ゾロの名門!!沢井製薬バンザ〜イ! パート6

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280高山正之:02/03/19 01:37 ID:+q+rCLGt

ところが教科書問題の批判に出てくる日本はそういう民族性ではない。

まるで米国みたいに残虐な民族だと朝日や中韓、欧米のメディアは主張する。(注:朝日新聞は
日本の人の経営する新聞社のはずである、、たぶん、、、その朝日新聞は日本の歴史を知らな
いのでだろうか?過去にこのような大量の人々を虐殺した事実が有ったのか?関ヶ原の戦いで
さえ、近辺の人達は手弁当で観戦できたほどに、日本には民間人大量殺戮の習慣は絶対に無
い)アメリカや北朝鮮などその他の国民がずっと同じ民族性を保持しているのに、どうして日本
だけが変わるのか?もしかして彼らの主張が間違っているのでは、という疑問が当然わいてくる
が、そういうと「まだ歴史と直面していない」と非難される。「痛ましい歴史を覆い隠そうとする」と
怒られる。

今回の教科書、靖国問題はまさにそういう怒られ方だった。なぜなら現に南京で30万人を殺し
たろうが、と彼らは言う。それも「日本兵は無宰の市民を生きながら焼き殺し、女は強姦した上で
手足を切断し、子供は宙に放り上げて銃剣で刺した」。それが「6週問も続いた」と東京裁判でも
認定しているではないか。その証言者はアメリカ人の教授と宣教師とドイッ人武器商人など4人
もいるじゃないかと。(注:この証言は目撃証言では無く、推測証言です。つまり、有罪者を作り
あげたいアメリカ側の偽証の可能性が大きいし、現在ではそれが偽証であると言う資料が出始
めている)

しかし、これが自分の祖父や父の所業どして「あり得る」と思う日本人はまずいない。第一、赤ん
坊を投げ上げて刺殺するなんて発想は日本人にはない。六週間も殺し統けるという根気もない。
それが民族性どいうものだろう。でもこういう殺し方を中園人に間くと、彼らは「あり得る」と答え
るはずだ。なぜならここに記述した陰惨な殺毅の手口は南京事件の直前に中国人によって起こ
された通州事件とまさにそっくり同じで、二百人の居留日本人はそうやって殺されている。実に
おかしな話だ。だから南京事件を糾弾されても日本人自身が首をかしげる。

大体20万人もいない街でどうして30万人を殺せるのか。南京攻略は数日で終わり、報道班の
石川達三らも加わった入城式典は一週間後に行われたが、それから、更に5週間も殺戮が続い
たという報道も暴露もない。市民の数は日本軍入城後増えてもいる。(注:これも南京虐殺が嘘
だという大いなる証拠であり、何故にそのような、大虐殺、があったのに、その後も続々と日本
占領の南京街に中国人が来たがるのか?全くもって朝日新聞の主張は馬鹿げている、中国や
朝日新聞が虐殺が有ったと主張する、その日以後にも続々と中国市民が城内に入って来たとい
う欧米人の証言が有る。)
281高山正之:02/03/19 01:38 ID:+q+rCLGt

市民が殺されに帰ってきたというのもへンな話だ。 ただ、日本人の民族性が変わっていなけれ
ば別にへンには聞こえない。(注:日本軍は虐殺するどころか、規律を守り、平和になるから、商
売も物乞いも出来るから、住民は直ぐに日本統治の場所に行きたがった、という証明です。)

市民が戻ってきて当たり前だ。バンドンで降伏した臆病な英蘭軍将兵だって、もし日本人が残忍
と思っていたらもう少しまともに戦っただろう。恥も外聞もなくさっさと降伏したこと自体、日本人
の艮族性が、今、朝日新聞や中国韓国のいうのとはまったく違っていることを示しているではな
いか。

こうしてみると、日本の民族性はアジアの戦場でも南京でも、明らかに「無罪」を示す有力な状況
証拠になる。朝日新聞と中韓、欧米のメディアはこれまでずっと東京裁判公認のステレオタイプ
化された「残忍な日本人」を糾弾し続けた。しかし、日本人が歴史に向き合い、直視してもそうい
う民族性はでてこなかった。

だから今度は朝日新聞を始めあなた方が歴史に向き合い、直視したらいい。奴隷を売買しなが
ら自由と民主主義の聖地を自負し、他国を貶めるために「田中上奏文」まで偽造して恥じない自
分たちのまがまがしい民族性がきっと本当の答えを教えてくれると思う。
282高山正之:02/03/19 07:31 ID:Q6/MQ2k8
>>276
>迷門企業の営業所長が社命で荒らしているという噂です。
他に本社勤務の某氏、一族氏、役員氏等、こういう人材は
なぜかとても豊富な会社です。
283高山正之:02/03/19 07:44 ID:pYBTyuO8

日本企業を狙い撃ち! 訴訟国家アメリカの暴走
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2000/0004/03-c5.html

91年春、ロサンゼルスでロドニー・キング事件というのがあった。麻薬にラリってフリーウエーを
暴走した札付きのワルが捕まった、アメリカならごく日常的な事件のひとつだが、たまたまその
逮捕現場を近所の人がビデオに収めていたために世界的なニュースになった。

白人警官が寄ってたかって黒人を打ちのめしている図である。殴られながらなお立ち上がって
歯向かおうとする姿は、白人の差別と横暴にひるまず自由と人権を勝ち取ろうとするブラック・ア
フリカンの闘志を象徴するものだという説明も当時はあった。

実際はPCP、通称ポパイと呼ばれる麻薬を彼がやっていて、これは攻撃性を強め、さらに痛覚
も鈍麻し、意識を失っても歯向かっていく、その薬効のおかげだったが、それは置いて、この事
件はいろいろな意味で今の「アメリカ」の姿を浮き上がらせた。

まず挙げられるのが、アメリカは異質ということだ。日本に公務員特別暴行凌虐罪があるよう
に、どの国でも職務執行行為に制限がつく。でもこの国は公務は原則、罪に問われない。

ペッパー・スプレーという唐辛子ガスが警官の常備品になって、それで容疑者が何人か立て続
けに死んだが、とくに問題にもならなかった。この事件も本来ならキングが刑務所に送られ、一
件落着したはずだった。これがアメリカン・スタンダードである。

しかし、映像化され、世界に情報が流れたために、当局はこのスタンダードでは押し切れないと
思った。当局はアメリカが少し異質なことを知っていたからだ。で、刑務所に行くはずのキングが
被害者になり、4人の警官は解職されたうえカリフォルニア州法によって法廷に立たされた。し
かし、市民の側はスタンダードの使い分けには慣れていなかった。ほとんど白人で占められた陪
審員は「歯向かう悪い黒人の抵抗を抑圧してなぜ悪い」と無罪評決を出す。

この評決はたまりにたまっていた黒人たちの不満に火をつけ、あのロサンゼルス暴動を引き起
こす。暴動の火は三日間、燃え続け、あのロデオ・ドライブにも延焼しそうなところまできてやっと
終息する。死者は五十余人にも達した。

《これでも法治国家と言えるか》 アメリカの異様さはこの騒動でさらに増幅された。連邦検事
局が、州法で無罪となった4人の元警官を改めて連邦公民権法で起訴したのである。「暴行と
いう形でロドニー・キングの人権を侵害した」という言い分だ。これがよそのまともな国なら、その
結果はともかく、法廷の結論を尊重するものだ。それが法治国家の原則である。まして結論の出
た事件を再び蒸し返すことは法秩序を破壊するから厳に戒められている。いわゆる「一事不再
理」である。アメリカにも表向きの規定はある。「二重の危機(・・・・・・ ・・・・・・・・)」だ。

4人の元警官は同じ行為、つまりロドニー・キングをぶん殴ったことで被告席にまた座らせられる
訳で、どう見てもその二重の危機に違反しているが、連邦司法当局は「州法と連邦法の立場は
違う」と言い張り、二重の危機を否定し続けた。

284高山正之:02/03/19 07:45 ID:pYBTyuO8
でも、なぜこんなデタラメを真顔でやったのか。実はこの騒動は大統領選のさなかだった。共和
党が現役のブッシュ大統領、そして民主党がクリントンで、クリントンはこの時期、同性愛を認め
る方向で、最大の票田、カリフォルニア州のシリコンバレーを手中にしていた。最先端をいく情報
産業世界では同性同士の同棲はよく知られ、IBMなどいくつかの企業は同性の配偶者を認め
てもいた。そこにこのロドニー・キング事件だ。暴動で示した黒人などマイノリティの不満がそっく
り民主党に流れれば、もはやこの州でブッシュ陣営に勝ち目はなかった。

公民権法による裁判は、要するに四人の警官を生け贄にしてマイノリティの機嫌を取り戻せれ
ば、という現役政権の打算だった。為政者の都合でやる裁判、つまり政治裁判そのものだった。

ここで思い出すのが、大津事件である。明治21年、後にニコライ二世となるロシア皇太子が大
津で津田三蔵巡査に切りつけられ、負傷する。政府はびっくりした。日露戦争の16年も前のこと
だ。大国ロシアに攻められたら日本は滅んでしまう。

で、政府は大逆罪で津田巡査を起訴する。それで死刑にしてくれれば、政府もロシアに「これこ
のとおり」と詫びを入れやすい、国難も去るだろう。しかし大審院長官の児島惟謙は政府の意図
を蹴った。罪刑法定主義である。ロシア皇太子は大逆罪の対象ではない。よって普通の傷害罪
に訴因を変更し、津田には無期懲役を宣告した。立法、行政、司法はそれぞれ独立してこそ近
代国家であり、裁判を勝手な政治工作の具に使うのは近代国家の自殺行為だというわけだ。児
島は国運を賭してまで司法の独立を守った。

しかし、ブッシュ政権の意向で行われた四人の元警官の再裁判では、当の裁判官も連邦最高裁
も「二重の危機」を指摘することもなく、まして「政治的な動機」を批判する声も出なかった。そし
て四人は一度、無罪を宣せられた行為で、今度は有罪が評決されて刑務所に送られてしまった
のである。ロドニー・キング事件ははしなくもアメリカはまともな法治国家ではなかったことを見事
に浮き上がらせてみせたのだ。

その辺を「文明の衝突」のサミュエル・ハンティントンが明確に指摘している。「アメリカはあれで
三権分立が曖昧模糊、未分化な部分があって、多分に中世的な色彩が濃く残っている」。アメリ
カは欧州にまだ魔女を焼く煙がたなびく中、新天地を目指した人々がわたってきた。欧州ではそ
の後、宗教のくびきを脱する市民の意識革命が起き、さらに産業革命が起きていくが、その間、
この地ではインディアンを殺戮しまくり、黒人奴隷を入れ、メキシコ人を追い出すことに熱中して
いた。つまり、彼らの意識は十五世紀で止まったままだという指摘である。

実際、そういう中世的な場面に、ホンダが遭遇したことがある。ルイジアナ州の少年がホンダの
オフロードバイクで練習中、コースのこぶを飛び越し損ねて大ケガをした。少年と父親はバイク
の欠陥が原因でジャンプ中に失速を起こした、としてホンダに三百万ドルの賠償を求める訴訟を
起こした。製造者責任法、PL訴訟である。

物理のブの字でも知っていれば、こんな非常識な訴えは起き得ないものだが、ホンダには苦い
経験がある。酔っ払ってホンダのオートバイをサイドスタンドを出したまま、暴走した男が転倒し
た事故で、原因は「スタンドが出ているというウォーニングがなかったため」として七百万ドルを
取られている。
285高山正之:02/03/19 07:51 ID:DI/oXzBf
《選民意識と独善と》 で、今回は念を入れ、映像化して陪審員の説得を図った。さしもの村
の寄り合い裁判でも、ホンダに責任がないことは100%証明されたはずだった。

しかし、連邦民事法廷の6人の陪審員評決は割れた。半分の3人がホンダは300万ドルを支払
えと主張し続けた。ケガをしたのはおらが村の子ども。ホンダはよそ者。それに金持ちなのだか
ら「それぐらい払ってもいいだろう」と、面と向かっていわれたとき、アメリカは法治国家と信じて
いた関係者は一瞬、耳を疑ったという。

アメリカが実は巨大な村で、未だに中世的な世界にあることは、例えば「ダーウィンの進化論を
学校で教えるな」と主張するブキャナン大統領候補が、予備選で30%も得票したりすることでも
うかがえる。でも、それはサウジ・アラビアで初潮を迎えた女の子が結婚できる、というのと同じ
で、周りの国がとやかくいっても始まらない。

ただ、アメリカにはもうひとつ、不思議な特性がある。これがはた迷惑を生み出す。古くはあの
「モビー・ディック」のハーマン・メルビルの「我々こそ現代のイスラエル人(選民)」という意識。

「アメリカの経験から生まれた価値観は世界に通用する」(S・ホフマン)という考え方。そして現
代史家のJ・フェアバンクが指摘する「聖人ぶった態度、独善的な自負心、自らを道徳的に高い
とする態度」の「アメリカ人」根性である。

それが中世的裁判とドッキングすると、どうなるか。最初の犠牲者はCIA元長官ブッシュの下で
その手先を務めてきたパナマのノリエガ将軍だった。麻薬戦争を政策の柱にしたブッシュ大統領
の下でフロリダ連邦裁判所はノリエガの起訴を決める。これを受けて、ブッシュは早速パナマに
軍を派遣し、旧友のノリエガを逮捕してしまう。断っておくが、パナマはれっきとした主権国家で
ある。近代法治国家の法律には一事不再理のほかに属地主義というのがある。法律はその国
の主権の及ぶところだけに限られる。当たり前のことで、もし、その辺を勝手にされたら、サウジ
の王族など重婚罪と、幼女暴行でみな逮捕されてしまう。他国の主権の侵害という言い方もでき
る。このノリエガ事件は世界の非難を浴びたけれど、結局ノリエガは有罪を宣せられ、今も刑務
所で暮らしている。アメリカが大国ゆえにみんな黙ってしまったのだ。これでアメリカの独善とア
メリカ的道徳心の押し付けにさらに磨きがかかっていく。

