけだし
また韓国が戦時賠償を北朝鮮の分まで受け取っている以上
北朝鮮籍の在日の面倒を韓国がみるのははっきりいって妥当だと思う
まぁ帰国にあたって最低ハングル語の教育ぐらいは日本側の負担が必要だろうけど
大量の資本を持って帰国する自国民を拒否する理由は韓国にはないと思うんだが?
93 :
お邪魔虫:02/05/12 12:20 ID:Ge4Sv81v
日本は敗戦し1952年までGHQの占領下で国家としての独立を失っていた。一方、朝鮮
半島では1948年に相次いで大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が樹立、50年には朝鮮戦
争が始まった。 その前年の1949年10月7日、駐日大韓民国代表部はマッカーサー連合国
司令官に「在日韓国人の法的地位に関する見解」を伝え、在日大韓民国国民の国籍は母
国の韓国であり、日本国籍は完全に離脱したと宣言したのだ。日本国籍を離脱、つまり
捨てさせたのは、日本側ではなく韓国政府であり、それに対抗する北朝鮮政府だったのだ。
1952年に日本がサンフランシスコ講和条約を結んで独立を回復した時は、在日の朝鮮半島
出身者は、すでに日本国籍を捨て韓国籍を選ぶのか、北朝鮮籍にするのかで激しく対立し
ていた。日本国が彼らに日本国籍を選ぶか否かなどと言える状況ではなかった。
94 :
お邪魔虫:02/05/12 12:33 ID:GAR7/Waj
佐々木和子議員のSiteから、気骨のある議員がこの国には存在する。
http://www2.tky.3web.ne.jp/~tomokos/report/index.html (1)そもそも参政権は国民だけに与えられる
権利・自由の中には誰にでも与えられるもの(例えば、表現の自由など)もありますが、
参政権はその性質上、国と運命を共にする国民にのみ与えられるものです。世界でも珍しく、
日本は憲法で戦争を放棄し徴兵制度を廃していますし、実際第二次世界大戦後は
幸い一度たりとも戦争に巻き込まれたことがないため、皆が平和ボケしているのでしょうが、
参政権は国を守るべき義務(その最たるものが兵役義務)と表裏一体の関係にあります。
帰化をしないで参政権を得た場合、母国の参政権もあれば兵役の義務もあります。
両国間の利益が不幸にも齟齬した場合、どちらと運命を共にするのでしょうか。
極端な例としては、母国の国会議員になっている永住者さえいるのです(北朝鮮数名)。
(2)憲法で認められていない
日本国憲法は「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」
と定めています(15条1項)。
そして最高裁も一貫して、この規定は「権利の性質上日本国民のみをその対象とし、
我が国に在留する外国人には及ばない」旨、憲法93条2項にいう「住民」とは
「地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当」
と判断しています。
賛成派は、平成7年最高裁判決(小法廷)が「永住者である住民に対し法律をもって
その地域の選挙権を与えることは憲法上禁止されているものではない」
旨述べていることをもって根拠としますが、これはあくまで傍論です。
賛成者はまた、地方は国とは違うと言いますが、また、いわゆる周辺事態法によって
地方が担う役割は大きくなっているのです。
95 :
お邪魔虫:02/05/12 12:34 ID:GAR7/Waj
(3)永住外国人の間でも意見は分かれている
日本での永住者は約63万人(平成11年末)、そのうち特別永住者は約52万人と
大部分を占めています。
特別永住者というのは昭和27年のサンフランシスコ平和条約によって日本の国籍
を失った人たち及び子孫で、そのほとんどが朝鮮半島出身者です。
対する一般永住者は、難しいと言われる帰化に近いほどの様々な条件(素行、独立の生計など)
を満たした者にだけ認められるもので、その数は約11万人。
このうち朝鮮半島出身者は約3万人、残りがそれ以外の国々です(中国、フィリピン、米国、ペルー、ブラジルなど多数)。
そういう人たちにも未だ帰化しない段階で地方参政権を与えるか否かは、国際化を増す日本において、
抜本的な国家政策に関わる問題です。
また、同じ朝鮮半島出身者の中でも推進派は韓国(民団)だけで、北朝鮮(総連)は明確に反対していることに留意すべきです。
民団は参政権を戦争謝罪に結びつけようとしますが、この二つは別次元の問題です。
原点に戻って、なぜ帰化せずに参政権だけ欲しいのか。
彼らは「私達の祖国を奪わないで欲しい」と。自分達の勢力を弱めないために帰化を推奨しないのだとも言われます。
少なくとも帰化すれば幹部にはなれません。
(4)そもそも帰化しないのに参政権が欲しいのはおかしい
日本には、中国出身者が大勢います。彼らは迷わず帰化します。「帰化しても自分たちの民族、文化、伝統は変わらない」と。
在日韓国人が帰化せずに選挙権だけ欲しいというのはおかしい、というのです。
台湾出身の金美齢さんは言います。「参政権は謝罪として恩恵的に与えられるものではない」と。
「私達夫婦は台湾国籍。日本で生まれて育った二人の子どもたちは、成人になってそれぞれ自らの意思で日本国籍を選びました。
それでも私達は互いに信頼し合った家族です。ですが、万が一不幸にも二つの国が戦うことになれば、私達親は台湾のために、
あなた方は日本のために戦うのだと、そういう覚悟はできています。
国籍というのはそれだけの意味があるのです」と。
とても感動しました。
反面、私たちにはなんと国籍への覚悟がないのかと愕然とさせられました。
古森=お邪魔虫
ちゃんと自覚してきたじゃないの
感心、感心(と頭を撫でる)
97 :
岐○:02/05/12 17:52 ID:PnrAq/J6
あの他後発会社罵倒中傷の新聞記事の件どう始末つけるのだろう?
社員は激怒してたんだけど
98 :
卵の名無しさん:02/05/12 23:37 ID:/VRbcpjf
ゾロゾロゾロゾロ
99 :
卵の名無しさん:02/05/12 23:50 ID:4iSjgEmO
社会の底辺ですか?
>>97 いわゆる大人の対応で済ませるつもりなのでは……
100Getできたかな
102 :
お邪魔虫:02/05/13 05:09 ID:PvqjWLAz
カルカッタの大通りを歩くと、いろいろな顔、いろいろな服装、いろいろな寺院が面白い。
欧米とも中国とも東南アジアとも違う。食物屋の多い町で、早朝の市場とおびただしい数の屋台が珍しい。
人間が非常に多いから、毎日が縁日のように賑やかだ。
露店を見て歩くと、ベジタリアン(ガンジーもベジタリアンだった)が多いせいか、
野菜屋、果物屋、豆屋、ジュース屋(砂糖きびの汁や椰子の汁)が繁盛している。
露店で、ヒゲ面のおっさんが並び、生の人参、大根、胡瓜、ピーマン、トマト、オクラなどをムシャムシャ食べている。
日本の立ち食いそば屋の感じである。インド料理店を先頭に、ベジタリアンや、イスラムや、ユダヤや、中国や、イタリア等いろいろな料理屋がある。
マクドナルドもある。通訳は「ベンガル人は暑さには強いが寒さには弱いから、日向ぼっこが好きなんです」と言う。
確かに、町中の公園や芝生に老いも若きも日向ぼっこをしている。
通訳ポールさんは、カルカッタ生まれ。日本で6年間留学した。政治が好きな40才代の活溌なナショナリストで、次のように語った。
「ラオ内閣になって四年だが、国中が明るくなった。正確には、ラジブ・ガンジーの時代に門戸開放政策が確立し、
ラオ時代になって外資が入り、ホテルや工場が次々と建てられている。
日露戦争で日本がロシアを打倒した時、親日感情が高揚した。
老人(70才以上)は必ず日露戦争から、大東亜戦争までと、勇敢な将兵を語るが、
青年は日本の技術力と経済力と援助を語る。そして、老人も熟年も少年もチャンドラ・ボースとINA(インド国民軍)を絶賛する。
もし、『私を総理大臣にしてくれるなら、教育に力をいれたい。インド人に日本人の勤勉性と技術力と向上心がつけば、
インドは世界第一になれるから。日本は素晴らしい国だ』
しかし、韓国は優秀な民族だが兄弟喧嘩(南北朝鮮)に熱中し、恩人の日本を罵倒している。
まことに軽薄な態度である。
韓国はインドの寛大さ(ガンジーの哲学とヒンズー教)と理解力を学んでほしい。
だが我々に泣きどころがある。宗教の対立で深刻極まりない」
103 :
お邪魔虫:02/05/13 05:10 ID:PvqjWLAz
日本人はインパール(ビルマ最西端からインドでの戦争)作戦は悲劇の戦争と見ているが、
インド人は華々しい独立戦争と見ている」から、インパールは、インド東北部のマニプー
ル州の首都で、海抜8百bぐらいである。ちょっと京都に似た盆地の中央にあり、周囲は山
脈である。1944年3月より約半年間、日本軍と英軍はインパール市の争奪戦で古今未曾有の
激戦を重ねた。なかでも、インドの独立を賭けたコヒマ、インパール、アラカン山脈での
戦争には、日本軍(河辺軍団約30万、インパール方面は牟田口部隊3ヶ師団)とインド国
民軍(約7万)が、連合軍(英印軍と米軍と中国軍で、カルカッタの兵站部隊、予備の戦
闘部隊、輸送部隊を含めると約百万)と、ノルマンディー作戦に比較される位の大戦争を
した。残念なことだが、はじめから日本軍は飛行機、戦車、大砲、機関銃、トラックなど
が少なく、戦争が進展しても兵器、弾薬、食糧、薬品の補給がなかった。
一方の連合軍は、飛行機、戦車、大砲、トラックを充分に持ち、、ウインゲート将軍が
空挺団を随所に降下させた。5月は雨期で、6月に入ると豪雨になった。すると、英軍は
武器と弾薬と食糧をパラシュートで補給したが、日本軍は兵器、弾薬、食糧、医薬品が
尽きてしまった。インパール作戦に、兵隊として参加した京大の会田雄次教授が嘆く通
り、日本軍の死者は20万人。この内餓死者が30%にのぼったから大惨敗である。
インパール市(人口約100万人)は、マニプール盆地の中心にある。ビルマ、ブータン、
チベット、ネパール、バングラデッシュ、中国等が近い。住民は、日本人にそっくり。
マニプール人と呼ばれる山岳民族(ナガ族など)が多いから、タイの北東地方を歩いて
いるような感じがした。インドなのに、日本人のそっくりさんが多い。鼻の高いインド
人は非常に少ないが、最近は増えていると言う。
インパール作戦の時、ナガ族などの山岳民族は、日本軍と一緒になって戦った。
インド人は「インパール作戦は、インドの独立戦争である。我々が非力な為に、日本軍
に多大な犠牲を強いてまことに申し訳ない。永久に日本人の好意は忘れない」と力説する。
熱烈に日本軍を誉める親日家は老人だけではない。少年少女が、今戦争を見てきたように、
日本軍将兵の奮闘ぶりを語るので、老人と少年少女の日常会話が偲ばれてならなかった。
104 :
お邪魔虫:02/05/13 05:11 ID:PvqjWLAz
ナガ族は蒙古系である。昔の日本人のように謙虚だし、はにかみやだが、
「武器(槍と弓と刀)は魂」という。尚武の民族で容貌も体格も性格も日
本人に似ている。ジャポニカ種の米を食べているので、ますます親しみ
を覚えた。
街の真中にあるウーメン・バザールを覗いたら、売り子はナガ族の女性
であった。売り手も買い手も日本人に似ているので、真夏の東北地方の
市場と同じだった。淡谷のり子や大原麗子のような美人、柔道の田村選
手のような元気のいい娘さんがいて、胸が熱くなった。「人類学的に、
日本人とナガ族は近い」と主張する学者もいるが、顔と性質と生活様式
と食物は間違いなく日本(人)と同じである。 牧野先生と一緒に町を
歩くと、あちこちでナガ族の青年が、たどたどしい日本語で先生に挨拶
をする。先生がいかにインパールの為に、力を貸しているかが分かる。
先生は不言実行の人で、文字通り日本国を代表する大使である。
インパールの飛行場で、カルカッタの実業家シン氏に会ったが、彼の夫
人はナガ族で、岸恵子に似た美人だった。シン氏は大変な親日家で、次
のように語った。
「インパールに住むマニプール人は日本人に親近感を持っています。以前、
薬師寺の高田好胤師が、遺族と一緒にインパールを訪れた時、私はご一
緒しました。師は、インパール人の親日振りを感じ取って下さったと思
います。私は師の顔が典型的なナガ族なので感心しました」
東大の中根千枝教授は、30年ほど前に「ナガ族が日本軍を礼賛している
ので驚いた」と書いている。
105 :
お邪魔虫:02/05/13 05:12 ID:PvqjWLAz
日本で大評判になっている親日村マバオを訪問した。村の中央にある広場には、
キリスト教(バプテスト)の教会がある。その入口には、ヨーロッパ人(牧師
らしい)の立派な墓が並んでいて、イギリス人の名前が彫ってあった。 ちょ
うど、クリスマスを前にして、広場に万国旗が飾り、盛装の村民が3百人程集ま
っていた。我々が入場すると全員が「メリークリスマス」「メリークリスマス」
と祝福してくれた。 「日本を守る国民会議」代表の松村さんが集まっている
村民に対して、丁寧に―
「みなさんが、日本軍と日本民族に親愛感を持ち、40年以上も日本賛歌を歌い続
けて下さっている、と聞いてやってきました。どうか私たちにも聞かせてくだ
さい」と挨拶したら、村民全部が恥ずかしそうな笑みを浮かべた。30名程の合
唱団が歌ってくれたが、そのハーモニーが美しかった。途中から、村人全員の
大合唱となった。作曲と作詞を担当した老婦人(戦争当時は少女だった)が健
在で、来賓席に座っていた。小さな身体の老婦人は、作詞した当時の思い出を、
次のように話してくれた。「日本の兵隊さんは勇敢でした。私たち(ナガ族)
の模範でした。兵器と弾薬と薬品がなくなったから負けたんですが、日本兵は
死ぬ為に戦っているように勇敢で、胸が痛くなりました。私たちは広島と長崎
に原爆が投下され、市民全部が黒焦げになった、と聞いた時に号泣しました」
村松氏の話によると、この村のことが分かったのは、村の男性が日本のキリス
ト教徒に招待されて、来日した折り、この歌を唱ったからである。インパール
作戦の生き残りの兵隊が、この合唱を聞きに、この村を訊ね、いたく感動して
帰ってから、さらにこの話が広まった、そうである。日本人は、インパールの
山岳を、日本軍とインド国民軍とナガ族の血で染めたことや、おびただしい数
の戦死者が出たことを忘れてはならない。それ以上に、ナガ族が日本軍を助け
てくれたこと、その後、49年間、「戦死者よ安らかに眠れ、日本民族よ再起せ
よ」と歌っていることも忘れてはならないと思う。
106 :
お邪魔虫:02/05/13 05:15 ID:PvqjWLAz
マニプール州は、インドのバルカン半島と言われるほど、小民族間の対立が絶えないところで、
治安が悪いことで有名である。例えば、日本人そっくりのナガ族と、中国人そっくりのクキ族
が絶えず戦争をしているので、ニューデリーの政府は、両民族の対峙する山峡に重装備の戦闘
部隊を派遣している。そのくらいだから、我々のインパール旅行の許可がなかなか下りなかっ
たのである。 我々の泊まっていたホテルのマネージャーは石原慎太郎によく似た男で、聞い
てもらいたいことがある、と言って、次のような話をしてくれた。「黒沢明の『7人のサムライ
』が町で上映されて大評判になった。ナガ族は、みんな村を下りて、町の映画館に出かけた。
あの映画の野武士と、ナガ族の服装や戦い方がよく似ているので感動した。それからというも
のは、クキ族と戦う時に、7人のサムライの戦法を用います」 このマネージャーは、ナガ族で
40才になる。インド人は「ナガ族は、鹿と一緒に走れるほど敏捷である」と言う。どうやら、
伊賀や甲賀の忍者のような体質らしい。
107 :
お邪魔虫:02/05/13 05:17 ID:PvqjWLAz
卒塔婆を建てた村長
インパール作戦で日本軍は惨敗した。シンハ村の村長は次のように語った。
「レッド・ヒルの争奪戦で、戦死した日本軍の将兵の骨をを集める為、村民を
総動員した。村民は丘の激戦を見ていました。日本軍は全滅し、丘は真紅に
染まりました」イギリス軍がレッド・ヒル(真紅な丘)と名づけた理由がよ
く分かった。村長はその丘の麓(ロッパチン村)にレンガを積んで、卒塔婆
(高さ約4b)を建て、毎年、日本軍が玉砕した5月20日には、村を挙げて法
要していると言う。 我々は、ロッパチン村の卒塔婆に参拝し、あつく礼を
申し述べた。卒塔婆の中心に貼られた白い大理石に、雄渾な日本の文字で立
派な追悼の詩が書いてあるので、尋ねたとら、村長は「我等の尊敬してやま
ない牧野財士先生が書いたものです」とほほえんだ。 シンハ元村長は、
「この頃私は呆けましたが、死ぬまで日本兵の墓を守ります。私が死んだら、
息子(現在の村長)が引き受けます。その後は孫が守ります」とまことに実
直である。
この優しい老人の家(村長の家)は、余りにも質素(貧乏)なので心が痛
んだ。竹の家に、竹の寝台、竹のテーブル、鍋釜と槍だけである。
牧野先生は「農地が無かったら老村長はカルカッタに行って出稼ぎ人夫に
なっていた」と教えてくれた。 家の前に3百坪ほどの水田と養鶏場と養鯉
池もある。畑には豆類と薬草が植えられ、やせた小菊や菜の花が咲いていた。
完全な自給自足である。我々がレッド・ヒルを見上げている時、シンハ元村
長は「生き残った兵隊はいなかった」と涙を浮かべてつぶやいた。
108 :
お邪魔虫:02/05/13 05:20 ID:PvqjWLAz
ローマでロベルト医学博士と父上の招待を受けたのは、夫人がインドネシア出身の医学博士だったからだ。
ロベルト博士と七十五才の父上は、イタリアとアフリカの親日熱を詳しく語ってくれたが、親日家が多い
理由は、第一が日露戦争の圧倒的な勝利。第二は大東亜戦争が敗勢になった時に、日本兵は降服しないで
勇敢に戦って玉砕したからだ、という。
ロベルト博士と父上は次のように語った。
「ヒットラー総統とムッソリーニ総統と東條大将の政治手法は余り好きではないが、日本とドイツとイタ
リアの民衆が仲良くすることは良いことだ。現代はアングロサクソンが優勢の時代だが、彼らの政治手法
には問題があるし、超大国アメリカの弱小国に対する干渉は目に余るものがある。戦時中のイタリアの青
少年は礼儀正しく勇敢であったが、アメリカ時代になってから下品でだらしなくなった。アメリカの青少
年とイタリアの青少年の欠点が同じになった。イタリア系アメリカ人が六百万人になってから、アメリカ
の影響が絶大になったので、これからが恐ろしい」
「ロベルトという名前はイタリアに多い。我々はローマとベルリンとトウキョウの頭文字をとったのだと
言ったものです。ロベルト家の人々は今でもそう思っているし、老人はその時代が懐かしいんです。だか
ら、ロベルト家の人々は親日家で『日本やドイツと一緒にもう一度米英と戦って勝ちたい』と言うんです
そもそもソ連が消失したのは、衛星国に日本とドイツとイタリアのような実力があって誠実な国がないか
らだ。アメリカは我々が誠実につくしたから一流国でいられるのに感謝しないんです。アメリカは軍事力
と資源のある、運の強い国だが思いやりがない」
アメリカとその敵 宙に浮いた抑留者の帰国先
ペルーの首都リマにある日本ペルー文化会館で事務局職員として働くカルメン・トミタはアメリカ
のクリスタルシティー抑留所で生まれた。1945年(昭和20年)6月のことである。父の栃尾泰次
郎はペルー南部のアレキパ市で洋品店を経営していて、43年にアメリカへ連行された。1年後
にペルー人の妻ルイサと長男、長女を呼び寄せ、クリスタルシティー抑留所で家族生活を再開し
て間もなく、カルメンが誕生したのだった。横浜市に生まれた栃尾は1915年、24歳でペルーに
移民として渡っていた。だから戦争が終われば1日も早くペルーへもどることを願っていた。
《頑迷な態度》 クリスタルシティー抑留所にいた日本人、日系人は終戦とともに、日本へ、ハワ
イへ、アメリカ西海岸へ、と続々と帰っていった。ペルーから連行されて、残っていた1300人ほ
ども、うちの約800人が45年12月に、他の130人が翌年前半、自ら希望する形で日本へ送還
された。決して強制ではなかったが、彼らはアメリカでは違法滞在者の扱いとなっていた。
ペルー政府もいったん国外へ追放した人間はたとえペルー国籍でも再入国を認めないという頑
迷な態度をとった。だから日本へもどる以外にないと感じた人も多かった。
アメリカ当局は46年3月までに、戦時には全米で合計27あった強制転住の日系人の収容所や
敵性外国人の抑留所のうち26カ所をすでに閉鎖していた。残るはクリスタルシティー抑留所だ
けとなった。そこに留まるペルーから連行された日本人、日系人は最後の抑留者となった。
敵性外国人を本国へ送る作業は国務省の特別部の仕事となった。だが残ったペルーの日本人
たちは日本には帰りたがらず、ペルー政府は受け入れず、国のない違法滞在の人間となって特
別部を当惑させた。アメリカが更に圧力をかけた結果、ペルー政府は46年9月までにペルー籍
の日系人やその家族など100人ほどのみの再入国を渋々と認めた。
《弱者救済へ》 結局、戦争が終わって1年以上が過ぎても、クリスタルシティー抑留所にはペ
ルーからの日本人、日系人合計365人が残っていた。その多くはこのままアメリカ滞在を希望
し、国務省特別部をさらに困らせる結果となった。特別部は彼らに日本行きを強く進めたが、ペ
ルー生まれの人には日本は荒廃した未知の国であり、そこへ移り住むことにうなずく人間はまず
いなかった。
宙に浮いたそんな彼らを救ったのが、ウェイン・コリンズ弁護士である。カリフォルニア州サクラメ
ント出身のアイルランド系の若き弁護士コリンズは当時、「アメリカ自由民権連盟(ACLU)」の活
動家だった。この組織は1920年に理想主義に燃える法律家たちにより結成され、一般市民、と
くに貧困層の人権を守ることを目的としていた。弱者救済の大義の下に政府を相手に法廷闘争
を挑む場合がほとんどだったから、戦後はときには反体制の左翼志向に走ることも多くなった。
だがこのころは政治色はそれほど濃くはなかった。
コリンズは西海岸の日系人の強制転住を違憲だとしてアメリカ政府に法的に挑むうち、日本人、
日系人の救済に広範にかかわるようになり、クリスタルシティー抑留所を訪れた際、ペルーから
の日本人たちの明日をも知れぬ苦境に同情し、憤慨したのだった。
その結果、彼は364人のペルーからの人達の人身保護を求める訴えを連邦地方裁判所に起こ
した。46年6月である。ペルーからの人たちは訴訟が決着のつくまでは違法滞在の立場でも、
無理やりに国外へ追放はされないことが確実となった。
コリンズ弁護士はさらに大きな役割を演じた。この訴訟と同時に、違法滞在で抑留が続いていた
364人の「条件つき仮釈放」を裁判所から獲得し、身元保証人を立てることを条件に、クリスタル
シティー抑留所から解放することに成功したのだった。46年9月、抑留所を出された一行は汽
車で北上し、アメリカ東海岸の国ニュージャージー州シーブルックという小さな町に向かった。
この町にある冷凍食品会社が身元保証人となり、日本人たちを雇うことになったのだった。その
なかには栃尾夫妻とカルメンら3人の子供も含まれていた。この食品会社は収容所から出て落
ち着き先のまだない日系アメリカ人たちも同様に雇っていた。
その後すぐ栃尾の妻ルイサが当時のホセルイス・ブスタマンテ大統領にコネを頼って、直訴の手
紙を出した。ペルーで生まれ育った自分と子供達を日本人の夫とともにぜひとも母国へ帰してほ
しい、という嘆願だった。意外にもこれが認められ、一家は46年末、ペルーへ戻った。以後、栃
尾はリマで小さな商店を開いて働いた。カルメンにはもちろんアメリカでの生活は記憶にない。
「でも父が後年、アメリカへの連行や抑留についてよく語るのを聞きました。戦争まではアレキパ
市で繁盛していた洋品店を連行のために手放し、人に頼んで保管してもらった商品を結局、み
んななくしたのです。父にとっては抑留は一生をだめにする辛い出来事だったのです」カルメン
は日本ペルー文化会館に近い質素な自宅で涙を浮かべながら語った。
《謝罪の手紙》 カルメンは日系人と結婚し、四人の子供を得たが、96年に夫を亡くしたという。
彼女はアメリカで生まれたからアメリカ籍を有している。ペルーの国籍と二重だという。そのため
アメリカで抑留された他のペルー出身者と違って、アメリカ政府から2万ドルの補償金を与えら
れた。日系アメリカ人として不当に抑留されたことに対する補償である。カルメンは93年にアメリ
カのビル・クリントン大統領から送られてきた謝罪の手紙をみせてくれた。
実はペルーからアメリカに連行された日本人、日系人の間では、カルメンを含めて68人が抑留
所で誕生している。その人たちはすでにアメリカ政府からの補償金を受け取った。ペルーからの
他の抑留者はまだ補償の対象にはなっていない。カルメンのような立場の人たちが今後、アメリ
カ政府から他の抑留者への補償を取りつけるための突破口となる見通しも強くなっている。
「抑留が不当だったことは明白です。ではだれの責任でそんな不当な事件が起きたのか。私は
よく考えますが、やはり当時のペルーのマヌエル・プラド大統領が一番、悪かったのではない
か。いくらアメリカ政府から圧力をかけられても、自国内の日本人のそんな連行はできないと断
れば、それで通せたはずです」 カルメンはそんな見方を明確な語調で述べるのだった。
■豆事典
▽アレキパ 海抜約2400メートルの高地にあり、インカ帝国の第4代皇帝マイタ・カパックの時
代に建設された歴史的都市。現在はアレキパ県の県庁所在地となっている。人口は約62万人
で、ペルーではリマ、カヤオについで3番目に多い。また、南部ペルーの文化、宗教、羊毛産業、
商工業の中心地として知られ、リマの中央集権主義に反発する風潮が強い。凝灰岩の白い建
物が多く、「白い町」と呼ばれる。
▽アメリカ自由民権連盟(ACLU) 1920年に設立された法律家の組織。基本的な市民の権利
擁護を目的とする団体で、現在は全米各州に組織をもち、約60人の弁護士と約2000人のボラン
ティアを抱え、毎年約6000件の訴訟を扱っている。「論議の的になればなるほど、迫害を受ける
可能性も大きくなる」「思想そのものでなく、思想を表明する権利を擁護する」との考え方を基本
に、言論の自由、死刑廃止、エイズ患者や移民、同性愛者の権利擁護のための訴訟などに取り
組んでいる。また、旧ナチ関係者やアメリカの人種差別的団体として知られるクークラックスクラ
ン、黒人過激派グループといわれたブラック・パンサーなどのメンバーが被告となった事件の弁
護を引き受けたことがある。
▽日本ペルー(日秘)文化会館 天皇陛下が皇太子時代の1967年(昭和42年)にペルーを訪問し
た際、日本とペルーの文化交流の拠点として作られた。空手、剣道、茶道、折り紙、生け花など
の講習会や、各種の会合に利用されている。また会館内には日本人ペルー移住史料館があり、
日本からの移民の歴史を伝えるさまざまな史料が展示されている。
112 :
卵の名無しさん:02/05/13 06:39 ID:XNTc1koq
かなりまずいことが書かれているのか?
この執拗な荒らしは
>>109 のタイトル
アメリカとその敵 宙に浮いた抑留者の帰国先
↓変更
■ アメリカとその敵 国と国との間で (2)
宙に浮いた抑留者の帰国先
114 :
卵の名無しさん:02/05/13 07:41 ID:u8oMyIE9
96 :卵の名無しさん :02/05/12 15:19 ID:w9r1Ualu
古森=お邪魔虫
ちゃんと自覚してきたじゃないの
感心、感心(と頭を撫でる)
97 :岐○ :02/05/12 17:52 ID:PnrAq/J6
あの他後発会社罵倒中傷の新聞記事の件どう始末つけるのだろう?
社員は激怒してたんだけど
98 :卵の名無しさん :02/05/12 23:37 ID:/VRbcpjf
ゾロゾロゾロゾロ
99 :卵の名無しさん :02/05/12 23:50 ID:4iSjgEmO
社会の底辺ですか?
100 :卵の名無しさん :02/05/12 23:52 ID:JJWrmckA
>>97 いわゆる大人の対応で済ませるつもりなのでは……
100Getできたかな
101 :卵の名無しさん :02/05/13 00:11 ID:u8oMyIE9
>>97 告発の準備中とか聞いたけど・・・・
遠慮するな、何回コピペしても良いから。。。
96 :卵の名無しさん :02/05/12 15:19 ID:w9r1Ualu
古森=お邪魔虫
ちゃんと自覚してきたじゃないの
感心、感心(と頭を撫でる)
97 :岐○ :02/05/12 17:52 ID:PnrAq/J6
あの他後発会社罵倒中傷の新聞記事の件どう始末つけるのだろう?
社員は激怒してたんだけど
98 :卵の名無しさん :02/05/12 23:37 ID:/VRbcpjf
ゾロゾロゾロゾロ
99 :卵の名無しさん :02/05/12 23:50 ID:4iSjgEmO
社会の底辺ですか?
100 :卵の名無しさん :02/05/12 23:52 ID:JJWrmckA
>>97 いわゆる大人の対応で済ませるつもりなのでは……
100Getできたかな
101 :卵の名無しさん :02/05/13 00:11 ID:u8oMyIE9
>>97 告発の準備中とか聞いたけど・・・・
116 :
卵の名無しさん:02/05/13 22:28 ID:ZU+cGvoj
sage
117 :
卵の名無しさん:02/05/13 23:18 ID:XNTc1koq
沢井の社員って給料はいくらぐらいもらってるの?
119 :
卵の名無しさん:02/05/14 01:29 ID:nXVmnnQZ
沢井製薬という会社があります。医家向けが中心なので、業界関係者以外に はあまり知られていないか
も知れませんが、時々新聞に大きな広告を出すこと があるので、ひょっとしたら目にした方も多いのではない
でしょうか。もとも とは昭和4年に創業した大阪の薬局で、戦後、製薬会社として設立されたとい う歴史を持
ち、現在では資本金34億円、年商160億円、従業員500人と いう立派な中堅企業です。ジェネリック医薬
品(いわゆる「後発品」)という 特許が切れた安価な医薬品を専門にする会社で、この業界では東和薬品と
とも に大手二社と云われる存在です。
この会社が労務屋の世界で有名になったのは、だいぶ古い話になって恐縮で すが、昨年10月、97年に
導入した年俸制を廃止したことによります。世間 では、能力成果主義の流れがますます強まる状況にある
わけで、年俸制も拡大 しているわけですが、沢井製薬はせっかく導入した年俸制をあえて月給制に戻 して
しまいました。
この会社は、平成12年度の決算を見ると、17億円近い経常利益を上げて おり、昨年は東証2部に上場
するなど、なかなか良好な経営状況に見えるので すが、平成10年3月期に5億円以上の大幅な最終赤字
を計上しています。こ れは、それまで3年連続の薬価の引き下げ、特に、平成8年4月には、ジェネ リック医
薬品は20〜40%という大幅な薬価引き下げが行われたため、ジェ ネリック大手二社の経営が急速に悪化
したのです。
この時の、大手二社のリストラの進め方が対象的で、東和薬品は、吉田社長 が「向こう一年間は、人員合
理化を伴うリストラは致しません」と宣言し、主 に従業員全員参加による強力な経費節減と新規取引先の開
拓を中心に展開した のに対し、沢井製薬は、盛岡や岐阜など、五ヶ所の営業所を閉鎖、約70人の 管理職
の月給5%カット、社員の1割強に当たる約70人の希望退職を募集と、 人件費にも踏み込んだリストラを展
開しました。その結果、東和も沢井も、過 去最高には及ばないまでも、かなりの水準にまで業績が回復して
います。リス トラのスタイルが対称的になったのは、沢井が大幅赤字に転落したのに対して、 東和は大幅
減益ながらもなんとか黒字を確保していたという事情の違いもある でしょう。
さて、沢井製薬の年俸制は、この「管理職の月給5%カット」とともに導入 されました。すなわち、単に5%
カットだけを行ったのでは、管理職のやる気 に悪影響が大きいので、同時に賃金格差を拡大し、管理職の
賃金総額が減少す る中でも、個人の成績によっては賃金の上がる人もでてくるしくみとすること で、やる気
の向上をはかろうとしたわけです。実際、部長クラスでは950万 円から1300万円の範囲となるなど、大き
な差がつくようになって、5%の カット幅に比べると、こちらの方がはるかに大きいということにしたのです。
このように、沢井製薬の年俸制導入は、若干特殊な必要性に迫られて行われ たものであり、そもそも若干
無理のあるものだったと言えるかも知れません。
沢井製薬では、年俸制廃止の理由を、「チームで活動することが多く、個人 の評価は下しにくかった」と説
明しています。確かに、新薬開発をはじめとす る先端の研究開発のウェイトが高い先発品メーカーに比べる
と、ジェネリック 専業の沢井製薬では、コストダウンや品質向上などの生産技術面での仕事が大 半のはず
で、当然、チームワークによる仕事が多くなるでしょう。だとすると、 チームワークより個人技を中心とする職
場に向く年俸制が適していないという ことになるのも、やむを得ないということでしょう。結局のところ、経営
危機 の時期には緊急避難的に年俸制、格差拡大も必要だったが、経営が安定してく ると、かえってその弊
害が目立ってきたということだと思われます。
年俸制廃止後は、変動部分は賞与の4割強とし、残り6割弱と月給は勤続年 数などで額を決めるという穏
健な制度に改めるそうで、これが沢井製薬に最も 適したやり方なのだろうと思います。
最近、組合の方でも、賃上げ要求を金額から一部率に戻したり、電機連合が 隔年春闘への移行を事実上
先送りするなどの動きが見られます。先進的な制度 や考え方を採用してしまうと、それを元に戻すということ
は、いかにも後退し たという印象になるため、かなりの困難をともないます。しかし、大切なこと はそれぞれ
自らのケースに最適な対応をすることであり、それが必ずしも最先 端のやり方とは限らないことは当然で
す。そう考えると、いったん導入した制 度も、うまく行かなければ元に戻すという決断も大切ではないかと感
じます。
>>118 >株主厚遇。
>さすがIRに強い沢井だけのことはあります
株主と言っても一族が大半ですので、
身内で山分けでしょう。
ボーナスに回してくらはいよ。
122 :
卵の名無しさん:02/05/14 08:51 ID:zDXp3M9O
■ アメリカとその敵 国と国との間で (3)
日系人の権利守った白人弁護士
宇宙船の冒険SFテレビドラマ「スタートレック」などに出演し、アメリカの日系人の俳優としては
おそらく最も知名度の高いジョージ・タケイは、「私の人生に最大の影響を及ぼした3人」の1人
としてウェイン・コリンズ弁護士の名をあげた。96年秋、ボストン地域の多数の大学生を前に講
演したときである。
有名なスターがアメリカ人にはほとんど知られていないコリンズの名を出し「私は彼に会ったこと
はないが、いまの私があるのは彼のためなのです」と語ったことに聴衆は首をかしげた。第二次
大戦中、幼児だったタケイは日系アメリカ人の両親とともに転住収容所に入れられた。そのプロ
セスでアメリカ当局により不当に日本へ強制送還されそうになった人たちのなかに彼の母親が
いた。だがコリンズ弁護士が当局のこの動きを法廷闘争でみごとに阻止した−というのである。
タケイのコリンズ礼賛は日系アメリカ人の歴史を知る人たちには別の意味で驚きだった。コリン
ズ弁護士ほど戦時中、アメリカ内で不当に扱われた日系人、日本人の権利を守るために貢献を
した人物もまずいなかったのに、彼の活躍が日系アメリカ人自身により公の場で手放しに称賛さ
れることは珍しかったからだ。
《無償で弁護》 日米開戦後、間もなく大統領命令で実行された西海岸の日系人、日本人の強
制的な転住と収容に対し、その命令を正面から拒み、裁判へと持ちこんだ日系2世が3人いた。
その1人がサンフランシスコ近郊に住むフレッド・コレマツだった。そのコレマツの弁護を無償で
買って出たのがコリンズ弁護士である。コリンズは大統領命令を不当だと断じて、最高裁まで争
ったが、敗れた。ただしこの最高裁判決は四十年後の一九八三年、無効とされた。
コリンズは日系人国籍離脱事件でも大活躍して、日系人側の権利を守りきっている。戦争も後
半を迎えた四四年、収容所で二年以上も過ごした日系人の間でアメリカ籍を捨てて、日本国籍
を得ようとする動きが起きた。アメリカ生まれの二世三世なのに危険な敵国側とみられ、果てし
なく抑留を強いられる人たちのなかに、こんな状態がいつまでも変わらないなら、アメリカの市民
権を放棄して、日本へいきたいという声が出始めた。
もともと日本への愛着が強かった帰米二世がとくにその先頭に立った。帰米というのは、アメリカ
に生まれながら日本へ教育のために送られ、その後にアメリカに帰ってきた日系二世のことで、
精神形成期を日本で過ごしたため、日本へのきずなが強かった。
《法律の変更》 アメリカ市民がいきなり自分で国籍を放棄することは従来のアメリカの法律で
は認められていなかった。だがアメリカ政府は日本との結びつきの強そうな日系人や、収容に激
しく抵抗する日系人を排除するには便利な方法とみて、あわてて法律を変え、国籍離脱を可能
にした。44年7月のことである。
その結果、45年春までに5千人以上が離脱の意図を表明した。特に日本との絆はなくても、こ
れほど自分たちを弾圧するアメリカにはもういられないと考えた人、周囲や親類がアメリカ籍を
捨てるからやむえをず自分も従った人も多かった。
ところがすぐに戦争での日本の敗北が決定的となった。アメリカ一般の日系人への感情も日系
兵士442部隊のヨーロッパ戦線での大活躍でいくらかは好転し始めた。45年8月の終戦の時
点ではアメリカ籍離脱を悔やむ日系人が大多数となった。それらの人たちの弁護を買って出た
のが、これまたコリンズだった。
コリンズ弁護士はアメリカ政府相手の訴訟で「日系アメリカ人は不当な収容や弾圧を受けたため
に、他の方法がなくアメリカ籍の離脱を願っただけだ」と主張し、日系人のすべての国籍離脱宣
言を無効にすることを求めた。
しかし、アメリカ政府は45年10月、これら国籍離脱者を日本へ送る準備を開始した。コリンズ
はありとあらゆる法的手段を駆使して、この動きを阻み、3年後には戦時の日系アメリカ人の国
籍離脱の宣言自体が無効という判決を勝ち取っている。俳優タケイの母もこの結果、日本へ送
還されないですんだというわけである。
だが、日系アメリカ人や在アメリカ日本人の人権保護のために、これだけ尽くしたコリンズも、日
系アメリカ人の主流派「日系アメリカ人市民協会(JACL)」に対しては、徹底して批判的な態度を
とった。日本とは全く絆を持たず、アメリカ社会への完全同化のみを強く唱えた若い日系2世た
ちで組織されていたJACLは、日米開戦後はアメリカ政府への絶対忠誠を貫くことが唯一の道
だと主張して、強制転住にも積極的に応じることを説いた。JACLの幹部には収容所にみずから
進んで入り、難色を示す他の日系人を非難する人も多かった。
結果として、JACLのそうした路線が日系アメリカ人の今日の成功に繋がったとはいえ、当時は
JACLの側が「日本びいき」とみなした一世や帰アメリカ二世の言動を当局に密告さえしていた。
コリンズはそういう部分を嫌悪したのだった。
「JACLは日系アメリカ人の代表を自称するだけで、仲間の福祉を守らず、特に一世たちの立場
を無視しきった。仲間を不当な強制収容所に連行するに等しい行動をとったヤマイヌの集団な
のだ。私は彼らに嫌悪以外のなにもない」
《激しい非難》 コリンズはこんな激しい言葉を述べ、戦後、JACLの幹部が若返っても、非難の
姿勢を変えなかった。だが、戦後のアメリカ各界で成功を博した日系人はほとんどがJACL寄り
である。戦後の日系社会の主導権はJACLが握ったとさえいえる。
日系アメリカ人の苦闘と栄光の記録もほとんどがJACL派によって書かれてきた。だから日系人
による書にはコリンズ弁護士への言及は少ない。例えば日系の著名なジャーナリストのビル・ホ
ソカワらが書いた『日系アメリカ人の歴史』という大著でもコリンズの活動はほとんど触れられて
いない。ホソカワがJACLの中心人物だったことと無縁ではないだろう。こんな歴史を知る人間
には日系主流派の俳優タケイのコリンズ礼賛は意外に響いたわけである。
そのコリンズ弁護士が、46年夏、日本への送還を拒んでアメリカに残ったため、違法滞在の身
分となったペルーからの日本人、日系人をも弁護したのだった。この法廷闘争でも彼は勝利をお
さめ、360数人のペルー出身者はまず違法滞在を取り消され、アメリカ永住を望んだ300人ほ
どは市民権を取得できるに至った。『涙のアディオス』の著者の東出誓一もその1人で、1958
年にアメリカ籍を得ている。残りの人はペルーへの帰還を認められた。
■豆事典
☆スタートレック 1966年に全米でテレビ放送されて以来、人気シリーズとなり、映画化もされた
SF冒険活劇。宇宙船エンタープライズ号の搭乗員が地球に迫る雲状巨大物体の正体を突き止
め、地球の危機を救うためにさまざまな苦難を乗り越えるストーリーは「トレッキー」と呼ばれるフ
ァン層を生み出すなど世界的な人気を集めた。出演者は代替わりしているが、シリーズは現在
も続いている。
☆ジョージ・タケイ(1940年−) アメリカ・ロサンゼルス出身の日系3世の俳優。大戦中は両親と
アーカンソー州で収容所生活を経験。カリフォルニア大バークリー校で建築学、ロサンゼルス校
(UCLA)で演劇を専攻した。映画「北海の果て」(1960年)以来、幅広く活躍し、「スタートレック」シ
リーズではスール舵手の役でテレビ79話と映画5本に出演した。
☆442部隊 第2次大戦でアメリカ生まれの日系2世は、祖国アメリカへの忠誠心を示すため約
3万3300人がアメリカ軍に志願した。日本語に堪能な2世が太平洋戦線の情報部隊に派遣され
る一方、1943年に編成された442部隊はイタリア戦線からドイツ進攻までヨーロッパ各地を転戦
し、数多くの死傷者を出しながらも、「当たって砕けろ」を合言葉に果敢な戦闘で勇名をはせた。
☆ビル・ホソカワ(1916年−) アメリカシアトル生まれの日系人ジャーナリスト。両親は広島県出
身。大戦中はワイオミング州の収容所で過ごし、46年から西部内陸地域では最大の発行部数を
持つデンバー・ポスト紙の記者となり、論説委員長まで務めた。
☆日系アメリカ人市民協会(JACL) 1930年発足した日系人組織。戦後の70年代に入ってから
は3世が中心となって強制的な転住や収容への補償と名誉回復を求め、88年にはアメリカ政府
による謝罪と1人当たり2万ドルの補償金支払いを獲得した。
126 :
卵の名無しさん:02/05/14 17:43 ID:RAa4M7Ej
ブラックボックス株式会社?
キャラメルボックスを見習ったら。
人気が出るかもよ。
128 :
卵の名無しさん:02/05/14 20:27 ID:z1Sn/hRa
捏○
129 :
病院薬剤師:02/05/14 21:11 ID:zDXp3M9O
同等性試験はまじめにやってくれよ〜 頼むヨ〜
患者が飲む薬だぜ。遺跡の発掘と同じように考えてるのと違うか?
