292 :
高山正之:02/03/15 09:40 ID:VaIxSKKc
太平洋序曲−ハワイ王国の悲劇−02
合併へ…突き進むアメリカ
アメリカのクリントン政権は1995年、母校コーネル大学の同窓会に出席する李登輝・台湾総統
に入国ビザを出した。表向きは「ひとつの中国」を主張しているとはいえ、李総統の本音は実は
台湾独立にあるのではないかといわれている事もあり、北京がつむじを曲げる騒ぎになった。
そんな折、共和党の実力者ニュート・ギングリッチ下院議長がこんなスピーチをしている。
「中国は国境から何千キロも離れ、国際社会がだれも中国の領土と認めていないところにまで
領有権を主張している。そうしたごまかしを、われわれが拒否することは長い目でみれば中国の
助けにもなるだろう」
中国に対する皮肉たっぷりなスピーチだったが「それじゃあ、ハワイはどうなるんだ」という主張
が当のアメリカにある。ハワイとはもちろん、太平洋の真ん中にあるアメリカ50番目の州のあの
ハワイである。
《独立を主張》 ネムノキに似たモンキーポッドが涼しい木陰をつくるホノルルのカピオラニ通りの一角にあるレストランで、2人前の料理を平らげながらアメリカ政府を困らせているデニス・カ
ナヘレ、通称バンピーは「台湾よりはハワイの方がはるかに独立の可能性は高い。だから政府
も困っているんだ」という。
彼は李総統の訪米騒動が一段落した1995年8月2日、「連邦税を滞納した男をかくまった」容
疑で米連邦捜査局(FBI)に逮捕され、ホノルルの連邦地裁の保釈認定法廷では「社会に害毒を
流すおそれ」があるとして保釈も認められなかった人物だ。
彼の容疑は「通常なら逮捕もない」(カリフォルニア州法廷弁護士協会)という微罪である。3カ月
後にやっと保釈が認められたものの、司法当局は「逃亡のおそれ」を理由に一時は発信装置付
きの足輪を彼に取り付けもした。
横綱・曙と同じオアフ島ワイマナロ出身の生粋のハワイ人に連邦政府がここまで神経をとがらす
理由は彼の率いる「ネーション・オブ・ハワイ」にある。先住民によるハワイ独立運動体で、その
主張は「アメリカのハワイ併合は不法行為。接収した王家の領地7080平方キロを返還せよ」と
いうものだ。
バンピーは、返還されればその領土をもとに独立国家ハワイ国を再建したいという。ハワイ州全
体の面積は1万6700平方キロだから、最大のハワイ島(約一万平方キロ)を除いたオアフ、カウ
アイ、マウイなど残りの島々のすべてを合わせてもまだ余りある広さだ。
293 :
高山正之:02/03/15 09:41 ID:VaIxSKKc
《落とし穴》 ハワイは19世紀末まで独立国家、ハワイ王国だった。国旗もあって片隅にユニオ
ンジャックがついているのは英国のキャプテン・クックが18世紀に“発見”した名残だが、その英
国をはじめ欧州諸国、アメリカ、それに日本とも外交関係をもち、とくに日本が欧米諸国との不
平等条約で苦しんでいる折に、最初にその治外法権の撤廃を約束してくれた国でもある。
そのハワイをアメリカは1898年に自国領土として併合した。これがまず、おかしいとバンピーは
いう。 「アメリカがメキシコ戦争で取ったテキサスでさえ、併合するときに住民投票をした。しか
し、よその国であるハワイでは住民の意志を問う国民投票も行わず一方的に併合してしまった」
ヨーロッパ諸国に遅れて植民地獲得に乗り出したアメリカにとって、こうしたよその国を獲得する
“ゲーム”の経験は乏しかった。 これを例えばイギリスのビルマ(ミャンマー)獲得と比べてみると
その違いは顕著である。
イギリスは弱小国家ビルマに対し19世紀後半、セポイの反乱の後に3度「戦争」を仕掛けた形
を取っている。 セポイの反乱は3年間にわたって中央インドで戦闘が繰り広げられ、多数の死
傷者を出した「1857年インド独立戦争」(独立運動闘士、サバルカール)だったが、英国は今で
も「反乱」と呼んでいる。
これに対し「英緬(ビルマ)戦争」はビルマ王朝を倒した第3次戦争でさえ、英国軍の死者はわずか
に4人だった。それでも「戦争」と呼ぶところに英国の深慮遠謀がある。マンダレーの王城の開城
を迫って国王夫妻を流刑に処し、高さ10メートルもある宝石をちりばめた黄金の玉座は押収す
る…という勝ち戦の手順を踏んでビルマを占領する。 しかも、とりあえず保護領としておき、の
ちにインドの1州としてインド政庁の下に置いた。
結論からいうと、こういうずるさを当時のアメリカは持ってはいなかった。それどころか、冷酷な
植民地帝国主義者になりきれない甘さがとんでもない落とし穴を作ってしまうことにもなる。
《「償い」なし》 ハワイ王国の最後は併合に先立つこと5年、1893年にハワイ経済を牛耳って
いたアメリカ系白人企業家グループが私設軍隊を動かしてリリオカラニ女王にクーデターを起こ
したことに始まる。駐ホノルルアメリカ公使と米軍艦はクーデター派に協力して武装海兵隊を上
陸させている。 この時点でアメリカの大統領は共和党のハリソンだったが、1893年3月4日に
民主党のクリーブランドが大統領就任式をすませ、政権が交代したため、アメリカのハワイ併合
策はいったん休止する。
クリーブランドはハワイに調査団を派遣し、その報告を聞いたうえで「アメリカの名と軍事力が友
好的な関係にある国家の独立と主権を脅かすことに誤って使われた場合、アメリカは国家の尊
厳と正義の名の下にあらゆる努力を講じてその償いをするだろう」という声明を出したのだ。
しかし、「償い」は実現しなかった。クーデター派はやがてハワイを丸ごとアメリカに寄贈する申し
出を行い、1898年に共和党が政権を奪還すると、アメリカは直ちにハワイ併合へと突き進んで
いった。
欧州列強に肩を並べてアメリカが一歩、太平洋に入り込んだ瞬間だが、このとき予想外の事態
がそのハワイで起きている。滅亡に瀕したハワイ王国とよしみのあるアジアの小国、日本が軍艦
を派遣してきたのだ。
294 :
高山正之:02/03/15 09:42 ID:VaIxSKKc
豆事典
▽キャプテン・クック(1728−1779年) 英国の探検家。太平洋方面の探検、調査を行って、欧州
には未知だった海域、島を見つけ、英国の太平洋進出の基礎を築いた。3回目の航海ではハワ
イ諸島に到達し、島民との争いにより1779年2月14日、ハワイ島のケアラケクア湾で戦死した。
▽アメリカ・メキシコ戦争 1845年12月にテキサスがメキシコを脱してアメリカに併合されたこと
から、1846−48年にアメリカとメキシコの間で戦われた。アメリカは48年2月、メキシコにテキサス
への請求権を放棄させたうえ、ニューメキシコとカリフォルニアを獲得。メキシコは国土のほぼ半
分を失うことになった。
▽セポイの反乱 セポイは東インド会社のインド人雇い兵で、約28万人が5万人足らずのイギリ
ス人将兵に率いられていた。このセポイが1857年、待遇などの不満から決起してデリーを占領。
さらに北インド各地の農民もほう起し、反乱は反英民族闘争に発展したが、英国の武力の前に
鎮圧された。これをきっかけに英国は東インド会社を解散し、インド直接統治を始めた。
▽英緬戦争(ビルマ戦争) 19世紀に英国がビルマ(現ミャンマー)を征服するために行った戦争。
英国は1824年から86年にかけて3次にわたる戦争でコウバウン朝を滅ぼした。ビルマは1886年、
英国が支配するインド帝国に併合された。
▽グローバー・クリーブランド(1837−1908年) アメリカ第22、24代大統領。南北戦争後初の民
主党大統領として1885年に就任した。2期目の選挙は共和党のハリソンに敗れたが、93年に返
り咲いた。アメリカで1期おいて2回大統領になった唯一の大統領。就任時は独身で在職中に結
婚、ホワイトハウスで結婚式を挙げたことでも知られる。
295 :
高山正之:02/03/15 10:16 ID:LkQBLPM4
ハワイ王国の歴史
カメハメハT世(1795〜1819) カメハメハ大王、ハワイを統一した。
カメハメハU世(1819〜1824) 大王の長男、ロンドン遊学中に病死した。
ボストンからキリスト教の宣教師団が渡来した。キリスト教が広がった。
カメハメハV世(1825〜1854) U世の弟。
ハワイ最初の学校が設立され、新聞も発刊された。
サトウキビ畑の開発が進み、王国は最も繁栄した。
外国人に土地所有権を認めた。
カメハメハW世(1854〜1863) 大王の孫、U世の異母弟の子。
白人資本家の台頭とサトウキビ産業呪う動力不足に悩まされた。
カメハメハX世(1863〜1872) W世の弟、内務大臣から国王になる。
外国人資本家に対抗するため、原住民保護に徹し、新憲法を制定した。
国民に選挙権が与えられ、貴族と選出者による(1院制)議会が発足した。
ルナリオ王(1873〜1874) W世、X世のいとこ。
X世に子供がいなかったため議会が選出したが、1年3ヶ月で病死した。
カラカウア王(1874〜1891) 議会が選出した。
新聞記者から、政治家になり、国王に就任した。
リリオカラニ女王(1891〜1893) カラカウア王の妹。
王国の最期を見届けることになった、最初の女王でもある。
アロハオエの作詞者として知られている。
296 :
高山正之:02/03/15 10:33 ID:FEb74uxJ
太平洋序曲 −ハワイ王国の悲劇−03
憂国の王は日本に感動した
ハワイの独立を叫んでアメリカ連邦捜査当局(FBI)に追われるバンピー・カナヘレは生粋のハワ
イっ子、つまりポリネシア系マオリ人である。横綱・曙とは同郷のオアフ島ワイマナロの出身であ
ることはすでに触れたが、身長1・8m、赤銅色のがっしりした体格は横綱とまではいかなくとも
小結ぐらいなら十分に通用しそうだ。しかし、本人は「格闘するのは米国政府だけで十分、それ
に血筋も許さない」という。彼はカメハメハW世直系を誇る、世が世なら王族なのだ。
もっとも19世紀半ばに即位したこの王様はハワイの先住民が人口7万ほどだった当時、29人
のお妃を抱えていたといわれ、「今のハワイ人は何らかの形で血がつながっている」そうだ。
《列強入らず》 さて、その艶福国王から2代おいて、1874に即位したのが憂国の王・カラカウ
ア王である。カラカウア王は81年に国際親善訪問の旅に立ち、アヘン戦争の代償として取られ
た香港で英国人総督の歓迎を受け、列強の侵食を受けて苦しむシャム(タイ)国王を表敬し、さら
に英国、イタリアなど欧州諸国も訪ねている。
この旅行で、カラカウア王が最も感動したのが、明治維新からまだ14年しかたっていない日本
だったと伝えられる。 国王は1881年(明治14年)3月、横浜に上陸した。翌日、横浜駅から特
別列車で新橋駅に着き、当時の皇居だった赤坂離宮に向かっている。このとき国王はまず、横
浜港も鉄道も日本人が仕切っていて「どこにもハオール(ハワイ語で白人)を見なかった」ことに
強い感銘を受けたという。
19世紀末のアジア諸国、例えばイランでは、郵政や電信電話回線は英国、カスピ海航路がロシ
ア、税関がベルギー、銀行は英国とロシア、そしてタバコは生産から販売まで全て英国系のタル
ボット社が独占する…という具合に近代化のノウハウをもつ列強諸国が入り込んでいた。イラン
ではこうした経済植民地化に反発した国民がいっせいに禁煙する「タバコ・ボイコット」事件を生
んでいる。
中国やインドも似たようなもので、とくにインドでは鉄道輸送から徴税、税関業務まで英国が独
占していた。おかげでインド綿には英国で高額な輸入関税がかけられ、一方、英国綿製品は関
税なしでインドに輸入されるという芸当が可能になって、インドの綿工業は全滅。インドが貧困と
飢餓にあえぐ理由のひとつとなった。
《移民を懇請》 ハワイ王国では、経済も政治も「島民の啓蒙、教化」を口実に、入り込んできた
アメリカ系宣教師に牛耳られていた。アメリカのジュースメーカーとして知られる「ドール」に名を
残すサンフォード・ドール以下サーストン、スミス、ジャッド、ダモンの5人の「宣教師とその息子
たち」は土地所有観念のない島民から土地を寄進させ、国王領以外の多くがハオールの私有地
となった。 議会もハオールが多数を占め、国王が訪日した折の随員には前述した「宣教師の息
子」の1人のジャッドがいたし、その時の駐日総領事もR・アーウィンという米国人だった。
297 :
高山正之:02/03/15 10:34 ID:FEb74uxJ
念のため言えば、大国が陰に陽に弱小国を裏から操作するケースは現代でも行われている。例
えば、国際捕鯨委員会(IWC)にカリブ海の黒人国家アンティグアバーブーダの政府代表として
出席し、日本の捕鯨を非難したのはアメリカの白人活動家だった。クウェートやオマーンなど中
東産油国の政府機関、経済顧問も英米人がその任に当たっていることが多い。
話を戻してカラカウア国王はとくに日本の鉄道が欧米列強に鉄道敷設権を認めることなく、“お
雇い外国人”を契約採用してノウハウを吸収し、ほとんど自力で完成させたことを知ってハワイ
王国の将来を託す気になったといわれる。
これは政府との交渉にも表れている。国王は日本が申し出た治外法権、いわゆる不平等条約の
解消を約束し、国王側からはハワイ先住民の深刻な人口減少を補うべく、日本からの移民を懇
請した。 さらに国王は随員の米国人を抜きにして、極秘で明治天皇に会談を申し入れ、妹のリ
リオカラニを継いで王位につくはずだった姪のカイウラニ王女と山階宮親王との婚儀を打診した
のだ。親王はのちに東伏見宮依仁親王と名を改められ、このハワイ王国滅亡の現場に行き合う
ことになる。
《銃剣憲法》 明治天皇はこの婚儀の打診に対し、翌82年に宮内省式部官、長崎省吾を特使と
して派遣し、謝絶した。その理由には「日本の皇室にはその前例がない」こと、そして「(この婚儀
によって)日本が米国の勢力圏に立ち入るのを好ましくないと判断」したことを挙げている。
生まれたての近代国家、日本にとって(ハワイに勢力を持つ)米国と戦争になるかもしれない危
険はおかせない、という小国の悲哀がそこにうかがわれる。
その予感は当たった。1887年、ハワイ王国の実権を握る「宣教師の息子」たちは国王に閣僚
の罷免権の剥奪など国政への関与を一切否定する新憲法の署名をさせたのだ。 この憲法の署
名はハオールの私設軍隊「ホノルル・ライフル」部隊が決起した中で行われたため「銃剣憲法」と
呼ばれている。これに対し、91年に王位についたリリオカラニ女王は93年1月、憲法の改正案
を議会に通告し、最後の巻き返しに出た。
改正案は、(1)ハワイ貴族の権利を回復する、(2)高額納税者(白人)以外のハワイ先住民に投票
権を認める、(3)閣僚罷免権は議会がもつ−などを骨子としているが、「旧憲法下で享受された
外国人の特権」については、「剥奪されない」と約束していた。
王朝奪取を最終目標としていた「宣教師の息子たち」は早速、動き出した。
298 :
高山正之:02/03/15 10:35 ID:FEb74uxJ
■豆事典
▼ハワイ王国 イギリスの探検家キャプテン・クックがハワイを「発見」した当時、ハワイ先住民
は小さな部族に分かれ、互いに覇権を争う群雄割拠の時代だった。その中で西洋の科学知識を
吸収し、武芸にも秀でた若者がハワイ島を統一、さらにマウイ、オアフ島なども制して1795年にカ
メハメハ大王と名乗った。ハワイ王国はこの時に始まり、新しい西欧文明を積極的に取り入れて
マウイ島のラハイナ港に出入りする外国船からの関税で王国の財政を豊かにした。
▼タバコ・ボイコット事件 イギリスのタバコ業者タルボットが1890年、イラン全土のタバコ原料
の買い付け、加工、販売、輸出などの独占的利権をカシャール朝から獲得。イラン国内では91
年から92年にかけてイスラムの学者、宗教指導者層であるウラマーや商人を中心に強い反発が
起き、ウラマーの最高権威ミールザー・ハサン・シーラージーがタバコ禁止令を発令した。不平
等条約の締結や列強への利権の譲渡などに対する国民の不満が爆発したこの事件はイラン民