95年、イスラエル・ガザ地区で通行中のバスに爆弾を積んだ乗用車がぶつかった。休暇を終え
て基地に戻るイスラエル兵士を標的にしたパレスチナ人青年による自爆特攻である。これで目
的のイスラエル兵9人が死ぬが、ついでにアメリカ人女学生アリッサ・フラトーも巻き添えで死ん
だ、20歳だった。

爆弾テロを行った青年は死んでいる。犯行声明はハマスが出したが、イスラエル政府とは敵対
する組織で、仮に遺族がハマスを相手取って民事訴訟を起こしたところで、まず法廷に出てくる
こともないだろうし、まして求償できるとも思えない。娘を失い、その憤りのもって行き場もないア
リッサの遺族に、アメリカ議会が動く。そして97年、テロ犠牲者救済法ができた。
286高山正之:02/03/19 07:55 ID:SDAtfjuT

これはアメリカの国務省がテロ支援国家に認定した国、イラン、リビア、つい最近は北朝鮮も加
えられたが、そういう国の支援を受けたテロに巻き込まれた場合、本人、または遺族はそのテロ
支援国家をアメリカの法廷に引き出して訴えられるというものだ。そしてこの法律はアリッサのた
めに作ったものだから、もちろん二年前に起きた彼女の事件もその対象とした。

無辜の人々を巻き込み、その命まで奪う卑劣なテロ。それを罰するアメリカの高い理念に世界の
どの国が反対しようというのだろう。その高い道徳、理念は世界に通ずるものだ、というわけだ
が、その法律には、問題点が多い。よその国で起きたテロの被害についてアメリカで裁けるとす
るのは、明らかに前述した属地主義、民法でいう被告所在地主義を無視している。

《裁判管轄権も罪刑法定主義も無視》 次に法律の遡及効力まで認めている。「法律なけれ
ば犯罪なく、刑罰もない」とはフォイエルバッハが罪刑法定主義の理念を語った言葉だ。あとか
ら法律を作って、それを溯らせて誰彼かまわず捕まえられるようになったら法律の尊厳も信頼も
失わせる、と戒めたもので、「法の不遡及の原則」はどんな国でも守ってきた。現にアメリカの憲
法第一条には「・・・・・・・・・・・・・(遡及禁止)」を高らかにうたってもいる。

もっとも例外はなくもない。あの東京裁判で日本の責任を問うた「平和と人道に対する罪」は戦
後、急ぎアメリカを中心にして作った事後立法で、それで多くの日本人を絞首刑にしている。

いずれにせよ、この近代法の理念も国際法の何たるかもいっさい無視したテロ救済法は発効
し、アリッサの遺族の訴えを受けた法廷は国務省が選んだテロ支援国家にイランを選び、ニュー
ヨークの国連ビルにいるイラン国連大使に召喚状を送って裁判が始まった。

イラン側は、何をばかな、テロ行為にイランは関与していないし、その証拠もない。おまけに裁判
管轄権も無視すれば、罪刑法定主義にも悖るような裁判に誰がでるものか、と通告した。まあ当
たり前だろう。

しかし、法廷は被告側に召喚状が送達された時点で正式に裁判が始まった。ここでも判事はこ
の法律の遡及がどうのとは触れなかった。要するに裁判は有効だとして、アメリカの訴訟法に基
づき、召喚状を無視し、法廷に出てこないイラン政府は告発に同意したとみなし、審理を進めて
いった。

証拠がない、違法だ、国際法に違反している、というなら法廷で無実を証明し、違法性を主張せ
よというわけだ。これをアメリカは「・・・ ・・・・・・・」と呼ぶが、実はこれが深い落とし穴であること
を後に触れる。

かくて98年、イラン政府欠席のまま、法廷は二億四千七百万ドルをアリッサの遺族に支払うよう
判決を下した。連邦議会が法を成立させ、国務省のデータをもとに連邦裁判所が下した判決で
ある。これは笑い事でなく、有効にイラン政府に実行を迫る力をもつのである。幸いというか、イ
ランは目下、アメリカとは正式の国交をもっていない。どうぞ、ご勝手に、といっていられる。
287高山正之:02/03/19 08:08 ID:VrOXqK4y
要するにアメリカの法律には、法の理念である一事不再理とか、罪刑法定主義とか、遡及の禁
止とか、よその国の主権尊重とか、そういう類いの国際常識は通用しない。勝手気ままにという
か、一面の真理があれば法がどんどん作られ、運用されているというのが実態に近い。それを
支えるのが、アメリカ人のいう彼ら独特の高い道徳心なのである。

1994年、7歳の幼女ミーガン・カンカが常習性犯罪者に殺された事件から、わずか3カ月後に
ニュージャージー州議会が制定したミーガン法はその典型で、その後、連邦法に昇格する同法
は性犯罪者のプライバシーを全く否定し、氏名、居住地は当局に登録され、周辺住民にも公表
されるというものだ。

ある州では刑期を終えて出所した性犯罪者の顔写真から居所までインターネット上で公開され
ている。これが中世の刑罰、さらし者の刑に当たるとして、一つの罪で加重的に罰せられるのを
禁止した憲法に違反するという批判もあった。しかし、性犯罪があふれる現状では一種の緊急
避難と考えているのか、それをとくに問題とする者はいない。

しかし、そうした法の運用にはもう一つの側面があることを忘れてはならない。前述したホンダの
ケースのように自損事故でも、うまくすれば700万ドルをせしめられる。カネになるのである。

もっとも、すべてが原告の収入になるわけではなく、その3割から8割は弁護士が持っていってし
まう。それでもオートバイでケガをしただけで最低140万ドルは手にできる。だから弁護士は頼
られ、一方で学生のほとんどは弁護士を目指し始めた。目下の弁護士の数は全米で90万人、
陸海空に海兵隊を加えた米軍兵士が138万だから、それに次ぐ大勢力である。

彼らは弁護士事務所だけでなく、行政機構に、人権団体などさまざまな組織、政界などへと進出
した。クリントン政権では大統領もファースト・レディもオルブライト国務長官、リノ司法長官もと、
閣僚の半数が弁護士資格をもつにいたっている。

《訴訟社会で食っていく人の群れ》 その90万人が訴訟で食っていけ、あるいは政界で、行
政機構で名を上げていかなければならない。彼らが協力し合えばどれほどのカネを稼げるか。
それを端的に示したのが三菱自動車アメリカのセクハラ訴訟だった。

96年春、整理の対象になっていた連邦雇用機会均等委員会(EEOC)が記者会見を開き、イリ
ノイ州にある三菱自動車アメリカの組み立てラインで無差別広範囲にセクハラが行われている、
被害は七百人の女性従業員すべてにわたる、EEOCはセクハラのクラスアクション(集団訴訟)
を起こす、というものだった。

この事件はまずテレビで、ついでニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストなど主要紙がいっせ
いに報じ、日を追って三菱たたきは苛烈になっていった。ポストは現地に6人の取材チームを送
り込んだが、タイムもニューズウイークもそれぞれに事実はともかく、日本がいかに性差別が激
しいかの読み物記事を載せる。まるで1カ月前から準備していたような書きっぷりだった。

議会の女性議員も、そして女性人権団体NOWもこれに呼応して三菱の不買運動を宣言する。
そして三菱が少しでも抵抗すると、つまり従業員が訴訟不当を訴えるデモを展開すると、当のE
EOCはじめ、新聞も議会もそれが会社の差し金で、解雇をちらつかせてデモ参加を強要した風
な記事が氾濫する。
288高山正之:02/03/19 12:17 ID:ffwuVxoH
これが実は、「ある組織がEEOCをたきつけ、弁護士事務所、議会、マスコミなどすべてを仕切
って演出した」(外務省幹部)訴訟劇だった。組織の中心は言わずと知れた弁護士族で、各界に
浸透する弁護士仲間とのコネを利用しつつ、三菱包囲網のお膳立てを演出していった。その攻
撃の緻密さ、足並みのよさ、情報伝達の速さがずば抜けていたのもそういう理由からだ。

ちなみに、この陰の演出者の存在をほのめかすAP電がある。1996年、三菱自動車が敗北を
宣言し、3400万ドルの和解金を支払ってまもなく「女性従業員約240人がこの訴訟発表の前
に、20万ドル以上のカネが得られるから、セクハラのクラスアクションにオプト・イン(参加)する
よう要請され、OKを出していた」というものだ。もちろんEEOCはこうした事前工作を否定し、誰
が女子従業員に接触したかは不明のままだ。

かくて法と正義を口実にした巨額の恐喝が白昼堂々展開された訳だが、この悪質な犯罪を告発
するものは誰もいない。弁護士事務所ももうかり、マスコミも喜び、つぶれかけたEEOCも生き
残り、オプト・インの女性従業員も幸せになったのだから。

ついでながらEEOCはこれに味をしめたのか、莫大な和解金を取ってしばらくして、また三菱自
動車を障害者法(ADA)で脅した。従業員募集のおりに、腰痛や糖尿病をもつ人を不採用にし
た、それがADAに違反する、という言い分だった。

三菱自動車は他のアメリカ企業と同じように同法に基づいて障害者枠を設け雇用していた。きち
んと対応したつもりだったが、根拠もない「セクハラの罪」で四十億円も取られたばかりだった。
結局、EEOCの言い分を聞いて三百万ドルを支払った。

三菱自動車は今年一月、黒人従業員にも訴えられた。KKKのいたずら書きが壁に書かれ、上
司が黒人を差別しているという。いわれない因縁ですでに四千万ドルも脅し取られた三菱がまた
黒人差別などするはずもない。いたずら書きを含め、だれかが結託して演出していることは間違
いないだろうが、それを証明したところで、よそ者三菱がこの裁判に勝てる見込みがないのはホ
ンダの例がよく示している。

《何でもあり、の州法》 さて、これまで主に連邦法の気ままな運用ぶりを紹介したが、実は州
法もこれに負けてはいない。例えばマサチューセッツ州は通称ミャンマー法を制定した。我が州
も連邦議会に負けずに「高い道徳心」に燃え立っていて、ミャンマーや中国、キューバなど人権
を抑圧する国との取引がある国内外の企業は同州から排除するという趣旨である。

ミャンマー、中国との交易といえばたいがいの日本企業は該当してしまう。一方でアメリカ政府
は自由貿易を叫びWTO(国際貿易機関)を主導してきた。それなのにそのお膝下の州で「おま
えはミャンマーと取引がある。気に食わない」と取引を拒否し、あるいは訴訟に持ち込むというの
だ。このいかにも人道派的法律はよその州でも真似する気配があって、近い将来、日本はアメリ
カ政府のほかに五十州の政府と貿易協定を結ばなければならなくなるともいわれる。

カリフォルニア州でも異様な法律をつくった。カリフォルニア州大気資源局が州内で売られる車
のすべてに燃料パイプの気化ガス漏れを検知する装置を義務づける法律で、そこから漏れるP
PM単位のごく微量の気化ガスが大気汚染に影響するという口実だ。
289高山正之:02/03/19 12:21 ID:GOia/HzH

しかし、街中のガソリンスタンドでは給油中にその数百万倍もの濃厚なガスを発散する。意味不
明の立法意図は、まもなく明らかになった。ホンダの検知装置に欠陥があると州政府が言い出
し、莫大な罰金を命ぜられ、結局2千万ドルの和解金が支払われた。トヨタも同じで、因縁の額
は600万ドル。トヨタは和解を拒否して訴訟の準備を進めている。

そして今、最初からカネ目当ての極め付け州法が登場した。「第二次大戦中の奴隷・強制労働
に関する補償」、通称ヘイデン法というカリフォルニア州民事法である。これはもともとナチス政
権下で強制労働に従事させられた民間ユダヤ人、東欧諸国の民間人を対象に、彼らにその賠
償を求償できるとした法律だった。

この求償法にトム・ヘイデン州上院議員が追加条項を提案した。まず「ナチス政権」つまりドイツ
だけでなく「その同盟国及び同調国」に広げた。旧枢軸国は独、伊、日本だが、イタリアはさっさ
と降伏して抜けているから、平たく言えば日本を追加した、ということだ。

そして「民間人」だけでなく、戦争捕虜も「奴隷労働者」の枠に含め、さらに求償を求める相手も
政府ではなく、「占領、または支配下の地域において」、そういう奴隷労働者を働かせた「企業」
とし、「その時効を2010年まで延長する」というものだ。

この奴隷労働者求償法が今なぜ話題になっているかというと、欧州の地で東西ドイツがやっと統
合し、これまで平和条約も結んでいなかったドイツと東欧諸国の間で50年遅れの賠償交渉が進
められている。その交渉の中でユダヤ人など強制労働をさせられた人々とその遺族の補償問題
がでて、ドイツ政府だけでなく、その強制労働で利益を享受した「シーメンスなど14の民間企業
も補償金を負担する」という方式が打ち出された。ドイツ側はこれに沿ってすでに50億ドルを拠
出することを決めている。

