ゾロの名門!!沢井製薬バンザ〜イ! パート6

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1鶴原 ◆6ZE9uvAk
沢井製薬の皆さん
こちらでお楽しみください
2卵の名無しさん:02/01/28 22:09 ID:8KQkPwWD
この板は「会社・職業」のジャンルにあって
医者・病院についてかたったりけなしたりする板です。
病気や治療について質問や相談をするところではありません。
◆病気や治療については身体・健康板へ
◆医学の話は医歯薬看護板へ
◆受験の話は受験板へどうぞ

・序列、ランキング、学歴、学歴社会に関する話題→学歴ネタ板で
・中学、高校に関する話題→お受験板で
・特定の学校に対する、内情や暴露→ちくり裏事情板で
・教育制度、大学受験制度についての話題→教育、先生板で
・就職(研究職除く)に関する話題→就職、転職板で

◇企業の内部情報の話はちくり裏情報板へ
http://kaba.2ch.net/company/
3産経新聞:02/01/28 22:13 ID:BP81kouL

21世紀を担う君たちへ

群れない、逃げない
「モノを言う新聞」 物事の本質、捉える目を
代表取締役社長 清原 武彦
http://www.sankei.co.jp/pr/guide2000/

日本のジャーナリズム、中でも産経新聞の門を叩こうとしている君たちには、どうしても
覚悟しておいてもらいたいことがあります。

20世紀は、戦争の世紀だったとも、革命の世紀だったとも言われています。ソ連、東欧
諸国の崩壊まで、国内では左翼ジャーナリズムが幅をきかせていました。しかし、産経は、
ソ連や、文化大革命の最中にあった中国に対しても、気兼ねせず、事実を報道しました。

文化大革命の本質をいち早く毛沢東の権力闘争だと見抜き、伝えた報道への制裁として、
産経の中国支局は1998年秋に総局として再開されるまで、実に31年間も閉鎖されてい
ました。産経の創刊は33年(昭和8年)、まだ67歳ですから、その半生近くも中国から閉め
出されていたのです。

それでもへこたれず、産経は共産主義の本質を書き続けました。

再開後の初代中国総局長、古森義久記者は出発前、「僕はジャーナリストとして事実を曲
げて伝えることはできないが、それで追放されてもいいか?」と心配してくれましたが、羽佐
間会長も、私も「それが産経のレゾンデートル(存在意義)だから、君が書きたいように書い
てくれ」と送り出しました。

古森記者は、当局の重圧をはねのけ、中国が偽造・模造大国である実態、日本の対中国
ODAで北京のインフラが整備され、軍事的プレゼンスを高めている実態を次々と報道しま
した。他メディアが一切伝えていなかった事実ですから、大反響を呼びました。

だから、21世紀の産経を担うことになる君たちにも覚悟してもらいたいのです。「モノを言う
新聞」として勝ち得た産経新聞の評価を引き継ぎ、高めていくのは君たちなのだということを。

4古森義久:02/01/28 22:14 ID:BP81kouL

■ 車が人を変えた (1)  「車葬」 家族のように愛していた

1998年5月はじめ、アメリカの北東部ロードアイランド州のティバートンという小さな町で
奇妙な葬儀が営まれた。共同墓地の一角に新たに掘られた埋葬用地に、棺のかわりに古
ぼけた白い乗用車がクレーンでしずしずと降ろされたのだ。車は普通の棺よりも大きいので、
通常より広い空間が掘り広げられていた。数十人の参列者が見守るなか、車は掘り下げられ
た地面に安置され、通常の埋葬のように土や花を投げかけられ、埋められていった。車のな
かには本当の棺が入っていた。

《偉大な発明》  ティバートンの町で長い人生の幕を閉じたローズ・マーティンという84歳の
女性の埋葬だった。マーティンはかねてから、自分が死んだら必ず愛用した車のなかに遺体
を入れて埋葬してほしいと、明確な遺言を残していた。彼女はこの町で生まれ、育ち、つい最
近までパン製造販売に携わっていた。

その彼女が生活の伴侶のようにしていたのがシボレー(*)のコルベア1962年型という自動
車だった。マーティンはこの二ドアのクーペ(*)を30年以上も愛用してきた。コルベアは65年、
消費者運動で有名なラルフ・ネーダー(*)から「安全性に問題がある」と宣告されて売り上げ
を急落させた歴史がある。だがマーティンは気にもせず、大切に使い続けた。

「彼女はとにかくこのコルベアを自分の家族のように愛していました。故障の修理は全部、私
が引き受けましたが、彼女は修理代の額を心配せず、必ず最高の修理と整備をしてくれと念
を押していました。そして数年前には、自分が死んだらこのコルベアに入れて、埋葬してほし
いと、私にも遺志を伝えていました。だから埋葬の際は私が車の内部を一部、改修して棺が
入るようにしたのです」

長年、コルベアの手入れを頼まれていたティバートンの自動車修理店のジョージ・マーフィーは、
こう語っている。

葬儀に参列した遺族や友人たちは涙をぬぐいながらも、このユニークな「車葬」に思わずほほ
笑みをもらしていたという。

世界最大の車社会アメリカでも車葬は異例ではあるが、愛車とともに埋めてほしいという遺言
は現代のアメリカ人が自分の自動車にどれほど愛着を覚え、どれほど依存するようになったか
を如実に示している。このエピソードは人間の自動車への愛着のごく極端な実例とはいえ、現
代社会での人と車の関係全般について考えさせるような普遍性をも感じさせる。

人と車の間にあるきずなとはなんなのか。人は車からどんな利益を得て、どんな影響を受けてき
たのか。二十世紀の人間の歩みを振り返るときには、欠かせない問いかけであろう。 人類の最
大の発明は自動車だという説がある。最大といってももちろん多様な意味がある。発明といって
も多様な組みあわせが考えられる。だが人間の生活に最大の影響を与えた単一の発明となる
と、それは自動車だとする見解が有力なのである。

5古森義久:02/01/28 22:15 ID:BP81kouL

《激しい展開》  「人類の歴史で人間の生活や社会を最も大きく変えた単一の発明は、間違い
なく自動車です。自動車ほどドラマチックに個人の生活を変え、産業を変え、社会を変えた発明
品はないでしょう。自動車が発明されたのは厳密には十九世紀ですが、本格的に普及したのは
二十世紀です。その二十世紀に人間の活動全般をこれほど根本から幅広く変容させたのは自
動車以外にないでしょう」

自動車の歴史の研究家で「国立道路ゼイングレー博物館」館長を務めるアラン・クリングはため
らわずに断言した。人類の偉大な発明といえば、飛行機、ロケット、蒸気機関車、汽船、電灯など
など、いくらでも並べられるが、二十世紀に人間の生活や労働をどれほど変えてしまったか、と
いう度合いで考えた場合、自動車に勝る存在はないというのである。その変化のプロセスはアメ
リカで最も早く、最も激しく展開していった。

そもそも人間が完全な個人のレベルで移動の主要な手段としてきたのは有史以来、馬と自動車
だけである。馬は人間の文明社会が形成されてから二千年にも及ぶ長い期間、使われてきた。

それが百年ほど前から自動車に取って代わられた。この百年の自動車の発達と人間社会への
影響は当初のいかなる想像もはるかに超えるスケールとなった。アメリカで現在のようなガソリン
を燃料とする自動車が商業ベースで売られるようになったのは1896年からだった。

自動車の発明(*)自体はヨーロッパの方が先だったが、人間の主要交通手段として、しかも大量
生産により国民一般が買える機材として、本格的に発展させたのはアメリカである。

アメリカで登録されている自動車の総数は2億台以上、運転免許を持つ人が1億7500万人、自
動車産業は全産業界でも最大規模を誇り、雇用は230万人にのぼる。 世界全体の自動車総数
は四億台、一列に並べると地球を八周する。自動車が最初に発明されたころには、フランスとド
イツに実験用の車がわずか六台だけという状態だったのだから、まさにものすごいスピードで爆
発的に発展してきた。自動車産業は世界全体でいま四百万人の労働者を雇っているという。

《消費の大空》  自動車産業自体のほかにガソリン、鉄鋼、ガラス、タイヤ、塗料など車を組み
立てたり、動かしたりするのに不可欠な各関連産業も当然、急成長した。道路建設も、カーラジ
オも、道路沿いに看板を掲げる屋外広告も、車自体の販売宣伝をする広告一般も同様である。
車の月賦販売に関与する金融業界も、事故に備える保険業界も、自動車の発達とともに果てし
ない消費の大空へと羽ばたいていった。

現代の人間の個人レベルでの車に対する依存度となると、さらにぼうぜんとするほどの実態で
ある。車の先進国のアメリカでは国民が合計二億台以上の車を運転する結果、走行距離は年間
総計で四兆キロに達し、一般の通勤の九〇%以上が個人の自動車に頼っている。ただし個人平
均では通勤のための運転は全体の車使用の三五%にすぎず、あとは買い物をしたり、教会や子
供の学校へ行ったり、友人や親類の家、病院などを訪れたりするなど多種多様な生活上の活動
のために車を運転している。 こうして人間の移動に大きな役割を果たすようになった自動車は、
人間の生活の質にもさらに大きな変化をもたらしたのだった。

6古森義久:02/01/28 22:16 ID:BP81kouL

■ 豆事典

◇シボレー 米国のゼネラル・モーターズ(GM)社が製造する車の1グループの呼称。スイス移
民のレース・ドライバーで車の設計者だったルイス・ジョセフ・シボレー(1878−1941年)の名前に
由来している。シボレーは1915年にシボレー・モーター社を設立した後、17年にGM社に入り、そ
れ以後、シボレー設計の車がGM社の中心車種となった。

◇クーペ フランス語で箱形の馬車の意味。屋根付きの2ドアの乗用車で、セダンよりやや屋根
が小さく前席主体のスポーティーな構造になっている。

◇ラルフ・ネーダー(1934年− ) 米国の消費者運動家。1959年に弁護士を開業。65年に「どん
なスピードでも自動車は危険」を書いてGMの欠陥車を告発し、一躍、有名になった。その後、上
下両院議員の勤務評定や資産公表、環境、公害問題などの運動も展開している。

◇自動車の発明 フランスのニコラス・クノーが1769年に蒸気機関を用いた車(蒸気自動車)を発
明。ガソリンによる内燃機関で動く自動車の発明はさらにその100年余り後になり、1885年にドイ
ツのゴットリープ・ダイムラー(1834−1900年)がガソリン2輪自動車、カール・ベンツ(1844−1929
年)がガソリン3輪自動車を相次いで完成させた。ダイムラーはさらに翌1886年、世界初の本格
的4輪自動車を作った。

7卵の名無しさん:02/01/29 19:03 ID:p+m5N7o+
糞スレ立てんなよ。何か文句あんのかぁぁぁ〜!
      /ヽ        /ヽ             
     /::::::::ヽ____/:::::::ヽ            
    /  ::::_    :::::::::::::._ .\            
   /:::::: /  。\ヽ v.._/。 \ :::\  クワッ
  |::::   / ̄ ̄ /___√ ̄ ̄\ ヽ          
  |:: :::::.     /|ーーーt ヽ ヽ.. :.:::::::::. |          
  |::.        |    ||:..  ...:::::.. |         
.. |:::::       ! | ヽニ⊃| |    ::: |         
  |::.       | |::::T:::|  | |   .. : |.         
 _丿::::     ├^^^^^--∧  :: :/  ∧      
/::::::::::::::::::::        ../ ::ヽ   \ / ヽ、
::::::::::::::::::::         / ::::ヽ⌒ヾ⌒ヽ  ::::ヽ ←>>1
:::::::::::::::::::: グリグリッ/    ..(.....ノ(....ノ  ::::/ ヽ 
::::::::::           |         ∪  .:(....ノノ ))
::::::::::         / ̄ ̄ヽ ∪     :::::::::::::/`ヽ
::::::::::      (( (___..ノ      ::::::::::::::(....ノノ ))
              ヽ ノノ     ::∪:::::::::::::ノ イ・・・イイエ。
8卵の名無しさん:02/01/29 20:19 ID:Cp3mutT4
がんばれ
9卵の名無しさん:02/01/29 20:36 ID:PZvNkica
荒らしも元祖と本家の掛け持ちで忙しいのー
10古森義久:02/01/29 22:32 ID:+bOfiGK5

■車が人を変えた (6) 「張り込み」 ミラーに映る捜査員の動きを追った

私の長年の自動車とのかかわりでも、生活のなかで車が果たす役割が最も大きかった時
期といえば、おそらく静岡での勤務を終え、東京で新聞記者の活動を始めてからの数年だ
ろう。

《夢の実現へ》 私が静岡支局から東京本社へと転勤になったのは1967年(昭和42年)5
月だった。東京オリンピックから3年が過ぎていたその年の7月、日本の自動車保有台数は
初めて1千万台を超えた。ほぼ10人に1台の計算となる。同時に国民生活白書では日本
国民の9割以上が中流意識を抱いていることが伝えられた。自家用車を持つことはその中
流意識の必須の要件になりつつあった。

私は4年ぶりで東京での生活に戻った。静岡で共有にせよ、自分の車を持ってしまったか
ら、もう逆戻りはできなかった。一度、覚えた自由と自立の味は忘れられない。その辺は依
存症にも似ており、人間の生活の合理的進歩には後退はないという単純な真理でもある。

東京でも車を所有して自由に運転することが、社会で一人前のメンバーになる資格のよう
にさえ思えた。車がなければなにも始まらないとまで感じていた。社会全体をみても、その
なかでダイナミックに躍動し、前へ前へと進むには車を所有していなければならないという
変な参加の意識も覚えた。

東京に腰を落ち着けてすぐトヨタのカローラを買った。日産のサニーとの間で国産小型車の
トップの座を争っていた車である。白い新車だった。両親の家に住み、住宅費はかからず、
給料もいくらかは上がっていた。だから長期の月賦にすれば、それほど無理せずに購入で
きた。東京で自分の自動車を持ち、自由に乗り回すというのは16歳で運転免許をとったと
きからの夢だった。夢の完全な実現にちょうど十年かかったわけである。

それから東京での5年間、いま顧みてわれながら感嘆するほどよく働き、よく遊んだ。その
両方に車が絶対不可欠の手段となった。自分自身の車をこれほど身近に感じ、これほど多
くの時間をそのなかで過ごした時期はほかにない。車が生活にこれほど深く入り込んだの
も、日本のモータリゼーションを背景に、私の人生のあり方と社会のあり方とが相乗した結
果だったのだろう。

《運転の上達》 私は社会部記者としてまず都内の警察署をいくつも担当させられた。池袋
署を中心に第五方面と呼ばれる豊島、北、練馬、文京などの区の各警察署、さらには淀橋
署(いまの新宿署)を中心とした第四方面と呼ばれる新宿、杉並、中野などの区の各警察署
である。こんな広い地域をぐるぐる回り、大きな事件や事故があれば、現場に急行する。

移動には会社からハイヤーが供され、自由に使えた。だが自分の車を使った方がずっと便
利な場合があることにやがて気づく。当時は過激な学生運動が盛り上がっていた。日米安
保条約やベトナム戦争、大学管理に反対した、あの闘争である。


11古森義久:02/01/29 22:34 ID:+bOfiGK5

私は中核派の取材を担当させられ、千代田区の法政大学などに日夜、通ったが、自分で運
転する車の機動性は新聞社の運転手つき黒塗りハイヤーよりずっと威力を発揮した。学生
が占拠する東大や日大の施設に機動隊が入ったなどという一報を未明に受けると、代々木
に住んでいた私は自分の車に飛び乗って、自宅から召集された記者のなかでは真っ先に
現場に駆けつけることができた。

会社の車が利用できるのにあえて自分の車を頻繁に使ったのは、一つには当時の私は運
転がかなり上達していたためだった。東海道の長距離ドライブで鍛えたうえ、東京でも連日
連夜、ハンドルを握っていたのだから、当然である。都内でもハイヤーの年配の運転手たち
よりは短時間で目的地に達することができると自負していた。

過激派取材の過程で68年(昭和43年)3月には重傷を負ったが、車の運転にはブレーキと
はならなかった。北区王子に米軍の野戦病院を建てるという計画に中核派らが実力行使で
反対し、機動隊と衝突するのを取材しているうちに、どこからか飛んできた大きな石が頭に
ぶつかったのだ。頭がい骨にヒビが入り、脳内出血を起こして、1カ月も入院した。当時の
警視総監、秦野章から2万円の見舞い金が届けられた。だが退院すればすぐにまた自分
の車を連日連夜、運転する生活に戻った。

《運転の上達》 その後、警視庁詰めとなったが、これはテレビの人気連続ドラマだった「事
件記者」(*)の舞台である。担当は捜査二課と同四課だった。二課は知能犯、四課は組織暴
力の捜査が主だった。取材はドラマと異なり、自分で犯罪事件を追うよりも、事件を追う捜
査員から情報をもらうことが主体だった。そのために刑事たちの自宅への夜討ち朝駆けが
毎日の仕事となった。

そうした取材ではさすがに社の車に頼ることが多かったが、自分の車を使うことも珍しくな
かった。刑事の姿や捜査対象者の帰宅を路上に止めたカローラのなかでじっと待つことも
あった。バックミラーやサイドミラーの角度を調節し、リクライニングシートを倒して体を横た
える。ミラーに映る動きをみつめる。そんな張り込みをした。

日通事件(*)では旧役員たちが疑惑の資金で建てたという豪華な別荘群を調べに、静岡県
の伊東まで自分の車で出かけた。そんな遠距離の取材活動では自家用車は断然、動きや
すかった。なにしろ運転がまったく苦痛ではなく、長時間でも楽しかったのだ。

日大経済学部不正経理事件(*)では大学幹部の1人が家宅捜索を受け、逮捕されそうだと
の情報をつかみ、渋谷の幹部宅前に早朝、張り込んだこともあった。カローラに横たわり、
バックミラーに捜査員の姿が映るのをいまかいまかと待ち受けていると、競争相手の読売
新聞の先輩記者の顔が映ったのにはがっかりした。この動きを知るのは自分だけだと信
じ、捜査員が家に踏み込み、大学幹部を連行するところを目撃すれば、スクープになると思
っていたからだ。ちなみにこのときの読売記者はいまテレビ朝日のコメンテーターの内田忠
男である。

12古森義久:02/01/30 04:54 ID:PcqsxILI

自分の職業にこれほど車を役立てたが、遊びにはさらに多く車を使った。なにしろ20代の
独身である。男女を問わず友人とはまず必ず車で行動をともにした。どんな時間でも、どん
な場所にも疾走していけるのである。この時期の車にまつわる青春のほろ苦い思い出は数
多い。私の白いカローラは3年で走行距離10万キロ以上となった。年間では最近の私の走
行の6〜7倍である。

70年(昭和45年)に車を買い替えた。ホンダのクーペ1300だった。半分スポーツカーのよう
なタイプである。車体は濃い黄色、当時の私の車への期待や思い、情緒を反映する派手で
落ち着かない色だった。


■豆事典

◇「事件記者」 1958年4月から66年3月までNHKで放映された連続ドラマ。島田一男原
作。出演は永井智雄、原保美、滝田裕介、園井啓介ら。警視庁の記者クラブを舞台に激し
い取材活動とスクープ合戦を描き、高視聴率を上げた。

◇日通事件 1968年(昭和43年)に東京地検特捜部が日本通運の乱脈経理を摘発し、福島
敏行前社長らを68年4月8日、業務上横領容疑で逮捕した。6月には社会党・大倉精一参
院議員をあっせん収賄容疑で逮捕、自民党・池田正之輔代議士を収賄の疑いで取り調べ
るとともに福島前社長ら旧日通5役とともに起訴した。日本通運は関連会社から吸い上げ
たリベートの一部を政界工作に流し、その額は4年間で1億9000万円、受け取った政治家
は47人のぼると伝えられた。

◇日大経済学部不正経理事件 1968年に日大経済学部で業務上横領などの不正経理が
明るみに出て警視庁捜査2課が関係者8人を逮捕した事件。日大では同じ1968年の春、東
京国税局の特別監査を受け、20億円にのぼるヤミ給与が発覚、国税局は脱税分や重加算
税などで11億円を徴集した。東京地検は古田重二良会頭を所得税法違反容疑で取り調べ
たが、69年8月、容疑不十分として不起訴。20億のヤミ給与事件は68年5月に日大の学生
が全学共闘会議(日大全共闘)を結成するきっかけになり、学園紛争が拡大していった。

13卵の名無しさん:02/01/30 05:33 ID:6PKqbHaP

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★テロの進行を防がなかった米軍
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 2001年9月11日の朝、アメリカ軍の司令官であるリチャード・マイヤー
将軍は、仕事の本拠地である首都ワシントンDCの国防総省(ペンタゴン)から
車で10分ほどのアメリカ連邦議会の上院議員会館にいた。

 マイヤーはこのとき統合参謀本部の副議長で、近く議長に昇格する予定になっ
ており、その人事を議会が承認するための公聴会について上院議員との打ち合わ
せがこの朝に入っていた。この日、統合参謀本部の議長は大西洋上に出ていたた
め、ワシントンにおける制服組(軍人)としての最高司令官は副議長のマイヤー
が代行していた。

 打ち合わせに入る少し前、マイヤーが控え室にいる間に、その部屋のテレビが、
世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んだというニュースを報じ始めた。その
後やってきた上院議員のマックス・クリーランドが、大丈夫なのか尋ねたところ、
マイヤー司令官は「小さな飛行機か何かがビルにぶつかったらしい」と答え、大
したことはないという判断で、マイヤーとクリーランドは、そのまま予定通り会
議に入った。

 彼らが会議をしている間に、2機目の旅客機が貿易センタービルに突っ込んだ
が、それをマイヤーたちに伝える人はいなかった。打ち合わせが終わってマイヤ
ーが控え室に戻ったとき、テレビは黒煙を上げる高層ビルを映し出していた。
「ここにきて、事態の重大さがはっきりした」と、マイヤーは後から回想してい
る。

 そうこうするうちに、誰かが「ペンタゴンにも飛行機が衝突した」と伝えてき
た。誰かが携帯電話をマイヤーに手渡した。電話の向こうは、空軍の司令官だっ
た。このときになって初めて、マイヤーは事件に関して部下からの直接の報告を
受け、対応策を命じ、急いで国防総省に引き返すことにした。

▼無為に過ぎた直前の30分

 国防総省に突っ込んだAA77便は、ワシントンの空港を飛び立ったのが8時
10分で、飛行中にハイジャックされたのが8時55分ごろだった。この飛行機
はロサンゼルス行きで、離陸後45分かけて500キロほど西に飛んだところで
ハイジャックされ、同じコースを逆行してワシントン方向に戻り、ハイジャック
から45分後の9時40分に国防総省ビルに突っ込んだ。

 国防総省はこの飛行機がハイジャックされてから15分後の9時10分ごろに
は、連邦航空局(FAA)からの連絡で、この飛行機のハイジャックを知っていた。
14卵の名無しさん:02/01/30 05:34 ID:6PKqbHaP

 しかしそれから30分間、国防総省の司令室では、何をしたらいいか分からな
い混乱状態が続き、すぐ近くにあるエドワード空軍基地から戦闘機を発進させる
こともせず、ハイジャック機が自分たちのビルに向かって突進してくるのに、何
の手も打たなかった。マイヤー司令官に電話をかけることも、誰もしなかったの
である。(司令室は国防総省ビルの東側にあったが、ハイジャック機が激突した
のは同じビルの西側だった)
http://www.nytimes.com/2001/09/15/national/15CONT.html

 この朝、マイヤーの上司にあたるラムズフェルド国防長官も外出していたが、
彼が連絡を受けたのも、国防総省に飛行機が突っ込んできた後だった。

▼緊急発進に大統領の決定が必要だというウソ

 米軍は、ハイジャック機に対する警戒態勢が不十分だったのかといえば、そう
ではない。日本などより人々が飛行機を使う頻度が高いアメリカでは、ふだんか
ら国内線旅客機のハイジャックに備える十分な態勢がとられ、訓練もよく行われ
ていた。

 旅客機がハイジャックされたり、規定の飛行進路をはずれたまま管制塔からの
呼びかけに答えなかったりした場合、連邦航空局は、米軍とNORAD(北米防
空司令部、アメリカとカナダの合同防空組織)に連絡し、米軍やカナダ軍の戦闘
機に緊急発進してもらう。戦闘機は旅客機の近くまで行き、その操縦室の様子を
目視で確かめ、戦闘機の先導に従うよう命じる合図を送る(旅客機の前を横切る
のが合図となる)。

 旅客機が先導に従えば、近くの飛行場に強制着陸させる。従わない場合になっ
て初めて、軍の上官が、旅客機を攻撃するかどうかという判断を行う。911で
は事件後「一般市民が多数乗っている旅客機を撃墜するかどうかという難しい最
終判断を、米軍の最高司令官であるブッシュ大統領が下すのに時間がかかり、戦
闘機の発進が遅れた」といった説明が、テレビのインタビューに答えるかたちで、
チェイニー副大統領によってなされている(9月16日NBCテレビ)。
http://stacks.msnbc.com/news/629714.asp?cp1=1

 だが、これは間違った指摘である。最終的に旅客機を撃ち落すかどうかという
判断を下す前に、まず戦闘機が緊急発進し、ハイジャック機の近くまで行って強
制着陸に応じるかどうか試してみるのが先である。

 戦闘機の緊急発進には大統領の判断など必要なく、管制塔(連邦航空局)から
の要請を受けた米軍やカナダ軍が日常業務として行うことである。火事の発生を
知らされた消防隊が火事現場に駆けつけるのと似ている。戦闘機の緊急発進は、
それほど珍しいことではない。日本でも領空侵犯などがあると行われ、報じられ
ている。
15卵の名無しさん:02/01/30 20:31 ID:g3vY7Zj3
なぜか沢○関連スレッドは糞荒らしが多い。
しかも、単なる盗人コピペの荒らしのみ。
まるでマスターベション。陰湿な自己満足のみ。
いい年をしてみっともない怒。 ××君
16卵の名無しさん:02/01/31 00:19 ID:gzOlpRh0
↑横浜
17卵の名無しさん:02/01/31 02:20 ID:B8+tot9G
↑黄昏
18卵の名無しさん:02/01/31 07:43 ID:UrS2W1Ht
緒方貞子さん、外相就任要請問題には答えず 国連本部で

 元国連難民高等弁務官、緒方貞子さんは30日、ニューヨークの国連本部で記者団に外
相就任要請への対応を尋ねられたが、「カルザイ氏(アフガニスタン暫定政権議長)とは
国連とアフガニスタンの話だけをした」「きょうはアフガニスタンの『後始末』をしてい
るだけ」と語るにとどまった。

 認証式出席を念頭に「東京へ帰る予定は」との質問には、「切符、持っていませんよ」
と語った。
19卵の名無しさん:02/01/31 07:45 ID:UrS2W1Ht

■後任は緒方氏に絞る 田中外相更迭
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首相説得続行
高齢理由に慎重姿勢


 小泉純一郎首相は三十日、田中真紀子前外相の更迭に伴う後任人事について、前国連難
民高等弁務官でアフガニスタン支援政府代表の緒方貞子氏(七四)を起用する意向を固め、
大詰めの調整を進めた。米国滞在中の同氏はこれまでの打診に対し、高齢などを理由にい
ったんは慎重姿勢を示した。しかし、首相官邸サイドは候補者を緒方氏一人に絞って再度、
説得を続けている。首相としては、外交体制の立て直しに向け週内には新外相を任命した
い考えだ。

 こうした中、森喜朗前首相は三十日午後、緒方氏に国際電話をかけ、小泉首相の外相就
任要請を受け入れるよう説得した。これに関連し、複数の与党幹部は同日夜、「候補者は
緒方氏に絞られた」とそれぞれ述べた。

 一方、服部則夫外務報道官は同日午後、新外相の任命が遅れる事態を念頭に、二月二日
に予定している日露外相会談の延期もあり得るとの見方を示した。

 田中氏とともに更迭されることになった野上義二外務事務次官の後任については、野村
一成駐独大使、高野紀元・外務審議官(政務担当)らの名前が挙がっているが絞り込まれて
いない。

     ◇

 田中前外相は三十日夜、小泉首相に辞表を提出した。前外相は二十九日夜、首相から更
迭を通告された際、辞職願の文書への署名を拒否していた。

≪緒方氏ノーコメント≫

 【ニューヨーク30日=青木伸行】田中真紀子前外相の後任として名前が浮上している
緒方貞子氏は三十日、ニューヨークの国連本部で、外相就任要請があったかとの質問に、
「ここは国連なので国連以外の話はしない。ノーコメント」と語った。
20卵の名無しさん:02/01/31 08:04 ID:arT84JgQ

「外相メモはうそ」で首相急転…電撃更迭の背景

「誤算だった。1省内で収まると思っていたが、これが政治の怖いところだ」 30日夜、
首相の小泉純一郎は首相官邸で記者団に苦渋の胸の内を語った。
当初、小泉はアフガニスタン復興支援会議からのNGO(民間活動団体)排除問題をめぐ
る外相の田中真紀子、外務次官の野上義二、衆院議院運営委員長の鈴木宗男の対立を穏便
な形で収拾しようと考えていた。
小泉が急転、3人の辞任という荒業に踏み切る方向に変わったきっかけは、29日朝から
官房副長官の安倍晋三と古川貞二郎が行った外務省幹部への聞き取り調査だった。
24日の外務省の勉強会で野上が田中に、鈴木がNGO排除問題に関与したと発言をした
かどうかを調べたもので、その結果は出席者全員が「なかった」と答えた。「田中外相の
説明は、時間が逆さまだったり、走り書きのメモはうそだらけだった」という。
これでは国会を乗り切れないと小泉や官房長官の福田康夫が読んだのも無理はなかった。29日夜、衆院議長室で、議長の綿貫民輔、副議長の渡部恒三は、自民党国会対策委員長
の大島理森にこの調査結果を見せられ、同じ思いで、驚きを隠さなかった。 「外相がう
そつきだと官邸が言っているわけだ。こんなものを野党に出したのか」「こんなのを出し
て(今年度第2次補正)予算案を通そうなんて無理だよ」
小泉の田中、野上更迭は今後の政権の行方を左右しかねない、まさに苦悩の決断だった。
小泉はいつ、何を考え、結論を見いだしたのか。「けんか両成敗」の背景を探った。

◆菅・民主幹事長との連携も◆
「国会の正常化や信頼できる外交力の回復について是正すべき点は是正する」 首相の小
泉純一郎は29日午後7時過ぎ、自民党幹事長の山崎拓を首相官邸に呼び、事態打開への
考えを伝えた。小泉は多くを語らなかったが、外相の田中真紀子や外務次官の野上義二ら
の更迭を通じ、国会混乱の収拾を図るという考えが山崎には感じ取れた。
第2次補正予算案の与党だけでの可決を了承した小泉は衆院本会議後、田中を首相官邸に
呼び、官房長官の福田康夫、山崎を同席させたうえ、「予算(案)を通さなければならな
い。私に人事を、身柄を預けてほしい」と述べ、野上とともに更迭することを通告した。
NGO排除問題での田中と野上の発言の食い違いは29日も解消されず、外相らを更迭す
る収拾策は小泉にとって「まさかの一刀両断。苦渋の決断」(森派幹部)だった。
これに先立ち、前首相の森喜朗、前官房長官の中川秀直は同日午後2時ごろ、相前後して
首相官邸を訪れ、小泉と向かい合った。短い会話の中で、中川は「このままでいくと、国
会は持たない」と収拾に乗り出すよう求め、森は一部に「野上更迭論」が取りざたされて
いたことに触れ、「野上君だけ替えるのは酷だ」と進言した。首相は胸の内を明かさなか
った。 首相官邸が29日、外相更迭を決めた背景には、田中が野上の更迭をあくまで求
めるあまり、民主党幹事長の菅直人と連携を深めていた事情もあるようだ。 「田中は、
菅にそそのかされて、野上の首を取りに行ったが、田中も菅も、田中まで首が飛ぶとは思
っていなかっただろう」 30日、小泉に近い政府筋はこう語った。
21警告:02/01/31 20:11 ID:L9eUoKIV
あなたのしていることは犯罪です。
あなたのプロバイダに通報します。

悪質なコピペ荒しへの対応について
http://www.2ch.net/accuse2.html
アクセス規制情報
http://teri.2ch.net/sec2ch/index.html

22卵の名無しさん:02/01/31 20:21 ID:ARBLjj9e
_/ _/ _/ 加藤紘一・中国ODA疑惑究明は
_/ _/ _/_/_/ _/_/_/ 真の独立国家日本の試金石
_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ グレアム・グリーン

 自民党の加藤紘一・元幹事長の事務所代表・佐藤三郎氏が脱
税の疑いで国税当局の強制調査を受けた問題は、改革派の仮面
をかぶる加藤紘一が実は利権まみれの政治家の筆頭であった疑
惑の一端を図らずも証明しました。疑惑の焦点、佐藤三郎には
北朝鮮との関係や金銭にまつわるうわさが幾度も流れたと産経
が報道していますが。加藤紘一本人の中国/北朝鮮利権疑惑も
永田町では公然の事実でした。中国ODA疑惑が流れるたびに
常に加藤紘一の疑惑の話題が永田町で粗上にのぼっていたので
す。

 また加藤紘一や野中広務などは先のテロ法案で自衛隊の原子
力発電所や皇居、国会等の警備も妨害し廃案にしましたが、こ
れはまさに北朝鮮や中国のテロ攻撃を意図的に招き入れる行為
です。彼らが中国/北朝鮮のエージェントであるという疑惑を
雄弁に証明する事実です。

 今回の事件はその疑惑を浮き彫りにしたのです。公安情報当
局によれば、中国情報局第2科が、日本の広域暴力団を通じて
加藤紘一の秘書に接触し、資金提供をしたという情報がありま
す。この情報は、朝日新聞等のマスコミが握り潰しているので
加藤紘一の秘書と日本の広域暴力団が接触していた事実は一般
市民は知りません。

 また、産経新聞によれば『加藤紘一自民党元幹事長の事務所
代表、佐藤三郎秘書(六一)による脱税疑惑で、所得税法違反の
容疑で強制調査(査察)を受けた佐藤秘書経営の港湾会社「コー
ショー」(横浜市)の役員に、加藤元幹事長の妻が七年間にわた
って就任していたことが十一日、分かった。』とあります。

 公安当局情報によると、中国ODAキックバックリベート資
金は、加藤紘一が直接受け取るのではなく、地元建設会社にま
ず金がながれ、そこから佐藤三郎に金が渡り、佐藤が創設した
ゴースト会社「コーショー」の監査役に加藤紘一の妻を就任さ
せ、給料という形で資金を流していたということです。かなり
巧妙なキックバックのカモフラージュの手口です。
23卵の名無しさん:02/01/31 20:21 ID:ARBLjj9e

 佐藤三郎一人が悪者になり、加藤紘一の妻が佐藤の会社の監
査役であり加藤紘一が直接に犯罪行為に荷担した重大な疑惑な
どの事実は、放っておけばマスコミにより闇から闇にほうむら
れる可能性は高い事でしょう。自殺した竹下登の秘書のように
加藤紘一は、すべての罪を佐藤三郎にかぶせて、見殺しにする
のでしょう。

 中国北朝鮮がらみの事件は野中広務などの自民党橋本派の圧
力により常に捜査妨害がかかりうやむやにされるので、今回国
税局がどこまで解明できるか疑問です。

 また、以前、YoJirou氏がレポートされた金丸信の北
朝鮮製金塊事件も朝日新聞がマスコミ全体に圧力をかけて無理
やりに揉み消したと言われています。

 現在の日本においては、マスコミこそが最大の対日侵略の脅
威であると言えましょう。

 かつて朝日新聞を始めとするする反日マスコミが国内言論を
壟断することにより日本の中国/北朝鮮による植民地化を進め
ていました。それをすんでのところで阻止したのが産経新聞で
す。朝日、TBS、共同通信などの中国利権侵略マスコミの攻
撃脅威は軍事力によるそれをはるかに越えていると考えます。
日本はこうした反日マスコミによる対日侵略も打倒する必要に
迫られています。

 こうした政界やマスコミの国民を愚弄する巨大政治犯罪を放
置して良いのでしょうか? 日本は中国の植民地なのでしょう
か?

 こうしたことに疑問を持った読者の皆様はこのメールを出来
るだけ多くの人々に転送して、真相究明を訴えかけて欲しいの
です。一人が10人の友人にメールを送ったなら5万人の人々
が真相を知ることになるのです。

 今回の事件は日本が中国の言論植民地を脱せられるかどうか
の試金石ではないかと思われます。そしてそれが出来ないとす
ればもはや戦後の『自由民主党』政治には終止符を打たせる必
要があります。日本を取り巻く国際情勢はいよいよ緊迫してお
り中国や北朝鮮の対日侵略、対日大規模テロが間近に迫ってい
ます。
24卵の名無しさん:02/01/31 20:22 ID:ARBLjj9e

 そうなれば、自民党政治を倒して例えば石原慎太郎を中心と
した新しい『保守新党』の立ち上げに決起する必要もあるかも
知れません。中国や北朝鮮がらみの疑惑事件一つまともに取り
上げられない自民党政権であればなくしてしまったほうがよい
かもしれません。今回の加藤紘一疑惑や北朝鮮不審船で野中広
務などの圧力で真相究明が潰された場合この読者で新党結成を
呼びかけるべきでしょう。

 わたしは2002年が日本にとっての存亡を決する運命の分
岐点ではないかと考えます。必要によっては救国政権を樹立す
るため全有志の国民が立ちあがることも必要でしょう。

 さもなければ日本は永遠に中国の外交的属国植民地に甘んじ
ることになります。
25卵の名無しさん:02/01/31 22:36 ID:2Zz4sNlQ
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26古森義久:02/02/01 01:17 ID:con/2E6i
■ 中国「文明国への道遠い」米マスコミが批判
人権弾圧や大量破壊兵器拡散 専門家の楽観的見解に警告 2001・08・09
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0108/09/paper/today/internat/09int001.htm

【ワシントン8日=古森義久】 米国のマスコミで、中国の人権弾圧や大量破壊兵器拡散を
非難する報道や論評が一段と増し始めた。中国系米人学者の逮捕やパキスタンへのミサ
イル部品売却など中国側の実際の動きへの対応だが、「中国の状況は改善されている」と
いう見解を述べる米側中国専門家への警告が含まれている点が注視される。

ワシントン・ポストは七日付の社説で「あるがままの中国」と題し、「米国の中国専門家たち
が『私企業やインターネットの広がりで中国での個人の自由は増している』などと論じるの
は間違いで、中国共産党の支配者たちは、権力保持のために自国民を残酷な暴力で弾圧
している」と論じた。

社説は平和的な法輪功信者や米国籍の中国系学者が不当に逮捕され、拷問を受けたとい
うケースを詳述する一方、中国当局が諸外国の中国研究者や外国で活動する中国人学者
の日ごろの言動を監視し、とくに中国への出入りを続けたい学者には中国当局が好まない
意見を述べることをやめるよう圧力をかけている、と述べている。

社説はことに貿易や学術で中国と関与する人たちが「自己の立場を正当化するために中国
の弾圧を最小限に受け止める」という傾向への警告を発している。

ウォールストリート・ジャーナルも7日付で中国当局にスパイ容疑で逮捕された後、国外追
放となった米国籍中国人学者の李少民氏が中国側の弾圧を詳述した寄稿論文と、同紙コ
ラムニストのジョージ・メロアン氏が「中国当局による民主活動家への弾圧は共産党独裁保
持への不安が原因だが、江沢民主席以下の首脳部も十分に承知のうえで弾圧を実行して
いる」と批判するコラム記事とを同時に掲載した。このコラムは特に「中国当局の秘密警察
を使っての弾圧方法は現代世界にとってますます嫌悪すべきものとなり、中国が文明国家
となるまでの道はなお遠いことをみせつけた」と厳しく述べている。

ワシントン・タイムズは7日付一面トップの「米国は中国に武器輸出に関し圧力をかける」と
いう記事で、中国が最近、パキスタンに弾道ミサイル部品を輸出し続けていることに対する
ブッシュ政権の対応を報じた。同記事は米国務省報道官が「中国が弾道ミサイルなど大量
破壊兵器の拡散をやめない場合、経済制裁を再考する」と述べたことを伝え、中国がいか
にパキスタンのミサイル戦力強化に寄与してきたかに関する米国当局の情報をくわしく報
道した。

マスコミでのこうした中国関連の報道はみな中国側の非民主的な統治や大量破壊兵器輸
出での拡散継続など実際の動きへの米側の自然な反応といえるが、大手マスコミが期せず
して歩調をあわせた形の中国への批判的な論調は、ブッシュ政権の対中政策にも当然、影
響するといえる。
27古森義久:02/02/01 01:27 ID:SGIluLYV

■中国の主張は不当 南インドシナ海領有権紛争
米財団報告「安保に影響懸念」
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0109/11/html/0911side013.html

【ワシントン10日=古森義久】 米国の大手シンクタンクのヘリテージ財団は10日、米政
府が中国の南シナ海での領有権主張の不当性を指摘し、抗議を明確にすべきだと提言す
る報告書を発表した。

米政府はアジアなどでの領土紛争にはこれまですべて中立の立場をとってきたが、報告書
は南シナ海の領有権紛争を放置すると、中国の一方的な主張が通って、米国の安全保障
までが重大な悪影響を受けるとしている。

報告書は「ブッシュ政権は中国と南シナ海の海洋領土紛争をどう扱うべきか」と題され、ま
ず中国の主張をそのまま認めれば、南シナ海すべてが中国の領海になり、各国海軍艦艇
の航行は中国の事前の許可が必要になる、と警告している。

また、南シナ海では西沙諸島や南沙諸島の領有権を中国はじめフィリピン、マレーシア、ベ
トナムなどが争っているが、中国だけは、(1)国連海洋法を故意に曲解、自国本土から一千
マイルの海域をも領海と宣言している、(2)他の国は海岸から12カイリまでを領海としてい
るのに対し、200カイリまでの「主権」を宣言している、(3)領土紛争の多国的解決を拒んで
いる、(4)フィリピンなどと領有を争うミスチーフ環礁に一方的に海軍拠点を建設したように
軍事手段の行使をためらわない、(5)自国領土から200カイリ以内の海域での外国軍事舟
艇の活動に事前の許可を求める−ことなどが特殊だとしている。

報告書は南シナ海の領土紛争を放置すると、米海軍の活動も制限されるとし、ブッシュ政
権に対し歴代政権の「他国の領土紛争には一切、関与しない」という姿勢を改め、(1)中国
に対し南シナ海の領土紛争を国際法に従って解決することを求める、(2)南シナ海の航行
の自由を妨げる中国の極端な領有権主張に明確に反対し、場合によっては他国の主張を
支持する、(3)軍事力の行使や紛争地点への軍隊駐留の禁止を求める、(4)現在の無法状
態を終結し、暫定の多国間合意の成立を求める−ことなどを提言している。
28古森義久:02/02/01 18:07 ID:pzoSllLB
■中国 法輪功4幹部に実刑
最高懲役は18年 非合法化後初の処罰宣告
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9912/27/paper/today/internat/27int001.htm

【北京26日=古森義久】 中国当局から違法と断じられた気功集団の「法輪功」幹部4人に
対し北京の裁判所で26日、最高懲役18年という重い判決が下された。法輪功メンバーに
公式の処罰が宣告されたのは法輪功が七月に非合法化されて以来これが初めてで、中国
当局のこの厳しい措置に米国などからは信仰や思想の自由への苛酷な弾圧として非難が
起きることが予測される。

中国国営の新華社通信などの26日の報道によると、北京の第1中級人民法院(地方裁判
所)は法輪功幹部の李昌氏(59)に懲役18年、王治文氏(50)に懲役16年、紀烈武氏(36)に
懲役12年、姚潔氏(40)の懲役7年の懲役刑を宣告した。

判決では4人は国家機密を不当に入手した罪や「邪教」を使って法の履行を阻み、人命を
損失させた罪で起訴されていたというが、いずれも法輪功が四月下旬に中国共産党最高
幹部が居住し、執務する北京市の中南海前で当局の法輪功弾圧に抗議する座りこみを組
織した際のリーダーたちだったという。

中国側の報道によると、懲役刑を受けた四人とも共産党員、李昌氏は元公安省局次長で、
公安省の秘密情報を法輪功側に流して、当局への抗議に利用していたとされている。王氏
は元鉄道省職員、紀氏は国有企業の幹部職員だという。4人とも法輪功が当局から邪教と
断じられる直前の7月20日に逮捕された。

判決が発表された26日、北京の同人民法院は外国報道陣を含め外部の人間の接近を禁
じ厳しい警戒態勢がしかれた。天安門広場では判決に抗議する法輪功メンバーとみられる
男女が数十人集まったが、すぐに警察に連行されたという。

法輪功組織の徹底壊滅を進める中国の厳しい懲罰措置はすでに香港の人権保護組織や
米国議会、欧州連合(EU)首脳らから「信仰や思想の自由の弾圧」とか「人権抑圧」として非
難されており、今回の重刑判決でさらにこの国際非難は激しくなるとみられる。
29古森義久:02/02/01 19:06 ID:MVbceOyR
中国空軍、8年後に台湾を圧倒
戦闘機・攻撃機6種を同時開発
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9709/html/0904side35.html

【ワシントン3日=古森義久】 中国人民解放軍が現在、戦闘機や攻撃機など6種の新鋭
戦術航空機を同時に開発しており、今後8年ほどで台湾の空軍力を完全に圧倒する見通し
の強いことが米国海軍情報局の報告書でこのほど明らかにされた。新型軍用機の開発は
冷戦後の現在、米国をはじめほとんどの国では1時期に1機種に着手するのが普通であ
り、中国の多機種同時開発は国際的にもきわめて野心的な空軍力増強だという。

米海軍情報局は各国の海上での航空戦力調査を主眼とする報告書「海軍攻撃戦闘への全
世界の挑戦」のなかで、中国の空軍と海軍航空隊の戦力に触れて、「世界の多くの国が新
型軍用機の1機種を開発する計画の資金割り当てにも苦労している現在、中国はいま少な
くとも6機種の戦術航空機の開発を同時に進めている」と述べている。

報告書によると、中国軍が開発を進める6機種のうち3機種は、(1)ロシアからのライセンス
生産による戦闘機SU27SK、(2)純粋な中国国産デザインの多機能戦闘機のF10、(3)多
目的の大型戦闘機のXXJ(空中戦と敵のレーダー捕そく回避の能力をとくに重視する将来
の中国軍主要戦闘機)−という最新鋭の近代的戦闘機だ。

まず、SU27の輸出タイプであるSU27SKは、米軍のF15に匹敵する世界でも最高水準の
戦闘機であり、中国製造の初のSU27は2000年ごろに完成の見通しで、以後はロシア製
より廉価で輸出市場に多数登場するとみられる。またF10は、設計ではイスラエルとロシア
からの技術を参考にし、米国から多様な方法で入手した技術を使い、2005年の配備を目
指す、としている。一方、米軍のF16と同水準の戦闘機で、中国が2010年ごろに完成させ
ようとしている初の航空母艦に配備する艦載型F10も開発中という。

同報告書はさらに中国軍が従来の機種を改良して新鋭機を開発する作業をも進めていると
して、(1)従来のF7を改良する形でのFB7軽攻撃機、(2)F8を改良する形でのF8II迎撃
機、3)MIG21を改良する形での軽戦闘機FC1−の三機種が開発されつつある、と付け加
えている。

報告書によると、中国の空軍力は機数こそ総計で約4000に達するが、1950年代、60
年代に登場した旧式機も多く、航空戦力としてすぐに西側の戦力と対抗できる軍用機は現
在、100機ほどにすぎない。このため1970年代終わりから急速に自国産の近代的軍用
機の製造に力を注ぎ始め、そのギャップは着実に縮まってきたという。
30卵の名無しさん:02/02/01 20:39 ID:xDpbIikr
>>25
それはそうだけど、でも糞荒らしをオチョクルのもおもろいネ
荒らし5回、アゲ一回。ハイご苦労さん。氏ぬまでやれば!
31卵の名無しさん:02/02/01 22:01 ID:RdQUBF3C
>>30
>荒らし5回、アゲ一回。ハイご苦労さん。氏ぬまでやれば!
もちろん
このスレの終焉とSTSイ○チキ根絶まで頑張る所存
32古森義久:02/02/01 22:32 ID:dFVDVooe
■変質する中国の対外イメージ

【北京16日=古森義久】 中国の安全保障、経済、政治など多様な領域での最近の動きが
これまでの国際的な対中認識を微妙に変質させ始めた。半年前の中国は米国をはじめと
する国際一般社会とのきずなを円滑に強め、世界経済の安定やアジアの安全保障にも大
きく寄与するという協調的な姿勢を際立たせた。だが、最近は、安保面で米国との対立も辞
さず、経済面では国際金融資本との摩擦をもいとわずに、自国の特殊事情を対外的にも明
示するようになった。

98年6月、クリントン大統領が訪中したころの中国は米国との「戦略的パートナーシップ」と
いう言葉にうかがわれたように、米国を中心とする欧米志向国際社会への関与を深め、安
全保障面でも円滑な対外関係の構築を目指すという印象を与えていた。

経済面でも江沢民主席がクリントン大統領とともに日本のマクロ経済運営を批判し、中国
が人民元の切り下げ抑制を中心にアジア経済回復に大きく寄与する一方、自国経済でもア
ジアでは希少な高度成長の継続を宣言し、国際的な好意や信頼を高めていた。

しかし、98年末から99年1月にかけて中国はまず安全保障面では(1)米英両国のイラク
爆撃を激しく糾弾した(2)米国の戦域ミサイル防衛(TMD)に関する日本などとの協力の動
きへの継続的な非難を始めた(3)北朝鮮の核疑惑にからむ査察問題でも米国や国際原子
力機関(IAEA)の査察要求を批判したことなどで、やはり米国や日本、韓国などとは異なる
強固な政策を有することを改めて印象づけた。

中国が欧米諸国の対中印象をさらに変質させたのは昨年十二月からやつぎばやにとった
国内の民主活動家へのきびしい措置だ。新政党結成を図ったり、労組運動をあおったり、
米国のラジオ局に情報を流したという理由で反政府活動家たちが次々に長期の懲役刑を
宣告された。欧米側では中国の共産党政権が米国との関与の推進で国内的にも民主化を
いくらかは許容するだろうとみた向きが多かったため、最近の措置には激しく反発した。

その結果、欧米諸国は三月にジュネーブで開かれる国連人権委員会の会議で中国の人権
弾圧糾弾の決議案を提出する動きを強めている。

経済面では、中国の対外イメージマ質の象徴は大型ノンバンクの広東国際信託投資公司(G
ITIC)の破産だといえる。省政府直轄で外国資本を大規模に導入してきたGITICは、中国
の高度成長のシンボルだったが、実際には巨額の債務超過で問題山積であることが判明
した。しかも中国政府は外国金融機関の期待を裏切る形でGITICの救済には一切、関与し
ない方針を明示した。

国際金融筋ではこの状況は中国のノンバンクだけでなく金融機関全般が構造的な問題を
抱えていることの反映と受け取るようになり、その結果は香港株式市場などにもすでに表
れている。 経済面でのこうした動きは江沢民主席や朱鎔基首相の長期展望に立つ大胆な
改革策の一部ともみられるが、短期には中国の国際的な印象を変え各国機関を対中投資
などに慎重にさせる影響は避けられない。安保、国内政治までを含めると、最近の中国は
国際的には半年前とはがらり異なるイメージを投射するようになったといえる。
33古森義久:02/02/02 12:14 ID:yZw/iTo9

■ 日米台ミサイル防衛構想に対抗 中国
「多弾頭」開発も 99・02・16
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9902/16/paper/today/itimen/16iti002.htm

【北京15日=古森義久】 中国は米国を主体とするアジアでの戦域ミサイル防衛(TMD)構
想に対し、激しい反対を表明しているが、その一方、ミサイル防衛の実効削減などを狙った
軍事強化や政治宣伝に系統的に着手したことが15日までに明らかになった。

これらの措置は多弾頭化の加速やミサイル数増加、心理的な軍事威迫まで多様な手段を
含んでいる。

中国の軍事動向を研究している西側軍事消息筋は中国側が、社会科学院の学者らを通じ
て米日台側でTMDがもし前進する場合、中国当局は、(1)96年のような台湾威嚇の大軍
事演習を実施する、(2)94年に米国と合意したミサイル関連技術輸出規制(MTCR)順守
の方針を破棄し、短中距離弾道ミサイルの輸出を再開する、(3)経済優先の国家政策を軍
事にシフトさせる−などという「警告」を発し始めたことを明らかにした。

消息筋は中国側のこれらの「警告」は、ミサイル防衛の阻止を意図した心理的な威迫であ
り、そのメッセージがいま中国側の個々の官僚、学者、研究者らによって系統的に米日台
側に伝えられるようになった、と述べている。

消息筋はまた、中国側が反ミサイル防衛戦略として、心理作戦だけでなく、実際に敵側のミ
サイル防衛の効力を減らすための軍事措置に少なくとも研究対象として着手し始めた、と
している。その実例として中国の軍事雑誌「兵器知識」が最新号で人民解放軍が「多数に
分散する弾頭を発射するミサイルの開発を始めた」と報じたことを指摘している。

このミサイルが本格的な多弾頭ミサイル(MIRV)かどうかは不明だが、ミサイル防衛は弾
頭がいくつにも分かれる多弾頭ミサイルに対しては、防衛効果を削減されるのは確実であ
り、80年代には一基のロケットで3基の人工衛星を打ち上げ、MIRV技術の基礎保有を誇
示した中国が再び、この面で力を入れ始めた兆しをうかがわせている。

このほか中国側ではTMD対策の軍事措置として、(1)台湾や日本向けとされる短・中距離
弾道ミサイルの数を増す、(2)弾道ミサイル一般の速度を増す、(3)弾頭の切り離し時間を
短縮する、(4)レーダーをはねかえす「ステルス技術」を弾頭に導入する−ことなどが軍の
内外で論じられるようになってきたと指摘されている。
34古森義久:02/02/02 12:31 ID:klVDp5H/
■ 「中国が誤った米国認識」国防総省内部文書
軍事衝突の危険を警告 交流促進など勧告 1998・02・25
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9802/25/paper/today/itimen/25iti001.htm

【ワシントン24日=古森義久】 中国軍部が米国の国力や軍事力に関して誤った認識を抱
き、その結果、長期的に米国との政治摩擦から軍事衝突の潜在的危険を生んでいるという
警告が米国防総省内部の研究文書で発せられていることが24日、明らかとなった。

文書は、米国軍部がこの誤認を減らすために中国軍との交流を深める一方、誤認が不変
の場合には台湾や朝鮮半島をめぐっての米中軍事衝突も起きかねないため、それに相応
する軍事態勢を保持することをも勧告している。

これは「危険な中国の誤認=米国防総省にとっての意味」と題する文書だが、米国防総省
で主要各国の総合的軍事力を評価、分析する国防総省全評価局により作成され、主要部
局に配布された。

産経新聞が24日までに入手した文書は、中国軍首脳部が今後の国際的安全保障や米軍
の能力、戦略をどう認識しているかを精査し、米側の国防総省と軍部がそれにどう対応す
べきかを提案している。

文書は、米中関係が現在、ほぼ円滑に機能し、米側では中国指導部の世界観や米国観は
きわめて現実的だとみなす向きが多いものの、実は中国軍部の対外認識には危険な誤り
があるとして、具体的に、(1)米国の対中敵視傾向を過大評価している、(2)米軍の弱点を
誇大に評価している、(3)米国の長期的衰退を誇大に評価している、(4)中国にかかわり得
る将来の戦争の危険や代償を過小に評価している、(5)中国周辺国家の懸念などを過小に
評価している−という、5種類の誤認をあげている。

この中国軍首脳の認識研究は、96年3月の中国による台湾海峡でのミサイル発射に対し
米国が空母二隻を急派した際、中国軍部がまったくそれを予期せず、仰天した反応をみせ
たことから、中国軍首脳は米側の推察とは異なる対外認識を抱いているという懸念が国防
総省内部に生まれたことが契機で開始された。調査は、ここ数年の中国軍上層部の軍事
司令や戦略論文など膨大な量の一次資料を分析することが中心になったという。

この文書によると、中国軍首脳は、今も国際紛争の武力解決を米国などよりも強く信奉し
ており、近代的地域戦争が破局的な被害なしに実施できると考えている兆しが強く、長期
的にも、2020年ごろには米国が軍事面でも相対的に衰退し、逆に中国のパワーが強大
になると予測している。

このため文書は、短期的には、中国軍首脳のこの種の危険な誤認を減らすために米中間
の交流を増すことを勧告する一方、中長期的に、中国側の誤認が不変の場合、本来は米
中相互とも意図しない軍事衝突が、中国側の(1)台湾海峡危機での誤算、(2)朝鮮半島危
機での誤算、(3)南シナ海での誤算、(4)米国が他の地域戦争に関与した際の誤算、(5)エ
ネルギー供給に関する誤算−などにより引き起こされる潜在的危険があると警告し、その
ための軍事的な態勢や能力の保持をも勧告している。
35古森義久:02/02/02 12:43 ID:MYGdoYzC

■ ミサイル防衛構想に関係なく中国は核増強する
キッシンジャー元国務長官が見解
ブッシュ政権の計画支持 2001・07・07
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0107/07/paper/today/internat/07int003.htm

【ワシントン5日=古森義久】 米国のヘンリー・キッシンジャー元国務長官が五日、米ワ
シントン・ポスト紙にブッシュ大統領の進めるミサイル防衛計画を全面的に支持する意見を
発表し、中国は米国のミサイル防衛計画のいかんにかかわらず戦略核兵器を増強するだ
ろうと述べた。

キッシンジャー氏は5日のワシントン・ポスト紙への長文の寄稿で「米国のどの大統領も核
とミサイルの技術が拡散し、米国への攻撃の公然たる能力の向上が存在する今の世界に
おいては、ミサイル防衛の技術が利用できるのに米国民をその種の攻撃に対して無力の
ままにしておくことはできない」と述べ、ブッシュ政権のミサイル防衛への支持を表明した。

キッシンジャー氏は、西欧諸国の難色については、「欧州の指導者たちはミサイル防衛が充分には機能しないと述べる一方で、機能しすぎて今の戦略バランスを崩すと述べるとい
う矛盾」を冒していると批判している。

ブッシュ政権が西欧などの意向にかかわらず、ミサイル防衛を進める決意であるとし、日本
を含めての同盟諸国の指導者にとっては「真の選択は、もはや米国だけを防衛するシステ
ムか、同盟国の防衛をも含むシステムかで、そのどちらかをとる以外にないだろう」、と述
べている。

ミサイル防衛が軍拡競争を招くという議論について、キッシンジャー氏は、ロシアは米国が
いかなるミサイル防衛を構築しても、それを破るだけの核ミサイルを保有しているため、新
たな軍拡は必要がないと述べるとともに、米国のミサイル防衛が最大の影響を受けるのは
中国だとしている。

中国について、「中国の戦略核ミサイル計画は米国のミサイル防衛にかかわらず、いずれ
にしても増強されるだろう」との予測を明らかにした。
36古森義久:02/02/02 13:04 ID:tAIjOXlb
■ 米の在中国商議所白書詳報
法令や規制解釈一定せず
政府調達公開ルールなし 賃金補助費の負担大きく 99・12・14
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9912/14/paper/today/internat/14int003.htm

【北京 古森義久】 このほど、「在中国米国商業会議所」が作成した「98〜99年度・中
国の米国ビジネス白書」は中国のマクロ経済を分析し、個別分野別産業の諸問題を指摘し
ているが、最大の比重は「ビジネス上の問題点」という章におかれている。この章の詳しい
内容は次のとおり。

《透明性》  政策形成、法的秩序、金融システムなどの透明性は「経済成長の黄金の原
則」と呼ばれるほど市場の効率化には不可欠だが、中国では外資系企業の活動を規制す
る法令や規則は政府内部だけで提示され、外部では全体の正確な内容がわかりにくい。

多数の重要な政策決定も通告も内部だけで表示される。法令や規則の解釈も政府内部で
下され、機関は責任者により解釈内容が異なることも多い。米国系企業は法律が恣意的に
解釈され、適用される局面にぶつかることが多い。

《範囲の制限》  米国系企業は中国で合弁の相手の規模や要件、資産額、輸出入や外為
バランス、地理的制限などという点で活動範囲への深刻な制限を受けている。中国市場で
の全面営業禁止という業種もある。この種の障害はとくにサービスと流通の両部門で激し
い。サービス部門は全面的な自由化を必要とする。中国、外資系いずれもの企業が金融、
法務、ビジネス・コンサルタントなどのサービス領域で厳しい規制を受け、市場の効率を悪
くしている。

外資系企業は自社製品、他社製品両方の市場流通に関しきびしい制限を受けている。流
通部門全体が中国企業のみのために温存されているとさえいえる。だが、中国の流通イン
フラは未発達で、個々の流通業者はきわめて限定された商品や地域だけの業務にかかわ
り、製造業者や消費者にとっての流通コストを不必要に高くしている。流通自由化は企業、消費者、労働者すべての利益に寄与するものであるから、改善すべきである。

具体例としては、1)外資系製造企業の販売部門は自社製品に密接に関係する製品でも他
社製は一切、売ってはならない、2)個々の外資系企業は単独の販売ルートを使わねばな
らず、無駄が多い、3)外資系の製造企業と輸入企業のそれぞれの顧客への関係も大幅に
規制され、輸入企業は消費者への直接の販売を禁止され、独自のトラックや倉庫の保有も
禁じられている。これら企業は中国政府が認めた外国貿易公団のような仲介者を使って販
売しなければならない。−などである。

《政府調達》  中国には公共事業の調達に関する全国レベルの法律がない。政府は調達
に関する外部からの質問はすべて対外貿易経済協力省のアジア太平洋経済協力問題部
に回している。だが現実には調達に関する苦情は散発的かつ不統一に他の諸機関で処理
され、公開ルールがない。
37古森義久:02/02/02 13:05 ID:tAIjOXlb
米国系企業の報告では中国政府を財源とする調達が市場原理で動くことは希であり、国内
企業の優先が普通である。政府の汚職追放のかけ声は政府調達契約に関しても汚職が多
いことを物語る。縁故も契約の決定の大きな要因となる。

この非市場原理の横行はプロジェクトの質、安全、コストに悪影響を与え、外国からの投資
を抑制している。資本集約型のインフラやハイテクの分野でとくにその傾向が強い。米国商
務省は中国の政府調達の慣行が変われば、米国の対中輸出が年間五億ドルは増すと算
定している。

《知的所有権》  中国政府が特許、商標、著作権などの知的所有権保護のため多数の法
律や規則をつくってきたことは認めるが、それらに基づく規制が地方レベルでは履行され
ず、侵害が頻繁である。侵害行為への処罰は非常に軽い。新技術が登場するたびに新規
制が必要となる。中国はとくにインターネット関連の知的所有権問題に関する二国間、多
国間の協議に加わる必要がある。

《技術移転》  現在の中国の技術移転関連の法律は、技術の所有者が技術の用途を規
定することを不当に禁じている。技術使用者が契約期限後も使用を続けることを技術所有
者は規制できない。外国の技術提供者は中国側の使用者に技術パフォーマンスの保証を
理不尽なほど広範に与えねばならない。

対外貿易経済協力省が97年3月に発布した新規則を見ても、技術移転の契約が、協力省
から「認可」を受けなければならないのか、単に「届け出」でよいのか不明のままだ。この新
規則と1980年代から存在する既存の規則の食い違いは深刻な問題であるし、外国企業
はすべて技術移転の関連書類を中国政府に提出せねばならないのも手間となる。

知的所有権を伴う技術移転は外国企業にとって重大な利害がからみ、中国の実情を考え
ると、そもそも中国に技術移転をすることの是非が問われる。中国内部に活動企業体を持
たない外国企業が中国側に技術移転をした際にかかる5%の営業税も技術移転のコストを
不当に高くする慣行だ。

《労働問題》  外国企業はみな中国での労働経費が当初の予測よりずっと高いことにす
ぐ気づく。外資系企業は中国人従業員に正規の賃金とほぼ同額のボーナスやその他の補
助費を払わねばならないからだ。外国企業の駐在事務所は中国政府機関を通じてしか中
国人従業員を雇えない。外資企業の多くがこの労働経費の隠されたコストのために中国進
出を再考している。ただし、中国の雇用全体が過渡期にあることは米国系企業も認識して
いる。具体的な問題点は以下の通りである。

(1)社会保障=外資企業が中国人従業員に年金や社会福祉を提供する義務は単一の文
書ではなく、中央、地方の多数の文書に散る形で記されている。統一規則がなく、地方の
労働管理当局が自由裁量で決められる領域が広い。

(2)住宅=新制度では外資系企業も従業員の住宅基金をつくり、地方当局の指示どおりに
従業員と共同でそこに資金を振り込むことになっている。だが、その基金の運営や使用の
方法は地方により一致していない。
38古森義久:02/02/02 13:06 ID:tAIjOXlb

(3)医療保険=最近の全国的な医療保険改革で制度が流動的となった。ある地方当局は
全国的な制度を勝手に修正しようとしている。保険の掛け金や支払いの方法も地方ごとに
大きく異なり、外資企業の対応を難しくしている。

(4)賃金所得=最近の規制では賃金決定の企業の自主性は大幅に制限され、地方当局の
権限が強い。当局の対応は外資系企業と中国の国有企業とでは明らかに異なる。

(5)駐在事務所=外国企業の中国駐在事務所は中国人従業員を中国政府機関の雇用組
織を仲介してしか雇えない。この方式は雇用コストを上げ、従業員の企業への忠誠心を減
らす。

《課税》  米国系企業は中国の混乱した税法や食い違いの多い政策決定、徴税に悩まさ
れている。税金システムの不透明性や政策の非合理性はビジネスを阻害する。中国の付
加価値税(増値税)は一七%と不当に高く、米系企業の活動コストを上げている。加工され
て輸出された輸入原料には増値税が還付されるが、その制度も欠陥が多く、国際基準から
かけ離れている。

米国系企業の在中駐在事務所は不当に高い所得税を課されている。中国当局は米国の駐
在事務所の利益への課税には原価加算の徴税方式をとるため、過剰な高税率となる。こ
の方式では異常に高い中国の外国人用の家賃までが利益算定の基盤に含まれるので、課
税対象となる利益は実際の営業による利益より高く設定される。

中国の国税局は国際慣行に従い、中国で活動する外国銀行のうち、予備作業や連絡事務
のみに従事する銀行は所得税の課税対象とはしないと決めているが、地方によっては課
税されている。中国の税関当局は国内企業による輸入では関税や増値税をしばしば免除
する。だが、同じ輸入品でも合弁企業を含む外資系企業には関税、増値税をかけて、差別
をしている。 中国では全体に関税や通関経費が高く、汚職や密輸の土壌となっている。

《トラブル処理》  最近まで外資系企業はみな中国側から不当な扱いを受けても正面から
の抗議や法的措置をとることは避けるのが賢明だとされてきた。中国側を刺激し、報復さ
れることを恐れたためだといえる。だが、ここ二、三年、その態度は変わってきた。この点で
中国政府が外国企業と中国の諸組織の間のトラブル処理機関として新設した国際経済貿
易裁定委員会の役割は大きい。裁定委員会は中国の裁判所よりも堅実で、政治的な影響
を受けることも少なく、外国の専門家の証言を認めている。だが、それでも外資系企業はト
ラブルの解決を一般の裁判所に頼らねばならない場合も多い。米国系企業の多くは中国
の裁判所が個人のコネに影響される実例を報告している。裁判所はまた政治的にも独立
性には疑問がある。

中国の裁判所は外国籍の弁護士の出廷を禁じている。また判決を出しても、その履行を徹
底させないケースが多い。司法全体がこれらの欠陥を直し、公正と独立を保たない限り、
米国系企業にとってトラブルの正当な処理は望めない。

39卵の名無しさん:02/02/03 21:32 ID:xS5yU4tc
荒らしの基地外にage
40古森義久:02/02/03 22:11 ID:jCMIWSkO


■ 香港返還 深まる政治への憂慮
中国の香港化 トロイの木馬論に疑問 97・07・02
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9707/html/0702side30.html

【香港1日=古森義久】 中国返還第1日を迎えた香港では1日、各種の慶祝行事が華麗
に展開されたが、その陰でだれもが考えるのは、一国二制度という前例のない枠組みにお
かれた香港が今後どこへいくか、という疑問だろう。

「香港はトロイの木馬になれるのか」−悲観から楽観まで多様な答えのなかで最も楽観的
といえる予測が、「トロイの木馬」論のようなのだ。

香港の資本主義、民主主義の自由な経済・政治システムが社会主義、共産主義のかたく
なな統制の中国内部に入りこめば、やがてはその統制を内から崩していく。トロイの城内に
入れられた木馬に潜む兵士たちが躍り出て、難攻不落にみえた城を内部から攻略する、と
いうたとえである。返還直前の香港での会議で演説したシンガポールのリー・クアンユー上
級相もそんな「トロイの木馬」論を語った。

中国の香港化とも呼ばれる遠大な見通しで、「一国二制度の期限が過ぎる50年後には中
国本土の体制が今の香港のそれに近づいているだろう。香港の自由経済のダイナミズム
が中国全体の変革への触媒となるからだ」とも言われている。

祝賀ムードのなかでも将来の展望の予測となると一様に複雑な表情をみせる香港の識者
たちも当面、希望をこの見通しに託すという向きが多い。

だがその一方、北京政府側では人民日報が30日付社説で「香港の主権回復は中国共産
党の指導があってこそ初めて可能となった」と論じ、「現代中国マルクス主義」の正当性を
強調した。同社説は「中国の特徴を持つ社会主義」の効用をも力説して、市場経済や生産
手段私有の許容を暗に説いたが、一党独裁と個人の抑圧が基盤となる共産主義政党のイ
デオロギー面での誇り高き非妥協の姿勢を明らかにした。

中国の江沢民国家主席は一日の演説で香港の資本主義システム保持を改めて公約し、香
港住民の懸念の軽減に努めた。だが同じ演説で「香港の従来の社会・経済システムや生
活スタイルを保つ」とも述べた。この点、董建華(とう・けんか)行政長官が演説で「香港の従
来の社会、経済、政治のシステム」と述べたのは含蓄に富む。江主席の言には「政治」の
部分ェ欠けているからだ。


41古森義久:02/02/03 22:11 ID:jCMIWSkO
香港の識者たちが将来を語るときに陰りをみせるのも、まさにこの点、香港の政治システ
ムは北京寄りへと変質して行くという見通しへの憂慮のためだろう。「トロイの木馬」論にも
う一つ、説得力が欠けるのも、人民日報の社説が強調するような共産党の政治面での専
制志向のゆえである。政治の自由を伴わない経済の自由が中国本土への強烈な触媒とな
るほどの威力を発揮できるのか。そもそも政治面へのなだれこみを伴いうる経済面のそん
な触媒作用を共産党政権が許すのか。

祝賀行事に顔を出す香港市民たちが植民地統治の終わりへの民族の誇りを口にしながら
も、どこか冷めた表情をちらりとみせるのは、そんな疑問と無縁ではないだろう。返還前後
の五連休で香港からは合計24万人が海外旅行で出かけてしまったという。祝賀式典をみ
るより海外旅行を、という人が住民全体のうち25人に1人を占めたわけだ。

市民たちがこうした屈折する反応をみせる香港は重苦しい雨空の下、返還後の第一夜を迎
えた。だがその夜空も午後9時から香港史上最大とされる豪華な花火に美しく彩られ、当
面の暗い材料を吹き飛ばすように祝賀の空気を改めて盛り上げていた。


42古森義久:02/02/04 08:56 ID:GGXHX1gv

香港映画に“暗い影”
返還近づき活力に衰え
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9706/0625.html

アクション、ミステリー、恋、セックスから政治抗議、社会風刺まで多彩な内容で全世界を
魅了した香港映画は香港の中国への返還後、どこへいくのか−中国側は香港への「一国
二制度」の公約の下、正面からはなんの抑圧の姿勢もみせてはいないが、香港映画界の
側が早くから自粛の形で後退の構えをとり、有名なスターや監督ェハリウッドへの転進を図
るなど、すでにひとつの時代の「End」マークを、おぼろげながら浮かびあがらせているよ
うだ。 (香港 古森義久)

中国の規制恐れ、米へ転進
著名監督や有名スター
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9706/html/0625side52.html