族運動の起点とされ、20世紀初頭のイラン立憲革命(1905−11年)につながっていく。
▼サンフォード・ドール(1844−1926年) ハワイの法律家、政治家。ハワイ王国の米国併合を推
し進めた中心的人物。米国のプロテスタント宣教師の子供としてホノルルに生まれ、84年と86年
にハワイ議会に選出されて王権縮小運動のリーダーとなった。94年に成立したハワイ共和国で
は大統領に就任。1900年には米国ハワイ准州の初代知事となった。
▼お雇い外国人 明治政府が欧米先進国の技術や制度を取り入れるため、各分野の指導者と
して雇用した技術者、学校教師などの外国人。政府の富国強兵、殖産興業政策により、その数
は1874年から75年には、政府雇用者だけで520人ほどになった。お雇い外国人は日本の近代化
には欠かせない頭脳として尊重され、当時の大臣の月給を超える高給を受けていたものも多か
った。
299 :
高山正之:02/03/15 15:23 ID:k4ldYD/c
太平洋序曲 −ハワイ王国の悲劇−04
女王の抵抗はつぶされた
ハワイ独立を叫んで、ギングリッチ米下院議長を刺激するバンピー・カナヘレは「ネーション・オ
ブ・ハワイ」のホームページを作って自らの主張をインターネットに流している。以下はそこから
引用したハワイ王朝最期の瞬間である。
《デモが激化》 リリオカラニ女王は1893年1月14日、兄のカラカウア王が87年に署名させら
れた憲法を破棄し、白人高額納税者に独占されていた投票権をハワイ島民にも認める新憲法を
発布する予定だった。ホノルルのイオラニ宮殿には各国の外交官らが招かれ、女王の復権宣言
を待ったが、ハオール(白人)優勢の議会がそんな“女王の横暴”を許さず、土壇場で新憲法はつ
ぶされた。女王を立てる先住民と白人勢力の対立が一挙に表面化し、翌日には先住民数百人
が宮殿前で女王支持のデモを展開する。
「宣教師の息子」の1人ローリン・サーストンらはこの前年の暮れ、ワシントンでハリソン大統領と
会談してハワイ併合の了解を取り付けていたこともあり、白人側はこの新憲法発布の動きと民
衆のデモを敵対行動ととらえて一気に王朝打倒に動き出した。
彼らは駐ハワイ・アメリカ公使、ジョン・スティブンスと協議して、ホノルル港に停泊中のアメリカ
の軍艦「ボストン」とその海兵隊を動員する約束を得た。スティブンスは16日「血に飢えた、そし
て淫乱な女王が恐怖の専制王権を復活させようとしている」と訴え、「アメリカ人市民の生命と財
産を守るために」と「ボストン」の海兵隊員162人を強行上陸させてホノルル市内を制圧、軍艦
の主砲はイオラニ宮殿にぴったり照準を合わせた。
大使の発言に信頼性をもたせるかのように「国王は自分の影を踏んだものは打ち首にする」と
いった噂がさかんに流されていた。リリオカラニは米戦艦ボストンの砲口の前に屈し、翌17日
の夕方、退位を宣言した。この瞬間、ハワイはハワイ人の手を離れ、「宣教師の息子」たちのハ
ワイ臨時政府のものとなった。
勝ち誇るスティブンスは、国務省に「ハワイの梨は十分熟した。今こそ米国がそれをもぐとき」と
書き送り、ハリソン大統領にハワイ併合の手続きを要求するよう提案するが、ここで困ったこと
が起きた。
ワシントンでハリソンがハワイ合併条約案を上院に提出したとき、彼の大統領任期は2週間しか
残っていなかったのだ。1893年3月4日、就任式を終えたクリーブランド新大統領は上院に条
約案の撤回を求めるとともに、元下院外交委員長J・ブラウントを団長とするハワイ問題調査団
の派遣を決め、併合はしばらく見送られることになった。
《日本の脅威》 もうひとつ、これはバンピーのインターネットには書かれていないが、ハワイの
乗っ取り組だけでなく、アメリカ政府をも驚かす事件がこの混乱の中で起きていた。アジアの小
国、日本がハワイに軍艦を差し向けてきたのだ。
300 :
高山正之:02/03/15 15:24 ID:k4ldYD/c
王朝が倒れて約1カ月後の2月23日に巡洋艦「浪速」(3700トン)、さらに5日遅れて3本マスト
のコルベット艦「金剛」(2400トン)が相次いでホノルル港に入り、米軍艦「ボストン」のすぐ隣に
投錨した。「浪速」の艦長は東郷平八郎という大佐だった。また艦上には、若い海軍青年将校が
いた。先代国王カラカウアに王女との結婚を求められた当の山階宮親王である。
カラカウア王との約束で1885年(明治18年)から始まった日本人のハワイ移民はこの年まで
に2万5千人を数えていた。その日本人移民の「生命と財産の安全を守るため」というのが日本
の軍艦派遣の表向きの理由だったが、存亡の危機に見舞われたハワイ王朝からの緊急要請が
あったともいわれる。
その根拠となるのは、カラカウア王が訪日の際に約束した、懸案の不平等条約改定を認める公
文書が1月17日付で届けられたことだ。この日付はまさに女王が退位を宣言した日であり、女
王は最後の公務にこの治外法権放棄の文書署名を選んだことになる。日本政府はこれをばね
に列強との不平等条約を次々解消していった。ハワイ王国への感謝の気持ちは計り知れないも
のがあったろう。
入港した「浪速」は臨時政府には冷たく、寄港の挨拶も行わなかった。その冷淡さは地元紙アド
バイザーが「日本の脅威」という見出しで、アメリカ政府のハワイ併合についての日本の対応を
扱い、さらにサンフランシスコ・モーニング・コール紙はハワイ問題をめぐり、宗主国を自認して
いる英国が日本と手を結んで米国と開戦する可能性まで論じている。
《乱れる風評》 こんな中で女王の側近四人が東郷艦長と長時間の密議をもったという噂が流
れた。また、白人政権のもとで日本人移民は奴隷化されるという風評が巡り巡って“蜂起”の噂
にまでなった。 「浪速」は約3カ月間、ハワイにとどまり、米政府調査団が派遣されるのを待って
いったん帰国。翌年再びホノルルに戻っている。
このとき、ハワイ臨時政権は“建国1周年”を祝う21発の礼砲を要請したが、東郷艦長は「その
理由を認めず」と突っぱねた。ホノルル港に停泊していた各国の軍艦はこれにならい、1894年
1月17日のクーデター1周年は「ハワイ王朝の喪に服すような静寂の1日に終わった」と、ハワ
イ王国の最期をテーマにした米国のノンフィクション「盗まれた王朝」(ジョン・ワイリー著)は書い
ている。
バンピーによると、日本の軍艦が味方してくれた話は祖父の代から語られていた。それが東郷
艦長の浪速だったことまでは知らなかったが、「ハワイ人にはなぜかトーゴーやナニワという名
前が多い」という。 バンピーの育った街では「ナニワは“ありがとう”の意味」の現地語として使
われたという。アジアの小国の態度が共感を呼んだことのなによりの証左だろう。
301 :
高山正之:02/03/15 15:25 ID:k4ldYD/c
■ 豆事典
☆イオラニ宮殿 イオラニはハワイ語で「王者の鷹」を意味する。1882年、ハワイ王国7代目の
カラカウア王が完成させた米国唯一の宮殿。カラカウア王のヨーロッパ旅行の影響を受け、室内
水洗便所や電話などの当時としては最先端の近代的設備も取り入れられた。当時の家具やシ
ャンデリアなどが復元され、リリオカラニ女王の寝室は軟禁された当時のままに残されている。
☆ベンジャミン・ハリソン(1833−1901年) 第23代米国大統領。第9代大統領ウィリアム・ハリソ
ンの孫で、1888年の大統領選に共和党から立候補、民主党の現職クリーブランド大統領を破り、
翌年就任した。雄弁な弁護士ではあったが、大衆性に乏しい無愛想な人柄だったといわれ、4年
後の選挙ではクリーブランドに敗れて1期だけの大統領に終わった。
☆ハワイの日本人移民 サトウキビ産業の発展で労働力不足となったハワイでは19世紀後半、
アジアからの移民に労働力を頼るようになった。日本からは1868年(明治元年)に「元年者」と呼
ばれた移民153人がハワイに渡っている。その後は中断していたが、1885年(明治18年)2月8日
には国と国との正式な契約にもとづいて最初の官約移民944人がホノルル港に到着。以後、40
年間にハワイに移住した日本人は20万人にのぼっている。
302 :
高山正之:02/03/15 15:44 ID:EUbOPZMX
太平洋序曲 −ハワイ王国の悲劇−05
ルーズベルトは「脅威」を実感
ハワイの運命をもう少したどる。巡洋艦「浪速」の艦長、東郷平八郎が期待を込めたブラウント
調査団は、その期待に違わず、アメリカ人宣教師の二世、三世グループが仕組んだ陰謀を暴
き、さらに米国公使スティブンスが米軍艦と海兵隊員を使ってハワイ王朝を葬ったことを明らか
にした。
《経済の奴隷》 アメリカ大統領グローバー・クリーブランドは1893年12月、「米国の国名と軍
事力が乱用された」ことを認めてハワイ王国に謝罪し、リリオカラニ女王の復位に協力を誓った。
しかし、アメリカ議会がこの件に結論を出すことはなかった。「アメリカ人グループが反乱罪に問
われ斬首される」というデマが支配したためだといわれる。クリーブランドの大統領任期は97年
3月で終わり、翌98年8月に「宣教師の息子」の一人、ドール・ハワイ共和国大統領がハワイを
アメリカに寄贈して併合が完了した。クリーブランドは「この問題全を恥ずかしく思う」と語った
が、それで事態がどう変わるものでもなかった。
イギリス国旗と赤青白の縞を組み合わせたハワイ王国の国旗。8本のしまはハワイの主要8島
を表している。現在はハワイ州旗となっている この結果、現在のハワイ州の40%にのぼるカメ
ハメハ王朝の土地はアメリカ政府が譲り受け、真珠湾攻撃の際に、日本軍の攻撃目標となった
ウィッカム基地やハワイ国際空港などが作られている。あるいはカホオラベ島のように先住民を
追い出して島全体が射爆撃標的にされたところもある。
のちに「ビッグ・ファイブ」と呼ばれる宣教師の息子達は所有していた土地をそのまま私有地とし
て認められ、大地主として併合前と同じように経済の実権を握った。独立運動家のバンピー・カ
ナヘレなどは現在に至っても「われわれカメハメハ王朝の末えいは彼ら白人の経済的奴隷のま
ま」と主張する。
アメリカ議会は1993年10月、ハワイの違法な奪取を認める決議を出して先住民に謝罪すると
ともに、米政府も米国やハワイ州政府が不法に接収、利用してきたハワイ王国領について、過
去10年分として1億3500万ドル(約150億円)の用地借り上げ料を支払い、先住民の福利厚
生に充てる「歴史への償い」を明らかにした。
しかし、バンピーたちは「ひとつの国を不法に乗っ取った事実を認める以上、少なくとも王家の領
土をそっくりハワイ人に返すのが筋」として、その土地に彼らの国を作ることを主張しているのだ
が、ハワイの半分が独立国家になるかどうかはともかくとして、この事件は歴史に共通した教訓
を残した。他の主権国家、もしくはその領土を併合することの危険性である。
《大航路完成》 話を20世紀の入り口に戻す。見捨てられたハワイ人を感激させた巡洋艦「浪
速」は、米国にはショックを与えた。「出来得ることなら」と当時の海軍省次官セオドア・ルーズベ
ルトは米海軍名うての戦略家であるアルフレッド・マハンに書き送っている。
303 :
高山正之:02/03/15 15:44 ID:EUbOPZMX
「我々はハワイ諸島を明日にでも併合すべきだ。私の信念では、日本がイギリスに発注した戦
艦2隻がイギリスを離れる前に、我々はともかくもハワイのそこら中に星条旗を掲げ、細々した
問題はその後に片付ければいい。そしてニカラグア運河(パナマ運河)を早急に建設し、12隻の
戦艦を作って半分は太平洋に配置すべきだ。私は日本の脅威を現実のものとして感じている」
「オレンジプラン」と呼ばれたアメリカの「対日戦争計画」の第1ページとも読めるルーズベルトの
私信は「浪速」がホノルルを出た3年後の1897年にしたためられたものだ。セオドア・ルーズベ
ルトは20世紀最初の年である1901年に大統領となる。アメリカは米西(スペイン)戦争の結果とし
てグアム、フィリピンを獲得し、これにアリューシャン列島を加えて、いわゆる太平洋大圏航路を
手中にしていた。その中心に位置するハワイの重要性は一段と増し、クリーブランドの繰り言に
耳を傾けてハワイ先住民に同情する雰囲気は薄れていた。
それどころか、ルーズベルトはハワイ併合で「宣教師の息子」が使ったテクニックを大いに学ん
だ節がある。彼はマハンへの手紙で約束したようにレセップスが投げ出したパナマ運河の建設
に取り掛かるが、米国はこのとき、コロンビアの一州だったパナマの独立革命支援を口実にパ
ナマ地峡の運河建設地帯の永久租借権を獲得している。「パナマ」は独立することによってアメ
リカの影響下に置かれた。一方的に併合されたハワイとはまさに表裏をなしながらルーズベルト
の太平洋戦略に組み入れられている。
パナマ運河は1914年に完成し、アメリカの戦艦は太平洋と大西洋を自由に往来できるように
なった。アメリカ軍の艦艇は運河の通行が可能な、ぎりぎりの大きさに設計されている。これも太
平洋戦略を見据えたルーズベルトのアイデアである。
《日本を想定》 ハワイを併合し、パナマ運河を確保したアメリカの戦略は20世紀初頭の段階
ですでに「新たなる太平洋の脅威、日本」を想定したものだった。当の日本はどう受け止めてい
たのか。明治天皇はアメリカとの摩擦を考慮し、ハワイのカラカウア国王から打診されたカイウ
ラニ王女と日本の皇族との婚儀を断った。
アメリカの「宣教師の息子」たちがハワイを乗っ取ったクーデターの際も、日本の駐ハワイ公使
は日系移民が奴隷的な扱いを受けないという条件付きで「アメリカがハワイ王国を取ることにあ
えて反対はしない」と答えている。アメリカ本土を脅かすどころかあまりにナイーブな小国の姿が
そこにはある。
19世紀の終わりに起きた「浪速」のハワイ共和国への礼砲拒否に対し、アメリカの答礼は、太
平洋地域の軍事脅威論の中心に日本を据えることだった。20世紀に入るとそれは、人種にまつ
わる微妙な感情とあいまって米国の対日認識の基調低音となっていった。
304 :
高山正之:02/03/15 15:47 ID:EUbOPZMX
豆事典
☆米議会決議 「王国転覆から100周年ですが、昨年からハワイ先住民についての話は知事
に聞いていました。私はここに知事やイノウエ上院議員、アカカ上院議員と一緒になって積極的
にこの問題に取り組んでいくことを約束します」(1993年7月11日、ホノルルのヒルトン・ハワイア
ン・ビレッジでのクリントン大統領のスピーチより)。約3カ月後の10月27日、米上院はハワイ王国
転覆行為を違法と認め謝罪決議を採択した。
☆セオドア・ルーズベルト(1858−1919年) 第26代アメリカ大統領(共和党)。1901年9月、マッキ
ンレー大統領が暗殺されたため、米史上最年少(42歳)で大統領に就任した。社会経済政策では
政府が公共の利益に積極的に関与しなければならないとしてトラスト規制などを推進。対外的に
は「こん棒を手に、穏やかに話す」との手法で大国としての米国の利益を主張し積極外交を展開
した。1906年、米大統領として初めてノーベル平和賞受賞。
☆パナマ運河 パナマ地峡を通り、太平洋と大西洋を結ぶ長さ65キロの運河。パナマ運河の建
設は海面と内陸部の高低差が最大100メートルの険しい地形を掘り進む難工事で、フランスのレ
セップスらが黄熱病やマラリアなど熱帯病と資金不足で断念した後、1914年に米国が10年がか
りで完成させた。運河は太平洋側に2つ、大西洋側に1つの計3つの水門を作ることで、高低差
の問題を解消。世界の大型貨物船、軍艦の多くはパナマ運河の階段ともいうべきこの水門の水
路(幅33.5メートル)を通過できるぎりぎりの大きさに設計されている。パナマ運河管理権は米国
が握っていたが、77年の米パナマ新運河条約により、99年12月31日に米国が基地などに使って
いた周辺の14万ヘクタールの土地や関連施設とともにパナマに返還される。
今度は高山くん、なんだ。
なんか虚(むな)しくない?