イロイロ聞いてるよ。
130 :
卵の名無しさん:02/05/14 23:24 ID:nXVmnnQZ
up
■ アメリカとその敵 国と国との間で(4)
親子2代で弁護…特赦実現
ペルーから連行された日本人の権利を守るためにアメリカ政府に法廷闘争を挑んだウェイン・コ
リンズ弁護士は、東京ローズ事件のアイバ・トグリ被告の弁護も引き受けている。この事件はカ
リフォルニア生まれの日系二世女性のトグリが第二次大戦中、NHKの海外向け英語ラジオ放
送でアメリカ軍の士気をくじくプロパガンダを流したとして、戦後、国家反逆罪に問われたケース
である。
トグリは日米開戦の5カ月前の1941年(昭和16年)7月、病気の伯母の看病のため単身、日本
へ渡った。この時、彼女は急いでいたので正規のアメリカ旅券を持たずに出発したという。その
結果、41年11月に母国への帰還をアメリカ側から拒まれ、戦争を日本で迎えることになった。
戦争中、トグリはアメリカ籍であることを明確にしたが、日本の軍当局からの圧力でアメリカ軍向
けプロパガンダ放送のアナウンサーの1人となる。一般アメリカ人と変わりのない流暢な英語で
アメリカ軍兵士向けのディスクジョッキー役を果たした。アメリカ軍側はこの放送の女性を「東京
ローズ」と呼んだ。
実際には同種の女性アナウンサーは20人以上いたのだが、終戦後の同僚の間違った証言や
アメリカ人記者の誤報によりトグリが唯一の東京ローズとして逮捕され、49年7月、「アメリカの
敵」としてサンフランシスコで裁判にかけられた。
トグリの父は必死で弁護士を探したが、戦争中にアメリカへの反逆罪を犯したとされる人物を弁
護してあげようという法律家はなかなかいなかった。最後の手段として、日系人の人権保護で定
評のあったコリンズに頼みこむと、引き受けてくれた。しかも弁護料を無料にしてくれた。コリンズ
はこの裁判でトグリはアメリカ側が東京ローズと断じた女性ではないと反論し、戦時の日本で強
制された行為は断れず、実際の放送にも国家反逆の内容はなかった、と主張した。
だがトグリは起訴罪状の一部を有罪と判定され、懲役10年の判決を受けた。実際には7年ほど
の服役で釈放されると、今度はアメリカ当局から国外追放を宣告された。このときもコリンズが
徹底して弁護し、自宅にトグリを2年以上も住まわせて法廷闘争を続け、58年7月には国外追
放措置を撤回させた。
コリンズはさらにトグリの大統領特赦を要請した。そもそも彼女は無実なのだと主張した。服役
は終えても、特赦されれば、全ての過去の罪状は消えて、判決自体が事実上、無効となる。コリ
ンズはこの目的は果たせず、74年に死んだが、既に弁護士となっていた同名の息子がトグリの特赦を見事に実現させたのだった。77年1月19日、ジェラルド・フォード大統領が任期の最後
の日にサインした特赦である。
ウェイン・コリンズはアイルランド系の貧しい移民の家に生まれたアメリカ人だった。苦学して法
律を学び、弁護士資格を取った。彼自身が本来、日本や日系人と特別な関係があったわけでは
ない。むしろアイルランド系が弁護士にせよ、他民族の権利の保護に一身をささげるというのは
当時、非常に珍しかった。
ヨーロッパからの移民集団としては遅い時期にアメリカに着いたアイルランド系の人たちは、移
住の初期には迫害や侮辱の対象となった。その後は意趣返しのように自分たちが後続の移民
グループの中国系や日系への迫害の先頭に立つことが多かった。そんななかから日系人の法
的な守護にスーパーマンのような活躍をするコリンズ弁護士が登場したのである。
私はこういう実例をみると、アメリカ社会の多様な現象を「白人が有色人種を差別し、抑圧する
からだ」という大ざっぱな因果関係に帰すことには、あくまで慎重であるべきだと、改めて感じる。
白人にもコリンズのように人種の垣根を完全に超えて、他民族、他人種のために歴史的な業績
を残した人物が多いだけでなく、一口に白人といってもアングロサクソンに始まり、ラテン、スラ
ブからユダヤまで多層だからだ。
白人の間でも異民族集団相互の複雑な葛藤がある。その差異を無視して欧州を父祖の地とす
る民族を全て白人として一括し、アジアの諸人種を黄色人種としてくくり、もっぱらその両者の距
離を対立軸のみで強調するアメリカ論、世界論は実際の社会現象をゆがめて捉えることとなる。
例えばアメリカの銀行の窓口で日本人がなにかを頼み、係の白人のアメリカ人から不快そうにし
かめ面をされたとしよう。「白人の黄色人種への偏見」という結論を出すのは容易である。だがし
かめ面は単に相手の英語がよく理解できないからであり、もし白人であるロシア人が窓口にきて
同じようにわかりにくい英語でなにかを頼めば、その係が同じようにしかめ面をすることは十分
に考えられる。トラブルをすべて人種偏見に帰すことは、他の現実の要因をみようとしない逃避
の傾向をも思わせる。差別や偏見はもちろん存在する。だがそれをなくそうとする努力は白人の
側でもずっと続けられてきたのである。
一方、コリンズ弁護士の目ざましい人道主義上の実績は、すべて法律を手段とする闘争の成果
だった。その種の闘争を可能にするのは、アメリカが建国の基盤のひとつとしてきた「ルール・オ
ブ・ロー(法の支配)」の原則である。最高の権力者も富者も、最強の組織も、弱者や貧者と同様
に、明文化された法律により均等に支配されるというのが、この原則だといえる。民主主義、人
権、自由、平等などの原則とともにアメリカの基本的な価値体系の一つである。
アメリカはこれら自国の礎石とみなす基本的な価値観を否定し、反抗する相手はためらわずに
敵と断じてきた。第二次大戦ではドイツの動きをナチズムの国家専制主義、日本の動きを軍事
拡張志向の全体主義とみなして、敵と位置づけ、対決した。その敵視のプロセスでは往々にして
暴走もみられた。
アメリカ内の日系人の強制転住やペルーの日本人の強制連行がそんなケースだったことはアメ
リカ自身が認めるに至った。その暴走の過程では、敵を認定する際に指標とした人権、法の支
配などみずからの基本的な価値観から離反するというミスをも冒した。自分の価値観に挑んだ
敵と取り組む際に、肝心の元の価値観から逸脱するという皮肉な軌跡だった。
コリンズ弁護士はペルーからの日本人連行はアメリカの価値基準に照らせば「国際的な拉致」だ
と非難した。ただしその過ちをアメリカ政府の謝罪や賠償によって完全に正すことはペルー政府
の責任の解釈など複雑な要因のために遅れてきた。ペルーから連行された人たちを含む中南
米がらみの日系人、日本人がアメリカ政府を相手に集団訴訟を起こしたのはつい96年の8月で
ある。その歳月の長さこそがこの連行の悲劇の底深さを物語っているともいえよう。
■豆事典
▽東京ローズ 日本放送協会(NHK)は1942年(昭和17年)4月1日から南太平洋戦線のアメリカ
軍兵士向けに英語のラジオ放送「ゼロ・アワー」を開始した。タイトルは放送が午前零時からと言
うことや、日本海軍の戦闘機零戦などにちなんでつけられた。放送は「戦況ニュース」、「捕虜通
信」など15分間で、担当の女性アナウンサーがアメリカ軍兵士から「東京ローズ」と呼ばれた。ア
イバ・トグリが「ゼロ・アワー」に加わったのは43年11月からで、放送では彼女は「みなしごのア
ン」と名乗っていた。
▽ジェラルド・フォード(1913年− ) 第38代アメリカ大統領。第2次大戦では南太平洋で対日
戦に空母乗組員として参加。戦後、弁護士から連邦下院議員となり、下院共和党院内総務を経
てニクソン政権時代の1973年12月、汚職で辞めたアグニュー氏の後を継いで副大統領に就任。
さらに74年8月、ウオーターゲート事件でニクソン大統領が辞任したため、大統領となった。76年
の大統領選では民主党のカーター候補に敗れ、一度も選挙で選ばれなかった大統領として翌77
年1月ホワイトハウスを去った。
▽日系ラテンアメリカ人の集団提訴 第2次大戦中に中南米からアメリカに連行された日系ラテ
ンアメリカ人数百人は96年8月末、アメリカ政府に対し公式謝罪と国家賠償を求める集団訴訟を
ロサンゼルス連邦地裁に起こした。その訴えによるとアメリカ政府は1988年に成立した「市民の
自由」法によって第2次大戦中に強制収容された日系アメリカ人に対する謝罪と1人あたり2万ド
ルの国家賠償を行ったが、同時期に抑留されていた日系ラテンアメリカ人2264人は「不法移民」
だったとして対象からはずされた。原告側はこれを不当として謝罪および少なくとも日系アメリカ
人と同等の補償を求めている。
>>129 同意。
溶出で比較して顕著な差が出るのだから、同等性試験をまじめにやってくれよ、といいたい。
名誉のためにいっておくけど、問題薬剤は沢○製造ではなかったけどね。
■ アメリカとその敵 国と国との間で(5)
反乱の主役にされた帰米二世
「古森さん、憶えて居られますか。私はサンノゼに居た上野義雄です」こんな書き出しの達筆の
手紙を受けとったのは、ちょうどこの連載の内容についていろいろ考えていた今年(97年)1月末
だった。もちろん上野のことはよく覚えていた。14年ほど前、日系アメリカ人の歴史や現状を長
いノンフィクション記事にまとめたときに話を聞いた1人である。その連載記事は『遥かなニッポ
ン』という本になったが、それを書くために会った一世から四世までの日系アメリカ人100人以
上のなかでも、上野は最も強烈な印象を残した人物の1人だった。彼はアメリカ生まれのアメリ
カ籍だから、その名はやはりハリー・ウエノと書くのが適切だろう。
「日本政府の最近の外交官たちは在米同胞を密告して苦境に落とした市民協会(JACL)の幹部
会員に日本の勲章を贈り、多くの一世を侮辱するという悲しい事態を起こしていることをぜひとも
お伝えしたいと思います」ウエノの手紙にはこんなことが書かれていた。続いて送られてきた分
厚い封筒には日系二世の著名ジャーナリストのビル・ホソカワが最近、日本政府の叙勲を受け
たことを報じる新聞記事と、ホソカワが戦時中にアメリカ政府に協力していたことを詳述した解禁
公文書のコピーとが同封されていた。公文書は日系人収容所を管理していた政府機関の戦時
転住局(WRA)の1942年(昭和17年)11月25日付の秘密文書だった。
《アメリカ軍に密告》 当時、WRA管理下のハートマウンテン収容所にいたホソカワは日米開戦
の2カ月前まで日本で1年半ほど新聞記者として働いた。収容所に入ってからは、東京での観察
を基に首都圏の軍事施設、工業施設、交通網などに関する情報をアメリカ軍当局に詳しく報告
し、どこをどう爆撃して破壊すれば、日本の軍事能力に最大限の痛手を与えられるか、などを進
言していた。その報告内容が文書に記されていた。文書は当時は秘密だったが、いまは解禁さ
れ、ウエノの手にも入ったわけだった。
ホソカワはアメリカ生まれのアメリカ人であり、戦時に自国の戦争努力に協力し、敵国の日本の
状況を伝えるのは当然だった。まして戦後はアメリカ言論界で活躍し、日米友好にも寄与し、デ
ンバーの名誉日本総領事を長年、務めてきた。日本側が勲章を与えるのも自然だろう。だがウ
エノからすれば、日本への攻撃に有益な情報をアメリカ軍に提供し、日本の敗北のために努力
した日系人に、なにも日本政府があえて勲章を与えることはないだろう、ということになる。
特にホソカワは一貫して日系アメリカ人市民協会(JACL)のメンバーであり、JACLは強制の転
住と収容に当たってはその不当な措置に全面協力し、少しでもそれに抗する同胞の日系人、日
本人の言動を密告していたではないか、というわけだ。
ハリー・ウエノは一時は「アメリカの敵」として激しく糾弾された。彼は1907年にハワイで生まれ
たが、8歳から16歳までを日本で過ごし、またアメリカにもどった。だから帰米二世である。精神
形成期に日本に住んだ帰米二世の多くは日本人としての強烈な意識を持っていた。開戦時には
ロサンゼルスの商店で働いていたウエノは他の日系人とともに収容されたが、42年12月のマ
ンザナー収容所での有名な反乱事件の主役となってしまった。
誹謗中傷された会社の社員はかわいそうやな。
138 :
卵の名無しさん:02/05/16 00:02 ID:m/42uJXn
誹謗中傷の記事ってインターネットで見れませんか?
>>138 廃刊になった三流新聞の広告(一面)欄みたいなもので、
ニュースの価値もない誹謗中傷だから無理です。
×井の広報にいえば送って貰えるのでは?
《釈放せよ!》 この事件は同収容所内でアメリカ当局への全面協力を唱えたJACLの幹部が
まず覆面の男たちに襲撃されて重傷を負い、その容疑者として、収容所当局者の食料横流しを
かねがね非難していた食堂労働者組合の委員長のウエノが逮捕されたことが契機となった。
ウエノは無実を主張し、収容者の多くも同調して釈放を要求した。収容所内の全成人の6割にあ
たる3千人以上が抗議集会に出て、当局側に「ウエノを釈放せよ!」と叫んだ。実力をも行使し
かねない勢いに当局側は武装兵士を動員し、発砲にいたる。日系人側の2人が死に、9人が重
軽傷を負った。日系人の収容がらみでは最大の流血事件となった。
ウエノはその後、当初の襲撃の刑事責任を追及も立証もされないまま、反乱扇動者として監獄
や留置場を転々と回された。最後はアメリカへの忠誠を拒む人たちを集めたりツーリレーク隔離
収容所に入れられ、終戦を迎える。この間、「アメリカ軍に入り、日本と戦うか?」という問いには
常に「ノー」と答えて「不忠誠」のらく印を押され、みずからアメリカの国籍離脱を宣言する。
日本へ渡り、日本人として暮らすことを一時は決意したが、周囲から止められた。その際にこの
国籍離脱がそもそも無効だという訴訟を起こしてくれたのが、ウェイン・コリンズ弁護士だった。
《精神の支え》 私は1983年の秋、カリフォルニア州サンノゼ市内のウエノの自宅で、じっくり
と彼の話を聞いた。彼はすでに76歳だったが、不当な強制収容に抵抗することは不当ではなく
日本との心情のきずなを断てない同胞を反逆者扱いしたJACLは間違っているという主張を理
路整然と語った。収容所よりずっと過酷な荒野の監獄での暗黒の日々に、内なる日本を精神の
支えにする以外になかったという心情も切々と述懐した。成長期に日本で吸収し、アメリカでの
受難の時期に自分を支えてくれた日本の価値観も、終戦後は大部分が日本人自身により断罪
され、そんな日本に渡ることもできず、ただ黙ってイチゴづくりに没頭するしかなかった戦後の生
活についても話してくれた。
長い秋の夜、やっと話が終わりに近づき、ウエノはもう一度、マンザナーでの当局者との対決を
説明し、「私は絶対に間違ってはいませんでした」と、言葉を結んだところで突然、激しくむせこ
んだ。一瞬、セキをしているのだと思った。だがすぐに彼が号泣を必死でこらえているのだとわ
かった。価値観がどう変わったにせよ、日本とのきずなを断てなかったがために深い傷を負った
人がその悲しみに涙するのをみて、私はごく自然な感動を覚えたものだった。
ウエノとは今回の彼からの便りをきっかけに、電話や手紙で、また頻繁に語りあうようになった
が、彼は「私が直接に関与した日系人受難の裏面史の資料をできるだけ残したい」と、様々な手記や文書を送ってくれた。ウエノはこの4月14日、孫やひ孫にまで祝われながら、90歳の誕生
日を迎えた。どんな問いにでも打てば響くような答えを返してくるはつらつとした彼の長寿は、人
生の不遇な部分を補ってあまりあるのだろうと感じさせられた。
■豆事典
▽マンザナー収容所 全米10カ所の日系人収容所のひとつ。ロサンゼルスの北約360キロに
ある寒暑の激しい砂漠地帯に1942年に開設。広さ約24平方キロで、ピーク時には約1万人を収
容した。収容人口の87%はアメリカに忠誠を誓うかどうかを確認する質問に肯定的に答えた人
たちだった。戦後の45年11月に閉鎖。翌年には陸軍工兵が跡地を整地して痕跡はなくなってい
たが、その後、国立公園事務所による発掘作業が行われ、建物の基礎や病院跡などが確認さ
れた。10年以上の論議の末に今年4月、同事務所が約3.2平方キロを「マンザナー国立史跡」と
して管理し、収容所当時のバラックと監視塔を再現することになった。86人の慰霊碑があり、196
9年以来、墓地を清掃・整備する「マンザナー巡礼」がカリフォルニア州の日系人によって続けら
れている。
▽デンバー アメリカ中西部の交通の要衝で、ロッキー山脈の東の山麓、海抜1609メートルの
高地にあるため「マイル・ハイ・シティ」とも呼ばれる。1858年に近くで金鉱が発見されたため町
ができ、1867年にはコロラド州都となった。鉄道の開通とともに周辺の農畜産物の集散地として
発展。日本人の移民も少なくない。
▽サンノゼ サンフランシスコの南東約75キロにある都市。1950年代まで果樹園の多い田園
地帯だったが、アメリカハイテク情報産業の中心地「シリコンバレー」の中核都市として急激に発
展した。近くのナパバレーと並びカリフォルニア・ワインの特産地でもある。1890年ごろから日系
人が多く住み、主に農業に従事してきた。
▽東京大空襲(昭和20年) 日本を空襲する戦略爆撃機B29は、当初1万メートル以上の成層圏
から進入、主に軍需生産施設を攻撃目標としていた。しかし、3月10日の東京大空襲では午前
零時ごろから334機が東京上空に低空進入、江東区など下町の隅田川周辺を中心に約2000トン
の焼夷弾を投下、東京が文字どおりの焦土と化した。死者の正確な数は不明だが約10万人とみ
られている。
142 :
卵の名無しさん:02/05/16 23:17 ID:m/42uJXn
面白いから上げてみてもいい?
143 :
卵の名無しさん:02/05/17 00:10 ID:SJrS9YJJ
どうせほどんど捏○です。ほおっておいてください。
■ アメリカとその敵 国と国との間で(6)
忠誠と愛着を捨てる苦しみ
1942年(昭和17年)12月のマンザナー日系人収容所での反乱事件で、当局側への抗議の先
頭に立ったのはジョセフ・クリハラという二世である。日系アメリカ人市民協会(JACL)の幹部を
襲った容疑で逮捕されたハリー・ウエノの釈放を求める収容者側交渉委員会のリーダーだった。
彼はすべて英語で収容者には切々と当局の不法を訴え、当局に向かっては理路整然と非を追
及した。
《異色の人物》 「政府は我々のアメリカ市民としての人権を踏みにじり、私のようにアメリカ軍
人としてすでに忠誠を証した市民まで敵性外国人扱いした。我々日系二世は生まれ育った国へ
の恩義を強く感じ、民主主義を守るために武器をとって戦う意思があった。だがアメリカ政府は
我々を日本人の血が流れていることだけで、迫害や差別の対象とした。建国以来最大の間違い
を自国民に対して犯したのだ」こんな言葉を力強く述べるクリハラはその精力的な言動で収容者
の人気の的となり、カリスマさえ感じさせた。彼は多数の日系アメリカ人のなかでも、きわめて異
色の人物だった。
私はクリハラがたどった運命ほど日系アメリカ人への不当な弾圧の一面の真実を雄弁に示す例
はまずないと感じ、非常に重要なケースだと思ってきた。ところがアメリカ側での日系人の歴史
の記録にはクリハラを取り上げた記述は全く見当たらない。日系アメリカ人の主流派のJACL側
が書く正史にはそぐわない言動を貫いた人物だからだろう。
日米開戦とともに日系アメリカ人が西海岸地域から強制的に転住させられたのは、突きつめれ
ば「アメリカの敵」とみなされたからで、「軍事的必要性」が公式の理由とされたが、その根拠は
「日系人が海岸から日本の潜水艦に密かに信号を送る」という程度の推測の域を出なかった。
日系人の側では一方に、「アメリカの敵」という糾弾が不当にせよ、虚偽にせよ、とにかく抵抗せ
ず、もっぱら時のアメリカ当局に服従して、日本に関わる全てを敵視し、放棄し、アメリカへの忠
誠を誇示してみせるグループがあった。他方には、アメリカ民として自国への忠誠や愛着を抱き
ながらも、自分を「アメリカの敵」とする不当な扱いに納得できず、アメリカ当局に簡単には服従
できないというグループがあった。
結果として、JACLを中心とする前者のグループが勝った。戦後に世に出た日系アメリカ人の苦
闘の記録も、ほとんどがその視点からの報告だった。戦争中は、後者の方が前者より人数が多
かったのに、後者の苦境を伝える報告はアメリカ側ではほとんど発表されていない。この後者の
グループの苦しみや悲しみを集約しているのがクリハラの物語なのだ。
今となれば日系アメリカ人の強制的な転住や収容は間違いであり、不当だったことがアメリカの
大統領や議会によって認知されている。その不当をそのまま受け入れたことこそ実は不当であ
り、その不当を不当として抵抗したことこそ正当だったということになる。だがその正当の物語は
なかなか語られない。
《人間の誇り》 クリハラは1895年(明治28年)1月、ハワイに生まれた。二世としては最年長
の方である。若くして本土に渡り、第一次大戦ではアメリカ軍に志願し、兵士としてドイツやフラ
ンスで二年以上、戦った。退役してからはカリフォルニア大学に入り、電気工学や無線工学、航
海術を専攻して卒業する。その後はポルトガル籍の大型漁船の航海士となり、カリフォルニアを
拠点に全世界を航行した。
日米開戦とともにクリハラは漁船の仕事をやめ、軍事関連の任務について、アメリカの戦争努力
に寄与しようとしたが拒まれ、収容されてしまう。アメリカ軍の兵士として戦場で命の危険を冒し
なお在郷軍人でありながら、日系というだけで敵扱いされたわけだ。彼はすでに47歳になって
いた。
マンザナー収容所では当局やJACLに表だって反抗したのは日本人の一世や帰米など日本と
のなんらかのきずながある人が大多数だったが、クリハラの場合、日本を訪れたことはなく、日
本語もできなかった。だが彼は英文の筆が立った。
マンザナーでは反乱の扇動者として逮捕され、各地の抑留所や刑務所を転々としたが、その間
自分の心境を切々と訴える手記を書き続けた。一部は大手雑誌社にも送ったが、掲載されるこ
とはなかった。
「おお神よ!これがアメリカなのか。これが民主主義の偉大なアメリカなのか。ジェファーソンの
唱えた民主主義はどこにある。リンカーンの説いた人種平等はどこにある。立派な市民であるわれ
われは快適な住まいから引きはがされ、牛の群れのようにキャンプに追いこまれた」アメリカ
への忠誠を拒否して、アリゾナ州ループの獄に入れられたクリハラはアメリカ政府の日系人への
措置をこう評し、ついにアメリカとの絶縁を宣言するのだった。
「これほどの屈辱にはもう耐えられない。人間としての誇りを保つ限り、もうこんな弾圧や侮辱は
こらえきれない。ジャップであることを恥じる必要はない。偉大な歴史を持つ偉大な民族の血に
誇りを持とう。私はここにアメリカ政府への忠誠を断ち切ることを宣言する。これからは100%の
ジャップとして正々堂々と胸を張るのだ」
日本語の書けないクリハラは最後をローマ字のバンザイで結び、アメリカ籍を放棄して、戦後す
ぐに、まだみぬ父祖の国の日本へ渡った。日本では貿易の仕事をしながら、東京の目黒区に住
んだ。ずっと独身で、アメリカを再訪することと、富士山のよくみえる場所に住むことが年来の夢
だと友人に語っていたが、そのいずれも果たさないまま71年に東京で病死した。
このクリハラのユニークな軌跡に、マンザナーの反乱から55年も過ぎたいま、日系アメリカ人史
研究では主流派の学者が初めて正面から光をあてようとしている。ハワイ大学社会学研究部長
のアイリーン・タムラがクリハラの生涯を追う論文を書き始めたというのだ。 タムラはまずクリ
ハラの英文の手記を読み、当時の日系人には珍しい大胆で率直で明確な表現に感銘を受けた
という。
「不正には絶対に妥協せず、あくまで戦うと言うことは、よい意味での誇りの高い真のアメリカ人
だったと思います。そのアメリカも、自分を不当に扱うのなら、こちらから捨ててやるという姿勢
は豪快です。でもクリハラはアメリカ的すぎて、戦後の日本での生活は決して幸福ではなかった
と思います」
クリハラの日本での生活は本当に不幸だったのか。もはや問うすべはなくなってしまった。
■豆事典
▽ループ隔離収容所 アメリカ政府の戦時転住局(WRA)は10カ所の収容所のほかに、素行に
問題ありとみられた日系人を隔離する目的で1942年12月、ユタ州モアブの砂漠に隔離収容所を
建設した。翌年4月、この隔離収容所はナバホ・インディアン居留地のアリゾナ州ループに移さ
れ、日系人約80人が家族から離れて抑留された。しかし、移送の際、小さな空気穴しかない約1
メートル半四方の小箱に閉じ込めるなど収容者に対する扱いに「ゲシュタポ方式」との批判もあ
り、43年12月には閉鎖された。
▽トーマス・ジェファーソン(1743−1826年) アメリカ第3代大統領。南部バージニア州の大農園
に生まれ、弁護士となる。アメリカ独立時には独立宣言起草委員に選ばれ、宣言に「自由、平
等」などの理念を盛り込んでアメリカの民主主義の基礎を築いた。初代ワシントン大統領のもと
では国務長官。1800年の大統領選に当選し、8年間の在任中にカナダ国境からメキシコ湾に至
る広大な領域をスペインから購入してアメリカの領土を倍加した。
▽エイブラハム・リンカーン(1809−1865年) アメリカの第16代大統領。ケンタッキー州の農家
に生まれ、弁護士、下院議員を経て1860年の大統領選に共和党から立候補。奴隷解放を唱え
て当選した。アメリカの建国理念「自由と平等」と矛盾する奴隷制は北部では次第に廃止されて
いたが、綿花栽培など人手のかかる農業が産業の中心だった南部各州では、労働力確保のた
めの必要悪とみられていた。このため、翌61年にリンカーンが大統領に就任すると南部諸州が
独立を唱え、南北戦争が始まった。リンカーンは、イギリスが南部の独立を承認するのを防ぐ狙
いもあって、1862年に北軍占領地での「奴隷解放予備宣言」を出し、1863年には「人民の人民に
よる人民のための政府」という有名な「ゲティズバーグの演説」を行っている。南北戦争は南軍
が65年4月に降伏して終結。リンカーンはその数日後、ワシントンで観劇中に暗殺された。
>>137 >誹謗中傷された会社の社員はかわいそうやな。
STSのTSだろ
自業自得みたいなものだが、仲間割れはいかんな
STSは捏造とかインチキの専門と言われていますが、
本当でしょうか。
149 :
名無しno:02/05/17 07:48 ID:ag6UQ7LM
>148
150 :
ある後発メーカー:02/05/17 07:50 ID:sWLU1NgX
うちもSTSみたいにイ○チキやってたら、今ごろ売上1000億
151 :
卵の名無しさん:02/05/17 07:59 ID:HbqDkVZe
>148
STSってなに?
インチキやってる人の名前??
152 :
卵の名無しさん:02/05/17 22:40 ID:E2BPoTmW
沢井の某営業所のMRはよほど自分の会社が嫌らしい
■ アメリカとその敵 共産主義への愛憎(1)
魅力的に映った中国の活動家たち
ペルーの日本人を連行する選別を命じられたアメリカ外交官ジョン・エマーソンは、1943年(昭
和18年)12月、その任務を終え、一転して遠いアジアの戦場へと送られた。ペルーを去る彼は
日本人の連行が結局は人権侵害だったことを認めていた。その連行はいかなる理由でも正当化
はできなかった、と回想録『日本の糸』で述懐している。ただし当時の実情として以下のような説
明もしていた。
「日本との戦争は総力戦だった。パールハーバー奇襲後の敵はどんなことでもやってのけるよう
にみえた。その結果、偏見、憎悪、感情、貪欲などの過剰な悪用が普通のこととして許容される
ようになったのだ」
《熱気と狂気》 エマーソンがペルーを去る時、まだ三歳だった長男のドナルドはいまウィスコン
シン大学の教授である。東南アジア研究を専門とする。戦後育ちの学者である彼から返ってきた
感想も興味深かった。
「ペルーの日本人連行がいま回顧して倫理的に不当だったことは間違いないでしょう。だが現在
の倫理と当時の事実とを混同してはならないと思います。当時は日本が戦争に勝つかもしれな
いという恐れさえあったのです。多数のアメリカ人が各地で殺されていたのです。日本軍が絶対
に南米に攻撃をかけてこないと断言できる人はいなかったと思います」
戦争当時の熱気と狂気のなかでの人間の行動を半世紀後の平時の判断ですべて割りきれはし
ない、ということだろう。さてジョン・エマーソンの次の任務は中国・ビルマ・インド(CBI)地域のア
メリカ軍司令官ジョセフ・スティルウェル将軍の政治顧問団に加わることだった。日本軍を敵とす
る戦争で、エマーソンの日本に関する知識や経験が買われ、国務省から出向の形で軍司令部
に派遣された。そのために彼は四三年十二月十七日、ペルーを発ち、大西洋を越えて、アフリカ
から中東、パキスタンを経てインドのニューデリーに入った。そのころ日本軍は緒戦の怒濤の進
撃の勢いこそ失ったものの、イギリス領植民地だったビルマを完全占領し、インドにまでなお脅
威を与えていた。
スティルウェル将軍の当面の任務は日本軍の進撃を抑えるとともに、中国の蒋介石指揮下の国
民党軍への補給ルートをインドからビルマの北部を通って確立することだった。日本側では援蒋
ルートと呼ばれた補給路である。エマーソンはやがて同将軍傘下の戦争情報局(OWI)という心
理作戦部隊に配属され、ビルマ北部の町ミートキーナをめぐる激戦にも加わる。ビルマ北部で後
退を余儀なくされだした日本軍が44年春、「死中に活を求める」として断行したインパール作戦
の一翼を担った第18師団が、ミートキーナで米中連合軍の猛攻を受けて始まった戦闘だった。
日本語能力のためにOWIの一員となったエマーソンは、この作戦で日本軍への投降呼びかけ
や、日本軍捕虜の尋問にあたった。OWIには日系アメリカ人のヘンリー・ゴショ、ケンジ・ヤスイ
やカール・ヨネダといった兵士たちが加わっていた。彼らはみな帰米二世で、日本語が日本人並
みにできた。ヨネダはアメリカ共産党員という異色の経歴だった。
アメリカ生まれながら少年時代を日本で過ごした帰米二世には平均的日本人よりも強烈な日本
民族のアイデンティティーを持つ人が多かったが、その一方、ゴショやヨネダのようにいち早くア
メリカへの忠誠を明確にして、アメリカ軍に志願した人もいたのである。ただしアジア戦線での日
系アメリカ人将兵の対日心理作戦への参加は欧州での日系人歩兵部隊442部隊のケースとは
異なり、トップ機密とされていた。
1944年夏ごろからCBIアメリカ軍司令部の作戦地域も主に中国へと集約されるようになった。
ビルマでは日本軍が連合軍の猛攻でさらに後退し、インドへの脅威も去ったためである。中国の
飛行場が日本本土の戦略爆撃に使われることも多くなった。四四年六月十五日には成都の急
造の飛行場からB29の初の大編隊が銀翼をきらきらと光らせて飛び立ち、九州の八幡製鉄所の
爆撃を敢行した。
エマーソンはスティルウェル将軍の政治顧問の一員として重慶の蒋介石傘下の国民党政権との
折衝にあたる。国民党軍は日本軍と戦う一方、毛沢東の率いる共産党軍の敵対にも備えねばな
らなかった。共産党軍ももちろん日本軍に戦いを挑んでいた。
《敵の敵は友》 こんな構図のなかでアメリカ軍は中国共産党軍との連携を図る。蒋介石の了
解を得て、連絡と調整のための要員が共産党の本拠のある延安へ送られることになった。「ディ
キシー・ミッション」と呼ばれたアメリカ陸軍のオブザーバー・グループである。このころでもアメリ
カは決して共産主義自体を許容していたわけではないが、日本という強力な共通の敵があった。
敵の敵は友というわけである。
ディキシー・ミッションの第一陣は44年7月、共産党の支配区に入り、延安に着いた。エマーソ
ンは後続の要員に選ばれ、同年十月に重慶から延安へと飛び立った。同じ機上には国務省の
中国専門官のジョン・デービスとOWIの日系人軍曹コージ・アリヨシが同様の要員として乗って
いた。そして雑誌タイム・ライフの記者セオドア・ホワイトも共産党支配区の実態を報道する特派
員として同行していた。陜西省北部の山岳地帯に位置する延安では、共産党の厳格な規律の
下に、みずから信じる理念に身をささげる闘士たちが日夜、活動していた。その光景や雰囲気は
アメリカ人の訪問者を魅了した。アメリカのマスコミの特派員たちは延安からすでに最上級の表
現を使って熱狂的な報道をしていた。エマーソンもその呪文のような魅力に屈したことを認めな
がら、第一印象として次のように書いた。
「私は冷えた空気と陽光と目前に迫った丘陵とに魅せられたのかもしれない。ここでの中国料理
はすべておいしく、私たちの滞在は快適だった。ビルマでの生活や携行食料とはまるで違う。す
べて金銭ずくのペルー、だらりと眠ったようなインド、そして無秩序の重慶とくらべると、ここは真
のユートピアだ」 エマーソンはこの中国共産党の本拠での自分を「突然、宗教に目ざめた改宗
者」と評し、その初日をためらわずに「勇敢なる新中国での第一日」と書いた。共産主義の活動
家たちの姿は三十六歳のアメリカ外交官エマーソンの目には、きわめて魅力ある存在として映っ
たのだった。彼自身、そのときの共産主義への接近がその後、自分の運命を大きく変えるように
なるとは、知る由もなかった。
156 :
卵の名無しさん:02/05/17 23:59 ID:SJrS9YJJ
ゾロ○○軍団の○○ はなんなのですか?
■豆事典
▽援蒋ルート 日米開戦前から英米側は仏印(現ベトナムなど)、ビルマ、ソ連のいわゆる「援蒋
ルート」経由で、中国・重慶の国民党政府に軍需物資を送っていた。最も太いパイプだった北部
仏印に日本軍が進駐(昭和15年)すると、アメリカは対日くず鉄禁輸、イギリスは閉鎖していたビ
ルマルートの再開を決定。開戦後はビルマルートが最大の補給路となった。
▽インパール作戦 昭和19年(1944年)3月、ビルマ・インド・中国国境を通る援蒋ルートを断ち
切る目的で、ビルマから日本軍約10万人がインドのインパールを目ざし進撃。補給や兵力の差、
制空権のないことなどを無視した作戦は、米英軍の圧倒的火力・兵力による反攻を受け、日本
軍は壊滅的打撃を受け撤退した。戦死傷者約7万2000人の多くは敗走中に病気や栄養失調で
倒れ、国境沿いのチンドウィン川周辺は「白骨街道」と呼ばれた。太平洋戦争で最も犠牲の多か
った作戦の一つとされる。
▽ミートキーナの攻防 昭和19年5月、水上源三少将以下約3000人の日本軍が守備していた
ビルマ北部のミートキーナの飛行場をアメリカ軍が奪取し、約80日間の激しい攻防戦が続いた。
日本軍は8月2日、負傷者をイカダでイラワジ川に流し、約800人が脱出。飛行場確保により連
合国側はインドから中国への空輸量を5月の約3700トンから7月の約2万5500トンに増やした。
▽中国国民党政府 辛亥革命(1911年)の翌年、孫文を中心に成立した中国最初の共和政府。
孫文の死後、蒋介石が後継者となり、北方軍閥との抗争(北伐)や中国共産党との連合、分裂が
続いた。日中戦争が始まった1937年、第2次国共合作で共産党との内戦を中断。日本軍が南京
・武漢を攻略したため奥地の四川省・重慶に逃れて抗日戦を続けた。終戦後は南京に戻った
が、国共内戦(1947年)に敗れ台湾に逃れた。
>>156 ○○は ”捏造”、”改竄”、”偽造”、”誹謗”、”中傷”等
何でもいいのでは、○井とは無関係の単語です。
>>158 >何でもいいのでは、○井とは無関係の単語です。
赤いカードの丸井と無関係だとは思うが、沢○とはどうだろう。
160 :
卵の名無しさん:02/05/18 09:30 ID:lnF4MqA8
ブラックボックスということでご勘弁ください
161 :
卵の名無しさん:02/05/18 11:03 ID:jKnUUHmO
プロレスは八百長かどうかと同じレベルの議論
永遠のなぞということでこの話題は終わり〜〜〜〜
お疲れさまでした〜〜〜〜
■ アメリカとその敵 共産主義への愛憎(2)
アメリカ外交官と日本共産党の共闘
中国共産党の戦時中の本拠、延安を訪れたアメリカ外交官ジョン・エマーソンは、周恩来が主催
する夕食会に招かれた。一九四四年(昭和十九年)十月末のことである。新たに延安入りしたエ
マーソンら中国・ビルマ・インド地域アメリカ軍司令部付きの政治顧問たちを歓迎する夕食会で
は、彼はホスト役の周の隣に座らせられた。エマーソンは周を「元気にあふれ、熱情的で、表情
豊かな人物」と評した。周はそう上手ではないものの英語とフランス語でアメリカ人の賓客たちと
会話を交わした。
エマーソンらは夕食後、周恩来の宿舎に招かれる。黄土丘陵の頂上近くに掘られた洞窟の中の
宿舎だった。アメリカ国務省の中国専門官のジョン・デービスとジョン・サービスが一緒だった。
後にエマーソンを含めて「三人のジョン」と呼ばれる政治顧問トリオだった。周の宿舎にやがて毛
沢東が悠然と姿をみせる。
「毛沢東が部屋に入ってきた。彼は広い額の後ろに短く刈りこんだ髪の大男だった。輝く聡明そ
うな目や若々しい顔は芸術家を思わせた。ピアニストのようにもみえた。現地産の毛織りの暗青
色の人民服を着ていた」
当時、エマーソンが書いた毛の印象の記録には好感や尊敬がにじんでいる。人民軍司令官の
朱徳将軍もこの集まりに加わった。朱はゴリラのような屈強な体駆に、シワの深い不敵な風貎の
人物だった。毛、周、朱という三人こそが中国共産党の三中枢だった。
デービスとサービスはいずれも中国生まれで、中国語を自由に話したが、毛沢東の湖南のなま
りが強く、会話は通訳を必要とした。毛や周は日本軍や国民党軍と戦うためにアメリカの支援を
切望しており、エマーソンらには最大級の友好的もてなしをした。一方、アメリカ側は共産主義に
は警戒を抱き、国民党の蒋介石支援の優先方針こそ変わらなかったが、当面の最大の敵の日
本を倒すためには、中国共産党との連携も必要だった。とくに共産党の支配区内の軍事拠点の
利用や、共産党を通じての日本軍の動向に関する情報の入手が貴重だと考えられていた。
《洞窟の家》 エマーソンは延安で日本共産党の野坂参三とも親交を深めた。ソ連共産党が組
織したコミンテルンの執行委員でもあった野坂参三は岡野進という活動家としての偽名を使って
いた。李貴という中国名を使うこともあった。1940年から延安にきていた野坂は、国際共産主
義の連帯の名の下に、中国共産党を助けながら、もっぱら日本の敗北を早めるための工作に努
めていた。具体的には中国大陸で戦う日本軍将兵に反戦を呼びかけ、捕虜となった日本将兵の
思想改造教育にあたっていた。
エマーソンは日本という共通の敵のために野坂にも協力を求め、洞窟のなかの彼の住居を訪れ
ることも多くなった。野坂はこの石の家に、日本語の流暢な若々しい中国女性の現地妻と一緒
に住んでいた。エマーソンは野坂と夜を徹して日本語で語りあい、野坂は共産主義者としてのそ
れまでの活動についてだけでなく、自分のごく個人的な体験や思考についても、エマーソンに打
ち明けるようになった。
野坂参三は延安で日本軍の捕虜を集めて、「日本人民解放連盟」という共産主義の組織をつく
り、反戦活動を繰り広げようとしていた。そのメンバーとなった日本人元将兵に思想教育をする
ための「日本労農学校」が絶壁の側面をくり抜いた洞くつの中に設けられていた。エマーソンは
何度かそこに招かれ、野坂らに求められるまま、日本語で講義をもした。アメリカの民主主義に
ついてのスピーチで、日本人の生徒たち130数人は熱心に耳を傾けたという。
エマーソンは野坂に対しても周恩来らに感じた親しみと敬意とを明らかに抱いていた。この頃に
は52歳になっていた野坂が、その後、日本共産党の第一書記、議長、名誉議長となりながらも
1992年、100歳にして名誉議長のポストを解任され、党から除名までされるとは、もちろん誰
も想像もできなかった。 <禁断の果実>
しかしエマーソンが延安で共産主義や共産主義者に対してみせた態度は、おもしろい。回想記
の『日本の糸』では素直に中国や日本の共産主義者たちに魅せられたことを認めている。「延安
で実際に活動する生身の共産主義者たちと友好的かつオープンに交流し、中身のある意思疎
通を奨励されることは、新しい刺激的な体験であり、禁断の果実を味わうことにも似ていた」
1920年代から30年代にかけて学生だったエマーソンは、初の共産主義国家としてのソ連の誕
生を眺め、その動きを頑迷な旧習にしばられた封建ロシアにとって、新規の実験のドラマと受け
取った。マルクス・レーニン主義やスターリン主義の教理をとくに学ばなくても、そこになにか前
向きの新しい風、新しい潮を感じていた。だが同時に共産主義の持つ個人の自由や人権の抑圧
という暗い側面も、さんざんに聞かされてきた。だから毛沢東、周恩来、野坂参三らが説く共産
主義の教えにも、すべてをまともに信じないよう自戒に努めていた。なおそれでも共産主義の持
つ平等とか無私という側面に引かれていく。
その理由の一つには中国共産党幹部がエマーソンらアメリカ側要員には、もっぱら民主主義と
か農業革命という封建制度からの脱却の要因を強調し、共産主義や社会主義の本来、持つ厳
しい規律の面を後退させ、薄めてみせたからだろう。第二には、ソ連という世界最大の共産主義
国はいまやアメリカにとって、ともにドイツや日本と戦う連合国の同盟パートナー同士となってい
たこともあろう。だからエマーソンらも、結果として共産主義者とは不倶戴天の敵対関係しかあり
えないといったアメリカの典型的な態度は、当然ながら中国ではとりえなかった。
むしろ共産主義者の語るところを広範に聞いて、そのよい部分だけを勝手に拡大するという姿
勢が強かった。後にエマーソンは延安では共産党が民主主義について語ることを真に受けすぎ
た、と書いている。あとになってやっと「毛沢東の民主主義とトーマス・ジェファーソンの民主主義
とは同じではなかった」ことが分かったというふうになるのである。このへんの自省や批判は、第
二次大戦前後までのアメリカ一般の共産主義観をも忠実に反映しているといえる。
■ 豆事典
☆野坂参三(1892−1993年) 大逆事件の影響を受け日本共産党に入党。2度検挙され、「眼病
の悪化」を理由に保釈中の昭和6年(1931年)、ソ連に亡命した。第2次大戦中は延安の中国共
産党に協力して反日宣伝工作を行い、戦後は帰国して昭和33年から昭和57年まで共産党議
長。ソ連亡命中に同行した日本共産党指導者の山本懸蔵をスパイと密告したため、山本が銃殺
されていたことが旧ソ連内部文書で判明して平成4年(1992)に党を除名された。翌93年11月14
日、101歳で死去した。
☆毛沢東(1893−1976年) 中国・湖南省の農家の出身で、1921年に中国共産党の創立に参
加。31年には中国南部の江西省・瑞金に「中華ソビエト共和国」を樹立し主席となる。中国共産
党は国民党軍に追われ、34年から約1万4000キロの大西遷(長征)で中国北部の陜西省・延安
に逃れたが、37年の第2次国共合作により、逆に国民党とともに抗日戦を進めた。日本降伏後
は内戦で国民党を台湾に追い落とし、49年に中華人民共和国を誕生させる。毛沢東は国家主
席となり、60年からのソ連との対立、対米接近を進める一方、65年には「文化大革命」を起こした。
☆周恩来(1898−1976年) 江蘇省の地方名家の出身。1917年には日本、20年からはフランス
に留学した。欧州では当時、国際共産主義運動組織コミンテルンの活動が活発で、中国の留学
生にも影響を与え、周恩来は留学中の22年、中国共産党に入党した。34年には革命軍事委員
会副主席として、長征に参加。中国共産党指導部には当時、軍事指導をめぐる対立があった
が、主流派の一員の周恩来が35年に自己批判し、毛沢東による指導権確立への流れを作った。
中華人民共和国では国務院総理(首相)として毛沢東のもとでナンバー2の座を保持した。
☆朱徳(1886−1976年) 毛沢東、周恩来と並ぶ中国共産党の最高指導者。軍事問題の専門家
として抗日戦で国民革命軍第八路軍などを率い、中華人民共和国成立後は全国人民代表大会
の常務委員長など党長老としてまとめ役にまわった。
>>165 ゾロが面白かったらあきまヘん。ゾロは日陰の商売。コピー専門です。
ゾロの語源はこそドロのドロがゾロに変化したと社長に伺いました。
167 :
卵の名無しさん:02/05/18 22:25 ID:lnF4MqA8
「ゾロは捏○かどうか」を詮索するということは「プロレスは八百長かどうか」を
明らかにするようなものというお話はまことに説得力がありました。
168 :
卵の名無しさん:02/05/18 22:29 ID:9M23L3QY
>>167はバカか?
同じレベルで考えることじたいが
おかしい
それに説得させられるとはバカ以外の何者でもない
169 :
卵の名無しさん:02/05/19 00:04 ID:1imzbZXg
プロレスが八百長かどうかということと仮にゾロでも医薬品のインチキを
同次元で考えるべきではない。
腐っても人の命にかかわる医薬品だということは忘れるな!
