1 :
STS:
コドモクリニック
2 :
STS:02/01/27 10:01 ID:MDcN8Tq5
誹謗・中傷・イタズラ・特に荒らしはイヤズラ
やっぱりご本家はいいなぁ!
ところでSTSって何だっけ?
4 :
産経新聞:02/01/27 16:44 ID:TexrZJDr
21世紀を担う君たちへ
群れない、逃げない
「モノを言う新聞」 物事の本質、捉える目を
代表取締役社長 清原 武彦
http://www.sankei.co.jp/pr/guide2000/ 日本のジャーナリズム、中でも産経新聞の門を叩こうとしている君たちには、どうしても
覚悟しておいてもらいたいことがあります。
20世紀は、戦争の世紀だったとも、革命の世紀だったとも言われています。ソ連、東欧
諸国の崩壊まで、国内では左翼ジャーナリズムが幅をきかせていました。しかし、産経は、
ソ連や、文化大革命の最中にあった中国に対しても、気兼ねせず、事実を報道しました。
文化大革命の本質をいち早く毛沢東の権力闘争だと見抜き、伝えた報道への制裁として、
産経の中国支局は1998年秋に総局として再開されるまで、実に31年間も閉鎖されてい
ました。産経の創刊は33年(昭和8年)、まだ67歳ですから、その半生近くも中国から閉め
出されていたのです。
それでもへこたれず、産経は共産主義の本質を書き続けました。
再開後の初代中国総局長、古森義久記者は出発前、「僕はジャーナリストとして事実を曲
げて伝えることはできないが、それで追放されてもいいか?」と心配してくれましたが、羽佐
間会長も、私も「それが産経のレゾンデートル(存在意義)だから、君が書きたいように書い
てくれ」と送り出しました。
古森記者は、当局の重圧をはねのけ、中国が偽造・模造大国である実態、日本の対中国
ODAで北京のインフラが整備され、軍事的プレゼンスを高めている実態を次々と報道しま
した。他メディアが一切伝えていなかった事実ですから、大反響を呼びました。
だから、21世紀の産経を担うことになる君たちにも覚悟してもらいたいのです。「モノを言う
新聞」として勝ち得た産経新聞の評価を引き継ぎ、高めていくのは君たちなのだということを。
5 :
産経新聞:02/01/27 16:45 ID:TexrZJDr
日中再考』を出版して
http://www.sankei.co.jp/databox/u-service/2001/04a.html 「まだ、決まっておりません」としか、答えられないもどかしさ。一面に
連載された「日中再考」(ワシントン・古森義久記者)の出版予定に対
する返答です。200件を超える電話では「これは、本にして残さなけれ
ばいけません。産経新聞社の義務です」と迫られたこともありました。
「わたしは62歳になります。フランス企業の日本支社でいろいろな国
の人たちと、仕事をしてきました。中国の若い社員が言うのです。『日
本で働いてみて、自分が教えられたこととあまりにも違うのでショック
でした』と。『日中再考』を読んで、彼らが祖父母や父母でなく、教科書
で教えられたのだと知り、私もショックでした」
話は、日中友好へと続いて「本当の友好を結ぶには、まず相手を知る
ことです。だから、より多くの人に『日中再考』を読んでいただきたい。
出版費用をカンパしたい気持ちです」
読者からの声は、すべて編集局に届けました。3月28日にうれしい答
えが返ってきました。6月中旬には出版できるとのこと。第一報として
お伝えします。
6 :
古森義久:02/01/27 16:47 ID:TexrZJDr
■ 車が人を変えた (1) 「車葬」 家族のように愛していた
1998年5月はじめ、アメリカの北東部ロードアイランド州のティバートンという小さな町で奇妙な
葬儀が営まれた。共同墓地の一角に新たに掘られた埋葬用地に、棺のかわりに古ぼけた白い
乗用車がクレーンでしずしずと降ろされたのだ。車は普通の棺よりも大きいので、通常より広い
空間が掘り広げられていた。数十人の参列者が見守るなか、車は掘り下げられた地面に安置さ
れ、通常の埋葬のように土や花を投げかけられ、埋められていった。車のなかには本当の棺が
入っていた。
《偉大な発明》 ティバートンの町で長い人生の幕を閉じたローズ・マーティンという84歳の女
性の埋葬だった。マーティンはかねてから、自分が死んだら必ず愛用した車のなかに遺体を入
れて埋葬してほしいと、明確な遺言を残していた。彼女はこの町で生まれ、育ち、つい最近まで
パン製造販売に携わっていた。その彼女が生活の伴侶のようにしていたのがシボレー(*)のコル
ベア1962年型という自動車だった。
マーティンはこの二ドアのクーペ(*)を30年以上も愛用してきた。コルベアは六五年、消費者運
動で有名なラルフ・ネーダー(*)から「安全性に問題がある」と宣告されて売り上げを急落させた
歴史がある。だがマーティンは気にもせず、大切に使い続けた。
彼女はとにかくこのコルベアを自分の家族のように愛していました。故障の修理は全部、私が引
き受けましたが、彼女は修理代の額を心配せず、必ず最高の修理と整備をしてくれと念を押して
いました。そして数年前には、自分が死んだらこのコルベアに入れて、埋葬してほしいと、私にも
遺志を伝えていました。だから埋葬の際は私が車の内部を一部、改修して棺が入るようにしたの
です」
マーティンから長年、コルベアの手入れを頼まれていたティバートンの自動車修理店のジョージ・
マーフィーは、こう語っている。葬儀に参列した遺族や友人たちは涙をぬぐいながらも、このユニ
ークな「車葬」に思わずほほ笑みをもらしていたという。
世界最大の車社会アメリカでも車葬は異例ではあるが、愛車とともに埋めてほしいという遺言は
現代のアメリカ人が自分の自動車にどれほど愛着を覚え、どれほど依存するようになったかを如
実に示している。このエピソードは人間の自動車への愛着のごく極端な実例とはいえ、現代社会
での人と車の関係全般について考えさせるような普遍性をも感じさせる。
人と車の間にあるきずなとはなんなのか。人は車からどんな利益を得て、どんな影響を受けてき
たのか。二十世紀の人間の歩みを振り返るときには、欠かせない問いかけであろう。 人類の最
大の発明は自動車だという説がある。最大といってももちろん多様な意味がある。発明といって
も多様な組みあわせが考えられる。だが人間の生活に最大の影響を与えた単一の発明となる
と、それは自動車だとする見解が有力なのである。
7 :
古森義久:02/01/27 16:54 ID:YdEIrpiC
《激しい展開》 「人類の歴史で人間の生活や社会を最も大きく変えた単一の発明は、間違い
なく自動車です。自動車ほどドラマチックに個人の生活を変え、産業を変え、社会を変えた発明
品はないでしょう。自動車が発明されたのは厳密には十九世紀ですが、本格的に普及したのは
二十世紀です。その二十世紀に人間の活動全般をこれほど根本から幅広く変容させたのは自
動車以外にないでしょう」
自動車の歴史の研究家で「国立道路ゼイングレー博物館」館長を務めるアラン・クリングはため
らわずに断言した。人類の偉大な発明といえば、飛行機、ロケット、蒸気機関車、汽船、電灯など
など、いくらでも並べられるが、二十世紀に人間の生活や労働をどれほど変えてしまったか、と
いう度合いで考えた場合、自動車に勝る存在はないというのである。その変化のプロセスはアメ
リカで最も早く、最も激しく展開していった。
そもそも人間が完全な個人のレベルで移動の主要な手段としてきたのは有史以来、馬と自動車
だけである。馬は人間の文明社会が形成されてから二千年にも及ぶ長い期間、使われてきた。
それが百年ほど前から自動車に取って代わられた。この百年の自動車の発達と人間社会への
影響は当初のいかなる想像もはるかに超えるスケールとなった。
アメリカで現在のようなガソリンを燃料とする自動車が商業ベースで売られるようになったのは一
八九六年からだった。自動車の発明(*)自体はヨーロッパの方が先だったが、人間の主要交通手
段として、しかも大量生産により国民一般が買える機材として、本格的に発展させたのはアメリ
カである。
アメリカでいま登録されている自動車の総数は二億台以上、運転免許を持つ人が一億七千五百
万人、自動車産業は全産業界でも最大規模を誇り、雇用は二百三十万人にのぼる。 世界全体
の自動車総数は四億台、一列に並べると地球を八周する。自動車が最初に発明されたころに
は、フランスとドイツに実験用の車がわずか六台だけという状態だったのだから、まさにものすご
いスピードで爆発的に発展してきた。自動車産業は世界全体でいま四百万人の労働者を雇って
いるという。
《消費の大空》 自動車産業自体のほかにガソリン、鉄鋼、ガラス、タイヤ、塗料など車を組み
立てたり、動かしたりするのに不可欠な各関連産業も当然、急成長した。道路建設も、カーラジ
オも、道路沿いに看板を掲げる屋外広告も、車自体の販売宣伝をする広告一般も同様である。
車の月賦販売に関与する金融業界も、事故に備える保険業界も、自動車の発達とともに果てし
ない消費の大空へと羽ばたいていった。
現代の人間の個人レベルでの車に対する依存度となると、さらにぼうぜんとするほどの実態で
ある。車の先進国のアメリカでは国民が合計二億台以上の車を運転する結果、走行距離は年間
総計で四兆キロに達し、一般の通勤の九〇%以上が個人の自動車に頼っている。ただし個人平
均では通勤のための運転は全体の車使用の三五%にすぎず、あとは買い物をしたり、教会や子
供の学校へ行ったり、友人や親類の家、病院などを訪れたりするなど多種多様な生活上の活動
のために車を運転している。 こうして人間の移動に大きな役割を果たすようになった自動車は、
人間の生活の質にもさらに大きな変化をもたらしたのだった。
8 :
古森義久:02/01/27 16:55 ID:YdEIrpiC
■ 豆事典
◇シボレー 米国のゼネラル・モーターズ(GM)社が製造する車の1グループの呼称。スイス移
民のレース・ドライバーで車の設計者だったルイス・ジョセフ・シボレー(1878−1941年)の名前に
由来している。シボレーは1915年にシボレー・モーター社を設立した後、17年にGM社に入り、そ
れ以後、シボレー設計の車がGM社の中心車種となった。
◇クーペ フランス語で箱形の馬車の意味。屋根付きの2ドアの乗用車で、セダンよりやや屋根
が小さく前席主体のスポーティーな構造になっている。
◇ラルフ・ネーダー(1934年− ) 米国の消費者運動家。1959年に弁護士を開業。65年に「どん
なスピードでも自動車は危険」を書いてGMの欠陥車を告発し、一躍、有名になった。その後、上
下両院議員の勤務評定や資産公表、環境、公害問題などの運動も展開している。
◇自動車の発明 フランスのニコラス・クノーが1769年に蒸気機関を用いた車(蒸気自動車)を発
明。ガソリンによる内燃機関で動く自動車の発明はさらにその100年余り後になり、1885年にドイ
ツのゴットリープ・ダイムラー(1834−1900年)がガソリン2輪自動車、カール・ベンツ(1844−1929
年)がガソリン3輪自動車を相次いで完成させた。ダイムラーはさらに翌86年、世界初の本格的4
輪自動車を作った。
9 :
古森義久:02/01/27 17:38 ID:bEqsRE4q
■車が人を変えた (2) 「魔法のじゅうたん」 免許取得で募ったあこがれ
「アメリカ人にとって自動車は魔法のじゅうたんとなった。個々の男女がそれまではいきたくても
いけなかった場所へ自由にいくことを可能にしたからだ」、アメリカでの自動車発達百年の歴史を
「車輪の上のアメリカ」と題する大河ノンフィクションで一九九〇年代なかばに書いた歴史作家フ
ランク・カフィーは、こう記した。
合理的な技術の粋を集めた自動車をおとぎ話の空飛ぶじゅうたんになぞらえるのがたとえ不適
切だとしても、自動車によって、個々の人間がそれまで自分の足ではとても到達できなかった地
点に、想像もできなかった短時間で到達できるようになったことは間違いない。自動車が人の行
動範囲を飛躍的に広げたことも間違いない。その結果、個人の生活が形だけでなく、質までをが
らりと変えるようになるのは必至だった。
自動車は運転する人間に機動性と自由を与える。自在に動く能力によって、自由な精神と意識
をかきたてる。さらに自立、独立の精神や意識までも生みだす。そんな変化がその人間の生活
自体を変容させる。人間のこんなドラマチックな変化も、いまさら改めて述べると、自動車を所有
し自由に運転することが毎日、洋服を着てクツを履くほど当然になってしまった現在の生活の中
では、なんとも誇大にひびいてしまう。
だが自動車の効用をよく知りながら、所有も使用もできず、ちょっと離れた地点でうらやましく眺
めるだけの立場を想像してみれば、自動車のもたらす自立の意識や精神の高揚は実感として伝
わってくる。私自身がいやというほど、そんな体験を重ねてきた。
《両親を説得》 人が車から受けるそのあたりのインパクトの大きさには、アメリカでも日本でも、
それほどの差はないだろう。だから自分の自動車史を語ってみたい。
私は戦後の日本社会の自動車普及の波にちょうど平均的にシンクロナイズされてきた世代だと
いえる。ただし運転免許証を取得したのは、16歳のときだったから平均よりはずっと早かった。
1957年(昭和32年)である。当時は小型四輪という分類があって、取得の最低年齢が16歳だ
った。小型という名称でも当時の中型乗用車まではこの免許で運転できた。その小型免許は後
に普通免許に吸収されていく。
1957年といえば、岸信介が首相となり、アメリカ大統領、ドワイト・アイゼンハワーと会談して、
日米新時代(*)を強調した年である。世界卓球選手権で荻村伊智朗(*)が優勝し、スキーのトニー
・ザイラーが初来日し、西鉄ライオンズの稲尾和久が二十連勝の記録を樹立していた。街には
「有楽町で逢いましょう」(*)や「錆びたナイフ」(注4)のメロディーが流れ、私の住んでいた東京の
