1 :
高山後援会:
高山さんがんばって
2 :
高山正之:02/03/20 08:24 ID:L3R2zpMX
■ 太平洋序曲 日露戦争−1
列強は領土拡大に走った
20世紀は1901年から始まるが、この年の世界地図を見ると、ごくシンプルである。アフリカは
イギリス、フランス、ドイツ、ベルギーがそれぞれ分割支配しているし、アジアもイギリス、フラン
ス、アメリカ、オランダが大半を分割、植民地化していて、色鉛筆を使えば数本で色分けできる。
イギリス色に塗られていた南アジア一帯は今では、インド、パキスタン、バングラデシュ、ブータ
ン、ミャンマー(ビルマ)、スリランカと6つの独立国家になっている。
ほぼ100年を経た20世紀末の現在、この1901年の列強の帝国主義的世界分割とほぼ符合
する地図がある。パル、セカム、NTSCというテレビ受像システムのタイプで色分けした地図で
ある。独立はしていても、宗主国とのしがらみがこんなところに残っている。ちなみに日本はアメ
リカと同じNTSCで何となく暗示的である。
<点を入手> さて、太平洋。この年にイギリス連邦の中で独立したオーストラリアを除き、メラ
ネシア、ポリネシア、ミクロネシア、マリアナ諸島などの島々の99%をイギリス、フランス、ドイ
ツ、アメリカの4カ国が分割統治(トンガ、サモア条約)していた。残り1%はかつてペリーがアメリ
カ領有を宣言し、後にイギリス国の口利きで日本に返されたボニン島(小笠原諸島)である。
この中で、最も太平洋支配に積極的だったのがアメリカで、ハワイを併合したほか、米西戦争で
スペインからフィリピンを2千万ドルという安値で買い取った。また、北米大陸から東南アジアへ
の大圏航路に当たるキスカ、アッツなどアリューシャン列島も手中に収めていた。
「太平洋は近い将来、世界のひのき舞台になるだろう」という言葉は1867年、アメリカがロシア
からアラスカを720万ドルで買い取った際のウィリアム・シェアードアメリカ国務長官の言葉だ
が、アメリカはまさにその舞台の主要な「点」を今世紀の入り口で既に入手していたことになる。
ヨーロッパの列強はこのころ、太平洋の戦略構想よりも、目の前の利権、中国(清朝)に目をつけ
ていた。中国はずっと「眠れる獅子」と恐れられ、インド、ビルマをまるで赤子の手をひねるように
取り込んできたイギリスでさえ、中国とことを構えるのをためらい、アヘン戦争に勝った代償も
「香港島割譲」ぐらいで満足していた。しかし、その眠れる獅子が日清戦争(1895年)であっさり
負けて、獅子でないことが世界にさらされ、「中国はイギリス、フランス、ドイツなどに切り分けら
れる運命」(グリシャムアメリカ国務長官)にあった。
<割譲に動く> この動きに拍車をかけたのが、世紀末に始まった義和団の乱だった。山東
半島に挙兵したこの宗教団体は外国人排撃をうたい、破竹の勢いで北京を目指した。列強にさ
んざん食い物にされ、今はただまな板に乗って切り刻まれるのを待つだけの清朝は義和団の勢
いを見て最後のかけに出た。
3 :
高山正之:02/03/20 08:25 ID:L3R2zpMX
彼らに呼応して列強に宣戦布告し、北京の外国公館を包囲するいわゆる北清事変を自ら演じた
のである。映画「北京の55日」に描かれた騒動だが、最終的には派遣された日本を含む8カ国
連合軍が清朝軍を破り、列強はいよいよ中国分割に着手した。
このとき、ロシアだけは妙に清朝に同情的で、中国分割をねらう列強の足並みを乱していた。そ
のなぞは二十世紀に入って3日目、つまり1901年1月3日付のイギリス・タイムズ紙の記事が
明らかにした。
「ロシアと清が満州割譲の秘密協定に調印」の見出しで、北京駐在の特派員ジョージ・モリソン
は「満州南部の盛京省をロシアが軍事占領下におく協定がロシア清国間に結ばれた。協定は皇
帝、ニコライ二世の異母兄弟に当たるロシア海軍提督アレクセイエフ、清国奉天将軍増稘のそ
れぞれの代理人によって調印された。これにより、満州は事実上、ロシアの保護領となる」と報
じた。 ロシアは列強の中国分割に歯止めをかける代わりに、満州の租借をご苦労賃としてもら
い受けたというのである。
この満州割譲を受け、ロシアはさらに朝鮮半島も勢力下に置き、馬山浦租借の意向も明らかに
した。馬山浦は釜山の西に展開する良港である。この湾はそれから5年後、ロシアのバルチック
艦隊を迎え撃つ東郷平八郎以下の連合艦隊が日本海海戦を前にじっと待機し、奇跡的といわ
れた正確な艦砲射撃の訓練を行った場所でもある。
<海への情熱> 皇帝の異母兄弟アレクセイエフまで投入した馬山浦獲得の背景には18世紀
のエカテリーナU世以来のロシアの悲願「熱い海へ」の情熱があった。ロシアはトルコと戦って
黒海から地中海への出口を探ったが、果たせず、次にイランをねらったが、イギリスがその野望
を砕いた。
アフガンを落として、パキスタンからインド洋に出ることも試みた。これが19世紀の100年間を
通して展開されたいわゆる「グレート・ゲーム」だが、これもイギリス国とアフガン部族に阻まれて
果たせなかった。ロシアは南をあきらめて東に進み、シベリアを経てやっと太平洋に至った。ウラ
ジオストク港はしかし、冬季3カ月は氷に閉ざされていた。
200年間、探し求めた「熱い海」がやっと手に届くところまできた。それが馬山浦に対するロシア
皇帝の思いだった。結果からいえば、これも日露戦争で阻まれ、「熱い海へ」の思いは20世紀後
半のイラン・イラク戦争へのソ連介入、アフガン紛争へと引き継がれていく。
1988年、アフガン撤退を決めたソ連のゴルバチョフ書記長は「インド洋を求めたのではない」と
語った。それが本音だったかどうかはともかく、ロシア人の熱い海へのあこがれは3世紀近い年
季が入っているのだ。
4 :
高山正之:02/03/20 08:25 ID:L3R2zpMX
豆事典
▽トンガ、サモア条約 トンガは1876年、ドイツと友好条約を締結。同様の条約を79年にイギリ
ス、88年にはアメリカとも結んだ。99年にドイツがサモア諸島の領有と引き換えにトンガを放棄
し、1900年にはトンガが表面上は独立を保ちながら、イギリスの保護領であることを宣言した。
サモアは1877年にドイツ、78年にアメリカ、80年にはイギリスと友好条約を締結した。さらにアメ
リカ、イギリス、ドイツ3国がそれぞれ推す3人の首長が王位をめぐって争い、89年にベルリンで開
かれた会議で事実上、3国の保護領となった。そして99年の再度の会議の結果、西経171度線
を境に東サモアはアメリカ領、西サモアはドイツ領となり、イギリスはドイツ領有のトンガ、ソロモ
ン諸島の一部を所有、列強の太平洋分割がほぼ確定した。
▽大圏航路 地球の大円(大圏)にそった航空機や船舶の航路で、出発点から目的地への最
短距離となる。
▽日清戦争(1894−95年) 朝鮮半島への進出政策をとる日本と、朝鮮に対し宗主権を主張す
る清が対立。1894年春の甲午農民戦争(東学党の乱)を機に両国が出兵した。日本軍は94年7
月、朝鮮半島近海の豊島(ほうとう)沖で清兵を輸送中のイギリス船籍の商船とその護衛艦を攻
撃し、8月1日に宣戦布告。大連、平壌、黄海などで清国軍を破り、95年4月に下関で講和条約
を締結した。条約では朝鮮の独立を承認し、清は遼東半島、台湾などを日本に割譲することに
なったが、ロシア、ドイツ、フランスが武力を背景に日本に遼東半島の還付を勧告、日本はこの
三国干渉に屈した。この結果、日本国内には不満が高まり、政府は批判をかわすため、「臥薪
嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンにして軍備拡張策を取った。
▽エカテリーナ2世(1729−96年) 18世紀ロシアの女帝。ピョートル3世の妃で、夫を殺害して
1762年に帝位についた。啓もう専制君主を自認し、プガチョフの乱(1773−75年)を鎮圧、農奴制
を拡大して専制を強化した。対外的には露土戦争やポーランド分割により領土を広げた。
5 :
高山正之:02/03/20 08:26 ID:L3R2zpMX
■ 太平洋序曲 日露戦争−2
ロシア皇帝は東を目指した
ハワイをアメリカが併合しようとしていたとき、東郷平八郎がのこのこ出掛けていったのは、考え
てみれば随分、むちゃな行為だった。まだ日清戦争にも勝っていない東洋の小国である。アメリ
カ側に引け目がなければ、巡洋艦「浪速」などひとひねりだし、下手したら100年早い日米戦争
が起きていたかもしれない。だからこそハワイ人が感激して彼の名を長く記憶しているのもうな
ずける。
《提督の肩書》 実はこれに似た騒ぎが同じころ、日本でも起きた。親善訪問中のロシア皇太
子に巡査が切りつけ、負傷させるという1891年(明治24年)の大津事件である。日本政府は縮
み上がって裁判所に極刑にするよう圧力をかけた。犯人の巡査の首を差し出して精いっぱいの
誠意を示さなければ、超大国ロシアが戦争を仕掛けてくる。ヒヨコのような日本が消滅する可能
性だってあるというわけだ。
時の大審院長、現代風にいえば最高裁長官の児島惟謙は首を振った。彼は法治国家の要であ
る罪刑法定主義を貫いて死刑適用を拒否した。それが戦争原因になったとしても大義は通す。
司馬遼太郎のいうこれが明治人のふつふつとした気概だったのだろう。
さて、この切られた皇太子はその3年後、ロシア帝国皇帝に即位する。これが太平洋への出口
を確保し、「太平洋提督」を夢見るニコライ二世である。 もっとも、ロシアをして太平洋に目をむ
かせ、太平洋提督というニコライ二世が泣いて喜んだ肩書を作り上げたのは彼と親交の深いド
イツ皇帝ウイルヘルム二世だったと、アルゼンチン・サルバドール大学の、P・ファルコニ教授(近
代史)は指摘する。
ウイルヘルム二世は当時、大西洋の霸者をねらっていた。そのかわり「ロシアは太平洋に出たら
いい、太平洋ではまだ新参者のアメリカがいるだけだ」と、ニコライ二世の目を極力アジアに向
けさせるよう働きかけていた。
《異常な執着》 1895年、日清戦争でそのロシアが足掛かりにするつもりだった遼東半島が
日本に取られそうになると、ドイツはロシア、フランスに働きかけて例の三国干渉が行われる。
日本に遼東半島を諦めさせると、ウイルヘルム二世は早速、ニコライ二世に親書を送っている。
「ヨーロッパの利権を日本から守るために、ロシアが音頭を取った共同活動がうまくいったことに
感謝する。私はロシアが清朝領土(満州)の保有を成し遂げることに喜んで協力する。だからドイ
ツが清国のどこか、ロシアに差し障りのない港を獲得できるよう手助けしてもらいたい」(ウッドハ
ウス・瑛子「日露戦争を演出した男」) そして一九〇二年、エストニアのリバウ港で行われたロシ
ア・ドイツ合同海上軍事演習ではニコライ二世を初めて「太平洋提督」の称号で呼んだ。
この前後から、ニコライ二世は太平洋に異常な執着を見せ始め、ウィッテの回顧録にも「皇帝が
1902年とその翌年、旅順にいたアレクセイエフ海軍提督に送った親書には太平洋の主導権を
握りたいという希望が露骨に表れていた」と書かれている。
6 :
高山正之:02/03/20 08:54 ID:3Mcdea9X
ウイルヘルム二世はさらにあおった。「ウラジオストクと旅順の間に朝鮮半島がある。これが敵
の手にわたれば、新しいダーダネルス海峡になる。朝鮮は当然、ロシアのもので、また、そうな
るはずだ」、1901年、露清秘密条約で満州を手中に収めたロシアはこの親書が交換されてい
るころ、次のステップを取っていた。朝鮮半島を下り、李王朝に「太平洋への出口」馬山浦の租
借を求めていたのだ。
ただ、「アルジアーナ」が騒いでいた。アルジアーナは猿という意味で、皇帝は日本をそう呼んで
いた。日本は朝鮮半島を下ってくるロシア軍にはっきり脅威を感じていた。
《日英が握手》 ロシアの南下によって自国のもつアジアの利権が脅かされることを直感してい
た国がもうひとつあった。イギリスである。ロシアに脅威を感じてはいたものの、イギリス自身は
南アフリカのボーア戦争で国力を消耗し尽くしていた。
1902年、ロシアの太平洋進出を恐れる日本とイギリスが手を結び、日英同盟が成立した。ただ
し、この同盟は相手国がどこかと戦争を開始しても自動的参戦義務のない、いわゆる防御同盟
と呼ばれるものだった。以下、骨子を示すと−。
(1)日本とイギリスは、清国と韓国の独立を承認するが、もし、他国が両国に対して侵略行為を
行った場合、必要な措置をとる。
(2)日本、またはイギリスが他国と戦端を開いた場合、一方の同盟国は厳正中立を保ち、同時に
第三国が交戦に加わるのを防ぐ。
(3)もし、第三国が交戦に加わったときは同盟国は共同して参戦する。
つまり、日本とロシアが戦争状態に入った場合、イギリスは中立を保つ。しかし、フランスがロシ
アに武器供与など、交戦に関与する行為を行った場合、イギリスはロシア、フランス両国に宣戦
布告して参戦することになる。
いわば、一対一の決闘を保証する同盟で、仁侠映画でいう「野郎ども、手え出すんじゃねえ」と
いったたぐいの拘束力でしかない。 これに対して相手国が戦争に巻き込まれれば、自動的に同
盟国が参戦する強制力をもつのが攻守同盟で、中国の合従連衡などがこれに当たる。
ちなみに日米安保条約は変則片務的攻守同盟で、日本が攻められたとき、アメリカは自動的に
参戦するが、アメリカが戦端を開いた場合、日本には参戦義務はない。ついでに言えば、最近
やかましくいわれる「集団的自衛権の行使」は、アメリカが日本近辺で戦争状態に入った場合に
限って、この片務同盟を少し補完し、アメリカに同盟国として協力態勢は取れないものだろうか、
といった論議である。
7 :
高山正之:02/03/20 08:55 ID:3Mcdea9X
■ 豆事典
☆大津事件 1891年5月11日、ウラジオストクのシベリア鉄道起工式に出席する途中、日本を
訪れたロシア皇太子ニコライが滋賀県大津町(現大津市)で、警備にあたっていた滋賀県警巡
査、津田三蔵に切りつけられ、頭部に負傷した事件。皇太子は日程を打ち切って同月19日に離
日、日本側は政府が配置した警察官が国賓の殺害を企てる事件を起こすという大失態にパニッ
ク状態となった。日本政府はニコライ皇太子来日前、同皇太子への不敬の行動には厳罰で臨む
との緊急勅令を交付するよう求めていたロシア公使に対し、緊急勅令のかわりに皇族に関する
刑法規定を準用することを約束していたため、成立したばかりの松方正義内閣は津田三蔵の裁
判でも苦しい立場に追い込まれた。
☆児島惟謙 (こじま・いけん=1837−1908年) 伊予(愛媛県)宇和島出身の明治時代を代表す
る裁判官。1891年に大審院長に就任。大津事件では、政府から皇族に関する刑法規定を準用し
て犯人の津田三蔵を死刑とするよう要請があったのに対し、外国皇族に関する規定がない以
上、通常の謀殺未遂罪を適用すべきだと主張して担当裁判官を説得した。この結果、津田三蔵
は無期刑の判決を受けた。大審院長就任の翌92年、大審院判事の花札とばく事件の責任をとっ
て辞任。後に貴族院議員となる。
☆ダーダネルス海峡 トルコ北西部のエーゲ海とマルマラ海を結ぶ海峡。ヨーロッパと小アジ
アとを分ける位置にあり、ロシアにとっては黒海とマルマラ海を結ぶ同じトルコのボスポラス海峡
と並んで地中海への出口として重要な意味を持っていたが、トルコに抑えられ、長く南下の意図
を果たせずにいた。
8 :
高山正之:02/03/20 10:23 ID:JxQZ11Ep
■ 太平洋序曲 日露戦争−3
新鋭艦は開戦直前に届いた
アルゼンチンは日本からみると地球のちょうど反対側になる。 「おいしい空気」という意味の首
都ブエノスアイレス。「ここから垂直に穴を掘ると大阪に出ます」とプラサ・デ・マーヨ(5月広場)近
くの弁護士事務所で65歳になるホラシオ・ドメク氏はいう。それほど日本は身近な国という意味
合いが込められている。
その言葉を裏付けるように、例えば海岸通りにある海軍博物館には世界でたったひとつ残され
た戦艦「大和」の46センチ主砲砲弾が陳列され、日本海海戦に参加した巡洋艦「日進」の精巧
な模型もある。
アルゼンチンは結構、戦争を経験していて、アンデスの山向こう、チリとも戦い、それも山が高す
ぎるため、お互い海に出て海戦を演じてきた。最近ではマルビナス(フォークランド)諸島を巡って
イギリスとも戦っている
海軍博物館にはそういういわれのある軍艦の模型が陳列されているが、中でも群を抜いて大き
く、一番目立つところに置かれているのが「日進」なのだ。隣には旭日旗の掲げられた東郷提督
のコーナーもある。海軍博物館だけでなく、中学の教科書にも「2ページ以上にわたって日露戦
争のことが書かれていて、この戦争の意義を教えられた」とドメク弁護士はいう。
《ゆかりの地》 地球の裏側でなぜ「日露戦争」なのか。「20世紀を変えた事件という歴史的
事実もある。それに日進、春日がもとはわが国の船だった因縁もあるし、その世紀の海戦をアル
ゼンチン武官、つまり、わたしの祖父マニエル・ドメク・ガルシアが観戦していたことも大いに影
響したでしょう」とドメク氏は語る。ガルシア中佐の観戦記は海軍国家、アルゼンチンの士官学
校の教科書にもなり「この国のリーダーでトーゴーの名を知らない者はいなかった」とさえいう。
7千トン級巡洋艦「春日」、「日進」はアルゼンチンが対チリ戦のために発注し、1903年暮れに
イタリア・ジェノアの造船所で完成した。しかし、この間にアルゼンチンとチリの和平が成立した
ため、アルゼンチンでは不要になり、ロシア開戦に備えていた日本がこの新鋭戦艦を買ったわ
けである。
《多くの障害》 ロシアは当時、旅順港に戦艦7、巡洋艦11隻を主力とする太平洋艦隊を保有
していたし、加えてバルト海には戦艦8、巡洋艦8、駆逐艦9、その他28隻からなるバルチック
艦隊が控えていた。さらに首都サンクトペテルブルクの北には、1万トン級の戦艦を建造できる
クロンシュタット海軍工廠を擁していた。
日本は戦艦4、巡洋艦21隻が主力で、しかも国内には大型艦の建造施設はなかった。イギリ
ス、ドイツの造船所に発注するにしても建造に平均3年はかかる。あとは他国の海軍から買いあ
げるしか手はないが、ここで日英同盟が足かせになる。 これは1対1の決闘を保障する同盟で
あり、日露が戦争を始めれば他国は一切、手出しができない。
9 :
高山正之:02/03/20 10:23 ID:JxQZ11Ep
日本が海軍補強のためにどこかの国から戦艦を買えば、それはロシアに対する敵対行動と見な
され、ロシアはその国に宣戦布告できる。逆に、どこかの国がロシアに船を売れば、日英同盟に
よってイギリスが日本のためにその国をたたくことになる。
世界一の海軍国(イギリス国)や陸軍国(ロシア)を相手にだれも戦争はしたくないから、どの国も
船は売らなくなる。つまり、日本は開戦時の手持ちの船がすべてであり、ロシアは海軍工廠をフ
ル回転させれば補充がきくという構図だった。
春日、日進は1904年1月中旬、イタリアを出て日本に向かった。日本政府は2月6日、ロシアと
の国交を断絶。その2日後の8日、ロシア太平洋艦隊の拠点、旅順港に小型水雷艇による夜襲
をかけ、戦艦レトビザンなどに損害を与えた。アルゼンチンゆかりの新鋭艦2隻はシンガポール
を過ぎた辺りで開戦の報を受けた。日本にとって開戦前に手に入る軍艦があったことが、いかに
ありがたかったかがわかる。文字通り、ぎりぎりで間に合った2隻の新鋭艦は、東郷司令長官直
属の第一艦隊に配属された。
日本政府は旅順港攻撃の2日後の2月10日、ロシアに宣戦布告をしている。太平洋戦争での
真珠湾攻撃は外務省の怠慢でアメリカ国への宣戦布告の伝達が遅れ、アメリカ国政府は「最も
破廉恥な」と最大限の言葉で非難した。
日露戦争でも宣戦布告は2日間も遅れており、ロシア政府は怒って、「日本はロシアの不意に乗
じて詐術をもって勝利を得た。日本の行為は国際法違反の不法行為である」との政府見解を出
している。 しかし、イギリスのタイムズ紙は「日本の行為は国際法違反どころか、近代戦の多く
の先例にならうものだ。ロシア側の虚を迅速についた日本は機敏で勇敢な行為により、世界最
高のイギリス海軍と同等の地位を獲得した。大いに称賛すべきである」と論評した。
《堂々の反論》 大いに称賛されるべきだったかどうかはともかく、日英同盟という立場を割り
引いても、近代戦における奇襲は戦法としてごくポピュラーであり、決して「最も破廉恥」な行為
ではなかったようだ。
メルボルン大のG・ブレイニー教授も「驚くべきことは近代戦がすべて宣戦布告してから開始され
たという誤った考えが広まっていることだ。1700年以来の証拠によると、むしろ宣戦布告をして戦
争状態に入る方が異常だと分かる。真珠湾奇襲攻撃はれっきとした国際的伝統に基づくもので
ある」という。
ロシア皇帝の非難に対して、日本の小村寿太郎外相は「日本政府はこの非難に公然と弁明する
だけの価値を認めない」と堂々の反論を行った。日本の再三にわたる抗議にもかかわらず、撤
兵もしないで戦争準備を進めていたのだから、攻められて当たり前、と言い張っている。
第二次大戦ではこういう開き直りはなく、一方的に非を鳴らされたままだった。ここにも日本の変
質がうかがわれるが、これは後の章で書く。
10 :
高山正之:02/03/20 10:24 ID:JxQZ11Ep
■豆事典
☆フォークランド戦争 アルゼンチンの大陸部から500キロの南大西洋上にあるフォークランド
(アルゼンチン名マルビナス)諸島の領有権をめぐるアルゼンチンとイギリスの戦争。1982年4
月、アルゼンチンが領有権を主張して軍事占領したのに対し、イギリスのサッチャー政権は大機
動部隊を派遣。開戦1カ月後にアメリカがイギリスを支援したこともあって、アルゼンチンは2カ
月で降伏した。アメリカは米州相互援助条約に違反したとして中南米諸国から強く非難された。
アルゼンチンの敗戦は軍部の権威失墜を決定的にし、民政移管を早める結果となった。アルゼ
ンチン、イギリス両国は89年10月、敵対関係終結を宣言、90年2月には国交を回復した。アルゼ
ンチンは94年8月の憲法改正で同諸島の主権を明文化し、両国の主張は依然、対立したまま問
題は棚上げのかたちになっている。
☆旅順港 中国・遼東半島南端にある良港。旅順は山東地方から遼東地方にいくとき、必ず通
る場所の意味でその名がつけられた。清代に軍港となり、のちロシアが租借。日露戦争では激
戦地となった。
☆小村寿太郎(1855−1911年) 明治期の日本の外交を代表する人物で、極東における日本の
勢力圏拡大のために現実的外交路線を展開した。外務次官、駐アメリカ、駐露、駐清公使など
を経て1901年(明治34年)、第1次桂内閣で外相に就任。翌年、日英同盟を締結し、1905年(明治
38年)には日露戦争のポーツマス講和会議に臨んだ。第2次桂内閣でも外相となり、1910年には
韓国併合を実施。また、列強との条約を改正して関税自主権を確立した。
11 :
高山正之:02/03/20 10:26 ID:JxQZ11Ep
■ 太平洋序曲 日露戦争−4
観戦武官は地球の裏側からも来た
4年前(1993年)にアメリカ陸軍戦史センターのスタッフが来日し、日露戦争に参加したアメリカ
観戦武官の観察記録や当時の雰囲気を伝える報告書が初めて日本に披露された。
観戦記録は、日本軍の作戦行動をさげすみを交えて批判することに終始しており、何となし現在
のニューズウィーク誌のような印象で、成果といえば、後の太平洋戦争前にアメリカ大統領以下
に「日本人は白人より2千年遅れた知能」とか「白人の脳みそは灰白色だが、日本人のは、ただ
の白」といった愚にもつかない理論を信じこませる根拠になったぐらいだといわれる。
報告書の方は少しはましで、例えば日露戦争の幕開けとなった1904年2月8日の旅順港奇襲
から数時間のうちにヨーロッパ各国を中心に世界12カ国から観戦武官の申し込みがあったとの
記述があり、世界的な関心の高さを示している。
この12カ国のうちイギリスは17人を送り、次いでこの戦争の勝者と太平洋の覇権を争うことを
予想したアメリカが12人を送り込んでいる。この(アメリカの観戦武官の)中には後に日本占領
を果たすダグラス・マッカーサーの父アーサー・マッカーサー大将も特別オブザーバーとして加
わっており、少尉だったダグラスを伴って「太平洋での最大の仮想敵」となる日本をはじめ極東
地区を1年余の間、視察に歩いている。
《ピアノまで》 アルゼンチンからの参加はドメク・ガルシア中佐ただ1人だった。中佐は「戦艦モ
レノに乗った」と孫のホラシオ・ドメク氏に語っている。「モレノ」とは「日進」のアルゼンチンでの
名前で、同じく「春日」は「リバダビア」といった。両艦はイタリアの造船所で、アルゼンチン仕様
の艤装(ぎそう)が終わったあとに日本に買い取られた経緯は触れた。
だから「春日」の士官室には日本海軍には不似合いなピアノも置かれていて、そのまま黄海海
戦、日本海海戦を経験した。このピアノは後にアルゼンチンに寄贈され、現在も海軍博物館に展
示されている。
《細かな配慮》 日露戦争には12カ国49人もの観戦武官が日本側に送り込まれたが、その多
くは陸軍で、日本海軍の船に乗り込んだことが確認されているのは「日進」のガルシア中佐と戦
艦「朝日」のイギリス武官ペケナム大佐の2人しかいない。
「朝日」は東郷司令長官の「三笠」を旗艦とする第一艦隊の5番艦、「日進」は6番目の殿艦(しん
がり)を務めていた。2人の武官は文字通り最前線で1904年8月の黄海海戦と翌五年の日本
海海戦を詳細に観察した。ペケナムは近代化された装甲戦艦同士の砲撃、装甲などを冷静に
分析し、この調査をもとにイギリスのJ・フィッシャー海相は戦艦「ドレッドノート」の建造を命じた。
いわゆる「弩級戦艦」で、20ノット以上の艦速と大口径主砲に重点を置いた高速、高破壊力戦
艦だった。第一次大戦以降はさらに大型化、大口径化が進み、超弩級の時代に入る。
12 :
高山正之:02/03/20 10:31 ID:JxQZ11Ep
ガルシアは艦内生活も細かに観察した。とくに孫に再三語ったのは末端の水兵にまで気配りの
行き届いた日本海軍の配慮だった。「海戦が近づくと兵士たちは艦の隅々まで清潔に洗い、消
毒薬の入った溶液で煮沸した清潔なフランネルの下着に着替えた。負傷した場合、傷口からば
い菌が入らないための配慮だ。他国の海軍では絶対に見られない光景だった」と大いに感嘆し
ている。
《唯一の頼み》 「シャンハイ」という英語の動詞がある。波止場町で男を酔わせるなりして出港
する船に売り払うといった意味で、かつて上海で横行したのが語源である。それほど船員の待
遇は悪かった。海軍も同様で「ここは堕落した者、ならず者の吹きだまり」と「白鯨」の作者メルビ
ルは書いている。ポチョムキン号の反乱のように水兵は反乱するのが当たり前で、それが欧米
世界の常識だった時代にこういう船があったことの驚きをガルシアは記しているのだ。
ガルシアはまた「日に焼けた褐色の若者たちを見ていると、わが国の褐色の水兵を見ているよう
で」とも家族に書き送っている。「褐色の水兵」とはアルゼンチン南部のパタゴン、北部のコリエ
ンテス両州に住むインディオのことで、下級水兵に使われていた。母国ではしかし、白人優越主
義者のロカ将軍がインディオ虐殺の功績を買われて大統領になっている。
18世紀、カリブ海の島々にいたインディオをスペイン、フランスが全滅させて黒人奴隷に置き換
え、19世紀にはアメリカがインディアンを虐殺した。その仕上げとなるパタゴンの虐殺である。
そういう時代に、そのインディオと同種の東洋の小国が白人キリスト教国家のひとつ、ロシアと
戦ったのがこの日露戦争だった。
1904年2月8日の旅順港奇襲の後、日本海海戦前夜までの経緯を、ガルシアらの報告で見る
と旅順港にあったツェザレビッツなど戦艦7隻、巡洋艦11隻からなるロシア太平洋艦隊は8月の
黄海海戦で敗走、大半が旅順港に逃げ帰った。しかし、港の背後の203高地が日本陸軍の攻
撃で陥落し、ここからの砲撃で全滅する。
過去、スウェーデン軍、ナポレオン軍、そしてソ連時代の第二次大戦ではナチス・ドイツ軍すら敗
走させた最強のロシア陸軍もまた各地で退却を続け、05年3月の奉天会戦で敗北を喫した。
唯一の頼みはバルト海からやってくるバルチック艦隊(第二太平洋艦隊)だった。日英同盟のた
めスエズ運河を通れず、喜望峰回りを強いられた艦隊は最後の休養地、フランス領インドシナの
カムラン湾に向かうが、これも日英同盟の圧力でフランスに入港を阻まれ、ついに休息を取れな
いまま日本海に入る。
ロシア海軍が大手を振ってカムラン湾に投錨できるようになったのはそれから70年たって南ベ
トナムが陥落した後である。
13 :
高山正之:02/03/20 10:34 ID:JxQZ11Ep
■ 豆事典
▽ダグラス・マッカーサー(1880−1964年) アメリカ軍人。第2次大戦中の1942年、フィリピン・ア
メリカ軍司令官から西南太平洋方面連合軍総司令官となり対日反攻作戦を指揮した。44年、元
帥に昇進。終戦後は日本占領連合軍最高司令官として日本の占領政策を指揮した。50年には
朝鮮戦争で国連軍司令官に任命されたが、戦線の中国への拡大問題でトルーマン米大統領と
対立、51年に解任された。
▽ポチョムキン号の反乱 1905年6月14日、ロシア黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号で水兵たち
が腐った肉を食べることを拒み、水兵の1人が射殺されたことがきっかけになった反乱。水兵ら
は士官の一部を殺害、残りは下船させ、マストに赤旗を掲げてゼネストが行われていたオデッサ
港に入った。しかし、他の艦の支持は得られず、食料や燃料もつきて反乱は鎮圧された。反乱に
は日露戦争でバルチック艦隊が全滅し、帝政ロシアの威光が大きく揺らいだことも影響してい
た。1925年にはエイゼンシュテイン監督が映画化。世界映画史上の傑作のひとつとされている。
▽フリオ・ロカ(1843−1914年) アルゼンチンの軍人、政治家。パラグアイとの戦争や対インディ
オ戦で武勲をあげ、その功績で1880年に大統領に就任。アルゼンチンのオリガルキア(少数者支
配)時代の幕を開け、チリとの国境問題の解決、外国資本の導入などで手腕を発揮した。ロカ政
権の中枢は大地主らで固められていた。
▽パタゴンの虐殺 1879年、約8000の兵を率いたロカ将軍がアルゼンチン南部パタゴニアのイ
ンディオを攻撃。将軍は降伏しなかったインディオを容赦なく殺害し土地を取り上げた。パタゴニ
アには当時、国有地に住むインディオが白人の侵入を拒んでいた。このため白人大地主らが土
地を手に入れようとして、インディオをキリスト教に改宗させることなどを口実にアベリャネダ大
統領を動かし軍隊を派遣させた。ロカ将軍は翌年、大統領に就任。
14 :
高山正之:02/03/20 12:38 ID:Ul7Uhyfc
■ 太平洋序曲 日露戦争−5
ロシア艦隊は日本海に消えた
装甲を施した1万トン級の戦艦同士による史上最大規模の艦隊決戦は1905年5月27日、対
馬沖で展開された。ロシア艦隊はロジェストウェンスキー提督の旗艦「スワロフ」以下戦艦8、巡
洋艦8を中核にした総数38隻。対する日本艦隊は「三笠」以下戦艦4、巡洋艦13を主力として
いた。
ガルシア中佐はその日をこう報告している。「三笠から“皇国の興廃この一戦にあり。各員一層
奮励努力せよ”のメッセージが発せられた。東郷長官は祖国の命運をかけてトラファルガーに出
たネルソン提督の境遇を自身に重ね合わせ、ネルソンの“イギリス国は今日、諸君が自分の義
務を果たすことを期待している”という言葉を下敷きにしたのだろう」
午後1時半すぎ、両艦隊はお互いを肉眼で捕らえた。ガルシアはロシア艦隊について「斥候艦艇
は見えず、主力戦艦が先頭を切って進んできた」と首をかしげて書く。「ロシアの指揮官は敵艦
隊の布陣を知ろうともしない。危険な機雷や水雷艇の存在も考慮に入れていないようだ」
《無数の砲弾》 当時の戦艦は厚さ30センチ近い装甲鋼板を施され、艦内も遮へい扉で仕切ら
れて、砲弾だけでは「沈まない」というのが世界的常識だった。ただ、魚雷や機雷などで喫水線
下に大穴を開けられると沈没はあり得ると考えられていた。
日露戦争の開戦まもない1904年4月、1万トン級の戦艦「ペトロパブロフスク」は旅順港出口に
敷設した日本側の機雷に触れてあっというまに轟沈している。しかし、日本海海戦の対馬沖は
文字通り「天気晴朗なれど波高し」だった。そんな状況では機雷敷設は無理だし、接近して魚雷
を撃つ水雷艇も活躍は困難だった。それでもなお、敵地で敵艦隊の様子を見届け、かく乱するた
めにも斥候艦艇を出すべきだったとガルシアは批判する。
旗艦「スワロフ」を先頭に北進するロシア艦隊は午後2時少し前、南西に向かう日本艦隊と接触
した。日本艦隊はロシア艦隊の目の前でほとんどUターンに近い160度左旋回をする。有名な
敵前回頭である。ロシア艦隊の頭を押さえつけ「これを撃滅せんとす」る作戦だった。
相手の射程距離内で次々にUターンすれば、相手に絶好の砲撃チャンスを与える。事実、このU
ターンが終わるまでに日本艦隊は「三笠」から第一艦隊殿艦「日進」に至るまで「数え切れない
砲弾を吸い込んだ」とガルシア報告はいう。
《高い命中率》 日本艦隊はこらえ、回頭を終えるのを待って猛然と応射を開始した。砲弾は着
実にロシア艦を捕らえていった。「着弾測定もしないロシア側に比べ、日本艦隊は優れていた。
1艦が試射を行い、その結果を残りの艦に知らせた。命中率はものすごかった」とロシア側の戦
艦「アリヨール」の水兵だったノビコフ・プリボイは観戦記「ツシマ」の中で書いている。
15 :
高山正之:02/03/20 12:39 ID:Ul7Uhyfc
ガルシア中佐の報告によると、日本の砲撃が始まって30分足らずの間に「スワロフが炎に包
まれ、2番艦アレクサンドル三世も火災を起こして落後した。オスラビア、シソイ・ビルキーもまた
大きな火炎に包まれた」という。「ロシア艦が突然、燃え上がるのは驚くべきことだった」とガルシ
ア中佐は書いている。
「明らかに何の火の気もない鋼鉄の艦から炎が現れて、強い風にあおられると、その炎は高い
艦橋をはい上がり、甲板上の構造物を生き物のように走り回った。さながら甲板上に石油をまい
て火をつけたような光景であった」
プリボイも「それは飛んでくる水雷だった。砲弾は厚い装甲を貫くことはなかったが、そのかわり
艦上の構造物も人も根こそぎ破壊、粉砕し、火災を起こして戦闘力を奪い去っていった」と書く。
当時の砲弾の主流は厚い装甲を貫き艦内部でさく裂する徹甲タイプで、ロシア艦もそれを採用し
ていた。少数派はイギリスの榴弾型で、命中すると直ちにさく裂し破片を周囲にばらまく。日本は
この型を採用し、炸薬には海軍技手、下瀬雅允が開発した超高燃焼性の「下瀬火薬」が使われ
ていた。プリボイの記述には、一瞬に周辺の酸素を奪い尽くすナパーム弾と同じように酸欠を起
こす水兵の様子も出てくる。
《相次ぎ沈没》 この威力はやがてロシアの僚艦が見守る中で、1万2700トンの戦艦「オスラビ
ア」の轟沈となって証明された。戦艦「オスラビア」は世界海戦史上、砲撃だけで沈んだ装甲戦
艦の第1号となった。
しかし、戦艦「ナワリン」がすぐに第二号となり、続いて戦艦「シソイ・ビルキー」、そして装甲巡洋
艦「ナヒモフ」も日没前に沈没した。さらに夕闇の中で旗艦「スワロフ」「アレクサンドル三世」「ボ
ロジノ」がわずか30分の間に相次いで日本海に消え、戦艦「アリヨール」もまた「浮かぶ鉄屑」状
態で拿捕(だほ)され、戦艦8、巡洋艦7隻で構成された第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)は翌日
の夜明けを待たずに消えさってしまった。
もうひとつ、老朽艦12隻で編成された「第三太平洋艦隊」もいたが、これも翌28日、日本海で
捕そくされ、降伏した。生き延びたのはマニラに逃げた巡洋艦「オーロラ」など数隻にとどまり、こ
れで旅順港で全滅した第一太平洋艦隊を含め、大陣容を誇ったロシア艦隊は、国際条約で日露
戦争の間、黒海に封じ込められたままの黒海艦隊を除いて、完全に消滅してしまったのである。
ついでながら、巡洋艦「オーロラ」はロシアの首都サンクトペテルブルクに戻り、ネバ川のほとり
にもやわれる。そして、十二年後の1917年、ロシア十月革命の合図となる号砲を冬宮に向け
て放ち、20世紀の歴史に再び名を残すことになる。
16 :
高山正之:02/03/20 12:40 ID:Ul7Uhyfc
■ 豆事典
▽ジノービ・ロジェストウェンスキー(1848−1909年) ロシアの提督。1904年にバルチック艦隊の
司令長官に任命されたが、日本海海戦で敗れ、重傷を負って捕虜となる。帰国後の1906年に軍
法会議にかけられたが無罪。▽ホレイシオ・ネルソン(1758−1805年) イギリスの提督。12歳で
海軍に入り21歳で艦長となる。スペイン艦隊を破ったセント・ビンセント岬沖の海戦(1797年)など
で活躍し、1805年のトラファルガーの海戦ではフランス・スペインの連合艦隊を撃滅して、ナポレ
オンのイギリス侵攻の野望を阻んだ。しかし、ネルソン自身もこの海戦で被弾し、「われは義務
を果たせり」という言葉を残して戦死した。
▽下瀬雅允(しもせ・まさちか=1860−1911年) 明治時代の化学技術者で下瀬火薬の発明者。
大蔵省印刷局に勤務した後、海軍技手となり、火薬の研究を続けた。1888年(明治21年)にピクリ
ン酸を主剤とした爆裂薬を発明、海軍に採用された。この火薬は下瀬火薬と呼ばれ、日露戦争
で威力を発揮した。
▽ナパーム弾 ナフサネート、亜鉛、パーム油、ガソリンなどのゼリー状の混合物(ナパーム)を
主成分とする油脂焼夷弾。2000度近い高熱を発し、400から500リットル入りのナパーム弾を爆発
させると、2000から2500平方メートルを焼き尽くす威力を持つ。第2次世界大戦後期にアメリカ軍
が開発、沖縄作戦で航空機から投下した。朝鮮戦争やベトナム戦争などでも使われた。
17 :
高山正之:02/03/20 12:41 ID:Ul7Uhyfc
■ 太平洋序曲 日露戦争−6
講和は不和と不信残した
日本海海戦は終わった。ほぼ無傷の日本側に対し、ロシア側はその主力戦艦、巡洋艦のほとん
どを撃沈されるという信じられない結果は世界中の主要紙の一面トップで報じられた。
ニューヨーク・タイムズ紙は海戦2日後の1905年5月29日付で「東郷、ロシア艦隊を粉砕」の
見出しをつけながら、それでもとても信じられない様子で「東京はロシア艦12隻が沈没もしくは
拿捕(だほ)と発表」と、あくまで日本側の発表を報じるかたちをとって保険もかけていた。
中面では専門家の意見を入れながら「ロシアが本当に大敗したならば、それは地球半周に近い
長旅を強いられたこと、兵士の練度が低かったこと」とさまざまな憶測を書き並べ、別の紙面で
は「複数のロシア戦艦で水兵の反乱」とも書いている。行間には白人国家が非キリスト教国家日
本に大敗した事実を素直に認めたくない雰囲気が漂う。
《個々の折衝》 ニューヨーク・タイムズは1週間後の6月2日付では「戦争の結末」の見出しで
今後の見通しについて長文の社説を掲載した。
「日本はペンシルベニアの会社に軍用トラックと鉄道資材を大量注文した。ロシア陸軍を翻弄し
てきたクロキの軍がさらに北に展開するための準備とみられる。目的地はロシアの最大の拠点
ウラジオストクで、制海権を失った今、陥落は必至だ。皇帝がそれでも継戦にこだわれば、日本
は交戦国の権利としてロシア商船を破壊するだろう。大西洋、地中海、バルト海にも進出してロ
シア船だけでなく、ロシア向けの中立国の船も臨検できる。ロシアには講和以外の選択はない。
もっとも、日本艦隊がそこまで出てきてヨーロッパ諸国の神経を逆なですることはしないだろう
が、ともかくウラジオストクが落ちたとき、戦争は終わる」
「制海権を握れば勝ち」とはセオドア・ルーズベルトが師事した海上覇権論のアルフレッド・マハ
ンが著書「歴史にみる海軍力」に書いた1節である。アメリカはスペインとの戦争でも、この理論
にしたがって宣戦布告を前に遠くアジアまで艦隊を派遣、開戦と同時にマニラのスペイン艦隊を
奇襲し、そのうえでキューバにあった主力艦隊と戦って大勝した。海軍力のほとんどを失ったス
ペインはフィリピン、グアム、キューバ、プエルトリコを失う屈辱を甘受しなければならなかった。
ロシアは、そのスペインよりひどい状況にあった。日本は国際法にのっとりニューヨーク・タイム
ズ紙の社説通りの圧力をかけることもできたが、そうはしなかった。体力の疲弊もあるが、むしろ
社説のいう「ヨーロッパ諸国の神経を逆なでする」行為をあえて避けた気配がある。
ニューヨーク・タイムズは、日本をけん制する社説を載せた翌日、「ルーズベルト大統領、和平斡
旋に乗り出す」と報じ、イギリスのタイムズは「ローマ法王もロシアに休戦を勧告」と伝えた。そし
て、講和会議はその年の夏、ルーズベルトの音頭で開かれた。
18 :
高山正之:02/03/20 12:42 ID:Ul7Uhyfc
会議は両国代表がアメリカ東海岸のポーツマスで話し合いを進める形が取られたが、実際には
ポーツマスの海軍基地に近いオイスターベイの別荘に陣取ったルーズベルトがロシア代表ウイ
ッテと日本の小村寿太郎を別々に呼んで折衝を重ねた。
《満州の問題》 この結果、「賠償金はおろかロシア領土は一寸たりとも割譲しない」と主張して
きたロシア側が樺太(サハリン)の半分を譲り、同時にロシアが清から割譲を受けていた満州の
権益を日本に譲ることで決着がつけられた。
ただ、「満州」は形はどうあれ、中国がロシアとの条約で与えたもので、ロシアが放棄したからと
いって自動的に日本が獲得する理由はなかった。実際、中国もこの時期、国家の再建に乗り出
し、外国に割譲した利権の奪還を真剣に考えていた。いわゆる変法自彊運動で、すでにイギリス
からいったん与えた利権を買い戻してもいた。そのさなかに日本に新たに利権を与えるのはせ
っかくの改革をほごにするものでもあった。
だからといって多大の戦費と人命を失いながら、ともかくも勝った日本にその当時、そしてその
後の第一次、第二次大戦でもごく当然に行われていた「敗戦国からの賠償と領土奪取」をあきら
めさせる理由はどこにもなかった。
「この行き詰まりを打開するため」とプリンストン大学のJ・ホワイト教授は著書「日露戦争外交交
渉」で書いている。 「ルーズベルトは、中国が日本への満州割譲を納得するよう駐北京アメリカ
大使に説得させ、日本にはロシアからの賠償金ゼロをのませることで日露講和を成立させた」
ニューヨーク・タイムズが予想していた日本のシベリアの一部獲得は成らず、日本が得たのは同
じアジアの国の領土でしかなかった。これでロシアの顔は立ったが、日本と中国の間には逆に
不和と不信の芽だけが残った。
《仲裁の時期》 決して公平とはいえないこのルーズベルト外交についてアメリカイェール大学
のガディス・スミス教授が昨96年十月、クリントン大統領のイスラエル・パレスチナ仲裁外交と
比較した一文を発表している。教授はルーズベルトが他国間の問題に仲裁を買ってでた初めて
のアメリカ大統領だったこと、これによってアメリカ外交の地歩を揺るぎないものにし、その伝統
は後のウィルソン大統領などに受け継がれていったことを評価している。事実、ルーズベルトは
この功績で翌年、ノーベル平和賞を受賞した。
しかし、その手腕も日本では評判が悪かった。多大な戦費と戦死者を出しながら、賠償金ゼロと
いう「査定」が市民を憤らせた。 一方、アメリカの中にも日本の勝利で終わらせたことへの反発
が議会や軍部に生まれ、この見方は第二次大戦後までくすぶり続けた。ルーズベルトが変な時
期に仲裁したために「日本は世界の大国にのし上がり、アメリカの脅威となって、やがてはアメリ
カを巻き込む戦争を起こすことになった。ロシアもボルシェビキ革命を生み、より巨大な敵に成
長させてしまった」(E・ミラー「オレンジ計画」)と。 戦わせておけば脅威のどちらかは消滅してい
たという言い分である。
19 :
高山正之:02/03/20 12:43 ID:Ul7Uhyfc
■豆事典
▽クロキの軍 日露戦争の際の黒木為驕i木+貞)司令官(くろき・ためもと=1848−1925年)率
いる第1軍のこと。クロキ軍はアレクセイ・クロパトキン(1848−1925年)指揮下のロシア軍を奉天
会戦で破り、勇名をとどろかせた。ロシア軍は、その名に恐れをなし、黒木将軍赤痢にて死去と
のデマを流して兵士の士気を維持したといわれる。
▽ポーツマス アメリカニューハンプシャー州南東部にある大西洋に面した軍港都市。18世紀
には造船業が栄え、1790年代に軍艦の建造、修理を中心に軍港として発展した。1905年8月10
日からポーツマス講和会議が開かれ、日露両国は9月5日、講和条約に調印した。
▽変法自彊運動 中国の清国末期に起きた政治革命運動。日清戦争の敗戦と列強の中国分
割に危機感を持った清の康有為(こう・ゆうい)、梁啓超(りょう・けいちょう)ら若手官僚が1898年、
ヨーロッパの兵器や技術だけを導入しようとしたそれまでの洋務運動の限界を感じ、国政と教育
の改革によって清が自ら力をつけることを説いた。日本の明治維新に学ぶかたちとなり、憲法の
制定、国会の開設、科挙制の改革を目指して立憲君主制国家建設を主張した。しかし、同98年
9月の戊戌(ぼじゅつ)の政変によって運動を支えていた光緒帝が逮捕、幽閉され、西太后が宮
廷政治の実権を握ったことから、保守派官僚の弾圧を受け、康有為は日本に亡命した。
20 :
高山正之:02/03/20 15:04 ID:94D2sS9d
■ 太平洋序曲 日本勝利の波紋−1
白人不滅の神話が崩れた
1842年というと、イギリスがアヘン戦争の結果、清に香港を割譲させた年に当たるが、この年
に、イギリスはアフガンの併合もねらってカブールに出たが、こちらは中国人ほどお人よしでは
なかった。というか、イギリスに敵意をむきだしにした。今ではバッキンガム宮殿でしか見られな
い赤い軍服を着たイギリス兵とセポイ(インド人の雇兵)合わせて4500人、その家族、商人など
計1万7千人は42年1月6日、雪の舞うカブールから避難を始めた。
アフガン人の攻撃はその夜から始まり、1週間後にジャララバードのイギリス軍の砦に辿り着い
たのはW・ブライドロンという医師ただ1人だった。
《2つの教訓》 この事件はイギリス軍に2つの教訓を与えた。ひとつはアフガンは手ごわいと
いうこと。1世紀後、ソ連がこの教訓を無視してアフガンに侵攻し、崩壊を速めたことは記憶に新
しい。もうひとつはあの派手な赤い軍服は目立ち過ぎてかえって危険だという教訓で、イギリス
軍はこの悲劇のあと、アフガンの大地の色、カーキ色を軍服に採用している。
実はもうひとつ、植民地インドの兵士セポイに与えた教訓もあった。「有色民族は、白人には絶
対かなわない」という神話が嘘だとわかったことだ。かくてイギリスに対する初の抵抗、セポイの
反乱が起きた。
その意味で「日露戦争はアフガンのイギリス軍敗退などとは比較にならない巨大なインパクトを
世界、とくに大国の植民地支配にあえいでいた国々に与えた」と元駐日アルゼンチン大使で歴
史学者でもあるカルロス・フラギオ氏は語る。
例えば、日露戦争の時期に中東を歩いたイギリスのガートルード・ベル女史はその著書「シリア
縦断紀行」の中で、人里離れた夜営地でもイスラム教徒たちの話題が、最後は日露戦争の展開
に行き着くこと、そしてその話題のタネが最新の情報であることに触れている。
中東からアジア大陸に広がるイスラムの情報ネットワークのすごさもさることながら、注目すべき
は、そのイスラム教徒たちがまだ見ぬ日本人を「我々と同じ部族」と信じ込んでいたことだ。「シ
リアだけでなく、小アジアでもどこでも、すべての人が日本側に共感を抱いている」と「シリア縦
断紀行」は書いている。
エジプトでは民族派の機関紙「アル・モヤド」が「日本をイスラム国家に」して、植民地支配から
脱する戦いに協力を得るべきだと主張すれば、民族詩人のハフェズ・イブラヒムも「日露戦争」と
いう詩を発表して「今や黄色い人は/東洋にかつての日々を取り戻させ/黒い人も褐色の人も
同様の権利を認めさせたのだ」とうたいあげている。
山内昌之東大教授の「近代イスラームの挑戦」によるとイブラヒムは「日本の乙女」という作品も
発表し、これはアラブ諸国の教科書に長い間、載せられていたという。
21 :
高山正之:02/03/20 15:06 ID:94D2sS9d
《対応の変化》 そして、日露戦争に戦場を提供し、間近で勝敗を目撃した中国も大きな影響
を受けていた。今では信じにくいことだが、中国人は日本の勝利を喜び、例えば激戦地ムクデン
でロシアの敗北が決定的になると「満州の首都、新京では中国人と日本人が手を取り合って中
心街を練り歩き、花火がいつ果てるともなく夜空を飾った」とニューヨーク・タイムズ紙は伝える。
また、日本海海戦の一報が届くと「市民は歓呼してロシアの敗北のニュースを迎えた」とイギリス
のタイムズ紙は上海電で報じた。後に血の出るような日本への勧告(1924年の神戸講演)を行
うことになる孫逸仙(孫文)もこの時は感激をもって日本の勝利を語った。
「日本の登場で、これまで見下すだけだった白人たちのアジア諸国への対応が微妙に変わって
きた。以前はアジアの人々は白人諸国に後れをとり、絶対に追いつけないというのが一般的な
考えだったが、日本はその白人から学び、そして見事に彼らに追いつき、追い越した。我々中国
人は日本人にできることを自分たちもできることを知っている。つまり、白人がやれることが我々
にもまた、できることを悟らせたのだ」
《新たな風景》 中国からの留学生が続々と日本を目指し、東京に1万人を超える若い中国人
学生があふれたのもこの頃だが、こうした日中の新しい光景はヨーロッパを十分に驚かせるもの
だった。ドイツのフォン・グレイル前駐北京大使はベルリンで会議を開いて、「中国の日本化が進
むとヨーロッパの権益が失われる」と主張し、「アメリカ、イギリスと協力し、日本を押さえ込まね
ばならない」(ニューヨーク・タイムズ紙)と政府に警告を発している。
そういう騒ぎの中で、近代化に背を向けてきた清の西太后もやっと動く気になった。ただ、中国
の国土はこの時期、既に列強によりずたずたにされていた。例えば、フランスは雲南、広東、広
西など華南一帯の鉱山採掘権、鉄道敷設権を握っていた。イギリスは揚子江一帯で同様の利
権を獲得し、加えて海関(税関)も独占していた。
ドイツはドイツ人宣教師が殺されたのを口実に山東半島の膠州湾を租借、ベルギーもまた華中
横断の鉄道敷設権を得ていた。日本も福建の不割譲条約を結んで経済進出を果たし、加えて日
露戦争の結果、ロシアのもっていた満州の利権を引き継いでいた。
アメリカも米西戦争でフィリピンを取ってアジアの一角に足場を築き、中国にでてきたが、このよ
うに列強の分割は終わり、入り込む余地はなかった。それで、例の「門戸開放・機会均等」政策
が打ち出されるが、この趣旨はアメリカにも利権の分け前にあずかれる機会をよこせというもの
だった。
西太后は自らクーデターでつぶした康有為の変法自彊運動を復活させ、康有為の夢だった科挙
制の廃止にも踏み切った。ただ、遅きに失した。近代化への努力は孫文による1911年の辛亥
革命に待たねばならなかった。
22 :
高山正之:02/03/20 15:06 ID:94D2sS9d
■ 豆事典
▽孫文(1866−1925年) 中国の革命家、政治家。広東省の農家に生まれ、ハワイで成功した
兄の援助で西洋式教育を受けて医者となる。1895年、広州でほう起に失敗して中国から逃れ、
日本、イギリス、アメリカなどで亡命生活を送った。1905年には東京で中国革命同盟会を結成
し、三民主義を主唱。1911年10月の辛亥革命でアメリカから帰国して臨時大総統に就任。12年1
月には中華民国が発足したが、南北妥協の結果、大総統には軍閥の袁世凱が選ばれた。袁世
凱政権の独裁支配に対し、孫文は14年、中華革命党を組織して対抗したが、日本からの援助が
得られず失敗。19年に中国国民党を創設、軍閥打倒、不平等条約撤廃を実現させようとした。
▽門戸開放・機会均等 日清戦争後、欧州列強が中国に対し、租借、勢力範囲の設定という
形の分割を開始する中で、アメリカ国務長官ジョン・ヘイが1899年9月、イギリス、ドイツ、ロシア
に対し、門戸開放と通商上の機会均等などを内容とする通牒を出し、日本、イタリア、フランスに
対しても少し遅れて同様の通牒を出した。さらにアメリカ国は1900年の義和団事件の際も(1)中
国全土の機会均等の確立(2)中国の領土と行政の保全−を強調している。門戸開放と機会均等
のスローガンは、中国での当時の列強の勢力範囲を認めつつ、各域内の通商上の平等を要請
するもので、もともとは列強の中国分割によって伝統的な中国貿易の支配が脅かされることに
危機感を持ったイギリスが、アメリカに宣言を出すよう誘いをかけたといわれる。イギリスとして
は自らも揚子江流域に権益を保有していたことから、自分では切り出しにくかったという事情が
あったとみられる。
23 :
高山正之:02/03/20 15:08 ID:94D2sS9d
■ 太平洋序曲 日本勝利の波紋−2
多くの「トーゴー君」が生まれた
ポーランドのワレサ氏が1981年に来日したおり、「日本は友人だが、ソ連(ロシア)は兄弟さ」と
いった内容の発言があった。友達は選べるけれど兄弟は取捨選択できない、イヤな奴でも付き
合っていかなくちゃならないという意味だ。
そのポーランドから96年9月、千葉県の幕張メッセで開かれた国際政治学会にワルシャワ大学
のエバ・ルトコフスカヤ教授が顔を見せ、「日露戦争中の外交と情報収集」という分科会に出席
した。トルコ・ボスポラス大教授のセルチョク・エセンベル女史など7カ国から研究者が参加した
この分科会では、日露戦争当時の東欧を中心にした日本の情報活動と、その成果について研
究発表が行われた。
結論からいうと、日本の情報員たちは言葉や皮膚の色の違いを乗り越え、ロシア軍に関する情
報はもちろん、現在の金額に換算すると80億円もの工作費を使ってディスインフォメーション(虚
偽情報)を流したり、反ロシア組織に武器弾薬を調達して後方攪乱を図ったり、結構いい仕事を
していたという。
善しあしは別にして、駆け出しの近代国家、日本が海の向こうでCIAやKGBそこのけの活躍を
した、というだけでも新鮮な驚きだが、各国の分科会参加者によると、日露戦争の日本の勝利は
そんな情報活動以上の衝撃をロシアおよび周辺諸国に与えたという。
《東欧への影響》 当時、祖国を分割され、ロシアに事実上、併合されていたポーランドも衝
撃を受けた国のひとつだった。言葉はロシア語に統一され、徴兵の義務もロシア人と同じ。日露
戦争にも狩り出され、日本の捕虜になった者の10人に1人がポーランド人だった。
そして1905年1月、旅順陥落が伝えられる。ロシア本国で、いわゆる血の日曜日事件が起きる
と、ポーランドでも徴兵拒否、鉄道ストなど全土を巻き込んだゼネストが展開された。
ロシアの大公国(保護領)のひとつだったフィンランドでは、日露戦争の前年の1903年、いわゆ
る「ロシア化」政策が始められた。フィンランド語の使用が禁止され、学校ではロシア語を公用語
として教えた。通貨もロシアのルーブルになり、軍隊も解体され、ポーランドと同様、ロシア軍に
徴兵された。後にフィンランド独立の功労者となるマンネルヘイム将軍もこのとき、満州で日本
軍と戦っている。
そこへ、アジアの小国・日本がロシア軍を海戦でも地上戦でも破ったという報が届く。フィンランド
は同じようにロシアのくびきにつながれていたポーランドやカフカス、それにロシアの革命勢力ボ
ルシェビキと連帯してゼネストを起こした。このさい、日本から来た明石元二郎大佐がポーラン
ド、フィンランドの活動家に資金をわたし、武器弾薬が調達された。ただし、今回の分科会でもそ
の武器弾薬が有効に使われたという形跡は認められていない。結局、フィンランドでは日露戦争
の講和が成立したあとの1905年11月、ゼネストの成果としてロシア化政策を撤回させるのに
成功した。
24 :
高山正之:02/03/20 15:31 ID:i5ntPbG2
《トルコの協力》 東欧諸国以上にある種の感激をもって日露戦争を見守っていたのがオスマ
ントルコである。分科会に出たエセンベル教授によると、トルコはエカテリーナ二世時代からこの
ときまでに19回もロシアと戦って、勝ったのは1回だけ。負けるたびにウラルを奪われ、黒海沿
岸を失い、カフカスを取られてきた。どうしても歯の立たないロシアにアジアの小国、日本が宣戦
布告したのはアブドル・ハミット二世のときだった。
トルコにとって、日本は少なからぬ因縁がある。1890年(明治23年)、トルコ王族の1人、オスマ
ン・パシャ殿下が日本表敬の帰途、乗艦エルトゥールル号が紀伊半島沖で、台風のため沈没し
てしまった。オスマン殿下ら587人は遭難死したものの、乗組員69人は漁民の必死の努力で
救助された。この事件を機に両国の友好、交流が深められていたから、仇敵ロシアの対戦国は
見知らぬ他国ではなかった。以下はエンギン・ヤズジオウル駐日公使の話。
「トルコ政府は当時、黒海と地中海を結ぶボスポラス海峡と、ダーダネルス海峡と言う2つの海
峡を握っていた。日露開戦となれば黒海艦隊も出動するが、この海峡が国際協定で軍艦の通行
を禁止していたのを口実にロシアの黒海艦隊を通行止めにし、日本に協力した」
《アメリカにも波及》 イスタンブールでは茶道家元、山田寅次郎が日本政府の密命で艦隊の
動向を調査していたが、これも「知らぬふりをしてその活動を手助けした」という。新聞は連日の
ように戦争の行方をトップで伝え、日本が陸戦や海戦で勝つたびに皇帝は宮殿に日本人を招い
て勝利を祝った。山田寅次郎は日本への報告書に「宮殿には三度呼ばれ、スルタンから勝利の
祝賀を受けた」と書いている。
そして日本海海戦の劇的な勝利が伝えられると、「新聞は自国のものであるかのように勝利の
記事で紙面を埋め、市民は街中を歓呼の渦で埋めた。その年に生まれた子供にはトーゴーの名
がつけられた」と公使は語る。トルコの高級靴チェーン店「トーゴー」も東郷平八郎にちなんだも
のだという。
イギリス、ロシアに牛耳られていたペルシャも「日本のように強く、日本のように独立を全うする
ために日本と手を取らねばならない」と新聞が書き立て、やがてレザ・シャー(後に国王)が登場
して、イスラム国家から共和国に衣替えを急ぐ。その息子モハメド・レザ・パーレビは1979年に
ホメイニ師のイラン・イスラム革命によって国を追われる事になるが、直接のきっかけはパーレ
ビ国王が「西の日本たれ」の目標で始めた「白色革命」だった。
それほどまでに強烈なインパクトは、当然ながら太平洋の反対側、アメリカにも波及していった。
25 :
高山正之:02/03/20 15:34 ID:i5ntPbG2
■豆事典
☆レフ・ワレサ(1943年−) 造船所の電気技師時代の80年9月、自主管理労組「連帯」を結成し
て議長に就任。共産党政権と対立して投獄された。82年に釈放され、翌83年ノーベル平和賞受
賞。90年12月の大統領選でポーランド初代大統領となったが、95年の選挙で旧共産党系候補に
敗れ、現在は連帯の顧問。
☆血の日曜日事件 ロシア第1革命の発端。1905年1月22日、ロシアの首都サンクトペテルブ
ルクで官製労働組合員の解雇事件に反対するストが広がる中で、労組指導者の司祭ガポンが
皇帝ニコライ2世に直訴するため冬宮を目指した。冬宮周辺には10万近い群衆が集まり、軍と
群衆の衝突、発砲事件で数百人とみられる死者が出た。日露戦争の最中に起きたこの事件でロ
シアのツァーリ(皇帝)信仰は崩れ、1917年の2月、10月革命へとつながる。
☆明石元二郎(1864−1919年) ロシア公使館付き武官時代の1905年にロシア第1革命が起き
革命派と接触して情報活動を行った。後に台湾総督などを歴任。
☆アブドル・ハミト2世(1842−1918年) オスマントルコ帝国末期の皇帝。帝国の復権をはかった
が、同時に革新派、異民族弾圧の流血政治で「赤いスルタン」とも呼ばれた。クーデターで1909
年に退位。
☆山田寅次郎(1866−1956年) 茶人。エルトゥールル号遭難事件後、全国から弔慰金を募って
トルコに渡り、日本とトルコの交流発展に尽力した。
☆モハメド・レザ・パーレビ(1919−80年) 41年、イラン国王に即位。63年にイランの近代化、脱
イスラム化をはかる白色革命に着手した。貧富の差への不満や宗教改革に対する回教徒の恨
みなどからイラン全土に反国王デモが広がり、79年、国外に退去した。
☆アヤトラ・ホメイニ(1900−89年) イスラム教シーア派の宗教指導者。白色革命に反対してイ
ランを追われ、国外で王政批判を展開。79年のイラン・イスラム革命で象徴的存在としてパリか
ら帰国、イランの最高指導者となった。
26 :
高山正之:02/03/20 15:44 ID:Z+rdihvj
■ 太平洋序曲 日本勝利の波紋 (3)
アメリカ黒人層は日本に期待した
日露戦争の波紋は太平洋を越えてアメリカにも届いていた。とくに奴隷制度から解放され、自立
を模索する黒人グループに「二つ目の、そして決定的な」影響を与えていたことが昨96年、カリ
フォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)のJ・リプシッツ教授の研究で明らかにされた。
《兵士の反乱》 「二つ目」としたのは、フィリピン独立運動平定のさい、アメリカ政府を青ざめさ
せた“たった一人の黒人兵士の反乱”がこの日露戦争の直前にあったばかりだったからだ。
ここで当時のフィリピン情勢をおさらいすると、1897年8月、マニラ国軍基地にその名を残すエ
ミリオ・アギナルド将軍が宗主国スペインに対し独立戦争を起こした。スペイン軍はそれ以前か
ら独立運動には弾圧策で臨み、前年には国民の心の支えだった詩人ホセ・リサールまで処刑し
ていたが、ここにアメリカが登場する。アギナルドに支援を約束してアメリカは翌年四月、スペイ
ンに宣戦布告。八月にはマニラを押さえ、そのまま新しい宗主国として収まってしまった。太平洋
の覇権を握り、アジア市場への足掛かりとするための拠点にしたのだ。
この違約にフィリピン国民は怒った。1899年、アギナルド将軍はアメリカを相手に独立闘争を
起こして新興の日本に協力を求めた。一方、アギナルドはアメリカ軍の中の黒人兵にも呼応する
よう呼びかけた。これにこたえたのがアギナルド討伐に派遣されたアメリカ第24歩兵連隊所属
のデビッド・ファーゲンだった。彼は「白人が有色人種を支配する手助けをさせられ、アギナルド
の独立運動に銃を向けることの矛盾を感じた」と手記を残している。
ファーゲンの反乱は人種問題を内包するアメリカ政府を十分、困惑させた。アメリカは莫大な懸
賞までかけて「事件」を闇に葬ろうとしたが、彼はフィリピン女性と結婚して5年にわたるゲリラ
戦を戦い、最後まで逃げ延びたといわれる。
この事件がまだ余韻を残している中で日露戦争が起き、日本が勝った。
《予言者再来》 「デビッド・ファーゲンの反乱に拍手した黒人層は、日本の勝利に白人支配打
倒の可能性を見つけたと快哉を叫び、日本をリーダーに見立てるブラック・パシフィック構想さえ
生まれた」とリプシッツ教授はいう。黒人はアフリカ(大西洋)を向くのではなく、太平洋を向いて日
本などアジア人と共闘すべきだという政治的主張だが、やがてこの構想に宗教的意義を持たせ
る団体もでてきた。
「ネーション・オブ・イスラム(NOI)」などイスラム系の組織の中には、日本のことを、悪(白人)の
世界を終わらせ、黒人の至福の世界に導く、“再来した預言者”に祭り上げるところさえあったと
いう。事実、ネーション・オブ・イスラムやその分派「アラーのイスラム寺院(ATOI)」の集会では
「エゼキエルの船」の“説話”が語られている。
27 :
高山正之:02/03/20 15:46 ID:Z+rdihvj
旧約聖書の預言者の名をつけた「船」は一言でいえば空飛ぶ航空母艦のことで、艦載機約1千
機、それぞれの戦闘機は「地表に深さ1マイル(約1・6キロ)の穴をうがち、50マイル(約80キロ)
四方を一瞬にして破壊する高性能の爆弾」を搭載する。そしてその空飛ぶ航空母艦の「設計図
はメッカで描かれ、日本に送られて建造された」というのである。
マーカス・ガービーは「世界黒人向上協会(UNIA)」を主宰し、自ら「黒人のモーゼ」を名乗ったが
第一次大戦の直後に第二次大戦を予言し、「その戦争では白人対黒人・日本の連合軍が戦い、
我々が勝つ」とも語っている。
アメリカの黒人層にここまで見込まれていたことは実はリプシッツ教授の話を聞くまで全く知らな
かったが、黒人運動史の研究家で、カリフォルニア大学サンディエゴ校のアーネスト・アレン教授
によると、こうした黒人団体の日本志向が明らかになったのは太平洋戦争のさなかの1942年
のことだった。
1942年9月、アメリカ連邦捜査局(FBI)はシカゴ、セントルイスなどの都市で徴兵拒否や反戦
運動を展開していた黒人組織の手入れを行った。この捜査の対象になったのは、前述した「AT
OI」や、「UNIA」の流れをくむ「エチオピア平和運動」など9団体で、中には全米に50もの支部
をもつ組織もあった。
《多方面へ影響》 この事件では結局、85人が起訴されたが、当局は押収した文書から親日
的活動が広く黒人社会に浸透している事に驚かされ、事件の公表は行わなかったという。ちな
みに起訴罪名は単純な徴兵忌避罪から騒乱罪や国家背信などの重罪まで含まれていた。
日露戦争の黒人層への影響はこの事件以外にもアメリカ社会のあちこちで見受けられる。例え
ば、当の日露戦争の最中にアメリカのハースト系などの新聞が一斉に日本人排斥キャンペーン
を張ったとき、唯一、日本擁護に回ったのは黒人系新聞だった。
後に黒人解放運動のリーダーの1人となるマルコムXが徴兵検査を前に「オレは軍隊に入って
戦いたい。ただし、入りたい軍隊はただひとつ、日本陸軍だ」と発言し、これがもとで徴兵猶予処
分となっている。
ついでながら、前述したマーカス・ガービーの「UNIA」のニューヨーク支部に1920年代、阮愛
国と名乗る若いベトナム人船員が訪れ、集会に参加してブラック・パシフィック構想を熱心に勉
強した。ガービーの信頼を得たこの船員はまもなく故国に戻り、その二十年後、「モクハイ」とい
う名の軍隊を率いて20世紀の歴史に登場する。彼の名はホー・チ・ミン。そして、「モクハイ」は
ベトナム語で「一、二」を意味し、フランス領インドシナに進駐した日本軍が行進のさいに使った
号令「いちっ、にっ」をそのまま取りいれたものだった。
28 :
高山正之:02/03/20 15:47 ID:Z+rdihvj
■ 豆事典
▽エミリオ・アギナルド(1869−1964年) フィリピン独立運動の指導者。98年の米西戦争開戦時
に亡命先から帰国し、スペインと戦って独立を宣言。アメリカが即時完全独立を認めなかったた
め、今度はアメリカ支配に抵抗する革命組織を結成したが、1901年に捕らえられ、アメリカに服
従を誓った。フィリピンは第2次大戦後の46年に独立。アギナルドは晩年、大統領の諮問機関、
国家評議会のメンバーとなった。
▽ホセ・リサール(1861−96年) 詩人。フィリピンの国民的英雄。19世紀末、フィリピン民族主義
運動の指導者として革命的人道主義思想を訴え、フィリピン独立運動に影響を与えた。96年12
月、スペイン軍により処刑された。
▽ネーション・オブ・イスラム アメリカの黒人イスラム教団体。1930年代に分裂状態となった
が、50年代に再建。現指導者ルイス・ファラカン氏はユダヤ人に対する言動などから人種差別主
義者と批判されているが、95年にはワシントンで「ミリオン・マン・マーチ」を主催、約40万人の参
加者を集めた。
▽マルコムX(1925−65年) アメリカ黒人運動指導者。若いころ、刑務所でブラック・モスレムの
教義に接し、「ネーション・オブ・イスラム」の有力メンバーとなった。キング牧師らの公民権運動
を「白人社会への同化や融和をはかるもの」と批判し、過激な発言で注目されたが、ネーション・
オブ・イスラムを離れ、新たな活動を開始しようとしていた1965年、ニューヨークの集会所で射殺
された。
▽ホー・チ・ミン(1890−1969年) ベトナム共産党創立者。ベトナム民主共和国初代国家主席。
ベトナム中部の儒学者の家に生まれ、1911年、フランス船の見習いコックとなる。41年、ベトナム
に戻り、45年には自ら独立宣言を起草したベトナム民主共和国(北ベトナム)の初代国家主席に
就任。ベトナムでは旧宗主国フランス、次いでアメリカ、南ベトナムとの戦争が続き、ホー・チ・ミ
ン死後の75年に南ベトナムの首都サイゴンが陥落。ベトナム戦争は北ベトナムの勝利となり、翌
76年の南北統一総選挙後、国名はベトナム社会主義共和国となった。
こんな会社で働いている社員って情けないだろなあ
30 :
社員:02/03/20 23:15 ID:GdOgsGG8
今、俺の知ってるだけで本社勤務のMRが6,7人が
転職をかなり真剣に考えてます。
31 :
高山正之:02/03/20 23:15 ID:bqWt7vre
■ 太平洋序曲 日本勝利の波紋−4
アメリカは日本に好意的だった
ブロードウエーのヒットミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」は帝政ロシアの時代、いたぶ
られ、略奪され、生きていくことさえ脅かされたユダヤ人たちの物語が背景になっている。こうし
た人種に対するいじめ、いわゆるポグロムは20世紀に入ってからもロシアに限らず、東欧でも
ごく当たり前に行われていた。
ソ連崩壊後、東欧やロシアのユダヤ人がアメリカにも数多く移ってきたが、そうしたポグロム経験
者も何人かいて、ロサンゼルス郊外に住むパラサ・ドゥブロスカヤ(94)は、故郷のキエフで3度暴行された、と話してくれた。「そんな恐怖のないアメリカに来るまで80年待ちました」という。
《中国人迫害》 しかし、実は人種にまつわる同じような迫害はアメリカでも行われていたこと
を彼女は知らなかった。それはまず中国人、そして日露戦争のさなかには日本人を標的にして
起きている。
順を追って話すと、まず中国人だが、彼らがアメリカに来るきっかけはカリフォルニアのゴールド
ラッシュだった。1851年には2700人がアメリカにやってきて、以後の30年間で約12万人に
膨れ上がる。この中には清朝に抵抗してアヘン戦争でイギリス側についた「紅幇(ホンパン)」な
ど戻る国を失った漢民族組織も含まれていたが、劣悪な環境に耐えて「薬、衣料、理髪、それに
レストランなど多様な職業」(サンフランシスコの月刊誌オーバランド、1868年8月号)に就いて
根付いていった。
しかし、「黄色い顔」と「弁髪」の移民たちが町にあふれてくると、貧困層の白人労働者との間に
衝突が始まる。当時のジャーナリスト、ジョン・ヒッテルは「カリフォルニア史」の中で、1850年
代に、既に「年間538人の黄色人種が殺され、その大半は中国人だった」と記録している。
1870年代に入ると、白人優越主義者の団体が動きだし、これにサンフランシスコ・クロニクル
紙などの有力紙が同調して対中国人ポグロムは野火のように広がった。1871年、ロサンゼル
スのチャイナタウンで起きた襲撃事件は、千人の白人暴徒が街を襲い、中国人男性22人を捕ら
え、その場で首に縄をかけてリンチ処刑している。76年にも2カ月の間に4カ所の中国人街が
襲われている。
ワイオミング州では85年9月、千人を超える白人炭鉱夫がロックスプリングの中国人街を夜襲
して商店街を焼き、逃げ惑う中国人を虐殺した。ワイオミング州知事から連邦政府への兵員動
員要請書は「撲殺された者16人、焼け跡から掘り出された死体50〜60を発見。なお発掘不能
の死体は無数ある見込み」と報告し、「中国からの移民」(M・R・クーリッジ)には「この迫害で中
国人が何人かでも生き残っていることが奇跡だ」と書いている。
こうした動きに同調して、ゴールドラッシュのさなかに中国人が金鉱鉱区をもつことを禁止したり
白人と結婚することを禁じるなど、白人と同格の権利を主張することを法的に規制する州政府も
出てきた。連邦政府も中国人の市民権を否定し、80年代には「排華法」を制定してアメリカへの
入国の道も閉ざした。
32 :
高山正之:02/03/20 23:17 ID:bqWt7vre
《奇妙な国》 人種差別の極め付きは93年のサンフランシスコ教育委員会の中国人生徒隔
離令である。「伝染病や(犯罪、麻薬などの)悪習ある生徒、またはインディアン、中国人、モンゴ
ル人のための隔離学校をつくることができる」という州の教育法に基づいたもので、中国人はつ
いに学校からも締め出されてしまった。
アメリカ本土への日本人移民が始まったのはまさにこの時期だった。ただ、この時点で日本人に
対する評価は、悪いものではなかった。各地の中国人街が襲われていた1875年当時の初等
地理教科書には「アメリカが開国した日本では政府が改革され、鉄道や電信が敷設された。
最良のアメリカ人、欧州人の技師や教師が招かれ、多くの留学生がわが国で学んでいる。日本
は急速に文明化し、中国よりはるかに進歩してしまった。日本人はモンゴロイドの中で最も進ん
だ革新的な人々である」(粂井輝子「外国人をめぐる社会学」)と紹介されている。
また、日本が参加した1876年のフィラデルフィア万国博では「未開と思っていた国が高度文明
の最も誇り得る証拠とみなされる芸術において、欧州の水準より一段と光彩を放っていた」「礼
儀をわきまえ、親切で、それに加えて日本人は巧まざる自然さをもっている」(ニール・ハリスンの
「世界は坩堝か」から)と好意的な評判をとっていた。
だから、「日本と中国は両方ともおかしな国です。でも日本は奇妙であっても創造的、芸術的な
性質があるんですが、中国はただ奇妙なだけ」と当時、人気のあったマリエッタ・ホーリーは社会
時評小説の中で書いたりもしている。
《移民わずか》 こうした評価が出てきた理由としては、アメリカ内で当時、中国人移民に比べ、
日本人の数が圧倒的に少なかったことがあげられる。このころの渡米経験者は高橋是清や小村
寿太郎ら政府留学生組、後のコミンテルン執行委員の片山潜、上野の彰義隊から脱走した木村
熊二(明治女学院創設者)、札幌農学校出身の志賀重昂、少し遅れるが、13歳の若さで単身渡
米した松岡洋右など、わずかな人数だった。実際、アメリカの国勢調査でも日本人は1870年が
55人、80年でも148人どまりだった。
アメリカ内での評価は高かった。おまけにアメリカから帰国した片山潜や志賀重昂らは「自由と
可能性の国アメリカ」の素晴らしさをあおった。その結果、いわゆる官約移民が始まった1885
年(明治18年)以降、アメリカに向かう日本人の数は増え、20世紀の初めには全米で2万4千人
にものぼった。そして、アメリカの態度も変わった。
33 :
高山正之:02/03/20 23:18 ID:bqWt7vre
■ 豆事典
▽ポグロム ユダヤ人に対する組織的な虐殺や掠奪を意味するロシア語。帝政ロシアでは国内
の不満をそらせる目的で反ユダヤ人政策がとられ、それがポグロムにつながった。日露戦争後
には一段とその傾向が強まった。
▽紅幇(ホンパン) 中国の旧社会で、農民の互助自衛組織として存在した秘密結社のひとつであり、強い団結と厳格な規律を持ち、清末には支配層である満州民族に対する対決姿勢を強く
打ち出して辛亥革命の原動力のひとつにもなった。
▽排華法 アメリカで19世紀後半から20世紀初頭にかけて制定された中国人移民の制限法。19
世紀後半にアメリカに入国した中国人移民の多くは福建、広東省などの貧農の出身で、過酷な
労働条件のもとで鉄道建設や西部の開拓事業に従事し、最初のアジア系移民として迫害や人
種差別的立法に直面した。アメリカ連邦議会は1875年に中国人の契約労働移民を禁止。82年に
は政府が直接移民統制に乗り出す排斥移民法を制定して、中国人労働者の移民を10年間停止
し、中国人移民の帰化権も否定した。さらに88年には国外に出た中国人移民の再入国が禁止さ
れ、その後も中国人に対する移民停止期間が延長されたうえ、1904年には停止措置が永久化さ
れた。この法律は第2次大戦さなかの43年まで存続した。
▽片山潜(1859−1933年) 明治、大正期の社会、共産主義者。1884年から95年までアメリカに
留学し、帰国後、キリスト教社会主義者として社会活動に従事。1901年には日本初の社会主義
政党、社会民主党を結成したが、即日活動禁止となる。1906年、日本社会党に参加し、14年に
はアメリカに亡命。ロシア革命後は共産主義思想に傾倒し、21年にモスクワに移った。翌年から
コミンテルン常任執行委員となり、国外から日本の共産主義勢力を指導した。モスクワのクレム
リン病院で死去した。
34 :
卵の名無しさん:02/03/20 23:21 ID:auJviYRe
まともな奴はとっくに辞めてるなあ。
一体誰のために働いているんだろう?