この「企業も補償に参加」という方式がカネ儲けにかけてはすばらしい嗅覚をもつアメリカの弁
護士や訴訟演出家を刺激した。まず相手は訴えて取りっぱぐれのないディープ・ポケット(金持
ち)の日本である。おまけにアメリカは一事不再理も不遡及も裁判管轄権も何もかも無視できる
国だ。

もうひとつの利点は民間企業から求償できるという方式。日本政府とアメリカ政府の間では、こう
した戦時賠償問題は条約の上ですでに解決されている。だから、連邦法ではできないが、アメリ
カには前述したマサチューセッツ州のミャンマー法のように州法ならアメリカ政府の対応とは別
の法律を作れる。例えば戦時捕虜の使役は国家間で結ばれたジュネーブ協定で認められてい
て、国レベルでは求償はできないが、州法は政府間の条約だって無視できるわけだ。

しかも、戦時捕虜を使った企業と名指されるのは三井物産であり、新日鉄、川崎重工など、いず
れもアメリカに進出拠点をもっているから、そういう子会社を法廷に呼び出せば十分、目的を達
せられる。

290高山正之:02/03/19 12:27 ID:sDCJQOy/

《正義と公正の裏にあるもの》 かくて、ヘイデン法は誕生した。それは、ジュネーブ協定や講
和条約を無視し、更に50年を溯って求償を認め、しかも外国で起きた事案についてカリフォル
ニア州の裁判所で審理できるとした裁判管轄権も国家主権もないがしろにした中身である。その
窓口となった「被抑留者のための権利センター」によると、アメリカだけでなく、オーストラリアや
イギリス、オランダからも集団訴訟に参加する元捕虜たちが名を連ね、ロサンゼルス・タイムズ
紙は「おそらく、1兆ドル単位の訴訟になるだろう」と予測する。恐ろしいことに、前述したイラン
政府の裁判のように、裁判官が違憲、または管轄外を宣言して棄却しない限り、この訴訟は日
本側企業が拒んだところで正規に行えることである。

これに対抗するのは日本の政府だけだが、「アメリカ連邦政府、あるいは連邦裁判所が関与し
ない限り、日本政府は口を出せない。州レベルでは何があっても、それはアメリカの国内事情に
なってしまう。だから州の裁判所で結果が出て、日本企業が不利な対応を迫られたときにのみ
介入するしかない」というのが外務省の見解である。

外務省は今回の騒動も一地方議員のアイデアとは思えない、三菱のときと同じように「背後に綿
密な情報ネットをもった組織がいる」ことをほのめかす。この訴訟騒ぎと軌を一にするように南京
大虐殺問題が大きく取り上げられ始めたのも「決して無関係ではない」という。今、日本側が騒
げば「三菱と同じように相手に騒ぐ口実を与える」というのである。

アメリカのいう正義と公正の裏に何があるのか、その素性と習性を知ることが、今、最も大事な
ことなのである。

291高山正之:02/03/19 12:34 ID:CUlLVL5U
■高山正之の異見自在 無能な役人がいると… 次はサッカーを滅ぼそう
98.11.14
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/back/r-2000back.html

日本にもずっと前、映画の黄金期というのがあった。例えば、東京の真ん中にある小さな盛り場
麻布十番には4軒の映画館があってそれぞれに繁盛していた。繁盛なんて生易しいものじゃな
く、そのひとつ、麻布東映でいうと週末には立ち見はざら。通路にしゃがんで見るのが当たり前
で、それで鞍馬天狗が馬を走らせてくると、一生懸命拍手したものだ。

2ブロック離れた麻布日活では石原裕次郎の映画がかかっていて、どっちを見ようか悩んで結
局両方見てしまったこともあった。あの時代は子供までがみんな淀川長治だった。繁盛したのは
映画が当時、娯楽の王様だったし、学校でも「笛吹童子」がどうなったか、それが話題だったこと
もある。

東映や東宝、日活など映画会社もそれにこたえて毎週新作の2本立てで臨んだ。各社とも年間
100本以上も制作していたわけで、年間にすれば数百本もの邦画が作られた計算になる。天下
のハリウッドが年間200本ぐらいだから、これは大変な数字ではある。「映画界に活気があった
からこそ、世界の黒澤明も市川崑もゴジラも出てきて、ハリウッドでさえそれを学んだ」とクリント
ン政権のブレーン、ブルッキングス研究所のマイク・モチヅキはいう。

しかし、その日本映画は1964年(昭和39年)の東京五輪のころを境に凋落していった。「その
ころ普及したテレビの影響が大きい。それにもうひとつ、日本人のモーレツ人間化が映画館にい
く暇を奪った」とモチヅキはいう。実はアメリカもその10年前、同じような現象を体験していた。
ただ「為政者が日本と少し違った」。

ハリウッドを潰してはならないと判断した政府は、まずフィン・シン法(投資及び映画配給者法)を
成立させる。これはテレビ局が映画やドラマを自主制作するのを禁止し、ハリウッドにテレビ向け
作品を発注させるようにした。

ハリウッドは息を吹き返し、例えば三大ネットのABCはディズニーに450万ドルを出資し、その
代わりに「怪傑ゾロ」や子供向けの「ミッキーマウス・クラブ」の制作と供給をさせた。CBSもNB
Cもそれにならい、「ローハイド」や「奥様は魔女」が生まれていった。

政府はもっと積極的な政策も導入した。税制の改正である。映画制作への一般からの投資を所
得から控除できるようにしたのだ。例えばヘプバーンとクーパー主演で「昼下がりの情事」を制
作するとする。スタジオはこの制作発表とともに、一般から投資を求めるのがハリウッド方式で
ある。出資者は映画がヒットすれば配当をもらえ、外れればアウトになる。人気は高いがリスクも
高かった。

その出資が控除できるとなれば一般市民も喜んでカネを出す気になる。おかげでハリウッドノは
カネが集まり、活気も戻ってきた。テレビには上質のドラマが送り込まれ、映画館には前にも増
して名作や大作がデビューした。

292高山正之:02/03/19 12:38 ID:XBNuUczA

ヨーロッパの街が教会を中心に据えたように、今のアメリカの街はショッピング・モールとシネプ
レックス(複合映画館)を中心に作られるというほど映画は市民生活に根を下ろしている。

ハリウッドも強くなった。ディズニーは昔の恩人だったABCを逆に買収して傘下に収め、NBC、
CBSも同じようにMCAなどの軍門に下ろうとしている。

映画産業は輸出の花形にも躍り出て、海外での劇場興収は25億ドル、ホームビデオは36億ド
ルも稼ぎ、テーマパークやキャラクター・グッズを含めると、今や兵器産業に次ぐ堂々2位の国際
商品にもなっている。ちなみに日本はこの海外興収の20%を占め、ビデオも合わせればアメリ
カの10州分にも相当する超お得意様である。

この時期、日本からは大蔵省や文部省の役人たちに、もっと多くの国会議員がアメリカに視察に
きたが、ハリウッドで記念写真は撮っても、この蘇生政策に目を向けたものは1人もいなかった。
何の手も打たないまま、日本映画は沈んでいった。

日本映画の凋落を嘆いた淀川長治が大往生した日、横浜フリューゲルスに次いでヴェルディ川
崎の財政危機が表面化した。理由はJリーグがスポンサー企業に「名を出してはならない」とし
たことにある。名前が出ずにカネを出すと「税制上、寄付だから課税する」というのが日本の役
所の見解である。

あるスポンサー企業はいう。「年間20億円もの赤字を補っても損金扱いできないうえ、その補填
が寄付だから税金を取るというのではやってられないわね」ちょっと税制をいじり、企業の損金
扱いを認め、出資者にはハリウッド式に控除を認めれば、みんな喜んでカネを出すだろうに、政
府がまじめにやったのは役人の天下り先としてサッカーくじ協会を作ったことだけ。

頭の悪い政府をもつと、映画もサッカーも生き残れない、ということだろう。

293高山正之:02/03/19 13:34 ID:lSl7npzJ
高山正之の異見自在 日本が悪くないと困るワケ
http://www.sankei.co.jp/databox/Wcup/html/9811/1114_04.html

1942年11月13日は金曜日だった。だから、この日、ソロモン海域に入った軽巡洋艦「アトラン
タ」、「ジュノー」など11隻のアメリカ艦隊の乗組員はちょっぴりいやな予感があったという。

実際、その先のガダルカナル島へ通じる海峡の底は撃沈された多くの艦艇の残骸で埋められて
おり、後に「アイアン・ボトム」海峡と名付けられてもいる。軍艦の墓場という意味である。

予感は当たった。その日の日没を待つように戦艦「比叡」以下の日本艦隊が行く手に現れ、ラバ
ウルからの一式陸攻が空から、そして海の底から伊号潜水艦も加わって猛攻を仕掛けてきた。

第三次ソロモン海戦と呼ばれる海戦は以後4日間続き、米艦隊は「アトランタ」以下軽巡2隻、駆
逐艦4隻が沈められた。最大の悲劇は「ジュノー」だった。日本の潜水艦の放った魚雷が弾薬庫
を直撃したため、6千トンの軽巡は大爆発を起こして一瞬のうちにアイアン・ボトムに向かって沈
んでいった。約700人の乗員のうち、助かったのは七人だけだった。この艦にアイオワ州出身
のジョージ・サリバン(28)以下5人の兄弟が乗り組んでいた。アイルランド系の兄弟は共通の友
人が日本軍の真珠湾攻撃で戦死したことを知って、即座に海軍に入隊を決めた。そして兄弟そ
ろって軽巡「ジュノー」に配属され、友人の弔い合戦に出たばかりだった。

しかし、この魚雷攻撃で長男ジョージを除く4人が艦と運命をともにし、ジョージも救命筏で漂流
中にサメに襲われて絶命する。サリバン兄弟全滅のニュースはアイオワで5人の帰還を心待ち
にしていた両親だけでなく、アメリカ社会にも大きな衝撃を与えた。

戦争のもつ残酷さを象徴するこの事件の影響を心配したF・ルーズベルト大統領は、翌43年に
進水した駆逐艦に「サリバンズ」の名を冠して栄誉をたたえた。現在は97年に配備された新鋭
イージス艦が「サリバンズ」2代目を襲名している。

また、兄弟全員が応召して軍務に就く場合には配属先を必ず分散し、1人は安全な国内勤務に
するという心配りをみせた。この「サリバン兄弟の悲劇」が、実は今回のアカデミー賞最優秀作
品賞候補となった、スピルバーグの「プライベート・ライアン」の下敷きになっている。

ときはその軍務規定が改められたばかりの44年6月、分散配属されたライアン4人兄弟のうち
3人が別々の戦場で相次いで戦死してしまい、残ったのがドイツ軍の勢力下に取り残された末
弟マット・デイモンという設定だ。軍首脳部は「サリバンの悲劇を繰り返すな」とその末っ子の救
出を命ずる。命ぜられたのがトム・ハンクスである。

294高山正之:02/03/19 13:39 ID:iyeHWtf/

今度のアカデミー賞では、スピルバーグ作品のほかに「Thin Red Line」、「Life is Be
autiful」と、最優秀作品賞候補五本のうち三本が第二次大戦を扱っている。

「Thin」はサリバン兄弟が散ったガダルカナルの戦場が舞台で、題名は「紙一重の生死の差」と
いった意味である。「Life」は欧州戦線下で迫害を受けるユダヤ人家族をこの種の映画としては
珍しくほのぼのとしたトーンで描いている。それにしても「今、なぜ第二次大戦なのか」(ロサンゼ
ルス・タイムズ)という問いは残る。同紙の映評には「第二次大戦こそ一点の曇りもないアメリカ
の正義の戦いであり、だれもが受け入れた勝利だった」と書く。

確かにその後の朝鮮戦争もベトナム戦争もアメリカは正義を主張しながら、そういう格好いい終
わりはなかった。湾岸戦争もそう。「イラクは悪い」とアメリカがやっきになっても「どうだか」と周
辺は冷たい。嘘と不誠実はいけないとイラクを非難しながら、送り込んだ国連査察委がアメリカ
諜報機関の手先だったという大嘘もバレた。大統領の不倫の嘘もバレた。

「強さと正義を自任してきたつもりが妙にチグハグになり、国民にフラストレーションがたまってい
る」と諸星裕・桜美林大教授はいう。経済は好調だが、それを支えたマイクロソフトの商法に道
義的疑問が出されたりもする。それで、「強く正しいアメリカとは何なのかという問いが出され、そ
の答えとして第二次大戦が出てきた」という分析である。

アメリカ・ジャーナリズムが今世紀の百大事件をまとめた。1位が原爆による第二次大戦終結。2位が月面着陸、3位が真珠湾攻撃でアメリカの参戦、以下七位にホロコーストがあって、ドイツ
がらみが妙に割り引かれた印象だが、ここでも第二次大戦が「アメリカの曇りない正義」の発露
場所として扱われる。

日本が太平洋戦争の見直しをしようとすると米国はすぐ怒る。日本が絶対の悪でないと、「アメリ
カの正義」が曇ってしまうから困るのだ。

http://www.sankei.co.jp/mov/db/99a/0306backup_clm.html
295高山正之:02/03/19 17:30 ID:fdT8aWNm
■高山正之の異見自在 2001.03.23
消えた日本の遺産 かれらの“差別”意識を知れ

パラオの話だが、ここは第一次大戦のあと、ドイツ領から日本の委任統治領になった。その当時
は「タロイモと魚が島民の主食だった」とパラオ共和国の上院議長だったピーター・スギヤマはい
う。 「日本がきてからその生活は大きく変わった」と続ける。