渋谷区では渋谷駅前の地下街開店や小田急のロマンスカー試運転が話題となる年だった。
私は高校1年から2年にかけての春休みを利用して世田谷区の明大前にある自動車教習所に
集中的に通った。費用は両親を必死で説得して、出してもらった。さてここから先をとくに強調し
なければならないが、私はもちろん自分では自動車を持たず、自分の家にも車はなかった。そも
そも一般の人間がそう簡単に自動車を所有できる時代ではなかったのだ。
10 :
古森義久:02/01/27 17:46 ID:KHeFmbQ0
《自由の象徴》 ではなぜ運転免許を取ろうとしたのか。気取っていえば、迫りつつあるモータリ
ゼーションのうねりを心身にひしひしと感じていたからだろう。やがては絶対に車を手に入れ、運
転したいと思っていた。自然にそうなるだろうとも思っていた。当時の高校の仲間に自動車を自
由に運転する連中がぽつぽついたことが、私のそんな希求をことさら燃えあがらせていた。だか
ら免許の獲得は早ければ早いほどよいと信じていたのである。
私の高校は「太陽の季節」(*)のモデルともうわさされた私立校だけあって、裕福な家庭からの生
徒が少なくなかった。親から車を与えられている連中が少数ながら存在した。その種の生徒たち
は日野自動車がフランスのルノー公団との提携で国産化した、ルノー・4CVとかトヨタのトヨペッ
ト・クラウン(*)を運転していた。私と親しかったS・Jは著名な漫画家の息子で、ルノーを与えられ
ていた。私も同乗して、鎌倉とか村山貯水池へのドライブに陶然となった。
だが人の車に便乗するのと、自分で車を持って運転するのとでは天と地の違いがある。いつでも
どこにでも自由に自分の城を動かしていける友人たちはきらきらと輝いてみえた。
みるからに軽量で、ちっぽけな円形ボンネットのルノーでも、自在に運転できるとなれば、それこ
そ「魔法のじゅうたん」のようにみえた。私は免許を得てからなおのこと、同世代のそんな車の持
ち主たちをうずくようなせん望で見つめていた。そして自分もいつかはその自由と独立のシンボ
ルを手に入れるぞと、ひそかに決意していた。
《持たざる者》 1959年(昭和34年)から始まった大学時代でも、自動車への至近の観察者とし
ての私の立場はそう変わらなかった。私自身のごく周辺でも、日本の社会全体でも、自動車は超
スピードで普及を広げ、日本人の生活に及ぼす影響はますます大きくなっていた。私の大学の
仲間でも、ルノーやクラウンに加えて、日産のオースチンやダットサン、いすゞのヒルマン、富士
精密工業のプリンスといった車を運転する連中が登場してきた。ただしこれまたすべて親から与
えられた車である。
学生がアルバイトをしてためた資金で自動車を買うことなど、想像もできない時代だった。ざっと
見回すだけでも政治家とか大企業の重役、しにせの中小企業や大商店の経営者、著名な芸能
人などを親に持つ幸運な仲間だけが「魔法のじゅうたん」を自由に飛ばすことができた。
私の親はこれらの範疇に入らず、私も車を得ることはあきらめてはいた。それでも、持てる者をう
らやましく思う気持ちには変わりなかった。というよりも車の持つ効用にますます魅せられていっ
た。一つには異性の関心を得るには自家用車ほど有力な手段はまずないことを痛感し始めたか
らだった。
11 :
古森義久:02/01/27 17:48 ID:KHeFmbQ0
■ 豆事典
◇日米新時代 岸信介首相は1957年6月、米国を訪問。19日から3日間にわたる日米首脳会
談を行い、21日にアイゼンハワー米大統領とともに共同声明を発表した。声明は国際共産主義
の脅威に対し自由主義陣営が共同して対処することを強調し、「日米関係が共通の利益と信頼
に確固たる基礎をおく新しい時代に入りつつあることを確信している」と述べている。
◇荻村伊智朗(おぎむら・いちろう=1932−94年) 都立西高校で「野球より道具が安いから」と
卓球を始め、日大時代の1954年(昭和29年)、ロンドンの世界卓球選手権男子シングルスで初優
勝したのをはじめ、個人、団体あわせて12年間で12の世界タイトルを獲得。引退後も指導者とし
て活躍し、87年には国際卓球連盟会長に就任した。
◇「有楽町で逢いましょう」 佐伯孝夫作詞、吉田正作曲。フランク永井の低音の魅力でヒットし
た大映の同名映画の主題歌。戦後の混乱期を脱し、高度成長期への移行を控えていた当時の
日本では、ほかにも「東京午前3時」「東京のバスガール」など、東京を舞台にした都会調歌謡曲
がヒットした。
◇「錆びたナイフ」 萩原四郎作詞、上原賢六作曲。石原裕次郎のヒット曲。1956年に映画「狂っ
た果実」でデビューした裕次郎は翌57年の映画「俺は待ってるぜ」の同名主題歌と「錆びたナイ
フ」のヒットで歌手としての座を確実にした。
◇「太陽の季節」 石原慎太郎の出世作。1955年(昭和30年)の文学界新人賞に応募して入選、
さらにその翌年、芥川賞を受賞した。ボクシング選手の学生、龍哉と恋人の英子の行動を描い
た青春小説で、理想の失われた時代の若者のいらだちと孤独感をとらえたと評され、「太陽族」
という流行語も生まれるなど社会的反響は大きかった。
◇トヨペット・クラウン トヨタが1955年に発表した国産乗用車。それまでの日本の乗用車はトラ
ックと同じ部品を使って生産されていたのに対し、純粋に乗用車としての研究を重ねて開発され
た国産車として注目を集めた。日本の自動車産業は、日産自動車とオースティン社(英)、日野自
動車とルノー公団(仏)など外国との提携で水準を高める戦略をとったが、トヨタ自動車は国産技
術だけの独自路線を歩んでいた。
12 :
古森義久:02/01/27 18:22 ID:iHl5Khhq
■車が人を変えた (3) 「追突」 一瞬の事故がすべてを変える
自動車が人間社会を変えたといっても、もちろんよい方にばかりではない。生身の人間が
動く速度からすれば考えられないほどの超スピードで走る重い金属の塊がいったん軌道を
それれば、当然ひどい惨事を起こす。自動車の事故はそれまでの社会には想像もできない
規模の血なまぐさい殺傷をもたらした。
環境の破壊もモータリゼーションの深刻な産物である。排出ガスによる大気汚染だけでな
く、自動車道路の建設によって自然が壊され、町や村がたたずまいを失っていった。最新
の「アスファルト国家」(ジェーン・ホルツ・ケイ著)という本などはアメリカ社会全体が
車優先のためにアスファルトとコンクリートで塗り固められつつあると警告、副題では「い
かに自動車がアメリカを支配し、いかに私たちがそれを奪回できるか」とうたっている。
車は犯罪をも助長した。アメリカでよく使われる「ゲッタウェー・カー」(逃走用の車)と
いう言葉はその象徴だろう。映画でよくみる銀行強盗などで犯人が乗って逃げるために待
機させるあの種の車である。自動車は単に犯罪の手段や道具に使われるだけでなく、人間
の欲望を人工的にふくらませ、犯罪の土壌を肥えさせるという予期せぬ副次効果も生んだ。
《最初の事故》 私も車がからんだ事故や犯罪には、早い時期から、ごく控えめで間接な
形にせよ、洗礼を受けた。振り返れば、そんな早期の体験が後年の車の使用にはなんとな
く役立ったようにも思える。
運転免許を取った1957年(昭和32年)の秋のことだった。高校2年の私は友人のS・J
の日野ルノーを運転させてもらった。親に買ってもらった車を運転する高校生たちはふつ
うはなかなか他人にハンドルを握らせないのだが、彼は寛容だった。
私にとっては本格的な運転はまだ数回目、試運転に近かった。学校のある横浜市の日吉か
ら中原街道を走り、丸子橋を渡って多摩川を越え、都内に入るまで運転はすべて順調、隣
に座ったS・Jも感心するほど滑らかなドライブだった。私は大得意で物語の主人公にで
もなったかのような陶酔さえ覚えていた。
やがて中原街道を左にそれ、多摩川園を右にみて、大田区田園調布の曲がりくねった道路
へと入った。宝来公園近くの閑静な住宅街だった。石坂洋次郎(*)の小説で後に映画にも
なる「陽のあたる坂道」の舞台とされた地域である。私はますますヒーローのような気分
になって車を軽快に走らせた。
ところが、その道路で事故を起こしてしまったのである。十字路で曲がろうとして、わき
から出てきた車に対しハンドルをうまく切れず、軽く衝突した。中年の男性が向こうの車
から飛び降りてきて、こちらの非を責めたてた。一瞬、目の前が暗くなる思いに襲われた。
こちらのミスは明白で、しかも友人の車はぺこんとへこんでしまったのだ。相手の車にほ
とんど損害がないのが不幸中の幸いだった。警察ざたにこそならなかったが、その後の処
理のプロセスはみじめで情けない思いに終始した。楽しく明るい運転が文字どおり一瞬の
事故で苦痛のならくへと暗転したのである。私にとって生まれて初めての自動車事故は実
にショッキングだった。
13 :
古森義久:02/01/27 18:31 ID:M2g0b9NM
《ドライブで》 翌年には高校の柔道部の仲間七、八人と車二台を連ね、ドライブに出か
けた。目的地は相模湖だった。秋の日曜日、私は母親が作ってくれたおいしそうな弁当を
持って、そのときは後部シートに座った。車は二台ともイギリスから輸入されたオースチ
ンだった。1台の持ち主S・Sはタクシー・ハイヤー会社の社長の息子、他の1台の持ち
主T・Kは朝鮮特需(*)で大当たりした繊維染色会社の社長の息子である。持ち主がそれ
ぞれハンドルを握った。
朝早く出発し、私はS・Sの車に乗っていた。親しい仲間とまる1日、遠くまで車を走ら
せる楽しみに、みなすっかり興奮していた。ところが都心を出てほんの20〜30分、杉
並区の高井戸までくると、私たちの乗った車は先行するT・Kたちの車にドーンとぶつか
った。瞬間なにが起きたのかわからなかったが、T・Kの車のすぐ先をいくタクシーが急
停車し、T・Kは急ブレーキを踏んだものの、ちょうど降り始めた雨でスリップして追突
した。そこにS・Sの車が玉突きで追突したのだった。
だれも負傷はせず、3台の車も後の走行に支障はなかったものの、かなり破損はした。こ
の一瞬で前夜、眠れないほど楽しみにしていた遠距離ドライブも夢と消え去った。
《強烈な体験》 車から降りた私達はタクシーの運転手に「急に止まるから悪いんだ」な
どとどなったが、運転手はさっそく会社に電話して事故係に「向こうの車にはなんかチン
ピラみたいのがいっぱい乗っていて、うるさいんですよ。早くきてください」と訴える声
が聞こえてきた。現場には結局、警察官までやってきて、事故の処理には何時間もかかっ
た。私達はすごすごと都心方向へもどった。これまた一瞬の事故がすべてを変えてしまう
という原体験として私の脳裏に長く残った。
犯罪がからむささやかな初体験は1961年(昭和36年)だった。「用心棒」(*)とか「名
もなく貧しく美しく」(*)という映画がヒットし、「英語に強くなる本」が話題となる年
である。韓国ではクーデターで朴正煕少将が実権を握り、アメリカは新駐日大使にエドウ
ィン・ライシャワー(*)を送った年でもあった。
私は大学3年になってすぐの5月、やはり柔道仲間のK・Rの運転するトヨペット・コロ
ナに同乗して、新宿へ遊びに出かけた。車を新宿タカノのすぐわきの路上に駐車して歌舞
伎町へいき、2人で映画をみて、喫茶店に入った。さて車に戻ろうとすると見当たらない。
駐車場所の記憶違いだったかとあちこと探すが、それでも発見できない。必死になって走
り回った。車がなくなるという事態が現実として信じられなかった。だが盗まれたと断定
せざるえず、警察に届け出た。
車はK・Rが大手ゴム会社重役である父親に買ってもらった中古だった。数週間後、大阪
で発見されたという報告が警察からあったという。犯人は盗んだ車を長距離ドライブに利
用して、あっさり捨てていったらしい。当時の私にとって車をまるごと盗むという犯罪が
実際に起きるのを目の当たりにすること自体、自動車の持つ明暗、白黒、万華鏡のような
多様な側面を知らされる強烈な体験となった。
荒らしの○○へ
何が気にいらんのか?、直接いって来い。
これはうちの宣伝に使うのだから邪魔せんでくれや。
15 :
古森義久:02/01/27 18:40 ID:4P15TL9a
■豆事典
◇石坂洋次郎(いしざか・ようじろう=1900−86年) 青森県弘前市の出身、同郷の作家、
葛西善蔵に師事した。弘前高女、横手高女で教えていたが、1938年(昭和13年)に小説「若
い人」が右翼団体から不敬罪で告訴され退職。上京して作家生活に入り、戦後、「青い山
脈」「陽のあたる坂道」などで流行作家として活躍した。
◇朝鮮特需 1950年(昭和25年)6月に始まった朝鮮戦争に伴い、アメリカ軍が日本から買
い付けた軍需物資、サービスおよび駐留軍の公用、私用の消費などの特別な需要を指す。
戦争などの経済外的要因によって増大した需要を「特需」と呼ぶようになったのも朝鮮特
需が始まりだった。ピークの1952年にはその需要は8億2000万ドルに及んだが、その後も
年間4〜5億ドル程度を維持し、日本経済発展の重要な要因となった。
◇「用心棒」 黒沢明監督、三船敏郎主演の時代劇映画。ふたりの親分が縄張り争いをし
ている宿場町にえたいの知れない浪人が現れ、ストーリーが展開する。マカロニ・ウエス
タンの「荒野の用心棒」はこの作品をもとに作られた。
◇「名もなく貧しく美しく」 松山善三監督、高峰秀子、小林桂樹主演。第2次大戦末期
から終戦後にかけての困難な時代を生きたろうあ者夫婦を描いている。
◇エドウィン・ライシャワー(1910−90年) 東京生まれの元駐日アメリカ大使、夫人は日
本人。ハーバード大学で日本と中国の歴史を学び、国務省勤務を経て1950年、ハーバード
大学教授に就任する。ケネディ政権時代の61年からジョンソン政権の66年まで駐日大使を
務めた。66年からハーバード大学に戻り、米国の日本研究に多大な貢献をした。
16 :
古森義久:02/01/27 19:30 ID:Ikc0sKio
>14
このスレッドは「古森義久テキスト集−part1」になったのだ。
知らなかったのか?