少なくとも自分のためではないなあ、この会社は。
35 :
高山後援会:02/03/20 23:26 ID:uye4pVqS
みなさん頑張ってますね
36 :
高山正之:02/03/20 23:34 ID:KTrcZ1+e
■ 太平洋序曲 日本勝利の波紋−5
日本人排斥は拡大していった
「その日は何かが起きそうな不快な蒸し暑さに包まれていた」ハワード・スギモトは1907年9月
カナダのバンクーバーで起きた日本人街襲撃事件を「1907・バンクーバー暴動」の中で、そう
書き起こしている。
《3万人蜂起》 夜になっても衰えない暑さの中で「約3万人の白人市民が市庁舎で開かれた
排日決起集会に集まった」、カリフォルニアで日本人追い出しを進めるアメリカ人の活動家が立ち
上がり、日本人の危険性をアジり、ニュージーランドからの来賓は「黄色い汚いアジア人」の入
国をいかに巧みに阻止したかを語り、市長が真っ先に立ち上がって拍手を送った。
午後10時ごろ、興奮は頂点に達し、市庁舎を取り巻く群衆のうち7千人が数ブロック離れたウエ
ストミンスター通りの日本人街に行進を始めた。群衆は日本人学校に火を放ち、それでさらに興
奮した一群が日本人街になだれ込んだ。
ポグロム(人種偏見に根差す打ち壊し)では、襲われる側は無抵抗なのが常だった。抵抗すれ
ば、前述したロサンゼルスの中国人街のようにすさまじいリンチ殺人を呼ぶ。しかし、日系居住
者は「屋根に木材や石を積み上げ、突入する群衆に反撃を加えた」とスギモトは書く。
「建物の陰からは数人ずつの切り込み隊が飛び出して群衆に打ってかかった。負傷者がでると
別の遊撃隊がでて、ケガ人を収容していった」、別の資料では「日本人は刀を握っていた」とも伝
える。思わぬ反撃に群衆はひるみ、警察が介入して事態はやっと収まった。「日本人街の59戸
が打ち壊され、双方で数十人のケガ人を出した」という。
北米大陸で日本人排斥が表面化、過激化するのは日露戦争のころからだ。ある意味ではこれも
日露戦争の波紋といえる。その火付け役になったのがサンフランシスコ・クロニクル紙などの新
聞だったことも注目される。
例えば、クロニクル紙の1905年3月6日付は「日本からの移民の37人に1人が伝染性の強い
トラコーマなど不潔な病をもっている。これはエリス島にくる白人移民の30倍で、いかに日本人
が不潔か分かるだろう」と生理的な嫌悪感に訴え、「彼らは怠惰で、働くことを嫌い、とばくや売
春に走る不道徳な生活を送っている」と書いている。
《帰化を拒否》 日付では「茶色い連中が白人の知識を盗む」の見出しで「日本はアメリカの
企業家や発明家が大きな投資と努力で実らせた成果を無断で盗用し、そっくり物まねをして利
益を上げている」と移民だけでなく日本にも非難の矛先が向き、さらに6日たつと「市民、黄禍に
立ち上がる」(19日付)となる。
日本人の人口わずか4千人のサンフランシスコ市で「日本人移民は夜昼なく白人の集団に襲わ
れ、袋だたきにされ」「日系人が多く営業していた洗濯屋は格好の標的にされ、店を壊され、配
達中の衣服が汚物で汚され」(「日系アメリカ人カリキュラム」)る事件が相次いだ。
37 :
高山正之:02/03/20 23:36 ID:KTrcZ1+e
そんなさなかの1906年4月、サンフランシスコを大地震が襲い、3日間燃え続けた炎は市の大
半を灰にした。日本では、学校や街角で募金活動が行われ、各国援助金の中で最高の50万
円、現在の金額にして50億円の見舞金を同市に送った。日本排斥の火の手が少しでも和らげ
ばという配慮もあった。
しかし、それでも日本排斥は止まらなかった。この年(1906年)だけで日本人に対する傷害事件は
39件、家屋破壊は18件にのぼり、冒頭に紹介したバンクーバー暴動にまで拡大していく。
さらに、こうした動きにサンフランシスコ市教育委員会が同調し、かつて中国人生徒を締め出し
たサンフランシスコ州教育令を今度は日本人に適用する方針を決めた。地震で校舎が不足した
というのが口実だったが、このときの全生徒数2万5千人に対し該当する日本人生徒はわずか
に93人であり、人種差別があまりにも見え透いていた。
結局、セオドア・ルーズベルト大統領が乗り出して、一時中断する代わりに日本政府は移民を自
主的に制限する「紳士協定」をのんだ。日本政府はこの屈辱的な協定を長らく極秘扱いとして国
民には知らせなかったが、アメリカ司法省はさらに追い打ちをかけるように、全米の裁判所に日
本人の帰化申請を拒否するよう指示した。これで日本人の市民権獲得の道は事実上、閉ざされ
てしまった。
《理由は…?》 つい数年前まで「アジア人の中でもっとも美しく、礼儀正しく、正直で知的」(ア
メリカ地理教科書)とされた日本人に対する、この手のひらを返すような扱いについて、在米日本
人会はこう分析している。
原因としてまず考えられるのは、中国人移民と同様、日本人移民が増加したことだ。しかし、19
01年までの日本人入国者数は14万人で、アメリカの全移民955万人の1・6%に過ぎない。
しかも半分は出稼ぎ組ですでに帰国していたから、実際にアメリカで暮らしていた日本人移民の数は全移民の1%以下となる。
「日本の脅威」を指摘する意見もある。日米戦争となれば日本人移民は日本がアメリカ内に持ち
込んだ「トロイの木馬」になるという考え方だ。しかし、この時点でのアメリカは保有戦艦、装甲巡
洋艦計35隻で、25隻の日本をしのぐ大海軍国家。それ以前の日本がアメリカより戦艦を多く保
有していた時代の方が関係は良好だった。
結局、移民の増加も日本脅威論も十分な説明にはならない。「日本人は稼いだ金を送金すると
非難するかと思えば、日本人はアメリカの土地に投資するのがけしからんという。同化しないと
批判されるので帰化しようとすればそれは許さない。劣等にして卑しむべき人種といったかと思
えば、優秀にして恐るべき競争者と警戒される」といった調子で「どうも日本人だから嫌われると
しか思えない」(若槻泰雄著「排日の歴史」)という結論も出てくる。そして1913年、アメリカは決
定的な排日法案、日本人の土地所有禁止法を成立させる。日本は怒った。
38 :
高山正之?:02/03/20 23:37 ID:wm5A/BTL
この会社は病んでる、狂ってる。
ところで高山正之って何者ですか。
39 :
飛騨:02/03/20 23:55 ID:hlA1jNan
こらぁぁ! 激怒じゃ!!
この始末どうつけるつもりじゃ!
age
41 :
高山正之:02/03/21 10:06 ID:GkFvfd0m
■ 豆事典
▽エリス島 ニューヨーク市のハドソン川の河口にある小島。1892年から1954年までの間、アメ
リカ移民局の施設が置かれ、約1200万の移民の入国審査が行われた。近くのリバティ・アイラン
ドにある自由の女神像とともに、とくに船で大西洋をわたって新大陸にやってきたヨーロッパから
の移民たちにとっては新たな世界への玄関口として象徴的な意味をもっていた。移民局の施設
は現在、移民の歴史を伝える博物館として保存されている。
▽サンフランシスコ大地震 1906年4月18日早朝、サンフランシスコを襲ったマグニチュード8.3
の大地震。死者1000人以上。家屋を失った市民は25万人という被害を出した。がれきの山と化し
たサンフランシスコは地震後の火災で火の海となり、市の3分の2が焼失した。地震の痛手は大
きかったが、サンフランシスコ市は1914年のパナマ運河開通などで立ち直り、「フェニックス(不死
鳥)」を市のシンボルマークにしている。
42 :
高山正之:02/03/21 10:07 ID:GkFvfd0m
■ 太平洋序曲 日本勝利の波紋−6
消えなかった欧米への思慕の情
カリフォルニア州議会が1913年に成立させた外国人土地法は「アメリカ市民になり得ない外国
人」は「農地」を所有できず、「没収される」と規定していた。この法律の意味するところはただひ
とつ、日本人追放だった。「アメリカ市民になり得ない」のは当時の移民法の規定ではアメリカ属
領のフィリピン人を除くアジア人だけであり、その中で農業を主に営んでいたのは日本人だけだ
からだ。カリフォルニア州では約3万人が農業に従事し、保有耕地は1万1千ヘクタールに達し
ていた。
このニュースが伝わると、それまで公立学校からの締め出し問題などを耐えてきた日本人もさす
がに憤りを示した。とくに日本政府の抗議を無視するようにこの排日土地法がオレゴン、ワシン
トンなど13の州で相次いで成立していくに及んで、日本国内でも東京・日比谷公園など各地で
抗議集会が開かれた。
しかし、アメリカが太平洋の覇を競う相手に擬した日本は、そのアメリカに対して不思議な心情
をもっていた。思慕の情といってもいいかもしれない。例えば、幕府留学生としてイギリスで学び
アメリカ生活の経験もある森有礼は「日本語では文明開化ならず」と英語の採用を建議し、さら
に「日本人を改良せねばならぬ故、欧米人と雑婚するの要あり」と官費留学生に「アメリカの娘と
交際し、その女子と結婚して帰国せよ」と命じている。
《排日と熱愛》 また、アメリカの国際政治学者リチャード・ストーリーは「田をつぶし、牧羊に
切り替えるべし」や「キリスト教転向」が明治のリーダー格によってまじめに論議されたことを「日
本と西洋」という論文集の中で指摘している。こうした欧米熱愛は明治人の心の中にもうひとつ
の意識として刷り込まれ、「アメリカが好きで好きでたまらない」という現在の日本人にも通用す
る深層心理となっていった。
だから、このような一連の排日騒ぎでも「恥を海外にさらし、日本の声価を落とし…」(埴原書記
官報告書)と、むしろ排日の原因は日本にありという自己批判が外務省から出る。愛されないの
は我々の責任だというわけだ。そして、「自立し、ロシアに戦勝した日本を他の蒙古人種より除
外して欧米人と同等の権利を与えるよう」(中央公論1907年11月)といった求愛の論調も生ま
れる。
そんなさなかの1914年、第一次大戦が起きる。レーニンが「世界再分割を目指す帝国主義列
強の角逐」と定義したように、この戦争は平たく言えば植民地をたくさん獲得したイギリス、フラ
ンスと獲得に出遅れたドイツの戦いだった。
《参戦へ…》 日本にはあまり関係はなかった。イギリスとは日英同盟のよしみはあったが、こ
れは防御同盟で、厳正中立を保てばいい。むしろ、アメリカと並んで露骨な排日政策をとるカナ
ダ、オーストラリアと組むことに抵抗する意見もあったが、結局、日本は参戦に踏み切った。
43 :
高山正之:02/03/21 10:18 ID:W7Bkha3A
イギリス軍と協力してドイツ租借地の山東半島の青島を陥落させると同時に太平洋での連合軍
艦船護衛の任務についている。
当時、ドイツ艦隊は大暴れしていた。インド洋では軽巡洋艦「エムデン」がマドラス、ペナンなどを
砲撃して、迎え撃ちにいったロシア艦やフランス駆逐艦を撃沈、太平洋では戦艦「シャルン・ホル
スト」以下のフォン・シュペー中将率いるドイツ艦隊がチリ沖でイギリス艦隊と遭遇、イギリス側
は戦艦「モンマス」「グッドホープ」が撃沈される大敗を喫していた。
日本は装甲巡洋艦「出雲」「浅間」、それに戦艦「肥前」を出動させ、カナダ・エスカイモールド港
を基地に任務についた。ちなみに「肥前」は日露戦争のおり、旅順港に沈んだロシア艦「レトビザ
ン」を修復、再就役させたものだ。その「肥前」「浅間」はまずホノルルに入港したドイツ艦「ガイ
エル」を追い、ドイツ艦は出港して日本艦と戦うことなく艦を放棄する。
日本艦隊はその後、イギリス巡洋艦「ニューカッスル」、オーストラリア戦艦「オーストラリア」と合
流し、ドイツ艦隊を追って南太平洋を下るが、そのころ日本では、サンフランシスコで開かれるパ
ナマ運河開通記念万国博に参加するかどうかと言う、もうひとつの難題が起きていた。
サンフランシスコといえば日本人学童の締め出しを図るなど排日運動の最も激しいところであり
フィーラン市長は日本人を「西海岸の寄生虫」と公言し、万博役員のC・ラウエルも「道義心なき
日本人…」と非難していたこともあって、不参加を叫ぶ声は強かった。とくにパナマ運河はすでに
触れたようにアメリカが日本を太平洋の脅威として捕らえて建設を急いだ“軍事施設”でもある。
悩んだ日本政府はそれでも参加を決め、外国出品館の中では最も大掛かりな展示を行った。
《必死に貢ぐ》 さて、第一次大戦の方。大詰めの1917年、ドイツが無差別潜水艦攻撃を開
始すると、連合国軍は日本に大西洋、地中海、バルト海などでの連合国軍艦船の護送任務や
援助物資を求めてきた。日本はこの作戦に、「明石」「出雲」「日進」の3巡洋艦と12隻の駆逐
艦、2隻の特務艦を派遣した。
防衛庁戦史資料室のデータからだが、日本は終戦までの約2年間に大西洋、地中海などで延べ
788隻の艦船の護衛に当たったほか、潜水艦攻撃で沈没した艦船の乗組員7075人を救助し
ている。日本艦隊にも当然の事ながら被害が出て、駆逐艦「榊」がドイツ艦の攻撃で沈没するな
ど計78人が殉職した。戦死者の慰霊碑はマルタ島に今も残されている。
セオドア・ルーズベルトの手記「ジャパン・プロブレム」によると「日本はロシアに3隻の巡洋艦を
貸与、セルビア、ルーマニア、イギリス、フランスに食糧、医薬品、銅を送った」ほか、「カナダ軍
に2千人の日本兵が参加」したことや「インドで展開されたドイツの謀略を食い止めた」ことにも
言及している。愛を求め必死に貢ぐ姿がここにも見える。
44 :
高山正之:02/03/21 10:19 ID:W7Bkha3A
■ 豆事典
▽外国人土地法(外国人土地所有禁止法) カリフォルニア州では1913年5月19日に知事が署
名し、その3カ月後に日本政府が非難するなかで施行された。帰化資格のない日本人移民の土
地所有の禁止や3年を限度にした借地制限を定めている。
▽森有礼(もり・ありのり=1847−89年) 明治政府の文部大臣。1865年(慶応元年)、薩摩藩の留
学生としてロンドン大学に留学。アメリカを経由して68年(明治元年)にいったん帰国したが、2年
後には少弁務使としてアメリカに赴任。アメリカの識者に日本の教育について助言を求め、「日
本の教育」(1873年)を刊行した。帰国後、アメリカ人ホイットニーを招いて商法講習所(一橋大学)
を創設。85年(明治18年)、文相に就任。帝国大学令、師範学校令、中学校令、小学校令などを
公布して教育体制を中央集権的に整え、今日の学校制度の基礎を作った。89年(明治22年)2月
11日の憲法発布の朝、国粋主義者、西野文太郎に刺され、翌日死去。
▽青島攻撃 日英同盟を理由にドイツに宣戦布告した日本は1914年11月7日、ドイツの中国に
おける拠点、青島(チンタオ)を占領。ドイツは1898年以来、山東半島の膠州(こうしゅう)湾を中国
から租借していたが、青島陥落により山東半島から完全に撤退。青島は日本に占領された後、
1922年、中国に返還された。
▽無差別潜水艦攻撃 1917年2月から始まったドイツの潜水艦Uボートによる無警告無制限の
攻撃作戦。ドイツはそれまで、アメリカの参戦を防ぐため無制限潜水艦作戦の中止を約束してい
たが、イギリスによる海上封鎖のために食糧の輸入が困難となり、実施に踏み切った。この作戦
はアメリカの第1次大戦への参戦を促すことになった。
45 :
高山正之:02/03/21 10:35 ID:kHy2HFMa
■ 太平洋序曲 日本勝利の波紋(7)
ペリーが開けた「パンドラの箱」
4年間にわたった第一次大戦は終結した。パリで開かれた講和会議には中立国を含め、42カ
国代表が参加した。この中には5大国の一つに数えられる唯一の有色人種国家、日本の代表
の顔もあった。
日本代表団には期するところがあった。この会議のもうひとつのテーマだった国際連盟の規約
に「人種平等」の文言を盛り込むことだった。アメリカやカナダでの日本人移民迫害が象徴する
ように、非白人国家というだけで差別や蔑視を受けてきた体験もあるが、20世紀の国際社会の
中で、初の主役となった有色人種国家としての自負と責任も感じていた。
会議で「サイレント・パートナー」と揶揄(やゆ)されるほど静かだった牧野伸顕、松岡洋右ら代表
団は、議題が戦後処理問題から国際連盟に移るとがぜん騒がしくなり、各国代表を訪れては根回しに歩いた。しかし、結論から先にいうと規約条文に「人種平等」を盛り込む案は規約委員会
であっさり否決される。
それでも日本代表はねばった。今度は規約前文に「連盟に属する各種民族に対しては平等かつ
正当なる待遇を与える」という文言を盛り込む案を連盟委員会に提出した。
《アメリカの背信》 採決の結果は5大国のうちフランス、イタリアも賛成にまわり、結局、出席委
員16人のうち11人が賛成し、反対はアメリカ、イギリスなど5人、過半数どころか3分の2以上
の圧倒的な勝利だった。ところが、議長のウィルソン・アメリカ大統領は「満場一致が必要」と土
壇場になって議長権限で同案を葬ってしまった。
そして、この日本案に代わって持ち込まれたのが「近代社会の激甚な競争の中で、いまだ自立
できない(アジア、アフリカ地域の)人々に対して、福祉向上を図るのは文明国家の神聖な使命で
ある」という規約22条だった。先進国家による植民地支配はこの規約により、改めて合法化され
ることになった。
日本はこれに怒った。とくに日本案を覆したウィルソン大統領の背信をなじった。国際政治学者
のジャン・ピエール・レーマンが第二次大戦後、「日本をして欧米嫌いにさせたターニング・ポイ
ント」と分析したほど、その怒りは大きかった。
アメリカでは、この後、日本排斥の動きが以前に増して激しさを加えていた。セオドア・ルーズベ
ルトの「待った」で阻止されていた日本人学童締め出し法は1920年にあっさり成立し、22年に
は連邦最高裁が「日本人に帰化権はない」との判決を出す。そして24年には日本人移民を全
面禁止する移民法改正案が連邦議会で成立する。
《世論の変化》 東京で外国人の舞踏会に暴漢が白刃をふるって乱入し、アメリカ大使館前で
青年が抗議の割腹自殺をしたのもこのころだが、それはさておいて、興味深いのは当時のアメリ
カ世論の変化である。
46 :
高山正之:02/03/21 10:36 ID:kHy2HFMa
全米労連の調査(1905年1月)では「中国人は生活費に月間11ドルを使うが、日本人は6ドル
しか使わず、残りは貯金して国に持ち帰る」と報告され、サンフランシスコ・クロニクル紙の社説
は「日本人は組織の強さとアメリカの言語、法律の知識をもち、中国人より危険だ」(05年3月)、
「日本人は上昇志向をもち、アメリカン・ドリームをアメリカ人とともに共有しようとする。中国人の
方がまだ良かった」(10年2月)と書いている。
日本人排撃はそれに先立つ中国人排撃をなぞったものだったが、ここにきて日本への風当たり
の方がきつくなる。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のフレッド・ノートフェルファ教授(日本学)は、「その
キーワードはペリーにある」という。ペリーは日本を開国した。世界を支配する欧州勢力がどうし
ても開けられなかった日本の扉を若いアメリカがこじ開けたことは「アメリカにとっては初めて挙
げた外交勝利だった。しかも、その日本はアメリカを尊敬し、近代化を目を見張る勢いで成し遂
げ、第三世界の模範生となった」「アメリカにもそれは自慢だった。
だから、1893年にサンフランシスコで学童締め出しを決めたときも日本を対象に入れれば、自
らの外交勝利をおとしめることになると考えた」と教授は分析する。しかし、日清、日露戦争に日
本が勝ち、中国大陸に食い込みをみせると、アメリカの受け止め方も「変わっていった」という。
「西へ」というのがアメリカのフロンティア精神の内実である。19世紀半ば、カリフォルニアに到
達したアメリカは、さらに西、つまり太平洋に出て行った。ハーマン・メルビルが「ハワイ、そして
日本」と言ったのは最終的な目的地、中国大陸への補給地という認識だった。
ところが、その目的地の前に「近代国家・日本」が生まれ、そして肥大化してきた。「アメリカの対
日認識は誇るべき外交勝利をもたらしたかわいい存在から、取り除かねばならない障害物に変
化していった」というのである。
《中国への同情》 平たく言えば、日本はパンドラの箱になる。ペリーがそれを開け、飛び出して
きたのは太平洋の脅威であり、欧米が確立した世界秩序−植民地帝国主義−をぐらつかせる
妖怪だった。確かに日本排斥は、その脅威が明らかになった日露戦争を境に激化している。
そして、このころ「日本批判と表裏となって中国への関心と同情が強まっていった」と外交評論家
の岡崎久彦はいう。
ハリウッドでは、中国人をモデルにした極悪人フーマンチューに代わって、愛される中国人探偵
チャーリー・チャンが登場し、文学ではパール・バックの「大地」が書かれ、外交の分野でもやが
てフランクリン・D・ルーズベルトが大統領に就任して、反日・親中国政策が進められ、太平洋戦
争のお膳立てが整っていくのである。(
47 :
高山正之:02/03/21 10:38 ID:kHy2HFMa
■ 豆事典
▽松岡洋右(まつおか・ようすけ=1880−1946年) 13歳で渡米、苦学してアメリカオレゴン州立
大を卒業し、日本に戻って外交官となる。1933年(昭和8年)の国際連盟臨時総会では満州国批
判決議に抗議して退場。日本は国際連盟を脱退した。40年(昭和15年)には第2次近衛内閣の外
相となり、大東亜共栄圏の確立を提唱して日独伊三国同盟を締結した。対米関係では強硬路線
を貫き、第2次近衛内閣は翌41年、総辞職。結核の療養中に敗戦を迎え、A級戦犯に指名され
たが、病状が悪化し21年6月死去。
▽ウッドロウ・ウィルソン(1856−1924年) 第28代アメリカ大統領。1912年、民主党から大統領選
に立候補して当選。第1次大戦末期の18年1月、「平和14カ条」と呼ばれる戦後処理の原則を発
表し、これがパリ講和会議で締結されたベルサイユ条約の基調となった。ウィルソンはその中で
国際連盟の創立を提唱したが、アメリカは議会の反対で加盟しなかったため、第1次大戦の戦
後秩序をになう国際機関としての国際連盟の力は大きくそがれることになった。
▽パール・バック(1892−1973年) アメリカの作家。幼いころ宣教師の両親とともに中国へ渡り、
1917年、アメリカ人の農業専門家ジョン・バックと結婚。アメリカに帰国後の31年、中国の農民の
姿を描いた代表作「大地」を発表。38年にノーベル文学賞を受賞した。
▽フランクリン・ルーズベルト(1882−1945年) 第32代アメリカ大統領。1921年に小児まひにかか
り、歩行不自由となったが、政治活動を続け、1932年に大統領選に当選。大恐慌の克服を目指
し、ニューディール政策をとった。アメリカではただ一人、任期を3期つとめた大統領であり、第2
次大戦末期には戦後秩序の青写真も描くなど、アメリカの指導者として国際的にも政治の主導
権を握った。44年には大統領選4選を果たしたが、翌45年4月、脳出血で死去、トルーマンが後
継大統領となった。
48 :
高山正之:02/03/21 10:50 ID:h90xskHN
■ 太平洋序曲 太平洋史私論
「罪悪感」とともに葬られた歴史
1945年、太平洋を舞台にした日米戦争は日本の負けに終わり、地球上に最後に残されたフロ
ンティアはアメリカが制することになった。
しかし、この戦争が単に太平洋の覇権争いに決着をつけただけではないことはソ連の駆け込み
参戦がよく示している。ソ連がロシアだった時代に、この国は有色人種の国に負け、白人国家に
とって不名誉極まりない屈辱を受けた。土壇場の参戦はその不名誉をそそぐためで、「これで日
露戦争のかたきをとった」というグルジア人、スターリンの言葉によくそれが表れている。
ソ連のように何でもいいから日本に一矢報いたかった、という気持ちは戦艦「プリンス・オブ・ウ
エールズ」を沈められ、シンガポール、バンドン要塞を落とされ、文字どおり連戦連敗で終わった
イギリス、オランダなども同じだった。
国際政治学者、ジャン・ピエール・レーマンは「日本と西欧」の中で「日本をその手でたたきのめ
したのはアメリカであって、戦争中に散々に屈辱を受け、さらにアジアの植民地を失ってしまった
ヨーロッパ諸国は何もできなかった。そのフラストレーションが現在のヨーロッパ諸国の対日感情
を形作っている」と正直に書く。東京裁判はその意味で彼らの数少ない報復の場だったと見れば
よく理解できる。
日本軍の捕虜になって泰緬鉄道で酷使されたフランス人作家、ピエール・ブールの「戦場に架け
る橋」や、それをモチーフにした「猿の惑星」もまた、日本からの屈辱を侮蔑でやり返したものだ。
ただ、それらが日本でヒットしたことにハリウッド関係者は今でも首をひねっている。
《アメリカの企て》 ともかく、欧米世界にとって20世紀のパンドラの箱にも擬せられた日本が負
けた。その箱はペリーが開けた以上、アメリカが責任をもって閉じなければならなかった。言い
換えればペリーを送り出したフィルモア大統領の言葉、「この特異な半未開の人々を文明社会に
仲間入りさせるという企て」をもう一度、今度は欧米世界への脅威にならないよう、慎重に行える
という意味にもなり、それが戦後一貫したアメリカの対日政策になっていったような気がする。
例えば「脅威」を取り除くには軍隊がなければ一番いい。で、連合国軍総司令部(GHQ)は人類
史上初めて「軍隊のない国家」を憲法に定めさせた。キバを取り去るだけでなく、かつて日本が
有色民族のチャンピオンとして第三世界に希望の火をともした「過去」を葬り去る作業もあった。
「それがGHQの『戦争罪悪感宣伝作戦(WGIO)』だった」と高橋史朗・明星大教授はいう。
GHQの作戦は第二次大戦の日本軍の残虐行為に集中したが、葬られたのはもっと広範に、そ
れこそ「ペリーの時代にもさかのぼった」といわれる。例えば、ケマル・アタチュルクがトルコ近代
化の手本とした明治維新については「上からの革命で市民革命ではない」という妙な評価が固
まり、ポーランド、イランからアメリカにも大きな影響を与えた日露戦争も「東郷平八郎を教科書
で扱うべきか?」といった論争がつい先日、起きたことを思うと、WGIOが結構な成果を挙げた
のは確かなようだ。
49 :
高山正之:02/03/21 11:01 ID:pq7MKWmR
ちなみに「明治維新は上からの革命」という“定説”は、アメリカの大学入試学力評価試験(SAT)
でもそのまま使われ、日本海海戦もアメリカの高校歴史教科書では、わずか二行「日本艦隊は
42隻のロシア艦隊のうち40隻を沈めた」ですませている。こっちは試験問題にもなっていない。
《眠れる隣人》 もう一つ、WGIOの作戦対象となったと思われるのが日本と対アジア諸国、とり
わけ対中国関係だったようだ。両国の関係については、すでに19世紀前半、ロシアのゴローブ
ニンが「両国が手を握れば百年以内にロシアの脅威となるだろう」とロシア皇帝に報告している
し、1896年にはドイツのデトラルネル男爵が「あまり遠くない将来、中国は今より強力になって
日本と共同してヨーロッパを攻撃するだろう」(森鴎外「黄禍論梗概」)と予言している。
20世紀に入り、イタリアのムソリーニは「今は辛辣な敵愾心をもって戦っているが」と前置きしな
がら「いつか黄色人種中の小さな巨人日本が眠れる隣人を揺り起こしてヘゲモニーを掌握する
日が来ないと誰が言い切れるか」と語り、イギリスの戦史家、クリストファー・ソーンはヒトラーも
「真珠湾攻撃の後、黄色人種が白人種を制覇するのではとふと危ぐした」と「戦争の問題点」に
書いている。
《脅威去った》 悪夢が実現しないようにするためには「辛辣な敵愾心」を持ち続ければいい訳
である。昨96年10月17日付のロサンゼルス・タイムズ紙は一面にその意味で興味ある記事を
掲載した。「本土に12億、世界109カ国に約3千万が住む中国人は言語、料理から考え方まで
別々の多民族国家」だが、「日本が小さな島(尖閣諸島)の領有を主張したとき、台湾も香港も北
京もオタワに住む中国人も同じ反応を示した」と、敵愾心がいまだ健全に燃え続けていることを
伝えていた。
その2カ月後、アメリカ政府は問題化している「慰安婦」にかかわった関係者、および石井細菌
部隊関係者に対して入国ビザを差し止める発表をした。石井部隊関係者は生きていて90歳ぐら
いか、この発表の意図は何だったのだろう。
先月、クリントン大統領は「21世紀に備える」と銘打った一般教書を発表した。この中で大統領
は、ヨーロッパにもまして東洋の重要性を語り、とくに中国との対話の必要性に力点をおき、そし
て朝鮮半島、東南アジア諸国に言及したのだが、ついに21世紀の展望の中に「日本」は出てこ
なかった。
外務省辺りは「両国間に問題はないから」と説明するが、果たしてそうだろうか。これは今世紀
の前半、欧米世界の脅威となった日本を元の箱に完全に閉じ込めたという勝利宣言だったと受
け取るべきではないのだろうか?、日本はもはや脅威ではなく、孤立した無力な小国に過ぎなく
なったという宣告だと。
50 :
卵の名無しさん:02/03/21 16:03 ID:FitgqLu6
怒涛の年間60品目申請
51 :
高山正之:02/03/21 16:34 ID:Ux0QUxD/
怒濤の書き込み
age
53 :
卵の名無しさん:02/03/21 18:50 ID:T7cAhoDk
怒涛の捏造
55 :
開業医:02/03/21 20:58 ID:Ja8MXXr1
げっ サワイ製薬ってこんなに小さな企業だったんですかぁ。
私は後発の大手と言うから最低従業員は1000人ぐらいはい
るだろうと思ってたのに。。。。
こんない小さな会社の薬は大丈夫なのか?と心配になってきます。
56 :
前田 徹:02/03/21 20:59 ID:u+G1QgYm
■ 暴走する大衆 死の地下壕−1
人は運命には逆らえない
確かに彼は恐るべき歴史的現象であったかもしれない。しかし、同時に彼は、重要な歴史的現
象であった。したがって、我々としては、彼の存在を無視してしまうわけにはいかないのである。
(トレーバー=ローパー「ヒトラー最後の日」)
アドルフ・ヒトラーの登場が果たして歴史的な特異現象なのかどうかという疑問は、ヒトラーの死
後50年以上を経た今も問われ続けている。とりわけその疑問は、ヒトラーがワイマール憲法で
知られる自由な議会制民主主義のもとで登場したという事実に、より向けられている。
ヒトラーが政権についた1933年1月から、ポーランド侵攻までの6年8カ月間に600万人の失
業者が雇用され、経済的奇跡と激賞された。1938年のベルリンオリンピックの大成功は聖火リ
レーなどの形式として今も引き継がれている。ワイマール時代の無秩序と政治の不在に不満を
うっ積させていたドイツ国民の8割はその時、ヒトラーを熱烈に支持していた。そして、大衆のそ
の熱気こそが後に大量虐殺というすさまじい結果をもたらす要因でもあったのだ。
ベルリンが空爆と砲撃でほぼ完全に破壊され最終段階に入っても、ヒトラーは徹底抗戦を叫ん
でいた。まるでドイツを道連れに自爆したような異様な死の現場から、この話は始まる。
《物資を調達》 250万人のソ連軍(赤軍)による、ベルリン総攻撃が始まったのは1945年4月
16日のことだ。これに対し、わずか25万人しか残っていなかったドイツ首都防衛軍は総崩れと
なった。24日深夜、ベルリン攻略最高司令官のゲオルギー・ジューコフ元帥は、ヒトラーの立て
こもる帝国総理府に向けて一斉砲撃を命令した。
当時、ベルリン経済局食料調達責任者だった、医師のエルンスト=ギュンター・シェンク大佐は
砲撃で混乱状態にあった総理府内の総統官邸地下壕に入り、「ヒトラー最後の7日間」を見届け
た数少ない生き残りの一人である。
93歳になったシェンクは話す。「22日頃だったと思う。私の処に帝国総理府防衛責任者だった
モーンケ親衛隊将軍から緊急電話があった」と「食料をできるだけ調達してほしい、できれば武
器弾薬も」との命令だった。総統官邸に立てこもるのに必要な物資を用意せよというのだ。市の
秩序を保つべき役所の管理者はすでに逃げ出しており、兵士や部隊もそれぞれが最後の一戦
に向かうなどと言いながら姿を消していった。シェンクはその時、シュプレー川沿いの臨時倉庫
がまだ無事だったことを知った。
降り注ぐ砲弾や突撃してくる赤軍のことを考えれば、回収は至難の業だったが、とにかく特別部
隊を編成し、総統官邸に3千人が30日立てこもれるだけの食糧を確保するのに成功した。そし
てシェンク自身もヒトラーの死のろう城に加わることになった。
沙下忘れた?
58 :
前田 徹:02/03/21 21:10 ID:k9XQ9b8U
総統官邸はすでに崩壊寸前だった。旧官邸の地下15メートルにある総統地下壕は、2階建て
で、四方を厚さ2メートル以上のコンクリート壁で防護していた。そこにヒトラーと愛人エバ・ブラ
ウン、そしてゲッベルス夫妻ら側近グループを加えた約30人が生活していた。そして地下道で
つながる新官邸の地下室は臨時の野戦病院になっていた。
地上階には総統幕僚関係者や総統護衛隊員らが潜んでおり、加えて避難民となった一般市民
数百人も周辺にいた。モーンケ将軍が指揮する官邸防衛部隊は300人程度だった。
ヒトラー警護を最後まで受け持ったのは、武装親衛隊(SS)だったが、その内訳は特異なもので
あった。彼らは正規のアドルフ・ヒトラー警護連隊ではなく、フランス・シャルルマーニュ師団、ス
カンディナビア戦車歩兵師団の残存部隊やヒトラー・ユーゲントらヒトラーを狂信的に信奉する外
国人および少年兵が主力となっていたのだ。彼らは官邸の外の陣地にいて、定期的に食糧と弾
薬を取りに来るだけだったので、実際の人数は見当もつかなかった。
《まるで病人》 一方、シェンクが徹夜で患者を診ることになる臨時野戦病院には、著名な外科
医ウェルナー・ハーゼ博士がいたが、彼はそのときすでに重い肺炎に冒され、執刀する体力も
気力もなく、本来、内科のシェンクが2人の看護婦やヒトラー少女挺身隊員とともに連日、50人
近くの市民や兵士の手術をしていた。
興味深いのは、壮大な建築で知られる総統新官邸の謁見用大ホールだ。ヒトラーが外交官を威
圧するために作らせた大理石作りの長大なホールは臨時の台所と化していた。料理用ストーブ
のわきに手榴弾がいっぱい詰まった弾薬箱が山積みにされ、シェンクはゾッとしたのを今も思い
だすという。
30日午前3時半ごろ、シェンクは初めてヒトラーと直接会った。それはヒトラーがエバと自殺する12時間前のことだ。野戦病院に通じる階段にヒトラーがハーゼ博士とともに現れた。シェンクと
看護婦二人は直立不動の姿勢をとった。
「ヒトラーは落ち着いていた。まるで重病人のようで完全に疲弊していた。しかし、規律を感じさ
せる挨拶をし、我々ひとりひとりに『最後までありがとう』と、感謝とねぎらいの言葉をかけた」と
シェンクは死を覚悟した独裁者の姿を再現する。
看護婦のひとりが、「ジーク・ハイル・ヒトラー(総統万歳)、私たちは最後まで従います」と、ヒステ
リックに叫んだ。ヒトラーはくるりときびすを返して、「人は運命(宿命)には逆らえない。卑怯者に
なってはいけない」と静かに言った。それから数時間後、シェンクはヒトラーがエバやゲッベルス
らとともにワインを飲んでいるのを見かけ、その直後にハーゼからヒトラーの自殺の決意を聞か
された。
「死の直前」とシェンクはいう。ヒトラーは側近たち十数人を集め、ひとりひとりの労をねぎらいな
がら、勲章を手渡すように青酸カリ入りのアンプルを渡した。そして寝室で銃を片手に持ち、青
酸アンプルを口に含むと同時に自ら頭を打ち抜いた。
59 :
前田 徹:02/03/21 21:12 ID:k9XQ9b8U
「ヒトラーの永遠の同志を自認するヘーベル(外務次官)が私の目の前で死ぬとき、『総統と約束
したから』と言ってそんな死に方をしたので、私はヒトラーもこうやって命を絶ったのだと実感した
のです」
■ 豆事典
▽「ヒトラー最後の日」 1947年刊行。英軍の情報将校だったヒュー・トレーバー=ローパーが、
第2次大戦後の45年9月、「ヒトラーの死に関する調査」を情報部から命じられて提出した報告
書が土台になった。トレーバー=ローパーは57年、オックスフォード大教授になった歴史学者で
もあり、著書に「キリスト教ヨーロッパの興起」(67年)「エリザベス女王の最初の歴史家」(71年)な
ど。「ヒトラーの食卓談話」(53年)「ヒトラーの戦争指令」(64年)などの編集も手掛けている。
▽ワイマール憲法 第1次大戦でドイツ帝国が崩壊した後、ドイツ中部の小都市ワイマールに
招集された議会によって審議され、1919年8月に公布されたドイツ共和国憲法を指す。議会制民
主主義や国民主権主義を採用し、20世紀の新しい憲法として諸外国に影響を与えた。この憲法
はまた、公共の安全と秩序が危機にひんした際には、大統領に国民の基本権の一時停止を含
む非常大権を与えることも定めていた。ワイマール体制末期のドイツでは小政党が乱立して、安
定した政権の維持が困難となり、しばしば大統領の非常大権が発動された。
▽ゲオルギー・ジューコフ(1896−1974年) ソ連陸軍元帥。1919年に共産党に入党。ソ連軍の司
令官としてノモンハン戦やスターリングラード攻防戦、レニングラード包囲網突破作戦などの重
要な軍事作戦を指揮した。45年4月にはベルリン攻略戦に当たり、ドイツ軍の降伏文書を受理し
た。戦後は駐独・ソ連軍最高司令官に任命されたが、軍での評価が逆にスターリンの反発を買
って左遷された。スターリン死後の55年、ソ連の国防大臣として中央に復帰した。
▽ヒトラー・ユーゲント 1926年に創立されたナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の青少年
組織。33年にナチスが政権を掌握してから組織は次第に強化され、全ドイツの青少年男女(男子
10−18歳、女子10−21歳)が強制的に組み込まれた。宣伝相ゲッベルスの統制下に置かれ、ナ
チス・ドイツの青少年思想教育に多大な影響を与えた。
60 :
前田 徹:02/03/21 21:16 ID:I7i3ShMg
61 :
前田 徹:02/03/21 21:27 ID:MTgG3gsq
■ 暴走する大衆 死の地下壕−2
灰になるまで焼きつくせ
アドルフ・ヒトラーは1945年4月30日午後3時30分、総統官邸の地下15メートルにある地下
壕で、青酸入りアンプルを口に含むと同時に愛用の拳銃ワルサー、7・65ミリで自らの頭を撃ち
抜いた。ウェルナー・ハーゼ医師が直接伝授したというこの「確実な死」は、ヒトラーが望んだ通
り即死だったと推測されている。
《銃声を待つ》 死の瞬間、地下壕にいたのは30人前後。そのうち執務室のドアの前で、銃声
を待っていたのは総統官邸官房長官、マルチン・ボルマン、帝国宣伝相、ヨゼフ・ゲッベルス、ヒ
トラー・ユーゲント指導者、アルツール・アクスマン、総統付き副官で親衛隊少佐のオットー・ギュ
ンシェの4人だった。総統の死を確認する特別命令を受け、本来ならドアの一番前で待たなけれ
ばならなかった従卒の親衛隊少佐、ハインツ・リンゲはその時、落ち着きをなくし、地下壕の非常
口にいた。
このうち今も生存するのはギュンシェだけだが、彼は極度のマスコミ嫌いに陥っており、産経新
聞とのインタビューにも一切、応じなかった。代わりに総統執務室のすぐ向かいの電話室にいた
親衛隊軍曹、ロヒュス・ミッシェが当時の地下壕内の張りつめた雰囲気とその瞬間を証言した。
79歳になったミッシェはソ連での抑留を経験し、現在はベルリンで年金生活を送っている。「私
が見た総統最後の姿は、なぜか足でした」とミッシェはいう。 砲撃や爆撃音にかき消されながら
もピストルの発射音とみられる鋭い音が壕内に響いた。
その時、ミッシェは地上への非常口の階段のところにいた。「リンゲ、リンゲ、ついにその時が来
た」という叫び声が聞こえた。ボルマンのようだった。ミッシェがとっさに総統執務室の方をみる
と、リンゲとギュンシェが青ざめた顔で執務室に入るところだった。ボルマンの姿もあった。
ミッシェはドアが開け放たれたままの総統執務室を覗いた。「まずエバの遺体。ダークブルーの
スーツに白い襟がみえました。その横にヒトラー総統の遺体がある。しかし、にょっきり突き出た
足しか見えず、結局、金縛りにあったように総統の顔は正視できなかった。わずか30秒ぐらい
の出来事でした」
ヒトラー自殺の場面で重要な役割を演じたのは、ヒトラーを継いでナチス党党首となったボルマ
ン、そしてヒトラーの信任の厚かったギュンシェとリンゲだった。ギュンシェはボディーガードを兼
ねた総統付き副官という肩書だが、最後には個人的な話し相手になるほど頼られていた。
リンゲも1935年以来のヒトラー付き従卒で、私生活面のすべてを知る男とされる。2人ともソ連
軍捕虜となったとき、モスクワで徹底的な取り調べを受けている。
そのリンゲが、1955年にソ連での捕虜生活を終えて西ドイツに帰国、すぐに出した回顧録(19
55年=昭和30年、産経新聞夕刊で50回連載)では、ヒトラーは自殺の5日前に特別命令をリ
ンゲに与えていた
62 :
卵の名無しさん:02/03/21 21:41 ID:I7i3ShMg
age
63 :
前田徹:02/03/21 21:50 ID:bjTDUZ1w
その命令とは「だれにも私の死体と分からせてはならない。灰になるまで焼きつくせ」というもの
だった。この遺体焼却についてミッシェは「(ヒトラーの)遺体は毛布にくるまれ、ギュンシェとリン
ゲが外に運び出し、エバはボルマンによって毛布にくるまれ、ケムカが運び出した。運び出した
3人とボルマン、それから総統警護員の一人、ホーフベックが焼却に立ち会った。官邸中庭とは
いえ、外は砲撃が激しく、何とか土を掘っただけの所で焼いたため十分に燃えなかったと聞いて
いる。焼却中にたまたま2人の民間人が通りかかったが、だれかが即座に射殺した。総統焼却
の秘密を守るためだった」と説明している。
これに対し、リンゲの回顧録では、リンゲとギュンシェが地下壕非常口のすぐ前で、毛布にくるん
だヒトラー夫妻にガソリンをかけて焼いたが、服を焼いただけで、顔が識別可能なまま残った。
そこで、ボルマンが秘密命令を受けているといい始め、2人は焼却の確認もないまま地下壕に
戻ってしまった。つまり、ボルマンを除けばヒトラーの遺体がどうなったのかだれも知らないはず
なのだが、実は、焼却と埋葬の一部始終を目撃していた男が一人だけ実在していた。
ヒトラー警護部隊の親衛隊兵士、ガリ・メンヘルスハウゼンは、ソ連の捕虜になった後、同年5月
13日に赤軍第三攻撃軍団スメルシュ(防諜担当)の取り調べを受けている。
取り調べによると、メンヘルスハウゼンはヒトラーの死の当日、総統官邸2階の廊下で警備をし
ていた。午後3時50分ごろ、窓の下の官邸中庭で、ギュンシェとリンゲが地下壕非常口からヒト
ラー総統とエバの遺体を運び出しているのを目撃した。ギュンシェが2人の遺体にガソリンをか
け、火をつけた。30分ぐらい燃え続けた。激しい砲撃の中、非常口から1メートルほど離れたと
ころでそれは行われた。
メンヘルスハウゼンは、その2つの遺体が何を意味するのかすぐに分かった。「中庭の端の砲弾
によってできた深さ60センチくらいの穴に2つの遺体が横たえられた。総統埋葬の前準備として
犬を毒殺して埋めたと聞いていたので、ギュンシェらを目撃したとき、総統とブラウン嬢の遺体だ
とすぐ理解した」
《執着と憶測》 ヒトラーは、イタリアの独裁者ムソリーニが愛人とともにイタリア共産党ゲリラに
処刑され、逆さ吊りにされているのを知ったとき、気が狂ったようになったと伝えられている。ヒト
ラーは同様のことが自分の死後にも起きることを極端に恐れていた。
しかし、ヒトラーがリンゲやボルマン、ギュンシェに遺体焼却の特別命令を出したのはムソリーニ
が処刑された1945年4月28日よりも前だった。さらしものにされることへの恐怖心が、焼却命
令の直接の動機というわけではなかった。すでに敗戦を覚悟していたヒトラーは、宿敵であり、ド
イツ第三帝国を滅ぼすことになったソ連のスターリンにだけは死体を利用させたくなかったと言
うのが本心だったのだろう。
「だれにも決して遺体を見せてはならない」と独裁者は側近たちに命令した。異常ともいえるこの
遺体焼却への執着が、ヒトラーの死をめぐるさまざまな憶測を生む伏線となった。
64 :
前田徹:02/03/21 21:55 ID:bjTDUZ1w
■ 豆事典
▽マルチン・ボルマン(1900−45年) ヒトラーの側近。1927年ナチス入党。33年にヒトラーが政
権を掌握した後、頭角を現し、統制官房長、国務相などを歴任した。ベルリン陥落時にヒトラー
の地下壕から脱出に失敗して死亡した。死体が発見されなかったため、南米への逃亡説も流れ
た。46年のニュルンベルク国際軍事法廷では欠席裁判で絞首刑の判決を受けた。
▽スメルシュ スパイ取り締まりのために存在したソ連の軍隊内の特務機関。ロシア語のスメ
ルチ(死)、シュピオン(スパイ)が合体した呼び名で、「スパイに死を」の意味になる。組織の詳細
は謎に包まれていた。
▽ベニト・ムソリーニ(1883−1945年) イタリアのファシズム指導者。若いころは社会主義者で、
直感や暴力行動を重視する直接行動的傾向が強かった。第1次大戦後の1919年、ファシスト党
を結成。22年にはローマに進軍して国王に組閣令を出すよう圧力をかけ、39歳で首相となった。
その後、独裁体制を確立、ドイツと結んで第2次大戦に枢軸国として参戦したが、敗色の濃くな
った43年に失脚。ドイツ軍の支援を受けて復活を試みたが、パルチザンに捕まり処刑された。
▽第3帝国 1933年のヒトラー内閣成立から45年の第2次大戦敗戦までのドイツ・ナチズム体
制を指す。ヒトラーは自らの独裁体制を神聖ローマ帝国(第1帝国)、ビスマルクの指導のもとに
成立した第2帝国に次ぐドイツ民族の第3の帝国と見なした。
65 :
前田徹:02/03/21 22:07 ID:eb/Sa7kJ
■ 暴走する大衆 死の地下壕−3
ヒトラーの呪縛は解かれた
アドルフ・ヒトラーが地下壕で最後の時を迎えているとき、ドイツは首都決戦という最終局面にあ
えいでいた。一九四五年四月二十三日、第五六戦車兵団を率いるワイドリング将軍が最後のベ
ルリン防衛司令官に任命され、十倍以上の兵力と火力を誇るソ連軍(赤軍)に向けて絶望的な抵
抗を試みていた。
《忠実な国民》 そうした状況下でも、ヒトラーは最後の1兵まで戦い抜くよう呼びかけている。
死の前日に残した政治的遺書でも「いかなる事があろうとも戦いを放棄しないよう要望する」と書
き、自らの死後もドイツが降伏することなく戦う事を求めていた。実際にも、敗戦が確実となった
1944年後半から45年5月7日の無条件降伏までの間にドイツの戦死者がうなぎ上りに増える
のは、ヒトラーの命令に多くの国民が忠実だったことを示している。 総統の死はそうした呪縛を
解いた。
ヒトラーと最後の時を過ごした地下壕の側近たちも、後を追って自殺する者と地下壕からの脱出
を図る者たちとに分かれる。
ヒトラーの遺体が処理されたあと、ゲッベルスとボルマンはまずソ連軍にヒトラーの死を伝えると
ともに休戦を求めることにした。その交渉役として、ロシア語が堪能なクレプス将軍(陸軍参謀総
長代理)が選ばれ、前線のチューイコフ将軍を通じてベルリン攻略軍最高司令官のジューコフ将
軍に交渉を申し入れた。
しかし、ソ連側は無条件降伏以外は受け付けず、クレプス将軍とブルグドルフ将軍(ヒトラーの高
級副官)は5月1日夜、銃で自殺した。そしてゲッベルス夫妻も「総統のいない世の中に生きる価
値はない」といい残し、わが子6人を毒殺したあと、ヒトラーと同じように青酸アンプルを口に含
み、銃で自殺した。
総統官邸地下室の野戦病院にいた医師、エルンスト=ギュンター・シェンクはゲッベルスとクレ
プスの死ですべてが終わったのを確認したあと、5月1日午後11時過ぎに決死の脱出を試みて
いる。
「ヒトラーが亡くなった後、我々はどう生き延びるか。あるいはどこに死に場所を求めるかという
問題に直面した。脱出組は結局、目立たないように6グループに分かれ、時間差をつけて地下
壕を後にした。私は、官邸防衛司令官のモーンケ将軍がリーダーの第1グループに入った。1日
夜から2日未明にかけて脱出し、官邸近くの地下鉄駅シュタットミッテまで200メートルを夢中で
走った。途中、シュプレー川にかかるバイデンダマ橋を避け、人ひとりが通れるくらいの連絡用
架橋を渡り、うまくロシア軍(ソ連・赤軍)に気づかれずに駅に入り込めた」
ボルマンが率いる第2グループはこのバイデンダマ橋を渡り、一斉射撃を受けている。先頭にい
たボルマンらは何とか助かったが、残りの大半は射殺された。そしてボルマンと侍医のシュトン
プフェーガーも間もなく赤軍兵士が遺体で見つけたといわれる。しかし、ソ連側はこの点につい
て一切、発表を行わず、ボルマンの死は戦後、長い間、なぞとされてきた。
66 :
卵の名無しさん:02/03/21 22:10 ID:I7i3ShMg
67 :
前田徹:02/03/21 22:29 ID:Je3eLL49
シェンクたちは地下鉄の線路をたどりながらフリードリヒシュトラーセ駅に着き、いったん地上に
出た後、ビール醸造所の地下に身を隠すことに成功した。その時にはもう休戦(2日午後3時)が
成立しており、砲撃や銃撃は聞こえなかったという。 しかし、その隠れ場所もソ連軍に包囲さ
れ、外務次官のヘーベルは青酸アンプルを飲むと同時に銃で自分の頭を撃ち抜いた。
1945年4月30日に起きたヒトラーの死を、最初に伝えたのは、5月1日午後9時半のハンブル
ク放送だった。ボルマンが1日午後3時18分、北ドイツの港町フレンズブルクで後継政権の準備
を進めているデーニッツ提督に「総統は昨日午後3時半に亡くなられた」と打電し、提督はそれ
を「総統はドイツ国に殉じて戦死した」と伝えた。しかし、大半の兵士や民間人がそれを知るの
は、大ドイツ放送局のニュースを聞いてからだった。
《最後の放送》 大ドイツ放送地下放送局のアナウンサーだったリヒャルト・バイアーはその夜
のことを72歳になった今も、鮮明に覚えている。「ロシア軍(当時のソ連軍)が地下放送局を占拠
するまで放送を続けていたアナウンサーは、私と上司のエルマ・バンツ、そして先輩でアナウン
サーのジークフリート・ニーマンの3人しかいなかった。砲撃は日に日に強まり、狭い地下放送
局は放送関係の技術者や放送ディレクターら十数人と数十人の難民であふれ、周辺には放送
局を防衛するために親衛隊の兵士30人が展開していた」
5月1日午後11時、ウィルヘルム通りの宣伝省に陣取っていた放送局長ハンス・フリッツが専用
地下ケーブルを通じてヒトラーの死を伝える公式声明を送ってきた。当番アナウンサーだったバ
ンツは最後のニュース時間である11時57分、その声明を読み上げた。ワーグナーの「神々の
黄昏」の終曲部分とともに読み上げられた声明文は次のようなものだ。
「帝国首都防衛のため英雄的な勇敢さで先頭に立っていた総統閣下が亡くなられた。ボリシェビ
ズムのせん滅戦から国民と欧州を守るため、総統は自らの命を犠牲にした。すべての兵士はこ
の総統を鏡とし、死ぬまで忠実であることが義務づけられている」
バイアーによると、この重大声明のあと何事もなかったかのようにハイル・ヒトラーのあいさつと
国歌斉唱があった。そして、放送終了を告げたのだが、実はこれが大ドイツ放送最後の歴史的
ニュースになった。
マリア・フォン・フランケンベルクはそのとき、爆撃で廃虚となったドレスデンの街角で配給の牛
乳をもらうための列に並んでいた。「ラジオでヒトラーの死を知った。大声で泣き出す人や大喜び
する人が周りにあふれていたが、私には何の感動もなかった。とにかく子どもたちを食べさせな
ければならないと、そればかり考えていた」という。
ドイツ東部、ザクセン州のヒトラー・ユーゲントで、国土防衛の最後の兵士として郷土突撃隊に編
入されていたハインツ・ボイテルも「ぼうぜんとするしかなかった。周りでは塹壕(ざんごう)から離
れ、逃げ出すものもいた」と証言している。ヒトラーの死を人々はそのようにして聞いた。
68 :
前田徹:02/03/21 22:30 ID:Je3eLL49
■豆事典
▽カール・デーニッツ(1891−1980年) ドイツの海軍軍人。第1次大戦に潜水艦長として参戦。
第2次大戦ではドイツ海軍のUボート作戦を指揮して連合国側からドイツ海軍最強の軍人として
恐れられた。1943年に海軍司令長官。45年4月30日、ヒトラーの指名によって首相兼国防軍総
司令官となり、ヒトラーの死の翌日の5月1日、総統の死と自分が後継者であることを放送で伝
えた。その後、連合軍との降伏交渉に入り、ドイツは5月7日、無条件降伏した。ニュルンベルク
裁判では無罪を主張したが、禁固10年の判決を受け、服役して55年に釈放された。
▽大ドイツ放送 ドイツのラジオ放送は1923年に開始され、26年にドイツ放送協会が設立された
際、政府は政治的放送の禁止を指令した。しかし、ナチス政権ではヒトラーの腹心の宣伝相ゲッ
ベルスのもとでラジオによるプロパガンダが積極的に展開され、放送局の名称は33年のナチス
政権発足時にドイツ帝国放送、第2次大戦初期の40年には大ドイツ放送となった。
▽リヒャルト・ワーグナー(1813−83年) 19世紀ドイツ・ロマン派の作曲家。人間の全体、本質を
表現する総合芸術を目指して音楽や演劇、詩歌などを結び付けた楽劇を生み出し、1876年には
バイエルン州のバイロイトに楽劇を上演するためのバイロイト祝祭劇場を設立した。主な作品に
歌劇「タンホイザー」、楽劇「トリスタンとイゾルデ」「ニーベルングの指輪」など。
▽ドレスデン ドイツ東部(旧東ドイツ)のエルベ川に沿った都市。かつてザクセン王国の首都だ
った古都で、芸術と文化の都として栄え、「エルベのフィレンツェ」と呼ばれた。また、19世紀には
工業都市として発展し、社会運動、労働運動の拠点ともなった。第2次大戦末期の1945年2月
13、14日には米英軍機の激しい空襲にさらされ、壊滅的な打撃を受けた。この空襲で町は廃虚
と化したが、戦後の復興計画によってツウィンガー宮殿などの歴史的建造物や町並みは修復さ
れた。
69 :
前田徹:02/03/21 22:57 ID:loVorOmm
■ 暴走する大衆 死の地下壕−4
“逃亡説”繰り返したスターリン
アドルフ・ヒトラーの死に関する本は戦後、数限りなく出版されている。彼の遺体を直接見た証人
が極端に少ないこと、さらに遺体を発掘したソ連・赤軍関係者がヒトラーの死について徹底して
沈黙を守ったことが、なぞ解きのような追跡劇へと転化したからだ。
《埋葬の秘密》 第二次大戦中、ソ連赤軍のドイツ語専門通訳(将校)として参戦したレフ・ベジメ
ンスキーは戦後、歴史学博士号を持つジャーナリストとして活躍し、76歳の現在は雑誌「ノーボ
エ・ブレーミャ(新時代)」の解説委員を務めている。
1968年、彼はそれまで極秘扱いだったヒトラーの死の公式記録の閲覧を、ソ連国家保安委員
会(KGB)から許可された。「ヒトラー神話作戦」と名づけられた、その膨大な記録に触れたとき手
が震えたことを今も覚えている。その彼が、それから25年近くを経て再びヒトラー埋葬の秘密に
迫ることを決意した。
当時のKGB公文書が実は全てではなく、しかも遺体焼却についてKGBから虚偽の発表を強い
られた思いが残ったためだ。ロシア大統領公文書館の記録を読み、遺体発掘の赤軍兵士への
インタビューなども行った。そうして2年前の1995年、300ページ以上に及ぶ、「ヒトラーは何
回葬られたか?」が出版された。以下はその記述とベジメンスキー自身の話に基づくヒトラーの
遺体その後の決定版だ。
ヒトラーがたてこもっている総統官邸の攻撃を担当したのは第一白ロシア前線軍の第3攻撃軍
団だった。1945年4月30日、ヒトラー自殺の情報を基に同軍団所属の赤軍防諜組織「スメル
シュ」がヒトラー捜索を担当することになった。担当責任者はイワン・クリメンコ部長だった。
5月1日、官邸に突入した第三攻撃軍団の兵士とともにスメルシュはまずゲッベルス夫妻の焼け
こげた遺体を中庭で発見し、さらに地下壕の1室でゲッベルスの子供6人の遺体を見つけた。そ
して中庭の一角からヒトラーとみられる焼けこげた遺体を見つけることになる。遺体はくぼみの
中にあった。ヒトラーの顔を知っているという捕虜の多くはヒトラー本人だと断言したが、明確な
結論が出ないまま推移した。
ところが、別の兵士がそれとは別に砲撃でできたくぼみの穴から足が出ているのに気づき、男性
と女性の焼けこげた遺体2体と犬の死体2つを見つけた。その際、クリメンコ部長はヒトラーの遺
体をすでに確認したと信じていたため、その男女を毛布で包んで埋葬し直すよう命じている。
5日、確認済みの遺体が実は偽物であることが判明した。正面から頭を撃ち抜かれていたこの
男は、ヒトラーの影武者と断定されている。そこで男女の遺体を再発掘し、最終的には5月8日
にヒトラー直属の歯科技工士、カーテ・ホイザーマンによって遺体はヒトラーとエバであることが
確認された。
70 :
卵の名無しさん:02/03/21 23:14 ID:CcbWT0lI
>げっ サワイ製薬ってこんなに小さな企業だったんですかぁ。
>私は後発の大手と言うから最低従業員は1000人ぐらいはい
>るだろうと思ってたのに。。。。
>こんない小さな会社の薬は大丈夫なのか?と心配になってきます
71 :
卵の名無しさん:02/03/22 07:45 ID:708sOvgk
あげ
72 :
前田徹:02/03/22 08:00 ID:4KpHFiDl
ヒトラーにかわいがられた女性技工士は自分の作った義歯を見せられ、声をあげて泣き出した
と記録されている。遺体は解剖後、歯や頭蓋骨の一部の写真撮影をして、いったんベルリン北
部の町に埋葬された。しかし、再確認のために再び発掘され、歯だけが取りはずされてモスクワ
へ運ばれている。
ベジメンスキーによると、ソ連軍スメルシュの駐留地移転に伴ってその後も発掘、埋葬が繰り返
され、ヒトラーは結局、8回埋葬されている。最後には旧東ドイツのマグデブルクにあったソ連軍
防諜部隊基地のコンクリートで固めた裏庭に埋められたのだが、基地が東ドイツに返還されるこ
とになり、最終処理がついに決定された。
当時のアンドロポフKGB議長は、1970年3月13日、ヒトラー夫妻とゲッベルス一家の遺体合
計10体を完全に焼き払い、灰にして空中にまくことをブレジネフ最高会議議長に対し提案、記
録によれば、4月5日未明、極秘計画「アルヒーフ(古文書)」のコードネームでこの提案は実行さ
れた。
《ソ連の思惑》 こうしてヒトラーの遺体はマグデブルクの空に消えたのだが、実に25年間にわ
たってソ連はヒトラーの遺体とつきあったことになる。そうまでしてヒトラーの遺体にこだわる必要
は何だったのか。
ヒトラーの死を公式にソ連に伝えたのは、ドイツ陸軍参謀総長代理、クレプス将軍だが、彼はヒ
トラーの自殺後、ゲッベルスとボルマンの手紙を携えてソ連軍と休戦について交渉している。
結局、その交渉は決裂し、将軍は地下壕で自殺するのだが、ヒトラーの死を知ったジューコフ元
帥は5月1日の午前5時55分、スターリンに電話でヒトラーの自殺を報告している。
ジューコフ元帥が生前、ベジメンスキーに話したところでは、スターリンは一瞬、沈黙したあと「あ
のペテン師がやっと死んだか。できれば生きたまま捕まえたかったのに惜しいことをした」と、た
め息まじりに答えたそうだ。
そのスターリンが、なぜかヒトラーの死はなかったとの説明を繰り返している。5月4日、赤軍の
将軍たちとの会合で「ヒトラーは生きている」と発言した記録が残っており、更に5月26日にはモ
スクワを訪れたトルーマン米大統領特使、ハリー・ホプキンズに対し「ヒトラーはボルマンととも
に逃亡した。ゲッベルスもまだ生きている」とまで言い切っている。
スターリンは戦時中にも、ドイツ−日本間を往復していた潜水艦で2人が逃亡し、「ヒトラーは多
分、日本にいるだろう」と断言したこともあるそうだ。スターリンによるヒトラー逃亡説は、ポツダ
ム会談でも繰り返され、アメリカのトルーマン大統領らを最後まで困惑させている。スターリンは
その一方で、ヒトラーの遺体確認作業をしたスメルシュやKGB関係者に対し、徹底した箝口令
を敷いた。その命令はスターリンが死去した1953年以降も守られたのである。
ベジメンスキーは、こうした行動について「ヒトラーを生きたまま捕らえたかったスターリン的パラ
ノイア(偏執狂)」と説明しているが、ヒトラーの生死が当時のイギリスとアメリカの指導者に大き
な影響を持っていたことを考えれば、スターリンは冷静に外交の切り札として使っていたと考え
たほうが分かりやすい気がする。
73 :
前田徹:02/03/22 08:01 ID:4KpHFiDl
■豆事典
☆KGB(国家保安委員会) 旧ソ連の政治警察。ソ連恐怖政治の中枢を担った政治警察機能
は、ロシア10月革命後の1917年12月に設立されたチェーカー(反革命・サボタージュ取締全ロシ
ア非常委員会)から、22年に平時組織の国家政治保安部(GPU)に引き継がれた。さらに内務人
民委員部(内務省)内の局や国家保安省を経て、スターリン死後の54年、国家保安省を改組して
発足したKGBに移行。国内外の情報活動、国家機関・軍の監視、反体制活動取り締まりなどの
任務に当たった。
☆マグデブルク 旧東ドイツ西部の県および、その県都。エルベ川中流域に位置し、旧東独最
大の内陸港があることで知られた。神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世によって、10世紀にマ
グデブルク大司教座が新設され、古くから商業都市として栄えた。
☆ユーリー・アンドロポフ(1914−84年) ソ連共産党書記長。コムソモール(共産主義青年同盟)
から共産党活動に入り、1973年、党政治局員。67年、KGB議長。82年11月、ブレジネフの死後、
党書記長に就任した。
☆ハリー・ホプキンズ(1890−1946年) アメリカの政治家。フランクリン・ルーズベルト大統領の
最も親しい側近として、ニューディール政策に従事。第2次大戦中は商務長官、大統領特別補
佐官などを歴任し、特別使節として英国やソ連を度々訪問した。特にソ連との協力を重視した。
☆ポツダム会談 1945年7月17日、ベルリン郊外のポツダムにアメリカ大統領トルーマン、イギ
リス首相チャーチル、ソ連首相スターリンが集まって、ヨーロッパの戦後処理、対日方針などを
討議した。会談は8月2日まで続き、この間にイギリスの総選挙で保守党が労働党に大敗したた
め、イギリス代表は途中でチャーチルからアトリーにかわった。ポーランド・ドイツ間の国境問題
ではオーデル・ナイセ線を講和成立までの仮の国境とすることで合意し、フランスを加えた4国
によるドイツの占領分割方針も確認された。会談後の26日、アメリカ、イギリス、中国の3国は日
本に無条件降伏を迫るポツダム宣言を発表した。
74 :
前田徹:02/03/22 08:02 ID:4KpHFiDl
■ 暴走する大衆 死の地下壕−5
“救世主”は悪魔ではなく普通の男
アドルフ・ヒトラーが自殺する12時間前に直接、言葉を交わしたエルンスト=ギュンター・シェン
クは、ヒトラーの左手が異常に震えているのに気づいた。それまで肉体的にも精神的にも非常に
強い男だと教えられてきたシェンクはショックを受け、同時に医師として「パーキンソン病ではな
いか」と直感した。
シェンクはヒトラーの死後、旧東ドイツ建設への協力を拒否したためソ連へ送還され、1955年
12月、ドイツ人抑留者帰還グループとして西ドイツへ帰国するまでの10年間を強制収容所で
過ごした。帰国後、「患者としてのヒトラー」の解明に乗り出した。あのとき抱いたヒトラーの健康
状態への疑問が頭から離れなかったからだ。
シェンクが参考にしたのは、ヒトラー侍医団と呼ばれた専門医師らのカルテ(診断表)とその分析
である。中で最も詳細だったのが、テオ・モレル医師のものだった。モレルはオーストリア人であ
り、いわば町医者だったが、ヒトラーの最も信頼あつい侍医となった。
そのカルテ記録は、1937年から45年までの膨大なもので、戦後、アメリカ軍が接収したのだ
が、今は閲覧が可能となっている。その他、ハーゼ、ブラントら著名な医学博士やヒトラー直属
の歯科医として知られるブレシュケの治療記録も参考とした。
《菜食主義者》 ヒトラーの体格は身長175センチ、体重は70から74キロで、ドイツ人としては
中肉中背。肌の色は薄いピンクがかった白。目はグレーがかった青で、視力には別段、異常は
なく、肌も目も強い日の光に弱い体質であったことが特筆されている程度だった。
頭髪は焦げ茶で多毛質だが、体毛は少なかった。あの口ひげは鼻が大きいのを気にして蓄えら
れた。ヒトラー自身がそう説明したと記録されている。首、背骨など骨格はすべて異常なく、性的
発育も正常。ただし舌は白くなっており、口臭の強いときがあった。理由は歯が悪いためと推測
されるが、実際、硬いものは食べられず、地下壕ではおかゆばかり食べていた。歯が悪かった
のは、ヒトラーが画学生として青年時代を過ごしたウィーンでのケーキ好きのためだが、歯を除
けば体力、体格を見る限りごく普通の男だった。
その一方で、行動や精神面には特色がある。土地勘と記憶力は常人をはるかに上回り、集中力
が優れていた。会話も早口ながら論理的で分かりやすく、通常、的確な言葉を使った。読書量は
人並みはずれて多い。ただし物知りのわりに深い知識に欠けており、大学教育を受けていない
こともあって、知識人への猜疑(さいぎ)心を見せることがあった。
とはいえ、そうした特色もヒトラーがとりわけ異常だったということを示すものではない。食事に
贅沢を好まず、空腹にも構わない菜食主義者で、酒もほとんど飲まない。現代風に解釈すれ
ば、好ましい食生活だとさえいえる。
75 :
卵の名無しさん:02/03/22 20:54 ID:VDDM73+Z
こんなレベルの低い会社で安い給料で我慢しながら働く社員たち
ある意味では偉いと誉めたるよ
76 :
卵の名無しさん:02/03/22 23:33 ID:708sOvgk
77 :
卵の名無しさん:02/03/23 00:04 ID:okOno5fJ
景気が良くなってきたら転職する奴が増えると思うよ。
78 :
卵の名無しさん:02/03/23 01:09 ID:CZxWCvOQ
MRって何人ぐらいいるの?