日本はコメを持ってきた。ナスやキュウリなど野菜に、サトウキビ、パイナップルも持ち込んだ。
そして雇用創出もした。マグロ缶詰工場やかつお節工場もつくり、島民に仕事を与えた。インフラ
も整備し、舗装道路を敷き、電気を供給し、電話も引いた。今、英語で話される日常会話に日本
語の「デンワ」が交じるのもそのころの名残だ。

しかし、その統治は30年と続かず、パラオは3度目の統治国、アメリカを迎えた。 彼らアメリカ
人はまず「すべての工場を破壊し、畑もつぶした。島々を結ぶ橋も壊し、道路の舗装まではがし
ていった」。

すべての破壊が終わった後、アメリカは島の人々にアメリカ米を支給し、働かなくてもいいように
生活保護費を出した。東西冷戦の中でこの島が東側に取られた場合を考えれば、数千の島民
にただ飯を食わせるぐらいは安いものだという考え方だ。

そして、冷戦が終わった今、島民への援助は間もなく打ち切られる。もうこの島を持っている意
味はなくなったからだ。カリブ海に浮かぶハイチはナチやソ連の進出が懸念されるたびにアメリ
カが占領した。脅威がうせれば捨てられた。それと同じパターンである。

ピーター・スギヤマはアメリカ軍兵士が汗まみれでブルドーザーを動かし、道路の舗装をはがし
ている光景を覚えている。「まるで日本人がここにはいなかった、何もなかった、と黒板消しで日
本の影を消し回っているようだった」と。実は、そういう日本の名残を消し去る作業はアジア各地
でも見られた。あの泰緬鉄道もそうだ。

全長四百キロ余り。1943年(昭和18年)春から日本軍と連合軍捕虜、それに現地の人たちが
従事して10カ月足らずでバンコクからミャンマーのモールメンまでが結ばれた。 しかし、戦後に
戻ってきたイギリス軍は日本軍捕虜を使ってその軌道敷を撤去させ始めた。 驚いたのはタイで
せっかく敷かれた鉄路を外すことはないだろうと抗議して、結局、タイ領内の50キロだけが残さ
れた。今、それは地元民の重要な足として重宝がられている。

地元の人たちには有用な舗装道路や鉄道を、彼らはなぜ取り払ったのだろうか。その答えは「ハ
ル・ノート」で知られるコーデル・ハルの言葉に集約されそうだ。 彼は終戦前年の秋、「日本は
敗れても、解放の戦士としてアジアに影響力を残すだろう」とルーズベルトに警告している。

その影響力を排除しないと「欧米のアジアの植民地支配は終わり、マッカーサーのいう『アメリカ
の未来はアジアとその周辺の島々(の支配)にかかっている』という夢も無駄になる」と。
296高山正之:02/03/19 17:31 ID:fdT8aWNm

日本の影響力を排除しよう、とはどんな歴史書にも書かれていない。書かれてはいないけれど、
その後の展開は十分それを裏付けている。 敗戦後、連合軍は国外にいた日本人すべてを引き
揚げさせた。アイルランドなど中立国にいた日本人まで引き揚げさせたのは明らかな国際法違
反だが、それでも強行している。

舗装をはがし、鉄路を取り払ったのも日本人がいたという証拠を消し去るためだったろう。彼ら
は、すべてを消し去ったあと、もっと積極的に日本の否定的イメージを植え込んだ。「日本は侵
略国家」だとか「残虐非道」だとか、聞き飽きた伝説だ。

泰緬鉄道では、そこで働かされたP・ブールが「クワイ川の橋」を書いてこの伝説を補強した。

ただ勢い余って、この続編に「猿の惑星」を書いたのはまずかった。日本人を「猿」に見立てたス
トーリーは、はしなくも白人こそ有色人種・日本人に勝るのだ、という本音をもらしてしまった。

韓国で、日本の総督府ビルが取り壊された。日本はこの国に総督府だけでなく、ダムも鉄道もつ
くった。おかげで「はげ山が消え、港も立派になった」(日韓交渉での久保田貫一郎政府代表の
発言)。 日本の遺産が気に食わないなら鉄道もダムも壊せばよかったと思うが、それは別にし
て、この総督府取り壊しには、欧米と同じ人種意識がある。 11日付の本紙「日中再考」に「中
華のために屍になろうとも、倭奴にはひざまずかず」の引用が示す「華夷弁別」意識である。

中国文化圏には、この序列が生きていて、中国がその中心にあり、序列2位に朝鮮とベトナム
3位に蒙古その他、その外側の日本はもはや化外の地なのだ。彼らは口でこそ言わないが、そ
ういう人種意識、弁別意識がすり込まれている。その善悪は別にして、彼らがどういう思考形態
を持っているかを知らなければ、日本は国際舞台でどんな交渉をしようとも勝ちはない。

297高山正之:02/03/19 17:37 ID:QK9TMqU4

高山正之の異見自在 先住民虐待史
さあ五輪だ、反省のポーズ  2000年09月16日
http://www.angel.ne.jp/~arrow/ikenjizai/0916.htm

コロンブスが西インド諸島に着き、バスコ・ダ・ガマが数年遅れで喜望峰を回って、「大航海時代
が幕を開けた」と白人の歴史書は書くが、有色人種にとってそれは受難の歴史の始まりだった。
西インド諸島と名付けられたカリブ海の島々で、最初の虐殺の場になったのはイスパニョーラ島
だった。300万人のインディオは黄金を求めるスペイン人に焼き殺されるか、金鉱で酷使される
かしてたった60年間で淘汰された。

ジャマイカには約100万人がいたが、「30年後には200人しか残っていなかった」とラス・カサ
スは「インディアスの壊滅についての簡潔な報告」に書いている。

虐殺を逃れた人々がキューバに渡り、そこの住民に危険を知らせた。彼らは金を奪うために人
を殺すと。それならと住民はすべての黄金を捨てたが、スペイン人は、やはり皆殺しだけはして
いった。 ある族長は供出した金の量が足りなかったために焼き殺されたが、その処刑前に宣教
師からキリスト教への改宗を迫られた。「改宗すれば天国にいく。そうでなければ地獄に落ちる」と。 族長は聞いた。

「あんたらキリスト教徒はどっちにいくんだ」
「われわれは天国に行く。正しい人はすべて天国に召される」
「それなら」 と族長は言った。
「キリスト教徒たちには二度と会いたくない。地獄にしてくれ」

スペイン人はメキシコでも同じことをした。あるとき、スペイン人が犬を連れて狩りにいったが、獲
物はなかった。「腹を減らした犬を不憫に思った彼はインディオの母が抱いていた赤ん坊を取り
上げて、その手足を切って犬に食べさせた」(ラス・カサス)

西インド諸島には1300万人のインディオがいたが、その全てが100年もたたないうちに絶滅
してしまい、代わりにアフリカから黒人が運び込まれた。白人は黄色人よりは黒人の方がいいと
考えていた。

この伝統は北米大陸にも引き継がれた。ただアメリカ人は合理的というか、まずインディアンを
全て虐殺してから黒人奴隷を入れるというスペイン方式は採らずに、それを同時並行で行った。

その結果、1863年、黒人奴隷の解放が宣言されたときもまだアメリカン・インディアンの虐殺は
終わっていなかった。 温和なシャイアン族の居留地を700人の騎兵隊が襲って150人の女子
供を虐殺したサンドクリークの虐殺はその翌年のできごとになる。シャイアンはそれから12年
間、戦い続け、カスター将軍をリトル・ビッグホーンで討つ。

298高山正之:02/03/19 17:43 ID:5tm4WAjE

同じ1863年、アルゼンチンでは「国家近代化作戦」が展開された。平たく言えば北部パラグア
イ国境付近と南部パタゴニアに住む「みっともないインディアス」の皆殺し作戦のことで、指揮官
は後にその功績で大統領に就任するロッカ将軍だった。

今のアルゼンチンにモレーナ(白人混血)やムラータ(黒人混血)はおろか、先住民もほとんど見
かけないのはこの徹底した民族浄化によるものだ。 そして最後の有色人種の淘汰はオーストラ
リアで行われた。

イギリスがこの地を犯罪者の流刑地としたのは18世紀だった。だからオーストラリア人に祖先を
聞くと、「ウチは1800年以降に入植した」という。祖先は囚人じゃないという意味である。

しかし、その入植者が流刑の囚人より悪質だった。ここにはディンゴ(犬)より凶暴な動物はいな
かった。だから飛べない鳥もいれば、コアラ、カモノハシなども生息できた。 アボリジニも似たよ
うに温和だった。入植した白人が土地を取りにそばにきても見て見ぬふりをした。要するに無防
備だった。それで片っ端から崖下に突き落とされ、撃ち殺された。 虐殺は20世紀に入っても続
けられ、「白人たちは週末ごとにアボリジニ狩りに出かけた。ニューサウスウェールズ州立図書
館に残された1928年の記録には、その日の獲物として『アボリジニ、17人』の記載があった」
(降籏学「残酷な楽園」)。

おかげで約300万人いたアボリジニは20万人に減った。政府は彼らがみっともないからと、今
はシットダウン・マネー(生活手当)をあてがい、遠い砂漠の居留地に封じ込めてきた。

いや、最後の有色人虐殺は「ヒロシマ」だという意見もあるが、それはともかく、今年に入ってコ
ネティカット州の新聞が「かつて黒人奴隷売買の広告を掲載」したことを1面で謝罪した。さらに
上院にはサンドクリークの虐殺を「アメリカ史の汚点として」記念碑を建立する法案が出された。

オーストラリアでは「企業は従業員の1%分、アボリジニを雇うよう」、つまり彼らを囲いから出し
て職を与えるというアメリカのアファーマティブ・アクションに似た政策を打ち出してきた。1%と
は、この国の人口に対するアボリジニの比率である。 一連の動きは、今回のシドニー五輪でア
ボリジニ問題が急浮上し、同じ“痛い腹”をかかえる国々が先手必勝、反省のポーズをとり始め
たためだといわれる。

これで彼らが神や正義を振り回さなくなれば、人類にとってこれ以上の福音はない。

299高山正之:02/03/19 18:24 ID:I+ZU474g

『猿の惑星』 ピエール・ブール/大久保輝臣訳
創元SF文庫 600円

ティム・バートン監督がピエール・ブールの不滅の傑作『猿の惑星』を再映画化
2001年7月28日、全国ロードショー公開

ヒトは万物の霊長ではない――原作小説『猿の惑星』とは

1963年、発表されるや世界中にセンセーションを巻き起こした問題作です。物語はまず、光子帆
船に乗って宇宙空間でのバカンスを楽しむカップルが、メッセージボトルを拾うシーンから始まり
ます。このボトルにはいっていた奇妙な手記が、『猿の惑星』のストーリーです。

手記の記述者はフランス人の新聞記者、ユリッス・メルー。西暦2500年、彼は科学者たち2人と
ともに、人類初の恒星間飛行に旅立ちました。彼らは、到着した先のベテルギウス星系で驚くべ
き光景を目のあたりにします。この星にも人間種族は存在したのです。

でもそれ以上にショッキングだったのは……この星の支配種族はなんと、喋り、武器を操る猿た
ちでした。しかも彼らは20世紀地球の人類社会そっくりの猿文化を築きあげているのです。そし
て、人間はといえば、知能も文化も持たない、猿たちに狩りたてられる動物でしかありません。

猿たちがなぜ人間よりも進化したのかというと、猿は2本の手だけでなく、両脚でも道具を持てる
し、指も人間より長いので遙かに複雑な作業ができるからだ、というのです。つまり、人間よりも
猿のほうが進化するのは自然の摂理なのだというわけです。

捕らえられた主人公は最初「変わった動物」としか見なされません。やがてチンパンジーの女性
科学者と言葉を通じさせるようになり、「特別な人間」として認められるのですが……。

さて、実はこの原作小説には、新旧の映画版とはまったく異なる、驚くべき二重仕掛けの結末が
用意されています。SFファンを自任する方はもとより、「猿」映画ファンの方々にも堪能していた
だけると思います。

『戦場にかける橋』の著者――原作者ピエール・ブールとは、1912年、フランス南部アヴィニヨン
生まれ。技術者としての教育を受けたのち東南アジアへ渡る。第二次大戦時には、現地でフラン
ス軍に従軍。日本軍の捕虜となった経験をもとに執筆した『戦場にかける橋』は、この『猿の惑
星』と並ぶ代表作で、その後映画化されました。1994年没。享年81歳。

SFの書籍としては他に、短編集『E=mc2』、『カナシマ博士の月の庭園』(別題『月への挑戦』)が
邦訳されています(現在はともに絶版)。

http://www.tsogen.co.jp/library/suisen_0108.html

300卵の名無しさん:02/03/19 18:59 ID:mRr0wMSY
外資のこと教えてください。
バイトしなくても生活できるくらいの給料はもらえるのでしょうか?
301卵の名無しさん:02/03/19 20:41 ID:rVvQ9BGK
>>282
>他に本社勤務の某氏、一族氏、役員氏等、こういう人材は
>なぜかとても豊富な会社です。

青森・○富士放火の某容疑者みたいに、自分を特定されないように、
いろんな可能性を言及しても、真実はひとつだろう。
302高山正之:02/03/19 21:13 ID:PG33RphT
>>301
もっと、まともな文章を書く練習をしましょうね、
中学から高校になると、覚える事も多くなるから
頑張るようにね。