■ アメリカとその敵 共産主義への愛憎(3)
過激、攻撃的言辞飛び交う論争
首都ワシントン北西部の閑静な一角にキャンパスが広がるジョージタウン大学は、アメリカでも
最古のカトリック系大学である。キャンパスの中央にそびえる元教会の尖塔はポトマック川対岸
のはるかバージニア州側からでもすぐ視野に入り、夕暮れには壮観なシルエットを描く。
いまや宗教の別なく全世界からの学究の徒が集まる同大学には多彩な学部があるが、特に有名
なのは外交官養成大学院である。この大学院は1919年にエドマンド・ウォルシュ神父により
創設された。
ウォルシュはアメリカの共産主義への対応の歴史では特筆される人物である。共産主義を敵と
して闘いを挑んだアメリカの多様な勢力、そのなかでも、カトリックは常に最も堅固な一角だった
が、その支柱となったのがウォルシュ神父だったのだ。
《宗教の否定》 彼はロシアの歴史を専攻する学者として実績をあげ、22年にローマ法王に認
められてカトリック教のロシア飢餓救済ミッションの団長に任命される。法王の特使として新生の
ソビエト連邦を訪れ、飢餓の救済とともに、当時すでに共産主義政権に弾圧され始めていたロシ
アのカトリック教会の保護に努める。 だがマルクス・レーニン主義の宗教否定は着実に進めら
れ、多くのロシアのカトリック指導者が一方的な裁判で弾劾されていった。ウォルシュはこの2年
間のソ連滞在で共産主義への激しい反発を理念として固め、アメリカに帰ってからの一生を反
共闘争にささげることとなる。
ペルーから中国へと送られたアメリカ外交官ジョン・エマーソンは1932年、ジョージタウン外交
大学院で学長だったウォルシュ神父の講義を受けている。だがエマーソンはロシア革命やマル
クス、レーニンの悪について説くウォルシュの講義は退屈だったと述懐している。それに比べて
ソ連の「労働者の天国」や共産党のロシア近代化を礼賛した若手のアメリカ人社会学者の講義
の方がずっと面白いとももらしていた。
若きエマーソンがこのころ共産主義にとくに警戒も反発も抱いていなかったことは時代の背景も
大きな理由となっていた。1929年から大恐慌に襲われたアメリカ社会では共産主義者や社会主
義者が貧困層の代弁者として人気をやや回復していたからである。しかしカトリックの教徒や教
会はソ連の宗教の抑圧や教会の弾圧に抗議して、アメリカ内での共産主義への強固な反対の
姿勢を崩さなかった。
1931年10月、国際的に有名なイギリスの劇作家ジョージ・バーナード・ショーが10日間のソ
連訪問から帰り、アメリカのCBSラジオで「ソ連の共産主義の実験」への礼賛を述べ、アメリカ側
で共産主義に反対する人たちを「頑迷で時代遅れ」と批判した。ウォルシュはカトリックを代表し
てただちに同じラジオで同じ長さの放送を求め、反論した。
「わずか10日間、ソ連共産党政治局の宣伝プロが巧みにアレンジしたみせかけの『ポチョムキ
ン村』や、その他の選別された場所をみただけで、わが尊敬すべき道化師は全ロシアの業績を
アメリカと比較できると思っているようだ。アメリカ人にモスクワの実験を採用しろというのは、ア
メリカ憲法を放棄しろということに等しい。そんなことを唱えるショー氏はイカサマ師という以外に
ない」いくら論争とはいえ、大作家をつかまえて道化師とかイカサマ師と断じるのは過激である。
ウオルシュの言葉は神父のものとは思えないほど攻撃的に響く。だがこの過激で攻撃的な言辞
こそ、アメリカで1910年代の終わりから続いてきた共産主義論争の特徴なのである。この論争
にはカトリックのほかにユダヤ系組織、社会主義者、労働組合、リベラル国際主義者、黒人団
体、産業組織などが複雑に、猛烈にからみあってきた。その争いはアメリカの内政から外交まで
を揺るがし、社会のあり方の基本についての議論にまで及ぶのがふつうだった。
《せめぎあい》 アメリカが共産主義にどう対応したかは、そのまま20世紀の世界の政治史の
核心を構成する。アメリカ内部では共産主義への対応は多様な時代も長く続いた。単純にいえ
ば、愛憎が交錯した反応だといえるだろうが、愛の部分が主流として正面に出ることは決してな
かった。水面下でも憎が圧倒的に多かった。賛成と反対に分ければ、アメリカでは共産主義へ
の反対が一貫して大多数であり、その姿勢が基本部分で揺らぐことは決してなかった。その意
味では共産主義はいつもアメリカの敵だった。
アメリカが共産主義を敵とみて、どう対応したかと言う歴史はアメリカとソ連のせめぎあいの歴史
でもある。1917年11月にウラジーミル・レーニンが率いる共産主義ボルシェビキがロシアの社
会民主主義の臨時政府を倒し、ソビエト政府の樹立を宣言してから、91年12月にミハイル・ゴ
ルバチョフがソ連共産党の消滅を宣言して、ソ連邦が解体されるまでの74年間、この20世紀
全体の4分の3近くを占める歳月、アメリカとソ連の関係の曲折が世界の動きを形づくってきた。
だからアメリカの共産主義という敵への対処は、20世紀の展開そのものなのである。
さかのぼれば、アメリカと共産主義のソ連との関係は、イデオロギーの相違は別にしても、その
スタートから険悪だった。アメリカは1917年3月に帝政ロシアを倒した社会民主主義勢力の新
政権を歓迎した。それまで踏み切れなかった第一次世界大戦への参加を決め、ドイツへの宣戦
を布告する。ロシアを助けてドイツを討つという構えだった。だがその17年の11月の革命で登
場してきたロシアのボルシェビキ政権は勝手にドイツとの講和へと歩み始めた。ロシアの救援を
主要な理由として参戦を決断したウッドロー・ウィルソンアメリカ大統領にとっては裏切られた思
いだった。
そのうえにレーニンは1918年8月、「アメリカ労働者への書簡」を発表し、アメリカの労働者に対
し支配階級の打倒へと決起することを訴えた。19年3月には、モスクワで世界各国の代表が集
まって初の共産主義インターナショナルの大会が開かれた。コミンテルンと呼ばれる国際共産主
義組織のスタートである。この組織の最大目的は「世界のブルジョア支配の秩序を革命によって
打ち倒す」ことだった。そのための進撃路の行方に立ちふさがる最強の敵がアメリカだったので
ある。
このときの共産主義者たちは1年のうちに全ヨーロッパを共産化すると豪語していた。そのプロ
セスではコミンテルンはアメリカのウィルソン大統領の主唱でできた国際連盟に対抗する存在だ
ともされていた。
■豆事典
▽ロシア革命 1905年の第1次革命と17年の革命があり、日露戦争の敗北なども遠因となった
第1次革命では皇帝ニコライ2世が立法議会召集などを約束した。第1次大戦末期の17年3月
(ロシア暦2月)に起きた2月革命では民衆ほう起がロシア全土に広がりニコライ2世は退位。ロ
シアは臨時政府と労働者・兵士代表ソビエトの二重政権状態となった。さらに同年11月(ロシア
暦10月)の10月革命ではボルシェビキが武装ほう起してソビエト政権を樹立した。
▽ジョージ・バーナード・ショー(1856−1950年) アイルランドのダブリンで生まれ、ロンドンでジ
ャーナリストとなる。劇評家、劇作家として活躍する一方で、穏健な社会主義者として1884年に
はイギリスの社会主義団体、フェビアン協会の設立にも参加。代表作に生命の哲学を描いた「人
と超人」、ミュージカル「マイ・フェア・レディ」のもとになった「ピグマリオン」などがある。
▽ボルシェビキ マルクスの革命論に触発されたロシアの知識人らが1898年に結成したロシア
社会民主労働党は、1903年の第2回大会で、職業革命家の前衛党を目指すレーニンと、ブルジ
ョア(資本家)革命を経てプロレタリア(労働者)革命の段階が来るまで大衆政党でいるべきだとす
るマルトフらが対立。党中央委員会の選出で多数を占めたレーニン派が自らをボルシェビキ(ロ
シア語で多数派)、マルトフ派をメンシェビキ(少数派)と呼んだ。ボルシェビキは革命で政権を奪
うと党名を「ロシア共産党(ボルシェビキ)」と変え、「全連邦共産党(ボルシェビキ)」を経て52年、ソ
連共産党となった。
▽ウッドロー・ウィルソン(1856−1921年) 第28代アメリカ大統領。第1次大戦末期の18年1月、
「平和14カ条」と呼ばれる戦後処理の原則を発表して国際連盟の創立を提唱。しかし、アメリカは
議会の反対で国際連盟に加盟せず、ウィルソンの理想主義は急速にアメリカ民の人気を失っ
た。ウィルソン自身も病に倒れ、21年に失意のうちに大統領の座を去った。
173 :
卵の名無しさん:02/05/19 01:20 ID:Jm24ZYyo
uzai
■ アメリカとその敵 共産主義への愛憎(4)
“反共”の言葉に「ナチ」のレッテル
1918年にウラジーミル・レーニンがアメリカの労働者の決起をアピールして間もなく、アメリカ
国内では不気味な事件が相次いだ。19年4月28日、北西部のシアトル市でオリ・ハンソン市長
宅に爆発物が届けられた。翌日には南部のアトランタでトーマス・ハードウィック前上院議員宅
に送られた爆弾が実際に爆発した。5月1日のメーデーを記念するかのごとく、その前後の数日
間にアメリカ各地で同様の爆破の試みが30数件も報告されたが、共産主義者や社会主義者を
摘発する側となった司法関係者が標的となっていた。更に、6月2日には首都ワシントンでミッチ
ェル・パーマー司法長官宅が爆破されるに至った。過激なストも各地で繰り広げられた。
こうした動きはソ連の共産主義政権と有形無形の繋がりがあるとみなされた。モスクワに誕生し
たコミンテルンは明確に世界革命を主唱していたからだ。アメリカ内でもこのころ共産主義への
信奉を宣言する活動家は珍しくなかった。ロシアやドイツの活動家がアメリカに居住するケース
も多かった。組織としてソ連のボルシェビキとまず連帯の手をつなごうとしたのは、既存のアメリ
カの社会党の一部勢力だった。19年8月に社会党左派が分裂して、アメリカ共産党と共産主義
労働党とを組織する。前者はロシア語やドイツ語を話す外国人が中核のグループ、後者は英語
のグループだった。
《取り締まり》 アメリカ内では当時、共産主義を世界に新風をもたらす魅力の政治理念として
歓迎する向きは少なくはなかった。人類を階級抑圧から解放する新思想というわけだ。例えばボ
ルシェビキ革命を目撃したアメリカ人ジャーナリストのジョン・リードは『世界をゆるがせた10日
間』という著書でアメリカ国内進歩派のヒーローとなった。だが共産主義の私有財産の否定、個
人の自由の抑圧、反対勢力の弾圧などの過酷な実態が明るみに出るにつれ、大多数は警戒し
反対するというアメリカのイデオロギー構図の基本が固まっていく。
アメリカ国内で共産主義への過激な封じこめ作戦を最初に実施したのは、後にFBI(連邦捜査
局)の伝説的な長官となるエドガー・フーバーだった。1920年1月初め、彼は24歳の若き弁護
士だったが、パーマー司法長官の特別補佐官として過激派対策を任され、アメリカ国内23州で
合計4千人もの共産主義者とそのシンパを逮捕するという無謀な大取り締まりをやってのけた。
共産主義を一応は勉強し、「コミュニズムはアメリカニズムの否定になる」と信じ、アメリカ内の共
産主義者たちはモスクワからの秘密指令で国内の体制を転覆しようと図っている、と断じての大
検挙だった。
フーバーの追及の主対象はアメリカ共産党と共産主義労働党だった。司法省の捜査局には動
員できる係官は580人ほどしかおらず、全米在郷軍人会などのボランティアを得ての逮捕作戦
となった。とにかく相手が多いから、逮捕や拘留の手続きは無茶苦茶となった。容疑の証拠も不
十分、尋問の手順もルール違反といったケースが相次いだ。全体として明らかに過剰な取り締
まりとなった。その結果、フーバーは厳しい反撃を受ける。取り締まりの対象となった共産主義
や社会主義の信奉者グループだけでなく、人権を重視する「アメリカ自由民権連盟(ACLU)」の
ようなリベラル系団体からの抗議も激しかった。
フーバーの共産主義への攻撃自体、「アカの脅し」と断じられ、信頼性を薄めていく。ここで初め
て「反共」という言葉に独特のネガティブな意味がからむようになった。
反共というのは共産主義への反対を名目に国民の生活にずかずかと踏みこみ、人権を勝手気
ままに侵害し、ナショナリズムや愛国主義を叫びながら、特定の自己の政治や経済の規範を押
しつけようとするウルトラ右派の集団−というイメージが生まれたのだ。以来、反共の側はこの
イメージに悩まされる。共産主義の悪や罪をごく客観的に説く際にも、まず自己の公正を証さな
ければならなかった。共産主義政権が「プロレタリア独裁」の名の下に多数の個人を抑圧し、抹
殺していても、それを指摘すると「反共」のレッテルをはられ、いかがわしい存在として処遇され
る危険がつきまとうというわけだ。
しかし、それでもなおアメリカ国内で共産主義者であることを公然と認める人たちは少なくなって
いった。1921年の時点では、2つの共産党の公式メンバーは合計でわずか5700人だった。
コミンテルンの指令でアメリカ国内には労働者党という地下組織もできていた。一方、反共陣営
にはユダヤ系団体や一定の労組が組織として加わるようになった。
ソ連政府にはレオン・トロツキーなどユダヤ系の要人が少なくなかった。アメリカのユダヤ人たち
は、共産主義への非難が結果としてソ連共産政権の最高層にいるユダヤ系の人物への糾弾に
なり、反ユダヤ運動に発展することを恐れた。だから先にユダヤ人としてある程度、まとまって共
産主義を非難すれば「共産主義にはユダヤ系が多い」という一般の思いこみを防ぐことになる。
そんな背景から生まれたのが「アメリカ・ユダヤ系委員会」だった。この組織は以後、ユダヤ系の
反共運動の中心となる。
《大きな打撃》 しかし反共運動はやがて大きな打撃を受ける。1933年(昭和8年)、ドイツでア
ドルフ・ヒトラーが首相となり、ナチ勢力が正面の舞台に出てきたのだ。ヒトラーはソ連の共産主
義政権を激しく敵視していた。そしてアメリカにとっても当面の脅威はソ連の共産主義よりもドイ
ツのファシズムとなった。そんな状況下で共産主義を攻撃することはファシズム勢力をそのまま
利するだけだとみなされるようになった。共産主義を批判すると、「ファシスト」とか「ナチ支持」と
いうレッテルを張られかねなくなったのである。
1939年8月には敵対していたはずのヒトラーとスターリンとが突然、ドイツ・ソ連不可侵条約を
結んで、全世界を仰天させたが、41年6月にはドイツはその条約をあっさりと破ってソ連に総攻
撃をかける。そしてその41年12月には日本のパールハーバー奇襲があり、アメリカは欧州で
はソ連と手を結んでドイツと戦うこととなった。
そうなると、アメリカ国内では「ソ連の共産主義批判はドイツを利するだけだ」という理屈が正論
とされるようになった。フランクリン・ルーズベルト大統領はっきりと共産主義の非難を抑えるよう
になった。30年代からのソ連国内でのスターリンの凄絶な弾圧も、43年のソ連軍によるポーラ
ンド軍将兵4千人虐殺という「カチンの森事件」も、アメリカ側では言及は一切、タブーとなった。
アメリカ外交官ジョン・エマーソンが延安で中国共産党首脳と協力を深め、共産主義に呪文のよ
うに魅されたのは、こんな時代だったのである。
■豆事典
▽コミンテルン レーニンらの指導のもとで1919年にモスクワで創設された国際共産主義運動
の指導組織。マルクスらによって1864年にロンドンで結成された第1インターナショナル(国際労
働者協会)、1889年にパリで作られた第2インターナショナル(各国の社会主義政党や労働組合
の国際連合組織)にちなんで第3インターナショナルと呼ばれた。1920年7−8月に開かれた第2
回大会では、プロレタリアート独裁の明示、非合法組織の併設、植民地独立など21カ条の加入
条件を承認して社会民主主義との絶縁を明確にした。一方、23年には第2インターナショナルが
社会民主主義の国際組織として復活しており、2つのインターナショナルが対立することになっ
た。コミンテルンは第2次大戦中の43年に解散。国際共産主義運動の指導組織としてのコミンテ
ルンの存在が内政干渉のイメージにつながり、連合国側の結束を乱すおそれがあるというスタ
ーリンの判断による解散措置だった。
▽ジョン・リード(1887−1920年) アメリカのジャーナリスト。ハーバード大学在学中から社会主
義に関心を持ち、卒業後、左翼文芸誌「ザ・マッセズ」の編集員を経て、雑誌の通信員としてメキ
シコ革命や第1次大戦の報道にあたった。1917年のロシア10月革命の体験をもとにして、19年
に「世界をゆるがせた十日間」を発表。同じ年にアメリカ共産党を結成し、翌20年、再訪先のモ
スクワでチフスのため死亡してクレムリンに葬られた。
▽カチンの森事件 1943年4月、ソ連に侵攻したドイツ軍がベラルーシのスモレンスク郊外にあ
るカチンの森で4321人のポーランド人将校の虐殺死体を発見したと発表。ソ連軍は39年9月の
ポーランド侵攻の際に約1万5000人のポーランド将校を捕虜にしており、その大部分が行方不
明になっていたことから、虐殺死体も行方不明の将校の一部とされた。これに対し、ソ連はドイ
ツ軍による虐殺と反論していたが、90年になってソ連内務人民委員部による殺害であることを公
式に認め、謝罪した。
177 :
卵の名無しさん:02/05/19 01:51 ID:Jm24ZYyo
だから ウザイって
>>177 sageで書いてるのをageるな、baka
■ アメリカとその敵 共産主義への愛憎 (5)
凄惨なトロツキー派への弾圧
アメリカでの共産主義同調者たちの信念をぐらつかせた要因のひとつは、ソ連共産党内部の血
なまぐさい粛清だった。なかでもヨシフ・スターリンのレオン・トロツキー攻撃は凄惨だった。
1924年(大正13年)のウラジーミル・レーニンの死後、共産党第一書記のスターリンは、レーニ
ンと並んでボルシェビキ革命の旗手だったトロツキーとその一派を鉄のタガを締めつけるように
弾圧していく。スターリンはトロツキー一派の力を削ぎ、ついに29年、トロツキー自身を国外に
追放してしまう。この展開はアメリカ共産党はじめ各国の共産主義者をも激しく揺さぶった。どの
国の党にもトロツキストと呼ばれる党内左派の勢力があり、それが主流のスターリン派から弾圧
され、党からも追い出されることになっていったからだ。
この辺の動きがアメリカの共産主義信奉者たちにどれほど深刻な影響を与えたかは、当時、秘
密の共産党員だったウィタカー・チェンバーズによる回顧録、『目撃者』に記されている。チェン
バーズはタイム・ライフ誌の編集者から作家となった異色のイデオローグである。後に共産党を
脱党し、転向して反共の闘士となった。特に第二次世界大戦後は有名なアルジャー・ヒス・スパ
イ事件でヒスとの歴史的な対決を果たしている。
「私は党内ではスターリンを支持し、トロツキーを批判する立場をとっていたが、それでもレーニ
ン亡き後に、共産党最高の頭脳で最も傑出した政治的能力を持つトロツキーがあまりにひどい
ウソと中傷とで計画的におとしめられていくのをみて、当惑しきってしまった。党内の衝突が戦略
や戦術をめぐる政策の議論を経ることなく、知性の高い一人の指導者をただ暴力的に近い追放
という措置で除去することで片づけられるのだ」
《偶像の破壊》 スターリンはトロツキーの過去の明白な歴史的業績を堕落や腐敗と断じ、彼を
敵に通じるスパイ扱いまでして、党組織から切り捨てていった。そのプロセスはあまりに露骨な
偶像破壊であり、血も涙もない冷酷な手段がとられた。スターリン自身がかつて絶賛したトロツ
キーの革命の理論や実践の指導までがいまやスパイ活動扱いされた。この逆転はアメリカから
ソ連共産党のドラマをみつめる人間にとっては、共産党組織の醜さや、むごさをいやというほど
投影した。
ソ連を追われたトロツキーは夫人のナタリアとともに、まずトルコに4年半、住んだ。スターリンが
放つ刺客たちの足音に脅かされながらも、トロツキーは著作活動に精をこめた。その後はフラン
スとノルウェーの流浪を経て、37年1月からメキシコへの政治亡命を正式に認められる。この間
トロツキーはアメリカにはいつも独特の思いをこめた視線を向けていた。共産主義の世界革命
の進展はアメリカがどう出るかによるという主張は以前から説いていたが、自分の支持者にもな
おアメリカ人がかなりの数、残っていた。
トロツキーはアメリカの大手週刊雑誌『リバティー』1935年3月23日号に「もしアメリカが共産
化されればどうなるか」という論文を書いた。
雑誌『リバティー』は当時のアメリカ社会で最も人気のあるニュース、読み物を合わせた総合誌
だった。時の大統領フランクリン・ルーズベルトが、ミステリー小説の前半を書いて掲載し、読者
にナゾ解きをしてもらうという新機軸を打ち出していた。そんな読者層の広い資本主義の雑誌に
トロツキーは共産主義のすすめを正面から訴えたのだった。
「もしあなた方の資本主義の社会秩序に問題が多すぎて解決ができず、共産主義への道を選ぶ
とすれば、官僚的な独裁や個人の抑圧ではなく、より大きな個人の自由や国民共通の豊かさを
伴う共産主義を実現できるだろう。いまのアメリカ国民は共産主義といえば、ソ連のそれしか考
えないようだが、もともと国民が創意豊かで自己主張の強いアメリカでは、ソ連とはまるで異なる
人間的な共産主義制度が築けるはずである」
トロツキーはこの論文でアメリカの社会や市民のユニークな多様性、活力を繰り返し強調し、も
し共産主義の道を選べば、世界一のきりりと引き締まった魅力ある国が登場するだろう、と述べ
ている。彼がこの時点であえてこんな挑戦的な言辞を弄することには、アメリカの大恐慌がまだ
終わっていない事実も理由となっていた。ルーズベルト大統領の下で政府が大幅に民間経済に
参加するニューディール政策がなお進行中で、国民の側にはまだまだ不満が渦巻いていた。
しかし、『リバティー』にはトロツキー論文の最後に編集部注として「この論文のなかの何ひとつ
信用する必要はない、来週号ではアメリカ政府のデービス労働長官がこの論文に反論する」と
書かれていた。
《壁の弾痕》 トロツキーが晩年を過ごしたメキシコはアメリカ境のすぐ南である。ソ連の革命の
最高責任者が反共の国、アメリカの隣に暮らしているという実感は、アメリカの識者の共産主義
をみる目にも微妙な影響を及ぼした。トロツキーがそのメキシコでスターリンの刺客に命を狙わ
れるということも、アメリカ側の共産主義観の深層に余波を与えたようである。
メキシコ市にあるトロツキーの住宅跡を訪ねてみた。市内でも広壮な住宅の並ぶコヨアカン地区
にある大きな館だった。現在はトロツキーの記念博物館となっているが、内部は彼が住んでいた
ときの模様が最大限に保存されていた。広い庭には、ウサギとニワトリが飼われている。トロツ
キー夫妻がそうしていたのだという。庭園の奥に建つどっしりとした石造りのL字形の家の方向
に歩くと、すっと横から黒いシャツに黒い帽子、これまた黒の長靴というトロツキストふうの服装
の男が出現したのに、ぎょっとした。
「ご案内しましょう。私はまあ現代のトロツキストの一種で、ここの邸宅や庭園をボランティアで管
理しているのです」強いなまりの英語を早口で話す現代トロツキストの後に従って薄暗い旧トロ
ツキー邸に近づくと、まず壁の弾痕が目についた。それもかなりの数である。
「これがこの家で起きた第一次のトロツキー暗殺の試みの痕跡です。40年5月23日、スターリ
ンの命を受けたメキシコ人共産主義者の画家が軍隊に偽装した20人ほどの手下を連れて突入
し、機関銃やピストルを撃ちまくったのです。しかし幸運にもトロツキーはかすり傷だけで難を逃
れました」。57年も前の出来事とはいえ、石の壁に残る数条の弾丸の跡は共産主義の武闘の
凄絶さをひしひしと感じさせた。
■豆事典
▽大恐慌 アメリカでは1920年代、小さな不況を挟みながらも第1次大戦後の好況がおおむね
続いた。とくに20年代後半には日本のバブル時代にも似た株や土地の投機ブームが起きていた
が、「暗黒の木曜日」といわれた29年10月24日にニューヨーク証券取引所で大暴落が発生。株
価下落と不良債権で9000以上の銀行が倒産、農産物価格も暴落し、街頭には失業者があふれ
た。銀行倒産は欧州各国にも波及し、イギリスは資金流出を防ごうと金兌換(だかん)を停止、近
代資本主義の象徴と言われた「金本位制度」を放棄した。各国もこれにならって「管理通貨制
度」を導入し、自由放任的だった世界の経済政策はアメリカのニューディール政策、イギリスの
ブロック経済政策のように管理統制色が強まっていった。日本では、各国が自国の金の流出を
防ぐため金本位制度を放棄しようとしている時期にわざわざ浜口雄幸内閣が金本位制を導入す
るという政策判断のミスもあって昭和恐慌が引き起こされた。
▽アルジャー・ヒス(1904−1996年) アメリカの外交官。1936年に国務省に入省、ニューディー
ル政策に加わり、45年のヤルタ会談でルーズベルト大統領の補佐官、国連憲章制定会議では
アメリカ代表団事務局長などを務めた。48年、アメリカ下院非アメリカ活動委員会(リチャード・ニ
クソン委員長)で、自らもソ連のスパイと告白したウィタカー・チェンバーズが「ソ連に流すため国
務省機密文書をヒスから手渡された」と証言。ヒスは否定したが偽証罪で有罪とされ3年8カ月
間、服役した。出所後もえん罪を訴え、92年ロシア側の調査では潔白とされている。
▽メキシコ市 メキシコの首都。赤道に近いが標高2260メートルの高地にあるため温和な気候
に恵まれている。アステカ王国の首都テノチティトランがあったところで、1521年、スペインのコ
ルテスの侵略で灰じんに帰した後、スペイン風の都市が再建された。国連人口基金の世界人口
白書によると、周辺を含む大都市圏人口は1990年現在、約1500万人で東京、ニューヨークに次
いで世界第3位。
■ アメリカとその敵 共産主義への愛憎 (6)
恋さえも暗殺の手段に
レオン・トロツキーは1940年(昭和15年)8月20日、メキシコ市で暗殺された。暗殺の指令を出
したソ連共産党の独裁者ヨシフ・スターリンは、まだドイツのアドルフ・ヒトラーと手を結んだまま
だった。暗殺犯人のラモン・メルカデアが使った凶器は氷を割る小型のオノである。
長いコートの下にナイフとピストルも用意していたが、なぜか最初に使ったのはオノだった。「政
治刺客に殴られて死にそうだ。ひどく殴りつけられた…同志たちに告げてくれ。第4インターの
勝利は間違いないと」。トロツキーの最期を看取った妻のナタリアは頭を割られ血だらけとなった
夫がこんな言葉をもらした、と後にトロツキー評伝の著者アイザック・ドイッチャーに語った。
駆けつけた秘書たちが洋服を脱がせようとすると、トロツキーはナタリアの手でなければいやだ
と断った。それが最後の言葉となった。第4インターというのは、スターリンの一国社会主義論に
対して世界革命論を主張したトロツキーが、各国の同志を糾合して旗をあげつつあった国際組
織である。
《秘密工作員》 20世紀の歴史でも特筆されるこの共産主義革命家トロツキーの暗殺事件の
展開にも、アメリカがさまざまな形でからんでいた。トロツキー自身がアメリカを主要な敵だと位
置づけながらも、なおアメリカとの種々のきずなを保ち続けていたからである。まず暗殺者メルカ
デアの内妻がニューヨーク出身のシルビア・アジェロフというアメリカ人女性だった。彼女はアメ
リカのトロツキスト組織の社会主義労働者党に所属していた。アジェロフはこの党から命じられ
た形で、メキシコ市に出向き、トロツキーの身の回りの世話や翻訳をしていた。
コロンビア大学で心理学を専攻し、ロシア語、スペイン語に堪能なアジェロフは38年夏、パリで
第4インターの集まりに出た際、ハンサムな青年と知り合った。ベルギー外交官の息子だという
青年はアジェロフに夢中になり、2人は親密な仲となる。だが、この「恋愛」はアジェロフがトロツ
キーのもとへ時折いくことを知ったソ連の国家政治保安部(GPU)の工作だった。
青年はジャック・モルナルドと名乗ったが、実はスペインの筋金入り女性共産主義者カリダド・メ
ルカデアの息子ラモンだった。アジェロフがパリの恋を中断して39年2月にニューヨークに戻る
と、間もなくラモンが現れ、ベルギーの新聞のアメリカ特派員になったと告げる。そして彼がフラ
ンク・ジャクソンという名の、カナダの偽造パスポートを持っていたので問うと、ベルギーの徴兵
を逃れる手段だと答えた。39年10月には、ラモンは貿易会社の職がみつかったのでメキシコ
市で働きたいといい出し、交際していたアジェロフも喜んで、その動きに従う。
40年1月から、ラモンとアジェロフは内縁の夫婦としてメキシコ市で同居を始めるが、この間ア
ジェロフはトロツキー邸に毎日のように出かけ、トロツキーの翻訳やタイプの係となる。ラモンは
送り迎えだけで、妻の政治的に微妙な仕事には関与しないよう慎重に身を処し、トロツキー邸に
は足を踏み入れない姿勢をみせていた。だが現実には、彼はGPUの秘密工作員であり、トロツ
キー暗殺の機会を根気よく狙っていたのだった。
ラモンはやがてアジェロフを通じ、トロツキー夫妻の信を得て、邸内にも出入りを許可されるよう
なった。彼は40年8月には自分で書いたという共産主義主流派批判の論文をみてもらいたいと
言って何回かトロツキーに会い、20日にはついにオノでトロツキーの頭を思い切り強打して、頭
がい骨を砕いたのだった。なんとも周到な暗殺計画である。2年も前から女性を誘惑して機会を
ひたすら待っていたのである。標的につながるアメリカ人を手段に使った暗殺だった。
《思想に共鳴》 アメリカ人はトロツキーの政治活動を支える側でも大きな役割を果たしていた。
トロツキーが37年1月にメキシコに居をおいてすぐ、アメリカの社会主義労働者党から派遣され
たジョセフ・ハンセンという二十七歳の活動家が秘書と護衛とを務めるようになった。ユタ州の農
家出身のハンセンはユタ大学に在学中からトロツキーの思想に共鳴していたという。
トロツキーにとってハンセンこそ最後の3年半、妻ナタリアを除いては最も多くの時間をともに過
ごした人物だった。トロツキーが死の直前に「ナタリアをよろしく頼む」と託した相手は、ハンセン
だった。暗殺者ラモンを最終的に取り押さえたのも結局はハンセンとなった。
社会主義労働者党はハンセンのほかにも常時、国境を越えてメキシコ市に護衛や事務員を送り
トロツキーに感謝されていた。トロツキーはさらに自分の活動に関する資料をすべてハーバード
大学に寄贈することを決めていた。当時ちょうど60歳だった彼が自分の業績の総括はアメリカ
の大学に委ねたいという意味合いを持った措置だった。だがそれでもトロツキーの暗殺自体は
アメリカに共産主義の苛烈で暗い印象を一段と強める結果となった。
「この書斎で暗殺者と応対したトロツキーはこのイスに座って、論文を読もうとしたところを、いき
なり氷かきのオノで殴られました。ものすごい勢いの一撃でしたが、トロツキーは立ち上がり、猛
烈に反撃しました」
メキシコ市のコヨアカン地区にある旧トロツキー邸内で現代のトロキストを自称する案内人アリシ
ア・リオスが説明してくれた。書斎も、寝室も、居間も、すべて当時と同じに復元してあるという。
たしかにいまも人が住み、働いているような趣の室内だった。トロツキーは頭の傷で血だらけと
なりながらも、ものすごい叫び声をあげてラモンに飛びかかり、咬みつき、オノを奪った。ラモン
は圧倒され、他の武器を使うゆとりはなかった。そこへハンセンら護衛が飛びこんできて、取り
押さえた。トロツキーは病院に運ばれてから死んでいる。全体としてみれば、やはり共産主義者
同士の残酷な殺しあいであり、アメリカの共産主義、社会主義のシンパに与えたショックは強烈
だった。
トロツキストとかトロツキズムは、日本でも左翼のなかの過激派の一端として認知された時期が
ある。安保がらみの学生運動が激しかったころだ。だがいまはもうすっかり過去の遺物となった
だろうと思っていたら、東京大学の佐々木力教授が九六年刊の『生きているトロツキー』という著
書で「私はトロツキー支持者」と明言しているのに気づいた。トロツキーはむごたらしく殺されて
も、彼の説いた世界革命論はどこかではいつまでも生き続ける、ということなのだろうか。
■ 豆事典
☆レオン・トロツキー(1879−1940年)> ウクライナのユダヤ人農家出身のロシア革命指導者。
本名レフ・ブロンシュタイン。1902年、トロツキー名の偽造パスポートでロンドンに亡命。1917年
の「10月革命」でペトログラード(現サンクトペテルブルク)のソビエト議長となり、「ソビエト政府」
成立後は外務・陸海軍人民委員として赤軍の創設を指導した。革命指導者の中で最も知的とさ
れながら敵も多く、世界革命の必要性を説く「永久革命論」は、ソ連一国だけでも社会主義は建
設できるとするスターリンの「一国社会主義論」と激しく対立した。レーニン死後の権力闘争に敗
れて29年に国外追放。38年にはソ連主導の第3インターナショナル(コミンテルン)に対抗する国
際左翼組織「第4インターナショナル」を結成して、ソ連批判を続けた。
☆コロンビア大学 ニューヨークにある全米で5番目に古い大学。1754年創立で、当初はキング
ズ・カレッジと称し、1912年から現在の名となった。
☆国家政治保安部(GPU=ゲー・ペー・ウー) 旧ソ連の秘密警察組織。10月革命後の1917年12月
にポーランド貴族でレーニンと親しかったフェリックス・ジェルジンスキーが設立した「チェーカー」
(反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会)が22年から平時組織のGPUとなった。旧ソ連
の秘密警察組織はこの後、さらに34年、内務人民委員部(NKVD)に改組され、スターリンの粛
清を実行。第2次大戦後は「国家保安委員会」(KGB)と名称を変え、現在のロシアの「連邦保安
局」に引き継がれている。
☆アイザック・ドイッチャー(1907−1967年) ポーランド出身のユダヤ人ジャーナリスト。1932年
にポーランド共産党からトロツキストとして除名されたが、イギリスに渡って雑誌記者となった。
スターリン伝と3部作のトロツキー伝を書き、レーニン伝執筆中に世を去った。
■ アメリカとその敵 スパイ事件の虚と実(1)
追求された平和財団のエリート
私はアメリカの大手シンクタンク「カーネギー国際平和財団」で1年余り働いたことがある。外交
や安全保障の諸テーマを対象とするアメリカでも最古に近い民間研究機関である。伝統的に民
主党リベラル寄りとされるシンクタンクだったが、ちょうど私の採用された1981年はじめごろか
ら超党派の志向をみせ始めていた。私にとっては新聞記者活動を一時、中断しての研究生活と
なった。研究のテーマは日米防衛関係である。
当時は日本の基金や寄付金をアメリカのシンクタンクに与え、その分、日本人の客員研究員を
迎えさせるという慣行はまだなく、私は論文の提出や面接を何度も経て採用された。上級研究
員という肩書を与えられ、給料もアメリカ人研究員たちと同様、カーネギーの側からすべて払わ
れた。
その頃カーネギーの研究所オフィスはワシントンとニューヨークの両方にあった。私は当初、元
国務次官補のトーマス・ヒューズ所長らに案内され、両方のオフィスをくまなくみて回った。すで
に全面禁煙、ゆったりとしたスペースの伝統のありそうな清潔な研究所だったが、ひとつだけ怪
訝に思ったことがある。アメリカの伝統を誇る機関なら必ず掲げられているはずの歴代の所長や
理事長の写真、肖像画の類が一切、ないのである。
あとで、古手の上級研究員の1人にちらりとその理由を問うと、彼はにやりと笑って「たぶんアル
ジャー・ヒスのせいだよ」と答えた。私はその時初めて、ヒスがかつてこの伝統あるカーネギー国
際平和財団の研究所長を務めていたことを知って、驚いたものだった。ヒスは有名なスパイ事件
の被告である。そのことは知ってはいたが、まさか自分の勤務する機関のトップだったとは知ら
なかった。カーネギーのオフィスに歴代所長の写真類がないのは、もし、それを掲げるとなれば
ソ連のスパイと断じられたヒスの肖像だけを除くわけにもいかなくなるからというのだった。
《衝撃の暴露》 アメリカの歴史を最も簡潔平明に書くことで知られるリーダーズ・ダイジェスト社
刊の『家庭用アメリカ歴史百科事典』は、ヒス事件について次のように記している。「ハーバード
大学法律大学院を1929年に卒業し、国務省に勤務してディーン・アチソン国務長官との交流
が深く、名声の高いカーネギー国際平和財団の所長だったアルジャー・ヒスは1948年8月、共
産党の地下組織の一員として30年代に活動したという容疑で追及されることとなった」
日本の降伏で第二次世界大戦が幕を閉じてからちょうど3年後、エリート中のエリートのようなヒ
スをソ連共産党のスパイだったとして糾弾することになったのは、アメリカ議会の下院非アメリカ
活動委員会だった。
この「非アメリカ」とは「アン・アメリカン」という英語の訳である。「アメリカ的に非ず」という意味だ
が、さらに解釈を進めれば、「アメリカを否定する」、つまりアメリカの価値観や規範に反するアメ
リカの敵ということになる。アメリカに対するスパイ活動の主は真っ先にこのカテゴリーに入るわ
けだ。
ヒスをスパイと断じたのはタイム誌の記者・編集者を務めていたウィタカー・チェンバーズだった。
非アメリカ活動委員会が48年8月3日に開いた聴聞会に証人として出て、ショッキングな暴露を
したのだった。
「私は1930年代まで共産党の秘密党員だったが、同じ秘密党員のアルジャー・ヒス氏から国務
省などの機密書類のコピーを受け取っていました。ヒス氏は共産党のスパイであり、アメリカ政
府の秘密を盗み出していたのです」
当時まだ43歳だったヒスは前年の47年に長年、務めた国務省を辞め、カーネギーの研究所の
所長となったばかりだった。彼はチェンバーズの証言をすぐに全面否定して、そのための証言を
求めた。翌々日の8月5日に同じ下院の委員会の聴聞会に登場したヒスはすべてを否定した。
「私は共産党員だったことはありません。スパイ活動に関わったことも一度もありません。そもそ
もウィタカー・チェンバーズという人間をまったく知りません」絶対に虚偽は述べないことを誓った
うえでの宣誓証言だった。きりりと引き締まった体駆に端正な容ぼう、ぱりっとした服装のヒスが
堂々と証言するのにくらべ、糾弾者のチェンバーズは肥満といえる肉のだぶついた体に、いかに
も古手のジャーナリストという感じのゆるんだネクタイ姿で、47歳という年齢より年寄りじみて見
え、果たして信頼できるのかという感じだった。
しかもチェンバーズはこれだけ重大な糾弾をするのに証拠も示さず、とくに調査をした様子もみ
せていなかった。対照的な対決だった。
《堂々の証言》 間もなく時の民主党大統領、ハリー・トルーマンはチェンバーズの証言を評して
「人の注意を他にそらすための、いい加減な発言だと思う」と述べた。ヒス自身も、洗練されたマ
ナーと語調で、チェンバーズ証言をすべて虚偽だと決めつけた。どう考えてもヒスは潔白のよう
にみえた。
ヒスのあまりに堂々とした否定の証言に、彼のスパイ容疑の追及を決めていた下院非アメリカ活
動委員会のメンバーたちも自信を失い始めた。チェンバーズの主張を委員会として独自に調査
し、立証することなく、自由な証言を許したことを悔いる議員たちも現れだした。もうヒスを追及す
ることはやめようという提案さえもささやかれ始めた。
だがそうした動きに待ったをかけたのは、この委員会の一員で、カリフォルニア選出の若い下院
議員リチャード・ニクソンだった。ニクソン議員はヒスが共産党員だった事実やスパイだった事実
を今の状態で委員会が独自に立証するのは不可能に近いだろうが、彼がチェンバーズを知って
いたか否かは、そう苦労しなくても、なんとか答えが得られるだろう、と確信していた。だから委
員会としても以後の調査はヒスがチェンバーズを知っていたかどうかに絞ればよい、と訴えたの
だった。
こうした幕開けで進行したアルジャー・ヒス・スパイ事件は、第二次大戦後のアメリカ、ひいては
20世紀のアメリカの歴史にユニークな一章を記すこととなった。アメリカの内政にも外交にも、こ
の事件は期せずして、ひとつの大きな区切りを画すことになっていくのである。その区切りは、ア
メリカがその敵をどこに求めるかという、敵をみる方向や基準の重要な転換点でもあった。
■豆事典
▽カーネギー国際平和財団 国際社会の相互理解と平和の推進を目的に1910年、アメリカの
鉄鋼王アンドリュー・カーネギー(1835−1919年)が設立。国際関係や国際機関、国際法に関す
る研究、出版、学術交流、研修などの事業を行っている。設立者のカーネギーはスコットランド
からの移民の貧しい家庭に生まれ、少年時代から苦労を重ねて鉄鋼事業で成功し、アメリカに
おける立身出世物語のヒーローとなった。晩年は同財団や大学などの設立に私財を投じ、社会
事業家としても知られた。
▽ディーン・アチソン(1893−1971年) アメリカのトルーマン政権2期目の国務長官。ニューデ
ィール政策を進めるフランクリン・ルーズベルト大統領のもとで財務次官、国務次官補などを務
め、トルーマン政権では国務次官を経て1949年から国務長官となった。第2次大戦後、共産主
義の脅威を訴えるトルーマン・ドクトリンや欧州復興のためのマーシャル・プランの立案、北大西
洋条約機構(NATO)設立などに携わり、共産主義封じ込め政策の推進者とされている。しかし、
1949年、中国共産党が内戦に勝利をおさめ、中華人民共和国が誕生したときには、アメリカ内
で起きた国務省に対する激しい批判の矢面に立たされてもいる。
▽下院非アメリカ活動委員会 アメリカ内のナチス支持集団による破壊活動を防ぐ目的で、第
2次大戦直前の1938年、アメリカ下院に特別委員会として設けられた。その後、同委員会の調
査対象は共産主義者へと移っていき、45年に特別委員会から常任委員会へと昇格。47年のハリ
ウッド映画人に対する審問、48年のヒス事件の公聴会で委員会の活動に対するアメリカ民の関
心が高まった。活動は60年代後半には下火となり、国内治安委員会と名前を変えた後、かつて
非アメリカ活動の告発で売り出したリチャード・ニクソンがウォーターゲート事件で大統領を辞任
した翌年の75年に廃止された。
■ アメリカとその敵 スパイ事件の虚と実 (2)
有罪の決め手は野鳥だった
美しい野鳥が世紀のスパイ事件の帰趨を決めた−といえば、いかにもフィクションを思わせる。
だがアルジャー・ヒス事件では、本当にワシントンのポトマック河畔にまれに姿をみせる珍しい野
鳥の存在がスパイ容疑者の有罪を決定的にしてしまったのだった。
1948年(昭和23年)8月、タイム誌記者ウィタカー・チェンバーズからソ連共産党の秘密党員で
あり、スパイと断じられたカーネギー国際平和財団の所長アルジャー・ヒスはすべてを否定した。
ヒスの言葉は確信に満ちて響いた。なにしろ彼の経歴がすばらしかった。若き弁護士として最高
裁判事の特別補佐となったあと、33年に民主党ルーズベルト政権に加わり、農務省や司法省
の要職に就いてニューディール政策を支える中枢スタッフの一員となった。36年には国務省に
招かれ、国際機構担当のフランシス・サイア次官補の特別補佐官として重用されている。
ヒスはさらに45年2月には時のエドワード・ステティニアス国務長官に抜擢され、ヤルタ会談へ
の随行員となった。ルーズベルト、チャーチル、スターリンという三巨頭がソ連の対日参戦と引き
換えに戦後のソ連の東欧支配を認めたとされるこの会談には、アメリカ国務省からは長官を除
いてわずか3人しか送られていなかった。
ヒスはさらに国際連合の結成準備にもアメリカを代表する形で加わり、44年夏のワシントンのダ
ンバートンオークス会議、45年春のサンフランシスコ会議に出席していた。
民主党政権でそんな輝かしい経歴を持つ人物がソ連共産党のスパイと断じられたとあって、民
主党側は時のトルーマン政権も、議会も猛烈に反発した。しかもその容疑が共和党主導の議会
の下院非アメリカ活動委員会で浮上したから、党派の衝突は激しかった。
《趣味を問う》 下院非アメリカ活動委員会でヒス事件の継続追及を任された34歳の新人議員
リチャード・ニクソンは特別の小委員会を組織して背景調査を続けた。小委員会はチェンバーズ
から詳細に事情を聴いた。彼は、30年代に共産主義のスパイ同士として、ヒスと緊密な連絡を
保っていたと述べていたが、ヒスの側はチェンバーズという人間など見たことも聞いたこともない
と証言していた。
チェンバーズはニクソンらから「ヒスの趣味はなにか?」と問われ、バードウオッチングだと答え
た、ヒスは週末の早朝にはワシントン郊外のポトマック川沿いのグレンエコー地区などに出かけ
ては、熱心に野鳥を観察する習慣があったという。チェンバーズはさらにヒスから一度、プロソナ
タリー・ウォーブラーという珍しい鳥をついにみたと、興奮して告げられたことを詳述した。
日本では「オウゴンアメリカムシクイ」と呼ばれるこの鳥は北米産の鳴鳥で、頭と胸がオレンジに
近い黄色、翼がグレー、体長はふつう14〜15センチ。非常に美しい野鳥だが、ごくまれにしか
人の目につかないという。
1948年8月7日にチェンバーズから以上の証言を得た小委員会は同16日の聴聞会でヒスを
尋問した。趣味はなにかと問われたヒスはテニスや水泳のほかに「アマチュアの鳥類研究」と答
えた。つまりバードウオッチングである。
そこで趣味についての応答がしばらくあったあと、それまで質問をニクソンらに任せ、ほとんど発
言しなかったジョン・マクドウェル議員がなにげないふうに聞いた。
「バードウオッチといえば、プロソナタリー・ウォーブラーをみたことがありますか?」、「はい、
この近くのポトマック河畔でみたことがあります。どのへんだとよくみられるのかご存じですか?」
ヒスは一瞬、声に熱をこめて答え、逆にマクドウェルに問いかけた。更にニクソンが念を押した。
「その鳥をみたことがあるんですね」、「ええ、(マクドウェル議員に向かって)あなたもポトマックの
同じ場所でみたのですか」、「いえ、私はアーリントンでみました」
ヒスは嬉しそうに「プロソナタリー・ウォーブラーという鳥は、沼地に巣を作るんです。美しい黄色
の頭の鳥です。ゴージャスな鳥です」と語り続けた。議員たちは、この野鳥をめぐる符合に一瞬
唖然として黙りこんでしまった。議長役のニクソンがその異様な沈黙から関心をそらすように、他
のテーマに関する質問を放った。
だがこの瞬間に議員たちはチェンバーズを全く知らないというヒスの証言を虚偽だと確信するよ
うになった。この時点からヒスのスパイ容疑は急速に濃くなっていった。だが、ヒスは否定を続
け、チェンバーズに対し、糾弾を議会以外の場所で表明できるのかと挑戦する。議会での証言
は名誉棄損の対象とならないからだ。
チャレンジを受けたチェンバーズは、NBCラジオの全米向けインタビュー番組で、ヒスが共産党
員だったと断言した。ヒスはただちに名誉棄損の訴えを起こす。
《動かぬ証拠》 その一方、下院非アメリカ活動委員会はヒスがソ連共産党のスパイだったと信
ずるに足る証拠があるという報告書を発表し、刑事捜査の開始を勧告した。チェンバーズもヒス
から受け取ったという国務省の秘密文書多数を自宅の地下に埋めたカボチャの中から取り出し
て公表した。ヒスが当時、使っていたタイプライターや手書きのメモの文字が確認された。
ヒスは結局、スパイや偽証の罪で起訴され、1950年1月、有罪を宣告されて懲役5年の判決を
受ける。スパイ罪は10年の時効が成立しており、偽証罪だけの有罪となった。ヒスは最高裁ま
で争ったが、判決の逆転には成功しなかった。
出所してからも、96年11月に92歳で病死するまで無実を訴えたが、冷戦終結で公表されたハ
ンガリー共産党の秘密文書やアメリカ政府の秘密文書には、ヒスがソ連のスパイだったことを示
す記述が数カ所、発見されている。
ヒス事件はアメリカにとって、ひとつの時代の終わりを告げていた。ヒス自身が熱心に参加した
ニューディール政策の終結とともに、その政策の主役だった民主党リベラル派が抱く共産主義
やソ連への穏健な態度にも大きな区切りがつけられたといえるのである。
そもそもチェンバーズはスターリンがヒトラーと手を結んだ直後の1939年9月、ヒスらのスパイ
活動を当時の国務省高官を通じて、ルーズベルト大統領に通報していた。
だがこの民主党リベラルの大統領は一笑に付した。ソ連とか共産主義を深刻な脅威とはみなさ
なかったからだろう。それから10年後のヒス事件はアメリカのそうした態度が根本から変化した
ことを象徴していたのである。
■ 豆事典
☆プロソナタリー・ウォーブラー(オウゴン・アメリカムシクイ) アメリカ中西部のミネソタやミシガン州
から東海岸諸州、さらにフロリダ半島にかけての湿地帯の林に生息。虫、果実、種子などを食
べ、冬は中南米や西インド諸島に渡って過ごす。アメリカではバードウオッチングの好対象とさ
れ、渡りの時期を狙っての観察が試みられる。
☆ヤルタ会談(1945年) 第2次大戦末期、ソ連南部のクリミア半島の保養地ヤルタで開かれた
会談。ルーズベルト・アメリカ大統領、チャーチル。イギリス首相、スターリン・ソ連首相が大戦後
の国際秩序の枠組みを検討、「ドイツ分割占領」を再確認するとともに、「大国の拒否権を伴った
国連創設」「ソ連の対日参戦」などが決められた。翌46年合意内容が公開されると、アメリカ内で
「ルーズベルト大統領は国務省内の親共勢力に影響されていた」との批判が持ち上がった。
☆サンフランシスコ会議 第2次大戦で日独が降伏する以前の1945年4月25日からサンフラン
シスコに50カ国の代表が集まって開いた「国連組織創立のための連合国会議」。国連の創設に
ついては、その前年の44年8月から10月にかけて、ワシントンで開かれたアメリカ、イギリス、ソ
連と、アメリカ、イギリス、中国の2つの3国会議(ダンバートンオークス会議)で青写真がまとめら
れ、サンフランシスコ会議では最終日の45年6月26日、「我ら連合国の人民は…」で始まる国連
憲章が調印された。国際連合の公式な成立は憲章発効の同年10月24日とされているが、憲章
調印の6月26日は戦勝国による戦後秩序の枠組みが決まり、組織の内容が確定したという意味
で、事実上の「国連の生まれた日」といえる。
■ アメリカとその敵 スパイ事件の虚と実 (3)
共産側を利した“アカ狩り”旋風
「アカ狩り」として悪名の高いジョセフ・マッカーシー上院議員の共産主義者糾弾の猛烈なキャン
ペーンが始まったのは、アルジャー・ヒスのスパイ事件がヒスの有罪判決でひとまず決着がつい
た直後の1950年(昭和25年)2月だった。「マッカーシー旋風」とも呼ばれたこの動きは、ウェス
トバージニア州の女性共和党員の集まりでの同議員の爆弾演説で幕を開けた。
「共産党員であることを国務長官に知られながらも、なお国務省で働き、その政策を形成してい
る205人のリストを、私はいまここに持っている」マッカーシー議員がここでいう共産党員とはソ
連のスパイに等しいひびきがあった。
ソ連の共産主義の拡張をアメリカをはじめとする西側がはっきりグローバルな脅威として受けと
め始めたのは、ウィンストン・チャーチルの「鉄のカーテン」演説ごろからだろう。
1946年3月、アメリカ・ミズーリ州の大学で演説したチャーチルは「バルト海のシチェチンからア
ドリア海のトリエステまで、今や鉄のカーテンが欧州大陸を縦断して下ろされた」と述べた。その
カーテンの背後の東欧諸国はソ連の支配の下に入った、というのである。
48年10月にはアメリカの外交界の長老バーナード・バルークがサウスカロライナ州議会での演
説で「第二次大戦は終わったが、我々は今や日増しに熱くなる冷戦の真っただ中にある」と述べ
て、「冷戦」という言葉が初めて東西両陣営の対立を描写する外交用語として全アメリカレベル
で認知されるようになった。
49年8月にはソ連が原爆実験に成功し、アメリカ側を愕然とさせる。アメリカの独占と信じてい
た核兵器を敵が予想よりずっと早く保有するに至ったからだった。さらにアジアでは中国共産党
軍がアメリカの支援してきた国民党軍を撃破し、49年10月に北京で中華人民共和国の成立を
宣言する。
アメリカが共産主義の脅威に警戒を強め、その結果として国内の共産主義者をも敵視する背景
には、こうした時代の国際情勢があった。そんな土壌があったからこそマッカーシー議員のセン