79 :
卵の名無しさん:02/03/23 10:09 ID:ZZNWZNfs
>>78 ゾロにMRなんて必要なのか?
ろくな医療情報の提供も出来ないと思うけど
80 :
外資:02/03/23 11:35 ID:sIwFX8nH
新聞広告する金があるなら社員にもっと給料をだしてやれ!
81 :
卵の名無しさん:02/03/23 13:56 ID:pfNsETJ5
82 :
卵の名無しさん:02/03/23 15:27 ID:WjBuLGU3
>>80 ワラントで儲けただろ!(償還はまだか?)
贅沢言うな!
社会の底辺なりの給料だということを忘れるな!
揚
84 :
卵の名無しさん:02/03/23 20:01 ID:BfTwAVS3
社長は他社に対するえげつない罵倒中傷を3流新聞社に
記事にさせそのコピーを郵送しまくるというのが趣味という噂
86 :
前田徹:02/03/24 07:50 ID:cBd3IoYA
前田徹って誰?
87 :
内村作母耳:02/03/24 08:28 ID:x3tjY90a
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし《イエス・キリストのこと》の
ところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、
わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。
『マタイによる福音書 11章28〜30節』
88 :
前田徹:02/03/24 13:26 ID:cBd3IoYA
age
89 :
ゾロゾロ:02/03/24 13:29 ID:K9ekkPag
>>82
ワラントって、そういうのがあったのか?
安い給料を補填か?
わかった
91 :
前田徹:02/03/24 19:09 ID:YgRYaDrE
>>81 よくもまぁ、こんなに訴えられたもんだ。
STSは真面目にやれよ。
92 :
上村勘二郎:02/03/24 19:13 ID:oDm/HPs5
○造で誤魔化せ
どうしてMRが必要なの?
クラヤとかに任せればいいのでは? ゾロにMRは不要
本当に同じ成分ならば
ゾロのMRさんって惨めではないでしょうか?
給料は安そうだし、病院でははっきり言ってバカにされてるし、
おまけに売るのが値段勝負のコピー商品ですか。
やる気でます?
>>75 >こんなレベルの低い会社で安い給料で我慢しながら働く社員たち
>ある意味では偉いと誉めたるよ
ボランティア?
実体はNPO(非営利組織)沢井奉公会だな
96 :
卵の名無しさん:02/03/25 07:56 ID:T93zocaM
ほっとけ! ぼけ!!
図星だったか
98 :
卵の名無しさん:02/03/25 18:50 ID:kiJ2e+ng
ゾロのMR=清貧
貧しくとも自らの信念を貫く。
安い給料だとか、バカにされるだとか、全く気にしない。
年収がたとえ100万円にされても日本にゾロを普及させるという信念を貫き通す。
99 :
卵の名無しさん:02/03/25 23:26 ID:d8H1BbCv
>>98 おまえ、ゾロのMRを完全にバカにしてるやろ!!
100 :
卵の名無しさん:02/03/26 00:13 ID:otums/Dn
ゾロのMRはマゾかぁ?
101 :
卵の名無しさん:02/03/26 12:37 ID:z/26Q9C7
ゾロのMRをバカにすんな!
サラ金の営業よりマシです
102 :
卵の名無しさん:02/03/26 12:42 ID:p3+GsZQc
ゾロの沢井
彼らは「同種同効品」というようだ。
以前これを使うのは石として当然の責務で使わないのは怠慢
みたいなことをぬかしやがったので出入り禁止にした記憶がある。
103 :
前田徹:02/03/26 15:59 ID:heghXLPa
そんなに健康に留意した男が、第二次大戦後半の1943年ごろから急速に老化し、44年には
パーキンソン病の兆候を見せ始めた。地下壕にたてこもった45年1月中旬には頭髪もすっかり
灰色の老人のようになり、歩くことも満足にできなかった。自ら築きあげた第三帝国の衰亡ととも
にヒトラーも重い病に日々やつれていったのであった。
そうした記録をもとに、シェンクは「ヒトラーを悪魔呼ばわりすべきでない」と結論づけ、それより
も「能力的には優れたところのある普通の男が、世界を破滅の寸前に追い込み、同時に自分自
身をも病を患うほど追いつめた」ことに注目すべきだという。
ヒトラーの伝記の類(たぐい)は古典的といわれるトレーバー=ローパーの「ヒトラー最後の日」な
ど、実に数多く出ている。しかし、その大半は、ヒトラーの出生の秘密や性格の異常性を強調す
るケースが多い。異常な人間が、異常な戦争を引き起こした。またはチャプリンの映画「チャップ
リンの独裁者」が描くように悲喜劇性が強調される。
ヘンリエッタ・フォン・シーラッハが「ヒトラーをめぐる女性たち」で描いたヒトラーは、そうした伝記
物の中で異彩を放っている。彼女は、ナチス党草創期からヒトラーのお抱えカメラマンだったハ
インリッヒ・ホフマンの娘で、成人後はヒトラー・ユーゲント指導者だったフォン・シーラッハの妻と
なった女性だ。ヒトラーといつでも面会できる数少ない近親者だっただけに、貴重な証言集とい
える。
この中で描かれるヒトラーは、女性たちの前で常にスタイリストであろうとした芸術家気取りの政
治家であり、読書を愛する孤独な革命家だった。
《画家の才能》 1889年4月20日午後6時30分、オーストリアを流れるイン川のほとりのブラ
ウナウに生まれ、母クララの溺愛に近い愛情のもとに育ったヒトラーは、どちらかといえば夢見
がちな少年だった。
ミュンヘンでの青年時代もヒトラーは魅力あふれた情熱家だったし、ヘンリエッタによって生き生
きと描かれている週末のピクニックで友人たちとはしゃぐヒトラーの姿は印象的だ。
画家を目指してウィーンを訪れたヒトラーが、美術アカデミーの試験に2度も失敗したことが、そ
の後の異常な性格を培養したという話はこれまで何度も繰り返されてきた。しかし、こうした見方
に対して最近、疑問を投げかける著書がでている。
ヒトラー直筆の42点の水彩画を新たに発見したとする「ヒトラーの死、50年目の新事実」(エイ
ダ・ペドロバとピーター・ワトソン共著)は、ヒトラーの才能について批評家が「極めて優れたもの
を感じさせる」と賛辞を寄せていることを紹介し、ヒトラーの構図感覚は一級で、絵の細部に綿密
な観察力が発揮されている、と書いている。
シェンクは1939年、ドイツがポーランド侵攻を開始する直前にナチスに入党した。彼女は14歳
で第一次大戦と飢えの怖さを経験しているが、ポーランドを占領し、フランスを降伏させたときの
ヒトラーが「救世主のように思えた」と述懐している。そして当時のドイツ人にとってシェンクのよ
うな期待感はごく一般的だった。
104 :
前田徹:02/03/26 16:00 ID:heghXLPa
■ 豆事典
▽パーキンソン病 1817年にイギリスのジェームス・パーキンソンが報告した病気。中年以上
の男女にみられ、ふるえや筋肉の硬直などの症状が表れる。また、表情が乏しくなり、話すとき
も小声になって言っていることが聞き取りにくくなるなどの症状も見られ、病状が進行すると歩行
不能になることもある。
▽ヒトラーの侍医団 1933年、ヒトラーの首相就任後に組織された。しかし、ヒトラーの医療嫌
いから、侍医は長続きしなかった。最初にヒトラーに付いた著名な外科医、ウェルナー・ハーゼ
博士の場合、体に触れることすら許さないヒトラーに業を煮やして辞任したといわれる。もう1人
の侍医、カール・ブラント博士も後に解任され、結局、最後にヒトラーが信任した医師はオースト
リア出身のモレルだった。ヒトラーは持病の腹痛がモレル調合の薬でおさまったことから、絶大
な信頼を寄せ、死ぬ直前には毎日、モレルの調合する80種類もの薬を服用していた。
▽チャップリンの独裁者 1940年、チャプリン製作、監督、脚本、主演の米映画。39年9月のド
イツによるポーランド侵攻の直後に撮影を開始。チャプリンが仮想国家の独裁者とユダヤ人の
理髪師の2役を演じて、世界制覇の野望に狂う独裁者を批判した。ナチス・ドイツが破竹の勢い
だった時期だけに、製作中、脅迫が絶えなかったといわれる。
▽ウィーン オーストリアの首都。13世紀以来、ハプスブルク家のもとで中欧の政治、経済、文
化の中心地として栄えた。カフェ発祥の地としても知られる。ヒトラーが滞在したのは第1次大戦
前の1908年から13年までで、ウィーンは文化的繁栄の中にハプスブルク家の没落という負の側
面を抱え込み、陰影に満ちた時期にあった。画家志望のヒトラーは定職に付かず、両親の遺産
や孤児年金を頼りに芸術家風の生活を過ごした後、肉体労働や絵はがきをかくことで生計をた
てたとされる。
105 :
前田徹:02/03/26 16:01 ID:heghXLPa
■ 暴走する大衆 ヒトラー現象−1
感情に訴え、心を引きつけよ
「宣伝という近代的な武器は大衆に対するものである。キリスト教は、大衆に訴えったことでは
史上最初の偉大な運動であった。その意味で、中世の教会が最初の全体主義国家だった」
20世紀を代表する歴史家であり、社会思想家でもあったイギリスのE・H・カーは、代表作のひ
とつ「危機の20年」の中で、大衆と宣伝の密接な関係を鋭く指摘した。そして20世紀の大衆宣
伝は、技術革新の時代を象徴するラジオとともにやってきたのである。
《宣伝の道具》 1933年1月30日、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)党首のアドルフ・ヒト
ラーは、ヒンデンブルク大統領から首相指名を受けた。ドイツ国民はそれを新たな時代の幕開け
として期待し、ヒトラー政権誕生を祝う数十万人のたいまつ行列が自然発生的にベルリンなどで
繰り広げられた。
ナチスが大衆運動であることを実証する行列が、ラジオによって、しかも実況放送という新たな
手法によって全国に伝えられた。もちろん初めての試みだ。ナチ党のラジオ監視担当者だったオ
イゲン・ハダモスキーは、翌34年、ラジオで実況放送をすることになったいきさつを次のように
書いている。
「何百万という国民が、今感激している大衆と何のつながりもなく、総統とも何のつながりもなく
て良いものだろうか。ラジオは我々のものにならなければならない。そして理念の最高の道具と
して認識してきた者に奉仕しなくてはならない」
「20世紀の権力とメディア」(平井正著)によると、ベルリンの人気番組「ラジオアワー放送」は19
時にまず「今日の声」というニュースのコーナーで首相官邸でのルポを流した。そして夜になって
たいまつ行列の実況が行われることになり、全国に中継された。同放送の通信員であり、ナチ
突撃隊員でもあったウォルフ・ブライは沿道の建物のバルコニーから実況放送を行い、次のよう
に報告している。
「聴取者の皆さん。街路から直接中継することは今や不可能になりました。街路での歓呼の声
があまりに大きかったので、マイクロホンの声が聞こえなくなったのです」、そして、マイクを向け
られた学生は興奮気味に「もう何時間も流れすぎているこの国民同胞の大軍の中で、学友、労
働者、官吏らが国民共同体に一致しているように見えます」と語り、ブライは「これこそ最も力強
い情景です」と付け加えた。
実況中継による体験の共有と、その興奮の伝播の力はすさまじいものだった。それまでの政治
的デマゴーグ(宣伝)がせいぜい数千人単位だったことを考えれば、無名の聴取者・大衆を相手
にするラジオの登場は革命的なことだった。
106 :
前田徹:02/03/26 16:03 ID:heghXLPa
《ドイツでのラジオ放送は1923年10月23日に半官半民の会社組織として開始されたが、ラジ
オ受信機の予想以上の速い普及に対応して、その3年後には分立していた地方放送局をまとめ
る「ドイツ放送協会」が設立された。その際、ワイマール共和国のルター内閣はラジオの影響力
を十分認識し、政治的放送の禁止や非政党の原則を決めている。そして32年のパーペン内閣
は、ラジオ放送の全面的国有化に踏み切っている》
大衆宣伝(マスコミュニケーション)の天才といわれたヨーゼフ・ゲッベルスはラジオの威力を最大
限知り尽くしていた。彼はヒトラー内閣が発足してわずか2カ月後の1933年3月14日に35歳
の若さで、新設の「宣伝省大臣」に任命されている。そしてゲッベルスの最大の功績は、ドイツに
ラジオを普及させたことだ。
1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件を伝えた大ドイツ放送アナウンサー、リヒャルト・バ
イヤーは「ゲッベルスの嘴(くちばし)」という別名で呼ばれた当時のラジオが信じられないような
スピードで普及したことについて次のように証言している。
「ゲッベルスが非常に優秀な男だと思ったのは、家庭用ラジオを広めるため国家補助金(34年
から35年まで)をつけたことだ。おかげでラジオは1台35マルクで買えるようになった。これは当
時の平均的労働者の1週間分の賃金程度だったから、世界で最も安いラジオだったといえる」
《CMの先駆》 ゲッベルスは、最先端技術を結集したラジオが、労働者大衆にとって高根の花
だったことから、廉価版ラジオの開発に乗り出した。「国民受信機301」がそれだ。当時のドイツ
のラジオ製造会社(28社)が宣伝省の依頼を受け、共同で開発したものだ。ヒトラーが政権につ
いた「1月30日」にちなんで名づけられた大衆用ラジオはすさまじい勢いで普及する。
《ドイツ統計局によると、1924年にわずか1万人だったラジオ聴取者は翌年には78万人、27
年には160万人、さらに31年には370万人に膨れ上がった。そしてゲッベルスの普及版が登
場すると、当時のドイツ全家庭の4分の1にあたる400万人がラジオを聴くようになった。日本の
カラーテレビが東京オリンピック開催の年に爆発的に普及したように、ヒトラーが開会宣言したベ
ルリン・オリンピック(1936年)では、ドイツ国民の8割がラジオの実況放送を聞いた》
ラジオというメディアがなければ、20世紀を特色づける「大衆の時代」の到来は不可能だったが
また、ラジオという大衆コミュニケーションの登場が、ヒトラータイプの政治指導者を可能にした
のである。ヒトラーは「我が闘争」の中で、プロパガンダについて、「大衆の感情に訴えかけるこ
とによって彼らの想像力を呼び起こし、国民大衆の心を引き付けることにある」と明確に断じて
いる。
その仕組みにいち早く気づいたゲッベルスは、広告宣伝の原点を編み出した。ゲッベルスはラジ
オ放送や政治集会で、オーバーすぎるほどの劇的な手法やキャッチフレーズの繰り返しを多用
している。その手法は、現代のテレビコマーシャルの先駆といえるものだった。大衆時代の到来
が、それまでのヨーロッパには見られなかったヒトラーという劇的で爆発的な社会現象を生み出
したのである。
107 :
前田徹:02/03/26 16:04 ID:heghXLPa
■ 豆事典
☆エドワード・ハレット・カー(1892−1982年) 英国の国際政治学者、歴史学者。1916年、英国外
務省に入省し、19年には第1次大戦のパリ講和会議に随員として参加。36年にウェールズ大国
際政治学教授に転じた。第2次大戦中は情報省の外国部長や新聞の論説委員を務めた。戦後
はロシア革命を研究し、現代国際関係研究の基礎を築いた。著書に「危機の20年」(39年)、「歴
史とは何か」(61年)など。
☆パウル・フォン・ヒンデンブルク(1847−1934年) ドイツの軍人、大統領。第1次大戦時に東部
方面の司令官としてロシア軍に大勝し国民的英雄となる。ワイマール共和国下でも人気は高く、
1925年、保守派に推されて第2代大統領に就任。32年の大統領選ではヒトラーを破って再選さ
れたが、経済恐慌下、議会政治が行き詰まると反議会的な内閣を連続させ、共和制の崩壊を促
進させた。33年1月、政局の行き詰まりからヒトラーを首相に任命、第三帝国への道を開いた。
☆ヨーゼフ・ゲッベルス(1897−1945年) ナチス・ドイツの政治家で宣伝活動の責任者。ハイデ
ルベルク大で哲学、歴史学の学位を取り、1922年、ナチ党に入党。29年に党中央宣伝部長とな
り、33年、宣伝相に就任した。
☆東京オリンピック オリンピックの東京開催は、1936年の国際オリンピック委員会(IOC)ベルリ
ン総会で正式に決まっていた。しかし、日中戦争が拡大したことから、政府は38年7月、「時局の
重大性に鑑み」、2年後に迫ったオリンピック東京大会の中止を突然決定した。この「幻の東京
大会」の24年後、日本が戦後の混乱期を脱し、高度成長への道を踏み出そうとする時期に開か
れた第18回オリンピック東京大会(64年)では、日本は16個の金メダルを挙げ、金メダル数で米ソ
に次ぐ3位の成績を収めた。女子バレーボール決勝で日本が宿敵ソ連を下し優勝した試合で
は、国民がテレビの前にくぎづけになり、85%の視聴率を記録した。
108 :
前田徹:02/03/26 18:07 ID:vybGqVqj
■ 暴走する大衆 ヒトラー現象−2
「ダダ」と「ナチ」の伝統破壊
大衆社会の到来は大量生産と大量消費によって可能となった。20世紀の人口は、18世紀以降
の産業革命に伴う生産量の拡大に伴って、爆発的に増えている。例えばスペインの哲学者、オ
ルテガ・イ・ガセットが1930年に発表した「大衆の反逆」によると、欧州の人口は6世紀以来12
00年間、1億8千万人を超えたことはなかったが、19世紀の初頭から第一次大戦までのわず
か100年余りの間に一挙に4億6千万人にまで増大している。
《人口の急増》 アドルフ・ヒトラーの登場は、そうした時代と切り離して考えるわけにはいかな
いのだが、では大衆社会とはどういうものなのか。オルテガは「大衆の反逆」の中でこう書く。
「都市は人で満ち、家々は借家人で満ちている。観衆が群がり、海浜は海水浴客であふれてい
る。(中略)そして大衆人とは、心理的事実として定義しうるものであり、自分はすべての人と同じ
であると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見
いだしているすべての人のことである」
オルテガの大衆論は、20世紀になり突如として現れた「量(マス)」としての大衆が、時代の主役
となったことに厳しく警告を発している。無名の大衆が社会の表舞台に出たことを「多数者が今
日ほど直接的に支配権を振るうに至った時代は歴史上かつてなかったのではないか」と嘆き、こ
の時代を超デモクラシーの時代と名づけている。
オルテガは更に、大衆人の様相を道徳性の欠如としても特色づけている。この場合の大衆人と
は「権利ならすべてを持っているが、義務は一切負っていないような人たち」のことであり、「財
産は均等化され、相異なった社会層間の文化程度も平均化され、男女両性も接近しつつある凡
庸の時代」にわれわれは生きているというのである。そうして当時の欧州を席巻しつつあったロ
シアのボリシェビズムとドイツのナチズムを、凡庸で「歴史意識」を持たない典型的な大衆運動
だと断じている。オルテガの描くこうした大衆社会は、不気味なほど現代の日本の政治風景にも
あてはまる。その警告が今も精彩を放っているのは驚異というほかない。
イギリスの歴史学者、E・H・カーはこのような第二次大戦直前の国際状況を分析した名著「危機
の20年」を書いたが、その続編として戦後、「ナショナリズムとその後」を発表した。そのテーマ
は、極端なナショナリズムを内包する大衆民主主義(マスデモクラシー)の分析の試みだった。
E・H・カーによれば、近代国家の発展はフランス革命から現代に至るまで大きくみて3段階に分
けられる。国王ら特権階級が主役の時代、資産も教育もある中産階級が国家権力を握った時
代、そして第一次大戦後の大衆民主主義の時代だ。
工業化と都市人口の急増によって支えられた労働者が政治意識に目覚め、さらに義務教育の
普及で大衆が表舞台に登場すると、国の政策はそれまでの社会秩序の維持だけでなく、国民全
般の生活水準の向上を最優先させる結果となった。
109 :
前田徹:02/03/26 18:09 ID:vybGqVqj
E・H・カーの分析が面白いのは、19世紀型のブルジョア民主主義から20世紀の大衆民主主
義に移行することによって、時代の要請が政治から経済に移ったと指摘している点だ。その結
果、それぞれの国が自国民の生活水準の向上にばかり気を取られる時代になり、それを守るた
めには他国との争いも辞さないようになる。そして労働者の賃金や雇用の保護が重要になるに
つれ、経済ナショナリズムが極端に強まったという論理が展開されている。
その象徴的な例として、イギリスで1905年に「移民統制法」が通過した事実があげられている
が、19世紀の自由経済の時代には、移民の制限など考えつきもしなかった。資本家や雇用者
が移民という安い労働力を欲していたからだ。その資本家の利益を無視した法案の登場こそは
大衆政治の始まりを告げるものだった。
経済ナショナリズムは、大衆の利益保護とともに登場した。そして、それは統制経済への道をも
開く結果となった。ヒトラーが政権をとった直後に実施した大規模な統制経済は失業者を激減さ
せ、イギリスなどからも奇跡として称賛されたが、これは20世紀前半に、ほぼ相前後して登場し
たレーニンの社会主義経済(管理経済)、アメリカのF・ルーズベルトのニューディール政策と基本
的に同質のものだったといえる。
《道徳性欠如》 E・H・カーはこうした大衆保護型の国家を、国家の社会主義化、あるいは社会
主義の国家化と呼んだ。ヒトラーが大衆政治運動として始めたナチスが「国家(民族)社会主義ド
イツ労働者党」の省略名であることを考えれば、カーがここで意味しようとしていることは明白で
ある。社会主義に国家の形を与えたレーニンも、民族主義に国家を重ねたヒトラーも、大衆社会
が生み出した現象であることに変わりはないのである。
ナチス時代の文化的側面を研究するドイツ文学者の平井正も、ヒトラーの登場が20世紀に成
立した大衆社会と不可分の関係にあることを主張している。
「二十世紀の権力とメディア」という著書で、ナチス時代の政治プロパガンダによる大衆動員の
すさまじさを描いた平井正は、三部作「ドイツ・悲劇の誕生ダダ・ナチ」では、20世紀前期の前衛
的な芸術運動だった「ダダ」と、大衆政治運動の「ナチ」に共通するラジカル(急進的)な伝統破壊
の側面に注目している。
1916年2月、スイス・チューリヒの「キャバレー・ボルテール」で始まった「ダダイズム」は、欧州
各国から集まった第一次大戦の戦争忌避芸術家によって、国家や文化の違いを否定する運動
と定義づけられた。それは、人類の伝統的なものすべての解体運動を目指しており、その過激さ
ゆえに1917年のボリシェビキ革命(ロシア10月革命)になぞらえ、「文化のボリシェビズム」と呼
ばれた。実際、亡命時代のレーニンはこのボルテールの客の一人だったのである。
平井正はその伝統否定のイデオロギーが、実は道徳性(規範への服従)の欠如と表裏をなしてい
るとし、「経済的利益のためなら、あるいは美の追求のためなら古い道徳観に惑わされないとい
うラジカルさが、20世紀の特色だった」と指摘した。オルテガも、すでに書いたように大衆の特
性として道徳性の欠如をあげている。
110 :
前田徹:02/03/26 18:09 ID:vybGqVqj
■ 豆事典
☆オルテガ・イ・ガセット(1883−1955年) スペインの哲学者。ドイツに留学して新カント派の哲
学を学び、1910年に27歳でマドリード大学の形而上学教授となる。新聞、雑誌でも評論活動に従
事。36年、スペイン内戦が始まると、フランスなどで亡命生活を送り、45年に帰国。歴史や社会、
芸術など広範なテーマについての考察から大衆社会の到来を予告するとともに、ヨーロッパ文
明の将来を憂えた。
☆ヒトラーの統制経済 ヒトラーが首相に就任した1933年、元国立銀行総裁のシャハトが総裁
に復帰し、厳重な貿易および為替統制による経済再建に着手した。失業問題では、軍備増強に
伴う公共支出などで雇用を創出し、ヒトラー政権前の32年に600万人以上だった失業者を36年に
は40万人にまで減らした。しかし、シャハトは37年に軍備増強のテンポをめぐり、空軍最高司令
官ゲーリングと衝突して失脚。以後、ゲーリングが4カ年計画長官として軍備を拡張しながら準
戦時経済体制の確立を進めていった。
☆ニューディール政策 1933年、国家的統制で経済を再建し、大恐慌を乗り越えようとした米国
のF・ルーズベルト大統領の政策。銀行や通貨を統制下におき、公共事業の建設に数十億ドル
をつぎ込むと同時に、復興促進局など政府の諸機関を総動員して、失業・貧困問題の解決や農
業対策などにあたった。
☆キャバレー・ボルテール 小舞台と15卓ほどの小さなキャバレーだった、第1次大戦中の1916
年2月から、逃亡兵や戦争忌避の芸術家たちが毎晩、集まって、支離滅裂な騒ぎを繰り広げた。
キャバレーは家主の追い立てで閉店したが、既成の道徳や哲学、芸術などの伝統的権威を否
定しようとする芸術運動はダダイズムと呼ばれ、ベルリンやパリ、ニューヨークに広がっていっ
た。「ダダ」は、徴兵忌避者の詩人、トリスタン・ツァラがフランス語の辞典から行き当たりばった
りに選んだ言葉で「お馬」の意味の幼児語。
111 :
前田徹:02/03/26 18:41 ID:b0BraQR/
■ 暴走する大衆 ヒトラー現象−3
私は芸術家に撮ってもらいたい
20世紀を代表する革命家であり、政治家でもあるウラジーミル・レーニンは次のように語った。
「政治は大衆が存在しているところに始まる。数千人がいるところではなく、数百万の人々がい
るところに本当の政治が始まる」
そして同時代の哲学者、オルテガ・イ・ガセットは「大多数の人は意見を持っておらず、彼らには
潤滑油を機械に注入するように、意見も圧力をかけて外から注入されねばならない」と、政治の
条件をつけ加えている。《意思の勝利》
アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は、1930年の総選挙で107議
席を獲得して第2党に躍進した。ナチスが当時のドイツ大衆の意見を代表するようになったのは
ヒトラーが大衆の望むものを敏感に感じとる大衆政治家であり、しかも大衆の意見を巧妙に一元
化する術(すべ)を知っていたからだろう。ヒトラー自身がいうように「科学的な説明は知識人のた
めにあり、宣伝(プロパガンダ)という近代的な武器は大衆に対するもの」であった。
20世紀初頭の技術革新は、ラジオに続いて映画という格好の宣伝手段をヒトラーに提供し、プ
ロパガンダ映画史上、最高の傑作といわれる「意思の勝利」はそうして誕生した。
1934年9月5日から10日間にわたってニュルンベルクで開かれた第6回ナチ党大会を題材に
しているこの映画は、当初、単なる党の政治宣伝として企画された。しかし、ヒトラーから直接撮
影を依頼された総監督のレニ・リーフェンシュタールは、それまでの宣伝映画の常識を超えてし
まう。
最初のシーンは、ヒトラーの飛行機の印象的な登場から始まる。それまで暗かった曇り空を貫く
陽光。その雲間を徐々に旋回しながら下りてくる飛行機の翼の大きな影が、ナチ突撃隊の壮大
で幾重にも連なる行進を覆う。レニのカメラワークはヒトラーと群衆の表情を的確にとらえてい
く。そして全編を通じて流れる群衆の整然とした規律ある行進のリズムが、会場の張りつめた緊
張感と参加者の感動を見事に伝える。
当時のドキュメント映画は動きがなく説明調の場面が多いことを考えれば、この映画は実に画期
的だ。後にレイ・ミュラー監督が撮った映画「レニ」の中で、レニ自身が「画面の動きを出すため
ローラースケートを使った撮影を試みた」と述べているが、その動きは絶妙というほかない。
もうひとつ、この映画を単なるプロパガンダにしていないのはナレーションが一切、入っていない
ことだ。説明調を排し、音声は群衆の歓呼と歌声にしぼられている。ナレーションのないことにナ
チス幹部は「党の宣伝にならない」と怒ったそうだが、映像にすべてをかけるこの手法は、視覚
により強く訴える分だけ、迫力をもって観客にメッセージを伝える。
プロパガンダであろうとなかろうと、良い映画はとにかく訴える力に優れていることを示す実例と
いえるだろう。
112 :
前田徹:02/03/26 18:42 ID:b0BraQR/
ヒトラーは政権を握った翌年のこの党大会を記念碑的なものにしたかった。その年、突撃隊幕僚
長だったエルンスト・レームを粛清し、8月にはヒンデンブルク大統領が死んで、ヒトラーは首相
だけでなく元首の地位も手にしていた。
ヒトラーはレニに対し「あなたの人生を(党大会期間中の)6日間だけください。私は党の監督で
はなく、芸術家に撮ってもらいたいのだから」と依頼したという。プロパガンダの意味するところを
熟知していたことがわかる“殺し文句”だ。映画はレニの職人かたぎとも言える綿密なフィルム編
集が手間取って結局、翌35年3月に封切られ、国内だけでなく海外でも大きな反響を呼んだ。
プロパガンダのための一大スペクタクルショーだとの非難を浴びながらも、芸術性の高さゆえに
1937年のパリ万国博で金メダルを受賞している。ヒトラーの狙いは見事に的中したのである。
レニは1902年8月、ベルリンに生まれた。幼いころから天才ダンサーとして活躍、そのころから
ヒトラーは彼女の才能に目を付けていたという。途中、足のケガをきっかけに映画女優に転向
し、その美貎と演技で評判になった。そして、30歳のときに「青の光」を初監督し、ベネチア映画
祭の金賞を取ったことで女流監督としての地位を確立する。「意思の勝利」は彼女にとって2番
目の作品だった。
《ナチ協力者》 このあとオリンピック記録映画の不朽の名作といわれる「民族の祭典」「美の祭
典」の2部作「オリンピア」を完成させて名声をほしいままにするのだが、映画作品は第二次大
戦中に撮った「低地」を含め5作しか作っていない。
ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判では、ナチ協力者にあたるとされたレニ
は「協力したのではなく、美を追求しただけ」と反論して無罪となるが、彼女の映画の与えた影響
力のあまりの大きさから、映画活動への道をすべて閉ざされてしまったのである。
レニは現在、94歳ながらミュンヘン郊外で健在だ。産経新聞のインタビューの申し込みに1度は
応じたのだが、最終的には体調を理由に断ってきた。会えれば「ヒトラーをあれほど美しく、力強
く映像にできたのは、ヒトラーに同調していたからではないのか」と聞くつもりだった。
現代ドイツでは「ナチス体制下の知識人たち」が討論のテーマによく取り上げられる。ボン大学
歴史政治学部主任教授、ハンス・ペーター・シュバルツの教室でも今年、そのテーマで討論が行
われ、最も論争になったのが哲学者ハイデッガーと映画芸術家レニに対する評価だった。ハイ
デッガーは確信的なナチス支持者であり、レニはあまりにも映像が有名だからだ。あの映像を見
れば、レニが間違いなくヒトラーに魅せられていたことがわかる。シュバルツ教室でもこの点では
意見が一致したという。
ヒトラーは俗悪趣味の大衆政治家ではなく、むしろ訴える力のあるものを理解する感覚を備えて
おり、それを利用する方法も知っていた。レニは美しいものを作り上げるためにヒトラーが与えた
機会を十二分に利用したのだ。
良い映画は、その表現方法も含めてとにかく訴える力を持っている。レニは、ヒトラーが大衆に
訴えようとした戦争のリズムや群衆の美を追求し、結果としてナチ協力者になった。
113 :
前田徹:02/03/26 18:43 ID:b0BraQR/
■ 豆事典
☆ニュルンベルク ドイツ南部の都市。ヨーロッパ南部と中部を結ぶ交通の要衝に位置し、中世
以来、玩具製造や木彫など手工業中心の商業都市として栄えた。ナチスの党大会が1933年から
38年まで開かれ、第2次大戦後の46年にはナチスの戦争責任を裁く国際軍事裁判が開かれた
ことでも有名。
☆レイ・ミュラー(1949年−) 映画監督、脚本家。1974年からドキュメンタリーの演出を続け「レ
ニ」の成功で世界に認められた。この映画の中でレニ・リーフェンシュタールは「半世紀以上苦し
んでいる。終わりがない」と語り、「私のどこに罪があるのだろう。だれをも排斥しなかった」と自問している。
☆エルンスト・レーム(1887−1934年) ナチスの武装組織・突撃隊(SA)の創始者。1923年のミュ
ンヘン一揆後、南米に亡命していたが、31年にヒトラーの命で帰国し、突撃隊総司令官に復帰し
た。ヒトラーの政権掌握後、突撃隊を中心とした新たな軍隊の創設を試みたが、ドイツ国防軍と
の当面の提携を重視するヒトラーやゲーリングと対立。34年6月、他の突撃隊幹部とともに殺害
された。
☆マルチン・ハイデッガー(1889−1976年) ドイツの哲学者。フライブルク大で神学、哲学を修
め、現象学のフッサールに師事した。1927年、主著の「存在と時間」を発表した。33年のナチス政
権発足後、同大総長に就任、前後してナチスに入党した。戦後、ナチに協力的だったとして教職
を解かれたが、占領軍が特別審問の結果、ナチスの活動的指導者ではなかったと判断し、50年
に同大に復帰した。対ナチ協力問題については、シュピーゲル誌とのインタビューで「ナチスの
出現に新時代の曙を見た」と告白している。
>>98 >安い給料だとか、バカにされるだとか、全く気にしない。
>年収がたとえ100万円にされても日本にゾロを普及させるという信念を貫き通す。
ゾロの普及に、そこまで頑張れる正義はないよ。
高山(from古森)くんは、荒らしのために、このスレを立てたみたいだな。
そのために沢○をダシに使うこともないのに。
ひろゆきくんに同情したくなった。
115 :
卵の名無しさん:02/03/27 06:56 ID:ffKU6pgP
age
116 :
前田徹:02/03/27 08:00 ID:XkSyi6Jh
暴走する大衆 ヒトラー現象−4
経済復興の背後に“軍靴の足音”
ニュルンベルク市郊外の小さな村ヘルスブルックに住むローズマリー・クラウゼンの名付け親は
アドルフ・ヒトラーだった。小さいころ、彼女はドイツ帝国陸軍予備役少将だった父からその時の
話を何度も聞かされて育った。しかし、戦後はヒトラーに関係することがすべてタブーになり、い
まは名付け親のことを孫にも隠している。
1936年6月、ローズマリーが生まれた日に、ヒトラーは側近らとともにハンブルクを視察したが
その出迎え陣の中に当時、ハンブルク市警察長官だったローズマリーの父親もいた。ヒトラーは
ハンブルク市役所の役人に1人1人と握手をしていき、警察長官のところに来ると立ち止まって
親しげに語りかけた。
「今朝、子供が生まれたそうだね。おめでとう」そして、赤ん坊の名付け親になろうといいだして
警察長官を感激させたのだった。
ヒトラーが政権を取ってからすでに3年がたっており、国民の人気はうなぎ上りだった。政府への
4年間の独裁権を承認する授権法の成立(1933年3月23日)と、翌34年8月のヒンデンブルク
大統領の死去によって事実上、独裁体制が確立されており、ヒトラーは宿敵・共産党を相手に選
挙戦を戦う必要もなかった。
それでも、彼は過去の選挙キャンペーンでドイツ中をあっといわせてきた飛行機による神出鬼没
の地方訪問を続けた。いかに独裁体制であろうと、大衆の支持を失えば自らの政治生命が終わ
ることをヒトラーは知っていた。ハンブルクを訪れたのも、地味ではあるが、効果的な大衆キャン
ペーンの一環だった。
この時期にヒトラーが名付け親になった赤ん坊の数はかなりあったはずだし、記録によれば、男
の子に「アドルフ」と名づける家庭も多かった。
《青いベンツ》 ヒトラーのそうした人気ぶりを、ヒトラーのおかかえ建築士で後に軍需相にまで
なったアルベルト・シュペーアは回想録「ナチス狂気の内幕」の中で次のように書いている。
「ヒトラーはオープンカーの助手席に立ち、風防ガラスに手をおいた。群衆の熱狂は、頂点に達
した。ヒトラーが政権を取ってからは、どこへ行ってもこのような光景が繰り広げられた。私もヒト
ラーの行くところならどこへでもついていこうという熱い気持ちでいっぱいだった」
ヒトラーが大衆政治家として成功したのは、時代の最先端を行くラジオやトーキー映画で、無名
の大衆に訴えかける方法を手に入れたからだが、もうひとつ理由をあげれば、テレビのないこの
時代には、特別製の青いベンツのオープンカーに乗って現れたり、バルコニーから群衆に手を
振ったりするパフォーマンスも重要な役割を果たしたのである。地方キャンペーンでも、いかにも
ヒトラーらしく飛行機をさかんに使うことによって、時代の申し子のような印象を与えたのだった。
117 :
前田徹:02/03/27 08:13 ID:ffKU6pgP
暴走する大衆 ヒトラー現象−4
経済復興の背後に“軍靴の足音”
ニュルンベルク市郊外の小さな村ヘルスブルックに住むローズマリー・クラウゼンの名付け親は
アドルフ・ヒトラーだった。小さいころ、彼女はドイツ帝国陸軍予備役少将だった父からその時の
話を何度も聞かされて育った。しかし、戦後はヒトラーに関係することがすべてタブーになり、い
まは名付け親のことを孫にも隠している。
1936年6月、ローズマリーが生まれた日に、ヒトラーは側近らとともにハンブルクを視察したが
その出迎え陣の中に当時、ハンブルク市警察長官だったローズマリーの父親もいた。ヒトラーは
ハンブルク市役所の役人に1人1人と握手をしていき、警察長官のところに来ると立ち止まって
親しげに語りかけた。
「今朝、子供が生まれたそうだね。おめでとう」そして、赤ん坊の名付け親になろうといいだして
警察長官を感激させたのだった。
ヒトラーが政権を取ってからすでに3年がたっており、国民の人気はうなぎ上りだった。政府への
4年間の独裁権を承認する授権法の成立(1933年3月23日)と、翌34年8月のヒンデンブルク
大統領の死去によって事実上、独裁体制が確立されており、ヒトラーは宿敵・共産党を相手に選
挙戦を戦う必要もなかった。
それでも、彼は過去の選挙キャンペーンでドイツ中をあっといわせてきた飛行機による神出鬼没
の地方訪問を続けた。いかに独裁体制であろうと、大衆の支持を失えば自らの政治生命が終わ
ることをヒトラーは知っていた。ハンブルクを訪れたのも、地味ではあるが、効果的な大衆キャン
ペーンの一環だった。
この時期にヒトラーが名付け親になった赤ん坊の数はかなりあったはずだし、記録によれば、男
の子に「アドルフ」と名づける家庭も多かった。
《青いベンツ》 ヒトラーのそうした人気ぶりを、ヒトラーのおかかえ建築士で後に軍需相にまで
なったアルベルト・シュペーアは回想録「ナチス狂気の内幕」の中で次のように書いている。
「ヒトラーはオープンカーの助手席に立ち、風防ガラスに手をおいた。群衆の熱狂は、頂点に達
した。ヒトラーが政権を取ってからは、どこへ行ってもこのような光景が繰り広げられた。私もヒト
ラーの行くところならどこへでもついていこうという熱い気持ちでいっぱいだった」
ヒトラーが大衆政治家として成功したのは、時代の最先端を行くラジオやトーキー映画で、無名
の大衆に訴えかける方法を手に入れたからだが、もうひとつ理由をあげれば、テレビのないこの
時代には、特別製の青いベンツのオープンカーに乗って現れたり、バルコニーから群衆に手を
振ったりするパフォーマンスも重要な役割を果たしたのである。地方キャンペーンでも、いかにも
ヒトラーらしく飛行機をさかんに使うことによって、時代の申し子のような印象を与えたのだった。
118 :
前田徹:02/03/27 09:42 ID:/tTLtMZC
その意味で、ヒトラーは20世紀に特徴的な技術革新や大衆化を実によく理解していた。19世紀
の大政治家だったビスマルク、ワイマール共和国時代のエーベルトやストレーゼマンら、これま
でのドイツの指導者とは異なるタイプの政治家だった。
戦後ドイツの代名詞となった高速道路網「アウトバーン」は、ヒトラーの決断で建設が始まってい
るが、彼は交通機関としては登場したばかりの自動車の将来を鋭く見通していた。アメリカ大衆
社会の象徴となったT型フォードを生産台数で超えたフォルクスワーゲン・ビートルは、戦前戦後
を通じて2千万台以上が売られたが、この大衆車の生みの親もヒトラーだった。
1933年、ナチスが政権を奪取すると同時にとった政策のひとつに、当時まだ高価だった自動
車やオートバイを新車で買った人への登録税の廃止がある。そしてその年の9月、ヒトラーは自
動車制作の天才といわれたフェルディナント・ポルシェ博士に対し「値段は千マルク以下にする
ように」との条件をつけ、小型国民車の製造を依頼している。
ポルシェ博士の徹底した実用設計は、街の普通のドライバーでも簡単に運転できるということに
重点を置いており、ヒトラーが望んだ低所得層にも買える価格とあいまって画期的な自動車を生
んだのだった。すでに現れ始めていた女性ドライバーのことも念頭に置いたという。
《4カ年計画》 1934年1月半ば、ポルシェ博士のアイデアが固まった段階で、ヒトラーはベル
リン自動車ショーの開会式に出席し、次のように演説している。
「中型オートバイの値段でだれにでも買えるドイツ製の大量生産車を現実のものとしたい。実用
的であるだけでなく、日曜日や休暇を楽しいものとしてくれる交通の手段を、何百万という勤勉
な国民が持ち得ないのは、考えるだけでも胸が痛む」
この国民車アイデアを実現するために、そのころのドイツ自動車業界に圧力をかけたのも、ヒト
ラーだった。当時の業界は、ポルシェ博士の小型国民車という構想には否定的で、「大量輸送の
主役はバスになる」(BMW社)という見方が主流だった。アウトバーンの建設も、大衆車の製造
も、採算を度外視したヒトラーの大衆社会への洞察に根ざしていたといえる。
ヒトラーは経済政策の面でもそれまでの常識を破って徹底した公共投資による計画経済を実施
し、失業者を大幅に減らしている。ワイマール共和国後期に世界を襲った大恐慌でドイツは失業
率約45%、実に6百万人近い失業者が国内にあふれたが、ヒトラーは自由放任経済から大規
模な統制経済へと大胆に転換し、国民の喝采を浴びたのである。このヒトラーの経済政策は「4
カ年計画」と名づけられて、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策やレーニン
の計画経済と比較され、その成功はイギリスの元首相、ロイド=ジョージも絶賛したという。
ただし、その同じ時期にヒトラーは国際連盟の脱退、ベルサイユ条約の破棄、さらにドイツ再軍
備着手と矢継ぎ早に外交攻勢をかけており、人気が集中した経済政策やアウトバーン建設の華
やかさの背後では、確実に軍靴の足音が聞こえていたのである。
119 :
前田徹:02/03/27 09:43 ID:/tTLtMZC
■ 豆事典
▽フリードリヒ・エーベルト(1871−1925年) ワイマール共和国初代大統領。1913年、ドイツ社会
民主党党首に就任。イデオロギーより実践重視の立場から党内左派と対立した。第1次大戦後
の19年に共和国初代大統領に選ばれ、ベルサイユ講和条約を締結。国際協調のため超党派的
立場で国家の再建に努めたが、左右両派から批判を受けた。
▽グスタフ・ストレーゼマン(1878−1929年) ワイマール共和国の首相、外相。第1次大戦後にド
イツ人民党を創立。23年に社会民主党などとの大連合内閣の首相兼外相となり、インフレの収
拾に当たる。首相は3カ月で辞任し、以後6年間、外相として国際協調外交を進めた。ドイツ西
部国境の現状維持やラインラントの非武装化などを取り決めたロカルノ条約(25年)、ドイツの国
際連盟加入(26年)を成功させたが、国内の右派勢力から攻撃を受けた。26年にノーベル平和賞
を受賞。
▽アウトバーン ドイツ語で高速自動車道路の意。ヒトラー政権は1933年に1万4000キロの建設
計画を立て、42年までに3859キロを完成させた。一般車両の交通網整備のほかに、失業者の雇
用確保と軍用輸送などが目的だった。
▽フェルディナント・ポルシェ(1875−1951年) ドイツの自動車技師。いくつかの自動車メーカー
で修業を積んだ後、1930年に自動車設計事務所「ポルシェ社」を設立。小型で維持費のかから
ない大衆車の普及構想がヒトラーに注目され、カブトムシ形のフォルクスワーゲン(ドイツ語で国
民車)の製造に成功。38年から量産が開始された。第2次大戦後の48年、小型スポーツカーのポ
ルシェ356を完成させた。
▽デビッド・ロイド=ジョージ(1863−1945年) イギリスの政治家。1890年、弁護士から自由党下
院議員に転じ、第1次大戦中はアスキス連立内閣の軍需相、陸相を歴任。軍需生産の増強、徴
兵制の実現につとめた。16年には首相に就任して大戦を乗り切り、パリ講和会議に臨んだ。
120 :
前田徹:02/03/27 18:59 ID:ffKU6pgP
その意味で、ヒトラーは20世紀に特徴的な技術革新や大衆化を実によく理解していた。19世紀
の大政治家だったビスマルク、ワイマール共和国時代のエーベルトやストレーゼマンら、これま
でのドイツの指導者とは異なるタイプの政治家だった。
戦後ドイツの代名詞となった高速道路網「アウトバーン」は、ヒトラーの決断で建設が始まってい
るが、彼は交通機関としては登場したばかりの自動車の将来を鋭く見通していた。アメリカ大衆
社会の象徴となったT型フォードを生産台数で超えたフォルクスワーゲン・ビートルは、戦前戦後
を通じて2千万台以上が売られたが、この大衆車の生みの親もヒトラーだった。
1933年、ナチスが政権を奪取すると同時にとった政策のひとつに、当時まだ高価だった自動
車やオートバイを新車で買った人への登録税の廃止がある。そしてその年の9月、ヒトラーは自
動車制作の天才といわれたフェルディナント・ポルシェ博士に対し「値段は千マルク以下にする
ように」との条件をつけ、小型国民車の製造を依頼している。
ポルシェ博士の徹底した実用設計は、街の普通のドライバーでも簡単に運転できるということに
重点を置いており、ヒトラーが望んだ低所得層にも買える価格とあいまって画期的な自動車を生
んだのだった。すでに現れ始めていた女性ドライバーのことも念頭に置いたという。
《4カ年計画》 1934年1月半ば、ポルシェ博士のアイデアが固まった段階で、ヒトラーはベル
リン自動車ショーの開会式に出席し、次のように演説している。
「中型オートバイの値段でだれにでも買えるドイツ製の大量生産車を現実のものとしたい。実用
的であるだけでなく、日曜日や休暇を楽しいものとしてくれる交通の手段を、何百万という勤勉
な国民が持ち得ないのは、考えるだけでも胸が痛む」
この国民車アイデアを実現するために、そのころのドイツ自動車業界に圧力をかけたのも、ヒト
ラーだった。当時の業界は、ポルシェ博士の小型国民車という構想には否定的で、「大量輸送の
主役はバスになる」(BMW社)という見方が主流だった。アウトバーンの建設も、大衆車の製造
も、採算を度外視したヒトラーの大衆社会への洞察に根ざしていたといえる。
ヒトラーは経済政策の面でもそれまでの常識を破って徹底した公共投資による計画経済を実施
し、失業者を大幅に減らしている。ワイマール共和国後期に世界を襲った大恐慌でドイツは失業
率約45%、実に6百万人近い失業者が国内にあふれたが、ヒトラーは自由放任経済から大規
模な統制経済へと大胆に転換し、国民の喝采を浴びたのである。このヒトラーの経済政策は「4
カ年計画」と名づけられて、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策やレーニン
の計画経済と比較され、その成功はイギリスの元首相、ロイド=ジョージも絶賛したという。
ただし、その同じ時期にヒトラーは国際連盟の脱退、ベルサイユ条約の破棄、さらにドイツ再軍
備着手と矢継ぎ早に外交攻勢をかけており、人気が集中した経済政策やアウトバーン建設の華
やかさの背後では、確実に軍靴の足音が聞こえていたのである。
121 :
卵の名無しさん:02/03/27 22:49 ID:NchM28a4
荒らすより給料をなんとかしてくれよ。
俺んとこの所長は嫁さんにダイエーでレジのバイトさせてるようです。
社員の結婚式のお祝いに主賓のくせに1万円しか包まなかったという
あの人です。
122 :
卵の名無しさん:02/03/28 00:13 ID:FnrAK3Ut
年間50品目開発!!!ってか
123 :
前田徹:02/03/28 00:25 ID:s7xH8EU7
暴走する大衆 ヒトラー現象−5
大衆をのみ込む高揚と陶酔の渦
アドルフ・ヒトラー生誕100年の1989年、ネオナチと呼ばれる極右グループによるデモや集会
が西ドイツ各地で繰り広げられた。その年、東西ドイツはベルリンの壁崩壊という第二次大戦後
最大の転機を迎えている。ドイツを代表する週刊誌「シュピーゲル」がそうした時代の転機に「ヒ
トラーは果たしてドイツを代表する政治家だったのか?」というアンケート調査を行ったところ、な
んと38%もの人が「ヒトラーはドイツ最大の政治家の1人だった」と答えた。
ドイツにとってヒトラーがマイナスの指導者であることは否めない。「ドイツ民族のため」といいな
がら世界戦争を引き起こし、民族の分裂を招いた。更にユダヤ人ら他民族を殲滅しようとして生
み出した悲惨な現実は、戦後ドイツ人の精神をいつまでもいやせない状態に置いている。それ
でもなおヒトラーを完全に否定しきれないのはなぜなのだろう。
《大規模動員》 ヒトラーは20世紀に特徴的な現象となった大衆による政治参加を体現する形
で登場した。その大衆とは、あるときは農民であり、あるときは工場労働者であり、あるときは商
店主の顔をしたうつろいやすい無名の存在だった。ヒトラーはそうした不確かな素材から、宣伝
によってひとつの大衆の顔を作り上げていったのである。
レニ・リーフェンシュタールが「意思の勝利」という秀逸のプロパガンダ映画により描いた1934
年の第六回国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)大会は、大衆イベント時代の到来を告げる画
期的なものとなった。大会の演出を受け持った建築家、アルベルト・シュペーアは回想録で次の
ように書いている。
「ヒトラーは出し抜けに大きな注文をよこした。ニュルンベルクのツェッペリン野原に巨大な石造
見物席を作ってほしいというのである。それは長さ390メートル、高さ24メートルにも及んだ」
この建造物は1943年完成予定だったが、戦争で未完成に終わった。しかし、もし完成していた
ら50万人の観衆を収容できたのである。現代のオリンピックスタジアムでさえ、せいぜい20万
人規模ということを考えれば、ヒトラーが描いていた大衆動員のためのイベントの規模は途方も
ないものになる。
実際、第6回大会でもツェッペリン野原の木造見物席は10万の観衆で満員となり、グラウンドに
は突撃隊や親衛隊などナチス運動の主役たち14万人が行進した。そして大会中延べ100万人
が動員されている。当時のドイツの人口は6千万人程度だったから、その動員数が量的にも半
端でないことが分かる。
この時のディレクター役だったシュペーアは、ヒトラーの希望通り作り上げた壮大な建築や数え
切れないほどの鉤十字(ナチスのシンボル)の旗を使って観衆を圧倒した。中でも高射砲隊の新
しいサーチライト130台を使った8千メートル上空まで到達する光の空間の創出は、技術革新と
大衆時代を象徴するイベントとなった。
124 :
前田徹:02/03/28 00:26 ID:s7xH8EU7
こうしたショーがどれほどすごかったのかは第6回大会の4年後の1938年の党大会に参加す
る機会を持った「大日本青少年独逸派遣団」の団員が書き残している「訪独記録」でも知ること
ができる。
「ヒトラーの人気は日本の青少年の予測をはるかに超えていた。ツェッペリン広場の大スタジア
ムで行われた労働奉仕団の祝典でも、その翌日の共同体体育競技大会でも、数十万の行事参
加者と観衆は熱狂していた。ドイツ国民は、ヒトラーを救世主と見なしているのだ。夜は夜で、最
新の照明技術によって、この世ならぬ世界が現出し、一大ページェントが参加者を高揚と陶酔
の渦に巻き込んでいる」
このショーについて団員の1人でボーイスカウトのリーダーだった熊本工業の生徒は「今も脳裏
から離れないのは、光のドームだ。総統の入場とともに会場を囲んで配置された強力なサーチ
ライト百台以上が上空高く光の柱を伸ばした。8千メートル上空に出来上がったまばゆい壮大な
正方形の天蓋だ」と証言している。
《少年兵たち》 ヒトラーが次々と打ち出す大衆ショーについては、アメリカの新聞のベルリン特
派員、ウィリアム・シャイラーの「ベルリン日記」や、当時のイギリスの新聞も詳しく伝えているが
日本の青少年たちの証言は貴重な内容に富んでいる。
シャイラーもイギリスの新聞も当然ながらヒトラーに批判的であり、こうしたドイツ大衆の興奮に
冷めた目を向けがちなのに対し、日本の青少年は見たままの感動を伝えているからだ。日本の
青少年代表のドイツ訪問は、日独友好を深めたいとするドイツ側の申し入れで実現した。すでに
満州問題を理由に国際連盟を脱退していた日本は1936年、ドイツと日独防共協定を結んでい
おり、当時の日本の青少年団体は「大日本連合青年団」、「少年団連盟(ボーイスカウト)」「帝国
少年団協会(学校少年団)」の三団体に集約されており、団員はそこから選ばれた。
文部省官僚ら5人の引率役員と25人の団員で結成された訪問団は1938年5月27日、神戸発
の靖国丸で日本を出発、7月2日ドイツ西部の古都アーヘンに到着した。各地のヒトラーユーゲ
ントを訪問したあと最終目的であるニュルンベルクの党大会場に向かうが、その時に見かけた
ユーゲントの少年の黙々と歩く姿に感動したことも記録されている。
この答礼として、ドイツからは相互訪問としてヒトラーユーゲントの代表団22人が8月17日に日
本にやってきた。横浜から東京駅に到着した一行は、皇居前をパレードしたが、それを見るため
に十数万人が沿道を埋めたという。一行はこのほか近衛首相を官邸に表敬訪問、靖国神社に
ナチ党旗を奉納している。
ヒトラーユーゲントはナチスの青年組織だが、1933年におきたナチスの政権掌握とともにワン
ダーフォーゲル運動などの青年団体を吸収し、ドイツで唯一の青少年組織となった。ヒトラーの
イデオロギーに彩られた大衆集会を最も純粋に実践したのは、こうした青少年たちであり、ヒト
ラーが自殺するまで“玉砕戦”を戦ったのも少年兵だった。
ニュルンベルク党大会を経験した日本の青少年訪独団員の中にも戦場に散った若者は少なくな
かったが、生き残った人は戦後になってもヒトラーへの畏敬を語り続けたと記録にある。
125 :
前田徹:02/03/28 00:31 ID:s7xH8EU7
■ 豆事典
☆アルベルト・シュペーア(1905−81年) ドイツの建築家で政治家。ベルリン工科大助教授を経
て1931年にナチス入党。第6回党大会会場の演出でヒトラーに認められ、37年からベルリン建設
総監督官として総統官邸など多くのナチス関係の建築設計を手掛けた。42年には軍需相に抜て
きされた。第2次大戦後のニュルンベルク国際軍事裁判で、20年の禁固刑。
☆日本の国際連盟脱退 1931年9月の満州事変に対して、国際連盟理事会はリットン調査団を
派遣。自衛行動とする日本の主張を退け、日本を侵略国とする内容の調査報告書をまとめた。
報告書は33年2月の連盟総会で賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)で採択され、日本代表、
松岡洋右は「連盟への協力努力は限界に達した」との演説を行い退場。3月、内田康哉外相が
連盟脱退を正式に通告した。ドイツ(35年)、イタリア(37年)も相次いで脱退し、39年の第2次大戦
開戦で国際連盟は事実上崩壊した。
☆日独防共協定 1936年11月に日本とドイツが締結した対共産主義協定。相互協力の強化や
国内共産主義活動の弾圧を約束した本文・付属議定書のほかに、相互の同意なしにソ連と政治
的な条約を結ばないことなどを定めた秘密協定に調印した。37年にイタリアも加わって、日独伊
防共協定が成立。40年には、防共協定を拡大・強化した日独伊三国同盟に発展した。
☆近衛文麿(1891−1945年) 1919年、西園寺公望全権の随員として第1次大戦後のパリ講和会
議に出席。貴族院議長を務めた後、37年6月に第1次内閣を組織したが、1カ月後に盧溝橋事
件が起き、日中全面戦争に拡大するなか39年に総辞職した。第2次大戦が始まり、ヒトラーの電
撃戦が成功を収めていた40年に第2次内閣を組織。日独伊三国同盟や大政翼賛会の創立など
総力戦体制の確立を急いだ。41年7月に発足した第3次内閣では、日米交渉や中国からの撤兵
をめぐり東条英機陸相と対立、10月に総辞職に追い込まれた。戦後、戦犯容疑者に指名され、
出頭日の未明に服毒自殺した。
126 :
前田徹:02/03/28 06:03 ID:m9e9sVXS
漏れも給料低いわ。でも業務命令でこんなことを
しているから、幾らか上げて貰えそうだ。マンセー
127 :
前田徹:02/03/28 08:23 ID:XnX2rhC2
暴走する大衆 ヒトラー現象−6
ナチの歌はもう聞こえない
1976年12月、東大文学部3年だった吉本隆昭は卒論資料収集のためニュルンベルク郊外の
小さな村で下宿生活をしていた。世話になった村人らとビアガルテン(酒場)で盛り上がっていた
ときのことだ。ぜひともドイツの歌をと請われて吉本は歌詞を丸暗記していた「ホルスト・ウェッセ
ルの歌」を高らかに歌い上げたところ、10数分後に、地元警察のパトカー数台がけたたましい
サイレンを鳴らし、酒場の前に止まった。歌った男を逮捕するというのである。
酒場の仲間がかばってくれ、結局は事なきを得たのだが、冷や汗を流した吉本はそのとき初め
てアドルフ・ヒトラーが大衆宣伝に使ったシンボルや本などがすべて戦後ドイツでは禁じられて
いることを知った。大衆を扇動するというのが禁止の理由である。それだけヒトラーの宣伝がす
ごかったというわけだが、とりわけ「歌」は過去の記憶と直接結びついているだけに厳しい監視
の対象になっていたというわけだ。
《赤色戦線》 「ニュルンベルクはナチスの党大会の会場だったから当時のことを覚えている人
はまだまだ残っていた。結構、懐かしがる人もいたので、あの歌は喜んでもらえると思ったのが
間違いだった。それまで酔っぱらいでにぎやかだった酒場があの歌で静まりかえったのですか
ら、むしろ不気味な感じでした」ドイツ現代史研究家として現在、筑波大大学院でナチズムを研
究する吉本は当時のことをそう述懐した。
「ホルスト・ウェッセルの歌」はナチス突撃隊員(SA)だったホルスト・ウェッセルが作詞作曲した
のだが、その歌詞は次のようなものである。
隊旗を高く掲げ、隊伍をしっかり組んで
突撃隊は進む 落ち着いてしっかりした足どりで
赤色戦線と反動に撃ち殺された同志が、
魂となって我々の隊列の中を一緒に進む
褐色の部隊に道を開け
突撃隊員に道を開け
幾百万人の人々は希望に溢れて鉤十字を仰ぎ見る
自由とパンの日が始まる
ウェッセルはベルリンの牧師の子で法律を学んでいたが、青年運動を続ける中でドイツ労働者
解放の必要性に目覚め、その実現を目指してナチ党に入党した。同時に党の防衛組織であると
ともに宣伝部隊でもあった突撃隊に入隊した。彼はその間、突撃隊の士気を鼓舞するために実
に多くの歌を作っている。この歌は、その一つである。
ウェッセルの姉妹によると、歌詞は、当時ドイツの街頭で急速に勢いを増していた共産主義運動
に対抗するために作られたもので、あの有名な国際共産主義の歌「インターナショナル」に対抗
することを念頭に置いていた。
128 :
前田徹:02/03/28 08:24 ID:XnX2rhC2
歌詞の中に出てくる「赤色戦線」は、ドイツ共産党の自衛組織「赤色戦士戦線」のことだが、歌に
あるように突撃隊と赤色戦士戦線は文字通り血みどろの街頭戦を繰り広げていたのである。
今の時代から考えれば、政党がそうした暴力を専門にした部門を抱えていることに奇異な感じを
持つかもしれないが、大衆社会の幕開けとともに始まった政治運動は、いずれも革命の雰囲気
に満ちていた。このウェッセルの歌にも「バリケードに翻る」などといった革命をにおわす言葉が
多く出てくる。
身分や階級所属意識を基礎とした19世紀型の政党と違って、20世紀に登場し、活動の場を広
げたドイツ共産党やナチスのような大衆政党は、集会や街頭宣伝によって広範囲の大衆を巻き
込まなければならなかった。赤色戦士戦線やナチ突撃隊は大衆を巻き込む力とエネルギーを象
徴していたのである。そして双方とも政治宣伝の重要性を十分に認識していた。
ヒトラーが目指す大衆宣伝と政治を、最も理解していた後の帝国宣伝相、ヨーゼフ・ゲッベルス
は、突撃隊が持つ意義について、1932年に発刊した「ベルリンの戦い」の中で次のように書い
ている。
「国家社会主義は突撃隊という形で最も活動的な宣伝部隊を創設した。突撃隊の強みは、それ
が本質的にプロレタリア的分子から構成されている点にある。労働者と市民、農民と都市民、老
若、貴賤が同じ突撃隊メンバーとして行進する。そこには階級や身分の違いはなく、みんなが共
通の理想に奉仕する」
ナチ党が政権を奪取した背景に、突撃隊の暴力による民衆脅迫と支配をあげる人が多いのだ
が、突撃隊そのものの持つ宣伝効果が大衆にアピールする力を持っていたと考える方が自然だ
ろう。ナチスが選挙で急速に議席を伸ばすのは、大衆がナチ党に魅力を感じたからにほかなら
ない。暴力だけで人はついてこない。
《第2の国歌》 さて、「ホルスト・ウェッセルの歌」は、ウェッセル自身が1930年1月15日、自
宅で寝ているところを地元の赤色戦士戦線のアリ・ヘーラーに射殺されたことで国民の注目を浴
びることになった。
ゲッベルスはそれを巧みに利用して、ウェッセルを共産党の犠牲となった国民的英雄として祭り
上げるのだが、その過程で、歌の方も国歌に仕立て上げられる。もともと党大会などで必ず歌わ
れていたが、それ以降は全国放送のラジオで毎日、放送終了前に国歌と一緒に流されるように
なり、第二国歌と名付けられた。
吉本が戦後30年を経たドイツの片田舎の酒場で歌っただけで、酔っぱらいでさえ黙り込んでし
まった背景には、このような徹底した宣伝とその記憶があったのだ。この歌がこれほど大衆に受
け入れられるようになったのは、歌詞以上にそのメロディーがドイツ人の心をつかんだからだと
いわれる。ウェッセルが突撃隊入隊以前に過ごした青少年運動のひとつ、ワンダーフォーゲル
に特徴的なドイツ民謡や行進風のメロディーを基調としたこの曲を、人々は何の抵抗もなく口ず
さんだ。
129 :
前田徹:02/03/28 08:26 ID:XnX2rhC2
ワンダーフォーゲルは元来は健全な山歩き運動だったのだが、戦後は復活の兆しもなく数々の
歌とともにドイツ人の記憶から消え去ろうとしている。それも「ホルスト・ウェッセルの歌」との強
いきずなが暗い影を落としているためだ。
■豆事典
☆ナチスのシンボルの禁止 第2次大戦の後、西ドイツは基本法(憲法)の第21条第1項と第2
項で政党結社の自由を認めながらも民主的な秩序と共和国の存立を脅かすものについては違
憲としている。このため、民主主義を脅かすものとされているナチス関連の歌や鉤十字マーク、
ヒトラーの著書「我が闘争」などはすべて大衆扇動罪にあたるとして、現在のドイツ国内では販
売禁止になっている。またネオナチと呼ばれる極右グループも内務省の判断で結社と活動が禁
じられている。
☆ナチス突撃隊 ヒトラーがナチス党首となって4カ月後の1921年11月に結成された大衆宣伝
のための行動組織。褐色の制服を着て、街頭でポスター張りやビラまき、当時のナチスの拠点
だったミュンヘン市内や他の都市でのデモ行進、左翼勢力との乱闘などを通じて、ナチスの存在
に大衆の注目を集めることに努めた。左翼との乱闘といっても当初はこん棒やムチで武装して
いる程度だったが、23年秋ごろになると小銃、機関銃、大砲などを備えた本格的な戦闘部隊とし
ての陣容を整えるようになった。23年11月のミュンヘン一揆の失敗でヒトラーは逮捕され、突撃
隊も活動禁止となったが、26年11月には再建された。
☆インターナショナル 1871年のパリコミューンのさい、革命家の詩人ポティエが作った詩に、
素人作曲家のドジュテールが88年に曲をつけた。労働歌として広まり、ソ連では1944年に新しい
国歌が採用されるまで国歌としても歌われた。
☆ナチスの選挙での躍進 ミュンヘン一揆に失敗して逮捕されたヒトラーは1924年末に釈放さ
れ、翌25年の2月にはナチスを再建。議会を通じての合法的な権力獲得へと戦術を転換した。
28年の国会議員選挙ではナチスの得票率はわずか2.6%だったが、30年9月の選挙では107議
席を獲得して第2党に躍進。さらに32年7月の選挙では230議席で第1党の座についた。そして
33年1月にヒトラーが政権を掌握、3月には全権委任法を成立させて一党独裁体制を確立した。
130 :
前田徹:02/03/28 21:51 ID:m9e9sVXS
因果やなー
今の仕事はこのコピペのみ。辛いのー。
でも給料が貰えるだけましか。。。。。
131 :
卵の名無しさん:02/03/28 22:00 ID:/828ywrZ
この荒らしのためにゾロ関連スレッドが立てられまくられとるがな
132 :
卵の名無しさん:02/03/28 22:11 ID:TGSy5r+X
どこまでも間の抜けたピンボケの会社ですね
なんとかせ〜よ この会社 (嘲笑)
133 :
卵の名無しさん:02/03/28 23:23 ID:F3IuhFrj
まともな情報欲しい
社員さんおねがいします
134 :
卵の名無しさん:02/03/29 00:04 ID:55yqmH59
どうせインチキでしょ・・・
135 :
恥ずかしながら:02/03/29 00:06 ID:llzkZA0B
このスレは歴史の勉強になります。
>>130 やはり社命でしたか。
働きがいのない職場・会社のようで、御同情申し上げます。
137 :
前田徹:02/03/29 05:52 ID:M9pzmPkz
暴走する大衆 ヒトラー現象−7
ワンダーフォーゲルは禁じられた
アドルフ・ヒトラーの大衆宣伝の強力な武器となったナチス突撃隊(SA)やヒトラーユーゲントは
ワンダーフォーゲル運動と深いつながりを持っていた。日本では高校クラブ活動の定番のような
存在の「ワンゲル」だが、ドイツでは戦後、ナチ戦犯と連座する形で禁句となっている。
ワンダーフォーゲル運動の起源を尋ねようとその名前を持ちだそうものなら、ドイツではいまだ
に怪訝な目を向けられるほどだ。以下は、ワンダーフォーゲル運動の資料を保存するベルリン
の「カール・フィッシャー協会」の女性管理人、ロスビタ・ザイデルの話に基づくワンゲル発祥記
だが、それは同時にドイツ大衆時代の幕開けをうかがわせる格好のエピソードともなっている。
《課外教室》 普仏戦争を勝利に導いたビスマルクによって誕生した統一ドイツは19世紀末に
は、急速な人口増加と工業化の波に見舞われていた。とりわけ首都ベルリンはパリやロンドンを
しのぐ勢いで市域を広げ、ワンゲル運動もそのベルリンの郊外のシュテグリッツと呼ばれる新興
住宅街で始まった。
1886年、シュテグリッツにあるギムナジウム(日本の中・高校にあたる学校)の教師だったヘル
マン・ホフマンは自分の担当する速記術教室の生徒たちが詰め込み教育に窒息しそうになって
いるのを憂慮し、「シュテグリッツ校生徒徒歩グループのための委員会」を発足させた。
都市化で緑の少なくなったシュテグリッツから逃れ、グループで近くの森を散策するというホフマ
ンのアイデアは、父母会の賛同も得た。生徒たちに人気のこの課外教室は、ホフマンが外交官
としてオスマン・トルコ帝国の首都、イスタンブールに栄転したため、転機を迎える事になり、ホフ
マンはこの散策運動をかつての教え子の一人で、すでにベルリン大学法学部の学生になってい
たカール・フィッシャーに託した。
当時の記録によると、カール・フィッシャーはカリスマ性に富んでおり、この課外教室を軍隊調の
結社のようなグループに仕立て上げていった。そしてシュテグリッツの古い墓地で見つけた「ワ
ンダーフォーゲル(渡り鳥)は飛び立つ」という墓碑の短い詩から名前を取り、20世紀の幕が開
けた1901年11月、郷土史家、医師ら5人を後見人にして、「ワンダーフォーゲル生徒実行委員
会」を市役所の地下食堂で発足させた。
発足の目的は「健全な精神を養うとともに物質文明(産業革命)で見失われた伝統や価値の再発
見を目指す」となっていたが、カール・フィッシャーが作り上げたワンゲル運動は独特のルールを
持っていた。仲間同士が出会えば、必ず「ハイル」と挨拶する。組織は「グロスバッハハント」と呼
ばれるリーダーを中心に、「フックス(狐)」と呼ばれる護衛とリーダーの保護下で生活する「フォル
クス(人民)」によって構成されている。そしてリーダーの決断で森歩きのコースを決め、キャンプ
で歌を歌ったりしたのである。
グループの中で絶対的な力を持つグロスバッハハントは中世ドイツの遍歴学徒の服装に身を包
むが、そもそもゲルマン神話に出てくる種族の長を象徴するものとされた。
138 :
卵の名無しさん:02/03/29 07:39 ID:Mdn8UwMu
だから会社のこと書いてください
139 :
前田徹 :02/03/29 07:51 ID:4XxLnf4J
カール・フィッシャーは19世紀の国粋的(ナショナリズム)学生運動が内在しているドイツロマン
的な青年運動を念頭に置いて組織化を進めていったようにみえる。そして、当時のドイツに存在
した普仏戦争での勝利の余韻が、軍事規律的な要素を付け加えることになった。フィッシャーは
その後、グループ内の強い反抗にあって1906年にワンゲル運動から手を引き、大学も中退し
てドイツ海軍に志願した。
このあたりの身の振り方の不可思議さについて資料は何も示唆してくれないが、彼は海軍に入
ると中国の青島に駐留し、第一次大戦では日本軍の捕虜になった。フィッシャー協会には、彼が
捕虜時代の日本から母親あてに書いた手紙が数通残されている。その中の彼は収容所での生
活を嘆くばかりだった。
《戦争ごっこ》 カール・フィッシャーが去ったあとワンゲル運動はベルリン全域に広がり、さらに
ドイツ全土からオーストリア(当時はオーストリア・ハンガリー帝国だった)にも普及して隆盛時代
を迎えた。それとともにワンゲルは仲間意識を高める歌を次々と生み出していく。その題材は主
に中世の30年戦争や農民戦争に求められ、メンバーになったばかりの13歳の少年が先輩メン
バーの前で、「敵の前で醜いしかばねをさらすな」と歌ったことが記録されている。活動も山歩き
より「戦争ごっこ」のような軍事訓練が主だったようだ。
第一次大戦は、こうした19世紀型ワンゲル運動を大きく変貌させる。ワンゲル会員はその活動
のままに戦争に熱狂して志願するが、多くは本物の戦争に冷水を浴びせられた。記録では、ベ
ルリン地区だけで七千人のワンゲル会員の青少年が戦死している。
そして、第一次大戦が終わるとワンゲル運動は一気に大衆化への道を歩んでいった。それまで
ユダヤ人や労働者の子弟、女性は禁制だったのが、女性だけのクラブや男女混合クラブ、さら
にユダヤ人、労働者歓迎のクラブまでが登場し、種々雑多なワンゲルが雨後の竹の子のように
林立したのだった。ベルリン技術大学で研究を続けているフィッシャー協会資料管理人のザイデ
ルはそうした変遷を次のように分析している。
「20世紀初頭の急速な技術革新と生活水準の向上で、それまで体格も悪く、死亡率も高かった
少年少女は身体だけが早熟することになり、精神が肉体についていけない状態を生んだ。つま
り身体は大人だが、精神はまだ子どもという青年を大量に生んだわけだ。そうした青年層の受け
皿として青年運動は重要になり、ワンゲル運動は中でも人気を集めた」
創始者のフィッシャーは1920年、日本での捕虜生活から帰国しているが、自分の作ったワンゲ
ル運動が少年時代のロマンからかけ離れたものとなり、男女が平気でフォークダンスに興じてい
るのを見て失望したという。そのためか、二度と活動に加わることはなかった。
しかし、ワンゲル運動はドイツ語圏でその後も爆発的に広がり、正式会員だけで20万人を軽く
突破するまでに成長した。そして、最後はナチ突撃隊やナチ青少年運動「ヒトラーユーゲント」へ
と吸収されていったのである。
140 :
前田徹:02/03/29 07:52 ID:4XxLnf4J
■ 豆事典
▽イスタンブール ボスポラス海峡に面し、ヨーロッパとアジアにまたがるトルコ北西部の大都
市。人口約660万人。紀元前7世紀ごろ、ギリシャ人が植民都市として建設し、当時はビザンチウ
ムと呼ばれた。その後、ローマの属州となり、330年にはローマ皇帝コンスタンチヌスがこの町を
首都として名称はコンスタンチノープルと改められた。ローマ帝国の東西分裂(395年)後は東ロ
ーマ帝国の首都。さらに1453年にオスマン・トルコが東ローマ帝国を滅ぼしてからはオスマン・ト
ルコ帝国の首都としてイスタンブールと呼ばれるようになった。20世紀に入ると1923年のトルコ
共和国成立によって首都はアンカラに移され、イスタンブールは1600年におよぶ首都としての地
位を失ったが、その後もトルコの経済、文化の中心として繁栄した。
▽30年戦争(1618−48年) ドイツを舞台にヨーロッパ諸国を巻き込んだ17世紀前半の一連の戦
争。欧州のいわゆる宗教戦争の最後にして最大のもので、ドイツ国内の新教(プロテスタント)と
旧教(カトリック)両派の諸侯の対立に端を発し、ドイツに政治的利害や領土的野心を持っていた
フランス、スウェーデン、デンマークなどの外国勢力が介入していった。最終的にはオーストリ
ア、スペインのハプスブルク家とフランスのブルボン家の争いが軸となり、ウェストファリア条約
で終結した。
▽ドイツ農民戦争(1524−25年) 宗教改革期のドイツで起きた農民の反乱。古典荘園制度の解
体に伴って経済力をつけてきたドイツの農民たちが、封建領主による賦役の復活や地代、租税
の増加、農奴制の復活などの動きに反発して起こした。その反乱は宗教改革指導者のミュンツ
ァーらの指導で戦争と呼ばれるほどの規模に拡大していったが、ミュンツァーと対立するルター
の支持を得た領主連合によって鎮圧された。
141 :
前田徹:02/03/29 09:24 ID:JJoUpRlD
どうだ?