ブルース・リーやジャッキー・チェンのアクションものをはじめ、香港映画は1970年代から
全アジアで超人気を呼び、八〇年代となると、気軽な娯楽作品として欧米でまで楽しまれる
ようになった。香港はこの時期、人口500万程度だったのに、製作映画本数では米国、イ
ンドにつぐ世界第3位を記録してきた。

各国の映画市場では米国のハリウッド製が圧倒的な魅力を発揮して、市場シェアのトップ
を占めているが、香港では全世界でも珍しく、地元製フィルムが常にシェアのほとんどを独
占してきた。92年には香港で上映された全映画の80%が香港製で、毎月十数本の香港
映画の新作が封切られていた。

内容は自由奔放で、アクションあり、セックスあり、恋あり、歌ありと、活力いっぱいの娯楽
性にあふれるうえに、中国の文革や天安門事件を批判する政治性、社会性の強い作品が
ときおり登場するのも特色だった。

だが返還が近づくにつれその香港映画の活力が衰えてきた。92年には香港域内だけでの
香港映画の売り上げが総額1億6千万ドルだったのが、96年には8500万ドルに減り、全
上映作品のうち香港製が占める比率も54%へと落ちてしまった。その原因としては返還後
は中国共産党による従来の芸術への規制が香港にも有形無形で波及してくるだろうという
懸念から、香港映画界に自由なうちにできるだけ多くの映画を作っておこうという傾向が広
がり、粗製乱造の結果となってしまったことがまずあげられる。

さらに、より大きな原因では返還後の規制を恐れた有名スターや著名監督が米国などへの
転進を図ったことも大きいという。たとえば「大陸英雄伝」などという作品で大人気を呼んだ
男優の周潤發は95年6月に米国に移住し、ハリウッドでのデビューに努め出した。監督で
も香港映画の主要推進役となってきた徐克、呉宇森、林嶺東という高名な人たちがあいつ
いで仕事の重点を米国に移した。
43古森義久:02/02/04 08:56 ID:GGXHX1gv

この三監督、いずれもハリウッドでのデビュー作をすでに製作し、それなりの声価をあげて
いる。 これら渡米組は、米国のマスコミのインタビューには、なお香港で活動したい、返還
後は中国本土でも撮影したい、などと語り、中国政府の検閲や規制への心配は口にしない
が、マベル・チュンという香港の女性監督が蒋介石夫人の宋美齢女史の一生を描いた「宋
姉妹」という映画を中国本土で撮影したところ、中国当局から厳重な事前のチェックを受け
たことが香港映画界に深刻に受けとめられた。

こんな状況のところに6月中旬、中国政府の映画管理部門の高官が香港の映画製造者た
ちと会談した。その会談の場で、中国高官は中国政府が香港映画界に干渉する意図は全
くなく、香港側はこれまでどおりに自由に映画を製作してよい、と言明した。

ただし、高官は香港の返還後に「すべての香港映画は中国映画の一部とみなされるように
なる」とつけ加えた。

この言明は香港映画が返還後は中国映画となり、もはや香港映画という独自の呼称さえで
きなくなる可能性を示唆し、香港映画界を緊張させた。中国映画とみなされれば、検閲の
対象にもなりかねない、というわけだ。

タイム誌香港返還特集号が中国との合作映画の製作を勧められた香港のある監督の話と
して報じたところによると、中国政府の映画規制は「不当な政治的内容」「中国軍に対する
考察」「露骨なセックスと暴力」を禁じているという。万が一にもこれら規制が香港映画にも
あてはめられると、ほとんどの作品が上映されなくなってしまう。

とはいえ絶えない創意と活力とで全世界を魅了してきた香港映画界である。苦境でもまた
不死鳥のように新たな方向へ、新たな方法でまた羽ばたいていくかもしれないが、今のとこ
ろその将来は暗い影におおわれているといえる。




44卵の名無しさん:02/02/04 18:46 ID:bmfY0IQo
ここに荒しありage
45卵の名無しさん:02/02/04 23:02 ID:AIjjIzrR
アラシがいるかぎり俺もage
46古森義久:02/02/04 23:03 ID:d1Iw1Bii
いつまでもつき合うZO!、age
47古森義久:02/02/05 07:34 ID:0J2D675P

■「日本の対中ODAは失敗」米国人学者が論文
“アメばかり”外交、目的達せず/摩擦激化と予測
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0106/20/paper/today/internat/20int003.htm

【ワシントン19日=古森義久】 巨額の政府開発援助(ODA)供与を支柱と
する日本の対中国外交はこれまで二十年余、所期の目的を達せず失敗に
終わった−とする米国人学者の論文が米国政府系研究所の報告書でこの
ほど発表された。同論文はこんごの日中関係については摩擦が続き、悪化
の方向に進むと予測している。

この論文は「中日関係=日本からの視点と米国の政策への意味」と題され、
米国政府所管の国際問題研究所の「ウッドロー・ウィルソン・センター」がこ
のほど公表した報告書「中日関係=古い敵意と新しい可能性」の巻頭論文
とされた。筆者は日本の対外関係や東アジアの国際関係を専門とする米国
パモナ大学のデービッド・アラセ教授。

同教授は論文で日中関係について日本は一九七〇年代末以来、一貫して
中国への巨額のODA供与を対中政策の支柱とし、援助の主要目的を
(1)中国の経済発展
(2)中国の権力中枢での改革主義指導者の存続
(3)日本の対中ビジネスへの寄与
(4)中国側による過去の日本の行動への非難の終結
(5)中国の軍事行動抑制へのテコ
(6)信頼と善意の協力的関係の樹立
などにおいてきた、と述べている。

しかし同論文はその結果について最近の中国では
(1)社会主義からナショナリズムへの移行
(2)軍事近代化と軍事予算の急増
(3)軍事ドクトリンでの好戦的な傾向
(4)より積極的なミサイル開発と海洋活動
(5)国内での反日志向の激化
(6)日本の国連安保理常任理事国入りへの反対
(7)中国自身による他の開発途上国への援助の増加
などという現象が明確だとして、「これら現象は日本にODA中心の対中政
策が不成功に終わったという認識を与えた」と断言している。

同論文はとくに日本国民一般の間にこれまで総額三兆円にのぼるODAを
中国に供与しながら、感謝もされず、その効果がきわめて疑わしいという不
満が高いことを指摘している。 同論文はさらに「ODAという手段一つだけに
過剰に依存することが非現実的なことが明白となった」と述べるとともに、日
本の対中政策にはそもそもアメとムチのうちODA供与などアメばかりで、ム
チがないことが欠点であり、この部分は近く修正されるだろう、と論じている。

同論文はまたこんごの日中関係について「経済面での協力は続いても、日米
ミサイル防衛、日本の対中ODAの削減問題、WTO(世界貿易機関)への中国
加盟問題などで日中の従来の摩擦は続き、それが激しくなる予測も高い」とし
て、暗い展望を描いている。
48警告:02/02/06 00:53 ID:a623BYcM
sine
49衛藤征司郎:02/02/06 03:33 ID:lTWOOdfv

衛藤征司郎の主張:WTO加盟と日中復交30周年
世界の工場中国にODAは要らない
http://www.seishou.net/syuchou/200111_2/syuchou.htm

日本の経済援助を受けながら
中国からアジア・アフリカ33カ国へ4億ドル

昨年(2000年)、中国がアジア、アフリカなどの友好国に行った対外援助の総額が4億ドル
(432億円=1ドル107.8円で計算)強に達していたことが10月下旬に明らかになった。ちなみ
に日本からの対中ODAのうち無償援助は、99年実績で6,600万ドル。なんと中国の対外援
助は、日本の対中援助のうち無償分の6倍強に達することになる。

日本の援助を受けている中国が、自国の国家戦略的な観点から友好国を積極的に援助し
ているという“矛盾”が明らかになった。

外務省の調査結果によると、昨年、中国が実施した総額4億ドルの援助の内訳は、地域的
に最も多いのかアジア(約2億5千万ドル)で、ベトナム、パキスタン、ミャンマーなど
12カ国である。これに次ぐのがアフリカ(約1億4千万ドル)であり、カメルーン、ギニア、ジンバブ
エ、トーゴなど23カ国で、アジア・アフリカで全体の9割以上を占めている。

外交上の切り札であるODAだが、経済・財政事情が厳しい現状では“聖域”でなくなった。

私は20%はカットすべきだと考える。小さい国は影響が大きいので、大国への援助から削るべ
きだ。特に中国への援助額は突出しているのに、全く感謝されていない。しかも親日的
ではない、むしろ反日的でさえある。

先日、前北京特派員(現ワシントン)の産経新聞・古森義久記者の驚くべきレポートが同紙
に掲載されていた。次のような内容だ。

「碑文が示す日中友好の絶望」 産経新聞より

「JAP(ジャップ)」「JAPS」――日本人に対する侮蔑(ぶべつ)の英語の呼称が、きらきら
と輝く金属板に、これでもか、これでもかと刻まれているのに、思わず身が固くなった。(記
者が)十ヵ月ぶりに再訪した北京郊外・盧構橋(ろこうきょう)の抗日戦争記念彫塑公演の
光景だった。

盧構橋はいうまでもなく1937年(昭和12年)7月7日、日中両軍の全面戦争へと広がる最初
の衝突が起きた歴史の舞台である。公園には、無数の中国人男女と日本軍将兵の姿を刻
んだブロンズの塑像38基がずらりと並ぶ。高さ4メートル以上、直径2メートルの青銅の像
は一つずつ「南京大虐殺」「魔窟731部隊」「労働者の虐殺」「血肉の長城」などと名づけら
れ、中国の老若男女が日本軍に刺され、撃たれ、焼かれる姿が刻まれている。
50衛藤征司郎:02/02/06 03:35 ID:lTWOOdfv
私(古森記者)は前回、北京を去る直前にこの公園を見学し、日本の「侵略」と「残虐」という
モチーフが青銅に永久保存の形で描かれているのを見て、日中関係の将来への一種の絶
望を覚えたものだった。日本側が友好を唱え、謝罪を続け、援助をささげるなかでなお、こう
した大施設を新設し、日本への憎しみや怒りを生々しいままに保とうとする中国側の“刺す
ような構え”をいやでも実感した。

昨年末には、個々のブロンズ像は基部のくすんだ金属板に中国語で「南京大虐殺――日本
軍は南京を侵略して占領し、空前絶後の大虐殺をなし、三十数万人のわが同胞を殺した」
などと記していた。それが今は各像の基部の後ろ側にもう一つ、真新しい黄金色の板が付
けられ、同趣旨の説明が英語と日本語で記されていた。その英文の記述では、日本側はす
べて「JAP」の蔑称であった。

永久に日本を憎みつづけるのか中国

これを見た日本人としては、中国当局が21世紀に掲げた碑文にも、あえて日本と日本人を
「ジャップ」と罵(ののし)る意図をはっきり感じさせられる。同じ戦争の相手でも、米国では
みられない現象である。戦争中は米国も日本をジャップと呼んでいた。だが、今ではたとえ
過去の戦争の記述であってもそんな言葉はすべて消え、日本軍の侵略や残虐を伝える際
でも、表記はみなジャパニーズである。英国や豪州も同様だろう。

だが、中国だけは公式な碑文での非中国人向けの国際語ともいえる英語で今も「ジャップ」
なのである。戦後半世紀を過ぎ、21世紀になっても「日本は侵略や残虐の加害者として許
しはしない」という決意の表明なのか。少なくとも日本との真の和解・友好を願うような気配
は露ほどもうかがえない。英語に堪能(たんのう)な小泉純一郎首相が10月8日にはすぐ近
くの抗日戦争記念館を訪れたのだから、この公園の英語の記述もぜひ見てほしかった、と
痛感した。 (11月5日産経新聞)


中国側が歴史問題を持ち出す度に、政府が取ってきた対応は、中国の「怒り」を最小限に
する糊塗策をさぐることだった。中国側にとって、歴史問題は強力な「対日カード」になって
いるのだ。

社会主義国などの全体主義国家では、常に“仮想敵国”が必要なのだ。だから、なかば永
久的に「対日憎悪政策」を続けようとするのだろう。

来年は日中国交正常化30周年である。その時を前に、日本を罵るようなモニュメントを造
り、歴史問題で異議を申し立て、内政干渉をしてくる意図はどこにあるのか。自らは南京事
件など虚実とりまぜた記述で日本をなじり、教科書にどんな表現をしても、日本政府は抗議
ひとつしたことはない。これは韓国も同じだ。

こうした背景には、中国の国内事情のほかに、日本文化への無理解も絡んでいる。中国は
WTOにも加盟したし、友好国への経済援助をしている国である。日本は国交回復30周年
を機に政経ともに対等な外交のあり方を考える時にきているのではないだろうか。
51卵の名無しさん:02/02/06 06:23 ID:k4bzEDHz
>>46
あなたは大人しくしてればいいの
52古森義久:02/02/06 08:08 ID:eli/W0LF

■ ネット普及 悩める中国
経済効果大 反体制派の利用懸念
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9901/12/paper/today/itimen/12iti003.htm

【北京11日=古森義久】 中国ではインターネット対策が当局にとっての重要な
難題として浮上してきた。インターネットは経済改革を進めるための情報普及に
は貴重きわまる道具だが、その一方、政治改革を目指す民主活動家たちにとって
は絶好の宣伝手段となる。このため当局ではその管理方法に苦慮を重ねている
ようである。

中国では1995年ごろからインターネットが正式に導入され、国内では中国科学院
その他の政府系機関が独自のサービスを開始した。全国で現在インターネットに接
続されたパソコンは総計54万台、インターネットのユーザーは計117万人とされて
いる。

しかし国際的なインターネット網の中国での機能は原則としてみな政府機関の中国
電信を経由し、アクセス・ラインを賃借することになっている。プロバイダーたちは高
額の料金を当局に払う上、当局側によりインターネットの機能内容を監視や管理さ
れることになる。実際の管理には公安省に特設されたコンピューター安全監視部が
あたる。安全監視部の任務はコンピューターやインターネットにからむ犯罪の取り締
まりとされる。

実際に最近は上海の証券取引企業がハッカーにインサイダー情報を盗まれたという
ような犯罪が増してきた。だが当局が最も懸念しているのは共産党支配に挑戦する民
主活動家や反体制活動家がインターネットを利用するという事態であることは明白だ
とされる。

98年3月には上海で民主活動家の林海氏が中国内のインターネットのユーザー約3万
人の電子メール・アドレスを民主化団体に提供したことを「反中国情報を配布して秩序を
乱した」とされ、起訴された。

林氏の場合、主として米国にある民主・人権団体にアドレスを提供し、その結果、中国政
府や軍の要人をも含めて約3万人のインターネットのユーザーに「中国共産党の独裁と弾
圧に抗議を」という種類の「情報」が送られ、政権側の人たちから激しい苦情が述べられる
ようになったという。

中国政府はインターネットの経済効用を宣伝し、普及を奨励する一方、共産党一党支配を
揺さぶる政治的手段に使われることを極端に警戒し、全面自由化をしないまま、その監視
や管理をなお続けねばならないというジレンマに直面する形となった。
53警告:02/02/06 21:08 ID:a623BYcM
荒らしは犯罪です
54卵の名無しさん:02/02/06 22:18 ID:esn48p0d
計算できないにゃ〜
55古森義久:02/02/07 07:00 ID:WFoXaJLh

■ 中国軍艦艇、意図的な軍事力示威
日本の排他的経済水域内 西側消息筋が見解
http://www01.sankei.co.jp/databox/paper/9906/02/paper/today/internat/02int001.htm

【北京1日=古森義久】 尖閣諸島近くの日本の排他的経済水域に5月中旬、中国海軍の
艦艇10数隻が出動してきたことは、中国側の北大西洋条約機構(NATO)軍によるユーゴ
スラビア連邦中国大使館誤爆事件に伴う米国非難や、新たな「日米防衛協力のための指
針」(ガイドライン)批判に基づく意図的な軍事力の示威だ、とする見解が1日、明らかにされ
た。中国側ではガイドラインで強化される日米同盟がアジアでの「小NATO」へと発展しか
ねないとする議論が急速に浮上してきた。

尖閣諸島近くへの中国海軍艦艇10数隻の異例の出動について中国の軍事動向を追って
いる西側消息筋はこの動きの意味は大きいとして、(1)これまでの東シナ海での石油や天
然ガス探査は1隻か2隻の調査船に軍艦の護衛がついたことはなく、今回の海軍艦艇(主
として小型高速護衛艦)10数隻の出動は異例で、とくにその規模に注目すべきだ、(2)実際
の艦艇群の出動の必要性や時期からみると、中国側は、最近の米国などNATO軍による
ユーゴの中国大使館誤爆や日本でのガイドライン関連法案の可決に対する抗議の表明と
して艦隊派遣に踏み切ったとみられる、(3)中国軍部は、ことにガイドラインを日米同盟の
強化とし、アジアでの小NATO的な軍事同盟に広がりうる動きとみて、その動きに反対す
る軍事力の示威が必要だと判断した−という見解を明らかにした。

消息筋は中国軍部としてはガイドライン関連法案成立に対し反対の意思を実際の行動でな
にも示さなければ、日米同盟強化の一層の進展をさらに容易にすると考えた、と説明して
いる。尖閣近海への中国艦艇出動については、香港のサウスチャイナ・モーニング・ポスト
紙も北京発で5月下旬、「中国人民解放軍最高部は米国と日本への抗議の軍事力誇示の
ために東シナ海の調査にあえて海軍艦艇群の出動を決めた」と報じた。

北京の日米関係筋も同艦艇出動が日本への政治的な意味をこめた軍事力示威行動だと
語る人たちが中国当局者の間に存在する、と述べている。中国側ではこのほんの数日間
で日米同盟をNATOと関連づけて批判する論調が急に浮上し始めた

31日付の官営英字紙のチャイナ・デーリーは「NATO戦略は世界を管理す髢・」」という題
の長文の論文を載せたが、そのなかで米国は中国の西ではNATOで、東では日米同盟
で、その支配圏を拡大する野望を進めていると警告した。
56卵の名無しさん:02/02/07 22:06 ID:jjQQONWk
鶴さん、お元気でっかぁ〜げちゅ
57卵の名無しさん:02/02/08 02:14 ID:YSX6Jb+l
■医療費3割負担 首相、来年4月で強行突破へ

 小泉純一郎首相は七日、サラリーマンの医療費自己負担を三割に引き上げる実施時期に
ついて「十五年四月」は一歩も譲らず、医療制度の抜本改革を断行する考えを改めて表明
した。首相は厚生労働省幹部に対し「調整がつかない場合は(与党の事前審査抜きで)法案
を(官邸に)持ってくるように」と、異例の指示をした。厚生関係議員が「国民負担増反対」
を大義名分に抵抗する背景には「三方一両損」の医療制度改革の一角を崩すことで改革全
体を先送りしようとの思惑があるとみられるが、首相はあくまで中央突破の構えだ。
 「三方一両損と言ってきたが、厚生労働省が抜本改革を嫌っており、(今は)四方一両損
だ。三割負担と抜本的改革は同時にやる。厚労省も天下りばかり考えないで、痛みを分か
ちあってもらいたい」 小泉首相は七日、首相官邸で記者団に対し、厚労省の姿勢を強く
批判した。

 十五年四月までに医療制度の抜本改革を行ったうえで国民負担の三割引き上げも行うと
いうのが小泉首相の方針。しかし、自民党厚生関係議員らは国民負担増を前面に押し出す
ことで「改革をせずに国民に負担増を強いる小泉改革」との構図を作り上げて抵抗してお
り、首相の発言はこれに対する反論といえる。

 また、事前審査制は昭和三十七年に始まり、以後慣例として定着しているもので、自民
党の政治家が政府に影響力を行使する源泉となっているが、不明朗な政策決定の温床と問
題視されている。首相が今回、事前審査抜きでも法案の提出を求めたのは、自民党の族議
員と全面対決を辞さない覚悟を示し、これを機に首相主導の政策決定を確立する狙いとい
える。

 小泉首相が国民負担増の実施時期について「十五年四月」を譲らないのは、時期を明示
しなければ基本原則である患者、保険加入者、医療機関の「三方一両損」による医療制度
改革全体が、実現できなくなる恐れがあるため。首相には「早急に制度改革をしなければ
医療保険財政は近い将来、破(は)綻(たん)する」(政府関係者)との危機感があり、自己負
担の据え置きは「問題をさらに深刻にする」(政府関係者)と判断しているようだ。
58卵の名無しさん:02/02/08 02:15 ID:YSX6Jb+l
 首相は四日、自ら厚労省の近藤純五郎事務次官に電話し、「ふらふらせずに、しっかり
やってくれ」と三割負担の実施時期を法案に明記するよう強く指示。首相は厚労省幹部が
指示に従わない場合には「担当局長や課長の更迭も仕方がないとの意向」(首相周辺)とさ
れる。

 しかし、坂口力厚労相は「引き上げ時期が明示されていては、改革は進まない」と首相
の方針に疑義を表明。また、七日の自民党厚生労働部会では、出席者からは、首相が中央
突破をした場合は国会で法案を否決すべきだとする意見が相次いだ。

 首相と自民党厚生関係議員との溝は「妥協案はもう尽きた」(厚生労働省幹部)というほ
ど深いが、厚生関係議員らは反対の理由について「診療報酬引き下げや、今年十月からの
高齢者負担増で国民負担全体が減る。医療改革も行えば三割負担は必要ない」(幹部)と表
面上は説明している。しかし、首相サイドは「選挙に大きな影響力をもつ地方医師会の意
向を受けて、改革全体をつぶそうとねらっている」(周辺)との見方だ。

 首相は引き続き党側に理解を求めつつも、厚生関係議員が主張を貫く姿勢を崩していな
いことから、近く自民党側を押し切る場面を迎えることもありそうだ。
59卵の名無しさん:02/02/08 20:02 ID:AdTMOJ3k
age
60卵の名無しさん:02/02/08 22:00 ID:XMbU7ooY
しょうもない荒らしはやめて沢●製薬の内部事情を書いてくれ

61古森義久:02/02/08 23:21 ID:UDxDeVW0
世相を衝くニュースコラム
老醜をさらしつづける竹下登元首相
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8868/colum2.html

3月18日付の産経新聞夕刊は「北京発・古森義久」という特報を大きく掲載した。

これまでの日本の中国に対するODAの総計は三兆円近い額だと言うのに、中国
の新聞は今まで「援助」という表現を使わず、しかも報道することもなかった。が、日
本政府がこの資金を使う地方機関などにアピール文を送ったことから報道され始
めた。しかし人民日報は「合作」だと言う。

この記事は古森記者らしい、しかも産経紙らしい大特報として私は感じ入った。という
のは、日本のODAは日本の政治家たちの“食いモノ”だったからである。例えばその
元凶は利権漁りの竹下登である。もう2,3年前だったか、ODAで北京に大きな青年
宮かナニかを建てたが(竹下が北京を訪問して締結した)、その建設請負は、日本の
竹中工務店だった。竹下のバツイチ娘が、竹中のバツイチ息子に嫁いでいる関係だ。

竹下がバックマージンを取ったことは、容易に想像される。「李下に冠を正さず」に反
して…。 中国は全人代を終えたばかり。数年前からの反腐敗闘争についても、朱首
相が厳しく発言している。つまり、この闘争の成果が出てきて、竹下からのプレゼン
トを受けていた中国側の要人の“担白”があったので、ODAが「合作」から「援助」に
変わったのではないか、と私は推理する。と同時に、日本官僚の日本政治家への“反
乱”が、中国側受益者への直接アピールとなった、と思う。なぜならこのような措置が
遅すぎたからである。

首相経験者が依然として現役議員でいる制度自体がオカシイ。三権の長だった者は、
それこそ“元老院”のような待遇を考えるべき時に来ている。そうでなければ21世紀
には、日本は三等国に堕ちるであろう。
62古森義久:02/02/08 23:24 ID:UDxDeVW0
銀座一丁目新聞
新聞人は信念を貫いて欲しい

産経新聞の北京特派員、古森義久記者の活躍が目につく。古森記者は毎日新聞時
代の後輩だが、ワシントン特派員として数々の特種をものにし、すぐれた企画記事を
書き、その敏腕ぶりをうたわれた。

数年前、毎日から産経に移り、一昨年暮れ、アメリカ人の弁護士の夫人とともにワシ
ントンから北京に移った。友人の話では北京では苦労しているらしいという。毎日、産
経とアメリカ特派員が長かったため、中国外交部の連中から「君はアメリカのスパイ
だろう」と冗談めかしにいわれる。気の強い古森記者は「アメリカのスパイになるなら
日本のスパイになる」と言い返したそうだ。

時事通信の北京特派員だった信太謙三さんはその著「北京特派員」の中で「社会主義
の中国には日本や欧米流の報道の自由がまだしっかりと確立されていない。取材はい
つも危険との隣り合わせだ。この支局も盗聴されている。悪くすると国外追放だ」と書く。

古森記者は伝える。

「20世紀の最大の嘘、南京大虐殺の徹底検証」と題する集会が23日(1月)大阪国際
平和センターで予定通り開かれたことに対して中国の各紙は24日、日本全体を激しく
糾弾する基調の記事を掲載したと報道。中国外務省の報道官の話、中国各紙の内容
などを紹介したあと、「こうした中国側の姿勢は日本の三権分立や司法の独立の権威
をまったく認めないヒステリックな印象が強い」と結んでいる。(1月24日付)

また、「中国人民解放軍がロシアの最新鋭戦闘爆撃機を購入するだけでなくライセンス
生産することになった」と報道。西側軍事筋の話として「中国のスホイ30MKK調達は領
土紛争地帯の周辺海域での総合的な戦力を従来よりも飛躍的にたかめる」という見解
を明らかにしている。(2月1日付)

古森報道は読者の知りたいことにズバリ、ズバリと答えている。中国にはいまだに外国
人特派員の活動をしばる厳しい規定があるという。しかし、真の日中友好のために、古
森記者だけでなく新聞人はその信念を貫いて欲しい。

古森記者について昔話を、念のために書く。1975年4月末、サイゴン陥落寸前、毎日
のサイゴン支局員だった古森記者は一人だけ残った。「陥落の日をふくめて数十日間
まさに獅子奮迅の活躍をした。取材のきわめて困難、かつ危険で、送稿はそれ以上に
難しい状況下で、他社の記者はほとんど記事を送れずにいるのに、古森記者の原稿
だけがは連日トップを飾った」 (1993年5月号「波」徳岡孝夫さんの「古森義久という男」よ
り)古森君は並みの記者ではない。今後を期待したい。
63警告:02/02/11 01:10 ID:ozM3tSkE
あなたのしていることは犯罪です。
あなたのプロバイダに通報します。

悪質なコピペ荒しへの対応について
http://www.2ch.net/accuse2.html
アクセス規制情報
http://teri.2ch.net/sec2ch/index.html
64古森義久:02/02/11 10:34 ID:Z7PU73Pk

「対北朝鮮 政策変更を」
米紙主張、強硬な対処必要

【ワシントン29日=古森義久】 米国政府は北朝鮮の張承吉駐エジプト大使らの
亡命を機に従来の対北朝鮮政策を見直すべきだとする主張が29日、米国各新聞
の社説により表明された。とくにワシントン・ポストは米国と韓国が朝鮮半島での強
固な軍事力を保持して、北朝鮮に対してはこれまでより強硬に対処し、食糧援助も
それが北の軍隊に回らないことを確認しない限り、提供すべきではないと主張した。

ワシントン・ポスト、29日付の社説は「北朝鮮の脅迫」と題し、北朝鮮が米国による
張氏らの亡命受け入れを理由に第三回ミサイル協議をボイコットしたことは米国政
府がまったく予期しなかった事態だとして、米側は北朝鮮の政治指導部がどうなって
いるかとか、食糧不足が実際にどれほど広範なのかなど、正確に認識していない点
が多い、と論評した。

社説はさらに北朝鮮が核兵器を秘密裏に製造しないとか弾道ミサイルを危険な紛争
当事国に輸出しないという「本来してはならない不当な行動を抑制することと引き換え
に米側に譲歩を迫る一種の脅迫」の手段を対外交渉に使い、米側も多分にそれに譲
歩してきたが、もうその譲歩には限度がある、と論じた。

社説はこの譲歩の根拠が「北朝鮮をソフトランディング(軟着陸)させること」だったが、
どちらが弱い立場にあるかを認識して、北朝鮮への食糧支援のコメが軍隊の手に渡
らないよう確認できない限りは、その種の支援は提供すべきではない、とも述べている。
最後に、社説は米国と韓国が朝鮮半島に強固な軍事力を保てば北朝鮮を恐れて、譲
歩ばかりする必要はない、と強調している。

ワシントン・タイムズ、29日付社説も「北朝鮮からの亡命者」というタイトルで、今回、亡
命してきた張氏らの供述により北朝鮮の中東への危険なミサイル輸出の実態が明らか
になる見通しが強いとして、そうした展望の下ではこれまでの北朝鮮への寛容な政策は
根本から修正の必要に迫られるだろう、と論じた。社説はまた国務省やホワイトハウス
が北朝鮮の独裁政権との関係を見直す時期がきた、と述べている。
65卵の名無しさん:02/02/11 21:36 ID:d3XpA/7V
同じネタばっかりで飽きた。もっと違うネタで荒らして。
66古森義久:02/02/11 22:02 ID:i0qj9R05
よく読めば飽きない、飽きれば来るな。
67卵の名無しさん:02/02/11 22:22 ID:Yx/mrvhs
こういうくだらん荒らしがいるスレッドは書き込みがなかなかなくならんのだね
加えてこの荒らしのために同じようなスレッドがどんどん出来る
迷惑してるよ
荒らしは沢○関係者ということはまちがいなさそうだな
ただいま調査中 
68bobo:02/02/11 23:01 ID:d3XpA/7V
関係者に決まってるっしょ。
辞めた人かもね。
荒らす内容もたいしたことないしね。
69古森義久:02/02/12 04:12 ID:u99DLxEl

■モンゴル総選挙 野党圧勝
残る旧共産党色 市場経済減速も
国有企業 民営化など一転慎重に

【ウランバートル3日=古森義久】 モンゴルの二日の総選挙で旧共産党の人民
革命党が圧勝したことはモンゴルの市場経済の前進を複雑な形で抑制する見通
しとなった。同党は経済政策では国有企業の民営化に対し旧政権とは対照的な
慎重姿勢を示しているため、民営化を推進力とする市場経済の拡大はペースを
緩めるとみられるからだ。

人民革命党のエンフバヤル党首は三日午後、ウランバートル市内の同党本部で
勝利の記者会見にのぞみ、同党が一党独裁のマルクス・レーニン主義からは完
全に変質し、ドイツの社民党やフランスの社会党と類似の社会民主主義政党で
あると強調した。「共産党の本質は変わらないのでは」とか「言論や信仰の自由
を弾圧しないか」という質問には否定を明言したが、今回の大勝は「社会主義志
向のイデオロギー、理論、そして政策を推進してきた結果」という点を繰り返し、
同党の社会主義を力説した。

とくに経済面では「都市だけでなく地方を重視する」とか「一部の国民だけでなく
全体の経済福祉を考える」「遊牧民と工業部門をなんらかの形で連結させ、均衡
を図る」などと述べ、自由競争よりも所得の再配分を優先させる計画経済志向をも
明らかにした。

この点、これまでの与党側には「人民革命党の経済政策は市場経済をうたいなが
らも細部では人民公社や生産協同組合の復活という共産主義経済へのノスタル
ジーが露骨だ」(ツァーガン元蔵相)という指摘もある。

人民革命党の新政権が現政権と経済政策をさらに大きく異にするのは民営化計
画で、エンフバヤル党首は選挙直前の会見でも「民営化はきわめて慎重に考えた
い」と述べ、モンゴル最大の第四発電所とゴビのカシミア工場を例にあげて、現政
権の民営化計画への反対を表明した。

現政権の民主連合は市場経済の拡大の基盤を国有の企業や資産の民営化にお
き、その推進に全力をあげてきたのに対し、エンフバヤル党首は(1)民営化された
企業の八割はうまく機能していない(2)民営化に関する法律が未整備(3)民営化に
伴う失業への対策が未整備−などという点をあげて、民営化への抑制を明確にし、
ここでも社会主義志向の政策を明示した。

モンゴルのこれまでの民営化プロジェクトには多くの場合、外国の資本や技術の
導入が含まれ、第四発電所も米国の大手企業の参入が伝えられていた。エンフ
バヤル党首は外国からの投資自体には歓迎を表明したが、民営化の抑制は外
国資本導入の抑制につながりかねない。

党首が選挙前の会見で、いまのモンゴルの政党の一部が、外国からの融資で機
能するモンゴル企業によって設立されたのは不当だと述べ、その実例として日本
商社の伊藤忠と丸紅の名を具体的にあげ、「この種の政党とは連立などの協力関
係は決して結ばない」と強調したことは注視される。
70古森義久:02/02/12 04:20 ID:Gb0jBe7K
■【潮流】米国で高まる「大蔵糾弾論」
「通貨危機招いた張本人」
バブル後の制作鋭く批判
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9711/paper/1130/itimen/itimen04.htm

日本の金融危機が深まるにつれ、米国の専門家やマスコミの間で、日本の大蔵省
の政策や思考を糾弾する声が日増しに高まっている。大蔵省の護送船団方式に象
徴される統制管理が日本の金融システムに市場原理に逆行する病巣を広げ、同省
がこれ以上の倒産を出さないという管理政策を続ければ、危機はさらに深刻になる
という警告が叫ばれる一方、そもそも東南アジアの通貨危機を速めたのも日本の大
蔵省の政策ミスだとする批判までがでている。

最も激しい大蔵省糾弾は、元大統領経済諮問委員長で、現ハーバード大学教授の
マーティン・フェルドスタイン氏が発表した、「日本の愚行がアジアを引きずり倒す」と
題する論文だった。

25日付のウォールストリート・ジャーナルに掲載された同論文は日本の政治の弱体
化により大蔵省が金融、経済の政策の全権を実質上、握っていると前置きし、「大蔵
省は日本の経済を損なうだけでなく、アジア全体の経済をも引きずり下ろそうとしてい
る」と断じた。

論文はその理由について、(1)大蔵省は日本の経済成長率が92年以来、年平均1%
にまで落ち、失業が増したのに、その対処に必要な財政面からの景気刺激策としての
減税を実施せず、逆に消費税の引き上げという増税をして、民間消費に水をかけた(大
蔵省は減税忌避の理由に財政赤字をあげるが、日本の民間貯蓄額を考えると、減税
による政府歳入増は巨額となる)、(2)大蔵省はさらに公定歩合を歴史上、最低にまで
下げる措置をとり、その結果、円安を招いて、タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピ
ン、韓国の通貨の価値下落の主要因を作った、(3)日本の銀行は超低金利と国内需要
の縮小のために、海外への融資へと一斉に走り、東南アジア各国のバブル経済過熱を
あおるとともに、海外融資では貸し付け条件を甘くしたため、各国のバブル崩壊の加速
に寄与した(4)大蔵省は事実上、破たんした金融機関の救済を続けたことで、結果として
不正や無法を黙認し、システム全体の腐敗を広げてきた−などと説明している。
71古森義久:02/02/12 04:21 ID:Gb0jBe7K
フェルドスタイン氏は提案として大蔵省が経営の悪化した金融機関の救済をやめ、預金
者、消費者の保護のみに専念する一方、景気回復のために思い切った減税を断行する
ことを訴えた。日本もタイやインドネシアのように国際通貨基金(IMF)の融資を受けるべ
きだという当てこすりも、金融アナリストのリチャード・ジェラム氏らにより表明された。

外貨保有や国内貯蓄の多い日本はいくら金融危機でも外部からの融資を必要としない
が、IMFは融資の条件に債務履行不能の金融機関の閉鎖や金利の引き上げ、情報の
開示、汚職の追放などの条件をつける。日本こそこの条件の実行が不可欠という議論
で、「東南アジア各国がいまIMFからの融資を受けて実行する改革は、日本の大蔵省が
5年前に実行すべきだった」(メリルリンチ社のエコノミストのマイケル・ハーネット氏)という
わけだ。

金融アナリストで作家のロン・チェーナウ氏も、17日付のニューヨーク・タイムズに「日本
の厳しい審判」という論文を発表し、大蔵省批判を展開した。同論文は日本のいまの金
融危機も東南アジアの金融・通貨危機も結局は九〇年代はじめの日本のバブル経済崩
壊にさかのぼるとして、その際に大蔵省が政策を間違えたことが致命的になった、と述
べている。

同論文はとくに大蔵省が不良債権をきちんと処理して、事実上、倒産に直面した企業に
は抵当を売らせ、市場原理に基づく決着をつけるかわりに、「近視眼的なわけのわからぬ
逃げの政策」をとったことが今日の不祥事を招いた、と論じている。

チェーナウ氏は結論として同論文で大蔵省の超低金利策が日本の銀行の東南アジアへ
の貸し付けラッシュを誘発し、日本のバブルの悪影響を広げたとして、大蔵省はいまこそ
市場原理に従い、倒産すべき機関の倒産を許し、金融システムの根本からの改革を進め
るべきだと主張している。(ワシントン 古森義久)
72古森義久:02/02/12 04:31 ID:v52y7krh
■日米保険協議 米特定企業に便宜?
政府間に秘密覚書 米下院委が調査開始
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9811/05/paper/today/business/keizai/05kei001.htm

【ワシントン4日=古森義久】 96年12月に決着した日米保険協議の陰に両国政府間
の秘密覚書が存在し、米国通商代表部(USTR)が特定の米国企業の利益を拡大する
ために変則措置をとった疑いが強まり、議会の有力委員会がUSTRに対し召喚状を出
して異例の調査を開始したことが四日までに明らかになった。この企業はクリントン大統
領の友人の実力者を雇い、USTRに圧力をかけたとされ、日米保険協議が米議会での
正式な調査の対象として注視されることとなった。

米国下院商業委員会のトーマス・ブライリー委員長の発表によると、委員会は、96年の
日米保険協議合意の際に秘密の追加覚書が交わされ、その内容が94年と96年の日米
保険協議の合意に趣旨に反するとして、USTRに対し召喚状を出して関連書類の提出を
求めるとともに、11月中にUSTRの関係者から公式に事情を聴取することを決めたという。

日米保険合意では、(1)日本の生命保険(第一分野)と損害保険(第二分野)の市場の規制
緩和による開放を推進する、(2)その一方、米国の保険会社が寡占するがん保険や医療
保険などの第三分野への日本側の新規参入は第一、第二両分野の開放がすんだあとの
2001年からとする−ことなどが決められた。

しかし、下院商業委員会の要求でUSTRが公表した秘密覚書には、第三分野に進出した
米保険会社、シグナの子会社であるアイ・エヌ・エイの資本を安田火災海上保険が60%取
得するという予定を日米両政府が了解、安田火災がコントロールする「アイ・エヌ・エイひま
わり生命保険」が第三分野でがん・傷害保険を売ることを暗黙に認める、という内容が記さ
れている。
73古森義久:02/02/12 04:32 ID:v52y7krh

同商業委員会の発表では、安田火災はシグナと組み、ここ数カ月間に自社の勧誘員ら1万
人以上をアイ・エヌ・エイひまわり生命保険に送りこみ、第三分野での勧誘活動をスタート。
この結果、第三分野では日本の大手保険会社が子会社を使って参入するという状況が生ま
れ、日本企業が二〇〇一年まで新規参入しないという合意は事実上、破られつつあるという。

委員会筋によると、シグナはこの日本保険市場問題への対処のために、クリントン大統領の
友人、バーノン・ジョーダン弁護士を最近、ロビイストの形で雇っており、同委員会筋は同弁護
士がUSTRに圧力をかけて、シグナの利益擁護のための秘密覚書を作らせた形跡があるとし
ている。

ブライリー委員長らは、この秘密覚書をめぐる一連の動きを「不当」とみなし、バーシェフスキー
USTR代表の責任を追及する方針を固めたという。これに対しUSTRでは覚書の存在は認め
ているが、とくに不正や不当な点はないとしている。

安田火災海上保険広報部の話 「政府間の問題で、この件に関してはコメントできない」

大蔵省国際局の話 「日米両国に秘密覚書が存在するような事実はない。安田火災海上保険
がアイ・エヌ・エイひまわり生命保険の株式を取得するかどうかは民間同士の交渉事で保険協
議で議論する話ではない。これは日本の保険市場における第三分野のシェアが大きい米国の
保険会社同士のシェア争いにUSTRがかかわっていたかどうかが問題であって日本は無関係。
日本は米国側の問題にかかわることなく、96年保険合意に基づき2001年1月1日から第三分
野への参入規制を撤廃する方針だ」

74卵の名無しさん:02/02/12 05:48 ID:yx/kDrlS
>>68
>辞めた人かもね。
>荒らす内容もたいしたことないしね。

きっと在籍中も生産的な仕事ぶりではなかったと思われ
こんな奴を増殖しているんだね、沢○は
75古森義久:02/02/12 07:53 ID:PwaMjjeR

■不法入境の子供たち殺到
香港、緊急課題に なお広東省に7万人

香港住民を親としながらも香港へ違法に入境した子供たちをどう扱うかが、返還
後の香港新行政府の緊急課題となって浮上してきた。これまでの規則で違法滞
在とみなされた人も返還後の香港基本法で「特赦」になるといううわさが広まり、
入境管理局には返還直後の数日、違法滞在の子供を連れた親たちが殺到した。

香港当局は一部、譲歩の措置をとったが、この種の子供が隣接の広東省に7万
人以上もいるとされ、人道的配慮を優先させれば、本土からの大量流入で一国
二制度の大原則の下での香港の自主性が薄まる危険も生じかねず、深刻な難題
となっている。 (香港 古森義久)
76古森義久:02/02/12 07:54 ID:PwaMjjeR

人道配慮なら「一国二制度」浸食 当局ジレンマ

中国に主権が返還された香港では、その初日の一日から入境管理局に親に手を
引かれた子供たちが詰めかけ始めた。この少年少女は1980年代ごろから広東省
に労働に出た香港住民の主として男性が地元の女性と結婚してできた子供たち。

当時から香港人を親とすれば香港への居住権を形式的には認められたが、香港当
局は域内の人口の急増を恐れて、現実にはこのカテゴリーの子供も含めて中国本
土からの合法入境を1日数十人から数百人に限った。

近年は1日150人となっており、その割り当て枠に従えば、広東省で現在、7万人以
上もいるとされるこの種の子供たちは何年も待たされることになる。そこで密入境が
試みられ、さらにそこにカネを取って密航を助けるギャング組織の「蛇頭」が介入する。

返還前の香港当局は広東省側と協力し、密入境を取り締まる一方、香港域内で違法
の入境者や滞在者をみつければ、たとえ香港人の資格ありと認定された男女でも入
境方法が違法だとして強制送還の措置をとってきた。

ところが、1日から発効した返還後の香港の憲法ともいえる「香港特別行政区基本法」
は、香港の永住民の資格の一つを「香港永住民を親として香港以外の地区で生まれ
た中国公民」と規定する。この資格要件は返還前と変わらないが、この規定が「永住
民の資格さえあれば、たとえ違法に入境していても永住を認められる」といううわさを
広げた。その結果、これまで域内各所に長年、隠れていた不法入境の子供たちまで
が出頭してきた。

入境管理局は8日までに出頭してきた合計約1600人に対し「違法はあくまで違法」と
いう建前を崩さないまま、うち約1400人に「審査中の臨時居住許可」を出した。審査で
違法の入境や滞在が確認されれば、あくまで強制送還するという姿勢だが、臨時許可
を出して、滞在継続を認めただけでもこれまでの基準からすれば大きな譲歩となる。

だがこの問題の直接の責任者となる梁愛詩司法局長は7日、出頭してきた人のうち違
法入境の成人や香港人を親としないと判定された子供など100人以上を広東省へ強制
送還したことを明らかにした。

一方、現在の基本法だけでは、この種の強固な措置の法的根拠が不明であり、強制送
還の根拠を明確にするには新立法が必要だとされ、臨時立法会が九日中にも法案を緊
急に審議する動きも確実となってきた。香港特別行政府もこの違法入境の子供たちの問
題をきわめて重視し、陳方安生政務官を責任者とする特別対策班を結成して、正面から
の対応に努めているBしかし現在四千人とされる香港域内での違法入境の子供たちに
対し、みな居住を認めると、広東省に待機する七万人以上をあおって、密入境を激増させ、
香港の既存の社会に重大な変動を起こすことは確実視される。せっかくの一国二制度の
区分も侵食されかねない。だが逆に違法入境をすべて排除すれば、非人道的だとする内
外の非難は避けられず、香港当局のジレンマは深刻なようだ。
77卵の名無しさん:02/02/13 22:57 ID:7Gu7gMha
>>68
辞めた奴ではないと思うね
やはり現役だろう
よほど屈折した奴なんだろうね
78卵の名無しさん:02/02/13 23:13 ID:xp9TfWTD
現役でもウダツのあがらねー奴なんだろね
79卵の名無しさん:02/02/13 23:42 ID:47QS4jRQ
>78
というか 変態でだと思うよ
実生活ではストーカーと違うか?
80名無しさん@引く手あまた:02/02/13 23:53 ID:I3XvBY04
そういうウダツのあがらねー奴が上層部に気に入られて
出世するのが沢井という会社なんだよね。はぁ〜〜〜

81卵の名無しさん:02/02/14 18:20 ID:ghzrfVgP
>>80
どこの会社でも似たようなことはあります。
名門だけではないから安心して下さい。
82古森義久:02/02/14 19:26 ID:t/8LxXJg
■現代グループ援助資金 北朝鮮、軍事転用か
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0102/02/paper/today/itimen/02iti003.htm

【ワシントン1日=古森義久】 韓国の財閥「現代グループ」が北朝鮮に与えた巨額
の資金援助が北朝鮮の軍事能力の向上に直接、寄与したという懸念を米国当局が
抱いていることが明らかになった。このためブッシュ新政権では朝鮮半島政策の見
直しのなかでも北朝鮮への援助のあり方には厳重な注意を払っていく見通しだという。

朝鮮半島情勢を追っている米国政府関係筋はブッシュ政権が今後、北朝鮮の通常戦
力の動向に新たな関心を向けていく展望を背景として、米国当局が一九九八年以来、
韓国の財閥の現代グループにより北朝鮮に対し名勝の金剛山観光開発の許可獲得
などを名目に数回にわたって供与された総計約三億ドルの無償援助資金が北朝鮮側
で軍事目的に回されたとみていることを明らかにした。

同関係筋によると、同資金は用途に制限のない外貨援助で、米国当局としては北朝鮮
側はこの資金で、(1)99年にカザフスタンからミグ21戦闘機40機を購入した、(2)99年
冬と昨年夏の大規模な軍事演習に必要な石油を購入した−という懸念を深めている。
北朝鮮軍は九三年以来、大規模な軍事演習を主として石油不足のために中断していた
が、99年になって急に再開したのは現代グループからの現金での外貨援助の資金が入
り、石油の調達が可能になったためだと米側では観測されているという。

米側ではこの現代グループの資金援助の軍事転用への懸念はクリントン前政権時代から
政府、軍の両方で提起され、昨年十一月には在韓米軍司令部が現代グループ代表と会見
し、この援助に対する抗議の意を伝えたという。 同米国政府関係筋はブッシュ政権が北朝
鮮に対するこの種の軍事転用の可能性のある援助にはクリントン前政権以上に警戒の姿
勢を示す見通しが強いと述べている。

同関係筋によると、米側としては北朝鮮への援助では環境保護、洪水防止、農業施設への
電力提供、医療援助などは問題ないが、無条件の現金での高額資金援助のほか用途制限
なしの一般的な電力供与、輸送路建設など大規模インフラ開発援助は近年、戦闘能力の水
準をいくらかは落としてきた北朝鮮の通常戦力の再増強に寄与し、朝鮮半島の緊張緩和に
逆行する恐れがあるだろう、としている。

しかし同関係筋は最近は韓国政府までが北朝鮮向けにこの種の軍事寄与可能な援助を奨励
する傾向があり、この援助問題はブッシュ政権と韓国政府との間で今後、主要な論議テーマに
なるとの見通しをも述べている。 日本の北朝鮮への大型経済支援の構想も日朝国交回復の交
渉の一環として浮上しており、米国のこの種の懸念は日本にも意味を持つこととなる。

83古森義久:02/02/14 19:31 ID:t/8LxXJg

■米大統領 来月17日に来日
日本国民へ同盟強化訴え

【ワシントン24日=古森義久】 米国のブッシュ大統領は今回の米中枢同時テロにも
かかわらず日本訪問の予定を変えず、10月17日に東京に着き、同テロへの対応を
踏まえての日米同盟の強化を日本国民に訴えたい意向であることが24日までに明ら
かとなった。同大統領はこうした意向を25日のワシントンでの日米首脳会談で小泉
純一郎首相にも伝えるという。

ブッシュ大統領は10月20、21日に上海で開かれるアジア太平洋経済協力会議(AP
EC)の首脳会議への出席にあわせて日本、韓国、中国を訪問することを政権発足に
近いころから決めていた。

同時テロでこのアジア訪問の予定もすべて再考されるに至った。だが、日米関係筋が
24日までに明らかにしたところによると、ブッシュ大統領はなお日本などを訪問する方
針自体は変えておらず、日韓中三国での滞在日数をそれぞれ当初よりやや短縮する
だけだという。

現在の予定では、やはり訪日を今回のアジア訪問の主眼とし、ワシントンからまず10月
17日に東京に着き、翌十八日に日米首脳会談に臨み、小泉首相との共同記者会見で
日本国民に日米両国の安全保障上の協力の重要性を説き、日米同盟強化を訴えたい
意向だとされる。

日米関係筋によると、ブッシュ大統領はウサマ・ビンラーディン一派による同時テロへの
対応への日本の協力をとくに重視するため、訪日でも国際テロへの共同闘争という新しい
指針を踏まえての日米同盟の強化の必要性を強調し、そのために日米安保協力のシン
ボルとなる在日米軍基地、あるいは米軍艦艇、場合によっては自衛隊施設を訪れるという
異例の措置をも検討しているという。
84古森義久:02/02/14 19:33 ID:t/8LxXJg

■共同対処できない日本批判の懸念も
日米安保の片務性浮き彫り

【ワシントン12日=古森義久】 北大西洋条約機構(NATO)の大使級理事会は、米中枢
同時テロを同盟国への武力攻撃とみなして集団的自衛権を行使できることで基本合意し
たが、NATOのこの動きは期せずして日米同盟の片務性を国際テロへの対応という新た
な状況下であらわにするという懸念が米国政府関係筋から表明された。

パウエル長官は「決議自体は第五条の発動を意味しないが、決議が採択されれば、米国
が今回のテロへの対応で(軍事反撃の)判断を下した場合に、自動的に第五条発動への道
を開くことになる」と述べ、米国としてはこの決議に感謝すると語った。

こうした動きは軍事同盟であるNATOが集団防衛の手段として国際テロに対しても共同対
処する構えを明示しているが、一方、日米同盟では日本領土自体への軍事攻撃だけが共
同防衛発動の条件となっており、米国が今回のテロに対し宣戦布告のような措置をとっても
日米安保条約では日本には協力義務はない。

こうした点について日米安保関係に詳しい米国政府関係筋は「米国政府は今回のテロを明
らかに戦争行為とみなし、その対応策には同盟諸国の全面的な協力を期待しているが、西
欧の同盟諸国が米国との集団防衛の原則に沿って協力することを期待できるのに対し、日
本は集団的自衛権の行使禁止などによる片務性から、その種の協力ができない」と述べた。

同関係筋はさらに「ブッシュ政権のテロへの対応がまだ不明のため、予断はできないが、その
対応次第では日本が同盟国なのにあまり協力ができないという状況が生まれかねない可能性
が心配だ」と語り、日米同盟の片務性が今回のテロ事件で批判的にクローズアップされること
への懸念を表明した。
85日本ジェネリック研究会:02/02/14 23:01 ID:9VehjPSr
がはははは 日本ジェネリック研究会を緊急大発足!

他の糞ゾロメーカーを蹴散らすのだ!

http://www.sawai.co.jp/company/press/20020201.html
86糞ゾロ:02/02/16 00:32 ID:fgBnEB/O
わぁぁぁぁぁぁ!!!!!!
87卵の名無しさん:02/02/16 00:44 ID:PwB/SCFJ
ゾロって今までこういう団体っはなかったのか?
これから会員会社を増やすのか?たった4社だけど
88卵の名無しさん:02/02/16 00:55 ID:KT+GawUz

ふるさと小包の岡山牛にも米国産混ぜる 国産牛偽装工場

 国産牛肉の贈答用詰め合わせ商品に輸入牛肉を混ぜていた高松市の精肉加工販売会社「カ
ワイ」(河合政弘社長)が、昨年7〜10月に郵便局のふるさと小包で岡山県産として販売した牛
肉に米国産の輸入肉を混入させていたことが15日、わかった。商品は「岡山県産牛こぱっくス
テーキ・焼肉セット」(計840グラム入り)で、中国地方を中心に4343セットが発送されたという。

 ふるさと小包カタログ販売の取り次ぎをする財団法人「ポスタルサービスセンター」中国地方
本部(広島市)によると、商品は、「中国ゆうパックの会」(約6万人)の会員が、一口3000円で
月1回、カタログから商品を選び、同センターに注文する。牛肉セットは、同センターがカワイ倉
敷店(岡山県倉敷市)に注文。カワイは高松市内で商品をつくり、トラックで岡山中央郵便局まで
運んで発送したという。

 97年7月からカタログに掲載しており、販売数は97年度9173セット、98年度1万7273セ
ット、99年度9913セット、00年度8051セット、01年度(昨年7月〜今年6月)のうち今年2月
までが8642セット。通年販売の商品の中ではトップの人気商品だったという。

 このうち、昨年11月発送分からは狂牛病による出荷時検査が始まったため、岡山市食肉衛
生検査所長の証明書を商品につけており、輸入肉の混入はなかったとみられる。同センターは、
3月上旬に発送を予定していた772セットについては注文者に返金し、おわび状を送る。

 12日夕に、カワイの河合義子専務が同センターを訪れ、輸入牛肉が混入していたことを明ら
かにした。同センターは、昨年6月以前の商品への混入や混入比などについて、さらに報告を求
めている。

89卵の名無しさん:02/02/16 01:00 ID:KT+GawUz
小泉&真紀子グッズ、売り上げ止まる
更迭を機に「すっかりダメ」に

 田中真紀子前外相の更迭で、支持率が急落した小泉内閣。その煽りを受けたのか、昨年、
雨後のタケノコのように次々と出現した小泉グッズや真紀子グッズが「ぱったり売れなくなった」
という。昨年の内閣発足時、マスコミで話題となり、人気となった関連グッズや首相の地元・横須
賀に登場した小泉メニューは、どうなっているのか。題して、「あの品々は今」−。
 「売れなくなり始めていたんですが、真紀子さん更迭の件で、すっかり駄目になった」とは、JR
東京駅にある土産物店の店員。 昨年4月の小泉首相就任後、チーズケーキやせんべいなど
数種類の関連商品が次々に発売され、今も同店に並んでいる。その名も「真紀子さんガンバッ
テ!」(800円)と題されたクッキー=写真=もその1つだが、「ここにあるだけで最後。もう入荷
しません」という。
 マキちゃんストラップ(680円)を発売する「ラナ」(大阪市)の担当者も、「販売はしています
が、やはり下火で…」。一時は同社の600種に及ぶストラップランキングで4位に入る売れ行き
だったが、「昨年末にはブームが落ち着いていた」と話す。ネット上のオークションでは同品が1
0円と、まさに投げ売り状態で出品される始末。
 また、このオークションでは、真紀子氏関連の書籍が安いものでなんと1円の超破格で登場。
ちなみに“宿敵”鈴木宗男氏のテレホンカードは4000円で出品されており、若い年齢層の真紀
子離れは加速しているようだ。
 真紀子氏のクビを切り、内閣支持率が80%から40%台に転落した小泉首相のグッズはどう
なのか。 人気にあやかって、“小泉グッズ”を売り出した自民党本部では、「昨年夏は、グッズ
を買う人の長い行列ができた。歴代の総理ではなかったこと」(広報)と、一時は爆発的に売れ、
約3億2000万円(昨年末)の売り上げを記録。
 だが、今や「ぱらぱらと人がいる程度。携帯ストラップ(700円)は1日1万個以上出荷する日
もあり、1月末までに29万8000個も売れたが、現在は1日100個から出ても500個ぐらい」
と、こちらも支持率同様に急落した。
 小泉首相の地元・横須賀にも足をのばしてみた。 一時は「小泉フィーバー」で沸いた当地の
飲食店では就任当時、多くの“純ちゃん”メニューが誕生し、話題となった。 「よこすか小泉応
援カレー」をメニューに登場させた「カフェテラスウッドアイランド」の島森隆司店長は、「小泉さん
の人気どうこうでなく、新しいものを出そうと思い、昨年12月でやめた」と話す。
 一方、「伏魔殿御膳」や「純ちゃんランチ」で人気を集めた大衆食堂のだるま本店では、今もメ
ニューは健在。「純ちゃんステーキ」(900円)なる新メニューまで加え、「好評です」(高橋一章
店長)。 もっとも、「更迭とは関係ないのですが、2月中には『伏魔殿御膳』は終了します」
(同)。この事実が一部で伝えられると、同店には「やめないで」との電話が相次いでいるとか。
 また、「純ちゃん懐石」(4500円、予約制4人から)を出す北浜寿司の石丸英利さんも、「今で
も結構出ている。ワーワー言ったって、どんな人でも浮き沈みがあるからしようがない。小泉さん
が首相を辞めるまで続ける」と、首相にエールを送る。地元はやはり温かいということか。
 「年寄りを中心に、今まで10人ぐらいに、あのパーマをかけたんだ」とは、小泉首相の実家近
くで理髪店「BARBER中込」を営業し、首相のライオンヘアーの生みの親として知られる中込照
雄さん。「就任時は1日200人ぐらいが、この辺に見物人がやって来た」と当時のフィーバーぶり
を振り返り、「今は週末に人が来るか来ないかぐらい」と、静けさを取り戻したようだ。
 ところで、前出の「真紀子さんガンバッテ!」クッキーだが、製造元では「昨年8月をピークにさ
っぱりでした。でも、今回のことで上向きになった」。更迭劇は、グッズ面でも真紀子氏の存在感
を強めた効果はあったようだ。
90STS対策委員会:02/02/16 01:27 ID:0DD5fOwm
>>87
>ゾロって今までこういう団体っはなかったのか?
でもない
http://www.epma.gr.jp/
91卵の名無しさん:02/02/16 01:37 ID:41dgg4b+

ブッシュ明治神宮参拝に小泉同行せず?
福田官房長官「公式参拝だと憲法に抵触」

 福田康夫官房長官は15日午前の記者会見で、来日するブッシュ米大統領が明治神宮を参
拝する場合の小泉純一郎首相の対応について「大統領と一緒に首相が参拝することは公式行
事になり、(首相参拝は)公式参拝になるとの見方がある。公式参拝だと憲法に抵触する」と述
べ、大統領の参拝には同行しない方針を明らかにした。


 これに関して小泉首相は15日昼、首相官邸で記者団が「明治神宮に行くのか」と質問したの
に対し「まだ決めていない。調整中だ」と述べた。


 首相は昨年8月、公式か私的かは言明しなかったが、内閣総理大臣として靖国神社を参拝、
韓国や中国などの強い反発を招いた。


 福田長官は「何となく納得いかない」とも述べ、憲法解釈に不満を示した。


 小泉首相は18日午前、首脳会談の前に、ブッシュ大統領と明治神宮で合流、流鏑馬(やぶさ
め)などを一緒に鑑賞する方向で最終調整している。ただ、大統領が何らかの方法で参拝する
場合には、首相は同行しないことにした。

92卵の名無しさん:02/02/16 01:44 ID:0UwBG6uZ

真紀子、外相給与50万円未返納発覚
裏金問題責任取って自主返納するはずが…

 田中真紀子前外相が昨年11月末、外務省の裏金問題の責任をとるために表明した外相給
与1カ月分(約50万円)の自主返納を行っていないことが15日までに、明らかになった。「人事
と会計が基本」という姿勢で裏金問題を含む外務省改革に取り組んだことを強調している真紀
子氏だが、自分のこととなると“有言実行”とはいかなかったようだ。


 真紀子氏は昨年11月30日、裏金問題の調査結果を公表した際、「自分の責任の重さを痛感
している」として、外相給与1カ月分の自主返納を表明した。これを受け、外務省側は事務的手
続きを説明したが、その後、返答がないまま真紀子氏は更迭。


 ようやく、昨14日になって真紀子氏サイドから「手続きを行いたい」との申し入れがあったが、
1国会議員に戻った真紀子氏の給与返納は寄付行為にあたり、公職選挙法に抵触する恐れが
あるとの指摘もある。

 同法を所管する総務省では「外相としての給与をもらっていたという事実認定が外務省からあ
れば、給与を自主返納することに問題ない」としているが、いずれにしても、あまりにも遅過ぎる
対応のようで…。

93卵の名無しさん:02/02/16 21:12 ID:2m2sopTv
>90

医薬工業協議会 vs 日本ジェネリック研究会 のゾロ団体同士の一騎打ち
94卵の名無しさん:02/02/16 21:27 ID:WApWPak5
うちと合併しませんか?

あっ、うちは都内製薬です。
今度ニューキノロンの新薬でます。
95卵の名無しさん:02/02/17 00:21 ID:jnro7HF9
>93
医薬品なんとやらと 日本ジェネリックなんとやら と SST軍団は どういう関係があるのだろうか?
96卵の名無しさん:02/02/17 23:01 ID:yWQmbXyB
ヘキサルって昔はよく病院に挨拶に来てたけど
最近は全くみなくなった。
森下仁丹ってゾロとどういう関係があるの?
メルクはやる気あるのかなあ?
沢井さん、もっともっと会員ゾロ会社増やす必要がありますね。
97卵の名無しさん:02/02/17 23:30 ID:WhXA68Dk
怪傑ゾロ参上って感じかなー(藁。
それにしても、荒らす内容がさらにちゃちくなってきたなー。
いいかげん医薬業界のことでも書いてくれ。
98卵の名無しさん:02/02/18 00:39 ID:cR3orKFw
>>94
>うちと合併しませんか?

それなら泥船・日○工でどう?
99卵の名無しさん:02/02/18 18:49 ID:WxHlYcDo
>>98
それだけは御勘弁を。
100卵の名無しさん:02/02/18 18:52 ID:1de2S1ct
あと、大事な事忘れてました。荒木医院は基本的にジェネリックを処方
されますので、出してもらった薬が何じゃコリャ?と誤解の無いように。
(他の皆さんの薬の話しは名前を置き換えて読む必要があります)
101卵の名無しさん:02/02/18 19:21 ID:OrupwFfv

田中宇の国際ニュース解説 2002年2月11日 http://tanakanews.com/

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
★エンロン破綻が示したアメリカ型経済の欠陥
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 さる1月25日未明、アメリカ・ヒューストン市の高級住宅街の路上で、巡回
中の警察官が、駐車していた新車のメルセデス・ベンツの車内で一人の男性が死
んでいるのを発見した。男性の頭には銃弾が打ち込まれており、手には38口径
の拳銃が握られていた。傍らには遺書らしき書きつけも置いてあり、警察は自殺
と断定した。

 男性は43歳のクリフォード・バクスターという人で、昨年5月までエンロン
の副会長をしていた。昨年12月初めにエンロンが倒産し、捜査当局や議会が不
正経理などについての調べを始めていた。バクスターは、自分に対する不正の嫌
疑に耐えられず、自殺したのではないか、と報じられた。バクスターは、辞任前
にエンロンのストックオプション(自社株を買う権利)を行使して3500万ド
ルを手にしていた。

 ところがその後、エンロン関係者の中から、バクスターは自殺するはずがない
のではないか、という声が聞かれ出した。昨年5月にバクスターがエンロンを辞
めたのは、自社の経理処理に不正があるのに会長らがそれを改めようとしないこ
とを指摘した上での抗議の辞任だった。

 バクスターが死んだのは、議会に証人喚問される直前で、精神的な圧迫があっ
たのか、ふだんはタバコをあまり吸わないのに、ヘビースモーカーになっていた
という。こうした状況は「自殺」を思わせるものだが、その一方で彼は死の何日
か前に「ボディガードを雇わないといけないかもしれない」と漏らしていたとい
う。
http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2002/01/27/wenron27.xml&sSheet=/news/2002/01/27/ixworld.html

 別の報道では、バクスターは知人から「ボディガードを雇った方がいいのでは
ないか」と忠告されたが、不要だと答えていたという。とはいえこの報道でも、
バクスターの家族は皆、彼の死は自殺ではないと考えている、と指摘している。
http://www.newsmax.com/commentarchive.shtml?a=2002/2/6/155646

 バクスターをよく知っているエンロンの社員は、彼は嘘が嫌いなまじめな人で、
だからこそ自社の不正経理の拡大が耐えられなかったのだ、と考えている。そん
な彼なので、議会や捜査当局が話を聞かせてほしいといえば、自殺するのではな
く、逆にエンロンの不正の仕組みを洗いざらい話すのではないか、というのだった。
http://www.guardian.co.uk/international/story/0,3604,639809,00.html
102卵の名無しさん:02/02/18 19:22 ID:OrupwFfv
 バクスターは、エンロンの内情を「知りすぎていた」から、それをばらされる
ことを恐れた何者かが彼を殺したのではないか、と疑うエンロン社員もいた。
http://www.guardian.co.uk/g2/story/0,3604,641417,00.html

 遺体が発見されたときの状況にも不審な点があった。一つは拳銃が手に握られ
ていたことで、頭を撃って自殺した場合、銃弾発射の反動で拳銃は手から離れ、
握られているのではなく近くに転がっている状態で発見されるはずだ。また、そ
の拳銃は地元テキサス州で登録されておらず、誰の拳銃なのか分からないままで
ある。
http://www.rense.com/general19/topcop.htm

また、遺体を乗せた車が発見されたのは、大通りの真ん中で、車はUターン用の
中央分離帯の切れ目に停車していた。自殺する場所として、そんな場所を選ぶ人
がいるだろうか。また、警察は「今後の捜査のため」を理由に、現場で見つかっ
た遺書らしき書きつけを公開していない。
http://www.msnbc.com/news/694040.asp

▼CEO交代はエンロン創設者の責任回避策?