>>16 >このスレッドは「古森義久テキスト集−part1」になったのだ。
>知らなかったのか?
ここは病院・医者版になっているのだ。
知らなかったのか?
18 :
古森義久 :02/01/28 07:24 ID:IWEKpJCM
■車が人を変えた (4) 「自動車社会」 伯爵夫人は魅力的な存在だった
「私たちアメリカ人は自動車を愛情や興奮の対象としてあがめてきた。期待がはずれれば、
激怒や軽蔑の対象にもしてきた。自動車に対しては冷蔵庫、飛行機、コンピューターなど他
のいかなる機械とも違う感情的な関係を保っているのだ」
ウェイン州立大学の歴史学者リチャード・ライト教授は自著「デトロイト株式会社」の冒頭で
こんな宣言をした。この大学は「自動車の都」ミシガン州デトロイト市内にあり、同書はアメ
リカ自動車産業の百年史である。ライトの記述はやや誇張だとしても確かに現代人は自分
が所有し、運転する自動車には、単なる機械とか道具という以上の思い入れを持っている。
その思いはなにもアメリカ人だけに限らない。
《コンテッサ》 私自身もこれまでの人生を振り返ると、自分の所有する自動車が生活の重
要な部分を占めてきたことをすぐ実感する。人生での主要な出来事や情景には車が絶対に
欠かせない一部だったとも感じる。その意味ではそれぞれの時点で自動車に対して独特の
思いを抱いてきたといえる。
なかでも初めて自分の車を所有し、自由に運転ができるようになったときの感激は忘れら
れない。自分の意思と選択で、自分の望むままにいくらでも動ける能力を手に入れて、やっ
と成人の資格を得たような誇らしい思いだった。自分だけの自由に走る城を得て、やっと自
立や独立を勝ち取ったという高揚でもあった。1965年(昭和40年)春のことである。
私は静岡市で24歳の新聞記者として働いていた。初めての車は日野自動車がフランスのルノー(*)の技術を基に国産したというコンテッサ900だった。価格12万円の中古車だった。
大卒の平均初任給が2万円たらずの時代だから、私にとっては高い買い物である。友人と
共同で買うという奇抜な方法をとった。負担が6万ですむのが最大の理由だが、他の新聞
社の記者だった友人のF・Kが車の用途で私と共通項が多いことも大きかった。車で頻繁に
東京に帰り、都内で運転するという用途である。
共有でもなんでも生まれて初めて自分の車を得たことは、うれしかった。限りなく、うれしか
った。ことさら感激し、興奮した理由の一つは、その直前まで車のないことのみじめさをアメ
リカでさんざん実感させられてきたことだった。新聞社で静岡支局に配属されるまでの一年
数カ月、アメリカに留学し、すでに車社会の形を成していたかの地で車なしの生活をしいら
れたのである。
《天と地の差》 私は新聞社に入社直後、休職の形でワシントン大学に留学した。大学のあ
るワシントン州シアトル市(*)は大都会ではあったが、公共の交通はバスだけだった。63年
のアメリカはもちろん完全な自動車中心の社会であり、学生でも大学院レベルなら自分の
車を持つのが多数派だった。だが、私には車を買う財力がなかった。
19 :
古森義久:02/01/28 07:25 ID:IWEKpJCM
学生寮に住み、講義に出て図書館で勉強するだけなら車は必要ない。だが、その活動範囲
を一歩でも出ると、とたんに不便を味わわされる。市内中心部での映画や食事も、知人宅
への訪問も、みなバスに頼るほかない。シアトルは雨が多いので、街角で雨にぬれながら
長い時間、バスを待つのは楽ではない。
そのころアルバイトで週に二、三回、コーチをしていたシアトル柔道クラブなど、バスを二回
も乗り換えないといけなかった。クラブでは生徒はみな自分の乗用車で出入りするのに、先
生役の私だけがバスでとぼとぼと往還するのである。デートも車があるのとないのとでは天
と地の相違だった。車がないのは人間として劣等とまで感じさせられかねないのである。
もちろんアメリカの知人や友人はことあるごとに車に便乗させてくれた。私がデートするの
に女性の送り迎えだけを自分の車で引き受けてくれた親切な友人さえいた。だが自分の体
の移動のために他人の個人の善意らしきものに全面依存することには、どことなくやましく
不快な思いがつきまとう。その依存が恒常的になると、おおげさにいえば人間の尊厳をどこ
かで傷つける自損行為のようにさえ思えてくる。
とにかく私は留学生活で車を持たないことのそんなみじめさと、実際の不便さをいやという
ほど体験したのだった。だから日本へ戻ると、車が欲しくて欲しくてたまらなかった。新米の
新聞記者となっても、まず自分の車を持つことが人生の当面の最大目標のようにさえ感じ
られた。
ただし当時の静岡市は日本でも最大の交通量の国道1号が市内を貫き、おりからの自動
車の爆発的な普及の波と合わさって、事故が激増していた。東名高速道路(*)はまだ開通し
ていなかった。
国道1号の静岡と清水の両市を結ぶ部分はとくに幅広く、まっすぐに延び、スピードへの誘
惑を駆って大きな衝突や追突を起こしていた。私は新聞社の旗をつけたオートバイを運転
し、そんな交通事故の現場を毎日のようにみて、記事を書いた。「交通戦争」とか「車は凶
器」という言葉が初めて新聞の見出しになり始めたころである。
《高い期待値》 同僚記者のT・Hがオートバイで深夜、帰宅の途中、静岡中央署のすぐわ
きでライトバンに激突され、百メートル以上も引きずられて死ぬという悲惨な事故も目前に
みた。運転者は飲酒、無免許で、後にひき逃げと断じられた。
支局で宿直だった私は急報を受け、事故現場から病院に駆けつけた。T・Hが複雑骨折し
た右足を切断され、さらにひどく内出血した頭蓋を開く大手術を受け、翌日、息を引きとる
まで付き添うこととなった。
しかし、自動車が引き起こすそんな血なまぐさい事故や事件も、私の車所有への欲望を抑
える効果はほとんどなかった。車から得る便宜や魅力の期待値が明らかに事故の危険の
可能性を上回っていたわけだ。
20 :
古森義久:02/01/28 07:37 ID:09sHKz65
それまでの生活を一瞬にして変えうる事故の怖さはよく分かっていたが、自分がそんな事
故を起こしさえしなければよいと勝手に思っていた。
だから友人のF・Kと折半で中古車を買う話が出ると、ためらわずに決意した。気のあう相
手だったから、二人が車の使用や管理の配分をめぐって争うような心配は全くなかった。
コンテッサというのはイタリア語で伯爵夫人という意味だという。私たちのコンテッサは中古
であることがすぐわかる、くすんだ白の車だったが、細く長く伸びる車体はなかなか格好よ
かった。そしてなによりも自分が所有する車だった。だから文字どおり伯爵夫人に匹敵する
魅力たっぷりの存在だった。その伯爵夫人はすぐに私の生活の中身まで変えた。
■豆事典
◇ルノー公団 フランス政府が全額出資するフランス最大の自動車メーカー。1898年にル
イ・ルノーがルノー兄弟商会をパリ郊外に設立して自動車生産を開始。1922年から社名を
ルノー社と変え、大量生産工場を建設するとともに素材、部品メーカーの買収も進めて規
模を拡大した。しかし、第2次大戦で工場の80%が破壊されたうえ、ナチス協力の非難も受
け、1945年に国有化された。
◇シアトル 米北西部ワシントン州最大の都市。人口約54万(全米22位)。周辺地域を含め
たシアトル都市圏の人口は200万近い。米国太平洋北部の交通の要衝で、19世紀後半の
アラスカのゴールドラッシュや1914年のパナマ運河開通で発展。豊富な林産資源を利用し
た製紙・パルプ工業、第2次大戦時からの航空産業などで栄えた。
◇東名高速道路 正式名称は東海自動車道。東京から愛知県小牧市まで全長346.7キロ
の高速道路で1969年に全線開通した。65年に開通した小牧市−兵庫県西宮市間の名神高
速道路(中央自動車道西宮線)と結んで東海道メガロポリスを貫く日本最大の交通動脈とさ
れた。
馬鹿荒らしの見本として取り敢えずage。
古森義久って誰でっか?
22 :
古森義久:02/01/29 07:49 ID:2+/NwlVq
■車が人を変えた (5) 「東京志向」 オーバーヒートもオイルも知らなかった
自分の車を初めて持つことで、私の人生とまではいえないにせよ、生活は確かに変わった。
行きたい所にいきたい時に行けるようになって生活の範囲が一挙に広がった。とにかくいつ
でも自分で動けるのだから、自立の意識が高くなった。1965年(昭和40年)春、静岡市での
ことである。車は日野自動車のコンテッサ900だった。
アメリカ社会の多様な顔を多様な角度から伝えてきた夫婦の歴史作家トーマス・フーブラー
とドロシー・フーブラーは車と人について以下のように書いた。
「自動車はロマンスと個性とパワーのシンボルとなった。アメリカ人はみな最初に持った車
を人生の一つの区切りの儀式として覚えている。若者たちは車を大人の世界への参入路と
みなす。車は希望と夢が招くところにはどこにでも連れていってくれる、と若者たちは信じる
のだ」
私にとってもコンテッサは希望と夢をかなりの部分、満たしてくれた。静岡市内はもちろん
周辺の海でも山でも自由にいけるようになった。機動性は個人的なつきあいも格段に広
げ、心地よくした。新聞記者活動にも頻繁に自分の車を使った。静岡県内でもわりに離れた
沼津とか浜松という地に自由にいけることは取材に大きくプラスした。
《共同所有者》 車の使用にあたっては共同所有者の友人のF・Kとぶつかり、奪いあいに
なることは不思議なほどなかった。他者にはいつも寛容な彼とはスケジュールの調整もうま
くいき、交互に二人で車を使った。ただし所属の会社が異なり、競争する立場にある新人の
新聞記者二人が自家用車をシェアしていることは上司の目には奇異に映り、誤解を招くか
もしれないと思い、共有していることは周囲にはほとんど知らせなかった。
車の用途は多々あったが、なんといっても最大の魅力は自分で運転して東京へいけること
だった。私は当時、愚かなほど偏狭な東京中心志向の若者だった。大学卒業まで生まれ育
った東京以外にはなにも知らず、東京が世界のすべてぐらいに感じていた。静岡に配属さ
れても、心情も交友のきずなもまず東京とつながっていた。とくにアメリカ留学から帰国して
わずか二日ほどで、東京を懐かしいと思うひまもなく静岡に赴任したことから、心情面での
東京への執着はさらに激しくなった。
そのうえ新聞記者の仕事自体が東京志向が強く、地方支局でスタートを切る新人たちはみ
な東京という首都の舞台で活躍する日を夢みてがんばる。だが私の場合、それらの要因に
加えて東京で自分の車を運転することが高校時代からの願望だった。
車で都内を自由に動き回り、友人を訪ね、デートをし、盛り場に出入りする、というのがあこ
がれだった。その夢を静岡を拠点に果たそうとしたわけである。過去に死ぬほど欲して果た
せなかったことをいまするという一種のあだ討ちのような行動パターンでもあった。そのた
めに中古のコンテッサを駆って静岡・東京間をせっせと往復した。
23 :
古森義久:02/01/29 07:51 ID:2+/NwlVq
《土曜日の夜》 F・Kも東京に頻繁に帰りたがっていた。彼も東京で生まれ育ち、友だちも
東京に集中していた。私とは違う理由もあったのだろうが、ともに休日には一週間おきぐら
いに東京の親もとへもどった。土曜の夜ともなると、二人で車に跳び乗り、国道1号をひた
走りに走るのだ。当時、できたばかりの東海道新幹線(*)はまだ本数が少なく、東京から静
岡への最終便が午後九時ごろだったので不便すぎた。
東名高速道路は開通していなかったから、東海道沿いの国道1号を延々と走る。午前1時
に大あわてで出発し、午前5時すぎに都心に着くといった強行軍はごくふつうだった。霧の
濃い箱根の曲がりくねった旧道を超スピードで疾走もした。F・Kと交互に1人がハンドルを
握れば、1人は後部座席で眠ってひた走った。だが未明でも当時の国道は由比から蒲原と
か平塚から藤沢などで渋滞し、のろのろ運転をしいられることも多かった。
東京からの帰途、藤沢でタイヤがパンクし、予備もなく、翌朝の勤務に遅れないため車を道
端において東海道線の汽車で静岡に戻ったこともある。夕方、それぞれの上司に「ちょっと
車をとってきます」と、いかにもすぐ近所にいくようなふりをして汽車に飛び乗り、藤沢に戻
るのだった。
私はしかし、これほど自動車に依存し、愛着を覚えても、車の機能とかメカニズムにはまる
で関心はなかった。車はとにかく一応の形を保ち、走ってくれればよいのだ。その無知のた
めに手痛い代償も払った。
《夏の出来事》 65年7月、初めて5日間もの夏休みをもらい、1人で意気揚々とわがコン
テッサを駆って静岡から東京へ向かった。エアコンのない車での炎天下ドライブもものとも
せず、沼津から国道1号をはずれ、御殿場を目指した。この日は国道246号を走ることにし
たのだ。日中に予想される箱根や湘南の猛混雑を避けるためだった。
山あいの山北、松田などという町を抜けて、246号をわりにスムーズに走った。その日の
夕方には原宿で学生時代の友人たちと会う約束だった。新聞記者に関心のある魅力的な
女性を紹介するという友人の触れこみだったので、私は張り切っていた。途中で一度、ガソ
リンを入れただけで小休止もせず、ただただ走り続けた。5日間も自分の車を持って東京
で過ごせることにまず興奮していた。
ところが、246号を秦野、伊勢原と走り、厚木まできて、車の調子がおかしくなった。エンジ
ンが、がたがたとあえぎ、やがて止まってしまったのだ。たまたま近くにトヨタのパブリカの
販売修理の店があったので、そこに駆けこんだ。「完全なオーバーヒートですよ。それにエ
ンジンのオイルもほとんどなくなっています」いまも酒井というその名を記憶しているパブリ
カのセールス担当者がエンジンをちょっとみただけで告げた。
当時の私はエンジンのオーバーヒートとかオイルがなにを意味するのかも知らなかった。親
切なセールスマンもさすがにあきれていた。エンジンのかなりの部分が破壊され、すぐには
なおるはずがない。
24 :
古森義久 :02/01/29 17:10 ID:T+9ixEZG
私は小田急線に乗って都内に向かい、夏休みの貴重な時間も予算も大部分を車の修理に
割く羽目となった。東京五輪の翌年、中国で文化大革命が始まり、ベトナムでは米軍の北
爆が開始された年である。国内では「知りたくないの」(*)のメロディが流れ、映画「網走番外
地」(*)が多数の観客を集めた年でもある。
私にとってそのころの自動車は、間違いなく目前の現実を将来と過去の両方の夢へとつな
げ、心を大きく宙に羽ばたかせる希望の救世主のような存在だった。
■豆事典
◇東海道新幹線 東海道本線の輸送力増強のため、時速200キロの高速運転を行う鉄道
の建設は1958年の閣議で決定し、59年4月に着工した。東京オリンピック直前の64年10月
から東京−新大阪間の営業が開始された。72年3月には新大阪−新神戸間も開通した。
◇「知りたくないの」 ドン・ロバートソン作曲、なかにし礼作詞、もともと1935年に米国で発
表されたカントリー・ウエスタンの歌で、日本では菅原洋一が歌い、65年10月に、「恋心」の
B面として発売された。初めはそれほど大きな話題にならなかったが、有線放送を中心にじ
わじわと広まり、ほぼ2年がかりで大ヒットとなった。
◇「網走番外地」 高倉健の人気を決定づけた東映の人気シリーズ、1965年にシリーズ第
1作「網走番外地」が公開されたときには、鶴田浩二主演「関東流れ者」の添え物の扱い
で、シリーズ化の予定もなかったが、予想外にヒットしたため、第2作を2週間足らずで撮影
した。第3作「網走番外地・望郷編」でようやく本格シリーズ化が決定し、73年の「新網走番
外地・嵐呼ぶダンプ仁義」まで計18作が公開された。
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从从从从从从从 / ヽ,
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>>1!糞スレ立てのお前は2ちゃんねるのために死ぬがいいモナ!!