応援してるからね、、、、、

303age:02/03/19 22:23 ID:fh/89XF6
age
304age:02/03/19 22:24 ID:fh/89XF6
よっこいしょ
305卵の名無しさん:02/03/19 22:59 ID:j9FYHZYc
>>302
そういうあんたも読点の使い方が独特
306age:02/03/19 23:08 ID:fh/89XF6
http://www.sawai.co.jp/generic/
ジェネリックっていうんだ ゾロっていうと聞こえわるいもんね
307:02/03/19 23:44 ID:ppVEGjQV
もっと、まともな文章を書く練習をしましょうね、
中学から高校になると、覚える事も多くなるから
頑張るようにね。

応援してるからね、、、
308高山正之:02/03/20 04:13 ID:bahdfVOK

■高山正之の異見自在 2001.03.23
消えた日本の遺産 かれらの“差別”意識を知れ

昨日に続いてパラオの話。ここは第一次大戦のあと、ドイツ領から日本の委任統治領になった。
その当時は「タロイモと魚が島民の主食だった」とパラオ共和国の上院議長だったピーター・ス
ギヤマはいう。 「日本がきてからその生活は大きく変わった」と続ける。

日本はコメを持ってきた。ナスやキュウリなど野菜に、サトウキビ、パイナップルも持ち込んだ。
そして雇用創出もした。マグロ缶詰工場やかつお節工場もつくり、島民に仕事を与えた。インフラ
も整備し、舗装道路を敷き、電気を供給し、電話も引いた。今、英語で話される日常会話に日本
語の「デンワ」が交じるのもそのころの名残だ。

しかし、その統治は30年と続かず、パラオは3度目の統治国、アメリカを迎えた。 彼らアメリカ
人はまず「すべての工場を破壊し、畑もつぶした。島々を結ぶ橋も壊し、道路の舗装まではがし
ていった」。

すべての破壊が終わった後、アメリカは島の人々にアメリカ米を支給し、働かなくてもいいように
生活保護費を出した。東西冷戦の中でこの島が東側に取られた場合を考えれば、数千の島民
にただ飯を食わせるぐらいは安いものだという考え方だ。

そして、冷戦が終わった今、島民への援助は間もなく打ち切られる。もうこの島を持っている意
味はなくなったからだ。カリブ海に浮かぶハイチはナチやソ連の進出が懸念されるたびにアメリ
カが占領した。脅威がうせれば捨てられた。それと同じパターンである。

ピーター・スギヤマはアメリカ軍兵士が汗まみれでブルドーザーを動かし、道路の舗装をはがし
ている光景を覚えている。「まるで日本人がここにはいなかった、何もなかった、と黒板消しで日
本の影を消し回っているようだった」と。実は、そういう日本の名残を消し去る作業はアジア各地
でも見られた。あの泰緬鉄道もそうだ。

全長四百キロ余り。1943年(昭和18年)春から日本軍と連合軍捕虜、それに現地の人たちが
従事して10カ月足らずでバンコクからミャンマーのモールメンまでが結ばれた。 しかし、戦後に
戻ってきたイギリス軍は日本軍捕虜を使ってその軌道敷を撤去させ始めた。 驚いたのはタイ
で、せっかく敷かれた鉄路を外すことはないだろうと抗議して、結局、タイ領内の50キロだけが
残された。今、それは地元民の重要な足として重宝がられている。

地元の人たちには有用な舗装道路や鉄道を、彼らはなぜ取り払ったのだろうか。その答えは「ハ
ル・ノート」で知られるコーデル・ハルの言葉に集約されそうだ。

コーデル・ハルは終戦前年の秋、「日本は敗れても、解放の戦士としてアジアに影響力を残すだ
ろう」とルーズベルトに警告している。 その影響力を排除しないと「欧米のアジアの植民地支配
は終わり、マッカーサーのいう『米国の未来はアジアとその周辺の島々(の支配)にかかってい
る』という夢も無駄になる」と。

309高山正之:02/03/20 04:14 ID:bahdfVOK

そうか、じゃあ日本の影響力を排除しよう、とはどんな歴史書にも書かれていない。書かれては
いないけれど、その後の展開は十分それを裏付けている。敗戦後、連合軍は国外にいた日本人
すべてを引き揚げさせた。アイルランドなど中立国にいた日本人まで引き揚げさせたのは明らか
な国際法違反だが、それでも強行している。

舗装をはがし、鉄路を取り払ったのも日本人がいたという証拠を消し去るためだったろう。 彼ら
は、すべてを消し去ったあと、もっと積極的に日本の否定的イメージを植え込んだ。「日本は侵
略国家」だとか「残虐非道」だとか、聞き飽きた伝説だ。

泰緬鉄道では、そこで働かされたP・ブールが「クワイ川の橋(戦場に架ける橋)」を書いてこの
伝説を補強した。 ただ、勢い余って続編に「猿の惑星」を書いたのはまずかった。日本人を猿に
見立てたストーリーは、はしなくも白人こそ有色人種・日本人に勝るのだ、という本音をもらして
しまった。

310高山正之:02/03/20 04:19 ID:wnklk6eD

韓国で日本の総督府ビルが取り壊された。日本はこの国(韓国)に総督府だけでなく、ダムも鉄
道も作った。おかげで「はげ山が消え、港も立派になった」(日韓交渉での久保田貫一郎政府代
表の発言)。日本の遺産が気に食わないなら鉄道もダムも壊せばよかったと思うが、それは別に
して、この総督府取り壊しには、欧米と同じ人種意識がある。

11日付の本紙「日中再考」に「中華のために屍になろうとも、倭奴にはひざまずかず」の引用が
示す「華夷弁別」意識である。中国文化圏には、この序列が生きていて、中国がその中心にあ
り、序列2位に朝鮮とベトナム、3位に蒙古その他、その外側の日本はもはや化外の地なのだ。

彼らは口でこそ言わないが、そういう人種意識、弁別意識がすり込まれている。 その善悪は別
にして、彼らがどういう思考形態を持っているかを知らなければ、日本は国際舞台でどんな交渉
をしようとも勝ちはない。

311産経新聞:02/03/20 04:39 ID:bGOta4B/

▼テロ対策協力前 産経新聞 2001.07.31

■対日賠償放棄の意見書提出、予算面で“封じ込め” 
強制労働訴訟、米下院法案可決 控訴審に影響も

【ワシントン30日=西田令一】第二次大戦中に強制労働させられたとして、米国など連合国の軍
人たちが日本企業を相手取って起こしている損害賠償請求訴訟の控訴審にからみ、国務、司法
両省の意見書提出などを事実上不可能にする修正条項を盛り込んだ歳出法案が米下院で圧倒
的多数の賛成により可決されていたことが三十日までに分かった。賠償の請求権はサンフラン
シスコ講和条約で放棄されたと明快に断じた国務省の意見書は、昨年の一審での請求却下決
定の決め手となった。上院でも同様の修正条項入りの歳出法案が可決、成立すれば、控訴審に
重大な影響も出る可能性もあり、ワシントンの日本大使館では成立阻止に躍起となっている。

2002会計年度における両省などの歳出を定めた法案に、訴訟現地のカリフォルニア州内の選
挙区選出のローラバッカー下院議員(共和党)が修正条項を提案したのは7月18日で、同日中
に408対19の圧倒的多数の賛成で可決された。

修正条項は「司法省もしくは国務省はこの法律で得られる資金を(対日賠償請求訴訟に)反対す
る意見陳述を行うために一切使用してはならない」としている。上院でもボブ・スミス議員(共和
党)が同様の修正条項を提案するとし、歳出法案はこの修正を含め夏季休会開けの九月初めに
審議される公算が大きい。上院でも可決された場合は法案が成立、同会計年度の今年十月か
ら来年九月までの一年間両省は意見書提出などの動きを封じられてしまう。

連合国の元軍人たちによる損害賠償請求訴訟は昨2000年12月までにサンフランシスコ連邦
地裁ですべて却下され、原告らはこれを不服として連邦高裁に控訴しており、控訴審開始はこ
れからだ。

一審での国務省の意見書は(1)請求権の放棄を明記したサンフランシスコ講和条約はアメリカ
上院で審議され批准を承認された(2)没収した日本の在外資産も使ってこれら元軍人たちへの
補償も行われた−などと指摘、「非常に重要な役割を果たした」(日米関係筋)という。

両議員らは今春以降、裁判所は請求権問題を解釈してはならないとする法案を、それぞれ、上
下両院に提出したものの、審議入りの動きはみえておらず、今度は、予算面から両省の手足を
縛る“奇襲戦法”に出たようだ。

Copyright 2001 The Sankei Shimbun. All rights reserved.


312産経新聞:02/03/20 04:40 ID:bGOta4B/
▼テロ対策協力後 産経新聞 2001.11.21

■ 元捕虜の対日訴訟支援 法案可決後に抹消
米議会 日本の対テロ協力に配慮

【ワシントン20日=古森義久】第二次大戦中の元米兵捕虜が日本側に損害賠償を求める訴訟に
対して米国議会は元捕虜の訴えを支援する特別の法案を上下両院で可決していたが、審議の
最終段階の両院協議会でこの法案を抹消したことが二十日、明らかとなった。この措置は日本
が米国の対国際テロ軍事行動に協力していることに配慮した異例の動きだという。

同法案は二〇〇二年度の連邦政府歳出法案の修正条項で、第二次大戦で日本の捕虜として労
働を強制されていた米国人数人が日本の大手企業を相手どった損害賠償請求の訴訟に関連し
て、米の国務省、司法省、商務省が意見陳述のために政府資金を使うことを禁じていた。

米国政府はこの種の損害賠償はサンフランシスコ講和条約で解決ずみという立場をとっている
が、米国議会では元捕虜の主張に同調して、政府機関の介入を資金面から抑える目的でこの
修正条項法案を出し、九月には上下両院の本会議で可決していた。

同法案はその後、大統領に送られ、法律となる前に議会両院協議会で最終審議されたが、11
月中旬のこの審議で同修正条項自体を抹消するという異例の措置がとられた。議会がこうした
措置をとったのは、日本がテロ対策で米国に協力しているときにこの種の対応は好ましくないと
するブッシュ政権の説得に同調したためとみられている。

Copyright 2001 The Sankei Shimbun. All rights reserved.

313高山正之:02/03/20 05:26 ID:P3zn61Oi

■ 太平洋序曲 日露戦争−1

列強は領土拡大に走った  

20世紀は1901年から始まるが、この年の世界地図を見ると、ごくシンプルである。アフリカは
イギリス、フランス、ドイツ、ベルギーがそれぞれ分割支配しているし、アジアもイギリス、フラン
ス、アメリカ、オランダが大半を分割、植民地化していて、色鉛筆を使えば数本で色分けできる。

イギリス色に塗られていた南アジア一帯は今では、インド、パキスタン、バングラデシュ、ブータ
ン、ミャンマー(ビルマ)、スリランカと6つの独立国家になっている。

ほぼ100年を経た20世紀末の現在、この1901年の列強の帝国主義的世界分割とほぼ符合
する地図がある。パル、セカム、NTSCというテレビ受像システムのタイプで色分けした地図で
ある。独立はしていても、宗主国とのしがらみがこんなところに残っている。ちなみに日本はアメ
リカと同じNTSCで何となく暗示的である。

<点を入手> さて、太平洋。この年にイギリス連邦の中で独立したオーストラリアを除き、メラ
ネシア、ポリネシア、ミクロネシア、マリアナ諸島などの島々の99%をイギリス、フランス、ドイ
ツ、アメリカの4カ国が分割統治(トンガ、サモア条約)していた。残り1%はかつてペリーがアメリ
カ領有を宣言し、後にイギリス国の口利きで日本に返されたボニン島(小笠原諸島)である。

この中で、最も太平洋支配に積極的だったのがアメリカで、ハワイを併合したほか、米西戦争で
スペインからフィリピンを2千万ドルという安値で買い取った。また、北米大陸から東南アジアへ
の大圏航路に当たるキスカ、アッツなどアリューシャン列島も手中に収めていた。

「太平洋は近い将来、世界のひのき舞台になるだろう」という言葉は1867年、アメリカがロシア
からアラスカを720万ドルで買い取った際のウィリアム・シェアードアメリカ国務長官の言葉だ
が、アメリカはまさにその舞台の主要な「点」を今世紀の入り口で既に入手していたことになる。

ヨーロッパの列強はこのころ、太平洋の戦略構想よりも、目の前の利権、中国(清朝)に目をつけ
ていた。中国はずっと「眠れる獅子」と恐れられ、インド、ビルマをまるで赤子の手をひねるように
取り込んできたイギリスでさえ、中国とことを構えるのをためらい、アヘン戦争に勝った代償も
「香港島割譲」ぐらいで満足していた。しかし、その眠れる獅子が日清戦争(1895年)であっさり
負けて、獅子でないことが世界にさらされ、「中国はイギリス、フランス、ドイツなどに切り分けら
れる運命」(グリシャムアメリカ国務長官)にあった。

<割譲に動く>  この動きに拍車をかけたのが、世紀末に始まった義和団の乱だった。山東
半島に挙兵したこの宗教団体は外国人排撃をうたい、破竹の勢いで北京を目指した。列強にさ
んざん食い物にされ、今はただまな板に乗って切り刻まれるのを待つだけの清朝は義和団の勢
いを見て最後のかけに出た。

314高山正之:02/03/20 05:33 ID:SsDAw38b

彼らに呼応して列強に宣戦布告し、北京の外国公館を包囲するいわゆる北清事変を自ら演じた
のである。映画「北京の55日」に描かれた騒動だが、最終的には派遣された日本を含む8カ国
連合軍が清朝軍を破り、列強はいよいよ中国分割に着手した。