 バクスターが昨年5月に抗議の辞任をしたということは、そのときすでにエン
ロンの内情はかなり行き詰まっていたということが考えられる。

 エンロンの創設者でCEOだったケニス・レイは、一昨年から自分が保有する
自社株を売り始めていたことが分かっており、倒産後、これは自社の崩壊を見越
した「売り逃げ」だったのではないかと疑われている。レイは自社株の売却で
1億ドル以上を手にしている。

 その一方で一般の従業員は、給料の一部としてもらった自社株を売ることを社
内規定で禁じられ、倒産とともに自社株が急落するのを見ているしかなかった。

 昨年2月には、レイはCEO(経営責任者)の座を、自分の部下だったジェフ
リー・スキリングに譲り、自分は会長に退いた。ところがスキリングは昨年8月、
譲り受けたCEOの座を突然手放し、退職してしまった。その翌日、経営責任者
に戻らざるを得なくなったレイに宛ててエンロン幹部がメールを出し、不正な会
計処理を止めるよう忠告している。

 レイは、不正な会計処理を始める前に、自分がその責任を取らずにすむように
CEOをキスリングにやらせることにしたが、やがてキスリングがそれに気づき、
策略にはまりたくないので辞任した、という筋書きを感じ取れる。

 エンロンのドル箱は、石油や天然ガス、電力の先物販売だった。石油やガスは
国際相場の上下によって価格が変動するが、電力会社や工場などは、相場の上下
に合わせて自分が売っている電気や製品の値段を上下させることができないので、
石油などの仕入れ値が一定になることを望んでいる。
103卵の名無しさん:02/02/18 19:24 ID:OrupwFfv

 エンロンはその需要を使い、何カ月か先に決まった値段で石油や電力を売るこ
とを契約してお金をもらう先物ビジネスで利益を出し、さらにその先物契約の権
利を売買する市場を作り、自ら売り買いして利益を増やした。

▼ウソだった高成長

 こうなると、商品が「エネルギー」だというだけで、やっているビジネスの仕
組みは株式や債券の取引と同じだった。株や債券の市場には、1980年代に不
正が多かった反動で厳しい監視があり、不正防止策がとられているが、エンロン
が90年代後半に急拡大させたエネルギー先物市場は、政治献金のばらまきが功
を奏し、不正防止強化策の立法が進まなかった。

 ところが、一昨年後半からの景気後退でアメリカのエネルギー需要が縮小し始
め、エンロンのビジネス戦略は破綻に向かった。エンロンは、先物の契約が取れ
た段階で利益を計上してしまっていたが、実際には相場が予想と逆の方向に動い
たときは損失が出てしまっていた。

 エンロンは3000社もの子会社(決算に反映させなくて良い関連会社)を作
って損失をそこにつけ替え、その損失を子会社間で移動させて紛らすことで、利
益の部分だけを外部に見せていた。だが、景気後退と原油価格の低下によって損
失が膨らみ、隠せない状態となった。
http://www.nytimes.com/2002/01/18/opinion/18KRUG.html

 利益が出ている間は、株価が上がり、従業員は給料の中の現金支給を減らして
自社株を買う権利(ストックオプション)をもらうことを希望し、会社にとって
は経費削減ができた。ところが損失が出てしまうと株価が下がり、従業員にも現
金支給が必要となり、経費が増えてしまう。銀行も金を貸すときに高い金利を要
求するようになり、やがて貸してくれなくなってしまう。

 だからエンロンの経営者には粉飾決算が必要だったが、昨年初め以降、それが
ますますひどくなり、会社の首脳が危機を感じて次々と辞める事態となったのだ
った。9月のテロ事件後、アメリカの景気はいっそう悪くなり、10月には粉飾
によって損失を隠すことができなくなり、4年前の1997年から実は利益が出
ていなかったのだとする決算の修正を発表するに至った。

 エンロンはまさにこの4年間、利益を毎年急増させる決算を発表し、株価を急
上昇させ、経済雑誌や証券アナリストから絶賛されていた。エンロンは自ら、そ
のすべてがウソだった、と発表したのだった。これ以後、エンロンの問題は犯罪
の色を帯びることになった。

104卵の名無しさん:02/02/19 22:52 ID:UtoPT4Hh
ジェネリック医薬品研究会の会員が日本のジェネリックの標準です。
他はゴキブリ、ダニ、ノミ、シラミの糞です。
105:02/02/20 22:37 ID:c7NfXHu1
死ね
106卵の名無しさん:02/02/20 22:44 ID:t930YsaJ

“真紀子ムネオ台風”に永田町大騒ぎ!
小泉&福田ぶ然

田中真紀子前外相=写真左=と鈴木宗男衆院議員=同下=に対する、季節外れの大型台風
のような参考人招致が終わった20日午後、永田町では衝撃的な真紀子答弁への賛否を含め、
さまざまな波紋が広がった。

まず、小泉純一郎首相と福田康夫官房長官は衆院予算委員会に出席。民主党の長妻昭議員か
ら「NGO問題を再調査すべきでは?」と問われ、小泉首相は「いくら調査しても『言った』『言わ
ない』の話になる。水掛け論でキリがない」と答弁。福田氏も「どう調査するのか。午前中の審議
で聞けば良かったのでは?」と語るなど、ぶ然として一連の真相究明にフタをする姿勢を見せた。

宗男氏の“親分筋”にあたる自民党の野中広務元幹事長は「経済が厳しいときだけに、国会が
混乱して予算成立にそごを来せば、国会の存在感が問われる」と語り、これ以上の参考人招致
は必要ないとの認識を示した。

一方、民主党の鳩山由紀夫代表は、真紀子氏の答弁について「小泉首相に対して惜別のあいさ
つをした。首相自身が抵抗勢力になっていると、私たちの主張と同じことを感じたということ。『官
僚と族議員に外務省が支配されている』と彼女らしい言葉で宣言した。こういう政治家は初めて
だ」と高く評価。

宗男氏には「政官業の癒着構造を国民に見てもらった。北方領土の入札問題に関して、外務省
を誘導したことは言語道断だ」と厳しく批判。今後、野上義二前外務次官とNGO「ピースウィン
ズ・ジャパン」の大西健丞代表の参考人招致を求めていく考えを強調した。

一方、ブッシュ米大統領の歓迎レセプションに関し、真紀子氏が「案内状が届いていない」と答
弁したことについて、福田氏は先の委員会で「2月12日から14日にかけて、外務省北米課から
田中事務所のU秘書に出欠確認の電話を入れた。14日に官邸職員が田中事務所に招待状を
持参し、メガネをかけ髪の毛を真ん中から分け、中肉中背で30代ぐらいの男性に手渡した。15
日に北米課から電話を入れると、男性が『欠席である』と返答した」と改めて説明した。

107卵の名無しさん:02/02/20 23:00 ID:xChcJKdM
日本ジェネリック医薬品研究会が既存のゴキブリゾロどもの不正を
摘発するそうです
108卵の名無しさん:02/02/20 23:09 ID:y7mxwK+k
>>107
なるほど親玉は生き残るわけね
109卵の名無しさん:02/02/21 07:56 ID:Yrc+19ga
>107
親玉の不正はだれが摘発するの?
110卵の名無しさん:02/02/22 21:44 ID:wWm40sPX
一般名処方決定で沢井は一躍有望株ですな あはは
111卵の名無しさん:02/02/22 21:45 ID:jaZHtc05
厨房のころ、どうしてもマンコが見たくて従妹に頼んだ。
小さなクリと小さな膣が可愛かった。毛も無かったし。
見るだけの約束だったが、つい指を入れてしまい泣き出されたが、
それからと言うもの、会う度にパンツ脱がせてマンコ検査してたが
なぜか挿入まではしなかったな。
112卵の名無しさん:02/02/24 08:36 ID:v+Nw60pO
>>110
>一般名処方決定で沢井は一躍有望株ですな あはは
やはりジェネリックと呼べるのは沢井製薬だけ!
113古森義久:02/02/24 14:11 ID:jKiuThRu
■ 中国のノンバンク 債務不履行通告の見通し
海南省国際信託投資公司
円建て債利払い遅れ/対中投資に重大影響

【北京14日=古森義久】 中国のノンバンク「海南省国際信託投資公司」(HITIC)が
サムライ債(円建て外債)百四十五億円分の利子払いが遅れ、債務不履行が通告さ
れる見通しが強まったことに対し日本政府は十四日、中国政府と海南省政府にあて
にこのままだと金融面での中国全体の対外信用が崩れ、とくに日本の対中投資に重
大な影響を与えるという抗議の意向を伝えるという異例の措置をとった。

海南省政府が後押しして設立されたノンバンクのHITICは九四年に発行したサムライ
債145億円分の半年ごとの利子約3億円の支払いを債務不履行となる最終期限の7月
10日を過ぎても払わず、日本政府は北京の日本大使館を通じて中国側でこの種の外
債発行を管理する国家外貨管理局に債務不履行を許すことに対し抗議した。さらに14日
には日本大使館の杉本信行経済部長名でHITICを直接、監督する海南省政府金融担当
部門あてに同様の抗議の書簡を送った。

日中関係筋によると、日本政府がこの問題を重視するのは同サムライ債を買った主幹事
の新生銀行(旧日本長期信用銀行)らが契約に従って債務不履行(デフォルト)を通告すれば、
HITIC側はただちに本体の元本の145億円分だけでなく、その後に同様の方法で発行した
サムライ債百四十億円分をも債券購入側に解約の形で返済しなければならなくなるためだ。

HITIC自体の破産は確実となり、その結果、中国の他の金融機関が出したサムライ債の
信用度も地に落ちて、日中両国間の重大な金融問題になる恐れからだという。このため
日本大使館は新生銀行の緊急の要請にこたえる形で異例の介入に踏み切ったとされる。

中国のノンバンクは広東や大連の国際信託投資公司が日本の金融機関から借りた資金
の債務を履行せず、波紋を広げたが、自ら発行した債券の債務不履行は、これまで例が
ない。サムライ債は1980年代以来、中国の各金融機関が発行し、日本側が巨額に買い
上げ、中国の経済開発に寄与してきたが、そのデフォルトはこれまで一度も起きていない。

HITICがこのまま利子を払わず、新生銀行からデフォルトを通告されれば、ただちに285億
円の返済の義務が生じ、もし返済できなければ、日本側が買った同サムライ債券はみな無
価値となる。この場合は同債券は新生銀行を通じ、日本側の多数の投資機関に売られてい
るため、余波は非常に大きくなる。

HITICの現状について、北京の邦銀筋は「中国政府が、この時点で救済に動いていないと
言うことは、HITICを見捨てたからではないか。外貨建て債券のこうした債務不履行はドル建
てなら考えられず、中国側に相手が日本なら債務を履行しなくてもなんとかなるという認識が
広まっているようだ」と論評した。

114古森義久:02/02/24 14:15 ID:nobDFJoY
■ 人道配慮なら「一国二制度」浸食 当局ジレンマ

中国に主権が返還された香港では、その初日の一日から入境管理局に親に手を
引かれた子供たちが詰めかけ始めた。この少年少女は1980年代ごろから広東省
に労働に出た香港住民の主として男性が地元の女性と結婚してできた子供たち。

当時から香港人を親とすれば香港への居住権を形式的には認められたが、香港当
局は域内の人口の急増を恐れて、現実にはこのカテゴリーの子供も含めて中国本
土からの合法入境を1日数十人から数百人に限った。

近年は1日150人となっており、その割り当て枠に従えば、広東省で現在、7万人以
上もいるとされるこの種の子供たちは何年も待たされることになる。そこで密入境が
試みられ、さらにそこにカネを取って密航を助けるギャング組織の「蛇頭」が介入する。

返還前の香港当局は広東省側と協力し、密入境を取り締まる一方、香港域内で違法
の入境者や滞在者をみつければ、たとえ香港人の資格ありと認定された男女でも入
境方法が違法だとして強制送還の措置をとってきた。

ところが、1日から発効した返還後の香港の憲法ともいえる「香港特別行政区基本法」
は、香港の永住民の資格の一つを「香港永住民を親として香港以外の地区で生まれ
た中国公民」と規定する。この資格要件は返還前と変わらないが、この規定が「永住
民の資格さえあれば、たとえ違法に入境していても永住を認められる」といううわさを
広げた。その結果、これまで域内各所に長年、隠れていた不法入境の子供たちまで
が出頭してきた。

入境管理局は8日までに出頭してきた合計約1600人に対し「違法はあくまで違法」と
いう建前を崩さないまま、うち約1400人に「審査中の臨時居住許可」を出した。審査で
違法の入境や滞在が確認されれば、あくまで強制送還するという姿勢だが、臨時許可
を出して、滞在継続を認めただけでもこれまでの基準からすれば大きな譲歩となる。

だがこの問題の直接の責任者となる梁愛詩司法局長は7日、出頭してきた人のうち違
法入境の成人や香港人を親としないと判定された子供など100人以上を広東省へ強制
送還したことを明らかにした。

一方、現在の基本法だけでは、この種の強固な措置の法的根拠が不明であり、強制送
還の根拠を明確にするには新立法が必要だとされ、臨時立法会が9日中にも法案を緊
急に審議する動きも確実となってきた。香港特別行政府もこの違法入境の子供たちの問
題をきわめて重視し、陳方安生政務官を責任者とする特別対策班を結成して、正面から
の対応に努めている。

しかし現在4千人とされる香港域内での違法入境の子供たちに対し、みな居住を認める
と、広東省に待機する7万人以上をあおって、密入境を激増させ、香港の既存の社会に
重大な変動を起こすことは確実視される。せっかくの一国二制度の区分も侵食されかね
ない。だが、逆に違法入境をすべて排除すれば、非人道的だとする内外の非難は避けら
れず、香港当局のジレンマは深刻なようだ。
115卵の名無しさん:02/02/24 21:13 ID:qUm2ZeAV
>>107
>ジェネリック医薬品研究会の会員が日本のジェネリックの標準です。

製薬全体からみたら大した標準じゃねぇな。
これが日本でジェネリックと称する限界かもね。
116卵の名無しさん:02/02/24 21:28 ID:F3Q87jbi
>115
日本ジェネリック医薬品研究会が腐敗しきった日本ゾロ業界を一掃します!
とからしいよ
117古森義久:02/02/24 21:52 ID:JorbyCpS
■ カンボジアなどアジア全域 中国の経済援助急増 米紙報道
影響力拡大狙う 2001・06・08
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0106/08/html/0608side018.html

【ワシントン7日=古森義久】 中国がカンボジアやミャンマーへの経済援助を
急増させ、アジア全域での影響力を増大して、米国に挑戦しているという状況
が米国の有力紙の七日の報道で伝えられた。中国の影響拡大が対外援助を
主要手段としている点で、その中国に毎年2千億円ものODA(政府開発援助)を
与える日本の政策が改めて光をあびる形となった。

米紙ウォールストリート・ジャーナルは七日付のプノンペン発の報道で中国が
カンボジア、ミャンマー、ベトナム、ラオス、カザフスタン、モンゴル、ネパールな
どのアジア諸国に対し経済援助や投資を急増させ、米国の立場を後退させる形
で地域的な影響力の増大を進めている、と伝えた。 

報道は中国の影響力拡大の実例として
(1)カンボジアの製紙工場建設に1200万ドルと、水力発電所建設に3000万
  ドルの支援を実施している。
(2)ミャンマーでは高速道路と水力発電所の建設、巨大な製材工場の稼働を援
  助している。
(3)ベトナムとラオスでは道路建設の支援と鉱山資源の開発に協力している。
(4)モンゴルではカシミア製品交易をほぼ独占し、ネパールでは観光に大型投資
  を行っている。
(5)カザフスタンでは大規模な石油採掘を実施している。 −などをあげている。

報道は中国が経済援助を影響力拡大に使う実例としてカンボジアの状況をとくに
詳述している。中国は1970年代後半、虐殺で悪名の高いポル・ポト政権を支持し、
カンボジア領内の独自の軍事基地まで建設していた経緯を述べるとともに、米国
が現在のフン・セン政
118古森義久:02/02/24 22:15 ID:/53VXyMj
■ 中国大手マスコミ 米艦寄港報道せず
交流再開 TMD批判と矛盾?
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0008/06/paper/today/internat/06int002.htm

【北京5日=古森義久】 米国海軍第七艦隊の巡洋艦が、2日に中国の青島に訪問
寄港し、米中軍事交流の再開を画したが、中国の大手官営マスコミはこの寄港を一切
報道せず、中国当局のいまの対米姿勢の複雑な側面をみせつけた。

米海軍第七艦隊所属で横須賀を母港とするミサイル誘導イージス巡洋艦のチャンセ
ラーズビル(9500トン=ゴードン・ドーシー艦長)は二日午後、中国海軍北海艦隊の司
令部のある山東省の青島港に訪問寄港した。 米国軍艦のこの種の寄港は1980年
代半ばから始まり、今回が9回目で、青島への同種の訪問は4回目だが、米中両国
間では1999年5月の米軍によるユーゴスラビア中国大使館誤爆以来、軍事面のす
べての交流、対話が中断されていたため、今回の寄港はその軍事交流再開のシン
ボルとして、米側では北京駐在の各国マスコミなどを招き、大々的な広報活動を展開
していた。

チャンセラーズビルの寄港に対しては中国側は海軍首脳や地元の青島市の市長を動
員して歓迎式典を開き、同艦乗組員の上陸にも市民たちは強い関心を示し、同市では
大きな出来事となった。しかし中国の大手官営マスコミは国営の新華社通信、中央テレ
ビ、共産党機関紙の人民日報などいずれも五日の時点でこの寄港をまったく報道して
おらず、当局の意図的な無視を思わせた。

ただし中国当局の直営マスコミでも一般中国人は読まない英字紙チャイナ・デーリーが
同艦の写真とごく簡単な説明を載せたほか、外国マスコミの中国関連報道を転載する
参考消息という新聞が産経新聞など外国新聞の報道を短く紹介した。 一般の官営中
国マスコミでは唯一、北京の夕刊紙の北京晩報がチャンセラーズの小さな写真と短い
キャプションを第10面に地味に載せただけだった。

米国艦艇の前回の中国訪問は98年11月で、今回の寄港は大きなニュースのはずだ
が、その事実を一般国民にはあえて知らせないという現象について、北京の外交筋は
「中国はいま米国のミサイル防衛構想はじめアジアの軍事政策への反対を強め、在韓
米軍や在日米軍の撤退をはっきり求めるようになっており、この時点で対米軍事交流を
宣伝することは、より大きな対米政策の本旨に逆行する印象を与える危険があると判
断したからではないか」と論評した。

119卵の名無しさん:02/02/24 23:07 ID:nJWsb+g1
>116
腐敗しきったって具体的にどういうことなの?
120古森義久:02/02/25 00:08 ID:Gg4uV7Px
■ 「返還香港」に割高感 日本人観光客が激減
5月は24%減…7月は半減の予想も

【香港17日=古森義久】 香港を訪れる日本人観光客の数が返還前後から異様な
ほど激減していることが17日、明らかになった。返還時に地元の各ホテルが価格を
つり上げすぎたことへの反動もあるようだが、香港の対外イメージが返還で微妙に
変わったことが観光に反映されてきたとの見方もある。日系の旅行会社では「いまの
日本観光客の人数は通常の10分の1にまで落ちた」というところもあり、地元の観光
業界に深刻な影を投げかけている。

香港観光協会が17日までに明らかにした統計によると、返還から1カ月前の97年
5月中に日本から香港に着いた旅客は11万8千人となり、96年5月よりも3万7千人、
24%減となったことが判明した。 6月以降の数字は公式には出ていないが、日本観
光振興会香港事務所によると、日本からの観光客は昨年同期に比べ、返還の式典
での観光キャンペーンにもかかわらず、最低30%ほどの減少は確実だという。

もっとも96年には「返還前の香港をぜひみてください」という大宣伝のせいもあって、
日本人観光客は95年の40%増の240万人を記録した。だが、いまの状況は95年
以前と比較しても異常な低落だとされ、香港の日本航空の旅客担当部門では「日本
から香港への乗客の数の減少は顕著であり、湾岸戦争当時の急落を連想させます」
と述べている。

キャセイ・パシフィック航空でも、「いまの減少は平常の25%減」といい、全日空でも
「97年はじめごろの月より30%ダウン」だとしている。日本交通公社(JTB)香港支
店長の森山明氏も「返還後の7月前半の日本人観光客は前年同期の半分程度に
減ったようです」と述べている。
121卵の名無しさん:02/02/25 22:11 ID:kz3R8x9N
       
122卵の名無しさん:02/03/01 00:38 ID:xF0oQcpa
沢井は患者さまの薬剤負担を約半額に致します。
123卵の名無しさん:02/03/01 07:09 ID:TKmsgGrC
>>122
期待される薬効の保証はない
124卵の名無しさん:02/03/01 08:00 ID:GenO8GNL
今回の薬価改定からゾロは現状の引き下げの上限40%から無制限に
なったね。
ホザいてられるのもあと少しだね。来年度には倒産か?
125古森義久:02/03/01 09:55 ID:9JTVdaY6

■台北市長 台湾「自決」訴え
米側に、関係悪化は否定 1998・03・19
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9803/19/html/0319side33.html

【ワシントン18日=古森義久】 訪米中の台湾野党指導者の陳水扁・台北市長は
18日、ワシントンで記者会見して、台湾の将来について台湾住民による「自決」の
重要性を米側の政府や議会の関係者に訴えたことを明らかにした。

陳氏はまた、ことし6月に予定されるクリントン米国大統領の中国訪問によっても
米台関係が悪影響を受けることはないという見方を強調した。

台湾の独立志向の最大野党「民主進歩党(民進党)」指導者の陳氏はワシントンを
訪れ、クリントン政権当局者や議会上下両院議員らと会談を重ねてきたが、18日
にはナショナル・プレスクラブで記者会見して米側関係者に民進党の立場を説明し、
理解を求めたことを明らかにした。

陳氏は民進党でも最も人気のある政治家で、台湾の次回の大統領選の候補にも
目されている。陳氏はこの会見で質問に答え、(1)台湾の将来はあくまで台湾住民
の意思による「自決」が原則となるべきだ、(2)台湾の「独立」といっても「独立」の定
義にはいろいろあり、その定義はまず台湾住民によって決められるべきだ、(3)クリ
ントン大統領の六月の訪中などにより米中関係が前進しても米台関係がそれにより
悪影響を受けることはないと信じる、(4)現状でも台湾は中国との対話を進めるべき
−などという見解を表明した。

陳氏は日米両国の新防衛ガイドラインについては「この防衛指針の対象は北朝鮮
ではなく中国であることは明らかだ」と述べた。

126古森義久:02/03/01 09:56 ID:9JTVdaY6

■「陳総統」重ねて警戒 非難エスカレート
中国、新たな手段検討?
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0003/18/paper/today/internat/18int003.htm

【北京17日=古森義久】 台湾の総統選挙を目前に控えた17日の北京では、中国当局の
陳水扁民進党候補に対する警戒感が改めて表明された。陳候補の当選の可能性に中国首
脳部が新たな強硬対処を検討しているとの情報も伝えられた。

北京の官営マスコミは17日、いっせいに、前日の「海峡両岸関係協会」常務副会長の唐樹備
氏による「いま直面する問題は台湾が独立するかどうかだ」という懸念表明を大きく報道し、民
進党の陳水扁候補への強い反発を明確にした。

中国当局の陳氏への警戒はここ数日の間に急に表面に出てきた。朱鎔基首相は15日の記者
会見で陳氏の名前こそあげなかったが、明らかに陳氏の人気急上昇に言及して「ある勢力が台
湾独立に傾く候補に選挙を勝たせようとありとあらゆる欺瞞(ぎまん)の策を使っている」と激しく
非難した。中国各マスコミは17日も朱発言のこうした部分を報道し、陳候補当選の可能性への
当局の危機感を期せずしてあらわにした。

香港のサウスチャイナ・モーニング・ポスト紙は十七日、北京発で中国共産党政治局がこれまで
陳候補の当選の展望を現実的に考えてこなかったため、あわただしくその展望への新たな対応
策を練り始めたと報じた。同報道では共産党や軍部の内部に陳氏が台湾独立派だとの認識が
強く、軍事力の行使をも踏まえての断固たる対処を求める声も起きているという。

127卵の名無しさん:02/03/01 23:54 ID:xF0oQcpa
荒らすなボケ
128卵の名無しさん:02/03/02 07:49 ID:B0QFgkcu
sawai
129卵の名無しさん:02/03/02 09:14 ID:Vv3HfvG9
>>124
>ホザいてられるのもあと少しだね。来年度には倒産か?
その懸念は泥船・日○工以下の弱小ゾロでしょう。
●は生き残るものさ。
130古森義久:02/03/02 09:27 ID:IC84n3IR
ワシントン・ポストも報道
「亡命信じぬ反応がある」 97.02.15
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9702/html/0215side45.html

【ワシントン14日=古森義久】 北朝鮮の黄長Y(火へんに華)書記の亡命
事件に対し、日本の識者の間には、この亡命が信じられず、なお同書記が
韓国側により身柄を拘束されているとみる人がいる−と十四日、米大手紙
でも報道された。

ワシントン・ポスト14日付は、黄書記の亡命事件について中国、韓国、日本
がそれぞれどう反応しているかをまとめた記事を掲載したが、その中で日本
の反応として「日本にはなおこの事件を信じられないとする反応がある」と伝
えた。

同記事はその亡命を信じられないとする日本人識者の代表として、黄書記と
今回、日本国内で数日間にわたり行動をともにしたという立命館大学教授の
関寛治氏を挙げ、「黄氏は今年夏に韓国で開かれる予定の学術会議に出席
するためのビザ(入国査証)取得について問い合わせる目的で北京の韓国大
使館領事部に入ったのだと思う」という趣旨の関氏の言葉を紹介している。

同記事はさらに、関氏が「黄氏が韓国大使館領事部内に入ったところ、韓国
側の治安要員により身柄を拘束されてしまったのだろう」と述べ、「報道され
た『黄氏』が偽物の可能性もある」とも語った、としている。
131古森義久:02/03/02 09:29 ID:IC84n3IR
■マンスフィールド氏を悼む
身をもって日米関係重要性アピール
http://www.sankei.co.jp/databox/bukko/html/2001_1006mans_itamu.html

「コーヒーはいかがですか」と聞き、さっと立ち上がり、自分で熱いコーヒーを
ついでくれる。ソデをまくり上げたワイシャツ姿でじっとこちらをみつめ「では
日米関係を語りましょうか」と声をかける−。大使時代からのマイク・マンス
フィールド氏のこんな言動に何人の日本人が勇気づけられたことだろう。

日本がバブルに酔い、米国では日本非難が声高だった時期でも同氏が「日
米関係は世界で最重要な二国間関係」と述べ続けたことは広く知られている。

政府からの引退後に、ゴールドマンサックス社の顧問となってからも日米関
係へのかかわりを保ち、各種の集いへの出席を続け、米国にとっての日本、
そして対日関係の重要性を身をもってアピールしていた。

古きよき米国人らしい寡黙な挙措(きょそ)ながら、ここぞというときには自己
の意見は断固として主張した。日米貿易摩擦の激しい大使時代、米国から
の官僚が日本の通産大臣に居丈高に文句を述べるのを「やめなさい」と制
止したことや、ジム・ファロウズ氏ら「日本異質論者」たちの「日本は米国を経
済制覇する」という日本たたきの言辞に断固として反論したことは、知る人ぞ
知るである。

マンスフィールド氏は日本専門家ではなかったが、日本の文化や風習には
理解を示し、米海軍の原潜が日本の漁船に衝突した事故では日本側への
謝罪で日本ふうに頭を深く下げ、米側で論議を呼んだほどだった。

だが第一次大戦で年齢を偽ってまで軍隊に志願した経歴が示すように同氏
が自国を深く愛する政治指導者であることも広く認知されていた。

マンスフィールド氏は高校も終えずに鉱山で働いていた少年時代、将来の妻
となるモリーンさんに忠告されて学校にもどり、大学教授までになった。その
愛妻を一年半前に失ってからすっかり元気をなくし、大使時代からの友人の元
外交官ジェイ・マクノートン氏らに「妻が恋しい。もう生きている意味がない」と
もらしていた。

だがマンスフィールド氏は最後まで現役としての知的な鋭さを保ち、つい最近
も「回顧録は一度もミスを犯さなかった人間だけが書くものだ」などと皮肉を述
べて周囲を笑わせたという。(ワシントン 古森義久)

≪日米友好の功績多大≫  小泉純一郎首相の話 「日米友好に尽くされた功
績は多大ネものがある。『日米関係は世界で一番重要な二国間関係だ』と強調
していたのが印象に残っている。心から哀悼の意を表する」

≪謹直な政治家だった≫  中曽根康弘元首相の話 「日本を愛し、日本に忠告
し、日米関係が米国にとって最も重要な国際関係であると一貫して主張し、行
動した政治家だった。哲学者であり、かつ謹直な政治家だったが、大使在任中
は、来客に自分でコーヒーをわかし、サービスしてくれるなど人情味豊かな方
だった。日本人が最も尊敬し、忘れることのできない米国の政治家だ。悲しみと
ともに心からおくやみ申し上げる」

≪日本にありがたい人≫  宮沢喜一元首相の話 「米国議会において最長老と
して人望があった人だけに、駐日大使として大変ありがたい人だった。日本の大
使なのか、米国の大使なのか分からないくらい、日本のために働いてくれた」
132卵の名無しさん:02/03/02 18:38 ID:B0QFgkcu
耐用は国内一番の最新設備工場を持つ一流企業です。
133卵の名無しさん:02/03/02 18:49 ID:aJchCPBF
>>132
受託で活路を見いだそうとしているそうで、設備が良くても、
開発に携わる人の意識が問題。
ここは名門のスレだけど、耐用さんは沢○と親しいのかな。
やっぱSTSかぁ
134卵の名無しさん:02/03/03 08:20 ID:YX9Wh5AW
>>132
何の一流?
135卵の名無しさん:02/03/03 11:50 ID:wj27gXRX
>>134
文脈から即して言えば、設備のことが言いたいのだろうけど、
業容と比較して、自社開発品が多いこと、でしょうなぁ
136古森義久:02/03/03 12:26 ID:Bst2wJp3
朝鮮半島統一は韓国に多大な出費
米経済学者、外国の資金必要

【ワシントン1日=古森義久】朝鮮半島の経済統一は北朝鮮と韓国との経済格差が
あまりに大きいため、韓国側に過大な負担が課され、深刻な混乱が起きるという見
通しが米国の経済学者により明らかにされた。韓国がこの過大な負担に耐えるには
外国からの投資拡大を迫られ、そのためには資本市場の開放が不可欠になるという。

ワシントンの民主党系の経済シンクタンク、国際経済研究所のマーカス・ノーランド研
究員は1日、「朝鮮統一に関する不快な算定」と題する論文をまとめた。朝鮮経済を
研究している同研究員はこの論文で、まず朝鮮半島では戦争が起きない限り、北朝
鮮の経済の崩壊、あるいは開放、韓国の北支援など形式はいろいろ考えられるにせ
よ、経済統合は今後数年、不可避になると述べている。

しかし同論文は韓国と北朝鮮との平均国民所得の比較は1995年で7対1、2000年
では12対1という大きなギャップがあり、経済統一の際はその差が北朝鮮住民の南へ
の大量移住を引き起こす、と予測している。とくに北朝鮮の全人口の40%が韓国最北
部まで徒歩で5日の距離に住んでいるため、北の住民の大量南下を放置した場合、
韓国の経済は破滅状態になるという。

同論文によると、北から南へのこうした大規模な移住を防ぐには北朝鮮の平均国民所
得を韓国の60%のレベルにまで急速に引き上げることが必要となるが、2000年に南
北統一が起きたとして、北が韓国にのみ頼る場合、この目標達成には25年、総額1兆
ドルもの経費がかかるという。韓国が北の住民を25年も北に封じ込めることは現実に
は不可能なため、この南北格差解消の作業には外国からの資金が不可欠になるという。

同論文は北朝鮮当局が日本との国交樹立の場合には戦時賠償に相当する資金として
少なくとも120億ドルの提供を期待するだろうと指摘し、南北経済統一の際にもこの規
模の資金要請が日本に対してなされると予測している。しかし同論文は日本の現在の
財政事情ではそれほどの巨額の支出は考えられないとして、韓国が主体となり諸外国
からの民間投資の急速な拡大を代替策として訴えている。

同論文はさらに朝鮮半島経済統合の際に致命的な重要性を持つ外国投資について、現
在の韓国の投資市場は外国からの直接、間接いずれもの投資に関しても障壁が多く、閉
鎖的だとして、その緊急の開放を強く訴えている。

137古森義久:02/03/03 12:31 ID:8YHx+O3B
北朝鮮の軽水炉建設開始へ
KEDO、費用合意は目途立たず

【ワシントン12日=古森義久】 米朝核合意に基づく北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)領
内での軽水炉の建設工事が近く始まり、韓国側要員のほかに北朝鮮側の技術者、労働者
が1千人以上も将来、雇用されることが12日、朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)のス
ティーブ・ボスワース事務局長により明らかにされた。だが肝心の軽水炉の費用分担につい
てはまだ米韓日三国の間でも合意の見通しはついていないという。

事務局長は12日の記者会見でKEDOが韓国電力に委託する形で平壌の北東250キロの
新浦地区に建設する軽水炉二基の工事がここ数週間のうちに開始されると述べた。さらに
KEDOと北朝鮮当局の間ですでに、(1)工事関係者の外交特権、(2)工事関連の輸送、(3)通
信(暗号通信使用の自由)−を保障する三議定書を交わし、KEDOによる工事地区の管理、
北朝鮮要員の雇用契約に関する二議定書の調印を交渉中であることを明らかにした。

事務局長によると、工事は北朝鮮の厳しい冬の到来の前に開始し、第一段階では建設用地
への道路などのインフラづくり、作業員の宿舎建設、土地ならしに着手し、韓国などの要員の
ほか北朝鮮側の技術者、労働者をも雇うことになる。北朝鮮側要員は当初は数10人が必要
だが、数カ月以内に数百人、来年には1千人以上となる。実際の雇用はKEDOが主体となり、
適性の審査や訓練を実施したうえで、個々のケースについて採用を決めていくという。

しかし、軽水炉建設にかかる経費は50億ドルから60億ドルになると推定されているが、事務
局長はKEDOの創設メンバーの米韓日三国がなおその経費分担を交渉中だと述べ、実際に
どの国がどれほどの額を払うかは未定だと述べた。米国側では軽水炉自体の費用は韓国と
日本の両国のほぼ全面負担にするという方針を示し、軽水炉が完成するまでのエネルギー補
充としての重油供与は責任を負うとしているが、議会の反対でその費用の二千万ドルほども
米国単独拠出の見通しがついていない。

事務局長はこの重油の経費調達の困難を認める一方、米朝合意の実施の前提条件とされる
北朝鮮と韓国との南北対話が進展をみていないことを確認した。
138古森義久:02/03/03 12:48 ID:3DjyQ6rl

■米朝核合意 見直し勧告
米超党派元政府高官ら31人/日韓への脅威増加警戒

【ワシントン25日=古森義久】 米国の超党派の元政府高官やアジア専門家31人がブッシュ大統
領に対し米朝核合意の見直しを求める勧告書を送ったことが25日までに明らかになった。勧告書は
韓国と北朝鮮との交流を評価しながらも北朝鮮が韓国や日本に脅威を与える軍事能力の増強をなお
続け、日本を照準に約百基のミサイルを配備していることを対北朝鮮政策の基本的な再検討の理由
にあげているという。

関係筋が明らかにしたところによると、米国の有力外交政策研究機関の外交評議会が中心となる朝
鮮問題研究グループは、朝鮮半島の安全保障に関する調査結果を踏まえて、ブッシュ大統領あてに
22日付で政策勧告の書簡を送った。 書簡は韓国の金大中大統領が主導する北朝鮮との和解推進
の動きを支持するとしながらも、北朝鮮は、この2年間、長距離砲、戦闘機、特殊作戦部隊、弾道ミサ
イルなどにより韓国と日本に打撃を与える能力を増強し続けていると警告し、北朝鮮の経済改革や
平和共存への変化の真意もまだ不明だと述べている。

関係筋によると、勧告書はブッシュ大統領に対し、まず北朝鮮に長距離ミサイルの検証可能な撤廃を
求めることを勧告し、北朝鮮とクリントン政権との間のミサイル削減交渉ではミサイルが実際に削減さ
れているかどうかを確認するための積極的な立ち入り検証に、北朝鮮は反対したうえ、日本に照準を
向けている約100基のノドン・ミサイルを含むすでに配備済みの弾道ミサイルの扱いにも交渉が触れ
なかった点をあげ、これらの点がきちんと実施されねばならないと強調しているという。

勧告書はさらに、米朝間で1994年に結ばれた北朝鮮の核開発凍結に関する枠組み合意には問題
点が多く、その実施が大幅に遅れていることを指摘し、北朝鮮が韓国に対し、核合意による軽水炉の
完成前に電力供給を求めたのはすでに核合意からの逸脱だとして、同枠組み合意の見直しを日本、
韓国、欧州連合(EU)と協議して進めることを勧告しているという。

勧告書の詳細は26日に公表されるが、署名した31人にはウィンストン・ロード元国務次官補、ドナル
ド・グレグ元駐韓大使、ロバート・ガルーチ元朝鮮問題特使、ジェームズ・リリー元駐韓大使など朝鮮
半島問題に関してはトップクラスの共和、民主両党系の元高官や専門家が含まれており、ブッシュ政
権に与える影響は大きいとみられている。

≪米朝核合意≫ 米国と北朝鮮が1994年10月、北朝鮮の核問題を段階的に解決するために調印
した基本合意であり、北朝鮮が軍事転用可能な黒鉛炉開発を凍結、将来解体する見返りに、米国は
2003年までに発電能力200万キロワットの軽水炉を提供し、完成まで年間50万トンの重油を提供
する−などが柱になっている。合意に基づき、北朝鮮での軽水炉建設のための国際事業体、朝鮮半
島エネルギー開発機構(KEDO)が発足した。
139古森義久:02/03/03 13:58 ID:xW3wewyS

■ 核合意全面見直し 米新政権の北政策転換

【ワシントン27日=古森義久】 米国のブッシュ新政権が、朝鮮半島政策で米朝核合意
を全面的に見直すことを決め、北朝鮮との交渉の重点を通常戦力の削減へと移していく
方針を固めつつあることが27日までに明らかとなった。米国政府は同合意で北朝鮮への
供与が決められた発電用原子炉二基のうち一基を通常発電施設に替えたいという意向
をすでに北側に伝えており、日本政府の対朝鮮半島政策にも重大な影響が及ぶことが
確実となった。

北朝鮮の核兵器開発への動きに対し、米国のクリントン政権は94年に北朝鮮との間で
核合意(正式には米朝枠組み合意)を結び、北朝鮮が核兵器用プルトニウムの抽出可能
な黒鉛減速原子炉の建設をやめることと引き換えに、北朝鮮に発電用の軽水炉(原子
炉)2基を2003年までに建設することを約した。

しかし、ブッシュ新政権の複数の関係筋は26日、同政権が米朝核合意を査察や検証に
重大な欠陥があるとして全面的に見直す政策を決めていることを明らかにした。関係筋
はさらにクリントン政権が軽水炉建設が大幅に遅れ、その完成まで米国が北朝鮮に毎年
50万トンの重油を提供することの負担が大きくなりすぎるとの理由から、2000年10月に
軽水炉1基のうち1基を2年ほどで完工できる非核の火力発電施設に替えるという計画
を韓国と北朝鮮に非公式に示したことを確認した。

同関係筋によると、ブッシュ新政権ではこの軽水炉の完成予定が2010年ほどにまで遅
れ、火力発電施設への切り替えが求められること自体がすでに米朝核合意の大きな修
正だとみなし、新政権としてもこの切り替え案を引き継ぎ、強化していく方針をほぼ決め
ている。クリントン政権は通常発電への切り替えを国内向けには公表せず、韓国と北朝鮮
にまず提示したが、韓国はただちにこれを拒否した。だが北朝鮮は拒まず、受け入れの
姿勢を遠回しに示したという。

関係筋によると、ブッシュ政権は朝鮮半島の安全保障ではクリントン政権が北朝鮮の核兵
器とミサイルの開発だけに対処してきたのに対し、核とミサイルへの警戒を保ちながらも当
面は北朝鮮の百万人以上の通常戦力削減に主眼を移す政策を固めている。ブッシュ政権
の国防副長官に指名されたポール・ウォルフォウィッツ氏も昨年七月、ブッシュ陣営の外交
顧問として演説し、北朝鮮の通常戦力削減の重要性を強調した。

関係筋は北朝鮮が総兵力の大部分を韓国との境界に近い地域に配備して、大規模な奇襲
攻撃が可能な臨戦態勢をとったままでいるとして、この大兵力集中こそが朝鮮半島の緊迫
の最大要因とみて、韓国・米国の両軍隊の削減とからめ、その兵力集中のレベルダウンを
図っていくことが最大の緊張緩和策だろうとしている。このため、クリントン政権の核兵器と
ミサイルだけを問題とする政策に歩調を合わせてきた日本としてはこんご対朝鮮半島の姿
勢を大きく変えることも迫られかねない。
140卵の名無しさん:02/03/05 01:19 ID:pIKeMNBw
http://cgi.jp.osakanews.com/cgi-bin/osknews/articles/showarticle.cgi/stock/2002022003
それにしても、ゾロに勝ち組が存在するのでしょうか?
大阪新聞もスポンサーの御機嫌取りとはいえ、公正中立を装うコラムで書くことでもないのになぁ。
PR企画の表示がないと、まずいんとちゃぅ。
141卵の名無しさん:02/03/05 01:44 ID:XwPvyDja
ふぁ餅腎って今年に出るの?
GRの特許は問題ないんでしょうか
142古森義久:02/03/05 01:50 ID:IvaYmeO8

MRTA、公邸周辺を綿密に事前調査

【リマ26日=古森義久】 ペルーの日本大使公邸の人質事件は長期戦の見通しとなった
が、人質だった人たちの証言から犯行グループがフジモリ大統領の母の身柄をとくに押さ
えようとしたことや同公邸周辺の商店や人家をきわめて綿密に事前調査していたことなど
が判明した。

事件が起きた96年12月17日夕、大使公邸のパーティーに招かれ、トゥパク・アマル革命
運動(MRTA)の人質となったリマ在住の元自転車製造企業経営、奥山元女さん(82)は産
経新聞との会見で、「テロリストが突入してきたときまで、私は旧知のフジモリ大統領の母の
ムツエさんと談笑していた。テロリストに命令され、床に伏せたが、ムツエさんも私のすぐ前
で同様にしていた。大統領の姉のフアナ・フジモリ・カガミさんもすぐ後ろに伏せていた。

間もなくテロリストたちが来て、『大統領の家族や関係者はいるか』としつこく問いつめてきた。
だが、みんな『いない』とか『知らない』と答えた」と述べた。奥山さんによれば、MRTA側が
大統領の母や姉が招待客のなかにいることを確実に知っていた様子だったという。

奥山さんは、さらに「テロリストの突入から2時間ほどたって、婦女子が解放されることになり、
ムツエさんを含む年長の私たちは5人のグループとして真っ先に外に出された。テロリストた
ちは大統領の母の顔までは知らず、周囲の私たちが必死で関知しないよう装ったため、ムツエ
さんのことも普通の高齢の女性と思って、解放してしまったのだろう。だがムツエさんは外に出
される前もとくにおびえた感じはなく、自分はいつ死んでも構わないという意味の言葉をもらして
いた」とも語った。

一方、同様に人質となり4日後に解放された商店経営者の添田進さん(68)も産経新聞とのイン
タビューで、「公邸を占拠したMRTAの2番手のアラベと呼ばれる男が、当初の人質約400人
のすべてを尋問し、身元などを追及した。私がこの公邸の近くで花屋を経営しているというと、
『ああハルディン・ラロサだな』と店の名をすぐ正確に口にした。事前に公邸周辺の商店や人家
の状況を詳しく調べていたという印象を強く受けた」と語った。

添田さんはMRTAについて「無益の殺傷はしないと繰り返していた。このときの感じから今後も
彼らが人質を実際に殺傷することはないという気がする」とも述べた。
143古森義久:02/03/05 12:44 ID:bqG/WaMy

■対北朝鮮 「太陽政策」意味ない
ドイツ人医師、米議会で証言 人権抑圧黙殺を非難
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0105/25/paper/today/internat/25int002.htm

【ワシントン24日=古森義久】 北朝鮮で一年半にわたり医療援助にかかわった
ドイツ人医師が23日、米国議会の公聴会で証言し、北朝鮮への諸外国からの援
助物資が軍部に優先して供与されていると批判するとともに、韓国の「太陽政策」も
北朝鮮の過酷な人権抑圧を指摘しない点では意味がないと厳しく非難した。

ドイツの民間人道援助組織の緊急医師団「カップ・アナムーア」に所属している医師、
ノルベルト・フォラツェン氏(43)は23日に米国上院外交委員会が開いた「米国の対
北朝鮮政策」に関する公聴会に出て、北朝鮮の状況について証言した。

フォラツェン医師は1999年7月から2000年12月まで北朝鮮内部で医療活動に
かかわった体験を基に、(1)北朝鮮の飢餓などの災害は人権弾圧の独裁政権の政
策の結果であり、天災ではなく、政権の打倒こそが対策となる、(2)西欧諸国、米国、
日本などからの援助物資は北朝鮮では真に援助を必要とする人たちには達せず、
政府要人や軍人に優先して提供される、(3)各地の一般病院では薬品や包帯が不足
し、点滴の容器にビール瓶が使われるほどだが、軍人用病院は新式の医療機器が
完備されている、(4)食糧援助も地方で飢えている人たちにはほとんど届かず、平壌
のエリートたちはアルゼンチン産のステーキなどの美食を楽しんでいる、(5)政権を批
判する人はみな強制収容所に入れられ、弾圧されるため、一般国民は希望を失い、
精神障害にかかる人が多い−などと述べた。

フォラツェン医師はさらに「私の祖父の世代のドイツ人がナチスに対し沈黙を保った罪
を思うと、北朝鮮の悪魔のような政権の実態をあばくことが私の任務だと感じる」と証
言した。韓国の北朝鮮に対する「太陽政策」については、フォラツェン医師は、金大中
大統領らが北朝鮮の人権弾圧や国家テロへの非難を表明しないことを批判し、「歴史
的にもまれな人権弾圧に沈黙を保つような政策は意味がない」と述べた。

144古森義久:02/03/05 12:48 ID:PyxoXb44

■米に全面テロ攻撃 貿易センタービル崩壊
乗っ取り2機突っ込む 米軍が厳戒態勢
イスラム過激派の犯行?
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0109/12/paper/today/itimen/12iti001.htm

米国防総省とニューヨークの世界貿易センタービルに対し、11日朝(日本時間夜)、ハイ
ジャックされた国内線民間航空機が突っ込むという同時多発テロ攻撃があった。世界貿
易センタービルの二つのタワーが崩壊し、国防総省ビルも激突した航空機の爆風で一部
が吹き飛んだ。また、国務省など米政府中枢に対するテロ情報が飛び交い、混乱に拍車
をかけた。ハイジャックされた航空機だけでも数百人の乗客が搭乗しており、死傷者はこれ
までの米国に対するテロ攻撃でも最大規模になるのは必至だ。ブッシュ大統領は「国家の
悲劇」とし、国内外の米軍が厳戒態勢を取るとの声明を出した。

【ニューヨーク11日=青木伸行】 テロ攻撃はまずニューヨーク・マンハッタンの南端にある
世界貿易センタービル(110階建て、通称ツイン・タワー)に対し行われた。11日午前9時(日
本時間11日午後10時)前、中型民間航空機がタワーの高層部に突っ込み、さらにその5分
後にはもう一機がタワーの別のビル高層部に突っ込んだ。

この攻撃で両方のビルに巨大な爆発の穴が開き、黒煙がもうもうと噴き出した。約1時間後
に、2つともタワーが高層部から崩れ落ち、ニューヨークのシンボルでもあるツイン・タワーは
消え去った。ビル内の従業員らの大半は緊急避難したが、衝突部分と、それよりも上の階に
いた人たちは絶望視されている。

この攻撃に使われた民間機2機はボストン国際空港に駐機中、ハイジャックされたアメリカン
航空機とみられ、乗っていた156人は、犯人とともに即死したとみられる。 ニューヨーク市の
ジュリアーニ市長はツイン・タワーのあるマンハッタン南部全域からの住民避難を決定した。
145古森義久:02/03/05 16:07 ID:hNLo/gsW

経済発展達成後、中国は保有に着手
「尖閣」国際政治学会でテーマに
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9709/html/0904side36.html

【ワシントン3日=古森義久】 ワシントンで開かれた「1997年国際政治学会」の
アジア関連部会で、尖閣諸島をめぐる領有権の問題が主要研究テーマとして選
ばれ、この問題への関心の高さを示した。尖閣問題に関与する日本、中国、台湾
の立場をはじめ国際法からの視点や日米安保条約との関連、米国の政策など広
範な角度からの議論が展開されたが、中国は経済発展を優先させており、まだ尖
閣諸島保有に着手していないが、時期がくればその優先順位を変えると報告された。

尖閣問題は8月28日から31日まで開かれた国際政治学会のアジア太平洋研究
部会で「釣魚島/尖閣諸島=問題の分析と平和解決へのアプローチ」というタイト
ルで取り上げられた。3年に1回、開催される国際政治学会でのアジア関連の最主
要テーマとして各国政治学者によりこの問題がとくに選ばれたことは、尖閣諸島を
めぐる動きへの国際的な関心の高さを反映しているといえる。

研究部会では部会長を務める米国ボール大学のテクアン・チャン教授が、現在の
アジアでは国際政治の観点からは、この尖閣問題が最も重要なテーマのひとつに
なっているとして、問題提起の理由を説明した。

続いてパネリストとしてジョージタウン大学のジェームズ・ファイネマン教授が日中
両国の領有権に関する主張を国際法から論じた。ファイネマン教授は、結論として
「尖閣をめぐる主張の対立を国際法のみで解決することは不可能であり、なんらか
の広範な外交的解決あるいは政治的解決が必要になるだろう」と述べた。 
146古森義久:02/03/05 16:07 ID:hNLo/gsW
中国の政策については北京大学出身で現在はアメリカン大学準教授の趙全勝氏が
「釣魚島は歴史的に中国の一部であり、北京政府はその実態を1992年の領海法
で宣言した」と述べ、中国の公式な立場を説明した。

台湾の政策については、台湾の国際法学会理事長で、メリーランド大学教授の丘
宏達氏が「日本側が釣魚島を中国領とみなしていた地図が存在する」などと述べ、
尖閣が台湾の一部だとする従来の主張を報告した。

日本の政策については記者(古森)が1895年以来、尖閣が一貫して日本の領土で
あり、いわゆる「領有権紛争」というのは存在しないという日本側の立場を報告した。
米国の対応に関しては米国議会調査局専門官のラリー・ニクシュ氏が、米国政府は
沖縄返還の際に日本の尖閣諸島施政権を明確に認めており、現在でも尖閣は日米
安保条約の適用範囲に入るとの見解をとっている、という趣旨を報告した。

報告の後の討論では、丘教授が台湾の立場を代弁する形で「北京政府は釣魚島を
自国領土と宣言するのなら、その保有のために断固たる措置をとるべきだが、現実
にはとっていない」と述べ、中国政府の対応を軟弱として批判した。

これに対し趙準教授は「中国政府が釣魚島の主権については確固たる立場を貫いて
いるが、いまは(日本との関係で)経済発展を最優先させており、領土問題は二の次と
いう観がある。だが適切な時期がくれば、その優先順位は変わり、領土問題を最重視
するようになるだろう」と述べ、中国が自国の経済強化がまだ十分でない間は日本との
正面衝突を避けるため、尖閣問題でも過激な手段は取らないが、経済がすでに強化さ
れたと判断すれば、その政策順位が変わるとの展望を強調した。

ニクシュ氏はクリントン政権が尖閣諸島への日米安保適用に関して明確な言明をしな
かった理由の一つは、日本政府自体が尖閣諸島の領有権を中国に対して断固と明言
はせず、その領土防衛の強固な意思を表明しなかったことにあるようだ、と述べた。
147卵の名無しさん:02/03/05 18:47 ID:eGYPJqb6
>>141
迷門を含めて複数のゾロで出荷を検討しているみたいYO
148卵の名無しさん:02/03/07 22:50 ID:vrfBhrwP
捏造兄弟は発売しますよ
149卵の名無しさん:02/03/08 00:24 ID:fUkIu/f8
どこの使うの?
150卵の名無しさん:02/03/08 01:48 ID:FCgEtRaL
>>149
ファモチジンの入手先は企業秘密。
何社かが薬剤の供給源になって、販社が多方面に渡るものと憶測。
151卵の名無しさん:02/03/08 02:43 ID:fUkIu/f8
>>150 
んな事言わずに、、、

ところで目馬露珍も同じ?
152卵の名無しさん:02/03/08 06:53 ID:ghUXEsMw
ガ○ターも出る?
へ〜〜〜
よ〜やるよ
153古森義久:02/03/08 07:43 ID:cHeK9EZI
汚職ニッポン 透明度G7でワースト3位
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9612/html/1215side04.html

【ワシントン14日=古森義久】 世界各国で国際ビジネスを進める場合、どの国が最も
汚職が多く、どの国が少ないかを多角的に調べた民間研究機関の調査結果がこのほ
ど発表された。それによると、調査対象となった54カ国のうち、汚職度が最も高いのは、
ナイジェリア、パキスタン、中国などであり、逆に汚職を排する透明度が最も高い国は
ニュージーランド、デンマークなどであることが判明した。日本は透明度第17位と、先
進国の中では最下位の部類にランクされた。

この調査は民間の国際ビジネス倫理研究の組織「国際透明化(TI)」により実施された。
TIは本部をベルリンに置き、米国やアジア各地にも支部を開いて、欧米の企業代表が
世界各国でビジネスを行う場合、どの国でどれほど汚職に対処させられるかなどを調
べて各国企業の参考指針としている。

1993年に設立されたTIが国際的な規模で汚職の実態の調査に取り組むようになった
のは、外国で活動する各国の大企業が相手国での取引を成立させたり保持するために
わいろを払う必要に迫られるケースが増し、世界銀行、国際通貨基金(IMF)、経済協力
開発機構(OECD)などの国際経済関連機関でも汚職対処問題を公式に調査課題として
取り上げるようになったからだという。

TIの「1996年汚職認識指数」は世界54カ国について、その国の公務員や政治家が
汚職に関与する度合いを数字で表示している。この場合の汚職は「公務員の買収、公
共事業でのキックバック、公的資金の横領など権力の私的利益のための乱用」と定義
づけられている。

TI米国支部が発表した「汚職認識指数」によると五十四カ国のうち汚職の少ない度合い、
つまり「透明度」は10を満点として、1位がニュージーランドの9・43、2位がデンマーク
9・33、以下スウェーデン、フィンランド、カナダ、ノルウェー、シンガポールと続き、米国
は7・66と15位、日本は7・05の17位と、先進工業国では下位にランクされた。

ナイジェリア(透明度0・69)、パキスタン(1・00)、ケニア(2・21)、バングラデシュ(2・29)、中
国(2・43)などが汚職度が高い国とされている。

調査は各国の汚職そのものを確認し、その程度や範囲を認定したのではなく、一定の国
で商業取引その他の経済活動にかかわる外国企業代表、ビジネスマン、あるいは国際機
関職員が相手国の汚職の範囲をどの程度だと認識しているかがもとになっている。

154古森義久:02/03/08 07:45 ID:cHeK9EZI
日本の低金利、反乱が起きないのが不思議
ニューヨーク・タイムズ報じる
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9610/html/1012side30.html

【ワシントン11日=古森義久】 ニューヨーク・タイムズ11日付は、日本の銀行
預金の歴史的な低金利が一般預金者たちにとって貯蓄を無益なものにし、とく
に高齢の年金生活者たちに深刻な苦痛をもたらしているとする長文の記事を掲
載した。 同記事は銀行の利益のみを優先させるこの低金利措置に預金者たち
の反乱が起きないのが不思議だとの疑問まで提起している。

「低金利の重い負担」という見出しのこの記事は、東京発で11日の同紙経済面
の一面に大きく載せられた。同記事は「米国民なら年率4・5%や5%の銀行金利
でも不満を漏らすのに、日本国民は0・25%というような記録破りの超低金利で
も苦痛に耐えようとしている」と伝えた。

さらに、日本でも1980年代には5万ドル相当の預金で年間2500ドルの利子が
得られたのに、今では125ドルになってしまったとして、高齢の年金生活者や金
利生活者の苦労を詳しく報道している。

記事は「以前は銀行預金の利子で、毎月の電気代が払えたのに、今ではまった
く無理」という65歳の女性の話や「こんな低金利では貯蓄するより旅行や自動車
に金を使った方がよいと思う」という63歳の男性の感想を紹介したうえで、米国
では、1970年代の類似の状況に対し、一般預金者が金融界や政府に対し反乱
に近い抗議の行動を起こしたのに、日本では預金者はなぜかただ嘆くだけで、な
にも行動を起こさない、と論評している。

記事はさらに日本の金融機関がバブル経済の期間に過剰な投資に走って失敗し、
その立て直しのために日本政府がこのような低金利政策をとったという経緯を説
明する一方、日本の預金者が株式市場をも信頼しておらず、外貨預金も種々の
リスクを伴うため、苦境に陥っている、と強調している。

155卵の名無しさん:02/03/09 01:11 ID:5vkL+cC3
サワスターよろしくね
156卵の名無しさん:02/03/11 01:36 ID:2QsVZU/E
157卵の名無しさん:02/03/11 03:23 ID:PyUxOLeo
荒らしがおさまると、あとは沈むだけか。
荒らしの目的な何だったんだろう?
158古森義久:02/03/11 06:42 ID:3Zcl4lS6
■対中ODA170億追加 日本側から申し出
自民の意向通産省が後押し
内需拡大へ“ひもつき”一貫性欠く戦略

【北京30日=古森義久】 日本政府が中国へのODA(政府開発援助)見直しを宣言し
ながら新規追加の援助を急に内定したことは、日本の対中国だけでなく全世界への援
助政策の総合戦略の不在や透明性の欠如、さらにはODAばらまき傾向を印象づけた。

日本政府の今回の中国への「特別円借款」援助は日本側から一方的に中国政府に提
供を申し出て、新規のODAとして受け入れることを熱心に勧めた点でもきわめて変則と
なった。

中国側では同借款のひもつき条件ではプロジェクト価格が高くなるとの懸念から消極的
だったが、日本側が積極的に説得したという。対中ODAは外務省が縮小の方向での見
直しを宣言しているように、北京の日本大使館などでも中国側に「日本国内の批判が強
く、このままでは現行水準の保持が難しい」と説得し、感謝の表明などを促すのが現状
だったのにこうした流れにすべて逆行する形で急に170億余円の供与を決めたのは、こ
の特別ODAの「ひもつき」性が最大要因だという。

内定したプロジェクトのうち北京市内の東直門と西直門とを結ぶ都市簡易鉄道建設では
車両を、西安市の咸陽空港の拡張では航空荷物運搬設備を、それぞれ日本企業から買
うことが「ひもつき」の条件となった。日本側一部関係者はこれまでの対中有償援助はひも
つき条件がなく、日本企業のいまの受注率はわずか一五%にすぎないため、今回の供与
は日本企業に利益をもたらす日本の内需振興の効果があると力説する。だが日本の企業
の利益最優先という理屈は現在までの対中援助政策からは逸脱する。 日本外務省は対
中援助の重点を環境保護や内陸部開発へ移すことを言明し、とくに円借款は都市部の鉄
道とか空港という大型インフラ建設には使わないようにする方針を打ち出してきた。

今回の措置はこうした総合的な政策傾向に背を向け、インフラ建設援助が中国の軍事体制
にどう寄与するかなどの考慮なしに日本企業の利益だけを重視した点で総合戦略と一貫性
に欠けるといえる。

対中援助の政策運用は外務省が主体だが、「特別円借款」は通産省の主管とされる。 日中
関係筋によると、今回の措置は自民党の一部の意向を受けた通産省が先頭に立って強力
に進め、日本の製品や技術のコスト高や円高、さらにはユーロの価値下落での欧州企業の
コスト安などの理由から乗り気でない中国側に対し、候補プロジェクトのリスト提出を熱心に求
めたという。こうした経緯は多くの省庁がからんで外部には不明のまま決定が下される日本の
援助態勢の従来の欠陥を露呈したといえる。

「特別円借款」6000億円が3年間の時限措置である点も、今回の対中供与の理由にあげら
れる。だが「特別円借款」は故小渕恵三首相が九八年末の東南アジア諸国連合(ASEAN)首
脳会議で発表した際、アジア通貨危機で被害を受けた東南アジア諸国が対象であることは明
白にされていた。その後、マレーシアやベトナムに供与され、さらに中央アジアにまで拡大され
たが、現在も対象国は「経済危機の影響を受けているアジア諸国」とされている。

中国はアジア経済危機に対し自国が被害を受けなかったことを強調し、日本の特別借款発表
と同時期に独自の東南アジア経済救済融資十億円を提供した。中国は明らかに日本の特別
借款の対象外に立つわけで、そんな大国への供与は六千億円という巨額のODA支出をまず
決めて、とにかく相手構わず、その額を支出しなければならないという対応をみせる点で援助
ばらまきの印象がきわめて強い。
159卵の名無しさん:02/03/11 18:18 ID:qdlP2USp
>>152
>よ〜やるよ
やるって、捏○・○竄のこと?
160卵の名無しさん:02/03/11 20:41 ID:j2Zg/oAP
161卵の名無しさん:02/03/11 22:22 ID:O/rnwIK4
ド◎ナーも出すのかな?
これこそほんまによーーやるよ
162卵の名無しさん:02/03/11 23:19 ID:9yG8/HkN
捏○と改○の総合医薬品メーカー
163千野鏡子:02/03/12 07:40 ID:ETwzckmi
アジアを変えた夜 (1) 騒がしい年 ミノの波 新興の風 吹き荒れる

東南アジア諸国連合(ASEAN)は今年、創立三十周年を迎えた。いまでは「東アジアの
奇跡」(世界銀行)の一翼を担うほどに成長したASEANが、発足時においては世界はも
とより、域内でさえ、その先行きを疑われたほどだった過去を知る人は、もうそう多くは
ない。

この連合体の誕生に深くかかわっているのが、一九六五(昭和四十)年十月一日未明、イン
ドネシアの首都ジャカルタで起きたいわゆる九・三〇事件である。ひと言でいえば、いま
私たちの目の前に広がる東南アジアの風景は、この事件を転換点としている。

《多くのなぞ》 いわゆると形容したのは事件がいまだに多くのなぞに満ちているからで
ある。インドネシアの公式見解では、インドネシア共産党(PKI)と親共派軍人によるク
ーデター未遂事件とされているが、陸軍内部の権力闘争説から米中央情報局(CIA)、ス
カルノ、そしてスハルト関与説まで異論・反論は多く、真相はいまも二十世紀アジア史上
のミステリーなのだ。

わずか一夜のうちに、陸軍の中枢にある六人もの将軍が惨殺され、その後、全土で始まっ
た共産党大弾圧では三十万とも五十万とも言われる犠牲者を生んだ。それでいながら当時
もいまも、事件と虐殺の記憶はナチス・ドイツやスターリンのソ連、そしてカンボジアの
ポル・ポト政権時代のそれとは比較にならないほどの形しか止めず、歴史のかなたに消え
去ろうとしているかのようにもみえる。

アジアを大きく転換させたそのミステリーにもう一度、光をあててみたいと考え、米国公
文書館に眠る資料と当時の関係者を訪ねて歩いた。しかし、いまは本題に入る前に、事件
のあった一九六五年の世界を少し振り返ってみたい。そのことで、この事件の同時代性も
また浮かび上がってくるように思えるからである。

第一に特筆されるのは、暗殺されたケネディ米大統領に代わって登場したジョンソン大統
領が二月七日、北ベトナムへの北爆の開始を命令したことだろう。暗号名ローリング・サ
ンダー作戦、またの名を持続的北爆という。

米国のベトナムへの介入はいわゆるドミノ理論に基づいていた。《もしインドシナが共産
主義者の手に渡れば、タイ、ビルマ、インドネシアを共産主義者から守れるでしょうか。
マレー、オーストラリア、ニュージーランドは直接の脅威にさらされます。非共産圏の市
場と食料・原料源を奪われた日本は経済的圧力の結果、いずれ共産主義を受け入れること
になり、共産主義はアジアの労働力と天然資源を日本の工業力と結びつけるおそれがあり
ます》アイゼンハワー米大統領はチャーチル英首相にあてた一九五四年四月四日の書簡で
こう訴えている(キッシンジャー著、岡崎久彦監訳「外交」から)。

その北ベトナムを、ソ連のコスイギン首相は北爆開始前日に訪れている。さらに同首相は
中国を訪問して毛沢東主席、周恩来首相と相次いで会談する。ソ連では前年の十月、中国
のいう修正主義者フルシチョフが失脚し、イデオロギー論争はともかく、中ソの国家関係
には一時的に緩和の兆しも見られた。
164千野鏡子:02/03/12 07:41 ID:ETwzckmi
中国ではプロレタリア文化大革命という名の、毛沢東による奪権闘争が始まろうとしてい
た。後に「四人組」の一人として、毛沢東が死去するや逮捕される姚文元が十一月十日に
発表した論文「『海瑞免官』を評す」が文革の狼煙(のろし)とされている。

《対立と衝突》 東西対立、さらには東側内部の亀裂。振り返れば一九六五年の世界は騒
がしかった。六月十九日、アフリカのアルジェリアでは無血クーデターが発生、建国の父
ベンベラ大統領が失脚した。非同盟諸国の力を誇示するはずの第二回アジア・アフリカ(A
A)会議は延期、流会となった。

中国はベンベラに代わって権力を握ったブーメジェン陸軍参謀総長を議長とする革命評議
会支持を打ち出したが、ソ連はベンベラを支持。ここでも中ソ対立が顔をのぞかせた。第
二回AA会議の流産はインドネシアのスカルノ大統領にも打撃となった。

九月、インドとパキスタンが再度、衝突した。中南米では十月三日、フィデル・カストロ
とともにキューバ革命を担ったアルゼンチン生まれのチェ・ゲバラがカストロに別離の手
紙を残して、南米に向かったことが明らかになった。ゲバラはこう書く。

《私は世界のあちこちから、ささやかな力を貸してくれるように誘われている。キューバ
に対する責任のために、きみに禁じられていることが私にはできる。別れの時がきたのだ》
(柳澤英二郎ほか著「危機の国際政治史」)

余談になるが、当時私の学ぶ大学のある男子学生は「ゲバラに会いに行く」と級友たちに
宣言すると退学した。ゲバラ・ブームが日本の若者たちの間でも起きていた。二年後、ボ
リビアの山中でゲリラ戦の最中に逮捕、殺害されたゲバラの遺骨は三十年後の今年、キュ
ーバに返還された。日本は佐藤栄作首相の下、懸案の日韓国交正常化がようやく日の目を
見た。第一回会談が一九五一年に始まって以来、実に十四年がかりのことだった。

さて、インドネシアはこの年、スカルノ大統領の国連脱退宣言で明けた。一月二十日付の
ウ・タント事務総長あて書簡は言う。《マレーシアが安全保障理事会に席を占めることに
なった以上、インドネシア政府は一九六五年一月一日にさかのぼって国際連合から脱退す
ることを本七日付で決定した。…マレーシアが選出されたことは、植民地主義の第二の工
作によるものであって、理事会を愚弄するものだ。…マレーシアの成立自体が東南アジア
に混乱と不安をもたらしているのだ》

一九六三年九月に発足したマレーシア連邦の結成に、スカルノは帝国主義の陰謀を見た。
国際連盟脱退の苦い経験を踏まえ、翻意を求める日本の説得工作も奏功しなかった。

マレーシア対決政策「コンフロンタシ」を掲げるスカルノは国連に挑戦するように新興国
会議(コネフォ)構想をぶち上げ、世界銀行、国際通貨基金(IMF)からの脱退も通告する
など元気だった。だが事実は地平線に沈みゆく太陽のように、その身には落日の時が迫っ
ていたのである。
165千野鏡子:02/03/12 07:41 ID:ETwzckmi

スカルノの凋落とスハルトの登場。これが九・三〇事件のもう一つの重要な側面である。
そして、この二人の周囲には、周恩来や毛沢東、リンドン・ジョンソン、川島正次郎らの
故人とデヴィ夫人をはじめいまなお活躍する人々が重要プレーヤーとして数多く登場する
ことになる。

豆事典

▽ドミノ理論 将棋倒しのように冷戦期の東南アジア諸国が次々に共産化していくことを
警戒し、米国のベトナム介入強化の根拠となった考え方。1954年の東南アジア条約機構(S
EATO)結成時に当時のダレス米国務長官は「東南アジアのすべての国々が中国、北朝
鮮、北ベトナムの後を追って共産主義陣営に陥落することを防がなければならない」と述
べている。

▽アレクセイ・コスイギン(1904−80年) スターリンによる大粛清後に台頭したソ連のテ
クノクラート的党官僚で、1964年にソ連共産党第一書記で首相だったフルシチョフが失脚
した後、首相となり、党第一書記(後に書記長)となったレオニード・ブレジネフと権力を
分担して握った。

▽姚文元(よう・ぶんげん=1931年− ) 中国の文芸評論家。1966年に開始された中国の
文化大革命で毛沢東側近の1人として勢力をふるった。しかし、毛沢東死後の76年、文革
派の4人組の1人として逮捕され懲役20年の判決を受けた。4人組の他の3人のうち、毛
沢東夫人の江青と張春橋は死刑、王洪文は無期懲役の判決だったが、江青と張春橋の死刑
判決は後に無期懲役に減刑された。

▽アジア・アフリカ会議 平和地域の拡大と東西の緊張緩和を目指し1955年4月、インド
ネシアのバンドンに日本を含むアジア15カ国、中東8カ国、アフリカ6カ国の計29カ国の
政府代表が参加して開かれた会議。前年4月に中国とインドが「チベットに関する協定」
で確認した平和5原則を発展させた平和10原則(バンドン10原則)を採択した。しかし、10
年後の第2回会議は開催国アルジェリアの政変で開けず、第1回会議で強調された反帝国
主義、反植民地主義を基調とするアジア、アフリカ諸国の連帯は薄れていった。

▽ウ・タント(1909−74年) 第3代国連事務総長。ビルマ(現ミャンマー)の駐米大使、国
連大使を経て1961年に飛行機事故で急死したハマーショルド国連事務総長の後任となる。
71年末までの在任中は冷戦構造のもとで、国連にとっては無力感を味わうことが多い時代
でもあった。
166千野鏡子:02/03/13 07:04 ID:SgAds6tl

アジアを変えた夜 (2)  ワニの穴 血ぬられた古井戸から始まった9・30事件

インドネシア総選挙がスハルト大統領の与党ゴルカルの記録的大勝に終わって間もない六
月のある日、ジャカルタ市南東部のルバン・ブアヤ(ワニの穴)へと車を走らせた。交通渋
滞が日々悪化するジャカルタでもルバン・ブアヤへの道はとびきりの混雑で有名だ。住宅
地は郊外に伸び、朝晩の通勤ラッシュを生む。加えて内外の賓客が必ず訪れる名所、タマ
ン・ミニ・インドネシア・インダー(美しいミニ・インドネシア公園)も近くにある。

さらに隣接するハリム空軍基地からは、メッカ巡礼の特別機が飛び立つ。インドネシアは
世界最大のイスラム教徒人口を抱える国でもある。 そんなルバン・ブアヤも三十年前は、
ワニの穴という恐ろしげな語感がぴったりの、へんぴなカンポン(村落)だったのだろう。

一九六五年十月一日、金曜日。まだ周囲が闇に包まれていた午前三時過ぎ、多数の兵士を
乗せた十数台のトラックやバスが次々とジャカルタへ向かった。スカルノ大統領の警護に
あたる親衛隊チャクラビラワ連隊や、中部ジャワのディポネゴロ師団第四五四大隊、東部
ジャワのブラウィジャヤ師団第五三〇大隊、そしてジャカルタ軍管区第一機甲旅団などの
面々である。

約二時間後、ハリム空軍基地に引き揚げてきたトラックの荷台には六人の将軍と別の将軍
の身代わりとなった副官一人の計七人がほとんどひん死で横たわっていた。これらの将軍
をメンバーとする将軍評議会によるクーデター計画を阻止し、スカルノ大統領を守ろうと
いう「九月三十日運動」の幕開けだった。 この七人がルバン・ブアヤの古井戸から正視
に堪えない虐殺体として発見されるのは十月三日のことだ。テレビは遺体引き揚げの一部
始終を映し出し、その凄慘な光景が事件の首謀者、ひいては背後のパルタイ・コムニスタ
・インドネシア(インドネシア共産党=PKI)に対する人々の憎しみを全国に広げていく
のに時間はかからなかった。

《観光名所》 それから三十二年。ルバン・ブアヤは全国から来訪者の絶えない観光名所
となっている。きれいに保存された古井戸の周りでは、白いシャツに真っ赤なスカート、
真っ赤なパンツに真っ赤なネクタイのかわいらしい制服の小学生たちがはしゃいでいた。
インドネシアも日本に負けず劣らず制服好きだ。赤と白は国のシンボル・カラーでもある。

少し離れた所では、これまた制服姿の中学生とおぼしき一団がしゃがみこみ、メガホンで
の解説に耳を傾けている。その傍らを深々とスカーフをまとったイスラム教徒の一団が通
り過ぎ、その間にも大型バスが続々と到着して人々を吐き出していく。

古井戸の向こうには戦闘司令部跡や記念の廟が広がる。廟の中央の高い台座には軍服姿の
長大な銅像が七体、インドネシアの国章である巨大な霊鳥ガルーダを背にして人々を見下
ろすように並ぶ。殺害された七人の像である。道を示すように手を差し出し、中央に立つ
のが、当時陸相・陸軍参謀長だったヤニ中将だ。残る六人は陸相第一補佐官パルマン少将、
陸軍第二副司令官スプラプト少将、同第三副司令官ハルヨノ少将、陸相第四補佐官パンジ
ャイタン准将、陸軍法務局長ストヨ准将、そしてテンデアン中尉である。
167千野鏡子:02/03/13 07:05 ID:SgAds6tl
国軍参謀総長兼国防治安調整相ナスティオン大将の身代わりとなった副官のテンデアンが
二十代だったのを除き、いずれも四十代で、インドネシア陸軍の中核を担っていた将軍た
ちだ。

インドネシア国軍は陸・海・空・警察の四軍で構成されるが、九月三十日運動の標的とさ
れたのは陸軍の将軍たちだけだった。ここにもこの事件を解くかぎの一つがある。スカル
ノは自らを脅かす程に力を蓄えた陸軍に、残る三軍を競わせることで、国軍を支配しよう
と考えた。それでも足りず共産党も駒に使った。スカルノの威を借りて、共産党も国軍に
浸透する。陸軍の壁は厚かったが、空軍への浸透度は五〇%とも言われた。九・三〇事件
の背景にはスカルノ、陸軍、共産党、三つどもえの戦いがある。

ただ一人、命拾いしたナスティオンは独立戦争を戦い、国軍西部ジャワのシリワンギ師団
の初代旅団長だった。十七歳も若い陸軍の雄にスカルノは敵意を燃やした。スカルノはナ
スティオンの無事を知って、九月三十日運動への支持を表明せず、距離を置いたとの解説
が流布されてきた。裏返せば、スカルノはナスティオンの力を侮れないものとみていたの
である。九月三十日運動は将軍たちのクーデターからスカルノを守ろうとする将兵たちの
決起というかたちをとった。しかし、親スカルノ派将兵たちのもくろみは、彼らが標的と
した将軍たちの最重鎮である国軍の雄、ナスティオンを討ちもらしたことで崩れた。

《暗闘へ移行》 そして、その後のし烈な権力闘争はナスティオンよりもスハルトを浮上
させ、対立の軸はスカルノとスハルトの暗闘へと移行していく。ナスティオンはスハルト
大統領の下で暫定国民協議会議長を務めたが、一九八〇年には五十人請願グループの一員
として、スハルト体制批判文書にその名を連ねた。

廟の石碑に刻まれた言葉は、声なき将軍たちに代わってこう語りかける。「警戒せよ。再
びこのような事件が起こらぬように」敷地内には将軍たちの遺品、勲章や銃剣、あるいは
写真などを展示した記念館もある。彼らはほとんどが無防備、無抵抗だった。「大統領が
お呼びです」と将軍たちは告げられた。未明の訪問とはいえ、大統領親衛隊の制服を着た
兵士らの言葉に大きな疑いも抱かず従った。当時も今も大統領の命令は絶対である。

もっともヤニ将軍は、パジャマ姿のため「マンデー(水浴)をするから待ってほしい」と言
ったが、兵士の一人に「その必要はありません」と冷たくあしらわれ、すぐさま銃口が火
を噴いてくずおれたと言う。

ルバン・ブアヤには共産党のほう起の歴史を克明にたどった博物館もある。小さな人形の
模型で再現されたほう起の数々は、共産党の破壊活動がインドネシアにいかに災禍をもた
らしたかを念入りに教え込もうとする。

しかし、古井戸には興味津々でのぞきこんでいた小学生たちも、この展示館では面白くも
なさそうに、模型の前を足早に通り過ぎていくのだった。
168千野鏡子:02/03/13 07:05 ID:SgAds6tl
豆事典

▽インドネシア 「インド」に、ギリシャ語の「ネーソス(島)」の複数形がついた名前で
元来は「インド諸島」の意味。赤道をはさみ南北約1900キロ、東西約5100キロの範囲の約
1万の島々から成る世界最大の島しょ国家。人口約2億。イスラム教徒が約87%を占めて
いる。1602年、オランダが現在のジャカルタに東インド会社を設立し、短い英国統治期間
を除き、1942年の日本軍占領まで植民地支配した。第2次大戦終戦直後の45年8月17日、
インドネシア国民党の指導者スカルノが独立を宣言。翌18日、大統領に就任した。

▽ゴルカル 1971年に組織されたスハルト大統領の政権与党。職能グループを意味するイ
ンドネシア語「ゴロンガン・カルヤ」の略称。公務員や官僚が支持母体の翼賛政党で、主
要な参加団体に公務員組合、全国労働者組合などがある。今年5月の総選挙では、425議
席のうち325議席を獲得、得票率は過去最高の75%を記録した。

▽インドネシア共産党(PKI) 1920年5月23日、スマウンを議長にアジア最初の共産主
義政党として結成された。いったん非合法化されるが、45年10月21日、合法政党として再
建された。48年9月8日のマディウンほう起事件の失敗で壊滅的打撃を受け衰退するが、
アイディット議長の下で党勢を再び回復。9・30事件直前には党員300万人、シンパ1500
万人とソ連、中国を除いて、世界最大の共産党に成長した。