社命とはいえ、荒らしをするのって。
306 :
元社員:02/03/15 22:41 ID:aAV8pASH
問題の解決をせず、解決にならないことを
必死になってやるのがこの会社のアホなところなのよ。
307 :
卵の名無しさん:02/03/15 22:56 ID:WBTVH6cP
こんな会社のMRって情けないやろなぁ
308 :
元社員:02/03/15 23:10 ID:aAV8pASH
たしかに情けないけど、こんな会社でも
何年かいれば愛着もわくし、お世話になった販社の方への
感謝もあるからなかなかやめられないんだよ。
俺もやめようと思ってから実際にやめるまで何年か掛かったし。
サワイって本当にいろいろ書かれてるなあ。
俺も実は1年ほど前に辞めて、現在某外資系でMRやってます。
辞める時はちょっと迷ったけど、やはり転職して正解だったと
今は思っています。
給料がどうのとかいう以前に将来このままここで働いていて
大丈夫だろうか?ということだったんです。
辞めるまで半年かかりました。
いままでに有能な人がたくさん辞めていき、その理由を聞くと
自分も早く転職した方がいいという気持ちがだんだん大きく
なっていったのです。今も転職を考えているサワイのMRさんが
いたら、転職した方が正解だと思います。
ただし、外資に来たいなら、必ず複数の在籍社員に状況を聞いて
見ることをお勧めします。
310 :
高山正之 :02/03/16 08:11 ID:kHJ9Lbge
■ 20世紀特派員−植民地の日々−01
ハノイヒルトン−床の上にさびた鉄の輪が残る
ベトナムの首都、ハノイには冷戦崩壊直後の1990年にも1度来たことがある。ホテルの部屋は
暗く、明かりも40ワットぐらいで、天井や壁をヤモリが好き勝手にはい回っていた。そのヤモリが
体に似合わず大きな声で鳴き、それが人間さまの笑い声そっくりで夜中にびっくりして跳び起き
ることもしばしばだった。レストランも照明は暗く、そのころはやっていた喫茶店にいたってはほと
んど真っ暗だった。ベトナム戦争時代の北爆と灯火管制のおかげで「夜目が利くようになったか
ら」という説明だったが、本当だったのだろうか。
《原型のまま》 それから7年後のこの春に訪れてみると、街は驚くほど変わっていた。ホテルか
らヤモリが消え、自転車の洪水だった道路もバイクと自動車に主役の座を渡し、郊外に出れば
どこにでも見かけた米軍の遺棄戦車や戦勝スローガンの垂れ幕が取り払われていた。
外国人の姿も目立ち、ハノイ中心部のホアン・キエム(還剣)湖で会った米国のコンピューター企
業、ロータス社の社員、マーク・バーグランドは「1回8000ドルもする人工授精を6回も失敗」し
て養子を求めにきたと話す。ほかに17組の夫婦がここやダナンで養子の斡旋あっせんを受けて
いるという。「ベトナム戦争はもう遠い歴史でしかない」とバーグランドは言った。
長らく空席だった駐ベトナム・アメリカ大使にダグラス・ピーターソンが指名され、赴任してきたの
もこの時期だった。実はピーターソンもハノイは初めてではない。1966年、米空軍パイロットと
して、F4ファントムに搭乗し、ハノイ爆撃に何度か出動した。いわゆる第一次北爆である。何度
目かの出撃のとき、地上砲火で撃墜されて捕虜(POW)になった。収容先は、あの「ハノイヒルト
ン」だった。彼はそこで6年半を過ごした。
ピーターソン大使はこの体験についてあまり多くを語らないが、“同宿者”だったジョン・マケイン
上院議員(アリゾナ州選出)はよく覚えている。「個室は奥行き1・8メートル、幅60センチで、床に
埋め込まれた鉄の輪に足を固定された。窓もなく、夏場には鎖で繋がれたまま熱射病になった。
ホテルとしてはまあ、三流だね」
その「ハノイヒルトン」はハノイ市内の中心、通称ファーロー(刑務所)通りにある。訪れてみるとす
でに取り壊され、跡地にはシンガポール資本の企業が25階建てと13階建ての「ハノイ・セントラ
ルタワー」を建設中だった。完成後はホテルとオフィスが入る予定だが、その一角に獄舎の一部
が原型のまま残されるという。
しかし、それは「ハノイヒルトンとしてではなく、監獄の正式名・メゾン・サントラル(中央刑務所)と
して」だと、国立歴史学委員会のブイ・ディンタン教授は「フランスがここにきてベトナム人のため
に最初に建てたのは学校でも工場でもなく、この監獄」だったと言う。解体中の獄舎を覗いてみ
ると、薄暗がりのコンクリート床にさびた鉄の輪が残っていた。その輪にはピーターソン大使を含
む335人の米軍POWのほか、「何十倍ものベトナム人がつながれた」とブイ教授は話す。
311 :
高山正之:02/03/16 08:12 ID:kHJ9Lbge
その中には、20世紀初頭の対仏抵抗運動のリーダーだったファン・ボイチャウ(潘佩珠)もいれ
ば、レ・ズアン、グエン・バンリンなどの名もある。ド・ムオイが脱獄に使った下水管の一部も保存
されている。ブイ教授によると「メゾン・サントラルはそのままベトナム独立史でもある」という。
収容定数460人のこのモダンな監獄が完成したのは1889年で、フランスはそれからの数年の
間にほぼ同じ規模の監獄を全土に7つ建設した。サイゴン(ホーチミン市)のカムロン刑務所もハ
ノイの「メゾン・サントラル」と並ぶ荘厳な建築物で、南北ベトナムが統一されたとき、取り壊すの
はもったいないから、と今では国立図書館として再利用されている。
《ギロチン台》 有名な「プーロ・コンドール」もこの時につくられた。ベトナム語では崑島(コンダ
オ)と呼ばれる南シナ海に浮かぶこの島の監獄は1896年に完成、ディエンビエンフーでフラン
ス軍が敗れる1954年まで反仏レジスタンスの終着駅として機能した。4棟の監獄のかたわらに
はレンガ壁の処刑場がある。
そこに立たされた数千人の中で最も有名なのがボー・ティサオだろうか?、抗仏独立戦争さなか
の1949年夏、フランス側についたベトナム人官吏を暗殺したというのが罪状だった。彼女は当
時13歳、そして16歳のときにもう1件の暗殺を企て、失敗してこの島に送られた。ベトナムでは
彼女を悼む歌「ビエト・ボー・ティサオ」は国歌についで広く知られている。
この監獄はその後、南ベトナム政府に引き継がれ、ベトナム戦争当時はベトコンを収容する「虎
の檻(おり)」として、世界に知れわたることになる。7つの監獄はもっぱら政治犯用として使われ
たが、20世紀に入るとこれでも足りなくなったため、フランスは定員の3倍まで囚人を詰め込む
ことにし、それでもあふれると、別の定員緩和策をとった。ギロチンの投入である。
ギロチンは今、ハノイの革命博物館に1台、そしてホーチミン(サイゴン)の戦争記念館に1台が
残されている。重さ50キロの鉄の刃が4・5メートルの高さから落ちてくるこの処刑台は「全土の
監獄に置かれ、総数は30台にのぼった」(ブイ教授)という。
執行状況は「調査中」だが、ブイ教授によると「1902年からの10年間の記録では24380人が
収監され、その半分の約12000人が首を落とされた」という。それが本当なら1日2人に執行さ
れた計算だ。この数字が必ずしも誇張とはいえないことをうかがわせるエピソードがある。20世
紀初めに「反仏闘争の首謀者の1人、リヨン・タムキーにギロチン刑が執行されたが、あまりに多
くの首を切ったため、刃がなまり、首を半分切られただけで、釈放された」というのだ。彼はその
後、1913年まで反仏活動を続けた歴史上の人物である。
しかし、それでも囚人は増え続け、フランスはもっと大型の監獄四つを新設する。最後のひとつ
となったのは、四階建のサイゴン第2刑務所「チーファ」で、完成は第2次大戦さなかの1943年
になる。
「フランス人はここにいる間、ひたすら監獄を作っていた」とはブイ教授の感想である。しかし、フ
ランスはそれだけのためにここにきたわけではない。
312 :
高山正之:02/03/16 08:13 ID:kHJ9Lbge
■豆事典
▽ダナン 港町として古くから栄えたベトナム中部の中心都市。ベトナム戦争への大規模直接
介入を決めた米軍は1965年3月、この地を上陸拠点としており、米空軍基地や南ベトナム政府
軍第一軍団司令部も置かれて、一時は軍事的要地にもなった。現在は商業港としてにぎわって
いる。
▽レ・ズアン(1908−86年) ベトナム南部クアンチ省の貧農の家に生まれ、1930年、インドシナ
共産党(ベトナム共産党の前身)の創立にホー・チ・ミンらと参加、その後は常に党の指導的立場
にいた。31年に抗仏運動で逮捕され、合計10年間の獄中生活を送る。51年に党中央委政治局
員、60年には党第1書記に選出された。第1書記は76年、書記長と改称、レ・ズアンが初代書記
長に就任した。
▽グエン・バンリン(1915年− ) ベトナム共産党前書記長。14歳で抗仏独立闘争に参加し、
1930年、フランス当局に逮捕される。獄中歴10年。ベトナム戦争中は南ベトナムでの宣伝工作を
担当し、76年、政治局員兼書記に登用される。一時失脚したが復活し、86年、党書記長に選出さ
れた。91年引退。
▽ド・ムオイ(1917年− ) ベトナム共産党書記長。19歳で抗仏闘争に身を投じ、24歳から4年
間、獄中で過ごす。ベトナム戦争時代は北部から南部への武器供給路「ホーチミン・ルート」の
建設、維持を指導した。1981年、副首相、88年には首相に選出され、91年から党書記長。
▽ディエンビエンフー ハノイの北西400キロ、ラオス国境に近い高原の町。フランス植民地軍
が精鋭部隊を常駐させていたが、ベトナム人民軍に包囲され1954年5月に陥落。このフランス軍
の決定的敗北により同年7月、ジュネーブ協定が成立。米中ソの思惑でベトナムは南北に分断
された。
▽ベトコン 「南ベトナム解放民族戦線」の俗称。共産主義者や農民、宗教家、知識人などの諸
団体を含んだ民族統一戦線として1960年12月に結成され、69年には南ベトナム共和臨時革命政
府を樹立、北ベトナム政府軍と結んでゲリラ戦を続けた。
313 :
高山正之:02/03/16 08:27 ID:PbF8DUJx
■ 20世紀特派員−植民地の日々−02
フランス的手法−重税、アヘン乱売、そして投獄
フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」の中で、「工業化に成功した西欧諸国は18世紀半ばに
して、1人当たり国民所得が今日の第3世界を上回っていた」と書いている。ニューヨーク・タイム
ズ紙(1996年8月20日付)の社説にも「19世紀、人口2900万の英国には200万人の家住み
召し使いがいた」とある。
フクヤマはその豊かさを「白人キリスト教国家のみが、いち早く工業化をなし得た成果」と断言す
るが、さてどうだろう。電気炉を開発したからといって、それでただちに「糞尿あふれるパリ」(アラ
ン・コルバン著「においの歴史」)を大改造できたり、中流以上の家庭がすべて住み込みの召し使
いをもてるようになったわけではない。フクヤマが別の項で書いているように、その成果を「軍事
的有利さ」に変えて植民地を獲得し、資源や富を吸い上げたからこそだという説明もある。
《生死にも税》 ベトナムにきて、まず監獄とギロチンを用意したフランスはその好例といえるか
もしれない。彼らがいかに資源と富の回収にいそしんだかを潘佩珠(ファン・ボイチャウ)が「越南
亡国史」に書いている。潘はベトナムの百年に及ぶ独立抵抗史の前半を仕切った最大の指導者
である。
「フランスの課税はひどかった。人々にはほぼ1カ月分の収入に当たる人頭税がかけられた」と
いう。これはイスラム勢力がアラーへの帰依を拒むペルシャなどで懲罰的に行ったジズヤと同じ
で、収入に関係なく一定額を全成人に課す方法だ。イスラムはこれだけだったが、フランスは「ほ
かに田畑、家屋、市場、河川の渡し税も用意した。さらに死亡と出産を対象とする生死税、葬式
や先祖の祭り、結婚式にも税金をかけた」と潘は記している。「越南亡国史」は1905年、潘が
日本を訪れたときに出版したもので、ここに列挙したのはまだ序の口だった。
女性ジャーナリスト、アンドレイ・ビオリスの「インドシナSOS」によると、ベトナム植民地政府は
このあと、種々の専売制を導入し、自家製だったジオガ(どぶろく)などアルコール類をフランス企
業「フォンテーヌ」の独占にして自家醸造を法律で禁止した。海岸線の長いベトナムでは塩も自
家製が普通だったが、酒と同様、専売制になり、「コメと同じ価格」になった。
「ニョクマム法」というのもできた。「人民の健康を保持するため」、ニョクマムの容器は衛生的な
ふた付きのビンとすることを義務づけた。その種のビンはフランス企業が独占製造していて、ビ
ンはもちろん高値で売られた。
「20世紀の初めの平均的農民、労働者は年収32ピアストルだった」と米国のベトナム史研究の第1人者、プリンストン大学のジョン・マカリスター教授はその著書「革命の原点」で述べている。
現在の円にすると約3万円に当たる。前述した直接税の合計は7ピアストル、塩など専売による
間接税も入れると20ピアストルとなり、収入のほぼ3分の2が直接、間接の税金としてしぼりと
られていたことになる。これでもまだすべてではない。
314 :
卵の名無しさん:02/03/16 09:03 ID:J0lL2i78
外資へトラバーユして心機一転がんばったらいいのですよ。
不満をもちながら劣悪な環境に固執する必要はないように思う。
315 :
高山正之:02/03/16 09:03 ID:UfdSwii+
もともとフランスが東南アジアに来たきっかけは阿片戦争の応援だった。イギリスはこの戦争で
香港を手に入れ、アヘン貿易の権利も取って1908年まで続けた。フランス、アメリカの貿易商
もこの「再開されたアヘン貿易」に加わり、巨万の富を築いた。アメリカでは後のフランクリン・デ