俺のおかげでゾロスレッドがたくさん出来ただろう
143 :
前田徹 :02/03/29 14:30 ID:BkrcqTwl
■ 暴走する大衆 ヒトラー現象−8
労働こそあなた自身を救う
20世紀初頭に都市化からの逃避として出現した青少年運動「ワンダーフォーゲル」は、創設の
地ドイツでは姿を消している。それは消滅というよりむしろアドルフ・ヒトラーが起こした大衆運動
に飲み込まれた結果なのだが、言い換えればワンダーフォーゲル運動そのものが当初からナチ
的なものを内在していたことを示してもいる。
カール・フィッシャーやベルリンの郷土史家らワンゲル運動の創設者は反ユダヤ主義をこの運動
の特色にしていた。19世紀ドイツでは、中世の遍歴学徒への時代錯誤的なロマンチシズムが民
族主義的なブルシェンシャフト運動になって現れた。そして、自らの活動を「ワンダーフォーゲル
(渡り鳥)」と名付けたフィッシャーらにもそうした19世紀ドイツの気分は色濃く残っていた。
19世紀的な考え方を引きずる20世紀初頭の欧州で、ユダヤ人差別は堂々とまかり通っていた
し、ワンゲル運動からのユダヤ人締め出しにも強い反発はなかった。ヒトラーは第一次大戦後の
ドイツでそうした反ユダヤ的なスローガンを掲げ、大衆に根強いユダヤ人差別を前面に押し出す
ことによって政治を大衆運動として成功させたのだった。しかし、強制収容所でのユダヤ人虐殺
の印象があまりに強かったため、ヒトラーとナチスだけが反ユダヤ主義に陥ったかのような誤解
も生じている。
《灰色の家》 1991年11月、ベルリン日本語補習校が、ベルリン郊外にあるザクセンハウゼ
ン強制収容所の見学会を行ったときのことだ。当時、ベルリンにいた私も参加したのだが、ナチ
ズムについて詳しいという日本人ガイドは収容所の門の前で次のようにナチスの残酷さを説明
した。
「皆さん、門に書いてあるドイツ語の意味が分かりますか。“労働は人を自由にする”、つまり、こ
こに収容されたユダヤ人に対し“働けば自由(死)になれる”というナチズム独特の残酷な皮肉が
込められていたのです」 この説明は、当然ながら見学会に参加した日本の小中学生に強烈な
印象を与えた。「収容所見学記」という参加者の作文集を読むと、ほとんどの子どもたちがその
ことを書いている。
例えば小学校5年生の男の子「鉄の門にはアルバイト・マハト・フライと書いてありました。ガイド
の人の説明では、“労働が人を自由にする”ということだそうです。本当に、そこに囚われていた
ユダヤ人は朝から夜までろくな食べ物を与えられず働かされ、自由になるときは死ぬときだった
のです」と、素直な感想を述べ、人間性の全くないナチズムの恐ろしさに驚くのである。
しかし、この「アルバイト・マハト・フライ」の意味は、ナチズムに詳しいという日本人ガイドが思い
付きで言ったような単純なものではなかった。それどころかナチス体制下の強制収容所に必ず
書いてあるこの標語には欧州思想史の根幹にかかわる問題が含まれているのだ。
144 :
前田徹:02/03/29 14:31 ID:BkrcqTwl
ミュンヘン郊外にあるダッハウ強制収容所はナチス政権が最初に建設した収容所だ。そこで、ギ
ムナジウム(ドイツの中・高校)の生徒に収容所の歴史的な意味を説明している55歳の歴史科教
師、ハーゲ・ドルンによると、「アルバイト・マハト・フライ」を最初に提唱したのは19世紀ドイツで
セツルメント(貧民救済)運動を始めたカトリック神父のケトラーだった。彼は産業革命の進行と人
口増加で急速に進む都市の荒廃を憂えて、「灰色の家」をミュンヘン市内に設置した。
ケトラーによると、新約聖書の「パウロの使徒行書」の内容には「勤労こそ世の中の邪念を捨て
させてくれる」という意味があり、「社会からはじき出された失業者と犯罪者を救う道は労働にあ
る」と唱えたのである。文字通り「労働こそあなた自身を救う」というわけだが、実際、ケトラーの
始めた「灰色の家」は失業者対策としての職業訓練所的な側面が強かった。
そして、ケトラーにとってキリスト教社会になじまないユダヤ人は矯正を必要とする人々だったの
である。ナチスはこのケトラーの言葉を強制収容所にかならず書き込ませていた。ドイツ社会の
犯罪者や脱落者を社会復帰させるための矯正という意味が、そこに込められていたことは疑い
ない。実際、ナチが建設した初期収容所であるダッハウの巨大な屋根には、すぐに目につく白ペ
ンキでこう書いてあった。「自由に至る道はたったひとつしかない。その道標は服従、勤勉、誠
実、秩序、清潔、節度、真実、犠牲、そしてとりもなおさず祖国への愛である」
収容された人たちの中には、ユダヤ人だけでなく社会民主党員や共産党員ら政治犯、同性愛者
もいたのである。
《強者の論理》 イギリスの歴史家、E・H・カーは「危機の20年」や「ナショナリズムとその後」
のなかで、19世紀末に英国が人類史上最初の強制収容所を南アフリカに設けた事実を指摘
し、個人のイデオロギーや思想を強制収容所で矯正しようとしたのは単にナチズムだけでないと
断定している。
E・H・カーによると、そうした時代の理念となったのが、ダーウィニズムだった。
ダーウィンは絶えることのない生存競争とその競争の条件に適応し得ないものの消滅とによる
生物学的な進化の理論を展開した科学者だった。そして、19世紀末から20世紀初頭にかけて
の自由放任(レッセ・フェール)経済は、この「弱者を犠牲にしての強者の生存」が最も信奉された
時代の産物であり、地球規模でみるならばアフリカ人とアジア人がその時代の不適格者とされ
ていたのである。
ヒトラーはそうした時代に国家間競争を勝ち抜く必要性を唱えたのだが、カーは、こうした民族の
ダーウィニズムがナチズムに限らないことに注目した。同じころ英国で生まれた新語「ジンゴイズ
ム(主戦論)」は、英国の労働者大衆による外国人労働者への過激な排撃を背景にして生まれて
おり、そこに内在する排他性はまさにナチズムと共通するからだ。
強者が弱者の犠牲のうえに進歩するという考え方は実はこの時代になって初めて登場したもの
だった。間違った考えを矯正することを目的に強制収容所が生まれたのも同じ強者の論理によ
るものだ。そして、この強者の論理が道徳性の欠如という深刻な問題を内包していることは、や
がて歴史の過酷な現実として証明されることになる。
145 :
前田徹:02/03/29 19:14 ID:ViZkOTaz
漏れもこんな業務は嫌なんだけど
給料さえ貰えればいいニダ。
146 :
卵の名無しさん:02/03/29 19:21 ID:6crmfiga
この会社はなんかピントがずれとるよ。
なんじゃ?あの新聞広告は?
広告代理店を大手にした方がいいね。
センス最悪。
ゾロの恥さらし。
147 :
某中堅新薬:02/03/29 20:23 ID:NR18XQ/y
沢井の●都支店の○○くん
そんなに不満なら辞めたまえ
病院で自分の会社の悪口言うてどうなるねん。
営業手当てはうちも低いぞ・
沢井の倍ぐらいしかないぞ。
148 :
前田徹 :02/03/29 21:26 ID:fCA0BB79
■豆事典
▽ブルシェンシャフト 19世紀前半、ヨーロッパを席巻したフランスのナポレオン体制が打倒され
た後、ドイツ語文化圏の各大学で作られた学生組合。1815年、ドイツ主義の体操家、ヤーンを指
導者にナポレオン戦争から帰った学生を中心にイエナ大学で創立された。当時のドイツは小さな
諸領邦国家に分裂しており、彼らは「名誉、自由、祖国」をスローガンにドイツ統一運動を進め
た。その一方でユダヤ教徒を排斥した。1817年にはルターゆかりの古城ワルトブルクでブルシェ
ンシャフト祝祭が開かれ、ドイツ中世の古装束に身を包むなどドイツロマン主義的性格をみせて
いる。ウィーン体制維持を狙うオーストリアのメッテルニヒによって弾圧された。
▽19世紀ヨーロッパの反ユダヤ主義 キリスト教文化を共有する欧州には、ユダヤ教徒を異文
化の徒として扱う底流が古くからあり、19世紀に入ると資本主義が急速に力をつけるにつれてユ
ダヤ教徒排斥の傾向が一段と強まった。資本主義で重要な役割を果たす金融界でユダヤ教徒
の進出が目覚ましかったことに加え、キリスト教の教えに金利利潤をさげすむ姿勢があったこと
が反ユダヤ主義的風潮の拡大に拍車をかけた。また資本主義によってもたらされた貧富の差の
増大もそうした排斥運動を強める背景となった。
▽ウイルヘルム・ケトラー(1811−77年) カトリック聖職者で1850年、マインツの司教に就任。政
治、社会問題に関心が高く、1848年のフランクフルト国民議会や1871−72年のドイツ国会の議員
にもなっている。労働者階級に対する福祉は教会の責務であるとの考え方に基づき、社会活動
に積極的に関与した。
▽チャールズ・ダーウィン(1809−82年) イギリスの博物学者。測量船ビーグル号で南半球を航
海して動植物や地質を調査し、生物進化の要因として自然とうた説を打ち出した。ダーウィンの
進化論は生物学だけでなく、社会思想にも大きな影響を与えた。著書に「種の起源」「ビーグル
号航海記」など。
149 :
前田徹:02/03/29 21:40 ID:+gExgnI6
■ 暴走する大衆 ヒトラー現象−9
寒い国から帰ってきたユダヤ人
ベルリンの壁が崩壊する前、旧東ドイツ外務省庁舎のすぐ近くに「ツバメの巣」と呼ばれるドイツ
レストランがあった。広々としたその店内は、外国人のジャーナリストや外交官、そしていかにも
シュタージ(東独秘密警察)関係者といった風情の客でいつもにぎわっていた。店の隣のアレキサ
ンダー広場は人も車もまばらだったので、その不思議なコントラストは今も記憶に残っている。
ドイツ統一後は中華料理店に変わっているそのレストランの隣のカフェで黒いコートに身を包ん
だマルクス・ウォルフと会った。
《大物諜報員》 ル・カレの代表的スパイ小説「寒い国から来たスパイ」で重要な役割を果たす
東側大物諜報員のモデル、そして西側から「顔のないスパイ」と恐れられたかつての東ドイツ秘
密警察対外諜報機関長官、そのすご腕のスパイも74歳になっていた。ドイツ統一後、東ドイツ
時代のスパイ行為が国家反逆罪にあたるとして6年の実刑判決を受け、その後、上告した憲法
裁判所によって逆転無罪を言い渡されている。
ウォルフは11歳のとき一家そろってモスクワに亡命した。ヒトラー政権誕生の翌年の1934年
のことだ。ナチスが掲げるユダヤ人排斥が日に日に険悪さを増しており、周囲のだれもが知る完
ぺきなユダヤ人一家だったウォルフ家が亡命するのは時間の問題だと周囲も思っていた。
ドイツ共産党員で作家だった父、フリードリッヒ・ウォルフと同じく、党員だった母の亡命の真意
は、国外からヒトラー・ドイツを壊滅させ、国際共産主義に基づいた社会共同体をドイツに築くこ
とにあった。ウォルフはその時の様子を次のように語る。
「私は共産主義者であるとともにユダヤ人だ。だから家庭では、ドイツ的なものよりむしろコスモ
ポリタン(国際的)な雰囲気の中で育った。ドイツを離れることになっても、まったくセンチメンタル
にはならなかった。モスクワでピオニール共産青年団に入団し、ファシズム打倒に燃えたのも国
家を意識しない理想共産社会を夢見たからだ」
国家の基本政策に人種差別を取り入れ、その政策を極端なまでに推進したのはおそらくアドル
フ・ヒトラーが初めてだろう。人類は社会生活をはじめて以来、いまだに差別という矛盾を解消し
得ないでいるが、少なくとも共同体としての国家はそれまで公式にはそのことを是認しなかった。
是認すれば、共同体の分裂と崩壊を招かざるを得ないからだ。ヒトラーはそのタブーをあえて犯
した。ヒトラー自身は、反ユダヤ主義を国家政策に掲げた根拠に、ユダヤ人の反国家性をあげ
ている。「我が闘争」や数々の演説の中で彼は反ユダヤ的な発言を繰り返し、ユダヤ人の非同
化性を攻撃した。
150 :
前田徹:02/03/29 22:37 ID:k7j6blwG
もっとゾロ関連スレッドが出来るまで頑張ります。
目標ゾロスレッド50ケ!
151 :
卵の名無しさん:02/03/30 00:46 ID:J3lIqBL0
営業手当 なんとかしてください。
大手薬品会社とか外資のMRの話を聞いたらバカバカしくてやる気がなくなります。
152 :
前田徹:02/03/30 06:29 ID:QXcQnS7J
>>147 >病院で自分の会社の悪口言うてどうなるねん。
一般常識ないんじゃないの?
少なくとも組織人として失格だな。
こういう奴を雇っている経営者にも呆れるやら同情するやら。
154 :
前田徹 :02/03/30 07:46 ID:3xUNUHms
■豆事典
▽ブルシェンシャフト 19世紀前半、ヨーロッパを席巻したフランスのナポレオン体制が打倒され
た後、ドイツ語文化圏の各大学で作られた学生組合。1815年、ドイツ主義の体操家、ヤーンを指
導者にナポレオン戦争から帰った学生を中心にイエナ大学で創立された。当時のドイツは小さな
諸領邦国家に分裂しており、彼らは「名誉、自由、祖国」をスローガンにドイツ統一運動を進め
た。その一方でユダヤ教徒を排斥した。1817年にはルターゆかりの古城ワルトブルクでブルシェ
ンシャフト祝祭が開かれ、ドイツ中世の古装束に身を包むなどドイツロマン主義的性格をみせて
いる。ウィーン体制維持を狙うオーストリアのメッテルニヒによって弾圧された。
▽19世紀ヨーロッパの反ユダヤ主義 キリスト教文化を共有する欧州には、ユダヤ教徒を異文
化の徒として扱う底流が古くからあり、19世紀に入ると資本主義が急速に力をつけるにつれてユ
ダヤ教徒排斥の傾向が一段と強まった。資本主義で重要な役割を果たす金融界でユダヤ教徒
の進出が目覚ましかったことに加え、キリスト教の教えに金利利潤をさげすむ姿勢があったこと
が反ユダヤ主義的風潮の拡大に拍車をかけた。また資本主義によってもたらされた貧富の差の
増大もそうした排斥運動を強める背景となった。
▽ウイルヘルム・ケトラー(1811−77年) カトリック聖職者で1850年、マインツの司教に就任。政
治、社会問題に関心が高く、1848年のフランクフルト国民議会や1871−72年のドイツ国会の議員
にもなっている。労働者階級に対する福祉は教会の責務であるとの考え方に基づき、社会活動
に積極的に関与した。
▽チャールズ・ダーウィン(1809−82年) イギリスの博物学者。測量船ビーグル号で南半球を航
海して動植物や地質を調査し、生物進化の要因として自然とうた説を打ち出した。ダーウィンの
進化論は生物学だけでなく、社会思想にも大きな影響を与えた。著書に「種の起源」「ビーグル
号航海記」など。
155 :
卵の名無しさん:02/03/30 08:52 ID:vnV/u3sJ
前田殿お勤めご苦労様です
156 :
前田徹:02/03/30 09:01 ID:k1G07J2G
(149の続き)
ナチス官房長官のマルティン・ボルマンにメモをとらせた覚書の中でヒトラーはその論理を次の
ように展開している。
「ユダヤ人はその本質からいって、同化することもできないし、また同化しようともしない異邦人
である。この点で、ユダヤ人は他のすべての外国人と違っている。すなわち、彼は国家という共
同体の一員として権利は要求するが、しかしあくまでユダヤ人であることに変わりはない」ユダ
ヤ人がドイツ国家とは相いれない存在であるというこの論理は、ナチス時代の公法学者で、ナチ
ス・イデオロギーを法律的に正当化したといわれるカール・シュミットによっても強く支持される。
1934年に出版された「法学的思惟の三種類」のなかで、シュミットはユダヤ人について「土地も
国家も教会も持たず、ただ(ユダヤ教の)律法の中でのみ生きる民族がある」と書き、「自らの律
法にしか権威を認めないユダヤ人の規範主義は、国家の権威を否定するものだ」と厳しく非難
するのである。
《規範主義》 16世紀のシェークスピアの劇作「ベニスの商人」は、シュミットのいうユダヤ人の
規範主義をより分かりやすく示している。ユダヤ人商人であるシャイロックが主人公のアントニオ
への借金取り立てで肉体の一部を切り取ることを要求する場面がそれだ。生活の実態に即した
社会常識を無視したその要求は、結局、裁判官の機転で退けられるのだが、シャイロックの主
張は法律(規範)を盾にした共同体への挑戦ととらえることができる。
プロテスタントの教えでは勤労精神が尊ばれ、金融や金利生活を「金貸し根性」としてさげすむ
のに対し、ユダヤ教の律法はより現世的であり、そうした職業を厭わなかった。この違いは19世
紀の資本主義の勃興によって一段と際立ってくる。ドイツの典型的ユダヤ人家庭に育った共産
主義の生みの親、カール・マルクスは1844年に発表した「ユダヤ人問題によせて」という論文
の中でそうした状況を激越した調子で書いている。
「ユダヤ人の秘密を彼らの宗教の中に探るのではなく、その宗教の秘密を現実のユダヤ人の中
に探ることにしよう。ユダヤ教の現世的な基礎は何か?、実際的な欲求、私利である。ユダヤ人
の世俗的な祭祀は何か?、あくどい商売である。彼の世俗的な神は何か?貨幣である。従って
我々はユダヤ教の中に、普遍的な現代的反社会的要素を認める」
後に共産主義のバイブルとなった「資本論」を書くマルクスは、その序論ともいうべきこの論文で
資本主義の勃興と共に生じた国家(共同体)と市民生活との間に広がる矛盾を捉えている。マル
クスにとっては人権宣言でさえ、「英雄的な献身だけが国民を救うことができるときに繰り返され
た利己的な宣言」であり、個人的欲望を追い求める市民生活が国民全体(共同体)の利益を損な
いつつあると映ったのだ。
157 :
前田徹:02/03/30 09:01 ID:k1G07J2G
かつての東側の大物スパイであり、同時にユダヤ人でもあるマルクス・ウォルフは、カフェでの
別れ際、私の取材に対し次のようにつけ加えた。
「今になって自分がドイツ人であることを強く意識している。マルクスが唱えたように万国の労働
者よ団結せよとはいかないのだ。私は今も社会主義国の建設を夢見ているが、それには民族的
価値を十分に理解しなければならないと思っている」
ドイツを捨てて国際共産主義に走り、それが理由で国家反逆罪に問われたウォルフは、今度は
民族的価値を持った社会主義国の建設を夢見ているという。それはナチスが理想としていたも
のとどう違っているのだろうか。
■豆事典
▽ジョン・ル・カレ(1931年− ) 英作家。ベルン大学でドイツ文学を学び、英国情報部員として
働いた後、オックスフォード大学で法律の学位を取る。61年から外務省書記官として西ドイツに
駐在するかたわら執筆活動を始め、63年に「寒い国から来たスパイ」を発表。ベストセラーになり
退職して作家に専念した。93年、英秘密情報機関のスパイだったことを認めて話題となった。
▽カール・シュミット(1888−1985年) ドイツの法、政治学者。ボン大学教授などを経て1933年か
ら45年までベルリン大学教授。西欧デモクラシーの思想や議会制民主主義を批判し、「民族の
生存や政治は規範を超えたものである」「非常事態を決する者が主権者である」としてナチス政
権を理論的に正当化したが、後にナチスの極端な神話的、独裁的傾向と相いれなくなり、ナチス
主流から非難された。戦後、一切の公職を追放された。主な著作に「政治神学」(1929年)など。
▽カール・マルクス(1818−83年) ドイツの経済学者、哲学者、革命家。ライン地方の富裕なユ
ダヤ人弁護士の子供として生まれ、6歳のときにプロテスタントに改宗させられた。ベルリン大
卒。詩人や大学教授を志したが挫折した。資本主義から社会主義に至る歴史発展の法則を明ら
かにするマルクス主義を提唱。資本主義体制を批判し、国際的社会主義運動のために尽力し
た。1849年にロンドン亡命後、大英博物館に通って「資本論」の執筆にあたった。第1巻は67年
に刊行したが、結局、未完のまま膨大な遺稿とノートを残して病没した。主な著作は「ヘーゲル
法哲学批判序説」(44年)「共産党宣言」(48年)など。
▽人権宣言 フランス革命当初の1789年8月、フランスの国民議会が議決した「人間と市民の
権利の宣言」のことで、前文と17条からなる。「人は生まれながらにして自由かつ平等の権利を
有する」として人民主権、法の前の平等、所有権の不可侵などが打ち出されており、当時の欧州
諸国の君主制に衝撃を与えた。
158 :
前田徹:02/03/30 09:18 ID:lwm5UziA
■ 暴走する大衆 総力戦へ−1
敵対感情に火をつけた民衆の熱狂
アメリカの元国務長官、ヘンリー・キッシンジャーはユダヤ系ドイツ人で、少年期にアメリカに家
族とともに亡命した。そのキッシンジャーが、外交官としての実務的体験を豊富に盛り込んだ大
著「外交」には、第一次大戦前夜の様子が次のように描かれている。
「20世紀の初めには些細な軽薄な行為のために戦争が始まる可能性があった。ヨーロッパ諸
国は、近代技術と大規模な徴兵制度が、全面戦争を彼ら自身の安全およびヨーロッパ文明全体
にとっての最大の脅威としてしまったことを理解せずに軍備拡張の政策へと突き進んだ」
1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国王位継承者、フランツ・フェルディナンドが若
いセルビア人テロリストによって暗殺された。この事件を発端に始まった戦争は世界規模に拡大
し、4年後の終戦までに実に2千万人もの戦死者を出した。
《技術革新》 そしてこの戦争を大きく特徴づけたのは19世紀以来、急速に進んだ技術革新に
よって兵器がすさまじい破壊力を増していたにもかかわらず国家指導者がそれを十分に理解し
ていなかったこと、更に国際政治の世界で大衆世論が初めて大きな影響力を持ったことだった。
戦争へと突き進むドイツ世論の動向は第一次大戦開戦の3年前に起きた第二次モロッコ事件に
はっきりと見て取ることができる。1911年七月、モロッコで民政上の実権を握っていたフランス
が地方で起きた不穏な事態に対処するため軍を派遣した。これに対しドイツ皇帝、ウィルヘルム
二世が軍艦パンテルを送り、一触即発の緊張が生まれたときのことだ。「万歳、素晴らしい快挙
だ」(7月2日付ライン・ウェストファリア紙)、「たとえこのような政策の結果、我々が今日予見でき
ない情勢(戦争)となっても政府は前進すべきだ」(ミュンヘン新報)といった好戦的な見出しや記
事がドイツ各紙の紙面を飾った。
《愚策の見本》 キッシンジャーはこの事件について「政治的目的が全く不明確なだけでなく、む
しろドイツの長期的国益を損なう外交的愚策の見本」と酷評しているが、その「愚策」の背後に
は気の毒なほど世論におもねようとするドイツ皇帝の姿が浮かんでくるのである。戦争によって
引き起こされる災厄に無頓着だった当時の民衆の雰囲気については、作家のシュテファン・ツバ
イクも次のように伝えている。
「1914年におけるヨーロッパの民衆の大多数はほとんど半世紀にわたる平和の後でおよそ戦
争を知らず、戦争を英雄的でロマンチックなものとして描いていた。荒々しい男らしい冒険−単
純な人々は戦争をこう考えていたのである」
オーストリア皇太子暗殺事件の後、ウィルヘルム二世はセルビアに最後通牒を与えながらノル
ウェーへのヨット航海に出かけている。皇帝は戦争への脅しをかけながら、開戦を予想していな
かったのである。しかし、度重なる強硬策はついに現実の戦争を引き起こす。
159 :
鈴木宗男:02/03/30 15:16 ID:dOffpMWg
会社のパソコンでMXが動きます。
興味のある方はインストールしてみてください。
また、このHPも少し設定を変えてやれば見ることができます。
モデムを接続すれば、会社の回線を使って、プロバイダーいらず。
ヒントはpingをつかう。
LAN内部からファイヤーウォールの穴を探そう。
160 :
前田徹:02/03/30 16:07 ID:FLf/OdGQ
ドイツは8月1日、ロシアに、3日にはフランスに対し宣戦を布告した。5日にはイギリスが参戦す
る事になり、ヨーロッパ大戦となった戦場に熱狂する大衆が次々と送り込まれていく。その中に
は当時、ミュンヘンで暮らしていてドイツ軍に志願したオーストリア人青年、アドルフ・ヒトラーの
姿もあった。
この戦争はこれまでと全く違う様相をみせた。19世紀までは、非戦闘員は攻撃の対象とはなら
ず、あくまで軍と軍の戦いに限定されてきたが、20世紀の戦争は全国民を巻き込む全面戦争に
なったのである。
ナポレオン戦争時代の戦略家で、「戦争は政治(外交)の延長である」という有名な言葉を残した
カール・フォン・クラウゼビッツは、その著書「戦争論」の中で「戦争とは一種の強要行為で、その
旨とするところは相手を我が方の意志に従わせることにある」と定義づけている。そして戦争に
介在する二つの要素として「敵対感情」と「敵対意図」をあげ、「敵対意図を重視する現代(19世
紀前半)の文明国間の戦争は、非文明国に比べてはるかに残虐性と破壊の点で緩和された」と
分析した。
《知性と本能》 クラウゼビッツによると、その理由は未開民族では敵対感情が支配的なのに対
し、文明国民は冷静な打算に結びついた意図を重視するので、みだりに捕虜を処刑したり、敵
の都市や国土を意味なく破壊したりすることはない。つまり「文明化された国民は、知性が本能
に勝った戦争を行う」というのだ。
クラウゼビッツの考え方は、実際にも18世紀以来存在し、19世紀に入ってからヨーロッパ各国
が戦争のルールづくりにつとめた結果、1899年には「戦争状態における無意味な攻撃や被害
を避けるための戦時国際法の成立」を目指す多国間協議(第1回万国平和会議)が、オランダの
ハーグで開かれている。
こうしてハーグ陸戦条約と海戦条約が第一次大戦前の1907年の第2回万国平和会議までに
整備され、非戦闘員の保護や捕虜の待遇改善のほか中立国の権利義務の保護などが取り決
められた。
ところが、第一次大戦は国力と国力が総力でぶつかる人類史上初の全面戦争となった。開戦の
際の各国の民衆の熱狂は、クラウゼビッツのいうところの未開民族の敵対感情そのものだった。
そして戦場には大量殺戮兵器である毒ガスや戦車が登場し、すさまじい破壊力を発揮した。とり
わけドイツは1917年に無制限潜水艦戦を宣言、中立国の立場ながらイギリスへの支援を強め
るアメリカの貨物船を無差別に撃沈し、歯止めの利かない総力戦の恐ろしさをみせつけている。
1918年11月、キールで起きた水兵の反乱をきっかけにドイツは自然崩壊するように敗戦を迎
えた。その時、ヒトラーは戦場で毒ガスを浴び、ラ・モンターニュの野戦病院で目の治療を受けて
いたが、1級鉄十字章と2級鉄十字章を両方とも受けるほどに勇敢な兵士だったヒトラーは、病
床で戦争放棄を訴える共産主義者に対し憎悪を燃やしたと後に語っている。彼が近代戦を象徴
する毒ガスで負傷した経験を持ったことは、第二次大戦でより徹底した無差別戦が展開されるよ
うになることを考えると示唆的だ。
161 :
前田徹:02/03/30 16:08 ID:FLf/OdGQ
そして1919年1月、舞台はパリ講和会議へと移るのだが、戦後秩序を決めるこの長い会議は
皮肉にも、20年後のさらに大きな危機への序曲となった。
■ 豆事典
▽ヘンリー・キッシンジャー(1923年− ) 米国のニクソン、フォード政権の国務長官。第2次大
戦前の1938年、ドイツから両親とともに米国に移住。ハーバード大学教授を経て69年、ニクソン
大統領補佐官。73年には国務長官となり、ベトナム和平への貢献で同年のノーベル平和賞受
賞。中東の安定化にも努めた。77年、国務長官を辞任。
▽モロッコ事件 アフリカ地中海岸の戦略的要地モロッコの支配をめぐる20世紀初頭の欧州列
強の紛争。遅れて植民地獲得に乗り出したドイツがフランスのモロッコ支配に干渉。1905年にモ
ロッコの領土保全、門戸開放を主張して列強会議開催を求めたことから緊張が高まった(第1次
モロッコ事件)。この時は国際会議でイギリスなどの支持を得たフランス、スペインがモロッコに
対する従来の優位を確認する結果になったため、これを不満とするドイツは1911年、フランスの
モロッコ内乱出兵を機に軍艦をモロッコに派遣した(第2次モロッコ事件)。しかし、イギリスが再
びフランスを支持して軍事衝突は回避され、ドイツはフランスからコンゴの一部割譲を受けてフ
ランスのモロッコ支配を認めた。
▽シュテファン・ツバイク(1881−1942年) オーストリアのユダヤ系作家。人道主義の立場に立
つ絶対平和主義者で、ナチスに追われてブラジルで自殺した。「マリー・アントワネット」などの伝
記文学作品で知られる。
▽カール・フォン・クラウゼビッツ(1780−1831年) プロイセンの軍人、軍事理論家。「戦争論」は
近代戦の用兵から戦争の本質論にまで及ぶ軍事理論の古典として各国軍人だけでなくレーニン
ら革命家にも大きな影響を与えた。
▽キールの水兵反乱 第1次大戦末期の1918年11月、ドイツ北部バルト海岸の軍港キールでド
イツ艦隊の水兵が出撃命令を拒否し、待遇改善と講和を求めて起こした反乱。この反乱が波及
してドイツ各地で労働者・兵士評議会が作られ、ドイツ第2帝政は崩壊した。水兵の反乱から敗
戦を経て翌年のワイマール共和国成立に至るまでがドイツ革命と呼ばれている。
162 :
前田徹:02/03/30 22:58 ID:vrXIzvBL
ここってインチキが多い会社か?
ここって荒らしが横行しているスレか?
164 :
前田徹:02/03/31 07:32 ID:mpywfs0X
■ 暴走する大衆 総戦力へ−2
ドイツをしぼり尽くせ
アドルフ・ヒトラーが毒ガスで目をやられ野戦病院で治療を受けているとき、ドイツは第一次大戦
の敗戦を受け入れた。1918年秋の時点で、ドイツ軍は西部戦線をもはや維持することができ
ずに、全面敗退は時間の問題だったとはいえ、アメリカとイギリスを中心とする連合軍にとってさ
らなる戦争継続は依然、脅威だった。
そのドイツを降伏に踏み切らせる役割を果たしたのは第28代米国大統領、ウッドロウ・ウィルソ
ンだった。1918年1月8日、ウィルソンがアメリカ議会で発表した世界平和に関する14カ条の
提案は、新時代の到来を予感させるにふさわしい理想主義に輝いていた。
《新自由主義》 イギリス外務省から33歳と言う若さでパリ講和会議に加わった外交官、ハロル
ド・ニコルソンは回想録「平和の構築1919年」のなかで、ドイツがウィルソンの提案を受け入れ
て停戦し、ベルサイユ条約が出来上がるまでの交渉経過を克明に追っている。
その中でニコルソンは「ドイツは、ウィルソン大統領の14カ条提案に基づいた講和の成立を信じ
たからこそ、停戦に応じた。それなのに米英仏など連合国はドイツが武器を置いた途端、その約
束を破り、ウィルソンの理想を傷つけてしまった」と指摘する。それは戦争の終結によってもたら
されたつかの間の平和が、結果として、新たな、より大規模な戦争への出発点になってしまった
ことに対する苦い問いかけでもある。
ニコルソンは「ウィルソニズム」と呼ばれる政治哲学に出合ったときの感動を、次のように回想し
ている。「1913年のある日、私はコンスタンチノープル(イスタンブール)に着任したばかりのアメ
リカのモルゲンソー大使と昼食をともにしていた。そして、遠く西方で輝き始めた星のような存在
のウィルソン大統領のことに話が及んだ。その時、モルゲンソー大使が言ったウィルソニズムと
いう言葉に衝撃を受けた。それは単なる尊敬を超え、畏怖に近い感情をその新しい政治家の中
に感じたためだ」
ニコルソンが熱病のようにとりつかれたというウィルソニズムとは、アメリカ東部のプリンストン大
学の学長だったウィルソンが、民主党候補として大統領に当選後、唱えた「新自由主義」のこと
だった。自由と民主主義に絶大な信頼を置くウィルソンは、その理想を国内だけでなく国際政治
の場にも広げることを求めていた。
ウィルソンによれば、ヨーロッパの秘密外交や植民地主義こそが戦争の原因であり、それを正す
には「大国も小国も平等の立場でガラス張り外交を行うべき」であった。そして、彼はそのために
少数民族の独立を認める「民族自決の権利」が必要であると主張し、同時に国際政治における
民主主義実現の場となる国際連盟の創設を熱っぽく語った。
当時のドイツ指導層が1918年10月の段階で、こうした理想主義的なウィルソニズムに共鳴し
て停戦交渉を申し入れたとは考えにくい。しかし、ウィルソンが平和の条件として和解を大前提
にあげ、「勝者が敗者を罰するような形での平和があってはならない」としたことに強くひかれた
のは間違いないだろう。
165 :
前田徹:02/03/31 07:34 ID:mpywfs0X
4年数カ月に及んだ総力戦で疲弊しきったドイツが敗戦後の処遇を憂慮し、ウィルソンの理念に
将来をかけた−とするニコルソンの見方はその意味で正しい。そしてその後のパリ講和会議で
結局、戦争責任をすべて負わされたドイツが「裏切られた思いに陥った」とする指摘も非常に説
得力を持つのである。
《屈辱感強く》 ウィルソンの要求にこたえる形でドイツ皇帝、ウィルヘルム二世の廃位が決まり
新たに生まれたワイマール共和国が一九一九年六月、戦勝国と戦後処理を決めるベルサイユ
条約を締結した。しかし、イギリス、フランス、イタリア、日本の戦勝4大国によってドイツの植民
地の分割が行われ、さらに秘密外交による権益の取引が行われるなどウィルソンの14カ条は
パリ講和会議の半年に及ぶ外交駆け引きの中で次々に骨抜きにされていった。
そのうえ、「勝者が敗者を裁く」ことで成立した天文学的な数字の賠償金(1320億マルク)の強
要は、ドイツ大衆に強い屈辱感をもたらすものだった。とりわけ、イギリスやフランスの戦争犠牲
者への恩給や遺族への補償金の支払いまでを命じる条項がつけ加えられたことは、この講和が
これまでのヨーロッパにはなかった敗戦国への懲罰的色彩を強く持っていることを示した。
ニコルソンは「戦勝国の世論が、ドイツに対する報復へと急速に傾いたことが、憎悪という感情
に根ざした条約を作りだす重要な背景となった」と嘆いている。
1918年11月11日の停戦成立の翌日、ダウニング街の官邸前で、イギリス首相のデビッド・ロ
イド=ジョージは聴衆に向かい、「公平無私な原則に反する講和はかならず失敗する。我々は
復讐心や利己的な欲望にまかせ、正義という基本的原則をないがしろにしてはならない」と高ら
かに宣言している。ところが、そのわずか1カ月後の総選挙では「ドイツ人を最後の最後までし
ぼり尽くす」と言ってイギリス大衆の喝さいを浴びたのであった。
ニコルソンによると、ロイド=ジョージのこの有名な「しぼり尽くす」という選挙公約は、首相本人
からでたものではなく、当時の新聞が世論に迎合するように始めた「弱腰な政府への非難キャン
ペーン」に対抗するため与党の自由党が考えついたという。ウィルソンの理念に共鳴し、政治家
としての経験も豊かだったロイド=ジョージでさえ、自国のヒステリックな世論を無視することは
できなかったのである。
こうした戦勝国世論に対抗するようにドイツでは「戦争に負けたのではない。背後から匕首で刺
されたのである」とする「匕首伝説」が生まれた。匕首とは、この場合、ドイツが停戦に合意する
直前に起きた革命のことを指していた。つまり「革命など起こらず国民が一致団結して戦えば勝
てたのだ」という好戦的な考え方が、敗戦直後にもかかわらず、ドイツ大衆には強くアピールした
のである。
ニコルソンはウィルソン大統領の理想を実現できなかったことが講和会議の失敗だったと論じて
いる。長期的な視野に欠ける世論に流される政治の欠陥についても鋭く指摘した。しかし、ニコ
ルソンとともに講和会議に参加したもうひとりの若きイギリスの外交官は、全く別の視点から講
和の内容を批判している。後に歴史家となるその外交官、E・H・カーによると、次の戦争への序
曲になったのは実はウィルソンの理念そのものだった。
不正は止めましょう
167 :
前田徹:02/03/31 16:52 ID:EetD8zOP
当社は地下室以外の作業では不正は厳禁です。
168 :
STS軍団:02/03/31 21:10 ID:KaL5N+Ci
STSのリーダーを馬鹿にするな!
耐用と氏尾野を従え、堂々の行進じゃ!
169 :
卵の名無しさん:02/03/31 21:55 ID:69DxVM1W
STSって何ですか???
170 :
卵の名無しさん:02/03/31 23:04 ID:9imV90Wt
超一流●●ゾロ軍団のこと
171 :
前田徹:02/04/01 06:51 ID:ezrVpuxV
賃金制度にゴルフの成績と荒しの執拗さを
導入しているのは当社だけです。
>>169-170 超一流ゾロ/&\○●/STS\●○/~~\軍団
∩^▼^∩∩´▼`∩∩ ^▼^∩
ヽ ノ ヽ 丿ヽ ノ
)( ノ ( ヽノ ) ) ) ゴキブリ
(_)し' し(_) (__)し' ゾロゾロゾロッ_
沢● 大● シ●ノ
173 :
卵の名無しさん:02/04/01 07:47 ID:NyfaMxcE
捏○しまくり軍団ですか?
174 :
前田徹:02/04/01 09:10 ID:q7uF8759
■ 豆事典
▽欧州の秘密外交 第1次大戦前の欧州各国は国益追求のため秘密外交を展開、合従連衡
を繰り返した。はじめイギリスはドイツとの同盟を期待し交渉したが決裂。一転してフランスに接
近し、1904年英仏協商をまとめ上げた。さらに日露戦争の終結で英露対立が解消され、1907年
には英露協商の締結に成功した。第2次大戦前も同様で、日本では独ソ不可侵条約の締結を知
った平沼騏一郎内閣が39年に「欧州情勢は複雑怪奇」と総辞職している。
▽国際連盟 1920年1月、ウィルソン米大統領の提唱で設立された最初の国際政治機構。事務
局はジュネーブに置かれ、国際紛争の平和的解決と戦争原因の除去などを目的とした。しかし
総会や理事会の決議事項は各国政府に対する強制力をもたず、米国が議会の反対で加盟しな
かったこともあって国際紛争解決に十分な機能は果たしえなかった。さらに1939年までに日本、
ドイツ、イタリア、ソ連が脱退や除名処分によって加盟国からはずれ、存在意義を失う結果にな
った。第2次大戦後の46年、連盟は自然解消し、その財産は国際連合に継承された。
▽民族自決の権利 民族が政治的に独立し、自らの政府をつくる権利。1919年のベルサイユ条
約で初めて国際法上の権利として認められた。当時は欧米の国民国家の概念にとどまり、想定
された適用地域も東欧に限定されていた。しかし、各地の植民地独立運動家が運動の正当化の
根拠としたことから、世界的広がりを持つ理念となり、第2次大戦後のアジア・アフリカ諸国の独
立を促す役割を果たした。
▽パリ講和会議 1919年1月から20年8月までパリで開かれた第1次大戦の講和会議。敗戦国
の出席は認めず、英、仏、米、伊、日の戦勝5大国、とりわけロイド=ジョージ英首相、クレマン
ソー仏首相、ウィルソン米大統領の3巨頭が会議の主導的役割を果たした。ドイツに対するベル
サイユ条約、オーストリアに対するサン・ジェルマン条約など5つの講和条約が決定されたが、
戦争責任を敗戦国に一方的に押し付け、過酷な制裁を加えるかたちになったことで、新たな紛
争の原因を作り出した。
175 :
前田徹:02/04/01 09:11 ID:q7uF8759
■ 暴走する大衆 総戦力へ−3
あまりにもわかりやすい理想
第一次大戦当時のアメリカ大統領、ウッドロウ・ウィルソンは戦後の平和を構築するために当時
としては革命的ともいえる二つの主張を行った。それは、住民が希望しさえすれば、独立国家を
形成することができるとする「民族の自決権」と、小国も大国も平等な立場で話し合える場を提
供する国際機関としての「国際連盟の創設」だった。
ヘンリー・キッシンジャーは著書「外交」の中で、ウィルソンがそうした考えを持つに至った理由に
ついて、戦争へと駆り立てられた民衆が政治の主役になれば、再び戦争を望むはずはないと信
じたためだとしている。
戦争責任者は、民衆に真実を隠して外交を弄んだ国家指導者であり、抑圧された少数民族は支
配民族によって強引に戦争に追いやられた被害者である。したがって、そうした少数民族にも独
立国家をつくる権利(民族自決権)を認め、すべての国が平等の立場で参加する国際連盟が紛
争解決にあたれば、戦争が起きるはずはないと考えたのだった。
《民族自決権》 イギリス外交官として1919年のパリ講和会議に出席し、ウィルソンのこうした
主張に接したE・H・カーは、このあまりにも直線的な考え方が政治の現実を無視しているだけで
なく、そのわかりやすさゆえに強い説得力を持つことに危惧の念を抱いた。第一次大戦後の世
界に計り知れない紛争の種を残すことになると考えたからだ。そして、その危惧は的中した。
後に歴史学者となったE・H・カーは「ナショナリズムとその後」という本の中で、ウィルソンの民
族自決論によって国家の数そのものが急増したことをあげ、危険なナショナリズムの高揚を招い
たと断じている。
1870年まで欧州の国家の数はむしろ減る傾向にあった。18世紀のフランス革命とともに誕生
した国民国家という概念が登場するまで、絶対王政下の国家とは、国王に代表される支配階級
のことだった。それがルソーの近代国家論とともに国民(民族)主体の国家への移行が急速に進
み、ドイツ帝国が誕生した1871年には欧州は14カ国に絞られていた。ところがウィルソンの民
族自決提唱で1924年には26カ国にまで増えている。
19世紀のヨーロッパでは、紛争の解決は主要六カ国の利害調整によって図られていた。ところ
が、国家の倍増と平等概念によって収拾のつかない状態に陥ってしまったと、カーは指摘する
のである。とりわけ、国家の平等概念については「国家を人間個人の権利主張と同様だと錯覚
したために起きた大きな誤りだった」とし、「人類の個人レベルでの平等という概念は、実際には
あり得ないにしても、人類の追い求める理想にはなりうるが、国家の平等はあり得ないだけでな
く、それは公平でもなく、有害だ」と厳しく批判している。
さらに深刻な問題を提起したのは、新しく誕生した国家が内部の団結を図るため隣国との違い
を強調する強いナショナリズムにとらわれてしまったことだ。国家の統一に重要な役割を演じる
ナショナリズムや愛国運動は、逆に他国との対立を助長するという両刃の剣となったのである。
176 :
前田徹:02/04/01 12:50 ID:egJoCsoY
おい、こら、もうここに書き込みをするな!
医療費の赤字問題を解消するのはゾロしかないということがわからんのかぁ!
このボケどもめ!
177 :
前田徹:02/04/01 16:53 ID:3o7a50aw
こうした弊害をはらむ国家の平等概念と民族自決論は、国家にとって最も敏感な問題である「民
族の住みわけによる国境の見直し」へと突き進む原動力となっていった。
第一次大戦後、ウィルソンの民族自決の原則で独立した新国家は実に複雑な民族問題を抱え
ていた。例えば、オーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)の解体で誕生したチェコスロ
バキアでは、多数派となったチェコ人が500万人だったのに対し、スロバキア人250万人、ハン
ガリー人100万人のほか、ズデーテンドイツ人が350万人という多民族国家だった。
ハプスブルク帝国時代のチェコとスロバキアという行政体を、そのまま国家として認めた結果な
のだが、それではスロバキア人やズデーテンドイツ人たちの民族自決権はどうなるのか?実際
にスロバキア人はその後、独立運動を起こしたし、ズデーテンドイツ人は早くから同じドイツ民族
の国であるオーストリアへの帰属を強く望んでいた。
1919年、サン・ジェルマン条約によって、ハプスブルク帝国の中核だったオーストリアは、わず
か600万人程度の小国に転落した。そのとき、同じように少数民族となったズデーテンドイツ人
はオーストリアに自らの将来を託すため大挙してオーストリアの選挙に参加しようとし、チェコ兵
に阻止されている。
当時7歳だったズデーテンドイツ郷人会元広報部長、ワルター・ベヒャーはその様子を次のよう
に証言している。「私はズデーテンドイツ人地区の中心地だったカールスバード出身なのですが
私の両親も含め、すべてのドイツ人はオーストリア人になることを望みました。しかし、チェコ兵
は、そうした住民を武力で弾圧したのです。私たちがその後、ヒトラー・ドイツへの合併を望むよ
うになったのはこの時の弾圧が原因だったと断言できます。」
《国の細分化》 第一次大戦後の初代チェコ大統領となったトーマス・マサリクも同じようにフラ
ンスのル・マタン紙(1919年1月10日発行)に対しコメントしているが、民族紛争に揺れる当時
のチェコの危機的状態をよく伝えている。
「我々の歴史的な国境は、動物行動学的境界とほぼ一致する。ところが、前世紀を通じてみられ
たドイツ人の集中的な流入の結果、ボヘミア(チェコの中心地方)を囲む四方のうち、北辺と西辺
においは、ドイツ人が多数派を占めた。この異邦人たちが忠実な市民としての証を示すならある
種の共存は可能だろうが、あえてつけ加えるならば、私としてはこの地域で急速な非ゲルマン化
が進んでいることを確信するものだ」
歴史的な民族の住みわけをいうならゲルマン人は9世紀にはこの地に住みついており、チェコ人
の祖先である南スラブ人が来たのはその後のことだ。にもかかわらず、マサリクがズデーテンド
イツ人地区の非ゲルマン化を示唆したとき、チェコの民族対立は避けられないものとなったので
ある。
E・H・カーは「ナショナリズムとその後」で、「民族の自決権がこのまま無原則に進むと国家の細
分化現象を起こし、いずれチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分裂し、ユーゴスラビアの分
裂も避けられないだろう」と予言していた。我々は、それから半世紀を経て、チェコスロバキアや
ユーゴスラビアが分裂し、結果として住民同士の激しい憎悪が渦巻くのを今、目撃している。
178 :
普通の開業医:02/04/01 22:00 ID:IfQMZmPR
捏造ぐらい許してやれよ.
俺の知り合いも横浜の開業医だけど不正請求やりまくって、去年の7月に検挙された
けど逮捕されずに医者辞めて今は文房具屋のチェーン店で店長やっとるよ.