| |;; ,; | l
ヽ、 ヽ、 ,,,/ | |
ヽ、 ヽ''''"" |.|
27 :
卵の名無しさん:02/01/29 19:46 ID:wmARXUGa
ここが噂になっているボケスレッドだな
>>25 こちらが本家らしい
>>3 細かいことはどうでもいいか。
でもこちらはSTS(オチョクリ氏)が立てて、向こうの元祖は
×井の工作員(鶴原氏)が立てたという点では偉い違いだね。
29 :
古森義久 :02/01/30 04:47 ID:PcqsxILI
■車が人を変えた (6) 「張り込み」 ミラーに映る捜査員の動きを追った
私の長年の自動車とのかかわりでも、生活のなかで車が果たす役割が最も大きかった時
期といえば、おそらく静岡での勤務を終え、東京で新聞記者の活動を始めてからの数年だ
ろう。
《夢の実現へ》 私が静岡支局から東京本社へと転勤になったのは1967年(昭和42年)5
月だった。東京オリンピックから3年が過ぎていたその年の7月、日本の自動車保有台数は
初めて1千万台を超えた。ほぼ10人に1台の計算となる。同時に国民生活白書では日本
国民の9割以上が中流意識を抱いていることが伝えられた。自家用車を持つことはその中
流意識の必須の要件になりつつあった。
私は4年ぶりで東京での生活に戻った。静岡で共有にせよ、自分の車を持ってしまったか
ら、もう逆戻りはできなかった。一度、覚えた自由と自立の味は忘れられない。その辺は依
存症にも似ており、人間の生活の合理的進歩には後退はないという単純な真理でもある。
東京でも車を所有して自由に運転することが、社会で一人前のメンバーになる資格のよう
にさえ思えた。車がなければなにも始まらないとまで感じていた。社会全体をみても、その
なかでダイナミックに躍動し、前へ前へと進むには車を所有していなければならないという
変な参加の意識も覚えた。
東京に腰を落ち着けてすぐトヨタのカローラを買った。日産のサニーとの間で国産小型車の
トップの座を争っていた車である。白い新車だった。両親の家に住み、住宅費はかからず、
給料もいくらかは上がっていた。だから長期の月賦にすれば、それほど無理せずに購入で
きた。東京で自分の自動車を持ち、自由に乗り回すというのは16歳で運転免許をとったと
きからの夢だった。夢の完全な実現にちょうど十年かかったわけである。
それから東京での5年間、いま顧みてわれながら感嘆するほどよく働き、よく遊んだ。その
両方に車が絶対不可欠の手段となった。自分自身の車をこれほど身近に感じ、これほど多
くの時間をそのなかで過ごした時期はほかにない。車が生活にこれほど深く入り込んだの
も、日本のモータリゼーションを背景に、私の人生のあり方と社会のあり方とが相乗した結
果だったのだろう。
《運転の上達》 私は社会部記者としてまず都内の警察署をいくつも担当させられた。池袋
署を中心に第五方面と呼ばれる豊島、北、練馬、文京などの区の各警察署、さらには淀橋
署(いまの新宿署)を中心とした第四方面と呼ばれる新宿、杉並、中野などの区の各警察署
である。こんな広い地域をぐるぐる回り、大きな事件や事故があれば、現場に急行する。
移動には会社からハイヤーが供され、自由に使えた。だが自分の車を使った方がずっと便
利な場合があることにやがて気づく。当時は過激な学生運動が盛り上がっていた。日米安
保条約やベトナム戦争、大学管理に反対した、あの闘争である。
30 :
古森義久:02/01/30 04:48 ID:PcqsxILI
私は中核派の取材を担当させられ、千代田区の法政大学などに日夜、通ったが、自分で運
転する車の機動性は新聞社の運転手つき黒塗りハイヤーよりずっと威力を発揮した。学生
が占拠する東大や日大の施設に機動隊が入ったなどという一報を未明に受けると、代々木
に住んでいた私は自分の車に飛び乗って、自宅から召集された記者のなかでは真っ先に
現場に駆けつけることができた。
会社の車が利用できるのにあえて自分の車を頻繁に使ったのは、一つには当時の私は運
転がかなり上達していたためだった。東海道の長距離ドライブで鍛えたうえ、東京でも連日
連夜、ハンドルを握っていたのだから、当然である。都内でもハイヤーの年配の運転手たち
よりは短時間で目的地に達することができると自負していた。
過激派取材の過程で68年(昭和43年)3月には重傷を負ったが、車の運転にはブレーキと
はならなかった。北区王子に米軍の野戦病院を建てるという計画に中核派らが実力行使で
反対し、機動隊と衝突するのを取材しているうちに、どこからか飛んできた大きな石が頭に
ぶつかったのだ。頭がい骨にヒビが入り、脳内出血を起こして、1カ月も入院した。当時の
警視総監、秦野章から2万円の見舞い金が届けられた。だが退院すればすぐにまた自分
の車を連日連夜、運転する生活に戻った。
《運転の上達》 その後、警視庁詰めとなったが、これはテレビの人気連続ドラマだった「事
件記者」(*)の舞台である。担当は捜査二課と同四課だった。二課は知能犯、四課は組織暴
力の捜査が主だった。取材はドラマと異なり、自分で犯罪事件を追うよりも、事件を追う捜
査員から情報をもらうことが主体だった。そのために刑事たちの自宅への夜討ち朝駆けが
毎日の仕事となった。
そうした取材ではさすがに社の車に頼ることが多かったが、自分の車を使うことも珍しくな
かった。刑事の姿や捜査対象者の帰宅を路上に止めたカローラのなかでじっと待つことも
あった。バックミラーやサイドミラーの角度を調節し、リクライニングシートを倒して体を横た
える。ミラーに映る動きをみつめる。そんな張り込みをした。
日通事件(*)では旧役員たちが疑惑の資金で建てたという豪華な別荘群を調べに、静岡県
の伊東まで自分の車で出かけた。そんな遠距離の取材活動では自家用車は断然、動きや
すかった。なにしろ運転がまったく苦痛ではなく、長時間でも楽しかったのだ。
日大経済学部不正経理事件(*)では大学幹部の1人が家宅捜索を受け、逮捕されそうだと
の情報をつかみ、渋谷の幹部宅前に早朝、張り込んだこともあった。カローラに横たわり、
バックミラーに捜査員の姿が映るのをいまかいまかと待ち受けていると、競争相手の読売
新聞の先輩記者の顔が映ったのにはがっかりした。この動きを知るのは自分だけだと信
じ、捜査員が家に踏み込み、大学幹部を連行するところを目撃すれば、スクープになると思
っていたからだ。ちなみにこのときの読売記者はいまテレビ朝日のコメンテーターの内田忠
男である。
31 :
古森義久:02/01/30 04:50 ID:PcqsxILI
自分の職業にこれほど車を役立てたが、遊びにはさらに多く車を使った。なにしろ20代の
独身である。男女を問わず友人とはまず必ず車で行動をともにした。どんな時間でも、どん
な場所にも疾走していけるのである。この時期の車にまつわる青春のほろ苦い思い出は数
多い。私の白いカローラは3年で走行距離10万キロ以上となった。年間では最近の私の走
行の6〜7倍である。
70年(昭和45年)に車を買い替えた。ホンダのクーペ1300だった。半分スポーツカーのよう
なタイプである。車体は濃い黄色、当時の私の車への期待や思い、情緒を反映する派手で
落ち着かない色だった。
■豆事典
◇「事件記者」 1958年4月から66年3月までNHKで放映された連続ドラマ。島田一男原
作。出演は永井智雄、原保美、滝田裕介、園井啓介ら。警視庁の記者クラブを舞台に激し
い取材活動とスクープ合戦を描き、高視聴率を上げた。
◇日通事件 1968年(昭和43年)に東京地検特捜部が日本通運の乱脈経理を摘発し、福島
敏行前社長らを68年4月8日、業務上横領容疑で逮捕した。6月には社会党・大倉精一参
院議員をあっせん収賄容疑で逮捕、自民党・池田正之輔代議士を収賄の疑いで取り調べ
るとともに福島前社長ら旧日通5役とともに起訴した。日本通運は関連会社から吸い上げ
たリベートの一部を政界工作に流し、その額は4年間で1億9000万円、受け取った政治家
は47人のぼると伝えられた。
◇日大経済学部不正経理事件 1968年に日大経済学部で業務上横領などの不正経理が
明るみに出て警視庁捜査2課が関係者8人を逮捕した事件。日大では同じ1968年の春、東
京国税局の特別監査を受け、20億円にのぼるヤミ給与が発覚、国税局は脱税分や重加算
税などで11億円を徴集した。東京地検は古田重二良会頭を所得税法違反容疑で取り調べ
たが、69年8月、容疑不十分として不起訴。20億のヤミ給与事件は68年5月に日大の学生
が全学共闘会議(日大全共闘)を結成するきっかけになり、学園紛争が拡大していった。
なぜか当社関連スレッドは糞荒らしが多い。
しかも、単なる盗人コピペの荒らしのみ。
まるでマスターベション。陰湿な自己満足のみ。
いい年をしてみっともない怒。 ××君
なぜか当社関連スレッドは糞荒らしが多い。
しかも、単なる盗人コピペの荒らしのみ。
まるでマスターベション。陰湿な自己満足のみ。
いい年をしてみっともない怒。 ××君
34 :
古森義久 :02/01/30 07:32 ID:YPAO/AY9
■車が人を変えた (7) 「レンタカー」 アメリカが水平に見えた
日本人は外国で自動車をどう利用するか?この問いかけを裏返せば、外国で自動車は日
本人にどんな影響を与えるか、という設問となる。外国を舞台とする日本人と自動車の関
係は、変遷を辿ると日本と世界との関係の縮図のように多彩なドラマを浮かびあがらせる。
私自身も2歳で自動車社会のアメリカにほうりこまれ、自分の車を運転しなければ人にあら
ず、といった実態に衝撃を受けた経緯はすでに書いた。
帰国後、6年ほどたって新聞記者としてアメリカを再訪することになった。1970年(昭和45
年)、大阪で万博(*)が開かれ、東京では三島由紀夫(*)が割腹自殺した年である。アメリカ
ではベトナム戦争での米軍のカンボジアへの戦線拡大に抗議する大規模な学生デモがオ
ハイオ州ケント州立大学で開かれ、介入した州兵部隊に学生四人が射殺されるという騒ぎ
が起きていた。
《日本発見》 私はその年の春、社会部から国際報道の外信部に移り、その最初の仕事が
アメリカ各地をカメラマンとともに回り「日本発見」というシリーズを日曜版に書くことだった。
ハワイでの日本人の戦争花嫁のその後、カリフォルニアでの日本の仏教の広がり、ノース
カロライナでの日本製の中型旅客機YS11の定期飛行、ニューヨークでの日本人の国連職
員の活動、といったテーマの報道だった。
このとき初めてホノルルやサンフランシスコでレンタカーを使った。アメリカでの最初の運転
は緊張した。胸がどきどきして体がこわばり、道路の右車線の運転にも戸惑った。初めての
長距離ドライブはサンフランシスコから南へ百五十キロほどのサンタクルスという町までの
往復だった。サンタクルスで日系米人の眼科医の一家が惨殺され、現地へいって報道する
ことを急に東京本社から指示されたのだ。こわごわとアクセルを踏んで出発したが、思った
より早く慣れた。運転練習を日本でさんざん積み重ねていたためだろう。
しかしアメリカで初めて車を運転してみて、社会も人も、車を持たなかった留学生時代とは
まるで異なってみえるのには驚いた。徒歩とバスでしか移動できなかった時には、アメリカ
社会をいつも一歩下からみあげるような感じがあったが、車で走ると水平の眺めとなる。車
の大きさや豪華さの区別こそあるが、路上を走っている限り、だれとも対等に思えるのだ。
さらにどんな地域のどんな道路でも車で自由に入っていけるという認識はその土地を身近
に感じさせた。自動車を走らせながら感じるアメリカは異邦という印象が薄れ、ぐっと至近
の親しい国として近寄ってくるというふうなのである。外国での運転のこんな効果には最
初、驚嘆した。
《自由に運転》 報道のための取材活動という見地からも、外国で個々の新聞記者が自由
に車を運転して機動性を発揮できるか否かで、大きな違いが出る。アメリカではそのころは
まだ新聞記者も含めて日本人の訪問者が一人でレンタカーを借り、自分で運転して自由に
動き回るということ自体、珍しかった。アメリカに出張してすぐレンタカーを使って取材できる
という能力だけで特殊技能の扱いをされていた。
田中宇の国際ニュース解説 2002年1月28日
http://tanakanews.com/ ━━━━━━━━━━━━━━━━
★テロの進行を防がなかった米軍
━━━━━━━━━━━━━━━━
2001年9月11日の朝、アメリカ軍の司令官であるリチャード・マイヤー
将軍は、仕事の本拠地である首都ワシントンDCの国防総省(ペンタゴン)から
車で10分ほどのアメリカ連邦議会の上院議員会館にいた。
マイヤーはこのとき統合参謀本部の副議長で、近く議長に昇格する予定になっ
ており、その人事を議会が承認するための公聴会について上院議員との打ち合わ
せがこの朝に入っていた。この日、統合参謀本部の議長は大西洋上に出ていたた
め、ワシントンにおける制服組(軍人)としての最高司令官は副議長のマイヤー
が代行していた。
打ち合わせに入る少し前、マイヤーが控え室にいる間に、その部屋のテレビが、