ラノ・ルーズベルト大統領の母方のデラノ家などがその筆頭格だった。
アヘンのうまみを知るフランスは、それをこのベトナムで商売にした。「各都市にはアヘン窟が置
かれ、地方の村にも『R・O』の看板をかけた店ができ、村の監督者はその割り当て量を消化す
るよう命令された」とビオリスは告発している。
「R・O」はレジ・オピアム(アヘン公社)の略で、植民地政府は「年間1500万ピアストル(現在の
価格で20億円)の収入を得ていた。アヘン吸引者もこの強制割当制で一挙に21万人に増加し
た」とビオリスは書く。
フランス本国ではアヘン売買、吸引は20世紀に入る前に犯罪として禁止されていたし、フランス
は1912年のハーグ国際アヘン禁止条約も批准している。しかし、同じ批准国であるイギリスの
植民地、マレー半島やビルマで、そしてフランス領インドシナでこうした商売がその後も公然と続
けられたのは、この条約に「その植民地、保護領のために、この条約を批准、又は廃棄をなしう
る」という例外規定があったからだ。
《強制連行も》 賦役もあった。鉄道、道路、フランス居留民のための快適な都市、ダラトなどの
建設に狩り出された。賦役には軍務も含まれ、第1次大戦では43000人がヨーロッパ戦線に出
兵し、ほかに49000人が炭鉱労働者として強制連行された。第二次大戦前にはさらに大規模
な強制連行が行われ、29万人がヨーロッパ、アフリカに送り出されている。
重税、賦役などで追い詰められた農民はインドやビルマ(ミャンマー)での農民と同じように、やが
て田畑を手放す。土地を手にいれるのは精米業者として入り込んでいた華僑やコーヒー、コメな
ど大型プランテーションを経営するフランス人たちだった。しかし、土地を失った農民にも人頭税
はかかる。滞納は投獄だった。残る手段は“逃散”だが、「住民はパスポート所持を義務づけら
れ、許可なく村を離れることを禁止した。背けば、親族まで投獄された」(ビオリス)フランス領イン
ドシナの成立直後から第二次大戦までフランス人が飽きもせずに監獄を作り続けた理由がここ
にもあった。
こうした統治には当然、強力な警察組織と軍隊が必要で、20世紀初頭にすでに「シュレテ(秘密
警察)」を数百人抱え、さらに近代装備を施したフランス人兵士2万人を常駐させた。その維持
費、さらにインフラ整備を行いながらも、植民地政府はスタート早々に単年度400万ピアストル
(約7億円)の純益を上げた記録が残っている。まさに3日やったらやめられないのが植民地経営
だった。
マカリスター教授は、「フランスは圧政を敷いたが、反面、戸籍を整備したし、財政の効率化をも
図った」と称賛する。しかし、それは人頭税やアヘンの割り当てを決めるための作業でもある。
富と資源を確保した植民地政府はさらにベトナム文化の破壊にも手を伸ばした。
316 :
高山正之:02/03/16 09:05 ID:UfdSwii+
■豆事典
▽フランシス・フクヤマ(1952年− ) シカゴ生まれの日系米人で、米国務省政策企画部を経
て、民間有力シンクタンク「ランド研究所」顧問。1989年夏に論文「歴史の終わり」を発表し、「西
側の自由民主主義がソ連や東欧の共産主義を圧倒して思想としての勝利を収め、全世界的に
広がる」と説き、ソ連・東欧の崩壊と冷戦終結を予言するかたちになった。
▽ジズヤ イスラム世界で行われていた人頭税。イスラム勢力は7世紀以降、西アジアや北ア
フリカを領土とすると、異教徒たちに従来の信仰を保持することを許す代わりに人頭税を課し
た。征服者側にとって重要な財源だったが、次第にイスラム教への改宗者の数が増大したため
ジズヤの財源としての重要性は失われ、20世紀に入ってから廃止された。
▽ニョクマム ベトナムやカンボジア料理でよく使われる調味料。魚醤(ぎょしょう)ともいわれる。
▽ハーグ国際アヘン禁止条約 1912年にオランダのハーグで開かれた国際アヘン会議で結ば
れた条約。この条約ではアヘンの生産、利用には触れておらず、貿易のみを禁止した。その後、
1931年に国際連盟の規約にもとづいて国際アヘン条約が結ばれ、生産を制限すること、利用は
医療・学術面に限ることなどが初めて決められた。
▽ダラト ベトナム南部の海抜1400〜1500メートルにある高原都市。熱帯だが年間を通じて気
温が18−23℃で、日本の軽井沢を思わせる避暑地になっている。20世紀初頭に開発され、フラ
ンス風建築のヴィラが点在している。付近ではホーチミン(サイゴン、南西240キロ)へ供給する花
や野菜の栽培が盛ん。郊外には、日本の戦争賠償で建設されたダニム・ダムがある。
317 :
高山正之:02/03/16 09:13 ID:ekSZxjcX
■ 20世紀特派員−植民地の日々−03
東風一陣 大国に翻弄される小国の悲哀
ベトナム中部最大の都市ダナンから少し南に下るとホイアンの街がある。東シナ海で漂流する
と、潮流に乗ってこの辺りに流れ着くといわれ、遣唐留学生だった阿倍仲麻呂も帰国の船が難
破して、ここに漂着している。そういう潮流の取り持つ縁もあって日本との交易も盛んで、ホイア
ンは江戸時代初めまでは日本人町として知られていた。
〈読めぬ言葉〉 7年前にベトナムを取材したとき、この街をベトナム外務省のルー・フォンさんと
訪ねた。彼女の父は大使の経験もあるベトナム労働党(ベトナム共産党)の高級幹部だった人で
あり、彼女自身もキエフ大学に留学し、ロシア語のほか、英、仏語も話せる。この国では怖いも
のなしのエリート外交官である。
その彼女が一瞬、しゅんとした。街中の川にかかる赤い橋に「日本国人所作」云々の漢文、正し
くはベトナム国字(チュノム)でその由来が書かれているのだが、フォンさんにはそれが読めない
という。「自分の国で、自分たちの祖父母が使っていた言葉を読めないつらさが分かりますか」
ベトナムも日本と同じ漢字文化である。ただ、日本では難しい漢字を平易な仮名文字に作り替え
たのに対してベトナムでは逆にもっと字画の多い造成漢字チュノムを作った。フランスは凝りす
ぎのチュノムをやめさせ、かわりにローマ字表記の「クオックグー」を強制した。
この辺は評価の分かれるところだが、フランスはさらに踏み込んで公用語にフランス語を据える
作業を始めた。この国は11世紀から中国風に科挙の制を取り入れてきたが、1903年からこの
科挙に仏文のエッセーを必修科目として加えた。そして第一次大戦後には全科目ともフランス語
に切り替えていった。
しかし、そのフランス語教育も対仏独立戦争、ベトナム戦争で中断され、今はローマ字表記だけ
が残っている。ベトナム語で革命を「カクマン」、漁業を「スイサン」というが、なぜ、そういうのか
ルー・フォンは語源を知らない。ベトナム共産党のバイブルでもあるホーチミンの「獄中日記」は
チュノムで書かれ、優れた漢詩も多いが、今それを読める党員はいない。
英国の近代史家、クリストファー・ソーンはこれを「文化的侵略」と呼ぶが、ベトナム国内にもこう
した言語、文化つぶしとも呼べる政策に、強く反発する男がいた。潘佩珠(ファン・ボイチャウ)で
ある。彼は1867年、地方の名家に生まれ、仏語エッセーが入る前の科挙の試験を首席でパス
している。学者としての名声に加え、早くから国際社会に目をむけてベトナムの進むべき道を説
く姿は吉田松陰に似ていなくもない。
彼が育った時代はフランスがベトナムを次々に武力で植民地化し、それに反抗して各地に反仏
抗争が燃え広がっていく時期に合致する。その中で最大の抵抗は1885年、安南国王ハムギ帝
を据えてベトナム全土でフランス軍に抵抗ののろしをあげた文紳(ブンタン)の乱だった。名のあ
る部将は山岳部に隠しとりでを築いて奇襲をかけ、ゲリラ戦を展開した。
318 :
高山正之:02/03/16 09:20 ID:O1PQfVgw
あんたの会社、営業所長の給料なんとかしてやれよ
あれではバイトしないと嫁さんと子供を養えないと思うよ
319 :
高山正之:02/03/16 09:22 ID:xeFDv34h
しかし、しょせん武器は刀と旧式の銃のみ。一方のフランス軍は連発式ライフルに73ミリ野砲な
ど近代兵器を送り込み、抵抗の芽を摘んでいった。結局、11年間に及んだ抵抗は完全に鎮圧さ
れ、ハムギ帝は捕らわれてアルジェリアに流され、2度と故国に帰ることはなかった。
圧倒的なフランス軍の強さの前に抵抗を放棄し、現状を容認する人々がでてくる。人心は乱れ、
伝統は捨てられていった。そのころのベトナムについて、潘はジャーナリストのアンドレイ・ビオリ
スに語っている。
「昔は官吏とは良識ある人を意味した。彼らは三年ごとに試験を受け、俸給も信じられないほど
安かった。たまに悪い役人もでるが、そういうとき、民衆には国王に直訴する権利が認められて
いた。フエの王城の前に太鼓が用意され、直訴する民がたたくと、国王は自ら門を開いて直訴に
耳を傾けなければならなかった」
しかし、と潘は嘆く。「今はフランス人の通訳や下僕だった人々が知事などの要職につき、思い
付くままに新しい税を課した。フランスの下僕になったものだけが私腹を肥やし、子弟をフランス
に留学させられた」
潘はその当時、すでに海外の情勢に目を見開いていた。文紳の乱のさなか、ハムギ帝は清に幾
度となく救援を請うた。中国は朝貢する属藩国の危機を救う義務がある。ところが、清は救援す
るどころか朝鮮をめぐって対立していた新興国日本を抑えるためにフランスと手を結び、その代
償にベトナムを放棄する。それは二千年にわたってアジアに君臨し、朝貢の見返りに安全保障
を約束してきた中国と周辺諸国の規範が消滅したことを意味した。
〈驚異の勝利〉 潘はこれを「琉球血涙新書」にまとめている。もうひとつの朝貢国、琉球がやは
り清王朝に見捨てられ、日本に併合された“悲劇”を綴ったものだが、それは「琉球」に託してベ
トナム自身の姿を投影させた憂国の書であり、同時にもはや過去の規範が通用しなくなった新し
い時代に入ったことを知らせる警告の書でもあった。
朝鮮をめぐる争いでは、朝鮮の領有をねらうロシアと日本が衝突し、日露戦争が勃発する。ベト
ナム人が芙桑(フータン)と呼ぶ同じ肌の色をした日本人が、白人の大国ロシアに自ら戦いを挑
み、勝利を続ける様子はベトナム人には驚異に映った。
「日本の戦いぶりは村々を流す歌謡(カーザイ)師や弾月(ダンゲット=一弦琴)の講釈師が歌や
語りで伝え歩き、人々は狂喜して聞き入った」と、このころの街の様子を川本邦衛・慶応議塾大
学教授は「ベトナム詩歌と歴史」に書く。
潘も当時の印象をこう書き留めている。「この時に当たって東風一陣、人をして爽快たらしめる
事件が起きた。旅順、遼東の砲声が私たちの耳に響いてきたことだ。日露戦役は私たちの頭脳
に一新世界を開かしめた」潘はベトナムを救う糸口を求め、この新興日本に旅立つ決意をした。
320 :
高山正之:02/03/16 09:23 ID:xeFDv34h
■豆事典
▽阿倍仲麻呂(698−770年) 天平時代の文人。19歳で遣唐使の一員として唐にわたり、官吏登
用試験の科挙に合格して要職を歴任した。その後、何度も帰国を願い出て753年にやっと認め
られたが、途中で船が難破し、安南に漂着。苦労の末に唐の都・長安に帰還した。帰国は実現
せず、長安に没した。
▽ベトナム労働党 ベトナム共産党の1951−76年の呼称。1930年2月、ホーチミンを中心に香
港で結成した政党が同年10月にインドシナ共産党と改称、マカオで初の党大会を開いた。41年
には民族統一戦線組織であるベトナム独立同盟(ベトミン)を結成。45年の8月革命後、一時偽装
解散したが、51年にベトナム労働党として公然と活動を再開、76年ベトナム共産党と改称した。
▽キエフ大学 1834年に設立されたウクライナを代表する大学。赤色の建築で有名。農奴出身
の詩人・画家で、革命家でもあったタラス・シェフチェンコ(1814−1861年)にちなんでシェフチェン
コ大学とも呼ばれている。
▽吉田松陰(1830−59年) 幕末の志士・教育者。長州藩士の二男として生まれ、幼時に軍学者
の吉田家の養子となる。ペリーの来航に触発されて米国船に密航を願い出たが、拒絶され、故
郷の萩の野山獄に幽閉された。後に松下村塾で藩士の師弟を教育。高杉晋作ら幕末を代表す
る志士が集まった。明治政府の中心となる伊藤博文や山県有朋も同塾の出身。
▽ハムギ帝(1872−1947年) グエン朝ベトナムの第8代皇帝。1884年に即位したが、ベトナムは
すでに南部のコーチシナがフランス直轄領になっており、帝の即位の年には北部のトンキンもフ
ランス保護領となったため、実質的には中部の安南国の国王でしかなかった。翌年7月、臣下と
ともにフランス駐留軍を急襲。フランスはハムギ帝の廃位を宣言し、兄を皇位につけた。約3年
間ゲリラ戦を続けたが、部下の密告でフランス軍の捕虜となり、流刑地のアルジェリアで死亡。
▽フエ ベトナム中部の古都。フランス語読みでは「ユエ」。漢字で「順化」とも書く。紀元前3世
紀ごろから発展、19世紀初頭のベトナム統一後は帝都として栄えた。
321 :
高山正之:02/03/16 09:39 ID:1e265QY5
■ 20世紀特派員−植民地の日々−04
国際都市東京 祖国独立の夢託し、相次ぐ訪問
ほぼ1世紀に及ぶベトナム独立抵抗史の後半の主役がホーチミンだとすれば、前半の主役は潘
佩珠(ファン・ボイチャウ)になるだろう。その潘が横浜港に着いたのは1905年(明治38年)4月
中旬だった。日露戦争の帰趨を決めた日本海海戦はそれから1カ月余り先になり、ロシアのバ
ルチック艦隊はこのころ仏領インドシナのカムラン湾で落ち着かない最後の休養をとっていた。
横浜市内に宿をとった潘は、同じ市内で中国語の新聞「新民叢報」を発行する梁啓超に手紙を