このとき、ロシアだけは妙に清朝に同情的で、中国分割をねらう列強の足並みを乱していた。そ
のなぞは二十世紀に入って3日目、つまり1901年1月3日付のイギリス・タイムズ紙の記事が
明らかにした。

「ロシアと清が満州割譲の秘密協定に調印」の見出しで、北京駐在の特派員ジョージ・モリソン
は「満州南部の盛京省をロシアが軍事占領下におく協定がロシア清国間に結ばれた。協定は皇
帝、ニコライ二世の異母兄弟に当たるロシア海軍提督アレクセイエフ、清国奉天将軍増稘のそ
れぞれの代理人によって調印された。これにより、満州は事実上、ロシアの保護領となる」と報
じた。 ロシアは列強の中国分割に歯止めをかける代わりに、満州の租借をご苦労賃としてもら
い受けたというのである。

この満州割譲を受け、ロシアはさらに朝鮮半島も勢力下に置き、馬山浦租借の意向も明らかに
した。馬山浦は釜山の西に展開する良港である。この湾はそれから5年後、ロシアのバルチック
艦隊を迎え撃つ東郷平八郎以下の連合艦隊が日本海海戦を前にじっと待機し、奇跡的といわ
れた正確な艦砲射撃の訓練を行った場所でもある。

<海への情熱> 皇帝の異母兄弟アレクセイエフまで投入した馬山浦獲得の背景には18世紀
のエカテリーナU世以来のロシアの悲願「熱い海へ」の情熱があった。ロシアはトルコと戦って
黒海から地中海への出口を探ったが、果たせず、次にイランをねらったが、イギリスがその野望
を砕いた。

アフガンを落として、パキスタンからインド洋に出ることも試みた。これが19世紀の100年間を
通して展開されたいわゆる「グレート・ゲーム」だが、これもイギリス国とアフガン部族に阻まれて
果たせなかった。ロシアは南をあきらめて東に進み、シベリアを経てやっと太平洋に至った。ウラ
ジオストク港はしかし、冬季3カ月は氷に閉ざされていた。

200年間、探し求めた「熱い海」がやっと手に届くところまできた。それが馬山浦に対するロシア
皇帝の思いだった。結果からいえば、これも日露戦争で阻まれ、「熱い海へ」の思いは20世紀後半のイラン・イラク戦争へのソ連介入、アフガン紛争へと引き継がれていく。

1988年、アフガン撤退を決めたソ連のゴルバチョフ書記長は「インド洋を求めたのではない」と
語った。それが本音だったかどうかはともかく、ロシア人の熱い海へのあこがれは3世紀近い年
季が入っているのだ。

315高山正之:02/03/20 05:40 ID:1+J6SrM7

豆事典

▽トンガ、サモア条約  トンガは1876年、ドイツと友好条約を締結。同様の条約を79年にイギリ
ス、88年にはアメリカとも結んだ。99年にドイツがサモア諸島の領有と引き換えにトンガを放棄
し、1900年にはトンガが表面上は独立を保ちながら、イギリスの保護領であることを宣言した。
サモアは1877年にドイツ、78年にアメリカ、80年にはイギリスと友好条約を締結した。さらにアメリカ、イギリス、ドイツ3国がそれぞれ推す3人の首長が王位をめぐって争い、89年にベルリンで開
かれた会議で事実上、3国の保護領となった。そして99年の再度の会議の結果、西経171度線
を境に東サモアはアメリカ領、西サモアはドイツ領となり、イギリスはドイツ領有のトンガ、ソロモ
ン諸島の一部を所有、列強の太平洋分割がほぼ確定した。

▽大圏航路  地球の大円(大圏)にそった航空機や船舶の航路で、出発点から目的地への最
短距離となる。

▽日清戦争(1894−95年)  朝鮮半島への進出政策をとる日本と、朝鮮に対し宗主権を主張す
る清が対立。1894年春の甲午農民戦争(東学党の乱)を機に両国が出兵した。日本軍は94年7
月、朝鮮半島近海の豊島(ほうとう)沖で清兵を輸送中のイギリス船籍の商船とその護衛艦を攻
撃し、8月1日に宣戦布告。大連、平壌、黄海などで清国軍を破り、95年4月に下関で講和条約
を締結した。条約では朝鮮の独立を承認し、清は遼東半島、台湾などを日本に割譲することに
なったが、ロシア、ドイツ、フランスが武力を背景に日本に遼東半島の還付を勧告、日本はこの
三国干渉に屈した。この結果、日本国内には不満が高まり、政府は批判をかわすため、「臥薪
嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンにして軍備拡張策を取った。

▽エカテリーナ2世(1729−96年) 18世紀ロシアの女帝。ピョートル3世の妃で、夫を殺害して
1762年に帝位についた。啓もう専制君主を自認し、プガチョフの乱(1773−75年)を鎮圧、農奴制
を拡大して専制を強化した。対外的には露土戦争やポーランド分割により領土を広げた。

316高山正之:02/03/20 05:55 ID:SrVTWHwL
■ 太平洋序曲 日露戦争−2

ロシア皇帝は東を目指した  

ハワイをアメリカが併合しようとしていたとき、東郷平八郎がのこのこ出掛けていったのは、考え
てみれば随分、むちゃな行為だった。まだ日清戦争にも勝っていない東洋の小国である。アメリカ側に引け目がなければ、巡洋艦「浪速」などひとひねりだし、下手したら100年早い日米戦争
が起きていたかもしれない。だからこそハワイ人が感激して彼の名を長く記憶しているのもうな
ずける。

《提督の肩書》 実はこれに似た騒ぎが同じころ、日本でも起きた。親善訪問中のロシア皇太
子に巡査が切りつけ、負傷させるという1891年(明治24年)の大津事件である。日本政府は縮
み上がって裁判所に極刑にするよう圧力をかけた。犯人の巡査の首を差し出して精いっぱいの
誠意を示さなければ、超大国ロシアが戦争を仕掛けてくる。ヒヨコのような日本が消滅する可能
性だってあるというわけだ。

時の大審院長、現代風にいえば最高裁長官の児島惟謙は首を振った。彼は法治国家の要であ
る罪刑法定主義を貫いて死刑適用を拒否した。それが戦争原因になったとしても大義は通す。
司馬遼太郎のいうこれが明治人のふつふつとした気概だったのだろう。

さて、この切られた皇太子はその3年後、ロシア帝国皇帝に即位する。これが太平洋への出口
を確保し、「太平洋提督」を夢見るニコライ二世である。 もっとも、ロシアをして太平洋に目をむ
かせ、太平洋提督というニコライ二世が泣いて喜んだ肩書を作り上げたのは彼と親交の深いド
イツ皇帝ウイルヘルム二世だったと、アルゼンチン・サルバドール大学の、P・ファルコニ教授(近
代史)は指摘する。

ウイルヘルム二世は当時、大西洋の霸者をねらっていた。そのかわり「ロシアは太平洋に出たら
いい、太平洋ではまだ新参者のアメリカがいるだけだ」と、ニコライ二世の目を極力アジアに向
けさせるよう働きかけていた。

《異常な執着》 1895年、日清戦争でそのロシアが足掛かりにするつもりだった遼東半島が
日本に取られそうになると、ドイツはロシア、フランスに働きかけて例の三国干渉が行われる。

日本に遼東半島を諦めさせると、ウイルヘルム二世は早速、ニコライ二世に親書を送っている。
「ヨーロッパの利権を日本から守るために、ロシアが音頭を取った共同活動がうまくいったことに
感謝する。私はロシアが清朝領土(満州)の保有を成し遂げることに喜んで協力する。だからドイ
ツが清国のどこか、ロシアに差し障りのない港を獲得できるよう手助けしてもらいたい」(ウッドハ
ウス・瑛子「日露戦争を演出した男」) そして一九〇二年、エストニアのリバウ港で行われたロシ
ア・ドイツ合同海上軍事演習ではニコライ二世を初めて「太平洋提督」の称号で呼んだ。

この前後から、ニコライ二世は太平洋に異常な執着を見せ始め、ウィッテの回顧録にも「皇帝が
1902年とその翌年、旅順にいたアレクセイエフ海軍提督に送った親書には太平洋の主導権を
握りたいという希望が露骨に表れていた」と書かれている。
317高山正之:02/03/20 06:02 ID:7ih3GF+7

ウイルヘルム二世はさらにあおった。「ウラジオストクと旅順の間に朝鮮半島がある。これが敵
の手にわたれば、新しいダーダネルス海峡になる。朝鮮は当然、ロシアのもので、また、そうな
るはずだ」、1901年、露清秘密条約で満州を手中に収めたロシアはこの親書が交換されてい
るころ、次のステップを取っていた。朝鮮半島を下り、李王朝に「太平洋への出口」馬山浦の租
借を求めていたのだ。

ただ、「アルジアーナ」が騒いでいた。アルジアーナは猿という意味で、皇帝は日本をそう呼んで
いた。日本は朝鮮半島を下ってくるロシア軍にはっきり脅威を感じていた。

《日英が握手》 ロシアの南下によって自国のもつアジアの利権が脅かされることを直感してい
た国がもうひとつあった。イギリスである。ロシアに脅威を感じてはいたものの、イギリス自身は
南アフリカのボーア戦争で国力を消耗し尽くしていた。

1902年、ロシアの太平洋進出を恐れる日本とイギリスが手を結び、日英同盟が成立した。ただ
し、この同盟は相手国がどこかと戦争を開始しても自動的参戦義務のない、いわゆる防御同盟
と呼ばれるものだった。以下、骨子を示すと−。

(1)日本とイギリスは、清国と韓国の独立を承認するが、もし、他国が両国に対して侵略行為を
  行った場合、必要な措置をとる。
(2)日本、またはイギリスが他国と戦端を開いた場合、一方の同盟国は厳正中立を保ち、同時に
  第三国が交戦に加わるのを防ぐ。
(3)もし、第三国が交戦に加わったときは同盟国は共同して参戦する。

つまり、日本とロシアが戦争状態に入った場合、イギリスは中立を保つ。しかし、フランスがロシ
アに武器供与など、交戦に関与する行為を行った場合、イギリスはロシア、フランス両国に宣戦
布告して参戦することになる。

いわば、一対一の決闘を保証する同盟で、仁侠映画でいう「野郎ども、手え出すんじゃねえ」と
いったたぐいの拘束力でしかない。 これに対して相手国が戦争に巻き込まれれば、自動的に同
盟国が参戦する強制力をもつのが攻守同盟で、中国の合従連衡などがこれに当たる。

ちなみに日米安保条約は変則片務的攻守同盟で、日本が攻められたとき、アメリカは自動的に
参戦するが、アメリカが戦端を開いた場合、日本には参戦義務はない。ついでに言えば、最近
やかましくいわれる「集団的自衛権の行使」は、アメリカが日本近辺で戦争状態に入った場合に
限って、この片務同盟を少し補完し、アメリカに同盟国として協力態勢は取れないものだろうか、
といった論議である。
318高山正之:02/03/20 06:09 ID:xDQuq1CZ
■ 豆事典

☆大津事件  1891年5月11日、ウラジオストクのシベリア鉄道起工式に出席する途中、日本を
訪れたロシア皇太子ニコライが滋賀県大津町(現大津市)で、警備にあたっていた滋賀県警巡
査、津田三蔵に切りつけられ、頭部に負傷した事件。皇太子は日程を打ち切って同月19日に離
日、日本側は政府が配置した警察官が国賓の殺害を企てる事件を起こすという大失態にパニッ
ク状態となった。日本政府はニコライ皇太子来日前、同皇太子への不敬の行動には厳罰で臨む
との緊急勅令を交付するよう求めていたロシア公使に対し、緊急勅令のかわりに皇族に関する
刑法規定を準用することを約束していたため、成立したばかりの松方正義内閣は津田三蔵の裁
判でも苦しい立場に追い込まれた。

☆児島惟謙 (こじま・いけん=1837−1908年) 伊予(愛媛県)宇和島出身の明治時代を代表す
る裁判官。1891年に大審院長に就任。大津事件では、政府から皇族に関する刑法規定を準用し
て犯人の津田三蔵を死刑とするよう要請があったのに対し、外国皇族に関する規定がない以
上、通常の謀殺未遂罪を適用すべきだと主張して担当裁判官を説得した。この結果、津田三蔵
は無期刑の判決を受けた。大審院長就任の翌92年、大審院判事の花札とばく事件の責任をとっ
て辞任。後に貴族院議員となる。

☆ダーダネルス海峡  トルコ北西部のエーゲ海とマルマラ海を結ぶ海峡。ヨーロッパと小アジ
アとを分ける位置にあり、ロシアにとっては黒海とマルマラ海を結ぶ同じトルコのボスポラス海峡
と並んで地中海への出口として重要な意味を持っていたが、トルコに抑えられ、長く南下の意図
を果たせずにいた。

319高山正之:02/03/20 06:17 ID:l2qEwnl0

■ 太平洋序曲 日露戦争−3

新鋭艦は開戦直前に届いた

アルゼンチンは日本からみると地球のちょうど反対側になる。 「おいしい空気」という意味の首
都ブエノスアイレス。「ここから垂直に穴を掘ると大阪に出ます」とプラサ・デ・マーヨ(5月広場)近
くの弁護士事務所で65歳になるホラシオ・ドメク氏はいう。それほど日本は身近な国という意味
合いが込められている。

その言葉を裏付けるように、例えば海岸通りにある海軍博物館には世界でたったひとつ残され
た戦艦「大和」の46センチ主砲砲弾が陳列され、日本海海戦に参加した巡洋艦「日進」の精巧
な模型もある。