セーショナルな共産主義者糾弾はそれなりに効果をあげ、一気に輪を広げていった。上院本会
議でも同様の「国務省の共産主義者」暴露の演説をしたマッカーシーは、アメリカでも最も頻繁
にその名を語られる人物となっていく。ただし、上院の演説では国務省の秘密共産党員の数は
205人から57人へと減っていた。
マッカーシーは実際に共産主義者たちの名前を掴んでいたわけではなく、人数の根拠も薄弱で
あちこちで聞きかじりの未確認情報や噂を集めただけだった。要するに無責任な弾劾だったの
である。だが朝鮮半島ではソ連や中国に支援された共産主義の北朝鮮が50年6月、アメリカ軍
の朝鮮撤退に呼応するように、韓国への総攻撃を開始した。アメリカは共産軍と実際に戦闘を
するにいたったのだ。
192 :
卵の名無しさん:02/05/19 07:37 ID:Jm24ZYyo
バカって古森って書くんでしょ
なるほど、お邪魔虫だけではなかったんだ。
ここまで荒らすとはさすが執念の沢×。
しかし、完全に頭が逝ってるわな。
196 :
卵の名無しさん:02/05/19 12:46 ID:7ukH7HKd
荒らしているのかどうか実態はよくわかりませんが、
あんまりそういうことはしない方がいい
おかげでジェネリックのイメージが一層わるくなるような
スレッドがたてまくられている
一方、ほぼ時を同じくしてアメリカ内ではアメリカ軍通信部隊検査官だったジュリアス・ローゼン
バーグが妻のエセルとともにスパイ容疑で逮捕された。原子爆弾製造の「マンハッタン計画」の
機密をソ連に流したとされる大スパイ事件だった。マッカーシー旋風はますます猛威をふるうこと
となる。
1908年、アメリカ中西部ウィスコンシン州の小さな町のアイルランド系農民の家庭に生まれた
マッカーシーは、少年時代からカトリック教会で共産主義や社会主義の「悪」を聞かされて育った。
法律を学び、弁護士や判事となったが、第二次大戦では海兵隊に志願して太平洋戦線で日本
軍と戦う。戦後の46年にはウィスコンシン州で共和党から上院選挙に立って当選する。以後の
3年ほど上院議員としては目立たない活動を続けたが、いざ再選の準備にかかる段階で誇れる
実績がなにもないのに気づいた。
そこで共産主義者への攻撃を実績にしようと着目する。その過程ではジョージタウン大学の外
交官養成大学院の創設者、エドマンド・ウォルシュ神父からも反共の教理を学んだ。
だがマッカーシーが実際に展開した反共活動は、ウォルシュ神父の事実と体験に基づく努力と
はまるで異なっていた。マッカーシーの活動は1954年まで4年ほども続いた。だが最終段階に
なると、あまりにも過激で、いい加減な非難を繰り返したため、一般の支援を急速に失った。
私生活でもアルコールにおぼれ、57年、48歳で病死した。だがマッカーシー旋風がアメリカの
反共産主義の運動に与えた痛手は深かった。その傷は深層部に長く残った。
アメリカの反共活動の歴史を研究するニューヨーク市立大学のリチャード・パワーズ教授は解説
する。「マッカーシーが登場するまでの5年ほどは、アメリカの反共産主義者がソ連やアメリカの
共産党に関して指摘していた人権弾圧とか侵略性は、ほぼすべて正当だったことが立証されて
おり、一般からも支持を得ていました。ところがマッカーシーによって反共の主張はウソだファシ
ストの主張と同じだ、という認識が広まって、正統な反共主義者も信頼を一挙に失ったのです」
反共の信頼が落ちることは結果として共産側を利することになる。パワーズはさらに述べる。「ス
ターリンの”血の粛清”をいくら糾弾しても、それが事実でも、デマと断じられる。特にリベラル派
の一部は、共産主義よりも反共主義を、自由や人権への大きな脅威として敵視するようになりま
した。すべてマッカーシーのためです。だから正統派の反共主義者のなかにマッカーシーを非難
する声も強かったのです」
さてマッカーシズムと評されたこのアカ狩りのうねりは第二次大戦中にペルーで日本人の連行
に関わり、更に中国では共産党との連携にあたったアメリカ外交官ジョン・エマーソンにも、まと
もに荒波をぶつけることとなった。共産主義者とのつながりを疑われ、査問を受けるのである。
その際のエマーソンの「容疑」は、中国で毛沢東ら共産党首脳と親密な関係を結び、アメリカ政
府が支持した国民党政権に不利になる動きをしたとか、野坂参三、鹿地亘ら日本の共産主義者
を支援したという事の他に、戦後の日本で府中刑務所からやはり同じ共産党の徳田球一、志賀
義雄らをいち早く解放して、戦後の日本の共産主義運動の高まりをあおったこと、などが盛りこ
まれていた。
■豆事典
☆ジョセフ・マッカーシー(1908−1957年) 46年にウィスコンシン州選出の上院議員(共和党)と
なり、50年の爆弾演説で「アカ狩り」(マッカーシズム)と呼ばれる共産主義者追放劇を巻き起こし
た。52年に再選されてからは上院査問委員会を舞台に活動したが、54年に陸軍聴聞会がテレビ
放送された際の言動から「上院の伝統に反する」との非難決議を上院で受け、その後は影響力
を失っていった。
☆ローゼンバーグ事件 ニューヨーク生まれの電気技師で共産党員のジュリアス・ローゼンバ
ーグ(1918−1953年)と妻のエセル(1915−1953年)がソ連に原爆の機密を渡していたとされる事
件。事件はドイツからイギリスに亡命した物理学者で、アメリカの原爆開発プロジェクト「マンハッ
タン計画」にも参加したクラウス・フックス(1911−1988年)がイギリスで逮捕されたことから1950
年に発覚。ローゼンバーグ夫妻は逮捕され、無罪を主張したが、スパイ罪で死刑判決を受けて
電気いすで処刑された。
☆徳田球一(1894−1953年) 沖縄の雑貨商の家に生まれ、苦学して弁護士となる。大正9年(1
920年)、「日本社会主義同盟」結成に参加。11年に堺利彦、山川均らと「日本共産党」を結成し
た。第1回普通選挙(昭和3年)に労働農民党から出馬・落選したが、同年の治安維持法による
共産党一斉検挙で、終戦まで予防拘禁された。戦後の昭和20年に釈放され、共産党書記長就
任。翌年、衆議院議員となった。25年にGHQ指令で公職追放にあうと地下暴力闘争に入り、そ
の後中国に亡命して28年10月、北京で病死した。
199 :
卵の名無しさん:02/05/19 14:19 ID:Jm24ZYyo
up
■ アメリカとその敵 スパイ事件の虚と実(4)
運命の逆転…“疑惑”受けた外交官
ペルーの日本人や帝国主義の日本を「敵」としてアメリカのために活動してきた外交官ジョン・エ
マーソンが、今度は自分がアメリカの敵ではないかと疑われ、徹底した調査と査問とを受けると
いうのは、運命の数奇な逆転だった。
マッカーシー旋風の結果として1950年(昭和25年)夏までにはアメリカ連邦政府の各省庁では
職員の忠誠や安全保障を厳しくチェックする制度ができていた。「忠誠安全保障委員会」が職員
の忠誠や安全保障について調べ、そのいずれに関しても「相応な疑い」があれば、解雇してよい
という法律が制定された。忠誠はもちろんアメリカへの忠誠、安全保障はアメリカの国家安全保
障を指し、それに害を与えない、つまり国家の秘密をもらしたりしないことの確証が求められた。
《突然の告発》 エマーソンが国務省の忠誠安全保障委員会の査問の対象になることを告げら
れたのは、52年1月2日だった。日本では占領が終わり、朝鮮戦争は一応の休戦が実現したも
のの、アメリカとソ連のグローバルな対立は激しさを増している時期である。
その直前の年末、彼はニューヨークで家族と休暇を楽しく過ごしていたが、国務省の上司、アレ
クシス・ジョンソン(後の駐日大使)から急いでワシントンへもどるよう電話で指示を受けた。年明
けとともに国務省に出たエマーソンは忠誠と安全保障に関する規則に違反した容疑で告発され
たという書簡をみせられる。8件の告発項目は中国と日本の共産主義者に不当に密着し、アメリ
カ政府あてに共産側に同情的な偏向の報告を提出していた−という趣旨だった。この告発を論
破できなければ、国務省から解雇されるというのである。職業外交官にとってはスパイ容疑の通
告にも等しい衝撃的な糾弾だった。
この時点までエマーソンは外交官としてエリートコースとも呼べるスムーズな道を歩み、重要な
任務を次々と与えられていた。1945年2月に中国を去って、国務省本省に戻った彼は極東部
に所属し、対日戦争の政治、心理作戦に関わった。その一環としてアメリカ軍が日本本土に上
陸した際に、軍国主義日本に反対する「自由日本人組織」を結成することを目指し、在アメリカ
の大山郁夫、石垣栄太郎、石垣綾子といった左翼寄りの進歩的な日本人に会い、協力を呼びか
けた。日本共産党の野坂参三らが中国で組織した「日本人民解放連盟」とも連帯を約していた。
エマーソンは更にアメリカ内に抑留されている日本軍捕虜をも巻きこもうと、ウィスコンシン州の
マコイ抑留所を訪れ、日本の将兵と語りあった。だがこの計画も共産主義者との提携という部分
にアメリカ政府部内で反対が出て、さほど前進しないうちに終戦となる。日本専門家のエマーソ
ンはただちに日本へ送られ、45年9月、GHQ(連合国最高司令官総司令部)のマッカーサー元
帥の政治顧問付補佐官となる。5カ月たらずの短い勤務だったが、エマーソンは日本語や日本
の知識を駆使して活躍する。東京裁判の被告となる嶋田繁太郎元海相をたまたまアメリカ当局
が開発中の録音機のテストを兼ねて尋問し、東京裁判自体に対し「1928年から41年までの被
告たちの行動を独断的につなぎあわせ、世界制覇の計画的な邪悪の陰謀に仕立てることは理
不尽」と感じたという。
エマーソンは46年2月にはまた本省勤務となり、さらに47年夏からの2年間、モスクワのアメリ
カ大使館に在勤した。そしてまたワシントンに戻って間もなく査問を受けたのだった。エマーソン
本人に対する査問は52年2月26日から4月18日の間に合計11日、実施された。場所は国務
省の一室、秘密の査問会である。このプロセスでは彼を知る20数人が証言に立ち、宣誓供述
書など150数点の証拠文書が提出された。
証人のなかでエマーソンに批判的な証言をした数少ない一人は戦前の東京のアメリカ大使館で
参事官としてジョセフ・グルー大使を支えたユージン・ドゥーマンだった。大阪生まれのこの日本
専門家は戦争の終盤では国務省日本部長として天皇制の存続を強く主張したり、ポツダム宣言
の主文を起草したりして活躍した。だが後に日本の財閥解体や農地改革を巡って根本からの改
革を主張するニューディール派に反対して、退官する。
ドゥーマンは査問委員会で、エマーソンが共産主義に特別な親近感を抱き、中国では共産党へ
の支持を公然と表明し、日本では共産党の政権奪取の計画をアメリカ政府職員として積極的に
援助した、と証言した。
「委員長、エマーソン氏は共産党の利益を促進していることを十分、知ってそうしていたか、ある
いは全く愚かだった、そのどちらしかありません。国務省は彼を愚かとはみなさないでしょう」
《怒りの反論》 ドゥーマンは、かつての部下エマーソンを仮借なく糾弾した。GHQの情報局長
チャールズ・ウィロビー少将からも長文の批判的な報告書が出されていた。そこにはエマーソン
が野坂参三の中国からの帰国や徳田球一の釈放に関与した際の疑惑をにおわせながら、日本
での彼の行動が共産主義者を大きく利したと指摘していた。野坂の帰国に関しては、エマーソン
が中国から日本へのアメリカ軍機を手配したという情報が以前から広く流れていたのだ。その点
は査問委員会でも細かく論議された。
私自身も、野坂参三の帰国問題について、直接エマーソンに質問する機会があった。1978年
2月、日本共産党を除名された袴田里見が「野坂はスパイだった」と述べて、話題を呼んだ時で
ある。私は野坂を古くから知る歴史の証人としてのエマーソンを、当時、彼が主任研究員を務め
ていたフーバー研究所に訪ね、長時間、話を聞いた。エマーソンは野坂スパイ説といっても、ど
このスパイなのかはっきりしないと意味がないなどといいながら、野坂はいつも自分には忠実な
共産主義者にみえたと述べた。
「野坂氏が、帰国のためにアメリカ軍機に乗ったのは中国内だけであり、朝鮮からは陸路と船で
した。私はアメリカ軍当局から彼の朝鮮半島通過と日本帰国の是非を問われ、過去の協力の経
緯を説明して賛成の意こそ表したが、彼の帰国を手配したなどというのは、全く事実に反します」
査問会からもう26年も過ぎた時点だったが、それでもエマーソンが往時の怒りを思わせる険し
い表情で一気に語ったことを覚えている。
■豆事典
▽ジョセフ・グルー(1880−1965年) 日米開戦時の駐日アメリカ大使。第1次大戦後のパリ講和
会議(1919年)にアメリカ代表団事務総長として出席。31年、駐日大使となり、太平洋戦争前の緊
張の高まる日米外交に携わった。開戦後は42年に帰国してハル国務長官の特別補佐官となり、
44年に国務次官に就任。皇室の存続をトルーマン大統領に進言するなど対日占領方針に影響
を与え、終戦とともに退職した。アリス夫人はペリー提督の子孫。
▽大山郁夫(1880−1955年) 兵庫県の医者の家に生まれた労働運動家。早稲田大学卒業
後、大阪朝日新聞の論説委員となり、大正8年(1919年)に長谷川如是閑と雑誌「我等」を発行。
昭和2年(1927年)に合法無産政党だった「労働農民党」委員長となった。昭和6年、アメリカに亡
命。22年に帰国して早稲田大学教授となった。25年に参議院議員となり、26年には旧ソ連から
「世界平和に貢献した」として「スターリン平和賞」を受けた。
▽石垣綾子(1903−96年) 早稲田大学で大山郁夫の研究会に入り、大正15年(1926年)に渡
米。ニューヨークで画家の石垣栄太郎と結婚。夫婦で反ファシズム運動に加わり、第2次大戦中
もアメリカ戦時情報局で対日宣伝に協力した。昭和26年(1951年)、「アカ狩り」に追われて帰国、
文筆活動を続けた。
▽嶋田繁太郎(1883−1976年) 日米開戦時の海軍大臣・海軍大将。昭和8年(1933年)に海軍
軍令部作戦部長、10年に軍令部次長となり、軍備拡張を唱えて「ワシントン海軍軍縮条約」体制
に反対した。昭和16年、東条英機内閣の海相となり、東条寄りの姿勢が「腰ぎんちゃく」と評され
た。戦後、A級戦犯で起訴されて終身刑判決を受け、30年に釈放された。
■ アメリカとその敵 反共のエピローグ (1)
潔白の裁定もぬぐいきれぬ痛手
日本や中国の共産主義者たちとの過去の接触から、自国アメリカへの忠誠を疑われた外交官
ジョン・エマーソンに対する1952年(昭和27年)の査問では、日本共産党の徳田球一らの刑務
所からの釈放も重視された。その釈放は終戦直後の1945年十月だった。
その頃、日本を占領するGHQ(連合国軍総司令部)政治顧問の補佐官だったエマーソンは府中
刑務所にいた政治犯の釈放にあたった。思想や言論、政治活動の自由を抑圧する戦前の法律
は撤廃され、その法律の違反で拘留されていた人達の釈放もGHQの方針となっていたからだ。
10月5日朝、降りしきる雨のなかをエマーソンはカナダ外交官でGHQの防諜部(CIS)に出向し
ていたハーバート・ノーマンとともに、東京郊外の府中まで車を走らせ、政治犯達と面会した。
エマーソンとノーマンとはともに日本研究者として戦前からの知りあいだった。府中刑務所にい
た16人の政治犯のうち12人が共産主義者で、そのリーダーが徳田球一である。徳田は28年
に治安維持法の予防拘禁で捕らえられて以来、18年近くの刑務所生活だった。同じ共産党幹
部の志賀義雄もともに服役していた。
エマーソンとノーマンは政治犯達に釈放の見通しを告げ、逆に徳田や志賀らから戦後の共産党
の活動への抱負を聞いた。エマーソンは徳田について回想記『日本の糸』に次のように書いた。
「徳田は荒っぽい激情にあふれる、ダイナミックな雄弁家で、もの静かな野坂とは正反対だった。
だが徳田も野坂も、おそらく絶望的にさえ見える大義を支持し、生涯、浮足立つことのなかった
職業的革命家である。徳田は私に日本の共産主義者たちがイギリス、アメリカの政策を全面的
に支援するだろう、と断言した」好意のにじみでる描写だといえる。とくに野坂に関するエマーソ
ンの記述は野坂がのちに共産主義の同志を裏切っていたことを責められ、日本共産党から除名
される経緯を思うと、皮肉である。
エマーソンは10月7日、ノーマンとともに、徳田と志賀をアメリカ陸軍のカーキ色の乗用車に乗
せ、府中刑務所から日比谷の第一生命ビルのGHQへと案内して事情を聴取する。そのうえで
の釈放となった。徳田らは敗戦直後の混乱期の日本で共産党の政治活動を再開し、反軍国主
義、新民主主義のイメージで大衆にアピールしていく。エマーソンにとっては、こうした形での徳
田との接触がのちのちまで大きな影のようにつきまとうこととなる。ノーマンの存在がその影をさ
らに複雑にしていくのである。
52年の国務省の忠誠安全保障委員会の査問では、エマーソンの戦前の東京での上司ユージ
ン・ドゥーマンが徳田釈放について証言した。「1945年10月、エマーソンはノーマンとともに日
本共産党員を刑務所から釈放し、アメリカ軍の車に乗せて、東京中をパレードするように走りま
した。しかも自宅まで送り届けたという。その結果、一般の日本人にマッカーサー司令部が日本
共産党を全面的に応援しているという印象を与え、共産党の名声を高めました。そのために日
本共産党に10万人もの新党員が加わった、という話もあります」エマーソンらはそもそも共産主
義に共鳴していて、その拡大に協力したのだという非難だった。
エマーソン自身はもちろんこれを否定した。府中から日比谷までアメリカ軍車に徳田球一らを乗
せて走ったのは事実でも、車内にいる二人の日本人がだれだかわかった一般市民などまずいな
いという反論だった。
査問会での他の20数人の証人は大多数がエマーソンを弁護した。彼の共産主義者との接触や
好意的に響く共産主義の評価も、みなその時点でのアメリカ政府外交官としての職務の範囲内
であり、彼の忠誠には疑いはないという趣旨の証言だった。彼をかばう側にはモスクワでの上司
のウォルター・ベデル・スミス元駐ソ連大使(52年当時はCIA長官だった)や国務省での上司の
ディーン・ラスク(後の国務長官)も含まれていた。
1952年5月19日、国務省の委員会は裁定を下した。エマーソンのアメリカ政府への忠誠に関
する「相応な疑い」なるものは存在しないという結論だった。安全保障についても彼は潔白と判
定された。
だが、書面でその旨が正式に通告されたのは8月だった。この年の1月から8月まで、エマーソ
ンにとっては緊迫と苦痛に満ちた期間となった。ただし査問は秘密裏に進められたため、一般の
知るところとはならなかった。彼自身、家族に話して心配をかけることを避け、ひたすら一人でこ
の試練に耐えた。だが受けた痛手は大きかった。マッカーシー旋風は間違いなくエマーソンを公
私ともに深く傷つけていた。エマーソンがやっと青空を仰ぐ思いで、外交官勤務に完全に復帰し
たのは、53年はじめである。
パキスタンの首都カラチのアメリカ大使館次席に任じられた。だが、共産主義支援の容疑の舞
台となった極東、つまり日本や中国での勤務からは当面、はずされることになっていた。日本専
門家にとっては残酷な処遇である。それでも54年には外交官としての功労章を受け、身分上も
順調に昇進していった。55年にはレバノンのアメリカ大使館次席、56年には国連代表部の勤
務となる。
この間、アメリカ自体が共産主義のソ連をみる目もまた変化をたどった。1953年にはソ連の独
裁者ヨシフ・スターリンが死んだ。朝鮮戦争も終わった。ドワイト・アイゼンハワー大統領がアメリ
カ内の共産主義者に対する強固な反対の姿勢を保ち、ジュリアス・ローゼンバーグ夫妻への死
刑執行への特赦を拒みながらも、その一方でジョセフ・マッカーシー上院議員の反共活動の暴
走を非難したことで、国民一般の共産主義がらみの種々の懸念もやや薄れたようだった。
だが、56年2月にはソ連共産党のニキータ・フルシチョフ第一書記(58年3月から首相も兼任)
がスターリンの国内での反対派大虐殺の実態を暴露した。その一方、フルシチョフは58年6月
にハンガリーの労働者の決起をソ連軍戦車で粉砕する。こうした弾圧の殺戮はアメリカの反共
の活動家たちが1920年代からソ連共産党の真実として警告してきたことの正当性を立証する
こととなった。その結果、アメリカでのソ連観、共産主義観はまた一気に硬化した。アメリカ共産
党からは大量に脱落者が出る。
こうした展開はエマーソンにとってまた不幸な事態を招いていくのだった。
■豆事典
▽ドワイト・アイゼンハワー(1890−1969年) 第34代アメリカ大統領(1953−61年)。第2次大戦
の欧州戦線で連合国側の最高司令官として44年6月のノルマンディー上陸作戦を指揮し、翌45
年5月、ドイツを無条件降伏に追い込んだ。52年に共和党から大統領に当選。東西冷戦が激化
する中で59年には訪米したソ連のフルシチョフ首相と会談、アメリカとソ連の歩み寄りに努めた。
アメリカのスパイ偵察機U2がソ連に撃墜される事件(1960年)によってアメリカとソ連の関係は再
び悪化した。
▽志賀義雄(1901−89年) 大正12年(1923)、日本共産党に入党。昭和3年(1928年)に「治安維
持法」により予防拘禁され、終戦まで18年間の獄中生活を送った。昭和20年10月にGHQ命令で
徳田球一らとともに釈放され、大阪から衆議院議員に6回当選した。昭和39年の「部分的核実
験停止条約」批准の衆院決議で、「反対」の党議拘束を無視して賛成票を投じ「党の団結を乱し
た」として共産党を除名された。
▽予防拘禁 「治安維持法」(大正14年)は国体変革や私有財産否認を目的とする結社を取り締
まる法律で、昭和16年(1941年)の改正で「予防拘禁」が取り入れられた。常習犯の再犯防止を
目的に、刑期満了後も検事の請求で身柄拘束を続ける制度で、2年間ずつ期間を更新できた。
国内の予防拘禁所は「豊多摩刑務所」に設けられ、後に「府中刑務所」に移された。昭和20年、
GHQ命令で徳田らが釈放された数日後に治安維持法廃止が閣議決定された。
▽GHQ(連合国軍総司令部) 戦後の日本を占領・統治するため設置された最高司令部で、昭
和20年(1945年)9月に連合国が東京・日比谷の第一生命相互ビルに設置した。対日占領政策
は「極東委員会」(アメリカ、イギリス、ソ連、中国、フランス、カナダなど11カ国)が最高政策を決
定し、最高司令官(SCAP)のマッカーサー元帥が「対日理事会」(アメリカ、イギリス、ソ連、中国)
の諮問を受けて日本政府に指令する建前だったが、事実上マッカーサー元帥が全権を握った。
昭和27年の対日講和条約で廃止された。
206 :
卵の名無しさん:02/05/19 15:26 ID:1imzbZXg
このガイキチは一体なぜこれほどまでに
なにかまずいことでも書かれてるのか?
ペーストしてよ 誰か
■ アメリカとその敵 反共のエピローグ (2)
大使を自殺に駆ったスパイ嫌疑
1957年(昭和32年)4月4日の朝、カイロ市内の9階建てビルの屋上から男が飛び降りて、即
死した。メガネ、時計、カフスボタンを外してから後ろ向きに身をおどらせていた。カナダの駐エ
ジプト大使ハーバート・ノーマンだった。占領下の日本でアメリカ外交官ジョン・エマーソンととも
に府中刑務所から日本共産党の徳田球一や志賀義雄を釈放した人物である。
カナダ人宣教師の二男として1909年に長野県に生まれたノーマンは、少年時代まで日本で暮
らし、その後、イギリスのケンブリッジ大学やアメリカのハーバード大学とコロンビア大学で学ん
だ著名な日本研究者でもあった。1939年にカナダの外交官となり、日米開戦時まで日本に駐
在し、42年7月に日米間の抑留者交換船で帰国している。戦後はGHQ(連合国軍総司令部)の
対諜報部門で活動した。
《調査の標的》 ノーマンはこの間、「日本における近代国家の成立」、「玄洋社・日本帝国主義の源流」、「頭山満の死」などという優れた日本研究の著作を多数、残した。丸山真男、中野好
夫、渡辺一夫ら日本の学者とも交流が深かった。だからノーマンの自殺は日本にも当時、大きな
衝撃波を広げた。
カイロに赴任したノーマンは47歳、外交官としても豊富な経験を積み、スエズ危機の余波で揺
れる中東情勢の激動と取り組んでいた。死の5カ月前にはエジプトのガマル・アブデル・ナセル
大統領と一対一で会見し、長い時間、意見を交換していた。
だが、ノーマンは同時にアメリカ議会の一部からソ連のスパイの嫌疑をかけられ、徹底した調査
の標的となっていた。上院司法委員会の国内治安小委員会が57年3月から「アメリカ内でのソ
連の活動の規模」を調査対象にした一連の聴聞会を開き、その主たる矛先をノーマンに向けて
いた。ノーマンはカナダの外交官ではあったが、これまでのソ連共産党がらみと疑われた行動の
舞台がアメリカにも及んでいるとの理由での追及だった。
共産主義者を無責任に糾弾したジョセフ・マッカーシー上院議員が死んでほぼ3年、事実に基づ
かないアカ狩りへの反発が高まったアメリカで、なお、ソ連共産党のスパイ活動を暴こうという動
きが絶えなかったのは、やはりソ連の脅威が現実に拡大していたことに加え、ソ連のスパイ活動
が実際に立証されていたからだろう。だから議会では共和党保守派に限らず、民主党側にもその種の追及に努める議員は多かった。
ノーマンを主対象とする小委員会でも調査の先頭に立ったのはマッカーシー議員への懲罰を主
張した民主党の穏健派のアーサー・ワトキンス議員だった。
カラチでの勤務を終え、中東レバノンのアメリカ大使館次席となっていたエマーソンはこの聴聞
会に召喚された。ノーマンとの繋がりだけでなくエマーソン自身の日本や中国での共産主義者と
の関係までも、また尋問されると警告されていた。5年前の国務省の査問で全て決着をつけた
はずの過去の疑惑が再びむしかえされたのである。
しかも、今度は連邦議会上院という脚光を浴びやすい舞台での糾弾だった。聴聞会の前に議員
の一人は「アメリカ人の青年たちが命をかけて中東地域を防衛しているのに、かつて共産主義
勢力に有利な宣伝をした国務省外交官がその中東でシロアリのように活動している」と明らかに
エマーソンを念頭においた攻撃の言辞を述べていた。だから彼のショックや怒りは大きかった。
エマーソンは上院の国内治安小委員会で、3月12日、21日、23日の3日間にわたり、尋問さ
れた。聴聞会は秘密という合意だったが、事後の一方的な変更で議事録はすべて公表されてし
まった。その議事録でみる彼の証言は共産主義への彼自身の認識の変化を示していた。
「共産主義の究極の目標は、決して民主主義とは一致しません。共産党の、そう言ったイデオロ
ギーや政治目標についてアメリカ側には戦中から戦後までかなり広範な理解不足があったと思
います。私は中国から帰ってから、共産党一般の戦略や戦術の実態について学び始めました。
パキスタンやソ連での経験も共産主義の脅威への私の認識を深めました。共産主義こそが自由
陣営にとっての最大の脅威であり、私がいま勤務する中東でも、ソ連はまさにその危険な勢力を
拡大しつつあります」
エマーソンのこんな言葉は延安の洞窟で中国共産党の毛沢東らの活動ぶりにすっかり魅せられ
た当時とは、完全に別人の言のように響いた。
《真相はナゾ》 ワトキンス議員や小委員会の首席顧問ロバート・モリスらはノーマンとのつなが
りに関してエマーソンをさらに執拗に追及した。ノーマンが共産党員、あるいはソ連共産党スパ
イだったことを示す例証を粘り強く問い求めた。ノーマンは1930年代にイギリスのケンブリッジ
大学に学んだ際、共産主義の信奉者と親交があった。当時の同大学には共産思想への同調者
が多く、キム・フィルビー、ガイ・バージェスなど「ケンブリッジ五人組」と後に呼ばれるソ連のスパ
イが育っていた。この背景からノーマンを「第六の男」と疑う向きさえあった。
この辺の疑惑は1950年にカナダでソ連のスパイとして摘発された人物がノーマンと旧知だった
ことなどで増幅され、カナダ政府が特別に調査を実施した。その時はそうした不忠誠の事実はな
いという判定が下されていた。ところが57年になって、その疑惑がアメリカでまた浮上してきた
のだった。エマーソンは同57年の聴聞会で、ノーマンには確かに共産主義や社会主義に共鳴
し、その思考を外交官にしては率直すぎるくらいに表明する傾向こそあったものの、実際に共産
党員だったとかスパイだったことを示す兆候はツユほどもなかった、と繰り返し証言している。
ノーマンの自殺の真相はいまもナゾのままである。ただし彼が共産党員だったことを示す証拠は
いくつか確実に存在した。その点では彼は明らかに事実を語っていなかった。スパイであるとい
う証拠はなにもなかった。では彼はなぜエジプト駐在大使という要職にありながら、あえて死の
道を選んだのだろう。この部分の模索にはどうしても都留重人の証言がからんでくる。
元一橋大学学長、元朝日新聞論説顧問という著名な経済学者の都留はノーマンと緊密な関係
にあった。そのために都留は上院の国内治安小委員会の聴聞会に召喚された。エマーソンの最
終証言の三日後の三月二十六日と翌二十七日に尋問を受けた。この聴聞会の開催自体はカイ
ロのノーマンも知っており、都留がやがては証言するだろうことをノーマンは妻にも告げていたと
いう。彼が自殺したのは都留証言からほんの一週間ほど後だった。
■ 豆事典
▽頭山満(とうやま・みつる=1855−1944年) 1876年(明治9年)の萩の乱に連座して1年間、獄
中生活を送った後、自由民権運動に参加、さらに玄洋社を設立して国家主義に転じた。大アジ
ア主義を唱え、大陸進出に暗躍した。
▽ガマル・アブデル・ナセル(1918−70年) エジプトの軍人、政治家。若いころから反イギリス民
族運動に加わり、1948−49年の第1次中東戦争で前線指揮官として頭角をあらわした。52年に
ナギブとともにエジプト革命を指導し、エジプトの王政廃止と翌年の共和制移行の中心的役割を
果たした。ナセルは54年のナジブ大統領失脚後、首相兼革命軍事会議議長として権力を掌握
し、2年後の56年に大統領に就任。アスワン・ハイダム建設計画へのアメリカイギリスの援助撤
回に対抗する措置としてスエズ運河国有化を宣言した。脱植民地化のシンボルともいわれたこ
の宣言に対し、イギリス仏およびイスラエルが軍事介入して第2次中東戦争(スエズ動乱)が起
き、ナセルは以後、一段とソ連に接近。61年にはエジプトの社会主義宣言が行われた。
▽キム・フィルビー(1912−88年) ケンブリッジ大学の学生時代に共産主義に傾倒し、大学卒業
後、イギリス情報機関に勤務しながら、ひそかにイギリスの秘密情報をソ連に流すなど二重スパ
イとして活動を続けた。1940年代にはイギリス海外秘密情報部(MI6)の対ソ作戦の最高責任者
の地位にあった大物で、第2次大戦後の冷戦期にはフィルビーがソ連に流した情報によって多
数のイギリススパイが死に追いやられたという。51年にケンブリッジ時代からのスパイ仲間のガ
イ・バージェス、ドナルド・マクリーンらがソ連に亡命したため、フィルビーもスパイと疑われるよう
になった。その後、情報部を退職してジャーナリストとなり、63年にベイルートから突然、姿を消
してソ連に亡命。「今世紀最大のスパイ」といわれ、ジョン・ルカレやグレアム・グリーンのスパイ
小説のモデルにもなっている。
■ アメリカとその敵 反共のエピローグ(3)
若さゆえの無思慮だった…
アメリカ上院司法委員会の国内治安小委員会が1957年(昭和32年)3月に開いた聴聞会での
都留重人の供述は、アメリカや日本の知識人の共産主義に対する姿勢の変遷を辿るうえで貴重
な示唆に富んでいた。それはアメリカ自体がソ連の共産主義への認識をどう変えてきたかの反
映でもあった。
一橋大学・学長や朝日新聞論説顧問を歴任することになる都留は1931年、19歳でアメリカに渡り、ウィスコンシン州のローレンス大学を経て、33年からハーバード大学に学ぶ。経済学を専
攻し、同大学で修士から博士の課程を終えたあとも助手として残り、42年6月に日米抑留者交
換船で帰国するまで通算11年の滞米生活を送った。57年の聴聞会に召喚されたのは、たまた
ま都留が日米学術交流基金の招きでハーバード大学に1年間の客員講師として戻ってきていた
からだった。
都留は戦前のハーバード大学でハーバート・ノーマンと交流していた。ノーマンは36年から3年
間を同大学で過ごしたが、イギリス留学時代に、すでに共産党に入ったとみられ、36年ごろに
はソ連やマルクス主義を称賛することをためらわなかった。そんなノーマンが兄への手紙で「い
ままで会ったなかでも最も進歩的で有能なマルクス主義者」とか「共産主義者はかくあるべきと
いう模範」と評した人物が都留だった。都留自身もアメリカでの共産主義を広める活動に積極的
に加わっていた。
都留のそうした政治歴は共産主義をはっきり敵と位置づけるようになった戦後のアメリカ当局に
も知られ、51年ごろにノーマンやジョン・エマーソンへの疑惑が浮上したときにも、都留との関わ
りを調べようとする動きがあった。
57年3月26、27両日の都留への尋問では、都留自身の共産主義活動とノーマンとの繋がりの2つが焦点となった。アメリカ国内のソ連の活動を調査対象とする国内治安小委員会での都
留の証言はエマーソン証言のすぐあととなった。委員会側は民主党のオリン・ジョンストン議員
が議長となり、議員たちのほかに共産主義糾弾ですでに名をあげたロバート・モリス首席顧問ら
も質問に立った。
《後悔と転向》 「1936年ごろの時期には、私は確かに共産主義者のように行動し、共産主義
者のように発言し、執筆していました。しかし共産党員だったことはありません。マルクス主義を
推進する人たちの仲間となったことは若さゆえの無思慮であり、私は今それを恥じます」戦前の
共産主義シンパ的な活動について問われた都留は、ひたすら後悔と転向の弁を繰り返した。
委員会側は都留がハーバード時代に共産主義者たちと交換した書簡や自ら執筆した論文を多
数、入手していて、それを基に彼のアメリカ内での政治活動の実態を問い続けた。とくに都留が
共産主義の組織やシンパの拡大のために出版されていた『科学と社会』という季刊雑誌の編集
や販売拡張に深くかかわっていた点を追及した。都留は「革命運動」「スターリンの指示」「党の
規律違反」などという表現を使った手紙のやりとりをしていたことを指摘されると、もっぱら「適切
な限度を超えた間違いであり、若いころの冒険」として、悔いの念を強調した。
聴聞会に出たときの都留は45歳、一橋大学の教授ポストを休職し渡米していた。20年近く前
の活動の責任を問われるのは酷ではあったが、委員会側は遠慮しなかった。都留が共産主義
を過去の間違いだというなら、なぜいつからそう思ったのか、とも問いつめた。
「1939年ごろから次第に考えが変わり、戦後は明確に共産党の政策はもちろんマルクス主義
に反対するようになりました。連合軍の総司令部に勤務するようになった頃です。でも若気の無
分別からにせよ、そんな経験は共産主義ドクトリンに反対する私の今の思考に、より多くの強さ
と自信を与えたとも言えます。私の今の考え方はアメリカの経済システムが将来を約束している
という実感にも由来しています」
都留は自分の現在の思考は民主的社会主義といえるかもしれないと断りながらも、アメリカのシステム礼賛を繰り返し、資本主義への同調を事実上、表明している。自分は反米ではないとも強
調しアメリカ経済の活力と繁栄に感嘆したとも述べている。
さらに都留がまるで教師にいたずらの非をとがめられた生徒のように、若き日の「無思慮」を委
員会にひたすら詫び、委員会が持つリストの人名について共産主義者がいれば、それを通報す
ることまでを約すという対応は、戦争をはさむ20年ほどの期間に知識人の間での共産主義観
がどれほど変わってしまったかを象徴していたといえる。
《抗議の声》 都留はノーマンとのつながりについても細かく厳しい質問を受けた。ノーマンに最
初に会ったのは1936年頃で、共産主義学習の集まりで都留が「社会科学のマルクス主義方法
論」について、ノーマンが「アメリカ帝国主義」について、それぞれ小論文を発表したことも都留
は認めた。戦後の日本でも2人は交流を続けたという。だが委員会側のモリスらが最も強い関心
を向けたのは、日米交換船で北アメリカに戻ったノーマンが都留の去ったアパートを42年10月
に訪ね、残された書簡、書籍、書類を入手しようとした事だった。同42年6月にアメリカを離れた
都留はほとんどの所持品をおいていった。
モリスは都留への質問にあたって「所持品には、アルジャー・ヒスらが作成したナイ軍需調査報
告一式が含まれていた」というFBI(連邦捜査局)の内部記録を読みあげた。この報告はジェラル
ド・ナイ上院議員が主管する軍需調査委員会の軍事生産に関する調査のまとめだった。その内
容は秘密ではなかったが、そんな文書へのモリスの言及は委員会側がノーマンに対しソ連のス
パイとの関連まで疑うほど過大に反応していたことを示している。
都留自身はノーマンのこの行動について、ただ都留の日本史の蔵書が欲しいだけだったのだろ
うと述べ、不正はないことを断言した。だがノーマンがカナダ当局の特命を受けて都留の所持品
を回収にきたという虚偽の発言を一時していたことも確認されており、聴聞会でもそのへんの真
相は不明のままに終わった。
エジプト駐在カナダ大使のノーマンが自殺したのは、この都留証言から8日後の57年4月4日
だった。もし自殺しなければ、ノーマン自身が聴聞会に呼ばれ、厳しい尋問にさらされることは確
実だった。彼の死にカナダでは官民でアメリカ議会への怒りの抗議がわき起こった。アメリカ内
でも国内治安小委員会の調査を過剰だとか無責任として批判する声が強かった。都留ものちに
自分の著作でやましい点はなにもないことを強調している。だが都留がこの聴聞会やノーマンの
自殺についての研究者やジャーナリストからのインタビュー申し込みに応じたという記録は今も
みあたらない。
■ 豆事典
▽ハーバード大学 アメリカ東部マサチューセッツ州ボストンの隣町ケンブリッジにあるアメリ
カ最古の大学。1636年に牧師のジョン・ハーバードが設立基金と蔵書を寄付して開設。1869年
から40年間にわたってチャールズ・エリオットが学長を務めた期間に大学院も設置した総合大学
に発展した。各分野の大学院は常に全アメリカでもトップクラスの水準を維持しており、キャンパ
スの環境も豊かで、自由な大学と高い評価を受けている。その一方で、最近のアメリカでは評判
を落としている「リベラル」派の学問的拠点としてみられ評価を低くしている側面もある。
▽アメリカに対するカナダの抗議 当時の報道によると、ハーバート・ノーマンの自殺について
知らせを受けたカナダ外務省は直ちにピアソン外相名の声明を発表している。声明は、ノーマン
の「古傷」に対し、カナダでは慎重な調査が行われた結果、この問題はすでに数年前にけりがつ
けられているとの指摘を行ったうえで、「新たな攻撃が始まった理由は明らかでないようだが、そ
のやり口はそれを用いたものの品位を傷つけるにすぎない」としている。さらにカナダ政府は「ノ
ーマン大使に対するアメリカ上院国内治安小委員会の無責任な主張はアメリカカナダ両国の友
好協力関係に反する遺憾な行為であり、カナダ政府に通告することなく、このような手続きが取
られたことはまことに不当である」とアメリカ政府に抗議覚書を送った。これに対しアメリカ政府
は自殺から6日後の4月10日、「カナダとノーマン氏の家族に心から哀悼の意を表明する」との
回答を発表し、調査については「ご存じのようにアメリカでは行政機関は議会の委員会の委員
が発表する見解や意見にとやかくいう権限を持っておらず、小委の調査はまったく小委の権限
内で行われている」と述べている。
■アメリカとその敵 反共のエピローグ (4)
レーガン「力による平和」の勝利
カーネギー国際平和財団の研究員として働いていた1981年(昭和56年)2月、ロナルド・レーガ
ン大統領の最初の公式記者会見に出る機会を得た。そのころの私は、新聞記者の資格をも保ちながら、ホワイトハウスの記者証も継続して持っていたため、大統領の会見の場に入ることも
できたのだ。
率直にいって、その時点での私自身のレーガンへの期待は低かった。ひとつにはカーネギーの
研究所で民主党リベラル系の学者や元政府高官に囲まれて、レーガンへの酷評を朝から夕まで
聞いていたからだろう。「超保守の反動」「映画俳優崩れの浅薄な人物」「頑迷で危険な反共主
義者」といった批判だった。
だが目の前でレーガンが語るのを初めて聞いて奇妙に感じた。連日、聞かされていた酷評から
の印象とはどうも違うからだった。複雑なテーマをわかりやすい表現で簡潔に説明し、これまた
平易な意見を率直に述べる。ソフトながら腹に響く太い声と柔和な口調は、発言の内容にたとえ
賛成しなくても、つい耳を傾けてしまう。この記者会見に出ただけでも彼がアメリカの一般大衆に
なぜ人気があるのか、わかった気がした。
レーガン大統領はこの記者会見でソ連の対外行動に触れ、「ソ連指導部はウソをつき、騙すの
です」とさらりといってのけた。これにはびっくりした。アメリカの政府首脳がこれほどどぎつい言
葉でソ連を非難するのを聞いたことがなかったからだ。
レーガン大統領のこの言葉は、あの有名な「ソ連は悪の帝国」という言明に繋がっていく。「悪の
帝国」という表現は内外から非難をあびた。欧州や日本ではソ連が平和志向で国内には自由も
あると主張する向きもあったから、反発は激しかった。だがいざソ連邦が崩壊すると、そこに長
年、住んでいた人たちが「悪の帝国」の罪状の数々を指摘し、期せずしてレーガンの非難の正し
さを立証した。
《揺るがぬ志》 アメリカの反共主義の歴史は、やはりロナルド・レーガンの役割に触れずに語り
終えることはできない。大統領としてソ連共産主義体制を崩壊へと追いこんだ歴史的功績だけ
でなく、1940年代から一貫して共産主義の非民主的な動きに対抗してきた実績があるからだ。
レーガンは41年にハリウッドの「映画俳優組合」の役員となり、その後は組合の委員長として映
画界の共産党系の活動家たちと長年、闘ってきた。組合の役員になってすぐ、彼は民主党から
共和党へと支持政党を変えている。それまでは労働組合幹部の伝統的な民主党支持の慣行に
従っていたが、民主党の共産主義活動家への姿勢を生ぬるすぎるとして見限ったのだった。
レーガンは1947年に下院非アメリカ活動委員会の公聴会で「私はイデオロギーの理由だけで
政党が弾圧されることには反対します。アメリカはこれまで170年もかけて、いかなる非民主的
なイデオロギーにも自由な競争だけで勝てる民主主義の強固な基盤を築いてきました。しかし
組織や政党が外国の権力に支配され、動かされるとなると、話は別です。暴力による政治目的
の達成を意図する場合も別です。アメリカの共産党はその別のケースなのです」と証言している。
ハリウッドへの共産党の浸透による暴力的なストやピケへの対応についての証言だった。全世
界で上映される映画の95%がハリウッド製という時代とあって、共産党の側もアメリカ映画産業
への影響力行使に力を注いだのだった。
その後のレーガンは反共がファシズムと連想される時代にも、頑迷で危険な思想とされる環境
でも、姿勢を変えなかった。大統領になってからは「力による平和」の政策を保ち、ソ連の膨張を
軍事力で抑止するという対応を揺るがせにしなかった。
その結果、世界各地のそれまでの「民族解放」や「抑圧打破」の旗を掲げた共産主義勢力の拡
大はぴたりと止まった。そしてソ連や東欧の共産主義体制がやがては崩壊していった。
1991年12月のソ連共産党解体はアメリカの反共産主義の運動のエピローグでもあった。長年
にわたり糾弾し、反対してきた対象が崩れた一事をもってしても、それは輝かしい勝利だといえ
よう。イデオロギーの面をみても、『歴史の終わり』の著者フランシス・フクヤマが述べるように、
自由民主主義が共産主義に勝ったことは客観的な事実だろう。
《自由の守護》 ソ連共産主義体制の崩壊が明確で、堅固な反共思想に支えられたレーガンら
の「力による平和」だけの結果なのか?その因果関係をめぐっては、アメリカ内でもなお論争は
残る。ただし、アメリカの共産党や共産主義者が戦前から一貫して、ソ連共産党からの秘密の指
令と資金とで動いていたことを示す大量の記録が冷戦後にモスクワで明るみに出た。反共勢力
の従来の主張が立証されたわけである。そうした記録の内容は95年刊の『アメリカ共産主義の
秘密の世界』という書に詳しい。
ちなみに、日本ではアメリカで自明とされるソ連共産主義体制の崩壊や敗北についても、なお認
識をあえてあいまいにするような部分が残っている。アメリカとソ連が対等なレベルで同時に冷
戦をやめたように響く「冷戦構造の崩壊」という表現が一般的なのもその例証だろう。このへん
の事情について社会主義の歴史の研究で著名な都立大学名誉教授の関嘉彦は論評する。
「アメリカの核兵器は危険だが、共産主義は平和愛好勢力だからソ連や中国の核兵器は平和を
守るために当然だ、というような主張がつい近年まで国政の主舞台に登場する人たちによって
表明されていたのです。共産主義のソ連にも自由があるという主張も同様でした。この種の間違
いへの反省や訂正がありません。過去に締めくくりをつけないと新しいことにきちんと向かえな
いと思うのですが」
一方、共産主義の統治の下で実際に生きた人たちからは、その統治の終わりの意味について
明快きわまる解釈が表明される。チェコのバツラフ・ハベル大統領はアメリカ議会での演説で述
べた。「アメリカは自由の守護者としてソ連という悪夢と戦い、打破しました。アメリカの戦後の安
全保障システムなしには私たちはいまの自由を享受しえなかったでしょう」
ロシアの作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンは、アメリカの雑誌のインタビューでさらに明確
に語った。「冷戦は基本的にはロナルド・レーガンのスター・ウォーズ(戦略防衛構想=SDI)計画
の開始に対し、ソ連が対応できないと理解した事で自由主義陣営の勝利として終わったのです」
糸冬
■豆事典
☆バツラフ・ハベル(1936年−) チェコ共和国大統領。1968年の民主化運動「プラハの春」がソ
連の軍事介入で圧殺されたことに強く抗議し、共産主義体制下のチェコスロバキアで反体制劇
作家として数多くの戯曲を発表。反体制組織の結成に参加して国家転覆罪で逮捕され、獄中生
活を送ったこともある。89年秋からの「ビロード革命」では草の根民主運動組織「市民フォーラ
ム」の代表として活躍し、共産政権を打倒。チェコスロバキア連邦の大統領となった。その後、連
邦大統領を辞任。チェコとスロバキアが分離した後の93年5月、新生チェコの初代大統領に選ば
れた。
☆アレクサンドル・ソルジェニーツィン(1918年−) ロシア南西部カフカス生まれ。召集兵として
参戦した1941年の独ソ戦で、前線からスターリン批判をにおわせた手紙を友人に出したとして8
年の刑を宣告され、囚人の特殊研究所や炭鉱などで働いた。釈放後は学校教員をしながら文筆
活動に入り、56年のスターリン批判開始後、収容所生活を描いた「イワン・デニーソビッチの一
日」を発表。67年から検閲などをめぐって当局を批判し、ソ連国内で発表できなかった「がん病
棟」(68年)などを海外で出版した。70年にノーベル文学賞を受賞。73年には「収容所群島」をパリ
で発表し、翌74年、国外追放となった。その後、アメリカに住んだが、ソ連崩壊後の94年5月に
帰国した。
☆SDI(戦略防衛構想) レーガン政権が1983年3月に発表したアメリカの新たな核戦略。81年
に就任したレーガン大統領はそれまでのアメリカソが核兵器で相手を確実にたたくことだけを前
提にした確証破壊の核抑止態勢を「アメリカソ相互自殺協定」とみて、飛来する弾道ミサイルを
大気圏外で迎撃するミサイル・システムの研究開発に乗り出すことを決定した。SDI計画はこの
システムが中核になっていることから「スター・ウォーズ」とも一部から呼ばれた。
216 :
卵の名無しさん:02/05/19 18:34 ID:WQLuaNFR
194 :卵の名無しさん :02/05/19 08:14 ID:Rely9z7J
ここまで荒らすとはさすが執念の沢×。
しかし、完全に頭が逝ってるわな。
195 :卵の名無しさん :02/05/19 09:16 ID:n5KflhZs
>>194 http://ton.2ch.net/test/read.cgi/hosp/1010753210/844-845n このスレッドは修行道場らしい。
古森くんの行為は修行みたいよ。
静観しましょう。
196 :卵の名無しさん :02/05/19 12:46 ID:7ukH7HKd
荒らしているのかどうか実態はよくわかりませんが、
あんまりそういうことはしない方がいい
おかげでジェネリックのイメージが一層わるくなるような
スレッドがたてまくられている
217 :
卵の名無しさん:02/05/19 21:18 ID:EA481lPC
他のスレッドでここの異常な荒らしのことを読んで来てみたのだが
異常を通り越してるよ。
他のスレッドでこの荒らしのことを宣伝してるのでここを見にくる
人は多いんじゃない?
あるいは宣伝してるのはこの異常な荒らし本人か?
218 :
卵の名無しさん:02/05/19 21:24 ID:1imzbZXg
>217
可能性あり
219 :
卵の名無しさん:02/05/20 00:13 ID:7i3Tx9du
アラシもいろいろ見ましたがここほど粘着質なのは初めて
ここのスレッドほかでも宣伝してきます!!
なんかなぁ。
ほんとにカルト教団みたいなものかもしれない。
221 :
古森義久:02/05/20 06:35 ID:ajH4Vpgy
ここの荒らしは沢×製薬の関係者でっか?
まさか、あの人では?
122 :卵の名無しさん :01/10/21 15:57 ID:???
↑ おお、 沢井関係者がスレッドの書き込み阻止工作を
123 :卵の名無しさん :01/10/21 19:05 ID:???
↑ おお、 沢井関係者がスレッドの書き込み阻止工作を
なら、大丈夫。会社の方針も10日も持つことがないから、
そのうち飽きるわさ
1 :ケンタン :01/11/27 23:19 ID:???
本社の親戚連中ご苦労さま(大爆笑)
2 :卵の名無しさん :01/11/27 23:24 ID:???
このスレッドはどこまで続けるつもりだ?
3 :卵の名無しさん :01/11/27 23:31 ID:???
ここもあのあらしが来るのかなあ、ワクワク
4 :卵の名無しさん :01/11/27 23:35 ID:???
恐らくクラヤかスズケンの仕業だろ
5 :卵の名無しさん :01/11/28 00:18 ID:???
↑
社長です
6 :卵の名無しさん :01/11/28 01:13 ID:???
あの荒らしはわざと沢井スレッドを目立たせようとしているように
思えてならないですが、考えすぎか?
7 :卵の名無しさん :01/11/28 05:06 ID:???
なんかなぁ、なかばあきれつつ。
懲りないですなぁ。
沢井関連のスレを複数立てて、荒し攻撃を分断させようとする目論見?
いろいろと問題が百出するのは沢井だけではないでしょう。
批判・意見には真摯に受け止める姿勢が大切だとは思うものの
あの荒し、いったい誰の仕業なんだ。
21 :卵の名無しさん :01/11/28 18:11 ID:???
荒らしレス削除しろよ削除人
22 :卵の名無しさん :01/11/28 18:21 ID:???
削除依頼は削除依頼用の板でお願いします
23 :卵の名無しさん :01/11/28 19:19 ID:???
21はIP抜かれるのがイヤなんだろ。>22
24 :卵の名無しさん :01/11/28 19:34 ID:???
↑
ばーか
削除依頼だしたぞヴォケ
27 :卵の名無しさん :01/11/28 20:18 ID:???
ゴルァ削除人 なんとかしろヴォケ
28 :卵の名無しさん :01/11/28 22:38 ID:???
荒らしが根負けするまでスレを永遠にたてよう!
32 :卵の名無しさん :01/11/29 00:52 ID:???