▽ガルーダ インド神話の中の想像上の鳥。インド文明の影響を受けた東南アジア諸地域
の神話や美術などによく描かれている。一般には鋭いくちばしとつめ、大きな翼をもつ鳥
の姿で表されるが、くちばしと翼をもった人間の形をとることもある。インドネシアでは
国章、タイでは王室のシンボルになっている。
169千野鏡子:02/03/13 07:07 ID:SgAds6tl
アジアを変えた夜 (3) クーデターに理想的な都市 スカルノをさがせ…

東南アジアの歴史を大きく変えることになる1965年の9・30事件について、米中央
情報局(CIA)の報告書『失敗に帰したクーデター』(1968年)は「ジャカルタはクー
デターに理想的な都市である」と書く。

インドネシアの首都ジャカルタの中心部、ムルデカ(独立)広場にはモナスと呼ばれる独立
記念塔がそびえ、大統領宮殿(官邸)、インドネシア共和国ラジオ放送局、電信電話会社、
陸軍戦略予備軍司令部(KOSTRAD)などが広場を囲んでいる。つまり、クーデターを
挙行した場合に押さえるべき要所は、見事に一カ所に集中していた。

《静かな市内》 9・30事件から8年後の73年9月、南米チリでアジェンデ社会主義
政権を転覆させたピノチェト陸軍司令官によるクーデターをオペレーション・ジャカルタ
と呼んだのは、これに習ったのであろう。

夜明けのジャカルタでヤニ陸相をはじめとするインドネシア国軍の将軍らを拉致(らち)、
殺害した将兵たちは、クーデターの定石通り、インドネシア共和国ラジオ放送局を占拠す
ることも忘れなかった。声明は十月一日午前七時過ぎ、朝の定時ニュースの最後に発表さ
れた。

《九月三十日、木曜日、首都ジャカルタで陸軍内に軍事運動が発生した。…スカルノ大統
領の親衛隊チャクラビラワ連隊大隊長、ウントン中佐に率いられた九月三十日運動は、自
称将軍評議会のメンバーである将軍たちに対抗して立ち上がった。多数の将軍が逮捕され、
重要な通信手段、その他重要施設は同運動の支配下にある。一方、スカルノ大統領は同運
動の保護の下にあり安全である…》(米コーネル大学「現代インドネシア・プロジェクト、
71年」収録の「ウントン声明」より抜粋翻訳)

この朝のジャカルタ。市民は出勤途上、出動した兵士の多さに目を見張るが、軍事パレー
ドが行われる国軍記念日を五日に控えていたこともあり、まさかクーデターが進行中とは
思わなかった人も多い。一部で銃撃戦はあったが、市内はおおむね平静だった。

異変をいち早く察知した市民も、もちろんいる。有力紙ムルデカの主筆などを務めた著名
なジャーナリスト、ロシハン・アヌワルは著書で書いている。

《ものすごい音が聞こえた。一連の射撃音が夜のしじまを破った。私は驚いてとび起きた。
妻も目を覚ました。大通りの方を見ようと寝室のガラス窓の方へ行く。「おそらく泥棒よ。
さっき悲鳴が聞こえなかった?」妻が聞いてきた。われわれの寝室は、大通りのトゥク・
ウマル通りから一〇〇メートルほどしかない。わが家はちょうどナスティオン将軍邸の前
にある。…今、何時頃だろうか。三時前だろうか。ナスティオン邸の前で、一台のトラッ
クが動くのが見えたが、すぐ視界から消えた》(井村文化事業社『嵐の前のインドネシア』)

前回書いたように、ナスティオンは辛くも難を逃れていたから、トラックには身代わりに
なった副官テンデアンが押し込められていたであろう。
170千野鏡子:02/03/13 13:48 ID:qrjZ9jhE
9月30日運動司令部はウントン声明に続いて、新たに「インドネシア革命評議会設置に
関する布告第一号」も電波に乗せた。布告第一号と先の声明との最大の違いは、保護下に
あるとされたスカルノについての言及が一切なくなったことである。

彼らはスカルノを必死で探していた。首謀者の一人、西カリマンタン駐屯戦略予備軍野戦
軍司令官、スパルジョ准将は早朝から、いまかいまかと大統領宮殿でスカルノの到着を待
っていた。CIA報告によれば、スパルジョの任務はクーデター司令部と大統領との間の
連絡役だった。大統領から「クーデター支持」の一言をもらえば、計画は成功に大きく近
づくと考えた。

スカルノの行方を追うことでは、ジャカルタの外交団も同じだった。電話線は至るところ
で不通になっていた。二カ月前に着任した米国のマーシャル・グリーン大使は、公邸から
ムルデカ広場に近い大使館に向かう車中で急を知った。

「午前八時ごろだったろうか。大使館に着くとスタッフらがラジオにかじりついていた。
スカルノ大統領の所在が分からない。私はマダム・デヴィ(大統領の日本人妻デヴィ・ス
カルノ)をよく知っていたので、彼女に連絡を取ろうとしたがダメだった」

現在82歳になるグリーンは米国の首都ワシントンの郊外に暮らす。長身、細みの体は三
十年前と変わらない。国際関係の蔵書が埋まった応接間で、インタビューに応じてくれた。
同大使の証言は今後も、この連載に登場する。

《放送途絶え》 日本の斎藤鎮男大使は中部ジャワを視察旅行中だった。ジャカルタ情勢
が気がかりだった斎藤は、インドネシア語の堪能な館員を同行、一時間おきに携帯ラジオ
を聞かせた。バンドンに入った一日午後、放送が途絶えたとの報告に不吉な予感が走った。

斎藤の著書『外交』(サイマル)は、異変後の行動を次のように書く。

《私は即時出発を決意し、車中の人となった。事件は悪い方に解釈したほうがよい、との
歴史の教訓によったのである。そのころには、もうバンドンのシリワンギ部隊がジャカル
タに向けて移動していたが、そのなかを日の丸を翻した車で追い越し、ジャカルタに向か
って疾走した。途中何回か兵隊に誰何(すいか)されたがそのたびに大声で、“サヤ・トワ
ンブッサール(私は日本の大使だ)”と言うと、圧倒されるように敬礼して通してくれた》

初動は後れをとったが、その後の斎藤はじめ日本大使館は「日本情報」として西側各国に
も貴重な情報源となった。その歴史的経緯もあり、日本とインドネシアは何と言っても近
い。おまけに斎藤は、日本軍政時代からインドネシアとかかわり、スカルノとは旧知の仲
だった。いまなお多数の要職を持って活躍する斎藤の話も連載の中で折に触れ、紹介する。

革命評議会は布告一号に続いて決定一号、同二号を発表する。しかし布告も決定もそれで
最後となった。九月三十日運動の粉砕に陸軍戦略予備軍司令官、スハルト少将が素早く立
ち上がったからである。クーデターは三日天下にもならぬぶざまな結末を迎える。
171千野鏡子:02/03/13 13:49 ID:qrjZ9jhE

代わって右にインドネシア国軍、左にインドネシア共産党を置き、スカルノとスハルトと
いうインドネシアの傑出した新旧二人の人物による、まさに国運をかけた権力闘争が幕を
開けつつあった。


豆事典

▽ムルデカ(独立)広場 ジャカルタ市の中心で、オランダ植民地時代から周囲には統治機
関の建物などが並んでいた。現在は大統領官邸をはじめ、中央官庁の建物が並び、広場中
央の高さ138メートルの独立記念塔の台座内の展示室には1945年8月17日にスカルノが読
み上げた独立宣言文が収められている。独立宣言から1カ月後に行われた独立集会には、
インドネシア全土から10万人以上がこの広場につめかけた。

▽サルバドル・アジェンデ(1908―73年) チリの政治家、社会主義者。下院議員、上院議
員、上院議長を歴任し、1970年に社会党や共産党などに推されて大統領に当選、人民連合
政権を樹立した。議会を通じ社会主義国家を目指す「チリの実験」として注目された。73
年9月の軍事クーデターで、大統領府にたてこもって抵抗、死亡した。

▽アウグスト・ピノチェト(1915年― ) チリの軍人、政治家。1973年に陸軍総司令官。
同年9月のクーデターでアジェンデ政権を倒して軍事評議会議長となり、74年に大統領に
就任、軍事独裁体制をしいた。88年、信任を問う国民投票で大敗し、90年3月に任期満了
で退任した。

▽ロシハン・アヌワル(1922年― ) インドネシアのジャーナリスト、作家。日刊紙の記
者をした後、1947年に週刊誌「シアサット」を発刊。48年には日刊紙「プドマン」の発行
者兼編集長となった。

▽ウントン声明 声明は次の4点が骨子となっていた。(1)将軍評議会はCIAに支援さ
れた国家転覆運動で、最近とくに8月第1週にスカルノ大統領が重病の時から極めて活発
化した(2)スカルノ大統領の病死という彼らの望みは現実化しなかった(3)将軍評議会は
その目的達成のため、10月5日の国軍記念日に東部、中央、西部ジャワから部隊を導入、
軍事力を誇示し、直前には反革命クーデターさえ計画していた(4)ウントン中佐が9月30
日運動に乗り出したのは、この反革命の阻止のためであり、それは偉大なる成功を収めた。
172千野鏡子:02/03/13 13:49 ID:qrjZ9jhE
アジアを変えた夜 (4)  デヴィ夫人との口論  大統領の行動はすべて裏目に  

1965年9月30日の夜から10月1日にかけてインドネシアのスカルノ大統領はどこ
で何をしていたのだろうか。戦後アジアの動向を大きく変える転換点となった、その夜の
スカルノの行動を残された資料と証言によって再現しよう。

《関与の疑惑》 30日夜、スカルノはジャカルタ市内のスナヤン競技場で開かれた技術
者の全国会議に出席した。午後11時ごろ、いったん大統領宮殿(官邸)へ戻った。 当時、
スカルノは月曜から木曜までを日本人妻である第三夫人のデヴィとジャカルタ市内のヤソ
オ宮殿で過ごすのが習わしとなっていた。金曜と週末はジャカルタの南約六十キロにある
ボゴールの第二夫人、ハルティニと過ごしたが、新たに第四の女性、ハルヤティ夫人が登
場してからはハルヤティのもとで金曜日を過ごすこともあった。

大統領官邸を出たスカルノの車はムルデカ広場からさほど遠くないタムリン通りの角に立
つホテル・インドネシアに向かった。木曜日のその夜、デヴィがイラン大使夫妻の招きを
受け、ホテル・インドネシアのサパークラブで食事をしていたからだ。いまではその面影
もないが、このホテルは当時、ジャカルタ随一の社交の場だった。

次は『デヴィ・スカルノ自伝』(文芸春秋)からの引用である。

《大統領がサパークラブまで上がって来られるはずはなく、護衛の人の知らせで、私は一
人で下へ降り、大統領と同乗してヤソオ宮殿へ帰った。大統領官邸からホテルまでが車で
十分、ヤソオまでが六分か七分だから、私たちが自邸に着いたのは午前零時前だったと思
う。大統領はお味噌汁の好きなかただったし、あのころは日本人のコックもいたので、お
やすみ前にワカメと半熟の卵が入った味噌汁を差し上げた》

デヴィの自伝によれば、ぐっすり就寝したスカルノは何も知らぬまま、翌朝午前六時から
六時半にかけて護衛を伴い大統領宮殿へと向かった。彼が無線連絡で事態を知るのは、そ
の車中だった。親衛隊は警察から事件の報を早々と入手していたが、それまでスカルノに
連絡を取ることができなかったのだ。

スカルノは、大統領宮殿が所属不明の部隊に包囲されていることを知り、万一を考えて宮
殿には行かないよう要請されると、行き先をハルヤティの家へと変えた。 そして、ハル
ヤティの家に到着するやいなや、ナスティオン大将が間一髪、難を逃れたことを知る。米
中央情報局(CIA)の報告書『失敗に帰したクーデター』(一九六八年)によると、その瞬
間のスカルノは非常な驚きを示した。

《その驚きが事件そのものへの驚きか、ナスティオンが逃れたことへの驚きかは分からな
い》 同報告はこうした表現を使ってスカルノの事件への関与を疑っている。 この後、ス
カルノは自らの判断でハリム空軍基地へと向かう。緊急時の脱出用ヘリが用意されたハリ
ム空軍基地が、一番安全ではないかと考えたからだとは後になっての説明である。
173千野鏡子:02/03/13 13:51 ID:qrjZ9jhE

しかし先の『デヴィ・スカルノ自伝』は《このハリム基地行きは、彼の命運を制する決定
的なマイナスになった》と書く。

デヴィは今年、滞在中の東京のホテルで、インタビューに応じてくれた。私がハリム基地
行きの件を話題に上せると、まるで昨日のことのように悔しそうな表情を浮かべて言った。

「今から思えば、大統領が10月1日から起こした行動は全部、ミステークですね。まず
第一のミステークはヤソオ宮殿から真っすぐ官邸へ入らなかったこと。官邸へ行けばまだ
いろいろな将軍たちとも連絡をとれたのに、危険だからと他所へ行ってしまった」

ハリム空軍基地はクーデターを起こしたウントン陣営の出撃基地であり、将軍らの遺体が
投げ込まれた古井戸のあるルバン・ブアヤに隣接していた。

「死体がほうり込まれたなんて、大統領が知っていたらハリムになんか行かない。それこ
そ知らないから大統領は行ったんです。ところがスハルトさん(現大統領)たちはすでにそ
の情報(遺体の行方)をキャッチしていて、(そこへ行った)大統領もこの事件に関与してい
たのではないかと疑いを持たれた。私、見ていてすぐ分かりましたね。あの朝からの大統
領の行動は神に見放されたというかすべてが逆、逆でした」

《無事の連絡》 さらにデヴィは「いまはもう声を大にして言ってもよい時期だと思う。
これだけはぜひ書いてほしい。私の意見としても」と前置きして、事件への見方をこう述
べた。 「事件は共産党が起こしたのではない。軍内部の争いです。アメリカの支援があ
って(軍は)勝った。スカルノは負けた。コミュニスト(共産党)のクーデターというのは、
いまの政権のストーリーです。歴史は勝者が書きますから」

話が少し先へ行き過ぎたようだ。 スカルノの“ミステーク”は続く。空軍基地でオマー
ル・ダニ空相・空軍司令官や西カリマンタン戦略予備軍野戦軍司令官、スパルジョ准将に
会ったこともそうだ。二人とも、九月三十日運動の革命評議会に名を連ねていた。ハリム
空軍基地行きは、スカルノの身をクーデター側に置かせる形にしたのである。 事態が急
を告げる中、スカルノはデヴィに無事を知らせる。今日なら携帯電話の出番だが、手紙を
連絡係に託した。

《私は元気で“某所”にいる。昨夜、陸軍部内で事件があった。その“反乱”とかをやっ
た連中は、私を救おうとしたのだ。私に危害を加えようというんじゃないから、心配する
必要はない》(『デヴィ・スカルノ自伝』から)

その夜、スカルノにひそかに会ったデヴィは、「これからマディウン(中部ジャワ)へ行く
ところだ」と聞かされ、猛反対する。「そんなことをなさったら、連絡も指揮もとれない
し、国民の混乱と不安はつのるばかりです。どうしてもおいでになるなら私も連れていっ
てください…」「女の来るところじゃない」「足手まといとおっしゃるのですか」押し問
答すること約一時間。レイメナ第二副首相を見つけたデヴィは、すがる思いでスカルノに
再考を促すよう頼むと帰宅した。
174千野鏡子:02/03/13 21:19 ID:i3na+IEV
■豆事典

▽スナヤン競技場 ソ連の援助で1962年、ジャカルタ市内に建設された10万人収容の大ス
タジアムで、同年8月の第4回アジア競技大会の会場となった。この大会でスカルノ大統
領が台湾とイスラエルの参加を拒否したため、インドネシアはオリンピック委員会から除
名された。スカルノ時代は8月17日の独立記念日の演説もここで行われた。

▽デヴィ・スカルノ(1940年− ) 東京・赤坂のナイトクラブのホステスをしていた1959
年、来日中のインドネシア大統領、スカルノと知り合い、62年にインドネシア国籍を取得
して第3夫人となった。日本名・根本七保子。スカルノ失脚後、パリに亡命。83年に永住
を決意してインドネシアに戻った。

▽ヤソオ宮殿 デヴィ夫人に与えられたジャカルタ市内の宮殿。自殺した弟、八曾男の名
前がつけられた。現在は軍事博物館となっている。

▽スカルノの夫人たち 大統領時代のスカルノには4人の妻、つまり大統領夫人がいた。
スカルノは流刑時代(1933−42年)に流刑先のスマトラ島で教師をしており、43年に結婚し
た第1夫人ファトマワティはその時の女生徒だった。第2夫人のハルティニとは大統領就
任後の54年に結婚。この時、国母として国民の人気も高かったファトマワティは怒って家
出したが、離婚には応じなかった。このためハルティニは第1夫人への配慮からジャカル
タの大統領官邸でなく郊外のボゴールに住むことになったという。スカルノはさらにその
後、若い第3夫人デヴィ、第4夫人ハルヤティと結婚した。
175千野鏡子:02/03/13 21:20 ID:i3na+IEV

アジアを変えた夜 (5) 運命の分かれ道  れぎぬを着せられ…殺された

インドネシアのスカルノ大統領夫人、デヴィは1965年10月1日の夜、スカルノが中
部ジャワのマディウンへ行くことに強く反対した。 マディウンはインドネシア共産党(P
KI)勢力の牙城だった。すでに1日昼には、9・30事件の背後に共産党がいるとのう
わさがジャカルタで持ち切りだったのを、デヴィは独自の情報源から知っていた。マディ
ウン行きは大統領のために絶対にならない。これはデヴィの直感であり、確信だった。

《存亡の危機》 マディウンは、人々にいまわしい記憶を蘇(よみがえ)らせもする。オラ
ンダとの独立戦争さなかの1948年9月18日、PKIなど人民民主戦線と国軍の一部
が反乱し、ジャワ・ソビエト共和国を樹立した。マディウン事件と呼ばれている。大統領
にソ連から帰国間もない共産党のムソ党首、首相にシャリフディン元共和国首相が就任し
たが、革命政府は間もなく倒され、共産党は壊滅的打撃を受けた。

それを党員300万人と非共産圏で最大の共産党に再建したのが、アイディット議長やル
クマン第1、ニョト第2副議長らだった。 マディウンはスカルノにも関係が深い。マデ
ィウン事件の掃討のため国軍が弱体化したすきを突いて、再植民地化を狙うオランダが空
てい部隊を投入、当時の首都ジョクジャカルタを占領しスカルノやハッタ副大統領らを逮
捕したのだ。

国軍の抵抗と国連安全保障理事会の釈放要求決議などの前にオランダは翌年、スカルノら
を釈放するが、事件はインドネシア共和国にとって存亡の危機であった。スカルノは19
49年8月17日の独立四周年記念演説でマディウン事件に言及している。

《わが国は、まことにくるしい災厄の試練をうけた。この毎日をおもいかえすとき、私は
胸のつぶれる思いがする。…中略。おびただしい国家の財宝がついえ、無数の国民がくる
しみ、罪なき多数の人々が生命を失ったのである》(日本インドネシア協会訳編『スカル
ノ大統領演説集』から)

結局、スカルノはマディウン行きをやめ、ジャカルタの南約60キロのボゴール宮殿に向
かう。10月22日の米国務省公電は、スカルノのこの変心を知ったアイディットが怒っ
て自分のコートを床に投げ付けたという目撃談を、情報の一つとして送っている。 アイ
ディットもハリム空軍基地にいた。同夜、彼は中部ジャワに護衛とともに飛び去る。

スハルト少将の追っ手が迫っており、共産党勢力を立て直すためだったとされるが、永遠
に姿を消すことになる。

デヴィにすれば、ボゴール行きも間違いだった。「ボゴールにいるハルティニ夫人という
のは、アイディットやニョトとすごく親しく、PKIを擁護していました。だから、左派
系の人たちはボゴールのスカルノに会いに行けるけれど、軍部の人たちは会いたいと思っ
ても行けない。私は(ボゴール滞在にも)すごく反対しました。ハルティニさんの所に大統
領が行くのが個人的に嫌とか、そんなことではなくて、連絡が取れないからです」
176千野鏡子:02/03/13 21:21 ID:i3na+IEV
スカルノをめぐって張り合う女性同士の嫉妬心からではない、そう言いたげだった。実際、
彼女の反対は正しかったのである。スカルノの耳には左派の情報しか入らず、情勢判断は
ますますおかしくなった。

例えば10月3日朝、スカルノがラジオを通じて発表した声明は次のようなものだ。
 (1) 空軍が9月30日運動に関与したという非難は正しくない。
 (2) ハリム空軍基地に行ったのは自らの意思だ。
 (3) 空軍と陸軍を衝突させるな。
 (4) 国家とインドネシア革命のために国軍の全軍人は団結し私の命令に従え。
前途に不安を抱く国民が待っていた大統領の言葉とは、このような内容だったろうか?

10月3日の米国務省公電は「スカルノ演説は奇妙だ」と述べている。 スカルノは、将
軍らを襲った事態に遺憾の意を表すこともなければ、大統領親衛隊でありながら事を起こ
したウントンらの告発もせず、さらには素早く治安回復に動いたスハルトや部隊の評価も
せず、共産党の役割にも言及しなかった。スカルノは、あたかも事件が存在しなかったか
のように、自らの権力も指導力も微動だにしなかったかのように振る舞った。その認識自
体がもはや現実と大きくかけ離れていたのである。

《追悼の言葉》 10月5日、国軍記念日恒例のパレードに代えて、国葬のため将軍たち
の柩を乗せた装甲車が、ルバン・ブアヤからさほど遠くないカリバタ国軍英雄墓地へと向
かった。『デヴィ・スカルノ自伝』にはナスティオン将軍の追悼の言葉が紹介されている。

《弟たちよ−。インドネシアが独立してから20年、君たちがこの新生の国に、そしてわ
れわれの大統領に、どんなに忠誠を尽くしてきたかを、私はよく知っている。弟たちよ、
君たちはぬれぎぬを着て殺された。もし、ぬれぎぬが真実であるのなら、私も、いつでも
君たちのように殺されよう。しかし、これはぬれぎぬだ、ぬれぎぬだ!》

銃撃で負傷した足を引きずり、国葬に参列したナスティオンの言葉に人々は事件に対する
怒りと悲しみを新たにした。例えば、国軍が葬儀を反共キャンペーンの一環に利用してい
るのではないかなどと考えを巡らすことができるような状態ではなかった。葬儀の模様は
テレビやラジオで報じられ、多くの国民同様にデヴィも泣きじゃくりながら見ていたとい
う。中国は葬儀を欠席した。中国大使館はなぜか弔意の半旗すら掲げず、間もなく怒った
武装部隊の乱入を受ける。

スカルノは出席しなかった。国民と常に一体であることを意識してきたのに、肝心の瞬間
に国民と気持ちを共有しえなかった。事件についてスカルノは「革命という大洋にこの程
度のさざ波はつきもの」とさえ述べる。もし葬儀に参列し、自分の目で遺族や兵士、市民
たちの悲嘆と怒りを見ていたら、さざ波などと言い切ることができたかどうか疑問である。

葬儀の陣頭に立ったのはスハルトだった。スカルノはボゴール宮殿に10月9日まで滞在
する。その間にジャカルタでは共産党を弾劾する大集会が開かれ、共産党本部や幹部の家
が焼き打ちにあった。その動きは燎原の火のように全国に広がっていく。運命の分かれ道
である。インドネシアはスカルノからスハルトへと大きく動き出していた。
177千野鏡子:02/03/13 21:22 ID:i3na+IEV

■豆事典

オランダとの独立戦争: インドネシア共和国は1945年8月17日、独立を宣言したが、旧
宗主国のオランダは認めず、ジャカルタをはじめジャワ島の主要都市を占領。これに対し
共和国側は国軍を編成してゲリラ戦を展開した。48年のマディウン事件後、オランダ軍が
内政の混乱に乗じて共和国の首都ジョクジャカルタを空襲して、スカルノ大統領らを捕ら
えたが、東南アジアの安定化を望む米国の意向もあってオランダの行動は国際世論の支持
を得られず、49年のハーグ円卓会議でインドネシアの完全独立を認めることになった。


ディパ・ヌサンタラ・アイディット(1923−65年) : インドネシア共産党の指導者。日本
軍政下の1943年、共産党に入党。48年のマディウン事件で崩壊した党を再建し、53年に党
書記長就任。スカルノ大統領支持の大衆路線を展開し、党を資本主義国最大の共産党に育
てあげた。軍部をけん制するスカルノに重用され、国民議会副議長などの要職を歴任した
が、65年の9・30事件の際、逃亡先の中部ジャワで捕まって射殺された。

ジョクジャカルタ: ジャワ島中南部の古都。1755年にマタラム・イスラム王国が分裂し
た後、ジョクジャカルタ侯国の初代王が新王国の都をこの地に定めた。1946年から49年に
かけて、独立戦争時のインドネシア共和国の首都でもある。近郊に仏教遺跡ボロブドゥー
ルがあり、インドネシアではバリ島に次ぐ観光地。

モハマド・ハッタ(1902−80年) : インドネシア共和国初代副大統領。オランダ留学から
帰国した1932年に「インドネシア民族教育協会」を結成し、独立獲得のために民衆を教育
することに重点をおいた。34年に逮捕されたが、日本軍によって救出され、以後、スカル
ノとともに政治活動の先頭に立った。45年8月17日の独立宣言にスカルノとともに署名し
て初代副大統領に就任。56年にはスカルノの容共、反議会路線に反発して副大統領職を辞
任した。

カリバタ国軍英雄墓地: ジャカルタ郊外にあり、オランダとの独立戦争の戦死者ら軍人
が葬られている。埋葬者には第2次大戦後、インドネシアにとどまり、独立戦争で死亡し
た日本人も含まれている。

178卵の名無しさん:02/03/14 00:30 ID:e7qeqBPP
沢井最高!!
179千野鏡子:02/03/14 13:19 ID:lIS6ljwx
アジアを変えた夜 (6) 電光石火の行動 ナゾの大佐は病院から消えた

スカルノ大統領の九・三〇事件をめぐる言動には、事件関与説が出てくるのも無理がない
ほどに疑問符がついた。一方で、スハルト少将(現大統領)は事件に電光石火のごとく行動
を起こし、決起部隊の鎮圧に成功して国権の最高位まで駆け上がっていった。その鮮やか
すぎる行動にも、これまた疑問が消えない。

《沈着たれ》 スハルトの口伝による伝記『スハルト自伝−ドゥウィパヤナとラマダンに
語る』には、事件当夜の行動が次のように書かれる。

《一九六五年九月三十日、午後九時頃、私は妻と四歳になる私たちの息子のトミーを見舞
うため、ガトット・スブロト病院にいた。熱いスープをかぶる事故で火傷の手当てを受け
ていた。私たちは最愛の息子と数時間一緒にいた》

トミーとは三男のフトモ・マンダラ・プトラ氏。現在は世界貿易機関(WTO)への提訴問
題で揺れる国民車メーカー、ティモール・プトラ・ナショナルの経営で知られる実業家で
ある。

《夜十時頃、私はラティフ大佐がトミーの病室の前を通り過ぎるのを見た。夜更けになっ
て妻は、まだ一歳の末娘を使用人とハジ・アグス・サリム通りの家に残して来たので、私
に帰るよう言った。そこで私は妻とトミーにおやすみを言った。帰宅するやいなや、私は
すぐ眠りについた。十月一日、午前四時半頃、インドネシア・テレビのカメラマン、ハミ
ッドが立ち寄り、何カ所かで銃撃を聞いたと告げた。その時は、私はそれほど気にしなか
った。…中略。ブロト・クスマルジョが来て何人かの陸軍高級将校が拉致されたと切迫す
るニュースをもたらした。私はすぐさま野戦服に着替えた》

自伝はこの後、時々刻々と行動をつづる。午前六時、身支度を整えトヨタの小型四輪駆動
車を駆って、ムルデカ広場の陸軍戦略予備軍(KOSTRAD)司令部に向かう。事件の報
告に来たサジマン中佐には「ヤニ陸軍参謀長に代わり、私が暫定的に陸軍の指揮を執る」
と告げ、心の中で「沈着たれ」とジャワの格言をかみしめる。

午前八時半には、九月三十日運動に参加した部隊の副隊長をKOSTRADに呼び、午後
六時までに原隊に復帰するよう求める。

午前九時、一回目の参謀会議招集。首謀者ウントン中佐の背後には共産党(PKI)がいる
と説明し、クーデター粉砕の同意を取り付けた。

ウントンとスハルトの二人は長年の知己だった。スハルトが中部ジャワのソロで第一五連
隊の隊長当時、ウントンは四四四歩兵中隊を率いていた。スハルトによれば、ウントンは
マディウン事件後の再建共産党の幹部で中国帰りのアリミンの弟子だ。

昼過ぎには二回目の参謀会議を開き、早くもハリム空軍基地の奪還を検討している。大統
領が基地にいることも把握し、奪還は大統領の退去を確認してからとの余裕さえ見せる。
180千野鏡子:02/03/14 13:20 ID:lIS6ljwx
スハルトの行動は、あらかじめ計算されていたかのように沈着冷静だった。陸軍幹部の中
でスハルトだけがなぜ、襲撃を免れ得たのか。そして、素早く行動を起こすことが可能だ
ったのか。なぞは尽きない。

《危うい均衡》 世界中の九・三〇事件の研究者たちが注目してきたのは、先の『自伝』
にさりげなく記されたラティフの名前である。ラティフは最初から謀議に参加していた中
心的人物である。しかしウントンら首謀者が殺害、もしくは早々と処刑されていく中で、
ラティフは逮捕の記録はあるが、その後の消息を絶っている。裁判は書面のみで姿を現さ
ず、いまなお獄中の可能性が高い。要するに存在自体がミステリーなのだ。

スハルトはラティフとも面識がある。スハルトがディポネゴロ師団の参謀長、師団長時代
の部下だったのだ。スハルトの『自伝』には、事件直前の三十日夜、ラティフを病院で「見
た」と書かれているが、実は「会った」のではないか。これが少なからぬ人が抱いている
疑問である。

スカルノの日本人妻のデヴィ夫人も、私に「二人は会ったといわれています。何を話した
かは分かりません。知りたいところです」と語った。京都大学東南アジア研究センターの
白石隆教授は、著書『スカルノとスハルト』(岩波書店)で次のような興味深い仮説を展開
している。

《彼がどのような思想傾向の持ち主か、誰と親しいか、スハルトが知らないはずがない。
誰がターゲットか、別に具体的に言わなくても、「進歩的将校」が決起しようとしている、
こうラティフが言って、暗にスハルトの支持を求め、スハルトが何も言わずただうなずく、
そういうことがおこったのではないか。…中略。ラティフはスハルトの承認が得られたと
考えたのだろう。そう考えれば、謎は氷解する。…中略。これはもちろん仮説である》

共産党は陸軍の反共攻勢を恐れ、陸軍は共産党の台頭に危機感を抱き、その一触即発の緊
張の中でスカルノが危うい均衡を保つという図式は、何かが仕掛けられ何かが起きること
を、当然のように予想させた。当時、危険を察知して、東京に避難していたインドネシア
高官もいたという。それが一九六五年のインドネシアの政治状況だった。

スハルト自身は、標的から外された理由について、スハルト評伝『ほほ笑みの将軍』の著
者O・G・ローダーに「彼らは私を重要でない将校と見なしていたから」と答えている。

一方、ジャカルタでは事件当夜、スハルトが旧知のドクン(まじない師)の助言で、家を不
在にし、助かったとの噂(うわさ)話も広く流布した。ドクンが「九月三十日夜から一日に
かけては自宅を不在にし、二つの水が合流する場所で過ごせ」と指示し、スハルトは川が
海へ流れ込む地点へ息子と夜釣りに行っていたという。
181千野鏡子:02/03/14 13:21 ID:lIS6ljwx

『スカルノ大統領の特使−鄒梓模回想録』(中公新書 増田与編訳)は、この情報に基づい
ているのであろう。こう書いている。

《なおスハルト将軍は、日本軍のジャワ占領時代の第一六軍参謀部(情報担当)別班の通訳
中島正周とジャカルタ沖のスリブプラウに夜釣りに出ていて、難を逃れたという信頼すべ
き噂がある》

これについてスハルトはローダーに「私は病院に行き、帰って寝ただけだ」と一笑に付し
ている。ただし噂話には一片の真実も含まれる。スハルトのドクンを頼りにする性向が、
早くも語られているからだ。


豆事典

▽ティモール・プトラ・ナショナル フトモ・マンダラ・プトラ氏が経営する国民車メー
カー。インドネシア政府から税制上の優遇措置を与えられ、1996年9月、韓国の起亜自動
車と提携して韓国内で国民車「ティモール・プトラ」(1500cc)を製造、それを無税で輸入
する方式で国内販売を開始した。これに対し日、米、欧州連合(EU)は10月、国民車の優
遇措置は外国車の不当差別に当たるとして世界貿易機関(WTO)に提訴。インドネシア政
府は個別交渉で、提訴の取り下げを求めている。

▽陸軍戦略予備軍(KOSTRAD) 1963年、スハルト陸軍少将を初代司令官として発足。
当初は歩兵3個旅団と降下部隊で構成されていたが、66年までに砲兵部隊、空てい部隊が
加わった。65年の9・30事件後、スハルトが陸軍司令官として治安や秩序回復に乗り出す
と、KOSTRADはその中核として反共、反スカルノ作戦を執行した。

▽ウントン(1926−66年) 1965年の9月30日運動の首謀者。陸軍中佐で大統領宮殿のチャ
クラビラワ親衛隊の第1大隊長。10月1日に国営ラジオ放送局を占拠し、自ら革命評議会
議長を名乗って新政権樹立を宣言したが、10月13日、スハルトが創設した治安秩序回復作
戦本部に逮捕された。66年2月、特別軍事法廷で死刑判決を受けて処刑された。

▽ドクン 一般に占い師を指す。インドネシアでは、ジャワ島をはじめ各地で精霊の使者
として尊敬され、社会的地位は高い。病気を治すドクンや予言を行うドクンなど、それぞ
れに専門分野があり、政府の閣僚クラスになるとそれぞれが予言やお告げを行うドクンを
抱えている。スカルノ前大統領とスハルト現大統領には別々のドクンがいたが、スカルノ
の失脚は彼のドクンが位負けしたからだと説明されることもある。重要行事の日程や政府
用庁舎の建築場所の決定なども、ドクンのお告げに左右されることも少なくない。

182千野鏡子:02/03/14 13:22 ID:lIS6ljwx
アジアを変えた夜 (7) 最初の対決 スハルトがカードを切った

クーデター鎮圧に立ち上がったスハルト少将(現大統領)とスカルノ大統領は10月2日午
後、事件後初めてジャカルタから南60キロのボゴール宮殿で対面する。宮殿にはレイメ
ナ第二副首相、プラノト少将ら大統領の側近たちも顔をそろえた。

『スハルト自伝』で描かれる二人の対面は息詰まるようである。そでをまくり上げながら
スカルノは言った。「スハルトよ。こういう出来事は、革命にはつきもののありふれたこ
とだ」ひと呼吸おいてスカルノは続ける。

「陸軍は他の国軍を疑ってはいけない。オマール・ダニ(空軍司令官)は、空軍は事件につ
いて何も知らないと私に知らせた。そこで私は彼に『陸軍も何も知らないし、事件に関係
ない』と請け合った」

何もなかったのだ、あるいは何もなかったことにして後のことは自分に任せよ−スカルノ
はそう言っているのである。

《軍の指揮権》 「しかし事実は違います、パッ(敬称)」スハルトは即座にさえぎり、多
数の共産主義青年グループがハリム空軍基地周辺で軍事訓練をしていたこと、彼らの武器
が空軍のものと類似していることを述べた。「うそです。空軍のものではありません」同
席していたオマール・ダニが口をはさんだ。しかし、スハルトが証拠として差し出した武
器は、調査の結果、空軍の目録にあるものと確認された。ダニは無言だった。

二人の対面の最大のヤマ場は、軍の指揮権をめぐって訪れる。「ハルト(スハルトのこと)、
私が陸軍を直接指揮をすることになった。日常業務にはプラノトを指名した」お前は勝手
に指揮を執るな。スカルノは暗にそう言っている。前日の一日午後八時四十五分、クーデ
ター派から奪還されたインドネシア共和国放送は、陸軍戦略予備軍(KOSTRAD)司令
部が事態を掌握し、指揮を執っているのがスハルトであることを伝えていた。

スハルトは必死で自分の感情を抑えた後、思い切って言った。「この機会にご報告します
が、私は自らのイニシアチブで一時的に陸軍の指揮権を執りました。これはヤニ将軍が不
在のとき、彼に代わって私が任命された過去の経験によるものです。加えて陸軍のリーダ
ーシップの空白を避け、国民と地方司令官に平静を呼びかけるため、私は放送でそれを発
表したのです」 スハルトはここで一枚、大きなカードを切る。

「大統領、あなたはプラノト将軍を任命しました。陸軍のリーダーシップの二重性を避け
るため、私は治安と秩序回復の責任を返上します」、「違う! そんなことは言っていな
い。ハルト、お前は治安と秩序回復の責任をそのまま果たすのだ」、「しかし、何に基づ
いて役割を果たすのでしょうか。大統領はプラノト将軍を任命されました」

スハルトは思い切り深く息を吸った。「人々は私を野心的で規律を知らない人間だと思う
かもしれません。それは非常にまずいです。そうではありませんか?パッ」周囲の重い沈
黙を破ってスカルノが言った。
183卵の名無しさん:02/03/14 18:18 ID:dCG9GaHN
新聞に宣伝する余裕があるなら、給料上げてほしい
184千野鏡子:02/03/14 18:54 ID:flne8fvk
「何か提案はあるか」この瞬間、スハルトは心の中で(やった!)と叫んだのではないだろ
うか。「私が考えられる唯一の方法は、私に治安と秩序回復の権限を与えたと、あなたが
国民にラジオで発表してくださることです」

《お墨付き》 二人の対面は四時間あまりに及んだ。夕刻、スハルトは「日常業務はプラ
ノト、治安と秩序の回復はスハルト」という役割分担に言及したスカルノの声明を吹き込
んだテープを手に、ボゴール宮殿を後にした。

陸軍の指揮権は大統領に返された。しかし、スハルトは治安と秩序回復という名の下に何
でもできるお墨付きを得たのである。スカルノの声明が発表された同じ日、スハルトもラ
ジオで演説を行い、従来通り治安回復をはかる任務が与えられたことを伝えた後で「神に
誓って最善を尽くす」と言った。

スカルノはスハルトのしたたかな交渉ぶりに舌を巻いていたのだろうか。それとも自分が
そんな重大な役割を与えてしまったなどとは思っていなかったのか。いまとなっては推測
の域を出ないが、私には両方とも真実のように思える。スカルノは自分の力をまだ信じて
いた。スハルトにとって二十歳も年長のスカルノの威光は、まだまだ十分にまぶしかった
はずである。

同時に私はこの二人のやり取りから、相手をじわじわと追い詰めていく、スハルトの流儀
を早くもかいま見る気がする。今日にまで続くスハルト体制の片りんがある。

《ボゴール宮殿におけるスカルノ大統領とスハルト将軍のこの最初の会談は、事件の終わ
 りではなかった。それは向こう二年にわたる長い一連の戦いの初めであった》(評伝『ほ
 ほ笑みの将軍』から)

スハルトはボゴール宮殿での閣議にも参加する。閣僚ではないが、治安情勢を説明するた
めだった。事件後初の6日の閣議には後に処刑・殺害される共産党(PKI)閣僚のルクマ
ン第一副議長、ニョト第二副議長も顔を見せていた。スカルノの打ち出したいわゆるナサ
コム体制の結果、共産党幹部の入閣が実現し、スハルトにとっては、満場が“敵”だった。

《わずか一日前には革命的英雄たちの遺体が埋葬されたにもかかわらず、閣議の雰囲気は
 悲しみや追悼からほど遠かった。私は笑いがあふれる会議にいることに居心地が悪く、
 PKIの人間が出席していることに憤慨した》(『スハルト自伝』から)

10月16日、スハルトは殺されたヤニ陸相・陸軍司令官の後任に正式に任命される。「こ
の発表はスカルノにとって、いやいやながらのものだった」と十五日(米国東部時間)の米
国務省公電は、任命発表の記者会見で、スカルノの表情を間近に見たフリーのジャーナリ
ストの言葉を紹介している。

後方には記者たちを避けるように、スカルノの第一の側近、スバンドリオ外相が不安げな
様子で立っていた。スバンドリオの逮捕は五カ月後に来る。スハルトは共産党をつぶし、
国軍の親スカルノ派を粛清し、次々と「治安と秩序回復」の任務を果たしていった。
185千野鏡子:02/03/14 18:55 ID:flne8fvk
豆事典

▽ボゴール宮殿 ボゴールはジャカルタから車で1時間ほどの高級避暑地。パンジャラン
王国の中心として栄え、オランダ植民地時代は別荘地となった。市内に広大な植物園があ
ることでも知られ、その植物園に隣接するボゴール宮殿はかつてのオランダの東インド会
社総督の別荘で、スカルノの第2夫人との逢瀬に使われた。また、スカルノ自身も大統領
失脚後、この宮殿で軟禁状態となり、失意の日々を過ごした。

▽ヨハネス・レイメナ(1905−1977年) ジャカルタ医科大学を卒業後、医師として活動す
るかたわら、小さな島々からなる出身州のマルク州で青年団を組織するなど大衆運動に従
事し、政治家としての道を歩むようになる。インドネシア独立後は保健相などを経て1959
年から66年まで副首相。専門知識と行政能力で政変を生き抜き、インドネシアのテクノク
ラートの先駆者とされている。

▽インドネシア国軍 陸、海、空軍と警察の4軍で構成。第2次大戦後のオランダとの独
立戦争の際、インドネシア共和国によって編成された軍隊で、その主体となったのは大戦
中に占領者だった日本がインドネシア人による軍事組織として作った「祖国防衛軍(ペタ)」
の将校や兵士たちだった。国軍とはもともと陸軍のことだったが、スカルノは大統領時代
に海軍大臣、陸軍大臣を設けて優遇し、陸軍勢力のけん制をはかった。

▽ナサコム体制 スカルノが1956年1月に打ち出した挙国一致体制構想。民族主義(Nas)、
宗教(A)、共産主義(Kom)を一体化した体制ということで、「ナサコム」と呼ばれた。共
産党と国軍との対立などで、必ずしもスカルノの思い通りにはいかなかったが、1964年成
立のドゥイコラ内閣にはアイディットら共産党の幹部が入閣し、ナサコム体制が一応、実
現している。
186千野鏡子:02/03/14 18:56 ID:flne8fvk
アジアを変えた夜 (8) 親近感装う“暴れん坊”の策略

連載の冒頭で書いたように1965年はベトナム戦争の大きな転換点だった。再選を果た
したリンドン・ジョンソン米大統領はこの年の二月、北爆の開始を命令。駐ベトナム派遣
軍総司令官、ウェストモーランド将軍の要請による兵力増派が相次ぎ米国はベトナムへの
本格介入に突き進んでいった。

世界の目はインドシナ半島に奪われていた。はるか赤道を越えたインドネシアの首都ジャ
カルタの事情にはどうしても疎くなる。しかし、米国はインドネシアでも、この年、重要
な政策転換を行っている。契機は西イリアン紛争の調停者、エルズワース・バンカーの特
使派遣である。

《政策転換》 3月18日付ホワイトハウス覚書はこう始まる。

《インドネシアとわれわれの関係は、いまや瓦解のふちにある。スカルノはますます共産
主義者に傾斜し、伝統的な対抗勢力である国軍は、内部に問題を抱えている。この数日間、
情勢は急激に悪化した。米系ゴム会社の経営のみならず、米系石油会社の接収も切迫して
いる。こうした状況から、ラスク国務長官と私(ジョージ・ボール国務次官)は同国情勢を
明確かつ客観的に読むことが必須と感じている。ジャカルタ駐在七年のジョーンズ大使は
疲れ、悩んでいる。彼は米国のために、スカルノとの緊密な個人的関係を通じて可能なこ
とはすべて行ってきた。しかしそれはもうつきたように思われる》

情勢判断の正しさは覚書の翌々日、スカルノ大統領がすべての外国石油企業を政府の管理
下に置くと発表したことで証明される。

急きょ、ジャカルタに飛んだバンカーはスカルノと三度会談し、スカルノはここぞとばか
り米国のベトナム介入、マレーシア政策、新興アジア・アフリカ諸国への内政干渉などを
非難した。ちなみにスカルノが、「ジャカルタ−北京−プノンペン−ハノイ−平壌」反帝
枢軸の構築を宣言するのは同年八月のことだ。

関係改善は奏功しなかった。米国はスカルノが友情さえ抱いていたハワード・ジョーンズ
大使の更迭を決める。もはや両国の関係は個人的友情ではどうにもならない段階に来てい
た。米国には国益こそが、石油権益の死守こそが、最優先事項であった。さらに言えばイ
ンドネシアの共産化阻止も、大きな外交戦略の目標であったろう。

国務省副次官補(東アジア担当)のマーシャル・グリーン新大使が着任したのは、特使派遣
から四カ月後の七月末のことだ。空港からの沿道の建物や塀には「グリーン、ゴーホーム」
の文字があふれていた。しかしグリーンは、その傍らに小さく「私も一緒に連れて」とい
う落書きを見て苦笑するのだった。

今(97)年2月、ワシントン郊外にある自宅で、グリーンが語ってくれた次のようなエピ
ソードは、冷戦下の米ソをも手玉に取ろうとした暴れん坊・スカルノの横顔をほうふつと
させる。
187千野鏡子:02/03/14 19:03 ID:iFUKujqj
第一は果物のドリアン事件。九月半ば、ある大学での式典にグリーンを招待したスカルノは、会
場の学生たちを前にとびきり巨大なドリアンを取り出し、自ら一片を口にほうり込むと、グリーン
にも勧めた。「私は、あれが大嫌いでね。思い切って口に入れたが、気分が悪くなりそうだった。
ところがスカルノはもっと食べろ、もっと食べろ、アメリカよ永遠なれと大群衆に言わせるんだ。
仕方なく次々食べたが、もう死にそうだった。あれは拷問も同然だった」

もう一つは雑誌プレイボーイをめぐるものだ。八月末、グリーンは大統領宮殿に招かれた。この
日、片時も離さないペチ(帽子)を脱ぎ、薄くなった頭も見せるほどくつろいだスカルノは、お得意
のきわどい話もし、異例にも車まで見送りに来た。スカルノはそっとささやいた。「大使、もうひと
つだけ。プレイボーイ誌を毎月、そっと送ってくれませんか。ご存じのように私は同誌を禁止しま
した。しかし劇評や映画評、書評を読みたい。毎月、あれをいただければ大変に感謝します」

グリーンは早速、帰国中の夫人に「プレイボーイ、オクレ。シサイハ、ノチホド」と、電報を打った。
しかし結局、グリーンは一冊も届けなかった。「これはスカルノの陰謀だと、突然、気がついたの
でね。スカルノが公の席で米国大使の名を呼ぶ。私は当然、立ち上がる。スカルノが聴衆に向
かって言う。大使、あなたが私にプレイボーイ誌を毎月送ってくるという話は本当か。私は同誌を
禁止している。さあ大使、イエスかノーか。答えてください。満場の中で、私は笑い物になるわけ
さ」プレイボーイ誌は、そっくり大使館の機密ファイルに入れられた。後に米大使館は暴徒に襲
われ、機密文書多数を焼却するが、その任務を担当した海兵隊は、同誌の焼却だけは最後まで
抵抗したそうだ。

《強行手段》 グリーンは自分のドリアン嫌いを知りながら、無理強いした先の一件も、スカルノ
特有の策略ではなかったかと思っている。米国の政策転換を、グリーンは積極的に推進した。い
や、前職を考えれば政策立案者の一人といえる。「彼(ジョーンズ)は、スカルノがインドネシアで
あり、全権を持っている。われわれは彼と折り合っていかねばならないと言うのだが、私は反対
だった。私は米大使館の規模を大幅に縮小すべきであり、またスカルノの支配を強化すべきで
はないと信じていた」

9月6日、インドとパキスタンがカシミールをめぐって再度衝突し、ジャカルタのインド大使館が暴
徒に襲われると、グリーンは待っていましたとばかり国務長官のディーン・ラスクにメッセージを
送った。「強い対抗手段を講じなければ、次の犠牲者が米国になるのは必至だ。ワシントンのイ
ンドネシア大使を呼び、重大な警告をすべきだと伝えた。ディーン・ラスクからは即答があった。
私も同じ意見だとね」

米国のジャーナリスト、デビッド・コンデの著書『インドネシアの変貎』(弘文堂)に掲載されたグリ
ーンの写真には「韓国、南ベトナム、インドネシア、彼の行くところ必ず紛争が起こるといわれて
きた」との説明がついている。一九六一年五月十六日、韓国で朴正煕少将(後の大統領)らによ
る軍事クーデターが起きたとき、グリーンは代理大使だった。そして九・三〇事件という大激震が
インドネシアを襲ったのは大使着任二カ月後のことだ。グリーンはクーデターという嵐を呼ぶ男
だったのだろうか。

188千野鏡子:02/03/14 19:05 ID:iFUKujqj
■豆事典

▽リンドン・ジョンソン(1908−73年)  第36代米大統領(民主党)。1961年、ケネディ大統領の副
大統領に就任、ケネディ大統領の暗殺に伴い、63年に大統領に昇格した。64年8月のトンキン
湾事件を機にベトナム戦争に積極的に介入。しかし、戦争が長期化するにつれ、国内で反戦運
動が盛り上がって支持率は低下。68年、北爆の部分的停止に追い込まれ、69年、任期満了で引
退した。

▽ウィリアム・ウェストモーランド(1914年−)  元米陸軍参謀総長。大将に任じられた64年6月
から68年7月まで、南ベトナム派遣米軍総司令官を務め、南ベトナムへの兵力増強を要請し続
けて最後まで米軍の勝利に固執した。68年に陸軍参謀総長に就任。70年に来日、勲一等旭日
大綬章を受けた。72年に退役。 

▽西イリアン紛争 西イリアン(西ニューギニア)の帰属をめぐるインドネシアとオランダの紛争。
1949年のハーグ円卓会議でインドネシアの完全独立が承認されたが、西イリアンだけはオラン
ダ領として残った。インドネシアは何度も国連に提訴したが解決には至らず、対立は62年1月、
西イリアン沖での武力衝突にまで発展した。バンカー米特使の調停工作が実り、同年8月、国連
で協定が成立。オランダが施政権を国連にいったん移管したあと、63年5月以降、インドネシア
の所属となった。 

▽ディーン・ラスク(1909−94年)  ケネディ、ジョンソン両政権下の米国務長官(61−69年)。カリ
フォルニア州ミルズ大学教授などを経て1946年に国務省入り。ベトナム戦争では北ベトナムへの
北爆など米軍の介入政策を推進した。 

▽ドリアン  マレー半島原産の常緑高木。果実は甘く、独特の酸味と臭気があるが、東南アジ
アではこの味のとりこになる人も多い。インドネシアでは「ある男がドリアンを食べるために家を
売って離婚した」といった、ドリアンにまつわる話が数多く残っている。 

▽デビッド・コンデ(1906−81年)  カナダ出身の米ジャーナリスト。独学で日本問題を研究し、
第2次大戦中は米軍心理作戦局で対日宣伝を担当。戦後は連合国軍総司令部(GHQ)の映画
演劇課長として、チャンバラ映画の追放などにあたった。1946年にロイター通信社東京特派員に
転じ、翌47年、GHQの検閲政策を非難して国外退去処分を受けた。
189千野鏡子:02/03/14 22:39 ID:7j3Rxl/k
アジアを変えた夜−09 将軍評議会

国務省公電の空白はだれなのか  

9・30事件の首謀者、ウントン中佐は、決起の理由を「米中央情報局(CIA)に支援された将軍評
議会の将軍たちによる反革命クーデター計画を阻止し、大統領を守るため」と声明で主張した。
将軍評議会とは何なのか。そもそもそうした評議会はあったのか、なかったのか。インドネシア
はもちろん存在を否定してきた。だが、ここに1965年1月21日午後9時48分(米東部時間)受
信のジャカルタからの一通の米国務省公電がある。

《米国の介入》 冒頭2行の空白に、思わず目が行く。飛び飛びの小さな空白は情報をもたらし
た人物の名前であろう。仮にXとしよう。 《Xは今日、内密で私に、陸軍がスカルノ降板の際に政
府を奪取する特別計画を練りつつあると伝えた。Xはこの計画をパルマン将軍と討議し、会合か
ら戻ったところだった》 Xの情報は続く。計画はコンティンジェンシー・ベース(不測の事態次第)
だが、軍上層部にはスカルノの死去前に奪取したいとの気持ちが強い。インドネシア共産党(PK
I)への対抗上、陸軍は三十−六十日以内に行動を起こさざるをえないかもしれない。共産主義
者は正規軍補助部隊を作り武装しつつある…。

発信人のハワード・ジョーンズ大使は公電の最後に意見を付している。この種の報告は過去に
もしばしばあったが、この情報源は秀逸である。陸軍指導層には状況への懸念や不満増大の兆
候があり、この種のうわさは増すばかりである。

公電に将軍評議会の名前はない。しかし名称はどうあれ、文面は陸軍主導の政権奪取構想と
それに向けての会合の存在を強く示唆する。さらにアルファベットで七文字のXはだれか。事件
から30年以上が過ぎたいまもなお、知られたくない人物とはインドネシア陸軍の著名な人物か、
あるいは米情報機関員なのか。

インドネシアへのCIAの介入があったことは米国政府も認めている。ただしそれは、別名プルメ
スタ(全面闘争)と呼ばれる一九五六年から五八年にかけてスマトラとスラウェシ(セレベス)で起
きた中央政府への反乱の際のことだ。米国はスマトラを独立させ、石油資源と外国石油企業の
施設をスカルノの管轄から切り離そうとした。当時のインドネシア・ヘラルド紙はこう報じている。

《1958年3月12日午前七時、陸海空のインドネシア軍隊がパカンバルに進駐した。それは外
国の支援した反乱を鎮圧するためだけでなく、米軍さらに可能性としては英軍による緊急介入を
予防するためであった。同日午前九時には米第七艦隊所属の艦船が沖合に確認された。第七
艦隊分権隊司令官ロイ・ベンソン少将は、インドネシアにおける共同作戦の可能性について英
国大使と協議した事実を新聞に認めた》(『東南アジア現代史』山川出版社より)

反乱は失敗に終わる。しかし興味深いのは、米国が以後、直接介入よりも反乱鎮圧で台頭して
きた陸軍首脳と緊密化を図る形で、インドネシア国軍へ食い込んでいったことだ。9・30事件で
ウントンの標的となった将軍たちには共通点がある。間一髪、難を逃れたナスティオン大将を筆
頭に、ほとんどが米国で教育・訓練を受け、多かれ少なかれ親米派だった。

190千野鏡子:02/03/14 23:16 ID:McHh7WIP

ジャカルタのレンバン通りにあるヤニ陸相邸は事件を記念して博物館となっている。室内は夫妻
の寝室も子供部屋も当時のままだ。日本製テレビや最後の月給12万3千ルピア分の紙幣など
とともに、米国留学の記念写真が目を引く。犠牲となった将軍たちが米国車を乗り回し、派手な
生活をしていたのを、ウントンら若手将校が憤激したことを、決起の一端とする見方もある。

話を再び公電に戻す。Xはなぞだが、公電にあるパルマン将軍とは9・30事件の犠牲者、ヤニ
陸相第一補佐官だったパルマン少将その人である。この連載のために私は昔、題名にひかれて
読んだ『スカルノ大統領の特使 鄒梓模回想録』を再読して驚いた。

鄒の回想録によると、1965年8月17日の独立記念日の翌日、鄒が「スカルノは、今や完全に
中国一辺倒になり、早く何らかの措置をとらなければ、インドネシアはとり返しのつかないところ
に行ってしまう」と言うと、パルマンはこう答える。

「その件についてはすでに将軍評議会で討論を開始し、準備を進めている」。将軍評議会という
用語はこのとき初めて聞いた。「軍の上級士官を将軍に推挙するか否かを審議するための陸軍
内の機関が将軍評議会であり、陸軍の将軍たちで構成されており、陸相(ヤニ)が議長をしてい
る」とのことであった

《香港の合会》 この後、二人は「やるとかやらないとか、もう口で言っている段階ではない」「男
がやると言っている。あまりあおり立てないでください」といった会話を交わしている。スカルノは
将軍評議会のことも、これと関連するギルクリスト文書にも気づいていた。詰問されたヤニは「心
配には及びません」と答えたが、スカルノは疑いを解かなかった。 私にはパルマンらがウント
ン声明にあるように、10月5日を決行日とするまでに、謀議を練り上げていたとはとても思えな
い。ヤニは日本大使の斎藤鎮男と9月16日にゴルフをし「1、2週間後にうもう1度」と約束して
いる。

まさにその2週間後の9・30事件でヤニは命を落とす。クーデターを間近にした将軍がゴルフの
約束などするだろうか。カムフラージュとも思えない。もっともデヴィ夫人のように、将軍評議会
は存在したが、メンバーは五人程度で、ヤニは入っていなかったとする見方もある。

米メリーランド州カレッジパークにある国立公文書館で私は、年六月二日付のもう一枚の気になる公電を発見した。

《…インドネシア政府に秘密で、同国の将軍や大使が香港で会合を続けるとは、思いもよらぬこ
とだ。これはスカルノ暗殺謀議や同国への攻撃について、最近、公の席で主張するスカルノの
動機の一部をなすかもしれない…》

私は事件当時のインドネシア大使、グリーンに「香港の会合とは何か。将軍評議会のことだろう
か」と質問した。グリーンの答えは知らないとも否定とも取れる「ノー」だった。ただそれまでの滑
らかな口調が、それと分かるほど急変し、私たちの間にはしばし沈黙が流れた。

191千野鏡子:02/03/14 23:18 ID:McHh7WIP

豆事典

▽プルメスタ(全面闘争) 1950年代後半に東部インドネシア一帯で展開された反中央政府運
動。57年3月、スラウェシで東部インドネシア管轄の軍司令官スムアル中佐が「プルメスタ宣言」
を発表し、中央集権制の廃止、議会と内閣の民主的運営など国政の改革を要求。同地域に戒
厳令を布告し行政権を掌握した。58年2月には西スマトラでも反中央政府運動が展開され、「イ
ンドネシア共和国革命政府」が樹立された。「プルメスタ」は連携を取りながら中央政府に抵抗し
たが、組織内で分裂が起こり崩壊。61年、スムアルは中央政府に投降した。

▽パカンバル スマトラ島中部、リアウ州の石油産業の中心地。1930年代に米国の石油資本の
カルテックス社が開発に着手。第2次大戦後、石油の町として急速に発展した。

▽アーマド・ヤニ中将(1922−65年) 米国の陸軍指揮参謀学校や英国で軍事訓練を受け、1962
年、40歳の若さで陸軍参謀長兼陸相となる。インドネシア国軍を代表する形でスカルノ大統領へ
の影響力を保持したが、65年の9・30事件の際、ジャカルタの自宅で暗殺された。反共親米の将
軍として米国の信任が厚かった。

▽ギルクリスト文書 駐インドネシアのアンドリュー・ギルクリスト英国大使が本国にあてて送っ
た報告書。現在、この文書は偽造とみられているが、当時は陸軍と米英両国との謀議の証拠と
して使われた。共産党シンパの青年が反米闘争の一環として、米中央情報局(CIA)要員とみら
れる米映画配給会社の関係者の別荘を襲ったときに押収したとされる。1965年6月、スバンドリ
オ外相によって文書が公表されたが、ヤニ陸相は文書自体を全面否定。スカルノ大統領をめぐ
る政治闘争では、当時、共産党に対し陸軍は完全に後手に回っていた。
192千野鏡子:02/03/15 05:43 ID:BTI0u13l
アジアを変えた夜−10 中国の影

武器求め北京に飛んだ司令官

9月30日運動の首謀者たちは、実際には1965年10月1日未明に行動を起こしながら、自ら
の決起を10月1日運動とは呼ばなかった。人は名称を決めるとき、そこに何らかの意味を込め
る。無意味な名称はない。無意味なら、その無意味さにこそ意味が潜んでいるというべきだろう。

命名の通説は、ウントンら首謀者との謀議を終始リードしたインドネシア共産党(PKI)特別局の
シャム(本名・カマルサマン)が、背後にPKIひいては中国の影を感じさせぬよう、中国の建国記
念日(国慶節)である10月1日を避けたというものである。

当時、スカルノ大統領のインドネシアは、社会主義陣営、中でも中国への傾斜を強めていた。中
国もまたソ連と対抗してアジアを自陣営に引き入れようとしており、その先兵にはPKIやマラヤ
共産党などアジア各国の共産党があった。中でもPKIは、非社会主義陣営としては最大の党員
300万を擁するまでに勢力拡大し、ナサコム体制で入閣も果たしていた。

PKIのアイディット議長は、中ソ和解を図り1963年7月に訪ソしたが、失敗するや中国支持を
鮮明にする。やはりソ連共産党と亀裂を深めた日本共産党も64年9月に宮本顕治書記長がイ
ンドネシアを訪問し、アイディットと中国支持を確認しあっているのは興味深い。(シェルドン・サイ
モン著『壊れたトライアングル 北京、ジャカルタ、PKI』)

スバンドリオ第一副首相兼外相をはじめ、インドネシア要人たちの北京もうでが相次ぎ、中国か
らも周恩来首相、陳毅外相ら要人が頻繁にインドネシアを訪問した。一行は当然のように大統
領宮殿のゲストハウスに宿泊した。

1965年4月19日、第一回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)10周年記念式典に出席するた
めジャカルタを訪問中の佐藤首相の特使、川島正次郎が、国交正常化前の周恩来と会談した
のも大統領宮殿だった。「日中会談をやったらどうか」とスカルノが仲介したからである。

当時、インドネシア大使だった斎藤鎮男も同席した。中国側には喬冠華外交部次長が付いた。
川島は日中関係改善の希望を強く表明したが、32年後の97年4月、東京・一番町の自宅で斎
藤は「後で聞けば、あの時、中国には平和関係で日本と交渉する用意はなかった。日中で話を
する機会ができた程度」と回想する。むしろ斎藤には会談後のスカルノ主催の午さん会の方が
印象深い。

食事を終えて、席を立とうとした周恩来を、スカルノがすかさず右手で制し、ほどなくお開きとし
たのだが、それは暗に主催者は自分だという意思表示である。インドネシアにとって中国は非常
に大きな存在だったが、それでも「スカルノには周を抑えるだけの政治性があった」と斎藤は語
るのである。

《秘めた思惑》 9・30事件と中国との関連において、とりわけ注目されるのは、事件直前のオ
マール・ダニ空軍司令官の訪中である。「空軍はマルクス・レーニン主義を学習する良き革命勢
力」とスカルノの覚えもめでたかったダニは9月15日、大統領の密命を帯びて北京に飛んだ。
武器援助を催促するためだった。
193千野鏡子:02/03/15 05:49 ID:33CH7Jrd

周恩来と人民解放軍が生みの親ともいえる第5軍構想が実現に向けて動きだすかに見えたころ
である。PKIもスカルノも、それぞれに思惑を秘めていた。

中国は、インドネシアの至るところ影を落としていた。著名なジャーナリスト、ロシハン・アヌワル
の『嵐の前のインドネシア』は、日記体をとりながら、9・30事件前夜のインドネシアの微妙で危
うい雰囲気をよく伝えているが、65年8月25日の西部および中部ジャワで陸揚げされた約3万
7千丁にのぼる小火器の話にも、中国が登場する。

《…中部ジャワに陸揚げされたものは、位置は分かっていたのに、軍は押収していない。それら
の武器には、ソ連、中国、アメリカの弾薬に合わせられる、取り換え可能な銃身がついていた。
南ベトナムでベトコンが所有している武器と同型だ。武器の積み荷はマカオであり、ある情報に
よれば、この密輸は、パルティンド(インドネシア党)の党員で、中国のために働いている可能性
がある1人の高官のしわざであるという》

中ソ論争も持ち込まれていた。再びアヌワルの日記から。

《…独立20周年記念式典が挙行された際だが、中国の陳毅副首相兼外相は高官たちと会談し
て、「ソ連は現在、ネコリム(新植民地主義・植民地主義・帝国主義)の範ちゅうに入れるべきだ」
と率直に言った。そしてソ連からの援助はこれ以上期待しないようにし、もしインドネシアが予備
部品などを必要とする場合には、中国ができるだけ供給すると語っている》

これに対して同じ式典に出席したソ連のムラソフ第1副首相は、ソ連の武器援助にもかかわらず
政治面で中国を支持し、第2回アジア・アフリカ会議にソ連が参加できるよう奮闘しないと、スカ
ルノやスバンドリオらをなじっている。

《大きなナゾ》 それほど深かったインドネシアと中国の関係が、9・30事件を境に急速に悪化
する。そもそも事件当日の10月1日夜に開かれた中国大使館による恒例の国慶節レセプション
は、前年と打って変わって100人を超すインドネシアの閣僚も、PKI幹部もだれひとり姿を見せ
なかった。潮が引くように、人々は中国から去った。

中国がそれから外交関係を修復するまでには、実に20数年の歳月を要している。中国の打撃
は大きかった。同時に、インドネシア国内に住んでいる華僑の受けたダメージも、また計り知れ
ない。9・30事件の後、各地で発生した暴動で、まず襲われたのは華僑の商店だった。大衆の
反中国感情は華僑に向かい、略奪や攻撃の矢面に立つ。インドネシアでは今日も、政情不安は
華僑への暴動がシグナルである。

しかし中国は本当のところ、どこまで9・30事件に関与していたのだろうか。これもまた大きなな
ぞである。武器密輸の件をはじめ状況証拠はたくさんあるが、明確な事実、物証はない。斎藤も
米国の元インドネシア大使、グリーンも、事件と直接の関係はないとしている。

私は、中国がスカルノの健康のためにという理由で派遣した医師団の役割に注目したいと思う。
194千野鏡子:02/03/15 05:51 ID:33CH7Jrd

■ 豆事典

☆周恩来(1898−1976年) フランスに留学していた1922年、国際共産主義運動組織コミンテル
ンの活動の影響を受け、中国共産党に入党。34年には革命軍事委員会副主席として、長征に
参加。中国共産党指導部には当時、軍事指導をめぐる対立があったが、主流派の一員の周恩
来が35年に自己批判し、毛沢東による指導権確立の流れを作った。中華人民共和国では国務
院総理(首相)として毛沢東のもとでナンバー2の座を保持した。

☆陳毅(1901−72年) 1919年にフランスに留学し、帰国後の23年、中国共産党に入党。以来、
軍人として中国の湖南、広東を転戦した。戦後の中国では上海市長から54年に副首相。人民解
放軍に階級制度が設けられた55年には10人の元帥の1人に数えられた。58年、周恩来の後を
受けて外相に就任。66年に始まった文化大革命では周恩来の保護で失脚を免れた。

☆川島正次郎(1890−1970年) 新聞記者などを経て1928年に衆院議員初当選。戦後は岸信介
派に属し、岸内閣の60年安保当時は自民党幹事長だった。のち20人の小派閥ながら川島派を
旗揚げし、60年代には自民党副総裁を長く務めて、総裁(首相)選びなどで党内の調整役として
の力を発揮した。

☆第5軍構想 インドネシア国軍を構成する陸、海、空、警察の4軍のほかに、共産主義革命の
遂行や国防強化のため、共産党傘下の労働者、農民に武器を与えて軍隊を組織する構想。周
恩来がスカルノに直接、提案したとされ、インドネシア国内の共産党と陸軍の対立の一層の先
鋭化をもたらした。

☆パルティンド(インドネシア党) 1929年12月、スカルノらインドネシア国民党幹部がオランダ統
治当局に逮捕されたことから、スカルノの同志サルトノは国民党を解散し、31年4月に国民党綱
領を継承した新党パルティンドを結成した。これに対し、サルトノを解党主義と批判する勢力はイ
ンドネシア国民教育協会を設立。パルティンドが36年11月に解散するまで、路線をめぐる両勢力
の論争が続いた。
195千野鏡子:02/03/15 06:03 ID:vf25l6OL

■ アジアを変えた夜−11 スカルノの病気

中国人医師の診断に共産党は慌てた

指導者の健康問題は国家にとって、常に安全保障と不可分な関係にある。そして、体制が独裁
的であればあるほど、指導者の命運は国家の命運と一体化する。1963年5月に、終身の肩書
までついたスカルノ大統領が統治するインドネシアがまさにそうだった。

その独裁的指導者が倒れた。1965年8月4日のことである。ベッドのスカルノは医師に胸の相
当な痛みを訴えた。米中央情報局(CIA)の事件報告『失敗に帰したクーデター』(1968年)によ
れば、不整脈による発作を5回も起こしたという。

《衝撃走る》 政界、軍部に衝撃が走った。これまでも病気の噂はあった。しかし真実に倒れた
ことで「スカルノ後」がいよいよ現実味をおびて迫ってきたのである。代表団を率いて中国を訪問
中のアイディット共産党議長は慌てた。翌5日、毛沢東主席との会見を終えると、アイディットだ
けは北ベトナムのハノイ行きを中止し、帰国の途につく。自らの判断で2人の中国人医師を同行
させた。

スカルノの医師としては当時、持病の腎臓結石の治療にあたっていたウィーンのフェリンガー博
士が有名だ。毎年、健康診断に訪れデヴィ夫人がお供した。1964年11月には中国から鍼(は
り)専門の医師5人がジャカルタを訪れている。毛沢東が中国とインドネシアの友好のあかしにと
寄こしたのである。効果をめぐり「成功した」「いやダメだ」と町には噂が広まり、約2カ月の滞在
の後、5人はインドネシアの勲章を得て帰国する。

スカルノの健康問題は、外交団にも大きな関心事だった。英国のギルクリスト大使が極秘としな
がら、スカルノを診断した英国人医師の所見を、米国のハワード・ジョーンズ大使に伝えると大
使は直ちに米国務省に公電を打つ。スカルノにすれば、油断もスキもあったものではない。

病の後の8月17日、恒例の独立記念式典でスカルノは演説原稿を何枚か読み飛ばしてしまう
のだが、演説の名手にして珍しいことだ。演壇を降りてきたスカルノは「途中で嫌気がさしてきた
んだ」と日本大使の斎藤鎮男にもらしたという(田口三夫著『アジアを変えたクーデター』)嫌気と
は、何だったのだろうか。

その答えをさぐる前に、9・30事件がクーデターとしてはあまりにもずさんだったことに触れてお
きたい。そもそも党員300万の大勢力にのし上がっていた共産党(PKI)にクーデターを仕組まな
ければならないほど慌てる必要があったのかという疑問が残る。事件後も共産党の慌てぶりは
顕著である。例を示せば、共産党機関紙ハリアン・ラヤットが論説で9月30日運動支持を打ち
出したのは、帰趨が明らかになっていた10月2日である。態勢を立て直せば、反攻も可能だと
考えて発行したとはちょっと考えにくい。

スカルノが突然倒れたという「異変」の意味は、この共産党の慌てぶりから逆に辿っていくと、ま
すます重みを増してくる。先のCIA報告によれば、アイディットは8月末、党政治局にスカルノの
健康状態は非常に深刻であり、もう一度発作を起こせば、死ぬか、半身不随になると報告したと
いう。その根拠は中国から連れてきた医師らの診断である。報告はあらゆるレベルに伝えられた。
196千野鏡子:02/03/15 06:10 ID:QPZTFu8x

共産党にとってもっとも手ごわい存在は国軍、とりわけ反共色の強い陸軍だった。スカルノの死
は心強い後ろ盾を失うことを意味する。

アイディット率いる共産党はマディウン事件の武装蜂起の失敗から、「先に手を出すと絶対にや
られる。まず、軍に手を出させる」と肝に銘じていたはずだ。しかしアイディット直属の党特別局
のシャムは報告から間もない9月6日夜、ウントンらとの謀議を開始する。それから1カ月、8回
の謀議を経て事件は起きた。

謀議の内容もCIA報告通りなら、これまたいい加減なものだ。例えばウントンが自分は中佐だか
らと、首謀者のトップになるのをしぶると、シャムが「もう決めたことだ」と取り合わず、謀議を進
行させるといった具合である。米国のマーシャル・グリーン大使は事件発生直後、次のような見
解を国務省に送った。