したためた。梁は康有為と並ぶ変法自彊運動の推進者で、その数年前に起きた戊戌の政変に
よって国を追われ、日本に亡命していた。
潘は日本に独立の支援を頼みにきた。その彼が最初に面会を求めたのが日本の政財界人では
なく、中国からの亡命政客だったことは、このころの「日本」の姿をある意味で象徴しているかも
しれない。
《留学ブーム》 この時代、つまり20世紀の入り口にあった日本には、実にさまざまな国から亡
命者や祖国を思う留学生が集まっていた。「慶応義塾50年史」によれば、最初の留学生は朝鮮
からで、1881年(明治14年)、開化派の重鎮、金玉均が送り出した6人が来日し、「2人が慶応
義塾に、1人が中村正直の同人社に語学留学し、残る3人が陸軍士官学校に入った」とある。
83年にも金玉均は60人を慶応義塾に預けたが、日本語を習得した学生は税関、郵便事業、農
業、さらに陸軍にも入り、祖国近代化の実務を学んだ。彼らの一部は開化派による政変、いわ
ゆる甲申の政変(1884年)に加わるが、開化派は敗れてリーダーの金玉均は日本に逃げ、亡命
政客の第1号となる。金は一時、小笠原諸島にまで身を潜ませたが、1904年、上海で政敵の
手先に暗殺される。
中国からは、1895年に広東蜂起に失敗して清王朝に追われた孫文が亡命、98年には前述し
た梁ら変法自彊派が逃げてきて、シンガポールに脱出した康有為もやがて合流する。ともに広
東出身の孫文、康有為は満州民族の清と対決する「滅満興漢」の姿勢では共通していたが、孫
文は、いわゆる三民主義に基づいた共和制国家を、康有為は梁啓超とともに漢民族の王政復
古−立憲君主国家を目標に置き、この二派は東京を舞台に論争を続けていた。
中国からは留学生も大量にきた。日清戦争直後の96年に13人が東京高等師範学校(嘉納治
五郎校長)に留学して以来、毎年数百人単位の留学生が日本を目指し、潘が横浜に降り立った
1905年には「東京だけで8600人」(朝日新聞05年12月7日付)にも上っていた。この中には
文学者の魯迅、北京大学の教授となる弟の周作人なども含まれる。
日本留学のブームに火をつけたのは変法派の張之洞が著した「勧学篇」といわれる。大国中国
がなぜ小国日本に負けたのか。張はその答えはアジアでいちはやく富国強兵策をとり、近代化
を目指した日本にあること、そして日本には中国では得られない世界の文献が準備され、日本
語さえマスターすれば、そうした文献が全て習得できると説き、中国人青年に留学を勧めた。
322 :
高山正之:02/03/16 09:50 ID:ZYlBrUuc
当時の日本はこうした亡命政客や留学生の受け入れにかなり好意的だったようだ。慶応義塾や
東京高師、汪兆銘も学んだ法政速成科(現法政大)などが留学生枠を設けたほか、東京同文書
院、嘉納治五郎の私塾の弘文学院、語学研修を兼ねた士官学校予備校でもある振武学校(現
在の成城大学)など、アジアからの留学生の受け入れ施設も用意された。
主に朝鮮人学生を引き受けていた福沢諭吉は「(アジア諸国の青年を)文をもって誘導し、速や
かに我が例にならいて近時の文明に入らしめるべし」と書いている。それが当時の日本の雰囲
気だった。
《武器ほしい》 しかし、もっと切迫した訪問客もいた。例えばフィリピンからきたマリアーノ・ポン
セである。フィリピンは1898年の米西戦争で、やっとスペインの圧政から解放されたが、独立を
支援するはずだったアメリカはそのままスペインの後釜に居座り、かえってアギナルド将軍の率
いる独立軍を追い詰めていた。ポンセは新たな宗主国、アメリカと戦っているアギナルド将軍に
頼まれて武器を求めにきたのだ。
日本政府にはアメリカと事を構えるのにためらいがあった。しかし、ポンセに同情した孫文が民
族主義者の宮崎滔天ら政財界人に働きかけ、結局、憲政党の中村弥六議員が中心になって日
清戦争の戦利品だったモーゼル銃20万丁をフィリピンに送り出した。世にいう「布引丸」事件だ
が、この船は途中、東シナ海で台風のために沈没する。
アギナルド将軍は満足な武器もないまま、その後3年間戦い続けたが、1901年にアメリカ軍に
捕まってフィリピンの独立運動は消滅する。
潘の訪日もポンセと同じだった。宗主国フランスと戦う武器がほしい。それを得て「ベトナムとは
歴史的なつながりのある広東の軍閥の協力を求めて武装蜂起する予定だった」と後に死刑を待
つ監獄の中でまとめた「獄中記」に記している。
潘は梁啓超に会うと、その意図を素直に告げた。梁は首を振った。日本はロシアと文字どおり国
家存亡がかかった消耗戦をしているさなかで、ベトナムに武器を回すほどの余力がないことを説
明し、ベトナムを支援すれば、フランスのみならず欧米諸国を敵に回すことになるという国際情
勢を説いた。
そして「まず、人材を育て国内に実力を蓄えよ、軍備は瑣末なことで、日本にはむしろ外交援助
を求めるべきだと諭した」(獄中記)。梁はさらに日本にベトナムの現状を理解させるために有力
者に会うことを勧め、まず進歩党の犬養毅、大隈重信に潘を紹介した。潘はそれからの数カ月
間に政財界要人の知遇を得る。この中には後藤新平、頭山満などの名もあった。
潘は二つの決断を下した。ひとつは安南王朝の始祖、嘉隆帝の直系5代目に当たり、ベトナム
の独立をうたう「維新会」のリーダーでもあるクオンデ候を日本に亡命させること。そしてもうひと
つが中国、朝鮮にならってベトナム青年に日本留学を勧めることだった。
323 :
高山正之:02/03/16 09:52 ID:ZYlBrUuc
■ 豆事典
▽変法自彊運動 中国・清朝末期の改革運動。日清戦争の惨敗とこれに続く列強の中国分割
に危機感を深めた康有為(1858−1927年)、梁啓超(1873−1929年)ら若い知識人層が、中国の近
代化のためには政治、教育体制を根本的に改革しなければならないと主張し、光緒帝により登
用された。しかし、反対派による戊戌の政変(1898年)でこれら若手官僚は失脚し、運動はとん挫
した。
▽金玉均(1851−94年) 朝鮮・李朝末期の王朝官僚で、近代的改革を目指した開化派の主導
者。日本の力を借り、上からの改革運動を推進しようとした。1884年に甲申の変を起こし、親清
(中国)派を打倒しようとしたが、敗走して日本に亡命した。
▽魯迅(1881−1936年) 中国の文学者。1902年に日本に留学。当初、医者を志し仙台医専に入
学したが、2年で中退し文学運動に傾斜した。帰国後、教員生活を送りながら「狂人日記」「阿Q
正伝」などの代表作を著した。
▽周作人(1885−1967年) 魯迅の弟で随筆家。1906年、日本に留学、立教大学で文学を学び、
帰国後、北京大学教授となる。
▽東京同文書院 日清戦争後に組織された大陸政策推進団体の東亜同文会が1899年(明治32
年)、東京に開設した中国人留学生のための教育施設。1922年(大正11年)までの間に3000人近
い留学生が学び、1858人が卒業した。東亜同文会は1901年、大陸で活躍する人材育成のため
の東亜同文書院を上海に設立している。
▽マリアーノ・ポンセ(1863−1918年) フィリピンの革命運動家。スペインに留学して医学を学
び、1898年には訪日して孫文、犬養毅らと親交を深める。米国統治下のフィリピン議会議員を1
期務めた。
▽宮崎滔天(1871−1922年) 熊本県出身。孫文らの中国革命運動の協力者。1905年、東京で
中国革命同盟会結成に参画、11年の辛亥革命(清朝崩壊)に協力した。
324 :
卵の名無しさん:02/03/16 10:24 ID:ETkqNuOU
この荒らしゾロへの攻撃書き込みを呼び込もうというのが目的とみた。
おまえの作戦は成功で新しいゾロスレッドが一体いくつできたんだ?今
325 :
高山正之:02/03/16 11:36 ID:6Yho54Z1
■ 20世紀特派員−植民地の日々−05
日本の花 日露戦勝で「東遊」ラッシュ
ホーチミンがまだ阮愛国を名乗ってパリにいたころに付き合いがあった仏文学者、小松清はトン
キン地方に咲き乱れる「日本の花」のことを書いている。
《1941年4月のある日、私はパリ時代からの旧友である詩人、阮江(グエン・ジャン)につれられ
てグラン・ラック(大湖)のほとりを歩いた。水辺には薄紫色の花が一面に咲き乱れていた。水ヒ
ヤシンスの1種だろう。しとやかな気品をもった花である。花の名を聞かれ、知らないというと「越
南人は『日本の花』と言ってます」と彼はいった。「日本が日露戦争に勝ったとき、だれかがこの
湖に植えた。ハイフォン港に入る日本の貨物船から入手したらしい」と。花は幾年かのうちに増
え、だれ言うともなしに『日本の花』と呼ぶようになった…》
いい話である。それがどんな花なのか、私は興味をそそられ、何冊かの植物辞典や園芸店に当
たったが、「水ヒヤシンス」の名さえ見つからなかった。小松は「水ヒヤシンスは九州の水田など
に自生している、浜葵に似た花」とも書いている。それをヒントに福岡市植物園に尋ねたら、数日
して「中南米原産のほてい葵ではないか?」という返事をいただいた。金魚鉢などに浮かべるほ
てい草のことである。これなら確かにサイゴン川でもハノイ周辺の水田などでも多く見かけた。
薄紫のヒヤシンスのような花もつける。20世紀初め、ハイフォン、サイゴン(ホーチミン)などの港
はバンメトット・コーヒーなどプランテーション作物を運ぶ貨物船でにぎわった。そんな船がほて
い葵を持ち込んだのだろう。そして日露戦争というタイミングに水田や沼で薄紫の花を咲かせた
のだ。
〈大きな刺激〉 「日本の花」の正体が中南米からの外来雑草だったのはちょっと残念な気もす
るが、同じ皮膚の色の小国が白人大国に勝った事実が白人の作った無限地獄ともいうべき環境
下のベトナム人にどれほど感銘を与え、どれほど勇気づけたかをこの小さなエピソードは十分に
物語っている。
「日本の花」が咲いたころ、もうひとつ、今度はまぎれもなく日本からベトナムに届けられたもの
があった。中国からの亡命政客、梁啓超の勧告を受けて、潘がベトナム青年に呼びかけた「遊
学を勧むる文」という小冊子である。
「亜州なお大邦あり。東海に伯気存し、米虎欧鯨をしてわが黄人種の蹂躙に」初めて歯止めをか
けた。なぜ、日本がそれをなし得たか。答えは日本にある。東京はすでに中国、朝鮮、インドな
どからの学生であふれている。ベトナムの青年も「日本に行き、そして学べ」と潘は訴えかけた。
小冊子は梁の主宰する新聞社「新民叢報」で数千部が印刷され、潘に随行してきた曽拔虎が香
港から広東、そしてベトナム国境を密かに越えて持ち帰ったと言う。潘の名声は高かった。彼が
姿を消し、シュレテ(秘密警察)が必死に行方を追っていることも知られていた。その潘が、日本
に密かに渡っていた、そして日本への密航を呼びかけてきたことは衝撃となってベトナム全土を
駆け抜けた。ベトナム独立史に「東遊(ドンズー)」と大書される日本留学運動がスタートする。
326 :
高山正之:02/03/16 11:43 ID:ZvOoezRp
この冊子の反響はよほど大きかったようで、潘が世の親に子供を留学させるよう説得する「全国
の父老に敬告す」とともに瞬く間に国中に読み回され、さらにはハノイ、サイゴンなど数カ所にフ
ランス官憲の目を盗んで日本行きの青年をかくまい、密出国の手助けをする地下組織ができた
と潘は後に記述している。
日本側にもベトナム人学生の留学ラッシュの記録がある。同文書院幹事の柏原文太郎がまとめ
た「安南学生教育顛末」には、小冊子ができた1905年暮れにはもう3人の若者が日本の土を
踏み、その後「60人余を受け入れ…」とか、驚いたことに「9歳、11歳の2人は東京小石川礫川
小学校に…」など幼い子供まで留学してきたことを示す記述も見える。学生は「いずれも清国広
東、広西人と称した」(明治41年、内務省調査)密航者だったが、日本側はその辺を、実に鷹揚
に扱い、中国、朝鮮の若者と同じように、同文書院、振武学校(福島安正校長)などに入学を認め
1907年には「300人のベトナム人子弟が日本で学んでいた」と小松清は書いている。
この「東遊」のうねりに呼応してハノイに「東京義塾」も作られた。創設者のファン・チューチンは
潘とともに日本に行き、見聞を広めて、「わが国を引き比べれば実に雛と大鷹の差がある」こと
を痛感、日本での活動は潘に任せ、ベトナムに戻ってこの学校を作った。名前でも分かるように
福沢諭吉の慶応義塾をモデルにしたものだ。
〈皇子が密航〉 潘はこの「東遊運動」とともに、もうひとつ、ベトナム独立の悲願をかけた博打
を打った。ベトナムに独立を取り戻す民族派の秘密結社、維新会のリーダーに推挙されたクオン
デ侯を日本に密航させることだった。
クオンデは19世紀初頭にベトナムを統一した嘉隆帝の直系5代目に当たる。当時23歳、小松
も「高貴な雰囲気をもつ貴公子」、「国民の声望も厚い」という形容詞を使っている。実際、植民
地政府も、反仏抗争を抑え込める人材として、安南国王に就任を迫ったこともあった。国王の座
に最も近い皇子を亡命させれば、日本も本気でベトナムに目をむけるだろう、というのが潘の読
みだった。
潘は人を介してクオンデに日本の状況を伝え、祖国脱出を訴えた。クオンデには美しい妃と3人
の子供がいた。フエの王城は植民地政府が厳重な警備を敷いていることを除けば、日々を暮ら
すには何不自由はなかった。王領はフランスがすでに没収していたが、それに代わって数千ピ
アストルの扶持も出ていた。日本への脱出はそれらをすべて捨て去ることになるが、クオンデは
ためらうことなく潘の申し出を快諾した。
1906年2月、クオンデは王城を出た。小松清著『ベトナム』によると「貧しい農民の身なりで海
岸に至り、ジャンクでハイフォンに行き、そこからフランス汽船に火夫として乗り込んで香港」に