179 :
前田徹:02/04/01 22:23 ID:ba9laa4Y
■豆事典
▽国民国家 封建国家や絶対主義国家とは対照的に、国民を基本的な単位とした近代国家を
指す。18世紀に人民主権論を提唱したルソーの「社会契約論」が国民国家の形成に影響を与え
フランスでは絶対君主に集中していた権力を市民革命(フランス革命)で奪取することによって形
成された。形成の過程は国によってことなるが、国家秩序の維持のためには国民の同質性が大
前提となる。
▽オーストリア=ハンガリー帝国(1867−1918年) 1866年の普墺戦争に敗れたオーストリア(ハ
プスブルク帝国)はドイツ人、マジャール(ハンガリー)人、スラブ人など多数の民族の間の調和を
図り国家を再建するため、マジャール人に妥協してハンガリー王国を認めた。同王国は独立した
政府と議会と法を有していたが、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ね、軍事、外交はオース
トリアと共通の政策をとった。
▽ズデーテンドイツ人 ズデーテン地方はチェコ北、西、南部に広がる三日月形のドイツ国境部
分を指す。11世紀ごろドイツ人が入植を始め、銅、鉛などの鉱山開発の貴重な労働力となった。
第1次大戦後、チェコスロバキア領になったが、ヒトラーが1938年、ドイツ人の保護を口実にして
ズデーテン地方を併合。第2次大戦後は逆にドイツ人が同地方から追放された。ドイツ、チェコ
両政府は今年1月、和解宣言に調印、ナチスのチェコ侵略とチェコのドイツ人強制追放に対し双
方が謝罪した。
▽サン=ジェルマン条約 1919年9月10日、第1次大戦の戦勝国がオーストリアと締結した講和
条約。民族自決の原則が適用され、オーストリア=ハンガリー帝国内のハンガリー、チェコスロ
バキア、ポーランド、セルブ=クロアート=スロヴェーン(のちのユーゴスラビア)の独立が承認さ
れた。一方でオーストリアとドイツの民族自決権は無視され、両国の併合は禁止された。
▽トーマス・マサリク(1850−1937年) チェコスロバキア初代大統領。1882年からプラハ大学哲
学教授を務め、社会学を初めてチェコに導入。第1次大戦が始まると西欧に亡命し、独立運動を
展開した。大戦後、チェコスロバキアが独立すると大統領に就任、35年に引退した。
180 :
卵の名無しさん:02/04/01 22:43 ID:BevEBBa6
ゾロ=インチキ、捏造と不正のオンパレード、超安い給料と退職金、一族の儲けのみ追求
181 :
卵の名無しさん:02/04/01 23:49 ID:mPHXvXKi
激しく賛意
182 :
卵の名無しさん:02/04/02 00:01 ID:5oZtvK0Z
このスレッドなんとかせえよ。
183 :
前田徹:02/04/02 00:16 ID:goRmZwLF
■ 暴走する大衆 総力戦へ−4
民族自決がもたらす混乱と紛争
「ウティ・ポッシデティス原則」という耳慣れない法律用語を聞いたのは、1992年の先進国首脳
会議(ミュンヘン・サミット)のときだった。事務レベル協議でカナダ代表が、自国のフランス語圏
住民による分離独立運動をサミットの政治討議の議題にしようとして結局、果たせなかったのだ
が、討議の過程でこの原則が登場している。
「ウティ・ポッシデティス原則」はもともと「汝ら占有するがままに占有を続けよ」というローマ法の
不動産占有保護の原則のことで、その言葉通り、不動産の所有、つまり国境の現状維持を主張
する際の国際法上の根拠になっている。
この原則は、そもそも19世紀の初めに中南米諸国が独立する際に適用され、スペインやポルト
ガルなどの宗主国が植民地統治のために定めた行政単位をもとに国境が決められている。
当然ながら住民の意向は無視され、場合によっては同じ部族の村が、国境で分断されるという
ばかげたことも平気で起きた。これに対し、アメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソンが1918年
に平和の原則として掲げた「民族自決権」では、住民が希望すれば独立が認められ、国境の書
き換えも可能だということになった。
民衆の意見を重視するこの自決権は民主的であるようにみえる。為政者の勝手な線引きで村が
分断されることもない。ウティ・ポッシデティス原則による、国家の身勝手への追認はこれで防げ
るはずだった。ところが、民主主義的とされる手法が、むしろ混乱と紛争をもたらしたのである。
《条約の矛盾》 アドルフ・ヒトラーは1933年10月14日、軍縮会議および国際連盟からの脱
退を発表し、第一次大戦後の秩序を定めていたベルサイユ体制破棄の第一歩を踏み出した。
ヒトラーは以後、ベルサイユ条約を支える原則のひとつだった民族自決権をあえて主張し、その
ことで逆に条約の矛盾を露呈させながら体制を突き崩していく。
1935年1月13日には、国際連盟の管理下に置かれていたザール地方で、ウィルソンの民族
自決権に基づいて帰属先についての意思を問う住民投票が行われた。結果は、投票した住民
の9割以上がドイツへの帰属を望んだのだった。
1938年3月のオーストリア併合直後に行われた国民投票では、オーストリア住民の併合賛成
は99・7%にも達し、ドイツ側でも99%という圧倒的な支持を受けた。ドイツ軍の進撃で成立し
たオーストリア併合について、「武力による併合だった」と非難した社民党(オーストリア)の存在
や、併合後の将来に不安を持つ多くの知識人らの反対運動を指摘する声はあったにしても、双
方の大衆がドイツ民族の統一を熱狂的に歓迎したことを否定することはできない。
ボン大学歴史政治学科主任教授のハンス・ペーター・シュバルツは、併合のニュースを聞いた当
時のドイツの沸き返るような興奮を幼心に今も覚えていると述べ、「ヒトラーが次々とドイツの主
権を取り戻していく様子をたぶん8割以上のドイツ人は支持しただろう」と話している。
184 :
前田徹:02/04/02 06:09 ID:Uu10YfyB
>ゾロ=インチキ、捏造と不正のオンパレード、超安い給料と退職金、
>一族の儲けのみ追求
どの会社も似たようなもので、おれんとこだけではないよ。
文句があるなら、よそへ行け。
文句や不満があっても辞められない。
人間って悲しいものですね。
186 :
卵の名無しさん:02/04/02 08:24 ID:IgV2qKcu
ゾロのMRって情けない仕事だろうね。
同情しますよ。
187 :
前田徹:02/04/02 09:10 ID:OyCATWTX
このようにして、ヒトラーは民族自決権を盾にベルサイユ条約を骨抜きにしていく。そして、いよ
いよズデーテンドイツの併合が行われ、民主的であるはずの民族自決権の危険な矛盾が口を
開ける。
ズデーテンドイツの切り離しは、チェコスロバキアという国家の解体につながった。ミュンヘン郊
外の閑静な住宅街に住むワルター・ベヒャーは第二次大戦後、ドイツ敗戦と同時に、チェコ政府
によって追放されたズデーテンドイツ人であり、今はドイツ連邦共和国の市民として年金生活を
送っている。85歳になったベヒャーはズデーテンドイツ時代の思い出の品や郷土品に囲まれな
がら、将来は故郷のカールスバード(チェコ国内)に戻ることをあきらめていないと断言した。
《奇妙な地形》 1931年、ウィーン大学在学中にズデーテンドイツの自治を求める政治活動を
始めたというベヒャーは「今はどこの書店にも見つからないだろう」という大版の「ズデーテンドイ
ツ地図」を広げながら、中央ヨーロッパの国境と複雑な民族分布の矛盾を説明してくれた。
地図をみれば一目で理解できるが、ズデーテン地方とは、チェコ(ボヘミア地方=ドイツ名ベーレ
ン)の三方にあるドイツのザクセン州、バイエルン州、およびオーストリアとの延長として考えるの
が自然であり、人工的な国境線が引かれたことでむしろ、その国境線にそって連なるような奇妙
な地形が存在しているように見える。共通の言語と共有文化を持つドイツ人からみれば、国境に
よってズデーテン部分がチェコ側に切り取られたということになるわけだ。
しかし、チェコ側には別の視点がある。多民族国家ハプスブルク帝国内にあったチェコスロバキ
アのズデーテン地区は帝国屈指の工業地帯だった。ピルゼンビールやスコダの重工業、ガラス
工業はすべてこの地区にあり、チェコ人の住むボヘミア地方は農業地帯でしかなかった。
ズデーテン地方を失えば、チェコは近代国家として成り立たない。それほどの意味をこの地区は
持っていたのだ。
「第一次大戦の戦勝国がウィルソンの原則でチェコスロバキアの独立を認めたとき、ズデーテン
の自決権はどうなるのかという思いが残った。しかし、チェコ化が避けられないなら、せめて自治
だけでも認めるよう要求した。しかし、チェコ民族運動指導者のベネッシュは1918年の段階で
ドイツ人追放を公言していた。我々は民族政党を結成して反政府運動を続け、ヒトラーの介入を
大歓迎したのだった」
ヒトラーのズデーテン併合については、イギリスも民族自決原則の観点から承認していた、とベ
ヒャーは証言する。ヒトラーに対する宥和政策として悪名高いミュンヘン協定についても、英仏側
がヒトラーの民族自決論を否定できなかった面が強かったという。しかし、その結果として、今度
はチェコ人の民族自決権が無視され、急速に抜き差しならぬ紛争へと傾斜していく。
戦後、ズデーテンを取り戻したチェコ政府は、将来の分離運動を絶つために、350万人のドイツ
人を追放するという史上最大の民族浄化を実行した。この追放の過程で二十四万人のドイツ人
が命を失っている。冷戦の終結後、二十万人以上が内戦で亡くなったボスニア・ヘルツェゴビナ
の悲劇は基本的にはズデーテンで半世紀前に起きたこととそう変わっていない。
188 :
前田徹:02/04/02 09:11 ID:OyCATWTX
■豆事典
▽カナダ・ケベック州の分離独立運動 カナダでは英語系住民のほかに多数の仏語系住民が
生活しており、東部のケベック州では仏語系住民が人口の82%を占めている。このため独立志
向が強く、1995年にはカナダ連邦からの分離を問う州民投票が実施された。この時は小差で独
立反対派が勝ったが、分離・独立を目指す運動は依然、根強く残っている。
▽ザール地方 ドイツとルクセンブルク、フランスに囲まれたザール川流域の工業地域。石炭、
鉄鉱などの資源を有するため、その帰属問題は長く独仏間の懸案事項だった。1871年、普仏戦
争後にドイツに併合されたが、1919年のベルサイユ条約では国際連盟の管理下に置かれた。ナ
チス政権発足後の35年には住民投票の結果、圧倒的多数でドイツへの帰属が決定。第2次大
戦後は一時フランスが占領したが、56年のザール条約で当時の西ドイツへの復帰が確定した。
▽オーストリア併合 ベルサイユ体制下では、ドイツとオーストリアの合併は禁じられていたが、
ハンガリーやチェコスロバキアが分離・独立したオーストリアには、国力維持や民族自決の原則
からドイツとの統一を望む声が根強かった。1938年3月、オーストリアで親ナチス指導者が首相
に任命されると、ヒトラーは同首相の要請という形でオーストリア領内にドイツ軍を進駐させ、そ
の翌日、両国の合併を宣言した。
▽エドヴァルト・ベネッシュ(1884−1948年) チェコの政治家。第1次大戦中に祖国独立運動に
参加。チェコスロバキア独立後、外相、首相を歴任し、1935年に第2代大統領に就任。38年のミ
ュンヘン協定で、引責辞任し米国に亡命。大戦後の46年に大統領に再選された。
▽ピルゼンビール ズデーテンの重工業都市、ピルゼン(プルゼニ)産の世界的に有名なビー
ル。12世紀から醸造されている。
▽ミュンヘン協定 1938年9月、英仏独伊4か国首脳がミュンヘンで会談し、チェコスロバキアの
ズデーテン地方をドイツに割譲することを決めた協定。ヒトラーの割譲要求に対しチェンバレン
英首相、ダラディエ仏首相は戦争突入の事態を回避しようと対独宥和政策をとり、妥協を重ねた。
189 :
前田徹:02/04/02 09:58 ID:817Mr9SX
暴走する大衆 総力戦へ−5
リリー・マルレーンを作った男
1960年代後半から(日本)全国の大学で吹き荒れた、いわゆる全共闘運動が下火になったこ
ろ「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」(文芸春秋・鈴木明著)がベストセラーになった。
マレーネ・ディートリヒの歌う「リリー・マルレーン」のフレーズを重ねながら、この歌が誕生した第
二次大戦当時のドイツを遍歴風に描いていくという趣向の長編ルポだった。その中に流れる反
戦への思いが時代の気分に合っていると思った。
《御用作曲家》 リリー・マルレーンの作曲者、ノーベルト・シュルツェを、どうしても訪ねようと思
いたったのは、実はこの本に次のような記述があったからだった。
《僕を最も驚かせたのは、この歴史的ともいえる歌を作曲した男が、後にはナチスの御用作曲家
となって、「我らはイギリスに戦いに行く」などというような歌を作っていた人物だったということで
ある。戦後、彼はドイツ国内での非ナチ化裁判にかけられ、平時ならおそらく天文学的数字にま
でなったと思われる著作権料を没収された》
この本では、大女優といわれたディートリヒともう一人の主人公のドイツ人歌手ラーレ・アンデル
センのエピソードが中心になっているため、「リリー・マルレーン」という曲を一番理解しているは
ずの作曲者が登場することはほとんどない。登場しても「御用作曲家」のひと言で片づけられて
しまう。そこにひっかかるものがあった。
今年、86歳になったシュルツェは南地中海に浮かぶスペインのマヨルカ(マジョルカ)島で、2番
目の奥さんと暮らしている。海に面した南側の居間にはディートリヒら俳優の絵や写真が趣味よ
く飾られ、いまもときおり演奏するという白いピアノもある。居間に続くベランダは2月というのに
地中海の陽光があふれんばかりだった。
リリー・マルレーンの作曲者シュルツェは、そのあふれんばかりの陽光を浴びながら、過ぎ去りし
日々を振り返った。シュルツェの家は代々、医師の家系だった。祖父は日本で最初の医学校開
設を手伝うために東京に派遣された。そのとき(明治の)日本の温泉地をめぐり、その効用につい
て書いた本をドイツで出版したことでも知られている。父親は根っからの解剖医だった。
シュルツェはモーツァルトが好きだった「死体が並ぶ父の実験室が嫌で、子どものころから音楽
家になりたいと思った」「父の反対を押し切り、ケルンの音楽大学へ行き、作曲を学んだのも、そ
の夢を実現するためでした。しかし、私は挫折したのです。学生仲間の誘いに乗り、ミュンヘンの
学生寄席のようなところで、ピアノ弾きをするようになってしまい、そこでラーレに出会いました。
私は18、ラーレは20歳だった。彼女には故郷に亭主がおり、3人の子どももいた。でも私は彼
女が好きになってしまった。この出会いがあったからこそリリー・マルレーンが誕生したのだと思
います」
190 :
前田徹:02/04/02 09:59 ID:817Mr9SX
その相手、ラーレ・アンデルセンは北ドイツのブレーメンに近い港町で生まれ、幼いころから船員
相手のバーでシャンソン風のマドロス歌を歌っていた。やがて各地の酒場で歌うようになり、フラ
ンス風シャンソンが流行していたミュンヘンでシュルツェと出会った。
ドイツではヒトラーのナチスが台頭していた。1925年にわずか2万7千人しかいなかった党員
は、シュルツェがラーレと出会った29年当時には17万6千人、さらに30年には約40万人に膨
れ上がった。30年9月の議会選挙でも107議席を獲得し、第二党に進出している。
シュルツェはその後、ラーレと会うこともなく、1936年に作曲した大衆オペラが大ヒットしてベル
リン進出を果たした。そして、そのベルリンでオペラ歌手からもらったハンス・ライプの詩集「港の
手風琴」の中に「リリー・マルレーン」があった。
「第一次大戦のときルーマニア戦線に歩兵として出兵したハンスが、戦地で恋人を思う気持ちを
実にうまく詩にしていた。即興ですぐに曲ができ、ラーレがケルンで歌っていることを知って、電
話で歌わないかと声をかけた。ラーレがレコード会社にもかけあい販売と同時にラジオでも流さ
れることになったが、聞いて驚いた。私の作ったのとはまるで違う行進曲のようなアレンジで、プ
ロシアの帰営ラッパまで入っていた。そういえば、あのころは、だれもが威勢のいい戦争の話ば
かりしていた」
《人を動かす》 1939年、ヨーロッパは初頭から戦争ムードで騒然としていた。前年にチェコス
ロバキアのズデーテン地方を併合したヒトラーは39年3月、チェコを占領するとともにスロバキ
アを保護領化した。8月23日、独ソ不可侵条約が結ばれ、ドイツは9月1日にポーランド侵攻を
開始、第二次大戦の火ぶたが切られた。
リリー・マルレーンのレコードは、発売当初には700枚しか売れなかった。「恋人を思う厭戦的な
ところが、連戦連勝の戦争初期のムードにあわなかったのでしょう」とシュルツェはいう。しかし
それから2年して前線兵士の間で急に売れはじめる。
「とにかく国防軍が前線兵士用に流すラジオのリクエストタイムのトップは終戦までリリー・マル
レーンだった。ドイツのラジオを聞いた連合軍の兵士にも広まり、マレーネが英語で歌っている
のを知ったが、実にうまく歌っているなと思った。ラーレは歌が下手だったからね。それにしても
これほど受けたのは、そろそろ兵隊さんも戦争に嫌気がさしていたのだろう」
余談ながら、シュルツェによると、リリー・マルレーンは2人いる。作詞者のハンスはリリーとマル
レーンという2人の女性に恋をしていたというのだ。
シュルツェは当時のドイツのNO.1ヒットメーカーだった。戦争中のプロパガンダ映画の主題歌な
ども作曲している。こうした曲のでき栄えは戦後の非ナチ化裁判で有罪になるほどだった。少な
くとも人を動かす力はある。彼はその代償として事実上の作曲禁止処分を受け、一時は土木作
業員をして食いつなぐなど厳しい戦後を送っている。「私には音楽さえあればよかった。ナチス
のために曲を作ったからいけないというが、そのころ企業のためにコマーシャルソングもいっぱ
い作っている。あれだってプロパガンダだと思うのだがね」
リリー・マルレーンはおそらくドイツと連合軍合わせて数百万人の兵士が愛した人類史上最初の
大衆向けミリオンセラーだろう。その作曲者が戦犯とは、いかにも皮肉ではないか。
191 :
前田徹:02/04/02 10:00 ID:817Mr9SX
■ 豆事典
☆全共闘運動 1960年代後半の大学紛争の際、新左翼諸党派や特定党派に所属しないノンセ
クトの学生が各大学に設立した「全学共闘会議」による運動。学費値上げや大学管理体制への
学生の不満を吸収し、フランスやアメリカに代表される学生運動の国際的な高揚にも刺激されて
大学紛争は全国に広がったが、70年安保闘争ではすでに退潮期に入り、全共闘運動は以後、
急速に衰えた。
☆リリー・マルレーン 第2次大戦のヨーロッパ戦線で流行したドイツの戦時歌謡「リリー・マル
レーン」は、日本では鈴木明氏の著作をきっかけに話題になり、倍賞千恵子、梓みちよ、加藤登
紀子らのレコードが売り出されるなど1975年に大ブームになった。
☆鈴木明(1929年―) ノンフィクション作家、評論家。出版社勤務を経てTBSに入社。「調査情
報」の編集長から転身。1973年に『「南京大虐殺」のまぼろし』で第4回大宅荘一ノンフィクション
賞を受賞。「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」は75年に出版された。
☆非ナチ化裁判 第2次大戦後、連合国はドイツ占領政策の骨子を、(1)非ナチ化、(2)非軍事
化、(3)民主化、(4)非集中化の四つに集約した。そのなかでも特にアメリカが力を入れたのは非
ナチ化だった。1945年9月、アメリカ軍占領政府は、18歳以上のドイツ国民に対し131に及ぶ質
問表を配布した。内容はワイマール時代の投票政党からナチ時代の役職や行為まで詳細に及
び、その質問表の回答に基づいて弾劾裁判で大量のナチス関係者を摘発し、公職や経済の指
導職から追放した。しかし、占領地国民の大半がナチ党員かナチ協力者ですべてを追放すれば
ドイツ社会が成り立たないうえ、冷戦が進行したため、後半に入り罰金刑に切り替えられた。
☆独ソ不可侵条約 1939年8月にモスクワで締結された。英仏とソ連の二正面戦争回避を望む
ヒトラーと、英仏との対独軍事提携に見切りをつけたスターリンとが歩み寄った。相互の不侵略
などを定めた本条約のほか、バルト諸国とポーランドにおける独ソの勢力範囲を確定した秘密
議定書に調印した。
192 :
前田徹:02/04/02 10:21 ID:VuP2ykAu
■ 暴走する大衆 総力戦へ−6
不敗伝説はモスクワで崩れた
評論家の西尾幹二が雑誌『正論』に書いた一節は、歴史の一瞬の皮肉と言う事を見事にとらえ
ている。「今、私の目の前にある小さな記事が、歴史的奇禍の証言なのかと思うと、私は感無量
である。なぜなら八日付の新聞を父が朝起きて手にし、ドイツ軍一部敗走の記事を読んでいた
頃、太平洋を南下した特殊潜行部隊はすでにハワイ沖で火蓋を切っていたからである」
《寒さと闘う》 ドイツ軍の怒濤(どとう)の攻撃で始まった独ソ戦は1941年12月5日、破竹の勢
いでモスクワを目指していたドイツ軍が初めての敗退を喫したことで、大きな転機を迎えていた。
後にアドルフ・ヒトラーの敗退そのものを決定づけたといわれるモスクワ敗走だ。西尾の父がそ
れを伝える朝日新聞(12月8日付)を手にしたまさにその日、太平洋上では日本軍の真珠湾攻
撃が行われていた。
1941年6月22日午前3時、バルト海から黒海にいたる1600キロの前線での1時間以上に及
ぶ予備砲撃で始まった「バルバロッサ作戦」は、おそらく史上最大規模の陸上侵入作戦といえる
だろう。参加したドイツ陸軍は145師団、空軍からは3個航空軍が支援部隊として加わり、3方
面に分かれてレニングラード(サンクトペテルブルク)、モスクワ、キエフなどを目指した。
12世紀の神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ一世のあだ名である「バルバロッサ(赤ひげ)」を作
戦名にしたこのソ連侵攻作戦は、文字通り世界をあっといわせた。ドイツはヨーロッパをほぼ支
配下に置いたとはいえ、イギリスとの戦闘は膠着化していた。伝統的にドイツ軍は東部と西部で
同時に戦う「二正面作戦」を避けることを大前提にしてきた上、ヒトラー自身、何度も二正面作戦
の危険に言及していたため、この時点でのソ連侵攻は考えられないとされていたのだ。
とりわけ、40年9月に日独伊三国同盟を結んだ日本にとっては、ヒトラーの約束したイギリス上
陸ばかりに気を取られ、バルバロッサは寝耳に水だった。しかも、連戦連勝で不敗伝説を誇った
ドイツ軍が実際にはモスクワ直前で大敗走をしていたことを日本の指導部が知っていれば、そ
の3日後に真珠湾攻撃に踏み切れたかどうか。歴史に「もし」を持ち込みたくなるエピソードのひ
とつだろう。
当時の日本の指導部が知る由もなかったドイツ軍のモスクワ敗走は、バルバロッサ作戦全体を
崩壊させ、3年半後のドイツの無条件降伏を決定づける程のすさまじい負けっぷりだった。旧東
ドイツの国際関係大学元教授で今は年金生活を送るゲアハルト・デンクラーはその歴史的敗走
に居合わせた数少ない目撃者の一人だ。
「私はそもそもホート将軍の北部軍集団の砲兵大隊に属し、レニングラードを包囲、陥落させる
のが任務だった。バルバロッサが始まった直後は破竹の勢いで、ほとんど抵抗らしい抵抗も受
けずにレニングラードを包囲したのだが、そこで陣地戦となり動けなくなった。その後、作戦が変
更され、我々は中央軍集団に編入されて、冬に入る前にモスクワを陥れることになった。作戦名
は台風と名づけられ、9月1日に進撃を開始したのだが、実はこのころから赤軍(ソ連軍)の抵抗
が強まっていたのです」
193 :
前田徹:02/04/02 10:22 ID:VuP2ykAu
デンクラーは第二次大戦勃発のきっかけになったポーランド侵攻作戦やフランス進撃作戦にも
参加しているが、ドイツ軍の姿を見ただけで白旗を掲げてくる戦闘しか経験しておらず、ドイツ軍
の優位を信じて疑わなかった。モスクワに近づくにつれて激しく抵抗し、向かってくる赤軍兵士に
遭遇したとき、開戦以来初めて恐怖を覚えたという。
「進撃は遅れた。赤軍の抵抗が激しかったし、想像を絶する道の悪さでわれわれの機甲化部隊
も思うように進めなかった。私の砲兵部隊もぬかるみに何度もはまった。そして冬が来た。モス
クワの街の灯が見える距離まで来ながら、われわれはマイナス二十度前後の寒さに凍えてい
た。暖を取ろうと民家を見つけると敵の砲撃の格好の標的となった。そしてあの恐ろしい朝がや
ってきた」
《大物量作戦》 12月5日早朝、大音響の砲撃とともに始まった赤軍の大反攻は、デンクラーの
証言によると、それまで見たことも聞いたこともない規模の物量作戦だった。戦線に初めて投入
された「カチューシャ」と呼ばれるロケット砲の破壊力もさることながら、白い迷彩色の赤軍兵士
が大地を埋め尽くし、「ウラー」の喚声をあげながら突撃してきたとき、ドイツ軍の兵士たちは抑
えようのない恐怖心にかられた。
「銃を投げ捨てて逃げた。周りで一目散に走り出した戦友の恐怖にひきつった顔は今も忘れられ
ない。トラックも大砲も戦車さえ置き去りにした。クラウゼビッツのプロシア軍以来、ドイツ軍の伝
統は、退却しても背中を見せないことだった。モスクワでの敗退は、その伝統を初めて破ったこ
とを意味し、われわれの士気を著しく傷つけた。それまで自信満々だった将校たちはその後、赤
軍の姿を見たという報告を受けるたびに顔をひきつらせるのに私は気づいた」
独ソ戦は、1943年2月にフリードリッヒ・パウルス元帥率いる第6軍集団が殲滅されるまで一進
一退を続けるのだが、このモスクワ敗走によって、遅かれ早かれドイツの敗戦は運命づけられて
いた。そのことを最も理解していたのはたぶんヒトラーとその配下のドイツ参謀本部だろう。
ソ連国家保安委員会(KGB)の前身にあたる内務人民委員部(NKVD)で、ドイツ担当副局長をし
ていたパベル・スードプラートフは著書「クレムリンと情報」のなかで、ドイツ国防軍情報局長のカ
ナリスの報告書を1939年に入手していたことを明らかにしている。
そのカナリス報告書は、ロシア侵攻作戦のためのあらゆるシミュレーションを分析したあと、「モ
スクワ、キエフ、バクー油田を開戦3カ月で占領しなくてはドイツ軍の勝利はない」と結論づけて
いた。戦争継続に不可欠な石油や鉄などの戦略物資の大量貯蓄をしても3カ月が限度というも
のだった。
ドイツ軍はバルバロッサを開始して6カ月後には、大攻勢をかけるだけの体力がもう残っていな
かったのだ。アメリカ軍の圧倒的な物量に敗退を続ける日本軍と似た状況が、不敗伝説のドイツ
軍でも最後まで続いた。
194 :
前田徹:02/04/02 13:17 ID:vVvgkcHk
■豆事典
▽独ソ戦争 1941年6月22日、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を無視して攻撃を開始。ウクライナを
攻略し、レニングラード(サンクトペテルブルク)、モスクワに迫ったが、強力な抵抗に遭って短期
決戦のもくろみは外れてしまった。1943年2月のスターリングラード攻防戦でドイツ軍が大敗した
後はソ連軍が攻勢に転じ、44年にはドイツ軍占領下の東欧諸国を解放した。1945年2月、ソ連軍
はオーデル川を越えてドイツ領内に入り、4月下旬ベルリンに突入。5月8日、ドイツを無条件降
伏させた。
▽フリードリッヒ1世(1122年ごろ−90年) 第2回十字軍(1147−49年)に従軍して戦功をたてた
後、1152年から神聖ローマ帝国皇帝となった。通称「赤ひげ王」。国内諸侯の反抗を抑えながら
4回のイタリア遠征を行い、第3回十字軍にも出征したが、小アジアで渡河中に水死した。
▽日独伊三国同盟 1937年に締結された日独伊防共協定を発展させたもので、40年9月にベ
ルリンで調印された。3国は相互に欧州、東アジアでの指導的地位を認め合い、他国の侵略に
対する相互援助を誓約した。英仏米を対象にしたもので、特にアメリカが連合国側に参戦するのを牽制する目的があったが、逆にアメリカの対日不信感を増大させる結果に終わった。43年9月、
イタリアの降伏で同盟は崩壊した。
▽フリードリッヒ・パウルス(1890−1957年) ドイツの軍人。1943年、スターリングラード戦を指揮
して敗れ、ソ連軍の捕虜になった。以後、転向してナチスを批判。戦後、東ドイツに帰ってからは
西ドイツの政策などを批判した。
▽ウイルヘルム・カナリス(1887−1945年) ナチスの情報活動の最高指導者。国防省防衛局長
外国防衛局長を経て、1940年に海軍大将になるが、44年7月のヒトラー暗殺計画に連座し、処
刑された。
▽バクー油田 アゼルバイジャン東部の大油田地帯。バクー市近郊とカスピ海海底で採油され
ている。1870年代に採油が開始されると、バクー市は大工業都市に発展。1901年には全世界の
産油量の過半を占め、石油の都として知られた。バクーはペルシア語で「風の町」。
|
|★★荒らしは放置が一番キライ!★★
|
|●重複スレには誘導リンクを貼って放置!
| ウザイと思ったらそのまま放置!
|
|▲放置された荒らしは煽りや自作自演であなたのレスを誘います!
| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け!
|
|■反撃は荒らしの滋養にして栄養であり最も喜ぶことです
| アラシにエサを与えないで下さい
|
|☆枯死するまで孤独に暴れさせておいて
| ゴミが溜まったら削除が一番です
|
| 。
. Λ Λ /
(,,゚Д゚)⊃ ジュウヨウ!
〜/U /
. U U  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄.
196 :
前田徹:02/04/03 07:25 ID:7louwoJH
わが社の株もよろしく
197 :
前田徹:02/04/03 09:34 ID:ke4FrS2q
■ 暴走する大衆 総戦力へ−7
「戦いで鍛えられた民族が勝利する」
ドイツによるロシア征服のシナリオは1924年四4月1日に始まった。その日、ミュンヘン郊外の
ランツベルク刑務所で、このシナリオの監督となる男が日記を書き始めた。「我が闘争」と名づけ
られたこの日記の中で、彼は2つの予言めいた声明を出している。ドイツがロシアと同盟関係を
結べば、いずれドイツの破滅を招くことになる。そしてドイツがその生存権を広げようとするなら
ば、ロシアへの進撃によってのみ道が開ける。
《東方征服へ》 連合国軍のノルマンディー上陸作戦に参加した元アメリカ軍情報将校でもあり
スターリングラード攻防戦の研究でも知られる軍史家のロナルド・マッカーサー・ハーストは、そ
の膨大な研究論文の冒頭で独ソ戦のそもそもの原因は「我が闘争」の中に見ることができると
書いている。
ナチスのバイブルといわれるアドルフ・ヒトラーの「我が闘争」はドイツ、オーストリアで1943年
までに1千万部以上が出版される超ベストセラーとなったが、ハーストはその中の東方征服計画
に注目するのだった。
産業革命をきっかけにして19世紀から始まる地球規模の驚異的な人口増加への不安は、とり
わけドイツや日本など“持たざる国”で強かった。これらの国は人口増加のはけ口を主に移民を
送り出すことに頼ってきたのだが、20世紀は労働者の権利意識の向上とともに移民規制が始
まった時代でもあった。
その意味で、前世紀を通じて経済移民に最も寛容だったイギリスで1905年、世界で最初の移
民規制法案が通過したのは象徴的だ。その傾向は、労働市場にまだ余裕のあるアメリカでさえ
日本人移民を標的としたアジア人労働者規制へと傾いていくことで決定的となる。イギリスの歴
史家、E・H・カーはそうした事象を踏まえ、今世紀を大衆民主主義の登場による「経済ナショナ
リズムの時代」と位置づけた。
こうした時代背景の中でヒトラーが唱えた東方征服は、日本の中国大陸進出と同様、アメリカや
植民地大国であるイギリスなど“持てる国”による世界秩序に対する挑戦状として性格づけられ
るだろう。そして、ヒトラーの計画は、民族のダーウィニズム(進化論)という思想に基づいていた
点に特徴があった。
ヒトラーは「我が闘争」のなかで、年間80万人にものぼるドイツの人口増加に対応するためには
海外の植民地や西欧への進出に手段を求めるのではなく、自然の厳しい東方(ロシア)への進出
をはからなければならないとしている。それは「闘争に勝ち残ってこそ民族の優秀さが証明され
る」という競争原理にも従うもので、「戦いの中で鍛えられた民族が最後に勝利する」という確信
に裏打ちされていた。
199 :
卵の名無しさん:02/04/03 21:05 ID:ZOSOe8yD
特許侵害で製薬5社訴え
ハンガリーの製薬会社ゲデオン・リヒターは二日、沢井製薬(大阪市)など日本の製薬五社が抗かいよう薬の原薬の特許を侵害しているとして東京、大阪両地裁に提訴したと発表した。
ゲデオン社は、この原薬の特許を世界各地で取得。日本では山之内製薬に独占的実施権を与え、山之内は原薬を基に抗かいよう薬「ガスター」を製造して国内外で売り出し、主力製品に成長させた。
しかし昨年八月にガスターの国内特許が切れたため、同じ成分を使った後発品を製造、販売しようと中堅の製薬各社が計画。ゲデオン社は「山之内の独占権がある以上、ほかの社は販売できない」と、警告していた。
[共同通信]
200 :
卵の名無しさん:02/04/03 22:58 ID:vjLDMJ9W
ガスターなんてゾロが20社ぐらい出るから旨味は全然ない
10月ごろには2円ぐらいで売るゾロも出てくるはずだ
201 :
現役:02/04/03 23:19 ID:3GBWbd/r
頼むからさ〜、何回も資料の訂正をメールで送ってくるのやめてくれないかな〜!!!
本社には校正するシステムがないの?
んでもって、俺達が間違えた報告をすると
めちゃくちゃ怒ってくるくせにさ〜!
説得力がないんだよ〜!!!
この1ヶ月でいくつ訂正された資料があると思ってるの?
え〜っと・・・俺も分からん!!
いいかげんにしろ〜!
もう振り回されるのはたくさんだ〜!
一度外部に出した資料を回収するのは困難なんだから
少しは考えてくれよ!!マジで!!!
こんなんだから皆辞めていくんだよ〜!!!!
辞めていく奴に問題があるんじゃなくて
会社に問題があることを忘れるな!!!
俺以外でもそう感じてる奴が山ほどいるはず!!
悔しかったら反論してみろ!!
202 :
前田徹 :02/04/03 23:54 ID:B4VPS/y9
ハーストは戦後、ドイツに在住し、ソ連軍研究の重要な資料になるスターリングラード攻防戦研
究のため膨大な数の関係者への手紙調査を実施している。また、アメリカ軍情報将校だった立
場からドイツ軍資料を直接目にする機会も多かった。そうした調査の蓄積の結果、出来上がった
2700ページに及ぶ研究成果は、ヒトラーが最初から東方征服を実現するために第二次大戦に
突入したことを綿密に裏付けている。
それによると、ドイツ軍は1940年8月、ポーランド占領地において、対ソ連侵攻のための前線
基地準備計画「アウフバオ・オスト(東方建設)」を完了していた。6月にパリ入城を果たし、ロンド
ン爆撃を開始したばかりの時だ。そして、40年9月15日、ドイツ参謀本部はソ連侵攻計画「オス
ト(東)」を発動させ、41年2月にはフランス占領地で歩兵部隊を使う侵攻演習を実施していた。
《4国の連合》 これに対して、日本はソ連との友好を前提にして1940年9月27日、ドイツ、イ
タリアとの3国同盟締結に踏み切った。日中戦争の長期化とともに、アメリカとの対立を深めて
いた日本の指導部は、イギリスとアメリカへの対抗策としてソ連を含めた4国連合構想に望みを
託していたのだ。
当時の最高責任者である近衛文麿首相の手記「第二次及び第三次近衛内閣における日米交渉
の経過」には、四国連合構想こそが3国同盟の基礎だったことが明記されている。
「カカル形勢トナリシ以上ハ、之ガ打開策ハ日本トシテハ独伊蘇(ソ連)ト結ブコトニヨリテアメリカ
ヲ反省セシムル外ニナイ。独伊ダケデハ足リナイ。ソ連ガ之ニ加ワルコトニヨリテ初メテ米英ニ
対抗スル勢力均衡ガ成リ立ツノデアツテ、此勢力ノ均衡ノ基礎トシテ初メテ日米の了解モ可能ト
ナルデアラウ」
4国連合を3国同盟締結の前提とするのは、近衛文麿首相だけでなく、ドイツとの同盟に最後ま
で反対だった日本海軍の考え方でもあった。日独外交史を研究する名古屋市立大学元教授、義
井博は当時の海軍次官、豊田貞次郎の回想を引用しながら、4国連合構想を前提に3国同盟を
承認するに至った海軍の立場を論文「三国同盟とドイツ第三帝国指導部の内情」で詳述し、3国
同盟締結は日本外交の失策だったと断定している。
こうした日本側の4国連合構想をヒトラーはもちろん承知していた。1940年10月13日、ドイツ
のリッベントロップ外相はソ連のヨシフ・スターリンにあてて、3国同盟への参加を説く文書を送
り、4国連合構想実現のための独ソ秘密会談がベルリンで開かれた。ロシア大統領府公文書保
管所には、当時、ドイツがソ連に申し入れた四国同盟についての交渉のいきさつを記した秘密
公文書がすべて残されている。
それによると、1940年11月12日にベルリンに到着したソ連のモロトフ外相は13日までにヒト
ラー、リッベントロップの2人とそれぞれ2度ずつ会談している。1回の会談が3時間から4時間
に及んだ2日間の会談の内容は、ドイツ側の一方的ともいえるソ連への三国同盟参加要請なの
だが、これに対し具体的な領土報酬に固執するモロトフは最後まで言質を与えなかった。
203 :
前田徹:02/04/03 23:56 ID:B4VPS/y9
ヘンリー・キッシンジャーは著書「外交」の中で、ソ連が同盟に加わることを確約しなかった理由
について、「スターリンがドイツとイギリスを天秤に掛け、値の高い方につこうとしていた」と推測
しているが、同時にヒトラーの方もこの会談の時点では、ソ連侵攻を決意しており、実は「賽(さ
い)はすでに投げられていた」と断じている。
ハーストによれば、秘密会談の終了から約1カ月後の12月18日、ヒトラーはソ連侵攻作戦「バ
ルバロッサ」を各軍団に最終指示している。
豆事典
▽「我が闘争」 ヒトラーの代表的著作。ヒトラーは1923年にミュンヘン一揆に失敗し、バイエル
ン州のランツベルク刑務所で禁固5年の刑に服して9カ月で保釈となった。この服役期間中に口
述による執筆を開始。自叙伝が中心の上巻は25年、ナチスの歴史がつづられた下巻は26年に
刊行。内容は政治、戦争、宗教、教育、芸術など幅広い分野にわたり、特に民族論では人類を
文化創造、支持、破壊民族の3種に分け、創造民族であるアーリア人種の優越性を説いた。日
本人は文化支持の民族(つまり創造はできない)と位置づけられている。
▽ノルマンディー上陸作戦 1944年6月6日、米英連合軍が北フランスのノルマンディー海岸で
行った上陸作戦。午前6時半、2万3000機の航空機の援護のもと、上陸用舟艇など約4400隻の
艦船が70キロにわたる海岸の5カ所で上陸作戦を開始、その日のうちに8万7000人の兵と7000
両の車両の揚陸に成功した。
▽スターリングラード攻防戦 独ソ戦の重大な分岐点となった戦い。電撃作戦によるモスクワ占
領に失敗したヒトラーはバクー油田のある南方に矛先を転じ、1942年7月、ボルガ川畔の交通の
要衝スターリングラードへの攻撃を指令。ドイツ軍は当初、町の3分の2を占領したが、ソ連側が
反撃に転じた11月には逆に包囲された。43年2月にドイツ軍が降伏し、9万1000人の将兵が捕
虜となった。
▽ヨアヒム・リッベントロップ(1893−1946年) ナチス・ドイツの政治家。もとシャンパンの代理商
で、1932年のナチス入党後は豊富な外国体験と語学力によって頭角をあらわし、ヒトラーの側近
になった。38年の外相就任後は独ソ不可侵条約(39年)、日独伊三国同盟(40年)を締結。戦後、
絞首刑となった。
▽ビャチェスラフ・モロトフ(1890−1986年) 旧ソ連の政治家。1930年から人民委員会議長(首
相)、外務人民委員(外相)を歴任。スターリンの腹心として39年に独ソ不可侵条約をまとめたほ
か、ヤルタ、ポツダム会談にも出席した。53年のスターリン死後はフルシチョフ路線を修正主義
と批判、56年に外相を解任された後、駐モンゴル大使に左遷された。
204 :
現役:02/04/04 00:17 ID:grFWmUAl
荒らしはいいから
早く答えろよ〜!
205 :
前田徹:02/04/04 00:42 ID:AKdWfbT/
>荒らしはいいから
>早く答えろよ〜!
会社のことは会社で聞け、馬鹿者が、、、
206 :
前田徹:02/04/04 00:46 ID:x2im1ev4
暴走する大衆 総戦力へ(8)
若き独裁者はウィーンですれ違った
ヨシフ・スターリンは、1913年、オーストリア・ハンガリー帝国の帝都ウィーン14区にある皇帝
宮殿近くの小さな簡易ホテルに居を定めていた。帝政下のロシアで地下活動を続け、逮捕と流
刑を重ねてきた革命家は、すでに「鉄の男(スターリン)」の異名を持っていた。そして流刑地を脱
走したばかりのスターリンはこのホテルで彼にとって唯一といえる論文「マルクス主義と民族問
題」を書き上げている。
《ひとつの宿に》 そして同じ年、まさにそのホテルにもう1人の革命家、アドルフ・ヒトラーが投
宿していた事を記す宿帳がロシアの研究者により発見されている。第一次大戦前夜のウィーン
は時代の不安を漂わせていたとはいえ、十九世紀以来続いてきた欧州の「協調と秩序」はまだ
揺るぎないように思えたころのことだ。
スターリン34歳、ヒトラーは十歳下の24歳、2人が果たしてホテルの廊下などで顔を合わせた
のかどうか、今となっては知る由もない。
イギリスの歴史家、E・H・カーが著書「新しい社会」などで書いたように、時代は「個人主義から
大衆民主主義」へと移り変わる過渡期にあった。善かれ悪しかれそうした大衆の希望や欲望を
代表していた二人の独裁者は、実に革命的だった。米元国務長官のヘンリー・キッシンジャーは
著書「外交」のなかで、二人についてこう書いている。
「スターリンは共産主義化した世界をクレムリンから操作する日を待ち望んでいた。ヒトラーは主
人たるドイツ人に支配される人種的に純潔な帝国という彼の常軌を逸したビジョンの輪郭を描い
ていた。この二つ以上に革命的なビジョンはほとんど想像し得ない」
こうして想像を絶するビジョンを抱いた二人の革命家は、ほぼ三十年を経て人類の歴史で最も
巨大な地上戦といわれる独ソ戦で対峙(たいじ)したのである。現実外交(レアル・ポリティーク)に
精通したキッシンジャーは、その独ソ戦に至るまで二人が繰り広げた駆け引きについて「手段を
選ばない国益追求だった」と評価している。
1939年8月の独ソ不可侵条約によってポーランド分割を行ったヒトラーとスターリンは、すでに
その時から武力衝突が避けられないことを確信していた。スターリン関連の秘密資料に接するこ
とのできた数少ない作家、エドワード・ラジンスキーの「赤いツァーリ」によると、スターリンはヒト
ラーの「我が闘争」を熟読した後、2カ所かなり長い部分に鉛筆でアンダーラインを引いていた。
スターリンは早い段階でヒトラーのソ連侵攻を予測しており、「問題はただ一つ、それ(侵攻)がい
つか、ということだけだ」とラジンスキーは書いている。
独ソ不可侵条約の存在、さらに英軍と戦いながらソ連を侵攻するという二正面作戦の不利を考
えた場合、常識的にはドイツの侵攻は考えづらかった。ドイツをどう打ち破るかに四苦八苦して
いたイギリスだけでなく、ソ連を含む四国同盟の成立を望んでいた日本にも、ドイツ軍のソ連侵
攻は寝耳に水のニュースだった。
207 :
前田徹:02/04/04 00:52 ID:l57JSXci
しかし、総計320万人もの将兵が動員された史上最大規模の作戦の準備が全く気づかれない
でいるはずはない。第二次大戦勃発直後から着々と進められた侵攻準備については、数多くの
資料や証言が裏づけている。
1990年に公開されたソ連国家保安委員会(KGB)資料によると、赤軍(ソ連軍)情報部員は19
40年7月の段階で、ドイツのポーランド占領地で大規模な戦時用道路建設が行われていると報
告している。さらに、ドイツ歩兵部隊の国境周辺での集結も同時期に報告されている。
赤軍が報告した動員歩兵部隊のなかには、ゲアハルト・デンクラーもいた。デンクラーはバルバ
ロッサ作戦に初期から加わり、モスクワでのドイツ軍敗退やスターリングラード攻防戦を体験し
た東部戦線生え抜きの帰還兵である。
《確実な記録》 「フランス進撃が落ち着いた一九四〇年夏にポーランドへの移動を命じられた。
軍馬輸送部隊を編成し、大量の大砲を運んだ。最初は、国境警備と聞いていたが、東プロイセ
ンでその冬、大がかりな機甲師団が編成されているのを見て驚いたのを覚えている。実はその
とき初めてソ連侵攻の可能性について考えた」
デンクラーのような前線兵士でさえ見破った侵攻作戦の準備について、スターリンが気づかない
はずはなかった。大戦時のソ連外相、モロトフの友人で作家のフェリスク・チェーホフが、モロトフ
の死を待って発表した回想録「モロトフとの百四十回の会話」によると、スターリンのもとには、ヒ
トラーが侵攻してくることを示す確実な十四件ものデータが寄せられていた。
しかし、スターリンはヒトラーとの戦争にまだ自信が持てなかった。彼は新型戦車の開発を急い
でおり「1943年ごろにはドイツと互角に戦える軍備を誇れるだろう」とモロトフに話した、軍備が
整うまで対立を引き延ばす戦略を選んだのだ。
当時、参謀長だった赤軍元帥のゲオルギー・ジューコフは、バルバロッサ作戦が開始される1週
間ほど前の1941年6月13日、スターリンに突然呼び出された。その時の様子を、歴史家のレ
フ・ベジメンスキーは後にジューコフから直接、聞いている。
ジューコフが執務室に入ると、例によって重々しい表情のスターリンが束になったヒトラーとの往
復書簡をおもむろに差し出した。9日から13日に集中的に交されたという書簡の中で、スターリ
ンはドイツ軍集結の理由を問いただし、ヒトラーはひたすら二国間の平和の重要性を強調して
「何らかの誤解である」と説明していた。
それから数日間、ソ連国営タス通信は「平和主義の必要性」を執拗に流している。ジューコフは
その放送メッセージがヒトラー書簡の趣旨と全く同じだったことに気づいた。
ベジメンスキーに対し、ジューコフはこう証言している、「スターリンは攻撃をやめさせようと必死
だった。あのタス通信は、不戦の決意を示すためのものだ。攻撃の糸口を与えないため、国境
周辺の赤軍を撤退させ、警戒を解くよう指示したほどだった」
208 :
前田徹:02/04/04 00:53 ID:l57JSXci
■豆事典
▽ヨシフ・スターリン(1879−1953年) ソ連共産党書記長。グルジアの靴職人の家に生まれ、神
学校在学中にマルクス主義に傾倒した。神学校を中退後、職業的革命家として地下活動に従事
するようになり、逮捕、流刑、脱走を繰り返した。1912年に党中央委員に任命され、翌年の論文
「マルクス主義と民族問題」でレーニンに認められた。17年のロシア10月革命の時点では当時の
「革命の英雄たち」の影に隠れて目立たない存在だったが、レーニンの忠実な部下として事務的
な仕事を着実にこなし、権力を蓄えていった。22年に党書記長。24年のレーニンの死後は一国
社会主義論を唱えてトロツキーやブハーリンなど反対派幹部を次々と追放し、社会主義建設、
農業集団化などを推し進めた。34年から党員、軍人、官僚などの大粛清を始め、41年に人民委
員会議長(首相)に就任した。
▽レアル・ポリティーク 国際政治の場で個人的な理念や思想にとらわれることなく、国益追求
のために現実的に対処することを基本とした政治姿勢。19世紀後半、ドイツの鉄血宰相ビスマ
ルクの進める冷厳な現実主義政治は、すでにレアル・ポリティークと称されていた。19世紀のフ
ランスの哲学者コントの実証主義哲学が、レアル・ポリティークの形成に多大な影響を与えたと
される。
▽東プロイセン 1871年以降、ドイツ帝国の中核をなしたプロイセン王国のバルト海沿岸部の
うち、ワイクセル川の東側の地域。第1次大戦のドイツの敗北の結果、ポーランドの再建独立が
認められたため、東プロイセン地域はポーランド回廊によってドイツ本土と分断され、ドイツ領な
がら飛び地となった。
▽タス通信 旧ソ連の国営通信社。「タス」はソ連電報通信社の略。帝政ロシアの通信社ベス
トニクがロシア革命後の1918年、ロスタ(ロシア通信社の略)に生まれ変わり、25年にタスに改称
された。現在はロシア国営のイタル・タス通信となっている。
209 :
前田徹:02/04/04 01:04 ID:svF+hRSV
俺が荒らすからもっとどんどんゾロをバカにするスレッドを立ち上げてくれ
210 :
前田徹:02/04/04 01:06 ID:svF+hRSV
こらぁ! ぼんぼん社長聞いとるかぁ!
211 :
前田徹:02/04/04 01:16 ID:g2hnUHGQ
会社で吠えろ、小心者め、
↑
書き込みの時間から一人芝居くさい
213 :
卵の名無しさん:02/04/04 12:39 ID:rDsfRqMy
214 :
前田徹:02/04/04 14:16 ID:1Hp3YJRN
暴走する大衆 総力戦へ−9
報戦が勝敗を分けた
モスクワの中心街を少しはずれ、もう少し行けば散策地で有名な銀の森へと続くハロシェフスコ
エ通りの小さな広場にリヒャルト・ゾルゲの像があった。巨大な壁から抜け出たようなデザイン
が、3月末の北の大地の雪景色に実に似合っていた。モスクワでの生活がすでに3年以上にな
るモスクワ支局員でさえ偶然に知ったというこのゾルゲ像に関心を持つ人は、ロシア人でもそう
多くはないのかもしれない。
《スパイの網》 1964年に失脚直前のソ連共産党第1書記ニキタ・フルシチョフがたまたま独ソ
戦に関連したゾルゲの活躍を知り、「ソ連英雄」の授与を決めるまで、ゾルゲは、むしろタブーの
ような存在だった。ソ連赤軍第四本部(情報局)に所属していたゾルゲは完璧に近いスパイ網を
日本に構築し、ドイツのソ連侵攻計画をいち早く伝えたことで知られるが、スターリンはゾルゲに
対し早くからダブルスパイの疑いを抱いていたという。
スターリンの疑念の深さはゾルゲが1944年に日本で処刑されたあと、ロシアに残る妻と12歳
の長男を強制収容所に送ったうえ、処刑していることにもうかがえる。長男については、当時の
国内法では年齢が低すぎ、処刑の対象にはならないことが分かると、法改正まで行う執念深さ
だった。
ゾルゲは1895年、帝政ロシア時代のバクー油田開発に従事していたドイツ人技師とロシア人
妻の間に生まれた。厳格でドイツ国家主義的な考え方の強い父親に反発し、ドイツ社会民主党
の著名な活動家で、マルクスやエンゲルスとも同僚のような間柄だった祖父へのあこがれを子
供のころから強く抱いていた。そして母の国ロシアで起きた革命に感激し、1919年にベルリン
大学哲学科を卒業すると直ちにドイツ共産党に入党している。
ゾルゲは死ぬまでドイツ国籍を保持していたが、自分自身をドイツ人だと考えたことはなかった
ようだ。ドイツ共産党の命令で1924年、モスクワに移り、その翌25年にはコミンテルン(第三イ
ンターナショナル)国際部(情報局)に配属されている。ドイツについては国際共産主義運動の敵
とみなしていた。
優秀なスパイは金銭や脅迫を動機にするのでなく、信念に基づいて行動する。ゾルゲはその理
想的なケースだろう。赤軍第4本部が29年にゾルゲをコミンテルンから引き抜いた理由は、彼
がドイツ知識人階級に属し、より高度な情報に接する機会が期待できたことと、スパイに必要な
非情さを持っていたことだったといわれている。
ゾルゲはドイツ人ジャーナリストの肩書で中国・上海市に派遣された機会をとらえ、将来の情報
網づくりを冷静に計算して朝日新聞上海特派員だった尾崎秀実に近づいている。モスクワに残
された旧赤軍関係の記録によると、ゾルゲは1級のスパイであることを証明するかのように実に
魅力ある人物だった。長身でエキゾチックな容貌に加え、東洋文化に造詣(ぞうけい)の深いその
話術は尾崎のみならずナチスドイツの宣伝相、ヨーゼフ・ゲッベルスをも魅了した。
215 :
前田徹:02/04/04 14:17 ID:1Hp3YJRN
1933年1月、ヒトラー政権成立と同時に偽装ナチ党員となったゾルゲは、9月にはフランクフル
ター・ツァイトング紙東京特派員の職を得ることに成功し、その盛大な送別会にはゲッベルスの
姿もあった。
こうしてゾルゲは東京に尾崎ら14人のスパイ網を作り上げるのだが、ゾルゲ情報がよく言われ
るように正確だったにしても、独ソ戦の行方にどれほど影響を与えたかということになると、必ず
しも明確ではない。ロシア国防省中央公文書保管所に残されているラムザイ情報(ラムザイはゾ
ルゲのコードネーム)は具体的には次のようなものだ。
1941年5月2日電文 「オットー(駐日ドイツ)大使によれば、ヒトラーがソ連を攻撃してソ連の
欧州部分を手に入れる決意をした。ドイツの将軍たちは2、3週間で制圧できると見積もってい
る。ヒトラーは5月中に決断するだろう」
同5月19日電文 「日本を訪問中のドイツ軍事代表によれば、ロシアの種まきシーズン(5月中
旬)にドイツ軍は攻撃を開始する。ロシア戦線には150個師団が投入されるだろう」
同5月30日電文 「オットー大使はソ連攻撃は六月の後半との連絡をベルリンから受けた」
同6月20日電文 「オットー大使は近く始まる攻撃で、ロシア軍はポーランド軍よりも弱いだろう
と豪語した」
攻撃時期に焦点を絞ったこれらの情報は正確だった。当初、ゾルゲはドイツ軍の5月中旬攻撃
開始を連絡しているが、ヒトラーが当時、5月15日開始を命じていたことはヒトラーとナチ党官
房長、マルチン・ボルマンとの会話から明らかになっている。ヒトラーは攻撃を延期した理由とし
てイタリア軍のギリシャ攻撃失敗にともなうバルカン半島へのドイツ軍派遣をあげている。
《時間を稼ぐ》 スターリンは赤軍を通じてゾルゲ情報を手にしていた。「モロトフとの140回の
会話」(フェリスク・チェーホフ著)によれば、スターリンはヒトラーの侵攻意図を示す14もの確実
なデータを手にしていたという。ゾルゲ情報もその一つだったのだろう。
だが、スターリンはソ連の戦争準備が整うまで時間稼ぎすることを決意していた。攻撃時期を知
ることよりも、戦略を組み立てるためにヒトラーとドイツ軍の欠陥を知ることの方が、この時のス
ターリンにとっては重要だったのだ。
スターリンの死後、粛清された内務人民委員部(KGBの前身)委員のベリヤ、彼の腹心だったパ
ベル・スプラードフによると、国際共産主義運動に共感してソ連側スパイになったドイツ経済省中
級事務官のアルビト・ハルナックは、ドイツ軍が破竹の勢いでモスクワを目指していた41年秋の
段階で、「石油とガソリンが10月から11月にかけて不足し、弾薬も不足気味なので、ドイツ軍は
これ以上、積極的な攻撃を続けることはできない」との情報を流している。スターリンはこの報告
を受けてすぐさま消耗戦を指示し、勝機をつかみ取っていく。
ハルナックは四二年、ゲシュタポ(ドイツ秘密国家警察)によって摘発され、そのあとゾルゲ同様
に、射殺されている。
216 :
前田徹:02/04/04 15:09 ID:5iJUvCnk
■ 豆事典
▽ニキタ・フルシチョフ(1894−1971年) 旧ソ連の首相。ロシア革命後の1918年に赤軍(ソ連軍)
に参加し、共産党に入党。53年のスターリンの死後、中央委員会第一書記となり、56年にスター
リン批判を展開した。58年に首相を兼務。対米関係の改善を図り平和共存外交を推進したが、
50年代末から中ソ対立を招いたほか、62年のキューバ危機をめぐって東西関係が緊張するな
ど、外交政策は行き詰まった。64年に失脚。
▽尾崎秀実(1901−44年) ジャーナリスト、中国問題評論家。1926年、東京朝日新聞社入社。28
年から32年までの上海支局在勤中にドイツ人ジャーナリストのゾルゲと知り合う。38年に退社、
第1次近衛内閣の嘱託となった。国家政策の高度な情報をゾルゲに提供し続けたとの疑いを受
け、41年10月に検挙された。
▽オイゲン・オットー(1889−1976年) ナチス・ドイツの軍人、外交官。第1次大戦に従軍した後、
ドイツ国防軍参謀本部などを経て、1934年に駐日ドイツ大使館の陸軍武官。38年から駐日特命
全権大使となり、日独伊三国同盟の締結交渉にあたった。41年のゾルゲ事件発覚後、大使を解
任された。
▽イタリア軍のギリシャ攻撃 1940年10月28日、イタリアのムソリーニはドイツの電撃作戦の成
功に触発され、バドリオ参謀総長らの反対を押し切って、ギリシャ侵攻を開始。ギリシャ側は国
際連盟に提訴するとともにイギリスに救援を要請し、イギリス軍は翌29日、クレタ島に上陸した。
一方のイタリア軍はギリシャ北部の防衛線を破れず、ドイツ軍の支援を仰ぐことになる。
▽ゲシュタポ ナチス・ドイツの秘密国家警察。1933年、ヒトラー政権成立後にプロイセン州で創
設され、その後全国的に組織化が進んだ。34年に親衛隊長のヒムラーがゲシュタポ長官に就
任すると、共産党や社会民主党、ユダヤ人、反ナチの知識人などに、テロや拷問などの弾圧を
加えるようになった。
217 :
前田徹:02/04/04 15:22 ID:2sbb1x4m
ただいま289KB
218 :
前田徹:02/04/04 20:16 ID:tPsztjnW
暴走する大衆 スターリングラード攻防戦−1
「配給はパンくず50グラム…」
ドイツ公共第一放送「ARD」が97年2月2日、75分の長編ドキュメント「スターリングラードとパ
ウルス将軍」を放映したところ、25%という高視聴率をマークした。スターリングラード攻防戦の
生存者ら16人のインタビューを中心にした地味な構成で、しかも午後11時半からという深夜帯
の放映にもかかわらずである。
公共第二放送「ZDF」も同じころ、ノンフィクションのシリーズ番組「ヒトラーとその側近たち」をス
タートさせ、こちらも静かなブームを呼んでいた。
ヒトラーの時代に生きた世代にとって、あの戦争の記憶には群衆の熱狂や憎悪、そして虐殺と
いう生々しいシーンがどうしてもつきまとうから、それは触れられたくない過去である。しかし、そ
うした記憶や戦後の後ろめたさから解放されている若い世代は、自らの時代に直結するその過
去を真っ正面からとらえようとしている。
「スターリングラードとパウルス将軍」を製作・監督したのは、旧東ドイツ出身で、まだ33歳のヘ
ンリー・ケーラーだった。スターリングラード攻防戦のドイツ側司令官、フリードリッヒ・パウルス
元帥の没後40周年を記念するドキュメント企画を考えついたのも彼自身である。ジーンズに黒
いジャケット姿のケーラーは、この企画に取り組んだ理由を次のように話した。
《赤軍の包囲》 「まず20万人以上のドイツ兵が凍てつく戦場で、戦略的な意味もなく、死んだ
こと。あの当時、世界のトップレベルと言われたドイツ陸軍でも最も優秀な指揮官だったパウル
スが、赤軍に包囲され、武器も食料も全くない状態でも降伏しようとしなかったのはどうしてなの
か?ヒトラーの命令に忠実だったためと言うが、それは本当なのか?」
ケーラーは触れなかったが、彼には知りたかったことがもう一つあった。それは、ヒトラーに最も
忠実だったはずのパウルスら第六軍の将兵たちがスターリングラードで敗れた後、どのようにし
てナチスドイツの反共の戦士から国際共産主義の戦士へと“転向”していったのかということだ。
スターリングラードでの大敗は、ドイツにとって軍事的な敗戦を決定づけただけでなく、戦後、東
ドイツが建設され、分断ドイツへと至る礎になったという面からも、非常に重大な意味を持ってい
るのだが、旧東ドイツ出身のケーラーがそれを強く意識していたことは間違いないだろう。
1943年1月31日午後、スターリングラード市内のデパート地下室を作戦本部としていたパウ
ルスとその幕僚たちが降伏したことで、4カ月に及んだ攻防戦は幕を閉じた。
軍事史関係の資料によると、スターリングラード占領を目指した第6軍は4個軍団で編成されて
いたが、このほかにスターリングラード南方にいた戦車軍団も包囲網に取り込まれてしまったた
め、5個軍団、総兵力にして20万人以上、軍属や支援部隊を含めると25万人前後のドイツ兵
が赤軍に完全包囲されていたという。
219 :
前田徹:02/04/04 21:56 ID:aN6DJ0J6
>201
文句をいうな。
中身より文章が下手すぎる。
220 :
SW:02/04/04 22:05 ID:ve4QA6Go
こんな中身のない会社にいれば
文句も言いたくなるわな〜!
221 :
前田徹?:02/04/04 23:56 ID:E+mSXxJ2
しかし沢井のスレッドと荒らしの追っかけっこは
もういいかげんにならんか。
もはや相手にする値なし。
沢井製薬の方が荒らしておられますか?
223 :
前田徹:02/04/05 08:18 ID:wGcCGLlO
こんなインチキ捏○会社のスレッドをもうこれ以上続ける必要なし
*********** 終了 *************
224 :
卵の名無しさん:02/04/05 18:35 ID:O6cuLuFe
age
225 :
卵の名無しさん:02/04/05 19:02 ID:UFfvLKfg
>>223 sageになってるで
自作自演の社員がぐたぐた言うな
前田徹はあの耐用誹謗中傷の●阪新聞を日本中にばら撒いた某社社長の可能性大
227 :
前田徹:02/04/05 23:51 ID:gZczp2/B
この攻防戦がいかに混乱していたかは、赤軍当局でさえ、それほど大規模のドイツ軍を包囲し
ているとは思っていなかったという記録が残っていることからもうかがえる。
そうした混乱の中で、ほぼ間違いないと思われるのは、この攻防戦でドイツ兵10万人以上が戦
死し、9万1千人が捕虜となったこと。さらに、その捕虜たちも収容所で飢えや病気に倒れ、ロシ
ア内務省の調べではわずか3カ月で計6万5千人が死亡、最終的に帰還して祖国の土を踏むこ
とができたのは1万人たらずという悲惨な運命をたどったことだ。
《絶望的戦闘》 第6軍が降伏する3日前の1月28日、最前線の塹壕で、突撃してきた赤軍兵
士に投降したベルンハルト・ベッヒラー、彼はその時、スターリングラード北部戦線を守備する歩
兵大隊を指揮していたが、その絶望的な戦闘の様子を次のように証言している。
「最初は良かった。ボロネジでもカラチでも敵を粉砕し、一路スターリングラードを目指した。とこ
ろが、スターリングラードを包囲した秋頃から様子が一変した。進軍は停滞し、食料も武器も燃
料も急速に制限されるようになり、市内の赤軍の抵抗も日に日に強まっていった。12月中旬の
深夜だったが、すさまじい戦車の轟音を聞いた。おびただしい数のソ連軍の大型戦車が我々の
目の前を次々と通り過ぎていくではないか。われわれはこうして逆に包囲され、後は塹壕で敵を
待ちかまえるしかなかった」
ステップ独特の強い風は刺すような痛さを伴って塹壕の兵士を襲う。ドイツ人捕虜に対する通訳
官として赤軍少尉の肩書でこの包囲戦に加わったレフ・ベジメンスキーは、今も赤く充血した両
頬を見せながら「あの時スターリングラードにいた者は皆、このリンゴの頬になった。言ってみれ
ば後遺症だ」と説明したことがある。
《悲劇の共有》 暖を取る設備も、燃料もなかったドイツ側の塹壕の寒さは想像を絶した。ベッヒ
ラーは「配給がパンくず五十グラムという飢餓状態なのに、雪に埋もれながら髪をかきむしると
手がシラミだらけになるのが、不思議でたまらなかった」と話している。
この絶望的な状況にもかかわらず、大半のドイツ兵は最後まで抵抗を試み、弾薬がなくなると自
決した将校も多かった。ベッヒラーの副官だった若い少尉は赤軍の突撃を支えきれないと報告し
た後、妻と幼い子供の写真を破り捨て、頭をピストルで撃ち抜いている。
ケーラーが撮ったスターリングラード戦のドキュメントが、戦争から半世紀を経た今も、ドイツ人の心を捕まえて離さないのは、こうしたおびただしい数の悲惨が背景にあるからだ。そしてナチ
ス・ドイツの宣伝相、ヨーゼフ・ゲッベルスはこの悲劇を隠すどころか、包囲、せん滅されていく様
子を逐一、放送させたのである。
それによって生じた国民あげての悲劇の共有感と敵への憎悪は、その後のドイツ全体の自殺的
な戦いぶりにつながっていく。パウルスが降伏した日、ドイツ全土にベートーベンの「運命」が流
された。スターリングラードの第6軍の悲劇を報じるゲッベルスはこの時、全国民に向けて特別
演説を行い、女子供をも動員する総力戦を訴えた。ドイツ大衆はそれに歓呼で応じるのだった。
228 :
前田徹:02/04/05 23:52 ID:gZczp2/B
豆事典
▽スターリングラード ボルガ川の下流、右岸に位置する工業都市。人口約100万。1925年まで
はツァリーツィン(皇后の都市の意)という名前だったが、ソ連指導者スターリンにちなんで改称さ
れた。現在はボルゴグラード(ボルガ川の都市)と呼ばれている。19世紀後半からバクー油田の
石油輸送基地として栄えたが、スターリングラード攻防戦で全市が廃虚と化し、ソ連側の記録で
は44万人いた人口が1515人にまで減った。
▽分断ドイツ 1945年5月のドイツの無条件降伏後、米英仏ソはドイツを分割占領し、首都ベル
リンを4カ国の共同管理下に置いた。その後、米英仏とソ連の対立が表面化し、48年6月には西
側地区で実施された通貨改革にソ連が反発して西ベルリンへの旅客・貨物の交通を約1年間遮
断するベルリン封鎖を行った。これで東西分裂が決定的となり、49年5月、米英仏が3国の占領
地を合わせてドイツ連邦共和国(西ドイツ)を誕生させると、ソ連占領地区では10月にドイツ民主
共和国(東ドイツ)が成立した。以後、90年のドイツ統一まで分断ドイツの時代は続いた。
▽ボロネジ、カラチ ボロネジはモスクワの南東約460キロにある人口約90万の都市。ボロネジ
州の州都。16世紀に南方地域に対する前線基地として建設され、艦船の建造などで栄えた。独
ソ戦では42年7月から半年以上にわたって戦場となり、市街は破壊し尽くされた。戦後復興し、
ラジオ、テレビなどの製造業で知られる。カラチはドン川沿いの町で、スターリングラード(ボルゴ
グラード)の西方約70キロにある。
▽ステップ ロシア語で草原の意。一般に年降水量が1000ミリ未満で数カ月の乾期がある。川
沿いを除けば高木は見られず、低木を交える草原で放牧や遊牧が行われている。夏は気温上
昇が著しいが、冬は乾燥して寒さが厳しい。
229 :
前田徹:02/04/06 12:09 ID:Q2OyVRKK
230 :
卵の名無しさん:02/04/06 21:16 ID:thB88xTC
そんなことよりもこの安い給料をなんとかしてくれよ。
231 :
卵の名無しさん:02/04/06 21:47 ID:bj5NxqBZ
ゾロにMRがいたり、研究開発部があったりするのが不思議だと思いませんか?
232 :
前田徹?:02/04/06 23:13 ID:IIVNccF4
>>226 漏れの会社の専務曰く
「沢●の社長は他社のことを嘘八百で誹謗中傷しまくるので業界の鼻つまみ」
233 :
前田徹:02/04/07 04:31 ID:UIDhcbaX
■ 暴走する大衆 スターリングラード攻防戦−2
悲しいマドンナは静かに訴える
「スターリングラードのマドンナ(聖母)」と名づけられた鉛筆書きの一枚の絵は、異様な悲しみを
漂わせていた。ベルリンの繁華街クーダム通りにあるウィルヘルム記念教会の薄暗い一角に立
ちながらこの絵を見つめていると、内側からこみ上げてくるもので自然と目頭が熱くなった。
《不条理》 悲しいマドンナを描いたのはクルツ・レンバーという軍医だった。中部ドイツのカッセ
ルで生まれ、戦争の始まる直前に医学博士となったレンバーは、スターリングラード攻防戦の主
役となるドイツ第6軍に配属された。
絵が好きだったレンバーは行軍の途中、ウクライナの少女やロシア農夫をモデルにして、鉛筆
書きのスケッチを数多く残している。どの絵にも心温まる愛情が感じられ、レンバーの優しさが
満ちている。ウィルヘルム記念教会に残されている「マドンナ」は1942年12月25日、スターリ
ングラードに立てこもるドイツ軍が弾薬も食料もない絶望的な状況で、最後の抵抗を試みている
最中に描かれた。
肌を突き刺す疾風を避け、ざんごうにうずくまる戦友たち。レンバーはその戦友たちとともにクリ
スマスを祝うため、聖母をロシア地図の裏に描いたのだ。翌年、捕虜となったレンバーは収容所
で飢餓と衰弱に悩まされ、44年1月、37歳の短い人生を終えている。戦場からの脱出に成功し
た友人が、この絵をベルリンに持ち帰ったとき、スターリングラードで一体何が起きたのかを多く
のドイツ人は実感した。もっとも、その悲劇が戦争に内在する不条理を象徴していることに気づ
き始めるのは多分、もう少し後のことだ。
スターリングラード攻防戦研究に30年を費やした軍史研究家、ロナルド・マッカーサー・ハースト
は、ドイツ軍崩壊の理由について「戦略物資不足という基本的な欠陥があった」と断じている。
ドイツ国防軍情報局長だったウィルヘルム・カナリスが第二次大戦前に行ったソ連侵攻戦の想
定では、ドイツ軍は主に石油という戦略物資不足を補うため、3カ月以内にモスクワとバクー油
田を占拠し、作戦を終了させなければ敗戦すると結論づけていた。
ヒトラーはもちろんそのことを知っていたはずだ。第一次大戦でドイツ軍が負けた最大の原因は
消耗戦で国力がもたなかったことにある。大量の戦略物資を必要とする近代戦で、ドイツには国
力不足という大きな欠陥があることにヒトラーは気づいていた。第二次大戦初期の相次ぐ勝利
は、ドイツ機甲部隊を押し立てた「電撃戦」の戦果であり、それはあくまで短期決戦を想定した作
戦だった。
ヒトラーが1941年6月22日にソ連侵攻作戦「バルバロッサ」を開始したとき、6カ月以内の作
戦終了を至上命令にしていたことはよく知られている。ルーマニア油田を確保していたとはいえ
6カ月が作戦の限度だった。その年の12月、作戦を終了させていなければならないはずのドイ
ツ軍がモスクワを目前にして敗走したとき、史上最大の電撃戦は失敗に終わった。
234 :
前田徹:02/04/07 04:32 ID:UIDhcbaX
ヒトラーが戦争を続けるには標的を南に転じ、せめてバクー油田だけでも占拠する以外に選択
肢はなかった。ヒトラーが1942年5月に発動した作戦「ブラオ(青)」は、まさにその石油確保を
目的にしていた。作戦は軍を2手に分け、ひとつはソ連の戦略物資中継基地のあるスターリング
ラードの攻略、もう一方はその南のバクー油田の占拠を任務としていた。当時のドイツ陸軍が総
力を挙げるとしていたこの作戦のために、電撃戦の栄光に輝く機甲部隊の精鋭を含む第6軍が
編成され、司令官にはバルバロッサ立案の参謀だったフリードリッヒ・パウルスが抜てきされて
いる。
第6軍の進撃は当初、目覚ましいものだった。7月中旬にはスターリングラードまで40キロの地
点に到達した。しかし、そこで信じられないことが起きた。動こうにもガソリンがなくなり、機甲部
隊の軸である戦車もトラックも立ち往生せざるを得なくなったのである。空軍による補給で再び
進撃を開始したのは二週間も後だった。ハーストは「この二週間でスターリングラード攻防戦の
勝負はついた」と分析する。
《自滅戦》 「近代戦の場合、進行しながら攻撃する軍は当然ながら膨大な量の燃料と弾薬を必
要とする。作戦計画はそれを織り込んでたてなければならない。ヒトラーもドイツ陸軍も足りない
燃料は現地で調達することを前提にしていた。いわば自滅のような戦争を試みたとしか言いよう
がない」
ハーストが指摘している通り、パウルスの第6軍が市街戦の末にスターリングラードを占拠した
時、すでにその自滅戦の悲劇は始まっていた。スターリングラード攻防戦のそんな運命的な背
景を知れば、レンバーが雪の塹壕で描いたマドンナが訴えているものはより強く迫ってくる。
パウルスは43年1月31日に降伏、その2日後には残存部隊も投降して、レンバーらドイツ人捕
虜9万1千人は40キロ離れたカラチに向けて行進する。捕虜の1人だったベルンハルト・ベッヒ
ラーによると、それは「死の行進」だった。
「飢餓状態のまま歩いた。赤軍兵士に腕時計を奪われ、凍える雪の平原を歩いているうちその
まま倒れこむものもいた。やっと急ごしらえの収容所に着いたとき、突然、ドイツ語で話しかけら
れた。ソ連亡命中のドイツ共産党員だという通訳に会ったとき涙が出るほどうれしかった。彼らを
国家の裏切り者と憎悪してきたはずなのに、ドイツ語で大丈夫ですかと聞かれると身体から力
が抜けてしまった」
ベッヒラーはザクセン州出身の職業軍人だった。戦争前にはナチ党員になっている。そんな男が
収容所暮らしで共産党員となった。そして、東ドイツ国防軍創設に貢献し、東独国防大学教官ま
で務めている。13歳上で歩兵大将だった兄、ヘルムートとは敵味方に分かれ、戦後は妻や子供
と会うこともなかった。つまり祖国と妻子を捨てたのだった。
生き残った捕虜の多くがベッヒラーと同じように祖国への疑問に悩み、やがてソ連に協力してナ
チス・ドイツの打倒を目指すようになる。
235 :
前田徹:02/04/07 04:37 ID:/MrhMtyI
■豆事典
▽ウィルヘルム記念教会 ベルリンきっての繁華街クーダム通り沿いにあるネオ・ロマネスク様
式の教会。1871年にドイツの統一を果たし、ドイツ帝国皇帝に就任したウィルヘルム1世をしの
んで1894年に建てられた。第2次大戦中の空襲で大部分を破損したが、高さ63メートルの塔は
焼失を免れ、1961年に礼拝堂と鐘楼が塔をはさんで建てられた。
▽カッセル ドイツ中部ヘッセン州の工業都市。19世紀後半以降、機関車や車両の製造、精密
工業などを中心に発展したが、第2次大戦中に工場は完全に破壊された。最近は文化都市とし
ても知られ、5年に1度、全世界の現代美術家の作品を集めて現代美術展「ドクメンタ」が開か
れている。グリム兄弟が1805−30年まで滞在し、王宮図書館司書として働きながら民話を収集し
たことでも有名。
▽ルーマニア油田 ルーマニア平原やスブカルパチ山脈で採油される。ルーマニアは天然ガス
や石炭、鉄鉱、木材なども豊富で、第2次大戦前は西欧諸国への重要な原料供給地だった。
▽ザクセン州 ドイツ東部人口460万人の州。19世紀から20世紀にかけてドイツが工業化を果た
したときの中心地だった。州都ドレスデンは第2次大戦時の空襲で焦土と化したが、現在はマイ
クロ・エレクトロニクス産業の拠点として復興している。また、見本市の伝統の長いライプチヒは
主要な商業都市として発展している。
▽東ドイツの国防組織 1956年、ドイツ民主共和国(東ドイツ)に国民人民軍と国民防衛省が組
織された。国民人民軍の部隊はワルシャワ条約機構の統合軍に編入され、国民防衛相が統合
軍の最高司令官代理となっていた。61年から徴兵制がしかれ、18歳以上50歳までの市民は18カ
月の兵役に服する義務を負った。90年のドイツ統一前の兵力は、正規軍の国家人民軍約13万、
国境警備隊約4万。
236 :
前田徹:02/04/07 07:54 ID:1xIDSLas
237 :
前田徹:02/04/07 10:11 ID:XjsXfDEO
>>230 会社の給料だけで生活しようという厚かましいことを考えるな!