《大使館はPKI指導部が10月5日に向けてクーデターを計画していたとの確信からは依然ほど
遠い。PKIはうまく行っており、その必要はなかった。しかし10月5日の国軍クーデターの噂や
スカルノが死亡した場合を考え、PKIが不測の事態に備えていたことは有り得る。そして誤った
情報からPKIの低いランクが、9月30日実行の計画をスタートさせたことも考えられる》(1965
年10月3日)

興味深いのは中国と対立中のソ連の動きだ。ジャカルタ駐在のリンコフ三等書記官は米大使館
員に「ソ連政府はPKIが9・30事件に深く関与していると信じ、共産党によるこのような冒険主
義的行為を遺憾に思っている」と述べている。 (12月7日の米国務省公電)

《消えた噂》 デヴィ夫人は97年3月、私に「スカルノ大統領は病気なんかじゃなかった。米国
やジャーナリストは病気をミステリアスにして、考える要素にしていたと思うが、私は思いもしな
かった。目まいで倒れたのが、外国でそんなに評判になっているとは大統領もご存じなかった」
と語った。

私も重病説は疑わしいと思う。何よりの証拠に9・30事件以後、病気の噂はうそのように消えて
しまうのだ。事件から間もない10月5日、ボゴール宮殿でスカルノと約30分会ったドイツ人医師
は、精神的肉体的に異常の兆候はどこにもないと述べている(十月六日、米国務省公電)。

アイディットが顔色を変え、党に衝撃を走らせ、ウントンらを暴走させたスカルノの病気。それは
何だったのか。中国人医師の診断が、過剰な診断であった可能性がないとは言えない。そして
そこにもし、ある政治的意図が込められていたとしたら・・・、あるいはスカルノが、自らの病気を
政治的に語っていた可能性も十分にあり得る。

CIAによる暗殺の陰謀や将軍評議会クーデター説などの怪情報が飛び交う最中である。スカル
ノこそ、自分の病気に共産党や陸軍、さらには後継をうかがう側近たちがどう反応するか、最も
知りたかったはずだ。

事件後、スカルノは元気を取り戻す。共産党勢力が総崩れに向かい、孤軍にも等しい中で陸軍
と戦うことになったスカルノは、今度こそ本当に元気でなければならなかった。
197千野鏡子:02/03/15 06:12 ID:QPZTFu8x

■ 豆事典

☆終身大統領 スカルノは1959年7月、大統領布告によって50年制定の暫定憲法を停止し、大
統領に強大な権限を与えた45年憲法への復帰を決めた。以後、大統領が首相を兼務するなど、
「指導される民主主義」を旗頭に、独裁体制を強化していき、63年5月、終身大統領となった。し
かし、65年の9・30事件を機に権力基盤を失い、67年3月、大統領職を停止させられ、新たな権
力者スハルトが大統領代行に就任した。

☆不整脈 心臓病や動脈硬化が原因となって脈拍のリズムが乱れること。心臓が早めに収縮し
てドキンと一時止まったように感じたり、急に脈が速くなって息苦しくなったりする。

☆毛沢東(1893−1976年) 中国の指導者。1921年の中国共産党創立に参加。国民党との対立
や抗日戦を通じて党内の主導権を掌握した。第2次大戦後は国共内戦を経て、49年に発足した
中華人民共和国の国家主席に就任。59年、その地位を劉少奇に譲り、党主席に専任したが、共
産主義の基本路線で対立が生じ、66年に文化大革命を起こして再び全権を掌握した。

☆中ソ対立 ソ連共産党第20回大会(1956年)におけるスターリン批判に端を発し、60年代から
70年代にかけて中ソ間で革命路線をめぐる論争が表面化、国家対立にまで発展した。ソ連共産
党第1書記、ニキタ・フルシチョフは対米平和共存政策を推進し、議会による平和革命を強調し
たが、中国側はその姿勢を修正主義と批判。これに対しソ連側は60年、経済技術援助協定を破
棄し、中国経済に大打撃を与えた。一時は一枚岩の団結を誇った中ソの関係も、69年には国境
の珍宝島(ダマンスキー島)で軍事衝突を起こすまでに悪化した。

198千野鏡子:02/03/15 06:39 ID:2MEfv8WU
■ アジアを変えた夜−12 対決政策

インドネシア民族よ、立ち上がれ

スカルノ大統領の病気が9・30事件への引き金だったとすれば、当時、コンフロンタシと呼ばれ
たインドネシアによるマレーシア連邦との対決政策こそ、事件をはぐくんだ土壌である。1960年
代の東南アジアで、ベトナム戦争を別にすれば最大の地域紛争となったコンフロンタシは、マラ
ヤ連邦のトゥンク・アブドゥル・ラーマン・プトラ首相が1961年5月27日、マレーシア連邦構想を
発表したことに端を発している。

《英国の思惑》 構想はマラヤ連邦、シンガポール自治領、北ボルネオ(サバ)、サラワク、ブル
ネイという英領植民地を連邦に統合するというものだった。ラーマンの独断ではない。民族独立
は抗しがたい流れと認めながらも、ゴムやスズの莫大な権益をこの地域に残したい英国の思惑
が背後にあった。この構想に強く反発したのがスカルノだった。サバ領有権を主張するフィリピン
のマカパガル大統領も反対したが、スカルノの反対の激しさはその比ではなかった。

1963年9月16日、ラーマンが連邦結成を宣言し、決裂は決定的となり、翌17日、インドネシ
ア、フィリピンはマレーシア連邦と国交を断絶した。

コンフロンタシとは、公式には63年1月20日、インドネシアのスバンドリオ外相がこの言葉を声
明で用いてから、9・30事件で失脚したスバンドリオの後任のアダム・マリク外相と、マレーシア
のトゥン・ラザク外相が66年8月11日、平和協定に署名し、国交正常化に至るまでの3年半を
指す。この間、インドネシアではマレーシア粉砕のあらしが吹き荒れた。外では国連脱退、対米
対決、内にあってはマレーシア大使館や英国大使館にデモ隊が押しかけ、インドネシア軍はマ
レーシアのジョホールに上陸するなど潜入工作が行われた。

対決政策の現場責任者であり、9・30事件で殺害されることになるヤニ陸相・陸軍参謀長が上
陸作戦をめぐってスカルノと対立したこともある。その作戦を知らされなかったヤニ陸相は、そも
そもこんな小規模な浸透作戦は賢明でない、英国の報復を招くだけだと反対した。(1964年11
月12日付米国務省公電)

騒ぎは周辺一帯をも巻き込んだ。シンガポールでは連邦推進派のリー・クアンユー政権が、反
対派の社会主義戦線の指導者や労働組合の活動家などを次々逮捕する荒療治に出た。

サバ、サラワクで起きた反マレーシア運動には英国が出兵した。英国を支援する米国は1964
年5月、インドネシアに「対決政策を続ければ、援助は打ち切る」と警告した。

さらに英、オーストラリア、ニュージーランドの英連邦三カ国軍は、空からの連邦侵攻に備えて空
爆計画の立案までした。1995年に解禁された64年豪州政府文書で明るみに出たもので、豪
州本土、マレーシア駐留豪州軍基地、南シナ海、インド洋に展開の英海軍空母まで動員する大
規模計画だった。

199千野鏡子:02/03/15 06:42 ID:2MEfv8WU

中国はスカルノを鼓舞した。マレーシアが安全保障理事会の非常任理事国となったことを不満と
して、インドネシアが国連を脱退し、新興国会議(コネフォ)構想を発表するや、コネフォ会館建設
に資金や技術者の提供を申し出た。

日本の自民党副総裁、川島正次郎による仲介工作もそうした中で行われた。スカルノとラーマン
は東京で相次ぎ会談する。マカパガルのマフィリンド構想も、2人の話し合いを契機に生まれた。
しかし今日では、川島工作は周恩来首相の熱心なスカルノ取り込みで、失敗が運命づけられて
いたとされている。

《困窮の中で》 スカルノが結局は自らの墓穴を掘ることにもなった対決政策に固執した理由は
何か。少なくとも二つのことが指摘できると思う。第1はラーマンの構想は反共国家作りを目指
すもので、スカルノはこれをインドネシア包囲網と見た。第2は生活苦にあえぐ国民の不満を、外
に向けさせる必要があった。それによって国内の結集をはかる。

この2つは、互いにリンクしている。革命に熱狂するあまり、経済は手薄になる。逆に、それだか
らこそ、スカルノにとっては更に革命的言辞が必要になる。しかも第3世界では、インドのネール
首相、エジプトのナセル大統領、キューバのカストロ首相らが指導者の覇権を競ってもいた。

1960年代はまだ、東南アジア全体が貧しい。日本だってそれほど豊かではなかった。その中
でもインドネシアの経済は惨たんたる様相を見せていた。9・30事件直後の10月5日のサンケ
イ新聞朝刊は《インドネシア経済は破綻に瀕している》と報じている。

それによれば国家予算の75%を軍事費が占め、この重圧のためにインフレも急激に進行し、物
価は7年間で50倍以上に上がった。国家予算は赤字予算を余儀なくされ、65年の予算では歳
入6260億ルピアに対し、歳出は1兆3660億ルピアと途方もない数字だ。

不相応な軍事費はコンフロンタシのせいだ。それでも、いやそれだからこそかもしれないが、スカ
ルノは意気軒高だった。対決政策を打ち出した年の独立記念日のスカルノの演説は「インドネシ
ア革命の鐘が鳴る」と題するものだ。マレーシア対決政策に言及した後、演説は佳境に入る。

《…人類の歴史も20世紀に入った。この世紀に入ってインドネシアが立ち、アジア、アフリカ、ラ
テン・アメリカそして社会主義国が立った。この20世紀はアジアの世紀ともいわれる。またアフリ
カ世紀、ラテン・アメリカ世紀、また社会主義国世紀ともいわれるのである。すべては正しい。だ
から、われわれは新興国の世紀と名付けるのである。この世紀はわれわれの世紀であり、われ
われが独立し、革命する時代である。…だからインドネシア民族よ、立ち上がれ。陽光が見えだ
した。太陽が昇るであろう》(『スカルノ大統領演説集』日本インドネシア協会)

スカルノは演説の冒頭、インドネシア革命は単に衣食だけを求めるものではないと言う。革命は
もっと高貴なものである。この朗々たるアジテーションの下、主食の米が高騰し、栄養失調の子
供まで出るという困窮の中で、国内はマレーシア対決一色に染まっていった。街頭はデモで埋ま
り、共産党はいよいよ力を蓄えていったのだ。

200千野鏡子:02/03/15 06:47 ID:GJoYmtJK

■ 豆事典

☆マラヤ連邦 1948年2月にマレー半島の11州を統合して成立した英領マラヤ連邦が57年8
月、マラヤ連邦として独立。63年9月にシンガポール、サバ、サラワクなどを統合してマレーシア
連邦が発足し、マラヤ連邦は解消した。

☆アブドゥル・ラーマン(1903−90年) マレーシアの政治家。弁護士を経て連合マレー人国民組
織総裁に就任(1951年)、マレーシア民族運動の指導者となる。55年、英領マラヤ連邦首席大臣。
57年にはマラヤ連邦の完全独立を果たした。63年、マレーシア連邦の初代首相に就任。70年の
首相辞任後も、「建国の父」として影響力を保持した。

☆ディオスダド・マカパガル(1910−97年) フィリピンの政治家。弁護士、外交官から政界に転身
し、下院議員。副大統領を経て、61年に大統領に就任。65年の大統領選でマルコスに敗れてか
らは在野の政治家として、マルコスの独裁政治を批判し続けた。

☆マフィリンド構想 1963年6月にフィリピンが提唱したマラヤ、フィリピン、インドネシア3国の連
合国家構想。同年9月のマレーシア連邦成立で、構想は挫折した。

☆リー・クアンユー(1923年− ) シンガポールの上級相。弁護士を経て1954年に人民行動党
を組織、政治活動に入った。59年、シンガポール自治国首相に就任。シンガポールは63年、マレ
ーシア連邦の1州となったが、中国系住民が多いなどの理由から65年に分離独立。リー・クアン
ユーが初代首相に就任した。90年11月、首相の座をゴー・チョクトン第1副首相に譲り上級相と
なった。

☆ジャワハルラル・ネール(1889−1964年) インドの政治家。ガンジーの影響を受けて非服従運
動などを指導し、しばしば投獄された。1947年、独立後は初代首相兼外相に就任。非同盟中立
主義に立った第三世界外交を推進。55年、バンドンでのアジア・アフリカ会議の開催に尽力した。

☆ガマル・ナセル(1918−70年) エジプト大統領。1952年、ナギーブ将軍を指導者に軍事クーデ
ターを起こし、ファルーク王政を打倒。54年にはナギーブ大統領を追放し、56年6月、自らが大統
領に就任。同年、アスワン・ハイ・ダム建設費用獲得のため、スエズ運河国有化を断行。60年代
にはアラブ・ナショナリズムを掲げてアラブ陣営の結束を固めようとした。

201千野鏡子:02/03/15 07:15 ID:Kas2bup4

アジアを変えた夜−13 日本の仲介工作

「友人」を失い「功労者」に

米・メリーランド州カレッジパークの国立公文書館で、インドネシア関係の公電を読んでいると再
三、遭遇する日本人の名があった。アンバサダー(大使)・サイトウ。あるいはマイ・ジャパニーズ
・コリーグ(日本人の盟友)・サイトウ。9・30事件当時の斎藤鎮男駐インドネシア大使である。

当時、米国とインドネシアの関係は悪化の一途をたどっていた。公電からは事件2カ月前に着任
したマーシャル・グリーン大使が斎藤を頼りにし、一目置いていた様子が目に浮かぶようだった。

《私は彼(斎藤)に、スカルノはなぜハリム(空軍基地)に行ったのだろうかと尋ねた。彼はなぞめい
た笑みを浮かべた。私は尋ねた。これは我々が話すべきではない事柄のひとつなのだろうか?
彼はうなずいた》 (1965年10月16日)

《大統領宮殿からちょうど戻った斎藤大使が私に、そこはまったく非現実的な空気に支配されて
いると述べた。スカルノは相変わらず中国との友好やCIAのことを話している》 (同26日)

斎藤鎮男にはインドネシアとの長いきずながあった。1938年の外務省入省後に召集され、今
村均中将率いる第16軍軍政部(ジャワ派遣軍)に配属された。スカルノ大統領とはそれ以来の
知己だった。

そんな斎藤が9・30事件後、ただちに作り上げた日本大使館の情報収集態勢は、米国はじめ西
側諸国に大いに供した。斎藤の著書『外交』(サイマル出版)によれば、各国在留民の避難の可
否なども「日本情報」が元になったという。

グリーンも米国人の引き揚げを斎藤に相談したと、インタビューで回想した。米国が自国民の安
全を日本に相談する。今日とはまるでアベコベみたいな話である。日本の東南アジア外交はそ
れから30年、果たして深化したのだろうか。

《積極的外交》 9・30事件を生む要因となったマレーシア紛争に対する日本の仲介工作も、こ
の時代の日本外交の積極性を物語るものだ。インドネシアがマレーシア対決政策に踏み切った19
63年1月、日本は折しも東南アジアの戦後賠償の最後の請求者、南ベトナムとの交渉を終
わらせようとしていた。インドネシア専門家でもあった西原正・防衛大教授は、修士論文『日本人
とスカルノのインドネシア』(ハワイ大学出版)で、この地域における日本のより積極的な政治的
行動を求める声は当時、日本の内外、米国からさえあったと匿名の日本外交当局者の話を記し
ている。

外務省や与党は、東南アジア諸国の好ましくない反応を予期し、行動に警告を鳴らすが、賠償
協定締結は日本の積極的役割を容易にする役割を果たした。9・30事件を契機に塗り替えられ
ていく東南アジアの地図に、日本もまた一歩を踏み出したのだった。

202千野鏡子:02/03/15 07:16 ID:Kas2bup4

紛争仲介はマレーシア連邦発足前の63年5月から始まり、マレーシアのラーマン首相やスカル
ノが東京へ来た。連邦発足後も池田勇人首相自らフィリピン、インドネシア、オーストラリアを歴
訪した。池田の仲介の夢は佐藤栄作首相に引き継がれる。川島正次郎自民党副総裁が特使に
指名され、1965年4月、アジア・アフリカ(AA)会議10周年記念会議出席のためジャカルタを訪
問したことはすでに書いた通りだ。

日本大使館員もまた一役買った。私は米国務省公電に旧知の外交官の名前を見つけて目を見
張った。公電によれば、彼は親書持参で国交を断絶していたインドネシアとマレーシアの橋渡し
役を務めた。

インドネシアとマレーシアの和解は、資源輸入国日本の国益にもかなっていた。日本は中東の
石油に大きく依存すると同時に、北スマトラの石油に事実上初の海外資源投資となる大がかり
な投資をしていた。先の西原論文は次のように書いている。

《…もし(衝突が)マラッカ(海峡)で起きたら、北スマトラの日本の石油プロジェクトはマレーシア軍
の第一の標的になるだろう。また衝突の可能性は、日本の石油タンカーのマラッカ海峡の安全
な通航を脅かした》

ただし西原は、不思議にも当の日本は介入の動機として、これをさほど重視していなかったよう
だとも書いている。日本外交が戦略性よりも、スカルノ人脈の活用などよくも悪くも人間関係に支
配されていた事例だろうか。

仲介工作は実を結ばぬまま対決政策自体が終わる。いまではスカルノは中国の周恩来首相に
引きずられていたとの見方が強い。

《軍部の密使》 しかし興味深い証言がある。斎藤と同じころのマレーシア大使、甲斐文比古が
著書『国境を越えた友情』(東京新聞)で明かした秘話だ。ラーマンから「佐藤栄作の耳にだけ入
れておいて」と打ち明けられたインドネシア軍の密使の話に甲斐は驚愕する。密使の言葉を同
書から引用しよう。

《…近く第三国を通じてインドネシアとマレーシアの和平交渉の申し出があると思う。しかし、そ
れには貴国(マレーシア)は応じないで頂きたい。我々インドネシア軍部のマレーシアに対する態
度は、スカルノとは違う。だから、スカルノがいくら討てといっても私たちはやりません。(略)
我々は近い将来、スカルノ政権、それから共産勢力を一掃します。そうして初めてマレーシアと
手を握ることができるのです》

甲斐によればラーマンは岸信介−川島の親スカルノ・ラインを信用せず、佐藤と吉田茂元首相
を理解者とみていた。甲斐は事の重大性から外務次官を飛び越して単身官邸に行く。マレーシ
アの公電の写しを見ながら佐藤は大きくうなずいたという。日本の仲介努力は以後、舞台裏に
移る。

203千野鏡子:02/03/15 07:17 ID:Kas2bup4

それにしても私は、この秘話にさらに大きな驚きを持つ。軍部は近い将来のスカルノ政権と共産
勢力の打倒を決意し、計画していることをマレーシア側に打ち明けていたのである。米国務省公
電にあったX氏はだれか、ますます知りたくなる。

甲斐はラーマンの情報のおかげで日本が事態の先を見通し、大筋を誤ることなく対処できたと
書く。そして、斎藤は9・30事件から半年もたたずしてスカルノの命運を見通し、日本はスカルノ
からスハルトへと舵を切った。そして経済再建のため多国間方式の援助計画に着手する。

《友人スカルノを失うことになる私の悲痛な気持ちに反比例して、事件後、今度の事件ではよく
やった、とのおほめの声が流れてきた。世の皮肉をこのときほど味わったことはない》

著書の中の短い言葉から、斎藤の万感の思いが伝わってくる。


■ 豆事典

☆米国立公文書館 ワシントンおよびその郊外のメリーランド州カレッジパークにあり、国家公
文書をはじめ米政府の有する記録などの膨大な資料を保管している。連邦政府によって作成さ
れるおびただしい量の文書のうち2〜5%が公文書館で保存されており、秘密文書も一定の期
間が経過すると公開されるため、米国の情報公開制度の基盤をなす施設とされている。

☆今村均(1886−1968年) 陸軍大将。1936年、関東軍参謀副長となり、翌年の盧溝橋事件で東
条英機参謀長と強硬論を主張した。41年、第16軍司令官としてジャワ作戦を指揮。42年にはラ
バウル作戦を指揮し、ガダルカナル撤退にあたった。43年に陸軍大将。戦後、戦犯として禁固10
年の判決を受け、パプアニューギニアのマヌス島で服役、54年に釈放された。

☆池田勇人(1899−1965年) 大蔵事務次官を経て1949年に衆院議員初当選。同年、第3次吉
田内閣の蔵相に抜てきされ、インフレ鎮静のための超均衡予算をはじめ占領下の経済政策を担
当した。60年、日米安保条約改定問題で岸内閣が倒れた後、首相となり高度経済成長路線を推
進した。

☆佐藤栄作(1901−75年) 岸信介元首相の実弟。1949年、衆院議員に初当選して岸、池田内
閣で蔵相、通産相などを歴任。64年の自民党総裁選で池田勇人に敗れたが、同年11月の池田
引退を受けて後継総裁となり、首相に就任した。以後、72年の退陣まで7年8カ月にわたって政
権を担当し、日韓基本条約の締結(65年)、日米安保条約の自動延長(70年)、沖縄返還協定の調
印(71年)などにあたった。74年ノーベル平和賞受賞。

☆マラッカ海峡 マレー半島とスマトラ島との間の海峡。全長約800キロ、幅40−350キロ。世界
で船舶航行の最も多い海域のひとつとされている。

204千野鏡子:02/03/15 07:39 ID:Ei4vtH9W
アジアを変えた夜−14 大量虐殺

「ソロの河は赤く染まった」

冷戦下の東南アジアの政治地図を、大きく塗り替える契機となった9・30事件。インドネシアの
首都ジャカルタでは、事件発生から一昼夜たった1965年10月1日の夜にはウントン中佐らの
決起の失敗が確実になった。その後は決起部隊を鎮圧した陸軍のスハルト少将(現大統領)とス
カルノ大統領との対立を軸に舞台は政治権力闘争に移っていく。

中央のこうした動きとは異なる様相を見せたのが地方だった。米中央情報局(CIA)の報告書『失
敗に帰したクーデター』(1968年)が《1930年代のソ連の粛正、第二次大戦中のナチス大量殺
人、1950年代初期の毛沢東主義者の大虐殺とともに20世紀に起きた最悪の大量殺人のひと
つ》と書く、混乱と悲劇が生まれたのである。その深い傷跡はいまなおインドネシアを苦しめてい
るようにも見える。

混乱と悲劇はボゴールからバンドン、スマラン、ソロ(スラカルタ)、マゲラン、マランなどジャワ島
各地やバリ島、スマトラ島、さらにカリマンタン(ボルネオ)島にまで及んだ。共産党(PKI)市長が
革命評議会を宣言した中部ジャワのソロでは暴徒が共産党系の商店を次々襲った。民謡ブンガ
ワン・ソロの甘い施律で有名なソロ河は「人々の血で真っ赤に染まった」とまで伝えられる。

ジャカルタ在住の外交官は次のような目撃談を知人から聞かされた。 知人の目の前を、自転車
とともにハンドルを握ったままの首なし人間が川に突っ込んでいった。共産党員と見て、凶器で
後ろからバッサリ首を切り落とされてしまったのだ。

《…ジャカルタから帰った旅行者の話と信頼できる筋の情報によると、これまでにジャワ、スマト
ラ、バリなどインドネシア全域で行われた大量虐殺の総数は10万人とみられているが、これは
むしろ控えめな数字であろう。流血の惨事は、ここ4、5週間、とみに激化していた。民衆の凶暴
性の前に、囚人たちが大量に処罰され、気ままな殺人行為が横行している》(1965年12月31
日のシンガポール発AFP電)

私は昨96年、急逝したティエン・スハルト大統領夫人のお墓を訪れるためソロを訪れる機会が
あった。ジョクジャカルタがインドネシアの京都といわれるのに対し、奈良に比せられるソロは好
印象を抱ける静かな町だった。運転手が「あれがソロ河です」と橋の下方を指す川は水量も少な
く、30年前に大量の死体が流されていったなどとはとても信じられなかった。

《感情の爆発》 東南アジアにはアモックという言葉がある。日頃はおだやかな心根のおとなし
い人々が、何かの拍子に異常な興奮状態となって、惨劇に走る。一種のヒステリー状態になって
おさまりがつかなくなる。

例えば恋人に裏切られた兵士が、兵器庫から武器弾薬を持ち出し人々の集まる市場で無差別
殺人に走る事件がある。こうした時にも「彼はアモックになった」と説明される。 9・30事件後の
大量虐殺も、集団アモックが介在しているのだろうか。

205千野鏡子:02/03/15 07:40 ID:Ei4vtH9W

人々は拉致された将軍らが、PKI傘下の大衆組織である青年や婦人団体のメンバーたちにいた
ぶり殺されたと知らされ、PKIへの憎悪を募らせた。この底流には党員300万と勢力を豪語す
るPKIの、日頃のおごった言動への反感もあっただろう。こうしてイスラム勢力とPKIの激しい衝
突も生まれた。犠牲者は共産党員にとどまらず、党員と誤解された者からイスラム教徒、クリス
チャンにも及んだ。 いったん、火のついた感情にブレーキをかけるのは難しい。それにスハルト
がひそかに決意していたのは、憎むべきPKIをこの際、徹底的に壊滅させることでもあった。

西側世界はこうした事態にほとんど沈黙していた。それはどうしてだったのだろうか。 世界のメ
ディアはベトナム戦争に熱くなっていた。ジャーナリストはインドシナ紛争の取材の帰途、インド
ネシアにちょっと立ち寄る程度だった。背景に軍の厳しい検閲もある。事件から1週間もたたな
い10月7日の米国務省公電は、軍が共産主義者に報復していると過度に強調することのない
よう国軍から間接的な要請があったことを伝えている。

従って先のAFP電のように、報道は多くが外からもたらされた。 外交団も目立った動きをしてい
ない。 当時のマーシャル・グリーン駐ジャカルタ米国大使が今97年2月、ワシントン郊外の自
宅で語る言葉には自戒の響きがあった。

《30万人犠牲》 「ベトナム戦争を語る者もインドネシアについてはまったく言及しなかった。東南
アジアの人口の半分を占める大国が突然、容共から反共に変わるという重大事が起きたという
のに、だれも何も言わないのだ。インドネシアはベトナムよりインドシナよりはるかに重要だった
はずなのだが」

また斎藤鎮男・日本大使は《西側陣営には事情がそもそもよく分からない点もあり、米国大使と
対応策を話すこともなかった。人道主義者が取り上げる場合には、インドネシア内外どちらでも
いいが、正式に外国政府が口を出すのは内政干渉のかねあいが難しい》(田口三夫著『アジアを
変えたクーデター』)と述懐している。

犠牲者の正確な人数は分からない。割り出すことは永遠に不可能であろう。 グリーンは1966
年2月、ジョンソン大統領に事件を報告するためワシントンに呼ばれる。出発前、死者の数を館
員たちに、めいめい紙に書かせた。

「ご存じのようにわれわれはベトナムで戦っていたので、ボディー・カウント(死者の人数)は常に
重要だった。だから共産主義者が何人殺されたかは大統領から第1番に聞かれる質問のひとつ
と思ったのだ」

グリーンも含め館員たちは、根拠となる具体的証拠に乏しかった。それでも平均値は30万人に
落ち着いた。ちなみにインドネシアの公式発表は8万7千人である。ほかに政治犯も5万人前後
に上る。

20世紀も残りわずかとなったいま、アフリカのソマリアやルワンダ、欧州のボスニア・ヘルツェゴ
ビナなど各地で起きる大量虐殺事件の多くは、あまり時をおかずに報じられ、世界を駆け巡るよ
うになった。

人類は虐殺を完全に過去の歴史にするほど賢明ではない。しかし虐殺それ自体を、闇から闇に
葬ることが難しくなったのは、今世紀におけるせめてもの進歩といえるかもしれない。
206千野鏡子:02/03/15 07:43 ID:4zq9ovft

■ 豆事典

☆バンドン インドネシア西ジャワ州の州都。オランダ植民地時代から行政、交通、経済、文化
の中心地として栄え、1884年にジャカルタからの鉄道が開通して沿線に邸宅、公園などが整備さ
れると、オランダ人から「ジャワのパリ」と呼ばれるようになった。第2次大戦後の1955年、第3世
界の新興国首脳が参加したアジア・アフリカ会議の開催地となった。

☆スマラン 中ジャワ州の州都。港湾都市で繊維産業などが盛ん。ジャカルタと並ぶ華僑の中
心地として栄えた。オランダ植民地時代から共産党勢力の強いところで「赤い都市」と呼ばれた。

☆ソロ 中ジャワ州の古都。1745年、マタラム王国の都となり、スラカルタと命名されたのが町
の始まり。現在でもマタラム朝の子孫である2つの王家が市内で宮廷を維持し、ジャワ宮廷文化
を伝えている。第2次大戦後の独立戦争では左派の拠点としても知られ、1965年の9・30事件後
に崩壊するまで共産党の最強の根拠地だった。

☆マゲラン 中部ジャワの都市。1957年に国軍士官学校が置かれた。同校の卒業生は「マゲラ
ン世代」と呼ばれ、スハルト大統領ら独立戦争を戦った「45年世代」と区別される。現在の国軍
の指導者はマゲラン世代に属する。

☆マラン 東ジャワ州では州都スラバヤに次ぐ第2の都市。付近には13〜14世紀の仏教、ヒン
ズー教の遺跡が多い。コーヒーやサトウキビなどを集荷・搬出する商業地として発達した。

☆ティエン・スハルト(1923−96年) スハルト大統領夫人。ソロの王家につながる貴族出身。ソロ
の文化センター勤務を経て1947年に当時、中佐だったスハルトと結婚した。

207高山正之:02/03/16 14:29 ID:+wkFBSTQ

■豆事典

▽サッコ、バンゼッティ事件 ニコラ・サッコ(1891−1927年)とバルトロメオ・バンゼッティ(1888−
1927年)は、米マサチューセッツ州の製靴会社で1920年に起きた強盗殺人事件で逮捕された。2
人は無実を主張し、物証もなかったが、イタリア系移民であり、無政府主義者だったことなどから
陪審員の偏見の的となり、死刑判決を受け、27年に執行された。その後、真犯人が判明し、死
刑執行から50年後の1977年、マサチューセッツ州知事が2人の無実を公式に認めた。

▽モンマルトル パリ北西部のセーヌ川右岸にあるモンマルトルの丘を中心とした繁華街。19世
紀後半から印象派、象徴派、立体派などの多くの画家が集まり、近代美術をはぐくんだ。

▽OSS(米戦略局) 第2次大戦中、米国の戦時情報局内に置かれていた情報機関。

▽ウッドロウ・ウィルソン(1856−1924年) 米国の第28代大統領(在任1913−21年)。高関税の引
き下げや中小企業を救済するための連邦準備銀行の設立、トラストを制限する立法など革新的
政策を推進した。第1次大戦に参戦しないことを公約に、大統領に再選されたが、1917年、ドイツ
の無制限潜水艦作戦に対抗することを理由に連合国側に参戦。講和のための14カ条の原則を
提唱し、国際連盟の設立に尽くした。

▽中国国民党 1919年に発足した近代中国の主要政党。孫文を中心に、三民主義を指導理念
とし、中国青年党にはじまり、興中会、中国革命同盟会、国民党、中華革命党を経て中国国民
党へと改組・発展した。1925年の孫文死去後は蒋介石が台頭。第2次大戦後、中国共産党との
内戦に敗れ、台湾に逃れた。

▽厦門(アモイ) 中国福建省南東部の台湾海峡に面する港湾商工業都市。南京条約(1842年)
によって開港された5港のひとつで、華僑の主な送り出し港だったことでも知られる。中国の改
革・開放政策により、1980年に経済特区に指定された。

208高山正之:02/03/16 14:29 ID:+wkFBSTQ

■ 20世紀特派員−植民地の日々−11

僧ウー・オッタマ−民族の求心力を奪う

ベトナムの壮士が日本を追われた時期、もうひとつのアジアの国から“奇跡の日本”を学びにき
た人物がいた。1910年(明治43年)、名古屋の豪商、伊藤次郎左衛門の屋敷で法要が営まれ
ていたおり、門前に「異形の托鉢僧が立った」と松坂屋の社史にある。「黄色い衣をまとい、身の
丈六尺の偉丈夫で、さいづち頭の下の眼光はあくまで鋭かった」これがビルマ(ミャンマー)独立
運動に大きな足跡を残すことになる僧ウー・オッタマの日本での最初の風景になる。黄色い僧衣
というのは東南アジア特産のナンカの木の樹液で染めたもので、タイ、カンボジアなど小乗仏教
寺院もこの色で染められたものが多い。聖なる色である。

《イギリスが紹介》 オッタマはこのとき29歳、いかつい印象は出身地アキャブに多いアラカン
族の血が入っているためとも言われ、その見かけ通りの硬骨漢だった。彼はイギリスに留学した
あと、「ボーユー」(英国かぶれ)になるどころか、逆に英国の植民地支配を攻撃する過激な辻説
法を繰り返して何度か投獄されてもいる。

そのオッタマに日本を紹介したのは皮肉にも宗主国のイギリスだった。20世紀初め、ビルマに
映画館が登場し、そこで南アのボーア戦争や日露戦争の記録映画が上映された。「同盟国(日
英同盟)の勝利の記録と考えたイギリスの思惑とは別のところで、ビルマ人は自分たちと同じ肌
の色をした日本人がロシア軍の輸送列車を襲い、白人が逃げ惑い敗走する姿に拍手し歓声を
あげた」(ティン・アウン著「ビルマ史」)

オッタマもそれに刺激されたことを後に出版した本の中で「留学したイギリスでは日本人は体躯
矮小にして取るに足らぬ民族と習った。その日本が隆盛し、(白人国家に)勝利したのは明治天
皇のもと、青年が団結してことに当たったからだ」と書いている。日本人にできたことはビル人に
もできるはずだ、そのために何をすべきか、というのが訪日の動機だとオッタマは次郎左衛門に
語っている。

《大きな屈辱》 ビルマはベトナムとほぼ同時期の1883年、英国の植民地インドから派遣され
た1隻の砲艦の前に降伏し、そのインドの1州として英国の植民地にされた。阿片戦争を「貿易
戦争」と書く英国の歴史書は、このビルマ王国乗っ取りも「第三次英緬戦争」と称する。実際、マ
ンダレーの王城に入った英印軍は正規の“戦争”の勝利者として振るまい、アユンパヤ王朝最後
の国王となるティボーと出産直前の王妃を「庶民の使う牛車に押し込めるという屈辱を与えて王
城から追放し、黄金製の玉座など王家の財産を没収した…」とティン・アウンは書いている。

ビルマ国王と王妃、それに4人の王女はインドの西部、ボンベイ(ムンバイ)近くの、ラトナギリに
流された。オッタマはこのとき5歳、ビルマのしきたりにならって僧院で修行をしていて、この悲劇
を聞かされた。「英国はインドの例のように、国を取るとまず王族を異国に流した。民族の求心
力を奪う最も効果的な方法だからだ」

209高山正之:02/03/16 14:30 ID:+wkFBSTQ
「インドの例」とはムガール帝国の国王バハダールシャーをビルマに流した事を指す。ヤンゴン
の中心部にある、シュエダゴン・パゴダの近くのごみごみした一角にその名を冠したモスクが建
てられているが、バハダールシャーは1858年にこの地に流され、5年後に没した。遺体は故国
に埋葬することも許されず、同じ場所にモスクを兼ねて作られた霊廟に安置された。

今、バハダールシャー霊廟は、最後まで仕えた側近の末裔だというマウルビ・ナジール(37)が
守っている。案内された霊廟の入り口には「レッド・フォート」とサインされていた。17世紀、あの
シャージャハンが赤い砂岩で建てたムガール王朝の居城の名は、故国を思う国王の気持ちを表
すように血のような赤色の地に書かれていた。

ビルマ国王もまた、30年遅れで同じ道を歩んだ。いや、もっと悲惨だったかもしれない。イギリス
は王朝復活の望みを断つために、王位継承者第1位にあった第1王女、パヤを身分の低いイン
ド人軍属と結婚させる。しかも、この男には正妻がいることがやがて分かり、王女は最貧層の社
会に落とされて不遇の中で死ぬ。

悲劇が現代にも続いていることを95年9月16日付のインドの有力英字紙、ヒンドスタン・タイム
ズが伝えている。王女パヤの娘、つまりティボー国王の孫娘ツツが「教育も資産もないまま、貧
しいインド人の妻となり、今は6人の子供を抱え、ラトナギリの街角で造花を売りながら暮らして
いた。母の、そして祖父国王の話したビルマ語も忘れていたが、顔立ちには王族らしい気品を備
え、それが哀れだった」と。

《重なる投獄》 バハダールシャーを失ったインドは国家の求心力を失い、さらに英国によってヒ
ンズー、イスラムなどの宗教対立、民族対立をあおられ、やがて国家の体をなさないほどバラバ
ラにされていった。そして「国王を失ったビルマもまさにその同じ道を歩まされている」と次郎左
衛門に対し憂国の僧は言葉を結んだ。彼はこの出会いで、次郎左衛門の支援を受け、孫文やビ
ハリ・ボースとも親交を重ねた。知己の1人となった西本願寺派の大谷光瑞の世話で竜谷大でも
教鞭をとり、仏教語のパーリ語を日本に紹介している。

1918年、オッタマはラングーン(ヤンゴン)に戻ると、再び反英説法を始める。植民地政府はそ
の都度、投獄するという過酷な手段で応じ、このいたちごっこは1939年、彼が獄死するまで続
いた。この火の玉のような説法に加え、彼の著作がビルマ青年層の間に揺さぶりをかける事に
なり、1920年、「ビルマ総評議会(GCBA)」が発足する。GCBAは汽車に白人専用の客車を置
くなどの差別の撤廃を訴えたり、土足でパゴダに入っていたイギリス人を立ち入り禁止にしたり
する強硬案を次々に議決していった。

さらにオッタマの指導で始まったイギリス製品不買運動、いわゆるウンタヌーが全土に広がって
いった。GCBAの活動はやがて30年代のタキン党の結成、そしてアウンサンらの独立抗争に
結び付いて行った。そうした運動の、まぎれもない原点となったオッタマの著作の題名は「日本」
だった。


210高山正之:02/03/16 14:32 ID:+wkFBSTQ

■豆事典

▽アラカン族 ミャンマー西部のアラカン山脈周辺に住む民族。ビルマ語の方言を話す仏教徒。

▽アユンパヤ王朝 ビルマ(現ミャンマー)最後の王朝(1752−1885年)。ビルマ族による3度目の
国土統一を達成したアユンパヤ(1714−60年)が開祖で、1767年にはタイのアユタヤ王朝を攻め
滅亡させるなど、領土を拡大させた。しかし隣国インドの植民地化を進めていたイギリスによる
1824年から85年の間の3次にわたるイギリス・ビルマ(英緬)戦争で滅亡した。

▽ムガール帝国 イギリス侵入前のインド最後の統一王朝となったイスラム帝国(1526−1858
年)。初代皇帝バーブル(1483−1530年)がモンゴル帝国の創始者ジンギス・カン(1167−1227年)
の血統を引くと自称したことからムガール(モンゴルの意味)帝国と呼ばれた。3代アクバル(1542
−1605年)の時に帝国の基礎が確立され、インド・イスラム融合文化が繁栄。6代アウランゼーブ
(1618−1707年)の死後、土侯が各地で割拠して帝国は事実上分裂。ヨーロッパ列強がしだいに
進出し、1858年、イギリス東インド会社に滅ぼされた。

▽大谷光瑞(おおたに・こうずい=1876−1948年) 宗教家、探検家、浄土真宗本願寺派第22世
法主。ヨーロッパ留学後の、1902年から第1次大谷探検隊を率いてインド・チベットなどの仏跡を
巡歴。1903年(明治36年)には父の21世光尊の死により法主を継いだ。大谷探検隊は第1次の
後、さらに2次にわたって派遣され、インド・中央アジアでの遺跡調査と文物収集を継続した。

▽アウンサン(1915−47年) ビルマの政治家、独立運動指導者。ラングーン大学在学中から反
英闘争を続け、1941年(昭和16年)、ビルマ独立軍を結成し日本軍とともに英軍と戦った。しかし、
44年に抗日に転じ、第2次大戦後の47年、英国との独立協定(アウンサン・アトリー協定)に調印
したが、同年暗殺された。ミャンマーの民主化運動指導者、アウンサン・スー・チー女史(1945年
−)は長女。


211卵の名無しさん:02/03/16 18:29 ID:U9ozmDFx
もうひとつの迷門スレッドが荒らしのためにキャパシティが満杯になったようです。
だれかパート7たてるかな?
今度はパート7,8,9ぐらいまとめて立てたらどうだろう?
この荒らしのためにパート100ぐらいまで続けましょう。
212高山正之 :02/03/16 19:58 ID:jgSU/T9m
■ 20世紀特派員−植民地の日々−12

分割統治−人種、宗教対立が移植された

ヤンゴンの北部、コンミンダーの丘に皇居を思わせる重々しい石垣が巡らされたミャンマー国軍
の施設がある。「この木なんの木」というテレビコマーシャルで知られるココの木(英語でははモン
キーポッドと言う)が生い茂り、18ホールのゴルフ場もある広大な施設は、現在の国家平和発展
評議会(SPDC)のメンバーぐらいしか入れない。その施設の奥の奥にある国軍戦史博物館では
今、イギリスのビルマ(ミャンマー)植民統治の分析が行われている。

陸軍大佐でもあるイエ・タット館長は「イギリスはインド統治のテクニックをすべて投入し、あのセ
ポイの反乱も徹底的に分析して、その教訓も生かしていた」と前置きしながら、イギリスが実施し
た4つのステップを説明した。

最初はすでに触れた国民の求心力を奪う王族の島流し。次に反抗の意欲を失わせる徹底した
弾圧、第三のステップがビルマ人の民族意識を物理的に希薄にさせる異民族の移植、そして最
後に少数民族を引き込んだ分割統治作業の順になるという。

〈武器を狩る〉 弾圧はイギリスがビルマで本格的な植民地統治を始めた1886年から4四年間
に6万人の英印軍と軍事警察官を動員して行われ、小さな反抗でも、その地方の指導者、関係
者、時には家族まですべて処刑した。ローマ軍が行った「デシメーション」の現代版で、ローマ軍
は1人殺されれば、その村落の村人を並ばせ、10人に1人を選び出して処刑した。イギリスはし
かし10人のうち5人以上、ときには全員を殺したと伝えられる。アウンサンの父もこのとき処刑
された1人だった。

武器狩りも行われた。今、ヤンゴンの雑貨店をのぞくと、先端を切断した包丁、鎌、ダー(山刀)を
時々見かける。日常に使う刃物が武器に転用されないようにしたイギリスの当時の施策の名残
である。

この血みどろの弾圧が終わると、イギリスは主としてベンガル地方(バングラデシュを含む)から
毎年10万人単位で大量のインド人を入植させていった。アメリカの近代史家、J・S・ファーニバ
ルの「植民地政策と実態」によると、20世紀最初の年、イラワジ川下流の「下ビルマ」の人口は
約500万人だったが、このうちインド系が58万5千人、イギリス人、華僑などその他の外国人
が12万人だったという。

下ビルマ全体の約13%になるが、そのほとんどが都市部に集中していたので、ラングーンの人
口構成となるとインド系54%、中国系7%、イギリス人など4%で、ビルマ人は36%と約3分の
1に過ぎなかった。これを象徴するように現在のヤンゴンの中心地スーレー・パゴダの周辺には
イスラムのモスク、広東、福建の仏寺、聖オーガスティン教会などが並び、そのまわりにイスラム
居住区、華僑居住区などとともにこの国の主であるはずの「ビルマ人居住区」もある。

213高山正之:02/03/16 20:08 ID:nNRmmEUt
ビルマに入り込んだインド人、華僑は労働力としてもビルマ人をしのいだが、「商才もはるかに長
けていた」(ファーニバル)。インド人はやがて高利貸など金融業を独占し、一方、華僑もいち早く
機械精米を取り入れたり、流通業に進出したりして、資産や土地所有を増やした。

ファーニバルのデータによると1930年代には96万エーカーのうち49万エーカーが外国人の
所有で、その分、ビルマ人が小作人に落ちていったことを示している。インド人や華僑の大量投
入はビルマ族の希薄化と同時に経済的な弱体化の点でも成功したわけだ。

そしてイギリスは仕上げにモン、カレン、チンなど山岳部少数民族の住む地域をイギリス総督直
轄領とし、彼らにキリスト教を布教するとともに、教育の場を与え、軍人、警察官の職務につか
せた。ビルマ族とそれに次ぐ勢力をもっていたシャン族はこの枠から外した。

第一次大戦時に英国イギリスは自国権益のアングロ・ペルシャ油田を守るためなどに62万のインド兵を送り出し、フランスもベトナムから9万人を徴発した。いずれも宗主国の兵士の盾に使わ
れ、メソポタミア戦線では1割強という記録的な戦死者を出しているが、この時ビルマからは1万
人しか動員していない。分母の小さい少数民族で軍を構成していたためである。

ビルマはインドのように人種、宗教が入り交じってはいなかった。平野部は敬虔な仏教徒ビルマ
族が占め、言語も文字も違うカレンなど25%の少数民族は山岳部にいるが、彼らとは歴史的に
も“棲み分け”ができていた。分割統治には最も不向きな状況だったが、この巧妙な植民地施策
の結果、例えば1937年にはインドと同じようにイスラム教徒と仏教徒の衝突があり、約3千人
が死亡する宗教紛争も起きている。

〈重い後遺症〉 当時の首相バー・モウはその責任をとらされて投獄されたが、「ビルマの中に
人種、宗教対立を持ち込み、見事なまでにインド化したのはイギリス」(タット大佐)だから、これ
はどうみてもぬれぎぬである。第二次大戦後、独立したビルマの最大の問題はイギリスが残し
ていった植民統治の“後遺症”だった。その例に「ネ・ウインの90チャット札」がある。

前述したように、インド人入植者は高利貸など小口金融を握り、英国が去ったあともビルマの経
済支配を続けていた。ネ・ウインはまず、銀行預金に限度額を設け、それを超える場合は国庫に
没収した。インド人高利貸を狙い撃ちにした経済政策である。

インド人はびっくりした。銀行預金をやめてタンス預金に切り替えたが、ネ・ウインは今度は新紙
幣を発行し、旧紙幣を無効とした。インド人はしようがないからタンス預金を切り替えにいくと、や
はり上限が設定されていて、それ以上は没収された。この新紙幣発行は何度も行われ、遂には
紙幣の額も変えられ、15チャット紙幣、90チャット紙幣など中途半端な金額の札が登場した。

結局、蓄財のうまみがなくなり、インド人入植者ばかりでなく華僑の多くが70年代から80年代
にかけてミャンマーを出国していった。しかし、もうひとつの植民統治の遺産、少数民族との対立
は半世紀たった今、やっと解決の糸口が見えてきた状態だ。

ちなみに、ベトナムでも状況は同じで、こちらは華僑が経済実権を握っていた。南北ベトナムが
統一されたあと、数10万のボートピープルが出たが、その大半は華僑たちだった。
214高山正之:02/03/16 20:10 ID:nNRmmEUt

■豆事典

▽国家平和発展評議会(SPDC) 1988年(昭和63年)のミャンマー(旧ビルマ)の軍事クーデター
で全権を掌握した国軍が、ソウ・マウン国防相兼参謀総長(当時)を議長として発足させた最高意
思決定機関「国家法秩序回復評議会」(SLORC)の新名称。今年11月に改称された。軍人19人
で構成され、立法権、内閣の任免権も持つ。

▽セポイの反乱(1857−59年) 英国東インド会社のインド人傭兵が植民地支配に反発して起こ
した反乱。ウルドゥー語で「兵士」を意味するシパーヒーが、英語ではセポイとなまったため、セ
ポイの反乱と呼ばれている。当初は、イギリス士官のインド兵に対するさまざまな差別への不満
が原因だったが、またたく間に反乱は農民層にも広がり、東インド会社の暴力的な植民地支配
廃止を目指す民族運動へと転化していった。反乱鎮圧後、英国は東インド会社を介さず、インド
の直接支配にのりだした。

▽デシメーション 古代ローマで、主に反乱罪に対してとられた処罰法。くじ引きで、10人ごとに
1人を選んで処刑した。19世紀になってから語義が広がり、「大部分を処刑すること」という意味
でも使われるようになった。

▽イラワジ川 ミャンマー国内を、北から南へ縦断してベンガル湾に注ぐ大河。全長2160キロ、
流域面積約43万平方キロ。河口付近では、上流から運ばれてきた微泥が沈殿たい積し、広大な
イラワジ・デルタを形成している。このデルタは19世紀前半までは未開のままだったが、イギリス
植民地時代に開発されて世界的な米産地になった。

▽ネ・ウィン(1911年−) ミャンマーの軍人、政治家。元社会主義計画党議長。第2次大戦の初
期に日本で軍事訓練を受け、日本軍のビルマ侵攻とともに英軍と戦ったが、後に抗日に転じた。
戦後、ビルマ国防軍の中心となり、1962年、クーデターで政権を掌握、独裁的手法により独自の
社会主義政策を推進した。74−81年、大統領。その後も党議長として院政をしいたが、88年の大
規模な反政府運動で議長を辞任した。

215高山正之:02/03/16 20:43 ID:6TQjUOfC

☆ゾロ薬応援スレッド★
ゾロ品を処方している医者ってどうよ? (400) 
ゾロの名門!!沢井製薬バンザ〜イ! パート6
ゾロの名門!!沢井製薬バンザ〜イ! パート6
後発薬を使うとどうでしょう?
後発品「捏○3兄弟STS」ってインチキなの?

216鶴原 ◆6ZE9uvAk :02/03/16 21:19 ID:qUg0Tie9
広告出てたね
217卵の名無しさん:02/03/16 21:38 ID:e31fvE+R
ばか鶴、もう同じ(7だな)スレ建てるなよ。

218卵の名無しさん:02/03/16 21:55 ID:6JttZas1
どうせスレたてるなら、もっとアピールする題名をつけてくれ
219卵の名無しさん:02/03/17 00:35 ID:l+NAapd3
広告する金があるならまともな給料出せよ!!!!
220高山正之:02/03/17 16:09 ID:rUFlaVDu

■ 20世紀特派員−植民地の日々−13

栄光あるビルマ人−鞭も民族意識は変えられず

ジョージ・オーウェルの「ビルマの日々」は1920年代のビルマ(ミャンマー)中部の小さな地方都
市を舞台にしている。チーク材を扱うやや年のいった白人男がパリの香りのする若い女、エリザ
ベスに出会って恋に落ちるが、安定した将来を求める女にふられて自殺する。

男の現地妻もからんで、女のしたたかさが妙に印象強い物語だが、その背景に描かれるイギリ
スの植民地風景も強烈だ。神聖不可侵のタキン(ご主人様)の下で牛のようにおとなしく仕えるビ
ルマ人たち。彼らの最大の栄誉は白人の社交の場、「カントリークラブ」のメンバーになる、つま
りオナラブル・ホワイト(名誉白人)に取り立ててもらうことで、そのためには同じビルマ人をけしか
けて暴動を起こさせることも、人殺しもやってのける…。

「イギリスはミャンマーを支配下に入れると、英語を公用語として強制したばかりでなく、仏教をさ
げすみ、ビルマ的なもの、例えば民族衣装のロンジーを軽べつし、“靴を履いたビルマ人”を奨
励した」とヤンゴン大歴史学教授のミン・マウン・ニュントはいう。

《教育法解体》 「アジア人は劣等人種であり、アジアの言語、風習を捨てて白人を見習う事が
文化なのだという意識を植え付けようとした」その手段に用いたのが教育だった。ビルマには昔
ながらに幼い子弟を僧院に寄宿させ、仏教教育とともに読み書きを指導する“仏教学校”が存在
している。アメリカのアジア史家、J・S・ファーニバルはその著書「植民地政策とその実態」で「識
字率は当時の西欧より高かった」と驚嘆しているが、イギリスはまずこの僧院学校の元締めにイ
スラム教徒のインド人文官を任命し、当然のように起きたトラブルを口実に伝統的な教育法を解
体させた。

そのうえでイギリス流の初等、中等教育のための学校を作ったが、ファーニバルによると1920
年の時点での学校数はわずか九十校。高等教育の場はインドのカルカッタ大学の付属施設の
資格しかなかったラングーン大学(ヤンゴン大学)とミッション系のカレッジのみ。就学率は第2次
大戦直前でも4・9%にとどまっていた。多くのビルマ人が教育から遠ざけられたのである。

それでもファーニバルはビルマの就学率(1920年)を、他のアジア植民地と比較して「台湾、朝
鮮(日本領)の15%は別として、比較的良好な状態」とほめている。けなされた仏印の数字をみ
ると「初等教育の生徒数が16万4千人で就学率は1・7%、20年後の42年でも就学率は3%し
かない。高等教育はラオス、カンボジアを含めた仏印全体でリセ(高校)が4校、この年の在学生
徒数は827人」(マカリスター「革命の原点」)だった。

ちなみに(併合後の)朝鮮では、1925年の資料で小学校1712校と、日韓併合時(1910年)の
17倍に増え、児童数44万人、就学率15%。高等教育は大学13校を含め98校、43年の数字
では小学校の就学率は90・8%、学校数は小学校が約4千、大学は22に増える。

221高山正之:02/03/17 16:10 ID:rUFlaVDu

《ICS支配》 「ビルマの日々」には、この間口の狭いイギリス流の学校を出て法律家になった
男と医師になった男が登場する。彼らだけがイギリスに留学の機会を与えられ、特権的な地位
も保証される。劣等民族であるアジア人にはイギリスのよき下僕になることこそ最高の栄誉なの
だという刷り込みが行われる様が繰り返し出てくる。

こうした一連の作業は愚民化政策とも呼ばれるが、これを実行したのがロイド=ジョージが「鋼
鉄のフレームワーク」と呼んだインド高等文官(ICS)だった。東インド会社に代わってインドを支
配したICSの定員は約千二百人。それだけの人数で人口4億人のインドと属州ビルマを治めて
きた秘訣は、当時としては画期的な一般公開試験制度(1855年)を採用して広く人材を求め、さ
らに教授陣にはマルサスなど著名な学者を配して植民地統治の王道を徹底的にたたき込んだ
ことにあった。

ICSの俸給はロンドンの平均的サラリーマンの年収が60〜100ポンドの時代に2千ポンドにも
なり、イートン、ハロー、ラグビーなどの名門パブリックスクール出身者が競って応募した。厳し
い試験をパスしてICSになった中には、作家のW・M・サッカレーや経済学者ケインズの名前も
ある。

この傑出した才能集団はビルマのナショナリズムを払拭するために「民族意識の希薄化」「少数
民族を利用した分割統治」といったテーマをごく短時間の間に達成し、ミャンマーの“インド化”を
実現したことは前回述べた。

《家畜の扱い》 人間の尊厳を無視した冷酷なまでの植民地統治をなぜ彼らは痛痒(つうよう)も
感じずに実行し得たのか。第二次大戦のビルマ戦線で終戦を迎え、イギリス軍の捕虜となった
京大名誉教授、会田雄次が鬼籍に入る前、そのヒントを語っている。著書「アーロン収容所」の
中でも少し触れているが、会田が捕虜の雑役として英軍士官室を掃除中、その部屋の主の女性
士官が彼の目の前で裸になって着替えを始めた。「日本人を含むアジア人を犬か鶏か、家畜な
みに思い込んでいる。だから裸を見られても別に羞恥心も働かない」それが大変、興味深かった
という。

そういう目でイギリスの植民地施策をみると、なるほど、サーカス辺りの動物の調教に似ている
かも知れない。人間(白人)には絶対、勝てないことを鞭(弾圧)で十分、思い知らせて反抗を押さ
え込み、好ましい植民地人をつくるためには人種交配も平気で行う…。

偶然かどうかは知らないが、ICSを数多く輩出したパブリックスクールの名門、ハローを卒業し
たウインストン・チャーチルは第二次大戦直前にビルマ独立の嘆願にロンドンを訪れたウー・ソ
ウ首相との会見のあと、ビルマ総督だったドーマン・スミスに「彼らに必要なのは鞭だ」と語ったと
いう。 (クリストファー・ソーン「英米にとっての太平洋戦争」)

しかし「近隣諸国に征服者として恐れられた栄光あるビルマ人」(1930年代のタキン党の歌)は
意識まで調教されてはいなかった。1930年、彼らは立ち上がった。

222高山正之:02/03/17 16:11 ID:rUFlaVDu

■豆事典

▽ロンジー ミャンマーの民族衣装で、腰巻きスカートのこと。筒状に縫った布を、腰でたくしこ
んで留めて着る。

▽デビッド・ロイド=ジョージ(1863−1945年) イギリスの政治家。弁護士を経て1890年に自由党
下院議員。1908年、蔵相になり、富裕者への増税、国民保険法制定などにより社会保障制度の
基礎を築いた。第1次大戦後のパリ講和会議ではイギリスの首相としてウィルソン(米)、クレマン
ソー(仏)とともに主導的役割を果たした。

▽パブリックスクール イギリスの特権的な私立中・高一貫校のこと。大部分が全寮制で、主に
上流階級の子弟を対象に、文武両道の人格養成重視の教育を行う。大英帝国を築いた人材は
パブリックスクールで育てられたといわれる一方で、現代では、教育機会の均衡に反するとして
一部で批判されている。

▽ウイリアム・サッカレー(1811−1863年) 19世紀の英文学を代表する小説家。東インド会社高
官の一人息子としてカルカッタで生まれ、4歳で父を失ってイギリス本国の叔母の家で育てられ
た。1847年から48年にかけて発行した「虚栄の市」によって作家としての地位を確保した。

▽ジョン・ケインズ(1883−1946年) 20世紀前半を代表するイギリスの経済学者。自由放任経済
の下で市場機構により完全雇用が自動的に達成されるという従来の理論を批判し、政府投資の
役割を強調して自由放任経済の終焉を説いた。主著「雇用、利子および貨幣の一般理論」によ
りケインズ革命と呼ばれる大変革を経済学の世界に巻き起こした。晩年、国際通貨基金(IMF)と
国際復興開発銀行(世界銀行)の初代総裁を務めた。

▽タキン党 イギリス植民地時代のビルマの政治結社「われらビルマ人連盟」の別称。反英独
立を掲げ、ビルマ人こそ、この国の主人であるとの趣旨から、党員はビルマ語で主人を意味する
「タキン」を冠して名前を呼び合った。1940年(昭和15年)から41年にかけて、30人の党員が日本
に渡り、独立闘争のための軍事訓練を受けた。


223高山正之:02/03/17 16:34 ID:lJEUAGQL
■ 20世紀特派員−植民地の日々−14

火を噴くアジア−抵抗したら殺せばいい

1930年は、アジア史ではかなり特異な年になる。この年、宗主国も民族も違うアジアの植民地
で、申し合わせたようにさまざまな抵抗運動が起きた。ビルマ(ミャンマー)では、サヤ・サンの反
乱がそれに当たる。この年、歴代のイギリス人州知事に替わって初めてのビルマ人州知事、マ
ウン・ジーが就任し、悪評高い人頭税の導入を決めた。フランスがベトナムで行っている徴税方
法である。

しかし、肝心の換金作物であるコメは前年のウォールストリート大暴落に端を発した大恐慌に直
撃されて暴落する。耕地所有者に納まっていたインド人は作っても売れないならと、作付けもや
めてしまい、ビルマ人小作人は仕事口も失った。農民はマウン・ジーに免税を訴えたが、「イギリ
スに忠実な」(歴史家マウン・マウン)知事はにべもなく拒否し、強制取り立てまで始めた。

《全土で反乱》 追い詰められた農民の前に、このとき占星術師、サヤ・サンが登場する。彼は
外敵を倒す伝説の鳥「ガロンの王」を名乗り、農民の先頭に立って決起した。農民たちは弾が当
たっても粉となって散ると信じられていたガロンの入れ墨を体に施して、政府の施設や軍の基地
を襲った。

サヤ・サンの法廷記録を読むと、夜襲に備えたカレン人警官隊の前で農民たちはむき出しの尻
に白い丸を描き、「その尻を突き出して後ろ向きに進んできた。やみの中に白い丸が幾百とくね
るさまに警官隊は極度の恐怖にかられた」とある。お尻の白い丸もガロンの入れ墨と同様、不死
身になると信じられていた。

反乱はあっと言う間にビルマ全土に広がり、イギリスは遂にインド軍最強のシーク教徒部隊、パ
ンジャブ・ライフルに出動を命じた。彼らは1年の間、農民を殺しまくり、死者1万人、投獄された
者は9千人に上った。死刑に処された者は128人、そしてサヤ・サンもシャン高原に落ちのびた
ところで捕まり、翌31年11月に処刑された。

インドでは専売化された塩税に反発し、マハトマ・ガンジーが30年3月、約400キロの抗議行進
を歩き出した。最初は8人だったデモは1カ月余の間に数十キロも続く大行進に膨れ上がり、驚
いたイギリス人総督はガンジーを投獄して国民会議派を非合法化した。

ベトナムも揺れた。30年2月、潘佩珠(ファン・ボイチャウ)の越南光復会を母体に生まれたベト
ナム国民党のグエン・タイホクがフランス軍の配下に入っていたベトナム兵士ら600人を糾合し
てハノイの北150キロにあるイエンバイ基地を襲い、フランス軍士官6人を殺害した。フランス側
は狙撃兵として世界一といわれるセネガルの黒人部隊を投入し、さらにこの種の騒乱の鎮圧の
ためには初めて爆撃機を出動させてグエンの立てこもる村を爆撃した。

勝負は2日間でつき、敗残したグエン以下の首謀者13人はイエンバイまで運び込まれたギロチ
ンで公開処刑された。
224高山正之:02/03/17 16:36 ID:lJEUAGQL

このほとぼりがまだ冷めない5月、今度は阮愛国(ホーチミン)系のファン・バンドンらが指導した
農民デモがゲアン県ビン市周辺の農村地帯で起きた。本国フランスが世界不況を乗り切るため
そのしわ寄せとして新たな課税を強いてきたことが発端だった。過酷な税に反発する農民デモ
は各地に広がったが、フランス政府はイエンバイの経験を生かし、「ためらいなく爆撃機と黒人
部隊を出動させた」(アンドレイ・ビオリス「インドシナSOS」)。

「(ビン市では)5千人の農民に爆撃機が出動して157人が殺された。夕方、死体やまだ生きてい
る人々を収容するために村人が集まると、また飛行機が飛来して15人を殺した。タンギアでは
事前に農民たちが集会を開くという情報があり、機関銃部隊が待ち伏せしていた。700人ほど
集まったところで銃撃が開始され、130人が殺された」ゲアン県の農民は1年頑張り通して投降
し、ファン・バンドンらはプーロコンドール監獄に送られた。

ベトナム共産党史が「ゲティン・ソビエト」と呼ぶこの一連の騒乱では約1万人が殺され、30余人
がギロチンで処刑された。

《駆逐艦強奪》 揺れは少し遅れて、蘭(オランダ)領東インド(インドネシア)にも波及する。1932年
4月、スラバヤのタンジョン・ペラ(銀岬)に停泊していた3千トン級のオランダ海軍駆逐艦「セーブ
ン・プロフェンシン」が士官連中の全舷上陸中、忽然と消えてしまうという事件が起きた。世界中
の新聞がこの未曽有の事件を報じ、オランダは国家の名誉にかけて捜索に乗り出した。そして
数日後ティモール島沖で「セーブン・プロフェンシン」を発見、威嚇爆撃の末にやっと取り返した。

乗っ取ったのはセレベス王族の血を引くムハマド・ナディールという下士官らで、「ビルマでのイ
ギリスの統治より過酷」(ファーニバル)というオランダ支配に抗議のために騒動を起こしたという
事が分かった。蘭領東インドではこの時期、唯一の反逆行為になる。

1930年代の頭に起きたそれぞれの事件はいずれもあっさり宗主国におしつぶされたが、例え
ばベトナムの場合、「独立を旗印にした二つの流れがほぼ同時蜂起しながら、ふたつとも実らな
かった。それが当時のベトナム人の力の限界だった」とベトナム国立歴史学会教授、ブイ・ディン
タンは素直に認める。爆撃機まで投入する宗主国に「独力では勝てなかった」と。

ビルマもまた同じ。「全土に広がったサヤ・サンの抵抗を目の当たりにしながら、ビルマ人政治家
は蜂起した農民に対する寛大な恩赦を総督に懇請するだけだった」とマウンマウンは「ビルマの
国政」に書く。日露戦争で、黄色人種も白人に勝てるとの希望を抱いた植民地の人々は、人材
をはぐくみ、ナショナリズムを鼓舞し、抵抗を続けた。

しかし、「1930年」は改めて彼らの無力ぶりを思い知らせた。彼らに独立の可能性があるとす
れば、それは「植民地から一滴の石油も、一粒のコメもとれなくなったとき」(ルイス・アレン「戦争
の終わった日」)か、宗主国が裸足で逃げ出すような大事件が起きた時だけに限られてしまった。

225高山正之:02/03/17 16:37 ID:lJEUAGQL

■豆事典

▽ウォール街の株大暴落 1929年10月24日、ウォール街(ニューヨーク証券・金融市場)で、取引
開始の1時間後に株価が急落。投資家たちは株の「売り逃げ」に走り、優良株にも売り注文が殺
到するなど収拾がつかない状態となった(「暗黒の木曜日」)。この日のうちに主要銀行の頭取が
緊急対策会議を開いたことから株価はいったん安定したが、翌週の29日、取引開始と同時に再
び総崩れの様相を呈した。主力50銘柄の平均株価は一挙に40ドルも下がり、この日だけで100
億ドルが紙切れ同然となった(「悲劇の火曜日」)。この暴落が世界的な大恐慌の始まりとなった。

▽マウン・マウン(1925年− ) ミャンマーの政治家・法学者。ビルマ士官学校を卒業し、ラング
ーン大学で英語を教えた後、オランダのユトレヒト大学や米国のエール大学に留学し、法律学で
博士号を取った。60−70年代にネ・ウィン将軍の法律顧問や人民議会代議士、国民評議会のメ
ンバーなどを歴任。88年8月、社会主義計画党議長兼大統領に選出されたが、1カ月後にクー
デターのため解任された。

▽シーク教 16世紀初頭、イスラム教とヒンズー教を批判的に統合して生まれた宗教。「シーク」
は「弟子」または「初心者」の意味で、一神教を唱え、偶像崇拝やカースト制度を否定した。ムガ
ール帝国から迫害を受け、17世紀以降、軍事的色彩を強めた。インドのパンジャブ地方に王国
を建設したが、19世紀中ごろイギリスに滅ぼされた。

▽シャン ミャンマー東部の州。中国やラオス、タイに接する標高1000−1300メートルの波状高
原地帯。12−16世紀は独立国だったが、後にビルマ、イギリスに併合された。

▽マハトマ・ガンジー(1869−1948年) 「インドの父」と称される独立運動の指導者。小藩国の大
臣の家庭に生まれ、ロンドン大学卒業後、弁護士に。南アフリカで人種差別廃止運動を指導した
後、帰国して、第1次大戦中から「非暴力、不服従」をスローガンにイギリスからの独立運動を指
導した。第2次大戦後は不可触賤民の解放やヒンズー教徒とイスラム教徒との融和に努めた
が、ヒンズー教徒に暗殺された。

226高山正之:02/03/17 16:59 ID:fpd9vOti
■ 20世紀特派員−植民地の日々−15

アジアの空−飛行機は特別な意味をもっていた

文化庁のフィルムセンターが五年前、東宝の倉庫のほこりの中から戦前の日本とビルマ(ミャン
マー)が合作したトーキー作品を見つけた。題名は「にっぽんむすめ」、製作は井深大などが参
加してトーキーのシステムを開発した「PCL」となっているが、日本では1992年(平成4年)の東
南アジア映画祭で上映されるまで公開記録もなく、東宝にもどの映画会社にもこの作品につい
ての記載はなかった。

ただ、映画とは全く無関係の「日本民間航空史話」の中で、戦前の民間飛行学校「亜細亜航空
学校」の校長だった飯沼金太郎が数行、触れていた。「昭和10年(1935年)、亜細亜航空学校
にビルマ派遣留学生が入校。これを機に日緬親善映画『日本の娘』を同学校飛行場において製
作す。女優、高尾光子」もう少し説明を加えると、主演、監督は当時、ビルマ(ミャンマー)の人気
俳優だったウー・ニプーで、ビルマでも大々的に報じられたビルマ人学生の亜細亜航空学校入
学をヒントに映画製作を思い立って来日し、飯沼らの協力を得て、パイロットを目指すビルマ青
年の奮闘と日本人女性との恋をからめて描いたものだ。

《力の象徴》 この映画が公開されたころ、10歳だったビルマ史の泰斗、タン・タット・ヤンゴン
大教授は「街中が興奮したことを覚えている」と語る。また、それから7〜8年後、ビルマ進駐部
隊といっしょに入った台湾拓殖会社の内川大海も「擦り切れて雨が降る画面だったが、まだ上映
していた」というから超ロングランを続けていたことは確かだ。

なぜ受けたか。タン・タットは「日本人には理解できないだろうが、飛行機は特別な意味をもって
いた。白人の力の象徴だった。それを同じビルマ人が操縦する事は、ほとんど衝撃的だった。そ
れに、映画の中だけでなく、日本人が喜んでその技術を指導してくれたことも(日本人への)驚き
だった」と語る。

イギリスの統治は愚民化政策が大きな柱だった、特に理工系の分野では徹底して技術移転を
拒んだ。よく引用される例だが、1930年代にイギリスの植民地だったパキスタンのラホールで、
車両工場の工員11人が処刑された。イギリス人技師から「お前たちに機関車は作れない」とい
われたことに反発し、構造を研究して小型の機関車を作ってみせたのが「技術を盗んだ」ことに
なったという。

タン・タットの話はこうした背景を踏まえていないと理解しにくい。日本は亜細亜航空学校に続き、
1938年(昭和13年)に大阪・八尾に開設された逓信省の操縦学生養成機関にもアジアから
の留学生を受け入れた。日本人操縦士としては最長の25000時間の飛行時間をもつ元全日
空機長、森和人はこの逓信省操縦学生出身だが、「我々の期にはタイ、モンゴルからの訓練生
がいた。タイ留学生は後にタイ国軍の将軍になった」という。

ビルマの市民はそれから間もなく、本物の日本の飛行機を見る。1939年(昭和14年)5月、イラ
ンの皇太子モハマド・パーレビと最初の妃となるエジプトの王女フォージェの婚儀を祝ってテヘラ
ンまで飛んだ「そよかぜ号」がその帰途、ラングーン(ヤンゴン)に着陸した。
227高山正之:02/03/17 17:11 ID:oCieMx+M

「にっぽんむすめ」に登場したのは複葉単発のフランス製ニューポール練習機だったが、この「そ
よかぜ号」は太平洋戦争でも大活躍する96式陸攻をベースにした双発全金属製機、2年後に
国王となるパーレビは、イギリスとロシアに国土を侵食されていたこともあってか、アジアの国か
らきた日本機に大きな感銘を受け、ドイツのハインケル、イタリアのカプロニなどの「欧州機に勝
る最もスマートで優秀な爆撃機」だと称賛した話が記録されている。

「そよかぜ号」に続いて、同年末には日伊親善飛行に飛んだ三菱式輸送機「大和号」がハノイか
らバンコク経由でラングーンに飛来、さらにアキャブにも着陸した。アキャブは日本を初めて訪問
したウー・オッタマの出身地で、「人々は日の丸を振って歓迎した」という記述が残っている。

日本はこの年、タイとの間に航空協定を結び、すでに開設されていた東京−台北−広東の国際
ルートを仏印ハノイ経由でバンコクにまで延ばす計画だった。この当時、バンコクにはイギリスイ
ンペリアル航空、フランス航空、オランダKLM、オーストラリア・クルニム(カンタスの前身)、ドイ
ツ・ルフトハンザが乗り入れており、日本もやっと国際航空クラブに仲間入りするはずだった。

《郵便物のみ》 しかし、フランスが仏印上空飛行の許可を出さず、日タイ間の定期便運航は広
東までは旅客を乗せられたが、その先は郵便物のみの変則航空路となった。大日本航空の社
史では海南島で給油したあと、「インドシナ半島をぐるり迂回する13時間の海上ルートを取って
バンコクに入った」という。