世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んだというニュースを報じ始めた。その
後やってきた上院議員のマックス・クリーランドが、大丈夫なのか尋ねたところ、
マイヤー司令官は「小さな飛行機か何かがビルにぶつかったらしい」と答え、大
したことはないという判断で、マイヤーとクリーランドは、そのまま予定通り会
議に入った。
彼らが会議をしている間に、2機目の旅客機が貿易センタービルに突っ込んだ
が、それをマイヤーたちに伝える人はいなかった。打ち合わせが終わってマイヤ
ーが控え室に戻ったとき、テレビは黒煙を上げる高層ビルを映し出していた。
「ここにきて、事態の重大さがはっきりした」と、マイヤーは後から回想してい
る。
そうこうするうちに、誰かが「ペンタゴンにも飛行機が衝突した」と伝えてき
た。誰かが携帯電話をマイヤーに手渡した。電話の向こうは、空軍の司令官だっ
た。このときになって初めて、マイヤーは事件に関して部下からの直接の報告を
受け、対応策を命じ、急いで国防総省に引き返すことにした。
(ここまでの経緯は、国防総省が発表した記事をもとに書いた)
http://www.defenselink.mil/news/Oct2001/n10232001_200110236.html ==== [ ▼PR ] ========================================================
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▼無為に過ぎた直前の30分
国防総省に突っ込んだAA77便は、ワシントンの空港を飛び立ったのが8時
10分で、飛行中にハイジャックされたのが8時55分ごろだった。この飛行機
はロサンゼルス行きで、離陸後45分かけて500キロほど西に飛んだところで
ハイジャックされ、同じコースを逆行してワシントン方向に戻り、ハイジャック
から45分後の9時40分に国防総省ビルに突っ込んだ。
国防総省はこの飛行機がハイジャックされてから15分後の9時10分ごろに
は、連邦航空局(FAA)からの連絡で、この飛行機のハイジャックを知ってい
た。
しかしそれから30分間、国防総省の司令室では、何をしたらいいか分からな
い混乱状態が続き、すぐ近くにあるエドワード空軍基地から戦闘機を発進させる
こともせず、ハイジャック機が自分たちのビルに向かって突進してくるのに、何
の手も打たなかった。マイヤー司令官に電話をかけることも、誰もしなかったの
である。(司令室は国防総省ビルの東側にあったが、ハイジャック機が激突した
のは同じビルの西側だった)
http://www.nytimes.com/2001/09/15/national/15CONT.html この朝、マイヤーの上司にあたるラムズフェルド国防長官も外出していたが、
彼が連絡を受けたのも、国防総省に飛行機が突っ込んできた後だった。
▼緊急発進に大統領の決定が必要だというウソ
米軍は、ハイジャック機に対する警戒態勢が不十分だったのかといえば、そう
ではない。日本などより人々が飛行機を使う頻度が高いアメリカでは、ふだんか
ら国内線旅客機のハイジャックに備える十分な態勢がとられ、訓練もよく行われ
ていた。
旅客機がハイジャックされたり、規定の飛行進路をはずれたまま管制塔からの
呼びかけに答えなかったりした場合、連邦航空局は、米軍とNORAD(北米防
空司令部、アメリカとカナダの合同防空組織)に連絡し、米軍やカナダ軍の戦闘
機に緊急発進してもらう。戦闘機は旅客機の近くまで行き、その操縦室の様子を
目視で確かめ、戦闘機の先導に従うよう命じる合図を送る(旅客機の前を横切る
のが合図となる)。
旅客機が先導に従えば、近くの飛行場に強制着陸させる。従わない場合になっ
て初めて、軍の上官が、旅客機を攻撃するかどうかという判断を行う。911で
は事件後「一般市民が多数乗っている旅客機を撃墜するかどうかという難しい最
終判断を、米軍の最高司令官であるブッシュ大統領が下すのに時間がかかり、戦
闘機の発進が遅れた」といった説明が、テレビのインタビューに答えるかたちで、
チェイニー副大統領によってなされている(9月16日NBCテレビ)。
http://stacks.msnbc.com/news/629714.asp?cp1=1
37 :
古森義久 :02/01/30 19:25 ID:C5ylwZoM
私はわずか2カ月というアメリカ出張の枠内にせよ、それをやり、外国での自動車を自分で
運転しての取材がいかに便利かを早い時期に学んだため、ひそかな満足を感じていた。
1970年といえば、日本の自動車のアメリカ向け輸出が急カーブで増え始めた時期であり
日産のダットサン、セドリック、トヨタのコロナ、カローラなどという車種を中心に乗用車だけ
でもその年に合計32万台ほどがアメリカ市場に輸出されていた。もっとも、後年とくらべれ
ば、まだまだ少なく、道路上で日本車をみることは、そう多くはなかった。レンタカーも日本
車はほとんど目につかず、私はアメリカの車ばかりを運転した。
次に私が外国での自動車の運転と自分の生活との関係をあれこれ考えさせられる舞台は
ベトナムとなった。72年(昭和47年)4月、そのころのベトナム共和国(南ベトナム)の首都サ
イゴン(ホーチミン)駐在の特派員となったのである。当時のベトナムでは戦争がまだ激しく
続いていた。
私がサイゴンに着くほんの3週間前には、北ベトナム軍の大部隊が南北ベトナムを分ける
北緯17度線を越えて、怒濤のように南下し、南ベトナム最北端のクアンチ省を占拠しつつ
あった。南領内の中部高原コンツム市にも、サイゴン北のカンボジア領に近いアンロク市に
も、北ベトナム軍の精鋭部隊が猛攻撃をかけていた。後に「1972年春季大攻勢」と呼ばれ
た全国規模の軍事攻撃である。
米軍もまだ10万ほどが南ベトナム領内に駐屯していた。ただしリチャード・ニクソン大統領
はすでに米軍のベトナム離脱の基本策(注3)を打ち出していたため、米軍部隊は地上戦闘
にはもう加わらず、空爆や砲撃だけで南ベトナム軍を支援していた。
そんな南ベトナムの首都サイゴンではアメリカ製の多様な自動車がまず目についた。ただ
し、乗用車は古い車が多かった。走行距離をどれほど積み重ねたのか想像もつかないビュ
イック、キャデラック、ポンティアックといった大型車のおんぼろを米側から払い下げを受け
たような感じでベトナムの人たちが運転していた。アメリカの軍や政府の現役メンバーたち
はもっと新しい米車に乗っていた。
南ベトナム社会一般では乗用車の数はもちろん日本と比べてはるかに少なかった。基本的
には自家用車は特権階級、富裕階層に限られていた。ベトナム人の間では車はまさに富や
地位の象徴だった。その種のベトナム人の乗用車は圧倒的にフランス製が多かった。プジ
ョー、シトロエン、ルノーといった車である。ベトナムは60年以上もフランスの植民地だった
歴史があるのだから当然だろう。日本車はごく珍しかった。
38 :
古森義久:02/01/30 19:26 ID:C5ylwZoM
《自分で調達》 日本の報道機関の特派員たちは取材でも、私生活でも、みな現地の人が
運転する車に乗っていた。生活の場となるサイゴンの内外は交通網が未発達で、自分で車
が調達できなければ、あまり頼りにならないタクシーかバスに依存するしかなかった。
日本のマスコミが南ベトナムにサイゴン支局を開き、常駐の特派員をおくようになったのは
1965年(昭和40年)ごろからだが、交通の手段としてはベトナム側から車を運転手ごと長
期かつ定期にチャーターする方式が定着していた。だがここでも私は自分自身の車を調達
して、生活の質を変えるというプロセスを経験した。
■豆事典
◇大阪万博 大阪府の千里丘陵で1970年3月14日〜9月13日の半年間にわたり「人類の
進歩と調和」をテーマに開催された。正式名称は日本万国博覧会(EXPO)、東京五輪と並
び高度成長期の日本を世界にアピールする2大イベントで、世界77カ国が参加、アメリカ館
の「月の石」などが話題になり、期間中の入場者数6421万人余りという史上最大の万博と
なった。
◇三島由紀夫(みしま・ゆきお=1925-70年) 作家、1944年(昭和19年)、処女小説集「花ざ
かりの森」を刊行。戦後、半自伝小説「仮面の告白」で注目され、「潮騒」、「金閣寺」、「憂
国」、更に「豊饒の海」4部作など数多くの作品を発表。日本を代表する戦後作家となった。
その一方で68年には「楯の会」を結成。70年11月25日、「楯の会」のメンバー4人とともに東
京・市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乱入。バルコニーから自衛隊員に決起を促す
演説を行ったが、受け入れられず割腹自殺した。
◇米軍のベトナム離脱 1969年1月に米大統領に就任したリチャード・ニクソンは同年6月
8日、南ベトナム大統領、グエン・バン・チューと会談、南ベトナム駐留米軍の一部撤退を発
表した。この結果、7月に第1陣814人が撤退したのをはじめ、最大時54万2000人に達した
南ベトナム駐留米兵は同年中に50万人以下となり、その後も順次、撤退が進められた。
糞荒らしは○井の関係者に違いない。
厳正な処分を希望します
40 :
古森義久:02/01/31 22:12 ID:vLKIEDlN
■車が人を変えた (8) 「サイゴン」 外出禁止令の夜も取材に走り回った
戦時下のベトナムでの私の自動車体験は車が人の生活をどう変え、どんな悲喜劇をもたら
すかを眺めるうえで興味深いテストケースだった。
1972年(昭和47年)4月に、南ベトナムの首都サイゴン(ホーチミン)に特派員として赴任し
て激しい戦火のなかで取材活動を始めてみると、まず日本人の自動車への世代ギャップが
明白なのに改めて気づいた。それまでにきていた日本人特派員たちの間では車は人に運
転させる、あるいは人が運転するのに便乗する、というのが慣行となっていた。ベトナムで
自動車を自分で運転するという選択は発想としてそもそも皆無のようだった。
交通規則がはっきりせず、バイクや自転車が錯綜する混雑した道で現地の人をはねたらと
んでもないことになる。車のチャーターは安いし、運転手を雇うのも容易である。先輩記者
たちがそう考えるのにも理はある。だが、聞いてみると、日本で頻繁に自分の車を運転して
いたという人はほとんどいなかった。運転免許のない人も多数いた。
私はベトナム駐在日本人記者団のその「慣例」を破り、自分で車を買って毎日、運転するこ
とになるのだが、面白ことに私より後に日本から赴任してくる特派員たちはほとんどが自分
で車を運転するようになった。私はちょうど日本での本格的モータリゼーションの世代の最
初に近い部分にいたのだろう。
《白いコロナ》 ベトナムでの取材活動では新聞社の支局の車をほぼ自由に使えはしたが
中年の運転手は機敏さに欠け、自分で運転した方が早いといらいらすることが多かった。
だが現地の生活に慣れるまでは慎重にした。そのうち私と年齢のそう変わらないベトナム
の男女のグループと知り合い、食事やパーティーに招かれるようになった。銀行員とか医師
とか政府職員という専門職業を持つ人たちで、多くが自分の車を運転していた。
それをみるうちにベトナムでの運転も気楽なことに思え始め、車を借りて試運転すると、そ
のとおりだった。その結果、着任から1年足らずで、トヨタ・コロナのマークII(*)の中古を買
い、運転を始めた。日本大使館の帰国する外交官から2千ドルほどで売ってもらった。
この白いコロナが私の生活を一気に拡大した。まず取材ではそれまでのいくつかの障害が
撤去された。交通の便や道路事情があまりよくない郊外の目的地へも私が運転し、ベトナ
ム人の助手が案内して、スピーディーにいけるようになった。いざという際の戦場近くへの
取材でも機動性が飛躍的に高まった。
早朝や夜のサイゴン市内の政治家や官僚の家への訪問も楽になった。とくに当時のサイゴ
ン内外は夜間外出禁止令が出ていて、早朝や午後11時以降は動けなかったのだが、自分
の車に夜間外出許可証を張ると、もう自由だった。軍や警察は自家用車を持つ外国人には
寛容だったのだ。
ずっと後の75年春、戦争の最終段階で北ベトナム軍の大部隊がサイゴンに迫り、市内が
全面外出禁止となったときも外出許可証を付けた私の車は自由に動いた。戦闘に巻きこま
れそうになった支局の助手一家を近郊の家から私が車でうまく避難させたことさえあった。
>>39 >糞荒らしは○井の関係者に違いない。
>厳正な処分を希望します
素朴な疑問
誰が処断を下すの
42 :
卵の名無しさん:02/01/31 23:26 ID:JoSn7vRn
沢●社長!いろいろ変なことやってるようだね、
みんないろいろ噂してる、
いい噂ではない、
新聞で一面広告するぐらいなら上場薬品会社で最低の給料を上げてくれ
44 :
古森義久:02/01/31 23:48 ID:5gQeu/XT