238 :
前田徹:02/04/07 12:31 ID:N6wOiw0G
■ 暴走する大衆 スターリングラード攻防戦−3
軍の将は星をあおいだ
ヨシフ・スターリンは、自分の名前を冠した街でドイツ軍がせん滅されたことを聞き、アドルフ・ヒ
トラーとの戦争に勝ったことを確信した。と同時に「戦後」を見越した布石を打ち始める。敗戦ド
イツへの影響力を確保するための工作はスターリングラード戦終結の日に早くも開始されたの
である。
《戦線の混乱》 スターリングラード攻防戦に参加したドイツ軍は、どれほどの規模だったのか
研究者は兵士と軍属あわせて25万人から30万人と幅を持たせて推測しているが、実際のとこ
ろ、いまだに正確な数字は明らかになっていない。ドイツに残る公文書、非公開文書のすべてを
調べたという元米軍情報将校の軍史研究家、ロナルド・マッカーサー・ハーストによれば、戦線
の混乱と戦時中の統計の紛失で、兵士の数どころか降伏した捕虜の数さえ正確にはわからな
かった。
その混乱ぶりをハーストが直接インタビューしたドイツ第六軍参謀長のアルツール・シュミットは
「赤軍に追いやられる格好でスターリングラードに逃げ込んできた別の部隊もあったため、参謀
本部でさえ包囲された時点での自軍の規模をつかみきれなかった」と証言している。
同様の混乱は赤軍側でも起きていた。ドイツ軍の精鋭で、しかもこれほどの規模の部隊が包囲
網の中にいるとはだれも考えていなかったのである。
《歩く盗聴器》 1942年11月中旬、赤軍はスターリングラードのドイツ軍を包囲する作戦を開
始した。その作戦開始と同時にドイツ人捕虜への工作を担当する通訳部隊の編成も進められて
いた。当時、22歳のレフ・ベジメンスキーも高校でドイツ語を学んだ経歴によって上級少尉の階
級をもらい、包囲作戦中のドン方面軍に派遣されている。
ベジメンスキーはドイツ軍が降伏した43年1月31日前後の様子を次のように話す。
「スターリングラードで大量のドイツ人捕虜がでるだろうといわれ、ドン軍団参謀本部に行くよう
命じられた。参謀本部は興奮のるつぼだった。包囲を狭める段階で、ドイツ軍が予想以上に大
規模だとわかってきたからだ。戦争が始まって以来の大物の将軍を捕虜にできるかもしれないと
いうので、胸をわくわくさせたことを覚えている」ベジメンスキーらはスターリングラードの北80キ
ロのザバリギノ村の大きな民家2軒を接収し、将軍と高級将校のための捕虜収容施設を設営し
た。ドイツ側司令官、フリードリッヒ・パウルスが幕僚とともに捕虜となった日、ベジメンスキーは
その専属通訳を命じられたのだが、そのとき赤軍大尉のエフゲニィ・タラブリンを紹介される。
タラブリンは実はベジメンスキーよりも完ぺきなドイツ語を話す情報将校だった。ところが、ドイツ
側捕虜に対しては、ドイツ語がまったくできない監視役として行動し、ひそかにパウルスとその側
近将軍らの会話を記録した。つまり、公式通訳のベジメンスキーとは別に“歩く盗聴器”の役割を
タラブリンが演じたわけだ。
239 :
前田徹:02/04/07 12:37 ID:2fuqXe+0
高感度の盗聴器が発明されていなかった当時のソ連では、こうした方法が重用され、例えばス
ターリン体制初期の大粛清の舞台となったモスクワの「河岸通りの家」では、建物の壁に特別の
空間を作り、そこに盗聴要員が潜んで私語を記録するといったことも行われていた。
ロシア大統領府公文書保管所には、タラブリンが直接、参謀本部に報告したパウルスらの会話
記録が残されている。1995年に公開されたこの会話記録の一部を紹介しよう。
《軟禁室に同室したのは第6軍司令官のパウルス元帥、同参謀長のシュミット中将、筆頭副官の
アダモ大佐の三人の捕虜と、赤軍監視兵、そして通訳のベジメンスキー。本官は会話を要約し
て記録する。1月31日午後9時20分、元帥らが収容施設に到着。元帥は身長190センチぐら
いの長身でやせぎす。左目が常に痙攣し、いらいらしていることが一目で分かる。通訳が私をド
ン方面軍参謀本部代表と紹介すると、突然「今夜は食事が出るのか」と切り出した。面食らった
が、ドイツ語が分からないふりをしてごまかす》
《捕虜収容の規則に従い、ナイフなど刃物をすべて出すようにいうと、元帥は小型ナイフと剃刀
をポケットから出したが、シュミット中将は「我々は単なる兵士でない。おまえらの前にいるのは
元帥閣下だ。我々は捕虜ではなくロシア軍の客なのだ」と異様に興奮したが、元帥がそれをたし
なめた。結局、上層部の判断で刃物類の所持を認めることになる》
包囲戦では最高司令官でさえろくな食事をとっていなかったことや敗軍の将のいらだちぶりが簡
潔な表現の中からも読みとることができる。
《洗脳作戦》 捕虜になった直後のパウルスについては、公式通訳のベジメンスキーがタラブリ
ンの記録とは違った様子も伝えている。2月1日午前2時、パウルスに対する最初の尋問が行わ
れたときのことだ。赤軍最高司令部代表のボロノフ大将が「なぜ、弾薬も食料も不足しているの
に戦い続けたのか?」と尋ねたのに対し、「ドイツ軍人は規律と服従を尊ぶ。命令に従ったまで
だ」とパウルスは答えた。
その後、パウルスは宿舎までの500メートルの雪道を徒歩で戻るのだが、途中で立ち止まると
ゆっくり空を見上げ「星を見るのは久しぶりだ」とつぶやいた。ベジメンスキーはそのとき、25万
人規模の軍をほぼ壊滅させてしまった将軍の苦悩を垣間見たように思ったと語っている。
スターリンは1942年暮れ、まさに包囲戦の真っ最中に、反ナチス運動をドイツ人の手によって
進める「自由ドイツ国民委員会」の結成準備を指示した。この委員会はナチス・ドイツ崩壊後、ソ
連の衛星国となる東ドイツの成立に大きな役割を演じるのだが、その重要なメンバーがパウル
スらスターリングラード戦での捕虜たちだった。
「自由ドイツ国民委員会とドイツ将校同盟」(ゲルト・ユーバーシェール著)によると、委員会の構
想はスターリングラードで大量のドイツ軍捕虜を捕獲できることが確実になった時点で具体化が
決まり、ロシア内務人民委員部(NKVD)の工作員がパウルスらを標的に洗脳作戦ともいうべき
活動を進めたという。
■豆事典
☆ドン方面軍 ロコソフスキー司令官率いるソ連の軍団。スターリングラード攻防戦さなかの42
年11月、ドン方面軍は南西方面軍とともに、スターリングラード西方を流れるドン川を南下し、ド
イツ軍を包囲した。さらに43年1月8日、ロコソフスキーの降伏勧告をパウルスが拒絶すると、ド
ン方面軍は10日から総攻撃を開始してドイツ軍を降伏に追い込んだ。
☆河岸通りの家 モスクワ川沿いにそびえる総戸数505戸の高層アパート群。ソ連が党や政府
の要人の住宅確保のため1927年に建設を始め、4年がかりで完成させた。集中暖房や都市ガ
ス、電話が各戸に整備され、当時のソ連としては夢のような住環境だった。しかし、30年代半ば
から始まったスターリンによる大粛清の影響はこのアパートにも及び、いつの間にか「消えてい
った」住人も少なくなかった。当時の秘密資料によると、41年までにアパートの住人約1200人のう
ち569人が粛清の対象となり、うち226人が処刑され、残りは収容所送りか流刑にされた。公式に
は「政府の家」と名付けられていたが、「クレムリンの墓場」とも呼ばれた。現在の呼び名が定着
したのは、このアパートで暮らしていた作家トリーフォノフの小説「河岸通りの家」(77年)が書か
れてから。現在は外資系のスーパーマーケットやカフェが入り、モスクワ駐在の商社員ら外国人
も多数入居している。
☆自由ドイツ国民委員会 ソ連で、ドイツ人捕虜に対する組織的洗脳教育を行い、戦争宣伝に
利用することを目的に作られた委員会。スターリングラード攻防戦でソ連軍が反撃に転じていた
1942年末の段階に結成準備が進められ、43年7月にモスクワ郊外のクラスノゴルスクで発足し
た。創設委員38人のうち亡命ドイツ共産党員は13人で、残りは捕虜となったドイツ軍将校と兵士
だった。英米両国も亡命ドイツ知識人や捕虜を対象に同種の団体の組織化を試みたが、失敗に
終わっている。
■ 暴走する大衆 祖国への忠誠−1
将軍たちは小学校で「教育」を受けた
モスクワから西へ約50キロ行くと、放射状に伸びる幹線道に沿って見事なシラカバの原生林が
広がっている。クラスノゴルスクの町はその幹線道を少しはずれた寂しいたたずまいの丘の麓に
あった。直訳すると「赤い丘」となるこの町は、スターリングラード攻防戦で捕虜となったドイツ元
帥フリードリッヒ・パウルスらが政治教育を受けた場所である。
《政治教育》 パウルスらの教育に当たったドイツ共産党やソ連内務人民委員部(NKVD)は「ド
イツを裏切るのではなく、ヒトラーを打倒するのだ」と、捕虜になった将軍たちを説得したそうだ
が、国家への忠誠にこだわるパウルスらにとって、それは「祖国への裏切り」以外の何ものでも
なかった。
クラスノゴルスクには、そのパウルスがナチズムの悪について教育を受けた木造の旧小学校校
舎がいまも残っている。1985年5月5日、ナチスドイツへの戦勝40周年を記念して東ドイツ社
会主義統一党第一書記のエーリッヒ・ホーネッカーが多額の寄付をして「ドイツ反ファシズム運
動記念館」に作り替えていたが、校舎そのものは当時のまま残されており、パウルスらの座った
小さな木製のいすも展示されていた。
展示パネルによると、クラスノゴルスクの捕虜収容所は、ドイツがソ連侵攻を開始した1941年
に建設され、「第27ラーゲリ」と呼ばれた。ナチスドイツが政治思想の強制的更生のために数多
くの収容所をつくったように、ソ連もこのときまでに同じ目的で七百カ所以上もの収容所を建設し
ている。
単に、700カ所の収容所のひとつにすぎなかった「第27ラーゲリ」が特別の意味を持つように
なったのは、1943年のスターリングラード攻防戦で赤軍(ソ連軍)が大量のドイツ軍人を捕虜に
したからだ。ドイツ人捕虜問題を担当するNKVDは、クラスノゴルスクを直轄のラーゲリに指定
し、強制労働を目的とする他のラーゲリとは区別した。
クラスノゴルスクに連れてこられた捕虜は、将軍か高級将校に限られていた。中国北部で捕虜と
なった日本軍将兵1500百人もここに収容され、展示場の説明によれば「日本帝国主義の悪に
目覚め、収容所の広場で日帝打倒のプラカードを持ってデモ行進した」とある。クラスノゴルスク
の政治教育がいかに有効であったかが想像できる。
捕虜となったパウルスとその幕僚の二十二人の将軍は四三年五月ごろクラスノゴルスクに移さ
れている。そこでNKVDがどのような「教育」をしたのか、具体的にはわからないが、反ナチス運
動組織「自由ドイツ国民委員会」への参加を踏み絵のような形で求められたのは間違いない。
ロシア現代史公文書保管研究センター出版課長のレオニード・バビチェンコはNKVDの一連の
工作活動をコミンテルンとの強い関連のなかで説明している。
コミンテルン最後の書記長だったゲオルギ・ディミトロフは日記の中で、スターリンから強い指示
を受け、ドイツ人捕虜の組織化とナチ抵抗運動の強化に乗り出したことを記している。その協力
者がコミンテルンのナンバー2でソ連共産党中央委員だったドミトリィ・マヌイリスキーだった。
2人は捕虜の組織化の核として「自由ドイツ国民委員会」とその下部組織である「自由ドイツ将
校同盟」の設立をスターリンに提案し、それは承認されたがクラスノゴルスクはそのための拠点
となった。さらにバビチェンコによれば、コミンテルンが英米の批判を受けて四三年五月に解散し
た際、ソ連共産党中央委直属の秘密機関「第九十九研究所」がわざわざ設置され、この問題を
コミンテルンから引き継いでいる。委員会結成の趣旨を分かりやすく説明してくれる経緯である。
「自由ドイツ国民委員会」の結成式は43年7月12日、クラスノゴルスクの文化会館で行われた
が、委員の内訳はドイツ共産党員13人、ドイツ人将校12人、そして兵士13人の38人だった。
この時点ではまだ、パウルスらスターリングラードの将軍たちは加わっていない。NKVDの工作
員はこの後、将軍の説得に全力をあげ、NKVD捕虜局副局長のメリニコフは次のような報告書
を内務人民委員(内相)のベリヤに送っている。
「パウルスらと別の房に入れたザイドリッツ大将、ラットマン少将、コルフェス少将の3人が自由ド
イツ国民委員会の中に将校同盟を結成し、加盟することに合意した。さらに説得、教育の必要あ
り」(43年8月23日)
「ザイドリッツ大将を議長にして、将校同盟を発足させることをフォン・ダニエルス中将が合意し
た」(43年9月1日)
「パウルス元帥が18人の高級将校とともにザイドリッツ大将らを裏切り者とする声明を発表し
た。パウルスが組織したものと思われ、何らかの処置が必要」(43年9月11日)
《将校同盟》 NKVDの一連の強力な工作が功を奏して、ザイドリッツ大将を議長とする自由ド
イツ将校同盟は9月11日、高級将校19人をメンバーに発足する。これに対しパウルスとその側
近の高級将校団は「ザイドリッツらは自由な意志を失っており、国家反逆罪にあたる」として、ス
ターリンあてに非難声明を送りつけるなど激しく反発した。捕虜となった第6軍の将軍と高級将
校はこうして2分され、NKVDの説得に動じなかったパウルスは、「他の捕虜に悪影響を及ぼ
す」との理由でクラスノゴルスクの西数10キロの小さな村の民家に軟禁されている。
そして、そのパウルスも、ほぼ1年後の44年8月14日には、自由ドイツ将校同盟への参加に同
意した。メリニコフの報告では44年7月20日に起きたヒトラー暗殺未遂事件でパウルスが動揺
した結果と言うが、他の捕虜から隔離された軟禁生活も影響を及ぼしていたとみていい。捕虜た
ちにとって、自由ドイツ国民委員会や将校同盟への参加は、ドイツ国内で裏切り者のレッテルを
張られることを意味した。ザイドリッツもパウルスも国家反逆者と非難され、パウルスの長男は
自殺に追い込まれている。
やむなく祖国を裏切った捕虜達についてバビチェンコは「大半はカシストだった」と述べた。ロシ
ア語の「カシャ(おかゆ)」をもじった「カシスト」とは「食うためにやむを得ない」という意味で、パウ
ルスらの置かれた状況の厳しさを物語っている。
■豆事典
▽エーリッヒ・ホーネッカー(1912−94年) 旧東ドイツの指導者。東ドイツ社会主義統一党(共産
党)書記長。ドイツ西部ザール州の炭鉱労働者の家庭に生まれ、17歳でドイツ共産党(当時)に入
党。第2次大戦ではドイツの敗戦まで獄中生活を送った。戦後は党中央委員から71年に党第一
書記(後、書記長)に就任。76年には東ドイツ国家元首の国家評議会議長となったが、89年の東
ドイツ民主革命で党書記長、国家元首の座を追われた。ドイツ統一後、ベルリンの壁建設と逃亡
者射殺命令の責任者として殺人罪に問われ、持病の肝臓がん治療を理由にモスクワに亡命。
その後、ソ連崩壊でドイツに戻され、裁判が始まったが、病状悪化で裁判は中断となり、釈放さ
れてチリに亡命した。
▽コミンテルン レーニンらの指導により1919年にモスクワで創設された国際共産主義運動の
指導組織。マルクスらが1864年、ロンドンで結成した第1インターナショナル(国際労働者協会)、
1889年にパリで発足した第2インターナショナル(各国の社会主義政党や労働組合の国際連合
組織)にちなみ、第3インターナショナルとも呼ばれた。
▽ゲオルギ・ディミトロフ(1882−1949年) ブルガリアの政治家、革命家。貧しい家庭に生まれ、
12歳で小学校を中退して植字工となった。ブルガリア共産党の活動家として1923年にはブルガリ
アの労働者反ファシズムほう起を指導したが、失敗してソ連に亡命。33年、ベルリンでドイツ国
会放火事件の容疑者としてナチス・ドイツに逮捕され、裁判で無罪を勝ち取って有名になった。
35年にコミンテルン書記長に選ばれ、43年のコミンテルン解散まで在任。戦後はブルガリアに帰
国し46年、首相に就任。ユーゴスラビアのチトーとともにバルカン・ドナウ諸国連邦構想を唱え、
民族的傾向を警戒するスターリン体制のソ連から批判を受けた。
▽ドミトリィ・マヌイリスキー(1883−1959年) ソ連の政治家。1922年からコミンテルンで活動し、
28年から43年までコミンテルン書記を務めた後、44年からソ連ウクライナ共和国の外相、副首相
を歴任し、53年に年金生活に入った。
244 :
卵の名無しさん:02/04/07 18:38 ID:zQBPr3aO
あげ
245 :
前田徹:02/04/07 21:50 ID:COigLsxu
>会社の給料だけで生活しようという厚かましいことを考えるな!
九州の**営業所の所長の奥さんはダイエーのレジでバイトしてるよ
■ 暴走する大衆 祖国への忠誠−2
悪魔を追い出すのに悪魔を使う
ドイツでは、本来、水と油の関係のはずだった共産党と国防軍の有志らが大同団結することによ
り「自由ドイツ国民委員会」は生まれた。ロシア戦線での敗退により、「これ以上の戦争遂行は自
殺行為である」という危機感はドイツ国内の知識人や国防軍指導部にも波及していた。ましてや
亡命中の共産党員や捕虜になった将校たちである。そのように実感するのは当然のことだった。
《数奇な人生》 ドイツ共産党指導部のピークやウルブリヒトらはこの委員会を東ドイツ建国へ
の前段階と見なしていた。戦後、東ドイツを肯定的に見てきた歴史家らにすれば、この委員会結
成は反ファシズム人民戦線の成立ということになる。
だが、委員会への参加を半ば強制されたスターリングラードの捕虜たちにとって、事情はもっと
複雑だった。祖国を裏切ることになると十分に自覚していたケースや、後でそのことに気づき死
をかけて苦しんだ例もある。
ハインリッヒ・フォン・アインジーデルは、鉄血宰相で知られるビスマルクと外戚関係にあるザク
セン州の名門貴族の嫡子だった。母親がビスマルクの2男の娘だから、76歳のアインジーデル
自身はビスマルクのひ孫になる。1939年に18歳で招集されると、士官候補生の訓練を受けた
後、名戦闘機メッサーシュミットに搭乗して英国攻撃にも参加した。
1942年5月、自ら志願して東部戦線のウーデット航空隊に加わり、スターリングラード攻撃を
空から支援する。そして8月31日にスターリングラード上空で撃墜され、捕虜となったときからそ
の数奇な人生が始まる。
アインジーデルはその出自から特別扱いされた。43年7月にクラスノゴルスクで開かれた自由
ドイツ国民委員会発足式では23歳という若さで、しかも少尉という階級にもかかわらず、副会長
に選出されている。ミュンヘンの自宅でインタビューに応じたアインジーデルはそのときの経緯を
次のように語った。
「実は捕虜になる前からヒトラーのことが好きではなかった。ヒトラーはロシア人3千万人をロシ
アの地から追放し、ドイツ人だけの植民地を作るつもりだった。つまり日本とは全く異質の侵略
戦争だった。そう悟ったとき、わが祖国のためにヒトラーを打倒しなければならないと思った」
彼は捕虜になった直後、内務人民委員部(NKVD)や赤軍政治局第七部(情報部)がいかに積極
的に接触してきたかを語り、さらに聖書の福音書にある「悪魔を追い出すのに悪魔を使う」という
項を引用しながら「ヒトラー追放にスターリンの助けが必要だった」と、委員会に参加した理由を
説明した。
「私は反共産主義者であり、今もそうだ。ウルブリヒトやピークの説明をすべて信じたわけではな
いがスターリンがドイツの共産化までを念頭に置き、国民委員会設立を考えていたとは思い至ら
なかった」
>>245 アルバイトなら紹介する。
簡単なコピペの仕事がある。
>>247 トリップのまねをしてもダメだ。
本物:前田徹 ◆EjsFgCvY
偽物:前田徹 ◇EjsFgCvY
それから偽物は「EjsFgCvY」の部分が「太字」になる。
アインジーデルは国民委員会副会長としてロシア戦線のドイツ軍に向けて降伏を勧告する任務
を負っていた。その任務を通して「赤軍によるドイツ軍兵士や住民への無意味な殺りくや暴虐を
目撃してスターリンとソ連の真の姿を見た」と確信し、内務人民委員のベリヤあてに抗議文を送
りつけている。その結果、NKVDの地下室で2日間にわたり厳しい尋問を受け、委員会の役職
もはずされた。そして、戦後の1948年12月、彼は混乱する東ベルリンから地下鉄で西側に逃
亡している。
アインジーデルのように、後にスターリンに反旗を翻しながらも、東側からうまく逃げ出せたの
は、実はまれなケースだった。フリードリッヒ・パウルスに「国家反逆者だ」とまでののしられたワ
ルター・フォン・ザイドリッツなどは危うく処刑されそうになっている。
パウルス指揮下の第6軍は精鋭ぞろいだったとされるが、なかでも第51軍団を指揮していた砲
兵大将のザイドリッツは数々の軍功に輝く猛将として知られていた。スターリングラード攻防戦で
もザイドリッツ軍団は北部方面で最後まで赤軍を悩ましている。
《捕虜の悲劇》 しかし、彼は捕虜になった後、「祖国を救うためヒトラーを倒す必要がある」とい
う説得に最初に応じた将軍でもある。43年9月に国民委員会の下部組織となる自由将校同盟
が結成された際、ザイドリッツは会長に就任し、スターリングラードの捕虜たちに動揺を与えた。
パウルスがザイドリッツを裏切り者と非難したのはこのときである。
ザイドリッツはナイーブにもドイツ共産化の可能性など考えもしなかった。スターリンが東ドイツ
建設をあらわにした時点でやっとそれに気づいて抵抗し、そのために50年には戦犯として死刑
の判決を受けている。その後、終身刑に減刑され、五五年の捕虜交換で帰国するまで強制労働
に明け暮れた。
スターリンは45年11月に国民委員会と将校同盟の解散を命じ、ドイツ共産党員らは東ドイツ建
設に向かった。その一方で元捕虜たちは厳しい状況に置かれた。アインジーデルやザイドリッツ
はむしろ特殊なケースであり、大半の元捕虜は戦後も東ドイツに留まらざるを得なかった。
スターリングラード戦で捕虜になった将軍たちの中で唯一、ナチ党員だったラットマン少将のよう
に、共産党員となり、戦後は東ドイツ政府の幹部に就任するという変わり身の早さで生き残った
者もおれば、妻子を密告することで要職についた砲兵大隊長の存在も、今回の取材で浮かび上
がっている。
しかし、処世のために共産党員になりきることもできず、かといって「裏切り者」のレッテルがつい
て回るので西ドイツにも戻れないという元捕虜の方が多かった。彼らは家族を捨て、2度とかつ
ての親族に会おうとせず、東ドイツで第2の人生を歩んでいる。
「自由ドイツ国民委員会と将校同盟」(ゲルト・ユーバーシェール著)によれば、アメリカの情報機
関OSS(後にCIAとなる)は、ソ連の国民委員会の存在を知り、同様の亡命ドイツ人の組織化を
図った。ところが、中心人物になるはずの作家トーマス・マンが「祖国を裏切れない」と拒否した
ため、ついに成立しなかったという。パウルスのように拒否したくても許されなかったスターリン
グラードの捕虜らの悲劇性は、こうした事実の前に、より一層、際立つのである。
誹謗中傷、不正インチキ こういうのは止めるべきです
251 :
卵の名無しさん:02/04/08 18:12 ID:YZ8FuK5k
所詮ゾロです。相手にせんといてください。
>>251 確かに医薬品メーカーだと思えば腹も立つが……
そういう自覚をお持ちかな?>某迷門の方々
■ 豆事典
▽ウィルヘルム・ピーク(1876−1960年) 東ドイツ大統領。木工職人だった1894年に社会党に入
党してブレーメン市議などを務め、1918年にはドイツ共産党結成に参画。国会議員にもなった。
戦後、ドイツ社会主義統一党結成と同時に党首となり、49年にはドイツ民主共和国(東ドイツ)の
初代大統領に就任した。
▽ワルター・ウルブリヒト(1893−1973年) 東ドイツ国家評議会議長。1919年にドイツ共産党入
党。23年には国会議員になったが、ナチス政権が樹立された33年にフランスに亡命、後にソ連
に移った。戦後の46年、社会主義統一党書記長。49年のドイツ民主共和国成立後は副首相、党
第一書記を経て、60年に国家評議会議長となった。
▽ベルリンの東西分裂 第2次大戦後、ドイツは米英仏ソ4カ国の占領下に置かれた。ナチス・
ドイツの首都ベルリンはソ連占領区域内にあったが、さらに4カ国占領区に分割され、市政も4
カ国共同管理のもとに置かれた。しかし、占領政策をめぐって西側3国と対立したソ連は1948年
6月、西側占領地区からベルリンへの陸上交通を遮断するベルリン封鎖を実施。封鎖は49年5
月に解除されたが、東西ベルリンの分裂は決定的となり、同年10月に成立したドイツ民主共和
国(東ドイツ)は東ベルリンを首都と宣言した。さらに東ドイツは61年8月、西側への亡命を防ぐた
めベルリンの壁を構築、東西ベルリンの交通は遮断された。
▽トーマス・マン(1875−1955年) ドイツの作家。スイスで生まれ、ミュンヘンで作家として認めら
れた。代表作に「魔の山」「ファウスト博士」「トニオ・クレーゲル」など。1929年にノーベル文学賞
受賞。33年にはナチスの台頭したドイツを離れて米国に亡命し、ヒューマニズムの立場からナチ
ス批判を続けた。
■ 暴走する大衆 祖国への忠誠−3
ヒトラーに引退勧めた「砂漠の狐」
イギリスの戦略家、リデル=ハートらが「砂漠の狐」と呼んだ名将エルウィン・ロンメルは、日本
で言うなら山本五十六のような人気を今もドイツで保ち続けている。アドルフ・ヒトラーによってそ
の非凡さを見いだされ、最後にヒトラーを見限ったロンメルは、軍人としての能力以上にこの“ヒ
トラーへの裏切り”という行為によって人々の心に焼き付いている。
ロンメルは1891年、南ドイツのハイデンハイムで生まれた。ヒトラーより2歳年下のロンメルは
父も祖父も学校教師で、いわゆる職業軍人の家系ではない。ドイツ国防軍の中枢である陸軍で
はユンカーと呼ばれる貴族階級か陸軍大学校卒のエリート参謀であることが指揮官になる条件
と言っても過言ではなかった。ロンメルはそのどちらにも属さず、たたき上げに近い状態で歩兵
学校教官にまで上り詰めている。
本来ならそこで止まってしまうのだが、ロンメルは第一次大戦での実戦経験をもとに「歩兵の攻
撃」という本を書き、ヒトラーの目にとまった。38年に総統護衛隊司令官になって以降、出世の
道を駆け上り、41年2月にはイタリア軍支援のためのアフリカ軍団長に任命される。そして不可
能と言われたトブルク陥落を成功させ、その鮮やかな戦略と神出鬼没ぶりから「砂漠の狐」と呼
ばれた。その作戦能力は、敵方のチャーチル首相でさえ絶賛している。
しかし、破竹の勢いだったロンメル軍団もカイロまであとわずかのエル・アラメインで敗退し、ロン
メルが体をこわして帰国していた43年5月に軍団は降伏する。スターリングラード攻防戦でパウ
ルス率いる第6軍が殲滅されてからわずか3カ月後のことだ。
《暗殺未遂》 その後のロンメルは、44年7月20日、東プロイセン(現ポーランド領)ラステンブ
ルグ近郊にある総統本営ウォルフツシャンツェで起きたヒトラー暗殺未遂事件を軸に変転する。
この事件で九死に一生を得たヒトラーは、国防軍の忠誠に疑惑を抱くようになり、最も信頼して
いたはずのロンメルをも疑って、10月14日には自殺に追い込んでいる。 ロンメルが暗殺計画
に関与していたのかどうか?その疑問は今も残っている。実は本当に自殺したのか?それとも
処刑されたのかもはっきりしないのである。ロンメルの一人息子、マンフレートは、そうした疑問
に答えられる貴重な証人といえる。
「父がいなくなった日、というよりも兵士に連れ去られた日の事をよく覚えている。私が一瞬不安
な顔をしたのだろう。父は『おまえも身体には気をつけるように』とだけいって出ていった。後で父
が自殺したと聞かされたが、私は今も処刑されたのだと思っている」
マンフレートはドイツを代表する高級車ベンツの本社があるシュツットガルトの市長を75年から
20年以上も務め、昨年政界を引退した。市民は彼のことを「小さい将軍さん」と親しみを込めて
呼ぶそうで、いまだに根強いロンメル人気を感じさせる。
255 :
前田徹:02/04/09 06:02 ID:DnW+i0OG
>誹謗中傷、不正インチキ こういうのは止めるべきです
「競争相手を叩く。できることは何でもやる。」
これが前田の信念です・
ニセ者age
257 :
前田徹:02/04/09 08:18 ID:30d/FiXs
不正インチキはいつか発覚するもんだよ
ニセ者がよく言うねェ
「父はアフリカ戦線で活躍していたころ、ドイツの勝利に自信を持っていた。しかし、エル・アラメ
インでの敗退後は考え込むようになり、日本海軍がミッドウェーで壊滅的打撃を受けると、逆に
敗戦を確信するようになった。ノルマンディー上陸作戦で重傷を負って米英との休戦を強く望ん
でいた。負けるなら早いうちに講和すべきだと考えていた」 68歳になった「名将の子」は戦争中
の苦悩する父親の姿をこう語った。
「父はヒトラーに個人的にかわいがられていた。ヒトラーの先見性や大衆動員のすごさに魅せら
れてもいた。しかし、軍事的にもう勝てないと分かり、ヒトラーに引退を勧めたんです。ヒトラーも
最初は素直に聞いていたが、ある時から怒り出し、父を見ると部屋に閉じこもるようになった。そ
してあの暗殺未遂が起きた。ヒトラーは父を疑い、そして排除を決意したのだと思う」
16歳の少年だったマンフレートの記憶によれば、ロンメルは暗殺計画に否定的だった。ロンメル
は「死んだヒトラーは生きているヒトラー以上に危険だ」と話しており、ヒトラーの死がむしろナチ
スをより凶暴にすると考えていた。
大衆運動の本質をロンメルがどう理解していたかを示す興味深い話だが、ロンメルがヒトラーを
早急に無力化する必要を感じていたのは間違いない。結局は未遂となった「7月20日事件」に
連座した首謀者らとロンメルが何らかの協議を行ったことを示唆する記録もあるとマンフレート
は証言している。
シュツットガルト郊外の小高い住宅街にあるロンメル家の居間には、ロンメル自身が描いた戦場
の緻密なスケッチや写真に混じって日本の賞状も飾ってあった。大日本帝国詔勅精神振興会寄
贈とある賞状には「日本軍にとっては敵であるイギリスやオーストラリアなどを相手にアフリカで
活躍するロンメル将軍の軍功をたたえ、日本刀一振りを贈る」とある。賞状が授与されたのはエ
ル・アラメイン敗退前のことだが、「半年後、日本刀が潜水艦で運ばれてきたときには、アフリカ
から撤収したあとだった」そうだ。その日本刀もアメリカ軍に接収され、今はもうない。
《国民的英雄》 ともあれ、戦後ドイツでは、ヒトラーへの抵抗運動の象徴として「7月20日」は
国の記念日になった。実行犯であり即座に銃殺されたクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大
佐の処刑場所には記念碑が建てられているし、通りの名前もシュタウフェンベルク通りと名づけ
られている。シュタウフェンベルクらとは別の意味でだが、ロンメルも軍人らしい合理主義でヒト
ラー抜きの講和を考え、国民的英雄になったのである。
一方、スターリングラード戦で捕虜となったパウルスが44年8月、反ヒトラー戦線「自由ドイツ国
民委員会」に参加したのも「7月20日事件」がきっかけだった。
ソ連内務人民委員部(NKVD)の記録では、ユンカー出身のエリート将軍だったパウルスが、ヒト
ラー暗殺未遂に激しく動揺したとある。パウルスも祖国を救うにはヒトラーをまず倒すべきだと考
えたことは想像できる。 しかし、パウルスが、ロンメルやシュタウフェンベルクのように抵抗の英
雄として評価されることは戦後、一度もなかった。
260 :
卵の名無しさん:02/04/09 18:55 ID:KZF3V4Vz
一週間に一品目開発目標!って
>>258 >ニセ者がよく言うねェ
贋者だろうが本者だろうが、どっちもどっち。
こだわっているのは、はたからみると見苦しい。
>こだわっているのは、はたからみると見苦しい。
だ〜れかさんが、こだわっているから、ニセの名前をつかうのだろうな、
違うかな???
■ 豆事典
▽ベイジル・リデル=ハート(1895−1970年) 英国の軍事評論家。陸軍大臣顧問。1927年に陸
軍大尉で退役した後、「デーリー・テレグラフ」「タイムズ」に軍事記事を書き、空軍および戦車戦
に関する軍事理論を数多く発表した。また、機甲戦の創始者としても知られ、英国の戦略だけで
なく、第2次大戦初期のドイツ陸軍の電撃作戦にも大きな影響を与えた。著書に「第1次世界大
戦史」「第2次世界大戦史」など。
▽チャーチルの称賛 英国の首相ウィンストン・チャーチルは1942年初め、英下院で「われわれ
の前に、きわめて勇敢な、きわめて巧みな敵将がいる。戦争という行為は別として、偉大な将軍
である」と述べ、規模においてはるかに劣るドイツ・アフリカ軍団を率いて北アフリカ戦線の英国
陸軍をほんろうした敵将ロンメルをたたえた。
▽エル・アラメインの戦い(1942年10月23−11月4日) 第2次大戦の主要決戦の一つで、連合国
側が第2次大戦開戦以来、初めて大きな勝利をおさめた戦いとされる。イタリア軍支援のため北
アフリカ派遣ドイツ軍の司令官となったロンメルは1941年2月、トリポリに入って以来、エジプトを
目指して進撃を続け、42年6月には英国軍の軍事拠点、トブルクを陥落させた。これに対し英国
軍はモンゴメリー将軍を指揮官に態勢をたてなおし、同年8月末からの反攻でドイツ・イタリアの
枢軸国軍の進撃を阻止。モンゴメリーはさらに15万の兵力と1114台の戦車を集結させ10月23日
夜からエジプト地中海沿岸のエル・アラメインで総攻撃を開始して、兵力で大きく劣る枢軸国軍
を圧倒した。
▽クラウス・フォン・シュタウフェンベルク(1907−44年) ドイツ陸軍上層部を中心にした1944年7
月20日のヒトラー暗殺計画の首謀者の一人で、暗殺に失敗し死刑となった。名門貴族の出身だ
ったが、社会主義者のグループとも緊密な関係があったといわれる。事件当時は予備軍最高司
令官付き参謀長だった。
暴走する大衆 集団の罪
展示はドイツ人の心の傷に触れた
24歳の青年画家、アドルフ・ヒトラーがウィーンを出て1913年にたどり着いたところは、ドイツ
の中でも特に保守的な風土で知られるミュンヘンだった。この突然の移住について、ヒトラー研
究者の多くはオーストリア・ハンガリー帝国からの徴兵逃れだと説明している。世紀の独裁者で
あり、ユダヤ人虐殺の張本人であるヒトラーを描く場合、「徴兵逃れ」という臆病者のイメージは
都合が良かった。
しかし、ヒトラーは実際には翌14年に第一次大戦が始まると、このミュンヘンでドイツ軍に志願
して、戦場では二つの勲章をもらう勇敢な兵士であったことを証明している。
臆病者のイメージはヒトラーの実像をゆがめる結果になったようだ。ヒトラーはミュンヘンで多数
の同調者を引き付け、それを土台にして国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)という大衆運動を
ドイツ全土に広げた。少なくとも大衆は熱狂的にヒトラーを支持したのだった。
《激しい衝突》 そのナチス運動発祥の地となったミュンヘンの旧市役所内で97年2月26日か
ら1カ月以上にわたって「ドイツ国防軍の犯罪」展が開かれた。ハンブルクの団体が主催するこ
の歴史写真展は、すでにドイツ各地を巡演しており、ミュンヘンは11番目の開催地である。それ
までの10カ所では展示は「反戦と平和」をテーマに、第二次大戦中のドイツ軍の残虐行為を知
るうえで重要なものとして推奨さえされてきた。
ところが、ミュンヘン開催が決まった直後から雲行きが怪しくなってきた。市内では展示反対を叫
ぶ右翼青年のデモと治安警察隊員との激しい衝突が繰り広げられ、ミュンヘン市のあるバイエ
ルン州の与党、キリスト教社会同盟(CSU)は展示主催者に対し正式に開催反対の声明文を発
表している。
私が展示場を訪ねた日は日曜日だったせいか、観光名所にもなっている旧市役所前に長蛇の
列ができていた。学生風の若者や四十代ぐらいの中年男性が多い。聞けば、テレビなどで論争
になっているので興味を持ったという。展示場は百人も入ればいっぱいになる程度の広さで、入
り口で入場制限が行われていた。
展示はそれほどショッキングなものでもなかった。パネルに拡大された数十枚の写真は、第二次
大戦中の旧ユーゴスラビアでのドイツ軍の民間人虐殺の場面やロシア戦線における組織的なユ
ダヤ人殲滅を示していた。これまでにも何度か見かけたことがあると思える程度の内容である。
論争はそんなパネル以上に「ドイツ国防軍はヒトラーを支持し、ユダヤ人殲滅などで積極的に協
力した」という歴史的な評価が争点となっていた。戦後ドイツは事あるごとにナチス・ドイツとの決
別を世界に訴えてきた。例えば東ドイツは「ファシストとの戦いの中で生まれた国」を強調し、「ヒ
トラーの犯した犯罪は西ドイツに引き継がれた」と主張してきた。従って虐殺されたユダヤ人らに
対する戦後賠償にも応じなかった。
265 :
卵の名無しさん:02/04/09 22:56 ID:RtTELLyI
yeah!!
>>262 荒らしが一人前の発言をするのも迷門独自の論理。
自分のことを棚にあげて、三流新聞に金を撒いて、
耐用薬品を誹謗中傷する行為と同根。情けない。
■ 豆事典
▽ベイジル・リデル=ハート(1895−1970年) 英国の軍事評論家。陸軍大臣顧問。1927年に陸
軍大尉で退役した後、「デーリー・テレグラフ」「タイムズ」に軍事記事を書き、空軍および戦車戦
に関する軍事理論を数多く発表した。また、機甲戦の創始者としても知られ、英国の戦略だけで
なく、第2次大戦初期のドイツ陸軍の電撃作戦にも大きな影響を与えた。著書に「第1次世界大
戦史」「第2次世界大戦史」など。
▽チャーチルの称賛 英国の首相ウィンストン・チャーチルは1942年初め、英下院で「われわれ
の前に、きわめて勇敢な、きわめて巧みな敵将がいる。戦争という行為は別として、偉大な将軍
である」と述べ、規模においてはるかに劣るドイツ・アフリカ軍団を率いて北アフリカ戦線の英国
陸軍をほんろうした敵将ロンメルをたたえた。
▽エル・アラメインの戦い(1942年10月23−11月4日) 第2次大戦の主要決戦の一つで、連合国
側が第2次大戦開戦以来、初めて大きな勝利をおさめた戦いとされる。イタリア軍支援のため北
アフリカ派遣ドイツ軍の司令官となったロンメルは1941年2月、トリポリに入って以来、エジプトを
目指して進撃を続け、42年6月には英国軍の軍事拠点、トブルクを陥落させた。これに対し英国
軍はモンゴメリー将軍を指揮官に態勢をたてなおし、同年8月末からの反攻でドイツ・イタリアの
枢軸国軍の進撃を阻止。モンゴメリーはさらに15万の兵力と1114台の戦車を集結させ10月23日
夜からエジプト地中海沿岸のエル・アラメインで総攻撃を開始して、兵力で大きく劣る枢軸国軍
を圧倒した。
▽クラウス・フォン・シュタウフェンベルク(1907−44年) ドイツ陸軍上層部を中心にした1944年7
月20日のヒトラー暗殺計画の首謀者の一人で、暗殺に失敗し死刑となった。名門貴族の出身だ
ったが、社会主義者のグループとも緊密な関係があったといわれる。事件当時は予備軍最高司
令官付き参謀長だった。
前田徹ってガイキチか?
>>266 >耐用薬品を誹謗中傷する行為と同根。情けない。
仲間割れとは情けなや。
仲間割れというよりも差輪胃がいつも一方的に他社を罵倒中傷のパターンだな
271 :
前田徹:02/04/11 05:36 ID:fIw4D7iu
>>266 そうだ! 文句あるか! 誹謗中傷結構!
自分さえよければよい。他人の迷惑こそわが快楽。
他人の損はわが利益。これが前田の経営哲学だ。
■ 暴走する大衆 集団の罪
展示はドイツ人の心の傷に触れた
24歳の青年画家、アドルフ・ヒトラーがウィーンを出て1913年にたどり着いたところは、ドイツ
の中でも特に保守的な風土で知られるミュンヘンだった。この突然の移住について、ヒトラー研
究者の多くはオーストリア・ハンガリー帝国からの徴兵逃れだと説明している。世紀の独裁者で
あり、ユダヤ人虐殺の張本人であるヒトラーを描く場合、「徴兵逃れ」という臆病者のイメージは
都合が良かった。
しかし、ヒトラーは実際には翌14年に第一次大戦が始まると、このミュンヘンでドイツ軍に志願
し、戦場では2つの勲章をもらう勇敢な兵士であったことを証明している。
臆病者のイメージはヒトラーの実像をゆがめる結果になったようだ。ヒトラーはミュンヘンで多数
の同調者を引き付け、それを土台にして国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)という大衆運動を
ドイツ全土に広げた。少なくとも大衆は熱狂的にヒトラーを支持したのだった。
《激しい衝突》 そのナチス運動発祥の地となったミュンヘンの旧市役所内で97年2月26日か
ら1カ月以上にわたって「ドイツ国防軍の犯罪」展が開かれた。ハンブルクの団体が主催するこ
の歴史写真展は、すでにドイツ各地を巡演しており、ミュンヘンは11番目の開催地である。それ
までの10カ所では展示は「反戦と平和」をテーマに、第二次大戦中のドイツ軍の残虐行為を知
るうえで重要なものとして推奨さえされてきた。
ところが、ミュンヘン開催が決まった直後から雲行きが怪しくなってきた。市内では展示反対を叫
ぶ右翼青年のデモと治安警察隊員との激しい衝突が繰り広げられ、ミュンヘン市のあるバイエ
ルン州の与党、キリスト教社会同盟(CSU)は展示主催者に対し正式に開催反対の声明文を発
表している。
私が展示場を訪ねた日は日曜日だったせいか、観光名所にもなっている旧市役所前に長蛇の
列ができていた。学生風の若者や40代ぐらいの中年男性が多い。聞けば、テレビなどで論争に
なっているので興味を持ったという。展示場は百人も入ればいっぱいになる程度の広さで、入り
口で入場制限が行われていた。
展示はそれほどショッキングなものでもなかった。パネルに拡大された数十枚の写真は、第二次
大戦中の旧ユーゴスラビアでのドイツ軍の民間人虐殺の場面やロシア戦線における組織的なユ
ダヤ人殲滅を示していた。これまでにも何度か見かけたことがあると思える程度の内容である。
論争はそんなパネル以上に「ドイツ国防軍はヒトラーを支持し、ユダヤ人せん滅などで積極的に
協力した」という歴史的な評価が争点となっていた。戦後、ドイツは事あるごとにナチス・ドイツと
の決別を世界に訴えてきた。例えば、東ドイツは「ファシストとの戦いの中で生まれた国」を強調
し、「ヒトラーの犯した犯罪は西ドイツに引き継がれた」と主張してきた。
従って虐殺されたユダヤ人らに対する戦後賠償にも応じなかった。
一方、西ドイツは戦後賠償に応じたものの、第二次大戦のさまざまな残虐行為については「あく
までナチ党の一部ドイツ人の犯罪行為であり、ドイツ人全体が背負うものではない」との認識を
示してきた。戦後40周年を記念する1985年の演説「荒野の四十年」でも、当時の大統領ワイ
ツゼッカーはドイツ人の集団の罪を否定している。
こうしたドイツ人の戦後意識のなかで、国防軍は特異な存在であり続けた。ドイツ国防軍は国家
に忠誠を誓った軍人として国のリーダー(総統)であるヒトラーに従っただけであり、ナチスと同列
には扱えないという見方だ。ユダヤ人や占領地での民間人虐殺を執行したのは、ナチス親衛隊
であり、国防軍はそれを傍観することはあっても、協力することはなかった。ドイツの歴史家の間
では、一般的にはそのように評価されてきた。ミュンヘンでの展示の内容は、そうしたドイツ人の
意識の微妙な部分を刺激したのである。
CSUミュンヘン支部長で次期市長の呼び声の高いペーター・ガウバイラーは、自分の経営する
弁護士事務所で「戦後50年になって突然、祖父や父の世代の行為を一方的に非難されること
には納得などできない」と展示に反対した理由を語った。
「あの戦争には1900万人のドイツ人が国防軍の一員として参加している。その行為すべてを
否定してよいものだろうか。我々の今日は彼らの行為を含めた過去の上に築かれていることを
忘れてはならない。そもそも展示の主催者は声明文で我々が指摘している通り、元ドイツ共産党
員であり、歴史家でも何でもない。むしろ政治的な意図を感じる。ご存じのようにドイツでは共産
党は、民主主義国家に敵対する政党ということでナチス同様、禁じられている。彼らはヒトラーの
犯罪を口実にすべてのドイツ的なものを消し去りたいのではないか」
前回登場したロンメル将軍の長男で、シュツットガルト市長だったマンフレート・ロンメルも、同様
の展示がシュツットガルトで開かれたさいに足を運んでおり、その時の感想を次のように述べて
いる。「旧ソ連圏やユーゴスラビアで、国防軍の残虐行為があったとするが、その前に民間人を
装ったパルチザン(ゲリラ兵)がドイツ兵を殺していることを忘れてはならない。戦争とはそういう
ものだ。敵を十人殺せば勲章がもらえる世界だ。平和な時代の感覚で判断してはならない」
《残した苦悩》 ただし、ロンメルのこの発言は、市長を辞め、政治的に引退した立場でのもので
ある。市長在任中にシュツットガルトでの展示開催を認め、そのときには展示内容については全
く非難がましいことは述べていない。
第二次大戦では5千万人以上の人が亡くなったとされる。なかでもヒトラーの戦争がドイツ人に
残した戦後の苦悩は、650万人といわれるユダヤ人虐殺に象徴されるだろう。
戦後ドイツではユダヤ人虐殺やヒトラーの犯罪性に少しでも疑問を投げかければ政治的に生き
残ることはできなかった。その意味で、戦後生まれとはいえ、現職政治家のガウバイラーのよう
な人物にとって、今回のような発言はまだまだ勇気がいることなのである。
■豆事典
☆ミュンヘン バイエルン州の州都。19世紀初頭以降、バイエルン王国の首都として栄え、世界
的なビール生産地としても有名。「ミュンヘン」には「僧りょの町」の意味があり、市内に多数の教
会や修道院があったことから「ドイツのローマ」とも呼ばれていたが、第2次大戦中の空襲で、そ
の多くは破壊された。
☆キリスト教社会同盟(CSU) 第2次大戦後の1945年10月、カトリック、プロテスタント両派にま
たがるキリスト教政党として設立。バイエルン州が地盤の地域政党的色彩が強く、バイエルン州
に支部を持たない全国政党のキリスト教民主同盟(CDU)と連邦議会内で統一会派を形成し、49
年の第1回総選挙以来、与党として西ドイツ政界に大きな影響力を保った。69年には、社会民主
党と自由民主党の連立に敗れ野党となったが、82年にCDU党首のコールが首相となって与党
に返り咲いた。保守中道のCDUに比べ、CSUは保守、反共色が強い。
☆リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー(1920年−) 第2次大戦に歩兵連隊の将校として従軍。ヒト
ラー暗殺未遂事件に加わり、ナチス秘密警察に追われた。戦後のニュルンベルク国際軍事裁判
ではナチス政権の外務次官だった父親の弁護にあたった。69年に連邦議会議員となり、西ベル
リン市長を経て、84年に西ドイツ第6代大統領に就任。ドイツ統一後も94年まで在任した。
275 :
卵の名無しさん:02/04/12 00:43 ID:3Fk/vAHP
ぼくもペーストしてみました
268 :卵の名無しさん :02/04/10 12:14 ID:oU7YVI0I
前田徹ってガイキチか?
269 :卵の名無しさん :02/04/10 20:42 ID:APwdF9n8
>>266 >耐用薬品を誹謗中傷する行為と同根。情けない。
仲間割れとは情けなや。
270 :卵の名無しさん :02/04/10 20:46 ID:Co/uO047
仲間割れというよりも差輪胃がいつも一方的に他社を罵倒中傷のパターンだな
271 :前田徹 :02/04/11 05:36 ID:fIw4D7iu
>>266 そうだ! 文句あるか! 誹謗中傷結構!
自分さえよければよい。他人の迷惑こそわが快楽。
他人の損はわが利益。これが前田の経営哲学だ。
ぼくもペーストしてみました
268 :卵の名無しさん :02/04/10 12:14 ID:oU7YVI0I
前田徹ってガイキチか?
269 :卵の名無しさん :02/04/10 20:42 ID:APwdF9n8
>>266 >耐用薬品を誹謗中傷する行為と同根。情けない。
仲間割れとは情けなや。
270 :卵の名無しさん :02/04/10 20:46 ID:Co/uO047
仲間割れというよりも差輪胃がいつも一方的に他社を罵倒中傷のパターンだな
271 :前田徹 :02/04/11 05:36 ID:fIw4D7iu
>>266 そうだ! 文句あるか! 誹謗中傷結構!
自分さえよければよい。他人の迷惑こそわが快楽。
他人の損はわが利益。これが前田の経営哲学だ。
>>271 >他人の損はわが利益。これが前田の経営哲学だ。
前田の経営哲学!?
前田徹って、それなりの人なんだ。
まぁ、この荒しぶりからみると、弘行くんとは大差ないみたいだが……
>他人の損はわが利益。これが前田の経営哲学だ。
こんな経営者に賃上げを要求しても無駄とは思うが、
給料上げてください。バイトを止めないと体が持ちません。
■ 暴走する大衆 ドイツ共産党
すべては失敗に終わった
戦後、西ドイツは、ナチスとともに共産党についてもその存在を固く禁じてきた。1956年8月、ド
イツ連邦共和国(西ドイツ)憲法裁判所は基本法(憲法)第21条第1項(政党の民主的原則)違反
で共産党を違憲と判断した。その時の判決理由は、おおむね次のようなものだ。
「基本法は、すべての政治的見解への寛容という原理と、国家秩序の侵すことのできない基本
価値に対する信奉との間に一つの結合(総合)をもたらそうとしたもので、自由な民主的国家秩序
の限界という問題を解くための意識的な政治意思の表現である」
要約すれば、「政党結社の自由」や「意見を述べる自由」を認める寛容な国家といえども、その
国家秩序を守るためには断固とした措置をとる。「自由の敵には無制限の自由を認めない」とい
う考え方だ。
《戦って守る》 防衛大教授で、ドイツ政治史を専門とする佐瀬昌盛は、そうした戦後の決意が
判決文の中の「シュトライトバール・デモクラシィ(戦う民主主義)」という言葉に象徴的に表現され
ていると指摘する。ワイマール時代の自由な議会制民主主義の精神が、ナチズムや共産主義
の台頭を許したことへの反省から、「民主主義は戦って守らなければならない」という強い決意
が込められたのである。
では、その「戦う民主主義」によって「自由の敵」の烙印を押されたドイツ共産党とはどんな組織
なのか。
1918年11月、第一次大戦末期のドイツではすでに西部戦線が崩壊寸前となり、国民は飢え
ていた。敗色が濃くなる中で、ドイツ北部の軍港キールでは無謀な出撃命令をきっかけに水兵た
ちが反乱を起こす。ドイツ革命は、この自然発生的な水兵の反乱を口火にドイツ全土に広がり、
主要な都市は街頭に繰り出した労働者や兵士が結成した「労兵協議会」によって占拠された。
ロシア語でソビエト、ドイツ語ではレーテと呼ばれる「労兵協議会」の設置は、その前年にモスク
ワで起きたロシア10月革命のボリシェビキの手法を見習ったものだ。実際、キールの反乱水兵
たちがベルリンのブランデンブルク門を行進するのを見て、独立社会民主党左派のスパルタク
ス団は、レーテによるプロレタリア革命の実現を民衆に呼びかけている。
レーテによるプロレタリア独裁という考えは、社会民主党の主流派を震撼させた。ソビエト型国
家の誕生は、彼らにとってドイツ帝国の存続以上に悪夢だった。帝国の崩壊を目前に、ドイツ左
翼は独裁か、議会制民主主義かの二者択一を迫られていたのである。
11月4日の水兵蜂起から3日後、バイエルンに革命が起きて、レーテが権力を掌握した。さらに
その2日後には、スパルタクス団が、同じくレーテ独裁を目指す労働者組織・革命的オップロイ
テと共同でゼネストを呼びかけ、ドイツ全土は革命前夜のような高揚感に包まれたのであった。
ワイマール共和国は、その革命を拒否した社民党の指導者たちによって誕生した。ドイツ史上
最初の共和国大統領となるフリードリッヒ・エーベルトと首相のフィリップ・シャイデマンは、スパ
ルタクス団のカール・リープクネヒトによる「社会主義共和国宣言」の機先を制して「議会制共和
国宣言」を成立させたのであった。
ドイツ共産党は、その直後に生まれた。共産党創設者であり、指導者であっカール・たリープク
ネヒトと、ローザ・ルクセンブルクの2人は1919年1月、ベルリン市内で兵士によって惨殺され
るが、その2人の死がドイツ共産党とソビエト・ロシアとのきずなを強めていくきっかけとなった。
ローザの親密な同志だったフーゴー・エバーラインの長男、ウェルナー・エバーラインとその妻
は、旧東ベルリンの地下鉄駅「ローザ・ルクセンブルク」からそれほど遠くない高層住宅でひっそ
りと暮らしている。ローザ惨殺事件からわずか3カ月後に生まれたウェルナーは、旧東ドイツ時
代、ドイツ共産党の後継政党である社会主義統一党(SED)政治局員として党を指導した経験を
持つ。
「父はスパルタクス団を共産党へと発展させた指導者の一人だった。ローザ惨殺後、父が共産
党を維持する責任を負った。そしてローザの残した依頼書を父がロシアへ持っていったのも、そ
の遺志を継ぐためだったと思う」
《ソ連の影響》 ロシア現代史公文書保管センターはコミンテルン関連文書保管所として知られ
ているが、センターによれば、1919年3月19日、レーニンの呼びかけで各国共産党代表はレ
ニングラード(サンクトペテルブルク)に集まった。第三インターナショナル(コミンテルン)結成のた
めである。コミンテルン結成は既成化していたが、この時ドイツ代表として出席したエバーライン
は、ローザ自身が書いた「インター創設は時期尚早」という反対意見を読み上げ、あえて投票を
棄権したという。
コミンテルン結成後、ドイツ共産党は完全にソ連共産党の影響下に置かれる。公文書保管セン
ターの記録では、コミンテルンは世界革命のための組織と称しながら、その実態は各国の党を
支配するのを目的としてきた。30年代にモスクワとレニングラードに滞在したドイツ共産党の亡
命者(約1500人)に対する全員の監視録もある。家族ともども亡命していたエバーラインもその
ころソ連共産党の思想調査で摘発され、銃殺されている。
つい昨年まで父が病死したと聞かされてきたウェルナーは、父親の銃殺を聞いてスターリンやソ
連を憎む気にはなれなかったという。ソ連に忠実な共産党員として東ドイツ建設に邁進してきた
が、かなり以前にソ連と東ドイツの政治体制に疑問を抱き続けてきたと告白した。
「20世紀初頭に力を持った社会主義という理念が、民族主義(ナチズム)や労働者の独裁(共産
党)という形で実現したが、すべて失敗に終わった。だが、だからといっていまの民主主義が正し
いとも私は思わない。米国の大統領がわずか二五%の支持しか得ていないことからもそれは明
らかだ。私には今、何も政治展望がない」
ドイツ共産党の系譜を継いだウェルナーのような人たちは、その人生の大半を東ドイツ消滅とと
もに失った。そして瓦解した“信ずべきもの”を前にして、口調に絶望感が漂うのも致し方ないよ
うに思えた。
■豆事典
☆ブランデンブルク門 アテネのアクロポリス神殿の前門を模範にして1791年にベルリンの中心
部に作られた。門上にそびえる勝利の女神像は1806年、ナポレオンが戦勝記念としてパリに持
ち帰ったが、14年にプロイセンがナポレオンを破って取り戻した。第2次大戦後、ブランデンブル
ク門のすぐ西側にベルリンの壁が建設された。
☆ドイツ社会民主党 1875年に結成された社会主義政党のドイツ社会主義労働党が90年に社
会民主党に改称。1912年には帝国議会第1党となり、第1次大戦後のワイマール共和国では連
立政権の中心となった。独立社会民主党は第1次大戦中の17年、社会民主党左派が同党の戦
争協力方針を批判して結成。ローマ時代の奴隷反乱の指導者の名前をとったスパルタクス団は
その中でも急進派として知られ、翌18年末に共産党として独立。20年には独立社会民主党多数
派が逆に共産党に合流した。
☆カール・リープクネヒト(1871−1919年) ドイツ社会民主党の創設者の息子。マルクス主義の
闘士として党内最左派を形成し、1916年に離党してスパルタクス団を組織。18年にはドイツ革命
を指導した。19年1月に共産党を率いてベルリン蜂起を起こしたが、政府側の義勇軍に捕らわ
れ殺害された。
☆ローザ・ルクセンブルク(1871−1919年)< 「赤いローザ」の名前で知られる女性社会主義者。
社会民主党内の左翼急進派として活動し、労働者階級の闘争手段として大衆ストライキを唱え
た。リープクネヒトとともに、スパルタクス団や共産党の結成に尽力。1919年1月、彼女自身は時
期尚早として反対していたベルリン蜂起の際に捕らわれ殺害された。
283 :
卵の名無しさん:02/04/12 22:58 ID:TodTNC1o
ゾロの社員はこの前田みたいに精神異常者になる奴が多いという噂を聞いたことあります
>>283 社員だけじゃないよ。経営者にもいるよ。
だいたいゾロの経営者は戦略を持てない馬鹿ばかり。
東○がましなくらいか。
286 :
卵の名無しさん:02/04/13 23:30 ID:z81wGa3l
くだらん会社のスレッドやな
この前漏れの会社のネットにこの会社の社長は出鱈目と嘘ばかりという
ようなことを幹部が書いてたがこれも情けない話だ
287 :
卵の名無しさん:02/04/14 18:49 ID:CDIvAVFf
荒らしは土日は休みか?
>>587 通常勤務の一環なんだろうね。
あきれた会社だよ、まったく。
■ 暴走する大衆 ワイマールと日本
“無制限な自由”のもろさ
第一次大戦後のドイツの戦後体制だったワイマール共和国は1933年3月23日「最後の日」を
迎えた。国民議会はその日、与党で第一党の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)から「民族
と国家の難題を除去するため」と提案された全権委任法を可決し、政府に立法権をゆだねること
を自ら選択した。この結果、ヒトラーは憲法にとらわれず、思うままにドイツを運営することが可
能になり、ワイマール憲法は事実上、廃止された。
《自らを否定》 1900年8月生まれの印刷工で、32年9月から社会民主党の国会議員だった
ヨーゼフ・フェルダーは最後のワイマール議会に立ち会っている。国会招集の名目は軍縮会議
への非難と民族の尊厳についての首相演説とされていたが、社民党本部はヒトラーの意図を事
前に承知していた。ただし、憲法改正につながる同法の成立には出席議員の3分の2以上の賛
成が必要だったので、ナチスが過半数を占める国民議会でも、すんなりと通らないはずだった。
フェルダーは、当時を振り返る。「それが…」、「ドイツにとって運命の日になるだろうということは
分かっていた。その日の朝、社会民主党議員81人が何らかの容疑で逮捕され、議場にやって
きた党員は94人しかいなかったし、我々は早くから共産党(81議席)に共闘を申し入れていたが
拒否されていた。それでもあの日、共産党が反対票を投じてくれれば、議会が自らを否定すると
いう恥ずかしいことにはならなかったはずだ」
すでに97歳と言う高齢になるフェルダーはその時、初めて共産党を「敵」と認識したという。ワイ
マール憲法が1919年7月に制定されて以来、憲法が保障する議会制民主主義を根本から否
定する政党はナチスと共産党だけだった。ドイツ人民党や保守党などワイマール体制に批判的
な政党は他にも多くあったが、それはあくまで議会制民主主義の枠の中での反対派であり、ナ
チスや共産党とは異なるレベルの存在だった。
ヒトラーは暴力による政府転覆を狙ったミュンヘン一揆が失敗に終わった後、議会進出による合
法的な目的達成を狙った。同様に共産党もワイマール初期の蜂起が尽く失敗したあと、政治的
最終目標を労兵評議会(レーテ)による独裁体制に置きながら、そのための議会戦術に全力をあ
げている。ワイマール体制を否定するという意味でも、議会に対する姿勢からみても、この二つ
の政党は一卵性双生児だった。
ワイマール共和国は、多額の賠償金の支払いや軍備制限など、第一次大戦の敗戦に伴う負の
遺産を背負って出発したため、国民の間には屈辱感が蔓延していた。フランス軍によるルール
地方占拠に端を発した超インフレは、一部資産家を除くすべての家庭を直撃し、1929年10月
24日に起きたニューヨーク・ウォール街の株式大暴落に始まる大恐慌はドイツ国内でも未曾有
の失業者を生んで国民を絶望へと導いた。
そうした屈辱と不安を抱きながらも、大衆はほぼ完全な政治的自由を享受していた。14年間の
ワイマール時代で最後の首相となったヒトラーは初代のシャイデマン(社民党)から数えて21代
目、13人目にあたる。その間、その時々の不満を有権者である大衆は支持政党を次々と換え
ることで表明してきたのだ。
ナチスも共産党も、ワイマール時代の後期に最も票を伸ばしたのであり、街頭宣伝で最大のライ
バルとなった。大衆の不満を一気に解消できる政党や政策はワイマール体制が存在する限り構
造的に不可能だと国民が思いはじめたとき、その体制を否定する二党に人気が集まるのは自然
な成り行きだった。
こうした不安定なワイマール時代を活写している「知識人と政治」(脇圭平著)によれば、ドイツの
大衆にとって、ワイマールとは「何もかも滅茶苦茶な、思い出すだけでもぞっとするような悪夢に
うなされ続ける地獄の時代」であり、その時代を知るドイツ人は、今もなお「シャント(恥辱)とシュ
マッハ(屈辱)の時代」と呼んでいる。
西ドイツの世論調査によれば、第二次大戦後間もない1951年の段階で「20世紀のどの時代
が最も良い時代か」との質問に、42%の人が第二次大戦突入までのナチス政権時代が最も良
かったと答え、ワイマール時代のわずか7%と好対照を描いている。その後、戦後復興のおか
げでナチスへのこうした郷愁は減っていったが、ワイマール時代への不人気は最後まで変わら
なかった。
ワイマール時代の不人気と国家としてのもろさについて、当時の公法学者、カール・シュミットは
憲法そのものの弱さを問題点として指摘している。日本におけるシュミット研究の第一人者、長
尾龍一は著書「リバイアサン 近代国家の思想と歴史」の中で、そのシュミットの指摘について
次のように書く。
《自由主義的な国法学が敵味方の実存的対立という政治の領域から目をそらし、ナチスや共産
党に、平等な表現や集会の自由を認めている。彼らを内部の敵として違法化すべきだった。憲
法とは紙に書いた条文ではなく、政治体制そのものであり、その体制を護るものは条文と先例に
よって法的判断を下す裁判官のような法律家でなく、敵と味方を決断し、その決断を現実に貫徹
する最高の政治権力でなければならない》
シュミットはワイマール憲法に内在する“無制限の自由”に対する批判を通してナチスに傾倒し
て行き、33年には入党することになる。そして、戦後はナチ協力者のレッテルを張られ、大学教
育の現場から事実上、追放された。
《寛容の結果》 しかし、ワイマール憲法に対する彼の批判は戦後かなりの部分で受け入れら
れている。西ドイツの基本法(憲法)がナチスとともに共産党を違憲として禁じたのは、ワイマール
憲法の失敗を繰り返さないという反省に基づくものなのだ。
翻って、戦後日本では進歩的文化人と呼ばれる人たちがワイマール憲法とその精神に対し常に
プラス・イメージを抱いてきた。自由と民主主義を基本とし、体制破壊を公言してはばからない者
さえも「寛容」に受け入れるその精神は、日本の戦後憲法に相通じるものがあるからだろう。
オウム真理教によるテロ行為の準備さえもが「宗教の自由」の名のもとに許されてきたのもワイ
マール的寛容の結果ではなかったのか。少なくともそれは、共産党をも禁じた戦後ドイツの基本
法(憲法)とは際立った対照を見せている。
291 :
前田徹:02/04/15 07:02 ID:DRkAu2tp
>>291 土日しかゴルフに行けない君とは、生活レベルが違いすぎる。
自分を基準にするな。
■ 豆事典
▽ミュンヘン一揆 ヒトラーが1923年11月、ワイマール体制を打倒するためナチスの本拠があ
ったバイエルン州のミュンヘンで企てたほう起。11月8日夜、バイエルン州のカール総督の集会
が開催されていたビアホールをヒトラー率いるナチス突撃隊が急襲。ヒトラーはカールを短銃で
脅し、ヒトラー内閣樹立を目的とした「国民革命」に協力するよう強いた。しかし、カールは協力を
拒み、ほう起部隊は翌日、武装警察隊が鎮圧。ヒトラーは2日後に逮捕された。
▽ルール地方占拠 第1次大戦後、ドイツは天文学的な賠償金の支払いを課せられた。しか
し、疲弊したドイツ経済には支払い不可能だったことから、フランスとベルギーは1923年1月、賠
償支払いの不履行を理由にドイツ最大の工業地帯であるルール地方を占拠して強引に賠償の
取り立てを行おうとした。これに対しドイツ首相はルール地方の工場に生産活動の停止を呼び
かけるなどの対抗手段に出て、両国への賠償支払いを事実上、停止しようとした。24年8月、フ
ランス、ベルギー軍が撤退する代わりに、ドイツは5年間にわたって約2億−5億ドルの支払い
を約束するドーズ案がロンドン会談で採択され、事態の収拾が図られた。
▽ドイツの超インフレ ドイツでは1923年、フランス・ベルギー連合軍によるルール地方占拠に
対抗して生産活動の半分以上が停止され、ワイマール政府はマルク紙幣を無制限に印刷して
資金不足を補う政策をとった。この結果、ドイツ国内のインフレに一段と拍車がかかり、物価は1
時間ごとに上昇し、6時間たつとマルクの購買力が3分の1から半分に下落したといわれる。労
働者は日給を手にするとすぐに食料品を買いに走らなければならない状態で、23年10月の時点
では第1次大戦前に比べ通貨量は2940億倍、卸売物価は1兆2600億倍に達した。
294 :
卵の名無しさん:02/04/15 20:11 ID:/qvUu9ZM
STSの親分だね
296 :
卵の名無しさん:02/04/16 00:40 ID:r4KkHlnS
さわやかネット 外部のプロバイダ使ってるんですねぇ、社長。
297 :
辰○:02/04/16 00:49 ID:chGUPEvK
今度はいつ他社誹謗中傷記事ばら撒くの?
298 :
前田徹:02/04/16 06:15 ID:3nYNqRm8
>>297 他社誹謗中傷は行っていません。
本当のことを書かせただけです。
299 :
名無しの総会屋:02/04/16 08:29 ID:20oNP3ed
いろいろ興味を持って読ませてもらっております。
■ 暴走する大衆 アデナウアーの登場
民意よりも政治の安定選ぶ
緑豊かなドイツの田園地帯をライン川がゆったりと流れていく。西ドイツ初代首相、コンラッド・ア
デナウアーの家はそのラインの流れを見下ろす小高い丘の上にあった。傾斜のきつい猫の額の
ような庭にはイタリアの玉遊びの一種「ボッチャ」のための芝がびっしりと敷き詰めてある。晩年
のアデナウアーは回想録を書きながら、暇があればこのゲームに親しんだ。
《30歳で議員》 1967年4月、91歳になっていたアデナウアーは、長男とこのゲームを楽しん
だが、そのとき負けたことを病床で悔しがっていたという。ライン川の見える寝室で、彼が波乱に
満ちた生涯を眠るように閉じたのはそれから間もなくのことだった。
西ドイツの首都、ボンからわずか15キロの小さな村レーンドルフにあるその家は、ドイツ保守本
流の功労者への敬意を込めて、記念館として保存されている。そこに展示されている数多くの資
料によっても明らかなように、アデナウアーこそが、ビスマルク時代のドイツ帝国に生を受け、そ
の後第一次大戦を経て、ワイマール時代、ナチス時代、そして戦後の西ドイツと生きた20世紀
の証言者だった。
1876年1月、ケルンの裁判官の息子として生まれたアデナウアーはわずか30歳でケルン市
会議員に当選している。13歳年下のヒトラーはまだオーストリアの片田舎で画学生を夢見てい
たころのことだ。敬虔なカトリックで、人望も厚い彼は3年後には議長に選出され、第一次大戦中
の1917年にはケルン市長になっている。そして政治的な大混乱期であったワイマール共和国
時代には、州首相にまでなり、政治的名声は着実に知られるようになっていた。
このころまでのアデナウアーは、ビスマルク時代の伝統の中にいた。鉄血宰相と呼ばれたビス
マルクがその政治的手腕を遺憾なく発揮したドイツ帝国は、1871年に生まれ、1918年までの
わずか47年しか続かなかったが、その短い間にドイツ人は初めて国民意識を身につけたとい
われる。ドイツという名でくくられる国家が初めて存在し、しかも、急速に国力を伸ばしていった
のだ。相次ぐ政治的、経済的な成功は国民に大きな自信を与えた。
例えば工業生産ひとつをとっても、19世紀半ばまで世界の半分を占めていたイギリスに、ドイツ
は1900年には追いついている。国力の物差しとなる人口も6千万人を超え、それまでほぼ同
規模だったフランスを圧倒して、文字どおり欧州一の大国にのし上がっていた。
もうひとつこの時代を特色づけているのは、ドイツ帝国と呼ばれてはいたものの、この「帝国」が
実は22君主国と3自由都市から構成される連邦国家だったことだ。国家の権力は皇帝の信任
を受けた宰相に集中する仕組みになってはいたが、連邦参議院(各君主国代表で構成)と帝国議
会(25歳以上男子による普通選挙)によって民意を反映させ、地方分権も行き届いていた。さら
にビスマルク政権は、労働者のための社会保障制度や保護政策を次々と打ち出し、その先進性
は民主国家といわれるイギリスをすでに追い越していた。
アデナウアーはこうした政治の実態を身を持って体験し、政治的な成長を遂げたのだが、その
後に続いたワイマール共和国の混乱と政治の不在の原因についても知り尽くしていた。敗戦直
後の西ドイツの社会民主党議員で、憲法制定会議代表として連合軍との交渉に当たったヨーゼ
フ・フェルダーは、社民党の対立党であるキリスト教民主同盟(CDU)党首だったアデナウアーに
ついて次のように証言している。
「我々はワイマールの失敗を二度と繰り返さないということでは挙国一致であり、憲法制定会議
議長だったアデナウアーに絶大の信頼を置いていた。彼は民主主義の信奉者だったが、同時に
民主主義は自ら守らなければならないことにも気づいていた。国民に再び過ちを犯させないた
め、間接民主主義を徹底し、議員というプロに政治を任せる制度を作ろうとした」
1949年5月、西ドイツ基本法(憲法)は、米英仏連合軍の認可を得て発効した。その内容は、ワ
イマール憲法がドイツ史上最も民衆の政治参加を認めたのに対し、「過度な大衆の政治参加」を
制限していることに特徴づけられている。有権者は賢明ではないことを前提につくられたといわ
れる憲法なのだ。
例えば、国会解散はほとんど不可能にされたし、ドイツ国民の参政権(被選挙権、選挙権)は4年
に1度の連邦衆議院選挙の投票に事実上、限られた。その結果、他の議会制民主主義の国に
比べドイツは極端に総選挙の少ない国になり、初代のアデナウアーから現在のコールまで首相
はこの48年間に6人しかいない。ワイマール時代は14年間に9回の総選挙が行われ、13人の
首相が次々に交代していったことを考えれば、制度の意図は明らかだろう。
政治史学者のゴーロ・マンはこうした基本法の精神について「悲観的見解が加味され、もはや国
民の要望または総意を問うことはなかった」と論評しており、民意よりも政治の安定を選んだア
デナウアーらの意図を鋭く分析している。
また、アデナウアー研究の第一人者として知られるボン大学のハンス=ペーター・シュバルツは
そうしたアデナウアーの政治を次のように性格づけている。
《ナチに疑問》 「アデナウアーはヒトラーが嫌いだった。33年春にヒトラーが総選挙でケルンを
訪問したとき、彼は空港にも出迎えなかった。当時としては非常に勇気のいることだが、むしろ
ナチスの旗を降ろすことさえ命じている。彼はビスマルク時代の安定したドイツ、さらにドイツの
政治風土の伝統といえる地方分権の重要さを熟知していた。革命と称してそうした伝統を否定
し、道徳性の欠如を特色とするナチスに強い疑問を持ったのは当然だろう」
アデナウアーは1933年、ナチスによって公職を追放され、戦後はイギリス軍によっても一時公
職を解かれたことがある。そんな人物が第二次大戦を生き抜き、戦後の初代首相に就任したこ
とは「ドイツにとって幸運だったとしかいいようがない」とシュバルツは断言する。
シュバルツはさらに、戦後の日本が吉田茂という日本の土壌に根付いた保守政治家によって再
建されたことを指摘し、「政治に実験はもういらない」と言うアデナウアーの有名な呼びかけを紹
介してくれた。
■ 豆事典
☆ボン 旧西ドイツの首都。ライン川沿いにあり、ベートーベン生誕の町としても知られる。
☆ケルン ボンの北約25キロにあり、中世にはドイツ最大の都市として繁栄。1248年に起工、
1880年に完成したライン川畔の大聖堂で、故アデナウアー首相のミサが行われた。
☆ドイツ帝国(1871−1918年) 神聖ローマ帝国(962−1806年)に次ぐ第二帝国とも呼ばれる。
1866年の普墺戦争でプロイセンはライバルのオーストリアを破り、22邦からなる北ドイツ連邦を
組織。さらにバイエルンなどの南ドイツも含めた統一ドイツに反対するフランスを普仏戦争(1870
−71年)で破り、人口4100万人のドイツ帝国が誕生した。帝国は連邦国家であったが、人口、面
積とも全ドイツの3分の2を占めるプロイセンが圧倒的優位を占め、プロイセン王がドイツ皇帝を
兼ねた。
☆ビスマルク政権の労働者保護政策 ドイツ帝国の初代宰相ビスマルクは1878年に社会主義
者鎮圧法を制定し、社会民主党などの社会主義運動を弾圧する一方で労働者の懐柔策として
1880年代に社会保険制度を導入し、医療保険法や災害保険法を相次いで制定した。イギリスが
これらの制度を導入したのは20年後、米仏は1930年代に入ってからだった。ビスマルクは労働
時間の短縮などの要求には、産業の国際競争力の維持のため応じなかった。
☆吉田茂(1878−1967年) 第2次大戦前は外交官として奉天総領事、駐イタリア、駐イギリス大
使を歴任した。戦後は1946年の戦後初の総選挙後に第1次吉田内閣を組織。さらに48年から54
年まで(第2−5次吉田内閣)長期政権を維持し、戦後日本政治の基本路線を確立した。51年9
月のサンフランシスコ講和会議では、首席全権として対日講和条約に調印した。
■ 暴走する大衆 民主主義
少数派は“悪”として沈黙する
清水幾太郎は1973年、全集「現代思想」の第1巻で、危機の政治理論家としてドイツの公法学
者カール・シュミットを紹介するにあたり、次のような序文を寄せている。
《世界、日本、会社、家庭を見渡せば、民主主義だけで片づかぬ問題が至る所にある。問題に
よっては民主主義は無力どころか有害でさえある。(中略)どこに民主主義の本当の困難がある
のか、大衆が善人でエリートは悪人なのであるか。私たちの20世紀の意味はどこにあるのか》
この一文が書かれたころにはすでに、日本の隅々にまで民主主義信奉が行き渡っていた。その
最中、まさに時代の風潮に逆らうように、ヒトラー登場を法的に意義づけたシュミットを紹介した
のは、戦後日本の民主主義に対する痛烈な皮肉といえるかもしれない。
《多数の専制》 実際、20世紀とはいったい何だったのか。「ローマ人の物語」を書き続けてい
る作家、塩野七生をローマの書斎に訪ねたさい、彼女は次のように答えた。
「20世紀は人類にとってとても不幸な時代なのかもしれない。それまで西洋が生み続けてきた
理念が枯渇したのに、その後を埋めるべき新たな理念をいまだに作り出せないでいる」
欧州ではオーソドックスな支配階級による政治が営まれ、伝統的思想の系譜が構築されてきた
が、19世紀に入ると、その支配階級の限界をマルクスらが指摘し、万民共通の新たな理念とし
て「自由と民主主義」に注目が集まった。産業革命による経済の急成長もこの理念を支え、人々
はそれを人類の進歩と信じた。
ところが20世紀になって、民主主義が解決できない矛盾を乗り越えようと実験を行った結果、ボ
リシェビズムとナチズムという鬼子をつくってしまった。そうして大きな代償を支払った後、欧州は
次の理念を生み出せないでいる。塩野の話は、おおむねそのようなものだった。
ナチズムの台頭を「自由と平等の理念の崩壊」として捕らえたのは、ピーター・ドラッカーだった。
ヒトラーの政権奪取とほぼ同時に書き始め、第二次大戦前夜に出版した「経済人の終わり」の中
で、ドラッカーはキリスト教文化を根元とする西欧の理念を「大衆に自由と平等を保障するもの」
と定義づけている。
しかし、経済の豊かさでそれを達成しようとする資本主義が破たんし、階級闘争によって同じ理
念を目指す共産主義も信用できなくなったとき、全体主義思想としてのナチズムが「絶望する大
衆」によって支持されたと分析している。
我々が政治のシステムとして至高のものと考える民主主義の概念は19世紀欧州で確立され
た。イギリスの歴史家、E・H・カーはその理念の根拠を「最大多数の人々が正しいと判断し、と
もかく最も強い論証性のゆえに最も多く人の心に受けとめられる道徳的な確実性がそこに存す
る」というジェームズ・ミルの多数派性善説にみている。
自由に対する考えも同様だ。英国のベンサムらが唱えた自由放任は主に経済活動を念頭に置
いたものだったが、「自由、平等、友愛」のフランス革命以来、欧州では自由は紛うかたなき善と
された。政治の自由、貧困からの自由、そして伝統や束縛からの自由…。十九世紀を通じ、そし
て二十世紀に入ってからも加速度的に自由の概念はその領域を広げている。
しかし、19世紀に米国を訪れたフランスの歴史家、アレクシス・ド・トクビルがアメリカ民主主義
のなかに「多数の専制政治」を見抜いたように、若き外交官として20世紀前半の国際政治の現
場に身を置いた体験を持つE・H・カーも1939年の著書「危機の20年」ではこう書くことになる。
「やがて世論とは大衆の意見であるという事になり、自分を教養があり聡明であると考えている
人たちにとっては、この信念の魅力は薄くなっていた。すでに1859年にJ・S・ミルは彼の自由
論のなかで“多数の専制”を何よりも危惧したのであった」
「危機の20年」には、さらに次のような苦い指摘もある。「世論への19世紀の信仰は、第一に
世論は結局は勝つべきものであるということであり、第二に世論は常に正しいということである。
しかし、これが無批判に国際政治の分野で再生されてしまった」
世論への過度の信奉こそが20世紀に多発する国際紛争の原因のひとつであるとカーは考えた
のだ。民主主義の根元にかかわる疑問として、清水幾太郎が「大衆が善人で、エリートは悪人な
のか」という刺激ある問いかけを行ったのも、この点をついたものだろう。
《権利の肥大》 欲望にとらわれ目先のことしか目に入らない大衆と、聡明でありながら少数派
にならざるを得ないエリート。今世紀初頭の哲学者、オルテガも「大衆の反逆」の中で、こうした
対比を用いている。
そして、「海の都の物語(ベネチア)」や「ローマ人の物語」などの著作を通して、いわゆる大衆民
主主義と対峙(たいじ)するものとしての少数エリートによる政治やローマ帝国がどう機能したか
の秘密を提示しようとしている塩野は、オルテガやカーが指摘した多数決民主主義の危険を「サ
イレント・マイノリティー(沈黙する少数派)」という言葉で表現する。
多数の意見(世論)に大きく左右される民主主義の危うさは、現代に暮らす私たちもしばしば体験
している。戦後という時代を長い間、支配していた米ソの冷戦という世界秩序の構造が解けたい
ま、日本の政治がなぜかワイマール時代のドイツを思わせるような混乱の中に迷い込んでしま
ったのも、民主主義の持つ本質的な危うさと、おそらく無関係ではない。
多数の専制と同様、無制限の自由への信奉も拡大再生産の運命をたどり、国家に対する権利
意識の肥大化と義務の放棄という形で表れているように思える。
大衆化現象がもたらした不幸ともいうべき負の遺産をどのようにして乗り越えることができるのか?、
20世紀の前半を生きたカーやオルテガは「歴史は後戻りできない」という点で一致してお
り、いずれは新しい理念が誕生して人類は新時代に向けて進み続けるだろうという楽観論を共
通して持っていた。
しかし、その一方で例えば、塩野が国際政治学者の故高坂正堯との間でかわした議論の中では
「すべてが停滞した中世のような状況に人類は入り込んでしまうかもしれない」という悲観論も出
ている。
大衆が主役に躍り出た20世紀という時代の世紀末である今、そのどちらがより現実味をもって
いるのだろうか?