アルゼンチンは結構、戦争を経験していて、アンデスの山向こう、チリとも戦い、それも山が高す
ぎるため、お互い海に出て海戦を演じてきた。最近ではマルビナス(フォークランド)諸島を巡って
イギリスとも戦っている

海軍博物館にはそういういわれのある軍艦の模型が陳列されているが、中でも群を抜いて大き
く、一番目立つところに置かれているのが「日進」なのだ。隣には旭日旗の掲げられた東郷提督
のコーナーもある。海軍博物館だけでなく、中学の教科書にも「2ページ以上にわたって日露戦
争のことが書かれていて、この戦争の意義を教えられた」とドメク弁護士はいう。

《ゆかりの地》 地球の裏側でなぜ「日露戦争」なのか。「20世紀を変えた事件という歴史的
事実もある。それに日進、春日がもとはわが国の船だった因縁もあるし、その世紀の海戦をアル
ゼンチン武官、つまり、わたしの祖父マニエル・ドメク・ガルシアが観戦していたことも大いに影
響したでしょう」とドメク氏は語る。ガルシア中佐の観戦記は海軍国家、アルゼンチンの士官学
校の教科書にもなり「この国のリーダーでトーゴーの名を知らない者はいなかった」とさえいう。

7千トン級巡洋艦「春日」、「日進」はアルゼンチンが対チリ戦のために発注し、1903年暮れに
イタリア・ジェノアの造船所で完成した。しかし、この間にアルゼンチンとチリの和平が成立した
ため、アルゼンチンでは不要になり、ロシア開戦に備えていた日本がこの新鋭戦艦を買ったわ
けである。

《多くの障害》 ロシアは当時、旅順港に戦艦7、巡洋艦11隻を主力とする太平洋艦隊を保有
していたし、加えてバルト海には戦艦8、巡洋艦8、駆逐艦9、その他28隻からなるバルチック
艦隊が控えていた。さらに首都サンクトペテルブルクの北には、1万トン級の戦艦を建造できる
クロンシュタット海軍工廠を擁していた。

日本は戦艦4、巡洋艦21隻が主力で、しかも国内には大型艦の建造施設はなかった。イギリ
ス、ドイツの造船所に発注するにしても建造に平均3年はかかる。あとは他国の海軍から買いあ
げるしか手はないが、ここで日英同盟が足かせになる。 これは1対1の決闘を保障する同盟で
あり、日露が戦争を始めれば他国は一切、手出しができない。

320高山正之:02/03/20 06:22 ID:wm5A/BTL
**営業所の所長さん。ご苦労さんです。
社命とはいえ早起きは大変だね。
でも、頭を使わない社命だから楽だね。
321高山正之:02/03/20 06:22 ID:C9su7Gpi

日本が海軍補強のためにどこかの国から戦艦を買えば、それはロシアに対する敵対行動と見な
され、ロシアはその国に宣戦布告できる。逆に、どこかの国がロシアに船を売れば、日英同盟に
よってイギリスが日本のためにその国をたたくことになる。

世界一の海軍国(イギリス国)や陸軍国(ロシア)を相手にだれも戦争はしたくないから、どの国も
船は売らなくなる。つまり、日本は開戦時の手持ちの船がすべてであり、ロシアは海軍工廠をフ
ル回転させれば補充がきくという構図だった。

春日、日進は1904年1月中旬、イタリアを出て日本に向かった。日本政府は2月6日、ロシアと
の国交を断絶。その2日後の8日、ロシア太平洋艦隊の拠点、旅順港に小型水雷艇による夜襲
をかけ、戦艦レトビザンなどに損害を与えた。アルゼンチンゆかりの新鋭艦2隻はシンガポール
を過ぎた辺りで開戦の報を受けた。日本にとって開戦前に手に入る軍艦があったことが、いかに
ありがたかったかがわかる。文字通り、ぎりぎりで間に合った2隻の新鋭艦は、東郷司令長官直
属の第一艦隊に配属された。

日本政府は旅順港攻撃の2日後の2月10日、ロシアに宣戦布告をしている。太平洋戦争での
真珠湾攻撃は外務省の怠慢でアメリカ国への宣戦布告の伝達が遅れ、アメリカ国政府は「最も
破廉恥な」と最大限の言葉で非難した。

日露戦争でも宣戦布告は2日間も遅れており、ロシア政府は怒って、「日本はロシアの不意に乗
じて詐術をもって勝利を得た。日本の行為は国際法違反の不法行為である」との政府見解を出
している。 しかし、イギリスのタイムズ紙は「日本の行為は国際法違反どころか、近代戦の多く
の先例にならうものだ。ロシア側の虚を迅速についた日本は機敏で勇敢な行為により、世界最
高のイギリス海軍と同等の地位を獲得した。大いに称賛すべきである」と論評した。

《堂々の反論》 大いに称賛されるべきだったかどうかはともかく、日英同盟という立場を割り
引いても、近代戦における奇襲は戦法としてごくポピュラーであり、決して「最も破廉恥」な行為
ではなかったようだ。

メルボルン大のG・ブレイニー教授も「驚くべきことは近代戦がすべて宣戦布告してから開始され
たという誤った考えが広まっていることだ。1700年以来の証拠によると、むしろ宣戦布告をして戦
争状態に入る方が異常だと分かる。真珠湾奇襲攻撃はれっきとした国際的伝統に基づくもので
ある」という。

ロシア皇帝の非難に対して、日本の小村寿太郎外相は「日本政府はこの非難に公然と弁明する
だけの価値を認めない」と堂々の反論を行った。日本の再三にわたる抗議にもかかわらず、撤
兵もしないで戦争準備を進めていたのだから、攻められて当たり前、と言い張っている。

第二次大戦ではこういう開き直りはなく、一方的に非を鳴らされたままだった。ここにも日本の変
質がうかがわれるが、これは後の章で書く。

322高山正之:02/03/20 06:23 ID:C9su7Gpi

■豆事典

☆フォークランド戦争 アルゼンチンの大陸部から500キロの南大西洋上にあるフォークランド
(アルゼンチン名マルビナス)諸島の領有権をめぐるアルゼンチンとイギリスの戦争。1982年4
月、アルゼンチンが領有権を主張して軍事占領したのに対し、イギリスのサッチャー政権は大機
動部隊を派遣。開戦1カ月後にアメリカがイギリスを支援したこともあって、アルゼンチンは2カ
月で降伏した。アメリカは米州相互援助条約に違反したとして中南米諸国から強く非難された。
アルゼンチンの敗戦は軍部の権威失墜を決定的にし、民政移管を早める結果となった。アルゼ
ンチン、イギリス両国は89年10月、敵対関係終結を宣言、90年2月には国交を回復した。アルゼ
ンチンは94年8月の憲法改正で同諸島の主権を明文化し、両国の主張は依然、対立したまま問
題は棚上げのかたちになっている。

☆旅順港 中国・遼東半島南端にある良港。旅順は山東地方から遼東地方にいくとき、必ず通
る場所の意味でその名がつけられた。清代に軍港となり、のちロシアが租借。日露戦争では激
戦地となった。

☆小村寿太郎(1855−1911年) 明治期の日本の外交を代表する人物で、極東における日本の
勢力圏拡大のために現実的外交路線を展開した。外務次官、駐アメリカ、駐露、駐清公使など
を経て1901年(明治34年)、第1次桂内閣で外相に就任。翌年、日英同盟を締結し、1905年(明治
38年)には日露戦争のポーツマス講和会議に臨んだ。第2次桂内閣でも外相となり、1910年には
韓国併合を実施。また、列強との条約を改正して関税自主権を確立した。

323高山正之:02/03/20 06:31 ID:ZQut5i33

■ 太平洋序曲 日露戦争−4

観戦武官は地球の裏側からも来た

4年前(1993年)にアメリカ陸軍戦史センターのスタッフが来日し、日露戦争に参加したアメリカ
観戦武官の観察記録や当時の雰囲気を伝える報告書が初めて日本に披露された。

観戦記録は、日本軍の作戦行動をさげすみを交えて批判することに終始しており、何となし現在
のニューズウィーク誌のような印象で、成果といえば、後の太平洋戦争前にアメリカ大統領以下
に「日本人は白人より2千年遅れた知能」とか「白人の脳みそは灰白色だが、日本人のは、ただ
の白」といった愚にもつかない理論を信じこませる根拠になったぐらいだといわれる。

報告書の方は少しはましで、例えば日露戦争の幕開けとなった1904年2月8日の旅順港奇襲
から数時間のうちにヨーロッパ各国を中心に世界12カ国から観戦武官の申し込みがあったとの
記述があり、世界的な関心の高さを示している。

この12カ国のうちイギリスは17人を送り、次いでこの戦争の勝者と太平洋の覇権を争うことを
予想したアメリカが12人を送り込んでいる。この(アメリカの観戦武官の)中には後に日本占領
を果たすダグラス・マッカーサーの父アーサー・マッカーサー大将も特別オブザーバーとして加
わっており、少尉だったダグラスを伴って「太平洋での最大の仮想敵」となる日本をはじめ極東
地区を1年余の間、視察に歩いている。

《ピアノまで》 アルゼンチンからの参加はドメク・ガルシア中佐ただ1人だった。中佐は「戦艦モ
レノに乗った」と孫のホラシオ・ドメク氏に語っている。「モレノ」とは「日進」のアルゼンチンでの
名前で、同じく「春日」は「リバダビア」といった。両艦はイタリアの造船所で、アルゼンチン仕様
の艤装(ぎそう)が終わったあとに日本に買い取られた経緯は触れた。

だから「春日」の士官室には日本海軍には不似合いなピアノも置かれていて、そのまま黄海海
戦、日本海海戦を経験した。このピアノは後にアルゼンチンに寄贈され、現在も海軍博物館に展
示されている。

《細かな配慮》 日露戦争には12カ国49人もの観戦武官が日本側に送り込まれたが、その多
くは陸軍で、日本海軍の船に乗り込んだことが確認されているのは「日進」のガルシア中佐と戦
艦「朝日」のイギリス武官ペケナム大佐の2人しかいない。

「朝日」は東郷司令長官の「三笠」を旗艦とする第一艦隊の5番艦、「日進」は6番目の殿艦(しん
がり)を務めていた。2人の武官は文字通り最前線で1904年8月の黄海海戦と翌五年の日本
海海戦を詳細に観察した。ペケナムは近代化された装甲戦艦同士の砲撃、装甲などを冷静に
分析し、この調査をもとにイギリスのJ・フィッシャー海相は戦艦「ドレッドノート」の建造を命じた。

いわゆる「弩級戦艦」で、20ノット以上の艦速と大口径主砲に重点を置いた高速、高破壊力戦
艦だった。第一次大戦以降はさらに大型化、大口径化が進み、超弩級の時代に入る。

324高山正之:02/03/20 06:36 ID:AUPYbpYx

ガルシアは艦内生活も細かに観察した。とくに孫に再三語ったのは末端の水兵にまで気配りの
行き届いた日本海軍の配慮だった。「海戦が近づくと兵士たちは艦の隅々まで清潔に洗い、消
毒薬の入った溶液で煮沸した清潔なフランネルの下着に着替えた。負傷した場合、傷口からば
い菌が入らないための配慮だ。他国の海軍では絶対に見られない光景だった」と大いに感嘆し
ている。

《唯一の頼み》 「シャンハイ」という英語の動詞がある。波止場町で男を酔わせるなりして出港
する船に売り払うといった意味で、かつて上海で横行したのが語源である。それほど船員の待
遇は悪かった。海軍も同様で「ここは堕落した者、ならず者の吹きだまり」と「白鯨」の作者メルビ
ルは書いている。ポチョムキン号の反乱のように水兵は反乱するのが当たり前で、それが欧米
世界の常識だった時代にこういう船があったことの驚きをガルシアは記しているのだ。

ガルシアはまた「日に焼けた褐色の若者たちを見ていると、わが国の褐色の水兵を見ているよう
で」とも家族に書き送っている。「褐色の水兵」とはアルゼンチン南部のパタゴン、北部のコリエ
ンテス両州に住むインディオのことで、下級水兵に使われていた。母国ではしかし、白人優越主
義者のロカ将軍がインディオ虐殺の功績を買われて大統領になっている。

18世紀、カリブ海の島々にいたインディオをスペイン、フランスが全滅させて黒人奴隷に置き換
え、19世紀にはアメリカがインディアンを虐殺した。その仕上げとなるパタゴンの虐殺である。

そういう時代に、そのインディオと同種の東洋の小国が白人キリスト教国家のひとつ、ロシアと
戦ったのがこの日露戦争だった。

1904年2月8日の旅順港奇襲の後、日本海海戦前夜までの経緯を、ガルシアらの報告で見る
と旅順港にあったツェザレビッツなど戦艦7隻、巡洋艦11隻からなるロシア太平洋艦隊は8月の
黄海海戦で敗走、大半が旅順港に逃げ帰った。しかし、港の背後の203高地が日本陸軍の攻
撃で陥落し、ここからの砲撃で全滅する。

過去、スウェーデン軍、ナポレオン軍、そしてソ連時代の第二次大戦ではナチス・ドイツ軍すら敗
走させた最強のロシア陸軍もまた各地で退却を続け、05年3月の奉天会戦で敗北を喫した。

唯一の頼みはバルト海からやってくるバルチック艦隊(第二太平洋艦隊)だった。日英同盟のた
めスエズ運河を通れず、喜望峰回りを強いられた艦隊は最後の休養地、フランス領インドシナの
カムラン湾に向かうが、これも日英同盟の圧力でフランスに入港を阻まれ、ついに休息を取れな
いまま日本海に入る。