これとほぼ同時期に日本政府は大日本航空のもうひとつの路線、横浜−サイパン−パラオ線を
蘭領東インド(インドネシア)に延ばす交渉も行ったが、これもオランダ政府に拒絶された。欧州で
はその頃、ドイツがポーランドに侵攻、これを巡っていわゆるフォーニー・ウォー(偽りの戦争)状
態が続いていたが、そのドイツと日本が枢軸同盟を結ぶのは1年後の1940年9月になる。

この時期にフランス、オランダが相次いで日本との航空協定や上空通過権を拒否した理由のひ
とつは「欧州諸国が日本のアジア・プレゼンスの強化に否定的だった」(タン・タット教授)ことが挙
げられそうだ。

ちなみに、日本−タイ飛行は40年6月のパリ陥落、そしてビシー政権の誕生によって大きく事情
が変わり、仏印上空通過が認められることになるが、その1番機となった「まつかぜ号」は往路
ハノイ・ジアラム空港を離陸後、給油装置に故障がでて、ビエンチャン空港に緊急着陸し、さらに
復路、同じジアラム空港を離陸後、エンジンが停止してハノイ近郊の水田地帯に不時着する。

操縦していたのは後に初代羽田空港長になる中尾純利で、日本側で調べた結果、何者かが燃
料タンクに水を入れたのが原因と判明したものの、ジアラム空港を預かるフランス当局は一切の
捜査を行わなかった。往路のトラブルもフランス関係者によるサボタージュとみられたが、これも
原因不明で処理された。

228高山正之:02/03/17 17:15 ID:oCieMx+M

■豆事典

▽高尾光子(1915−80年) 戦前に活躍した映画女優。6歳でデビューし、「悲劇の子役」として
松竹蒲田映画を代表するスターとなった。10代後半は一時不振だったが、整形手術で二重瞼
にしてから時代劇の娘役で活躍、高田浩吉や榎本健一(エノケン)など当時の大スターと共演した。

▽森和人(1919年−) 通算2万5408時間47分という飛行時間の日本記録保持者。1938年(昭和
13年)、弱冠18歳で「赤とんぼ」と呼ばれた単発複葉の練習機で大空にデビュー。戦中は軽爆撃
機や輸送機を操縦。戦後は一時期ベトナムの米軍輸送隊員として働いていたが、その後、民間
機の操縦かんを握った。1979年、41年間にわたるパイロット人生に終止符を打った。

▽モハマド・パーレビ(1919−80年) イランのパーレビ朝の最後の国王(在位1941−79年)。第2
次大戦中から戦後にかけて、米国との関係を緊密にすることで権力を強化。民主化要求が強ま
った50年代に一時国外への脱出を余儀なくされ、軍のクーデターにより復帰したが、79年にはホ
メイニ師を支持するイスラム教シーア派を中心としたイラン革命が起こり、亡命。エジプトで病死
した。

▽フォーニー・ウォー 1939年9月のドイツによるポーランド侵攻で第2次大戦が始まった後、比
較的、大きな会戦がなかった数カ月間を指す。

▽ビシー政権 1940年、フランスはナチス・ドイツに降伏。パリを含む北部と大西洋岸はドイツが
直接統治し、中南部は「自由地区」として、その後約4年間にわたってビシーに首都を置いた親
ドイツの同政権が誕生した。国家元首となったペタン仏元帥はドイツへの譲歩を最小限に抑えた
と主張したが、戦後、国家反逆罪で死刑判決を受け、終身刑に減刑されて服役中に死去した。

229高山正之:02/03/17 17:48 ID:8bdumagq

■ 20世紀特派員−植民地の日々−16

北部仏印進駐−白人支配に亀裂が走った

ビルマ国王の財産だったエナンジャン油田やモッゴクのルビー、サファイア鉱山、ベトナムのホ
ンゲイ炭鉱、マレー半島のスズ鉱脈…。そうしたアジアの豊かな地下資源を欧州宗主国は「政
治的禁治産者の地域住民を啓蒙し福利厚生を図る」(国際連盟憲章)との口実で手にいれた。

掘り出すのは思い切った低賃金で働く植民地住民で、その賃金もアヘンを買わせて回収できた
し、彼らが反抗すれば、爆撃機を飛ばして殺しても問題にはならなかった。「その宝の山」とイギ
リスの近代史家、クリストファー・ソーンも表現する東南アジアの植民地を奪い取られるのではな
いか。宗主国であるイギリスやフランスが、そうした危惧を抱いたのは、1939年2月、日本軍が
援蒋ルート封鎖を目的に海南島に上陸したときだといわれる。日本は同時に南沙諸島も取って
台湾総督府の管轄に含めた。今、中国、台湾、そしてベトナムなどが領有問題でもめているスプ
ラトリー諸島である。

《海南島上陸》 海南島はそのまま仏印のわき腹に位置する。フランスはその島がどこかの“敵
対国”の手に渡らないよう清朝との間に不割譲条約を結んでいた。イギリスにとっても2つの植
民地、シンガポールと香港を結ぶ生命線が脅かされる。米領フィリピンも、そこに日本の基地が
できれば戦略強度は半減する。

イギリス、アメリカ、フランスはすぐさま日本に仕返しを始めた。まず、フランスは仏印と日本の間
に結ばれた日仏関税協定を破棄し、一切の輸出入を取りやめた。アメリカはボランティアの形を
とって、シェンノート大佐らによる航空義勇軍「フライング・タイガー」を大量に中国奥地に送り込
んだ。イギリスも重慶政府に1千万ポンドを支援し、更に中国人操縦士の養成とシェンノートのた
めの航空機整備基地をビルマ(ミャンマー)国内に設けるなど後方支援態勢を提供した。

蒋介石の息子、蒋緯国は「日中十五年戦争」の中で、「日本は徐州などで決戦を挑んだが、蒋
介石はそれをかわし、広い中国に引き込んで長期持久戦に持ち込んだ。これを可能にしたのが
英米の支援だった」と書いている。

英米がこぞって中国支援に回った理由は、すでに触れたように日中が手を握って欧米白人国家
の脅威になるのを望んでいなかったことにある。その日本はこの時期、不幸なことに小児病的な
軍部が政権を握り、正しい判断ができなかったこともあるが、日中ともに役者が一枚上の欧米諸
国に好きなように操られていたという印象は免れない。

しかし、この対日圧迫も、思わぬ展開で底が崩れてしまった。日本の海南島攻略から1年後、パ
リが陥落し、ペタンの率いるビシー政権が樹立されたため、仏印は一転、日本にとってはドイツ
を介し、友好関係にある国の植民地になったのである。日本政府はアンリー駐日フランス大使に
「援蒋ルート遮断の目的」で仏印への進駐を伝えた。それから3カ月後の1940年9月に実施さ
れた北部仏印進駐である。

230高山正之:02/03/17 17:48 ID:8bdumagq

例により日本は気付かなかったのだが、これは「15世紀末のバスコ・ダ・ガマの到来で始まった
ヨーロッパ人によるアジア支配に初めて亀裂を入れる」(クリストファー・ソーン)というほどの大事
件だった。

仏印総督ドクー、それにビシー政権はイギリスにあったドゴールの亡命政府を通じて、何として
でも“宝の山”に日本が侵入するのを食い止めるべきだとイギリスとアメリカに働きかけた。実際
に、アメリカから大統領フランクリン・ルーズベルトの特使ウィリアム・リーがビシー政権のダルラ
ン提督のもとに派遣され、この問題を話し合った。それでもらちがあかないとダルランはついに
休戦委員会を通じてドイツに日本の仏印進駐を抑えるよう交渉もしている。

《白人の権威》 目下、ヨーロッパで戦争を行っているその当事者が、こういう会談を重ねている
こと自体、随分ふざけた話である。もちろん、共通のテーマは「極東での白色人種の権威を確保
する」(イーデン英外相)と言うその一点だった。しかし、この亀裂を敏感に感じ取っていた者がア
ジアにもいた。蒋介石の黄埔軍官学校で学んだ越南国民党系のチャン・チュンラップ(陳中立)で
ある。

ベトナムを追われ、広東にいたチャンは南寧作戦で進出してきた日本軍がベトナムに軍を進め
ると聞いて、仲間を語らって日本軍のガイド役を務めていた。もしかすると武力進駐になるかもし
れないという予測に淡い独立の夢を見たひとりである。

北部仏印進駐は、一般には平和進駐とされているが、実際には中越国境のドンダン付近で中国
側から入ろうとした日本の部隊とフランス側守備隊の間でかなりの戦闘があり、日本側戦死15
人、仏側は40人の戦死を記録している。そしてチャンはその現場に居合わせることになる。

彼の目の前で展開された戦闘はすさまじいものだった。同じ肌の色をした日本兵がその2倍以
上の兵力をもつフランス側を相手に砲撃と突撃を繰り返して追い立てていく。ベトナム人をあれ
ほど無造作に殺してきたフランス兵が、抜刀して切り込んでいく日本兵の前にただ逃げ惑った。

要害堅固で知られるドンダン要塞さえたちまち抜かれ、ルーペ司令官以下が日本刀で切り殺さ
れていった。もうひとつのランソン基地では、たった数人の日本軍騎馬兵が、殴り込みをかける
と、外人部隊を含む6千人の守備兵はたちまち手を上げてしまった。チャンはフランス軍につい
ていたベトナム人兵士を説得した。目の前でフランス兵のぶざまな負け方を目撃した彼らも喜ん
でチャンに従い、ここに2千人の独立義勇軍が生まれた。

しかし、この間に日本とフランスの間で平和進駐が再確認される事になり、フランス支配が復活
していた。日本軍はチャンに事情を説明し、フランス相手の戦いに協力できないことを伝えたが
それでもチャンはドンダンの幻影が離れなかった。

その年の暮れ、日本軍が要塞から押収した武器を譲ってもらったチャンとその手兵はランソンか
ら意気揚々とハノイに向けて発進した。しかし、彼らはハノイ平野を望む前にフランス軍の待ち
伏せにあって全滅した。チャンは捕らえられて、処刑された。この悲劇を地元はいまだに「日本
軍が見捨てたため」と信じ、語り継いでいる。
231高山正之:02/03/17 17:49 ID:8bdumagq

■豆事典

▽重慶政府 日中戦争中の1938年(昭和13年)から45年まで、中国南西部の四川省重慶を臨時
首都とした中国国民党政府のこと。中国国民党政府は抗日統一戦線結成のための第2次国共
合作(1937−45年、中国共産党との政治提携)を成立させたが、日本軍にほとんどの重要都市を
占領され、37年12月には首都・南京も陥落して奥地の重慶に遷都した。

▽蒋緯国(1916−97年) 台湾の軍人。蒋介石(1887−1975年)の二男(養子)。上海に生まれ、東
呉大学を卒業後、ドイツ、米国に留学して軍事技術を学んだ。政治に携わった兄、蒋経国(1910
−88年)とは異なり、一貫して軍人の道を歩み、台湾国家安全会議秘書長などを歴任した。

▽アンリ・フィリップ・ペタン(1856−1951年) フランスの軍人・政治家。第1次大戦(1914−18年)
の転機となったベルダン攻防戦でドイツ軍を破り、元帥となった。第2次大戦の緒戦でフランスが
ドイツに敗北し、40年にパリが陥落すると、往年の英雄への期待感から首相にかつがれたが、
抗戦不可能とみて降伏。ビシー政府の国家元首となった。戦後、国家反逆罪で死刑判決を受け
たが、減刑され、95歳で死去。

▽ドゴールの亡命政府 第2次大戦緒戦でのフランス降伏後、対独徹底抗戦を掲げ、シャルル
・ドゴール(1890−1970年)を首班としてロンドンで組織された「自由フランス委員会」のこと。ドゴ
ールはかつてペタン元帥の補佐官だった軍人で、パリ解放後、フランスに戻り、首相、大統領を
歴任した。

▽ロバート・アンソニー・イーデン(1897−1977年) イギリスの保守党政治家。オックスフォード
大学卒業後、下院議員となり、チェンバレン内閣で外相を務めたが、対ドイツ宥和政策に抗議し
て38年に辞職。第2次大戦中にチャーチル首相の下で再び外相となり、戦時・戦後の外交を指
導した。55年には首相となったが、翌年のスエズ出兵事件のため、57年に引責辞職。

232高山正之:02/03/17 18:06 ID:CBB0P678

■ 20世紀特派員−植民地の日々−17

独立国−暴風になれるのは日本だけ

タイという国がある。地図でみれば分かるように東側がカンボジア、ラオスに接し、その向こうに
ベトナムがある。旧仏領インドシナだ。西側がミャンマー、南はマレー半島のクラ地溝帯付近で
マレーシアに接する。この二つの国も昔は英国領だった。つまりタイの周辺はすべて欧州の植
民地支配を受けていた国々である。

19世紀から20世紀前半にかけての激動の時代に、タイは東南アジアでは唯一、独立を保って
いた。それが可能だったのは、例えば現在はカンボジア国内になるバタンバンやシエムレアプ、
そしてラオスのルアンブラパンを含むメコン川の東側地区をフランスに献上し、ビルマ領シャン高
原の一部とマレー半島のケダー、トレガヌー州などを英国に寄贈する“朝貢”外交の結果という
だけではなかった。

ミュージカル「王様と私」のモデルにされたモンクット国王以下、国のリーダーたちが必死に国際
情勢を読み、イギリスやアメリカから突き付けられる治外法権や「アヘンの輸入」など不平等条
約を「この愚かな国王は喜んで」(アメリカ特使タウンゼント・ハリス)受け入れてきたこともある。

《タイの読み》 その慎重なタイが、日本の北部仏印進駐という事態に、動いた。しかし、同じ動
きでもベトナムの独立の志士、チャン・チュンラップ(陳中立)とは違った。今、振り返ってみてもよ
り深い読みがあったように思える。あるいは数世紀にわたる白人のアジア支配の崩壊を本能的
にかぎ取り、その崩壊をより確実にしようとしていたようにも思える行動だった。

タイは日本軍が仏印に入って2カ月後の1940年11月下旬、フランスのビシー政権に対して仏
印に組み込まれたかつてのタイ領土の返還を要求した。拒否すれば軍事行動に訴える、と言う
のである。アジアの小国としては異例の決断だった。

交渉は当然のように決裂し、軍事衝突はまずタイ・カンボジア国境に近いアランヤプラテート辺り
から始まった。フランス植民地軍は当時、フランス兵とセネガル狙撃兵など黒人部隊併せて2万
人、それにベトナム兵など現地徴集兵7万人の布陣だったが、カンボジアには現地兵を中心とし
た1個師団規模が置かれているだけで、まがりなりにも陸海軍をもっていたタイ正規軍に押さ
れ、翌41年1月には旧タイ領だったバタンバンの線まで後退した。

フランス側は唯一優勢な航空機作戦にでて、タイ領土を爆撃したり、タイが日本から受領した軍
艦トンブリを撃沈する戦果はあったものの、本国からの応援部隊も期待できず、大勢はフランス
側に圧倒的に不利だった。

タイはこの間に日本に接近し、日タイ友好条約を批准、日本から当時としては最新の97式重爆
撃機9機と戦車70両の援助を得て軍備を増強するとともに日本にフランスとの間の調停を依頼
した。

233高山正之:02/03/17 22:41 ID:vvI9SOyG

講和会議は四一年二月、東京で開かれ、フランス側アンリー駐日仏大使、タイ側ワン・ワイタヤ
コン殿下が出席。松岡洋右外相の調停でタイはアンコールワットを含むトンレサップ湖の北まで
の線を要求したが、結局バタンバンまでの失地回復で合意した。

余談になるが、フランスがアンコールワットを植民地下に入れていたころ、フランス人が大挙、押
し寄せ貴重な仏像や壁画をはがして持ち出した。その中に後のドゴール政権の閣僚になる“フラ
ンスの知性”アンドレ・マルローもいて、仏像窃盗容疑で捕まっている。

フランス側は植民地領土を取られたうえ、調停の労を取った日本にその“謝礼”としてカムラン湾
の使用と南部仏印に航空基地を置くことを承認させられるという屈辱を味わう。アジアの主人で
あったはずの白人が有色人種の指図のまま、屈辱的な譲歩をさせられた、まさに主客転倒の東
京講和会議は欧米に大きな衝撃を与え、日本封じ込め政策がここから激しさを増してくるが、そ
れは次回以降に譲るとして、このタイについて話を続ける。

イギリスの近代史家、クリストファー・ソーンが引用した言葉だが「善悪は別にして白人が築いた
アジア支配を根底から覆す暴風になり得るのは、日本だけだった」と、タイはそれを期待してい
た節がある。

例えば日本が国際連盟に出した人種平等案には終始賛成票を投じている。また日本の連盟脱
退の契機となったリットン調査団の報告書案採択の際には、反対票を投じた日本を除けば、タイ
は唯一、賛成票を投じず、棄権にまわった。

さらに第二次大戦ではピブン首相以下が日本に協力の姿勢を見せて英米に宣戦布告をし、日
本軍に無害通行権を与えた。結果的に日本軍の行動は遠くビルマ、さらにインドにも及んだわけ
だが、クリストファー・ソーンの言葉に直せば、タイは日本という暴風が吹き荒れやすい状態を提
供したことになる。

《したたかさ》 しかし、タイはその一方で、保険をかけることも忘れなかった。真珠湾攻撃と並
行して展開されたマレー作戦で、日本は事前にタイ領に上陸する事をピブンに通告しようとした
が、ピブンは行方を眩まし、日本軍は無許可でスンゲイ・パタニーに上陸することになった。

しかも、国境守備隊には情報を伝えず、守備隊は上陸する日本軍に向けて格好だけの抵抗を
示す。これはのちに「タイは当然、中立を望んだが、圧倒的な日本の兵力に直面して葦のように
屈服した」(フィフィールド「東南アジアの外交」)ことのよき証拠とされた。

更にタイは宣戦布告後、駐米公使のセーニー・プラモートが亡命政権「自由タイ」をアメリカにつ
くり、戦局がどっちに傾いても良いように準備している。そうかと思うと、日本に対して戦時中に
戦争遂行のための資金として提供した20億バーツ(約10億ドル)を戦後、40分の1の2500万
ドルにまで引き下げ、日本の復興の一助とする恩情もみせる。日本はやがて国際社会に復帰し
て国際連合に加盟することになるが、この加盟にも最も尽力したのが、ときの国連総会議長、ワ
ン・ワイタヤコンである。アジア諸国が次々と欧米の植民地に落ちていく中で最後まで独立を維
持したタイの真骨頂がここにも見られる。

234高山正之:02/03/17 22:43 ID:vvI9SOyG

■豆事典

▽モンクット(1804−68年) タイの現王朝であるラタナコーシン朝の第4代王(在位1851−68年)。
成人後、王位につくまで27年の僧院生活を送り、その間フランス神父との交遊を通じてキリスト
教文明に触れ、積極的に西洋の文化を学ぼうとした。僧としては当時のタイ仏教を批判し、復古
的な改革運動を起こした。兄王の死後、王位につき、西洋諸国に対する伝統的な閉鎖政策を改
め、開放策を推し進めた。

▽タウンゼント・ハリス(1804−78年) 米初代駐日総領事、公使。アジア貿易に従事していた
が、1854年に中国の寧波総領事に任命され、外交官に転じた。56年、駐日総領事として下田に
着任、翌年、13代将軍、徳川家定に謁見し、通商の必要性を説いて58年に日米修好通商条約
締結に成功した。

▽ワン・ワイタヤコン(1891−1976年) タイの外交官、政治家。王族出身で、英仏に留学後、
1917年から外交官生活に入った。外務次官、駐英大使、国際連盟タイ代表などを務め、第2次
大戦後は、駐米大使、国連首席代表、外相を歴任。タイ外交の第一人者として活躍した。56年
(昭和31年)には国連総会議長に選出され、スエズ紛争、ハンガリー動乱、日本の国連加盟に対
処した。たびたび日本を訪れ、「ワンワイ殿下」の名で親しまれた。

▽アンドレ・マルロー(1901−76年) フランスの小説家、政治家。パリに生まれ、東洋語学校に
学んだ。23年、仏領インドシナでクメール王朝の遺跡を探検して盗掘容疑を受け、禁固刑の判決
を受けた。その後、中国とスペインの内乱に参加。第2次大戦後は、ド・ゴール将軍の盟友とし
て情報相、文化相を歴任。代表作に「征服者」「王道」「人間の条件」など。

▽リットン調査団 1932年(昭和7年)、英国のリットン卿(1876−1947年)を団長に、満州事変の原
因などを調査した国際連盟の調査団。満州事変を日本の侵略行為と断じ、日本のかいらい国家
「満州国」を認めないとする報告書を作成した。33年、国際連盟臨時総会で報告書が採択され、
日本は連盟を脱退した。

▽日本の国連加盟 1956年(昭和31年)の国連総会で51カ国共同提案の日本国連加盟案が77カ
国の全会一致で可決、日本は80番目の加盟国となった。

235高山正之:02/03/17 23:08 ID:wFkQwnZe

■ 20世紀特派員−植民地の日々−16

南部仏印進駐−アメリカが制裁に乗り出した

クリスマスに飾られるポインセチアはメキシコ原産である。1820年代、アメリカの公使として赴
任したジョエル・ポインセットがタスコの街で見つけてもち帰り、彼にちなんだ名がついた。ただ
花の名前の由来となる人物にしてはポインセットはいかにもアメリカ的な策士だった。彼は任地
で盛んに反政府勢力を育てようとした。国が割れれば、そこに介入して植民地にするというアメ
リカ伝統の領土拡大策である。

メキシコ政府は怒って彼を追放するが、今度はメキシコ領テキサスの独立をたくらむ。独立を叫
ぶ入植アメリカ人がメキシコ政府軍と戦い、あの“アラモ砦の悲劇”を経て独立すると、国土をそ
のままアメリカに寄贈し、テキサス州として併合される。そして1848年、アメリカは「尊厳を傷つ
けられた」という名目でメキシコに攻め入り、現在のカリフォルニア州など、当時のメキシコの国
土の52%を賠償金代わりに取り上げてしまう。

ポインセチアはそういう忌まわしい記憶がからむから、メキシコ系の人は今でもその名を口にせ
ず、昔ながらの「ノーチェ・ブエナの花」という。イブの花という意味である。

《お説教好き》 ただ、アメリカの面白いところは、そういう結構えげつないことをやってもすっか
り忘れてしまう。「アジア問題でも利己的な欧州諸国と違ってアメリカは高潔な動機で接している
と思い込んでいて、植民地支配の非難など理想主義に満ちたお説教を垂れ、欧州諸国をいらだ
たせる」と、イギリス人歴史家のクリストファー・ソーンは「格好だけの連合軍」で指摘している。

「アジアでアメリカはイギリスと同じに治外法権を享受し、アヘンや苦力貿易にも手を染めてきた
ことは忘れているのだ」ソーンはさらにフランクリン・ルーズベルト大統領とスターン・イギリス外
相の終戦処理でのやり取りを引用する。イギリスが香港の継続統治を当然のように言ったのに
対し、ルーズベルト大統領が皮肉を込めて「イギリスは最初、香港を正当に買ったわけではない
と思うが」と尋ねる。スターン外相は「ええ、あれはアメリカがメキシコ領土を半分手に入れたころ
の話でしたか」と切り返した。

その説教好きのアメリカが、意外なことに日本の北部仏印進駐のときは、あまり積極的に動か
ず、仏印のドクー総督を嘆かせた。というのもこの少し前、欧州戦線ではドイツがノルウェー、デ
ンマークを占領していた。デンマークは北大西洋にかなり大きな島をもっていて、ここをドイツが
実効支配すれば英米を結ぶ海上ルートは危機的状況になる。

アメリカはそこでお家芸を出す。島の住民にドイツ占領下の本国に対して革命を起こさせ、独立
させたうえで、ドイツの手に落ちる前に軍を派遣して占領した。ハワイやテキサスと違うところは
アメリカが併合しなかったことだけで、あとは全く同じパターンだった。この独立国が今のアイス
ランド共和国である。

236高山正之:02/03/17 23:17 ID:N363Hkqi
さて、この経緯をじっと見ると、アメリカが日本非難の目玉にしていた満州国の成立になんとなく
似ている。あるいは日本の仏印進駐にも似てなくはない。それが日本の北部仏印進駐騒動とほ
ぼ同時期に進行中だったから、さすがのアメリカも説教のトーンが湿りがちだったというわけだ。

しかし、年が変わって1941年になると、アイスランドの件はもう忘れてしまう。日本はこのころ
欧米から高関税などの措置を受け、とくに近隣の植民地地域の市場からは事実上、締め出され
ていた。

当時の事情をいえば、中東の石油はイギリスがほぼ手中に収め、アジアの、例えばインドネシア
サラワク、ミャンマー(ビルマ)の石油もオランダ、イギリスが握り、その他の鉱物資源も併せて日
本への輸出には極めて冷淡だった。その結果、日本はアメリカに石油の76%、銅の90%を頼
る状況だったが、そのアメリカの大統領ルーズベルトは徹底した日本嫌いで知られた。

直線的な思考しかできない軍部は、「座して枯渇を待つより」と自らの力で資源を獲得できるよ
う、南部仏印進駐がにわかに具体化する。そしてこれを“準同盟国”のビシー政権(フランス)に通
告すると、驚いたことに早速クレーギー駐日イギリス大使から抗議がきた。ビシーが英米と“でき
て”いることはすでに触れたが、このころの日本の公電はアメリカの対日暗号解読システム、い
わゆる「マジック」がもうとっくに実用化され、ほとんど筒抜けの状態だった。

《天地の差》 果たせるかな、アメリカは北部仏印進駐のときとは天地の差のある制裁を科して
きた。石油の全面輸出禁止である。さらに、コーデル・ハル国務長官のいわゆるハルノートが追
い打ちをかけた。「日本は中国との戦争状態をやめ、ただちに撤兵せよ」に始まり、「満州国を放
棄し、国際連盟委託統治の南洋諸島も返還し、元の四つの島に戻れ」という。事実上の宣戦布
告通知だった。

南部仏印進駐が、それほどにも国際秩序を乱すものなのか?、それとも、別に意図があったの
か、その参考となりそうなのが当時の駐アメリカ・イギリス公使、サー・ロナルド・キャンベルの手
紙(イギリス首相府ファイル所蔵)である。それによるとルーズベルトはスミソニアン博物館の自
然人類学担当の博士、アレシュ・ヘリチカと親交があり、博士から二つのことを学んだ。ひとつは
インド人が白人と同種だということ。そしてもう一つが「日本人が極東で悪行を重ねるのは頭が
い骨が未発達で、白人に比べ2千年も遅れている」との説だった。

このヘリチカ説を踏まえて、アジアに文明の火を灯すにはアジア人を(優秀な白人種と)人種交配
させ、「ユーラシア系とヨーロッパ・アジア系とインド・アジア系を作り出し、それによって立派な文
明とアジア社会を生み出していく。ただし、日本人は除外してもとの島々に隔離して次第に衰え
させるというのが(ルーズベルト)大統領の考えである」とキャンベルは書いている。

この手紙の日付は1942年8月、ハイドパークのキャンベル首相の私邸を訪ねたルーズベルト
がキャンベルに語った内容をイギリス外相に報告したものだが、その前年に日本に発信された
ハル・ノートの内容と随所で共通した主張がみられるところがいかにもおもしろい。

理想主義に燃えるアメリカは日本にペリーが開国を迫った当時の島に戻るよう勧告し、それを強
制すべく糧道を断った。これに対し、日本は欧米が支配するアジアの人々の国に進出を続ける。
237高山正之:02/03/17 23:21 ID:ulEGjwzc

■豆事典

▽アラモ砦の悲劇 テキサス独立戦争(1835−36年)の際、テキサス人の小部隊はサンアントニ
オ(テキサス州南部の都市)にあった僧院を“砦”に約3000のメキシコ軍と戦った。36年2月23日
から僧院に立てこもった指揮官ウィリアム・トラビス、開拓史の伝説的英雄デビー・クロケットら
の部隊は年3月6日までに非戦闘員を除く187人全員が戦死して陥落した。「アラモを忘れるな」
は以後、テキサス軍の合言葉となった。

▽サラワク 現在のマレーシアを構成するカリマンタン(ボルネオ)島北西岸の州、陸続きでイン
ドネシア、ブルネイと隣接する。元はブルネイのスルタン(君主)領だったが、19世紀前半にイギリ
スがスルタンから領土を譲り受け、「サラワク王国」を建設した。1888年にはイギリス保護国とな
り、1963年にマレーシアに編入された。石油、天然ゴムをはじめ、豊富な資源に恵まれている。

▽ロバート・クレーギー(1883−1959年) 英外交官。1937年(昭和12年)、チェンバレン首相により
駐日大使に起用され、対日宥和政策を進言して日英衝突の回避を図った。太平洋戦争開戦直
前まで和解に努めたが実らず、42年に帰国。

▽ハルノート 太平洋戦争前の日米交渉で、アメリカ側が示した最終段階での提案。1946年(昭
和16年)11月26日にアメリカ務長官のコーデル・ハルが提示したことから、ハルノートといわれる。
中国とインドシナからの日本軍の全面撤退、日独伊3国同盟の破棄などを求めており、日本は
これを事実上の対日最後通告とみなして、12月1日の御前会議で対米開戦を決定した。

▽スミソニアン博物館 アメリカの国立学術研究機関「スミソニアン協会」によってワシントンに
設立された自然史、科学技術、航空宇宙の3つの博物館。同協会はイギリスの化学者、ジェー
ムズ・スミッソン(1754−1829年)が寄贈した遺産を基金に、1846年に創立され、博物館のほかに
各種研究所、美術館をワシントンを中心に設立している。研究機関の組織体としては世界最大
級を誇る。

238卵の名無しさん:02/03/17 23:31 ID:RV4zZhjn
この荒らし、この性格では将来暗いぞ
239いいかげんにしろ〜:02/03/17 23:58 ID:jMdaxxzv
みんな みんな バカヤロウ!!!!!
240卵の名無しさん:02/03/18 00:23 ID:marCJMLC
サワイ管理職のみなさ〜ん!!!!

ワラント償還の期限はまだだっけ?

大儲けできましたか?  (ワラワラ
241卵の名無しさん:02/03/18 06:51 ID:tUc+/nPG
>>239
社長、すんません、なんせ給料安いもんで。
242高山正之:02/03/18 07:09 ID:Sld47yHb
■ 20世紀特派員−植民地の日々−19

真珠湾の日−チャーチルは「これで勝った」と喜んだ

元全日空機長、森和人は開戦の日の1941年12月8日、サイゴン(ホーチミン)のタンソニュット
空港にいた。身分は南方派遣軍特設輸送隊操縦士。南部仏印進駐のあと、中華航空から徴用
され、この地に移っていた。軍属だから満足な宿舎もなく、滑走路わきの格納庫の中で寝泊まり
していた。

しかし、その日は「未明からエンジンの轟々(ごうごう)という音とプロペラの風切り音が飛行場を
包み」とても寝ていられる状態ではなかった。外に出てみるとまだ明けやらぬ空に無数の飛行機
が編隊を組んで旋回し、滑走路からも次々、陸攻や戦闘機が飛び立っていた。

ずんぐりした二式戦「鍾馗」が滑走路を外れ、「帽振れ」の列に接触したように見えた。「紙切れ
のように何人かが宙に舞って、鍾馗はそれでもふらふらと上昇し、木立の向こうに沈んだ。しば
らくして爆発音と真っ黒な煙が噴き上がった。大惨事だった。しかし、後続の機がそれを無視し
て次々離陸していく。演習じゃない。戦争だと分かった」

英米との開戦の知らせはまもなく届いた。「アメリカ相手に勝てるのだろうか」とふと思った。森が
飛ばしていたロッキード−14は、すでに今のジェット旅客機がつけているのと同じファウラー・フ
ラップ(補助翼)を装備していた。DC3の高出力エンジンも精密な油圧装置も、どれも日本の技術
を超えているのを森は知っていた。

〈低い評価〉 日本の戦力を疑う声はとくにアメリカに強く、軍事評論家、フレッチャー・プラットも
その一人だった。彼は海軍力についてずばり「日本は鉄鋼の不足のため小型の艦に過度の装
備を施したり、リベットに代えて溶接に頼った。その結果、初めから構造欠陥をもつ重心の高い
軍艦ができあがった」と低く評価していた。

航空戦力もしかりで「日本人には性能のよい飛行機は作ることも、それを巧みに操縦することも
できない」と断じて、幾つかの理由を挙げていた。まず、日本人は近眼のうえ、人種的に内耳管
に欠陥があり、バランス感覚に難がある。これらはともに「パイロットにとってほとんど致命的」だ
といえる。さらに短気で粘りがない。きりもみ降下した場合、欧米人はパラシュートで脱出する
が、「日本人は胸元で腕組みして大日本帝国のため喜々として死んでいく傾向がある」。

日本人はドイツ人以上に徒党を組みたがる国民で、「一人だと真に愚かだが、2人になると驚く
ほど抜け目なくなる。しかし、飛行機の操縦は孤独な作業で、お粗末な個人主義者である日本
人はお粗末な操縦士である」…。

〈正確な攻撃〉 ジョン・ダワーの「慈悲なき戦争」には、プラットの論証の根拠となった研究報告
が幾つか紹介されている。その一つは人類学者の証言で「日本人の大脳は欧米人の灰白色よ
り白い。原始的なままで、思考力は劣る」と断じている。内耳の欠陥は「乳幼児期に背中におぶ
われ、頭をぐらぐらさせていることと無関係ではない」という見解が確定していた。
243高山正之:02/03/18 07:16 ID:ioBY0R7W

イギリス海軍駐日武官のリポートでは「日本人が格別鈍い頭脳をもっているのは真の教育が始
まらないうちに約6千の漢字を覚えさせられ、その結果、こどもの頭脳に重圧がかかるのが原
因」としている。そしてプラットは「日本は戦力に勝るアメリカとの戦争する力も意志もない」と結
論付けていた。この見方はアメリカ軍の指導部だけでなく、欧米各国の首脳にもかなり広く浸透
していた。

ダワーは、真珠湾攻撃のわずか3日前にワシントンで開かれた昼食会でのフランク・ノックス海
軍長官の発言を引用している。「日米戦争が仮にあっても、それほど手間取らないでしょう。ま
あ、6カ月ぐらいですか」

真珠湾攻撃の第一報が届いたとき、イギリス首相、ウインストン・チャーチルもまた、同じ考え方
で「これで勝った」と喜んだ。参戦を渋ったアメリカ市民も議会も喜んで銃を取って戦場に出てく
る。「ヒトラーはたたかれ、ムソリーニも終わりだ。そして日本は粉みじんにつぶされるだろう」

しかし、チャーチルもノックスも間もなく予想外の続報を受け取る。真珠湾では日本軍パイロット
は実に正確に目標を攻撃した。香港ではあの谷が深く切れ込んだ地勢をものともせず、日本軍
機は「驚いたことに超低空飛行で侵入し、効果的な攻撃を展開した」(イギリス軍報告書)。

そしてマッカーサーが守るフィリピンでは、はるか台湾を飛び立った96式陸上攻撃機が思う存
分、クラーク基地をたたき、東洋随一のB17爆撃機は一瞬にして鉄くずとなった。「日本人は劣
等民族」とかたくなに信じていたマッカーサーはこの前代未聞の渡洋爆撃を食って「日本の飛行
機にはドイツ人が搭乗していたと思われる」という報告書を出している。香港の英軍もまた「ドイ
ツ人パイロット説」をとった。

アメリカCBS放送のセシル・ブラウンは、イギリスの誇る戦艦レパルスに招待され、プリンス・オ
ブ・ウエールズとともに運命の12月10日、マレー半島沖を航行していた。最期のリポートは「士
官たちは意気軒昂だった」と伝えている。ある士官は「あいつらは飛べないんだ」といった。「夜
は見えないし、訓練もされていない」。別の士官は「彼らは軍艦をもっているが、近眼で砲撃がで
きないんだ」という。不幸な思い込みで2艦がともに沈んでしまったのはその5時間後だった。

〈究極の目的〉 興味深いことに、この根拠のない白人優越主義的解釈は第二次大戦中、訂正
されることはなかった。1945年の沖縄攻略戦で、「日本軍の重砲が正確にアメリカ軍上陸部隊
を捕らえていくと、日本軍には優秀なドイツ人砲術家がついているといううわさが広まった」とダ
ワーは報告している。

イギリスの「戦争閣僚会議メモ(40年7月)」は日本について「究極の目的は東南アジアから西欧
勢力を駆逐することにある」と規定している。欧州諸国の「宝の山」である植民地を奪おうとして
いる、という意味だ。

しかし、日本は予想を超えた強さをもっていた。イーデン外相のいう「アジアでの白色人種の権
威」が地に落ちたとき、彼らは初めて必死になった。クリストファー・ソーンは「太平洋戦争は人
種戦争に変わっていった」と書いている。

244高山正之:02/03/18 07:18 ID:ioBY0R7W

■ 豆事典

▽ジョン・ダワー(1938年− ) アメリカの日本研究者、マサチューセッツ工科大教授。ハーバ
ード大学で博士号(日本史・日本語研究)を取得。1972−73年に日本の大蔵省で戦後財政史を研
究し、その後、京大、東大で客員教授を務めた。「吉田茂とその時代」「人種偏見」「日本・戦争と
平和」など多数の日本関連の著書があり、「慈悲なき戦争」では、メディアを通じていかに日米の
国民が互いへの憎悪をかきたてられたかを分析した。

▽真珠湾攻撃 1941年(昭和16年)12月8日未明(現地時間7日朝)、日本海軍機動部隊が、ハワ
イ・真珠湾に集結していたアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃した作戦。これにより太平洋戦争が始
まり、アメリカが第2次大戦に参戦した。

▽クラーク基地 フィリピンのルソン島中部、マニラから北西約110キロにあった極東最大規模
(約3760ヘクタール)の米空軍基地。アメリカ植民地時代の1901年に設置され、第2次大戦で日本
軍が占領した一時期を除き、90年にわたって米軍が使用したが、91年にフィリピン政府に返還さ
れた。

▽プリンス・オブ・ウエールズ イギリス東洋艦隊の主力戦艦(3万5000トン)。ぶ厚い装甲と毎分
6万発以上の対空砲火を持つ英海軍自慢の「不沈艦」だった。1941年12月10日、日本軍のマレ
ー半島上陸を阻止するため、半島東岸沖を航行中、サイゴン基地から出撃した日本海軍航空部
隊の猛攻撃を受け沈没した。戦史上、航行中の戦艦が航空攻撃のみで撃沈された最初のケー
スで、時のチャーチル英首相は後に「戦争の全期間を通じて、これ以上のショックはなかった」と
回想している。

245高山正之:02/03/18 07:31 ID:IEPoqTDj

■ 20世紀特派員−植民地の日々−20

訪問者−ビルマを満州国にしてほしい

開戦の日の1941年12月8日、東南アジアにあるイギリスの各植民地は落ち着き払っていた。
ジョン・ダワーは「慈悲なき戦争」にそう書いている。シンガポールでは払暁、日本軍のコタバル
上陸の報を受け、パーシバルが総督に「小さい連中(日本軍)を速やかに追い払う」と約束した。

夜が明けるとイギリスはシンガポールとマレー半島にいた在留民間邦人約2500人を拘束して
収容所送りにした。アメリカ西海岸3州の強制収容と同じことをここでもやったが、イギリスはそ
の収容先にクアラルンプールの外港、ポートスウェトナムを選んだ。ここには黒人奴隷の選別を
行ったセネガルのゴレ島と同じようなインド、中国からの苦力の“選別施設”があり、高い塀と監
視所も備えられ、危険な日本人を収容するのに適していると思ったからだ。

しかし、マレー半島中部にマジノ線を模して構築したジットラ・ラインが「3カ月はもつ」という予測
を裏切って1日で落ちてしまい、抑留すべき在留邦人がほぼポートスウェトナムに集められたこ
ろには日本軍はもうすぐそこに迫っていた。抑留者は今度は遠くインドの砂漠の収容所に送られ
るが、その消息は敗戦の日まで忘れ去られてしまう。

《逃げる人々》 ビルマ(ミャンマー)でのイギリス人の様子を当時、ラングーン(ヤンゴン)大学生
だったタン・タット(ラングーン大学歴史学教授)が覚えていた。「英国人たちは表向きは強がって
いたが、すぐさま家族を安全なインドに送り出し、反政府運動の発火点になる大学は10日には
閉鎖され、学生は故郷に追い返された」

1909年にオープンしたビルマで最も古いゴルフ場ラングーンCC(カントリー・クラブ)には日本軍が入
る直前の1942年2月にクラブ杯コンペが行われ、「R・E・ハミルトンが優勝、スコア75/84」の
記録が残っている。しかし、やせ我慢もこの日までで、翌日にはクラブは閉鎖され、このころには
「イギリス人を何世紀も信頼し切ってきたインド人が、マスターの顔色に敏感に反応して、まるで
沈没する船のネズミのように何万と群れをなしてベンガルに陸路逃げ出していった。揺るぎない
と思われたイギリスの植民地支配が本当に音を立てて崩れていくのを感じた。痛快だった」とタ
ン・タットはいう。

もっと劇的な体験をしたビルマ人がいた。当時の首相ウー・ソウである。彼は41年10月、ロンド
ンにイギリスの首相、チャーチルを訪ねた。前にも触れたように植民地ビルマでは大多数を占め
るビルマ人を軍隊から遠ざけ、少数民族のカレンを軍の主体としていた。その結果、第一次大戦
ではビルマからの派遣軍はインド軍60万に対して1万に過ぎなかった。

ウー・ソウはこれを交渉材料に、チャーチルに「将来、独立を約束してくれるならビルマ人を戦場
に出す」と申し出た。チャーチルは彼をさんざん待たせたあげく、「国家体制の問題は戦争が終
わるまで待つように」と言った。ビルマの独立などまったく考えていないということである。

246卵の名無しさん:02/03/18 07:38 ID:7im1B1Y2
給料なんとかしてくれ〜
247高山正之:02/03/18 07:38 ID:M6MVoeRE

それでも、ウー・ソウはあきらめずに大西洋を渡って米国大統領、フランクリン・ルーズベルトに
会いにいった。会見を待つ間に彼はタイム誌に寄稿している。「ビルマが知りたいのは、われわ
れは今世界の自由のために戦っているが、それはビルマ自身の自由のためでもあるのか、とい
うことだ。完全な自治はビルマ国民の一致した要求であり、それは大西洋憲章が制定される前
からの願いだ」

しかし、民族自決、国民の望む政府など理想に満ちた大西洋憲章を書いた当のルーズベルトに
盟友、イギリスの植民地を解放させるような意図はなく、ここでもウー・ソウは失望させられた。

《イギリスを見限る》 失意のままラングーンへ帰る途中、ウー・ソウは乗り継ぎのハワイで日本
軍による真珠湾攻撃に出くわすことになった。彼は帰国ルートを変え、再びアメリカ本土を経由
して12月末にリスボンに入った。ここからの彼の行動は、東京・飯倉の外務省外交史料館に残
っている。

「12月31日午前、ビルマ首相ウー・ソウが密かに大使を来訪せり。ハワイより引き返し大西洋
を経て当地着。帰国のため飛行機待ち合わせの間を利用して苦心来訪せる趣なり。その申し出
は左の如し」、「今やシンガポールの命運旦夕に迫りビルマ独立のための挙兵には絶好の機会
と認められる。日本がビルマの独立尊重を確約せらるるにおいてはビルマは満州国のごとく日
本の指導下に立つ国として日本とともに英国勢の駆逐に当たり、また、日本の必要とする資源
は悉く提供するの用意あり」

42年1月1日付「東郷外務大臣宛、発信人千葉公使」の公電は植民地ビルマの首相がイギリス
を見限って日本陣営に加わるという、信じられない申し入れをしたことを伝えている。ウー・ソウ
が白人社会のリーダー2人から受けた失望の直後、同じアジア人が見せた真珠湾での驚くべき
戦果を見せつけられたその衝撃の大きさが彼の提言からもうかがえる。

《必死の思い》 しかし、すでに触れたように日本の外交文書は連合軍の暗号解読システム「マ
ジック」のおかげで細大漏らさずアメリカとイギリスの知るところとなっていた。ウー・ソウはこの
翌日、ジブラルタルから飛行機に乗るが、ナイロビに着いたところでイギリス側に逮捕され、日本
の敗戦の日まで同地の刑務所に監禁されてしまう。

この事件を知ったルーズベルトはチャーチルに手紙を送っている。「私はビルマ人が好きではあ
りません。あなた方もこの50年間、彼らにはずいぶん手を焼かれたでしょう。幸い、(日本と手を
結ぼうとした)ウー・ソウとかいう彼らの首相は今やあなた方の厳重な監視下にあります。どうか
一味をひとり残らず捕らえて処刑台に送り、自らのまいた種を自ら刈り取らせてやるよう、願って
います」(ダワー「慈悲なき戦争」)

ウー・ソウは戦後、アウンサン暗殺の糸を引いた黒幕として死刑になるが、それをおいて、彼が
日本大使館に駆け込んだ姿には、植民地支配の闇から抜け出そうとする必死の思いがうかが
える。しかし、ルーズベルトの言葉にはそうした独立への希求に対する理解はこれっぽっちも感
じられない。

248高山正之:02/03/18 07:40 ID:M6MVoeRE
■豆事典

▽コタバル上陸 1941年(昭和16年)12月8日未明、ハワイでの真珠湾攻撃開始より約1時間前
に、日本軍はタイとの国境に近い英領マレーシアの海岸の町、コタバルへの上陸作戦を遂行し
た。激しい戦闘が続いたが、日没までに第1陣の上陸が完了し、シンガポール攻略を目指したマ
レー作戦が始まった。

▽アーサー・アーネスト・パーシバル(1887−1966年) 太平洋戦争開戦時のマレー方面英軍司
令官(中将)。1942年(昭和17年)2月、シンガポール攻防戦で日本軍に敗れ、降伏文書に署名し
たが、その際、山下奉文将軍に「イエスかノーか」と詰め寄られた。降伏後、終戦の45年まで、シ
ンガポール、台湾、満州で捕虜生活を送った。

▽マジノ線 第1次大戦後、フランスがドイツ軍の攻撃を阻止するために国境に構築した要さい
線。発案者であるアンドレ・マジノ陸相の名を取って名付けられた。1927年に着工され、36年に
完成、総延長約750キロ。当時は難攻不落といわれたが、第2次大戦の欧州西部戦線で戦闘が
始まった40年5月、北部ベルギー方面から電撃進入したドイツ軍に4日で突破された。

▽大西洋憲章 1941年8月、英国のウインストン・チャーチル首相と米国のフランクリン・ルーズ
ベルト大統領が大西洋上の英戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(同年12月、マレー沖で日本軍に
撃沈される)で会談して発表した共同宣言。米英両国の第2次大戦と戦後の基本方針を示し、領
土不拡大、民族自決など8カ条の原則をうたって、国連憲章の基礎となった。当時、米国はまだ
第2次大戦に参戦していなかったが、米英の「同盟関係」が明確にされた。

249卵の名無しさん:02/03/18 08:43 ID:x1XwwWy/
おい!高山って奴よ!そんな話聞いちゃいねーんだよ!
お前psy患か?
あーヤダヤダ!怖いなー
250卵の名無しさん:02/03/18 08:51 ID:IO28cUpP
たのむ  給料上げてくれ 生活できん
251高山正之:02/03/18 09:11 ID:7lbsg7jf

■ 20世紀特派員−植民地の日々−21

1941年12月、真珠湾の奇襲で戦端を開いた日本は、それからの半年の間に香港、マレー半
島、シンガポール、蘭領東インド(インドネシア)、ビルマ(ミャンマー)、そして南方はビスマルク諸
島、北はアリューシャン列島に至るまでの広範な区域を占領した。投入されたのは海軍のほぼ
すべてと、陸軍51個師団のうちのほぼ5分の1にあたる11個師団、約20万人であった。

オランダの歴史家、J・ブルビーアは、欧米植民地軍の惨めな敗北を「旧式の装備だったため」と
「東南アジア史」で弁解しているが、どうだろうか。日本の空軍力を過小評価する誤りはあった。
しかし、その他の地上部隊装備、兵員数などでは日本よりはるかに勝っていたことは数字が示
している。例えばマレー・シンガポールでは13万の英印軍が堅固な要さいを作って待ち構えて
いたが、その3分の1にも満たない日本軍の進攻を止められなかった。

インドネシアもしかりで、5万人の英蘭豪連合軍が立てこもったバンドン要さいはわずか750人
の日本軍が突入するとあっけなく白旗を振った。降伏組の中には後に映画「戦場のメリークリス
マス」の原作を書くバン・デル・ポスト、「戦場にかける橋」のピエール・ブールらがいて、その作
品に体験を生かしている。

《住民の歓迎》 日本軍の電撃的な制圧が可能だったのは、その強さもあったが、例えばインド
ネシアで「地元の住民は歓声をあげて上陸する日本兵に手を貸し、オランダ軍の築いたバリケ
ードを取り除いて、日本軍の前進を助けてくれた」(今村均回顧録)ように各地で“植民地支配か
らの解放者”として迎えられたことも大きかった。この点はクリストファー・ソーンら日本には批判
的な欧米戦史家も認めている。

さらに「英国の官民がそろって逃げ出したことは人々に衝撃を与えた。それは白人全体の名誉と
権威が大きく汚れた瞬間だった」(シンガポールのインド人協会長S・ゴーホ)ことも植民地の人々
に自信を取り戻させる効果があった。

インドネシアでは、日本が敗れたあと、英蘭軍が10万人の正規兵と戦車や戦闘機、爆撃機を送
り込んできた。砲撃と無差別爆撃による死者は80万人を超えたが、独立を主張するインドネシ
ア人は屈服しなかった。「従順だった彼らは日本軍との3年の間に変態した」というオランダ人の
言葉をソーンは「戦争の問題点」に引用している。

話は前後するが、1943年秋には植民地支配を受けていた国々の代表が東京に集まって大東
亜会議が開かれている。参加したのはビルマ(バー・モウ)、フィリピン(ホセ・ラウレル)、それにタ
イ(ワン・ワイタヤコン)、南京政府(汪兆銘)、インド自由政府(チャンドラ・ボース)、に満州国(張景
恵)と日本、の計7カ国で、アジア人のためのアジア、いわゆる大東亜共栄の理念が語られた。

その宣言文には「大東亜をアメリカとイギリスの桎梏より解放してその自存自衛を全うし世界の
平和に寄与」することがうたわれた。

252高山正之:02/03/18 09:11 ID:7lbsg7jf

《自存自衛》 作家、深田裕介は「黎明の世紀」でこの宣言の意味を説明している。海外領土の
放棄を要求するハルノートを突き付けられた日本にとって開戦には「自存自衛、生き残りをかけ
る」という動機はあった。しかし、戦争遂行の目的、大義名分は不明確だった。そのため、戦争
にもっともらしい名分を冠したのがこの宣言だったという。

会議の参加者は全員一致でこの宣言を採択した。ただ、参加者の中に一人だけ他国代表と状
況を異にする者がいた。インド自由政府のチャンドラー・ボースである。彼の国だけは依然、イギ
リスの手にあった。ボースは盟主を自任する日本にインド解放を強く訴えた。この時期、日本は
海軍力を半減し、米軍の反攻はすでにフィリピンに迫り、やがて日本を焦土化する超大型爆撃
機B29がデビューするころだった。

盟主、日本は敗色濃い中でインパール作戦を発動した。それまでの作戦は文字どおり日本の自
存自衛のためだったが、陸軍でいえば開戦時の兵員を上回る30万将兵を投入したこの作戦
は、インド解放という大東亜会議の精神に沿った“聖戦”として行われた。作戦にはマレー攻略
戦で捕虜となった5万人のインド兵などで構成されたインド国民軍(INA)も加わったが、雨期に
ぶつかり、さらに補給も途絶えて日本軍は大敗を喫することになる。

この作戦の支援のためにビルマに送られたという第18師団元兵長、森松日出丸(75)は「日本
からは35隻の輸送船団で出発したが、途中、米国の潜水艦にいいように沈められ、なんとかた
どり着いたのは12隻だけだった。マンダレーに入ったときはインパールに向かった九個師団が
全滅したあとだった」と語る。彼はそこで銃も持たずぼろぼろになって戻ってくる日本兵を何人か
目撃した。「友軍を見てほっとして座り込んだ兵士がいた。大変だったでしょうと話しかけると、う
なずいて首を静かに落とした。眠ったのかと思ったら死んでいた」

《村に残る歌》 INAからは脱走者が相次いでいたことは知られていた。ビルマ人はインド人に
ひどい目に遭ったからと、ボースの自由インド政府をラングーン(ヤンゴン)に置くことを拒否した。
そのことも知られていた。そういうアジア人たちの行動を見ながら、森松は輸送船や戦地で死ん
でいった仲間の無念をふと思ったという。

しかし森松はインパールの北にあるマパオ村のことは知らなかった。ここでは毎年、インド独立
のために散った日本人兵士を慰霊する祭りが行われ、「日本兵士を讃える歌」が歌われる。

バングラデシュ第二の都市、チッタゴンの有力紙「アザディ」の主幹モハマド・ハレド(77)は「日
本軍が来るのをみんなが待っていた。しかし、来たのは捕らわれた日本人傷病兵だった。死ん
だ彼らを墓地の一番いいところに埋葬した」という。戦後、「エノラ・ゲイの機長がこの国にきたと
き、市民が彼を追い出したことを知ってほしい」。6万に上る日本兵戦死者は決して犬死にでは
なかったとハレドはいった。

253卵の名無しさん:02/03/18 09:12 ID:sb3xaB11
高山のような行動をすることが
沢井というゾロ屋の面目をさらに汚していることに気づかないのだろうか。

本当、バカだなぁ。ゾロの必要性は確実にあるのに。
自分で自分の立場を更に悪くするような行動をとるのは。

自分の行動が周囲にどのような影響を及ぼすか、考えて行動しろよ。
あるいは、行動しながら考えろよ。社会人なんでしょうが?
254高山正之:02/03/18 09:13 ID:7lbsg7jf

■豆事典

▽今村均(1886−1968年) 陸軍大将。1931年(昭和6年)、参謀本部作戦課長になり、満州事変
初期の作戦指導にあたった。41年、第16軍司令官として太平洋戦争初頭のジャワ進攻作戦を指
揮、42年にはラバウル作戦を指揮し、ガダルカナル撤退にあたった。43年、大将に昇進。戦後、
戦犯として禁固10年の判決を受け、パプアニューギニアのマヌス島で服役、54年に釈放された。

▽バー・モウ(1893−1977年) ビルマ(現ミャンマー)の政治家。インドと英国に留学し、弁護士資
格を英国で取得。帰国後、農民一揆(1930−32年)の首謀者、サヤ・サンの弁護を引き受け、英
国の植民地支配を糾弾して名を上げた。33年に貧民党を結成して政界に進出、蔵相、首相など
を歴任したが、イギリスのビルマ政策に抗議して40年に議員辞職、逮捕・投獄された。42年(昭和
17年)日本軍に救出され、国家元首となったが、日本の敗戦でビルマを脱出。新潟県の寺に潜ん
だが、その後、GHQ(連合国軍総司令部)に出頭、戦犯容疑で巣鴨刑務所に一時抑留された。

▽ホセ・ラウレル(1891−1959年) 日本占領下のフィリピン大統領。米国留学から帰国後、32歳
で内相となったが、米国統治に抗議して辞職。民族主義者として名を上げ、43年、大統領に任命
された。戦後、特赦で対日協力の罪を免ぜられ、上院議員を務めた。

▽汪兆銘(1883−1944年) 中国の政治家。日本の法政大学に留学中、中国革命同盟会に入
り、孫文(1866−1925年)の直系として、中国国民党に改組後、幹部となった。孫文死後、連ソ容
共を旨とした国民党左派の中心となって蒋介石と対立。日中戦争が始まると親日反共を主張し
て、1940年(昭和15年)、日本のかいらいである南京政府を樹立し主席に就任した。44年、名古屋
で病死。

▽エノラ・ゲイ 広島への原爆投下機(B29)の愛称で、ポール・チベッツ機長(陸軍大佐)の母親
の名前からとった。機体は現在も米国で保存されており、95年に計画されていたスミソニアン博
物館での「原爆展」(中止)への展示の是非が論議を呼んだ。

255高山正之:02/03/18 11:09 ID:fJvI9x9D
■ 20世紀特派員−植民地の日々−22

帰って来たホーチミン−より強い組織を頼って生きる

1945年7月、米OSS(アメリカ戦略局)のトーマス少佐は抗日ベトナム人組織のリーダーと会う
べくハノイ南方の密林に潜入した。竹を編んだ粗末な小屋に寝ていた「黄色くからからに乾いた
老人」は赤痢とマラリアで危篤状態だった。すぐに、キニーネとスルフォン剤が空輸され、老人は
やがて回復して、少佐らを「タケノコ料理で歓待した」とOSSの史料は書き留めている。ちなみ
にベトナムのタケノコ(マング)料理は天下の逸品として知られる。

「老人」は10年前に香港の監獄で肺結核のため死亡したはずの阮愛国本人だといい、今は胡
志明(ホーチミン)を名乗っていた。この辺をベトナム外文書院のホー伝記は「香港の監獄からイ
ギリス人弁護士の手引きで脱出し、モスクワに戻り、38年まで過ご」したという。その後、中国に
いき、42年8月に中国官憲に捕まり、43年9月、釈放されてベトナム独立同盟会、いわゆるベト
ミンの活動を始めることになる。監獄暮らしの間に華麗な韻を踏んだ漢詩など113編をちりばめ
た「獄中日記」を編んでいる。

《阮は別人?》 しかし、ホーチミン研究家はこの説明に疑問符をつける。阮愛国とホーは別人
ではないかと。とくにパリで阮と過ごしたフランス文学者、小松清は戦後ホーチミンに会い、別人
の感触を受けた、と「ヴェトナムの血」に書いている。ホーは彼(小松)を覚えていなかったし、流
暢だったフランス語をしゃべろうともしない。

そして、「10代半ばで国外に出て、30年以上を過ごした男が難しいチュノムや漢字を操って見
事な詩を書けるだろうか」と小松は疑問を持つ。

別の研究家は、ホーチミンが香港で捕まるまで、モスクワ生活を含めて、ほとんど週単位で阮愛
国の行動が解明されているのに、香港脱出後は「モスクワの大学で学び…」で5年間が説明さ
れるように、実にアバウトな記録になる。しかもその期間はスターリンのすさまじい粛清のあらし
の時代だ。スターリンにとって自分の権威を損ねかねない存在であるレーニン信奉者のホーが
なぜ生き残れたのか。

戦術の分析では潘佩珠(ファン・ボイチャウ)が徹底してフランス人を標的にして暗殺や襲撃を繰
り返したのに対して、阮の率いるインドシナ共産党はフランス人には手を出さないという違いが
あった。1930年代初頭の反乱の季節にベトナムを訪れたジャーナリストのアンドレイ・ビオリス
は「殺気だった農民のデモ隊のわきをフランス居留民が自転車や車で通り抜けていく」ことに驚
いている。

「彼ら(農民)はフランスの手先となったベトナム人官吏や華僑に、その怒りを振り向けていた」(ビ
オリス「インドシナSOS」)しかし、トーマス少佐の会ったホーチミンはキニーネの効果がでて意
識を回復すると、まず少佐に同行したフランスの情報将校モンフォールに「フランス人は出てい
け」と声をあらげて、本当に国外に追い出してしまった。トーマス少佐は「彼らはアメリカを頼りに
している」と、このことをうれしそうに報告している。
256高山正之:02/03/18 11:11 ID:fJvI9x9D

日本が降伏するのは、このタケノコ料理からほぼ1カ月後の事になるが、ハノイにベトミンが集
結すると、“帰ってきた阮愛国”はさらに徹底したフランス人居留民の粛清に乗り出す。南洋学院
の学生だった亀山哲三は、白昼、ハノイの大通りでベトミンの集団が「自転車に乗って通り掛か
った太ったフランス人男性」を引き倒し、やりや山刀でなぶり殺しにしていくのを目撃したと、著
書に書いている。

《ハノイ入城》 「阮」と「ホー」の間にはかなりの距離が感じられるが、よく似た面もある。最初は
フランス共産党、そしてコミンテルンと、独立を獲得するために、より強い国なり組織を頼る生き
方だ。

ホーチミンが戻ってきた当時のベトナムは、周辺のアジア諸国とは少し事情が異なっていた。

フィリピンもビルマ(ミャンマー)も独立を宣言し、日本の都合で独立のお預けを食っていたインド
ネシアも公用語のオランダ語を廃して250もあった言語のひとつバハサ・インドネシアを共通語
にした。学校教育を拡充し、教員や技術者などを育て「小役人までオランダ人で占められた」(モ
ハマド・ハッタ)といわれていた行政官をあらかたインドネシア人が引き継いでいた。

「言語の統一や知識の普及は国民の一体感を植え付け、独立への基礎固めができた」(スハル
ト大統領特別顧問、チョクロプラノロ)だけでなく、ビルマ防衛軍に匹敵する軍隊「ぺタ」も発足し
て、いつでも独立戦争ができる状態だった。

しかし、ベトナムだけは違った。日本は、フランスがそう思っていないのに律義にもビシー政権に
対し、友好国として主権を認めていた。ビシー政権が消滅すると、あわてて占領(明号作戦)する
が、それまではベトナムを仏植民地のまま残していたのだ。

昔と変わらぬ祖国をみて、ホーは“強いアメリカ”にすがった。OSSとの連携である。これは阮愛
国の生き方そのものに見える。かくてホーチミンのベトミンは終戦間際、アメリカ、そして今は連
合軍に属す宗主国フランスの後押しを受け、抗日の旗を掲げながら、という異常な形でハノイに
入城する。しかし、「植民地はフランスを再生させ、偉大な地位を回復するための貴重な手段を
提供する」(ドゴール)と信ずるフランスはベトナムを放棄しなかった。

1946年3月、フランス軍は大挙して北ベトナムのハイフォンに向かい、圧倒的な火力でホーチ
ミンに圧力をかけ、両国の地位を決める協定でもフランス側代表サントニーは「ドクラップ(独立)」
の文言をホーには与えなかった。

257高山正之:02/03/18 11:14 ID:fJvI9x9D

《長い戦いへ》 1946年12月19日午後8時、ハノイの電源が切られ、暗黒の中で、まずサン
トニーの乗った車が爆破された。54年のディエンビエンフーの戦いに至る独立戦争が始まり、そ
れは更にベトナム戦争として20年間、続くことになる。その間、ホーチミンはもっと強い国、ソ連
に頼った。ホーと阮愛国が別人かどうかはともかく、ホーが阮の戦法で、ともかくも独立を獲得し
たことは間違いない。

ドイツがデンマークを占領したとき、アメリカはいちはやくその領土だったアイスランドを占領、独
立させた。もし、日本がその例に倣っていれば、ベトナムの運命ももう少し変わったものになって
いたかもしれない。ベトナムが4半世紀も戦争を継続することになった遠因はそういう国際問題
に徹底してナイーブだった日本の責任でもある。

■豆事典

▽ベトミン ベトナム独立同盟会の略称。1941年、インドシナ共産党(現、ベトナム共産党)の第8
回中央委員会決議に基づき、ホーチミンを中心とした亡命ベトナム民族主義者によって中国の
柳州(ベトナムに近い華南地区西部の都市)で結成された。民族独立、人民民主主義革命を目指
した統一戦線組織で、第2次大戦直後の1945年、ベトナム民主共和国の樹立を宣言した。51年
に救国諸団体の統合組織であるベトナム国民連合会(リエンベト)に参加して解散した。

▽南洋学院 第2次大戦中の1942年から45年にかけてサイゴン(現ホーチミン)にあった日本の
外地校。「東洋民族の共存・共栄、邦人発展のため、その第一線に立つ指導的な人材を養成す
ること」が建学の趣旨だった。ベトナム語、フランス語、地政学、熱帯衛生などが教科で、3期1
12人の卒業生を出した。

▽モハマド・ハッタ(1902−80年) インドネシアの政治家、経済学者。オランダ留学中に、インド
ネシア留学生協会幹部として独立運動を開始。1932年に帰国し、インドネシア国民党左派として
活動したが、34年に逮捕され、イリアンジャヤなどの流刑地を転々とした。42年に日本軍に救出
され、45年の独立宣言にはスカルノ(1901−70年、初代大統領)とともに署名、副大統領に就任し
た。56年にスカルノを批判して辞任した後は、バンドンのバジャジャラン大学教授を務めるなど
経済学者として活動した。

258高山正之:02/03/18 11:29 ID:fJvI9x9D

■ 20世紀特派員−植民地の日々−23

踏み絵−これほど誤解された国もなかった

「郵船商船、物産商事…」というのは戦前の日本の海外進出のパターンを指す言葉だ。最初に
船会社、次いで買い付けの商社が進出し、最後に領事がやってくる。しかし、郵船の前に「娘子
軍」、いわゆるからゆきさんを入れるべきだと岸田国士が何かに書いていた。岸田はからゆきさ
んだった女性を主人公にハイフォンを舞台にした「牛山ホテル」を発表している。

実際、「天草海外発展史」などによると世紀の変わり目前からサイゴン(ホーチミン)、ラングーン
(ヤンゴン)などに多くのからゆきさんが進出した記録が残る。サマセット・モームがラングーンの
ストランドホテルで書いたといわれる短編「ネイル・マカダム」にはシンガポールの日本人娼館が
登場し、「小鳥のさえずりに似た声で」明るく戯れるからゆきさんの姿が描かれる。

ベトナムでは1920年代のパスキュエ総督夫人をはじめ、フランスの高級将校や実業家の夫人
におさまった例も多い。ハノイではよく知られた雑貨商だが「マゾワイエ」のフランス人経営者の
夫人もその一人で、終戦間際、大水害で何万もの市民が飢えに苦しんでいたとき、その夫人が
毎日のように炊き出しをして人々に配った。同盟通信の記者として駐在していた小山房二の話
だが、そのおかげで戦後、ベトミンがフランス人商店を軒並み襲っていったさいにマゾワイエだけ
は被害に遭わなかったという。

《飢餓の原因》 この飢餓はすさまじかった。「飢え死にした人たちを満載した荷車が市内をがら
ごろ行く。文字どおりの飢餓地獄だった」(小山房二)、ベトナム居残り組の1人、元陸軍伍長の落
合茂(77)は「ジアラム空港近くの高射砲陣地にいたが、周辺の辻に日本軍が大釜を置いておか
ゆの炊き出しをして配った」と語る。

ハノイの革命博物館にもその当時の惨状を伝える記録写真が残る。ただ、キャプションが小山
の話とは少し違う。「ファシスト日本は水田から稲を抜き、わずかなコメも取り上げて機関車の燃
料にし、200万人が餓死した」

ハノイ人民委員会の幹部はこう語る。「実際はこの時期の大洪水による不作が原因だった。それ
にアメリカ軍の爆撃で南部からのコメの輸送が途絶えたことが飢餓に拍車をかけた」機関車のこ
とは「これは南部の話」という。南部の米、北部のホンゲイ炭というように北部では燃料にこと欠
かなかったが、南部には石炭が届かず、「余ったモミを燃やして機関車を走らせたことはある」と
いうのだ。

それがなぜ、日本の所業となるのか。「ベトナムは大戦の終わった年にはまだフランスと戦える
力はなかった。独立戦争でも国際関係に目を配らなければフランスと対抗できる武器や弾薬の
補給を得られなかった。ただ、日本を悪くいう分には彼らは喜んでくれた」という。政治的プロパ
ガンダである。

259高山正之:02/03/18 11:31 ID:fJvI9x9D

ホーチミンの右腕だったボー・グエンザップは「抗日を旗印にしていたが、ホーは、日本が降伏す
ると『日本人と戦うな、彼らを保護せよ』といった。日本人はその後もクアンガイの士官学校で軍
事指導もしてくれた」と証言する。

ベトナムに上陸したマウントバッテンの報告書がこの老将軍の言葉を裏付けている。「イギリス
軍、フランス居留民に対するベトミンの執拗な攻撃を防ぐため、降伏した日本軍兵士を再武装さ
せ歩哨に立てた。ベトミンはしばらく攻撃を手控えたが、やがて日本人歩哨の間をすり抜けて居
留地を襲い、数10人を殺害する事件が起きた。その間、日本人たちは所在無げに星空を見上
げていた」(ルイス・アレン「戦争の終わった日」)

《愛国行進曲》 元日本兵の教えはディエンビエンフーの戦いでも生かされた。アメリカもフラン
ス軍支援にまわったこの戦闘で、ベトナム人民軍の攻城戦は日本の戦国時代の「水攻め」そっく
りだったという。

ビルマ(ミャンマー)は日本の進攻で独立の機会を得て、まがりなりにも独立できた。今回の取材
でヤンゴンを訪れたおり、全日空の斎藤幹雄支店長が「テレビに旧日本軍の軍旗が出てきて驚
いた」と話してくれた。「どうせまた日本軍が悪者だろうと見ていたらビルマ兵士と一緒にイギリス
軍部隊と戦う、そして勝利を収めると愛国行進曲をバックに盆踊りをするんです」

ミャンマーはいまだに日本軍が善玉で通用する国である。しかし、そのミャンマーでさえ例年、ア
ウンサンが日本軍に反旗を翻した抗日運動を記念して反ファシスト決起の日を祝う。「日本につ
いていけばビルマは再びイギリスの植民地になる」反乱を決めた日に日本軍将校に語ったアウ
ンサンの言葉だ。彼はすでにその2年前の「43年、イギリスの密使とラングーンで密会し、独立
を条件に反日に動くことを約束していた」とクリストファー・ソーンは「英米にとっての太平洋戦
争」で暴露している。

日本を悪役にすることがなぜ求められたのか。第二次大戦当時のアメリカ務長官、コーデル・ハ
ルのフランクリン・ルーズベルトへの書簡(44年10月5日付)が如実に示している。

「日本は彼らの撤退にともない(アジアの植民地に)政治的な焦土作戦を取ろうとしている。西欧
帝国主義諸国に妨害されて敗れ去った解放の戦士に自らを擬することで、アジアにおける日本
の影響力の復活の基礎を据えるためである」

そうさせないためにも日本を踏み絵にし、それぞれの植民地国家に踏ませる必要があったという
ことだろう。日本は悪でしかなく、戦後の世界は善である欧米が指導すると。

最後まで日本と行動をともにしたバー・モウはのちに書いている。「歴史的に見てアジアを白人
の支配から解放するのにこれほど尽くした国はかつてなかった。同時にこれほど誤解された国
もまたかつてなかった。それでも日本が無数の植民地の人々の解放に果たした役割はいかなる
ことをもってしても、消し去ることはできない」

260高山正之:02/03/18 12:04 ID:jdGz73AG


《祝福の言葉》 ベトナムはその後、長い戦乱の日々を経て統一と独立を果たし、ビルマはほぼ
同じ期間、鎖国をして英国の残した分割統治を消し去った。インドネシアは独立戦争で80万人
が死に、さらにオランダに60億ドルを支払う条件で独立した。

1991年10月、東南アジア最後の紛争地だったカンボジアに、和平をもたらすパリ会議が開か
れた。フランスのデュマ外相は「日本が侵略して以来、半世紀にわたって混乱と戦火にまみれた
インドシナに今日、やっと平和が訪れた」と祝福の言葉を送った。彼らには植民地支配の日々な
どなかったかのように。

         ◇ 

■豆事典

▽からゆきさん 明治から昭和初期にかけて、九州北西部(特に天草諸島、島原半島)から、売
春業者の手を経て海外に売春婦として出た女性の総称。「唐行き」さんの字があてられる。渡航
先は、日本の大陸進出に伴い、朝鮮半島や中国、東南アジア、さらにアメリカへと広がっていっ
た。大正初期には約30万人いた海外在留日本人の約7.5%が唐行きさんだったといわれる。

▽岸田国士(きしだ・くにお=1890−1954年) 劇作家。陸軍士官学校を出て少尉に任官したが、
病気を口実に退官、東大仏文科で学んだ。1920年(大正9年)から3年間、フランスに留学し、演
劇研究に没頭。帰国後、「古い玩具」「チロルの秋」「牛山ホテル」などの戯曲を発表し、日本の
現代戯曲と演劇理論の基礎を確立した。小説には「由利旗江」「暖流」など。

▽サマセット・モーム(1874−1965年) 英作家。医学校に入学したが、作家を志し、卒業と同時
に文筆活動に専念、読者を楽しませることを主眼に、物語性に富む巧みな作品を次々と発表し
た。代表作に小説「人間の絆」「月と6ペンス」など。