<暴走する大衆:終わり>
■豆事典
☆清水幾太郎(しみず・いくたろう=1907−88年) 社会学者、評論家。戦前の読売新聞論説委
員などを経て、第2次大戦後は「民主主義の哲学」などの著作や新聞、雑誌への寄稿で戦後民
主主義のオピニオンリーダーとして注目された。1960年の日米安保条約反対闘争では先頭に立
って論陣を張ったが、闘争終息後は技術革新と経済成長による近代化論を展開してイデオロギ
ー時代の終焉を強調。さらに70年代には天皇制を擁護して戦後政治と戦後教育を否定するな
ど、その言動の振幅の大きさはかつての支持者を戸惑わせた。
☆ピーター・ドラッカー(1909年− ) ウィーン出身の米国の経営学者。1933年、ナチスの圧迫
を逃れて英国に渡り、37年から米国に移った。39年、ナチスを分析した「経済人の終わり」を発
表。戦後はニューヨーク大学やクレアモント大学の教授となる一方で経営コンサルタントとしても
活躍、「会社という概念」「現代の経営」「断絶の時代」などの著書がある。
☆ジェームズ・ミル(1773−1836年) 英国の思想家。哲学、心理学、経済学にわたる著作を通
し、功利主義の普及に貢献した。哲学者のジョン・スチュアート・ミルは長男。
☆ジェレミー・ベンサム(1748−1832年) 英国の哲学者、法学者。幸福は快楽の量によるという
功利主義の原則により、「最大多数の最大幸福」を立法の理想とした。
☆アレクシス・ド・トクビル(1805−59年) フランスの政治家、歴史家。1831年から9カ月間、米国
を旅行し、帰国後、「アメリカの民主主義」を執筆した。フランスの2月革命翌年の49年、外務大
臣に就任したが、52年のナポレオン3世のクーデターに反対して逮捕され、政界を退いた。
■ 世銀の途上国援助、無償に
米専門家が寄稿 従来の政策を批判
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0107/27/html/0727side015.html 【ワシントン26日=古森義久】 米国のブッシュ政権に近い経済、金融の専門家2人が26日、
米国大手紙への寄稿で、世界銀行がブッシュ政権の提唱する開発途上国への援助の有償
から無償への切り替えに反対するのは間違いだと主張した。ブッシュ政権内外からは世銀や
国際通貨基金(IMF) などの途上国への従来の政策への反対が強まっている。
カーネギーメロン大学ゲイロット公共政策研究所のアダム・ケリック所長とアラン・メルザー会
長は連名で26日付のウォールストリート・ジャーナルに「世界銀行の贈与への反対は間違い」
と題する論文を発表し、世銀の有償(融資)援助主体のこれまでの開発途上国への援助政策は
間違いだと批判した。
同論文は世銀主導の下で過去五十年間に総額五千億ドルもの援助が有償を主体に供与され
たが、受け取り手の貧困国の側は返済のできない債務が42カ国で1750億ドルに達し、援助
対象プロジェクトも満足できる結果が得られたのは3分の1に過ぎず、1980年以来、受け入れ
国の生活水準は25%も下がっている、と述べている。
同論文はこの失敗の大きな原因は援助の受け手が債務の返済負担に苦しむことにあるとして、
特に世銀グループの国際開発協会(IDA)の毎年六十億ドルにのぼる貧困国への有償援助を無
償にすべきだと主張している。メルザー氏らは共和党系の専門家で、ブッシュ政権にも近いとさ
れる。
日本政府は世銀グループへの世界第二のODA(政府開発援助)資金拠出国として長年、世銀の
この有償援助主体の政策を積極的に支えてきた。
■ 「法輪功」が抗議行動 国慶節の天安門広場
当局、500人を拘束
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0010/02/paper/today/internat/02int001.htm 【北京1日=古森義久】 国慶節の祝賀の群衆でにぎわう北京の天安門広場で一日午前、中国当
局から邪教と断じられている気功集団の「法輪功」メンバー多数が突然、横断幕などを掲げて波状
の抗議行動を展開した。中国当局はただちに大量の治安要員を投入して実力で検挙にあたり、少
なくとも五百人を身柄拘束した。天安門広場はこの騒ぎで一時、閉鎖された。
建国51周年を祝う国慶節の1日午前九時すぎ、数万の一般民衆で埋まった天安門広場で百人ほ
どの男女が法輪功のスローガンの「真・善・忍」と書かれた横断幕などを突然、広げ、「法輪功は犯
罪ではない」などと叫び始めた。治安当局はすぐに一千人以上の要員を出動させ、抗議行動参加
の全員の身柄拘束を始めた。この過程では多数の男女を殴るけるという行動もとられ、警察のバス
まで血だらけの法輪功メンバーたちが引きずられるという光景も出現した。
当局が当面の抗議者を連行して去ると、天安門広場ではこんどは別の法輪功集団がまた同様に抗
議活動を始めた。当局は新たな治安部隊を導入して、一斉に検挙し、同様にバスに押し込めて連れ
去った。
目撃者らの話では、この抗議行動は数波にわたって続き、その結果、少なくとも五百人、場合によって
は一千人近くが当局に身柄を拘束されたという。天安門広場は一時閉鎖の後、一日午後には一応ま
た正常にもどった。
308 :
WHY:02/04/16 17:49 ID:2xfbZZh/
――――――――――――――――――
糞スレだワショーイ
___ ___r――――――――――――――
∨‖ | どうしてこんな糞スレが残ってるの?
// ‖ |___ ___________
/ ‖ / ∨ ヾ:::::ソ;/∧_∧ _________
‖ // |三| " , 、 ミ /
/ ‖ ノ::i::i:;;ヽゝ∀ く <
>>1がバカだからよ
/■\∩ ∧_∧∩:::::i;;;;/ ノ ̄ヾ i \
二二( ´∀`)ノ二 ( ´∀`)ノ~~~~し旦旦とノ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
__( ノ ( ノ | _ノミ
|\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\|___/|
\ \ \ | |
309 :
卵の名無しさん:02/04/16 21:14 ID:/PgTiGcb
他社誹謗中傷記事の内容アップしてもらえませんでしょうか?
↓ ↓ ↓
297 :辰○ :02/04/16 00:49 ID:chGUPEvK
今度はいつ他社誹謗中傷記事ばら撒くの?
298 :前田徹 :02/04/16 06:15 ID:3nYNqRm8
>>297 他社誹謗中傷は行っていません。
本当のことを書かせただけです。
299 :名無しの総会屋 :02/04/16 08:29 ID:20oNP3ed
いろいろ興味を持って読ませてもらっております。
311 :
卵の名無しさん:02/04/16 21:40 ID:Wt+wt9UG
ここの社長あまり顔写真を新聞とかに出さない方がいいと思うよ。
人相悪すぎのように思うのですが、いかがなものでしょう?
312 :
おいコラ:02/04/17 12:23 ID:z238d1OJ
>>311に同意
しかもあの去年の読売の一面広告はなんじゃ!!
薬価計算シミュレーションなんぞして、ある高脂血症薬の場合ゾロならこれだけ負担軽減できます
ってな具合な文章のっけてたべ!?
あんでうちのベ○ト○ルを目の仇にするんじゃ!!!!
313 :
おいコラ:02/04/17 12:40 ID:z238d1OJ
な!今 おたくのHP見たら新薬価でご丁寧にシミュレーションされてるじゃねぇぇぇぇか!!
うちのベ○ト○ルだって11%ダウンの上、シェアだって落ちてんだから
勘弁してくれや〜〜〜〜
314 :
卵の名無しさん:02/04/17 19:40 ID:WYknJHMC
多分、ねつ○やってるでしょうから、同等かどうか分かりませんのであしからず。
315 :
シ○○ギ:02/04/17 22:21 ID:OtT2QBLd
おらぁぁ! ゴキブリゾロ野郎! おまえらは3流のヤブ開業医だけを相手にせしとけ!
自分でなんにもせんと他人のふんどしで相撲をとるってのをちょっとは恥じろ!
本当に塩野義なら同情するなぁ。
塩野義のMRはプライドあると思ったが、「時代は変わる」かなぁ。
317 :
耐用:02/04/18 07:19 ID:UMb6LcNw
>>315 ×井製薬とはこんな会社です。あきらめましょう。
自分がいつも正しいニダ。
王朝の呪縛 朝鮮時代は清算されたか 金容雲
ムラ的思考 朝鮮(李)朝500年の遺制 南北ともに歴々と
朝鮮王朝は、前王朝・高麗の武臣であった李成桂によって樹立された。1392年、日本では南
北朝が合体した年である。当時、日本の覇権は足利氏にあり、その後、応仁の乱(1457年)に
よって始まる戦国百年、織田、豊臣の時代を経て徳川政権、明治維新を体験する。
またこの年は、中国においては元王朝を倒した明の太祖25年目にあたる。明が清にとって変わ
られるのは1644年、その後清は朝鮮王朝没落の直後に崩壊し、中華民国となった。
こうした隣国の栄枯盛衰をよそに、朝鮮王朝は頑として、延々500年の長きにわたって李氏王
朝を守り続けた。その間、朝鮮侵略を犯した豊臣家、またそれに対抗して朝鮮に出兵した明王
朝が滅亡したにもかかわらず、朝鮮王朝は生き残った。ちょうど手足を切られたトカゲがその傷
を癒(いや)し、新たな生命を持つように、朝鮮王朝はしぶとく生命を保った。
儒教と閉鎖文化
朝鮮王朝および清王朝、そして江戸幕府には奇妙な共通点があった。それらの政権は共通して
クーデター、または革命によって前政権を倒したものが樹立し、それらのすべてが「馬上に天下
を取るとも馬上で天下を治む能(あた)はず」との漢高祖の警句を身をもって認識していた。干戈
(かんか)の熱をさまさせるに儒教に勝るものはなく、それを政治イデオロギーとして採択したこ
と、また鎖国を断行し、ほとんど完全な閉鎖体系の文化を作りあげたことなどが共通点である。
儒教は復古志向であり、内面から国内の体制を凍結させる。併せて鎖国政策は外部からの風
穴を完全にシャットアウトする。体制にひび割れを生じさせる恐れのあるものはすべて排斥さ
れ、特にエネルギーが蓄積されることが最も恐れられた。経済的・軍事的・科学的知識の蓄積は
陰に陽に妨げられた。それらの政策は覿面(てきめん)の効果をもたらし、良くも悪しくも朝鮮、
清、江戸時代に個性の強い独自の文化を作りだした。この時代の文化の諸相は、年月を経るに
従いますます硬直化現象を示すようになっていった。
儒教は礼を尊ぶ。また礼は、法と形式化を伴う。生産性と経済力の低さが、いったん形作られた
体制を無理矢理に固めることを促進した。ちょうど、濁った水を長期間器に入れたまま静止させ
たと同じ現象である。器がじっとしていても、内部での沈殿作用は休みなく進行し、ついには沈
殿物は凝固していくのである。
朝鮮時代とは何か
朝鮮時代の初期、中期、末期はそれぞれ異なる文化を持つ。特に末期にいたるとほとんど沈殿
物は固着化した。江戸や清の時代にも似たような現象は見られる。しかし何せ、500年は長す
ぎた。現在の韓国人の考え方、行動に朝鮮時代の残滓(ざんし)が歴々としているのはそのため
である。
現在の韓国人にとって、朝鮮時代とはいかなる意味を持つのであろうか。
私達にとって、朝鮮時代は過去のものではない。しかもその亡霊は慰められることも、清算され
ることもなく今日までそこら中に尾を引いている。私たちには清算の機会すら与えられなかった。
植民地時代の韓国知識人たちに、朝鮮時代の意識を改める機会はなかった。与えられた選択
は独立運動か、あるいは自虐に陥ることのみで、その他の道はなかった。解放はすなわち冷戦
体制への編入であり、南北独立、朝鮮戦争を通じて民族間の憎悪の念だけが増幅し続けてき
た。つまり朝鮮時代の沈殿物、民俗集合体の無意識の中に定着した否定的な価値観に対する
反省が一度もなされなかった。結局朝鮮時代は、500年ならぬ600年を重ねてもそのぶざまな
姿をさらしているのである。その点で南北共に韓国民は、同じ問題をかかえているのだ。
追って韓国人(南)、在日韓国人などについても論及するつもりであるが、とりあえずわかりやす
い例として、北の金正日体制を観察してみたい。
「北」体制との酷似
北朝鮮は社会主義体制を標榜(ひょうぼう)しながらも、その実体は朝鮮時代の構造と全く同じ
である。 朝鮮王朝は中国産の朱子学を韓国化し、朝鮮朱子学を政治イデオロギーとした。北朝
鮮はソ連産の共産主義を朝鮮化し、主体思想を政治イデオロギーとした。
朝鮮王朝の理想は「東方礼儀の国」、すなわち儒教の理想を全うした東方(=朝鮮国)を作るこ
とだった。北朝鮮の理想は、主体思想をもって全世界の社会主義国の摸範となることである。
朝鮮王朝のエリートは儒教的素養を身につけた両班(ヤンバン)である。北朝鮮では共産主義
思想で身をかためた党員がそれにあたる。 朝鮮王朝の最もきびしい弾圧の対象とその名目
は、「斯文(しぶん)乱賊」すなわち儒教思想を乱すものである。北朝鮮の最もきびしい弾圧の対
象とその名目は「反動」、すなわち主体、もしくは共産主義思想に反するものである。
朝鮮王朝下の弾圧は「減五族(五族とは自分の家族、兄弟・父・祖父の家族、妻の家族、母方の
家族)であり、姻戚(いんせき)のほとんどに及ぶ。北朝鮮では「反動家族」が弾圧(粛清)の対
象であり、両者共に連座制である。 両者が共に鎖国、世襲制度を基本とし、実質的に家門国家
であることも共通だ。
朝鮮時代は当然、良いものも多く生み出した。しかし私は、良し悪しを超越したところで、その実
体と今日への影響を考えてゆきたい。
「魔の繰り返し」と啓蒙運動
マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で、ヘーゲルの言葉を引用しながら、「あら
ゆる歴史的大事件、大人物は二度あらわれる。最初は悲劇として、二度目はコメディーとして」と
皮肉っている。フランスは西欧デモクラシーの長い伝統を持つ。その一方、ナポレオンを筆頭と
してドゴールに至るまで、独裁的傾向のある人物が折にふれて登場する。特にナポレオン一世
と約25年の間隔で登場したナポレオン三世は、同じように独裁的であった。
近世以後の韓国政治史において政権交代は、権威的な指導者の下に、改革、あるいは過去の
清算という名目で出発した。しかしこれら指導者はすべて、拉致(らち)、亡命、暗殺、刑務所行
きなどの挫折と屈辱の体験をなめた。なぜこのような繰り返しが起きるのであろうか?
第一次世界大戦の渦中、25歳のアーノルド・トインビーは母校オクスフォードでツキディディス
について論議していた時、突然に歴史の神秘的な共時性を実感したと伝えられている。 「この
時、私は突然霊感に打たれた。……年代記が何と言おうと、ツキディディスの世界と私の世界が
哲学的に同時代であるという実感である」。このショックが契機となって、彼は『歴史研究』8巻を
著述した。ギリシャのツキディディスとトインビーの間には2千年の長い歳月が横たわっているに
もかかわらず、ツキディディスが体験したペロポネソス戦争と第一次世界大戦の構造が共通して
いるということである。これら著名な歴史家以外にも、多くの知性は「歴史の繰り返し」を実感し、
衝撃を受けてきた。しかし私の知る限り、誰もその理由をはっきりと説明してくれた者はいない。
ムラ的原型と身内優先主義
私はその理由を「民族の変わらない基本的な性格(原型)が、同じような歴史的環境の中に置か
れると同じ反応を示すためである」と規定し、その立場から「原型史観」を提唱してきた。
朝鮮王朝末の大院君以来、歴代韓国大統領たちが共通して挫折を味わったその本質的な理由
は、韓国人のマウル(ムラ)的な原型が今日の産業社会の構造にマッチしないためである。朝鮮
時代であったら何の変哲もない行為が、今日的状況の中では大きな事件を巻き起こすのだ。
韓国のマウル(ムラ)的性格は、韓国のことわざでいえば「腕は内側にしか曲がらない」という
「身内優先主義」である。朝鮮王朝が樹立された14世紀末以来、零細な経済力しか持たない農
耕社会が朝鮮末期まで綿々として続いた。朝鮮末には約八万の自然部落が朝鮮全土に散在し
ていた。マウルの生活は相互扶助の精神で維持され、悪質官吏あるいは侵略者に対抗してい
た。自分たちを保護するのは王でも官吏でもない。マウルと身内のものたちだけである。それが
惰性となり、身内優先主義を倫理化するに至ったのだ。
しかし、近代化は産業化を意味し、国民国家を要請する。かつては地域、大きくは国を守った精
神性が、逆に機能することになるのだ。特に指導者は身内、郷党よりも国民全体を同等に扱うこ
とに神経を使わなければ国民的支持を得られない。例えば、田舎の渡し舟の船頭であれば、身
内の者、同じ村の者を優先させても別に支障はない。しかし国際化社会の荒海を乗り切らねば
ならない国民国家「大韓民国号」の船長が身内優先主義の立場にあれば、少しの風雨にも耐え
られずに必ず挫折する。
政治力による過去との断絶
近代化とは伝統的な価値観を打ち壊し、産業社会に相応しいものに変えてゆくことから始まる。
近代科学はデカルトの言う「分析と総合」にある。自然のままの物質を分子、原子などの微粒子
にまで分析し、それを一定の計画によって再生させる。ちょうど石を砕いてセメントを作り、ビル
ディングを作るのと同じ過程である。
植民地になることの最大の悲劇は、伝統が他国の意図によって暴力的に打ち砕かれ、彼らの利
に沿って己の意にはそぐわない価値観を強要されることにある。日本は黒船の脅威に屈したと
はいえ、自分の力で文明開化の門を開いた。司馬遼太郎は、日本近代化の成功には在野の啓
蒙運動が大きく寄与していることを指摘していた。
韓国人にはその機会がなかった。あったにしても長い朝鮮王朝の寿命が呪縛となって、それを
困難なものにした。解放後は民衆の力よりもむしろ政治力による過去との断絶が試みられた。
大韓民国の初代大統領・李承晩は次のような言葉を述べている。「地域的観念を取り除き、ひい
ては一団として仕事を進めなければならない。男女の区別をなくし、一つの心、一つの力で輝か
しい時代を迎えなくてはならない。わが民族、国土、精神、生活、人権、政治、文化…すべてが
一つだ。一つになるためにすべての障害を除こう。自分勝手な気持ちを持つようになるとき、民
族は分裂し、崩壊する。離れることは死、一団になって生きることに民族の生きる道がある」
その頃田舎教師であった筆者は、毎日朝礼の時、生徒とともに「国も一つ、民族も一つ」と暗誦
し、「一民主義万歳」を叫んだ。同じ頃、金日成もまた同じようなことを言っていた。
起こらなかった在野の啓蒙運動
民衆の中から自然に発生したのでない啓蒙運動は、醜悪化した伝統的価値観を大げさに罵倒し
ながらも、ついには権力者の都合のよい形に変化してゆく。李承晩の独裁、金日成の主体思想
はその過程を経て作られた。李承晩の「一民主義」の斉唱の中で、浮気者の亭主に「妻も一人」
ということをことさらに認識させる、といったマンガ的な現象すら現れた。結局、李承晩の一民主
義は笑いものになり、人心が離れていく。一方で金日成体制にはそんな自由もなかった。
私たちには民衆次元での自発的な啓蒙運動はなく、朝鮮時代とほとんど変わらない原型を持ち
続け、ことあるごとに挫折を味わい、歴代大統領の悲劇を体験してきたのである。
すべてはウリ式がだめにした
韓国と日本の最も大きな共通点のひとつは、両者が共に強い国民意識を持っていることと言え
よう。E・ライシャワーは世界中で韓国と日本だけが完璧な国民国家であると指摘し、次のように
述べている。「この2ケ国と比べ、より徹底した単一の文化と言語を持ち、地理的には外部より
はっきりと隔絶され、さらに単一言語・文化の単位を完全な形で備えた古くからの政治単位の例
を私は他に見ない。朝鮮と日本は国民国家の典型である」 (『アジアのナショナリズム』)
ここでライシャワーの言う国民国家は、政治単位と文化・言語単位が一致しており、それが自然
の地理的境界によってはっきり認識できるという意味である。一方には、ナポレオン以後、自国
市場の拡大、汎(はん)国民的利益の追求、全国民の平等の権利と義務を賦与し、地域間・家
門間の差別を排除する国家体制がある。前者を自然的国民国家、後者を近代的国民国家と呼
ぼう。日本は自然的なものを近代的国民国家へと転移させた最高の例と言える。
朝鮮は近代的国民国家に転移することに失敗した。朝鮮王朝と金日成王朝は、近代的国民国
家ではなく家門国家である。朝鮮王朝は国民よりも李氏家門の宗廟(びょう)が大切であったし、
金日成体制にとってもそれは変わりない。
身内優先主義と地域差別
大きく南北統一、小さくは近代的国民国家形成を妨げている最も大きな理由は、韓国人の「ウ
リ」(私達=身内)意識である。両者が一斉に「それはウリのものだ」と叫び出すと、ほとんど妥
協することができない。
李承晩は一民主義を打ち出し、近代的国民国家形成を目標にしたにもかかわらず「ウリ意識」で
挫折した。彼は米国で最高の教育を受け、西欧的教養も十分に身につけていた。それにもかか
わらず、「ウリ意識」につまずいたのである。彼は李王家と縁続きであり、李氏家門に対する執
着があった。執権10年目にして後継者に選んだのは、養子の父である同族の李起鵬であった。
果てには、無理矢理に不正選挙を断行し、4・19学生革命を引き起こし、結局亡命せざるを得
なかった。
朴正熙大統領は産業化に力を尽し、今日の経済的成功の基盤を敷いた。しかし政権末期に彼
の採択した選挙戦術は、なんと韓国人の病的な「ウリ意識」を拡大し、利用することであった。彼
の出身は慶尚道、政敵は全羅道。地域差別政策を実施した彼のスローガンは「新羅が千年目に
してやっと政権を得た。新羅王朝の栄華を復活させるため、慶尚道人は慶尚道人(朴正熙)に投
票しよう」であった。
当時の選挙戦略の統括者はKCIA長官の李厚洛であった。その内容は『実録青瓦台』(中央日
報発行)にはっきりと書かれている。「このままでは負ける。勝つためには人口の少ない相手側
の地域(全羅道)を孤立させよう」というのである。
朴正熙は産業・経済を通じての近代化には成功した。しかし、その成功は近代国民国家を要請
する。それが「ウリ(地域)意識」と葛藤(かっとう)を起こすことはいうまでもない。この矛盾の中
で反体制運動が激化し、朴正熙はついにその渦中で暗殺された。
「往復ビンタ」と共倒れの構造
地域差別政策は昔、日本軍でよく制裁の道具として使われた「往復ビンタ」と同じ構造を持つ。
仲間どうしを向かい合わせに立たせ、交替でビンタを張らせるのである。手加減をすると下士官
が殴る。ひょっとした調子で力が入りすぎると、相手はそれ以上の力でビンタを張り返す……次
第にエスカレートして、ついには両者とも倒れるまでに至る。地域差別も同じで、初めのうちは軽
いいたずら気分であったのかもしれない。しかし時の経過とともにエスカレートし、ほとんど相手
を敵とみなすようにまでなってしまった。
全斗煥、廬泰愚の両者は共に慶尚道大邱出身の軍人で、朴正熈の愛弟子であった。彼らの政
権奪取の方法も全羅道イジメであった。「ウリ(慶尚道)」の支持を得るため、光州(全羅道)をス
ケープゴートに仕立てたのである。全斗煥は、光州で虐殺を敢行し、恐怖ムードをあおりたてて
大統領におさまった。しかし彼らとて、経済成長を目論む以上、近代国民国家形成に力を入れざ
るを得ない。それが「ウリ主義」、すなわち「慶尚道・大邱(TK)中心主義」とは根本的に矛盾した
ため、結局刑務所行きとなった。
身内の悪業なら可愛いもの?
金泳三政権の選挙政策もまた、同じく「ウリ主義」であった。同じ慶尚道の人間同士を結束させ
るスローガンとして、慶尚道の方言「ウリナムイカ」(われわれは他人ではない)が氾濫(はんら
ん)した。「ウリ主義」が生んだことわざが「ウチの娘はあばただから可愛い」である。日本の「あ
ばたもえくぼ」に相当する。しかしこちらはもっとあくどく、「ウリ(身内)なら、悪いことをするほど
可愛い」という意味があるのだ。不正選挙、選挙法違反、あらゆる犯罪行為も慶尚道政権のた
めには可愛く、正しいとみなすのである。
その政権は徹底してPK偏重(Pusan Kyonsando)となる。現政権の最大の政治疑惑の中心である
財閥「韓宝」も例外ではない。力のあるポストはすべてPK出身一色である。国際化、近代化を
進めようとすれば当然矛盾が露出し、前途は思いやられる。
トインビーは2000年以上の歳月の間隔をおいて「歴史の繰り返し」を実感したという。不幸にも
わが国はわずか50年の歳月の中で、5回以上の「魔の繰り返し」を体験してきた。それもすべ
て、病的な「ウリ主義」のためなのである。
春香(チュニャン) 春香の「しつこさ」とメシア思想
韓国人の最も好むパンソリ(唱劇)が「春香(チュニャン)伝」だ。所は全羅南道南原、いやしい妓
生(キーセン)と両班との間に生まれた春香は府使(地方長官)の息子・李夢龍に見そめられて
結婚する。その後、夫は科挙を目指して上京する。新しく赴任した卞使道は春香の美しさに横恋
慕、権力をもって夜伽(よとぎ)を命じる。しかし春香は頑とはねつけ、「拒逆長官」の罪で処刑さ
れることになる。春香の夫・李夢龍は科挙に首席で合格、王の密命をおびて地方官の非を摘発
する任務を担った「暗行御使」となって乞食に身をやつし南原に忍び入る。処刑の前夜、何とか
獄中の春香に面会する。
春香は夫の成功を知るよしもなく、「乞食となっても夫は夫、私はあなたへの操を立てて死んで
いきます。何とぞ末長く生き長らえてくださいますよう」と涙を流す。その翌日卞使道は自分の誕
生祝いの宴を張り、その余興として春香を処刑することにする。そこへ暗行御使・李夢龍が正体
を現し、卞使道を腐敗官吏として逮捕し、春香を無事救出する。めでたし、めでたし。
現実的な弥勒思想
韓日の仏教史を通じて、衆生に救いを与えるものとして弥勒さま、阿弥陀さまへの信仰がある。
特に広隆寺弥勒菩薩半跏惟像は日本の国宝第一号であり、それとうり二つともいえる弥勒仏が
ソウルの国立博物館にある。
十数年前、「韓国美術五千年展」が日本で開かれた際、それが大きな反響を呼んだ。観覧者の
多くは漠然とながらも当然ある時期まで朝鮮、日本で同じ程度の弥勒信仰があったものと考えも
した。しかし歴史をさかのぼってみると、両国民の弥勒信仰に対する態度が大きく異なることに
気がつく。
弥勒仏は現世で若死にしたかわりに、つぎの世に現れる時には希望をもたらしてくれるという。
それは56億7千万年後であり、その時理想的な世の中がくる。この思想が「春香好み」の韓国
人の無意識にふれるとが然現実味を帯びて、明日にでもすぐ弥勒の下生(げしょう=この世に
現れること)があるように考えられてくる。
日本人は韓国人に対してよく「しつこい」という。淡白、あっさり志向の日本人にとって、なかなか
「参った」と言わない韓国人に対する嫌味としてよく用いられる言葉だ。「往生際が汚い」「しつこ
い」などと否定的に感じる人にとって「春香」の意地は理解しにくいだろう。
植民地時代、反戦運動家、共産主義者など最後まで変節しなかったものは、人口比で考えた場
合、朝鮮人の方が日本人よりもずっと多かった。それは単なる偶然ではなく、「春香」的な考え方
に通じるものがあるからだ。現実にはもちろん絶対にあり得なかった話だが、朝鮮時代の農民た
ちは「春香伝」に熱狂した。解放直後のころまでも村ごとに筆写本の「春香伝」が伝わっており、
農閑期の夜には「話し方」と呼ばれる人が車座に座った人たちの中で、これを節回しよろしく読
み上げる光景が見られた。農民たちはいくら聞かされても飽くことなく、同じ場面で手に汗を握
り、涙を流し、喜びを分かち合っていた。これほど朝鮮人の集団無意識をゆさぶり、また韓国人
の原型を理解するに適するものはない。この話には時代を経るとともに農民たちのあこがれ、期
待がどんどん組み込まれていった。
韓国人の上昇志向
韓国人の原型と春香の世界の関係を考えてみることとしよう。
1・たとえ父は両班であったといえ、妾生の娘として生まれた春香が両班(府使)の御曹司と結婚
するなどとは考えられない。絶対になかったといってもよい。しかし話の中で結婚させてしまった
のは朝鮮人の上昇志向のためである。何せだれもが両班であると思い込むことのできる民族で
ある。いくら制度をもって禁じられようとも、無意識の中ではそれを期待する。
ほとんどの韓国人は今日の日本に部落差別と、それに対する糾弾の運動があることをまったく
理解していない。かつてあれほど巨大な軍隊を持ち、原子爆弾の洗礼を受けた国が差別の因習
をなぜ今日まで残存させることができるのであろうか?
水平社運動に始まる部落解放の動きにもかかわらず、差別が長く残ってきたのは、「高根の花
を望んではならない。分を守ることをよしとせよ」という封建時代以来の因習が人々の目を曇ら
せ、差別を温存させてきた結果なのではあるまいか。韓国にも身分差別はあった。しかし彼らの
上昇志向は、差別の殻をぶちこわし、平民はおろか両班と同じ行動を取り、ついにその存在を
消していった。
どちらの国にも封建時代、一揆はあった。しかし日本の場合はせいぜい「年貢をまけてくれ」で
あった。朝鮮の場合は地位の向上を強請する。高麗時代の奴隷反乱(萬積の乱=1198年)の
宣言は「人間には元来偉くなる者と卑しい者との区別はない」であった。封建から近代への変革
に伴う危機意識の表明の仕方も異なる。300万人が参加した日本の「お伊勢参り」「ええじゃな
いか」などの大衆熱狂カーニバル的な動きとは異なり、韓国民衆は東学運動で人権、反封建、
反外勢の態度をはっきりと打ち出し、政府軍や日本軍とも戦った。
「お前は死んでも俺は生き残る」
2・獄中の春香が、夫が成功して無事に帰り、自分を救ってくれることを信じる心情は、宗教的に
はメシア思想、低い次元では「錦衣還郷」の願望を表している。 歴史上3年に1回の割で外国の
侵略を受け、不当な権力の圧迫の中で韓国人が夢見たのはつねにメシア的な存在であり、弥勒
さまがもたらしてくれる理想社会であった。56億7千万年後の願いがすぐ明日にでも実現される
と思い込めるのは、侵略者が必ず退却していったという事実と、朝鮮時代の稲作法にも深い関
係があろう。主として雨水だけに頼る天水田の多かったことと、韓国的な集中豪雨が干ばつの
続く間「待つ心」を形成した。いくら長い日照りであろうとも、必ず雨は降った。
韓国人はほとんど口癖のように「死にそうだ」(チュッケッタ)という。しかしそれは「生き残らねば
ならない」という意味に使う。何か事がある時、「お前と一緒に死んでやる」という脅しもよく使う。
それは「お前が死ぬことはあっても俺は生き残る」という意味にとればよい。
北朝鮮の特殊工作員とは異なり、最後まで生還の希望を捨てない。私は北が破れかぶれになっ
て戦争に持ち込むことはないと確信している。いくら苦しくても、自分たちの死が明らかな時は先
に手を出さない。私は黄長が何といおうと、重大な決断に際しては民族原型(集団的無意識)が
決定的な影響を与えるものと信じている。
「左様なら」と言わない春香
黄長p}は亡命に際し、「北の指導部はやけをおこして戦争を仕掛ける可能性が多分にある。戦
争が起こらぬと信じるのは狂気のさただ」と発言し世界の耳目を集めた。これに関して思い起こ
されるのが第二次大戦直前の日本の態度である。
米国は対日戦略物資の禁輸を発表し、次々とその範囲を狭め、ついに在米の日本資金凍結を
断行した。そのころ在日米外交官の一人が米国防省対日政策の責任者ホーンベック極東担当
顧問に対して、東京のアメリカ大使館にみなぎる戦争切迫の憂慮を伝えた。「日本は絶望的な
気分にまかせて奇襲するかもしれない」という意見である。それに対しホーンベックは半ば軽蔑
調で「おい君! 歴史上絶望感から戦争を始めた国があるなら一つでもその例を挙げてくれ」と
言ったという。
ホーンベックが「忠臣蔵」について深い知識があったなら、そのような断定はしなかったであろう
日本人は朝鮮人が「春香伝」に熱狂した以上に「忠臣蔵」に陶酔した。他の国の人々にはとうて
い理解し得ない日本人の集団無意識である。私が黄長p}の発言を疑問視するのは韓国人の「春
香」的なあきらめのない原型を信じるためである。
特攻隊と「参った」精神
過去北朝鮮は何度も特攻隊を派遣し、南側に少なからざる攻撃を与えた。30年ほど前、金日成
は金新朝を含む一小隊の特攻隊にソウル大統領官邸を奇襲させた。彼らは官邸の塀ぎわにま
で接近したにもかかわらず、警察官の一発のピストルに隊を崩して北方に逃散した。
彼らのほとんどは射殺され金新朝は捕虜となったが、一部はうまく休戦ラインを越え、賞すらも
らっている。もし彼らがそのまま官邸内に飛び込んで乱射したとしたら、とんでもない被害が出た
であろう。
KAL機を爆発させた金賢姫がもし死を決してそのままKAL機に搭乗していたら、韓国側は何ら
の証拠をつかむこともできなかったはずである。
ラングーンでの全斗煥元大統領暗殺計画の時も、犯人たちが逃亡することを前提にしていたた
め捕らえられ、おめおめ証拠をつかまれた。これが日本式特攻隊員であったとしたら、はじめか
ら生還は考えられない。特攻機、特攻艦は帰途の燃料すら持ってゆくことはなかった。
数年前、私は上野広小路の地下鉄駅で会津の銘酒「会津櫻」の大きな広告を見て瞬間ぎょっと
した。切腹、介錯、相刺しのさまが華々しく描かれていたからである。世界広しといえども、恐らく
そのような絵柄を見ながら酒を楽しめる民族は日本人以外にはあり得ない。
また、「決死の行動」の裏には「参った精神」がある。切腹を覚悟で事を敢行しても、いったん「参
った」となればすべてをその一言で収めてしまうのだ。勇敢無双の日本軍将兵が、一度捕虜にな
ると敵側に対して極めて協力的であった。第二次大戦中、米軍の情報将校たちはこの豹変ぶり
をほとんど理解することができなかったらしい。 「決死」と「参った」は紙の表裏である。『金色
夜叉』のお宮さんも「唐人お吉」も過去をきれいに忘れ、新しい夫にまみえてよき妻になれるのだ。
反「春香」的なお宮・お吉
朝鮮王朝(1392〜1910)は518年も続いた。この期間、日本の政権は戦国時代を含め6回
も交替した。6倍にもなる政権交替の頻度はただごとではないものを暗示している。
その期間、朝鮮は決して安穏であったわけではない。朝鮮王朝518年間、大小さまざまな反乱
があり、秀吉の侵略を含めて二つもの大外侵もあった。そのどのひとつを取ってみても、日本で
あったなら十分に政権交替の契機になり得るものであった。
韓国人の「春香好み」が歴史観に転移すると正統史観になる。高麗王朝末期の忠臣・鄭夢周は
「百回死に、骨が粉になることがあっても旧王朝に対する忠誠を捨てることはない」といって新王
朝である李氏王朝に反対し、殺された。朝鮮王朝にとってはまつろわぬ逆臣である。しかし彼を
最も尊敬したのは朝鮮王朝の士大夫たちであり、一般民衆の人気も高かった。正統性のあるの
は常に旧王朝であり、それを支持し続けるとなると王朝は変わりようがない。楠正成も「七生報
国」を謳(うた)ったが、しょせん鄭夢周の「百生報忠」の比ではない。
おそらく大部分の日本人は春香伝の世界を理解できないであろう。むしろ『金色夜叉』のお宮さ
ん、または「下田お吉」の世界に心をひかれる。ちぎりをかわした許婚者(いいなずけ)と別れ、
銀行家の御曹司にとつぐお宮の「お金持ちの所へお嫁に行って貴方に勉強をさせてあげたい。
今も妾(わたし)は貴方を愛している」のせりふに涙が流れる。
お役人の命でいいなずけと手を切り、ハリスの許へおもむいたお吉の世界も、まったくと言って
いいほど「反春香」的である。「拒逆官長」などはあり得ない。
涙をぬぐって「さようなら」
今日でも唐人お吉の人気は高い。お宮、お吉好みが歴史観に反映されると新井白石の「時の流
れ」史観(『読史余論』)となる。大勢、時流に従って身を処する。俗の言葉では「長いものには巻
かれろ」である。秀吉の恩顧を受けた子飼いの大名であったものの多くは、大勢が家康に傾くや
たちどころに徳川側についた。
福井藩の招きに応じて藩佼・明新館で講義をしたW・E・グリフィスは、版籍奉還に際して福井藩
士の取った態度に腰をぬかさんばかりに驚いている。「今や時勢が藩を解体するようになった。
お前らは先祖代々よく忠誠を尽くしてくれた。有り難く思う。その忠誠を天皇に捧げてくれ。私は
藩主をやめて東京へ行く」という藩主の言葉に大広間に集まった藩士一同涙にくれた。しかし翌
朝になると彼らは涙をぬぐい、国境まで藩主を見送り、そのまま「さよなら」。藩士たちはいっせ
いに武士であることをやめた。グリフィスは「はたしてこれが他の国であったらどんな流血の事態
が起こったであろうか!」と述べている。
明治維新当時の日本の人口3千万の中で士族は約200万、全体の6〜7%に相当する。それ
らが「時の流れ」に身をまかせ、自ら特権階級から身を落とした。 日本語の「さようなら」は「左
様なら」、つまり「それなら」から来た、と言う人もある。事の当否はいずれにせよ、よくお宮、お
吉の心情をあらわしている。日本人の歴史転換はまさに「さようなら史観」であった。
328 :
卵の名無しさん:02/04/18 20:27 ID:3SRPDDm+
あげ
イタズラ荒らしはいい加減にしたほうがいいですよ。
業界関係者はこの板をよく見ていますよ。
お宅の評判を自ら落とすだけですよ。
330 :
卵の名無しさん:02/04/19 20:04 ID:qquQm3ce
俺んちの会社もここ見てる奴結構多い。
331 :
卵の名無しさん:02/04/20 00:11 ID:tRq2rjOE
不正あげ↑
王朝の呪縛 朝鮮時代は清算されたか 金容雲
算学(数学) 正統主義守った朝鮮の算学
朝鮮算学の伝統は遠く統一新羅時代にまでさかのぼる。新羅が唐の制度を範にとり、律令制を
採用して以来、高麗王朝にまで引き継がれた制度を基本としたものである。 算学者は王朝政治
体制の中で、税務、会計、土木など行政上の職務を受け持った。一方、天文、暦算上の算学は
それとは別に天文制度の中でなされた。恐らくこれらは百済系の学者を主としたものであろう。
日本の算学の源流は百済に
日本古代の算学も主として百済から伝わった。『日本書記』にはそのことを示唆する記録がいく
つか見られる。まず欽明天皇14年(553)に、医博士、易博士、暦博士の定期的な交代と占
丞、暦書を送れとの要請に従い、百済から易博士施徳王道良および暦博士固徳王保存らを送
って交代させたとの記述がある。これは百済から日本へ定期的に学者が派遣されたことを示す
ものであり、特に暦学は算学を含むものである。
次に推古天皇10年(602)、百済の僧・勧勒が暦書、天文書、方術、遁申書を伝え、学生の指
導にあたる。文武天皇2年(701)には大宝律令発布、そして元正天皇2年(718)に養老律令
が発布され、算学の教科目、算学者の資格、修業年限などが明記されている。この教科目には
「六章」「三開」「九司」など、唐制にはなく新羅と共通するものがあり、そのため日本の数学史家
は、大和朝廷が新羅の国学制度を範したと考えている(藤原松三郎『日本数学史概観』)。しか
し先に述べたように、むしろ百済からの影響下に形成されたとみるべきであろう(金容雲・金容局
『韓国数学史』参照)。
秀吉の侵略で朝鮮算学導入 日本の数学は大和時代と江戸時代の二期に分けて考えられ
る。日本もまた律令制度とあわせて算学を取り入れたが、日本の律令制は短命におわり、算学
制度はほとんど同時に有名無実なものとなった。中央集権体制に即して形成された算学制度
は、寄生の場を失う戦国時代ともなると数学は狭小な現実的要求に応(こた)えるだけで満足す
るようになる。数学をもって身を立てる望みもなくなった。
その間江戸時代の初期に至るまで「割算をよくする者が一人もいなかった」といわれるほど算学
皆無の時期が続いた。秀吉は毛利重能を朝鮮に派遣し、算学を学ばせたと伝えられている(三
上義夫『文化史より見たる日本の数学』)。後に彼は「割り算の天下一」を号し、日本人による最
も古い算学書『割算書』を著した。秀吉軍が朝鮮から持ち帰った図書目録には、朝鮮版の『算学
啓蒙』など算学書が含まれており、朝鮮算学と和算(江戸時代の数学)の関係の深さをうかがわ
せる。
朝鮮と日本の算学を一括してキーワードで表せば、「朝鮮の正統主義、日本の便宜主義」と言え
よう。朝鮮の算学制度は新羅、朝鮮王朝末期まで綿々として続いた。王朝制の中での算学制度
は政情不安になると一番先に打撃を受ける。合理的な税制、会計が影をひそめ、むしろ力ずく
の権力が一方通行するためだ。それに加えて算学者の地位が低く、発言権もなかった。
沢井の甲板が泣いている
ヲイ、ヲイ、沢井は船じゃないので「甲板(かんぱん)」はない。
看板(かんばん)のことかな?????
沢井に看板があるわけないだろうが。
難破船の甲板で泣いている、の意味だろう。
>>225 どこまでアホなんだ?
誰が見ても「看板」を「甲板」と間違えたのだろうが。
しかし、、「ba」を「pa」と発音するのは、どこかな?
昔から餓死者の多い半島か??(W
先発は高いだけ
高麗王朝滅亡の原因の一つは量田(土地制度、収税)の乱れにあった。新生王国の朝鮮王朝
はその改革に手をつけ、世宗(在位1419〜1450)時代に朝鮮算学は黄金時代を迎える。算
法校正所や習算局が設置され、算書が刊行された。算学の教科書として『詳明算法』『算学啓
蒙』『五曹算』『地算』が正式に採択された。特に『算学啓蒙』は天元術(高次方程式の近似解)を
扱い、広く暦算に利用された。算学教授、別提、算士、計士、算学訓導の職が制度化された。
中国ですたれても朝鮮で続く 中国の算学制度の整備は唐代から始まったが、宋・元時代に
なると立ち消え、重要な算書までも失われた。中国の政権交代は異民族によってなされたので、
前王朝の制度が立ち消えになる場合が多い。しかし中国でつくられた諸制度が、必要がなくなる
とすぐにすたれていったのに対し、それらを受け入れた朝鮮では後生大事に形だけでも残す傾
向があった。清末の中国の数学者をして「もし朝鮮の算学制度がなかったら、中国の算学の伝
統も失われた」とまで言わしめたほどである。それは日本をも含めた東洋の数学の伝統の断絶
を、朝鮮がくいとめたことを意味する。
かくして中国では官学としての算学は廃絶されたものの、民学としての算学は盛んになった。そ
の内容は理論的傾向がなく、商人階級の現実的な要求にこたえるものである。
陰陽思想(朝鮮算学)と「無用の用」(和算) 朝鮮王朝時代の中期になると、世界にその類を
見ない「中人制度」が設けられた。公的には粛宗(在位1675〜1720)の代みられる。当時、
科挙への道は両班の正妻の生んだ者以外に開かれていなかったが、非摘出子にも技術官僚へ
の門戸を開き、それを「中人」と呼んだ。彼らの職の中に算学が含まれた。何せ職の少ない時代
であったためそれは次第に特権化し、独占的に世襲されるようになる。
中人の資格試験を「取才」と呼ぶ。算学取才の合格者名簿(『籌学八格案』)が現存し、算学者
の家系を示す『算学入世譜』『算学先生案』などから、1498年から1888年まで390年間の算
学試験合格者が1627名に及ぶことや、彼らの姻戚関係などをつぶさに知ることができる。実家
はもちろん、母方、妻方の家系が数代にわたって算学者という例もざらであった。
そして一方には士大夫の数学があった。彼らは教養(六芸)の一つとして算学を尊んだ。とはい
えそこには中国の古典(易学)が加味され、易数の研究が行われた。「河図」「洛書」と呼ばれ
る簡単な魔方陣が基本である。中には朝鮮独自のものもあった。
そろばんと複式簿記 秀吉軍の前進基地・名護屋城に詰めていた前田藩には、日本最古のそ
ろばんが伝わっている。おそらく朝鮮から持ち帰ったものと推測される。侵略軍が持ち帰った図
書目録に朝鮮算学の教科書があったことと合わせ、和算の源と朝鮮算学の関係の深さを示唆
するものである。そのそろばんは上に2個、下に5個の珠のあるものだ。五進法、十進法の数字
体系の原則に基づいて作られたものである。しかしそれが日本に普及するや、日本人は何らた
めらうことなく上の2個の珠のうち一つを削り、その後下の5個を4個にして現在に至っている。
ちょうど万葉仮名の一部を削り取って仮名を作ったのと同じ発想だ。
これと同じく、和算の記号代数数学も、「算木」を気軽に筆で書き替えることから生まれた。 アラ
ビア数字が記録と計算の機能を持つのとは異なり、漢数字の「一、二、三」は計算には適さない
ため、中国でも朝鮮でも「算木」と呼ばれる長さ10aほどの竹あるいは木片をもって計算してい
た。これを使って四則計算、方程式までを解いたのである。和算家は算木を置く場所に筆でしる
しをつけ、そこから筆による計算方法を確立した。ここには一貫して、原理原則にとらわれない
現実優先志向がある。
数学史的な立場からすると、計算の道具は記録方法(簿記)とあいまって発達するのが一般的
である。しかし日本人はそろばんを改良はしても、複式簿記の発明には至らず、明治に入って西
洋のものが福沢諭吉によって紹介された。
一方朝鮮では、独自に複式簿記が発明された。それは陰陽思想に基づくものである。ハングル
を構成する□と○はもともと、「天は陽、その形は円。地は陰、その形は方(四角)」という「天円
地方」の思想に基づく。複式簿記の発明もそれと軌を一にするものだ。対象を太極→陰陽→四
象と分類して考える。売買を陰陽と見なし、その結果生じる金銭の出入りをもう一度分析すると
「四象」すなわち四介(複式)となる。朝鮮の複式簿記を「四介治簿法」と呼んだのもそのためで
ある。
和算は「遊び」・「無用の用」
江戸時代、長崎を通じて医学・本草などが「蘭学」として流れ込み、日本の実学は栄えた。当然
その中には西洋数学もあったのだが、意外にもこれに飛びつく者は少なかった。 彼らの業績
は、例えば「三角形に内接する無限円列の面積の総和の計算」などである。私はこの図を見る
たびに前ソニー会長・盛田昭夫氏の「すきま産業論」を連想する。日本人の「穴場」好みであろう
か。「針の穴から天井をのぞく」、いろはかるたの言葉そのものである。元来ラジオは部屋の中
に置くものと考えられていたが、盛田氏はラジオを置くすき間をポケットに見いだし、そこへトラン
ジスターラジオを入れることで成功した。どうも日本人は「重箱のすみをつつく」ようにすきまを埋
めつくさないと不安になるらしい。和算でもさかんに「穴」を探したと見える。
いったん和算ブームが起こるや、日本人は和算の面白さに熱狂した。それは排句と同様に徹底
した「遊び」である。和算の大家・関孝和が標榜(ひょうぼう)したのは芭蕉と同じく「無用の用」で
あり、一種の数学至上主義でもある。流派を形成し、番付すらも作り出した。思想や伝統にとら
われず創造性を発揮した。特に算木を記号化することにより、和算独自の単純化に成功した。
植民地化とともに算学も断絶
朝鮮には長崎のようなものがなかったが、中国との往来があった。そこにはアラビア数学があ
り、また明末より天主教(カトリック)の神父、マッテオ・リッチなどがもたらした数学が朝鮮算学に
影響を与えた。朝鮮実学者たちは伝統数学と西洋数学の比較、接ぎ木を試み、新しい数学が芽
生え始めた。それが連綿と朝鮮王朝末期まで続いたことは先に述べた通りである。
しかしこのような努力もまた、植民地化とともに断絶した。中人算学者たちはそのうっぷんのは
け口を独立運動に求めもしたが、結局伝統ある朝鮮算学は日本を経て入った西洋数学にとって
変わられた。
341 :
卵の名無しさん:02/04/20 16:04 ID:P4vn93rl
荒らし天国だな、ここは。
評判になってるので来て見ましたが、この荒らしは精神異常?
民族の差別はいけないよ。日本人も韓国人も元をたどれば同じ人種だから
仲良くしなければならない。
342 :
卵の名無しさん:02/04/20 22:20 ID:bZbKPc27
元をたどれば?
ハン板で勉強をすすめます。
343 :
○井:02/04/20 23:21 ID:SRgwYKEC
給料安いのにいい加減にせんかぁ!
くだらん書き込みするな!
○都営業所の●●さん?
>>341 >日本人も韓国人も元をたどれば同じ人種だ
>>342 の言うように「勉強しなさい」だな。ちなみに342言う「ハン板」は
http://kaba.2ch.net/korea/ 「ハングル@2ちゃんねる」
>民族の差別はいけないよ。
>仲良くしなければならない。
テキストは「ONE_KOREA_NEWS」から、現在、消滅している。
筆者は「金東雲」、金大中事件の首謀者の名前と同じ、たぶん別人
>どちらの国にも封建時代、一揆はあった。しかし日本の場合はせいぜい「年貢をまけて
>くれ」であった。朝鮮の場合は地位の向上を強請する。高麗時代の奴隷反乱(萬積の乱
>1198年)の宣言は「人間には元来偉くなる者と卑しい者との区別はない」であった。
を見れば、基本的なところで、韓国or朝鮮人が書き、歴史を知らない事がよくわかる。
(朝鮮の歴史に「封建時代」は存在しない)
346 :
卵の名無しさん:02/04/21 09:07 ID:wo3Vf9ys
347 :
卵の名無しさん:02/04/21 09:24 ID:8bFTjRhU
>>342 の言うように「勉強しなさい」だな。
一人二役でよ〜言うねぇ
はいはい
>一人二役でよ〜言うねぇ
俺は「一人二役」などしたことはない、
しかし、しつこく言う輩がいる。
そー言う輩は、自分がしているのかねぇ。。。。。
併合前後の朝鮮人「民籍」と「名前」
併合前後の朝鮮人「民籍」と「名前」
――「内地人ニ紛ハシキ姓名」の禁止―― 水野直樹
1909年制定された大韓帝国の法律民籍法は、それ以前の戸籍とは異なる「近代的」な
戸籍編製を目的とするものであった。韓国政府を実質的に掌握していた日本は、民籍事務
を内部警務局(局長松井茂)の所管とし、日本人巡査・憲兵、朝鮮人巡査補・憲兵補助員
を動員して、199年7月から翌年4月まで朝鮮全土で民籍実査を行ない、民籍を作成し
た。民籍簿の様式は当時の日本の戸籍のそれを下敷きにして作られたものであったが、民
籍法に定められた内容は、日本の戸籍法とは異なって朝鮮の慣習をある程度反映したもの
であったといえる。
民籍の実査は、人民の「誤解」、女性を登録すると日本人に連れ去られるという「噂」、
当局が慣習を把握しえていなかったことなどから、容易には進まなかったが、当局は告諭
を発したり、人民を集めて「説得」したり、あるいは朝鮮の慣習と衝突しないやり方をと
ったりした。特に、成人女性の名を登録することが困難であったため、とりあえず父姓と
続柄・年齢などだけを記載するにとどめることとした。
こうして、一年近くをかけて、民籍の作成が終わったのは、併合直前であった。この結果、
朝鮮全体の戸数・人口は三年前に比べて、それぞれ17%、32%増加することになった。
当局の把握の程度がそれだけ高まったわけであるが、性別の比率は男100に対して女8
9となっており、民籍上で女性を把握するには不充分なものであった。その後、1910
年代に朝鮮総督府は民籍を整理して、実態を反映するものに改めていく作業をすることに
なるが、ひとまずは併合直前の段階で支配の対象となる住民の登録(すなわち「人の支配」)
を制度的に確立したのである。
こうして住民の属性を登録した民籍が法的な意味を持つことになったが、そこに登録され
る姓名に対して日本は、どのような政策をとったのであろうか。
併合直後から一部の朝鮮人官吏・警察官が日本的な姓名に改め、それを民籍に登録する事
例が見られる。官吏でない一般民衆の間でもそのような風潮が見られた。民籍法の規定で
は、改姓名は届け出さえすればよかったため、日本的な姓名を法的に持つ朝鮮人が生まれ
たことになる。
朝鮮総督府や朝鮮在住の日本人の一部では、これを「日本への同化」の表われとして歓迎
する見方もあったが、他方では警戒・反対する意見も見られた。朝鮮人の「風俗慣行」な
どは日本人と異なるから、適用法規に違いが設けられ、官吏の給与・待遇でも格差がつけ
られている以上、「姓名に依りて一目日鮮人たることを判別」できるようにしておかねば
ならないという意見であった。朝鮮総督府でもこれと同様の意見が強まったようである。
ある役所で間違えて朝鮮人に日本人額の旅費を出したことが問題となったともいわれる
が、結局、朝鮮人が「内地人ニ紛ハシキ姓名」に改めることを禁止する措置がとられた。1911年11月1日に施行された総督府令第124号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」
とそれに附随する通牒によって、姓名改称には警察の許可を必要とすること、「内地人ニ
紛ハシキ姓名」への改称は許可しないこととしたのである。出生届の段階でも、日本人的
な名を届けることはきびしく制限されることになった。また、すでに「内地人ニ紛ハシキ
姓名」を持っていた朝鮮人には、圧力をかけて「復姓」させるという措置もとられた。
こうして、法律上の姓名に関しては、朝鮮人と日本人との間に差異を設けて、容易に区別
しうるシステムが作られた。それは、植民地的な支配秩序を維持するために日本が必要と
みなしたことだったのである。この政策が変更されるのは、1930年代後半のことであ
ると見られる。
アメリカとその敵 ペルーからの連行 (1)
無理やり連行…17年間の空白
カヤオの港は夏のペルー独特の明るい陽光の下でも、どことなく沈み、悲しげにみえた。この港
で半世紀前に繰り広げられた悲劇を聞いていたせいだろうか。港に面した市街の貧しさと汚さが
胸を刺すほど強烈なせいだろうか。
首都リマから北西へ、海岸沿いの道を30分ほど車を走らせると、人口ではペルー第2の都市カ
ヤオに入る。貧者と富者との極端な断層は、どんな鈍感な訪問者でも真っ先に気づくペルー社
会の特徴だろう。日本大使公邸の人質事件に象徴される政治テロがなぜ絶えないのか、という
疑問への答えの一端でもあろう。
《くすんだ海》 リマは貧富の差は激しいが、中流や富裕な市民の住む地域も大きく広がってい
るし、日本ではドラマの中にしか登場しないような広壮で華麗な大邸宅の並ぶ通りも珍しくない。
だが、隣接する港湾都市カヤオはどこをみても貧しげな光景ばかりなのだ。白亜の豪邸が緑し
たたるなかに連なる日本大使公邸周辺をみなれた目には、このコントラストはとくに強烈だった。
カヤオ市内では、あちこちが崩れかけた石造りの小屋の人家が、ゴミ捨て場を拡散したような街
路に密集する。ホコリで汚れ切ったような小商店の軒先を老朽の車がへしあいながら走る。港近
くではペルーでもエリート集団だという海軍の基地だけが整然としていたが、他はみなもの悲し
げな無秩序のなかにあった。岩盤のような古めかしい埠頭からみる海は灰色にくすんでいた。
泉彦造がこのカヤオの港からアメリカへと連れ去られたのは、1943年7月13日だった。晴れ
た日だったが、眼前に広がる海はやはり灰色にくすんでみえたという。日米開戦から既に1年半
以上が過ぎたものの、日本軍の決定的な敗退はまだ始まっておらず各地で激戦が続いていた。
彦造泉はまるで凶悪な重罪人のようにペルーの武装警官に両脇をはさまれ、カヤオの港に停泊
したチリ籍の輸送船に連れ込まれた。船内には銃剣を持ったアメリカ兵が待ち構えていた。
泉彦造はこのとき32歳、広島からペルーに移住してすでに16年が過ぎていた。この地に骨を
埋めることを決意して、営々と働いてきた。だがいまやその努力の積み重ねのすべてを一挙に
断ち切られ、ペルーを即刻、立ち去ることを強いられたのだ。連行される先のアメリカ合衆国に
は、それまでなんの縁もなく、関心も知識もなかった。だがアメリカ政府の側は泉を「危険な敵性
外国人」とみなしていた。
「ペルーの人間になるつもりで一生懸命、働いてきた自分がなぜ縁もゆかりもないアメリカへ引
っ張られていくのか。まして警官や兵隊がぴったりとついて、完全な囚人扱いですからね。どうに
も納得できませんでしたよ。カヤオの港を出るときは、これでもうペルーとは一生、お別れだと思
い、悲しくて、腹が立って…」
54年が過ぎ去った今、リマ市内で静かな引退生活を送る泉彦造は、当時の苦難を穏やかな口
調で語る。「アメリカの敵」とされるに至る半世紀以上前の体験の細部をそう淀むことなく、まる
で去年の出来事のように再現していった。
《海外雄飛》 1911年(明治44年)、広島県安佐郡(広島市安佐南区)の農家に生まれた泉彦
造は、16歳で姉夫婦を頼ってペルーに移住した。「海外雄飛」などという言葉が青少年の胸を
かきたてていた時代である。着いた翌日からリマ市内の日系人の洋品店で売り子として働き始
めた。以後、日系人社会のいくつかの小商店に勤めた末、田尾商会という洋品雑貨の卸売企業
に腰を落ち着けた。
田尾商会で10年ほど働いた泉は1941年2月、ペルー北部のチクラヨ市に送られる。田尾商会
の支店がこの市の小さな日系人地域に開設され、泉がその駐在支配人に選ばれたのだ。その
年の12月に日本軍がパールハーバーを奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まる。
42年1月、ペルー政府が日本やドイツ、イタリアとの国交を断絶し、アメリカ寄りの姿勢を鮮明
にした。やがてアメリカ政府の意向を受けたペルー当局は日本人、日系人の財産の没収や国外
への追放という敵視政策をとるようになる。一九四二年後半からはアメリカ当局が関与をはっき
りとさせて、日系社会の主要人物の抑留や連行を進めるようになった。だが対象は日本人会の
幹部、県人会の会長、有力実業家といったリーダー格に限られていた。地方都市でひっそりと卸
売業にかかわる、まだ三十代に入ったばかりの泉までが連行されるとは、だれも考えてはいな
かった。
だが1943年1月6日、チクラヨ市の日本人社会の有力者16人が一斉に逮捕された。みな「危
険な敵性外国人」とみなされ、アメリカへ送られていった。後に残った泉はしかたなく地元日系人
社会の連絡や調整の役を担わされるようになった。ところが6月ごろから今度は彼にもペルー警
察の尾行がつくようになり、7月には抑留とアメリカへの強制連行の決定を告げられたのだ。
泉彦造は1942年に結婚したが、相手はペルー生まれの日系二世の政子、彼女のペルー名は
クリスティーナだった。すぐに長男のアグスト久雄が生まれた。だからカヤオ港からアメリカへ送
られるときは、妻と長男がいっしょだった。アメリカではテキサス州南西部クリスタルシティーの
敵性外国人専門の抑留所に入れられる。抑留所での生活中、二男のエンリケ勝彦が誕生した。
《いやな思い》 泉は1945年8月に太平洋戦争が終わると、自由の身とはなった。だが新たな
母国のつもりだったペルーは戦後、日本国籍の人間の再入国を認めないと通告してきた。
泉彦造が日本への帰国を決めると、妻も同意した。泉は家族とともに四六年春に故郷の広島に
戻り、ペルーでの仲間たちと半商半農の仕事を始めた。そして再び姉の支援でペルーに帰った
のは1960年だった。また元の洋品雑貨の卸売りの仕事にもどった。本来ならペルーに住み続
けたはずなのに、アメリカの敵とされたがゆえに、振り返ると十七年間の空白がぽっかりと穴を
あけていた。
「恨みがないといえばウソですね。アメリカとも日本の戦争遂行ともなんの関係もない私をなぜ
無理やり、連行したのか。いやな思いはいまでもありますよ」この言葉を口にしたときだけ、泉は
顔つきを目にみえて険しくした。
■ 豆事典
☆カヤオ ペルーの首都リマの外港の機能を持つ港町。人口65万。太平洋にそそぐリマック川
の河口に位置し、沖合にはサン・ロレンソ島がある天然の良港に南アメリカの太平洋岸では有
数の港湾施設がつくられた。ペルー第1の貿易港であり、軍港、漁港としても使われている。ホ
ルヘ・チャベス・リマ国際空港もカヤオにある。
☆チクラヨ リマの北約770キロの太平洋岸の都市。人口約20万。周辺は年間を通してほとんど
雨が降らない海岸砂漠であり、そのオアシスとして発達した。最近は付近に古代文化の遺跡が
見つかり、観光都市としても注目されている。
☆ペルーの対日断交 第2次大戦ではアメリカの影響が強かったラテン・アメリカ諸国の多くが
日米開戦後直ちに連合国側につき、真珠湾攻撃の翌月の1942年1月末までにアルゼンチンとチ
リを除くすべての国が日本を含む枢軸国に対し宣戦または断交に踏み切っている。ペルーは41
年12月に邦字新聞閉鎖などの措置をとり、42年1月24日に日本と国交を断絶した。中立を保っ
ていたチリ、アルゼンチンも戦局が連合国有利に傾く中で、最後は対枢軸国断交、宣戦へと転じ
ていった。
354 :
卵の名無しさん:02/04/21 22:04 ID:wo3Vf9ys
そろそろパート8作る準備するか?
355 :
卵の名無しさん:02/04/21 23:05 ID:EkydZrtV
不気味な荒らしをするな!
356 :
卵の名無しさん:02/04/21 23:30 ID:zWQI+/UB
なんだい?あのお粗末なインタビューフォームは??