ロシア海軍が大手を振ってカムラン湾に投錨できるようになったのはそれから70年たって南ベ
トナムが陥落した後である。

325高山正之:02/03/20 06:42 ID:rL0fcmHZ

豆事典

▽ダグラス・マッカーサー(1880−1964年) アメリカ軍人。第2次大戦中の1942年、フィリピン・ア
メリカ軍司令官から西南太平洋方面連合軍総司令官となり対日反攻作戦を指揮した。44年、元
帥に昇進。終戦後は日本占領連合軍最高司令官として日本の占領政策を指揮した。50年には
朝鮮戦争で国連軍司令官に任命されたが、戦線の中国への拡大問題でトルーマン米大統領と
対立、51年に解任された。

▽ポチョムキン号の反乱 1905年6月14日、ロシア黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号で水兵たち
が腐った肉を食べることを拒み、水兵の1人が射殺されたことがきっかけになった反乱。水兵ら
は士官の一部を殺害、残りは下船させ、マストに赤旗を掲げてゼネストが行われていたオデッサ
港に入った。しかし、他の艦の支持は得られず、食料や燃料もつきて反乱は鎮圧された。反乱に
は日露戦争でバルチック艦隊が全滅し、帝政ロシアの威光が大きく揺らいだことも影響してい
た。1925年にはエイゼンシュテイン監督が映画化。世界映画史上の傑作のひとつとされている。

▽フリオ・ロカ(1843−1914年) アルゼンチンの軍人、政治家。パラグアイとの戦争や対インディ
オ戦で武勲をあげ、その功績で1880年に大統領に就任。アルゼンチンのオリガルキア(少数者支
配)時代の幕を開け、チリとの国境問題の解決、外国資本の導入などで手腕を発揮した。ロカ政
権の中枢は大地主らで固められていた。

▽パタゴンの虐殺 1879年、約8000の兵を率いたロカ将軍がアルゼンチン南部パタゴニアのイ
ンディオを攻撃。将軍は降伏しなかったインディオを容赦なく殺害し土地を取り上げた。パタゴニ
アには当時、国有地に住むインディオが白人の侵入を拒んでいた。このため白人大地主らが土
地を手に入れようとして、インディオをキリスト教に改宗させることなどを口実にアベリャネダ大
統領を動かし軍隊を派遣させた。ロカ将軍は翌年、大統領に就任。

326高山正之:02/03/20 06:50 ID:rWeI+O29

■ 太平洋序曲 日露戦争−5

ロシア艦隊は日本海に消えた

装甲を施した1万トン級の戦艦同士による史上最大規模の艦隊決戦は1905年5月27日、対
馬沖で展開された。ロシア艦隊はロジェストウェンスキー提督の旗艦「スワロフ」以下戦艦8、巡洋艦8を中核にした総数38隻。対する日本艦隊は「三笠」以下戦艦4、巡洋艦13を主力として
いた。

ガルシア中佐はその日をこう報告している。「三笠から“皇国の興廃この一戦にあり。各員一層
奮励努力せよ”のメッセージが発せられた。東郷長官は祖国の命運をかけてトラファルガーに出
たネルソン提督の境遇を自身に重ね合わせ、ネルソンの“イギリス国は今日、諸君が自分の義
務を果たすことを期待している”という言葉を下敷きにしたのだろう」

午後1時半すぎ、両艦隊はお互いを肉眼で捕らえた。ガルシアはロシア艦隊について「斥候艦艇
は見えず、主力戦艦が先頭を切って進んできた」と首をかしげて書く。「ロシアの指揮官は敵艦
隊の布陣を知ろうともしない。危険な機雷や水雷艇の存在も考慮に入れていないようだ」

《無数の砲弾》 当時の戦艦は厚さ30センチ近い装甲鋼板を施され、艦内も遮へい扉で仕切ら
れて、砲弾だけでは「沈まない」というのが世界的常識だった。ただ、魚雷や機雷などで喫水線
下に大穴を開けられると沈没はあり得ると考えられていた。

日露戦争の開戦まもない1904年4月、1万トン級の戦艦「ペトロパブロフスク」は旅順港出口に
敷設した日本側の機雷に触れてあっというまに轟沈している。しかし、日本海海戦の対馬沖は
文字通り「天気晴朗なれど波高し」だった。そんな状況では機雷敷設は無理だし、接近して魚雷
を撃つ水雷艇も活躍は困難だった。それでもなお、敵地で敵艦隊の様子を見届け、かく乱するた
めにも斥候艦艇を出すべきだったとガルシアは批判する。

旗艦「スワロフ」を先頭に北進するロシア艦隊は午後2時少し前、南西に向かう日本艦隊と接触
した。日本艦隊はロシア艦隊の目の前でほとんどUターンに近い160度左旋回をする。有名な
敵前回頭である。ロシア艦隊の頭を押さえつけ「これを撃滅せんとす」る作戦だった。

相手の射程距離内で次々にUターンすれば、相手に絶好の砲撃チャンスを与える。事実、このU
ターンが終わるまでに日本艦隊は「三笠」から第一艦隊殿艦「日進」に至るまで「数え切れない
砲弾を吸い込んだ」とガルシア報告はいう。

《高い命中率》 日本艦隊はこらえ、回頭を終えるのを待って猛然と応射を開始した。砲弾は着
実にロシア艦を捕らえていった。「着弾測定もしないロシア側に比べ、日本艦隊は優れていた。
1艦が試射を行い、その結果を残りの艦に知らせた。命中率はものすごかった」とロシア側の戦
艦「アリヨール」の水兵だったノビコフ・プリボイは観戦記「ツシマ」の中で書いている。

327高山正之:02/03/20 06:57 ID:NJeCCxPD

ガルシア中佐の報告によると、日本の砲撃が始まって30分足らずの間に「スワロフが炎に包
まれ、2番艦アレクサンドル三世も火災を起こして落後した。オスラビア、シソイ・ビルキーもまた
大きな火炎に包まれた」という。「ロシア艦が突然、燃え上がるのは驚くべきことだった」とガルシ
ア中佐は書いている。

「明らかに何の火の気もない鋼鉄の艦から炎が現れて、強い風にあおられると、その炎は高い
艦橋をはい上がり、甲板上の構造物を生き物のように走り回った。さながら甲板上に石油をまい
て火をつけたような光景であった」

プリボイも「それは飛んでくる水雷だった。砲弾は厚い装甲を貫くことはなかったが、そのかわり
艦上の構造物も人も根こそぎ破壊、粉砕し、火災を起こして戦闘力を奪い去っていった」と書く。

当時の砲弾の主流は厚い装甲を貫き艦内部でさく裂する徹甲タイプで、ロシア艦もそれを採用し
ていた。少数派はイギリスの榴弾型で、命中すると直ちにさく裂し破片を周囲にばらまく。日本は
この型を採用し、炸薬には海軍技手、下瀬雅允が開発した超高燃焼性の「下瀬火薬」が使われ
ていた。プリボイの記述には、一瞬に周辺の酸素を奪い尽くすナパーム弾と同じように酸欠を起
こす水兵の様子も出てくる。

《相次ぎ沈没》 この威力はやがてロシアの僚艦が見守る中で、1万2700トンの戦艦「オスラビ
ア」の轟沈となって証明された。戦艦「オスラビア」は世界海戦史上、砲撃だけで沈んだ装甲戦
艦の第1号となった。

しかし、戦艦「ナワリン」がすぐに第二号となり、続いて戦艦「シソイ・ビルキー」、そして装甲巡洋
艦「ナヒモフ」も日没前に沈没した。さらに夕闇の中で旗艦「スワロフ」「アレクサンドル三世」「ボ
ロジノ」がわずか30分の間に相次いで日本海に消え、戦艦「アリヨール」もまた「浮かぶ鉄屑」状
態で拿捕(だほ)され、戦艦8、巡洋艦7隻で構成された第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)は翌日
の夜明けを待たずに消えさってしまった。

もうひとつ、老朽艦12隻で編成された「第三太平洋艦隊」もいたが、これも翌28日、日本海で
捕そくされ、降伏した。生き延びたのはマニラに逃げた巡洋艦「オーロラ」など数隻にとどまり、こ
れで旅順港で全滅した第一太平洋艦隊を含め、大陣容を誇ったロシア艦隊は、国際条約で日露
戦争の間、黒海に封じ込められたままの黒海艦隊を除いて、完全に消滅してしまったのである。

ついでながら、巡洋艦「オーロラ」はロシアの首都サンクトペテルブルクに戻り、ネバ川のほとり
にもやわれる。そして、十二年後の1917年、ロシア十月革命の合図となる号砲を冬宮に向け
て放ち、20世紀の歴史に再び名を残すことになる。

328高山正之:02/03/20 07:14 ID:9TR56JIE

■ 豆事典

▽ジノービ・ロジェストウェンスキー(1848−1909年) ロシアの提督。1904年にバルチック艦隊の
司令長官に任命されたが、日本海海戦で敗れ、重傷を負って捕虜となる。帰国後の1906年に軍
法会議にかけられたが無罪。▽ホレイシオ・ネルソン(1758−1805年) イギリスの提督。12歳で
海軍に入り21歳で艦長となる。スペイン艦隊を破ったセント・ビンセント岬沖の海戦(1797年)など
で活躍し、1805年のトラファルガーの海戦ではフランス・スペインの連合艦隊を撃滅して、ナポレ
オンのイギリス侵攻の野望を阻んだ。しかし、ネルソン自身もこの海戦で被弾し、「われは義務
を果たせり」という言葉を残して戦死した。

▽下瀬雅允(しもせ・まさちか=1860−1911年) 明治時代の化学技術者で下瀬火薬の発明者。
大蔵省印刷局に勤務した後、海軍技手となり、火薬の研究を続けた。1888年(明治21年)にピクリ
ン酸を主剤とした爆裂薬を発明、海軍に採用された。この火薬は下瀬火薬と呼ばれ、日露戦争
で威力を発揮した。

▽ナパーム弾 ナフサネート、亜鉛、パーム油、ガソリンなどのゼリー状の混合物(ナパーム)を
主成分とする油脂焼夷弾。2000度近い高熱を発し、400から500リットル入りのナパーム弾を爆発
させると、2000から2500平方メートルを焼き尽くす威力を持つ。第2次世界大戦後期にアメリカ軍
が開発、沖縄作戦で航空機から投下した。朝鮮戦争やベトナム戦争などでも使われた。

329高山正之

■ 太平洋序曲 日露戦争−6

講和は不和と不信残した

日本海海戦は終わった。ほぼ無傷の日本側に対し、ロシア側はその主力戦艦、巡洋艦のほとん
どを撃沈されるという信じられない結果は世界中の主要紙の一面トップで報じられた。

ニューヨーク・タイムズ紙は海戦2日後の1905年5月29日付で「東郷、ロシア艦隊を粉砕」の
見出しをつけながら、それでもとても信じられない様子で「東京はロシア艦12隻が沈没もしくは
拿捕(だほ)と発表」と、あくまで日本側の発表を報じるかたちをとって保険もかけていた。

中面では専門家の意見を入れながら「ロシアが本当に大敗したならば、それは地球半周に近い
長旅を強いられたこと、兵士の練度が低かったこと」とさまざまな憶測を書き並べ、別の紙面で
は「複数のロシア戦艦で水兵の反乱」とも書いている。行間には白人国家が非キリスト教国家日
本に大敗した事実を素直に認めたくない雰囲気が漂う。

《個々の折衝》 ニューヨーク・タイムズは1週間後の6月2日付では「戦争の結末」の見出しで
今後の見通しについて長文の社説を掲載した。

「日本はペンシルベニアの会社に軍用トラックと鉄道資材を大量注文した。ロシア陸軍を翻弄し
てきたクロキの軍がさらに北に展開するための準備とみられる。目的地はロシアの最大の拠点
ウラジオストクで、制海権を失った今、陥落は必至だ。皇帝がそれでも継戦にこだわれば、日本
は交戦国の権利としてロシア商船を破壊するだろう。大西洋、地中海、バルト海にも進出してロ
シア船だけでなく、ロシア向けの中立国の船も臨検できる。ロシアには講和以外の選択はない。
もっとも、日本艦隊がそこまで出てきてヨーロッパ諸国の神経を逆なですることはしないだろう
が、ともかくウラジオストクが落ちたとき、戦争は終わる」

「制海権を握れば勝ち」とはセオドア・ルーズベルトが師事した海上覇権論のアルフレッド・マハ
ンが著書「歴史にみる海軍力」に書いた1節である。アメリカはスペインとの戦争でも、この理論
にしたがって宣戦布告を前に遠くアジアまで艦隊を派遣、開戦と同時にマニラのスペイン艦隊を
奇襲し、そのうえでキューバにあった主力艦隊と戦って大勝した。海軍力のほとんどを失ったス
ペインはフィリピン、グアム、キューバ、プエルトリコを失う屈辱を甘受しなければならなかった。

ロシアは、そのスペインよりひどい状況にあった。日本は国際法にのっとりニューヨーク・タイム
ズ紙の社説通りの圧力をかけることもできたが、そうはしなかった。体力の疲弊もあるが、むしろ
社説のいう「ヨーロッパ諸国の神経を逆なでする」行為をあえて避けた気配がある。

ニューヨーク・タイムズは、日本をけん制する社説を載せた翌日、「ルーズベルト大統領、和平斡
旋に乗り出す」と報じ、イギリスのタイムズは「ローマ法王もロシアに休戦を勧告」と伝えた。そし
て、講和会議はその年の夏、ルーズベルトの音頭で開かれた。