サイゴン陥落(*)の直前も、何万という市民が国外に脱出しようと走り回る混乱のなか、自
分で運転する車のためにわれながら驚くほど広範な取材や人助けができた。
《車ならでは》 サイゴン陥落の3週間ほど前にはベトナムの孤児や米軍将兵との混血児
を300人以上乗せた米軍超大型輸送機C5Aが近郊の湿地帯に墜落するという悲惨な大
事故があった。子供をアメリカ人の養子にするという「ベビー・リフト作戦」の一番機だった。
この時も私は1人で車に飛び乗り、救出のヘリが群がる地点を目標に、農道を40〜50分
も疾走して、いち早く現場に着いた。取材を終えて戻ろうとすると、あとからきた日本人らし
いカメラマンが帰途の足がなくて困っていた。「サイゴンに戻るなら乗せてあげますよ」と声
をかけると、喜んで乗ってきた。車中、話すと、大手のA新聞のカメラマンだという。
少し広い道に出たところでタイヤがパンクしてしまった。スペアの取りつけに少し時間がか
かるというと、彼は簡単に礼を述べ、夕闇に消えていった。別の車を拾うのだろう。サイゴン
はもう近いし、車の往来も散漫ながらあったから問題はないだろう。これも自分の車ゆえの
人助けぐらいに思っていた。
だがこのカメラマンはその後、A新聞の写真部長にまでなり、酒の話によく「古森という記者
はこちらがA新聞とわかると、すぐにパンクだなんてウソをつき、締め切りに遅れさせようと
車から降ろしやがった」というベトナム回顧を語ると聞いた。車ならではの因縁話である。
《二重の出費》 しかし、ベトナムでは車のために私生活も飛躍的に楽しく、豊かになった。
戦場はあくまで辺地だったから日曜日には友人たちと海岸や果樹園に気楽に出かけられる
ようになった。サイゴン市内のスポーツクラブや学校、道場で柔道のコーチをして、新聞記
者としてはまず触れられない人たちを知ったのも、自分の車で動けたからこそだった。
戦闘が一段落した時期には東京から訪れた母とともに片道300キロをもドライブして中部
高原の景勝地ダラト(注3)に遊んだ。もし自分の車がなかったらベトナムでの四年近い生活
はずっと狭小で色あせた経験となっていただろう。
ただし災難にもあった。最初の車を買って一年ほど、自宅アパート近くの路上に駐車した車
を盗まれてしまった。自動車の盗難が多いことは知っていたから、ドアのロックはもちろん
のこと、クラッチとハンドルをがっちりつなぐ鋼鉄棒の盗難防止装置をつけ、エンジンがか
かるとクラクションが鳴る警報装置もオンにしていた。それでも車は忽然と消えてしまった。
さらにその後「盗んだ相手を知っており、カネを払えば買い戻せる」という傷病軍人にだまさ
れ、踏んだりけったりの出費となった。
二番目の車も借金をしてコロナのマークIIを買った。やはり日本人外交官からの払い下げで
ある。この車は帰国直前まで乗ったが、当時、革命を進める軍事管理委員会の統治下では
国外に出る外国人は財産をベトナムで売却も譲渡もしてはならない、という布告が出てい
た。革命当局に寄付するか、放棄する以外にないのである。
45 :
古森義久:02/01/31 23:50 ID:5gQeu/XT
たまたま以前から知っていたキム・クンという舞台女優が革命当局の「愛国芸術家連盟」に
所属し、劇団を組織していた。だから私はこの劇団を当局とみなし、彼女に車を寄付してベ
トナムを去った。あれもこれも私のベトナムでの波乱に満ちた生活は自分の車なしでは考
えられなかったのである。
■豆事典
◇コロナ・マークII トヨタは1957年ライバル日産の看板車ダットサンに対抗するため、初の
小型乗用車、コロナを発売。小型車市場は1960年代の中盤になると、日産のブルーバード
とコロナとのBC戦争と呼ばれる激しいシェア争いが展開された。マークIIはそうした小型車
市場の競争の中で68年にコロナの第2世代車として発売された。
◇サイゴン陥落 ベトナム戦争は、1975年に入ると南ベトナム政府軍の劣勢が顕著にな
り、事態打開の展望を持たない南ベトナム大統領グエン・バン・チューが4月21日に辞任
した。、1週間後の28日に大統領に就任したズオン・バン・ミンは即時停戦、和平交渉即時
再開を提唱した。これに対し北ベトナム軍はサイゴン砲撃で応じ、翌29日にはアメリカ大使
館が閉鎖されて、米大統領フォードがベトナムからの米国人の総引き揚げを指示。そして4
月30日午前10時30分、ズオン・バン・ミンが無条件降伏を決め、北ベトナム軍が入城してサ
イゴンは陥落、ベトナム戦争は終止符を打った。
◇ダラト ベトナム中部の海抜1500メートル前後の高地にある高原都市。フランス植民地
時代に開発され、起伏の多い丘陵地帯にフランス風の建物が点在している。気温が年間を
通じて18度から23度の間と過ごしやすく、美しい避暑地として知られている。
46 :
日○工:02/02/01 02:02 ID:fmgr0/eH
>>43 >新聞で一面広告するぐらいなら上場薬品会社で最低の給料を上げてくれ
多分うちの方が、給料、低いはずです。
一応、大阪と名古屋の二部です。
47 :
古森義久:02/02/01 02:33 ID:aG1lsKwI
■車が人を変えた (9) 「ロッキード事件」 ロスへ飛べ、嘱託尋問を取材せよ
車が人の生活を変える最も卑近な例として私自身の自動車史をたどってきた。運転免許を
取って40年、自分の車を所有するようになって30年、過去を振り返り、どの時点でどんな
車に乗り、どんな車を買ったかを回想すると、そのときの自分の人生観や生活観までがす
ぐに浮かびあがってくる。経済状態や心理状態さえもよみがえる。
たとえばベトナムに赴任する前の28歳のころ、ホンダの1300クーペを買うのに数ある車体
の色のなかであえて濃いイエローを選んだのも、当時の私の心情の結果だった。真っ黄色
など本来の好みではないのだが、そのころの人間関係の悩みによって生じた複雑な動機が
そんな選択につながったのだ。
《長期出張》 ベトナムでの特派員を終え、新聞社の東京本社に帰ってすぐ、わりに高い新
車を買ったのは当時の私の経済状態の反映だった。いすゞが開発して市場に出したばかり
の新型いすゞ117クーペだった。車体後部のふっくらとしたカーブが魅力的なスタイルの車
で、色は落ち着いた白を選んだ。
1975年(昭和50年)末、価格は140数万円である。当時の大学出の銀行員の初任給平均
が9万円に満たなかったから、私としては贅沢な買い物だった。ベトナム駐在の後半、現地
通貨の暴落で生活費があまりかからず、知らないうちにドルがたまっていて、生まれて初め
て財政のささやかなゆとりを感じていたからである。
しかし、せっかくのいすゞ117クーペも半年ほどで売り払わねばならなくなった。76年夏、急
にワシントン勤務含みでアメリカへの長期出張を命じられたのだ。この出張は私のその後
の人生をかなり変えることとなったが、もし私がアメリカで車の運転がまったくできなかった
ら、出張は命じられていなかっただろう。その意味では車はここでも私の生活を変えてしま
ったといえる。
日本は当時、ロッキード事件に揺さぶられていた。アメリカのロッキード社が日本への航空
機の売りこみに際し、日本側の政府高官や政界黒幕、大企業幹部らに不正資金を払ったと
されるこの汚職事件は田中角栄(*)や児玉誉士夫(*)の起訴へと発展していくが、76年6月
からロサンゼルス連邦地方裁判所で嘱託尋問という捜査の新たな重要プロセスがかなり唐
突な形で始まった。日本側捜査陣の要請を受けたアメリカ司法当局はロッキード社元幹部
3人から事情を聴くことになったのだった。ちなみにこのときの日本側の現地代表の検事が
いまボランティアなどに活躍する堀田力である。
日本の各新聞社にとってもこの嘱託尋問を詳細に追うことが緊急課題となった。記者を急
派しなければならない。西海岸に常駐記者をおく新聞社はまだほとんどなかった。取材の
舞台となるロサンゼルスは自動車で動かない限り、なにもできない。派遣記者の要件とし
て、かなりの程度、英語で取材ができて、なおかつレンタカーを使いこなせることがあげら
れた。日本の新聞記者がアメリカの取材で運転手ごと車をチャーターして朝晩、使うという
ゆとりも発想もまだなかったのだ。
>>荒らしなどやらずに正々堂々とカキコしろや
>沢○に正論を主張しても無駄
とうとうこんな書込も出てきた怒。
49 :
古森義久:02/02/01 07:50 ID:W6bQnEmv
アメリカでの英語取材と運転技能という要件を満たす記者はいまなら当たり前だが、当時
は希少価値扱いされ、外信部に戻っていた私に白羽の矢が立った。たしかにロサンゼルス
での取材では車による頻繁な移動が必要だった。
尋問を受けるコーチャン(*)とかクラッターというロッキード社の元幹部たちの自宅はロサン
ゼルス郊外のベルエアやサンタモニカにあった。彼らの弁護士の事務所や尋問を執行する
側のチャントレー元判事の自宅は市内にあったが、巨大なロサンゼルスだから、それぞれ
の距離はいやになるほど遠い。市内中央の連邦地裁を拠点に関係者の自宅や事務所を何
回も訪れ、話を聞くのは自分で車を運転しなければできない取材活動だった。
《ワシントン》 ロッキード事件嘱託尋問のそんな取材は2カ月近くも続き、やっと解放され
たと思えば、1976年(昭和51年)9月、ワシントン特派員を命じられた。ワシントンではすぐ
に車を買わねばならなかった。通勤にも買い物にも自分の自動車がないと、なにもできない
という実感だった。
いろいろ調べた末にフォード社のマスタングを選んだ。なかでも最もスポーティーなギアIIと
いう車種にした。アメリカの基準ではコンパクトと呼ばれる小型である。価格4800ドルの新
車だった。当時、特派員として最初にもらった月給が1100ドルほどだったから、ずしんとく
る出費である。ベトナムで残った貯金もとっくになくなっており、車の月賦の頭金を支払うに
はニューヨークにある日本の銀行の支店から借金をしなければならなかった。
私が選んだマスタングは車体が赤と白のツートンカラー、タイヤも横の部分が白いスポーツ
タイプである。こんな派手なアメリカ車を思い切って買ったのは、それなりに理由があった。
ひとつにはそれまでは日本製の自動車しか所有してこなかったことである。しかも地味な感
じの日本車がほとんどだった。ここらで目先を変えて、色彩豊かなアメリカ車にしてもよいだ
ろうと思った。せっかくアメリカに住むのだからアメリカ車をという単純な心理もあった。郷に
入れば、郷に従えである。
当時はすでに日米両国間で自動車問題の摩擦が起きていた。日本車のアメリカ市場への
参入が急増し、アメリカ自動車産業に打撃を与えて、政治問題を引き起こすというあの自動
車摩擦である。摩擦はその後、戦争と呼ばれるほど険悪になるわけだが、76年秋の時点
でもアメリカ国内での日本車は売れに売れて、すでにアメリカ側にいらだちに近い反応を生
んでいた。そんな時期にアメリカに住む自分がなにもあえて日本車を買うことはない、とも
私は考えた。
《追跡シーン》 マスタングに魅せられた理由には映画の影響もあった。私の世代に人気
のあった俳優のスティーブ・マックィーンが主演した「ブリット」である。サンフランシスコ市警
察の刑事ブリットが護衛中の重要証人を殺され、その犯人を大追跡する。クライマックスは
サンフランシスコの急な坂道でのカーチェイスだった。
50 :
古森義久:02/02/01 07:51 ID:W6bQnEmv
マックィーン扮するブリット刑事はスポーティーなマスタングを駆って、胸つく急坂を飛び上
がり、飛び降り、大疾走する。車体の低いマスタングがつむじ風のように坂道を飛び去って
いくシーンに私はしびれたものだった。マスタングの名がそんな記憶をよみがえらせ、あの
格好よさを連想させた。
そんな子供じみた理由からもマスタングには、やっとあこがれの相手を胸に抱き締めたよう
な興奮さえ覚えた。しかし、このマスタングがわが人生でも最悪の買い物となったのだ。
■豆事典
◇田中角栄(たなか・かくえい=1918−93年) 苦学して政治家となり1947年(昭和22年)、民
主党から衆院議員に当選。後に自由党に転じ、55年の保守合同後は蔵相、自民党幹事
長、通産相などを歴任して池田、佐藤両内閣を支えた。72年に首相に就任、日中国交回復
を実現させるなどの実績を残したが、金権・金脈問題で74年に首相辞任に追い込まれ、76
年にはロッキード事件の外為法違反容疑で東京地検に逮捕された。その後も自民党最大
派閥の田中派を率いて大平、鈴木、中曽根内閣を操作するなど「政界の闇将軍」として隠
然たる権力を保持していたが、83年のロッキード事件1審で懲役4年の判決を受け、85年に
は脳こうそくで倒れて入院、政治的影響力を失っていった。ロッキード事件裁判は2審も控
訴棄却で有罪となり、89年に政界引退を発表した。
◇児玉誉士夫(こだま・よしお=1911−84年) 大正、昭和期の国粋主義運動家。戦前、井
上準之助蔵相への短刀送付事件などで獄中生活を送り、出獄後、外務省嘱託、参謀本部