357 :
森義久:02/04/22 06:55 ID:2nnehcGO
>>356 ここの荒らしとおなじだよ。他社のをコピペ。
文句あるか。
■ アメリカとその敵 ペルーからの連行 (2)
夫に会うため選んだ抑留生活
人間は自らの過去のむごい苦難を振り返るとき、多種多様な表情をみせる。不当な辛苦を昨日
の出来事のように思いだし、怒りや悲しみをどっとよみがえらせる。あるいは逆に、もうとっくに
完結してしまった他人事のように、全てを淡々と回顧し、笑いとばしさえする。そんな違いはどこ
から生じるのだろうか。
《故郷を離れ》 21歳の若さで、しかも幼児を連れて生まれ故郷のペルーを離れ、未知のアメリ
カへいくことを強いられた中尾・ロサ芳江は、往時の模様をこちらが拍子抜けするくらい朗らかな
口調で語った。半世紀という長い長い時間の経過や、苦難のあとの人生の好転もあろうが、や
はり本人の性格のタフなほどの明るさのせいだろうと感じた。
「兵隊に引き立てられていくんですからね。そりゃあ、なにか悪いことをして捕まった罪人のよう
な気持ちにさせられましたよ。ただ連れていた一歳四カ月のこの子がすごく手間のかかる赤ん
坊でね、その世話に追われて、怖がるひまはあまりなかったですね」
いま74歳となった芳江はリマ市内の日本大使公邸からそう遠くない中規模の自宅で、かたわら
の長女のイリス恵子に笑いかけながら、スペイン語まじりで話し続けた。幕の降りたドラマの筋
書きでも告げるように、肩の力をすっかり抜いての回想だった。
ペルー国籍の芳江が首都リマ近くのカヤオ港からアメリカに連行されていったのは1944年(昭
和19年)3月である。太平洋戦争では日本の敗色が濃かったが、芳江が生まれ育ったペルーは
平和だった。だが芳江の夫の中尾岩三はアメリカ政府から「危険な敵性外国人」と断じられ、43
年1月にアメリカへと連れ去られていた。
岩三は1920年代に広島県からペルーへと移住した。永住を決めていた。日米開戦時にはリマ
北西のチンボテ市で日本人学校の代用教員をしていた。新婚早々だったが、アメリカの意を受
けたペルーの官憲に逮捕され、アメリカへ送られた。1年以上が過ぎて、家族を呼び寄せること
を認められたのだった。芳江はためらわずアメリカ行きを決めた。
「私と娘はどうしてもペルーに残りたいといえば、残れたでしょう。でも家族が離れ離れには暮ら
せません。だから私も連行されたのと同然です。アメリカというなにも知らない国にいくのは、と
ても気味が悪かったですけどね。まあ夫に会うためには夢中でしたよ」
《悲劇の裏に》 芳江を乗せて44年3月1日にカヤオ港をたった「クーバ」という名の船には合
計339人のペルー在住日本人、日系人が詰めこまれていた。大多数が芳江母子のように、すで
にアメリカに連行された日本人男性の家族だった。
「家族呼び寄せ」の名の下に、本来はペルーで一生を過ごすことを当然とみなしてきた婦女子が
遠い地の夫や父のもとへ向かわされるという悲劇の背後には、第二次世界大戦という歴史のう
ねりのなかでのアメリカ、ペルー、日本の各政府、そしてスペイン政府までが入り乱れた複雑な
駆け引きがあった。
359 :
耐用:02/04/23 07:01 ID:Hj+gaCAD
>>343 >給料安いのにいい加減にせんかぁ!
調剤薬局への対応にMRを増員するごようす。
もう少し、社員のことを考えてやれよ。
360 :
卵の名無しさん:02/04/23 19:22 ID:Ad/CgxOp
某社誹謗中傷記事の続編は出るのでしょうか?
芳江はテキサス州のクリスタルシティー家族抑留所で夫と再会した。岩三は当初、パナマ経由
でニューオーリンズからアメリカに連行され、テキサス州のケネディ抑留所に収容されていた。
この抑留所はペルーはじめ中南米各国から連行されてきた日本人の単身の男性だけを拘束し
ていた。クリスタルシティー抑留所で不安にさいなまれながら新生活をおずおずと始めた芳江
は、そこでの扱われ方にまずびっくりした。抑留された人間の衣食住の待遇が想像していたより
もずっとよかったからだった。
「一家ごとにバラックにせよ、住宅を与えられ、食料も豊富で、商店もいろいろあるんです。理髪
店も洗濯店も、病院、図書館、学校も完備され、悪いことをして捕まったような最初の気分はだ
いぶ薄れました。かえってなにか裏の計略でもあるのかと、気持ちが悪くなるほどでした」
だが捕らわれの身であることは冷酷な事実だった。抑留所は鉄条網で囲まれ、五十メートルおき
に監視塔があった。塔では武装兵士が日夜、銃を構え、周囲に鋭い視線を配っていた。芳江よ
りも八カ月ほど前にペルーから連行され、ここに入所した泉彦造も述懐する。
「いくら生活は保障されていても、外部の風景は鉄条網を通してしか、見られません。それに、銃
を持った兵隊が毎日毎日、監視塔に登り降りするのを目の当たりにするんですから、いやな思
いでしたよ」
日米戦争の多層な歴史のなかでも、このクリスタルシティー抑留所が刻んだ一章はきわめて異
色である。抑留所とか収容所といえば、だれもがまず連想するのはアメリカ太平洋岸地域の日
系米人十一万人以上を強制疎開させ、内陸部に閉じこめた収容所だろう。この作業は日米開戦
から三カ月後にサインされた大統領命令に基づき、陸軍が担当した。転住や収容の実務は陸軍
省の下部機関に等しい戦時転住局(WRA)にゆだねられた。アメリカ政府が日系米人収容所を
公式には「転住センター」と呼んだのも、そんな経緯からだった。
ところがこのクリスタルシティー抑留所は司法省の管轄のまったく別のカテゴリーだった。陸軍当
局が日本軍の攻撃対象になりうるアメリカ西海岸に日本人の血が流れる人間がいてはならない
として、大ざっぱな投網でも投げるように「転住」を実施したのに対し、司法省は開戦前から「危
険な敵性外国人」に標的をしぼり、開戦と同時に逮捕を始め、拘留所に連行していった。
だからクリスタルシティー抑留所も正式に「抑留キャンプ」と呼ばれていた。だがペルーにいた日
本人たちがこの「危険な敵性外国人」という要件に果たして合致したかどうかは、また別の話で
ある。
「終戦五十周年のときに、ペルーからも日系人が観光団をつくって、クリスタルシティーをまた訪
れるという旅行がありましたけどね。私はもうたくさん、いきませんでしたよ」中尾芳江は明るい
笑いで回想を結んだ。だがそこでの拘留はペルーの日系人の運命を北米の日系人のそれより
もさらにずっと数奇にもてあそんだのだった。
362 :
古森義久:02/04/24 07:14 ID:n1T++gK6
>>360 草稿はあるが、○阪新聞が廃刊になったので、
他の三流夕刊紙を探している。
363 :
卵の名無しさん:02/04/24 08:23 ID:JKuT0Edu
ああいうことは止めた方がいいよ。
鳥取でも出回っていたが、誹謗中傷された側は怒り心頭でしょう。
364 :
卵の名無しさん:02/04/24 20:47 ID:VaN+FvZu
販社の社長から聞いた話だけど告発の準備してるとかいう噂。
365 :
名無しさん:02/04/24 23:58 ID:zR9JG2pk
大量にコピーしてばら撒いてる奴がいるみたい
■ 豆辞典
☆強制立ち退き大統領命令 「アメリカ移民百年史」(加藤新一著)によると、1942年2月19日に
発布されたアメリカ大統領命令は「必要に応じてアメリカ国内に軍事区域を指定し、その地域に
居住するものにしてアメリカの国防に危害を及ぼすと認められるものは、市民、外国人の別な
く、強制的に立ち退かしめる権限を陸軍省に与える」とされており、日系人を名指しにしてはいな
かった。このためドイツ、イタリア両国人にも適用されるとの噂がでたが、結局、対象となったの
は日系人だけだった。
☆戦時転住局(WRA) アメリカ大統領の命令を受けて1942年に設置され、軍の監督による集
団強制立ち退きに対処するため転住先の開設および管理全般の業務を担当した。大統領命令
に基づいて軍事区域に指定されたカリフォルニア、ワシントン、オレゴン、アリゾナ各州から敵性
外国人として強制的に退去させられた日系人約11万人は、マンザナア(カリフォルニア州内陸部)
などの収容所に入れられた。WRAは終戦の翌年の1946年に業務を終了した。
■ アメリカとその敵 ペルーからの連行(3)
日米戦雲急を告げ、偵察の任へ
ジョン・エマーソンといえば、日米関係ではかなり知られた人物だった。日本専門のアメリカ外交
官として40年近く、彼が残した足跡は日米関係現代史の縮図そのものである。なにしろ国務省
職業外交官としての勤務のスタートは1936年(昭和11年)1月、日本語研修のための東京赴任
にまでさかのぼる。27歳の彼は着任した翌月、雪の東京の山王ホテル周辺で2・26事件の騒
乱を目撃した。
エマーソンの外交官としての最後の在外ポストは62年7月から4年半の日本駐在公使だった。
このときの大使がかのエドウィン・ライシャワーである。日本側では池田勇人首相が所得倍増計
画を高らかに叫んでいる時代だった。
私がエマーソンに何度か話を聞いたのは、彼が国務省から引退し、カリフォルニアのフーバー研
究所の上級研究員だったころ、1977年から78年にかけてである。日米両国間の経済や防衛
の摩擦が少しずつ浮上していた時期だった。切迫した目前の懸案についての私の質問に、彼は
その現象をまず現在から突き放し、歴史のプリズムにかけて、多角的な分析を示してくれること
が多かった。
スタンフォード大学の構内にあるフーバー研究所の日当たりのよいオフィスで、エマーソンはい
つも背筋をぴんと伸ばして座り、姿勢を崩さずにこちらを正面からみつめて話した。引退後も日
光に小さな別荘を持って、日本では毎年、欠かさず数週間を過ごしているという。
「東京を訪れるたびに、銀座などで大日本愛国党の赤尾敏氏が電柱にはりつけている政治ビラ
の文句をじっくり読むことにしています。彼のビラの政治スローガンには私はもう30年も注意し
ていて、それがどう変わってきたかをよくみてきました。彼の主張を支持はしませんが、その宣
伝文句は日本人の国際情勢に対する認識の変遷を判断するのに、実に貴重な指針となると思
うのです」
エマーソンがこんなことを一気に語ったので、意表をつかれたことをよく覚えている。随分とキメ細かな、ユニークな観察をする人だなと感じたものだった。全体としては、日本や日本人にはごく
自然に好感を抱き、深い関心を保って、日米関係の円滑で友好な保持に努める、という印象の
人物だった。
《リマへ赴任》 しかしそのエマーソンも日米戦争中にはペルーの日本人の逮捕や連行に重要
な役割を果たした。日本軍のパールハーバー奇襲からまだ2カ月もたたない1942年1月下旬、
ワシントンの国務省本省勤務になっていたエマーソンはひそかにペルーに出向くことを命じられ
た。日米開戦の二カ月前まで東京のアメリカ大使館に在勤していた彼は、一時休暇でアメリカに
もどったが、日米の戦雲が急を告げ、そのままアメリカに残ることになった。そしてワシントンの
本省で働いていたのだった。
369 :
卵の名無しさん:02/04/25 08:11 ID:XdSNsBUI
>368
会社関係者の書き込みみたい
おそらくあの他社誹謗中傷をするのが趣味の○○では?
370 :
卵の名無しさん:02/04/25 12:46 ID:pt6yYCFy
age
>>364 所詮、STSのけんか。目くそ鼻くそのけんか。
みっともないことよ。
372 :
卵の名無しさん:02/04/25 21:59 ID:aXi0HPs4
誹謗中傷の記事の内容教えて
いろいろ噂は聞きますが、実物は見てない。
日本語の学習に没頭し、在日アメリカ大使館で日米間のぴりぴりと緊迫した外交交渉に末端と
はいえ、直接に関わってきたエマーソンは、ワシントンにいても視線を常に日本の方角へ向けて
いた。なのに、日本からは丁度地球の裏側にあたる、南米のペルーでの任務を命じられたので
ある。ペルー赴任の命令はエマーソンにとっては予想もしない事態だった。
そのときの模様をエマーソンは回想録『日本の糸』(日本語訳のタイトルは『嵐の中の外交官』)に
書いている。
「1942年1月のある日、国務省でも最も有能な極東専門家、ローレンス・ソールズベリーが、リ
マのアメリカ大使館が日本語を話す外交官が必要だと本省に求めていることを、私に告げた。そ
の1月に日本との国交を断絶したペルーの政府は、アメリカと同様に、ペルー在住の多数の日
本人が西半球の安全保障にとって脅威となることを深刻に懸念している。だがペルーでは日本
人以外には日本語がわかる人間が1人もいないのだという。上司のソールズベリーは私をじっと
みつめて『どうだ、リマへいく気はないか』と迫ってきた」
エマーソンがリマのアメリカ大使館に密かに赴任したのは、42年2月だった。南半球のペルーで
は丁度、夏の盛りである。彼が日本語に練達している事は特に秘密だった。妻のドロシーと3歳
の娘と、1歳の息子を伴ってのリマ赴任であった。エマーソンの任務は、まずペルーの日本人社
会の動きを密かに偵察することだった。
《商業で活躍》 そのころのペルーには合計2万6千人ほどの日本人が住んでいた。1940年の
国勢調査では日本生まれが17,598人、ペルー生まれの二世が8,790人、計26,388人とさ
れていた。リマのアメリカ大使館では42年はじめの時点で日本人、日系人の総数は密入国など
も含めて3万人ほどとみていた。
日本の移民が初めてペルーの土を踏んだのは、1899年(明治32年)4月3日だった。日本郵船
の佐倉丸が790人の日本移民を乗せて、カヤオ港に着いたのだった。大多数が農園での契約
労働者で、新潟、山口、広島などの出身が多かった。
その後、日本からの移民は着実に増え、沖縄、福岡、熊本からの人たちも多くなった。農園主と
の契約でやってくる契約農業移民が1923年に禁止となったが、日本からは呼び寄せなどの形
でなお移住が続いた。
ペルーの日本移民の特徴は、早い時期から農業を離れ、商業、工業、サービス業へと切り替わ
る人たちが多いことだった。1934年の時点では、日本人移民全体のなんと63%が商業分野で
活動していた。農業が28%。製造業が8%だった。この点はアメリカやブラジルの日本人移民と
くらべると、異色である。
日本人農民の多くはこつこつと自分で資金をためたり、頼母子講という相互出資の方式で資金
を得たりして、商業へ転進した。大多数が首都のリマに集中した。1930年代には食品店、雑貨
店、理髪店、ベーカリーなどはリマだけでなくペルー社会全体でも日本人が最も活躍する職種と
なった。そのダイナミズムが、地元住民の間に複雑な反応を生んでいった。
374 :
卵の名無しさん:02/04/25 23:09 ID:pLL2/uz3
369 :卵の名無しさん :02/04/25 08:11 ID:XdSNsBUI
>368
会社関係者の書き込みみたい
おそらくあの他社誹謗中傷をするのが趣味の○○では?
370 :卵の名無しさん :02/04/25 12:46 ID:pt6yYCFy
age
371 :卵の名無しさん :02/04/25 21:34 ID:2NfT3CwS
>>364 所詮、STSのけんか。目くそ鼻くそのけんか。
みっともないことよ。
372 :卵の名無しさん :02/04/25 21:59 ID:aXi0HPs4
誹謗中傷の記事の内容教えて
いろいろ噂は聞きますが、実物は見てない。
■ 豆事典
▽2・26事件 「昭和維新」により国家の改革を図った陸軍の皇道派青年将校による1936年(昭
和11年)2月26日のクーデター。斎藤実・内大臣、高橋是清・大蔵大臣、渡辺錠太郎・教育総監
が殺害された。青年将校らが率いる部隊は東京・麹町区(千代田区)永田町一帯を占拠し、27日
未明、戒厳令が施行された。しかし、27日に占拠部隊撤収の奉勅命令、28日には「反乱部隊」武
力鎮圧命令が下され、29日には鎮圧された。
▽エドウィン・ライシャワー(1910−90年) 元駐日アメリカ大使。東京生まれ。16歳まで日本で育
ち、その後もアメリカのオーバリン大学、ハーバード大学大学院で日本、中国の文化を学んだ。
戦後、ケネディ大統領時代の1961年(昭和36年)にハーバード大学教授から駐日大使に就任。安
保問題でほころびかけていた日米関係を修復して「ライシャワー時代」を築いた。66年に大使を
退いてからもアメリカを代表する知日派として日米友好に尽力した。
▽池田勇人(1899−1965年) 石橋湛山内閣、岸信介内閣の蔵相や通産相などを歴任した後に
1960年(昭和35年)から64年(昭和39年)まで首相を努める。岸内閣が倒れ、60年安保の政治の季
節が幕を閉じたところから出発した池田内閣は高度経済成長政策を推進した。
369 :卵の名無しさん :02/04/25 08:11 ID:XdSNsBUI
>368
会社関係者の書き込みみたい
おそらくあの他社誹謗中傷をするのが趣味の○○では?
370 :卵の名無しさん :02/04/25 12:46 ID:pt6yYCFy
age
371 :卵の名無しさん :02/04/25 21:34 ID:2NfT3CwS
>>364 所詮、STSのけんか。目くそ鼻くそのけんか。
みっともないことよ。
372 :卵の名無しさん :02/04/25 21:59 ID:aXi0HPs4
誹謗中傷の記事の内容教えて
いろいろ噂は聞きますが、実物は見てない。
377 :
卵の名無しさん:02/04/25 23:18 ID:B45K8zsZ
359 :耐用 :02/04/23 07:01 ID:Hj+gaCAD
>>343 >給料安いのにいい加減にせんかぁ!
調剤薬局への対応にMRを増員するごようす。
もう少し、社員のことを考えてやれよ。
360 :卵の名無しさん :02/04/23 19:22 ID:Ad/CgxOp
某社誹謗中傷記事の続編は出るのでしょうか?
378 :
: ::02/04/25 23:25 ID:pTB4/MqU
先発の煽りがあからさまなのも
珍しいな
379 :
卵の名無しさん:02/04/25 23:27 ID:WxnC4B47
ゾロのMRってなんか臭そうなんだよな
同じMRとは言われたくないぞ
■ アメリカとその敵 ペルーからの連行−4
評して“カフカふうの悪夢”
「カフカふうの悪夢」−第二次大戦中のペルーなど中南米諸国からの日本人連行を現代のアメ
リカの歴史学者はこう評した。アメリカではペルーの日本人抑留についての書籍や資料はアメリ
カ内の日系人の転住収容のそれとくらべれば、はるかに少ない。とくにこの悲劇を正面から調査
し、追及した書籍は数えるほどである。
そんな、希少な書のひとつに『密やかな行路』と言う本がある。カンザス大学出身の歴史学者ス
コット・コーベットが1987年に書きあげたこの本は「無実の犠牲者・中南米の日本人たち」とい
う章で、アメリカによるペルーその他の中南米の日本人の連行をまるで「カフカふうの悪夢」と表
現したのだった。
真実は複雑怪奇なもやに包まれ、秘密の表層をいくらはがしても、なおぼやけた風景が広がる
のみ。抑留する側も、抑留される側も理由や目的がわかっているようでわからず、そんな様相は
カフカの世界だ、というのである。
その実例として戦後派のアメリカ人学者コーベットはアメリカ政府の公式記録をもとにオカムラ・
ヤスタロウという日本人移民にスポットをあてる。
《まさに悪夢》 オカムラは1941年12月の日米開戦時、中央アメリカコスタリカに入植してい
たが、ペルーの多くの日本人移民同様、すぐに逮捕された。当時、51歳の彼はもちろん何の犯
罪を犯したわけでもなく、重要な地位も、日本政府とのつながりもなかった。おそらくはたまたま
その時点でその国にいたという理由だけでコスタリカ当局に逮捕され、アメリカに送られた。ルイ
ジアナやニューメキシコに抑留され、日本側の手中にあるアメリカ人との交換として日本へ送還
される予定となった。
しかしオカムラは43年7月、食道癌と診断された。死の近いことを感じた彼はわ、ずかな所持金
の全てを抑留中に親しくなったイソベ・シゲミに与えるという遺言を当局者に伝えた。
8月3日、ニューメキシコ州のサンタフェの抑留所内でオカムラは手術を受けたが、うまくいかず
そのまま静かに息を引き取った。遺体は火葬され、遺骨と全財産の16ドル99セントはイソベに
渡された。
イソベはやがてその遺骨と現金とをオカムラの弟に必ず渡すのだと、アメリカ係官に告げて、日
本への送還船に乗せられていった。オカムラは自らのこんな運命を、一体どう感じながら死んで
いったのか。なぜ抑留されたのかさえ、わからなかったのではないか。抑留した側も理解できな
かったのではないか−歴史学者コーベットはこうした疑問を示しながら、カフカの悪夢にたとえる
のである。
ではアメリカはなぜペルーの日本人を敵とみなして連行し、抑留したのか。敵国民とはいえ、戦
場からも自国からも遠く離れた第三国にいる民間人多数を、なぜわざわざ自国まで運び、長期
抑留を続けたのか。
《打算と妄想》 これらの問いに対する答えの解明はパンドラの箱を開けることとなる。箱のなか
からは、アメリカの戦略的誤算から自国民保護の過剰な打算、被害妄想、人種偏見、そしてペ
ルー政府の不当な要請、ペルー日本人社会の独特な特徴まで、黒くゆがんだ因子の数々が複
雑にからみあって飛び出してくるはずだ。
但し、それら全てを悪しき愚行と断じるのも、半世紀以上が過ぎた今だからできるのであろう。当
時の大戦争という歴史の異常なうねりのなかでは、たとえ不当や違法を排そうとしても、それな
りに避けられぬ事情が働いた側面もあろう。
古い歴史の特定部分だけを切りとって、現代の価値観の検証台におき、拡大してみるという作
業には、どうしても空疎な「あと知恵」や「結果論」の陥穽の危険がつきまとう。いまの日本の戦
争史論議でも明白なように、そうした危険を先に意識しておくか否かで、論議のバランスはがら
りと変わってくる。
当時のアメリカがペルーをはじめとする中南米諸国の日本人たちに険しい視線を向けるように
なった背景にまず、1939年9月にヨーロッパで火ぶたを切った第二次世界大戦があった。ドイ
ツ軍のポーランド侵攻とイギリス、フランスの対ドイツ宣戦である。アメリカはかたくなに不参加を
言明してはいたが、大西洋、太平洋ともに戦雲は濃くなっていた。
アメリカでは、間もなく司法省の下部の連邦捜査局(FBI)のエドガー・フーバー長官が中心となり
中南米でのドイツ、日本、イタリア三国、つまり枢軸の支持勢力の動きに、真剣な関心を向ける
ようになる。
当時、中南米には日本人だけでなくドイツやイタリアの人たちもかなりの数が種々な形で住んで
いた。FBIは40年、大統領命令で秘密裏に中南米各国の枢軸の動きを監視するようになった。
《特別諜報部》 FBIにはすでに、いざ戦争という場合にアメリカ内部で「危険な敵性外国人」と
なりうる人物を抑えるための「特別諜報部」(SIS)が新設されていたが、このSISが中南米をも担
当した。
中南米各国のアメリカ大使館にSIS捜査員がひそかに送られ、地元での枢軸支持のプロパガン
ダ、破壊工作、スパイ行動などの阻止にあたり始めた。そもそもアメリカは国際孤立主義をうた
ったモンロー・ドクトリンのなかでさえ、中南米は西半球という自国の勢力圏に加えていたように
ラテン・アメリカの安全保障には一体感を抱いてきた。
その一方、当時の日本は中南米諸国とのきずなを移民の連帯や貿易の拡大で強めようと努め
ていた。そんな状況のなかで、ペルーに3万、ブラジルに30万という日本人・日系人社会の動き
が、米側には不気味にみえたのだろう。米側にとっては、いざ戦争の際には、彼らは大日本帝
国への支持や忠誠をあくまで貫き、実際の破壊工作に従事しかねない存在にさえ映っていたと
いうことになる。
382 :
卵の名無しさん:02/04/26 06:25 ID:K3rJ/fh/
>誹謗中傷の記事の内容教えて
>いろいろ噂は聞きますが、実物は見てない。
同感
>>382 耐用薬品(T)のヒアル論酸Na原末が、未承認薬物であったことに
関して面白おかしく書いてあった。それと昔の薬事法違反3回について。
*なおTは氏斧(S)より購入したものであり、被害者の立場を
コメントしていた。
*氏斧は昨年、この件で業務停止を食らっている。
事実はともかく、こんな記事を大阪新聞(廃刊)に書いてあったが、
TとかSの弱小ゾロ薬品メーカのスキャンダルを今年になって夕刊紙が
書いても、一般大衆にとって格別なニュース価値はないと思っていた。
今思えばSTSの内輪もめであったような。
384 :
卵の名無しさん:02/04/26 07:30 ID:yzKyAewJ
この記事のコピーが出回っているので耐用は激怒しているようです。
犯人は・・・・あの人らしい
385 :
卵の名無しさん:02/04/27 01:28 ID:AcC3Mc0M
あげ
■ 豆事典
☆フランツ・カフカ(1883−1924年) オーストリア・ハンガリー帝国領当時のプラハ出身のユダヤ
人作家。城から仕事に呼ばれながらいつまでも中に到達できない「城」、明確な理由もないまま
裁判を受け処刑される「審判」など不条理で夢幻的な作品をドイツ語で書いた。しかし、それらの
作品はカフカの生きていた時代にはほとんど注目されることがなく、第2次大戦後になって20世
紀社会を先取りした文学としてブームを呼んだ。
☆ジョン・エドガー・フーバー(1895−1972年) ジョージ・ワシントン大卒業後、1917年、米司法省
に入り、24年に連邦捜査局(FBI)の前身の同省捜査局長に就任した。その局長時代も含めると
48年間にわたってFBIのトップとして君臨。30年代のアル・カポネなどマフィアの摘発、大戦中の
対ナチ防ちょう、戦後にかけての原爆機密スパイ事件、強烈な反共思想に基づく共産主義者糾
弾などを指揮した。歴代大統領のスキャンダルまで握る隠然たる実力のため、更迭が不可能だ
ったといわれる。
☆コスタリカ 1502年にコロンブスが命名したスペイン語で「豊かな海岸」を意味する中央アメリ
カ南部の共和国。1821年にスペインから独立し、人種・社会・経済的問題の多い中南米諸国の
中では「ラテンアメリカのスイス」と呼ばれる豊かな国で、所得格差も小さい。スペイン系白人・混
血が95%を占める。
☆モンロー主義(ドクトリン) 「西半球でのヨーロッパの勢力拡張に反対し、一方でアメリカは欧
州に関与しない」とするアメリカの伝統的外交政策。1823年にモンロー米大統領が唱えたことか
ら、こう呼ばれる。19世紀末には西半球でのアメリカの覇権・干渉を正当化するため拡大解釈さ
れ、アメリカは中南米地域を自らの勢力圏としてとらえるようになった。
387 :
卵の名無しさん:02/04/28 15:52 ID:FuN1fi0q
age
>犯人は・・・・あの人らしい
やっぱりそうか。
汚いやつよのー
age
耐用薬品のごとき弱小を誹謗中傷・虐めておもろいかな。
T田、S共などに挑んでこそゾロの統領さまだよ。
>>383 業界関係者には折り込み済み、みたいなものだけど。
あの開発品目数をみたら、あそこでは何が起こっても不思議ではない。
392 :
卵の名無しさん:02/04/30 22:26 ID:6fyqn6eW
>>383,391
STSのTSは業界でも評判ですよん。ベッタリ!
非亜瑠論酸の一件ではTは被害者面してるけんども、
Sがバルクソース変えるって事はちゃんと承知していた
ってのが一般の見方。穿った見方をすればTの方から
「韓国に安いのあるそうやんけ、持ってこんかい、ゴルァ!」
なんてSの担当者に言ってそう。
Sは業界でも浮きつつありそうな雰囲気っていうか噂が、、、
393 :
卵の名無しさん:02/04/30 22:29 ID:YU3vbpRY
>>391 差輪井と耐用は10年ほど前は年間50以上の開発数というから驚愕
394 :
卵の名無しさん:02/04/30 22:32 ID:6fyqn6eW
395 :
卵の名無しさん:02/04/30 23:07 ID:RPIi0yM0
>>393 バカ! 20年程前は年間100ケほど申請していたらしい。3日に1ケ申請と
言うのが目標だったという噂だ。
396 :
卵の名無しさん:02/04/30 23:10 ID:xuwxgibv
>395
ゾロを開発品というのは日本語の誤りだろ。
>>396 STS内部の隠語だろう。
開発という言葉は別の意味で使われているはず。
398 :
卵の名無しさん:02/04/30 23:43 ID:iDTfQAFr
ゾロメーカーは何者じゃ!!うざいだけ。
399 :
卵の名無しさん:02/05/01 00:02 ID:eQjVAvg0
>390
>耐用薬品のごとき弱小を誹謗中傷・虐めておもろいかな
これって耐用薬品はそのまま何も言わずにだまってたの?
名誉毀損で告訴とかしなかったの?
400 :
卵の名無しさん:02/05/01 01:00 ID:oePMPZnh
400GET!
>>399 直接、記事を書いた、三流夕刊紙は廃刊だから
提訴は難しいかな?
402 :
卵の名無しさん:02/05/01 23:57 ID:+5Z0Emwp
>401
大阪新聞は3流新聞じゃないぞ!
サンケイ新聞系で関西ではかなりの発行部数を誇っている。
>>402 >サンケイ新聞系で関西ではかなりの発行部数を誇っている。
だけど廃刊なんでしょ。
沢○の広報紙が減っただけのことよ。
404 :
卵の名無しさん:02/05/02 23:16 ID:JzPQ5Lxc
あげます
■ アメリカとその敵 ペルーからの連行−5
運命を狂わせた運河への熱意
1898年(明治31年)のアメリカとスペインの戦争では、アメリカ海軍の太平洋艦隊がサンフラン
シスコから大西洋側のキューバ沖の海戦に加わるための緊急航海に、なんと68日をも要した。
南米最南端のホーン岬沖を通過しての気の遠くなるような大迂回だった。そんな遅滞への反省
はアメリカのパナマ運河の建設計画を一挙に早めた。
《重大な要衝》 アメリカは20世紀に入ってもパナマ運河に異様なほどの熱意をそそぎ続けた。
フランスが1880年代から保有していた運河建設の権利を買い受けたアメリカは、地元の関係
諸国との摩擦の曲折を経て、1907年から7年間かけて大運河を完成させた。マラリアや黄熱
病と戦いながらの炎暑の地での難工事には、陸軍工兵隊を投入した。運河の管理権はアメリカ
政府が固く保持した。
大西洋と太平洋と、アメリカにとって二つの世界を初めて67キロという短距離の水路で結んだこ
の運河は軍事上、経済上、中南米では最重視すべき要衝となった。そのパナマ運河へのアメリ
カの懸念が過熱してペルーの日本人の運命まで狂わせた。戦争となった際、日本側の手でパナ
マ運河が破壊されるようなことがあっては絶対にならない、という警戒心がエスカレートしたので
ある。
アメリカ政府は日米開戦の1カ月半前の1941年10月、パナマ政府から「アメリカから指示があり次第、パナマ政府は運河の安全確保のためにパナマ在住の日本人すべてを逮捕し、パナマ
領タボガ島に抑留する。抑留施設の建設と運営に必要な経費、抑留から生じる法的責任は、ア
メリカが全面的に引き受ける」と言う誓約を取りつけた。
駐パナマアメリカ大使のエドウィン・ウィルソンは当時、こんな秘密合意の成立を国務省本省へ
報告していた。いざ開戦となれば、日本人の外交官も軍人も移民も、すべて投網をかけるように
全面排除というわけである。
隣国のコスタリカの日本人についても同様の取り決めがひそかに結ばれた。合意どおりパナマ
とコスタリカ両国では開戦とほぼ同時に、日本人はみな危険とみなされ、全面逮捕された。この
方式がアメリカ当局のペルーにおける日本人対策でも大きな指針となった。だがパナマなどは
日本人が数百人単位という小人数だったのに対し、ペルーではその人数がずっと多かったこと
が、事態を複雑にしていった。
パナマ運河への心配とは別に、日本の精強な艦隊が南米の太平洋岸を急襲するのではないか
という予測も米軍の一部に存在した。ペルーでの日本人逮捕の陰の主役となるアメリカ外交官
ジョン・エマーソンも回想録で認めている。「あとからみれば信じられないことだが、当時はアメリ
カ軍は本当に日本海軍の南米海岸部攻撃を恐れていた。ひとつには開戦までの1年間に東京
のペルー公使館でペルー入国の外交ビザを47人の日本当局者に出したが、そのうち15人が
軍人だった事実がアメリカ側の警戒を高めることになった」
《過剰な反応》 日本とアメリカが開戦した後の42年1月下旬には、リマ駐在の日本大使館付き
武官がペルー軍参謀本部あてに出したという書簡も、アメリカ側の手に入っていたという。書簡
は、日本の連合艦隊が間もなくパナマ運河をはじめ南北アメリカの太平洋沿岸の主要軍事基地
を海空から攻撃し、南北大陸を往来する商船をも沈めると予告してペルーに中立を求めていた
というのだ。
エマーソンが「あとからみれば信じられない」と評したように、アメリカのこうした反応は今みれば
皆過剰であり、誇大だった。だが、パールハーバーで日本軍の奇襲により、太平洋艦隊の主力
を1日にして失った当時のアメリカのショックやパニックも、それなりに銘記すべきだろう。
いずれにせよ、この種のパニックがアメリカのペルーを含む中南米の日本人に対する敵視政策
を駆り立てた。その政策に国際的合法性の衣をかぶせようとする試みが、42年1月15日からリ
オデジャネイロで開かれた米州外相会議での決議だった。
南北アメリカ大陸の各国の外相が集まったこの会議では、アメリカの国務省と司法省が起草し
た「危険な枢軸国民の抑留と追放」と題する決議案が、ほぼ原文どおり採択された。中南米各国
は日本、ドイツ、イタリアというアメリカにとっての敵国の危険な国民を西半球の安全保障のため
に敏速に拘留する。拘留の施設が不十分な場合、他国に送還し、拘留の権限をゆだねる−とい
う趣旨である。
送還先の他国とはもちろんアメリカを意味し、拘留の経費もパナマ方式で、アメリカ側が負担す
ることになっていた。
ペルー、コロンビア、メキシコ、エルサルバドルなど中南米14カ国が、この決議通りにアメリカへ
の送還を前提としての枢軸国民抑留を実施する意向を明らかにした。ブラジル、ウルグアイ、パ
ラグアイの3国は自国独自の抑留計画を実行すると表明した。
こうした中南米諸国間の対応の違いはブラジルの日本人、日系人人口が当時30万にも達して
いながら、なぜペルーの同胞とはまるで異なる道を歩んだのかを説明している。
ブラジルがまず太平洋に接していなかったことが、アメリカのブラジル在住日本人への関心をぐ
っと低くしたこともあったが、ブラジル当局がペルー政府とは違って、日本人、日系人の抑留に
意欲を示さなかったのである。
だがペルーでは南北アメリカ大陸がいまや日本軍の重大な脅威にさらされたというアメリカの恐
怖の認識の下に、ペルー政府自身の異様なほどの協力への熱意が加わって、現代史にも珍し
い大量の第三国在住民間人の連行と追放とが幕を開けたのである。
■ 豆事典
▽パナマ運河 1914年に開通した太平洋と大西洋を結ぶ運河。この運河の建設には、スエズ運
河の建設者として名高いフランスのレセップスらも挑戦したが、海面と内陸の高低差100メートル
というパナマ地峡の険しい地形と黄熱病、マラリアなどの熱帯病に阻まれて断念しており、その
後、アメリカが大工事の末、完成させた。運河は太平洋側に2つ、大西洋側に1つの3つの水門
を作ることで水位の上下を操作し、高低差の問題を解消した。パナマ運河の技術者たちは「スエ
ズ運河などはわれわれの運河に比べれば、単なる巨大な溝にすぎない」と語るほど、この技術
に誇りを持っている。パナマ運河管理権は建設時からアメリカが握っていたが、77年の米パナマ
新運河条約により、99年12月31日にアメリカが基地などに使っていた周辺14万ヘクタールの土
地や関連施設とともにパナマに返還される。
▽米州外相会議 アメリカは1930年代後半、フランクリン・ルーズベルト大統領の「善隣外交」に
よって中南米諸国の同意を得て、39年9月に第1回米州外相会議を開催。全参加国が欧州での
大戦に対する当面の中立の維持に合意した。42年1月のリオデジャネイロでの会議は第2回と
なる。
▽ブラジルの日系人 ブラジルへの日本人の移民は1908年(明治41年)に笠戸丸によって開始さ
れ、戦前だけで18万9000人、最盛期の1933−34年(昭和8−9年)には年間2万人以上が移住し
ている。戦争による中断をはさんで戦後は1952年(昭和27年)に再開。ブラジルは現在、海外で最
大の日系人社会(約130万人)を持ち、その多くがサンパウロ州、パラナ州に住んでいる。
408 :
卵の名無しさん:02/05/03 01:09 ID:fBbj9Ir+
そろそろパート8つくりますか?
409 :
卵の名無しさん:02/05/03 01:27 ID:m27pYIiF
止めてよ パート8
荒しの古森くん、お正月同様、この連休で里帰りするのかな。
411 :
耐用:02/05/04 00:18 ID:XZUG/eOX
おかげさまでリプルのゾロが売れに売れてます
412 :
コギャルとH:02/05/04 00:18 ID:N7r8EpgE
413 :
卵の名無しさん:02/05/04 15:44 ID:P44FA1mD
そろそろパート8ですね
■ アメリカとその敵 燃えあがる市民の反日感情
アメリカによるペルーからの日本人連行に関する日本側の資料で最も詳しいのは、東出誓一著
の『涙のアディオス』という回想録だろう。表紙には「日系ペルー移民、アメリカ強制収容の記」と
いう副題が日本語と英語で記されている。
1909年(明治42年)に北海道で生まれ、東京の保善工業(高校)を卒業した東出は、1930年に
ペルーへ移民として渡った。44年にアメリカへと連行された彼は戦後、アメリカに残るという道を
選び、シカゴで不動産業を営んで成功する。アメリカ市民権も取って、81年には日系人抑留補
償に関する大統領委員会の公聴会でペルー日系人の代表として証言し、ペルーからの連行や
抑留の不当をアメリカ一般に向けて初めて訴えるという重要な役割をも果たした。八十八歳とな
った東出はいまもハワイに健在である。
《悲壮な覚悟》 「ペルーの日本人抑留について新聞に書いてくれるのは大歓迎ですよ。私の本
も自由に使ってください」ワシントンからホノルルの東出に電話をすると、びっくりするほど元気な
声が返ってきた。こちらの補足の質問にも、簡潔明快に答えてくれた。
東出は日米開戦当時、リマ南東のイーカ市で洋品店を開いていた。日本の短波放送で対米宣
戦布告の報を聞いた彼は、事の重大さに身の引き締まる思いを感じたことを回想記に詳述して
いる。
「アメリカ合衆国傘下のペルーに住む私たち日系人は、いつどのような事態に見舞われても、文
句のいえない立場に追いやられてしまった。腹だけはくくっておかねばならない。しかし腹をくく
るといっても、一年前に起きた排日暴動の記憶が生々しく残っていたときだけに、その覚悟たる
や、とても言葉ではいいがたいほど悲壮だった」
彼がここで指摘する排日暴動はペルーの日本人連行の背景を考えるうえで、非常に重要であ
る。アメリカが連行を推し進めるプロセスではペルー政府が一貫して異様なほどの熱意を示し続
けた。マヌエル・プラド大統領はペルー在住の日本人、日系人すべてを国外へと排除することを
アメリカ側に何度も、何度も提案していた。
プラドのそんな姿勢は、当時のペルー社会に急速に広がっていた日本人移民への激しい反感に
も発していた。その反感の爆発が一九四〇年五月十三日のリマでの大規模な排日暴動だった
のだ。
この暴動は日本人の海外移住の長い歴史でも特記される大惨劇となった。その原因は多層だ
が、日本人の急激な経済進出も背後では明らかに作用していた。
ペルーは本来、原住のインディオと各種の移民が築いた国だから、移民が経済的に進出するこ
と自体には問題はなかった。だが日本人の場合、移民集団としては四十年たらずの歴史しかな
い新参だった。それなのに農業からいち早く商業や小工業に目ざましく転進し、しかもリマをはじ
め都市部にその活動を集中させた。
どの都市でも雑貨店や小食堂は日本人の独占経営で、タナカ、ヒガ、ヤマシロといった商号が大
きく記されていた。首都のリマで日本人はとくに成功し、目立つ存在となった。 日本人経営の
雑貨店は貧しいペルー人が必要とするあらゆる品物を売り、日本人は貧乏人の犠牲で生計を立
てるという恨みの声さえを生んだ。そのうえに日本人は都市ですでに確立されていた小商業活
動の秩序を突き崩す形で進出を重ねていったから、別の方角からも反発を受けた。
日本人側からすれば、刻苦によるささやかな商売ではあっても、それより先に社会の下層から
やっとはい上がった弱小のペルー人商店主たちへの打撃は深刻だった。これら商人層はのんび
りと楽天的な貧困層とは異なり、個人のおん念を政治的にあおりたてる術を知っていた。
《強い閉鎖性》 当時の日本人社会はそのうえに、東出が自著で率直に認めているように、閉
鎖性が強く、ペルー人の一般社会には容易になじもうとしなかった。リマでインタビューした日系
三世女性の人類学者アメリア・モリモトも戦前の日本人社会のそんな特徴を指摘した。モリモト
は日本人移民の歴史を専門に研究し、著作も多い。
「日本人移民の大多数はやがては日本に帰りたいと考え、子供の出生届も日本領事館だけに
出して、ペルー国籍を求めない傾向が強かったのです。子供をあえて日本へ送り、日本の教育
を受けさせるケースも多かった。ほとんどの人は大日本帝国の臣民としての意識も明確だった。
出稼ぎという考えが強いため、スペイン語もできず、自分の店の従業員に日本人のみを雇うのも
普通でした」
たしかにアメリカへ連行された人たちをみても、家族を除けば圧倒的多数は日本国籍だった。こ
の連載で「ペルーの日系人」というよりも「ペルーの日本人」という表現をあえてより頻繁に使っ
てきたのも、そのためである。 だが、いくら経済進出が過激で特異であっても、ペルー社会に
対し閉鎖的であっても、それだけで迫害の対象になってよいはずはない。事実、リマの排日暴動
にはほかにも、直接の引き金となる出来事がいくつかあった。まず大きかったのは、日本人社会
の内部で起きた暴力ざたの激しい争いだった。
1939年当時のリマには日本人理髪店が乱立していた。全市で195店のうち140までが日本
人経営だったという統計もある。日本人社会でも理髪店は飽和状態で、日本人理髪業組合長の
比嘉敬次という人物が39年5月、リマ市役所に働きかけ、日本人経営22店に閉鎖命令を出さ
せた。過当競争の防止が動機だったが、直接の理由は衛生状態の不備などとされていた。
日本人理髪業界には比嘉組合長とかねて対立する派閥があった。閉鎖命令を受けたのはこの
派閥のメンバーだった。そのリーダーは古屋時次郎という理髪店・美容院の経営者だった。彼も
また比嘉と同様、気の強い人物で、旧知のペルー人の有能な弁護士に頼んで閉鎖命令の撤回
に成功する。この比嘉対古屋の対立が理髪業界から日本領事館を巻きこんで、ものすごい衝突
となり、一般ペルー人の反日感情を燃えあがらせていった。
■ 豆事典
☆短波放送 電離層で反射して数千キロ遠方に届く性質がある短波は長距離放送に向いてお
り、第2次世界大戦前にドイツが宣伝放送に使ったことから注目されるようになった。日本では
昭和10年(1935)、日本放送協会が「海外放送−ラジオ東京」として太平洋沿岸に向け日本語・英
語で放送を開始。戦後の昭和20年9月にGHQ命令で停止されたが、27年2月に再開している。
☆対米宣戦布告 ハーグの「開戦ニ関スル条約」(1907年)で、敵国政府への事前の文書通告な
しの開戦は禁じられたが、1941年(昭和16年)12月6日午後8時半から在米日本大使館に約22時
間かけて送信された対米最後通告は井口貞夫参事官、奥村勝蔵・松平康東・寺崎英成各書記
官らが不在で電信が放置されていたことから7日午前中(米東部時間)の解読・浄書に手間取り、
ハルアメリカ務長官への手渡しが真珠湾攻撃開始に約1時間遅れた。このため、米側は事前に
暗号解読で内容を知っていたにもかかわらず、日本はだまし討ちの汚名を受けた。この点につ
いて米側は「最後通告がくることはわかっていても、真珠湾が攻撃されることはわからなかった」
と主張している。
☆インディオ 紀元前1万4000年ごろ、アジアからベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に移住し
たとされる民族。コロンブスが新大陸でインドに到達したと思い込み、インディオと呼んだ。広義
にはアメリカインディアンも含まれ、狭義には中南米先住民のみを指す。白人との混血が進み、
人種的区別は難しいが、ラテンアメリカ全体で約1800万人と推定される。
☆イーカ リマの南約300キロ、太平洋に注ぐイーカ川の中流に1563年に建設された町。周囲の
乾燥地帯はペルー最大の綿作地帯となっており、綿花などの集散地として発展した。
■ アメリカとその敵 ペルーからの連行7
日本領事が強制送還を告げた
「金大中事件とそっくりですよ。なにしろ日本人領事が先頭になってペルー在住の日本人の身柄
を押さえ、本国へ強制送還しようというんですから。あのときの怒りはいまも絶対に忘れません」
船津孝があまりに熱をこめて語るのに、たじろがされた。彼は1939年(昭和14年)、ペルーの
首都リマで、日本人理髪業界の内部対立から発展した大事件の核心にあった人物なのである。
今もリマ在住の船津はもう87歳だが、58年前の事件を語る時は、すっかり青年の口調だった。
《便箋32枚》 熊本出身の船津は20歳でペルーに渡った。一般移民とは異なり、当初は留学
生としてリマのカトリック大学に入り、学業を終えてからも現地に残り、小さな貿易業を開いた。
彼は事件の体験の詳細を32枚の便箋にびっしり綴っており、「これをぜひ読んでください」と手
渡した。この手記を他のいくつかの記録と照合すると、事件の展開は以下のように要約できる。
リマの日本人理髪業界の比嘉敬次と古屋時次郎の対決に日本領事の佐藤舜が介入した。当時
の日本人社会で日本領事といえば、強大な権力の持ち主である。船津の評だと「唯我独尊の独
裁者として在留民に君臨」ということになる。実際に日本領事が日本移民を地元の法律を無視し
て日本へ強制送還した例がその前にもあった。
理髪業界の事件で佐藤領事は比嘉側を支持した。理髪業組合長の比嘉は現地採用の領事館
員の早坂久を顧問として雇っていた。また、古屋が日本赤十字社から依頼を受けて行っていた
ペルーでの募金業務を佐藤が領事館へ移管させたことから、かねてから古屋と佐藤が対立して
いたという事情もあった。
領事がいったん、旗幟を鮮明にすると、日本人社会の多数派もどっと古屋糾弾に傾いた。古屋
は日本人会からも理髪業組合からも除名された。当時の日本語新聞、『リマ日報』と『ペルー時
報』も比嘉側を全面支持して、反古屋キャンペーンをはった。だがペルー国籍を得て、リマ政府
の要人とコネのあった古屋も反撃し、比嘉側を名誉棄損でリマの裁判所へ訴えて、騒ぎは大きく
なった。
39年9月、裁判が始まりつつあるなかで、古屋は自分の主張を日本人社会にアピールするため
独自に声明書を出すことを考え、その起草を知人の船津孝に頼んだ。船津が書いた声明書は
数千部が日本人社会に配布され、このことがまた佐藤領事を激怒させた。佐藤領事は比嘉側の
意向を受ける形で古屋と妻の理江、船津の強制送還を密かに決め、12月26日にカヤオ港を出
る日本郵船の銀洋丸に三人を乗せる計画を立てる。
12月25日夜、比嘉、早坂ら十数人は古屋宅を襲い、古屋夫妻と住み込みのペルー人美容師
マルタ・アコスタ、見習いのユゲの4人を無理やり日本領事館へ連行した。その間、比嘉腹心の
坂田若松らは古屋を殴打し続け、止めようとしたアコスタをも強く殴りつけた。
佐藤領事は古屋夫妻に日本人社会の秩序を乱すという理由で強制送還の決定を告げ、銀洋丸
へと連行させる。一方、船津も領事館に呼ばれ、佐藤から直接、日本への送還を命じられて、銀
洋丸に乗せられた。
その間、領事館から解放されたアコスタは理江の指示で古屋夫妻と親交のあったペルー人の弁
護士と外務省高官に訴える。弁護士らは銀洋丸へ急行し、ペルーの法を無視してペルー市民ら
を誘拐したと抗議する。緊迫したやりとりの末、古屋夫妻と船津は一度は下船を許されるが、ま
た日本側に捕まる。ペルー側は最後は海軍の艦艇まで動員して、港を出ようとする銀洋丸を止
め、強引に3人の身柄を引き取った。
《偽りの報道》 このような経緯だった。異様な出来事にせよ、これだけなら日本人社会の内紛
として収まったかもしれないが不運にもアコスタ美容師が殴打の負傷が原因で死んでしまった。
彼女の縁続きの人物が経営する週刊新聞が、まず「若きペルー女性が日本領事館に監禁され
て日本人暴力団に殴り殺された」と大々的に報じた。他の新聞や雑誌もこれに続き「日本領事ら
によるペルー女性殺人」としてキャンペーンを展開し、ペルー社会には日本政府や日本人移民
への怒りや憎しみがどっと火の手をあげた。
日本側にとってさらに不運だったのは、ペルーの新聞各紙が反日報道を過熱させ、明らかに根
拠のない「スクープ」を連日、派手に載せたことだった。「日本人は極秘に大量の武器をチンボテ
港(ペルー北部の港)に陸揚げし、リマ市内に隠している」「日本はペルー国内に治外法権地域を
設け、日本の法律を適用している」「日本の第五列(敵国に潜入し自国の軍事行動を助ける組
織)がすでにペルー各地で暗躍している」−といった報道である。
《激しい略奪》 時は1940年春、ヨーロッパでは日本と同盟したドイツが目ざましい戦勝を重ね
ていた。かつて、日本から兵器を買い、菊の紋章の入った戦車や大砲を自国の陸軍が使ってい
たペルーにとって、日本の軍事力の強大さはよくわかっている。アメリカ寄りの立場を鮮明にす
ればするほど、日本の脅威は大きくなる。
こんな土壌の上に爆発したのが40年5月13日のリマでの排日暴動だった。まずシマ市内グア
ダルーペ高校の生徒たちが手に手に日本を非難するスローガンを書いたプラカードを掲げ、街
頭を行進した。一般市民がこれに加わり、ふくれあがった。この集団は市内各地域で日本人の
各種の商店に石を投げ、打ち破り、侵入して、商品を略奪した。戸を下ろした商店にはトラックで
突入した。
暴徒の数は増し、リマから隣接のカヤオ市にまで攻撃の対象は広がった。日本人の商店だけで
なく住宅も襲われ、窓ガラスから床板まではがして持ち去るというすさまじさとなった。狙われた
のは日本人、日系人だけで、同じアジア系でも中国人の店にはまったく攻撃は及ばなかった。
日本領事館がペルー外務省を通じて、警察の保護を求めたが、不思議なことに警察は全く動か
なかった。略奪は翌5月14日まで続き、軍隊が鎮圧に出動する構えをみせるに至ってやっとお
さまった。
被害を受けた日本人は約620世帯、うち500人ほどは日本人小学校に避難した。再起不能と
なった54家族316人は2カ月後、みずから望んで、日本へ帰っていった。
■ 豆事典
☆領事 大使など外交使節と違って自国を代表し相手国と交渉する権限はないが、外交関係
が断絶しても領事関係は存続しうる。主な任務は自国民の商工業上の利益の保護で、領事に
は外交特権に準じた特権も認められている。しかし外交官・領事には自国民が対象でも、相手
国内で身柄拘束・強制送還・捜査活動をする権限はなく、その種活動は国際法にも違反する。
一方、船舶は「旗国主義」で公海・他国領海通過中は船籍国の主権下にあるが、入港中は寄港
国の主権が限定的に及ぶとされ、自国民拉致(らち)の十分な嫌疑のある船の出港を阻止するた
め軍艦を使用しても国際法違反とはみなされない。
☆金大中事件 昭和48年(1973年)8月8日、東京・九段のホテルグランドパレスで、韓国新民党
の金大中議員が韓国の情報機関(KCIA)要員に拉致された事件。金大中氏は目隠しのまま大
阪港から小船で韓国船「竜金号」に移され、13日夜になって韓国の自宅近くで解放された。昭和
48年の金鍾泌首相の謝罪特使来日、50年の宮沢外相のソウル訪問で“政治決着”が図られた。
平成5年(1993年)10月に金大中氏が来日、警視庁公安部の事情聴取に被害届を提出したが、そ
の後の進展はない。
☆銀洋丸 大正10年に横浜の浅野造船所で東海汽船の客船として建造、総トン数8600トン。大
正15年の合併で日本郵船籍へ。太平洋航路に就航したが昭和18年12月、台湾・高雄に向かう
途中、高雄南南西沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没した。
☆第五列 スペイン内乱で4個部隊を率いてマドリードを攻めたフランコ派モラ将軍の「市内に
はわれわれに呼応する第5の部隊がいる」という言葉から、敵中で進攻部隊に呼応し謀略活動
を行う不正規部隊をさす。
下らん広告だけはやめてくらはい
広告をしなかったとき・・・・・売り上げはゾロ業界で2位
広告をしたとき・・・・・・・・売り上げはゾロ業界で2位
効果が見られない、儲けたのは広告業界のみ。
アメリカとその敵 ペルーからの連行−8
暴動が人種偏見に火をつけた
1940年(昭和15年)5月のリマでの排日暴動はペルーの日本人社会の立場を根底から変える
ほどの衝撃的な事件だった。日本人の海外移住の歴史を通じて見ても、歴史的な大惨事だった
といえる。
さてこの「排日」という言葉からすぐ連想されるのは「人種偏見」とか「人種差別」である。リマの
事件のように、日本人集団が海外で迫害されると、その原因としてまっ先に指摘されるのは人種
偏見という場合が多い。日本の識者の間には特にそんな傾向が強い。アメリカがらみのケース
に関して、それはことさら顕著である。
アメリカを眺める日本の識者は往々にして、歴史上の出来事に限らず、現代の事件でも、不祥
事の背景の解明にはまず人種偏見の要因をあげ、それが全てであるかのようにして片づける傾
向があるが、そんな場合の人種偏見とは必ず、いわゆる白人の黒人やアジア人に対する差別
意識である。
私は、人種偏見は目にみえにくく、数量で量り難い部分が大きいと思うので、物事の理由の説明
に使うには雑になりがちであり、他の要因を見失いやすいから、トラブルをなんでもかんでも白
人の有色人種への偏見に帰する傾向には危惧を感じてきた。
この種の人種偏見論は日本の進歩的人士がアメリカがらみで気に入らない事件や理解できな
い出来事が起きると、よく調べもせずに「CIAの謀略」と断じる癖によく似た側面がある。人種偏
見もCIAもそもそも捉え難く、決して反論はしてこないから、悪者にするのが簡単で安易なのだ。
白人が有色人種を差別し、抑圧し、搾取してきたことは歴史の事実である。白人対有色人種の
摩擦から派生する問題が20世紀の世界にとって主要課題の一つだったことも疑いはない。だが
有色人種の側にも人種偏見はあり、差別も存在する。有色異人種同士の反感や憎悪もときに激
しい。私がここでこんなことをあえて論じるのは、57年前のペルーの排日暴動を人種偏見だけ
で理由づければ、大変なミスとなるからである。暴動は人種偏見そのものとは別の諸要因から
起き、むしろそれがあとから人種偏見に火をつけるかたちになった感じが強いのだ。
当時、リマ在住の東出誓一は自書『涙のアディオス』のなかで「排日暴動のきっかけを作ったの
は日系人」と総括し、その契機は日本人社会の内紛や日本領事が仕組んだ強制連行にある、と
の判断を詳述している。
暴動はその後、日本国内でも反響を呼んだ。41年2月の国会で静岡県選出の山崎釼二代議士
が大橋忠一外務次官に日本領事の行動が一般ペルー人の反日感情を生んだとして、糾弾して
いる。大橋も答弁でその因果関係を認めた。
「ペルーにおける排日暴動の裏に複雑な関係がありまして、日本領事館員が関係していること
は私も聞きました。聞きましたが、そういうことをあまり表面に出すと、恥さらしとなり、国家のた
め、在留民のためにおもしろくない。ただ在留民の取り扱いは日本の法律に準ずるものではあり
ません。日本の領事館は現地で本来なんら権力は持っていないことは明白であります」
時の外務次官が暴動の原因について、日本領事館が介入した暴力事によってペルー女性を死
なせたことにあるという経緯を認めたのである。現地では暴動が起きてから日本人への反感が
露骨となった。ペルー人の子供たちまでが日本人を「チーノ・マカッコ」と呼んで、平然と侮辱する
ようになった。
「チーノ」とは本来は中国人という意味だったが、東洋人ということで日本人にも適用し、奴隷と
いう意味の軽蔑語「マカッコ」をつけて、特に日本人に的をしぼって「東洋人の奴隷野郎」という
感じで頻繁に街頭でも口にされるようになった。暴動前にはない現象だった。
東出は「軽蔑の極致のひどい言葉を小さな子供にまで浴びせられ、それでもただひたすら小さく
なって生きる」ことが当時の日本人、日系人の実情だった、と書いている。暴動の10日ほど後に
ペルーは大地震に襲われ、迷信深い人たちは日本人を略奪した罰だろうとおびえたが、なお反
日の潮流を変えるにはいたらなかったという。
更に興味あるの事実は、暴動の最中でも後でも、日本人迫害の先頭に立ったのが白人ではな
かったことだ。ペルーは原住民のインディオとスペイン系の白人と、その両者の混血とで国民の
95%以上を占めてきた。排日暴動の当時、17歳だった中尾・ロサ芳江は語る。
「暴動のころ私はリマで学校に通っていましたが、日本の商店を襲ったのは原住民の人たちが
多かったですね。白人は貧乏ではないせいか、暴動騒ぎでは、ほとんど姿をみた記憶がありま
せん。暴動後に私たちを『チーノ』とののしったり、いじめたりする子供たちもどういうわけか、ほ
とんど白人ではありませんでした」これまた人種差別といえば自動的に白人の偏見のみと断じる
傾向がいかに短絡かを示す歴史の実例だろう。
さて、日米開戦後のペルーの日本人の逮捕はこうした対日感情のなかで始まった。逮捕に先だ
ち、1941年12月24日、ペルーの2大新聞に、まず日本、ドイツなど枢軸国系の危険人物なる
約30人のブラックリストが載った。アメリカ政府の意向を受けた枢軸側資産凍結をからめてのリ
ストだった。
本格的な逮捕の開始はペルーが日本に対する国交断絶を発表した42年1月24日の直後から
である。日本の公使館、領事館は閉鎖され、スペイン大使館が利益代表を請け負った。逮捕は
当然、日本の政府や軍に近い人間から始まる。日本陸軍関連の国策会社だった昭和通商職員
の船津孝もその逮捕第一陣に入っていた。船津は今、リマの自宅で当時の模様を語る。
「1月26日夜、日本公使館で陸軍武官らと送別会をひっそりと開いていると、『日本人が捕まり
始めた』という電話連絡がありました。武官らにリマの警察本部で事情を探ってこいと命じられ、
いってみると、知りあいの刑事が『これが逮捕者のリストだ』といって書類をみせてくれた。一読
すると、なんと私の名前もあるのです。その後、覚悟して、着替えなどを取りに自宅へ戻ると、も
う別の刑事たちが張り込んでいて、闇の中でピストルを突きつけられました。いよいよくるべきも
のがきたという感じでしたね」
■豆事典
▽CIA(米中央情報局) 国防総省・国家安全保障会議などとともにアメリカのトルーマン大統領
が国家安全保障法(1947年)で設立した大統領直属の世界最大の情報機関。冷戦期には主にソ
連の軍事、政治、経済に関する情報収集に力を注いだほか、共産主義の脅威の拡大への対抗
策として政権転覆などの謀略工作も行った。人員、経費、活動内容は議会にチェックされるが、
一般には非公開となっている。
▽大橋忠一(おおはし・ちゅういち=1893−1975年) ハルビン総領事、満州国外務局長官を経
て昭和15年(1940年)、松岡洋右外相就任とともに外務次官に就任。しかし、翌年の松岡の外相
辞任とともに次官から退いた。戦後は公職追放にあったが、昭和27年(1952年)から衆議院議員
に3期連続当選した。昭和34−36年にはカンボジア大使も務めている。
▽山崎釼二(やまざき・けんじ=1902−58年) 静岡県出身の社会運動家で、戦前の衆議院議
員。戦後は日本社会党の沼津市議の後、離党し昭和29年(1954年)にブラジルに移住。
▽在米日本資産凍結 国家が金銭、土地、証券など資産の処分、移動を禁止する措置を資産
凍結という。戦時には資産凍結を発令し自国内にある敵国人の資産を接収または管理すること
はしばしば行われる。在米日本資産の凍結は1941年(昭和16年)7月26日、アメリカのフランクリ
ン・ルーズベルト大統領が、日本の南部仏印進駐の企図に対抗する措置として発令。米、英、オ
ランダはそれ以前からタイ、仏印(現ベトナム、ラオス、カンボジア)、蘭印(現インドネシア)の錫・
ゴム・マンガンなどの戦略物資の対日輸出を極力制限する政策(ABCD包囲網)をとっており、英
国とオランダもアメリカに続いて対日資産凍結を発令した。
アメリカとその敵 危険な敵性外国人−1
書簡は日本人警戒を訴えた
1942年(昭和17年)2月にペルーへ密かに派遣された米国の外交官ジョン・エマーソンは、早
速日本人を対象に「危険な敵性外国人」の選定に取りかかった。日本の文化や風土をこよなく
愛し、日本人に友人知己が多かった彼も、戦争では日本を敵とし、その打倒をめざす任務に熱
意をそそいだ。
彼が首都リマで最初に足を運んだ場所の一つは市街中央のサンマルティン広場だった。独立の
英雄サンマルティン将軍の銅像が立つこの広場の界わいはスペイン統治時代の面影が濃い
が、広場に面した高級ホテルのバーやロビーには、きちんとした服装で髪を短く刈りこみ、体格
のよい男たちの姿が目立った。米国の政府や軍の関係者だった。
司法省管下のFBIや陸海軍所属の諜報部門からそれぞれ秘密裏に派遣された係官はエマーソ
ンが考えていた以上に数多く、みな試行錯誤を繰り返しながら日本やドイツの側につく危険分子
を見つけだそうと努めていた。だがその活動は思うように進まず、高級ホテルの一角でお互いに
情報を交換することが多かった。
エマーソンの責任は大きかった。3万人近いペルーの日本人の言動をチェックする米国、ペルー
両当局全体を通じ、日本語がきちんとわかるのはなんと彼一人だったからである。エマーソンも
当初はペルーの日本人たちを、大日本帝国のために米国・ペルー側に対する破壊工作にも手を
つけかねない潜在的危険を有する集団とみていた。
三等書記官のエマーソンによる報告を基にリマの米国大使館がコーデル・ハル国務長官あてに
送った42年4月の書簡は、日本人の危険を強調していた。「ペルーの日本人たちの強固さと能
力とはこれまで極めて過小に評価され、彼らの狂信的な精神は真剣に認識されてこなかった。
彼らの実際の危険に対する警戒も少なく、米国政府側も積極的な対抗措置をほとんどとらない
できた」
ペルー駐在のヘンリー・ノーウェッブ米国大使の名による同書簡はその上で、日本人社会のリー
ダーたちの排除と、ペルー側に向けて日本人の危険性を強調するプロパガンダの展開とを訴え
ていた。とくにプロパガンダについてはエマーソン自身がノーウェッブ大使あてに、米国大使館
の関与を隠してペルー側に資金や材料を与える方法を具体的に進言していた。
エマーソンは回想録ではこうした進言や警告には直接、触れていないが、地元の有力紙『コメル
シオ』に「イジン(異人)」というペンネームで日本の民族主義の危険を説く論文を載せたことを記
している。かつて彼が英語で書いた論文をスペイン語に訳して掲載したわけである。それを読ん
だ日本人の一人が理髪店で「このイジンという筆者は日本に住んだ経験があるに違いない」とも
らしたことがエマーソン自身に事後に伝えられたという。 こうした地元紙への「寄稿」は彼が大
使に進言した反日プロパガンダの典型だといえる。この種の米国の工作がペルー国民の間に
「日本の第五列の破壊活動」とか「武器の秘密貯蔵」という黒いウワサをさらに広げたのだろう。
エマーソンのもとにはペルー当局からの日本人に関する情報もどっと寄せられるようになった。
警察が一時押収した日本人あての手紙が彼のところにひそかに持ちこまれることも多くなった。
ただし彼は日本語を集中的に習得したとはいえ、読み方となると、楷書を勉強しただけで、草書
ふうの文字には慣れていなかった。日本人同士の手書きの書簡は一読しただけでは、まったく
わからないことも多かったが、「日本語の専門家」といわれていたため、読解できない手紙があ
ることは同僚たちにも秘密にし、「辞書と想像力を駆使して」必死で処理を試みた。
「だが、どの手紙をみても爆破計画、秘密会合、暗殺工作、暗号発信などの存在を示す記述は
なく、ペルー警察当局を失望させることとなった」回想録でこう述べるエマーソンは、ペルー側か
ら「これこそ日本人の謀略工作の証拠だろう」と渡された手紙が実は結婚式の招待状だと判明し
たという経験を明かし、もし彼が勝手に「日本人の陰謀」をでっちあげても、だれもその真偽は判
定できなかっただろうと認めている。
それでもエマーソンは国外追放の対象となる「危険な敵性外国人」のリストを作っていった。破壊
工作などの罪を立証する材料がないため、日本人社会での指導力とか影響力を「危険な敵性」
の基準とする以外になかった。だからまず日本人会組織の幹部、県人会の幹部、日本人商工業
界の有力者などを自動的にリストアップしていった。
ペルー側はこのリストに基づいて日本人を逮捕し、やがて米国へ強制移送したが、腐敗で定評
のあったペルー官憲関係者が日本人側からのわいろで簡単に逮捕する人間を入れ替えたり、
抑留した人間を解放してしまったりすることが米側にわかり、米国関係者が日本人連行により深
く関与せざるをえなくなる。 エマーソンはペルー各地の日本人社会を調査して回った。リマの
中国大使館のジョージ・ウーという外交官とコンビを組み、地方を旅することが多かった。
国民政府下の中国は当時、日本の宿敵であり、日本と戦うことならなんにでも熱意をみせて、米
国に協力した。ペルー在任の長いウーのスペイン語能力やペルーに関する知識、コネはエマー
ソンにとって重宝だった。とくに各地の中国人移民は日本人社会に隣接して活動する場合が多
く、ライバルにとって不利となる情報の提供には非常に積極的だった。エマーソンはこの時期を
「これほど美味な中華料理をこれほどふんだんにもてなされたことは、一生でもほかにない」と述
懐している。
エマーソンはリマ市内の高級住宅地の広壮な官舎に数人の使用人を与えられて家族と住んだ。
到着後にすぐ四歳となった長女ドロシーがスペイン語の環境にとまどい、自分の小部屋に閉じこ
もって、しばらくは口をきかないこともあった。エマーソン自身はわずかな余暇の時間を少年時
代から学んだピアノ演奏で費やした。ハンガリーから亡命したピアニストやオーストリアからの指
揮者と交友し、ショパン、モーツァルト、バッハなどを弾いて、みずからを慰めたという。
■ 豆事典
▽コーデル・ハル(1871−1955年) 大学を卒業後、弁護士となり、1898年には米西戦争に義勇
兵として従軍した。1907年、民主党下院議員、31年に上院議員となり、33年からフランクリン・ル
ーズベルト政権の国務長官に就任。40年の日独伊三国同盟以来、対日交渉で日本の中国進出
に厳しい態度を取り続け、「米国が石油供給を保証したら南部仏印から撤兵する」との日本の対
米乙案を拒絶して、41年11月26日に「支那・仏印からの全面撤兵」「重慶政府(蒋介石)以外の不
承認」「三国同盟の死文化」などを日本に要求する「ハル・ノート」を野村吉三郎大使に突き付け
た。経済問題・所得税法の権威で自由貿易論者でもあり、国連の樹立に尽力した功績で45年ノ
ーベル平和賞を受賞。
▽サンマルティン将軍(1778年−1850年) 両親がスペイン人のアルゼンチン軍人で、ベネズエラ
のシモン・ボリバルとともに南米のスペインからの独立運動の最大の英雄とされる。1813年にア
ルゼンチン独立運動に身を投じ、17年には同国西部から軍隊を率いてアンデス山脈を越え、ス
ペイン軍を撃破してチリを独立に導いた。さらにチリから約4500人の艦隊を率いてリマに進攻、
ペルー独立を宣言した。しかし、ペルーでは王政採用を主張してボリバルと見解が対立し、フラ
ンスに去った。
▽コメルシオ紙 1839年創刊の日刊紙で、現在の発行部数は約12万部。ペルーでは最も発行
部数が多く、最も権威ある新聞とされている。創刊当時は奴隷解放と先住民租税免除などの論
陣を張ったリベラルな伝統を持ち、現在は中立・公平を社是として、フジモリ政権に対しても是々
非々の態度で臨んでいる。
アメリカとその敵 危険な敵性外国人−2
「日本人排除は正当化される」
近代の歴史で「敵性外国人」の抑留が初めて国の政策として体系的に実行されたのは、1870
年から71年にかけてのフランスとプロイセンの戦争だった。戦争の当事国が自国領や関連地域
にいる敵国の国民を官民を問わず「敵性外国人」と断じ、そのうちの危険とみなした人物を逮捕
し、抑留し、多くの場合、敵国との間で身柄の交換をするという慣行である。
この慣行は1914年からの第一次世界大戦で交戦国の権利として国際的にも認知され、各国
がこぞって実施した。途中から参戦した米国もドイツ人など計6300人の敵性外国人を逮捕し、
うち2300人を抑留している。第二次大戦でも米国にとってこの問題は参戦前から真剣な関心
の対象となった。ドイツや日本と戦争になった場合、米国内の敵性外国人への対処は司法省が
主にあたるが、相手国で敵性外国人となった米国人の扱いは国務省の任務となった。
そのために国務省内に設置されたのが「特別戦争問題部」である。特別部と略称されたこの部
門はドイツがポーランドに宣戦する前の日、一九三九年九月一日に新設された。戦争となった
際にドイツや日本の国内や占領地域にいる米国人の安全を図ることがその主任務だった。同時
に米国側の手中に入る敵性外国人を扱う作業にも、司法省を助けてかかわることになる。その
一環として中南米の日本人、ドイツ人への対処も、この国務省特別部が司法省管下のFBI特別
諜報部とともにあたることになった。だからペルーに送られた外交官ジョン・エマーソンもこの国
務省特別部から命令を受けることが多かった。
《強い愛国心》 特別部の最高責任者には民主党の大物政治家ブレッケンリッジ・ロングが国務
省の特別次官補として任命された。時の民主党大統領のフランクリン・D・ルーズベルトとも、国
務長官のコーデル・ハルとも親交の深かったロングは、排外主義に走りがちなほど強烈な愛国
心の持ち主とされ、ペルーの日本人対策でも強硬派としての影響力を発揮し続けた。 「中南米
にいる日本国籍の民間人も日本への公式送還の対象となりうる。その場合、それら日本の民間
人の身柄が米国内にあった方が便利となる」
「ペルーから米国に送られた日本人の処遇に対し日本政府から抗議された場合には、ペルー政
府が国外追放した日本人を単に受け入れたにすぎない、と反論すればよい」、「ペルーから日本
人を排除するための措置はすべて正当化されるだろう」
ロング特別次官補は一九四二年一月末から八月にかけて、こうした考えを米国政府部内で表明
し、ペルーの日本人抑留を進める作業の本来の主役だった司法省よりもずっと強固な姿勢をと
った。ハル国務長官も一時はロングの意向に同調して、「中南米諸国にいる日本人をすべて国
外に退去させ、米国に抑留することは米国の国益に合致する」という進言を42年8月、ルーズ
ベルト大統領あてに送っている。