削除人の介入、ないみたいですね。
大韓季年史を検証する
『大韓季年史』は「銃刀森列すること鉄桶の如く、内政府及び宮中、日兵また排立し、其の恐喝
の気勢、以てことばにあらわし難し」 という箇所を検証してみます。はたして韓国政府高官は
王宮を取り囲んだ日本軍に恐怖を感じたのかどうか。
マッケンジー著「韓国の悲劇」は ? 東洋文庫は『朝鮮の悲劇』
「閣僚や皇帝にとってこういう示威のすべてが、不吉な恐ろしい意味を持った。
1895年のあの夜、日本軍兵士が別の王宮(乙未政変の時の王宮景福宮
を指す・・・)のまわりを示威行進し、注意深く選び出された日本人壮士たち
が宮殿内に侵入し、そして王妃(閔妃)を殺害したが、その時のことを、大臣
や皇帝は決して忘れることはできなかったのである。」と書かれています。
これである程度裏付けることができます。しかし実際に彼は王宮内にいたわけ
じゃないというような反論もありましたから、当人達の証言を出します。
強制調印の現場に居合わせ、その成り行きを見守っていた参賛、李相ソル(イ・サンソル)が、
後に皇帝の「密使」としてハーグに赴いた時、『クーリエ・ド・ラ・コンフェランス』
(1907・6・28)に「控告詞」を発表し、日本の侵略の不当性を告発した中で、その
場面を次のように再現している。
*皇帝・高宗の密使になったのは3人、李儁(イ・ジュン)、李相?(イ・サンソル)、李?鍾(イ・イ
ジョン)だが、李儁が日本の目をかすめてひそかに皇帝から委任状を受け取り、釜山から船
でウラジオストクに渡った。(?=咼のうえに”+”、?=王へんに偉のつくり)
内部大臣李ヂヨン・軍部大臣李根沢は、1895年10月8日夜の駐韓日本公使三浦による王妃
虐殺の悲惨な場面を思い出し、その時のような残虐行為が繰り返されるのを怖れ、それぞれ同
僚の大臣に受諾を懇願しました。
これによって王宮を取り囲んだ日本兵によって韓国政府高官が恐怖を感じたのは事実だと裏が
取れました。
実際に日本軍が威嚇を目的として出動したことは、以下の資料で証明されます。
林公使は、朝鮮駐とん軍司令官・長谷川好道大将を通じて日本軍の軍隊と憲兵隊を出動させ、
日本公使館と王宮の周辺を特別厳重に警戒をあたらせた。さらに日本公使館がある倭城台に
並べられた大砲の砲口は、すべて王宮の方角に向けられていた。(片野次雄著「李朝滅亡」P219)
他にも(海野福序著「韓国併合史の研究」p208)11月26日、丸山重俊警務顧問は、林に「近
来、路上に人手多し。之を窺うに、何時事変の起こらんかを疑い、多少人心不当のもなきにしも
あらず。専ら警戒中」と報告したが、国権喪失に対する不安と民衆蜂起への期待が入り混じり、
路上にあふれた人々を畏怖させたのは日本軍の威嚇である。日本の新聞でさえ、ソウル「南山
倭城デ(ナムサヌエソンデ)一帯の山には万一の変に備えんため軍隊を置き、又17,18日は恰
も旧王城前及鐘路附近にて歩兵一大隊の演習があり、砲兵中隊の演習、騎兵連隊の演習あり
しを以って、反対派もついに屏息したるものの如し」と報じている。あるいは17日には、「日本歩
・騎・砲の3兵科が旧王城前広場に於いて終日盛んに訓練を行い、その精錬活発なる動作は、
時節柄一種の感想を抱かしめ」、「韓国兵士が制服、武器を遺棄して逃走する者多きを加えた
り」と報告された。このように強い威嚇と厳戒態勢の下で、17日午前11時に韓国全大臣が日本
公館に召集された。(引用終了)
さらに、日清戦争時の王宮占拠事件とか甲申事変で日本の軍隊が実際に王宮内に乱入した事
実を考慮してみれば、ますます「大韓季年史」のあの箇所の信憑性がますことは明らかです。
よって「大韓季年史」のあの記述部分は概ね間違っておらず、真実であると主張します。
メッセージ:185 投稿者:omegatribes 2002・04・16
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=185
日本ほどの差別はない???
病としての韓国ナショナリズム」 伊藤順子 洋泉社
大韓民国政府は一九四八年の成立直後から、為替取引規制や倉庫封鎖令などで華僑の経済活動を圧迫していった。
さらに外国人名義の貿易商登録を認めないなど、華僑をその生命線である貿易業からも排除した。
「日本の植民地時代には、ソウルの街中にも大きな中国人街があった。
仁川の貿易もわれわれがしっかり握っていたし、まだあのころはよかったよ」
というような話をおりおりしてくれたのは、私が暮らしていた
ソウル市西大門区延禧洞で小さな中華料理店を営む孫さんだ。
「韓国人は絶対に人間を平等に見ない。必ず上下をつけるんだ。
食堂をやる華僑は犬猫同然、店に来ても横柄で、われわれを下人のように扱ったのさ」
韓さんはよくこんなことを言うが、そういえば、孫さんの奥さんも
「日本人のお客さんはとっても親切だったよ」と言っていた。
「お客さんが親切」というのも奇妙な話しだが、どうも韓国人のお客さんは食堂の人との
あいだにも水平な関係がつくれなかったらしい。
それは儒教意識の影響でしょうかと、私が質問しようとしたら、
「韓国人はもともと人間が汚いんだよ」と韓さんは声を荒げた。
メッセージ: 1441
2002/ 5/ 4
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=badfffc4z9qa1a6dabaafbfma4nbb2c0af8a2&sid=1835396&mid=1441
金完燮『親日派のための弁明』、序文より
昨年の夏,韓国放送公社(KBS)では,日本についてのドキュメンタリーを二回にわたって放映
したが,私は,それによって今日,日本に自虐史観が澎湃しているという事実を知った。日本は
明治維新以後,さまざまな誇るべき業績をあげ,日本のみならず人類の歴史への貢献も多い国
だ。このように燦然たる歴史をもつ日本が,一回戦争に破れたというだけで,自国の歴史に自負
をもてず,自らを虐待している今日の現実は悲しく,気の毒なことこのうえない。
何年か前,私はソウルで日本の若者数人と会ったことがあるが,彼らは韓国人に会えば,こ
ん棒で殴られるのが当然だと信じていた。彼らは,時間が経っても韓国人たちが殴らないことを
不審に思い,いつ殴るのかと尋ねさえした。燦然たる偉大な歴史をもち,今日にいたるも世界第
二の経済大国である日本の国民が,なぜ隣国に来て,それも少し前まで日本の土地だったとこ
ろに来て,このように肩身の狭い立場に置かれなければならないのか。彼らはたぶん,歴史教
師たちから何度も日本がしでかした罪悪相について教育を受けたのだろうし,敗戦記念日が来
るたびに黙念して日本から被害をこうむった人々に反省する時間を持ったのだろう。
今日の日本の問題は,反省と謝罪がないというところにあるのではなく,過去に対する清算が
行き過ぎているというところにある。日本は戦後独立して新しい国家を建設し,経済大国になっ
たが,その精神は依然として米国の植民地の身分を脱することができずにいる。私は少し前に
会ったある日本の友人から「強大国」の日本人が口癖のように「こんなに小さい国で……」と言
う,という話を聞いて驚かずにはいられなかった。彼らにしてみれば,日本は,米国や中国,ロシ
アのような国に比べれば,国土も狭く,人口も少なく,いろいろな面であまりに小さい国であるよ
うに思われるのだ。謙遜というよりは自虐に近いこのような考え方は,みな米国によって強要さ
れた植民史観と自己卑下作業の結果生じたものであり,日本が経済だけでなく政治,文化,軍
事的にも堂々たる自主独立国になるためには,歴史に対する自負心を回復することが何よりも
急がれる先決課題といえるだろう。
それゆえ,最近進められている日本の歴史建て直し運動は,誤ったことを正す動きであるにすぎ
ず,韓国で言うような右翼の蠢動とはかけはなれている。彼らは右翼でもなく,ただ日本を愛す
る愛国者にすぎない。最近の教科書騒ぎで韓国政府は,日本の歴史建て直し運動に言いがか
りをつけて,分別のない振る舞いをすることで国際的な恥さらしを自ら招いた側面がなくはない。
これは政府当局者たちと韓国民の間に澎湃している低劣な歴史認識と利己的な考え方に由来
するものであり,韓国は日本がこのような無礼な言動に正面から対応しないといって,これを根
拠に自ら正しいと信じる愚を犯してはならないだろう。日本の悠然とした対応は,正面から相手
と敵対しにくい日本的文化からくるものであり,また長い歳月の間に固まってしまった敗戦国とし
ての自己卑下の習性の結果にすぎない。日本の意思表現のやり方がむしろ西洋式だったなら,
少なくとも今ごろ韓日関係の葛藤はその実体を暴かれているだろう。
訳bosintang氏
日本史 > 自虐的歴史観はもうたくさんだ
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=bcab5teaanrbbk4qa4oa4ba4a6a4bfa4afa45a4sa4c0a1aa&sid=1835208&mid=1455
大韓季年史を検証する
(『大韓季年史』は「銃刀森列すること鉄桶の如く、内政府及び宮中、日兵また排立し、其の恐喝
の気勢、以てことばにあらわし難し」)という箇所を検証してみます。
果たして韓国政府高官は王宮を取り囲んだ日本軍に恐怖を感じたのかどうか。
マッケンジー著「韓国の悲劇」は ? 東洋文庫は『朝鮮の悲劇』
「閣僚や皇帝にとってこういう示威のすべてが、不吉な恐ろしい意味を持った。
1895年のあの夜、日本軍兵士が別の王宮(乙未政変の時の王宮景福宮
を指す・・・)のまわりを示威行進し、注意深く選び出された日本人壮士たち
が宮殿内に侵入し、そして王妃(閔妃)を殺害したが、その時のことを、大臣
や皇帝は決して忘れることはできなかったのである。」と書かれています。
これである程度裏付けることができます。しかし実際に彼は王宮内にいたわけ
じゃないというような反論もありましたから、当人達の証言を出します。
強制調印の現場に居合わせ、その成り行きを見守っていた参賛、李相ソル(イ・サンソル)が、
後に皇帝の「密使」としてハーグに赴いた時、『クーリエ・ド・ラ・コンフェランス』
(1907・6・28)に「控告詞」を発表し、日本の侵略の不当性を告発した中で、その
場面を次のように再現している。
*皇帝・高宗の密使になったのは3人、李儁(イ・ジュン)、李相?(イ・サンソル)、李?鍾(イ・イ
ジョン)だが、李儁が日本の目をかすめてひそかに皇帝から委任状を受け取り、釜山から船
でウラジオストクに渡った。(?=咼のうえに”+”、?=王へんに偉のつくり)
内部大臣李ヂヨン・軍部大臣李根沢は、1895年10月8日夜の駐韓日本公使三浦による王妃
虐殺の悲惨な場面を思い出し、その時のような残虐行為が繰り返されるのを怖れ、それぞれ同
僚の大臣に受諾を懇願しました。これによって王宮を取り囲んだ日本兵によって韓国政府高官
が恐怖を感じたのは事実だと裏が取れました。
実際に日本軍が威嚇を目的として出動したことは、以下の資料で証明されます。
林公使は、朝鮮駐屯軍司令官・長谷川好道大将を通じて日本軍の軍隊と憲兵隊を出動させ、日
本公使館と王宮の周辺を特別厳重に警戒をあたらせた。さらに日本公使館がある倭城台に並
べられた大砲の砲口は、すべて王宮の方角に向けられていた。(片野次雄著「李朝滅亡」P219)
他にも(海野福序著「韓国併合史の研究」p208)11月26日、丸山重俊警務顧問は、林に「近
来、路上に人手多し。之を窺うに、何時事変の起こらんかを疑い、多少人心不当のもなきにしも
あらず。専ら警戒中」と報告したが、国権喪失に対する不安と民衆蜂起への期待が入り混じり、
路上にあふれた人々を畏怖させたのは日本軍の威嚇である。日本の新聞でさえ、ソウル「南山
倭城デ(ナムサヌエソンデ)一帯の山には万一の変に備えんため軍隊を置き、又17,18日は恰
も旧王城前及鐘路附近にて歩兵一大隊の演習があり、砲兵中隊の演習、騎兵連隊の演習あり
しを以って、反対派もついに屏息したるものの如し」と報じている。あるいは17日には、「日本歩
・騎・砲の3兵科が旧王城前広場に於いて終日盛んに訓練を行い、その精錬活発なる動作は、
時節柄一種の感想を抱かしめ」、「韓国兵士が制服、武器を遺棄して逃走する者多きを加えた
り」と報告された。このように強い威嚇と厳戒態勢の下で、17日午前11時に韓国全大臣が日本
公館に召集された。 (引用終了)
さらに、日清戦争時の王宮占拠事件とか甲申事変で日本の軍隊が実際に王宮内に乱入した事
実を考慮してみれば、ますます「大韓季年史」のあの箇所の信憑性がますことは明らかです。
よって「大韓季年史」のあの記述部分は概ね間違っておらず、真実であると主張します。
メッセージ:185 投稿者:omegatribes 2002・04・16
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=185
日本ほどの差別はない???
病としての韓国ナショナリズム」 伊藤順子 洋泉社
大韓民国政府は1948年の成立直後から、為替取引規制や倉庫封鎖令などで華僑の経済活
動を圧迫していった。さらに外国人名義の貿易商登録を認めないなど、華僑をその生命線であ
る貿易業からも排除した。
「日本の植民地時代には、ソウルの街中にも大きな中国人街があった。
仁川の貿易もわれわれがしっかり握っていたし、まだあのころはよかったよ」
というような話をおりおりしてくれたのは、私が暮らしていた
ソウル市西大門区延禧洞で小さな中華料理店を営む孫さんだ。
「韓国人は絶対に人間を平等に見ない。必ず上下をつけるんだ。
食堂をやる華僑は犬猫同然、店に来ても横柄で、われわれを下人のように扱ったのさ」
韓さんはよくこんなことを言うが、そういえば、孫さんの奥さんも
「日本人のお客さんはとっても親切だったよ」と言っていた。
「お客さんが親切」というのも奇妙な話しだが、どうも韓国人のお客さんは食堂の人との
あいだにも水平な関係がつくれなかったらしい。
それは儒教意識の影響でしょうかと、私が質問しようとしたら、
「韓国人はもともと人間が汚いんだよ」と韓さんは声を荒げた。
メッセージ: 1441
2002/ 5/ 4
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=badfffc4z9qa1a6dabaafbfma4nbb2c0af8a2&sid=1835396&mid=1441
金完燮『親日派のための弁明』、序文より
昨年の夏、韓国放送公社(KBS)では、日本についてのドキュメンタリーを二回にわたって放映
したが、私は、それによって今日、日本に自虐史観が澎湃しているという事実を知った。日本は
明治維新以後、さまざまな誇るべき業績をあげ、日本のみならず人類の歴史への貢献も多い国
だ。このように燦然たる歴史をもつ日本が、一回戦争に破れたというだけで、自国の歴史に自負
をもてず、自らを虐待している今日の現実は悲しく、気の毒なことこのうえない。
何年か前、私はソウルで日本の若者数人と会ったことがあるが、彼らは韓国人に会えば、こ
ん棒で殴られるのが当然だと信じていた。彼らは、時間が経っても韓国人たちが殴らないことを
不審に思い、いつ殴るのかと尋ねさえした。燦然たる偉大な歴史をもち、今日にいたるも世界第
二の経済大国である日本の国民が、なぜ隣国に来て、それも少し前まで日本の土地だったとこ
ろに来て、このように肩身の狭い立場に置かれなければならないのか。彼らはたぶん、歴史教
師たちから何度も日本がしでかした罪悪相について教育を受けたのだろうし、敗戦記念日が来
るたびに黙念して日本から被害をこうむった人々に反省する時間を持ったのだろう。
今日の日本の問題は、反省と謝罪がないというところにあるのではなく、過去に対する清算が
行き過ぎているというところにある。日本は戦後独立して新しい国家を建設し、経済大国になっ
たが、その精神は依然として米国の植民地の身分を脱することができずにいる。私は少し前に
会ったある日本の友人から「強大国」の日本人が口癖のように「こんなに小さい国で……」と言
う、という話を聞いて驚かずにはいられなかった。彼らにしてみれば、日本は、米国や中国、ロシ
アのような国に比べれば、国土も狭く、人口も少なく、いろいろな面であまりに小さい国であるよ
うに思われるのだ。謙遜というよりは自虐に近いこのような考え方は、みな米国によって強要さ
れた植民史観と自己卑下作業の結果生じたものであり、日本が経済だけでなく政治、文化、軍
事的にも堂々たる自主独立国になるためには、歴史に対する自負心を回復することが何よりも
急がれる先決課題といえるだろう。
それゆえ、最近進められている日本の歴史建て直し運動は、誤ったことを正す動きであるにすぎ
ず、韓国で言うような右翼の蠢動とはかけはなれている。彼らは右翼でもなく、ただ日本を愛す
る愛国者にすぎない。最近の教科書騒ぎで韓国政府は、日本の歴史建て直し運動に言いがか
りをつけて、分別のない振る舞いをすることで国際的な恥さらしを自ら招いた側面がなくはない。
これは政府当局者たちと韓国民の間に澎湃している低劣な歴史認識と利己的な考え方に由来
するものであり、韓国は日本がこのような無礼な言動に正面から対応しないといって、これを根
拠に自ら正しいと信じる愚を犯してはならないだろう。日本の悠然とした対応は、正面から相手
と敵対しにくい日本的文化からくるものであり、また長い歳月の間に固まってしまった敗戦国とし
ての自己卑下の習性の結果にすぎない。日本の意思表現のやり方がむしろ西洋式だったなら、
少なくとも今ごろ韓日関係の葛藤はその実体を暴かれているだろう。
訳bosintang氏
日本史 > 自虐的歴史観はもうたくさんだ
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=bcab5teaanrbbk4qa4oa4ba4a6a4bfa4afa45a4sa4c0a1aa&sid=1835208&mid=1455
金時鐘『「在日」のはざまで』
朝鮮人の私が,朝鮮語を朝鮮で失くしたのは小学校二年のときであった,と先ほど言った。それ
が私には「真なること」を学びとる手始めであったわけだが,早くもそれは,朋輩を出し抜く競り
合いの始まりでもあったものだった。週はじめに十枚ずつのカードが配られ,級友同士が目を光
らせ合って,「国語」を使わない生徒を摘発し合った。獲物をせしめるすばしこさで,うかつに口
を衝いて出る「朝鮮語」に飛びつき,一等速いものがお目当ての「カード」を一枚取り上げるの
だ。そのカードは「国語」の成績はもちろんのこと,「修身」「操行」から期末の席次にまで影響が
およぶ特権の「罰券」であった。私はこのスリリングなゲームでも,目立って堅実なプレーぶりを
発揮した。
少年の私を気おくれさせた人に,厳然と父はいたのだ。時節に合わない親を持って,皇国少年
の憂愁は深かった。とりわけ好きな父であっただけに,その父が負い目であることがつらかっ
た。植民地朝鮮で,少年達がただ与えられて皇国臣民になったというのは,あれは嘘だ。なるの
が当然の私でさえ,天皇陛下の赤子となるには,親と子の心に刺さるせめぎがあったのだ。親を
超えなければ「日本人」にはなれなかった小さい魂の喘ぎなど,植民地の歴史をどのように操っ
たところで見えはしまい。背くことでしか真実に近づけなかったのは,努めることがそのまま背理
でしかなかった私の,成長とも兼ね合っている「真実」である。しんそこ信じて努めたればこそ,
私の「植民地」は根が深いのだ。そこでは損ね合うことが暮らしの日常であり,その日常の繋が
りの中にしか真実も背理も存在しはしなかったからだ。父と私の関係がそのことを明かして余り
ある。良い子であればあるほど,私は父の思いからはずれていった息子であった。
それを知らずに私が努め,それを知って父が黙った。よしんば口を開いていたとしても,なおの
こと私は,その言葉に硬直していったに違いない。揚句が親と子の,度し難い断絶であったはず
である。それほどにも私は時代向きの良い子であったばかりか,父もまた同じく,そうでなければ
ならない時代をそのように生きた,けっしてよくない父ではなかったのだ。
すべてが侵されることでねじれていった愛であった。朝鮮で朝鮮をうとましくさせた教育によって
個々人の人格は否応もなく失われていき,親子の間にあってさえ,親子が親子でない関係をつく
りだした最たるものに,かつての日本がしでかした「朝鮮語廃止」があった。そこに教師がおり,
私がいた。彼らには教えることが真実であり,私には学ぶことが真実であった。良い子の私は励
んだ。教えられるままに家にまで「国語常用」を持ち込んで、「国語」を知らない母を困らせた。め
し,みず,といったたぐいの単語だけを押しつけるのだが,それでも母はおおよそのところを淋し
い笑みで間に合わせてくれていた。しかし父だけはやはり別だった。めったなことで表情を変え
ない父が,もろに不愉快さを隠さないようになっていた。
金時鐘『「在日」のはざまで』(1986,立風書房)より
沖縄や東北地方でも上と似たような「方言札」があったそうだけど,「朝鮮語禁止」はやはり日帝時代の蛮行のひとつだと思います
2002/ 5/ 9韓国(大韓民国) > ?コリア関連書籍?
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835396&tid=a2a1a53a5ja5a24xoa2bdqc0ra2a1&sid=1835396&mid=968
>>221 >ここの荒らしは沢×製薬の関係者でっか?
違うんじゃないのかな。
普通の常識を持っている人間なら、自分の会社を貶める行為は行わないでしょう。
元社員で沢○を恨んでいるパターンはあるとは思うが……
考えてみれば、俺も01年の10月から馬鹿どもの相手を
してやっているのだな、、
100万人の朝鮮人虐殺蛮行
もしこの文書が、本当に北朝鮮のしかるべき研究所の学者によって書かれたのだとしたら、私は
北朝鮮に絶望するほかありません。以下に翻訳を載せます。
日帝が敢行した100余万人の朝鮮人虐殺蛮行は、人権・人道に対する大罪
チョン・ヨンニュル(社会科学院歴史研究所)
日本帝国主義者たちが、かつての41年間の非法的な朝鮮強占(=強制占領)期間に犯した犯
罪の中でも最も大きな犯罪の一つは、朝鮮人民を虐殺した人的被害に関する大罪だ。日帝は、
かつての朝鮮強占期間、100万人以上の無辜の朝鮮人民を、もっとも野蛮で暴悪な方法で虐
殺した、千秋(=永遠)に許すことのできない反人類的犯罪を犯した。これに対して朝鮮国際法
学会は、1993年3月31日、告訴状を通じて、日帝の朝鮮人民虐殺蛮行を国際社会の前に告
訴した。
日帝の朝鮮強占期間、日本政府側の資料に明らかにされた朝鮮人人的被害者数を、部類別に
分ければ、次のとおり。
1)義兵、独立軍、政治運動弾圧などで、13万9600余人
2)強制連行(徴用、徴兵、“挺身隊”)などで、71万1600余人
3)国内での獄死などで、1万9900余人
4)収監者のうち虐殺された者、9900余人
5)植民地統治に起因するその他の死亡者、12万3900余人
計100万500余人
かつて朝鮮を強占した日帝は、自分たちのみが「優秀な民族」と自任し、朝鮮人は必ずや自分
たちの支配と蔑視を受けねばならぬとうそぶいて、わが人民を思うままに虐殺した。
日帝の朝鮮強占初期、初代「朝鮮総督」寺内は「朝鮮人はわが日本の法律に服従するか、さも
なくば死ぬべし」と公公然にしゃべりまくった。これは当時の朝鮮人民に対する日帝の、最も暴
悪な殺人「指令」であり、植民地殺人統治の基本方式だった。
日帝はこのような強盗的論理にしたがって、朝鮮を非法的に強占した全期間に、数百万人の無
辜の朝鮮人民を手当たりしだいに逮捕、投獄、虐殺する蛮行を敢行した。朝鮮人民に対する日
帝の弾圧と虐殺蛮行は、1919年3・1蜂起のとき、さらに露骨化した。日帝はこの年の3月1日
から5月末までの3カ月間に、7、500余人の朝鮮人民、愛国者を無残に虐殺し、1万5900余
人に負傷を負わせ、4万6900余人を検挙したのを始め、蜂起の全期間にわたって、無慮数万
人を殺傷した。日帝は、朝鮮国内のみならす、中国東北地方、日本などの地で、朝鮮人民に対
する弾圧と虐殺に狂奔した。
1920年10月初め、日帝は自国の官憲と居留民を「保護」するという口実のもとに、ナナム(?)
第19師団を始めとする多くの兵力を動員し、間島地方で延べ3カ月間も、血生臭い殺戮蛮行を
敢行した。そうして日帝は、1920年「間島大討伐」(「庚申年討伐」)と呼ばれる討伐で、無慮3
万余人の朝鮮人たちを殺害した。1923年「関東大震災」における日帝の虐殺蛮行は、いまも
多くの人々の記憶の中に活き活きと残っている。
1923年9月1日、日本の関東地方で大地震が起こると、当時の日本政府内務省、水野錬太郎
は、在日朝鮮人たちを弾圧するためのでたらめな噂を広め、朝鮮人を虐殺することに関する殺
人指令を全国各地に下し、これとともに日本の反動勢力は、「戒厳司令部」といったものまでで
っちあげ、軍隊、警察、テロ団、「自警団」などを煽って朝鮮人を手当たりしだいに殺害しまくっ
た。こうして当時、東京だけでも9月1日から18日までの間に6、160人に達する朝鮮人が無残
に虐殺されたのをはじめ、日本各地で2万3000余人の在日朝鮮人が殺害された。こうした殺
人蛮行は、日帝が強行した殺人大罪のなかでもその一部にすきない。
日帝植民主義者たちが朝鮮人民に敢行した野獣的虐殺蛮行について、当時のある記録は「……
日本人が数千数万の朝鮮良民に対して敢行した、そのような乱打と悪刑は、あまりにも凶悪、残
酷で、人の耳で聞いても信じられないほどの、人の意思では理解することのできない行為となっ
た。日本人は、このような極度の凶悪な蛮行を敢行しても、むしろそれで足りず、それ以上のも
っと苛酷な方法がないのが残念に思っているほどだ」(「韓国独立運動之血史」120〜123ペー
ジ)と書き、日帝御用学者シノブ・サブロウ(信三郎?)は「日本憲兵は、とても正視できないほど
残酷な弾圧に興奮した。日本憲兵の暴悪さは名状しがたいもので、銃剣で刺し殺し首をぶら下
げて処刑した」(「大政(?)政治史」東京1955年841ページ)と告白するほかなかった。
当時のある外国人は、憤怒に満ちた文章で、朝鮮人民に対する日帝の野獣的蛮行を糾弾し、
「冷静に考えるとき、世界的に他人の国を滅亡させたものは数多あるが、だれがこのような歴史
上類例のない残酷な方法を適用した者がいたろうか? このような人類の仇、国際的毒蛇は、
なんぴとを問わず、すべて立ち上がってこれを追い出す責任がある」と訴えた。このような内外
の世論は、あまりにも人間の想像を絶した日帝のファッショ的な暴圧と虐殺蛮行に対する吐露で
あり、糾弾だった。まことに日帝が朝鮮に敢行した殺人大罪は、その規模と残忍性において、古
今東西の侵略者と戦争者において類例を見いだしがたい、最も野蛮的な人権蹂躪行為であり、
殺人大罪だった。(中略)
また日帝は、1925年6月17日ジュネーブで日本を含め105カ国が署名した「窒息性、毒性そ
の他ガス、細菌学的手段の戦争への使用を禁じることについての議定書」を乱暴に蹂躪し、無
辜の数多くの朝鮮人たちを強制で捕らえ、生体実験の対象とし、虐殺するという天人共怒すべき
犯罪を敢行した。
(中略)
1930年〜1940年代には、朝鮮で、いわゆる「文化統治」の看板さえ投げ捨ててファッショ的
暴圧統治を実施し、朝鮮人民に対する野獣的な虐殺蛮行を、日帝は前例のないほど悪辣に
敢行した。1931年末〜32年初にかけては4万余人の朝鮮人を殺害しながら日帝が縮小して
発表した資料によっても、彼らは1933年だけでも「思想法」という名のもとに6万6000人を検
挙、投獄、虐殺した。また数多くの朝鮮人を強制して苦役場に引き立て、奴隷労働を強要し、後
には「秘密厳守」という口実のもとに無残に集団虐殺した。
日帝は、1930年代末〜1940年代前半、「大東亜共栄圏」の野望実現のために悪あがきして
いた時期に、各種の悪法をでっちあげ、公布し、些細な反日的要素に対しても無慈悲に弾圧す
る一方、さまざまな動員令を公布して、15歳から60歳までの男性と16歳から40歳までの女性
を、ことごとく大砲弾(=北朝鮮用語。犬死する人の譬喩)として、工事現場へ駆り立てた。そし
て1939年1月、「国民総徴用令」を公布したあと、わずか数年の間に「徴用」をはじめとした各
種の名目で、600余万人を強制動員し、そのうち150余万人以上に達する青壮年を、日本の
炭鉱や軍事施設工事現場などへ引き立て、罪囚のように扱い、奴隷労働を強要し、後に「秘密
厳守」という口実のもとに無残に集団虐殺した。このような暴悪で野蛮な方法により、当時、平壌
ミリム飛行場で「徴用」で引き立てた朝鮮労働者800余人を、日帝は4年間酷使し、工事が終わ
るころ、すべて虐殺し、クリル列島のある軍事施設工事現場では5000余人、エムジ島では25
00人の朝鮮労働者たちを残酷に集団虐殺した。1939年から45年敗亡までの期間だけでも、
強制連行し、奴隷労働を強要し、殺害された朝鮮人労働者の数は、無慮57万余人に達した。
このような、朝鮮人を手当たりしだいに逮捕、投獄、拷問、虐殺し、戦場・苦役場に駆り立てて殺
し、さらには細菌兵器の生体実験対象として虐殺した日帝の、前代未聞の大虐殺惨状は、アジ
アと世界を全敗(?)するための帝国主義的、植民主義的野望の実現に、まるごと一民族、一国
家をことごとく犠牲にすることを画策したもので、人類道徳と国際法を無残に踏みにじり、人類共
同体に無謀に挑戦し刃向かう、容納できない大罪である。現代の国際法は、国家が国際法規範
を蹂躪する不法行為を敢行した場合、国家の国際法的責任に対する問題が提起され、このよう
な国際法的責任の当事者は、ほかならぬ国家であるということを規定している。したがって、日
本政府は、日帝が過去、非法的に朝鮮を強占した期間に100余万人の朝鮮人を虐殺するとい
う人類に逆らう犯罪を敢行した国際法的責任を、決して免れることができないのだ。
しかし、日本政府は、朝鮮人民と人類の前に、過去日帝が犯した千秋に許すことのできない人
権、人道に対する大罪を、半世紀が経過した今日まで、はっきりと認定、反省、補償する代わり
に、軍事大国化、核大国化、策動に明け暮れながら「自衛隊」の兵力を海外侵略の道に駆り立
てている。これは朝鮮半島とアジア、そして世界の平和と安全をひどく威脅する行為だ。日本政
府のこのような姿勢は、冷戦時代の古い考え方の表現として、今日の国際社会では絶対に許容
することができないのだ。
日本政府は過去、日帝の朝鮮強占期間、朝鮮人民の民族的自主権を無残に踏みにじり、国際
法の規範を蹂躪して敢行した殺人大罪に対して、公式的に認定し、謝罪と補償をしなければな
らず、罪悪に満ちた過去を、誠実に清算しなければならない。
投稿者: bosintang (39
2001/ 5/15
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=ffckdca4o2bf8na1a2hbfbeja47a4ja4a4a4na4aba1a9&sid=1835396&mid=4201 メッセージ: 4201〜4204
100万人、600万人説について
チョン・ヨンニュル(北朝鮮社会科学院歴史研究所)
1)義兵、独立軍、政治運動弾圧などで、13万9600余人
2)強制連行(徴用、徴兵、“挺身隊”)などで、71万1600余人
3)国内での獄死などで、1万9900余人
4)収監者のうち虐殺された者、9900余人
5)植民地統治に起因するその他の死亡者、12万3900余人
計100万500余人
bosintang
1)関東大震災時の虐殺で約6,500人
2)3・1運動弾圧で7、509人or7,654人(堤巖里教会の虐殺を含む)
3)太平洋戦争での軍人・軍属の死亡、約2万人(戦犯処刑者23人含む)。
4)徴用における死亡者、約1万人(厚生省資料。浮島丸事故の約2、000人を含む)。
5)原爆で、2万人or4万人
計6万4000余人(or8万4000余人)
なお、100万人説にあった、「庚申年大惨変」の虐殺数(チョン・ヨンニュルは3万人と書いてい
る)は、朴殷植「朝鮮独立運動の血史」によれば、3000余人。徴用時の死者は、150万人強制
連行説をとる朴慶植の推算(炭坑の事故死率などから)では、厚生省発表の1万人を大幅に上
回る6万人と推定している。それらを考えても、日帝期の朝鮮人犠牲者は10万人をそれほど越
えないと思います。
思うに、趙廷來の600万人説は、ナチスのホロコーストに比べるための捏造、チョン・ヨンニュル
の100万人説は、15年戦争時の日本人犠牲者310万人に、人口比で合わせたもので、日本と
同じぐらいの比率で死んでいるんだと強弁したいがための捏造でしょう。
これじゃあ、とても議論にならない
投稿者: bosintang (39歳 2001/ 5/16
韓国(大韓民国) > 日本は何故、反省しないのか? メッセージ: 4225
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=ffckdca4o2bf8na1a2hbfbeja47a4ja4a4a4na4aba1a9&sid=1835396&mid=4225
外国人僧侶4人が語る韓国・韓国人・韓国文化
もはや、韓国社会で“蒼い目の外国人僧侶”は珍しい存在ではない。韓国仏教の海外活動
が活発になるにつれ、仏教を勉強するために韓国を訪れる外国人が引き続き増えている。
また、彼らの国籍も米国や西ヨーロッパだけでなく、東ヨーロッパ、中央アジア、東南ア
ジアなどと拡大している。
全国各所の山寺に散らばり、修行と布教に励んでいる外国人僧侶たちは、韓国社会と仏教
に対しどのような考えを持っているだろうか。出身国家と所属の異なる4人の外国人僧侶
が一堂に集まり、韓国語で韓国を診断した。
▲米国で韓国から来た師匠に会い、参禅方法を習ったが、その根本と伝統をよく知らなく、
もどかしかった。根本を掴み、自分のものにしてこそ、世界の人々に伝えることができる
はずなのに。伝統を直接感じ、自分のものにして、実践に移したくて韓国に来た。
▲禅に対する関心はあったが、韓国の禅に対する関心はなかった。1992年ごろ、オハイ
オ州立大学大学院に在学していた時、ハンマウム禅院のテヘン僧侶の講演を偶然接する機
会があった。韓国にあのような修行者がいるなら、韓国仏教について考え直さなければな
らないと思った。大学院に通いながらも、釈尊のお言葉を悟るのが最も重要だと考えた。
大学院は卒業できなかったが、関係ない。1日も早く始めたかったし、出家したかったの
で韓国に来た。
▲バングラデシュは回教の国ではあるが、仏教の僧侶もいる。1984年にバングラデシュ
で出家し、その後、スリランカで仏教を勉強した。そこで何人かの韓国人僧侶と会った。
スリランカで大学を卒業し、ミャンマーに向かう途中、1997年にウォンミョン僧侶と会
った。ウォンミョン僧侶が韓国に行くかと聞いたので、行くと答えた。夜着いたが、韓国
の都心には寺がなかった。スリランカには道端にも寺が多いのに。
▲韓国、韓国仏教、韓国人僧侶について全く知らなかった。カナダのある研究所で働いて
いたが、勉強をすればするほど、不満が募った。米国に留学して、チベット仏教に接する
ことができた。その時出家を考えたが、どうすればいいのか分からなかった。
仏教を勉強するためには東洋に行かなければならないという話を聞いた。持っているカネ
がなかったので、とりあえず仕事をしなければならなかった。カナダ人だから英語を教え
ることができた。
日本や台湾はなぜか不便そうだったので、1998年に韓国に来て、公州(コンジュ)大学
で英語を教えた。その後、麻谷(マゴク)寺に行くようになって、寺の上にある尼寺をほ
ぼ週末毎に訪れた。1999年、そこで行者生活を始めた。
▲初めて韓国に来た時は、こんなに小さな土地に、こんなにたくさんの人がどのようにし
て関係を結んで暮らしているのか、とても疑問に思った。バスに乗って延世(ヨンセ)大
学まで行く時、バスの中は人でいっぱいになった。バスから下りれば催涙弾の匂いのする、
そんな時代だった。人間関係を結ぶ方法が知りたかった。どのように譲り合い、どのよう
に他人からの衝撃を消化し、仲良く暮らしているのか、疑問が沸いた。
▲初めて燃燈会館に到着した時、全員英語を話せたので感じがよかった。海印(ヘイン)
寺を旅行した時も、みんなよくしてくれたので、心が楽だった。
▲韓国社会はすばらしい社会だ。どんなに困難な状況に置かれても上手く立ち直る。回復
する力がすごい。しかし、理解できない部分もある。韓国人たちは時に本当に団結をしな
い。あの党、この党、あの会、この団体…。個人的な体質の強い感じがする。団結する心
が強ければ、誰も追いつけられないすばらしい国になるはずだ。日本人と比べると、日本
人は本当によく団結している。
▲韓国人とは仲良くなるのに時間がかかる。ある問題が発生した時、互いに話しをして解
決する機会があるのに、話しをしないので、解決できないことが多い。
▲何か話をすると、受け入れてもらえないことがある。対話しようとする努力がさらに必
要だと思う。仲良くならない限り、自然に話せない感じがする。
▲米国や英国、ドイツでは道行く知らない人が助けてくれることがよくあるのに、韓国は
反対だ。仲の良い人はよく助けてくれるが、知らない人は助けてくれない。長い期間、辛
い経験をしたからだと思う。知らない人と親しくすると、危険だと思うみたいだ。
▲国粋主義敵だと感じることが多い。自信がなく、オーバーしているのではないだろうか。
しかし、側で見る限り、韓国人が自信をなくす理由などない。
▲最近、米国製戦闘機の導入問題を話すのを見ると、とにかく憤慨している。合理的なも
のを通り越している。米国大使館前でのデモなどを見ると、やりすぎではないかと感じる
ことがある。
▲韓国が他の国の文化をあまり経験していないからではないだろうか。しかし、これまで
ずいぶん変わった。今も変わっている。特に、最近は良くなっていると思う。
▲韓国仏教の長所は山の中に寺があるということだ。しかし、だから、社会とずいぶん離
れているとも言える。タクシーの運転手など一般人と話をすれば、「仏教は難しい」とい
う。仏教と社会は2つではなく、1つになるべきだ。山の奥の仏教も重要だが、一般人に
も仏教を分かりやすくする方法を多く作り出すべきだ。
▲釈迦誕生日を控え、仏教信者たちが大きな道路で祝賀行事を行うのを見た。容易なこと
でなく、多くの準備が必要なことなのに、本当に荘厳に行われるのを見て感動した。また、
道端で除隊した軍人たちが行事をガードしてくれるのも印象的だった。
▲韓国にはいろんな宗教が集まっているようで、混乱することがある。
▲私はその方がいいと思う。片方が強すぎてもう片方を無くせと言っているのでもなく、
全ての人々が自分の一番安らぐ場所で、満足を得ればいいのだから。
▲韓国人には融通性と自信を持てと言いたい。道が混んだら、他の道を探すのが融通性だ。
ここからあの目的地まで辿りつく道は1つだけではない。昔よりは余裕が出て来たが、ま
だ足りないと感じる時がある。
▲外国人と会った時、互いの文化の差を認めてほしい。そうすれば、私たちは
相手から多くのことを学べるはずだ。
進行=李先敏(イ・ソンミン)記者、李知炯(イ・ジヒョン)記者
*参加者
▲無心(ジョーシュア・ヘンリ・リア/44歳/米国/1984年に入国/ソウル華溪(ファゲ)寺・国際禅院)
▲慈隱(ジョアン・メディソン/女/37歳/カナダ/1998年に入国/鷄龍(ケリョン)寺・ムサン寺国際禅院)
▲日布(ブダダタ/34歳/バングラデシュ/1998年に入国/燃燈国際禅院)
▲青高(ブライアン・ジンマーク/34歳/米国/1993年入国/ソウル金剛禅院)
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2002/05/19/20020519000015.html
245 :
卵の名無しさん:02/05/21 00:26 ID:nEXmdDYO
>>237 |
|★★荒らしは放置が一番キライ!★★
|
|●重複スレには誘導リンクを貼って放置!
| ウザイと思ったらそのまま放置!
|
|▲放置された荒らしは煽りや自作自演であなたのレスを誘います!
| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け!
|
|■反撃は荒らしの滋養にして栄養であり最も喜ぶことです
| アラシにエサを与えないで下さい
|
|☆枯死するまで孤独に暴れさせておいて
| ゴミが溜まったら削除が一番です
|
| 。
. Λ Λ /
(,,゚Д゚)⊃ ジュウヨウ!
〜/U /
. U U  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄.
247 :
卵の名無しさん:02/05/21 01:05 ID:nEXmdDYO
>>222 123 :卵の名無しさん :01/10/21 19:05 ID:???
↑ おお、 沢井関係者がスレッドの書き込み阻止工作を
なら、大丈夫。会社の方針も10日も持つことがないから、
そのうち飽きるわさ
もう、7ヶ月も続いているものなあ、、、
249 :
古森義久:02/05/21 07:06 ID:Tw0sei5N
業務であれば7ヶ月ぐらいたやすい事よ。
沢×製薬関連スッレドをもっと立ててくれや。
ボーナスも近いし、当分、飯の種にはこと欠かないわ。
250 :
卵の名無しさん:02/05/21 08:02 ID:Qi8RHx1N
S井は嫌われているようなので古森は同業ゾロの嫌がらせとちがいますか?
いずれにしてもゾロスレッドが激増しましたね
100万人、600万人説について
チョン・ヨンニュル(北朝鮮社会科学院歴史研究所)
1)義兵、独立軍、政治運動弾圧などで、13万9600余人
2)強制連行(徴用、徴兵、“挺身隊”)などで、71万1600余人
3)国内での獄死などで、1万9900余人
4)収監者のうち虐殺された者、9900余人
5)植民地統治に起因するその他の死亡者、12万3900余人
計100万500余人
1)関東大震災時の虐殺で約6,500人
2)3・1運動弾圧で7、509人or7,654人(堤巖里教会の虐殺を含む)
3)太平洋戦争での軍人・軍属の死亡、約2万人(戦犯処刑者23人含む)。
4)徴用における死亡者、約1万人(厚生省資料。浮島丸事故の約2、000人を含む)。
5)原爆で、2万人or4万人
計6万4000余人(or8万4000余人)
なお、100万人説にあった、「庚申年大惨変」の虐殺数(チョン・ヨンニュルは3万人と書いてい
る)は、朴殷植「朝鮮独立運動の血史」によれば、3000余人。徴用時の死者は、150万人強制
連行説をとる朴慶植の推算(炭坑の事故死率などから)では、厚生省発表の1万人を大幅に上
回る6万人と推定している。それらを考えても、日帝期の朝鮮人犠牲者は10万人をそれほど越
えないと思います。
思うに、趙廷來の600万人説は、ナチスのホロコーストに比べるための捏造、チョン・ヨンニュル
の100万人説は、15年戦争時の日本人犠牲者310万人に、人口比で合わせたもので、日本と
同じぐらいの比率で死んでいるんだと強弁したいがための捏造でしょう。
これじゃあ、とても議論にならない
投稿者: bosintang (39歳 2001/ 5/16
韓国(大韓民国) > 日本は何故、反省しないのか? メッセージ: 4225
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=ffckdca4o2bf8na1a2hbfbeja47a4ja4a4a4na4aba1a9&sid=1835396&mid=4225
「600万人殺害の証拠」については筆者の趙廷來さんに直接聞いて説明させてもらうのが一番
確実な方法と思います。でも、日帝時代の死亡者についての記録は今のように詳しいとは思え
ませんので、彼が言う死亡者の数も正確とは言えない。それにしても、bosintang様の言う6万人
とはものすごく違いますので、一応ネット検索をしてみた結果、次のような web-pageが見つかり
ました。
http://www.me2u2.co.kr/redww/total/japan.htm 「日本側の資料(たぶん総督府などでしょう)によれば、確認された被害者が100万人」と主張して
います。北韓の方が書いた記事と思われますが、もっと詳しい事は1993年の朝鮮国際法学会に
よる告訴状を探せば分かれると思います。
韓国(大韓民国) > 日本は何故、反省しないのか?
メッセージ: 4191 2001/ 5/15
100万人の朝鮮人虐殺蛮行
もしこの文書が、本当に北朝鮮のしかるべき研究所の学者によって書かれたのだとしたら、私は
北朝鮮に絶望するほかありません。以下に翻訳を載せます。
日帝が敢行した100余万人の朝鮮人虐殺蛮行は、人権・人道に対する大罪
チョン・ヨンニュル(社会科学院歴史研究所)
日本帝国主義者たちが、かつての41年間の非法的な朝鮮強占(=強制占領)期間に犯した犯
罪の中でも最も大きな犯罪の一つは、朝鮮人民を虐殺した人的被害に関する大罪だ。日帝は、
かつての朝鮮強占期間、100万人以上の無辜の朝鮮人民を、もっとも野蛮で暴悪な方法で虐
殺した、千秋(=永遠)に許すことのできない反人類的犯罪を犯した。これに対して朝鮮国際法
学会は、1993年3月31日、告訴状を通じて、日帝の朝鮮人民虐殺蛮行を国際社会の前に告
訴した。日帝の朝鮮強占期間、日本政府側の資料に明らかにされた朝鮮人人的被害者数を、
部類別に分ければ、次のとおり。
1)義兵、独立軍、政治運動弾圧などで、13万9600余人
2)強制連行(徴用、徴兵、“挺身隊”)などで、71万1600余人
3)国内での獄死などで、1万9900余人
4)収監者のうち虐殺された者、9900余人
5)植民地統治に起因するその他の死亡者、12万3900余人
計100万500余人
かつて朝鮮を強占した日帝は、自分たちのみが「優秀な民族」と自任し、朝鮮人は必ずや自分
たちの支配と蔑視を受けねばならぬとうそぶいて、わが人民を思うままに虐殺した。
日帝の朝鮮強占初期、初代「朝鮮総督」寺内は「朝鮮人はわが日本の法律に服従するか、さも
なくば死ぬべし」と公公然にしゃべりまくった。これは当時の朝鮮人民に対する日帝の、最も暴
悪な殺人「指令」であり、植民地殺人統治の基本方式だった。
日帝はこのような強盗的論理にしたがって、朝鮮を非法的に強占した全期間に、数百万人の無
辜の朝鮮人民を手当たりしだいに逮捕、投獄、虐殺する蛮行を敢行した。朝鮮人民に対する日
帝の弾圧と虐殺蛮行は、1919年3・1蜂起のとき、さらに露骨化した。日帝はこの年の3月1日
から5月末までの3カ月間に、7、500余人の朝鮮人民、愛国者を無残に虐殺し、1万5900余
人に負傷を負わせ、4万6900余人を検挙したのを始め、蜂起の全期間にわたって、無慮数万
人を殺傷した。日帝は、朝鮮国内のみならす、中国東北地方、日本などの地で、朝鮮人民に対
する弾圧と虐殺に狂奔した。
1920年10月初め、日帝は自国の官憲と居留民を「保護」するという口実のもとに、ナナム(?)