嘱託として中国大陸で活動。1941年(昭和16年)には児玉機関を設立して海軍の物資を調
達した。戦後、A級戦犯として公職追放となったが、その後も政界の黒幕と呼ばれた。76年
にロッキード事件で起訴され、死亡により公訴棄却。
◇アーチボルド・カール・コーチャン(1914年− ) 1967年(昭和42年)にロッキード社の社
長となり、同社のトライスター機の売り込みを陣頭指揮。75年に副会長となり、翌76年に米
上院チャーチ委員会で社長時代の対外売り込み工作に関し、いわゆるコーチャン証言を行
った。この証言の中で、日本への売り込みに30億円以上の工作資金がばらまかれたことや
日本政府高官が関与していたことなどを暴露し、ロッキード事件の発端となった。ジョン・ク
ラッターはロッキード社の元日本支社長で、同社の対日売り込み工作の中心人物。
51 :
耐用:02/02/01 18:37 ID:9NpzzUHA
>>46 あそこはゾロでも番外地
先進国の仲間入りのできない発展途上国みたいなもの
生き残っているだけでも立派
52 :
耐用:02/02/01 20:04 ID:XfPvRiNO
↑
東○も似たようなもんらしいね。
53 :
古森義久:02/02/01 20:52 ID:l6Fcpaiz
■車が人を変えた (10) 「故障続き」 日本車がなぜ売れるかよくわかった
ワシントンに赴任した1976年(昭和51年)秋、私が買ったフォードのマスタングは、確かに
その名の「野生の馬」のごとく、外見はいかにも軽快でスマートだった。この車は多種多様
な乗用車が現れては消えるアメリカ市場でも特別の人気を集め、一時代を画した有名車種
である。この車とのかかわりも私のアメリカ生活に奇妙な明暗を広げた。
《予備タイヤ》 マスタングといえば、すぐ連想されるのはリー・アイアコッカ(*)だろう。アイ
アコッカはフォードの総支配人だった1960年ごろからスポーティーな小型車の開発を手が
け、64年にマスタングを完成させて市場に送り出した。マスタングは爆発的な売り上げを
記録し、彼は「マスタングの父」と呼ばれるにいたった。
この大成功がアイアコッカにフォード社の社長への道を開いた。だが、社長時代に社主・会
長のヘンリー・フォード二世(*)と激突し、突然クビを切られてしまう。そして、その後すぐクラ
イスラー社の社長に迎えられ、倒産寸前だった同社をわずか数年で建て直し、記録的な黒
字をあげる。このへんの経緯は日本でも刊行された自伝「アイアコッカ」に詳しい。
アイアコッカがマスタングの製造と販売に全力を傾けたのは1960年代末までで、その後
はフォードの他の幹部に任せていた。だから、私が買ったときには彼の責任はなかったの
だが、それでもフォードの販売店のマスタングの宣伝ポスターにはカラフルな車体のわき
に、にこやかな笑いを浮かべて立つアイアコッカの堂々たる姿が写っていた。
さてワシントン地区のフォードの販売店でマスタングを買う契約を結ぶと、ディーラーは私が
書類にサインしたあとで、実はこの車にはスペアのタイヤがないのだ、と告げた。フォード
のタイヤを製造する労働者の組合がストライキをしていて、生産が止まっているためだが、
間もなく必ず入荷するという。
しかたなくそのまま新車を引き取って運転を始め、毎週のように販売店に電話をして、スペ
アのタイヤの入荷見通しを聞いた。だがいつも「わからない」である。車のメカニズムにいか
に無知な私でもスペアタイヤなしに運転を続けることの危険は知っていた。結局、スペアタ
イヤを販売店から渡されたのは車の購入から8カ月も後だった。考えられないサービスの
悪さである。その期間、パンクがなかったことだけが幸いだった。
車体の方も、まず雨が降ると、運転席の左上からポタポタと水がもれてくるのに、びっくりし
たし、その後すぐにエンジンのファンベルトが切れてしまった。さらに2カ月に1度ほどのわ
りで故障が絶えない。しかもブレーキとかハンドル、トランスミッションという車の主要部分
のトラブルなのだ。エンジンのオイルもよくもれたし、エアコンまで効かなくなった。私の整備
方法も十分ではなかったが、明らかに最初から問題のある車だった。
《修理の通告》 正規の欠陥修理の通告を受けたことも2回あった。1回目は私の型のマス
タングの排ガスが大気汚染防止法(*)の規制の許容度を超えていることが判明したため、購
入した販売店で追加部品をつけよ、という環境保護局(*)からの指示だった。
>>52 STSマンセー
真面目に、こつこつ、正直に、は時代遅れ
もっとも東○は数千万プレイヤーがいるみたいだけど
耐用をみればわかるように、STSの給与水準は他ゾロと比べて高いよね
55 :
古森義久:02/02/01 23:07 ID:I29kmZjj
早速、販売店に電話すると、その件は承知しているが、肝心の追加部品がまだ入荷してい
ないという。典型的なサービス欠落である。だが時間をかけ、なんとか修理した。
二回目は停車中にボンネットを開けてエンジンをしばらくかけたままにしておくと、ファンベ
ルトのファンが外れて飛び出す恐れがあるという欠陥の通知だった。このときは私ももうふ
てくされて、ボンネットを開けてエンジンをかけたままにしなければいいのだろうと、通知を
無視してしまった。
欠陥の是正はともかく、故障の修理は財政的にもひどい負担となった。当初の1年間の保
証期間こそ修理はほとんど無料だったとはいえ、その後は故障のたびに百ドル、2百ドルと
修理代、部品代を払わされた。数年間、常に修理費を払っていた実感があり、その金額の
合計はマスタングの新車2台分をゆうに超えたと思う。
この経験は自分の乗る自動車がいつどこで突然、壊れるかまったく予知できないという車
不信を私に植えつけ、遠距離のドライブは避けるようになった。たった1台の車から全体を
断ずるのは不公平な点もあろうが、私のマスタング体験は当時のアメリカの自動車産業や
サービス産業、ひいてはアメリカ経済全体への認識を変えさせることともなった。
最初の欠陥修理の通知を受け、販売店に頼んでもなんの進展もないとき、環境保護局に電
話して苦情を述べた。その際、つい腹立ちまぎれに「日本車がなぜよく売れるか、これでよ
くわかるでしょう」ともらしたら、女性の担当官が「オー、イエス。本当によくわかります」と答
えたのには驚いた。
70年代の後半は、アメリカではちょうど日本車の売れ行きが急増していたのである。アメリ
カ自動車産業が日本との競争に敗れ、史上初の屈辱的な後退を余儀なくされだした時期で
あり、私はその象徴的な断面をマスタングという小さな窓から目撃する結果となった。
とは言え、マスタングは私のワシントンでの生活の最小限のニーズは、きちんと満たしてく
れた。通算すれば6年ほど、その車のいかにもアメリカ的なスタイルはアメリカ社会になじ
む過程を心理的に加速したようにも思えるし、自分がいまはアメリカ社会に住んでいるのだ
という実感の確認ともなった。
《廃車手続き》 82年(昭和57年)12月、私が帰国するにあたり、マスタングを買ってくれ
るという人が出てきた。日本人の大学院生で、たまたまマスタングが大好きだという青年で
ある。試運転では私の車は異常なほど調子がよかったせいもあり、彼はすぐ2千ドルで買う
ことに同意してくれた。しかも私が帰国の直前まで使ってよいという。
だが数日後、私のマスタングはちょうどホワイトハウスの真ん前のペンシルベニア通りを走
行中にエンジンの悲鳴をあげ、動かなくなった。
56 :
古森義久:02/02/01 23:08 ID:I29kmZjj
修理工場で調べてもらうと、エンジンのクランクシャフトが折れており、エンジン全体を交換
する以外に方法はないという。その費用を聞くと、1900ドルという見積もりが返ってきた。
差額100ドルのために苦労を重ねるか。私は瞬時にノーの答えを出し、購入予定の青年に
謝り、廃車の手続きをとった。スクラップとしての代金300ドルとナンバー・プレートを貰い
すごすごと修理工場を出たところで私のマスタング物語も幕を閉じた。
■豆事典
◇リー・アイアコッカ(1924年−) 1945年フォード社に入り、マスタング開発の功績で68年
社長に就任。78年、フォード2世によって社長を解任された後、ライバルのクライスラー社
の社長に就任し、倒産の危機にさらされていた同社を再建して79年には会長となった。
米国自動車業界の対日強硬派として知られたが、92年末に会長を辞任、翌93年には経営
会議議長からも退いた。しかし、その後も投資会社を設立したり、カジノ経営に乗り出したり
するなど事業意欲は盛んで、95年にはクライスラー社の経営陣を批判して古巣買収の動き
を見せたこともある。
◇ヘンリー・フォード2世(1917−87年) 自動車王ヘンリー・フォードの孫。第2次大戦後の
1945年9月、祖父の後を継いでフォード社社長、60年には会長に就任、経営が悪化してい
たフォード社を再建した。強烈な個性と指導力でワンマン経営者と評され、解任劇をめぐる
アイアコッカとの確執は大きな話題になった。82年にフォード社会長を辞任。
◇大気汚染防止法(マスキー法) アメリカで1970年に成立した法律で、1975年以降に生産
される新車の一酸化炭素排出量を90%削減することなどを定めている。立法の推進役とな
った民主党上院議員、エドマンド・マスキー(1914−96年)の名前を取ってマスキー法と呼ば
れた。
◇環境保護局(EPA) 公害対策を効果的に進めるため、アメリカで1970年、各省に分散し
ていた公害行政を一本化する政府機関として発足した。
57 :
○○薬品:02/02/02 00:14 ID:IGG4tmbX
○井の社長の虚言癖には業界が大迷惑しているようです。当の本人はどれだけみんなから軽蔑されているか分かってないようです。
そんなことな有りませんよ。後発業界では見識家です。
他がついて行けないだけです。
59 :
古森義久:02/02/02 07:54 ID:LXkj/3et
■車が人を変えた (11) 「先駆者たち」 馬のない馬車が自力で走った
そもそも自動車とはなにか。世界各国の工業基準を決める国際標準化機構(ISO)は次のよ
うに定義している。「原動機を備え、路上を運行し、四個以上の車輪を有し、レールを使わ
ないで人や荷物の運搬、その牽引などに用いられる車両。ただし三輪車でも重量四百キロ
以上の車両を含む」、要するにエンジンを内部に積み、自らの動力で人や荷物を乗せて動
く、まさに自動車なのである。いま描写すればいとも簡単に響くが、誕生までにはもちろん
長年の曲折があった。
《偉大な一歩》 1893年9月20日の早朝、アメリカ東部マサーチューセッツ州スプリング
フィールド市郊外にある農家の納屋から4人の男が小さな四輪馬車を引き出した。そのうち
の1人が飛び乗って座り、前方から伸びたつえのような操縦棒を握る。あとの3人が後部を
押す。馬車を道路に押し出し、ますます力をこめて前進させ、加速させる。
すると、3人の足取りが小走りになったところで、馬車に不細工な形で取り付けられたエン
ジンが音を発した。あえぐような断続音をあげ、煙を吐き、やがて規則正しい音となった。
そして、エンジンつき馬車は少しずつスピードを増し、3人の男を背後に残し、がたがたと走
り始めた。馬車は独力で70メートルほどを走り、がくんと止まった。道路に十数センチほど
の土塊があり、それを乗り越えられずにストップしたのだった。これがアメリカでの最初の商
業生産につながるガソリン自動車のデビューとなった。
70メートルとはいえ、馬のない馬車が確実に自力で走ったのである。車を操縦したのは23
歳のフランク・デュリアという自転車工だった。フランクの八歳上の兄チャールズ・デュリア
は同じ自転車製造にかかわっていたが、「馬のない馬車」の設計と製造に取りつかれ、フラ
ンクとともに一気筒、二サイクルの小型エンジンをつくって中古の馬車に装着することに成
功したのだった。
デュリア兄弟は1896年にはデュリア自動馬車会社を設立し、デュリア1号車の商業生産
を成しとげた。その後、13号車までを製造し、他の多くの技術者たちを刺激して、後年の大
量生産へのドアを開くことになる。デュリア1号車のデビューこそアメリカの自動車時代の静
かな幕開けだった。日本では明治29年、日清戦争が終わった翌年、樋口一葉が死んだ年
である。
だが自動車の発明自体はアメリカよりもヨーロッパがはるか先を走っていた。チャールズ・
デュリアがエンジンを馬車につけて走らせることにしたのも、そもそもは雑誌でドイツのカー
ル・ベンツ(*)という発明家が内燃エンジンのパワーで車を動かすことに成功したという記事
を読み、発奮して同じことを成しとげたいと切望したためだった。
《発明者たち》 ヨーロッパでは1769年にすでにフランスの軍事技術者ニコラス・クノー大
尉が大砲を運ぶための蒸気自動車をつくったのが自動車発明の先駆だとされる。だが多数
の国で多数の技術者たちがそれぞれ独自の自動車の発明に取り組んでいたため、真の先
駆者を一人だけ選ぶのは難しい。