渡り、さらに2カ月かけて4月、クオンデは念願の日本に一歩を踏んだ。24歳の春だった。それ
は同時に美しい妃とも3人の子供たちとも再び会うことのないクオンデの半世紀に渡る流浪の旅
の始まりでもあった。
327 :
高山正之:02/03/16 11:44 ID:ZvOoezRp
■豆事典
▽小松清(1901−62年) 評論家、仏文学者。フランス留学から帰国後、マルローなどフランスの
新たな文学動向をヒューマニズム的行動主義として紹介。半自伝小説「ヴェトナムの血」など著
書、訳書多数。
▽グラン・ラック ハノイ市の北にある「タイ湖」(外周13キロ)のフランス語での呼称。大きな湖の
意味。「西湖」「霧の湖」とも呼ばれ、ハノイで最も美しい湖として市民から愛されている。湖岸に
は桃の木が植えられ、ヨーロッパ風のヴィラも点在、水上レストランや遊覧船乗り場もあり、夜景
が美しい。
▽ほてい葵 ミズアオイ科の浮遊性多年草。熱帯または亜熱帯の中南米原産の水草で、九州
など日本の温暖地にも野生化している。
▽ハイフォン ハノイの東約100キロに位置する港湾都市。ベトナム北部の海の玄関口で、街の
中心にはフランス風の建物が並んでいる。軍港でもあり、米軍は1972年5月から73年1月のパリ
和平協定調印まで、この港を機雷によって封鎖した。郊外はベトナム最大級の工業地帯になっ
ており、日本人ビジネスマンも多数滞在している。
▽バンメトット 標高500−1000メートルの中部高原地帯の中心地。月平均気温は乾期で20度前
後としのぎやすく、コーヒー、ゴムが特産品になっている。
▽嘉隆帝(1762−1820年) ベトナム阮(グエン)朝の初代皇帝(在位1802−20年)、阮福映のこと
で、ベトナムではザロン帝と呼ばれる。在位中は内治に尽くし、長期の内乱で疲弊した国民を休
ませることに気をつかった。統一の途上でフランスの援助を要請したことがフランスのベトナム
支配を招き、阮朝4代目の嗣徳(トゥドゥック)帝の時代にベトナムはフランスの保護国になった。
328 :
高山正之:02/03/16 12:13 ID:GpP6+nm0
■ 20世紀特派員 植民地の日々−06
我、日本を恨む−アジアの「新盟主」への期待
日本に上陸したクオンデ侯にとって、最初の1年間は希望と使命感で弾けそうだった。「何よりも
心を打ったことはこの文明社会の一切の仕組みを動かしているのが、全て日本人だったことだ。
彼らの瞳は勝利と誇りと自信に輝いている。ああ、越南に一日も早く独立を…」仏文学者、小松
清に語った日本の初印象である。
潘佩珠(ファン・ボイチャウ)の紹介で会った日本の要人も好意的だった。犬養毅もその1人で、ベ
トナムに深い同情を寄せ、クオンデのために本郷森川町にかなり立派な邸宅も世話した。ただし
クオンデを戴く「維新会」は本国でテロ活動を行っている反仏抵抗組織であり、日本側も彼に公
然と名乗らせる訳にはいかなかった。そのため「阮福民」という偽名の表札が掲げられたが、本
郷界隈ではだれでも素性を知っていて「安南の皇子」で通っていたという。おおらかな時代では
あったようだ。
クオンデはここを根城に大隈重信、宮崎滔天(とうてん)、頭山(とうやま)満らと会い、週末には振
武学校などに通うベトナムの青年志士が集まって独立の夢を語り合った。学生たちはここでベト
ナム新憲法「新越南公憲」の草案を書き上げ、同名の武装行動隊も発足させた。2年前に孫文
が東京で旗揚げした「中国革命同盟会」に刺激を受けたといわれる。「まず人材を育てる」という
潘の計画は順調そうに見えた。
《国際的常識》 しかし、クオンデのもうひとつの、そしてもっと切実な訪日の目的、日本を動か
して独立の支援を得る工作は遅々として進まなかった。このころの要人とのやり取りの記録をみ
ると、クオンデや潘の気持ちの中には日本をかつての中国に見立てていた気配がある。「亜州なお大邦あり。米虎欧鯨に蹂躙される亜州…のために異人種排斥するは日本に如かず」(潘佩
珠の小村寿太郎あて書簡)
虐げられたベトナムを救うために日本が当然、力を貸すべきだと言う思い込みであるが、中国の
亡命政客、梁啓超が潘に指摘したようにフランス植民地の抵抗組織に、日本が武器援助した
り、それ以上の独立支援を行ったりすることは考えられなかった。
反政府勢力に援助を与えることは、欧米が植民地を獲得するさいに宣教師の送り込みと同じぐ
らい頻繁に用いた手口で、この時代でも米国は民族自決に燃えるフィリピンのアギナルド将軍を
支援する名目でスペインに戦争を仕掛け、フィリピンを獲得している。さらにこの直後には太平
洋と大西洋を結ぶ運河建設の最適地を得るため、米国はまず、コロンビアの1州だったパナマ
に反政府勢力を育て、それに肩入れする形で介入しパナマ独立という事実上の“植民地化”に
成功している。
アメリカに反旗を翻したアギナルドに頼まれ、フィリピンに武器を送ろうと計画した「布引丸」事件
に対し、アメリカが激怒したのは「日本のフィリピンに対する領土的野心」を疑ったからで、クオン
デらの組織を支援することも全く同じ理由で「日本の仏領インドシナへの野心」と受け取られるの
が当時の国際的常識だった。
329 :
高山正之:02/03/16 12:13 ID:GpP6+nm0
加えて、この時期の日本は財政的にも苦しかった。日露戦争のツケである。この戦争は潘のいう
ように人種戦争という一面があった。だからこそ潘を感激させ、アジア諸国に、中東に、そしてア
メリカの黒人問題に大きな衝撃を与えた事は、既に触れた。
そして、その特異さゆえにポーツマス講和会議で「黄人種・日本」は孤立し、アメリカ大統領セオ
ドア・ルーズベルトの主導するままに賠償金を放棄させられた。それは、米に引き受けて貰った
巨額の戦争債権の償還ができなくなったことを意味した。
1907年6月、日本はフランスに3億フランの借款を申し入れ、かわりに中国南部の広東、雲南
などでのフランスの排他的優位性を認める日仏協約を締結した。日本が国際社会で生きていく
ために選んだ道はクオンデのいう「仏賊」と盟友関係になることだった。
その仏領インドシナでは同じ07年、羊のようにおとなしかったベトナムの民衆が重税に反発す
るデモを各地で展開した。翌08年6月にはハノイの仏軍守備隊兵営でフランス人兵士、士官の
食事に毒物が混入される事件が起きている。死者こそ出なかったものの、守備隊は数日間、総
督府を守るという機能を完全に止めてしまった。
容疑者が挙げられ、「つめの下にクギを刺され、通電した鞭でたたかれ…」(革命博物館資料)と
いった取り調べの結果、混入された毒物は皮肉にもフランスがベトナム住民に専売していた生ア
ヘンだったことが判明した。それ以上の驚きだったのは事件の背後に「維新会」のメンバーなど
で構成する大掛かりな反仏組織ができあがっていて、末端は現地兵や警察官の中にまで深く浸
透していたことだった。
主犯格の兵士ら13人はギロチンにかけられ、その首は街頭にさらされた。家族や友人ら数百人
が捕らわれ、崑島(コンダオ)の監獄に送られた。日本への留学生の身元も洗われ、その家族も
投獄された。そして締めくくりが本国を通して日本政府に突き付けた不穏分子の身柄引き渡し要
求で、3億フランの対日借款がその切り札だった。
《国外へ追放》 日本政府は屈した。ほかに選択肢がなかったことは述べた。ただ、黙って引き
渡せば、潘もクオンデもギロチンで処刑される可能性があり、それはさすがに忍びない、日本は
フランス側と協議して「引き渡さないが、国内にはとどめ置かない」国外追放という妥協を取り付
けた。
1909年1月、国外追放を前にして、本郷森川町のクオンデの邸に集まったベトナム人青年の
数は5、60人だったと小松清は著書「ベトナム」に書いている。彼らは潘の言葉に泣いた。アジ
アの新盟主と思い込み、期待していた青年には日本の対応は冷酷な裏切りに見えただろう。
《重苦しい沈黙を破り声があがった。ゲアン県出身の青年、チャン・ドンフー(陳東風)だった。「僕
は日本を離れない。心から愛し、希望をつないできた日本に裏切られたベトナム人の幻滅がど
んなものか、それをみせてやりたい」、チャンは仲間が全て去った後、小石川の東峰寺で首をつ
り、自らの命を絶った》チャンの墓は今、雑司ケ谷霊園に残る。「訪れるものはない」と霊園事務
所の人はいう。
330 :
高山正之:02/03/16 12:16 ID:GpP6+nm0
■豆事典
▽犬養毅(1855−1932年) 政党政治家。新聞記者を経て1882年(明治15年)立憲改進党の結成
に参加、1890年の総選挙で岡山県から初当選し、以降18回連続当選。1929年(昭和4年)、政友会総裁。31年には首相に就任して満州事変後の困難な政局運営に当たったが、翌32年の5・15
事件で暗殺された。
▽維新会 1904年(明治37年)、潘佩珠を中心に、クオンデを盟主に推戴して結成されたベトナ
ム民族運動組織。活動の中心は日本に置かれ、日本への留学を推進する東遊運動(ドンズー運
動)や抗仏武力闘争の準備を進めた。
▽中国革命同盟会 中国で最初の明確な綱領を持つ革命政党で、1905年に孫文が中心となり
東京で結成。三民(民族、民権、民生)主義を掲げ、機関紙「民報」を発刊した。中国南方を中心
に反清武装闘争を展開し、1911年の辛亥革命につなげた。中華民国成立後には中国国民党と
なった。
▽布引丸事件 1899年(明治32年)、日本の民間有志がフィリピン独立運動を支援するため、武
器・弾薬を送ろうとして失敗した事件。フィリピン革命政府から日本に送り込まれたマリアーノ・ポ
ンセは、亡命中の孫文を介してアジア解放に関心を抱く宮崎滔天、犬養毅らと知り合い、彼らの
協力で陸軍の使い古された武器・弾薬を払い下げて貰う事に成功。三井物産所有の老朽船、布
引丸を譲り受け、武器を積んで長崎港を出たが、暴風雨のため中国・寧波沖で沈没した。
▽ポーツマス講和会議 1905年、米国・ポーツマスで行われた日露戦争の講和会議。日本の韓
国における権益の承認、旅順、大連の租借権、南樺太の日本への割譲などが決められたが、賠
償金は獲得できないなど講和内容に対する国民の不満が高まり、東京では暴動が発生した。
331 :
高山正之:02/03/16 12:27 ID:oyi/NAXT
■ 20世紀特派員−植民地の日々−07
松岡総領事代理−きわどい“二重作戦”演じる
日本を頼って来ながらも、その日本から国外退去を命じられたベトナムのクオンデ侯は1909年
10月30日、神戸港発の日本郵船の客船「伊豫丸」で上海経由香港に向かうことになった。ベト
ナムにはもちろん帰れない。落ち行く当てのない流浪の旅の始まりである。
《唯一の楽園》 クオンデは出発前に世話になった犬養毅のもとを訪ねた。犬養は「我ら微力に
してこれ以上のご援助できぬは慚愧の極み」とわび、4千円の餞別と従者の分を含め3丁の短
銃を贈った。ここで犬養が言った「我ら」とは日本政府を指す。日仏協約の締結は日露戦争の戦
争債券償還のための借款が目的であり、また、フランスと今ことを構えれば、日本は欧米諸国が
もつ東南アジアの市場から締め出されてしまう。その辺を理解してほしいということである。
クオンデは「余は日本を唯一の楽園として修学のため来日した。これまでの日本の厚情に深く感
謝する」と謝辞を述べている。しかし、旅立ちはそう、すんなりとはいかなかったことが当時の内
務省の記録に残されている。出港を2日後に控えた28日、クオンデが投宿していた神戸のホテ
ルから行方不明になる事件が起きた。警察が懸命に行方を追い、やがてクオンデが親しくしてい
た「東京・鶴巻町のS女史のもとに潜んで」いたことが分かる。
内務省はクオンデを伊豫丸出港日の30日、新橋駅発の汽車に乗せ、船を門司まで追いかけて
乗船させた。クオンデが出国をいやがるのは当然で、すでにフランスはシュレテ(秘密警察)を動
員して出国の情報をキャッチし、反逆罪の首謀者として逮捕の準備を整えていた。ギロチンによ
る処刑の可能性もあった。
伊豫丸は11月3日、上海に入港した。しかし、クオンデは下船しなかった。波止場にはそれと分
かるシュレテがひそみ、乗客を検問し、ときには身体検査もした。夜は夜で、水上艇が数隻で
て、サーチライトで伊豫丸の周辺を照らし続けた。泳いで脱出するのを警戒しての措置である。
翌日、仏総領事が上海の日本総領事館を訪ねてきた。「伊豫丸にクオンデ侯と二人の従者が乗
っていることは確かめた。3人の偽名を教えろ」という。日本側が意図的にこの政治犯をかくま
えば、借款問題も極めて難しくなるだろうという脅しもにおわせた。
応対した総領事代理、松岡洋右(まつおか・ようすけ)はこのとき29歳であった。翌5日、伊豫丸
が香港に向けて出港する日に、事件が起きた。伊豫丸のボーイの制服をきた若者が総領事館
に保護を求めてきたのだ。若者はクオンデの従者の1人で「侯とともに船を脱出し、フランス官憲
の目を逃れるため3人ばらばらに行動した」と証言した。さらに別のルートで、クオンデが無事に
古河鉱業上海支所に逃げ込んだことが確認された。
松岡洋右は外務省には、「仏印住民の管掌は仏国の任務なれば保護は仏総領事館に求めるよ
う」指示したと11月6日付で報告している。しかし、これは表向きで、実際はクオンデの身柄保
護にかなり奔走したことを同16日付の手紙で知らせている。
332 :
高山正之:02/03/16 12:36 ID:7tifsz9s
それによると、松岡は伊豫丸の出港をまってフランス側に3人の偽名を教えて、日仏協調を演じ
る一方、日本人の複数のボーイがシュレテに捕まり、持ち物まで調べられた事実をフランス総領
事に詰問もしている。実はこの調べられたボーイの中に変装したクオンデも含まれていて、きわ
どい脱出劇だったことが後に判明している。
フランス側は、この松岡情報をもとにして、香港に入った伊豫丸に網を張るが、主のいない荷物