第19師団を始めとする多くの兵力を動員し、間島地方で延べ3カ月間も、血生臭い殺戮蛮行を
敢行した。そうして日帝は、1920年「間島大討伐」(「庚申年討伐」)と呼ばれる討伐で、無慮3
万余人の朝鮮人たちを殺害した。1923年「関東大震災」における日帝の虐殺蛮行は、いまも
多くの人々の記憶の中に活き活きと残っている。
1923年9月1日、日本の関東地方で大地震が起こると、当時の日本政府内務省、水野錬太郎
は、在日朝鮮人たちを弾圧するためのでたらめな噂を広め、朝鮮人を虐殺することに関する殺
人指令を全国各地に下し、これとともに日本の反動勢力は、「戒厳司令部」といったものまでで
っちあげ、軍隊、警察、テロ団、「自警団」などを煽って朝鮮人を手当たりしだいに殺害しまくっ
た。こうして当時、東京だけでも9月1日から18日までの間に6、160人に達する朝鮮人が無残
に虐殺されたのをはじめ、日本各地で2万3000余人の在日朝鮮人が殺害された。こうした殺
人蛮行は、日帝が強行した殺人大罪のなかでもその一部にすきない。
日帝植民主義者たちが朝鮮人民に敢行した野獣的虐殺蛮行について、当時のある記録は「……
日本人が数千数万の朝鮮良民に対して敢行した、そのような乱打と悪刑は、あまりにも凶悪、残
酷で、人の耳で聞いても信じられないほどの、人の意思では理解することのできない行為となっ
た。日本人は、このような極度の凶悪な蛮行を敢行しても、むしろそれで足りず、それ以上のも
っと苛酷な方法がないのが残念に思っているほどだ」(「韓国独立運動之血史」120〜123ペー
ジ)と書き、日帝御用学者シノブ・サブロウ(信三郎?)は「日本憲兵は、とても正視できないほど
残酷な弾圧に興奮した。日本憲兵の暴悪さは名状しがたいもので、銃剣で刺し殺し首をぶら下
げて処刑した」(「大政(?)政治史」東京1955年841ページ)と告白するほかなかった。
当時のある外国人は、憤怒に満ちた文章で、朝鮮人民に対する日帝の野獣的蛮行を糾弾し、
「冷静に考えるとき、世界的に他人の国を滅亡させたものは数多あるが、だれがこのような歴史
上類例のない残酷な方法を適用した者がいたろうか? このような人類の仇、国際的毒蛇は、
なんぴとを問わず、すべて立ち上がってこれを追い出す責任がある」と訴えた。このような内外
の世論は、あまりにも人間の想像を絶した日帝のファッショ的な暴圧と虐殺蛮行に対する吐露で
あり、糾弾だった。まことに日帝が朝鮮に敢行した殺人大罪は、その規模と残忍性において、古
今東西の侵略者と戦争者において類例を見いだしがたい、最も野蛮的な人権蹂躪行為であり、
殺人大罪だった。(中略)
また日帝は、1925年6月17日ジュネーブで日本を含め105カ国が署名した「窒息性、毒性そ
の他ガス、細菌学的手段の戦争への使用を禁じることについての議定書」を乱暴に蹂躪し、無
辜の数多くの朝鮮人たちを強制で捕らえ、生体実験の対象とし、虐殺するという天人共怒すべき
犯罪を敢行した。
(中略)
1930年〜1940年代には、朝鮮で、いわゆる「文化統治」の看板さえ投げ捨ててファッショ的
暴圧統治を実施し、朝鮮人民に対する野獣的な虐殺蛮行を、日帝は前例のないほど悪辣に敢
行した。1931年末〜32年初にかけては4万余人の朝鮮人を殺害しながら日帝が縮小して発
表した資料によっても、彼らは1933年だけでも「思想法」という名のもとに6万6000人を検
挙、投獄、虐殺した。また数多くの朝鮮人を強制して苦役場に引き立て、奴隷労働を強要し、後
には「秘密厳守」という口実のもとに無残に集団虐殺した。
日帝は、1930年代末〜1940年代前半、「大東亜共栄圏」の野望実現のために悪あがきして
いた時期に、各種の悪法をでっちあげ、公布し、些細な反日的要素に対しても無慈悲に弾圧す
る一方、さまざまな動員令を公布して、15歳から60歳までの男性と16歳から40歳までの女性
を、ことごとく大砲弾(=北朝鮮用語。犬死する人の譬喩)として、工事現場へ駆り立てた。そし
て1939年1月、「国民総徴用令」を公布したあと、わずか数年の間に「徴用」をはじめとした各
種の名目で、600余万人を強制動員し、そのうち150余万人以上に達する青壮年を、日本の
炭鉱や軍事施設工事現場などへ引き立て、罪囚のように扱い、奴隷労働を強要し、後に「秘密
厳守」という口実のもとに無残に集団虐殺した。このような暴悪で野蛮な方法により、当時、平壌
ミリム飛行場で「徴用」で引き立てた朝鮮労働者800余人を、日帝は4年間酷使し、工事が終わ
るころ、すべて虐殺し、クリル列島のある軍事施設工事現場では5000余人、エムジ島では25
00人の朝鮮労働者たちを残酷に集団虐殺した。1939年から45年敗亡までの期間だけでも、
強制連行し、奴隷労働を強要し、殺害された朝鮮人労働者の数は、無慮57万余人に達した。
このような、朝鮮人を手当たりしだいに逮捕、投獄、拷問、虐殺し、戦場・苦役場に駆り立てて殺
し、さらには細菌兵器の生体実験対象として虐殺した日帝の、前代未聞の大虐殺惨状は、アジ
アと世界を全敗(?)するための帝国主義的、植民主義的野望の実現に、まるごと一民族、一国
家をことごとく犠牲にすることを画策したもので、人類道徳と国際法を無残に踏みにじり、人類共
同体に無謀に挑戦し刃向かう、容納できない大罪である。現代の国際法は、国家が国際法規範
を蹂躪する不法行為を敢行した場合、国家の国際法的責任に対する問題が提起され、このよう
な国際法的責任の当事者は、ほかならぬ国家であるということを規定している。したがって、日
本政府は、日帝が過去、非法的に朝鮮を強占した期間に100余万人の朝鮮人を虐殺するとい
う人類に逆らう犯罪を敢行した国際法的責任を、決して免れることができないのだ。
しかし、日本政府は、朝鮮人民と人類の前に、過去日帝が犯した千秋に許すことのできない人
権、人道に対する大罪を、半世紀が経過した今日まで、はっきりと認定、反省、補償する代わり
に、軍事大国化、核大国化、策動に明け暮れながら「自衛隊」の兵力を海外侵略の道に駆り立
てている。これは朝鮮半島とアジア、そして世界の平和と安全をひどく威脅する行為だ。日本政
府のこのような姿勢は、冷戦時代の古い考え方の表現として、今日の国際社会では絶対に許容
することができないのだ。
日本政府は過去、日帝の朝鮮強占期間、朝鮮人民の民族的自主権を無残に踏みにじり、国際
法の規範を蹂躪して敢行した殺人大罪に対して、公式的に認定し、謝罪と補償をしなければな
らず、罪悪に満ちた過去を、誠実に清算しなければならない。
投稿者: bosintang (39
2001/ 5/15
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=ffckdca4o2bf8na1a2hbfbeja47a4ja4a4a4na4aba1a9&sid=1835396&mid=4201 メッセージ: 4201〜4204
257 :
名無しさん:02/05/21 17:55 ID:ykw9hsKZ
>古森荒らしへ
民族差別は止めた方がいいね
>257
民族差別は止めた方がいいね
読めば解るだろうが、差別じゃなくて、単にYahooの投稿を
整理しているだけ。。。Yahooは見にくいから「2ちゃん風」に
して読みやすくしてるだけだよ。
259 :
卵の名無しさん:02/05/21 22:42 ID:Qi8RHx1N
沢●と同じだな、すべてでっち上げ (爆)
260 :
卵の名無しさん:02/05/22 00:07 ID:itTGRfie
でっち上げってのはそんなに簡単にできるものではありません。
また発覚したときのことを考えるとやろうとしても必ず反対する人がでてきます。
したがって、意外かもsりえませんが、ゾロにでっち上げはないのです。
>>260 企業存続のためには良識・倫理の出る幕もないんとちゃぅ?
勉強と教養を満たしてくれる 『生きている韓国史教科書』
『生きている韓国史教科書1・2』は代案歴史教科書にするという著者たちの意図通り、
まず構成からして一般教科書の編制と異なる。1巻は先史時代から朝鮮後期まで、2巻は
近現代史を叙述しているが、年代記の順ではなく、各巻ごとに42のテーマを中心に接近
しながら、民族史の展開過程において重要な事件と現場、人物をストーリー構造の中で読
めるようにした。
各導入部に登場して好奇心を掻きたてる繊細な装置も目を引く。「準備物を忘れないよう
にしなくちゃ。それでは、終わり」で終わるある中学生の日記を引用し、歴史は今この瞬
間も流れているということを強調する第1章の『歴史と私』。
19世紀末の民衆たちの反外国勢力運動を扱った項では、甲午農民戦争を主導した全?準
(チョン・ボンジュン)が刑場で残した言葉を紹介している。日帝(日本帝国主義による
植民支配)時代の独立運動を扱った項では、義挙を控えた尹奉吉(ユン・ボンギル)が赤
ん坊だった2人の息子宛てに書いた手紙が紹介され、読者の胸を熱くする。
物語を聞かせるように一気に綴った叙述方式と、500枚にも及ぶ写真やグラフィック、図
表、地図をフル活用して立体的な編集を図った。本文の至るところにあるコラムも面白い。
主読者層の中学生なら、当時の10代の生活像を盛り込んだ『青少年の生活と夢』を好み
そうだ。
釈迦誕生日のタプドリ(寺の庭にある塔を回りながら仏陀を称える歌を歌う仏教儀式)の
時、恋の眼差しを交し合う若い男女の恋愛談や、日帝時代の職業少年たちが経験した数多
くの苦労話。韓国戦争の戦場で見つかった少年兵の日記を読むと胸が痛くなる。
国内2000人余りの現職の歴史教師たちの集いである「全国歴史教師の会」を代表して、1
年間執筆にあたった5人の筆陣は、数回にわたって国定、または検・認定の歴史教科書を
書いた経験のある教師たちだ。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2002/05/03/20020503000057.html
【噴水台】造語後進国(中央日報)
中国共産党が日本の帝国主義と国民党をはね除けて広大な大陸を掌握し1949年新政権
を樹立する際、国名を決める問題で頭を悩ませたそうだ。
共産主義の理念を具現する人民の国家という意味を盛り込まなければならないが、漢字で
できた近代的な概念語の大半が日本製だったからだ。特別な代案もなかったために、結局
自尊心を捨てて「中華人民共和国」と定めたわけだ。
「中華」は中国製だが、「人民(people)」と「共和国(republic)」は日
本製単語だ。明治維新(1868年)を前後とし、西欧の文物と思想を率先して輸入した
日本の知識人らの血のにじむような努力が、漢字宗主国の国名にまでに影響を及ぼしたわ
けだ。
我々が日常的に使っている漢字語のなかには、開化時代、日本が作った用語が数え切れな
いほど多い。文化、文明、思想、法律、経済、資本、階級、分配、宗教、哲学、理性、感
性、意識、主観、客観、科学、物理、化学、分子、原子、質量、固体、時間、空間、理論、
文学、美術、喜劇、悲劇、社会主義、共産主義…。
明治時代の思想家である福沢諭吉は、こうした造語に貢献した代表的な人物だ。spee
ch→演説、debate→討論、copyright→版権、などの訳語が福沢の作品だ。
韓国人に耳慣れた単語である「民族」も、正してみると宮崎という日本人が1880年代
にフランス語「Assemblee Nationale(フランス下院)」を「民族会
議」と翻訳したところから始まったものだという説が有力だ。「民族」は1890年代に
入って初めて韓国語に編入された。
100年以上経った今、少なくない学者らは、日本がつくった概念語を翻訳過程の苦悩と
試行錯誤を省略し、結果物だけを受け入れた韓国社会の「知的ぜい弱性」を新たに指摘し
ている。例えば「society」の日本製訳語「社会」を使う韓国人は、単語本来の意
味をきちんと消化できないということである。
いずれにしても、すでに受け入れたものは仕方ない。しかし、今からでも訳語であれ造語
であれ、なるべく正確かつ美しくする努力をすべきではなかろうか。
政界で「特権層の同盟」「極右同盟」「殺民政権」といった険悪な造語を乱発したり、「サ
クラ(注:野党議員が与党議員と裏で結託するという意味の俗語)」のように日本色の濃
い以前の政界用語まで使っているのを見る限り、韓国人は依然として「造語後進国」と言
わざるを得ない。
盧在賢(ノ・ジェヒョン)政治部次長<
[email protected]> 2001.07.0522:00
http://japanese.joins.com/php/article.php?sv=jnews&src=opi&cont=opi0&aid=2001070 5220021100
【噴水台】獄中書翰
刑罰の起源は復讐である。よって近代以前の刑罰は残酷で、公開的だった。被害者の痛み
を苦痛で返すべきと考えたため残酷で、周囲に警告するために公開的だった。
朝鮮時代の刑罰は大きく5種類、笞・杖・徒・流・死であった。笞刑とは小さな鞭で、杖
刑は長い棒でお尻や太ももをたたく「身体刑」である。徒刑とは塩田、鍛冶場に送り重労
働をさせるもので、流刑とは流罪である。
死刑は犯罪の内容によって多様だった。賜薬は高官大爵、王族の名誉を尊重した処刑法で
あり、一般的には首を切る「斬」と首を絞めて殺す「絞」が多かった。大逆罪人、父母・
血族を殺害した破倫者、主人を殺害した奴婢などの重罪人は凌遅処死(ゆっくり身体を切
って殺す)対象になる。このような刑罰は1894年の甲午改革以後なくなった。
現在の監獄生活と比べるなら、当時主に官僚らが受けていた「流刑」がそれに近いものだ。
自身が生きてきた環境から隔離され、閉じ込められた生活をするという点でそう言える。
特に流刑の中でも行動半径がごく限られるという点で、囲籬安置(家の周囲にいばらの薮
を張り、外部と断絶させる)の一種だといえる。
ところが流刑は大切な知的生産の機会として活用されたりもした。代表的な例が茶山丁若
縺i雅号タサン、チョン・ヤクヨン)である。彼は18年間の島流しの間、実学を集大成
する名著を産出した。
丁若繧謔閧熬キく、なんと20年を監獄で送った申栄福(シン・ヨンボック、聖公会大)
教授は『監獄からの思索』という獄中書翰集で、茶山を「流刑の歳月を輝く創造の空間に
した飛躍がうらやましい」と書いた。 そのようなうらやましさのせいか、申教授もやは
り獄中で人に劣らぬ思索の記録を残している。 単に金弘傑(キム・ホンゴル)容疑者だ
けでなく、多くの収監者らにその思索の声を伝えたい。
「しばらく離れて住むということは、それがいかなる種類の人間関係であれ、これまで自
分が置かれていた位置を客観的に眺めることができる立派な契機になるのだと思います」。
「私は1坪ほどの独房の冷たい空間を、我々の数々の隣人と歴史の哀歓でいっぱいに満た
し、この冬を痛烈な悟りにより熱くなってみたいと思います」。
呉炳祥(オ・ビョンサン)文化部次長 <
[email protected] > 2002.05.21 22:45
http://japanese.joins.com/php/article.php?sv=jnews&src=opi&cont=opi0&aid=20020521224559100
【噴水台】ソマリア
「世界が見捨てた国」−−。英エコノミスト誌が3年前、ソマリア特集記事につけた見出
しだ。1991年にバーレ政権が崩壊し無政府状態となった、軍閥間の内戦が続くソマリ
アは、「戦争と難民の国」という烙印を押された。
その間、約100万人が戦争と飢餓の犠牲になり、数十万人の難民が国内外をさ迷うはめ
になった。92年に平和維持軍を派遣した国連までもが、3年でお手上げ状態で撤退した
ほどだ。
国連が去り、外部の援助も絶たれたことで、国際社会はソマリアの滅亡は時間の問題と見
た。警察、裁判所、そして官庁もない廃虚で、互いが互いを殺し合い、自然に消滅するだ
ろうと予想した。 だが、ソマリアはまだ存在している。1人当たりの所得は120ドル
台と、世界でも最下位クラスにあるが、政府を有し、外部の援助も受ける隣国に負けるこ
となく生き延びている。
エコノミスト誌は、ソマリアを守る最後の生命線が「電話」だと分析する。国営だった電
話事業は、91年の政権崩壊後、中断した。電話線は途絶え、交換員も消えた。永遠に消
えるかと思われていた電話は、97年に米国に留学した若い企業家が首都モガディシュと
故郷ガルカイオで電話事業を始めたことによって、よみがえった。
米国の友人らから調達した100万ドルで、電話線をつなぎ直すというのは無理だった。
しかし、わいろを出せとか、ハンコをもらいに来い、などとうるさく言う政府が存在しな
かったおかげで、たった1年で電話を開通することができた。
この私設電話は、それまで数百、数千万ドルの海外援助も実現できなかった変化をもたら
した。電話によって取り引きが始まり、まず市場が息を吹きかえした。貿易と海外同胞か
らの送金も可能になった。 コミュニケーションが活発化したことで、軍閥の武力衝突が
減るという効果も現れている。電話線を敷設しようとすると、いまも、どこからともなく
銃を携えた兵士が現れて、カネを要求するが、過去の独裁政権時期の腐敗や官僚主義、税
金の負担よりは、はるかに負担が少ないという。
現在ソマリアには、3つの電話会社に10万人ほどの加入者がおり、最近では無線電話や
インターネットサービスも登場した。英BBCは、電話事業から始まったソマリアの変化
を「静かな経済革命」と報じた。 韓国政府の電話事業としてスタートしたKT(旧・韓
国通信)が先週、政府保有株を完全に売却し、民営化の道に入った。 振り返ってみれば、
KTは韓国経済の近代化、産業化と軌を一にしている。民営化したKTが、21世紀型の
経済革命に礎となるよう期待したい。 世界が見捨てたソマリアをも再生させた通信−−。
KTに対する期待もひとしおだ。
孫炳洙(ソン・ビョンス)論説委員 2002.05.20 22:40
http://japanese.joins.com/php/article.php?sv=jnews&src=opi&cont=opi0&aid=20020520224026100
【取材日記】小泉首相の真実隠し
日本の保守右翼勢力が1990年代から日帝の侵略歴史を隠ぺい、縮小、美化した歴史教
科書を作ろうと主張しながら出てきた論理が「自虐史観」からの脱皮だった。 彼らは「過
去の小さな過ちを拡大解釈し、自らを批判することは自虐史観だ。学生にこうした方法で
歴史を教えるから祖国に対する自負心がなくなる。いまや先祖の素晴らしい業績を教える
べき時期だ」と主張する。侵略の歴史を歪曲して波紋を呼んだ日本の中学歴史教科書は、
こうした論理から誕生したものだ。
小泉純一郎首相が17日、民主党を「自虐主義」を理由にひどく批判した。民主党は、中
国瀋陽の総領事館駆け込み事件と関連し、瀋陽で自体調査を行った。その結果、中国の警
察が総領事館領内に入った女性2人と子ども1人を外に引き出した後、2年以上個人的に
親密な関係を維持してきた総領事館副領事と中国の警察責任者が握手を交わした事実が確
認された。その直後、中国警察が領内に再び入り、他の北朝鮮脱出者2人を連行した事実
も明らかになった。外務省の自体調査報告書には含まれていなかった新しい内容だ。
これに対し小泉首相は17日「この問題で中国と重要な交渉を進めているという事実を全
く考慮せず、日本側が間違ったと言うのは自虐主義だ」と非難した。日本の外交の2重性
が表面化し窮地に追い込まれた小泉首相としては、野党側調査団の「一撃」は痛かっただ
ろう。「民主党調査団は中国がそんなに好きなのか」と皮肉の発言までしたというから、
どれだけ追い詰められたのかが推測できる。 彼の発言を裏返すと「必要によっては真実
を隠ぺいしてもかまわない」というのが本音となる。
最高統治者が真実を歪曲して「言路」を塞ごうとしても、結局真実は明らかになり、結果
的に統治者自身と国家・社会だけが不幸になるというのは歴史が立証する真理である。小
泉首相はこの平凡な真理を再確認する必要がある。
[email protected] 2002.05.19 20:15
http://japanese.joins.com/php/article.php?sv=jnews&src=opi&cont=opi0&aid=20020519201542100
[オピニオン]朝鮮の文化、600年の眠りから覚める
東亜日報 MAY 13, 2002 10:34
「伝統は絶えず再創造される」。このほど、中国の古き文化の都、蘇州と杭州を踏査して
得られた結論である。文化革命の時期に破損した文化財が全て修復されている現象は、世
界における中国の地位強化と関連して注目される部分である。
再創造のかたわら、その歴史ははるか遠い淵源を説く一方で、その文化遺跡にかかわる文
化商品を創り出しては、自然景観と一緒にして観光資源化していた。同時に、緑地の保存
だけでなく、拡大政策を展開して風致地区を作り上げていた。美しい自然景観と、ところ
どころ宝石のようにちりばめられた文化遺跡が調和をなして、憩いの場と見どころを提供
していた。
それが故に、私たちの境遇が残念に思えるのかもしれない。光復(終戦)からすでに半世
紀が経っているというのに、未だ日本による植民地時代にき損された文化遺跡が、いたる
所で復元の手を待ちわびている。
とりわけ、かつて日本が集中的に破壊した文化財が、王宮など王室関連の遺跡である。日
本は、朝鮮王朝を李(イ)氏王朝と言い、一般の庶民とはかかわりのない、単なる李氏の
王朝にすぎないというイメージを植え付けて王室と庶民との離間を企み、朝鮮の王宮や行
宮を取り払ってはその跡に警察署や学校など役所を建てた。当時は、現在よりはるかに活
用空間が多かったはずだが、あえて文化財だけを選んで破壊しているから、実に巧みな策
略と言わざるをえない。
景福宮(キョンボックン)を取り壊して日本殖民統治の総本山である総督府を建て、地方
の行宮を全て取り払ってしまった。
始興(シフン)にあった行宮は、跡形もなく消え去り、水原(スウォン)の行宮は、現在
復元の最中である。かつて総督府だった中央庁(チュンアンチョン)の保存をめぐり、賛
否両論が鋭く対立していたがようやく取り払われ、景福宮の数々の殿閣について本格的な
復元作業が行われている。西闕(ソグォル、西宮)と呼ばれた慶熙宮(キョンヒグン)も、
受難を免れることはできなかった。
慶熙宮を西闕と呼んだのは、昌徳宮(チャンドックン)と昌慶宮(チャンギョングン)を
まとめて東闕(ドングォル)、景福宮を北闕(ブックォル)と呼んでいたことから、その
位置が西側にあるとして付けられた名称である。
慶熙宮は、1910年に日本が韓国を強制的に占領した後、日本人のための京城(キョン
ソン)中学校を建設する過程で殆どの殿閣が取り壊され、敷地も半分に縮小された。その
建物を受け継いだソウル高校が移転した後、崇政殿(スンジョンジョン)資政殿(ジャジ
ョンジョン)など政殿の一部が復元され、ソウル歴史博物館の開館にあわせて開放される
という。
この、宮殿の境内に建てられたソウル歴史博物館が、ソウル市民の念願がかない、5月2
1日の開館を控えている。韓国初の都市歴史博物館で、10年余りの準備作業の末、歴史
的な開館を迎えることになった。
百済(べクチェ)と朝鮮の都であったほか、現大韓民国の首都として、ソウル定都600
年の歴史を集中的に展示しているソウル歴史博物館の必要性については、言うまでもない
だろう。21世紀において、韓国が文化国家として発展する上で、重要な役割を果たすも
のと信じている。
とりわけ、ソウルは朝鮮王朝の都として、朝鮮時代への関心が高まっている現在、ソウル
歴史博物館は、当時の様子を集中的に見せるべく、重要な責務を持っている。
先史時代の考古学的な発掘遺物から始まり、歴史時代の美術史的な展示で一貫している既
存の博物館の型にはまった考え方から離れた、新しい博物館にならなければならない。
これまで収集されている遺物は2万点を超えており、このうち、およそ半分にあたる98
04点が寄贈によるものだというから、言葉どおり市民がつくる博物館と言っても過言で
はない。へいを造らずオープンスペースにして、誰もが気軽に訪れるようにしたほか、無
料の展示会をたびたび開く予定ということで、ソウル市民の期待に応えられるものと期待
している。常設展示のほかに開館特別展として「朝鮮の女人、その暮らしと文化」と「ソ
ウル2002都市のビジョンと実践」を企画している。
陳列棚の中に遺物を平面的に配置する従来の展示技法から離れ、3次元の映像を見せたり、
情報検索も同時にできる電算化作業も行っているということで、その立体的な展示技法を
駆使して、今後最先端博物館の先導役を果たせるものと期待してやまない。新しい歴史博
物館としての役割だけでなく、ソウル市民の憩いの場として、常に生まれ変わる博物館に
なってほしいものだ。
慶熙宮の復元が終われば、殿閣を管理するだけでなくその空間を博物館として活用して、
先人の息づかいが溶け込んでいる生きている宮殿にしてもらいたい。
朝鮮時代の文化史を専攻する者として、今後、朝鮮文化の真髄を語る文化博物館として根
付いてほしいものだ。
http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=100000&biid=2002051328808
情けない会社です。
↑沢○だけではない。
お互い腐らずにがんばりましょう。
[社説]弘傑氏、お忍び帰国の理由は何か
東亜日報 MAY 16, 2002 10:52
金大中(キム・デジュン)大統領の三男、弘傑(ホンゴル)氏が、検察の取り調べを受け
るために帰国したが、そのやり方は実にち密であった。国の諸機関が動員され、まるで秘
密作戦のように大統領の息子を保護するやり方に、国民はまたも憤りを感じた。
すでに帰国の飛行機に乗ったにもかかわらず、所在がわからないとしらを切って、途中で
飛行機を乗り換えさせ、嘘をついて取材陣をまいた。そのち密な戦略は驚くほどだ。大統
領の息子をかくまおうとする関係機関の忠誠心競争が、まるで王朝時代に暮らしていると
錯覚するほどだ。大統領府と検察の息がぴったり合ったことも、容易には理解しがたい。
大統領の息子に対するそのような権力のひ護と過剰な保護は、結局は、弘傑氏の不正疑惑
をそれだけ膨らませることになった。これまで、大統領の息子の各種不正が明るみになら
なかった理由も見当がつく。なかでも、息子の問題への幾度の謝罪にもかかわらず、金大
統領は、まだ問題の深刻さと国民の憤激を十分に感じていないようだ。
不正疑惑の取り調べを受けるための帰国であるだけに、弘傑氏は謙虚であるべきだった。
今回の帰国は、弘傑氏にとって一つの機会であった。ここで、国民に謝罪して、頭を垂れ
て許しを請う姿を見せたなら、国民の視線は、少しは変わっていたかもしれない。そう考
えると、政権側の今回の弘傑氏秘密帰国作戦は、大統領の息子らの不正疑惑に憤る民心を
あるがままに読み取れなかった失敗作であると言うしかない。かえって憤りを増大させる
結果だけを生んだ。
近く検察に出頭する弘傑氏は、帰国時のみっともない姿を見せてはならない。普通の人と
同じように出頭して、写真も撮られ、取材陣の質問攻勢も受けるべきだ。検察も、不正疑
惑の内容と処理の期限を事前に決めて、それに合わせて急いで捜査をすべきでない。その
ようなやり方の捜査なら、不正疑惑をより膨らませるだけである。すべては、検察の捜査
に対する意志にかかっている。
http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=080000&biid=2002051687398
中国は第二のアヘン戦争中 急増する麻薬取り引き
東亜日報 MAY 17, 2002 10:11
中国の麻薬中毒者は700万〜1200万人と推定される。今のような増加傾向が続くな
ら5年以内に中国は主要経済大国のうち麻薬中毒者が最も多い国になる見通しだ。エクス
タシーとメスアムペタミンも頻繁に発見されるが、最も愛用されているのはアヘンの派生
物であるヘロインで全体麻薬の7割を占めている。
中国の麻薬取り引き中心地は、北京や上海などの東部大都市に比べて所得水準がはるかに
低い中部の甘肅省だ。これといった生計手段のないドゥンシャン族やフェ族など、少数民
族を中心に取り引き網が形成されている。50グラムだけを持っていても死刑に処される
が、生計のために命を担保に取り引きを行っているのだ。
ミヤンマー、ラオス、タイなどのいわゆる「ゴールデン・トライアングル」で生産された
アヘンが少数民族であるミアオ族やバイ族、ダイ族を通して雲南省に渡され、その後ドゥ
ンシャン族が四川省まで、それからイ族が甘肅省まで運搬するルートだ。
昔から同地域は、中国以外のアジアの麻薬運搬ルートとして利用されてきたが、最近は中
国国内の販売量が次第に増加している。輸入麻薬のうち国内消費は5年前の10%から、
今は25%にまで増えた。
アヘン栽培も盛んに行われている。甘肅省の農業生産量の9割はアヘンであり、最も純度
が高いと知られている「サンジアジ」産ヘロインを買うためにイギリスやロシア、ドイツ
の麻薬商人も甘肅省を訪れている。
しかし、中国当局の取り締まり網は穴だらけだ。米タイムズ誌によると、警察が直接顧客
を麻薬の原産地に案内するほど腐敗がまん延している。麻薬運搬の罪で死刑を宣告されて
も警察に9000ドルさえ渡すと、自由の身になる。生計のために8歳の子どもや妊婦、
大学教授に至るまで、老若男女と職業高下を問わず誰もが麻薬の取り引きに乗り出してい
るが、取り締まりにあたる警察の数は絶対的に足りない。
解毒所や労働教養所など、麻薬中毒者の強制治療センターが設置されてはいるものの、す
でに治療施設もヘロイン供給の場になっている。患者のほとんどは囚人扱いされ、まとも
な治療施設もほとんど整備されていない。そのため、ヘロインの供給を目当てに入院する
「自発的」患者を含めて、患者の90%は再び入院する実情だ。2週間で最高5000ド
ルを支払う私設麻薬中毒専門病院が繁盛しているが、再中毒率は50%に達している。
麻薬中毒がもたらす疾病と犯罪も深刻な水準だ。2000年に中国で発生した22,51
7人のエイズ感染者のうち、麻薬静脈注射によって感染した人は71%に達する。主な麻
薬流通ルートの一つと言われる四川省は、刑事事件の70%以上が麻薬中毒が原因になっ
て発生したものと報告されている。
http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=060000&biid=2002051702518
米国訪問 来年から指紋・網膜登録が必要
MAY 16, 2002 08:54 by 韓起興 (
[email protected])
ブッシュ米大統領は14日、同時多発テロの再発を防ぐため、留学生など、外国人の米国
への出入りと滞在に対する監視を大幅に強化した「国境警備の強化とビザ入国改革法案」
に署名した。
この法案は偽造不可能なビザを来年から発行し、米国を訪問する外国人には指紋や網膜な
ど生物学的な情報を収めた書類をビザとともに携帯することが明記されている。今後米国
の各空港には外国人旅行者の生物学的情報を判読し、そのビザの所持者が本人かどうかを
見極める機械装置が設けられる。
これによって、米国へのビザを発行してもらうためには、指紋押捺と顔の認識のための網
膜撮影を求められるなど、発給手続きがさらに厳しくなるとみられる。法案はさらに大学
などの教育機関に対して、外国人留学生がなんの理由もなく授業を受けない時は連邦政府
に通報することを義務化した。
これとともに北朝鮮、イラン、イラク、リビア、シリア、キューバ、スーダンの国務省が
指定したテロ支援国の国民に対しては、ビザの発給を原則的に拒否し、米国にとって危険
にはならないと米国務長官が判断する場合のみ例外的にビザを発給するようにした。
また米国を訪問する航空機と船舶は、出発する前に搭乗客のリストを米国に通報しなけれ
ばならない。この他、米国境の検問要員が今後5年間に400人増員される。
ブッシュ大統領は「我々は米国に来る人々が誰で、彼らがなぜ来るのか、米国に来て何を
し、いつ帰るかを知らなければならない」と強調した。この法案は先月上院と下院で全会
一致で成立した。
これに先立ち米移民帰化局(INS)は、先月、観光(B−1)ビザと商用(B−2)ビザの所
持者の米国滞在期間を従来の6ヵ月から30日に大きく短縮する措置を発表している。
http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=060000&biid=2002051687258
274 :
卵の名無しさん:02/05/22 16:12 ID:jOaohHej
ここが噂のスレッドですね・・・・・
統領さま、マンセー
統領さま、荒らしは止めて下さい。
ゾロ会社の恥です。
277 :
卵の名無しさん:02/05/23 00:11 ID:+7o/4Jyi
>>277 身から出た錆。
粛々と受け止めましょう。
ニュースウィーク誌 今年の米最優秀雑誌に
MAY 14, 2002 by 鄭美京 (
[email protected])
「『アンダードッグ(Underdog)』が勝利を挙げた」
最近、米時事週刊誌分野で万年2位とされていたニュースウィーク誌が「トップドッグ
(Topdog)」を抜いて、今年の米最優秀雑誌に選定されたことを雑誌業界はこのように評
価した。
200万部以上の発行誌部門でニュースウィーク誌がタイム誌を抜いて最優秀雑誌に選定
されたのは、同時多発テロ以来、解説・分析記事の大幅な拡大、関連マスコミ各社との提
携拡大を通じて多様なニュース開発に成功したためであるとニューヨークタイム誌が13
日報じた。
ワシントンポスト系列会社のニュースウィーク誌は、タイム誌より事件の分析・解説の面
で遅れていると評価されてきたが、米国のテロとの戦い以来、米軍に逮捕された米国人タ
リバン兵、ジョーン・ウォーカーとの単独インタービューに成功するなど、タイム誌をり
ょうがする報道が評価された。
ニュースウィーク誌はまた、CNN、スポーツイラストレーティッドなどAOLタイム・
ワーナーの姉妹会社から幅広いニュースの提供を受けるタイム誌との競争で遅れないた
め、昨年NBCニュース、MSNBCと提携が効を奏し大きな成功を挙げた。
週330万部を発行するニュースウィーク誌は週420万部のタイム誌より発行部数にお
いて遅れを取っている。純益面においても、ニュースウィーク誌は昨年250万ドルであ
り、550万ドルのタイム誌に大きく水を開けられている。
http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=060000&biid=2002051444428
【噴水台】賭け
ゼウスが天上の主になったのは、偶然からだった。暴悪な父王クロノスを廃位させたゼウ
スは、兄弟姉妹と領土を分割することにし、サイコロを投げて決めた。結局1番になった
ゼウスが空を占め、ポセイドンは海を、ハデスは地界の暗黒世界を支配することになった。
賭博の歴史を説明する際、よく引用されるギリシャ神話だ。神話時代からこういう状況だ
ったのだから、わざわざ「人間は賭博する動物」(C.ラム)だとか、「賭博は人間の先
天的特性」(E.バーク)などと言う必要もないわけだ。それだけ賭博の根が深いという
意味だ。西洋ではすでに、紀元前1600年ごろ、エジプトに「タウ」と「セナト」とい
う賭博があり、東洋でも古代インドでサイコロ遊びが始まったという。
韓国も例外ではなく、百済(ぺクジェ)の蓋鹵(ケロ)王は、高句麗(コグリョ)の密僧、
道林(トリム)と碁を打ち、国事をおこたって国をダメにしたと『三国史記』は伝えてい
る。オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガは、『ホモ・ルーデンス』(Homo Lu
dens)、すなわち『遊戯的人間』という本で、遊びを人間の本質と説明した。そして、
あらゆる文化は遊びに由来するとしている。
遊びの中で最も迫力あふれるものが、カネをかける遊び、すなわち賭けや賭博であること
は言うまでもない。賭けや賭博に関する限り、普通中国人が一番と見られているが、韓国
人もこれに負けず劣らずの民族だ。「(事あるたびに)カネをかけ、カネを得ようとする」
風潮が、いたる所にまん延している。
特に「3弘(ホン)ゴーストップ(大統領子息3人にちなんだ花札の遊び方)」まで生み
出した花札は、「国民のスポーツ」と呼べそうだ。喪家で、そして久々に家族が出会う名
節(韓国固有の盆・正月)で、さらには旅行中の汽車や飛行機のなかで、必ずといってい
いほど登場するのがゴーストップ(こいこい)だ。かつて「ゴーストップ亡国論」まで提
起されたが、他に適当な遊びもなく、この熱気はなかなか冷めない。江原(カンウォン)
ランドブームや宝くじブームなども、競争と射幸心を好む私たちのこうした趣向と関係が
ある。しかし、こうした熱気が必ずしも悪い方向にのみ機能するわけではない。
不動産や株式投機に広がるのは問題だが、例えば韓国が現在インターネットゲーム市場を
主導しているのは、まさにこうした「基本技」ゆえに可能だったと見ることができる。
先日イングランドとのゲームを前に、各職場では、賭けが盛んに行われたという。誰から
ともなく自然に発生する健全な賭けは、ワールドカップ(W杯)のムードづくりにも大き
く貢献する。だから、W杯を盛り上げるためにということで、大統領の息子に対する捜査
を中断する必要はなさそうだ。
劉載植(ユ・ジェシック)ベルリン特派員 <
[email protected] >
http://japanese.joins.com/php/article.php?sv=jnews&src=opi&cont=opi0&aid=20020522223836100
統領さま、荒らしだけは止めて下さい。
STSの恥です。
282 :
卵の名無しさん:02/05/23 09:08 ID:+7o/4Jyi
盛り上げるために荒らしてるの?
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~ヽ/ : ★: : : : : ヽミ ll
/ ,,,. : : : :; ;;;;; : ..,,,ヽ ,.ノ 朝日とれつってんだよ
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南昇竜氏
投稿者: sueton3 2002/ 3/14 21:42 メッセージ: 293
>なんで日本風の名前じゃないのでしょう?
孫さん有名ですが南さんもいますので紹介しときます。
CNN) 韓国内の報道によると、1936年のベルリン五輪に「日本人」として出場し、
銅メダルを獲得した南昇竜(ナム・スンリョン)氏が20日午前、ソウル市内の病院で死
去した。88歳だった。 現在の韓国南部の出身で、中学時代から日本で過ごし、明治大
学在学中に陸上の才能が認められ、ベルリン五輪のマラソン日本代表となった。 ベルリ
ン五輪には、南氏のほか、同じ朝鮮半島出身の孫基禎氏も「日本人」として出場し、孫氏
が金メダル、南氏が銅メダルを獲得、2人で表彰台に立った。
戦後の47年には、米ボストン・マラソンで10位に入った。また、63年まで大韓陸上
連盟の理事を務め、韓国陸上界の発展に尽くした。
他にも1932五輪・男子マラソン(ロサンゼルス)
6位 金 恩培 (養正高普)
9位 権 泰夏 (明治大学出) 結構たくさんいます。
民族抹殺は 日本代表でオリンピックに派遣することなのか?と問いたくなりますね。
NHKで有名なベルリンオリンピックの記念映画放送された時 マラソンの実況で 孫氏
と南氏をアナウンサーが 「日本の・・」と実況しているのに 意図的に字幕に「日本の
・・」と翻訳していませんでした。記録映画の性格上正しく当時のままで字幕をつけるべ
きです。
サヨク偏向報道NHKなど 過去の事実をも捻じ曲げることを阻止することこそ 正しい
歴史認識の前にすることだと思います。
i_love_peace_2001 さん聞いてますか!
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=bepa4a8a4ka1v4z9qa4nnrbbk652jbdqa1w&sid=1835396&mid=293
投稿者 : 李 大計 照会数 : 720
韓国人読むべし。56年前。
http://japanese.joins.com/bbs/read.php?sno=6715 人生にはいつも後悔がついてまわりますが、民族や国も同じ事のように思います。
1945年8月15日はわたし達にとっては日本の植民地統治から開放された喜ばしい日
ということになっています。
しかしこの日は実は日本が只ポツダム宣言を受諾した日なのであって必ずしも私たちが開
放されたということではなかったようです。
では、8月15日以降、我が祖国はいったいどうなっていったのでしょう。
ソウルの総督府には、いや景福宮や役所、工場にまで日章旗がひるがえっていました。
9月9日の米軍沖縄24軍団が朝鮮軍管区軍の降伏を受け入れるまでの間が問題だったのです。
上海の大韓臨時政府は太平洋戦争勃発時、日本に宣戦布告をしました。
形式上は2個師団の光復軍という軍隊を持っていました。ところがかの軍隊は一度の戦闘
すらしようとはしなかったのです。
満州では金日成部隊が限られた戦力ながら中国八路軍の指揮下でゲリラ活動していました。
もし韓国光復軍と金日成部隊が呉越同舟の対日共同作戦を展開していたら、ひょっとした
ら朝鮮は連合軍の一員として認められていたかもしれません。
日本とアメリカが戦闘を交えている間にたとえ弾丸一発にせよ参戦してこそ戦友というこ
とになるのです。
金日成部隊(中国共産党の第二軍指揮下で朝鮮人の間で朝鮮革命軍と呼ばれていた)は独
自の政治、軍事勢力として認められてはいませんでした。
私がここで云いたいのはわたし達は日本敗戦という決定的な時点において日帝を断罪し得
なかったのです。
イタリアで、ムッソリーニは自国の解放勢力によって逮捕されました。当初、身柄を連合
国側に引き渡そうということになったそうです。でもリーダーが偉かった。
銃声2発、ムッソリーニは愛人とともに処刑され、ふたりの死体は木に吊るされた。
残酷なようですが、そうすることによってイタリア人民は反ファシズムであった、という
事を世界にむけて示したのです。
それで発言権が生じました。
ポーランドでは、敗走するドイツ軍を追ってソヴィエト軍はワルシャワに迫っていました。
放っておいてもドイツ軍はいなくなるのですが、レジスタンスの闘士たちは一斉に決起し
ました。敗軍とはいえドイツ軍はその戦闘力においては強力でした。たくさんのレジスタ
ンスが戦死しました。
でも、そうやってポーランド人達はかく戦えりという栄誉を歴史に刻んだのです。
平譲には大きな凱旋門を建てて金日成氏の凱旋進軍を讃えていますが、あれは彼らの「こ
うであれば良かった」というまぼろしのストーリーなのです。
ですから、私はせめてと、こう思うのです。
8月15日現在、日本はまだ武装していましたから、適当な日本人ヤクザでもハンノム(ひ
とり)こっそりチャバして大将の軍服でも着せて木に吊るし、その写真を世界に配信する
べきだったのです。
あの韓国史を彩る農民蜂起、3、1独立蜂起、数々の輝かしい愛国的伝統を持ちながら、
なぜ先輩たちはあのパリ・コミューンのような精神と行動を歴史に刻む事が出来なかった
のでしょう。
朝鮮総督府の高官は地下にいた呂運ヨン、宋鎮ウなどの独立運動家たちを招いて統治権を
あなた達に返すから独立政権を作ってくれと言ったのです。
ところが李承晩はカリフォルニア、金九は重慶に、最高指導者たちは国外にいました。
今のように飛行機ですぐ帰れるわけではありません。通信手段だって同じです。
で、呂先生と宋先生は論争を始めたんです。
まず、呂先生。「平和裏に独立ができるんだ、結構な話じゃあないか。」
宋先生。「日帝から貰った統治権で政府をつくったら国民から傀儡政権だと思われかねない。
日帝を否定することから始めるべきである。臨時政府こそ正統性がある、これを重慶から
迎えるべきだ」
また呂先生。「政府樹立は焦眉の急である。進駐して来る連合軍と交渉せねばならぬ。」
そうして呂先生はあ建国準備委員会(宋先生は参加しなかった)をつくり、8月17日総
督府は委員会に治安権を含む幾多の統治権、放送局、新聞社、教育機関などを引き渡しど
の建物にも大極旗が掲げられました。
宿老たちは「生きて大極旗を見んとは」と言って泣いたと云います。
ところが、マッカサーは軍政を施くつもりでいた。連合軍は機密命令を発し日本の統治機
構を残しこれを連合軍に引き渡すよう命じました。38度線はこのときからマッカサーの
アイデアにありました。ソヴィエトの支援を受けた金日成は北朝鮮臨時人民委員会を組織
し建国に備えようとしました。
このことは、先に書いたコミュニズム浸透を防ぐ為に日本天皇制継続を方針化した事と、
理由は同じだったのです。
かくして8月19日には太極旗は降ろされ、総督府に再び日章旗がひるがえるのです。
9月11日よりアメリカによる軍政となるのです。
後は皆さんご存知のとおり、1948年まで信託統治ということになってしまいました。
国家総動員法
投稿者: manhattan_cafe_2002 (25歳/男性) 2002/ 3/10 23:19
メッセージ: 266 / 647
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=bepa4a8a4ka1v4z9qa4nnrbbk652jbdqa1w&sid=1835396&mid=266 1938年(昭和13年)に、日本の国会で国家総動員法(国民徴用令は1939年)が成
立しました。この法律によって、15歳から45歳までの男子と、16歳から25歳まで
の女子を、国家は徴用できるようになりました。「徴兵」が兵士になる義務であるように、
「徴用」とは、戦時に一定の労働に従事する義務のことです。多くの若者が出征し労働力
不足が深刻になり、その穴を埋めるためにやむなくこの法律を作ったのです。
徴兵と同様に、国民は、通知された場所に出頭し、指定された軍需工場などで働きました。
当時の日本国民のほとんどは、この徴用を国家非常時の当然の義務だと考えていましたか
ら、進んでこれに応じました。
さて当時、法的には「日本国民」であった台湾や朝鮮では、この法律はどのように適用さ
れたのでしょうか。台湾では、日本本土と同時に徴用令が施行されましたが、朝鮮では施
行されませんでした。その代わり、日本企業が朝鮮で自由に労働者を「募集」することを
許可しました。それまでは、朝鮮人労働者が大量に本土に流入すると失業者が増加するの
で、日本政府は朝鮮人労働者の移住を制限していたのです。制限を取り払ったので、多く
の朝鮮人労働者が日本にやってきました。
けれども、1942年(昭和17年)になると、さらに人手不足は深刻になりました。朝鮮
でも、総督府が自ら乗り出して朝鮮人労働者を集めなければならない状況になりましたこ
れを「官斡旋」といいました。官斡旋は、面(村)ごとに人数を割り当てました。そのため、
役所から就職先を斡旋された場合、それは義務に近いものとみなされされましたけれども、
朝鮮における官斡旋は、本土や台湾における徴用と同じではありません。それは、官斡旋
で労働現場に来た朝鮮人労働者が就職先を辞めても、罰則がなかったことです。例えば、
ある朝鮮人労働者は、官斡旋で本土に来たのですが、なじめなかったかすぐに辞めていま
す。そして、友人を頼って朝鮮人経営の土木会社に就職しました。正規に住居移転の手続
きをして、食糧の配給も受けています。
朝鮮にも「徴用」令が施行されたのは、1944年(昭和19年)になってからでした。け
れども、総督府では、なるべく自分の意思で徴用に応じてほしいと願い拒否した者への罰
則の流用を控えました。そのため目標の達成率は79パーセントにとどまりました。
1944年11月末に徴用令を受け取った鄭忠海氏は次のように書いています。
「…後を振り返りながら、別れの言葉もそこそこに集合場所である永登浦区庁前の広場に
向かった。広場は出発する人、見送る人で一杯だった。徴用者の点呼が終わると一同は隊
伍を組んで商工会議所の前に集まり、各地から動員された人々と共に壮行会が催された」
(「朝鮮人徴用工の手記」河合出版)
289 :
卵の名無しさん:02/05/23 19:10 ID:CZ3NFayt
どうせ捏◎野郎が荒らしてるんだろが
290 :
卵の名無しさん:02/05/23 22:56 ID:+7o/4Jyi
>289
そのようだ
291 :
卵の名無しさん:02/05/23 23:33 ID:+7o/4Jyi
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ヽ / : : : : : : : : ;-'^~~^'‐; l
~ヽ/ : ★: : : : : ヽミ ll
/ ,,,. : : : :; ;;;;; : ..,,,ヽ ,.ノ 捏造すんなよ!
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292 :
卵の名無しさん:02/05/24 01:54 ID:x3WbIMZy
>>281 >STSの恥です。
STS自体がゾロの恥部だとは思っていたが、それのさらに恥とは……
韓国教科書の‘歪曲’
ハンギョレ21 [ 論壇 ] 2001年05月29日第361号
(1) “ドングウックイは我が国の歴史が深くて,最初の国家である古朝鮮を立てた檀君ワ
ングゴムが神様の子孫という事実が凄く誇らしく感じられた.”(2) “しかし純潔は成熟
した性意識を持って男女皆が守らなければならないし,結婚の前にはもちろん結婚後にも
守らなければならない.…私を愛して私の身と心をきれいに守るという意味で純潔誓約書
を書いて,署名しておこう.”(3)“西欧の個人主義思想が過ち受け入れられてモルゴング
ドングチェゾック,沒死蛔積勝つことが広まるしている.労使皆企業の利益よりは個人の利
益を優先して労使紛争が深くなっているし,このような個人及び集団利己主義が社会的統
合を阻害している.”(4)“ここで気を付けなければならないことは西欧帝国と我が国の社
会構成の差だ.…クラスもやっぱり当然同じ形態を持たなければならない.…したがってそ
の団体を規律する規範は教師の人格で滲み出なければならない.それを忘却して西欧類の
個人主義的自律自治で抜けてはいけない.”
私が試験を受ければ0点当たる教科書
上の文は4番(回)を除き小学校社会,中学校技術/家庭,そして高等学校共通社会教科書で抜
いたのだ.私の観点では皆同じにこっけいで片手落ちな主張で見える.古代神話を歴史的事
実のように説明しても良いか?形式的な男女平等論後に隠れて成績抑圧と匙恥心を引き起
こす純潔イデオロギーを注入することも相変らずだ.そして労動者ひとりひとりの利益が
企業の利益より重要なのが当たり前のことではないか?政治学者として私が見るのに,集団
利己主義の表出こそデモクラシーの必要条件だ.私が試験を受けたら0点当たるのがそら
ぞらしい.
幾年間注意深く読んで見た超・の中で・故意教科書内容は一言で問題だらけだ.社会,歴史,
道徳,倫理など公共性に係わる教科では退屈で謹厳な文章,単純な事故,羅列式構成,ブリー
フィング式要約,すべてのものを‘総体的’で説明しようとする欲心(能力は彼にバカらし
い),宣言式主張でいっぱい満ちている.スオブは無意味な抽象的概念と用語が短い本にま
ぜこぜのなっているにも学生たちは教科書をもう一度‘要約’一独り案内で勉強して試験
を受ける.加令“青少年期には身の丈と体重が急激に増加するようになるのに,これを青少
年期の‘成長級’と言う”と言うふうのトートロジ説明が胎盤だ.学生たちは君の字に下
線を引いてそれを無条件覚える.批判的思考力と創意性,人間と世の中に対する好奇心を学
ぶということは殆ど不可能だ.染みこむことは客観的事実を探求しようとする意欲をくじ
いて独立的思考を抹殺する特定イデオロギーだ.そのうちでも核心は,答は絶対的でもう決
まっているという全体主義的発想だ(学生たちはもちろんそれをあまり信じない.長期的に
は公論の場で通用するイデオロギーコードと実際言行との深刻な乖離問題が発生する).