▽ルイス・マウントバッテン(1900−79年) イギリスの海軍軍人、元帥。ビクトリア女王(1819−
1901年)のひ孫で、エリザベス女王の夫フィリップ殿下の伯父。第2次大戦で東南アジア方面連
合軍最高司令官として対日作戦を指揮し、ビルマ奪還などに功績を残した。戦後、インド総督、
英国防幕僚会議議長などを歴任して65年、退官。79年、テロ組織IRA(アイルランド共和軍)が仕
掛けた時限爆弾で爆死した。

▽パリ会議 1991年10月、パリで開かれたカンボジア和平のための会議。国連安保理の常任理
事国や日本など関係18カ国とカンボジア最高国民評議会(SNC)が「カンボジア紛争の包括的政
治解決に関する協定」(パリ和平協定)に調印した。カンボジアでは協定に基づいて、国連の平和
維持活動(PKO)である国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による停戦、選挙監視が実施さ
れ、日本も国連平和協力法に基づいて自衛官ら延べ約2000人をUNTACに派遣した。
261卵の名無しさん:02/03/18 22:49 ID:6aiVygaF
>>250
>たのむ  給料上げてくれ 生活できん

と言いつつ、人は生きていけるものです。
262高山正之:02/03/18 23:35 ID:rfSFSLNK

【高山正之の異見自在】
発泡酒増税の理由 政治生命は自腹で賭けよう
[2000年11月25日 東京夕刊]
http://www.angel.ne.jp/~arrow/ikenjizai/1125.htm

ノーベル経済学賞を受賞したアマーティア・センが大江健三郎の非常識を噛んで含めるようにさ
とした一文をこの前、紹介した。 「日本はまだ経済の足腰もしっかりしていないころから教育に
力を入れ、諸外国の文献をせっせと翻訳し、20世紀の入り口での出版物の量は米国の2倍に
も達していた」と。

欧米の収奪にあえぐアジアの国々にもこの情報は伝わり、中国の変法派、張之洞は「勧学篇」を
著して「アジアで唯一、近代化を成し遂げた日本には中国では得られない世界の文献が揃って
いる。日本に行き、日本語を学んで、そうした文献すべてを習得するときだ」と呼びかけた。

そして孫文や魯迅、周作人兄弟など、約1万人もが明治30年代の日本にきて勉強した。 朝鮮
からはもっと早い時期に数十人が慶応義塾に入ったが、ドロボウ騒動を起こしたりして、福沢諭
吉が怒った記録もある。 ベトナムの潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)も「勧青年遊学」を書き、フラ
ンス支配の祖国から300人を超える青年が日本に密航してきた。彼らはやがて反仏独立運動
のリーダーとなっていく。

ミャンマー(ビルマ)から僧ウー・オッタマも密航留学し、竜谷大で教鞭も執るが、帰国後、イギリス官憲に捕まり、獄死する。

この時代、日本はアジアの図書館の役割を果たした。

学問だけでなく、日本は例えば航空技術などの分野でも教育の場を提供した。私立の亜細亜航
空学校にはビルマの留学生が学んだ。この留学生をモデルにビルマ人俳優ウー・ニプー主演の
日緬合作映画「日本の娘」が昭和十年に作られた。

そのころ、ベトナムのビンで農民が反仏デモをし、それに仏製戦闘機「ボタ」が機銃掃射をかけ
て何百人も殺した。 飛行機は白人支配者の力の象徴だった時代だ。そんなときに植民地の民
が飛行機に乗ってシュエダゴンパゴダの周りを飛ぶ映画は人々を熱狂させ、支配者、英国人を
怒らせた、と、当時学生だったタン・タット・ヤンゴン大教授が話してくれた。

こうした“図書館”のレベルを維持し得たのはアマーティア・センのいうように国や自治体が「その
予算の40%以上もつぎ込んだ成果」だった。 その予算の元はというと税金だった。欧米列強は
そういう国家予算の収入源の多くを植民地からの収益でまかなった。フランスは植民地ベトナム
などに人頭税や出産税、渡船税を課し、ついでに塩もアルコールも専売にし、阿片も政府機関
が売った。ビンで農民を大量に殺したが、葬式税も課しているから、むしろ収入は上がるのだと
いうような話がアンドレイ・ビオリスの「インドシナSOS」に載っている。


263age:02/03/18 23:37 ID:XJxs5awo
ageときます
始めて見ましたが なぜこんな風になっているのか教えて.
264高山正之:02/03/18 23:38 ID:rfSFSLNK

日本はこの植民地税をそっくり真似た。ただ、統治した朝鮮半島や台湾ではなく、内地の国民に
課した。所得税のほかに住民税という名の人頭税、それに塩もたばこも専売にして、アルコール
にも高額の酒税をかけた。これで阿片を売ればフランスのベトナム支配と何ら変わるところはな
かった。

しかし、国民は黙って払った。それで日本は連合艦隊をつくり、50個師団もの陸軍の装備を維
持して国家の誇りを保った。 さらに欧米ではカネをかき集める場だった植民地に、ときには国家
予算の3分の1もつぎ込んだ。それで台北やソウルの市街を整備し、鉄道を敷設し、今も北朝鮮
に電力を供給する水豊ダムをつくり、台湾南部の嘉南平野を潤す烏山頭水庫(ダム)を建設した。

植民地経営は最初から最後まで赤字だったが、国民はそれでも十分、納得していた。アジアで
近代化を成し遂げた国の、それが義務と感じたからだったろう。

戦後、カネばっかり食った植民地が消え、連合艦隊も陸軍も消滅した。もはや、植民地並み課税
は終わるはずだったが、そうはいかなかった。戦後賠償である。連合国は総額1100億ドル(日
銀調べ)もの海外日本資産をすべて取り上げた。ドイツの戦後賠償額の2倍にもなる。

それでも足りずに世界中が日本にたかった。最も悪質なのが中立国のスイスで、理由もないの
に1500万フランも取った。途中から寝返ったイタリアも高額の賠償を取った。「次はイタリア抜
きで」とドイツ外交官が言ったというけれど、真実の響きがある。

欧米の植民地だったアジアの国々も、宗主国が1セントも支払わないから、その分を、日本に求
めた。アメリカ領フィリピンは4億ドルと膨大な復興借款を取った。インドネシアも400年に及ぶ
オランダの植民地支配の賠償を日本がそっくり肩代わりし、やはり4億ドルを支払った。

その賠償もやっと終わった。今度こそ植民地並み税制も廃止と思ったら、逆に発泡酒のビール
並み課税とかグリーン税とか、妙な新税案が次々飛び出してきた。原因は思い当たる。例えば
北朝鮮への五十万トンのコメ援助。やる必要もない。それでもやるならダブつく輸入タイ米をあて
れば10億円で済む。それを高い日本米にしたから総額1000億円に化けた。 河野洋平外相
が「政治生命をかけて」(朝日新聞10月8日付)そう判断したという。

自分の政治生命をかけるなら有り余る私財でやればいい。こんな政治家がいるからいつまでも
植民地税制が続くのだ。

265高山正之:02/03/18 23:48 ID:gM9OMpbO

高山正之の異見自在】ブレイディの教訓 少年よ、人権派に触るな
[2000年10月14日 東京夕刊]

民主党のクリントン政権が生まれて2年目の1994年、全米にあふれかえっている銃を規制す
る法案が成立した。 もっとも、「銃を買っても引き渡しは一週間後」という、あまり実効は期待で
きない内容だけれども、初めての規制法であることには間違いはなかった。

面白いのは、この法案の成立にもっとも尽力し、世間を説得したのは生粋の共和党員であり、銃規
制に一番反対してきた全米ライフル協会(NRA)の会員だったジム・ブレイディだった。

彼はレーガン大統領の広報官をしていた81年、大統領を狙撃したジョン・ヒンクリーの流れ弾で
頭を撃ち抜かれ、下半身麻痺の重傷を負っている。 別名「ブレイディ法案」と呼ばれるこの銃規
制法にクリントン大統領が署名する場に車いすで現れた彼は、法案成立にこぎつけた喜びをこ
う語った。「私はあの事件が起きるまで銃の規制にはまったく関心がなかった。しかし、自分がそ
の銃の犠牲になって、そういう人たちの立場がはっきりと分かってきた…」

今から3年前、元日弁連副会長の岡村勲弁護士(71)の自宅で、夫人の真苗さん=当時63=
が訪れた男に殺された。 犯人(66)は山一証券との株取引で損をし、そのうらみから同証券で
の交渉相手だった岡村弁護士宅を訪ね、応対に出た夫人を用意したナイフで刺し殺した。

岡村弁護士は犯罪の被害者になって初めて「司法と被害者の距離を実感した」という。 男が捕
まって裁判にかけられても、その言い逃れに被害者の岡村弁護士は一言も反論できず、「じっと
唇をかんで」黙っているだけだった。

「なぜ、ここまで被害者が捨て置かれるのか」 やっと法廷で証言する機会を得た岡村氏は「(犯
人を)極刑にしていただきたい」と訴えた。被害者としては当然の思いだった。 そして昨99年
夏、東京地裁で判決が下された。「主文、被告人を無期懲役に処す」 彼の証言は聞き流された
というか、日本の法廷には長年積み上げられたパターンがあって、それに外れる、例えば被害
者の声を反映するといったことはマニュアルにはなかった。

どういうパターンかというと、「一人殺しただけでは死刑にはしない」「判決は求刑の八掛け」「相
手が少年ならうんと減刑して『更生して罪を償うように』と付け加える」「刑罰を厳しくしても犯罪
は減らないという台詞も折に触れて挿入する」等々だ。 教養もいらない、常識もいらない。ただ
司法試験をパスするだけで裁判官になれる日本の法曹界では、はっきりいって頭を使う判決は
無理がある。 だから、こういう事件はこう、ああいうのはどうというパターンにはめこむ方式が最
も無難な方策として取られてきた。

この判決も「一人殺しただけでは死刑にしない」慣例と、「判決は求刑の八掛け」に従った模範主
文で、締めの言葉も何度も使われた「自分の犯した罪に向き合って生きるように」だった。「被害
者の気持ち」を斟酌するパターンはもともとなかったのだ。 岡村氏は怒り、それは大きな波紋を
呼んだ。なぜなら彼は一般人ではなく同じ司法試験を通った身内で、なにより人権に一番うるさ
い日弁連の元副会長だった。
266高山正之:02/03/18 23:51 ID:gM9OMpbO

これは過去にはなかった例で、それで裁判所も検察庁も考え直した。まず検察庁。求刑の八掛
けで無期なら慣例通りだが、あえて控訴した。「身内が被害者の場合、一人殺しても死刑にしよ
うではないか」というわけだ。 裁判所も思い直した。岡村弁護士の、殺された妻の遺影の法廷
持ち込みを認めようじゃないか。

たとえばこの三月、山口県光市で起きた母子殺害事件の判決公判では、一般市民である夫が
殺された二人の遺影を持ち込みたいというのを「被告に心理的な圧迫をかけるから」と禁止して
いた。日弁連の人権派弁護士の要求に沿ったしきたりによるものだ。 それが身内の弁護士が
被害者になったとたん、コペルニクス的転換を示したわけだ。ブレイディと同じに、ヒトはその痛
みが分かれば大きく変わるものである。

岡村弁護士は東京高裁での初公判で被告に向け遺影を高々と掲げた。そのおかげで光市の母
子殺害事件控訴審でも、夫に「被告に見えないように」という条件で遺影を持ち込むことが認め
られた。大いなる進歩である。
                 ◇ 
少年法の改正案が今国会に持ち出されている。刑事罰適用を16歳から「14歳に引き下げる」
というのが骨子だ。 それでも社民党や日弁連は「厳罰にしても少年犯罪は減らない」と妙な異
論を出している。別に犯罪の抑止をやろうというのではなく、やった罪にふさわしい罰を与えるた
めのものということが彼らには分からないらしい。

犯罪少年に忠告したい。絶対に弁護士や社民党議員の家族にさわってはいけない。さわれば彼
らの論調はすぐに変わる。痛みが分かってないから、君たちに優しく、そして野放しにしてくれて
いるのだから。

http://www.angel.ne.jp/~arrow/ikenjizai/1014.htm

267age:02/03/18 23:55 ID:XJxs5awo
あげ
268高山正之:02/03/19 00:06 ID:A5r1nFxw

高山正之の異見自在
米大統領は案外「まとも」〜「真のヘテロ」の証明
産経新聞 夕刊 98/9/19(土)

「さっき、ジャップを殺してきた」と、ガナー・リンドバーグ(21)は誇らしげに書きだしている。「そい
つはテニスコートで一人遊んでいた。近づくと、一瞬戸惑った様子だったが、前に会ったよなと声
をかけると警戒心を解いた。 で、すかさずやったよ。ナイフでわき腹を八回刺すと前かがみにな
ったから、今度は背中を十八、九回刺した。うつ伏せに伸びちまったので、とどめにのどの血管
を掻き切った……」

96年1月、カリフォルニア州オレンジ郡のタスティン高校校庭でベトナム系の青年=当時(24)
=が殺された。被害者はジョージタウン大で国際政治学を学び「将来はベトナムの駐米大使に
なる」のが夢だったとロサンゼルス・タイムズは伝えている。

犯人のリンドバーグは間もなく捕まり、97年12月、死刑評決が下された。冒頭の手紙は彼が犯
行直後にミズーリ州に住むいとこに書き送ったもので、これが評決の決め手になった。こういう
人種、宗教、とくに性的傾向、つまり同性愛などに対する憎悪を動機にした犯罪をヘイト・クライ
ムといい、残酷な殺し方がなぜか共通している。

実はこのオレンジ郡はニクソン元大統領も生んだ保守的な共和党の地盤としてしられるのと同
時に、ヘイト・クライムの“本場”としても有名になっていた。 タスティンの西、太平洋に面したラ
グナビーチもそのひとつで、ここにたむろする同性愛者をねらったホモ狩りが出没して、殺人事
件も増えていた。

「被害者の両手足の骨にろっ骨のすべてが折られていた。顏も判別できないほどに潰され、男
性器は切り取られて、近くに捨てられていた」これは92年、佐世保に上陸中のアメリカ軍水兵が
同性愛を理由にリンチ殺人されたときの警察発表だが、これと同じような殺され方をした遺体が
「よく検死局に運び込まれる」とオレンジ郡保安官が話してくれた。

「手足の骨を折るのは中世の魔女狩りにも似ている」とも。魔女の嫌疑をかけられた人を地面に
寝かせて、大きな荷車の車輪を落として体の骨を一本ずつ折っていく処刑方法だ。

しかし、なぜ今、アメリカでヘイト・クライムなのか。保安官は「民主党政権への反発かな」と共和
党員らしい解釈を披露した。その年はクリントン政権の1期目の最後の年に当たったが、それま
でにこの政権が行った政策のひとつが「性的な傾向に対する偏見の排除」、つまり同性愛者ゆ
えに社会的な不利益を受けるべきではないという主張だった。

同性愛を理由にした解雇が不当とされ、さらに世界一強いアメリカ軍の「同性愛者は追放」規定
の失効も主張された。これにはさすがに軍も反発し、「軍は同性愛者かどうかを聞かない。同性
愛者も自ら告白しない」、言わざる、聞かざるでなんとか妥協している。
269高山正之:02/03/19 00:11 ID:Ql9n3Pvm

この風潮はあっという間に広がった。コンピューター・ソフトウエア企業の大手ロータスをはじめ
シリコン・バレーの有名企業が続々と“同性妻”を認め出したし、ハワイ州政府も「同性の婚姻を
承認する」方針を打ち出してきた。

「スケルトン・イン・ザ・クローゼット」とは人に言えない隠し事という意味だが、クリントン大統領
のおかげで、「みんなぞろぞろ押し入れから出てきて」(ロサンゼルス・タイムズ紙)、昨97年の
サンフランシスコ市議会選挙では白人男性でたった1人まともというか、同性愛者ではない候補
者が当選したことが同紙のトップニュースにもなった。

しかし、この風潮が必ずしもアメリカ国民の総意ではない、という意見はある。17世紀にきた清
教徒、その後のウィリアム・ペンのクエーカーなどキリスト教原理主義が生き残り、「進化論など
信じない」ブキャナン候補が大統領予備選で30%も票を集めもした。「アメリカには依然(超保
守的な)中世が残っている」(サミュエル・ハンティントン)のだ。

そういう市民は押し入れを開けたくないと思い、中には苛立ちからラグナビーチのホモ狩りのよ
うに、実力行使に訴える者が出てくるのかもしれない。

市民レベルでも、「招待状の書き方が変わった」とロスの知人はいう。「昔は『SPOUSE(配偶
者)もどうぞ』と書いたけれど今は『WIFEも』になった」と。「配偶者」だと同性の“妻”も含まれる
から、という説明で、これも反キリスト教的風潮への抵抗ととらえられている。



セックス・スキャンダルが暴かれたクリントン大統領の支持率は一向に落ちてこない。経済が好
調、だけでは理解できないところがあるが、改めて大統領の行状を見ると女性と見ればすぐ言い
寄り、 しばらく付き合ってぽい捨てする。真のヘテロ(ホモではない)男にも見える。

心配したけれど大統領も案外まともじゃないか、という評価が素直に支持率に表れたため、と見
えなくもない。

http://www.sukotan.com/pages/new67.html
270高山正之:02/03/19 00:18 ID:80bw6H5C

愚直な日本とあこぎな米国
産経新聞編集委員 高山 正之
http://www.senyu-ren.jp/SEN-YU/00083.HTM

歴史、とくに近代史を見ると、日本人というのは本当に愚直な、それも「愚」にアクセントがくる印
象を与える。 例えば、数年の間隔で起きた日露戦争と米西(アメリカ=スペイン)戦争だ。二つの戦争
の動機は同じだった。日露戦争(1904年)は、日本の脇腹に位置する朝鮮半島をロシアが取ろ
うとした。そんなところに掠奪と強姦の代名詞みたいな連中が来た日には、日本の安全など消し
飛んでしまう。だから日本は「わが国の安全保障のために」宣戦布告して戦った。

1898年の米西戦争も同じように、北米大陸の脇腹にあるスペイン領キューバが米国の不安材
料だった。「いつか敵対国の手にわたったら」という危惧は、実際に60年後、あのキューバ危機
で現実のものになったが、アメリカはそれを先読みして戦端を切った。ただ、自国の安全保障と
いう直截な言い方はしなかった。「植民地支配にあえぐ人々の自立のために」、アメリカ市民が
立ち上がった、と。

このとき海軍次官だったのがセオドア・ルーズベルトだった。彼は友人のアルフレッド・マハンの
言葉を入れ、太平洋戦略の基地としてスペイン領フィリピンの奪取作戦も取り込んだ。そしてス
ペインに抵抗していたアギナルド将軍に、独立支援を餌にマニラ攻略の共同戦線を張った。

米西戦争はスペインがさっさと降伏して翌1899年には終わったが、ロサンゼルスにあるこの戦
争記念碑には「1902年」とある。これは、アメリカに裏切られて、抵抗するアギナルド将軍とそ
の一派を、アメリカ軍が完全に掃討し終わった年を意味している。

アメリカ上院へのレポートでは、サマール島で38人のアメリカ兵が殺された報復に、この島とレ
イテ島の住民2万余人が虐殺されるなど、20万人が殺された。 この中には拷問死も多く、アギ
ナルド・シンパとされた市民が逮捕され、「ウォーター・キュア(水療法)」の拷問を受けたと報告書
は伝える。これはあの魔女裁判と同じに数ガロンの水を飲ませ、それでも白状しないと「膨れた
腹の上に尋問のアメリカ兵が飛びおりる。彼らは口から数フィートの水を吹き上げ、多くは内臓損傷で死んだ。」(報告書)

そうやって平定したことを記念する前述の碑には、「植民地支配にあえぐ人々に自由の手を差し
伸べたアメリカ軍兵士たちに」と記す。 よく言うぜ、と思う。だからあの国は力はあるけれど、い
まだに信頼感の低いままなのかもしれない。

271高山正之:02/03/19 00:24 ID:m+5FjBdb

策士、ルーズベルトに踊らされた日本

さて、その策士、ルーズベルトが大統領になったとき、日露戦争が起き、東洋の小さく貧しい日
本が勝った。日本海海戦の勝利が伝わると、ニューヨーク・タイムズは「制海権を握った日本は
ウラジオストックを取って、この戦争を終える。ロシアはシベリアの半分を割譲するだろう」と伝え
たが、それぐらいが近代戦争の相場だった。

しかし、その記事の出た翌日、ルーズベルトは日露講和の斡旋を名乗り出る。そしてポーツマス
条約にいたるが、彼はこの時期、フィリピン領有の次の太平洋戦略の手を打っていた。コロンビ
アの1州を煽動して、反政府独立運動を起こさせる。彼はそれをキューバの時と同じように「自
由を求める人々に」手を差し伸べて独立支援をする。独立した州に、アメリカはその返礼として
運河用地の租借を要求する。これが、大西洋艦隊が太平洋にすぐ回航できるためのパナマ運
河である。

そして彼はもうひとつ、大きな戦略プランを立てる。日本を仮想敵とした「オレンジ作戦」である。

そんな人物が、真剣に日本のためになる講和をやるだろうか。しかし、日本は愚直にも彼の善
意を信じた。その結果が、賠償金は一銭もなし、領土割譲もシベリアなどとんでもない、わずか
にロシアがもっていた満州の権益だけに終わった。

ドイツの駐北京大使の報告書がある。日露戦争のあと、中国では日本の勝利を両国民が手に
手をとって喜び合い、さらに多くの若者が日本に留学している傾向を伝え、彼は、「中国の日本
化が進めば欧米諸国の権益がそこなわれる。英米共に協力して日本を抑え込むようにすべき
だ」と提案している。

日本が中国と手を携えれば・・・・「大いなる脅威」だと、古くはロシアのゴローブニンがいい、その
後ムッソリーニも、スチムソンも言葉を変えていっている。

中国領の満州を日本に与えれば将来どうなるかは、容易に想像がつく。事実、満州を巡る日中
間のトラブルはそのわずか20年後に火を噴き、欧米の脅威だった「日・中が手を握れば」は夢と
消えてしまった。 しかし、何度もいうように、日本はあまりにも真正直で、愚直だった。この偉大
なる策士の策を見抜けなかった。

日中間の紛争は欧米の蒋介石支援という形で泥沼化し、そして真珠湾、東南アジアへの戦火拡
大へと進むが、これもルーズベルトの戦略の最終ステージだとみればよい。 問題はなぜ、欧米
がここまでだまされやすい日本を煙たがるのか、ということだ。

272高山正之:02/03/19 00:27 ID:rrRKamau

他人をだます、"大義" ではなく、
行動で示した日本の生き方

もちろん、その背景には白人キリスト教国家の世界支配にとって、考えられる唯一の脅威だった
こともある。 実際、この小さく貧しい黄色人種は、植民地の住民の前で300年も君臨してきた
白人を苦もなく追い散らし、白旗を掲げさせた。それは彼ら植民地の民に自立を促す大きな刺激
となり、永遠と思われた植民地帝国主義を「ある意味で慈悲深く速やかに終わらせて」(クリスト
ファー・ソーン)しまった。

しかし、最も重要なことは、例えばアメリカがフィリピンでやったようなまやかしを、あるいはアヘ
ン禁止のハーグ条約を締結しながら、イギリスやフランスなどが「自国植民地では留保」をつけ
てベトナムでも、マレー半島でも、アヘンを住民に売りつける背信行為を、さらには「後進地域の
福利教育を促すのが神聖な使命」(国際連盟条約)と神の名までかたって実際は愚民化政策と搾
取を続ける非道を、日本は一切やらなかったことにある。

その真正直さゆえに、だから、日本がやってきたことは多くの被支配国の人々を揺さぶれたのだ
と思う。東南アジア諸国が独立したのも、前述したような日本兵士の強さに触発されただけでな
く、それ以上のものがあったことは、独立後に示した脅威の経済発展にもうかがわれる。あるい
は最近、解禁された米国公文書には、黒人民権運動の底流が日露戦争によって生まれたことを
示してもいる。

日本と深くかかわった台湾の人が今、リップンチェンシン(日本精神)こそ「上に媚びへつらい、
下にいばり散らす偏狭な民族性とカネしか信用しない中国人の悪性から台湾人を解放した」(蔡
焜燦氏)とも。


アメリカは大声で「正義」を語る。自由のためにともいう。それが米国の大義だと。それがどんな
ものかは歴史が証明している。しかし、日本は他人をだますための大義を口にせず、行動で示し
てきた。日本の生き方は今も歴史を動かしている。

(*)  この記事は日本会議発行の「日本の息吹」8月号より転載しました。

273卵の名無しさん:02/03/19 00:30 ID:5HwEFmmo
バイトしないと生活はきつい
274高山正之:02/03/19 00:55 ID:13qr5HF1

高山正之の異見自在
日教組の作意 戦後ではなかった戦後民主教育
[2000年03月11日 東京夕刊]
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/130226-1.html

朝日新聞は、学校の教材や入試問題にその一面コラム(天声人語)が使われる、というのを売り
にしている。

先日、その自慢のコラムが回りくどい言い方で、誤った記述をしたと書いていた。第一次大戦が
終わったあと、「日本人はサカナの缶詰に石ころを入れて平気で輸出していた」。これが実はう
そでした、と。で、「日本人を侮辱してごめんなさい」と続くのかと思ったら、「歴史書の一部に事
実めいて記されて」いて、困ったもんだ、で終わってしまった。

こういうけじめのなさが果たして教材にふさわしいかどうかはともかく、この新聞、日本、あるい
は日本人を貶(おとし)めるのが妙に好きなのだ。そればかりでなく、日本人をクサすのに急で、
このコラムのようにときに作意のうそが混じる。

例えば、沖縄の珊瑚に「KY」とかの彫り込みがあった。その写真を掲げて「最近の日本人は」
と、その公徳心のなさを口を極めてたたく。ところがよく調べてみたら、何のことはない。朝日新
聞の自作自演だった。

「これが中国戦線での毒ガス作戦だ」風な写真を堂々一面で報じたこともある。写真には水田の
向こうに十数条の「毒ガス」の煙がモクモク天に向かって立ち上り、手前には日本軍兵士が突撃
準備にあるといったような説明もついて、どうだ、言い逃れもできないだろう、旧日本軍はこんな
に残虐だったんだからと告発する。

日本の歴史をけなすことでは第一人者の藤原彰・元一橋大教授もうれしそうにコメントをつけて
いたが、ただ、折角の悪魔の毒ガスがモクモク天に昇っていくのでは、ちょっとヘンな気もする。

その辺を産経新聞が「煙幕じゃないの?」と指摘した。そうしたら朝日新聞の部長が怒鳴り込ん
できて、「ウチに盾突くとはいい度胸じゃないか」とか、確か、つぶしてやるみたいな脅しを並べ
立てたが、結論からいうと、やっぱりただの煙幕で、おまけに日本兵と見たのは刈り取った稲
束、記事で正しかったのは「中国戦線」だけだった。朝日新聞は訂正を出したが、「場所が違って
いた」という的外れな内容で、今回のコラムと同様、ごめんなさいでもなかった。

朝日新聞の2月24日付に日教組のうめきに同情する記事が載っていた。「敗戦まで日の丸と君
が代は軍国主義教育に使われ、物言えぬ時代」を生んだ。「その反省が戦後民主主義教育の出
発点になったはずだが」、今また文部省は日の丸を掲げ、国歌を歌わないと教師を処分すると
脅す、と続く。再び教室に軍靴が響き始めると日教組はおびえている、と。

心配なことだと思う。ただ少し気になるのが教育現場では「戦後すぐに軍国主義の反省に立ち軍
国主義の象徴、日の丸、君が代を排除してきた」と読めることだ。これはうそである。そんなこと
はなかった。
275高山正之:02/03/19 00:59 ID:ZXoKAS6p

日本を占領したマッカーサーが、日の丸を解禁したのは昭和24年1月元旦だった。あの戦争で
は国民の30人に1人が殺されたが、そういう家庭も含めて元旦には金色の宝珠と節目ごとに黒
く塗った竿に日の丸を結んで、玄関の前に掲げた。その年以降、祝日の街角は日の丸だらけに
なった。

学校でも入学式や卒業式に日の丸は当たり前の存在だったし、毎週の朝礼、運動会でも国旗掲
揚が行われていた。日本の軍国主義を徹底的に排したことになっているマッカーサーは1951
年(昭和26年)トルーマンにクビにされて帰国するが、アメリカ大使館に近い学校の児童、生徒
は彼の見送りに狩り出されて小旗を振った。小旗は日の丸だった。

マッカーサーは日の丸解禁後も、チャンバラ映画の仇討ち物は禁止したままだった。いつの日に
か、アメリカが復讐されたらかなわないと思ったのだろう。日の丸より時代劇の方が彼は軍国主
義的と思っていたのだ。

ついでながら講和条約が結ばれ、映画に自由が戻ってくると、よく「外人」が出てきた。それがバ
テレンとか、ギャングのボスとか、みんな悪役に決まっていて、最後は、大川橋蔵に切られるか、
小林旭に撃たれて死んでしまう。「外人」の本質を知っていた時代だった。

経済白書が「もはや戦後ではない」と書いた昭和30年代を通して、だから日本の街にも学校に
も日の丸や君が代はごく当たり前に存在していた。ただ40年代に入って事情が変わってきた。
核家族化、団地化が進んだことと、日教組が勢力をつけ始めたことで、日の丸がだんだん生活
の中から遠ざかり始めた。戦前、「ペンをもって皇国の御盾にならん」と意気揚々、書いていた家
永三郎が妙な裁判を起こしたのもこのころである。

戦後民主主義教育とは、正確には、戦後20年たってから日教組が始めたものである。彼らはつ
いでにそれがあたかも戦後、すぐに「軍国主義の反省」から生まれたことにしてきた。でも、うそ
は長続きしない。その虚構が今やっと崩れ出したにすぎないのだ。

そういうことはこの記事を書いた記者はともかく、朝日新聞の50代編集幹部だって知っているは
ずである。うそを承知で載せるのはもうやめてほしい。

276卵の名無しさん:02/03/19 01:01 ID:6uBYBKKG
>>263
>始めて見ましたが なぜこんな風になっているのか教えて.

いちおう噂というか都市伝説ですが、迷門企業の営業所長が社命で荒らしている、
という噂です。
社外の人間ですので真相はわかりませんが、迷惑を被っていることは確かです。
277高山正之:02/03/19 01:17 ID:pRXyeR9i

南京事件    高山正之の異見自在(13.2.24.)
http://www.cty-net.ne.jp/~my5913/sinryaku.htm

南京事件というのがある。日本軍が無辜(むこ)の市民を30万人も殺した、残虐日本人のステレ
オタイプ像を産み出した原点である。

この虐殺を証言したのは、ニューヨーク・タイムズのダーディン記者、ベイツ南京大教授ら3人の
アメリカ人と、ドイツ人商社マンのラーベの4人である。 いずれも日本人が弱い、白人で一流紙
記者も学者もいる。つい信用してしまいそうだが、たとえばダーディン記者は上海に脱出後に伝
聞をまとめて書いただけだ。

ラーベは南京にいて、「昨晩は千人もの女性が強姦された。女性の避難場所だった金陵女子大
では百人以上が強姦された」と日記に書き、それが今の通説の根拠を形作っている。しかし、彼
は実は蒋介石軍に武器を納入していた男である。だから南京が陥落したあと、日本軍に追われ
る中国軍幹部を複数かくまい、後に自分の使用人と偽って逃がしてもいる。

おまけに彼が日本軍の暴行があったという金陵女子大を管理していたボーリントン女史は、日
本軍が「秩序を守った」と、ラーベの夜な夜な女性の悲鳴が聞こえたという説を全面的に否定し
ている。

ベイツ教授はそれらをまとめて「4万2千人が殺された。大半が一般市民だった」と記録した。エ
ドガー・スノーはこれを元にして人数はそのままに「一般市民」を「婦女子」に書き換えた。 背景
を洗えば、どうも信用度に疑問符がつきそうだが、でも信頼度抜群のニューヨーク・タイムズがそ
う書いているじゃないか、という反論もある。

そうだろうか?同紙の2000年8月には、C・スミス記者の「中国人の対日敵意」という記事があ
り、「日本は中国に戦争の謝罪もしない」どころか、「中国に戦犯を祭る靖国神社を建て、森首相
は公式参拝もしている」と。

ニューヨークタイムズ紙の前東京特派員、N・クリストフは旧軍人の老人をだまして「日本人は中
国の子供を殺してその肉を食った」と言ったでっち上げ記事を5年間も書き続けた。 そういう傾
向をもった新聞が果たして信じられるだろうか?

ちなみにベイツは東京裁判に出て4万2千人説を証言した。中国もここで初めて「28万人」説を
出し、ウエッブ裁判長は2つの証言とは別に「20万人」という数字にした。原爆被害者よりなぜ
か大きい数字になった。

278高山正之:02/03/19 01:22 ID:YZMdELHx

笑止千万! 「歴史に直面していない」のは誰だ!?   高山正之 (帝京大学教授)
http://www.oct.zaq.ne.jp/funwaka/his.htm

朝日新聞が中国、韓国に「ねえねえ、日本ではこんなこと言っているけれど、いいの」とおため顔
で言う。「あんたらを虚仮(コケ)にしているんだよ」と。で、マッチ棒みたいな韓国はすぐ燃え上
がる。お囃子方としては最高の民族性だ。 

中国はその点、もう少し小ずるい。江択民発言や最近の唐家披の「やめなさいと、厳’命’した」
発言と、このところ日本の対中世論がいたく硬化しているのを知っている。 

もっと言えばピッキングから歌舞伎町の日本人店長殺しまで、下手(へた)したら日本の全家庭
が中国人の被害者になりそうな勢いにある。

朝日が「犯人は中国人風」と書かずに「覆面の男」なんてかばいだてしても中国の印象はもはや
最悪のところまできている。そんな時に騒いだらODAももらい損なうぐらい十分弁えてはいる。

でも、その朝日の献身的な働きで中国にだけ都合のいい「日中友好」の虚構が出来上がったの
も事実だ。井戸を掘った人を忘れてはならないから、結局、韓園のお堆子に乗って眉根に敷寄
せる。

中韓が足並みをそろえると、真打、欧米メディアが登場する。日本が勝手に「高級紙」と思い込
んでいるワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイムズなどである。 中韓だけなら何とか言い返す
日本もここでいつも押し黙ってしまう。神聖なる審判者と思い込んでいるからだ。今回の教科書、
靖国問題もまさにそういう展開で、ワシントン・ポスト以下がそろって中韓の言い分、つまり朝日
の主張を支持して見せた。そこでの言い方はパターンがある。

たとえばニューヨーク・タイムズ。「日本人は最も痛ましい歴史について議論を回避し続けた」(八
月十二日付け)、それは「日本人が事なかれ主義だからだ」と。ワシントン・ポストも「日本人は本
能的に自分に不快な真笑を隠し、権力に過剰な信頼を置く」(七月十一日付け)と。要するに日
本人を十把一からげ、みごとにステレオタイプ化し、その民族性に間題があるという指摘の仕方
だ。そういう民族のステレオタイプ化による非難は実は禁じ手だ。ユダヤ教徒の追害はまさにス
テレオタイプ化された民族像にあり、そうしたくくり方は国際社会では厳しく非難される。

それを逆手に取ったのがドイツで、先の戦争貴任はヒトラーだけが悪く、ドイッ民族はむしろその
被害者だと逃げている。ただ、日本はどうも例外扱いで、なぜかこういう民族ひとくくりの非難を
しても問題ないらしい。しかし、このステレオタイプ化は今度の教科書、靖国問題では使い方次
第で逆に日本の正しさを示す有力な状況証拠たりうるという見方がある。

279高山正之:02/03/19 01:29 ID:lmi7hwRr

民族性は、その歴史をたどれば見えてくるものだ。たとえば自由と民主主義の国、アメリカを見
よう。その性格は新太陸に最初にきた人たちに現れている。彼らはまず親切な先住民から七面
鳥をもらって冬を越す。感謝祭のいわれだが、それで春になると彼らはさっさと先住民たちを殺
し始める。

西部劇では、インディアンが自人の頭皮をはぎ、耳を切り取るが、それは彼らがインディアンにやったやり口だった。そして「人は等しく幸福を追求する権利をもつ」と独立宣言をうたい上げな
がら今度は黒人奴隷を輸入しはじめる。フロンティアが太平洋に達すると、ハワイ王朝に軍艦の砲口を向けて乗っ取り、次いでフィリピンを植民地にする。

フィリピンの住民がアメリカの支配を嫌うと、彼らをどんどん捕まえて拷問した。魔女狩りと同じ
に20リットルもの水、それも海水を飲ませ、膨れた腹に尋間官が飛び降り、「ロから6フィートも
水が噴き出した」との上院公聴会の証言がある。

3年間に及んだフィリピン制圧でアメリカ軍はためらいなく村や畑を焼き払い、10歳以下のこどもを除いて村民すぺてを殺したサマール島事件を含め20万人が死んている。

70年後のペトナム戦争ではソンミ村事件が起き、枯葉剤が撤かれたが、基本的にはフィリピン
と同じことが近代的手法で行われただけである。リンドバーグは、第二次大戦のさなか、アメリカ
兵が日本兵の耳を切り取り、その頭蓋骨を家族に送ったと書いている。これもインディアン討伐
の手法と同じで、戦争を含めて民族性はそう変わらない。

北朝鮮はどうか。99年1月、亡命した金寵華元中尉の談話が産経新聞に載ったが、その中で
中国に逃げ込んだ北朝鮮人、いわゆる脱北者の送還の模様について「男は両手の甲に穴をあ
けて手錠をかけられ」と語っていた。この話は元寇を思い出させる。元の手先の高句麗兵は対
馬で捕えた(日本人の)人々の手の甲に穴をあけ、網を通して舷側にぶら下げて襲来した。こう
いうことを彼らは700年のときを越えてもやるのだ。

民族性とか国民性とかはとくに戦場では色濃く出てきて、そう簡単には変わらないことをこれら
の歴史は示している。では日本はどうか。日清戦争では清国北洋艦隊の丁汝昌に同情して亡命
を勧めた話がある。そのあとの義和団が北京を包囲したおりの日本軍の規律ある行動は園際
的な賞賛も得ている。日露戦争ではロシア将兵を、第一次大戦ではドイッ将兵を捕膚にしたが、
ともに彼らは大切に扱われた。ドイッ将兵の捕虜と日本人市民との交わりの中からぺートーベン
の交響曲第九が日本に定着したのは有名な話だ。

第二次大戦ではバンドン要塞に立てこもったイギリスやオランダ将兵8万人がたった800人の
日本軍と9日間戦っただけで降伏した。こうあっさり降伏したのは過去の日本軍の行動−捕虜は
丁重にもてなされる−を知っていたからだったといわれる。残念ながら日本は食えないから戦争
を始めたわけで、満足いく待遇ではなかったからといってあとで恨んだりするのは筋違いという
ものだろう。

280高山正之:02/03/19 01:37 ID:+q+rCLGt

ところが教科書問題の批判に出てくる日本はそういう民族性ではない。

まるで米国みたいに残虐な民族だと朝日や中韓、欧米のメディアは主張する。(注:朝日新聞は
日本の人の経営する新聞社のはずである、、たぶん、、、その朝日新聞は日本の歴史を知らな
いのでだろうか?過去にこのような大量の人々を虐殺した事実が有ったのか?関ヶ原の戦いで
さえ、近辺の人達は手弁当で観戦できたほどに、日本には民間人大量殺戮の習慣は絶対に無
い)アメリカや北朝鮮などその他の国民がずっと同じ民族性を保持しているのに、どうして日本
だけが変わるのか?もしかして彼らの主張が間違っているのでは、という疑問が当然わいてくる
が、そういうと「まだ歴史と直面していない」と非難される。「痛ましい歴史を覆い隠そうとする」と
怒られる。

今回の教科書、靖国問題はまさにそういう怒られ方だった。なぜなら現に南京で30万人を殺し
たろうが、と彼らは言う。それも「日本兵は無宰の市民を生きながら焼き殺し、女は強姦した上で
手足を切断し、子供は宙に放り上げて銃剣で刺した」。それが「6週問も続いた」と東京裁判でも
認定しているではないか。その証言者はアメリカ人の教授と宣教師とドイッ人武器商人など4人
もいるじゃないかと。(注:この証言は目撃証言では無く、推測証言です。つまり、有罪者を作り
あげたいアメリカ側の偽証の可能性が大きいし、現在ではそれが偽証であると言う資料が出始
めている)

しかし、これが自分の祖父や父の所業どして「あり得る」と思う日本人はまずいない。第一、赤ん
坊を投げ上げて刺殺するなんて発想は日本人にはない。六週間も殺し統けるという根気もない。
それが民族性どいうものだろう。でもこういう殺し方を中園人に間くと、彼らは「あり得る」と答え
るはずだ。なぜならここに記述した陰惨な殺毅の手口は南京事件の直前に中国人によって起こ
された通州事件とまさにそっくり同じで、二百人の居留日本人はそうやって殺されている。実に
おかしな話だ。だから南京事件を糾弾されても日本人自身が首をかしげる。

大体20万人もいない街でどうして30万人を殺せるのか。南京攻略は数日で終わり、報道班の
石川達三らも加わった入城式典は一週間後に行われたが、それから、更に5週間も殺戮が続い
たという報道も暴露もない。市民の数は日本軍入城後増えてもいる。(注:これも南京虐殺が嘘
だという大いなる証拠であり、何故にそのような、大虐殺、があったのに、その後も続々と日本
占領の南京街に中国人が来たがるのか?全くもって朝日新聞の主張は馬鹿げている、中国や
朝日新聞が虐殺が有ったと主張する、その日以後にも続々と中国市民が城内に入って来たとい
う欧米人の証言が有る。)
281高山正之:02/03/19 01:38 ID:+q+rCLGt

市民が殺されに帰ってきたというのもへンな話だ。 ただ、日本人の民族性が変わっていなけれ
ば別にへンには聞こえない。(注:日本軍は虐殺するどころか、規律を守り、平和になるから、商
売も物乞いも出来るから、住民は直ぐに日本統治の場所に行きたがった、という証明です。)

市民が戻ってきて当たり前だ。バンドンで降伏した臆病な英蘭軍将兵だって、もし日本人が残忍
と思っていたらもう少しまともに戦っただろう。恥も外聞もなくさっさと降伏したこと自体、日本人
の艮族性が、今、朝日新聞や中国韓国のいうのとはまったく違っていることを示しているではな
いか。

こうしてみると、日本の民族性はアジアの戦場でも南京でも、明らかに「無罪」を示す有力な状況
証拠になる。朝日新聞と中韓、欧米のメディアはこれまでずっと東京裁判公認のステレオタイプ
化された「残忍な日本人」を糾弾し続けた。しかし、日本人が歴史に向き合い、直視してもそうい
う民族性はでてこなかった。

だから今度は朝日新聞を始めあなた方が歴史に向き合い、直視したらいい。奴隷を売買しなが
ら自由と民主主義の聖地を自負し、他国を貶めるために「田中上奏文」まで偽造して恥じない自
分たちのまがまがしい民族性がきっと本当の答えを教えてくれると思う。
282高山正之:02/03/19 07:31 ID:Q6/MQ2k8
>>276
>迷門企業の営業所長が社命で荒らしているという噂です。
他に本社勤務の某氏、一族氏、役員氏等、こういう人材は
なぜかとても豊富な会社です。
283高山正之:02/03/19 07:44 ID:pYBTyuO8

日本企業を狙い撃ち! 訴訟国家アメリカの暴走
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2000/0004/03-c5.html

91年春、ロサンゼルスでロドニー・キング事件というのがあった。麻薬にラリってフリーウエーを
暴走した札付きのワルが捕まった、アメリカならごく日常的な事件のひとつだが、たまたまその
逮捕現場を近所の人がビデオに収めていたために世界的なニュースになった。

白人警官が寄ってたかって黒人を打ちのめしている図である。殴られながらなお立ち上がって
歯向かおうとする姿は、白人の差別と横暴にひるまず自由と人権を勝ち取ろうとするブラック・ア
フリカンの闘志を象徴するものだという説明も当時はあった。

実際はPCP、通称ポパイと呼ばれる麻薬を彼がやっていて、これは攻撃性を強め、さらに痛覚
も鈍麻し、意識を失っても歯向かっていく、その薬効のおかげだったが、それは置いて、この事
件はいろいろな意味で今の「アメリカ」の姿を浮き上がらせた。

まず挙げられるのが、アメリカは異質ということだ。日本に公務員特別暴行凌虐罪があるよう
に、どの国でも職務執行行為に制限がつく。でもこの国は公務は原則、罪に問われない。

ペッパー・スプレーという唐辛子ガスが警官の常備品になって、それで容疑者が何人か立て続
けに死んだが、とくに問題にもならなかった。この事件も本来ならキングが刑務所に送られ、一
件落着したはずだった。これがアメリカン・スタンダードである。

しかし、映像化され、世界に情報が流れたために、当局はこのスタンダードでは押し切れないと
思った。当局はアメリカが少し異質なことを知っていたからだ。で、刑務所に行くはずのキングが
被害者になり、4人の警官は解職されたうえカリフォルニア州法によって法廷に立たされた。し
かし、市民の側はスタンダードの使い分けには慣れていなかった。ほとんど白人で占められた陪
審員は「歯向かう悪い黒人の抵抗を抑圧してなぜ悪い」と無罪評決を出す。

この評決はたまりにたまっていた黒人たちの不満に火をつけ、あのロサンゼルス暴動を引き起
こす。暴動の火は三日間、燃え続け、あのロデオ・ドライブにも延焼しそうなところまできてやっと
終息する。死者は五十余人にも達した。

《これでも法治国家と言えるか》 アメリカの異様さはこの騒動でさらに増幅された。連邦検事
局が、州法で無罪となった4人の元警官を改めて連邦公民権法で起訴したのである。「暴行と
いう形でロドニー・キングの人権を侵害した」という言い分だ。これがよそのまともな国なら、その
結果はともかく、法廷の結論を尊重するものだ。それが法治国家の原則である。まして結論の出
た事件を再び蒸し返すことは法秩序を破壊するから厳に戒められている。いわゆる「一事不再
理」である。アメリカにも表向きの規定はある。「二重の危機(・・・・・・ ・・・・・・・・)」だ。

4人の元警官は同じ行為、つまりロドニー・キングをぶん殴ったことで被告席にまた座らせられる
訳で、どう見てもその二重の危機に違反しているが、連邦司法当局は「州法と連邦法の立場は
違う」と言い張り、二重の危機を否定し続けた。

284高山正之:02/03/19 07:45 ID:pYBTyuO8
でも、なぜこんなデタラメを真顔でやったのか。実はこの騒動は大統領選のさなかだった。共和
党が現役のブッシュ大統領、そして民主党がクリントンで、クリントンはこの時期、同性愛を認め
る方向で、最大の票田、カリフォルニア州のシリコンバレーを手中にしていた。最先端をいく情報
産業世界では同性同士の同棲はよく知られ、IBMなどいくつかの企業は同性の配偶者を認め
てもいた。そこにこのロドニー・キング事件だ。暴動で示した黒人などマイノリティの不満がそっく
り民主党に流れれば、もはやこの州でブッシュ陣営に勝ち目はなかった。

公民権法による裁判は、要するに四人の警官を生け贄にしてマイノリティの機嫌を取り戻せれ
ば、という現役政権の打算だった。為政者の都合でやる裁判、つまり政治裁判そのものだった。

ここで思い出すのが、大津事件である。明治21年、後にニコライ二世となるロシア皇太子が大
津で津田三蔵巡査に切りつけられ、負傷する。政府はびっくりした。日露戦争の16年も前のこと
だ。大国ロシアに攻められたら日本は滅んでしまう。

で、政府は大逆罪で津田巡査を起訴する。それで死刑にしてくれれば、政府もロシアに「これこ
のとおり」と詫びを入れやすい、国難も去るだろう。しかし大審院長官の児島惟謙は政府の意図
を蹴った。罪刑法定主義である。ロシア皇太子は大逆罪の対象ではない。よって普通の傷害罪
に訴因を変更し、津田には無期懲役を宣告した。立法、行政、司法はそれぞれ独立してこそ近
代国家であり、裁判を勝手な政治工作の具に使うのは近代国家の自殺行為だというわけだ。児
島は国運を賭してまで司法の独立を守った。

しかし、ブッシュ政権の意向で行われた四人の元警官の再裁判では、当の裁判官も連邦最高裁
も「二重の危機」を指摘することもなく、まして「政治的な動機」を批判する声も出なかった。そし
て四人は一度、無罪を宣せられた行為で、今度は有罪が評決されて刑務所に送られてしまった
のである。ロドニー・キング事件ははしなくもアメリカはまともな法治国家ではなかったことを見事
に浮き上がらせてみせたのだ。

その辺を「文明の衝突」のサミュエル・ハンティントンが明確に指摘している。「アメリカはあれで
三権分立が曖昧模糊、未分化な部分があって、多分に中世的な色彩が濃く残っている」。アメリ
カは欧州にまだ魔女を焼く煙がたなびく中、新天地を目指した人々がわたってきた。欧州ではそ
の後、宗教のくびきを脱する市民の意識革命が起き、さらに産業革命が起きていくが、その間、
この地ではインディアンを殺戮しまくり、黒人奴隷を入れ、メキシコ人を追い出すことに熱中して
いた。つまり、彼らの意識は十五世紀で止まったままだという指摘である。

実際、そういう中世的な場面に、ホンダが遭遇したことがある。ルイジアナ州の少年がホンダの
オフロードバイクで練習中、コースのこぶを飛び越し損ねて大ケガをした。少年と父親はバイク
の欠陥が原因でジャンプ中に失速を起こした、としてホンダに三百万ドルの賠償を求める訴訟を
起こした。製造者責任法、PL訴訟である。

物理のブの字でも知っていれば、こんな非常識な訴えは起き得ないものだが、ホンダには苦い
経験がある。酔っ払ってホンダのオートバイをサイドスタンドを出したまま、暴走した男が転倒し
た事故で、原因は「スタンドが出ているというウォーニングがなかったため」として七百万ドルを
取られている。
285高山正之:02/03/19 07:51 ID:DI/oXzBf
《選民意識と独善と》 で、今回は念を入れ、映像化して陪審員の説得を図った。さしもの村
の寄り合い裁判でも、ホンダに責任がないことは100%証明されたはずだった。

しかし、連邦民事法廷の6人の陪審員評決は割れた。半分の3人がホンダは300万ドルを支払
えと主張し続けた。ケガをしたのはおらが村の子ども。ホンダはよそ者。それに金持ちなのだか
ら「それぐらい払ってもいいだろう」と、面と向かっていわれたとき、アメリカは法治国家と信じて
いた関係者は一瞬、耳を疑ったという。

アメリカが実は巨大な村で、未だに中世的な世界にあることは、例えば「ダーウィンの進化論を
学校で教えるな」と主張するブキャナン大統領候補が、予備選で30%も得票したりすることでも
うかがえる。でも、それはサウジ・アラビアで初潮を迎えた女の子が結婚できる、というのと同じ
で、周りの国がとやかくいっても始まらない。

ただ、アメリカにはもうひとつ、不思議な特性がある。これがはた迷惑を生み出す。古くはあの
「モビー・ディック」のハーマン・メルビルの「我々こそ現代のイスラエル人(選民)」という意識。

「アメリカの経験から生まれた価値観は世界に通用する」(S・ホフマン)という考え方。そして現
代史家のJ・フェアバンクが指摘する「聖人ぶった態度、独善的な自負心、自らを道徳的に高い
とする態度」の「アメリカ人」根性である。

それが中世的裁判とドッキングすると、どうなるか。最初の犠牲者はCIA元長官ブッシュの下で
その手先を務めてきたパナマのノリエガ将軍だった。麻薬戦争を政策の柱にしたブッシュ大統領
の下でフロリダ連邦裁判所はノリエガの起訴を決める。これを受けて、ブッシュは早速パナマに
軍を派遣し、旧友のノリエガを逮捕してしまう。断っておくが、パナマはれっきとした主権国家で
ある。近代法治国家の法律には一事不再理のほかに属地主義というのがある。法律はその国
の主権の及ぶところだけに限られる。当たり前のことで、もし、その辺を勝手にされたら、サウジ
の王族など重婚罪と、幼女暴行でみな逮捕されてしまう。他国の主権の侵害という言い方もでき
る。このノリエガ事件は世界の非難を浴びたけれど、結局ノリエガは有罪を宣せられ、今も刑務
所で暮らしている。アメリカが大国ゆえにみんな黙ってしまったのだ。これでアメリカの独善とア
メリカ的道徳心の押し付けにさらに磨きがかかっていく。

95年、イスラエル・ガザ地区で通行中のバスに爆弾を積んだ乗用車がぶつかった。休暇を終え
て基地に戻るイスラエル兵士を標的にしたパレスチナ人青年による自爆特攻である。これで目
的のイスラエル兵9人が死ぬが、ついでにアメリカ人女学生アリッサ・フラトーも巻き添えで死ん
だ、20歳だった。

爆弾テロを行った青年は死んでいる。犯行声明はハマスが出したが、イスラエル政府とは敵対
する組織で、仮に遺族がハマスを相手取って民事訴訟を起こしたところで、まず法廷に出てくる
こともないだろうし、まして求償できるとも思えない。娘を失い、その憤りのもって行き場もないア
リッサの遺族に、アメリカ議会が動く。そして97年、テロ犠牲者救済法ができた。
286高山正之:02/03/19 07:55 ID:SDAtfjuT

これはアメリカの国務省がテロ支援国家に認定した国、イラン、リビア、つい最近は北朝鮮も加
えられたが、そういう国の支援を受けたテロに巻き込まれた場合、本人、または遺族はそのテロ
支援国家をアメリカの法廷に引き出して訴えられるというものだ。そしてこの法律はアリッサのた
めに作ったものだから、もちろん二年前に起きた彼女の事件もその対象とした。

無辜の人々を巻き込み、その命まで奪う卑劣なテロ。それを罰するアメリカの高い理念に世界の
どの国が反対しようというのだろう。その高い道徳、理念は世界に通ずるものだ、というわけだ
が、その法律には、問題点が多い。よその国で起きたテロの被害についてアメリカで裁けるとす
るのは、明らかに前述した属地主義、民法でいう被告所在地主義を無視している。

《裁判管轄権も罪刑法定主義も無視》 次に法律の遡及効力まで認めている。「法律なけれ
ば犯罪なく、刑罰もない」とはフォイエルバッハが罪刑法定主義の理念を語った言葉だ。あとか
ら法律を作って、それを溯らせて誰彼かまわず捕まえられるようになったら法律の尊厳も信頼も
失わせる、と戒めたもので、「法の不遡及の原則」はどんな国でも守ってきた。現にアメリカの憲
法第一条には「・・・・・・・・・・・・・(遡及禁止)」を高らかにうたってもいる。

もっとも例外はなくもない。あの東京裁判で日本の責任を問うた「平和と人道に対する罪」は戦
後、急ぎアメリカを中心にして作った事後立法で、それで多くの日本人を絞首刑にしている。

いずれにせよ、この近代法の理念も国際法の何たるかもいっさい無視したテロ救済法は発効
し、アリッサの遺族の訴えを受けた法廷は国務省が選んだテロ支援国家にイランを選び、ニュー
ヨークの国連ビルにいるイラン国連大使に召喚状を送って裁判が始まった。

イラン側は、何をばかな、テロ行為にイランは関与していないし、その証拠もない。おまけに裁判
管轄権も無視すれば、罪刑法定主義にも悖るような裁判に誰がでるものか、と通告した。まあ当
たり前だろう。

しかし、法廷は被告側に召喚状が送達された時点で正式に裁判が始まった。ここでも判事はこ
の法律の遡及がどうのとは触れなかった。要するに裁判は有効だとして、アメリカの訴訟法に基
づき、召喚状を無視し、法廷に出てこないイラン政府は告発に同意したとみなし、審理を進めて
いった。

証拠がない、違法だ、国際法に違反している、というなら法廷で無実を証明し、違法性を主張せ
よというわけだ。これをアメリカは「・・・ ・・・・・・・」と呼ぶが、実はこれが深い落とし穴であること
を後に触れる。

かくて98年、イラン政府欠席のまま、法廷は二億四千七百万ドルをアリッサの遺族に支払うよう
判決を下した。連邦議会が法を成立させ、国務省のデータをもとに連邦裁判所が下した判決で
ある。これは笑い事でなく、有効にイラン政府に実行を迫る力をもつのである。幸いというか、イ
ランは目下、アメリカとは正式の国交をもっていない。どうぞ、ご勝手に、といっていられる。
287高山正之:02/03/19 08:08 ID:VrOXqK4y
要するにアメリカの法律には、法の理念である一事不再理とか、罪刑法定主義とか、遡及の禁
止とか、よその国の主権尊重とか、そういう類いの国際常識は通用しない。勝手気ままにという
か、一面の真理があれば法がどんどん作られ、運用されているというのが実態に近い。それを
支えるのが、アメリカ人のいう彼ら独特の高い道徳心なのである。

1994年、7歳の幼女ミーガン・カンカが常習性犯罪者に殺された事件から、わずか3カ月後に
ニュージャージー州議会が制定したミーガン法はその典型で、その後、連邦法に昇格する同法
は性犯罪者のプライバシーを全く否定し、氏名、居住地は当局に登録され、周辺住民にも公表
されるというものだ。

ある州では刑期を終えて出所した性犯罪者の顔写真から居所までインターネット上で公開され
ている。これが中世の刑罰、さらし者の刑に当たるとして、一つの罪で加重的に罰せられるのを
禁止した憲法に違反するという批判もあった。しかし、性犯罪があふれる現状では一種の緊急
避難と考えているのか、それをとくに問題とする者はいない。

しかし、そうした法の運用にはもう一つの側面があることを忘れてはならない。前述したホンダの
ケースのように自損事故でも、うまくすれば700万ドルをせしめられる。カネになるのである。

もっとも、すべてが原告の収入になるわけではなく、その3割から8割は弁護士が持っていってし
まう。それでもオートバイでケガをしただけで最低140万ドルは手にできる。だから弁護士は頼
られ、一方で学生のほとんどは弁護士を目指し始めた。目下の弁護士の数は全米で90万人、
陸海空に海兵隊を加えた米軍兵士が138万だから、それに次ぐ大勢力である。

彼らは弁護士事務所だけでなく、行政機構に、人権団体などさまざまな組織、政界などへと進出
した。クリントン政権では大統領もファースト・レディもオルブライト国務長官、リノ司法長官もと、
閣僚の半数が弁護士資格をもつにいたっている。

《訴訟社会で食っていく人の群れ》 その90万人が訴訟で食っていけ、あるいは政界で、行
政機構で名を上げていかなければならない。彼らが協力し合えばどれほどのカネを稼げるか。
それを端的に示したのが三菱自動車アメリカのセクハラ訴訟だった。

96年春、整理の対象になっていた連邦雇用機会均等委員会(EEOC)が記者会見を開き、イリ
ノイ州にある三菱自動車アメリカの組み立てラインで無差別広範囲にセクハラが行われている、
被害は七百人の女性従業員すべてにわたる、EEOCはセクハラのクラスアクション(集団訴訟)
を起こす、というものだった。

この事件はまずテレビで、ついでニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストなど主要紙がいっせ
いに報じ、日を追って三菱たたきは苛烈になっていった。ポストは現地に6人の取材チームを送
り込んだが、タイムもニューズウイークもそれぞれに事実はともかく、日本がいかに性差別が激
しいかの読み物記事を載せる。まるで1カ月前から準備していたような書きっぷりだった。

議会の女性議員も、そして女性人権団体NOWもこれに呼応して三菱の不買運動を宣言する。
そして三菱が少しでも抵抗すると、つまり従業員が訴訟不当を訴えるデモを展開すると、当のE
EOCはじめ、新聞も議会もそれが会社の差し金で、解雇をちらつかせてデモ参加を強要した風
な記事が氾濫する。
288高山正之:02/03/19 12:17 ID:ffwuVxoH
これが実は、「ある組織がEEOCをたきつけ、弁護士事務所、議会、マスコミなどすべてを仕切
って演出した」(外務省幹部)訴訟劇だった。組織の中心は言わずと知れた弁護士族で、各界に
浸透する弁護士仲間とのコネを利用しつつ、三菱包囲網のお膳立てを演出していった。その攻
撃の緻密さ、足並みのよさ、情報伝達の速さがずば抜けていたのもそういう理由からだ。

ちなみに、この陰の演出者の存在をほのめかすAP電がある。1996年、三菱自動車が敗北を
宣言し、3400万ドルの和解金を支払ってまもなく「女性従業員約240人がこの訴訟発表の前
に、20万ドル以上のカネが得られるから、セクハラのクラスアクションにオプト・イン(参加)する
よう要請され、OKを出していた」というものだ。もちろんEEOCはこうした事前工作を否定し、誰
が女子従業員に接触したかは不明のままだ。

かくて法と正義を口実にした巨額の恐喝が白昼堂々展開された訳だが、この悪質な犯罪を告発
するものは誰もいない。弁護士事務所ももうかり、マスコミも喜び、つぶれかけたEEOCも生き
残り、オプト・インの女性従業員も幸せになったのだから。

ついでながらEEOCはこれに味をしめたのか、莫大な和解金を取ってしばらくして、また三菱自
動車を障害者法(ADA)で脅した。従業員募集のおりに、腰痛や糖尿病をもつ人を不採用にし
た、それがADAに違反する、という言い分だった。

三菱自動車は他のアメリカ企業と同じように同法に基づいて障害者枠を設け雇用していた。きち
んと対応したつもりだったが、根拠もない「セクハラの罪」で四十億円も取られたばかりだった。
結局、EEOCの言い分を聞いて三百万ドルを支払った。

三菱自動車は今年一月、黒人従業員にも訴えられた。KKKのいたずら書きが壁に書かれ、上
司が黒人を差別しているという。いわれない因縁ですでに四千万ドルも脅し取られた三菱がまた
黒人差別などするはずもない。いたずら書きを含め、だれかが結託して演出していることは間違
いないだろうが、それを証明したところで、よそ者三菱がこの裁判に勝てる見込みがないのはホ
ンダの例がよく示している。

《何でもあり、の州法》 さて、これまで主に連邦法の気ままな運用ぶりを紹介したが、実は州
法もこれに負けてはいない。例えばマサチューセッツ州は通称ミャンマー法を制定した。我が州
も連邦議会に負けずに「高い道徳心」に燃え立っていて、ミャンマーや中国、キューバなど人権
を抑圧する国との取引がある国内外の企業は同州から排除するという趣旨である。

ミャンマー、中国との交易といえばたいがいの日本企業は該当してしまう。一方でアメリカ政府
は自由貿易を叫びWTO(国際貿易機関)を主導してきた。それなのにそのお膝下の州で「おま
えはミャンマーと取引がある。気に食わない」と取引を拒否し、あるいは訴訟に持ち込むというの
だ。このいかにも人道派的法律はよその州でも真似する気配があって、近い将来、日本はアメリ
カ政府のほかに五十州の政府と貿易協定を結ばなければならなくなるともいわれる。

カリフォルニア州でも異様な法律をつくった。カリフォルニア州大気資源局が州内で売られる車
のすべてに燃料パイプの気化ガス漏れを検知する装置を義務づける法律で、そこから漏れるP
PM単位のごく微量の気化ガスが大気汚染に影響するという口実だ。
289高山正之:02/03/19 12:21 ID:GOia/HzH

しかし、街中のガソリンスタンドでは給油中にその数百万倍もの濃厚なガスを発散する。意味不
明の立法意図は、まもなく明らかになった。ホンダの検知装置に欠陥があると州政府が言い出
し、莫大な罰金を命ぜられ、結局2千万ドルの和解金が支払われた。トヨタも同じで、因縁の額
は600万ドル。トヨタは和解を拒否して訴訟の準備を進めている。

そして今、最初からカネ目当ての極め付け州法が登場した。「第二次大戦中の奴隷・強制労働
に関する補償」、通称ヘイデン法というカリフォルニア州民事法である。これはもともとナチス政
権下で強制労働に従事させられた民間ユダヤ人、東欧諸国の民間人を対象に、彼らにその賠
償を求償できるとした法律だった。

この求償法にトム・ヘイデン州上院議員が追加条項を提案した。まず「ナチス政権」つまりドイツ
だけでなく「その同盟国及び同調国」に広げた。旧枢軸国は独、伊、日本だが、イタリアはさっさ
と降伏して抜けているから、平たく言えば日本を追加した、ということだ。

そして「民間人」だけでなく、戦争捕虜も「奴隷労働者」の枠に含め、さらに求償を求める相手も
政府ではなく、「占領、または支配下の地域において」、そういう奴隷労働者を働かせた「企業」
とし、「その時効を2010年まで延長する」というものだ。

この奴隷労働者求償法が今なぜ話題になっているかというと、欧州の地で東西ドイツがやっと統
合し、これまで平和条約も結んでいなかったドイツと東欧諸国の間で50年遅れの賠償交渉が進
められている。その交渉の中でユダヤ人など強制労働をさせられた人々とその遺族の補償問題
がでて、ドイツ政府だけでなく、その強制労働で利益を享受した「シーメンスなど14の民間企業
も補償金を負担する」という方式が打ち出された。ドイツ側はこれに沿ってすでに50億ドルを拠
出することを決めている。

この「企業も補償に参加」という方式がカネ儲けにかけてはすばらしい嗅覚をもつアメリカの弁
護士や訴訟演出家を刺激した。まず相手は訴えて取りっぱぐれのないディープ・ポケット(金持
ち)の日本である。おまけにアメリカは一事不再理も不遡及も裁判管轄権も何もかも無視できる
国だ。

もうひとつの利点は民間企業から求償できるという方式。日本政府とアメリカ政府の間では、こう
した戦時賠償問題は条約の上ですでに解決されている。だから、連邦法ではできないが、アメリ
カには前述したマサチューセッツ州のミャンマー法のように州法ならアメリカ政府の対応とは別
の法律を作れる。例えば戦時捕虜の使役は国家間で結ばれたジュネーブ協定で認められてい
て、国レベルでは求償はできないが、州法は政府間の条約だって無視できるわけだ。

しかも、戦時捕虜を使った企業と名指されるのは三井物産であり、新日鉄、川崎重工など、いず
れもアメリカに進出拠点をもっているから、そういう子会社を法廷に呼び出せば十分、目的を達
せられる。

290高山正之:02/03/19 12:27 ID:sDCJQOy/

《正義と公正の裏にあるもの》 かくて、ヘイデン法は誕生した。それは、ジュネーブ協定や講
和条約を無視し、更に50年を溯って求償を認め、しかも外国で起きた事案についてカリフォル
ニア州の裁判所で審理できるとした裁判管轄権も国家主権もないがしろにした中身である。その
窓口となった「被抑留者のための権利センター」によると、アメリカだけでなく、オーストラリアや
イギリス、オランダからも集団訴訟に参加する元捕虜たちが名を連ね、ロサンゼルス・タイムズ
紙は「おそらく、1兆ドル単位の訴訟になるだろう」と予測する。恐ろしいことに、前述したイラン
政府の裁判のように、裁判官が違憲、または管轄外を宣言して棄却しない限り、この訴訟は日
本側企業が拒んだところで正規に行えることである。

これに対抗するのは日本の政府だけだが、「アメリカ連邦政府、あるいは連邦裁判所が関与し
ない限り、日本政府は口を出せない。州レベルでは何があっても、それはアメリカの国内事情に
なってしまう。だから州の裁判所で結果が出て、日本企業が不利な対応を迫られたときにのみ
介入するしかない」というのが外務省の見解である。

外務省は今回の騒動も一地方議員のアイデアとは思えない、三菱のときと同じように「背後に綿
密な情報ネットをもった組織がいる」ことをほのめかす。この訴訟騒ぎと軌を一にするように南京
大虐殺問題が大きく取り上げられ始めたのも「決して無関係ではない」という。今、日本側が騒
げば「三菱と同じように相手に騒ぐ口実を与える」というのである。

アメリカのいう正義と公正の裏に何があるのか、その素性と習性を知ることが、今、最も大事な
ことなのである。

291高山正之:02/03/19 12:34 ID:CUlLVL5U
■高山正之の異見自在 無能な役人がいると… 次はサッカーを滅ぼそう
98.11.14
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/back/r-2000back.html

日本にもずっと前、映画の黄金期というのがあった。例えば、東京の真ん中にある小さな盛り場
麻布十番には4軒の映画館があってそれぞれに繁盛していた。繁盛なんて生易しいものじゃな
く、そのひとつ、麻布東映でいうと週末には立ち見はざら。通路にしゃがんで見るのが当たり前
で、それで鞍馬天狗が馬を走らせてくると、一生懸命拍手したものだ。

2ブロック離れた麻布日活では石原裕次郎の映画がかかっていて、どっちを見ようか悩んで結
局両方見てしまったこともあった。あの時代は子供までがみんな淀川長治だった。繁盛したのは
映画が当時、娯楽の王様だったし、学校でも「笛吹童子」がどうなったか、それが話題だったこと
もある。

東映や東宝、日活など映画会社もそれにこたえて毎週新作の2本立てで臨んだ。各社とも年間
100本以上も制作していたわけで、年間にすれば数百本もの邦画が作られた計算になる。天下
のハリウッドが年間200本ぐらいだから、これは大変な数字ではある。「映画界に活気があった
からこそ、世界の黒澤明も市川崑もゴジラも出てきて、ハリウッドでさえそれを学んだ」とクリント
ン政権のブレーン、ブルッキングス研究所のマイク・モチヅキはいう。

しかし、その日本映画は1964年(昭和39年)の東京五輪のころを境に凋落していった。「その
ころ普及したテレビの影響が大きい。それにもうひとつ、日本人のモーレツ人間化が映画館にい
く暇を奪った」とモチヅキはいう。実はアメリカもその10年前、同じような現象を体験していた。
ただ「為政者が日本と少し違った」。

ハリウッドを潰してはならないと判断した政府は、まずフィン・シン法(投資及び映画配給者法)を
成立させる。これはテレビ局が映画やドラマを自主制作するのを禁止し、ハリウッドにテレビ向け
作品を発注させるようにした。

ハリウッドは息を吹き返し、例えば三大ネットのABCはディズニーに450万ドルを出資し、その
代わりに「怪傑ゾロ」や子供向けの「ミッキーマウス・クラブ」の制作と供給をさせた。CBSもNB
Cもそれにならい、「ローハイド」や「奥様は魔女」が生まれていった。

政府はもっと積極的な政策も導入した。税制の改正である。映画制作への一般からの投資を所
得から控除できるようにしたのだ。例えばヘプバーンとクーパー主演で「昼下がりの情事」を制
作するとする。スタジオはこの制作発表とともに、一般から投資を求めるのがハリウッド方式で
ある。出資者は映画がヒットすれば配当をもらえ、外れればアウトになる。人気は高いがリスクも
高かった。

その出資が控除できるとなれば一般市民も喜んでカネを出す気になる。おかげでハリウッドノは
カネが集まり、活気も戻ってきた。テレビには上質のドラマが送り込まれ、映画館には前にも増
して名作や大作がデビューした。

292高山正之:02/03/19 12:38 ID:XBNuUczA

ヨーロッパの街が教会を中心に据えたように、今のアメリカの街はショッピング・モールとシネプ
レックス(複合映画館)を中心に作られるというほど映画は市民生活に根を下ろしている。

ハリウッドも強くなった。ディズニーは昔の恩人だったABCを逆に買収して傘下に収め、NBC、
CBSも同じようにMCAなどの軍門に下ろうとしている。

映画産業は輸出の花形にも躍り出て、海外での劇場興収は25億ドル、ホームビデオは36億ド
ルも稼ぎ、テーマパークやキャラクター・グッズを含めると、今や兵器産業に次ぐ堂々2位の国際
商品にもなっている。ちなみに日本はこの海外興収の20%を占め、ビデオも合わせればアメリ
カの10州分にも相当する超お得意様である。

この時期、日本からは大蔵省や文部省の役人たちに、もっと多くの国会議員がアメリカに視察に
きたが、ハリウッドで記念写真は撮っても、この蘇生政策に目を向けたものは1人もいなかった。
何の手も打たないまま、日本映画は沈んでいった。

日本映画の凋落を嘆いた淀川長治が大往生した日、横浜フリューゲルスに次いでヴェルディ川
崎の財政危機が表面化した。理由はJリーグがスポンサー企業に「名を出してはならない」とし
たことにある。名前が出ずにカネを出すと「税制上、寄付だから課税する」というのが日本の役
所の見解である。

あるスポンサー企業はいう。「年間20億円もの赤字を補っても損金扱いできないうえ、その補填
が寄付だから税金を取るというのではやってられないわね」ちょっと税制をいじり、企業の損金
扱いを認め、出資者にはハリウッド式に控除を認めれば、みんな喜んでカネを出すだろうに、政
府がまじめにやったのは役人の天下り先としてサッカーくじ協会を作ったことだけ。