が残っただけでもちろん空振りに終わった。その2カ月後、香港総領事、船津辰一郎が「香港の
郵船支社に侯の従者が現れ、荷物を引き取っていった」旨の公電を打っている。
若き日の松岡がクオンデ脱出劇をなぜ懸命に支えたのか。公電からは読み取れないが、彼の
経歴にヒントらしいものがある。松岡は13歳のときに単身渡米し、苦学しながら1900年、オレ
ゴン大を卒業した。その後、ロースクール(法学部大学院)を目指して勉強中に、突然のように帰
国し、外交官になるが、彼はこの9年間で貴重な体験を重ねている。
まず、渡米の際の最初の寄港地ホノルルでは、米軍艦「ボストン」が王宮に砲口を向け、リリオ
カラニ女王に退位を迫る、ハワイ王朝乗っ取り事件が進行中だった。東郷平八郎の巡洋艦「浪
速」が駆け付けたおりも、松岡少年の船はホノルル湾にあったはずだが、そのことは彼の記述に
はない。
ひとつの国が力ずくで滅ぼされるのを目撃した少年は西海岸のオークランドの貿易商宅に居候
するが、その親切なファミリーは黒人奴隷に代わる中国人苦力の売買が生業だった。そして帰
国する前後の西海岸は、日本人移民への差別や排斥運動がまさに燃え盛っていた時期にあた
るのである。松岡研究の第一人者、三輪公忠・上智大教授は松岡の行動にこうした「人種問題
の現実が投影した」可能性を指摘する。クオンデを助けたのもアジア人への連帯意識からでは
なかったろうか。
《帰国の機会》 クオンデはその後、欧州などに逃避の旅を続けるが、第一次大戦のさなかに
再び日本に戻り、当時、同じような境遇のインドの志士、ビハリ・ボースやロシアのエロシェンコ
が世話になっていた新宿中村屋の相馬愛蔵、黒光(こっこう)夫妻のもとに身を寄せるが、この
頃、同家の令嬢・千賀子に「恋いわずらいで寝込むほど」思いをつのらせる騒動も起こしている。
第二次大戦中に日本軍がフランス植民地軍を倒したとき、さらには、南ベトナム政府の成立時な
ど、クオンデには凱旋帰国の機会が幾度かあった。しかし、国際情勢は一度も彼にほほ笑まない
まま1951年、東京・日本医大病院で肝臓癌のため死去する事になる。
当時の新聞は「安南・阮王朝嘉隆帝の直系であり、現バオダイ帝の大叔父に当たる。革命運動
の中心人物として明治39年、日本に潜入以後、帰国が果たせないまま亡命生活は40年余に
及んだ。侯の祖国は戦後、ホーチミンの共産政権とバオダイ政権に分かれて争っているが、侯
の二人の息子はホー軍に属している」と書く。どうにもやりきれない死である。
333 :
高山正之:02/03/16 12:39 ID:7tifsz9s
■豆事典
▽松岡洋右(1880−1946年) 外交官・政治家。米国留学から帰国後の1904年(明治37年)、外交
官試験に合格し、上海総領事館を振り出しにロシア、米国に在勤する。21年に外務省を辞めて
満鉄理事となり、29年に帰国、政友会代議士に転身した。33年の国際連盟総会に首席全権とし
て出席したが、日本の満州国建設批判決議に抗議して議場を憤然と退場、連盟脱退の英雄とし
て右翼に賛美された。40年(昭和15年)には近衛内閣の外相になり日独伊三国同盟を締結。戦後
A級戦犯に指名され、46年に結核で死亡した。
▽ハワイ王朝乗っ取り事件 ハワイは米国の圧力で1893年にカメハメハ王朝が倒され、共和制
を経て1900年に米国に併合された。1891年に王位に就いたリリオカラニ女王は王権強化を目的
に新憲法を公布しようとしたが、財産接収を恐れた米国のサトウキビ業者らの要請で米軍が出
動、93年に無理やり退位させられた。
▽ビハリ・ボース(1886−1944年) インド民族運動の指導者。1908年(明治41年)ごろから民族運
動を指導し、12年、英国のインド総督ハーディングに爆弾を投げつけ負傷させる。15年に来日し
たが、英国の圧力で国外退去令が出され、孫文らの助けにより新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫
妻のもとに隠れた。その後、夫妻の長女、俊子と結婚し、太平洋戦争ではインド独立連盟総裁と
して日本に協力した。
▽エロシェンコ(1889−1952年) ロシアの盲目の詩人、児童文学者。主に日本語とエスペラント
語で著作を残した。1914年(大正3年)に来日、相馬黒光、秋田雨情、大杉栄、竹久夢二らと親交
を結び、日本語による口述筆記で短編小説「提灯物語」など多数の詩、短編を発表した。21年、
スパイ嫌疑で国外追放処分を受けた。
▽相馬黒光(1876−1955年) 夫の相馬愛蔵とともに1901年(明治34年)、東京・本郷にパン屋中
村屋を開業、店を新宿に移してから事業が軌道に乗り、エロシェンコら多くの芸術家のパトロン
となった。自伝「黙移」がある。
334 :
高山正之:02/03/16 12:52 ID:+wkFBSTQ
■ 20世紀特派員 植民地の日々−08
祖国ベトナム−抗仏の強硬行動と大量逮捕
司馬遼太郎は陳舜臣との対談で「日本は日露戦争のあと、おかしくなった」と語っている。19世
紀、阿片戦争に代表される欧米のアジア侵略を見て、日本は明治維新を成し遂げ、近代化に邁
進した。日露戦争の勝利はそうした明治の気骨の集大成でもあったが、そこに到達した途端に
どっちに行くか、道を失った。そして日韓併合、対支21カ条要求と続く。欧米植民地帝国主義者
と変わらない行動が始まる。
その変身の説明に福沢諭吉の「わが国は隣国の開明を待って共にアジアを興す猶予あるべか
らず。むしろ、その伍を脱して西洋の文明国と進退をともにし、支那朝鮮に接する法も特別の会
釈に及ばず。まさに西洋人がこれに接するの風に従って処分すべき…」と言う「脱亜論」がよく引
用される。
諭吉の名誉のためにいえば、これは時事新報の社説として1885年(明治18年)3月16日付で
書かれた。日露どころか日清戦争の10年も前の、日本がまだひよこの時代の話である。諭吉は
当時、朝鮮の開化派の留学生を私財を投じて慶応義塾に受け入れていた。その学生たちが結
構悪くて慶応義塾の金庫破りをしたり、持ち逃げしたり問題ばかり起こしていると「福翁自伝」な
どでぶつぶつ書いている。
脱亜論は、そういう体験を踏まえ、時間のかかる「隣国の開明」を待つより、ともかく日本がまず
しっかりしなくては、それこそファン・ボイチャウ(潘佩珠)のいう「欧鯨米虎の蹂躙」の境遇に日本
もなってしまうという意図で語られたものだった。
《欧米と共に》 しかし日露戦争を経て、日本は確かに欧米とかわらない植民地帝国主義的行
動をとるようになっていく。「西洋の文明国と進退をともにして」対支21カ条を突き付けたのはベ
トナムにあれほど同情した大隈重信であり、犬養毅もまた植民地帝国主義を鮮明にしていった
張本人である。
そういう時期、「いやアジア人同士が今こそ団結しなければ」と潘は日本の進路に疑問をぶつけ
る「聯亜趨言(れんあすうげん)」を書いている。潘はクオンデ侯より一足先に日本からシャム(タ
イ)に逃げていた。「聯亜趨言」ではアジア諸国の自立の要は「(正統派の)中国と、近代化した日
本」がリーダーシップをとることだと訴える。
このアイデアは19世紀前半、松前藩から釈放されたゴローブニンがロシア皇帝に報告した内容
にも符合する。ゴローブニンは松前藩に捕らわれていたさい、知識階級からは程遠い感じの、し
りっぱしょりした牢番にコペルニクスの話を聞かされ、小さい星の上で争う愚を諭された体験を
語り、「日本と中国が力を合わせれば50年、100年のうちにロシアの脅威となる」と警告した。
335 :
高山正之:02/03/16 12:58 ID:Qnzx3WdL
日中が手をにぎれば、の予測は「黄色人種中の小さな巨人日本が眠れる隣人(中国)を揺り起こ
してヘゲモニーを掌握する日がこないとだれが言い切れるか」(ムソリーニ)とか、日中戦争につ
いてのチャーチルの「日中間で全面的な名誉ある講和を急いで実現させることはない。我々の
利益にはならないからだ」といった発言、さらにもっと端的な上海英国総領事サー・ジョン・ブレ
ナンの「(日中がひとつになることは)我々の国際的地位に対して極めて重大な打撃となる」という
言葉が示すように、世界に君臨する白人国家にとってこの20世紀を通しての現実に見える脅威
であり続けた。
しかし、日本も中国もそれに気付かなかった。そして泥沼の日中15年戦争に入っていくことにな
るわけだが、そのはるか前に潘がこの「欧米の悪夢」を見透かし、提言していたことは、彼の国
際的視野の確かさを裏付けてもいる。
孫文の辛亥革命が成功すると、潘は「聯亜趨言」を引っ提げて孫文の故郷であり、根拠地でもあ
る広東に行った。ここには日本を追われたベトナム人留学生や、フランス植民地政府の弾圧で
閉鎖された東京義塾の学生らが国境を越えて集まっていた。
《テロや暗殺》 潘は彼らを糾合して「越南光復会」を発足させる。会の宗旨は「仏賊を駆逐し越
南を回復して共和国たる越南民国を成立させる」事をうたい、明らかに孫文の国民党にならった
ものだった。
潘はここを根拠地にベトナム本国でのフランス要人の暗殺などを次々に展開していく。ハノイ兵
営毒殺事件から沈黙の5年間が過ぎた1913年3月、サイゴン(ホーチミン)の植民地政府庁舎
爆破テロで口火が切られ、4月にはビン市で政府役人が暗殺された。その2週間後、今度はハノ
イのホテルに爆弾が投げ込まれてフランス人2人が殺されている。この事件では250余人が逮
捕され、9人に死刑判決が下され、7人がギロチンで首を落とされた。残る2人は亡命中の潘と
クオンデ侯で、逮捕されれば、ただちに死刑が執行されることがこれで決まった。
その後も仏総督アルベール・サロー、二代後のメルラン総督をねらった爆弾テロが続き、仏軍基
地や政治犯を収容した監獄の襲撃が越南光復会のメンバーの手で次々行われたが、潘指揮に
よる抗仏活動は1925年にピリオドが打たれる。潘はその年、上海でフランス秘密警察に逮捕さ
れ、ハノイに護送された。
彼はすでに2回の死刑判決を受けていたが、フランスは死刑の執行をためらった。もし刑が執行
されれば全国的な規模の反政府デモが展開されるのは目に見えていた。総督は判決を書き直
し、終身禁固としたうえで、フエの王城が望めるソンフォン(香川)のほとりの家に軟禁を命じた。
潘の政治生命はここで終わるが、その残り火は今しばらく燃え続けた。彼のもとに何人かの学
生がこっそりと通い、その中にはやがてホーチミンの右腕となるボー・グエンザップも交じってい
たのである。この夏、ホーチミン市で会見したおり、老将軍は「日本のことも話してくれた。ベトナ
ムがどうすればいいかも。話を聞いているとじっとしていられなくなった」と当時を回想して語って
くれた。
潘は1940年、日本軍の北部仏印進駐の報を聞きながらこの家で死去する。最期の言葉はベト
ナム人が語ることを法律で禁止されていた正式の国名「ベトナム」だったという。
336 :
高山正之:02/03/16 12:59 ID:Qnzx3WdL
■ 豆事典
▽日韓併合 1910年(明治43年)の「日韓併合に関する条約」調印により、大韓帝国(当時の国
号)が朝鮮と改称され、日本領となった。これにより、1392年から続いた朝鮮・李朝は滅亡し、
1945年(昭和20年)まで日本の植民地支配が続いた。
▽対支21カ条要求 1915年(大正4年)、大隈重信内閣が中国の袁世凱(えんせいがい=1859−
1916年)政権に突き付けた日本の利益拡大要求。第1次大戦で、列強の関心がヨーロパに集中
しているすきに乗じて中国への進出をはかり、山東省のドイツ権益の譲渡、南満州鉄道権益期
限の99カ年延長などを求め、一部修正して承認させた。
▽ゴローブニン(1776−1831年) ロシアの海軍士官。1811年、軍艦ディアナ号の艦長として南千
島海域を測量中、国後島で部下とともに捕らえられ、函館で2年間抑留された。この間、間宮林
蔵らにロシア語やロシアの国情を教え、帰国後は抑留生活の詳細な記録と鋭い日本観察から
成る「日本幽囚記」を著した。この本は各国語に翻訳され、ヨーロッパの対日認識形成に影響を
与えた。
▽辛亥(しんがい)革命 1911年(明治44年)に起き、清朝を打倒して中華民国を樹立した中国の
革命。同年10月の武昌ほう起に始まり、12年1月には孫文(1866−1925年)を臨時大総統とする
南京臨時政府が成立した。しかし、革命勢力は軍事的に弱体だったため、清朝で首相に起用さ
れていた軍閥の袁世凱と談判、宣統帝(溥儀=ふぎ、1906−67年)の退位を条件に孫文は同年3
月、大総統位を袁に譲った。
▽ボー・グエンザップ(1912年− ) ベトナムの元副首相、大将。1930年のインドシナ共産党(現
ベトナム共産党)結成とともに入党。共産党非合法化により中国に亡命し、帰国後、抗日ゲリラ
隊を組織した。北ベトナムで人民解放軍最高司令官を務め、統一後、国防相、副首相、党政治
局員などを歴任した。
337 :
高山正之:02/03/16 13:26 ID:M3fgmUUx
■ 20世紀特派員 植民地の日々−09
若きホーチミン−欧米渡航で人種問題に目覚める
17歳でギロチンにかけられた少年ヒュイとその処刑前夜に“インタビュー”した模様をジャーナリ
ストのアンドレイ・ビオリスが「インドシナSOS」で紹介している。
ヒュイの罪状はフランス人刑事殺害だった。場所はサイゴン(ホーチミン)の街頭、雑踏の中で数
人の若者たちがビラを配り、植民地政府の過酷な税制を非難する演説を始めた。仏領インドシ
ナでは夜道をランプを持たずに歩くことは犯罪とされていた。3人以上の集会も禁じられ、政府を
批判、中傷することも重大な罪とされていた。
だから、この街頭の出来事は犯罪であり、目撃したルグラン刑事は若者の群れに入って片っ端