揺れる「韓日歴史共同研究委員会」
歴史教科書問題を解決するため、昨年10月に韓日両国の首脳が設置に合意した「韓日歴
史共同研究委員会」が、先月初め、両国政府の公式発足の発表以降も韓国側の委員長と委
員の選任問題などが難航し、1カ月以上も遅延されている。
特に日本は先月、委員長と委員の選任を終わらせ、韓国側の人選を待っていることが確認
され、まかり間違えば韓国側が歴史教科書問題の解決に消極的だという印象を与えかねな
い状態であることが分かった。産経新聞は21日付けの報道で、今月27日にソウルで開催
される予定の「韓日歴史共同研究委員会」の初会議が韓国側の要請によって延期されたと
報じた。
韓日歴史共同研究委員会が発足から難航している理由の1つは、韓国政府が委員長に内定
した金栄作(キム・ヨンジャク)国民(クンミン)大学教授に対し、一部の社会団体と学
会が異議を申し立てたため。政治学者の金教授は韓日間の歴史問題を扱う適任者ではない
上に、第5共和国当時、国会議員を歴任した経歴のある人物は困るという批判からだ。
ある中堅学者は「委員長は委員の意見を集約できる権威を持っていなければならない。歴
史学者たちの共感を導き出すには、これまでの活動は距離がある」と述べた。事態がこう
なると、金教授は先週、朝鮮日報との電話インタビューで、「委員長はもちろん、委員も
受け持つつもりはない」と言い切った。金教授は「日本側との交渉の余地もさほどない上
に、後で日本と妥協したという非難を受けること間違いない。そんなことを何故やるのか」
と反問した。
最終確定段階にある委員の選任も紆余曲折を経ていると伝えられた。韓日両国の政府は今
年3月5日、「韓日歴史共同研究委員会」の公式発足を宣言しながら、双方それぞれの委
員長の下に古代、中世、近・現代史の歴史学者3人ずつで構成された分科委員会を設け、2
年間、韓日関係史の研究を進めることにした。
これに先駆け、政府は歴史学会と韓国史研究会など、学会のレベルで研究委員候補を推薦
してくれるよう要請し、各学会では今年初め、数十人の学者を既に推薦している。しかし、
学会の推薦を受けた学者の中には研究委員になることを拒む人が少なくなく、研究委員に
内定された学者の中にも、固辞する人がいることが確認されている。ある学者は「少しで
も失敗すれば、親日派に罵倒される可能性があり、成果無く終われば、批判されてしまう
ので、受け持とうとする人は余りいない」と雰囲気を説明した。
歴史学者たちが微温的な反応を見せるのは、先月、韓日政府が「韓日歴史共同研究委員会」
発足に合意する過程で、共同研究委員会の研究結果が日本の教科書に反映されなければな
らないという韓国側の要求が合意文から脱落した代わりに、「活用・併記する」という妥
協案が採択されたのも1つの理由になっている。
日本政府は検認定制度である教科書執筆内容に政府が関与できないという理由から、共同
研究結果の反映を義務付けることに難色を示してきた。このため、両国の研究者たちが合
意した内容は教科書の執筆に“活用”し、合意に達しなかった内容は両方の意見を“併記
”する方法を取ることで意見の歩み寄りをしたと伝えられた。
中堅のある歴史学者は「日本の歴史教科書問題は韓国側で主導権を握って推し進めなけれ
ばならないのに、委員構成もできず、おかしな格好になってしまった。学者たちが積極的
に参加できるよう、政府が雰囲気作りをしてくれれば」と話した。
金基哲(キム・ギチョル)記者
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2002/04/22/20020422000032.html
世界の長寿比較
投稿者: ichi_bei 2002/ 3/10 8:22
なぜ韓国の教育は狂ってしまったのか メッセージ: 577 / 588
【男】
1位 日本 77.10歳
2位 スウェーデン 75.91
3位 イスラエル 75.50
4位 スイス 75.30
5位 オーストラリア 75.04
6位 イギリス 74.06
7位 フランス 74.00
8位 アメリカ 72.40
番外 韓国 67.66
中国 66.70
インド 57.70
【女】
1位 日本 83.99歳
2位 フランス 81.90
3位 スイス 81.70
4位 スウェーデン 81.18
5位 オーストラリア 80.94
6位 イスラエル 79.50
7位 イギリス 79.32
8位 アメリカ 79.00
番外 韓国 75.67
中国 70.50
インド 58.10
出所:日本=厚生省『簡易生命表』(1999年)
他国=総務庁統計局『世界の統計1999』
ごらんのように、男女とも日本が世界一です。また、オーストラリアは男女とも5位、アメリカは男女とも8位。韓国と中国については、ごらんの通りです。
日本人の長寿は最近に始まったことではなく、古代から続いていることです。中国人もその昔、『魏志倭人伝』で倭人の長寿に驚いています。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=a4ja4bc4z9qa4n650ia4o68a4ca4fa47a4dea4ca4bfa4na4ab&sid=1835396&mid=577
すくなくとも奴隷の人たちは
投稿者: sukusuku11 2001/ 7/18 0:12
なぜ韓国の教育は狂ってしまったのか メッセージ: 515 / 588
ニッテイが来てからの方が生活がよくなったみたいだよ。
コピーペ
李朝朝鮮の身分制度について誤解があるようですね。
まず、朝鮮の身分階層は大別して「良人」と「賤人」となります。
良人は階層分化により、両班、中人などと常民に分類されるように
なりました。
一方、賤人は奴婢であって、基本的に奴隷です。この奴婢のうち、
個人が所有する奴隷、奴婢を民婢、公有の奴隷を官婢と称しました。
この、民婢は戸籍に記載されますが、相続や売買の対象とされたの
です。
これらの戸籍をもつ人民のさらに下層に位置付けられたのが、被差
別民としての白丁なのです。
白丁は被差別民として接触を避けるべき者ですから、所有や売買の
対象にすらならなかったということです。
私には、奴隷以下の被差別民という概念が、とても理解できません
が、これが歴史上の事実です。
コピーーペ終わり
なんか併合前の朝鮮では凄い差別があったみたいだよ
そんで奴隷を解放したのは日本みたいだよ
でもこういうのは恩着せがましく言っちゃいけないみたいだよ
このコピペ見つけていて眠くなったみたいだよ
寝るね。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=a4ja4bc4z9qa4n650ia4o68a4ca4fa47a4dea4ca4bfa4na4ab&sid=1835396&mid=515
統領さま、差別的な荒らしだけは止めて下さい。
国定韓国高等学校歴史教科書
はじめに
われわれの歴史はわが民族の生きてきた足跡であり、われわれ自らが営んでいる生の根底
でもある。その歴史には亀裂と悲嘆、平和と試練が入り乱れて、明るいときもあれば、暗
いときもあった。
歴史は事実にもとづく学問である。したがって過去にあった事実は恥ずべきとして隠蔽す
ることのできるものではなく、誇るべきとして誇張することもできない。それは虚言で歴
史を飾ることができないからである。
われわれが歴史を学ぶのは、過ぎし日の華やかなりしときを鑑賞的に楽しもうとしたり、
または困難なときを思って憤慨しようとするのではない。われわれは歴史を見るにあたっ
て、心はより広く、眼はより遠くをめざさなければならないだろう。つまり、歴史を学ぶ
究極の目的は、過去に対する理解をとおして現在を正しく認識し、未来を正しく設計する
ことである。
民族史に対する正しい認識によって、われわれの現在と未来の問題を正しく処理する歴史
的能力を啓発、進展させ、民族の力量を発展させて現在の生き方を主体的に導いていくこ
とができるだろう。
歴史認識の土台は現在のわれわれ自身であり、現在の生き方自体が歴史の流れである。し
たがって歴史の姿は現在の問題からその糸口が解明されなければならないだろう。歴史は
実際に近い姿であればあるほど、よりいきいきとわれわれの胸に伝えられる。そうすると
き、民族史に対する認識の方向は明らかになる。
第1に、民族史は主体的に理解されなければならない。つまり民族史はわれわれ自身の問
題であり、民族の主体性の根源だからである。同時に民族史の発展過程がもっている特殊
性を、世界史の普遍性のなかで主体的に把握することが重要である。
第2に、民族史は発展的に理解されなければならない。民族史が現在のわれわれの生き方
を生んだ根源であるばかりか、また未来を準備してくれているとすれば、それは発展性を
土台にしなければならないからである。歴史を発展的観点で認識することによって、はじ
めて歴史発展に能動的に参与することができるだろう。
第3に、民族史は構造的に理解されなければならない。民族史はわが民族が積み上げてき
た政治、経済、社会、文化のすべての業績を包括する。したがって民族史の総合的な理解
のためには、各分野に対する構造的な接近が先行しなければならないだろう。
こうした観点から、われわれはわが民族が歴史を発展させてきた原動力をありのままに知
り、それをとおして民族がめざす方向を見きわめなけれぱならないだろう。わが民族がな
しとげた伝統と歴史をどのように理解するかによって民族の生き方を理解する問題、民族
の生き方につくす問題が異なる。
今こそ、われわれはわが歴史を正しく理解して、これを土台にして今日の歴史的使命であ
る祖国の統一と民族の繁栄を一日も早く達成し、われわれの後継者たちに誇らしい生き方
を享受させることができるようにしなければならないだろう。
http://www.akashi.co.jp/menue/read/read_korea.htm
308 :
卵の名無しさん:02/05/24 08:36 ID:F9Nye3Eo
沢井製薬=鈴木ムネオ
>>308 統領さまの人間性はムネオ君とさして変わりがないとでも云いたかったのかな?
統領さまとムネオを一緒にするな(笑
ムネオがかわいそうだ。
311 :
卵の名無しさん:02/05/25 22:03 ID:TqbhEjRV
韓国96年度版教科書「国史(上)」
投稿者: onisabu 2000/12/12 13:26
なぜ韓国の教育は狂ってしまったのか メッセージ: 120 / 588
新しい文物を持って日本に渡った我が国の人々は、土着社会の日本人を教化した。/
百済の阿直岐と王仁は日本に渡り漢文を教えたが、漢学は日本人に文学の必要性を認識さ
せ、儒教の忠孝思想も普及させた。また百済は仏教、仏像、五経博士、医博士、暦博士、
そして画家と工芸技術者も送り、その影響で五重の塔が建てられ、百済伽藍という建築様
式も生まれた。/
一方、高句麗の僧侶慧恵は日本の聖徳太子の師となり、曇微は五経の絵画を教え、紙と墨
の製造法を伝授した。日本が誇る法隆寺金堂の壁画も曇微の作と伝えられている。現在日
本の各地に残っている古代仏像の中には、その形態や特徴からして、三国の影響を受けた
ものが多い。/
新羅からは築堤術と造船術が日本に伝えられ、築堤術が伝播されたことから「韓人の蓮池」
という名称が生まれる程だった。このほか、三国の音楽伝えられ、高句麗楽、百済楽、新
羅楽等の名称もあり、日本音楽の主流となった。/
この様に三国時代の我が国からの流移民が日本列島に渡り、先進技術と文化を伝授し、大
和政権を誕生させ、古代飛鳥文化の成立に貢献した。
訂正:慧恵 → 慧慈 、曇微 → 曇徴
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=a4ja4bc4z9qa4n650ia4o68a4ca4fa47a4dea4ca4bfa4na4ab&sid=1835396&mid=120
312 :
卵の名無しさん:02/05/25 22:03 ID:TqbhEjRV
313 :
卵の名無しさん:02/05/26 00:31 ID:g46Pei2B
沢井ってなんでこんなに評判が悪いのだろう?
314 :
卵の名無しさん:02/05/26 07:52 ID:5DOlZTS1
所詮 自分では何もできない会社だからでしょう
低能な会社だから社員も低能なのか?
幹部が低能だから会社も低能なのか?
低能社員が就職するから低能な会社になるのか?
まぁこの掲示板が全てを物語ってるでしょう
韓国の国語教科書@
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2000/11/12 9:18
なぜ韓国の教育は狂ってしまったのか メッセージ: 63 / 588
以下は、1989年版、韓国中学校1年国語教科書(国定)からの引用です。
7 次の文を読み、問いに答えなさい。
結果はすべて、努力したぶんだけ得られる。ところが、最近、僥倖を願う人が多いようだ。
努力せずに一攫千金を得ようとし、汗を流さずに高い地位を得ようする人々がいる。黙々
と自分のすべきことをしながら、よりよい明日を夢見る人たちを見れば、僥倖を願って生
きるこれらの人は、あまりにもずるいと思う。社会が不公平だと文句をいう人たちの多く
の大部分が、むしろ努力しない人たちである。
いつか、両手が不自由な若者が印鑑を彫って一生懸命働いて貯めたお金で、故郷に学校を
建てたという新聞記事を読んだことがある。客観的に見ると、この若者は、他の人よりず
っと恵まれていない人だ。にもかかわらず、その若者は、「努力してください。努力した
だけの結果が得られるのです。できないと不平をいうのは、努力不足なのです」と言って
いた。
「豆を植えれば豆がとれ、小豆を植えれば小豆がとれる」という言葉は、当たり前すぎる
言葉だ。しかし、同時にいちばん難しい言葉なのかもしれない。
(1) 事実と違うところをさがして、下線を引きなさい。
(2) 不要な言葉を一つ探して、下線を引きなさい。
これ読んだとき、なかなかいい文章だな、と思いました。ただ、当時は韓国語がまだよく
できなかったため、設問(1)の答えがいくら考えてもわからない((2)は「多くの大
部分」の「多くの」。これはわかった)。
で、韓国人に聞いたところ、「両手が不自由な人が印鑑を彫れるわけがない」と、ことも
なげに答えてくれました。
そのとき、なんだか背筋がぞっとしたのを覚えてます。
韓国社会が身障者に冷たい原因が、教育にあるのではないかと思ったものです。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=a4ja4bc4z9qa4n650ia4o68a4ca4fa47a4dea4ca4bfa4na4ab&sid=1835396&mid=63
317 :
卵の名無しさん:02/05/26 07:55 ID:5DOlZTS1
↑
お前はほんま低能社員やね
そんなことしないで 新しいゾロの薬品でもさがせば
韓国の国語教科書B
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2000/11/12 メッセージ: 65 / 588
これも中2の国語教科書
2 次の文を読み、問いに答えよ。
日本の歴史教科書は、自分たちの歴史の弱点を隠したり、うそで固めて記録している。反
面、わが韓国の歴史については、弱点を大きくとりあげたり、長所も短所のように悪く記
録している。そうした例の中から、いくつかを指摘してみる。
第一に、日本の歴史の教科書には、日本が4世紀にわが国の三韓を征服したという嘘が記
録されている。これは二十世紀初めにあった、日本の韓国侵略を正当化して飾りたてるた
めのものだ。
第二に、日本の歴史の教科書には、四十年間に6回にわたって蒙古の侵略に抗して戦った
高麗の抗戦が記録されていない。高麗の抗戦によって蒙古の日本侵略が弱まり、挫折した
事実は、まったく記録されておらず、ただ高麗が蒙古に降伏した事実だけが記録されてい
る。これは、わが国が主体性のない弱小国家であることを強調するためのものである。
第三に、壬辰倭乱は、結局、日本が敗北した戦争であったにもかかわらず、日本の歴史の
教科書には、日本のサムライたちの正義に満ちた行動であって、日本が勝利した名誉ある
戦争だったと記録されている。これは、日本が自分たちの優越性を強調するために、侵略
戦争を美化したもので、日本が歴史的真実を無視していることをよく示すものだ。
(1)上の文を、理由と主張の二部分に分けよ。
(2)上の文の理由部分を一段落にまとめ、もとの文の内容と比べて、その違いを言え。
コメントのしようもないけど、この執筆者(不詳)は日本の教科書、ほんとに読んだんだ
ろうか。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=a4ja4bc4z9qa4n650ia4o68a4ca4fa47a4dea4ca4bfa4na4ab&sid=1835396&mid=65
319 :
卵の名無しさん:02/05/26 08:32 ID:5DOlZTS1
たまには変わったこと書いたら?
それとも思考力も無いほど低能?
韓国の国語教科書C
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2000/11/12 9:23
メッセージ: 66 / 588
6 次の文を読み、問いに答えよ。
蒙古族が、武力で漢族を征服して宋を滅ぼして元を建てたが、漢族のもつ文化の力は、崩
せなかった。満州族が強盛して、漢族の建てた明をやはり武力で屈伏させ、清を建てて統
治したが、彼らも漢族の文化に同化されてしまった。
「ペンは剣より強し」という言葉があるように、武力は結局文化の隠れた力に勝てない。
(1)上の文に表れた主張を裏付けることができる理由や根拠を記せ。
(2)上で挙げた理由や根拠を使用して、上の文の次に続く内容を簡単に書け。
「ペンは剣より強し」って、権力に対するジャーナリズムの力を表した言葉じゃなかった
っけ?
(2)は、やっぱり日帝について書くことを期待されてるのかな。
1.次の文章を読んで、視点上の共通点と相違点について調べなさい.
(か)
それは私が満州を旅行していた時のことであった。満州の風俗を調べ、そのついでに、ま
だ文明の洗礼を受けていない彼の地に広まっている病気の調査もかねて、一年の期限を定
めて、満州をくまなく見て回ったことがあった。そのとき○○村という小さな村で見たこ
とをここで書こうと思う。
(な)略
蒙古と満州(清)にたいする恨みの深さが窺われます。
以上、私は、韓国の教科書には問題点が非常に多いと思います。
ま、他国の教科書についてとやかくいうのは内政干渉だけど、他人事ながら心配です。
まずは民営化すべきじゃないかな。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=a4ja4bc4z9qa4n650ia4o68a4ca4fa47a4dea4ca4bfa4na4ab&sid=1835396&mid=66
少しの質問と感想
投稿者: japanese_breaker 2000/11/12 13:56
メッセージ: 69 / 588
少しの質問と感想
>韓国の国語教科書(1)
設問1)の答えはなんだったの?両手が不自由な若者が印鑑を彫るという部分が正解なの?
>韓国の国語教科書(2)
この設問に採用されている文章はボクもちょっと遺憾に思うね。しかし文章全体を読んで
みないと正確なことは言えないとおもうけど。たとえばその部分が、人種差別の悪い例と
して出されている可能性も否定できないよね。
>韓国の国語教科書(3)
ま、たしかにその文には事実誤認が含まれている。日本の歴史教育に対する認識が不正確だ。
ただ、広開土王碑の碑文解釈は議論の余地があるにもかかわらず、数年前の日本の歴史教
科書には倭が朝鮮半島に進出したと書かれているものがあった。(ニッテイ時代には4世
紀後半からおよそ200年にわたってヤマトが朝鮮半島の南部を支配してたなんておしえ
てたけどね。)そのへんは日本の教科書にも問題がある。ま、3韓征服とはさすがに書い
てないけど・・・。サムライたちの正義に満ちた行動ってのもちょっと・・ひどいね。ま、
この文章は明らかに韓国が訂正すべきだ。この文章を書いた韓国人はアホと言われてもし
かたないだろう。
>韓国の国語教科書(4)
この設問からは、ボクにはなんら問題点は見つけだせないね。
その文から蒙古と満州に対する恨みの深さが伺われる理由というのがちょっとよくわから
ない。たしかに蒙古と満州という言葉は出てきてるけど。
ペンは剣より強しってのは権力に対するジャーナリズムの力を表したのが語源かもしれな
いけど、武力vs文化という構図として一般化することに無理はないと考えられるけどね。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=a4ja4bc4z9qa4n650ia4o68a4ca4fa47a4dea4ca4bfa4na4ab&sid=1835396&mid=69
322 :
卵の名無しさん:02/05/26 09:11 ID:g46Pei2B
こんな民族差別的なことばかり書いていると問題視されるよ。
少しの質問への回答@
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2000/11/14 0:06
メッセージ: 78 / 588
>>韓国の国語教科書(1)
>設問1)の答えはなんだったの?両手が不自由な若者が印鑑を彫るという部分が正解なの?
そうじゃないことを願うのみ(教師用指導書はもってない)。
可能性としては、印鑑を彫って得られるお金ぐらいで、学校なんか建つはずないっていう
のもありかもしれないけど、いずれにしても嘘つき扱いするわけだから、この設問がもつ
差別性は否定しようがないと思う。
>>韓国の国語教科書(2)
>その部分が、人種差別の悪い例として出されている可能性も否定できない
これは単元のまとめにある練習問題だけど、その単元のメインの文章は、人種差別とは関
係なかった。
でも、ちょっと気になる部分があるので紹介します。
金于玄という人の「家風」という文章。
五十路を過ぎた語り手が、我が家の家風について思いを巡らせる。古風でもなく現代風で
もなく、学者風でもなく商魂たくましいわけでもなく、奉仕精神旺盛というわけでもなく、
新聞に載るようなこともなく、平凡だけが取り柄の家だが、自分がもっとも肝要だと思う
のは、他人に迷惑をかけないことだ、という、見ようによっては、いたって日本風な考え
方で締めくくられる。
ただ、我が家の平凡さを羅列する中で「賤奴の子孫でもなく」という文言があった。
これもなんか、差別意識がにじみ出てる表現だなあ、と思いました。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835396&tid=a4ja4bc4z9qa4n650ia4o68a4ca4fa47a4dea4ca4bfa4na4ab&sid=1835396&mid=78
沢×製薬って差別会社?
IPI、韓国を引き続き「言論弾圧監視国」に
国際新聞編集者協会(IPI)は10日(現地時間)スロベニアのリュブリャーナで、ボ
ルト・パホ国会議長、ヒューゴ・バトラーIPI会長(独ノイエ・チリカー・チャイトン
主筆)、IPIの副会長である方相勳(パン・サンフン)朝鮮日報社長など、50カ国から450
人余りの言論人が出席した中、第51回総会を開幕した。
IPIは9日理事会を開き、韓国とロシア、ベネズエラ、スリランカ、ジンバブエを「言
論弾圧の監視対象国」のリストに残すことを満場一致で可決した。IPI理事会は、昨年
行われた税務調査の結果、巨額の税金を賦課された韓国のマスコミ23社が資金問題に影
響されずに自由に論調を展開できるかどうか、鋭意注視していると明らかにした。
IPI理事会はまた、副会長及び理事の任期が満了する方相勳・副会長に対し、「韓国政
府から圧力を受けている限り」副会長としての任務を遂行するようにした。
IPIは12日まで行われる総会で、中東情勢でのイスラエル、パレスチナ両政府の取材
妨害の根絶を促すほか、合法を偽ったマスコミ弾圧の事例が増えていると指摘する内容の
決議案などを採択する予定だ。
今回の総会には、金学俊(キム・ハクジュン)東亜(トンア)日報社長、李済薫(イ・ジ
ェフン)中央日報社長、張大煥(チャン・デファン)毎日経済社長、金正国(キム・ジョ
ングク)文化日報社長、白仁鎬(ペク・インホ)YTN(聯合通信テレビニュース)社長、
安亨淳(アン・ヒョンスン)江原(カンウォン)道民日報社長、金大成(キム・デソン)
済州(チェジュ)日報社長、朴紀正(パク・ギジョン)韓国言論財団理事長、玄昭煥(ヒ
ョン・ソファン)元聯合通信社長らが出席した。
崔宇晢(チェ・ウソク)記者
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2002/05/10/20020510000033.html
日本語強制、姓名改正、神道崇拝強要
投稿者: tawakegirai2002 (02歳/女性/良心の収容所列島) 2002/ 3/ 2 5:29
メッセージ: 37 / 214
>これって日本人なんだから
日本語を習うのはあたりまえじゃん。
半島では朝鮮語も一般に使われたよ。
学校の先生が 初期段階で日本人しかいなかったからしょうがないよね。日本語を強要し
たとされるのは 学校教育、しかし 小学校も卒業していない 朝鮮人をいきなり先生に
出来なかったことを 強制とはね。
>敗戦時まで姓を変えなかった朝鮮系日本人がいたことを知ってる?
たぶん知らないよね 彼。オリンピックの日本代表 マラソンの孫さん有名だけど 他に
も朝鮮名たくさん代表になってるね。国際宣伝の場で 日本名強制することもしなかった
みたいで 強制強制は変な話だよな。帝国軍人に朝鮮名のひといくらでもいたみたいね。
パーセンテージどうなのかな 本当のところは
>神道崇拝強要は日本人は皆やられたんだよ。
朝鮮半島の神社は数えるほど 一年に1回遠足に連れて行った程度の話が 今では「神道
崇拝強要」話になってるのよ。宗教の強制なら 冠婚葬祭どうだったか?従来通り 朝鮮
式。どんな強制じゃい!
>●日本語強制、姓名改正、神道崇拝強要
字面だけで 戦後作り上げられた 民族抹殺話。民族の誇りを取り戻す為に 極端な話で
教育されている韓国人なら しょうがないけど 日本人なら 冷静に実態ぐらいは把握し
たいよね。
最近 小林さんの漫画読者だろ って高所から見下ろして 俺は漫画以外の知識ソースが
あるような 反応する奴がいるけど こんな輩こそ 知識不足の披露と言えるね。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=37
>日本語強制、姓名改正、神道崇拝強要
投稿者: omegatribes (男性/杉並区) 2002/ 3/13 10:49
メッセージ: 40 / 214
>半島では朝鮮語も一般に使われたよ。
これは事実とは異なります。最大でも日本語を解する朝鮮人は22%。とても「一般的」
とは言えませんよ。
>しかし 小学校も卒業していない 朝鮮人をいきなり先生に出来なかったことを 強制
とはね。
当時、愛国啓蒙運動で寺子屋が多数出てきたので、何も日本語を学校で教育する必要はな
かった。
>敗戦時まで姓を変えなかった朝鮮系日本人がいたことを知ってる?
創始改名をすれば、日本人に差別されることはないと思い、積極的にやったが、差別はな
くならず、朝鮮人からも軽蔑され行き場がなくなったのさ。
>朝鮮半島の神社は数えるほど
朝鮮総督府は1936年以降、1面(日本の村にあたる)1神社主義の原則をうちだし、山
間僻地の面(村)にまで神社や神しをつくり、朝鮮人には神社が65、神しが835も作ら
れていた。そればかりか朝鮮人の各家庭に神棚まで作らさせ、天皇家の祖先である「天照
大神」の大麻(伊勢神宮のおふだ)をおがませた。(「昭和の歴史7」木坂著)
>日本人なら 冷静に実態ぐらいは把握したいよね。
実態を把握したら、貴方のような投稿はできません。実際に、日帝下で暮らしていた人間
がよくなかった、ひどかったと言っているのに、戦後生まれで当時の状況がわからない人
間がそれを否定するほど馬鹿げた話はないよね。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=40
馬鹿げた・・
投稿者: tonbikantoku (31歳/jp) 2002/ 3/13 12:41メッセージ: 41 / 214
>これは事実とは異なります。最大でも日本語を解する朝鮮人は22%。
とても「一般的」とは言えませんよ。
最大でも日本語を解する朝鮮人は22%だったと言うなら
{半島では朝鮮語も一般に使われたよ}は事実でしょ。
>当時、愛国啓蒙運動で寺子屋が多数出てきたので、何も日本語を学校で教育する必要は
なかった。
だから日本人なんだから日本語を習うのはあたりまえだって。だいたい寺子屋の教師と学
校の教師を一緒にするのは無理があるよ。
>創始改名をすれば、日本人に差別されることはないと思い、
積極的にやったが、差別はなくならず、
朝鮮人からも軽蔑され行き場がなくなったのさ。
だからなに?結局創始改名は強制じゃないんってこと?自主的にやったんだから文句は言
うなってこと?創始改名したくらいで軽蔑した朝鮮人は酷い奴等ってこと?
>朝鮮総督府は1936年以降、1面(日本の村にあたる)1神社主義の原則をうちだし、
山間僻地の面(村)にまで神社や神しをつくり、朝鮮人には神社が65、神しが835も作
られていた。そればかりか朝鮮人の各家庭に神棚まで作らさせ、天皇家の祖先である「天
照大神」の大麻(伊勢神宮のおふだ)をおがませた。(「昭和の歴史7」木坂著)
全員が強制されたわけでもないし、前にも書いたけど当時の日本人なら大体おなじような
ことがあったんだよ。朝鮮系日本人にかぎったことじゃないよ。反論になってさえいない話を
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=41
「立ち直れない韓国」
投稿者: migi_no_wing 2002/ 3/15 20:00日本史 > 日韓併合の是非 メッセージ: 48 / 214
朝鮮総督府は、「創氏改名」政策を行ない、いかにも朝鮮人が生命以上に大切にしている
先祖代々の「姓氏」を奪ったと、朝鮮近現代史家は厳しく批判する。「創氏改名」には、
絶対反対した人びとが存在したことも事実であろう。しかし、反対した人びとは、なぜ「姓
氏」差別をした李朝史を直視しないのであろう。
朝鮮半島では有史以来、李朝末期に至るまで、最下級の「賎民」に姓氏をつけることさえ
許さなかった。そのため白丁(被差別民)の子孫たちは、李朝末期、あるいは内憂外患の
社会混乱期に乗じて適当な姓氏をつけ、あるいは祖先の墓に従一品等の碑を建てたり、詞
堂、祭室までつくる者も出たりしたのだ。しかし、新しい姓氏をつける場合でも、馬脚が
露われるのを恐れて、なるべく分家、分流の多い金海金氏とか、全州李氏などを利用した
といわれる。姓氏を持たなかった者は、白丁奴(パクジョンノム)や火賊奴(ファジョク
ノム)と呼ぱれ、虐待、蔑視された。
「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=48
332 :
卵の名無しさん:02/05/26 14:35 ID:5DOlZTS1
ue
少しの質問への回答A
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2000/11/14 0:08
メッセージ: 79 / 588
>>韓国の国語教科書(3)
>ただ、広開土王碑の碑文解釈は議論の余地があるにもかかわらず、数年前の日本の歴史
教科書には倭が朝鮮半島に進出したと書かれているものがあった。(ニッテイ時代には4
世紀後半からおよそ200年にわたってヤマトが朝鮮半島の南部を支配してたなんておし
えてたけどね。)そのへんは日本の教科書にも問題がある。
手元にある『新詳説日本史』(1990、山川出版社)には
「日本が中国の歴史書などに再び登場するのは、4世紀末から5世紀にかけてのことであ
る。高句麗の好太王碑文(=広開土王碑文)には、倭が朝鮮半島に進出し、高句麗と交戦
したことが記されている。これは、大和政権が朝鮮半島の進んだ技術や鉄資源を獲得する
ために加羅(任那)に進出し。そこを拠点として高句麗の勢力と対抗したことを示すもの
であろう。」
さらに、好太王碑文につけられた欄外注に
「碑面の文字は長年の風化により不鮮明であるが、当時の朝鮮半島の情報を知るために貴
重な資料である。そのなかに「百残(百済)新羅は旧是属民なり。由来朝貢す。而るに倭、
辛卯年(391)よりこのかた、海を渡りて百残□□□羅を破り、以って臣民と為す」と
あって、倭の朝鮮半島への進出を伝えている。」
とあります。
史料によるかぎり、倭の朝鮮への進出は素直な解釈でしょう。否定する学者もいるけど。
>>韓国の国語教科書(4)
>この設問からは、ボクにはなんら問題点は見つけだせないね。
>その文から蒙古と満州に対する恨みの深さが伺われる理由というのがちょっとよくわか
らない。
要するに、蒙古や女真には武力だけあって、文化がないってことを言いたいんでしょう。
そのような蔑視のなかに、私はかつての侵略、支配に対する「恨み」を見てとったのですが。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835396&tid=a4ja4bc4z9qa4n650ia4o68a4ca4fa47a4dea4ca4bfa4na4ab&sid=1835396&mid=79
>韓国の社会問題と教育の関連性
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2000/11/28 18:43
メッセージ: 89 / 588
教科書内容もさることながら、親と先生の関係も問題だと思う。
最近はちょっと自制ムードがあるけど、あの「先生の日」の、先生に対するワイロは一日
も早く根絶すべきだ。入試における内申重視の流れで、水面下に潜ったワイロがいっそう
はびこってるという話もある。
三豊デパート崩壊は、安全性を無視した設計変更を、ワイロで役所に承認させたからだそ
うだ。
子供は、世の中がワイロで動くってことを、まさに学校で知る。尊敬すべき親と先生が封
筒のやり取りをするのを見ながら育つわけ。それを告発するのがマスコミの役目だけど、
いまいち歯切れが悪いのは、マスコミもワイロにまみれてるから。
金泳三時代に、ある日本の新聞のソウル特派員に聞いた話だけど、韓国の新聞記者の間で
はノ・テウより金泳三のほうが評判がいいという。というのは、トイレで大統領と二人き
りになったとき、大統領は新聞記者にお小遣いをくれる慣習があるそうだけど、ノ・テウ
は財布から金を数えて渡す。でも金泳三のほうは、財布のなかの有り金を全部くれる。だ
からだって。
この問題は根が深いよ。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835396&tid=a4ja4bc4z9qa4n650ia4o68a4ca4fa47a4dea4ca4bfa4na4ab&sid=1835396&mid=89
韓国では花粉症が少ない。
杉がないから。
杉の生育には厚い表土が必要で、岩盤が露出してる韓国の山では育たないんだそうだ。
投稿者: shinkuuboakagi (555歳/太平洋) 2001/ 2/ 7 22:52
メッセージ: 181 / 588
内容の信頼性はどの程度かわかりませんが、明石元二郎のことを書いた杉森久英の「錆び
たサーベル」にこのような表現があります。明治40年のころ、明石が杉山茂丸と京城か
ら平壌へ汽車の旅に出発。
「釜山にはじめて上陸して、京城へくる途中もそう思ったが、朝鮮は禿げ山が多いね」(明石)
「わしがはじめて朝鮮へ旅行したのはもう20年も前のことになるが、そのときもこうだ
った。ちっとも変わっておらんな」(杉山)
「地質がわるいのかね」(明石)
「それもあるかもしれんが、要するに、役人がいかんのだろう。山林というものは永年に
わたる管理と育成が必要だ。それには林政にあたる役人がしっかりしていなければいかん。
しかし、この国の役人はこれまで党争に夢中になって、国民全体の利益とか、将来の計画
などというところまで頭が旗らかなかった。それが今日の荒廃をもたらしたのだと言って
いいだろう」(杉山)
「この国の山は荒れ果てて、禿げ山ばかりだ。河川には堤防もなにもない。少し大きな水
が出ればその辺一帯が海のようになって、田畑と道路の区別もなくなってしまうだろう。
・・・」(杉山)
地質的構造と造林努力の不足の双方が原因だったのでしょうか。朝鮮半島が堅い岩盤の上
にあるので地震がないとはよく言いますね。それが岩盤的地質の一因なのでしょうか。
日本は戦後の造林計画でむしろ杉を植えすぎたような面があります。
付言ですが、「別トピで米の新説現る」の、その新説の定稿は実は私でした。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=a4ja4bc4z9qa4n650ia4o68a4ca4fa47a4dea4ca4bfa4na4ab&sid=1835396&mid=181
>杉と松
投稿者: shinkuuboakagi (555歳/太平洋) 2001/ 2/ 8 17:08 メッセージ: 184 / 588
韓国は松はあるけど、杉は少ないんですね。
日本の植物層(特に森林)の厚みは空を飛ぶと分かりますね。日本は森林の国だなといつ
も感じてます。熱帯地方でも空から見ると以外に薄い場所が多いですね。
インドネシアの高等教育機関について観単に記します。
オランダは一応は間接統治の形を取りました(直接統治の面もありましたが。というより
実際の重要な決定権はほとんどオランダ人が握っていました)。そのため、媒介手段とし
て現地人の県長、郡長、分郡長などのエリート層をオランダ語で教育しました。(原住民官吏養成学校)。このなかでも一部をいわゆるキャリアにするために1914年開校の行
政学院を1938年に大学レベルの行政アカデミーに改組しました。
純粋の大学については1920年にバンドン工科大学、1924年にバタビア(今のジャ
カルタ)に法科大学、1927年に医科大学が設立されました。
ただし量的にはささやかなもので、1940年時点で大学生の数は数百人にすぎなかった
といわれています。(その中でもインドネシア人の割合は派少なかったといわれています。
オランダ人の子弟ののためだったのでしょう。元大統領のスカルノはバンドン工科大学の
卒業です)。
スカルノは親父が無理をしてオランダ人の通う中等学校にかよっていましたが、オランダ
人子弟にいじめられたそうです。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=a4ja4bc4z9qa4n650ia4o68a4ca4fa47a4dea4ca4bfa4na4ab&sid=1835396&mid=184
脅迫で結ばれた条約は無効
投稿者: omegatribes (男性/杉並区) 2002/ 3/18 9:42
日本史 > 日韓併合の是非 メッセージ: 51 / 214
>日本人になりたい、お願いしますと言うから併合たのに
義兵闘争は何?ハーグ密使事件は何?
日本統治下の朝鮮では大小含めて3000回前後の反日運動がおきたんだよ。
もう一つ、教えてあげるね。個人を脅迫することで成立した条約は近代法上、無効だって
ことだよ。1905年の韓国保護条約は韓国政府高官一人一人を脅迫することで成立した条
約なので1969年の条約に関するウィーン条約で無効っていう決断が出たのさ。
剣で威嚇しつつ調印
11月17ー18日、歩兵一大隊・砲兵中隊・騎兵連隊が王宮前や目抜き
通りの鐘路で演習と称する示威をおこない、日本兵が物情騒然とした市中を巡
回し市民をおびやかした。
17日午前11時、林公使は大臣たちをチンコゲ(南山北麓)の日本公使
館に招き、予備交渉をおこなったのち、「君臣間最後の議を決する」ため御前
会議の開催を要求した。午後3時頃、大臣の途中逃亡を防止するため、護衛の
名目で憲兵付きで諸大臣と林が参内した。
御前会議は夜におよんだが、条約反対の意見がつよく、結論をうるにいた
らなかったので、日本側との交渉を延期することにした。「事の遷延を不得
策」とみた伊藤は、あらかじめ打ち合わせしていた林から連絡をうけ、8時こ
ろ、長谷川駐箚軍司令官、佐藤憲兵隊長をともなって参内し、御前会議の再開
を求めた。
しかし、皇帝が病気を理由に出席を拒否したので、閣議形式の会議がひら
かれた。外国の使臣である伊藤・林が武官とともにこれに出席すること自体、
不法きわまりないが、会議は折衝の場と化した。
慶雲宮内も日本兵が満ちていた。『大韓季年史』は「銃刀森列すること鉄
桶の如く、内政府及び宮中、日兵また排立し、其の恐喝の気勢、以てことばに
あらわし難し」と述べている。窓に映る銃剣の影が大臣たちを戦慄させたこと
だろう。
伊藤は大臣一人ひとりに賛否を尋問した。韓圭ソル・参政(閣議責任者、
半月城注)と閔泳綺・度支相(蔵相、同)は明確に反対を表明した。朴斉純外
相も「断然不同意」と拒否したが、ことばじりをとらえた伊藤は、たくみに誘
導し「反対と見なすを得ず」と一方的に判定した。その他の肩を落とした四人
の大臣のあいまいな発言も、伊藤によりすべて賛成とみなされた。
こうして、国民から「乙巳(ウルサ)五賊」と非難された五人の大臣の賛
成をもって、会議の多数決とした伊藤は、気落ちした韓圭ソル参政に皇帝の裁
可を求めるよううながし、拒否するならば「余は我天皇陛下の使命を奉じて此
任にあたる。諸君に愚弄せられて黙するものにあらず」と恫喝した。
しかし、あくまで反対の韓圭ソル参政は、涕泣しながら辞意をもらして退
室した。伊藤は「余り駄々を捏ねる様だったら殺ってしまえ、と大きな声で囁
いた」(西四辻公堯『韓国外交秘話』)という。大臣たちに聞こえる程度の声
でいった、という意味だろうか。
協約案は若干の文言修正ののち、午後11時半、林公使と朴斉純外相が記
名し、外部(外務省)から日本公使館員が奪うようにして持ってきた外相職印
を捺印した。18日午前1時半ころである。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/hm039.html#No.268 http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=51
340 :
卵の名無しさん :02/05/26 16:17 ID:0RYwnwIP
>>325 沢井は確かにアホな会社だが
韓国を批判すること=差別と捉えるキミも短絡的だな。
>韓国を批判すること=差別と捉えるキミも短絡的だな。
Yahooの韓国関連のレスをコピペしてるだけ。。
読みにくいのを、2ちゃん風にしてるだけだから。
>脅迫で結ばれた条約は無効
投稿者: kusuo1 (999歳/男性/城) 2002/ 3/18 19:30
日本史 > 日韓併合の是非 メッセージ: 52 / 214
>1969年の条約に関するウィーン条約で無効っていう決断が出たのさ。
1969年のウィーン条約では、1963年以前に結ばれた日韓併合条約を無効とは出来ないで
しょう、1969年のウィーン条約では1969年以後の条約にしか適用することは不可能です。
>剣で威嚇しつつ調印・・・・
日本側が韓国に併合を強要したのは事実だろう。しかし、何故日本が韓国を併合しなければならなくなったかを考える必要がある。日本側は最初から韓国を併合を望んでいたのではなく、初めは韓国自身による韓国の改革を期待し韓国内の改革派を支援した。ところが、
韓国政府は韓国国内の改革派を弾圧し根絶やしにしてしまった。その結果、日本側は韓国
が韓国自身の手で自己改革を行うのは不可能になったと判断し韓国の併合を決意した、韓
国の近代化は日本にとっても安全保障上不可欠な事であったからだ。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=52
創始改名?
投稿者: sekai_s2 2002/ 3/20 メッセージ: 65 / 214
創始改名は、何故韓国だけであったのでしょうね?台湾では聞かない話ですよね!台湾の
方が日本統治は長いのに・・大体、韓国独自の姓と云いつつ、金とか李なんて中華風じゃ
ないの?古代の韓国人の名前はそんなのじゃなかったみたいだけど・・・
>創始改名?
投稿者: history756 2002/ 3/20 メッセージ: 66 / 214
元元朝鮮には長ったらしい名前があったのです、著名な渡来人の名前は日本の歴史書に書
いてあります。中国はどの時代もアジアの中心だったので、朝鮮人は中華名をそのまま真
似改名し、中国風の服まで着て中国と同じように他国を卑下して好い気になっていました。
ですが此処最近民族の独自性が叫ばれるようになってきました、韓国人は開き直って、自
分の国は独自の文化を育んだなどと言っています。名前からして明らかなのに・・・。
まあ、中国と朝鮮は陸続きだったから仕方なかったのでしょうね。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=65
条約
投稿者: tonbikantoku (31歳/jp) 2002/ 3/22 メッセージ: 73 / 214
第一条
韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ
完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス
第二条
日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ケタル譲与ヲ受諾シ且全然韓国ヲ
日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス
第三条
日本国皇帝陛下ハ韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下
並其ノ后妃及後裔ヲシテ各其ノ地位ニ応シ相当ナル
尊称威厳及名誉ヲ享有セシメ且之ヲ保持スルニ十分ナル
歳費ヲ供給スヘキコトヲ約ス
第四条
日本国皇帝陛下ハ前条以外ノ韓国皇族及其ノ後裔ニ対シ
各相当ノ名誉及待遇ヲ享有セシメ且之ヲ維持スルニ必要ナル
資金ヲ供与スルコトヲ約ス
第五条
日本国皇帝陛下ハ勲功アル韓人ニシテ特ニ表彰ヲ為スヲ
適当ナリト認メタル者ニ対シ栄爵ヲ授ケ且恩金ヲ与フヘシ
第六条
日本国政府ハ前記併合ノ結果トシテ全然韓国ノ施政ヲ
担任シ同地ニ施行スル法規ヲ遵守スル韓人ノ
身体及財産ニ対シ十分ナル保護ヲ与ヘ且其ノ福利ノ増進ヲ図ルヘシ
第七条
日本国政府ハ誠意忠実ニ新制度ヲ尊重スル韓人ニシテ
相当ノ資格アル者ヲ事情ノ許ス限リ韓国ニ於ケル帝国官吏ニ登用スヘシ
第八条
本条約ハ日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下ノ裁可ヲ経タルモノニシテ
公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
右証拠トシテ両全権委員ハ本条約ニ記名調印スルモノナリ
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=73
素朴な疑問の数々 投稿者: chacha_insert 2002/ 3/26 1:46 メッセージ: 80 / 214
数点ご教授ください。
>1905年の韓国保護条約は韓国政府高官一人一人を脅迫することで成立した条約
(1)1905年の韓国保護条約とは、おそらく(第二次)日韓協約のこと
だと思われますが、一人一人脅迫したというのは事実なのでしょうか?
(2)ここでいう「脅迫」とは、伊藤が韓国大臣一人一人に賛否を尋ねたこと
を指すものなのでしょうか?
>11月17ー18日、歩兵一大隊−砲兵中隊−騎兵連隊が王宮前や目抜き通りの鐘路
>で演習と称する示威を行い、日本兵が物情騒然とした市中を巡回し市民を脅かした。
(3)このときの日本兵の行動は、韓国側と結ばれたなにがしかの条約に基
づいて行われたものなのでしょうか?それとも全く法的根拠を持たない
ものだったのでしょうか?
(4)また「日本兵が物情騒然とした市中を巡回し市民をおびやかした」と
いうことですが、この判断はどういった根拠に基づくものなのでしょうか?
>慶雲宮内も日本兵が満ちていた。『大韓季年史』は「銃刀森列すること鉄桶の如く、
>内政府及び宮中、日兵また排立し、其の恐喝の気勢、以て言葉に表し難し」と述べて
>いる。窓に映る銃剣の影が大臣たちを戦慄させたことだろう。
(5)『大韓季年史』は、きちんとした史料批判がなされたのもなのでしょうか?
(6)というのも、この著者が独立協会の人間であるという時点で、かなりのバイ
アスがかかっていると思われますが、その点はいかがでしょうか?
(7)そもそも、この著者自身は現場に居合わせた人物なのでしょうか?
(8)また、「窓に映る銃剣の影が大臣たちを戦慄させたことだろう」とは、全く
の推測にすぎないと思われますが、なにか根拠があってのことでしょうか?
>しかし、あくまで反対の韓圭ソル参政は、涕泣しながら辞意をもらして退
>室した。伊藤は「余り駄々を捏ねる様だったら殺ってしまえ、と大きな声で囁
>いた」(西四辻公堯『韓国外交秘話』)という。大臣たちに聞こえる程度の声
>でいった、という意味だろうか。
(9)伊藤のこの「余り駄々を捏ねる様だったら殺ってしまえ」というのは、
日本語で言ったのでしょうか?それとも韓国語で言ったのでしょうか?
(10)日本語で言ったとするならば、韓国大臣達ははその意味を理解したのでしょうか?
(11)それらをふまえて、伊藤のこの発言が「脅迫」に当たるかどうか、
よろしくお願いします。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=80
素直になろうね
投稿者: omegatribes (男性/杉並区) 2002/ 4/ 1 22:34メッセージ: 87 / 214
回答に値すると思われたところだけ答える。
>(1)1905年の韓国保護条約とは、おそらく(第二次)日韓協約のこと
だと思われますが、一人一人脅迫したというのは事実なのでしょうか?
軍隊が王宮に囲んだ状態で条約をサインさせたんですよ。それが脅迫でなくて何ですか?
>(3)このときの日本兵の行動は、韓国側と結ばれたなにがしかの条約に基
づいて行われたものなのでしょうか?それとも全く法的根拠を持たない
ものだったのでしょうか?
法的根拠なんてないよ。
>(4)また「日本兵が物情騒然とした市中を巡回し市民をおびやかした」と
いうことですが、この判断はどういった根拠に基づくものなのでしょうか?
彼らは前進し、背進し、攻撃演習を行って、城門を占拠し、大砲を配置し
て、実際の暴行こそなけれ、ありとあらゆることを行った。そして、日本は自
分たちの要求を強行することができるということを、韓国人に示威しようとし
たのである。(英国人記者、マッケンジー)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/hm039.html#No.268 >(5)『大韓季年史』は、きちんとした史料批判がなされたのもなのでしょうか?
そう思うのならば、根拠を出しなよ。
>(8)また、「窓に映る銃剣の影が大臣たちを戦慄させたことだろう」とは、全く
の推測にすぎないと思われますが、なにか根拠があってのことでしょうか?
命令次第ではいつでも王宮に突撃できるじゃん。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=87
349 :
卵の名無しさん:02/05/26 17:21 ID:5DOlZTS1
こんな事ばかりする社員がいるって
新しい板つくろっかな
350 :
卵の名無しさん:02/05/26 17:54 ID:g46Pei2B
>荒らし
止めろって
おまえのためにどれだけゾロスレッドがたくさん立ったことか考えたことあるのか?
ここもほかの掲示板でもすごく評判(もちろん悪い)になってるぜ
どうも臍がねじ曲がっておるようで−1 投稿者: chacha_insert 2002/ 4/ 2 0:16
メッセージ: 90 / 214
回答ありがとうございました。しかしながらポツリポツリと抜けてしまったことは残念でしたね。
>1)1905年の韓国保護条約とは、おそらく(第二次)日韓協約のこと
だと思われますが、一人一人脅迫したというのは事実なのでしょうか?
>軍隊が王宮に囲んだ状態で条約をサインさせたんですよ。それが脅迫でなくて何ですか?
なるほど。この質問に対する回答から考えて、日本による脅迫とは、伊藤が各大臣に賛否
を質したことではなく、日本軍が王宮を取り囲んだことを指すわけですね。しかし「軍隊
で取り囲んだ」という点だけでいうと、戦艦ミズーリに日本側代表団を呼びつけて、連合
国兵士が取り囲む状況の中で調印された降伏文書も脅迫になってしまいますよ?でもあれ
は日本側代表に対する脅迫ではありませんね。何故だかわかりますか?当然お気づきのこ
ととは存じますが、これは(3)の質問と対になっています。ですが
>3)このときの日本兵の行動は、韓国側と結ばれたなにがしかの条約に基
づいて行われたものなのでしょうか?それとも全く法的根拠を持たない
ものだったのでしょうか?
>法的根拠なんてないよ。
ぶぶー。不正解。これならば、日本軍が王宮を取り囲んだことを「脅迫」と思われるのも
宜なるかな、ですね。実は、この時の日本軍の行動は1904年の日韓議定書第4条に
基づくものです。ご存じだのこととは思いますけれども、日韓議定書の第4条には、韓国
皇室の安全のために日本は臨機応変の措置を取ることが出来るとされています。
このときの日本軍の展開は、京城市民が日韓協約の締結を実力で阻止する可能性を排除出
来なかったために、王宮を警護する(つまり韓国皇室を保護する)目的で展開されたもの
です。それに対して、市民はおびえたかもしれません。銃口は市民の反乱に向けられてい
たのですから。ところが、
>4)また「日本兵が物情騒然とした市中を巡回し市民をおびやかした」と
いうことですが、この判断はどういった根拠に基づくものなのでしょうか?
>(英国人記者、マッケンジー)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/hm039.html#No.268 このマッケンジーの観察はあくまで市民に対するものであって、韓国大臣に対するもので
はありませんね。つまり、京城市民が日本軍に怯えた事を立証することは出来るかもしれ
ませんが、韓国大臣が怯えたというには不充分なわけですし、まして、韓国大臣を脅迫し
たということには成り得ません。今のところは。半月城さんのところは、そのあたりの検
証をもう少し詳しくされておられたのでは?
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=90
352 :
卵の名無しさん:02/05/26 21:00 ID:IStsjIvF
これやってるのは社長だという噂を沢○のMRから聞いたことがあるが
どうも臍がねじ曲がっておるようで−2 投稿者: chacha_insert 2002/ 4/ 2 メッセージ: 91
>(5)『大韓季年史』は、きちんとした史料批判がなされたのもなのでしょうか?