頭の悪い政府をもつと、映画もサッカーも生き残れない、ということだろう。

293高山正之:02/03/19 13:34 ID:lSl7npzJ
高山正之の異見自在 日本が悪くないと困るワケ
http://www.sankei.co.jp/databox/Wcup/html/9811/1114_04.html

1942年11月13日は金曜日だった。だから、この日、ソロモン海域に入った軽巡洋艦「アトラン
タ」、「ジュノー」など11隻のアメリカ艦隊の乗組員はちょっぴりいやな予感があったという。

実際、その先のガダルカナル島へ通じる海峡の底は撃沈された多くの艦艇の残骸で埋められて
おり、後に「アイアン・ボトム」海峡と名付けられてもいる。軍艦の墓場という意味である。

予感は当たった。その日の日没を待つように戦艦「比叡」以下の日本艦隊が行く手に現れ、ラバ
ウルからの一式陸攻が空から、そして海の底から伊号潜水艦も加わって猛攻を仕掛けてきた。

第三次ソロモン海戦と呼ばれる海戦は以後4日間続き、米艦隊は「アトランタ」以下軽巡2隻、駆
逐艦4隻が沈められた。最大の悲劇は「ジュノー」だった。日本の潜水艦の放った魚雷が弾薬庫
を直撃したため、6千トンの軽巡は大爆発を起こして一瞬のうちにアイアン・ボトムに向かって沈
んでいった。約700人の乗員のうち、助かったのは七人だけだった。この艦にアイオワ州出身
のジョージ・サリバン(28)以下5人の兄弟が乗り組んでいた。アイルランド系の兄弟は共通の友
人が日本軍の真珠湾攻撃で戦死したことを知って、即座に海軍に入隊を決めた。そして兄弟そ
ろって軽巡「ジュノー」に配属され、友人の弔い合戦に出たばかりだった。

しかし、この魚雷攻撃で長男ジョージを除く4人が艦と運命をともにし、ジョージも救命筏で漂流
中にサメに襲われて絶命する。サリバン兄弟全滅のニュースはアイオワで5人の帰還を心待ち
にしていた両親だけでなく、アメリカ社会にも大きな衝撃を与えた。

戦争のもつ残酷さを象徴するこの事件の影響を心配したF・ルーズベルト大統領は、翌43年に
進水した駆逐艦に「サリバンズ」の名を冠して栄誉をたたえた。現在は97年に配備された新鋭
イージス艦が「サリバンズ」2代目を襲名している。

また、兄弟全員が応召して軍務に就く場合には配属先を必ず分散し、1人は安全な国内勤務に
するという心配りをみせた。この「サリバン兄弟の悲劇」が、実は今回のアカデミー賞最優秀作
品賞候補となった、スピルバーグの「プライベート・ライアン」の下敷きになっている。

ときはその軍務規定が改められたばかりの44年6月、分散配属されたライアン4人兄弟のうち
3人が別々の戦場で相次いで戦死してしまい、残ったのがドイツ軍の勢力下に取り残された末
弟マット・デイモンという設定だ。軍首脳部は「サリバンの悲劇を繰り返すな」とその末っ子の救
出を命ずる。命ぜられたのがトム・ハンクスである。

294高山正之:02/03/19 13:39 ID:iyeHWtf/

今度のアカデミー賞では、スピルバーグ作品のほかに「Thin Red Line」、「Life is Be
autiful」と、最優秀作品賞候補五本のうち三本が第二次大戦を扱っている。

「Thin」はサリバン兄弟が散ったガダルカナルの戦場が舞台で、題名は「紙一重の生死の差」と
いった意味である。「Life」は欧州戦線下で迫害を受けるユダヤ人家族をこの種の映画としては
珍しくほのぼのとしたトーンで描いている。それにしても「今、なぜ第二次大戦なのか」(ロサンゼ
ルス・タイムズ)という問いは残る。同紙の映評には「第二次大戦こそ一点の曇りもないアメリカ
の正義の戦いであり、だれもが受け入れた勝利だった」と書く。

確かにその後の朝鮮戦争もベトナム戦争もアメリカは正義を主張しながら、そういう格好いい終
わりはなかった。湾岸戦争もそう。「イラクは悪い」とアメリカがやっきになっても「どうだか」と周
辺は冷たい。嘘と不誠実はいけないとイラクを非難しながら、送り込んだ国連査察委がアメリカ
諜報機関の手先だったという大嘘もバレた。大統領の不倫の嘘もバレた。

「強さと正義を自任してきたつもりが妙にチグハグになり、国民にフラストレーションがたまってい
る」と諸星裕・桜美林大教授はいう。経済は好調だが、それを支えたマイクロソフトの商法に道
義的疑問が出されたりもする。それで、「強く正しいアメリカとは何なのかという問いが出され、そ
の答えとして第二次大戦が出てきた」という分析である。

アメリカ・ジャーナリズムが今世紀の百大事件をまとめた。1位が原爆による第二次大戦終結。2位が月面着陸、3位が真珠湾攻撃でアメリカの参戦、以下七位にホロコーストがあって、ドイツ
がらみが妙に割り引かれた印象だが、ここでも第二次大戦が「アメリカの曇りない正義」の発露
場所として扱われる。

日本が太平洋戦争の見直しをしようとすると米国はすぐ怒る。日本が絶対の悪でないと、「アメリ
カの正義」が曇ってしまうから困るのだ。

http://www.sankei.co.jp/mov/db/99a/0306backup_clm.html
295高山正之:02/03/19 17:30 ID:fdT8aWNm
■高山正之の異見自在 2001.03.23
消えた日本の遺産 かれらの“差別”意識を知れ

パラオの話だが、ここは第一次大戦のあと、ドイツ領から日本の委任統治領になった。その当時
は「タロイモと魚が島民の主食だった」とパラオ共和国の上院議長だったピーター・スギヤマはい
う。 「日本がきてからその生活は大きく変わった」と続ける。

日本はコメを持ってきた。ナスやキュウリなど野菜に、サトウキビ、パイナップルも持ち込んだ。
そして雇用創出もした。マグロ缶詰工場やかつお節工場もつくり、島民に仕事を与えた。インフラ
も整備し、舗装道路を敷き、電気を供給し、電話も引いた。今、英語で話される日常会話に日本
語の「デンワ」が交じるのもそのころの名残だ。

しかし、その統治は30年と続かず、パラオは3度目の統治国、アメリカを迎えた。 彼らアメリカ
人はまず「すべての工場を破壊し、畑もつぶした。島々を結ぶ橋も壊し、道路の舗装まではがし
ていった」。

すべての破壊が終わった後、アメリカは島の人々にアメリカ米を支給し、働かなくてもいいように
生活保護費を出した。東西冷戦の中でこの島が東側に取られた場合を考えれば、数千の島民
にただ飯を食わせるぐらいは安いものだという考え方だ。

そして、冷戦が終わった今、島民への援助は間もなく打ち切られる。もうこの島を持っている意
味はなくなったからだ。カリブ海に浮かぶハイチはナチやソ連の進出が懸念されるたびにアメリ
カが占領した。脅威がうせれば捨てられた。それと同じパターンである。

ピーター・スギヤマはアメリカ軍兵士が汗まみれでブルドーザーを動かし、道路の舗装をはがし
ている光景を覚えている。「まるで日本人がここにはいなかった、何もなかった、と黒板消しで日
本の影を消し回っているようだった」と。実は、そういう日本の名残を消し去る作業はアジア各地
でも見られた。あの泰緬鉄道もそうだ。

全長四百キロ余り。1943年(昭和18年)春から日本軍と連合軍捕虜、それに現地の人たちが
従事して10カ月足らずでバンコクからミャンマーのモールメンまでが結ばれた。 しかし、戦後に
戻ってきたイギリス軍は日本軍捕虜を使ってその軌道敷を撤去させ始めた。 驚いたのはタイで
せっかく敷かれた鉄路を外すことはないだろうと抗議して、結局、タイ領内の50キロだけが残さ
れた。今、それは地元民の重要な足として重宝がられている。

地元の人たちには有用な舗装道路や鉄道を、彼らはなぜ取り払ったのだろうか。その答えは「ハ
ル・ノート」で知られるコーデル・ハルの言葉に集約されそうだ。 彼は終戦前年の秋、「日本は
敗れても、解放の戦士としてアジアに影響力を残すだろう」とルーズベルトに警告している。

その影響力を排除しないと「欧米のアジアの植民地支配は終わり、マッカーサーのいう『アメリカ
の未来はアジアとその周辺の島々(の支配)にかかっている』という夢も無駄になる」と。
296高山正之:02/03/19 17:31 ID:fdT8aWNm

日本の影響力を排除しよう、とはどんな歴史書にも書かれていない。書かれてはいないけれど、
その後の展開は十分それを裏付けている。 敗戦後、連合軍は国外にいた日本人すべてを引き
揚げさせた。アイルランドなど中立国にいた日本人まで引き揚げさせたのは明らかな国際法違
反だが、それでも強行している。

舗装をはがし、鉄路を取り払ったのも日本人がいたという証拠を消し去るためだったろう。彼ら
は、すべてを消し去ったあと、もっと積極的に日本の否定的イメージを植え込んだ。「日本は侵
略国家」だとか「残虐非道」だとか、聞き飽きた伝説だ。

泰緬鉄道では、そこで働かされたP・ブールが「クワイ川の橋」を書いてこの伝説を補強した。

ただ勢い余って、この続編に「猿の惑星」を書いたのはまずかった。日本人を「猿」に見立てたス
トーリーは、はしなくも白人こそ有色人種・日本人に勝るのだ、という本音をもらしてしまった。

韓国で、日本の総督府ビルが取り壊された。日本はこの国に総督府だけでなく、ダムも鉄道もつ
くった。おかげで「はげ山が消え、港も立派になった」(日韓交渉での久保田貫一郎政府代表の
発言)。 日本の遺産が気に食わないなら鉄道もダムも壊せばよかったと思うが、それは別にし
て、この総督府取り壊しには、欧米と同じ人種意識がある。 11日付の本紙「日中再考」に「中
華のために屍になろうとも、倭奴にはひざまずかず」の引用が示す「華夷弁別」意識である。

中国文化圏には、この序列が生きていて、中国がその中心にあり、序列2位に朝鮮とベトナム
3位に蒙古その他、その外側の日本はもはや化外の地なのだ。彼らは口でこそ言わないが、そ
ういう人種意識、弁別意識がすり込まれている。その善悪は別にして、彼らがどういう思考形態
を持っているかを知らなければ、日本は国際舞台でどんな交渉をしようとも勝ちはない。

297高山正之:02/03/19 17:37 ID:QK9TMqU4

高山正之の異見自在 先住民虐待史
さあ五輪だ、反省のポーズ  2000年09月16日
http://www.angel.ne.jp/~arrow/ikenjizai/0916.htm

コロンブスが西インド諸島に着き、バスコ・ダ・ガマが数年遅れで喜望峰を回って、「大航海時代
が幕を開けた」と白人の歴史書は書くが、有色人種にとってそれは受難の歴史の始まりだった。
西インド諸島と名付けられたカリブ海の島々で、最初の虐殺の場になったのはイスパニョーラ島
だった。300万人のインディオは黄金を求めるスペイン人に焼き殺されるか、金鉱で酷使される
かしてたった60年間で淘汰された。

ジャマイカには約100万人がいたが、「30年後には200人しか残っていなかった」とラス・カサ
スは「インディアスの壊滅についての簡潔な報告」に書いている。

虐殺を逃れた人々がキューバに渡り、そこの住民に危険を知らせた。彼らは金を奪うために人
を殺すと。それならと住民はすべての黄金を捨てたが、スペイン人は、やはり皆殺しだけはして
いった。 ある族長は供出した金の量が足りなかったために焼き殺されたが、その処刑前に宣教
師からキリスト教への改宗を迫られた。「改宗すれば天国にいく。そうでなければ地獄に落ちる」と。 族長は聞いた。

「あんたらキリスト教徒はどっちにいくんだ」
「われわれは天国に行く。正しい人はすべて天国に召される」
「それなら」 と族長は言った。
「キリスト教徒たちには二度と会いたくない。地獄にしてくれ」

スペイン人はメキシコでも同じことをした。あるとき、スペイン人が犬を連れて狩りにいったが、獲
物はなかった。「腹を減らした犬を不憫に思った彼はインディオの母が抱いていた赤ん坊を取り
上げて、その手足を切って犬に食べさせた」(ラス・カサス)

西インド諸島には1300万人のインディオがいたが、その全てが100年もたたないうちに絶滅
してしまい、代わりにアフリカから黒人が運び込まれた。白人は黄色人よりは黒人の方がいいと
考えていた。

この伝統は北米大陸にも引き継がれた。ただアメリカ人は合理的というか、まずインディアンを
全て虐殺してから黒人奴隷を入れるというスペイン方式は採らずに、それを同時並行で行った。

その結果、1863年、黒人奴隷の解放が宣言されたときもまだアメリカン・インディアンの虐殺は
終わっていなかった。 温和なシャイアン族の居留地を700人の騎兵隊が襲って150人の女子
供を虐殺したサンドクリークの虐殺はその翌年のできごとになる。シャイアンはそれから12年
間、戦い続け、カスター将軍をリトル・ビッグホーンで討つ。

298高山正之:02/03/19 17:43 ID:5tm4WAjE

同じ1863年、アルゼンチンでは「国家近代化作戦」が展開された。平たく言えば北部パラグア
イ国境付近と南部パタゴニアに住む「みっともないインディアス」の皆殺し作戦のことで、指揮官
は後にその功績で大統領に就任するロッカ将軍だった。

今のアルゼンチンにモレーナ(白人混血)やムラータ(黒人混血)はおろか、先住民もほとんど見
かけないのはこの徹底した民族浄化によるものだ。 そして最後の有色人種の淘汰はオーストラ
リアで行われた。

イギリスがこの地を犯罪者の流刑地としたのは18世紀だった。だからオーストラリア人に祖先を
聞くと、「ウチは1800年以降に入植した」という。祖先は囚人じゃないという意味である。

しかし、その入植者が流刑の囚人より悪質だった。ここにはディンゴ(犬)より凶暴な動物はいな
かった。だから飛べない鳥もいれば、コアラ、カモノハシなども生息できた。 アボリジニも似たよ
うに温和だった。入植した白人が土地を取りにそばにきても見て見ぬふりをした。要するに無防
備だった。それで片っ端から崖下に突き落とされ、撃ち殺された。 虐殺は20世紀に入っても続
けられ、「白人たちは週末ごとにアボリジニ狩りに出かけた。ニューサウスウェールズ州立図書
館に残された1928年の記録には、その日の獲物として『アボリジニ、17人』の記載があった」
(降籏学「残酷な楽園」)。

おかげで約300万人いたアボリジニは20万人に減った。政府は彼らがみっともないからと、今
はシットダウン・マネー(生活手当)をあてがい、遠い砂漠の居留地に封じ込めてきた。

いや、最後の有色人虐殺は「ヒロシマ」だという意見もあるが、それはともかく、今年に入ってコ
ネティカット州の新聞が「かつて黒人奴隷売買の広告を掲載」したことを1面で謝罪した。さらに
上院にはサンドクリークの虐殺を「アメリカ史の汚点として」記念碑を建立する法案が出された。

オーストラリアでは「企業は従業員の1%分、アボリジニを雇うよう」、つまり彼らを囲いから出し
て職を与えるというアメリカのアファーマティブ・アクションに似た政策を打ち出してきた。1%と
は、この国の人口に対するアボリジニの比率である。 一連の動きは、今回のシドニー五輪でア
ボリジニ問題が急浮上し、同じ“痛い腹”をかかえる国々が先手必勝、反省のポーズをとり始め
たためだといわれる。

これで彼らが神や正義を振り回さなくなれば、人類にとってこれ以上の福音はない。

299高山正之:02/03/19 18:24 ID:I+ZU474g

『猿の惑星』 ピエール・ブール/大久保輝臣訳
創元SF文庫 600円

ティム・バートン監督がピエール・ブールの不滅の傑作『猿の惑星』を再映画化
2001年7月28日、全国ロードショー公開

ヒトは万物の霊長ではない――原作小説『猿の惑星』とは

1963年、発表されるや世界中にセンセーションを巻き起こした問題作です。物語はまず、光子帆
船に乗って宇宙空間でのバカンスを楽しむカップルが、メッセージボトルを拾うシーンから始まり
ます。このボトルにはいっていた奇妙な手記が、『猿の惑星』のストーリーです。

手記の記述者はフランス人の新聞記者、ユリッス・メルー。西暦2500年、彼は科学者たち2人と
ともに、人類初の恒星間飛行に旅立ちました。彼らは、到着した先のベテルギウス星系で驚くべ
き光景を目のあたりにします。この星にも人間種族は存在したのです。

でもそれ以上にショッキングだったのは……この星の支配種族はなんと、喋り、武器を操る猿た
ちでした。しかも彼らは20世紀地球の人類社会そっくりの猿文化を築きあげているのです。そし
て、人間はといえば、知能も文化も持たない、猿たちに狩りたてられる動物でしかありません。

猿たちがなぜ人間よりも進化したのかというと、猿は2本の手だけでなく、両脚でも道具を持てる
し、指も人間より長いので遙かに複雑な作業ができるからだ、というのです。つまり、人間よりも
猿のほうが進化するのは自然の摂理なのだというわけです。

捕らえられた主人公は最初「変わった動物」としか見なされません。やがてチンパンジーの女性
科学者と言葉を通じさせるようになり、「特別な人間」として認められるのですが……。

さて、実はこの原作小説には、新旧の映画版とはまったく異なる、驚くべき二重仕掛けの結末が
用意されています。SFファンを自任する方はもとより、「猿」映画ファンの方々にも堪能していた
だけると思います。

『戦場にかける橋』の著者――原作者ピエール・ブールとは、1912年、フランス南部アヴィニヨン
生まれ。技術者としての教育を受けたのち東南アジアへ渡る。第二次大戦時には、現地でフラン
ス軍に従軍。日本軍の捕虜となった経験をもとに執筆した『戦場にかける橋』は、この『猿の惑
星』と並ぶ代表作で、その後映画化されました。1994年没。享年81歳。

SFの書籍としては他に、短編集『E=mc2』、『カナシマ博士の月の庭園』(別題『月への挑戦』)が
邦訳されています(現在はともに絶版)。

http://www.tsogen.co.jp/library/suisen_0108.html

300卵の名無しさん:02/03/19 18:59 ID:mRr0wMSY
外資のこと教えてください。
バイトしなくても生活できるくらいの給料はもらえるのでしょうか?
301卵の名無しさん:02/03/19 20:41 ID:rVvQ9BGK
>>282
>他に本社勤務の某氏、一族氏、役員氏等、こういう人材は
>なぜかとても豊富な会社です。

青森・○富士放火の某容疑者みたいに、自分を特定されないように、
いろんな可能性を言及しても、真実はひとつだろう。
302高山正之:02/03/19 21:13 ID:PG33RphT
>>301
もっと、まともな文章を書く練習をしましょうね、
中学から高校になると、覚える事も多くなるから
頑張るようにね。

応援してるからね、、、、、

303age:02/03/19 22:23 ID:fh/89XF6
age
304age:02/03/19 22:24 ID:fh/89XF6
よっこいしょ
305卵の名無しさん:02/03/19 22:59 ID:j9FYHZYc
>>302
そういうあんたも読点の使い方が独特
306age:02/03/19 23:08 ID:fh/89XF6
http://www.sawai.co.jp/generic/
ジェネリックっていうんだ ゾロっていうと聞こえわるいもんね
307:02/03/19 23:44 ID:ppVEGjQV
もっと、まともな文章を書く練習をしましょうね、
中学から高校になると、覚える事も多くなるから
頑張るようにね。

応援してるからね、、、
308高山正之:02/03/20 04:13 ID:bahdfVOK

■高山正之の異見自在 2001.03.23
消えた日本の遺産 かれらの“差別”意識を知れ

昨日に続いてパラオの話。ここは第一次大戦のあと、ドイツ領から日本の委任統治領になった。
その当時は「タロイモと魚が島民の主食だった」とパラオ共和国の上院議長だったピーター・ス
ギヤマはいう。 「日本がきてからその生活は大きく変わった」と続ける。

日本はコメを持ってきた。ナスやキュウリなど野菜に、サトウキビ、パイナップルも持ち込んだ。
そして雇用創出もした。マグロ缶詰工場やかつお節工場もつくり、島民に仕事を与えた。インフラ
も整備し、舗装道路を敷き、電気を供給し、電話も引いた。今、英語で話される日常会話に日本
語の「デンワ」が交じるのもそのころの名残だ。

しかし、その統治は30年と続かず、パラオは3度目の統治国、アメリカを迎えた。 彼らアメリカ
人はまず「すべての工場を破壊し、畑もつぶした。島々を結ぶ橋も壊し、道路の舗装まではがし
ていった」。

すべての破壊が終わった後、アメリカは島の人々にアメリカ米を支給し、働かなくてもいいように
生活保護費を出した。東西冷戦の中でこの島が東側に取られた場合を考えれば、数千の島民
にただ飯を食わせるぐらいは安いものだという考え方だ。

そして、冷戦が終わった今、島民への援助は間もなく打ち切られる。もうこの島を持っている意
味はなくなったからだ。カリブ海に浮かぶハイチはナチやソ連の進出が懸念されるたびにアメリ
カが占領した。脅威がうせれば捨てられた。それと同じパターンである。

ピーター・スギヤマはアメリカ軍兵士が汗まみれでブルドーザーを動かし、道路の舗装をはがし
ている光景を覚えている。「まるで日本人がここにはいなかった、何もなかった、と黒板消しで日
本の影を消し回っているようだった」と。実は、そういう日本の名残を消し去る作業はアジア各地
でも見られた。あの泰緬鉄道もそうだ。

全長四百キロ余り。1943年(昭和18年)春から日本軍と連合軍捕虜、それに現地の人たちが
従事して10カ月足らずでバンコクからミャンマーのモールメンまでが結ばれた。 しかし、戦後に
戻ってきたイギリス軍は日本軍捕虜を使ってその軌道敷を撤去させ始めた。 驚いたのはタイ
で、せっかく敷かれた鉄路を外すことはないだろうと抗議して、結局、タイ領内の50キロだけが
残された。今、それは地元民の重要な足として重宝がられている。

地元の人たちには有用な舗装道路や鉄道を、彼らはなぜ取り払ったのだろうか。その答えは「ハ
ル・ノート」で知られるコーデル・ハルの言葉に集約されそうだ。

コーデル・ハルは終戦前年の秋、「日本は敗れても、解放の戦士としてアジアに影響力を残すだ
ろう」とルーズベルトに警告している。 その影響力を排除しないと「欧米のアジアの植民地支配
は終わり、マッカーサーのいう『米国の未来はアジアとその周辺の島々(の支配)にかかってい
る』という夢も無駄になる」と。

309高山正之:02/03/20 04:14 ID:bahdfVOK

そうか、じゃあ日本の影響力を排除しよう、とはどんな歴史書にも書かれていない。書かれては
いないけれど、その後の展開は十分それを裏付けている。敗戦後、連合軍は国外にいた日本人
すべてを引き揚げさせた。アイルランドなど中立国にいた日本人まで引き揚げさせたのは明らか
な国際法違反だが、それでも強行している。

舗装をはがし、鉄路を取り払ったのも日本人がいたという証拠を消し去るためだったろう。 彼ら
は、すべてを消し去ったあと、もっと積極的に日本の否定的イメージを植え込んだ。「日本は侵
略国家」だとか「残虐非道」だとか、聞き飽きた伝説だ。

泰緬鉄道では、そこで働かされたP・ブールが「クワイ川の橋(戦場に架ける橋)」を書いてこの
伝説を補強した。 ただ、勢い余って続編に「猿の惑星」を書いたのはまずかった。日本人を猿に
見立てたストーリーは、はしなくも白人こそ有色人種・日本人に勝るのだ、という本音をもらして
しまった。

310高山正之:02/03/20 04:19 ID:wnklk6eD

韓国で日本の総督府ビルが取り壊された。日本はこの国(韓国)に総督府だけでなく、ダムも鉄
道も作った。おかげで「はげ山が消え、港も立派になった」(日韓交渉での久保田貫一郎政府代
表の発言)。日本の遺産が気に食わないなら鉄道もダムも壊せばよかったと思うが、それは別に
して、この総督府取り壊しには、欧米と同じ人種意識がある。

11日付の本紙「日中再考」に「中華のために屍になろうとも、倭奴にはひざまずかず」の引用が
示す「華夷弁別」意識である。中国文化圏には、この序列が生きていて、中国がその中心にあ
り、序列2位に朝鮮とベトナム、3位に蒙古その他、その外側の日本はもはや化外の地なのだ。

彼らは口でこそ言わないが、そういう人種意識、弁別意識がすり込まれている。 その善悪は別
にして、彼らがどういう思考形態を持っているかを知らなければ、日本は国際舞台でどんな交渉
をしようとも勝ちはない。

311産経新聞:02/03/20 04:39 ID:bGOta4B/

▼テロ対策協力前 産経新聞 2001.07.31

■対日賠償放棄の意見書提出、予算面で“封じ込め” 
強制労働訴訟、米下院法案可決 控訴審に影響も

【ワシントン30日=西田令一】第二次大戦中に強制労働させられたとして、米国など連合国の軍
人たちが日本企業を相手取って起こしている損害賠償請求訴訟の控訴審にからみ、国務、司法
両省の意見書提出などを事実上不可能にする修正条項を盛り込んだ歳出法案が米下院で圧倒
的多数の賛成により可決されていたことが三十日までに分かった。賠償の請求権はサンフラン
シスコ講和条約で放棄されたと明快に断じた国務省の意見書は、昨年の一審での請求却下決
定の決め手となった。上院でも同様の修正条項入りの歳出法案が可決、成立すれば、控訴審に
重大な影響も出る可能性もあり、ワシントンの日本大使館では成立阻止に躍起となっている。

2002会計年度における両省などの歳出を定めた法案に、訴訟現地のカリフォルニア州内の選
挙区選出のローラバッカー下院議員(共和党)が修正条項を提案したのは7月18日で、同日中
に408対19の圧倒的多数の賛成で可決された。

修正条項は「司法省もしくは国務省はこの法律で得られる資金を(対日賠償請求訴訟に)反対す
る意見陳述を行うために一切使用してはならない」としている。上院でもボブ・スミス議員(共和
党)が同様の修正条項を提案するとし、歳出法案はこの修正を含め夏季休会開けの九月初めに
審議される公算が大きい。上院でも可決された場合は法案が成立、同会計年度の今年十月か
ら来年九月までの一年間両省は意見書提出などの動きを封じられてしまう。

連合国の元軍人たちによる損害賠償請求訴訟は昨2000年12月までにサンフランシスコ連邦
地裁ですべて却下され、原告らはこれを不服として連邦高裁に控訴しており、控訴審開始はこ
れからだ。

一審での国務省の意見書は(1)請求権の放棄を明記したサンフランシスコ講和条約はアメリカ
上院で審議され批准を承認された(2)没収した日本の在外資産も使ってこれら元軍人たちへの
補償も行われた−などと指摘、「非常に重要な役割を果たした」(日米関係筋)という。

両議員らは今春以降、裁判所は請求権問題を解釈してはならないとする法案を、それぞれ、上
下両院に提出したものの、審議入りの動きはみえておらず、今度は、予算面から両省の手足を
縛る“奇襲戦法”に出たようだ。

Copyright 2001 The Sankei Shimbun. All rights reserved.


312産経新聞:02/03/20 04:40 ID:bGOta4B/
▼テロ対策協力後 産経新聞 2001.11.21

■ 元捕虜の対日訴訟支援 法案可決後に抹消
米議会 日本の対テロ協力に配慮

【ワシントン20日=古森義久】第二次大戦中の元米兵捕虜が日本側に損害賠償を求める訴訟に
対して米国議会は元捕虜の訴えを支援する特別の法案を上下両院で可決していたが、審議の
最終段階の両院協議会でこの法案を抹消したことが二十日、明らかとなった。この措置は日本
が米国の対国際テロ軍事行動に協力していることに配慮した異例の動きだという。

同法案は二〇〇二年度の連邦政府歳出法案の修正条項で、第二次大戦で日本の捕虜として労
働を強制されていた米国人数人が日本の大手企業を相手どった損害賠償請求の訴訟に関連し
て、米の国務省、司法省、商務省が意見陳述のために政府資金を使うことを禁じていた。

米国政府はこの種の損害賠償はサンフランシスコ講和条約で解決ずみという立場をとっている
が、米国議会では元捕虜の主張に同調して、政府機関の介入を資金面から抑える目的でこの
修正条項法案を出し、九月には上下両院の本会議で可決していた。

同法案はその後、大統領に送られ、法律となる前に議会両院協議会で最終審議されたが、11
月中旬のこの審議で同修正条項自体を抹消するという異例の措置がとられた。議会がこうした
措置をとったのは、日本がテロ対策で米国に協力しているときにこの種の対応は好ましくないと
するブッシュ政権の説得に同調したためとみられている。

Copyright 2001 The Sankei Shimbun. All rights reserved.

313高山正之:02/03/20 05:26 ID:P3zn61Oi

■ 太平洋序曲 日露戦争−1

列強は領土拡大に走った  

20世紀は1901年から始まるが、この年の世界地図を見ると、ごくシンプルである。アフリカは
イギリス、フランス、ドイツ、ベルギーがそれぞれ分割支配しているし、アジアもイギリス、フラン
ス、アメリカ、オランダが大半を分割、植民地化していて、色鉛筆を使えば数本で色分けできる。

イギリス色に塗られていた南アジア一帯は今では、インド、パキスタン、バングラデシュ、ブータ
ン、ミャンマー(ビルマ)、スリランカと6つの独立国家になっている。

ほぼ100年を経た20世紀末の現在、この1901年の列強の帝国主義的世界分割とほぼ符合
する地図がある。パル、セカム、NTSCというテレビ受像システムのタイプで色分けした地図で
ある。独立はしていても、宗主国とのしがらみがこんなところに残っている。ちなみに日本はアメ
リカと同じNTSCで何となく暗示的である。

<点を入手> さて、太平洋。この年にイギリス連邦の中で独立したオーストラリアを除き、メラ
ネシア、ポリネシア、ミクロネシア、マリアナ諸島などの島々の99%をイギリス、フランス、ドイ
ツ、アメリカの4カ国が分割統治(トンガ、サモア条約)していた。残り1%はかつてペリーがアメリ
カ領有を宣言し、後にイギリス国の口利きで日本に返されたボニン島(小笠原諸島)である。

この中で、最も太平洋支配に積極的だったのがアメリカで、ハワイを併合したほか、米西戦争で
スペインからフィリピンを2千万ドルという安値で買い取った。また、北米大陸から東南アジアへ
の大圏航路に当たるキスカ、アッツなどアリューシャン列島も手中に収めていた。

「太平洋は近い将来、世界のひのき舞台になるだろう」という言葉は1867年、アメリカがロシア
からアラスカを720万ドルで買い取った際のウィリアム・シェアードアメリカ国務長官の言葉だ
が、アメリカはまさにその舞台の主要な「点」を今世紀の入り口で既に入手していたことになる。

ヨーロッパの列強はこのころ、太平洋の戦略構想よりも、目の前の利権、中国(清朝)に目をつけ
ていた。中国はずっと「眠れる獅子」と恐れられ、インド、ビルマをまるで赤子の手をひねるように
取り込んできたイギリスでさえ、中国とことを構えるのをためらい、アヘン戦争に勝った代償も
「香港島割譲」ぐらいで満足していた。しかし、その眠れる獅子が日清戦争(1895年)であっさり
負けて、獅子でないことが世界にさらされ、「中国はイギリス、フランス、ドイツなどに切り分けら
れる運命」(グリシャムアメリカ国務長官)にあった。

<割譲に動く>  この動きに拍車をかけたのが、世紀末に始まった義和団の乱だった。山東
半島に挙兵したこの宗教団体は外国人排撃をうたい、破竹の勢いで北京を目指した。列強にさ
んざん食い物にされ、今はただまな板に乗って切り刻まれるのを待つだけの清朝は義和団の勢
いを見て最後のかけに出た。

314高山正之:02/03/20 05:33 ID:SsDAw38b

彼らに呼応して列強に宣戦布告し、北京の外国公館を包囲するいわゆる北清事変を自ら演じた
のである。映画「北京の55日」に描かれた騒動だが、最終的には派遣された日本を含む8カ国
連合軍が清朝軍を破り、列強はいよいよ中国分割に着手した。

このとき、ロシアだけは妙に清朝に同情的で、中国分割をねらう列強の足並みを乱していた。そ
のなぞは二十世紀に入って3日目、つまり1901年1月3日付のイギリス・タイムズ紙の記事が
明らかにした。

「ロシアと清が満州割譲の秘密協定に調印」の見出しで、北京駐在の特派員ジョージ・モリソン
は「満州南部の盛京省をロシアが軍事占領下におく協定がロシア清国間に結ばれた。協定は皇
帝、ニコライ二世の異母兄弟に当たるロシア海軍提督アレクセイエフ、清国奉天将軍増稘のそ
れぞれの代理人によって調印された。これにより、満州は事実上、ロシアの保護領となる」と報
じた。 ロシアは列強の中国分割に歯止めをかける代わりに、満州の租借をご苦労賃としてもら
い受けたというのである。

この満州割譲を受け、ロシアはさらに朝鮮半島も勢力下に置き、馬山浦租借の意向も明らかに
した。馬山浦は釜山の西に展開する良港である。この湾はそれから5年後、ロシアのバルチック
艦隊を迎え撃つ東郷平八郎以下の連合艦隊が日本海海戦を前にじっと待機し、奇跡的といわ
れた正確な艦砲射撃の訓練を行った場所でもある。

<海への情熱> 皇帝の異母兄弟アレクセイエフまで投入した馬山浦獲得の背景には18世紀
のエカテリーナU世以来のロシアの悲願「熱い海へ」の情熱があった。ロシアはトルコと戦って
黒海から地中海への出口を探ったが、果たせず、次にイランをねらったが、イギリスがその野望
を砕いた。

アフガンを落として、パキスタンからインド洋に出ることも試みた。これが19世紀の100年間を
通して展開されたいわゆる「グレート・ゲーム」だが、これもイギリス国とアフガン部族に阻まれて
果たせなかった。ロシアは南をあきらめて東に進み、シベリアを経てやっと太平洋に至った。ウラ
ジオストク港はしかし、冬季3カ月は氷に閉ざされていた。

200年間、探し求めた「熱い海」がやっと手に届くところまできた。それが馬山浦に対するロシア
皇帝の思いだった。結果からいえば、これも日露戦争で阻まれ、「熱い海へ」の思いは20世紀後半のイラン・イラク戦争へのソ連介入、アフガン紛争へと引き継がれていく。

1988年、アフガン撤退を決めたソ連のゴルバチョフ書記長は「インド洋を求めたのではない」と
語った。それが本音だったかどうかはともかく、ロシア人の熱い海へのあこがれは3世紀近い年
季が入っているのだ。

315高山正之:02/03/20 05:40 ID:1+J6SrM7

豆事典

▽トンガ、サモア条約  トンガは1876年、ドイツと友好条約を締結。同様の条約を79年にイギリ
ス、88年にはアメリカとも結んだ。99年にドイツがサモア諸島の領有と引き換えにトンガを放棄
し、1900年にはトンガが表面上は独立を保ちながら、イギリスの保護領であることを宣言した。
サモアは1877年にドイツ、78年にアメリカ、80年にはイギリスと友好条約を締結した。さらにアメリカ、イギリス、ドイツ3国がそれぞれ推す3人の首長が王位をめぐって争い、89年にベルリンで開
かれた会議で事実上、3国の保護領となった。そして99年の再度の会議の結果、西経171度線
を境に東サモアはアメリカ領、西サモアはドイツ領となり、イギリスはドイツ領有のトンガ、ソロモ
ン諸島の一部を所有、列強の太平洋分割がほぼ確定した。

▽大圏航路  地球の大円(大圏)にそった航空機や船舶の航路で、出発点から目的地への最
短距離となる。

▽日清戦争(1894−95年)  朝鮮半島への進出政策をとる日本と、朝鮮に対し宗主権を主張す
る清が対立。1894年春の甲午農民戦争(東学党の乱)を機に両国が出兵した。日本軍は94年7
月、朝鮮半島近海の豊島(ほうとう)沖で清兵を輸送中のイギリス船籍の商船とその護衛艦を攻
撃し、8月1日に宣戦布告。大連、平壌、黄海などで清国軍を破り、95年4月に下関で講和条約
を締結した。条約では朝鮮の独立を承認し、清は遼東半島、台湾などを日本に割譲することに
なったが、ロシア、ドイツ、フランスが武力を背景に日本に遼東半島の還付を勧告、日本はこの
三国干渉に屈した。この結果、日本国内には不満が高まり、政府は批判をかわすため、「臥薪
嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンにして軍備拡張策を取った。

▽エカテリーナ2世(1729−96年) 18世紀ロシアの女帝。ピョートル3世の妃で、夫を殺害して
1762年に帝位についた。啓もう専制君主を自認し、プガチョフの乱(1773−75年)を鎮圧、農奴制
を拡大して専制を強化した。対外的には露土戦争やポーランド分割により領土を広げた。

316高山正之:02/03/20 05:55 ID:SrVTWHwL
■ 太平洋序曲 日露戦争−2

ロシア皇帝は東を目指した  

ハワイをアメリカが併合しようとしていたとき、東郷平八郎がのこのこ出掛けていったのは、考え
てみれば随分、むちゃな行為だった。まだ日清戦争にも勝っていない東洋の小国である。アメリカ側に引け目がなければ、巡洋艦「浪速」などひとひねりだし、下手したら100年早い日米戦争
が起きていたかもしれない。だからこそハワイ人が感激して彼の名を長く記憶しているのもうな
ずける。

《提督の肩書》 実はこれに似た騒ぎが同じころ、日本でも起きた。親善訪問中のロシア皇太
子に巡査が切りつけ、負傷させるという1891年(明治24年)の大津事件である。日本政府は縮
み上がって裁判所に極刑にするよう圧力をかけた。犯人の巡査の首を差し出して精いっぱいの
誠意を示さなければ、超大国ロシアが戦争を仕掛けてくる。ヒヨコのような日本が消滅する可能
性だってあるというわけだ。

時の大審院長、現代風にいえば最高裁長官の児島惟謙は首を振った。彼は法治国家の要であ
る罪刑法定主義を貫いて死刑適用を拒否した。それが戦争原因になったとしても大義は通す。
司馬遼太郎のいうこれが明治人のふつふつとした気概だったのだろう。

さて、この切られた皇太子はその3年後、ロシア帝国皇帝に即位する。これが太平洋への出口
を確保し、「太平洋提督」を夢見るニコライ二世である。 もっとも、ロシアをして太平洋に目をむ
かせ、太平洋提督というニコライ二世が泣いて喜んだ肩書を作り上げたのは彼と親交の深いド
イツ皇帝ウイルヘルム二世だったと、アルゼンチン・サルバドール大学の、P・ファルコニ教授(近
代史)は指摘する。

ウイルヘルム二世は当時、大西洋の霸者をねらっていた。そのかわり「ロシアは太平洋に出たら
いい、太平洋ではまだ新参者のアメリカがいるだけだ」と、ニコライ二世の目を極力アジアに向
けさせるよう働きかけていた。

《異常な執着》 1895年、日清戦争でそのロシアが足掛かりにするつもりだった遼東半島が
日本に取られそうになると、ドイツはロシア、フランスに働きかけて例の三国干渉が行われる。

日本に遼東半島を諦めさせると、ウイルヘルム二世は早速、ニコライ二世に親書を送っている。
「ヨーロッパの利権を日本から守るために、ロシアが音頭を取った共同活動がうまくいったことに
感謝する。私はロシアが清朝領土(満州)の保有を成し遂げることに喜んで協力する。だからドイ
ツが清国のどこか、ロシアに差し障りのない港を獲得できるよう手助けしてもらいたい」(ウッドハ
ウス・瑛子「日露戦争を演出した男」) そして一九〇二年、エストニアのリバウ港で行われたロシ
ア・ドイツ合同海上軍事演習ではニコライ二世を初めて「太平洋提督」の称号で呼んだ。

この前後から、ニコライ二世は太平洋に異常な執着を見せ始め、ウィッテの回顧録にも「皇帝が
1902年とその翌年、旅順にいたアレクセイエフ海軍提督に送った親書には太平洋の主導権を
握りたいという希望が露骨に表れていた」と書かれている。
317高山正之:02/03/20 06:02 ID:7ih3GF+7

ウイルヘルム二世はさらにあおった。「ウラジオストクと旅順の間に朝鮮半島がある。これが敵
の手にわたれば、新しいダーダネルス海峡になる。朝鮮は当然、ロシアのもので、また、そうな
るはずだ」、1901年、露清秘密条約で満州を手中に収めたロシアはこの親書が交換されてい
るころ、次のステップを取っていた。朝鮮半島を下り、李王朝に「太平洋への出口」馬山浦の租
借を求めていたのだ。

ただ、「アルジアーナ」が騒いでいた。アルジアーナは猿という意味で、皇帝は日本をそう呼んで
いた。日本は朝鮮半島を下ってくるロシア軍にはっきり脅威を感じていた。

《日英が握手》 ロシアの南下によって自国のもつアジアの利権が脅かされることを直感してい
た国がもうひとつあった。イギリスである。ロシアに脅威を感じてはいたものの、イギリス自身は
南アフリカのボーア戦争で国力を消耗し尽くしていた。

1902年、ロシアの太平洋進出を恐れる日本とイギリスが手を結び、日英同盟が成立した。ただ
し、この同盟は相手国がどこかと戦争を開始しても自動的参戦義務のない、いわゆる防御同盟
と呼ばれるものだった。以下、骨子を示すと−。

(1)日本とイギリスは、清国と韓国の独立を承認するが、もし、他国が両国に対して侵略行為を
  行った場合、必要な措置をとる。
(2)日本、またはイギリスが他国と戦端を開いた場合、一方の同盟国は厳正中立を保ち、同時に
  第三国が交戦に加わるのを防ぐ。
(3)もし、第三国が交戦に加わったときは同盟国は共同して参戦する。

つまり、日本とロシアが戦争状態に入った場合、イギリスは中立を保つ。しかし、フランスがロシ
アに武器供与など、交戦に関与する行為を行った場合、イギリスはロシア、フランス両国に宣戦
布告して参戦することになる。

いわば、一対一の決闘を保証する同盟で、仁侠映画でいう「野郎ども、手え出すんじゃねえ」と
いったたぐいの拘束力でしかない。 これに対して相手国が戦争に巻き込まれれば、自動的に同
盟国が参戦する強制力をもつのが攻守同盟で、中国の合従連衡などがこれに当たる。

ちなみに日米安保条約は変則片務的攻守同盟で、日本が攻められたとき、アメリカは自動的に
参戦するが、アメリカが戦端を開いた場合、日本には参戦義務はない。ついでに言えば、最近
やかましくいわれる「集団的自衛権の行使」は、アメリカが日本近辺で戦争状態に入った場合に
限って、この片務同盟を少し補完し、アメリカに同盟国として協力態勢は取れないものだろうか、
といった論議である。
318高山正之:02/03/20 06:09 ID:xDQuq1CZ
■ 豆事典

☆大津事件  1891年5月11日、ウラジオストクのシベリア鉄道起工式に出席する途中、日本を
訪れたロシア皇太子ニコライが滋賀県大津町(現大津市)で、警備にあたっていた滋賀県警巡
査、津田三蔵に切りつけられ、頭部に負傷した事件。皇太子は日程を打ち切って同月19日に離
日、日本側は政府が配置した警察官が国賓の殺害を企てる事件を起こすという大失態にパニッ
ク状態となった。日本政府はニコライ皇太子来日前、同皇太子への不敬の行動には厳罰で臨む
との緊急勅令を交付するよう求めていたロシア公使に対し、緊急勅令のかわりに皇族に関する
刑法規定を準用することを約束していたため、成立したばかりの松方正義内閣は津田三蔵の裁
判でも苦しい立場に追い込まれた。

☆児島惟謙 (こじま・いけん=1837−1908年) 伊予(愛媛県)宇和島出身の明治時代を代表す
る裁判官。1891年に大審院長に就任。大津事件では、政府から皇族に関する刑法規定を準用し
て犯人の津田三蔵を死刑とするよう要請があったのに対し、外国皇族に関する規定がない以
上、通常の謀殺未遂罪を適用すべきだと主張して担当裁判官を説得した。この結果、津田三蔵
は無期刑の判決を受けた。大審院長就任の翌92年、大審院判事の花札とばく事件の責任をとっ
て辞任。後に貴族院議員となる。

☆ダーダネルス海峡  トルコ北西部のエーゲ海とマルマラ海を結ぶ海峡。ヨーロッパと小アジ
アとを分ける位置にあり、ロシアにとっては黒海とマルマラ海を結ぶ同じトルコのボスポラス海峡
と並んで地中海への出口として重要な意味を持っていたが、トルコに抑えられ、長く南下の意図
を果たせずにいた。

319高山正之:02/03/20 06:17 ID:l2qEwnl0

■ 太平洋序曲 日露戦争−3

新鋭艦は開戦直前に届いた

アルゼンチンは日本からみると地球のちょうど反対側になる。 「おいしい空気」という意味の首
都ブエノスアイレス。「ここから垂直に穴を掘ると大阪に出ます」とプラサ・デ・マーヨ(5月広場)近
くの弁護士事務所で65歳になるホラシオ・ドメク氏はいう。それほど日本は身近な国という意味
合いが込められている。

その言葉を裏付けるように、例えば海岸通りにある海軍博物館には世界でたったひとつ残され
た戦艦「大和」の46センチ主砲砲弾が陳列され、日本海海戦に参加した巡洋艦「日進」の精巧
な模型もある。

アルゼンチンは結構、戦争を経験していて、アンデスの山向こう、チリとも戦い、それも山が高す
ぎるため、お互い海に出て海戦を演じてきた。最近ではマルビナス(フォークランド)諸島を巡って
イギリスとも戦っている

海軍博物館にはそういういわれのある軍艦の模型が陳列されているが、中でも群を抜いて大き
く、一番目立つところに置かれているのが「日進」なのだ。隣には旭日旗の掲げられた東郷提督
のコーナーもある。海軍博物館だけでなく、中学の教科書にも「2ページ以上にわたって日露戦
争のことが書かれていて、この戦争の意義を教えられた」とドメク弁護士はいう。

《ゆかりの地》 地球の裏側でなぜ「日露戦争」なのか。「20世紀を変えた事件という歴史的
事実もある。それに日進、春日がもとはわが国の船だった因縁もあるし、その世紀の海戦をアル
ゼンチン武官、つまり、わたしの祖父マニエル・ドメク・ガルシアが観戦していたことも大いに影
響したでしょう」とドメク氏は語る。ガルシア中佐の観戦記は海軍国家、アルゼンチンの士官学
校の教科書にもなり「この国のリーダーでトーゴーの名を知らない者はいなかった」とさえいう。

7千トン級巡洋艦「春日」、「日進」はアルゼンチンが対チリ戦のために発注し、1903年暮れに
イタリア・ジェノアの造船所で完成した。しかし、この間にアルゼンチンとチリの和平が成立した
ため、アルゼンチンでは不要になり、ロシア開戦に備えていた日本がこの新鋭戦艦を買ったわ
けである。

《多くの障害》 ロシアは当時、旅順港に戦艦7、巡洋艦11隻を主力とする太平洋艦隊を保有
していたし、加えてバルト海には戦艦8、巡洋艦8、駆逐艦9、その他28隻からなるバルチック
艦隊が控えていた。さらに首都サンクトペテルブルクの北には、1万トン級の戦艦を建造できる
クロンシュタット海軍工廠を擁していた。

日本は戦艦4、巡洋艦21隻が主力で、しかも国内には大型艦の建造施設はなかった。イギリ
ス、ドイツの造船所に発注するにしても建造に平均3年はかかる。あとは他国の海軍から買いあ
げるしか手はないが、ここで日英同盟が足かせになる。 これは1対1の決闘を保障する同盟で
あり、日露が戦争を始めれば他国は一切、手出しができない。

320高山正之:02/03/20 06:22 ID:wm5A/BTL
**営業所の所長さん。ご苦労さんです。
社命とはいえ早起きは大変だね。
でも、頭を使わない社命だから楽だね。
321高山正之:02/03/20 06:22 ID:C9su7Gpi

日本が海軍補強のためにどこかの国から戦艦を買えば、それはロシアに対する敵対行動と見な
され、ロシアはその国に宣戦布告できる。逆に、どこかの国がロシアに船を売れば、日英同盟に
よってイギリスが日本のためにその国をたたくことになる。

世界一の海軍国(イギリス国)や陸軍国(ロシア)を相手にだれも戦争はしたくないから、どの国も
船は売らなくなる。つまり、日本は開戦時の手持ちの船がすべてであり、ロシアは海軍工廠をフ
ル回転させれば補充がきくという構図だった。

春日、日進は1904年1月中旬、イタリアを出て日本に向かった。日本政府は2月6日、ロシアと
の国交を断絶。その2日後の8日、ロシア太平洋艦隊の拠点、旅順港に小型水雷艇による夜襲
をかけ、戦艦レトビザンなどに損害を与えた。アルゼンチンゆかりの新鋭艦2隻はシンガポール
を過ぎた辺りで開戦の報を受けた。日本にとって開戦前に手に入る軍艦があったことが、いかに
ありがたかったかがわかる。文字通り、ぎりぎりで間に合った2隻の新鋭艦は、東郷司令長官直
属の第一艦隊に配属された。

日本政府は旅順港攻撃の2日後の2月10日、ロシアに宣戦布告をしている。太平洋戦争での
真珠湾攻撃は外務省の怠慢でアメリカ国への宣戦布告の伝達が遅れ、アメリカ国政府は「最も
破廉恥な」と最大限の言葉で非難した。

日露戦争でも宣戦布告は2日間も遅れており、ロシア政府は怒って、「日本はロシアの不意に乗
じて詐術をもって勝利を得た。日本の行為は国際法違反の不法行為である」との政府見解を出
している。 しかし、イギリスのタイムズ紙は「日本の行為は国際法違反どころか、近代戦の多く
の先例にならうものだ。ロシア側の虚を迅速についた日本は機敏で勇敢な行為により、世界最
高のイギリス海軍と同等の地位を獲得した。大いに称賛すべきである」と論評した。

《堂々の反論》 大いに称賛されるべきだったかどうかはともかく、日英同盟という立場を割り
引いても、近代戦における奇襲は戦法としてごくポピュラーであり、決して「最も破廉恥」な行為
ではなかったようだ。

メルボルン大のG・ブレイニー教授も「驚くべきことは近代戦がすべて宣戦布告してから開始され
たという誤った考えが広まっていることだ。1700年以来の証拠によると、むしろ宣戦布告をして戦
争状態に入る方が異常だと分かる。真珠湾奇襲攻撃はれっきとした国際的伝統に基づくもので
ある」という。

ロシア皇帝の非難に対して、日本の小村寿太郎外相は「日本政府はこの非難に公然と弁明する
だけの価値を認めない」と堂々の反論を行った。日本の再三にわたる抗議にもかかわらず、撤
兵もしないで戦争準備を進めていたのだから、攻められて当たり前、と言い張っている。

第二次大戦ではこういう開き直りはなく、一方的に非を鳴らされたままだった。ここにも日本の変
質がうかがわれるが、これは後の章で書く。

322高山正之:02/03/20 06:23 ID:C9su7Gpi

■豆事典

☆フォークランド戦争 アルゼンチンの大陸部から500キロの南大西洋上にあるフォークランド
(アルゼンチン名マルビナス)諸島の領有権をめぐるアルゼンチンとイギリスの戦争。1982年4
月、アルゼンチンが領有権を主張して軍事占領したのに対し、イギリスのサッチャー政権は大機
動部隊を派遣。開戦1カ月後にアメリカがイギリスを支援したこともあって、アルゼンチンは2カ
月で降伏した。アメリカは米州相互援助条約に違反したとして中南米諸国から強く非難された。
アルゼンチンの敗戦は軍部の権威失墜を決定的にし、民政移管を早める結果となった。アルゼ
ンチン、イギリス両国は89年10月、敵対関係終結を宣言、90年2月には国交を回復した。アルゼ
ンチンは94年8月の憲法改正で同諸島の主権を明文化し、両国の主張は依然、対立したまま問
題は棚上げのかたちになっている。

☆旅順港 中国・遼東半島南端にある良港。旅順は山東地方から遼東地方にいくとき、必ず通
る場所の意味でその名がつけられた。清代に軍港となり、のちロシアが租借。日露戦争では激
戦地となった。

☆小村寿太郎(1855−1911年) 明治期の日本の外交を代表する人物で、極東における日本の
勢力圏拡大のために現実的外交路線を展開した。外務次官、駐アメリカ、駐露、駐清公使など
を経て1901年(明治34年)、第1次桂内閣で外相に就任。翌年、日英同盟を締結し、1905年(明治
38年)には日露戦争のポーツマス講和会議に臨んだ。第2次桂内閣でも外相となり、1910年には
韓国併合を実施。また、列強との条約を改正して関税自主権を確立した。

323高山正之:02/03/20 06:31 ID:ZQut5i33

■ 太平洋序曲 日露戦争−4

観戦武官は地球の裏側からも来た

4年前(1993年)にアメリカ陸軍戦史センターのスタッフが来日し、日露戦争に参加したアメリカ
観戦武官の観察記録や当時の雰囲気を伝える報告書が初めて日本に披露された。

観戦記録は、日本軍の作戦行動をさげすみを交えて批判することに終始しており、何となし現在
のニューズウィーク誌のような印象で、成果といえば、後の太平洋戦争前にアメリカ大統領以下
に「日本人は白人より2千年遅れた知能」とか「白人の脳みそは灰白色だが、日本人のは、ただ
の白」といった愚にもつかない理論を信じこませる根拠になったぐらいだといわれる。

報告書の方は少しはましで、例えば日露戦争の幕開けとなった1904年2月8日の旅順港奇襲
から数時間のうちにヨーロッパ各国を中心に世界12カ国から観戦武官の申し込みがあったとの
記述があり、世界的な関心の高さを示している。

この12カ国のうちイギリスは17人を送り、次いでこの戦争の勝者と太平洋の覇権を争うことを
予想したアメリカが12人を送り込んでいる。この(アメリカの観戦武官の)中には後に日本占領
を果たすダグラス・マッカーサーの父アーサー・マッカーサー大将も特別オブザーバーとして加
わっており、少尉だったダグラスを伴って「太平洋での最大の仮想敵」となる日本をはじめ極東
地区を1年余の間、視察に歩いている。

《ピアノまで》 アルゼンチンからの参加はドメク・ガルシア中佐ただ1人だった。中佐は「戦艦モ
レノに乗った」と孫のホラシオ・ドメク氏に語っている。「モレノ」とは「日進」のアルゼンチンでの
名前で、同じく「春日」は「リバダビア」といった。両艦はイタリアの造船所で、アルゼンチン仕様
の艤装(ぎそう)が終わったあとに日本に買い取られた経緯は触れた。

だから「春日」の士官室には日本海軍には不似合いなピアノも置かれていて、そのまま黄海海
戦、日本海海戦を経験した。このピアノは後にアルゼンチンに寄贈され、現在も海軍博物館に展
示されている。

《細かな配慮》 日露戦争には12カ国49人もの観戦武官が日本側に送り込まれたが、その多
くは陸軍で、日本海軍の船に乗り込んだことが確認されているのは「日進」のガルシア中佐と戦
艦「朝日」のイギリス武官ペケナム大佐の2人しかいない。

「朝日」は東郷司令長官の「三笠」を旗艦とする第一艦隊の5番艦、「日進」は6番目の殿艦(しん
がり)を務めていた。2人の武官は文字通り最前線で1904年8月の黄海海戦と翌五年の日本
海海戦を詳細に観察した。ペケナムは近代化された装甲戦艦同士の砲撃、装甲などを冷静に
分析し、この調査をもとにイギリスのJ・フィッシャー海相は戦艦「ドレッドノート」の建造を命じた。

いわゆる「弩級戦艦」で、20ノット以上の艦速と大口径主砲に重点を置いた高速、高破壊力戦
艦だった。第一次大戦以降はさらに大型化、大口径化が進み、超弩級の時代に入る。

324高山正之:02/03/20 06:36 ID:AUPYbpYx

ガルシアは艦内生活も細かに観察した。とくに孫に再三語ったのは末端の水兵にまで気配りの
行き届いた日本海軍の配慮だった。「海戦が近づくと兵士たちは艦の隅々まで清潔に洗い、消
毒薬の入った溶液で煮沸した清潔なフランネルの下着に着替えた。負傷した場合、傷口からば
い菌が入らないための配慮だ。他国の海軍では絶対に見られない光景だった」と大いに感嘆し
ている。

《唯一の頼み》 「シャンハイ」という英語の動詞がある。波止場町で男を酔わせるなりして出港
する船に売り払うといった意味で、かつて上海で横行したのが語源である。それほど船員の待
遇は悪かった。海軍も同様で「ここは堕落した者、ならず者の吹きだまり」と「白鯨」の作者メルビ
ルは書いている。ポチョムキン号の反乱のように水兵は反乱するのが当たり前で、それが欧米
世界の常識だった時代にこういう船があったことの驚きをガルシアは記しているのだ。

ガルシアはまた「日に焼けた褐色の若者たちを見ていると、わが国の褐色の水兵を見ているよう
で」とも家族に書き送っている。「褐色の水兵」とはアルゼンチン南部のパタゴン、北部のコリエ
ンテス両州に住むインディオのことで、下級水兵に使われていた。母国ではしかし、白人優越主
義者のロカ将軍がインディオ虐殺の功績を買われて大統領になっている。

18世紀、カリブ海の島々にいたインディオをスペイン、フランスが全滅させて黒人奴隷に置き換
え、19世紀にはアメリカがインディアンを虐殺した。その仕上げとなるパタゴンの虐殺である。

そういう時代に、そのインディオと同種の東洋の小国が白人キリスト教国家のひとつ、ロシアと
戦ったのがこの日露戦争だった。

1904年2月8日の旅順港奇襲の後、日本海海戦前夜までの経緯を、ガルシアらの報告で見る
と旅順港にあったツェザレビッツなど戦艦7隻、巡洋艦11隻からなるロシア太平洋艦隊は8月の
黄海海戦で敗走、大半が旅順港に逃げ帰った。しかし、港の背後の203高地が日本陸軍の攻
撃で陥落し、ここからの砲撃で全滅する。

過去、スウェーデン軍、ナポレオン軍、そしてソ連時代の第二次大戦ではナチス・ドイツ軍すら敗
走させた最強のロシア陸軍もまた各地で退却を続け、05年3月の奉天会戦で敗北を喫した。

唯一の頼みはバルト海からやってくるバルチック艦隊(第二太平洋艦隊)だった。日英同盟のた
めスエズ運河を通れず、喜望峰回りを強いられた艦隊は最後の休養地、フランス領インドシナの
カムラン湾に向かうが、これも日英同盟の圧力でフランスに入港を阻まれ、ついに休息を取れな
いまま日本海に入る。

ロシア海軍が大手を振ってカムラン湾に投錨できるようになったのはそれから70年たって南ベ
トナムが陥落した後である。

325高山正之:02/03/20 06:42 ID:rL0fcmHZ

豆事典

▽ダグラス・マッカーサー(1880−1964年) アメリカ軍人。第2次大戦中の1942年、フィリピン・ア
メリカ軍司令官から西南太平洋方面連合軍総司令官となり対日反攻作戦を指揮した。44年、元
帥に昇進。終戦後は日本占領連合軍最高司令官として日本の占領政策を指揮した。50年には
朝鮮戦争で国連軍司令官に任命されたが、戦線の中国への拡大問題でトルーマン米大統領と
対立、51年に解任された。

▽ポチョムキン号の反乱 1905年6月14日、ロシア黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号で水兵たち
が腐った肉を食べることを拒み、水兵の1人が射殺されたことがきっかけになった反乱。水兵ら
は士官の一部を殺害、残りは下船させ、マストに赤旗を掲げてゼネストが行われていたオデッサ
港に入った。しかし、他の艦の支持は得られず、食料や燃料もつきて反乱は鎮圧された。反乱に
は日露戦争でバルチック艦隊が全滅し、帝政ロシアの威光が大きく揺らいだことも影響してい
た。1925年にはエイゼンシュテイン監督が映画化。世界映画史上の傑作のひとつとされている。

▽フリオ・ロカ(1843−1914年) アルゼンチンの軍人、政治家。パラグアイとの戦争や対インディ
オ戦で武勲をあげ、その功績で1880年に大統領に就任。アルゼンチンのオリガルキア(少数者支
配)時代の幕を開け、チリとの国境問題の解決、外国資本の導入などで手腕を発揮した。ロカ政
権の中枢は大地主らで固められていた。

▽パタゴンの虐殺 1879年、約8000の兵を率いたロカ将軍がアルゼンチン南部パタゴニアのイ
ンディオを攻撃。将軍は降伏しなかったインディオを容赦なく殺害し土地を取り上げた。パタゴニ
アには当時、国有地に住むインディオが白人の侵入を拒んでいた。このため白人大地主らが土
地を手に入れようとして、インディオをキリスト教に改宗させることなどを口実にアベリャネダ大
統領を動かし軍隊を派遣させた。ロカ将軍は翌年、大統領に就任。

326高山正之:02/03/20 06:50 ID:rWeI+O29

■ 太平洋序曲 日露戦争−5

ロシア艦隊は日本海に消えた

装甲を施した1万トン級の戦艦同士による史上最大規模の艦隊決戦は1905年5月27日、対
馬沖で展開された。ロシア艦隊はロジェストウェンスキー提督の旗艦「スワロフ」以下戦艦8、巡洋艦8を中核にした総数38隻。対する日本艦隊は「三笠」以下戦艦4、巡洋艦13を主力として
いた。

ガルシア中佐はその日をこう報告している。「三笠から“皇国の興廃この一戦にあり。各員一層
奮励努力せよ”のメッセージが発せられた。東郷長官は祖国の命運をかけてトラファルガーに出
たネルソン提督の境遇を自身に重ね合わせ、ネルソンの“イギリス国は今日、諸君が自分の義
務を果たすことを期待している”という言葉を下敷きにしたのだろう」

午後1時半すぎ、両艦隊はお互いを肉眼で捕らえた。ガルシアはロシア艦隊について「斥候艦艇
は見えず、主力戦艦が先頭を切って進んできた」と首をかしげて書く。「ロシアの指揮官は敵艦
隊の布陣を知ろうともしない。危険な機雷や水雷艇の存在も考慮に入れていないようだ」

《無数の砲弾》 当時の戦艦は厚さ30センチ近い装甲鋼板を施され、艦内も遮へい扉で仕切ら
れて、砲弾だけでは「沈まない」というのが世界的常識だった。ただ、魚雷や機雷などで喫水線
下に大穴を開けられると沈没はあり得ると考えられていた。

日露戦争の開戦まもない1904年4月、1万トン級の戦艦「ペトロパブロフスク」は旅順港出口に
敷設した日本側の機雷に触れてあっというまに轟沈している。しかし、日本海海戦の対馬沖は
文字通り「天気晴朗なれど波高し」だった。そんな状況では機雷敷設は無理だし、接近して魚雷
を撃つ水雷艇も活躍は困難だった。それでもなお、敵地で敵艦隊の様子を見届け、かく乱するた
めにも斥候艦艇を出すべきだったとガルシアは批判する。

旗艦「スワロフ」を先頭に北進するロシア艦隊は午後2時少し前、南西に向かう日本艦隊と接触
した。日本艦隊はロシア艦隊の目の前でほとんどUターンに近い160度左旋回をする。有名な
敵前回頭である。ロシア艦隊の頭を押さえつけ「これを撃滅せんとす」る作戦だった。

相手の射程距離内で次々にUターンすれば、相手に絶好の砲撃チャンスを与える。事実、このU
ターンが終わるまでに日本艦隊は「三笠」から第一艦隊殿艦「日進」に至るまで「数え切れない
砲弾を吸い込んだ」とガルシア報告はいう。

《高い命中率》 日本艦隊はこらえ、回頭を終えるのを待って猛然と応射を開始した。砲弾は着
実にロシア艦を捕らえていった。「着弾測定もしないロシア側に比べ、日本艦隊は優れていた。
1艦が試射を行い、その結果を残りの艦に知らせた。命中率はものすごかった」とロシア側の戦
艦「アリヨール」の水兵だったノビコフ・プリボイは観戦記「ツシマ」の中で書いている。

327高山正之:02/03/20 06:57 ID:NJeCCxPD

ガルシア中佐の報告によると、日本の砲撃が始まって30分足らずの間に「スワロフが炎に包
まれ、2番艦アレクサンドル三世も火災を起こして落後した。オスラビア、シソイ・ビルキーもまた
大きな火炎に包まれた」という。「ロシア艦が突然、燃え上がるのは驚くべきことだった」とガルシ
ア中佐は書いている。

「明らかに何の火の気もない鋼鉄の艦から炎が現れて、強い風にあおられると、その炎は高い
艦橋をはい上がり、甲板上の構造物を生き物のように走り回った。さながら甲板上に石油をまい
て火をつけたような光景であった」

プリボイも「それは飛んでくる水雷だった。砲弾は厚い装甲を貫くことはなかったが、そのかわり
艦上の構造物も人も根こそぎ破壊、粉砕し、火災を起こして戦闘力を奪い去っていった」と書く。

当時の砲弾の主流は厚い装甲を貫き艦内部でさく裂する徹甲タイプで、ロシア艦もそれを採用し
ていた。少数派はイギリスの榴弾型で、命中すると直ちにさく裂し破片を周囲にばらまく。日本は
この型を採用し、炸薬には海軍技手、下瀬雅允が開発した超高燃焼性の「下瀬火薬」が使われ
ていた。プリボイの記述には、一瞬に周辺の酸素を奪い尽くすナパーム弾と同じように酸欠を起
こす水兵の様子も出てくる。

《相次ぎ沈没》 この威力はやがてロシアの僚艦が見守る中で、1万2700トンの戦艦「オスラビ
ア」の轟沈となって証明された。戦艦「オスラビア」は世界海戦史上、砲撃だけで沈んだ装甲戦
艦の第1号となった。

しかし、戦艦「ナワリン」がすぐに第二号となり、続いて戦艦「シソイ・ビルキー」、そして装甲巡洋
艦「ナヒモフ」も日没前に沈没した。さらに夕闇の中で旗艦「スワロフ」「アレクサンドル三世」「ボ
ロジノ」がわずか30分の間に相次いで日本海に消え、戦艦「アリヨール」もまた「浮かぶ鉄屑」状
態で拿捕(だほ)され、戦艦8、巡洋艦7隻で構成された第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)は翌日
の夜明けを待たずに消えさってしまった。

もうひとつ、老朽艦12隻で編成された「第三太平洋艦隊」もいたが、これも翌28日、日本海で
捕そくされ、降伏した。生き延びたのはマニラに逃げた巡洋艦「オーロラ」など数隻にとどまり、こ
れで旅順港で全滅した第一太平洋艦隊を含め、大陣容を誇ったロシア艦隊は、国際条約で日露
戦争の間、黒海に封じ込められたままの黒海艦隊を除いて、完全に消滅してしまったのである。

ついでながら、巡洋艦「オーロラ」はロシアの首都サンクトペテルブルクに戻り、ネバ川のほとり
にもやわれる。そして、十二年後の1917年、ロシア十月革命の合図となる号砲を冬宮に向け
て放ち、20世紀の歴史に再び名を残すことになる。

328高山正之:02/03/20 07:14 ID:9TR56JIE

■ 豆事典

▽ジノービ・ロジェストウェンスキー(1848−1909年) ロシアの提督。1904年にバルチック艦隊の
司令長官に任命されたが、日本海海戦で敗れ、重傷を負って捕虜となる。帰国後の1906年に軍
法会議にかけられたが無罪。▽ホレイシオ・ネルソン(1758−1805年) イギリスの提督。12歳で
海軍に入り21歳で艦長となる。スペイン艦隊を破ったセント・ビンセント岬沖の海戦(1797年)など
で活躍し、1805年のトラファルガーの海戦ではフランス・スペインの連合艦隊を撃滅して、ナポレ
オンのイギリス侵攻の野望を阻んだ。しかし、ネルソン自身もこの海戦で被弾し、「われは義務
を果たせり」という言葉を残して戦死した。

▽下瀬雅允(しもせ・まさちか=1860−1911年) 明治時代の化学技術者で下瀬火薬の発明者。
大蔵省印刷局に勤務した後、海軍技手となり、火薬の研究を続けた。1888年(明治21年)にピクリ
ン酸を主剤とした爆裂薬を発明、海軍に採用された。この火薬は下瀬火薬と呼ばれ、日露戦争
で威力を発揮した。

▽ナパーム弾 ナフサネート、亜鉛、パーム油、ガソリンなどのゼリー状の混合物(ナパーム)を
主成分とする油脂焼夷弾。2000度近い高熱を発し、400から500リットル入りのナパーム弾を爆発
させると、2000から2500平方メートルを焼き尽くす威力を持つ。第2次世界大戦後期にアメリカ軍
が開発、沖縄作戦で航空機から投下した。朝鮮戦争やベトナム戦争などでも使われた。

329高山正之

■ 太平洋序曲 日露戦争−6

講和は不和と不信残した

日本海海戦は終わった。ほぼ無傷の日本側に対し、ロシア側はその主力戦艦、巡洋艦のほとん
どを撃沈されるという信じられない結果は世界中の主要紙の一面トップで報じられた。

ニューヨーク・タイムズ紙は海戦2日後の1905年5月29日付で「東郷、ロシア艦隊を粉砕」の
見出しをつけながら、それでもとても信じられない様子で「東京はロシア艦12隻が沈没もしくは
拿捕(だほ)と発表」と、あくまで日本側の発表を報じるかたちをとって保険もかけていた。

中面では専門家の意見を入れながら「ロシアが本当に大敗したならば、それは地球半周に近い
長旅を強いられたこと、兵士の練度が低かったこと」とさまざまな憶測を書き並べ、別の紙面で
は「複数のロシア戦艦で水兵の反乱」とも書いている。行間には白人国家が非キリスト教国家日
本に大敗した事実を素直に認めたくない雰囲気が漂う。

《個々の折衝》 ニューヨーク・タイムズは1週間後の6月2日付では「戦争の結末」の見出しで
今後の見通しについて長文の社説を掲載した。

「日本はペンシルベニアの会社に軍用トラックと鉄道資材を大量注文した。ロシア陸軍を翻弄し
てきたクロキの軍がさらに北に展開するための準備とみられる。目的地はロシアの最大の拠点
ウラジオストクで、制海権を失った今、陥落は必至だ。皇帝がそれでも継戦にこだわれば、日本
は交戦国の権利としてロシア商船を破壊するだろう。大西洋、地中海、バルト海にも進出してロ
シア船だけでなく、ロシア向けの中立国の船も臨検できる。ロシアには講和以外の選択はない。
もっとも、日本艦隊がそこまで出てきてヨーロッパ諸国の神経を逆なですることはしないだろう
が、ともかくウラジオストクが落ちたとき、戦争は終わる」

「制海権を握れば勝ち」とはセオドア・ルーズベルトが師事した海上覇権論のアルフレッド・マハ
ンが著書「歴史にみる海軍力」に書いた1節である。アメリカはスペインとの戦争でも、この理論
にしたがって宣戦布告を前に遠くアジアまで艦隊を派遣、開戦と同時にマニラのスペイン艦隊を
奇襲し、そのうえでキューバにあった主力艦隊と戦って大勝した。海軍力のほとんどを失ったス
ペインはフィリピン、グアム、キューバ、プエルトリコを失う屈辱を甘受しなければならなかった。

ロシアは、そのスペインよりひどい状況にあった。日本は国際法にのっとりニューヨーク・タイム
ズ紙の社説通りの圧力をかけることもできたが、そうはしなかった。体力の疲弊もあるが、むしろ
社説のいう「ヨーロッパ諸国の神経を逆なでする」行為をあえて避けた気配がある。

ニューヨーク・タイムズは、日本をけん制する社説を載せた翌日、「ルーズベルト大統領、和平斡
旋に乗り出す」と報じ、イギリスのタイムズは「ローマ法王もロシアに休戦を勧告」と伝えた。そし
て、講和会議はその年の夏、ルーズベルトの音頭で開かれた。