から殴り倒していった。若者たちともみ合いになったとき、銃声がし、ルグラン刑事が倒れた。弾
かれたように群衆が割れ、若者たちが逃げ散ったあとに気を失ったヒュイが倒れていた、という
のが1931年に起きた事件のあらましだ。
《人権がない》 犯人がヒュイかどうか目撃した者もいなかった。状況からむしろ彼は無関係と
思われたが、白人殺しは重大な犯罪だった。ヒュイは逮捕され、尋問という名の拷問を受けた。
ビオリスはその拷問について「逆エビ状態に手足を縛り、その足の裏をこん棒で殴る」「縛られた
後ろ手を頭の上まで水平になるまで引っ張る拷問ではほとんどの容疑者が失神した」「通電した
鞭で打つ近代的手法も有効だった」と記録する。しかし、ヒュイは「自分で舌をかみ切り、自白が
できないようにして拷問に耐えた」という。
植民地の人々には人権はなかったが、ただ、フランスは年齢について寛容だった。16歳で成人
の権利が与えられ、だから人頭税も課せられ、同時に死刑も適用された。「ヒュイはギロチン台
に寝かされたとき、不自由な口で『ベトナム』と叫んだ。しかし、すぐ50キロの鉄の刃が彼を沈黙
させた」
このヒュイについてビオリスは簡単に「広東のボロディン学校の学生」と触れている。ボロディン
学校とは、孫文が国共合作の象徴として1924年に広東に設立した「黄埔軍官学校」の事であ
り、校長に蒋介石、副校長には周恩来が就き、コミンテルンからミハエル・ボロディンが顧問の
形で派遣された。
ボロディンには通訳として東洋系のやせた男が随行していた。阮愛国、あるいはブォンと名乗る
男は軍官学校の中にベトナム青年を集め、独立抗争の活動拠点となる特別クラスを作った。
この通訳こそ、潘佩珠に代わってベトナムの独立抗争の後半部分を仕切ることになるホーチミン
その人であり、ボロディン学校は彼が欧州、ソ連を経て革命家としてアジアに戻ってきた最初の
舞台でもあった。潘はこのとき60歳、広東を根拠地に越南光復会を作り、独立活動を続けてい
たが、広東にきたホーチミンは34歳である。世代も手段も違った2人の革命家はこの地で対面
し、政治路線について話し合うが、実はこれが初対面ではなかった。
338 :
高山正之:02/03/16 13:27 ID:M3fgmUUx
ホーの父と潘は同じ郷土、ゲアン県の出身の親友だったといわれており、潘が日本に遊学(東遊
運動)に出かける際、15歳だったホーを日本に誘っている。しかし、ホーは断った。この辺のとこ
ろをベトナム外文書院のホー伝記などは「虎をやっつけるために狼に噛まれにゆくのか」と、帝
国主義日本を見透かしたかのような台詞を伝えているが、日露戦争の決着もつかないうちにそ
こまで見通していたというのは少々、作り過ぎだろう。そしてホーはフランス汽船「ラトゥシュ・トレ
ビーユ」号の釜炊きになって欧州に向かう。
問題はその旅立ちの日付で、1906年から12年まで諸説ある。ホーチミンの1番弟子といわれ
るファン・バンドン元首相は「日本行きを拒否したホーはユエの王立クォクホク高校に学び、それ
からパリに行った」と12年説を示唆し、バーナード・フォールなどホー研究家も12年説を取る。
《挫折と転向》
ところが1983年、あのセザンヌが好んで描いたサントビクトール山のふもと、エクサン・プロバ
ンスで、とんでもない史料がみつかった。イギリスのICS(インド高等文官制度)を見習ってフラン
スが創設したエコール・コロニアル(植民地官吏大学院)に阮愛国が提出した入学願書で、日付
は1911年9月15日となっていた。受験の理由として滑らかなフランス語で「フランスの統治に
ベトナム人である私にできることが多いと信ずる」といったようなことが書かれている。
フランスにあこがれ、迎合する軽薄なイメージは今日語られるホー伝説にはどうにもなじまない
が、それはともかく、この発見で12年渡航説は消え、フランス語のできからもっと早い時期の渡
航が有力になっている。
そして阮は試験に落ち、反仏反植民地主義に転向、やがて偉大な革命家に生まれ変わるのだ
が、その時期については「第一次大戦中、フランスを離れて貨物船の水夫や給仕をしながらアフ
リカ、アメリカ、そしてイギリスを渡り歩いている間」だったという説が強い。
実際、イギリスでは菓子職人をしながらアイルランドの独立運動に積極的に参加した記録があ
り、ニューヨークでは黒人差別の実態に触れて人種問題に目覚めていったことが1995年、カリ
フォルニア大のJ・リプシッツ教授の研究で明らかにされている。これはFBI(米連邦捜査局)の解
禁史料から見つかったもので、ホーは当時、ブルックリンに住み、「黒人と日本人の連合が白人
種と戦う世界大戦」を予言する黒人民権運動家、マーカス・ガービーのもとに通っていた。
「彼らは黒人を森に連れ込み木に縛り付けてガソリンをかける。赤い炎の葬式が始まる前に黒
人の歯が一本ずつへし折られ、目がくりぬかれ、焼けただれた鉄棒で舌が焼かれた。これが彼
らの言う文明なのか」コミンテルンの「国際通信」にホーが寄稿した一文である。「阮愛国はこの
時期に目覚めた」というリプシッツ教授の言葉の方がホー伝説よりも信頼が置けそうだ。
ちなみに宗主国の植民地官僚試験に落ちて180度転向した例はいくつかある。1920年、最難
関のICSをほぼトップで合格しながら、最後の乗馬試験で落ちたチャンドラ・ボースもその1人で
あるが、彼は第二次大戦末期、40万人の日本兵とともにインドに攻め入るインパール作戦を演
出した。
339 :
高山正之:02/03/16 13:28 ID:M3fgmUUx
■豆事典
▽コミンテルン 1919年(大正8年)、レーニンらの指導の下、モスクワに創設された国際共産主
義運動の指導組織。共産主義インターナショナルの略称で、第3インターナショナルとも呼ばれ
る。マルクス・レーニン主義を思想的基礎にした中央集権の組織原則をとり、各国共産党はその
支部となった。1943年(昭和18年)に解散。
▽ミハエル・ボロディン(1884−1951年) ソ連の政治家、コミンテルンの活動家。早くから地下活
動を続け、米国に亡命し、ロシア政治犯の救援活動にあたった。コミンテルン創設後、トルコ、メ
キシコ、スペイン、イギリスを転々とした後、1923年(大正12年)に孫文に招かれて広東省広州で
中国国民党の政治顧問となり、中国共産党との第一次国共合作(1924−27年)に動いた。蒋介石
の反ソ政策により国共分裂後、ソ連に帰国したが、反ユダヤ政策の犠牲となり獄中で死亡した。
▽マーカス・ガービー(1887−1940年) ジャマイカ生まれの黒人運動指導者。1916年に渡米。ニ
ューヨークのハーレムを中心に大規模な黒人大衆運動を展開して白人社会への同化を拒否し、
黒人の自立を呼びかけた。20年代に黒人のアフリカへの帰還運動を行ったが挫折、27年に米国
を追放処分になり、ロンドンで客死した。
▽チャンドラ・ボース(1897−1945年) インド独立運動の指導者。英国ケンブリッジ大学を卒業
し、帰国後、対英非協力運動に参加して4回投獄された。カルカッタ市長、ガンジーの国民会議
派議長などを務めたが、急進的主張のために1939年(昭和14年)、同派を脱退。41年にドイツ、43
年に日本を訪れ、インド独立の立場から、対英戦を遂行する日独を支持した。終戦直後、台湾で
飛行機事故により死亡。
▽インパール作戦 第2次大戦中の1944年(昭和19年)、日本軍がインド北東部のインパールへ
進攻し、英国・インド連合軍に敗退した作戦。ビルマ防衛線の前進が目的だったが、補給路と制
空権がなく惨敗、撤退途中でも数万人の犠牲者を出した。
340 :
高山正之:02/03/16 14:18 ID:I5PsyLSi
■ 20世紀特派員 植民地の日々−10
革命世代の交代−英雄は2人もいらない
仏文学者の小松清はパリ時代のホーチミン(阮愛国)と親交のあった恐らくただ1人の日本人だ
ろう。彼はその出会いを「ヴェトナムの血」に書いている。1921年10月、アメリカの法廷がイタ
リアの無政府主義者に死刑判決を下した、いわゆるサッコ、バンゼッティ事件を糾弾する集会が
パリ・テルヌ広場の近くで開かれ、小松はそこで「痩身長躯、蒼ぐろい顔、奥まった眼窩の底から
鋭い視線を放つ」東洋人に会う。「アンナミット(安南人)の阮愛国」と彼は名乗った。仏共産党機
関紙「リュマニテ」に論文を執筆中という彼は流ちょうなフランス語をこなし、目下語学研修中の
小松とは「もっぱら英語で話した」という。
小松はモンマルトルの奥、アンパス・コンポアン通り九番地の七階屋根裏にある阮のアパートも
訪ねている。「電灯もなく、アルコールランプが灯火と煮炊きを兼ねていた」。仏共産党員の友人
も「寒い冬には家主のおばさんに頼んでストーブに煉瓦を入れさせてもらい、夜、それを毛布に
くるんでアンカ代わりにしていた」とその貧しさを書く。阮はアパートの一階の写真屋に勤めてわ
ずかな生活費を得ていた。「写真の修正はグエンの店で。すてきな額縁付きで四十五フラン」と
いう新聞広告が残っている。
《立ち尽くす》 阮が先鋭的な共産党活動家だったことは、彼が主宰した「ル・パリア」誌の論文
でも明らかだが、それでもなお、ベトナム学の権威であるプリンストン大学のJ・マカリスター教授
が言うように「彼は共産主義者というよりは、愛国者、民族主義者だった」という評価が目につく
し、第二次大戦末期にホーチミンに協力したOSS(米戦略局)の報告にもそうした記述がある。
事実、1920年、ツールで開かれた社会党大会で、阮は「牢獄を増やし、拷問と毒殺(アヘンとア
ルコールを指す)で自国の利益だけ追求している」とフランスの植民地支配を糾弾し、「ベトナム
を救って欲しい」という哀願の言葉で演説を結んでいる。しかしフランス共産党は同じヨーロッパ
人のサッコには燃えても、非白人世界の問題には全く無関心でしかなかった。
その前年には、有名なベルサイユの立ちん坊騒動もあった。第一次大戦後の戦後体制について
の会議に臨んだ米大統領ウィルソンに対し、阮が直訴状を届けようとしてベルサイユ宮殿の前
で数日間、立ち尽くしたことをいう。
例の14カ条にいれた「民族自決」の言葉が祖国を奪われた阮には福音のように聞こえたからだ
が、ウィルソンもまた、非白人世界には冷淡だった。彼の提案した国際連盟が欧米の植民地支
配を公認し、日本の提案した「人種平等」案を葬り去ったことを阮は裏切りととらえ、小松にもそ
の怒りを語っている。
阮は小松との出会いから2年後、突然の別れを告げてモスクワに行くが、これも多くの共産主義
者の“メッカ巡礼”とは違い、レーニンの第三インター(コミンテルン)に最後の望みを託したから
である。
341 :
高山正之:
レーニンはこの中で初めて植民地解放と後進諸民族の自決をうたいあげ、これが仏共産党に挫
折し、ウィルソンに絶望した阮愛国にとって新しい福音となった。まずベトナムの独立があり、そ
れに力を貸してくれそうな勢力なら何でもすがっていこうという、それからの阮の行動パターンの
原型になるものだ。
彼が広東の黄埔軍官学校に現れ、ボロディンの通訳になるのは仏共産党のコミンテルン代表と
してモスクワに行き、そして東方勤労者共産大学(クートベ)で共産党戦略を学んだあとの1924
年暮れになる。
このころの阮愛国について、ホーチミン市(サイゴン)でこの夏、インタビューに応じたボー・グエン
ザップは「彼の出した『ル・パリア』誌や『ベトナム人の魂』はハノイ大学の学生の間で読み回さ
れた。フランスの秘密警察がどこでも目を光らせていたので、彼らに見つからないように大変な
苦労をした。教室の黒板の裏がよく隠し場所に選ばれた」「その先導者が国境のすぐ向こうの広
東に現れたという知らせはみんなを興奮させた」と語っている。
ボロディン学校には噂を聞き付けた学生たちがつめかけ、この中にはファン・バンドンや17歳で
ギロチンにかけられたヒュイ少年もいた。しかし、阮が全く共産党的でなかったかというと、そう
でもない。プリンストン大学のジョン・マカリスター教授は「ホーチミンが最初にした共産党員とし
ての任務はまず潘佩珠(ファン・ボイチャウ)をフランス官憲に売り渡すことだった」と「革命の原
点」の中で書いている。潘はこの時期、広東に作った越南光復会を擁して抵抗運動の指揮を続
け、フランスも十万ピアストルを超える賞金をその首にかけてこの抵抗の英雄を追っていた。
《架空の手紙》 1925年7月、杭州の潘の隠れ家に1通の手紙が届いた。ベトナムの革命を遂
行する国際連帯会議が上海で開かれる、という文面だった。潘は杭州の隠れ家から上海に向か
い、汽車が上海北駅に入ったところで突然、数人のフランス人密偵に取り囲まれた。「まるで動
物を扱うように引きずり出され、上海のフランス租界の警察署に運ばれ、留置された。私がもし
独立国の国民だったらこのようなひどい仕打ちは受けなかっただろう」(潘佩珠「獄中記」)
連帯会議などもちろん架空の話だった。手紙の発信人は阮愛国の側近の1人であり「ホーチミン
は潘の首にかかっていた15万ピアストルの賞金をえて」(マカリスター)、党の活動資金とした。
英雄は2人もいらない、ということだろうか。しかし、その阮愛国もやがて国民党とソ連の仲たが
いで居場所を失い、1931年6月6日、香港で英国官憲に逮捕、投獄される。それから間もなく
フランス共産党機関紙「リュマニテ」は阮が「香港の監獄で肺結核のため獄死した」と報じ、少し
遅れてソ連の「プラウダ」、イギリスの「デリー・ワーカー」もこの訃報(ふほう)を載せた。モスクワ
のクートベではささやかな葬儀も営まれた。
ベトナム政府のホー伝記では「イギリス人弁護士ロズビーが仮釈放させ、厦門(アモイ)に密出国
させた」とある。この死亡記事は後々、阮愛国・ホーチミン別人説の根拠のひとつになるが、それ
は後に触れる。