>そう思うのならば、根拠を出しなよ。
この回答はよくわかりません。史料批判がなされたものであるか否かを質問したのに、(い
わばYESかNOかと問うているのに)「そう思うならば根拠を出しなよ」とはどういう
事なのでしょうか?どちらかといえば、omegatribes様のYESorNOとの回答に対して、
こちらが投げかけるセリフですね。よろしければ再度回答をお願いします。
また、『大韓季年史』の著者に関しての質問(6)(7)は「回答に値しない」ものと位
置づけられてしまいましたが、これは実に不可解です。というのも、史料というのは書き
手がいて、その書き手には思想の偏りや事実の隠蔽・歪曲などがなされてしまうものです。
無論、史料のすべてがそうであるとはいいませんが、『大韓季年史』の著者の素性をみて
みると、なんと独立協会に所属している人間です。普通、こういう人物が書いたものは疑
ってかかるものでは?
omegatribes様だって、黒龍会や杉山茂丸の書いたものを”素直”に受け入れられないでし
ょう?それと同じですよ。しかもomegatribes様は日本語訳されたものを提示してらっし
ゃいますよね?訳者は誰ですか?引用するなら、せめて著者の素性や訳者ぐらいは載せて
おいて下さいね。まぁ出典は海野さんの著書からですから、ある意味、omegatribes様では
回答することの出来ない質問だったかもしれませんね。ですが、この点は史料の取り扱い
という基本的かつ重要な点だと思われますので、再度質問させていただきます。omegatribes
様では責任をもって回答できない性質の質問であるならば、「俺に聞くな!海野に聞け!」
とでもご回答下さい。
(再5)『大韓季年史』は、きちんとした史料批判がなされたのもなのでしょうか?
(再6)というのも、この著者が独立協会の人間であるという時点で、かなりのバイ
アスがかかっていると思われますが、その点はいかがでしょうか?
(再7)そもそも、この著者自身は現場に居合わせた人物なのでしょうか?
(追加)omegatribes様は黒龍会編の『日韓合邦秘史』を”素直”に受け入れること
が出来ますか?受け入れられないとしたらそれはなぜですか?
>(8)また、「窓に映る銃剣の影が大臣たちを戦慄させたことだろう」とは、全く
の推測にすぎないと思われますが、なにか根拠があってのことでしょうか?
>命令次第ではいつでも王宮に突撃できるじゃん。
うまい回答ですね。「窓に映る銃剣の影が大臣たちを戦慄させたことだろう」との推測は、
海野さんの『韓国併合』をみてみると(以下引用)慶雲宮内も日本兵が満ちていた。『大
韓季年史』は「銃刀森列すること鉄桶の如く、内政府及び宮中、日兵亦た排立し、其の恐
喝の気勢、以て言に形し難し」と述べている。(引用おわり)が下地になっています。と
ころがその『大韓季年史』の史料としての価値、いうなれば「銃刀森列・・・」が事実なのかどうか。著者自身が現場にいたならまだわかりますが、
omegatribes様にその点をお伺いしても回答がない。
だから(5)〜(7)で質問したのですよ。その点をうまくご回答いただければ、モヤ
モヤしたものがスッキリ晴れそうなのですが・・・と、発破をかけつつ、omegatribes様か
らの回答を心待ちにしております。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=91−
>>352 >これやってるのは社長だという噂を沢○のMRから聞いたことがあるが
統領さまの弟子一門でしょう。
一般人が見て荒らしでも、彼らにとっては修行なのかも。
全然悪くありませんよ〜その1
投稿者: chacha_insert 2002/ 4/ 2 17:11メッセージ: 99 / 214
>ふーん、その時どんな騒乱があったのですか?
「対応」という表現を用いたのは適当でなかったかもしれませんね。ここで使用した
「対応」とは予防、騒乱を予め防ぐという意味です。メッセージ90,95でも申し上
げましたが、韓国皇室を内乱の危険から守るのは日本が法的に負った責任です。京城市
民が騒乱を起こし、場合によっては王宮に突入して皇帝を担ぎ出すという可能性が皆無
だったなら、わざわざ日本軍が警備に当たる必要はなかったでしょうが、現実にはその
可能性が排除できなかったのです。
蛇足ながら申し加えますと、現在の条約調印においても、要人警護という観点から調
印会場周辺の警備が行われるのは当然のことです。そのような警備上の責任を、第二次
日韓協約締結時の日本は負っていた、それだけの話なのですよ。
>>契約に至るまでの過程を無視し、かつ、ヤクザという悪印象を与える表現
>いいや契約に至る過程を無視しているのは貴方じゃないですか?江華島事件以来、日本政府は絶えず朝鮮を武力を用いて侵略をしていますよ。
第二次日韓協約以前の条約が、第二次日韓締結当時に法的に無効であったならomegatribes様の
おっしゃることもわかります。しかしそうではなく、「武力を用いて侵略」というよう
な曖昧な語彙を持ち出されては困ってしまいますね。大事なことは、第二次日韓協約以
前に日韓(朝)で結ばれた条約は、法的に有効なものだったかどうかですね。有効だと
するならば、それらに則った日本の行動は正当なものといわざるを得ません。日韓(朝)
間で合意形成されたものですから。極端な話、王宮を日本軍が警備のために取り囲むと
いう事態も、日韓議定書が締結された時点で予想できることなのですよ。それをこの場
になって「脅迫」であるというのは、如何にも事実から遊離したものではないか、と思
ってしまうのですよ。
>>この史料を引用している海野さんや半月城さんが「史料批判」を行ったのかどうか、
それを確認しているのですよ?
>資料批判をしない歴史家っていますか?
質問には的確にお答え下さい。私は、史料批判が行われたのか否かを質問しています。
にもかかわらず、質問に質問で返すのは、議論を混乱させるだけですよ。再度お伺いし
ます。この史料を引用している海野さんや半月城さんは『大韓季年史』の「史料批判」
を行われたのですか?そして可能なら、
>ある資料を検証する際には、何か別の資料や証言を参照する必要があるのです。
とのomegatribes様のお言葉通り、どのような史料や証言が参照されたか、ご存じの範囲
で結構ですからご教授下さいませ。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=99
>統領さまの弟子一門でしょう
業務命令とのことです。
全然悪くありませんよ〜その2
投稿者: chacha_insert 2002/ 4/ 2 17:12
メッセージ: 100 / 214
>>その違いはおわかりですか?おわかりなら、『朝鮮の悲劇』を『大韓季年史』の裏付け
として使用することは出来ないと思われますが・・・?
>韓国政府高官は精神的強圧下におかれたんでしょう。
なぜ『大韓季年史』の記述のこだわるかというと、その後の「窓に映る銃剣の影が大臣
たちを戦慄させたことだろう」という「日本による大臣個人に対する脅迫」論の下地とし
てなっているからです。しかし、ここには2つのあやふやな点があります。ひとつは、窓
の外に銃剣がちらついただけで「脅迫」に該当するのかどうか、ふたつめは、そもそも
『大韓季年史』の記述が事実であるかどうかです。ひとつめは、大臣個人の日記なり回想
なりで裏付けを取ることが出来るかもしれませんが、個人個人によって解釈が異なる類の
問題です。つまり、これを議論し出すと泥沼にはまりかねないのです。ですがふたつめの
方は、事実か否かという単純な問題を争うだけであるため、割合と議論がかみ合う類の問
題です。だから私は、『大韓季年史』の記述にこだわっているのです。ひとつめの問題を
論ずる場合や、「韓国政府高官は精神的強圧下におかれた」かどうかを判断するのは『大
韓季年史』の裏付けが取れてからの話です。
ですが、『朝鮮の悲劇』はあくまで京城市街の観察しか行われていないようですね?そ
れを『大韓季年史』にある王宮内の日本兵の描写の裏付けとするのは、やはり無理がある
ように思われますがいかがですか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(確認事項)
第一、この著者自身が王宮内にいたかどうかも分からない時点では、「其の恐喝の気勢、
以て言に形し難し」という『大韓季年史』の記述(訳者不明)を信じる気にはなれません。
というか、その場にいた韓国大臣の日記や何かは残っているのではないでしょうか?
>マッケンジー著「朝鮮の悲劇」で裏づけが取れているでしょう。
だから取れていませんってばっ。
>貴方は右翼的な史観もやだし、朝鮮人の史観もやだ。だから敢えてバランスを取る必要
がないのに、むりやりバランスを取っているんだけですね。
そう。結局いろんな情報があってわからんから、勉強されているあなたのような方にお
伺いしているわけですよ。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=100
産経新聞のインターネット版でこんな見出しをみかけた。
■英の学者ら「日韓併合不法論」支持せず
だそうな。見出しを見た時点でだいたい内容の見当がついてしまったが(ま、見出しの機
能って本来そういうもんだが) 、とりあえず記事を読んでみる。なんでも11月16日
と17日にアメリカのハーバード大学アジアセンター主催で国際学術会議が開かれてい
た。テーマは日本による韓国の併合(1910年)が合法か否かを論じるもので、韓国・
日本・アメリカ・イギリス・ドイツの学者が参加していた。同様の会議はこれまでハワイ
と東京で開催され、今回は三回目にして一応の「結論」を出す性格のものであったという。
「という」と僕も伝聞調で書くしかないのだが、この記事自体も会議の内容については「会
議参加者によると…という」という伝聞調になっていたりするんだけどね。
この記事によるとこの学術会議は韓国政府傘下の国際交流財団が財政的に支援し、韓国の
学者たちの主導で進められたものだという。その狙いはもちろん 「韓国併合は非合法な
ものだった」ということを国際舞台で「公認」してもらいたい、ということにあるという
わけだ。
ところがこの学術会議において、「第三者」的立場であるイギリスのケンブリッジ大学の
クロフォード教授 らが「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点
からその国を取り込むということは当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は不
法なものではなかった」 と「合法論」を述べ、「韓国側のもくろみは失敗に終わったと
いう」とこの記事は記している。なんだか鬼の首でもとったみたいに筆者が喜んでいるよ
うに見える記事なんだが、あんなに世界中植民地にしちゃった国の学者に「合法」と言っ
てもらって単純に喜ぶってのもな (まぁ「非合法」の国際的定説化をもくろんだ韓国の
思惑が外れただけでもこの人は喜ぶんだろうけど)。全部検証したことはないけど、帝国
主義時代の当時においてあらゆる地域の「植民地化」は全部「合法的手続き」の形式をと
っているものだ。韓国併合を「非合法」と認定したら欧米の各国は全て不法行為をやって
いたことになってしまう。この手の話は今年夏に南アフリカで開かれた「世界人種差別撤
廃会議」でも議題になってましたな。
さて、この学術会議に出席していた韓国の学者たちはもちろん全部「非合法論」を主張し
ていた。その根拠は「併合は強制的なものであり、また条約にも国王の署名がない」 と
いうものだったが、やはりイギリス側から「強制されたから不法というのは第一次大戦以
後のものだから当時としては問題になるとは言えない。また国王の署名についても国際法
上必ずしも必要ではない」 という見解が出されたという。まぁその調子で世界中植民地
にしたんだよね、この国は。
なお、問題の当事者である日本側からは五人の学者が参加し、「非合法説」と「合法だが
不当説」とが主張されたという。
学術会議の場からはちと離れて「韓国併合」に関して「史点」的にちょいと考えてみよう。
あくまで法律論議として「合法」「非合法」にこだわるなら、「合法」という結論になっ
ちゃうんじゃないかな、ってのが僕の感触だ。少なくとも外見上の「形式」としては法的
手続きを経ている。まさにそれは弱肉強食の帝国主義時代の「法」の上でのことだったわ
けだし (まぁ今だって「俺が法律だ」と勝手に暴れて全て「合法」にしちゃう国がある
けどね)。もちろんその行為じたいを正当化しているわけでは全くない。この会議でも出
された「非合法とも言えないが不当」説の立場になるのかな。
韓国の歴史教科書ってのを以前見たことがあるのだが、意外にも韓国併合についてはあっ
さりとしか触れていなかった (少し前のバージョンなので現在どうなってるかは未確
認)。むしろ重要視されているのは日本が大韓帝国の外交権を奪って「保護国」化した
「第二次日韓協約」(乙巳条約)を締結した際のことだ。このとき伊藤博文 をはじめと
する日本側は軍隊で宮殿を包囲し、反対しそうな韓国側大臣たちには監視をつけるなど有
無を言わせず条約締結を強制させている。この辺りの事情は当時の駐韓公使・ 林権助が
自慢げに回想録で書いていて、読んだ僕などは「三国志演義」の魏が漢から「簒奪」する
場面とソックリで驚いたものだ (「反対する大臣は殺ってしまえ」と言ったり国璽を強
制的に分捕ったりしている)。そしてこの条約に合意した大臣たちは「乙巳五賊」などと
呼ばれて韓国では長らく売国奴扱いされることになる。韓国にとっては「併合」はその延
長線上にあるものととらえているせいか、それともあまりに「国辱」なので触れたくない
のか (そういう心理もこの国の人は強いようだ)、併合については教科書では「やがて
国権を奪われた」と書いている程度であまり記述はしていない。このため「併合」が条約
という形式で行われたことを知らない韓国人も多いと聞く (日本人にいたっては併合そ
のものの歴史を知らない人が多そうだが)。ところで上の産経の記事でも、どうも併合の
話と保護国化の話がどっかでゴッチャになってる印象があるんだけど…。
この記事では直接的には触れてなかったが、よく韓国併合について「国際的に承認された
から合法なのだ」 と主張する意見がある。その承認したってのがまさに世界を植民地化
しまくっていた欧米諸国のことであるのは言うまでもない。べつに征服される側の承認を
受けたわけではないんだよな。
これについて僕が勉強してみた限りでは、「『併合』は各国の承認を受けた」と言うより
むしろ 「『併合』は各国が承認してくれたためようやく実現した」と見るほうが正確で
あるらしい。一見同じ事を言っているようだが、前者と後者では日本の主体性の度合いが
かなり違ってくる。実際のところ日本の政府内でも韓国を「保護国」にはしても「併合」
まではしなくていいんじゃないかという意見もそれなりに有力で、その意見の代表者が初
代韓国統監・伊藤博文だったりする。彼が併合に気が進まなかったのは何も韓国のためを
考えたというわけでもなく欧米諸国の反発を恐れてのことだったようだ (日清・日露戦
争で一貫して「韓国の独立」を主張していただけに道義的にも問題があるし)。結果的に
「併合」となったのはその伊藤の保護政策が義兵闘争などの韓国側の激しい抵抗を受けて
行き詰まったこと、日露戦争後の満州と中国大陸をめぐるロシア・アメリカ・イギリスな
どの思惑が入り乱れる国際情勢を背景に、勢力均衡の論理から列国が日本の韓国領有を認
めることになったと見た方がいいようだ。日韓関係だけで併合問題を考えると実像をとら
えにくいということは肝に銘じておいた方がいい。
「合法」「非合法」の話だが、当時における「法」とは何だったのかが問題になる。あえ
て言うなら当時における国際法としては、あの 坂本龍馬も懐に入れていたと言われる「万
国公法」がある。もちろんそれは実際には欧米諸国の間でのみ通用するものだったのだが、
アジア諸国においてこれの翻訳が出回り、知識人層に受け入れられたのも事実だ。
ただ当時の韓国の国王・大臣や知識人層の言動を見ていると、これを額面どおり信じすぎ
たな、という印象を強く受ける。例えば日露戦争が勃発したとき韓国は中立を宣言し、も
しも日本なりロシアが韓国を戦争に巻き込もうとしたら「万国公法」によって諸国がそれ
を阻止してくれると信じていた (もちろん開戦後すぐに日本が韓国に戦争協力を強制し
た)。さらに当時の韓国皇帝・高宗 がオランダのハーグで開かれた万国平和会議に密使
を送り日本の不当を訴えた事件があるが(ハーグ密使事件) 、これも諸国が「万国公法」
にのっとって日本の横暴を阻止してくれると信じていたわけで(もちろん完璧に無視され
てしまった) 。
これが当時における「法」の実態だった。あえて言ってしまえば当時の韓国の政治家たち
はいささか馬鹿正直な「甘ちゃん」であったにすぎない。しかしその「甘ちゃん」に付け
入ってお家乗っ取りをしたような国々にはもっと感心しませんがね。
http://www4.airnet.ne.jp/otto/sitenlog/news011215.html
経済からみた台湾・朝鮮統治。
投稿者: penguin_nitarinov (8歳/男性/南氷洋) 2002/ 4/10 21:37メッセージ: 148 / 214
「両地域が日本植民地として「成熟」期をむかえ、かつ大1次世界大戦ブームの終結した
1920年(対象9)年前後において、台湾の127円(GDE=国民所得)に対し朝鮮
の103円と実に25円ちかい大幅な初期格差が見られる。(中略)1930年代末にお
いて、台湾の165円に対し朝鮮の107円と、両地域の1人当りの国民所得格差は大き
く乖離して、第二次世界大戦期にはいったのである。
(名古屋大学出版会刊 日本の植民地経済研究 山本有造著)
因みに、P156ページの台湾・朝鮮1陣当り実質GDEの推移図では、1934年に格
差は最大となり、台湾150円、朝鮮、僅か90円となる。
台湾の安定的繁栄は、特産品である砂糖栽培で、台湾総督府が柔軟な「糖米相剋」政策=
砂糖、米を台湾農民に選択的に栽培させる機会の拡大があったが、朝鮮では「米増産計画」
により、選択権が無く、常に日本国内米との市場競合関係に曝され、不安定な相場に苦し
んだ結果であろう。
つまり、台湾は日本統治の恩恵がそれなりにあっただろうが、朝鮮では恩恵よりも弊害が
大きく、朝鮮民族の困窮と零落が目立つ結果に終わっている。こうした背景が台湾と韓国
の植民地支配に対する感情のズレに表れているのかもしれない。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=148
363 :
卵の名無しさん:02/05/27 11:03 ID:wrRpWzko
>>357 >業務命令とのことです。
弟子の皆様方にとっては、統領さまの御宣択。
仮の話としても、
投稿者: penguin_nitarinov (8歳/男性/南氷洋) 2002/ 4/11 1:05
メッセージ: 151 / 214
>ただ思うのは、仮に現代の台湾の人口2000万人に対して韓国・朝鮮の人口6000
万人の人口比1:3を当時にも適用すれば、朝鮮への一人当たりの投資額が台湾のそれを
下回るだろうことは明白です。
前提がいい加減すぎませんか?
植民地当時の朝鮮は、高々2000万人弱。
台湾は、どれぐらいか知りませんがね。
それはそうと、日本政府は、台湾の投資に力を入れていた様です。
・・・・・・・
『朝鮮における「産米増殖計画」にあっても灌漑改善が主要な目的とされたが、その成果
は台湾において格段に顕著であった。その理由を政府支出に限っていえば、朝鮮の場合の
背策が主に水利組合を通じての低利資金の貸付にとどまったのに対し、台湾にあっては政
府直営工事と農民への政府補助金の組み合わせにあったと要約できよう。そしてのこ方式
の「成功」については、農民側の積極的な反応と同時に、政府側の潤沢な資金供給の原因
についても考えなければならない。』P162
・・・・・・・
因みに、朝鮮からは、満州に200万人、ソ連に50万人、日本に100万人以上に上る
生活苦を理由とした大量の移民があったそうですが、台湾では大規模な移民は、聞いたこ
とがありません。
人口の2割に達する人口流失は、19世紀のジャガイモ飢饉時のアイルランドに並ぶ困窮
状態だったのではないでしょうか?
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=151
368 :
卵の名無しさん:02/05/27 19:07 ID:wrRpWzko
370 :
卵の名無しさん:02/05/27 19:17 ID:wrRpWzko
国民所得の差
投稿者: nash_824 2002/ 4/21 23:22
メッセージ: 200 / 214
昔から現在に至るまで、台湾の方が韓国より所得が高いですよね。
ところで、朝鮮独立以後の方が、日本との経済格差が開いたとするのが一般的認識です。
北鮮も含めれば圧倒的に差が開く。
ありがとうございます。
投稿者: gerura21 (29歳/男性/神奈川県横浜市) 2002/ 4/21 17:15
メッセージ: 199 / 214
7509人という数字は良く出てきますね。
しかし、7509人というのは膨大な数字ですね。十分「虐殺」という言葉に匹敵するので
はないでしょうか?だとすれば、韓国の教科書修正要求でまっ先に挙ってきたり、「3/
1虐殺」謝罪キャンペーンが有っても良いようにも思いますけどね。。。そこが疑問です。
体16分割ってのは、金玉均の末路と一緒で完全に朝鮮式の罪人の曝し方ですね。日本人
の伝統ではない。(日本人なら曝し首だが、明治維新後は全くない)これは間違いなく完
全に大嘘でしょう。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffc4zjbb9ga4nc0a7hs&sid=1835208&mid=199
373 :
卵の名無しさん:02/05/27 19:37 ID:gTp3myPF
噂を聞いてここにきましたが、なんともはや・・・・
374 :
卵の名無しさん:02/05/27 19:46 ID:wrRpWzko
昭和4年 大阪市旭区に澤井範平、乃よ(薬剤師)が沢井製薬の前身、澤井薬局を創業。
昭和23年 大阪市旭区に澤井製薬株式会社(現 沢井製薬株式会社)を資本金195千円で設立。
昭和36年 本社工場に一般薬の生産ラインを設置。
昭和37年 ニンニクエキスの製法特許を取得し、ニンニクエキス入りビタミン剤「ヨロンP」「アリアロン」発売。医療用にも進出。
昭和40年 一般用医薬品メーカーから医療用医薬品メーカーへシフト。
昭和43年 大阪第2工場(現 大阪工場)完成。
昭和47年 製造から販売に至るまでの物流整備を行う目的で発送センター設立。
昭和49年 本社社屋完成、現住所に移転。
昭和53年 澤井治郎、代表取締役社長、澤井弘行、代表取締役専務に就任。
昭和54年 商号を沢井製薬株式会社に変更。
昭和56年 九州工場第1期工事(抗生物質製剤製造設備)完成。
昭和58年 九州工場第2期工事(一般製剤及びシロップ剤製造設備)完成。
昭和59年 研究設備の増設と充実を目的として大阪研究所開設。
昭和60年 メディサ新薬株式会社設立。
九州工場第3期工事(注射剤製造設備)完成。
昭和63年 メディサ新薬九州工場第1期工事完成。
澤井治郎、代表取締役会長、澤井弘行、代表取締役社長に就任。
平成元年 九州工場第4期工事(注射剤製造設備増設他)完成。
平成2年 研究開発部門拡大を目的として研究開発センター新設。
平成3年 発送センターを分離独立して、全額出資子会社、株式会社アクティブワークを設立。メディサ新薬株式会社を子会社化。
平成4年 メディサ新薬九州工場第2期工事完成。
三田工場第1期工事(一般製剤製造設備)完成。
平成6年 製剤研究の充実を目的として製剤研究センターを開設。
平成7年 株式店頭登録。
平成9年 全国紙に全面カラー広告掲載。
メディサ新薬九州工場第4〜5期工事完成。
沢井製薬主催医療経営セミナーを全国で開催。
平成11年 創業70周年記念で、全国紙に全面カラー広告掲載。
平成12年 九州工場注射剤製造設備増設。
東京証券取引所市場第二部上場。
平成13年 メディサ新薬九州工場ISO9002認証取得。
統領さま、御自嘲を。
歪曲されている、朝鮮戦争の“歴史”
投稿者: Mishi_Mishi_01 (57歳/統一モンゴル) 2001/ 8/10 23:12メッセージ: 205 / 528
まず最初に、誤解のないように断っておくが、今回の騒動の発端となった『新しい歴史教
科書』については、私自身、どうにも胡散臭いものを感じている。報道されている前後の
事情を勘案すると、この教科書の製作者達にとっては、子供達に正しい歴史を教えたい、
という情熱よりも、それを口実に政治や外交に揺さぶりをかけようという狙いの方が、重
要なようだ。こういう企みに、教育が道具として使われるのは、あまり感心しない。
しかし、しかしだ、その教科書に対して、『歴史の事実を歪曲するな』と抗議しているの
が中国と韓国である、という事実に私は唖然としてしまう。いったいこれは、何かの冗談
ではないのか?日本の教科書に抗議をするよりも先に、この二国はお互い同士の間で、対
立している歴史認識について、まず“歪曲”を正すべきだろう。
言うまでも無い。1950年に勃発した朝鮮戦争に関する記述だ。この闘いは、韓国の教科
書では『北の南進・先制攻撃によって始まった。』と記述されている。反対に中国の教科
書は、『アメリカとその傀儡政府が、北朝鮮を侵略した。』と書かれている。
全く、正反対の内容(!)だ。どちらかが事実を“歪曲”していなければ、こんなことに
はならない。いったい嘘をついているのは、韓国なのか、中国なのか。
もし韓国の教科書の方が正しいのだとすれば、中国政府は日本の教科書を追求しているど
ころではない。今すぐにでも韓国に謝罪と反省を示し、遅れていた戦後補償について、話
し合いをはじめる必要があるだろう。しかる後に歴史教科書についても、もちろん記述を
改め、ついでに個人補償の方も忘れないようにしたほうが良い。
逆に、中国の主張が事実なのだとしたら、中国政府は韓国に対して、謝罪と反省を要求す
るべきだろう。何せ韓国の教科書の中では、中国の人民志願軍は“侵略者の一味”として
描かれているのだ。これでは、あの戦争で長男を戦死させた毛沢東や、敵の銃弾を我が身
で阻んだ黄継光烈士に申し訳が立つまい。いったい彼等は、人民の模範なのか? それと
も血に飢えた侵略者だったのか?
幸いにも両国は、『歴史の歪曲は許さない!』という認識では一致しているようだから、
今すぐにでもこの作業は始められる筈だ。いったい中国と韓国の間で、朝鮮戦争について
どのような“歴史の共通認識”が持てるのか、これは非常に興味深い。
あれだけ“歴史の歪曲”を憎む国の事だ、徹底して事実を暴き出してくれるのだろう。ま
ず両国は、かつて戦火を交えた国同士でも、共通した歴史認識が持てるのだ、という事を
実証して見せるべきではないのか? はたして彼等に、『それができる』というのならば、
だが……。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=nrbbk652jbdqldbja4ka4da4a4a4fa4ia4a6bbwa4a4a4dea49a4aba1a9&sid=1835396&mid=205
朝鮮は中国の属国だった
投稿者: kurukuruchoki (137歳/男性/礫川) 2001/ 8/11 11:32 メッセージ: 213 / 528
先達の朝日新聞の社説が扶桑社本について「事実でない糸が混ざっています。 例えば、
昭和天皇は第124代、と記述されています。 実在しない天皇も含めた数字です」と書
いたことに対し、産経新聞の社説で、「朝日新聞社発行の朝日人物事典でも、昭和天皇を
「第124代天皇」と書かれている。 実在しない天皇がいたとしても、昭和天皇を第百
二十四代天皇と記述するのは常識」と指摘されて失笑を買った。
一方、韓国政府は「新しい歴史教科書」にある「朝鮮は中国の支配下にあったが、日本は
早くから中華秩序の外にあり中国支配から自由だった」とする点に、「過去の朝鮮と中国
に関係を「服属」とする記述は誤り」と噛み付いてきたが、韓国の専門学者を動員してか
かれた「韓国史大事典」には朝鮮が中国に従属していた事実を明確にしていた。
韓国の歴史事典で朝鮮は中国に「服属」し「属国」だったとの記述をしていたことを鑑み
れば、「新しい歴史教科書」の記述はとくに問題ないことになる。 日本を攻撃するため
に、このなり振り構わない一貫性のなさは何を意図するのか。
-------------------------------------------------------------------
韓国政府は日本の中学歴史教科書について「歪曲」として三十五項目の修正要求を日本政
府に突き付け、その中で過去の朝鮮と中国の関係を「服属」とした記述を誤りとしている
が、韓国で発行されている歴史事典は「属国」あるいは「従属」と記述していることが明
らかになった。
これは韓国で最も権威がある「韓国史大事典」(柳洪烈監修、一九九六年・高麗出版社刊、
千八百十九n)に記載されているもので、朝鮮王朝(李朝)と中国(明)の関係について
は「朝鮮」という国号を明に選んでもらったことを指摘した後、さらに「従属の象徴とし
て明の年号を使った」と説明している。
また後の清についても「宗主国」とし、日清戦争(一八九四−九五年)で清が破れた結果
として「朝鮮が完全な独立国であると確認するにいたり、政治的な従属関係はなくなった」
と解説している。 また日清戦争後、国号を朝鮮から「大韓帝国」に変えた経緯について
も「清の属国から脱して独立し帝国として発展すると言う意味」あったと説明している。
《産経新聞 ソウル10日=黒田勝弘》
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=nrbbk652jbdqldbja4ka4da4a4a4fa4ia4a6bbwa4a4a4dea49a4aba1a9&sid=1835396&mid=213
JOG-MacNo.201韓国の歴史教科書拝見
-----JapanOntheGlobe(201)国際派日本人養成講座----------
_/_/
_/CommonSense:韓国の歴史教科書拝見
_/_/
_/_/_/_/「朝鮮は中国の属国ではなかった」とする韓国
_/_/_/の歴史教科書にもの申す。
-----H13.08.05----34,878Copies----293,039HomepageView----
■1.韓国による歴史教科書修正要求は内政干渉か?■
「朝鮮を中国の『服属国』として表現したものは削除必要」
韓国はこのような修正要求を35項目、文部科学省の検定を
終えたわが国の中学歴史教科書に対して、本年5月7日に突き
つけてきた。これは扶桑社の「新しい歴史教科書」だけでなく、
他の7社のすべてを含んでいる。ついで、中国も5月16日に
「新しい歴史教科書」に8項目の修正要求を行った。
これに対して日本の世論は「不当な内政干渉」だ、という声
が圧倒的であった。5月25日にテレビ朝日で放映された「朝
まで生テレビ」の視聴者からの電話アンケートでは、有効回答
数598件中、「明らかな内政干渉である」とする回答(28
6件)が、「要求されて当然だ」とする回答(117件)の2
倍以上であった。
検定途中に扶桑社版の不合格工作を元・外交官が行ったり、
田中外相が「事実をねじ曲げていることを承知の上でつくった
教科書を合格とするような検定制度は問題だ」と発言したりと、
あいかわらず国籍不明の外務省は別にして、文部科学省、およ
び、首相官邸の対応はおおむね毅然としたものであった。
遠山敦子・文部科学相は、韓国の修正要求の翌日、「検定制
度上、明白な誤りがない以上、合格後に修正を行うことはでき
ない」と述べ、小泉首相も森前首相以来の干渉拒否の姿勢を支
持した。
■2.民対民で国際ディベートを■
事実上のゼロ回答に、韓国政府は次々の報復措置を打ち出し
た。来年のサッカー・ワールドカップまでに行う予定であった
日本の歌謡曲のCD販売や娯楽番組のテレビ放映の規制解除の
中断(これは陰で韓国の国内産業の保護という見方もあるが)、
小、中、高等学校の相互訪問中止、8月末に南アフリカで開か
れる世界人種差別撤廃会議での問題提起、等々。
日本政府はこれらについては静観しているが、民間では韓国
内の反日感情の高まりを危惧して、日本からの観光客が7月に
は急減したという。さすがに韓国でも「学生交流までやめさせ
る必要はあるのか」との冷静な声も出てきた。
韓国政府が日本の民間が書いた歴史教科書を修正させろと日
本政府に要求することは、内政干渉であり、かつ言論の自由を
侵すものとして拒否したのは正しい態度であるが、韓国側の要
求内容が妥当なものかどうかを批判するのは、わが国の民間の
役割だろう。
日韓の民間同志で、相互の歴史観をぶつけあうことは、許さ
れることでもあるし、また意味があると考える。これは一種の
国際ディベートとして、相互の歴史観を鍛える機会ともなろう。
■3.朝鮮は服属国であったか?■
本号では、その練習として、「韓国は中国の服属国であった
か」という点に絞って、韓国側の修正要求と歴史教科書記述に
対して、本講座なりの考察を加えてみたい。この点をどう見る
かで、明治期の日韓関係の見方が大きく変わってしまうからで
ある。
韓国の修正要求は、東京書籍、教育出版、帝国書院、日本文
教出版の「征韓論」の部分で、
中国の属国として位置づけられていた朝鮮は、・・・日
本との国交を断った。
とある表現に対して、「当時の朝貢関係につき説明せずに、朝
鮮を中国の属国として表現している」という検討意見をつけて
いる。
扶桑社版にも同様に、「中国の服属国であった朝鮮も」とい
う表現に対して、「朝鮮を中国の『服属国』として表現したも
のは削除必要」とクレームをつけた。扶桑社側は、これを「強
い影響下にあった」と自主修正した。
■4.国号を決めてもらうのが「親善関係」?■
韓国側は教科書でも朝鮮が中国に対して服属国であったこと
を絶対に認めない。まず李氏朝鮮の成立にあたって、
新王朝は、国号を朝鮮と定めた。「朝鮮」は、すなわち
古朝鮮の伝統を受け継ぐという意味で、壇君(JOG注:朝
鮮の開国神話で、天命によって降臨した、古朝鮮の開祖)
に民族の独自性を求めるという意味が含まれている。
と述べるが、国号を朝鮮自身で定めたというのは、歴史事実
ではない。「朝鮮王朝実録」には、太祖・李成桂は使いを明に
送って、国号として「朝鮮」と「和寧」という二つのうちのど
ちらかを採択することを請い、「朝鮮」を選んでもらったので
ある。
中国皇帝が地方の諸侯に封禄・爵位を授ける事を「册封」と
言うが、転じて、周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて、
擬似的な君臣関係を結ぶシステムを「册封体制」(または華夷
秩序、中華秩序)と呼ぶ。朝鮮王も、中国皇帝の柵封を受けて、
初めて朝鮮の国王として認められた。だから、国号でさえ自分
では決められないのである。
朝鮮王朝は、外は明と親善関係を維持して国家の安定を
はかり、女真や日本に対しては交隣政策をとって国際的な
平和を維持した。
国号まで決めて貰う宗主国との関係を対等であるかのような
「親善関係」と記述するのは、相当に無理がある。
明との外交は朝鮮側がより積極的であった。朝鮮は朝貢
を通じて明の名分を立ててやり、使臣の往来を通して経済
的・文化的実利を得た。しかし後にはいきすぎた親明政策
に流れる傾向があらわれた。
宗主国に対して定期的に貢ぎ物を送る「朝貢」も、柵封体制
の特徴の一つである。これを「明の名分を立ててやり」とは、
中国が読んだら、怒って修正要求を出すのではないか?
■5.清国への「君臣の礼」■
明との主従関係は、女真族から起こった清朝にも引き継がれ
た。
後金は勢力を強め、国の名称を清とかえ、朝鮮王朝に対
しては君臣の礼を要求して再び侵入し、漢陽を占領した。
そのため仁祖は臣下とともに南漢山城に移り、45日間
抗戦したが、ついに清の要求を受け入れて講和を結んだ。
この戦争を丙子胡乱という(1636)。
「講和」の結果、清は王子一族をはじめ、3公6卿とその家
族数百人を人質にし、民衆50万人を北方に連行した。その後
1636年から1881年までの244年間に、朝鮮から清へ
の朝貢使は500回以上に及んだ。また清の勅使を迎えるたび
に、朝鮮国王は漢城郊外の迎恩門に至り、土下座して恭しく勅
使を迎えた後、慕華館で勅使の接待をすることを余儀なくされ
ていた。「君臣の礼」とは、このように過酷なものであった。
■6.日本からの無礼・傲慢な国書■
1868(明治元)年、12月19日、日本の新政府の樹立を通告
する国書を携えた使節が釜山浦にやってきた。しかし国王高宗
の父・大院君が実権を握る李朝政府は国書の受取りを拒否した。
その第一の理由として挙げられていたのが、日本からの国書
に「皇上」「奉勅」の文字が使われていたことであった。朝鮮
から見れば、「皇」は中国皇帝にのみ許される称号であり、
「勅」は中国皇帝の詔勅を意味した。朝鮮王は中国皇帝の臣下
であり、このような傲慢かつ無礼な国書を受け取ることはでき
ない、というのが、朝鮮の考えであった。
そのような国書を勝手に受け取ったら、宗主国・清国からど
のような懲罰が下るかもしれぬ、という恐怖感もあったであろ
う。日本の新政府は、その後もたびたび使節を送って交渉を続
けたが、朝鮮側の受け取り拒否は変わらなかった。この時の事
情を、韓国教科書は次のように記述する。
日本は明治維新以降、新しい国家体制を築き、勢力を広
げようと交渉を要請してきたが、朝鮮政府はこれを拒否し
た。これは、日本と修交すれば、西洋の侵略が後に続くと
見なしたためであった。
国書を拒否した第一の理由は伏せられたままである。
■7.「朝鮮国は自主の邦にして日本と平等の権を保有せり」■
ひたひたとアジアに押し寄せてくる欧米勢力から、国家の独
立を守るには、内に近代的な国民国家を作り上げ、外に開国し
て早急に近代的経済力・軍事力を身につける必要がある。そう
した危機感をもとに維新を敢行した明治日本の指導者から見れ
ば、古代からの柵封体制から一歩も出ない李朝朝鮮の姿勢は、
火事が迫っているのにも気がつかずに惰眠を貪る老人のように
見えたであろう。
業を煮やした明治政府は、軍艦を派遣して、李朝政府を威圧
し、日朝修好条約(江華島条約)を結ばせた。条文の第一条は
「朝鮮国は自主の邦にして日本と平等の権を保有せり」と始ま
り、朝鮮を清国の柵封体制から独立させようという意図は明白
であった。このあたりを韓国の歴史教科書はこう記述する。
江華島条約は、わが国最初の近代的条約であったが、治
外法権の認定など朝鮮に不利な条約であった。これをきっ
かけにして釜山、元山、仁川の3港を開港し、日本はソウ
ルに公使館を設置し、朝鮮に大きく勢力を浸透させはじめ
た。
たしかに日本の手口はペリーと同じ砲艦外交であり、西郷隆
盛が「天理に於いて恥ずべき所為」と憤ったほどであるが、朝
鮮を冒頭で「自主の邦」と宣言した事については、韓国教科書
では何も触れられていない。
■8.清国軍のソウル制圧と朝鮮属国化■
この条約によって朝鮮は開国し、留学生や使節団をさかんに
日本に送って、近代化への努力を始める。しかしその後、近代
化政策に不満を持つ勢力や、役人の腐敗に不満を抱く民衆によ
る暴動が発生する。日本人軍事教官など数名が暴徒に殺害され、
日本公使館も襲われて、公使らは命からがら脱出した。
高宗の皇后閔妃(びんひ)はこれを失脚していた大院君の策
謀として、清国に暴動平定のための派兵を要請した。清国軍は
3千の兵力と、3隻の軍艦で反乱を制圧し、大院君を清国軍艦
で天津に強制連行してしまう。日本側も居留民保護にために、
1500人規模の出兵を行った。
この壬午(じんご)軍乱(1882)の後、清国は対朝鮮干渉を強
化し、ソウルを軍事制圧下に置き、清国朝鮮商民水陸貿易章程
を結んだ。これは朝鮮を清国の属国であると明記し、宗主国と
して貿易上の特権を独占することを規定していた。これにより、
朝鮮を「自主独立の邦」とした日朝修好条約は名ばかりのもの
になってしまった。
わが国の農民たちは、日本の経済的侵略に強い反感をも
つようになり、しだいに日本を排斥する機運が広がってい
った。・・・
壬午軍乱後、朝鮮は清の内政干渉を受けるようになり、
政権についた閔氏勢力は開化政策に消極的になり、近代的
改革をきちんと進められなくなった。
治外法権はあったにせよ、朝鮮を「自主独立の邦」として交
易を求めた日本を「経済的侵略」とし、清国の軍事制圧や貿易
特権の独占を「内政干渉」と言うのは、あまりにバランスを欠
いた記述ではないか。
■9.日清・日露への道■
この後も、日本の支援を受けて近代化と独立を押し進めよう
とする若手官僚を中心とする「開化党」と、清国の軍事力で国
内を抑えようとする閔氏勢力の争いが続く。それが日清戦争に
まで発展するのだが、日本の勝利後、清国と結ばれた下関条約
の第一条で、朝鮮を「自主独立の国」と規定した。朝鮮はよう
やく清国の柵封体制から独立しえたのである。
清日戦争の結果、下関条約が結ばれた。この条約で日本
は遼東半島と台湾を手に入れた。
と、韓国の歴史教科書は、ここでもこの第一条の意義を伏せ
ている。日本がロシア、フランス、ドイツによる三国干渉で、
遼東半島を放棄すると、閔氏勢力は今度はロシアに接近してい
く。これがさらに日露戦争の原因となっていくのである。
387 :
卵の名無しさん:02/05/27 22:30 ID:BsUp6Nw+
もはや狂気だな・・・この人
瀋陽事件:これこそが本当の真実です
若生疆雄H14.05.205,475部
JOGWingNo.510
*弱腰の日本
とにかく驚いた。瀋陽の日本総領事館に駆け込んだ北朝鮮家
族の亡命事件を巡る外務省の「事実調査」の後に新たな事実が
次々に出てくる。それも、中国側が出して日本側が渋々認める
パターンで、これでは「日本側と中国側のどちらを信じるんで
すか」と首相や官房長官に気色ばまれても、素直に「日本側で
す」とは、とても言えない。「中国側です」と言わないだけ有
り難いと思ってもらいたいくらい。
驚いたのはそれだけではない。私はできる限り固定観念を排
除して客観的に物事を見るようにしているのだけれど、主権国
家に「主権」の意識がないことにまでは考えが及ばず、我が政
府/我が外務省/我が官僚には当然主権意識があるとの「固定
観念」に囚われていたので前のメールのような的外れの推理に
なってしまった。しかしながら、彼らに主権意識など全くない
ことが分かった今は政府の真実/外務省の真実/官僚の真実が
よく見える。特に、阿南在北京大使の発言が漏れ伝えられた後
は。
阿南大使は事件の当日5月8日の午前中に大使館の定例会議で
次のような発言をした:「(北朝鮮からの)亡命者が日本大使
館に入ってきた場合は不審者とみなして押し戻せ。人道問題に
なれば私が責任を取る」と。
その4時間後にまさに彼の言った通りの人道問題が発生した
にも拘らず、政府には大使の責任追及の動きがなく、動きがな
いどころか、逆に、与党からまで噴出する更迭要求からなんと
か彼を守ろうと必死。普通なら、こんなとんでもない発言が出
たら即座に首のはず。それが、まるで逆の対応とは不可解極ま
りない。
そもそも事件発生時の政府の対応にしてからがおかしかった。
小泉首相は当日の夜「外国のことでもあるし、その国の事情が
あるから。よく調査して冷静に慎重にやりなさいと言ってあ
る」と、いかにも中国に配慮した発言をした。そして、その後
決定的なビデオの映像から中国警官が無断で総領事館内に入っ
た主権侵害が明らかになったにも拘らず「抗議」や「陳謝」の
要求が遅れ、どこか腰が引けていた。ここまで主権国家の主権
をないがしろにされたら、他の国なら即大使の引き揚げだ。
*小泉首相の意向
この日本の弱腰外交と阿南大使の発言から浮かび上がるもの。
それは大使の発言が彼個人の考えを越えて、外務省/政府のそ
れに基づくもの。すなわち、日本国の方針を受けてのものだと
いうことであり、瀋陽の総領事館もその指示を忠実に実行した
に過ぎない。だから中国に「抗議」以上の強硬な措置を取れな
いし、在北京大使の責任追及もできないのである。もっとはっ
きり、歯に衣着せずに言えば、この事件の背景には小泉首相の
意向が強く働いている。その根拠はこうだ。
今回の事件で外務省の「チャイナスクール」が悪者にされて
いる。「チャイナスクール」とは中国語を話し、中国外交に特
化した外交官の集団である。彼らは中国に入れ込む余り、全て
において中国寄りの見方をし、中国一辺倒になって、日本より
も中国のために働いているのではないかと保守派から批判され
る人達だ。そのチャイナスクールのトップである阿南大使であ
ってみれば、あのような発言も頷けるというわけなのだ。しか
しながら、それは誤りだ。
確かに亡命者は厄介な存在で、中国べったりの日本大使であ
ってみれば、あの発言は彼の本音であるかもしれない。しかし
ながら、外交官はプロトコルとまでは言わないが、慣例や国際
慣行を重んじる。そして、北朝鮮の亡命希望者が各国の公館に
駆け込む事件が続いたことで、彼らの対処法は、身元を明かさ
ないまま第三国に出国させて韓国へ送るとの方式ができた。つ
まり、北朝鮮亡命者の扱いにおける国際方式が既に確立されて
いる。
だとすれば、「右へならえ」が大好きな日本人である日本の
外交官がこれに従わないわけがない。確かに亡命者の駆け込み
は事件だが、もはやルーチン化された手続きであってみれば、
中国が文句を言うはずもなく、それで対処して何の不都合もな
い。何の不都合もない国際方式/国際慣行を敢えて排除してま
で「亡命者を不審者とみなして追い出せ」と大使が言うからに
は上からの特別な指示があったと見るのが自然だ。そして、そ
の「上から」が小泉首相であったことに疑念を挟む余地はない。
すなわち、今回の総領事館の不手際は去年の8月13日の靖国参
拝で中国に大きな借りができて以来続けてきた首相の中国に対
する土下座外交の一環だったというのが真相なのである。
小泉首相は今年も先月靖国神社に参拝して中国の怒りを買っ
た。「終戦の日だろうと例大祭だろうと同じこと。戦犯を祀っ
た靖国神社への首相の参拝は絶対に認められない」と怒る中国
に対して、「A級戦犯に参ったわけではない」と「見解の相
違」を主張した首相であるが、問題は、その主張が国内向けで
あって、中国と韓国に対してはただひたすら謝っていることだ。
小泉純一郎ほど内弁慶な政治家もいない。内では強気、外には
這いつくばる。
アメリカに対する「這いつくばり外交」はアフガン戦争への
協力や有事法制でよく知られる(この件に関する国民の意識が
低い以上、これは仕方がないと私自身は考えている)が、実は
中国や韓国にも同じことで、靖国参拝や教科書問題でトラブり、
一見対立しているから見えにくいだけ。彼は自分の面子のため
だけに靖国に参拝し、その後で埋め合わせを懸命にやっている。
彼の尻拭いのために外務官僚はどれだけ土下座させられたこと
か。中韓両国に散々謝り譲歩し、謝罪行脚をさせられたのは記
憶に新しい。有力国の要人が誰も出ない海南島での会議に出席
したのもそう。あの時は小泉さんが中国に協力して「貸しを作
った」から不審船の引き揚げにOKをもらえるのではないかと期
待する向きがマスコミにあったが何の見返りもなく、逆に、中
国に対する首相の立場がどれほど弱いかを浮き彫りにした。
そして「亡命者が日本大使館に入ってきた場合は不審者とみ
なして押し戻せ」もこの延長線上にあり、中国国内に30万人も
いると言われる脱北者問題で、友好国の北朝鮮と世界との板挟
みにある中国のために「少しでもお役に立ちたい」と考えての
阿南大使(=小泉首相)の指示だったのである。だから事件当
日の夜「外国のことでもあるし、その国の事情があるから。よ
く調査して冷静に慎重にやりなさい」とインタビューに答えた
時の首相には「計算通り」の余裕があった。
*狂ったシナリオ
総領事館に入った亡命者を引き渡しながらも、国内向け/国
際向けには館外で起きた出来事で済ます(最初の発表がその通
りになっている)。そうやって事件を揉み消してやれば、他国
の公館ではありえないから、中国に喜んでもらえる−はずだっ
た。すなわち、「その国の事情があるから、よく調査して冷静
に慎重にやりなさいと言ってある」は中国に対する気配りを発
信するメッセージだったのである。
要するに、靖国問題で国内向けには「見解の相違」などと言
いながら、中韓には謝り譲歩し這いつくばるのと同じ構図であ
り、いかにも主権意識が高いような顔をしていながら、裏では
主権も人権も棚上げして中国に這いつくばるシナリオだったの
だ。そして、亡命事件が起き、総領事館では全てがシナリオ通
りにスムーズに進められた。
ところが、このシナリオは意外なところから崩れる。すなわ
ち、事件の一部始終が亡命家族を支援するNGOのお膳立てでビ
デオに撮られて世界に配信されたから、さあ大変。国家主権が
掛かった外交問題になってしまい、「愛国者・小泉純一郎」と
しては引くに引けなくなった。
事件の翌日、亡命の情報が事前に日本側に伝えられていたか
どうかとの質問に首相は「よく写真撮ってあったね。しかし私
は聞いてません」と答えている。しかしながら、この件に関わ
った日本のジャーナリストが「伝えた」と明言しているから、
「亡命者が来るかもしれない」ことは知っていたはず。だから
こそ小泉さんの指示で「押し戻せ」になったのだ。
ここで注目すべきは、質問に対する本来の答えである「聞い
てません」の前に「よく写真撮ってあったね」とあること。
「聞いてません」は実は聞いていたわけだから、この「よく写
真撮ってあったね」の「よく」には「まさか写真を撮られてい
るとは思わなかった」、「よくもまあ」という彼の本音が込め
られているのである。
*絶体絶命
それはともかく、中国にはそうした小泉さんの「配慮」が分
かっていたから、「陳謝」だ何だと日本側が居丈高になっても
当初は穏やかに対応していたのだが、ビデオの世界配信で中国
のイメージが傷つくに至っては黙っているわけに行かず、当事
者の具体的発言まで引用して反論。それでも尚日本側に配慮し
て、洗いざらいぶちまけるようなことをせずに自制していたの
に、面子が掛かって引くに引けない日本側は益々エスカレート。
日本人が聞いても日本側の主張は嘘と分かる支離滅裂ぶりで、
もはや外交の体をなしていない。