60 :
古森義久:02/02/02 07:55 ID:LXkj/3et
「自動車の発達史」(荒井久治著)からそうしたヨーロッパの発明者たちの足跡をたどってみ
よう。エンジンの有無にこだわらず、とにかく自力で動くという意味の広義の自動車にまでさ
かのぼるならば、1599年にはオランダの技師シモン・ステビンがマストの帆に風を受けて
走る風力自動車を硬い砂地で走らせている。時速24キロだった。だが、風が頼りでは発展
はなかった。
1648年にはドイツの時計職人ハンス・ハウチュがゼンマイ仕掛けで動く自動車を作り、時
速1・5キロほどで走らせた。だが、人が歩くよりも遅い車は実用にはいたらない。
1700年代になると蒸気機関が発明され、イギリスの技師ウィリアム・マードックは三輪の
蒸気自動車を開発し、試運転した。夜間、その走る姿をみた牧師が悪魔の到来と思い、大
声で助けを呼んだという。
19世紀に入ると、1801年にはイギリスの技師リチャード・トレビシックが蒸気車を開発し
時速14キロ程で試運転した。フランスでも1827年にオネシフォール・ペクールが、73年
にはアメデ・ボレーが、それぞれユニークな蒸気自動車を製造している。
19世紀には電気自動車やガス自動車も登場し、イギリス、フランス、ドイツで多様な車種
が製造された。その後、19世紀後半に本格的な発展をみせたのがガソリン自動車である。
こうした動きをみると、人間が自分の体を乗せ、自然の肉体のスピードよりずっと速く進み、
しかも自分で自由に操れるという移動手段の創出をいかに激しく求めたかがよくわかる。
《進化が必要》 世界で初めてガソリン自動車を完成させたのはドイツのカール・ベンツと
ゴットリープ・ダイムラー(*)だというのが定説である。2人はそれぞれ別個に1885年頃ま
でに自動車を開発し、86年にこれまた別個に公開の場で試運転をした。ただしこの2人の
偉業の「世界で初めて」にも異論はある。
1826年にはイギリスのサミュエル・ブラウンが大気圧式ガソリン・エンジンの自動車を開
発し、1875年にはオーストリアのジークフリート・マルクスがガソリン・エンジン搭載の自動
車を、それぞれ走らせた記録があるからだ。
アメリカでさえも1879年にジョージ・セルデンがガソリン自動車の特許を申請した。デュリ
ア兄弟の車の歴史的な試運転に先立つ14年前である。
フランスでは1884年にドラマール・ドブットビュがガソリン自動車の特許を出願したという
記録がある。だがこれら先駆者の車はみな個人的な試作の段階で終わってしまった。
61 :
古森義久:02/02/02 07:57 ID:LXkj/3et
アメリカでもその種の自動車発明の先駆者としてはセルデン以外に、1887年に蒸気自動
車を製造したランサム・オールズ、1891年に電気自動車を完成させたウィリアム・モリソ
ン、94年に馬車にエンジンをつけて走らせたエルウッド・ヘインズといった人たちの名もあ
げられる。だがこれらの先駆者はデュリア兄弟と異なり、発明をその後の生産にはつなげら
れなかった。
では、自動車の発明者とは一体だれなのか?「無数の先駆者たちという答えが最も正確な
答えです。自動車というのは非常に複雑な装置であり、本格生産までには単独の人間では
達成の不可能な長年の進化のプロセスが絶対に必要だったからです」アメリカの自動車史
研究家リチャード・シャーチバーグは語っている。
■豆事典
◇カール・ベンツ(1844−1929年) 17歳で工芸学校の機械科に入って内燃機関に関心を
持ち、21歳で発動機会社に勤めるようになってからは、仕事の後、夜遅くまで自宅で「馬な
し車」の設計に打ち込んだ。その後、貧窮生活を送りながら自分の工場をつくり、1885年に
3輪のガソリン自動車を完成させた。ゴットリープ・ダイムラーの2輪車完成の数カ月後だ。
最初の試走では、れんが塀に激突して投げ飛ばされたが、ベンツはくじけずに開発を続け、
1888年のミュンヘン博ではベンツ車が金賞を獲得した。
◇ゴットリープ・ダイムラー(1834−1900年) 1885年に2輪のガソリン自動車、86年にはガ
ソリン4輪車を発明して、「自動車の父」と呼ばれた。1890年、ダイムラー自動車会社を創立
して副会長に就任した。1896年にはイギリスにダイムラー・モーター社が設立され、同社が
製造する車が後にダイムラーと一般に呼ばれるようになった。一方、ドイツのダイムラー社
の車はダイムラーの死の翌年の1901年からメルセデスと呼ばれ、第1次大戦後、アメリカ系
資本に対抗するためにベンツ社と合併してダイムラー・ベンツ社となってからメルセデス・ベ
ンツと呼ばれるようになった。
>58
はぁ?
63 :
古森義久:02/02/03 17:30 ID:FXXfguJF
■車が人を変えた (12) 「くるくる動くもの」 泥まみれで1300キロを走破した
20世紀を迎えたアメリカでは自動車産業が芽から花へと急速に発展した。みな手づくりと
はいえ、百種類を超える多様で雑多な自動車が国内各地で製造されていた。社会全体でも
車という新しい存在が超スピードで人の注意を集めるようになった。
自動車のこうした初期の開花にいたる過程では新聞社とカーレースとデュリア兄弟とが果
たした役割が大きかった。
《初のレース》 シカゴの大手新聞シカゴ・タイムズ・ヘラルドの社主ハーマン・コールサート
はフランスの雑誌が大陸での自動車レースを主催したことにヒントを得て、地元での同種の
催しの実施に踏み切った。当時のアメリカに広がっていた自動車熱に相乗りし、自分の新
聞の宣伝を図ることが最大の動機だった。
1895年(明治28年)11月のことである。日本では日清戦争で清国の北洋艦隊が降伏し
た年だった。シカゴでのカーレースは市内のジャクソン公園からミシガン湖ぞいに北へエバ
ンストンという町まで、往復86キロだった。催しは「世紀のレース」と名づけられた。
タイムズ・ヘラルドは紙面をふんだんに割いて前景気をあおった。参加資格は3輪以上の車
で、人間の筋肉以外のエネルギーならなにを動力としてもよく、一台に最低二人が乗るとい
うルールだった。
だが、レース前日に大雪が降ったため、参加した車の数は減り、6台となった。うち3台はガ
ソリン・エンジンのベンツ型、2台は電気自動車、最後がデュリア兄弟製造の2気筒のガソ
リン自動車である。運転者は当時、25歳のフランク・デュリアだった。デュリアの車はみご
と優勝した。もっとも完走できたのは他に1台だけである。優勝タイム10時間23分、時速
にすると8キロ強だった。このレースは多数の観衆を集め、全米でも初のカーレースとして
注視され、話題を集めた。そして、賞金の2千ドルを得たデュリア兄弟はすっかり有名人と
なる。
自動車への一般の関心も格段に高まった。デュリア兄弟はこの賞金を基にデュリア自動馬
車会社を設立し、商業ベースでの車製造に着手する。この動きに刺激されて、自動車づくり
に手をつける人たちが全米各地でどっと増えた。
デュリア兄弟の勝利はガソリン自動車の優位を印象づけた。1895年の時点でアメリカに
は3700台ほどの自動車が存在したが、まだヨーロッパからの輸入が多かった。
全体のうち2900台は蒸気自動車、500台が電気自動車で、ガソリン自動車は300台前
後にすぎなかった。だが、「世紀のレース」でフランク・デュリアが活躍してガソリン車は脚光
をあびることとなる。
64 :
古森義久:02/02/03 20:08 ID:ZD66mbjn
《ガソリン車》 1900年にはニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデン(*)で初の全
米自動車ショーが開かれている。40社が300台ほどの車を出展した。ボストンやフィラデ
ルフィアという他の大都市でも自動車の数が目にみえて増えていく。アメリカ陸軍や郵政当
局が初めて自動車を購入する。
だが、それでも車の構造は多様で電気自動車や蒸気自動車も多かった。1900年の世界
の自動車総生産数は9500台だったという記録がある。アメリカとフランスがすでにドイツ
を上回っていたという。アメリカではこの時点で電気自動車が市場の38%を占め、トップに
立っていたともされる。この1900年、コロンビア電気車会社は1500台の電気自動車を生
産し、ロコモービル社は750台の蒸気自動車を生産したという記録もある。
こうした状況下でガソリン車の圧倒的な勝利をアメリカ市場に確立したのが、ミシガン州ラ
ンシング(*)のかじ屋の息子ランサム・オールズだった。
オールズは子供のころから自動車に強い関心を持ち、18歳のときに蒸気自動車を手づくり
で完成させた。だが、ボイラーが重くて大きいことや頻繁に整備が必要なこと、さらには爆
発の危険性など、蒸気エンジンの自動車動力としての弱点に早くから気づき、小さく軽くパ
ワーの強力なガソリン・エンジンへと切り替えていく。
その過程でオールズはデュリア兄弟の業績を継ぐ形となり、アメリカで生まれたばかりの自
動車産業界で頭角をめきめきとあらわしていった。ちなみにデュリア兄弟は間もなく成功の
利益の配分をめぐる衝突から文字どおり骨肉の争いを起こし、歴史の花道から消えていく。
オールズは最初はミシガン州内陸部のランシングで「オールズ自動製作所」という看板を掲
げ、細々と車づくりを進めていた。やがて資金に困り、サムエル・スミスという州内の資産家
に融資をあおぐ。スミスはオールズが生産拠点を州内でも湖に面し、交通の便のよいデトロ
イトに移すことを条件に投資に応じる。
《デトロイト》 1899年、オールズはデトロイトにオールズ自動製作所を移転させた。この
動きが後にデトロイトを「自動車の都」とし、「アメリカの世紀」の原動の地ともする壮大な歴
史のうねりの幕開けとなる。
オールズはデトロイトでガソリン車の開発に全力を投入する。工場の全焼という不運にもめ
げず、1901年にはオールズモビル・ランアバウトという小型車を世に出す。オールズモビ
ルというのはそのころフランスから導入されたオートモビル(自動車)という言葉の一部を自
分の名に加えたネーミング、ランアバウトは「くるくると動くもの」という意味の英語だった。
このランアバウトは大ヒットし、1901年には425台だった生産台数が翌年には2500台
になり、4年後には6500台にまで飛躍して、全米にその名をとどろかせた。ランアバウト
は小さな馬車様式の車に軽い車輪をつけ、付属のガソリン・エンジンは一気筒、現代の芝
刈り機のモーターに似ており、最大速度は時速30キロ、トランスミッションは前進二段、後
退一段だった。ダッシュボードが独特の曲線を描いていたところからカーブド・ダッシュとも
呼ばれた。
65 :
古森義久:02/02/03 20:08 ID:ZD66mbjn
オールズはランアバウトの宣伝のために1901年10月、助手のロイ・チャピンに長距離ド
ライブをさせた。デトロイトからニューヨークまでの1300キロを走らせたのだ。当時の道路
事情、燃料、整備、修理などの実情を考えると、大変な難事だった。だがオールズはこの挑
戦にランアバウトの運命をかけ、事前に大々的なPRを重ねた。
出発から9日後、全身を泥まみれにしたチャピンは、これまた泥まみれ、傷だらけになった
車を駆り、ニューヨーク市街に到着した。ウォルドルフ・アストリア・ホテル(*)のゴールに意
気揚々と乗り入れる。
この成功が大ニュースとなり、ランアバウトの売り上げを爆発的に伸ばして、ベストセラーに
した。チャピンは後に連邦政府の商務長官にまで出世している。
■豆事典
◇マディソン・スクエア・ガーデン 1890年、ニューヨークのマンハッタンに造られた屋内競
技場。プロバスケットボールのニューヨーク・ニックスの本拠地としても知られる現在の建物
は1968年に完成している。
◇ランシング ミシガン州の州都。人口約13万。グランド川に面し1844年にダムと製粉所が
造られ、1859年に市となった。ミシガン州中部の商業の中心で、オールズの会社の発祥の
地である名残からトラック、ディーゼルエンジン、起重機、ポンプなどの自動車関連工業が
発展。郊外のイーストランシングにはミシガン州立大学がある。
◇ウォルドルフ・アストリア・ホテル マンハッタンの高級ホテル。1893年にウォルドルフ・ホ
テルが創業。95年建造のホテル・アストリアと97年に合併した。当時は5番街と34丁目の角
にあったが、エンパイア・ステートビル建設のため移転した。1931年から現在のパークアベ
ニューの49−50丁目で営業している。
○和も○井も立派な会社だね
>66
社長の人格はかなり差があるという噂です
68 :
古森義久:02/02/03 22:46 ID:mEmpxhHX
■中国の台湾侵攻警戒 米、抑止体制を強化 2000・12・20
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0012/20/html/1220side028.html 【ワシントン19日=古森義久】 米国防総省と米太平洋軍司令部は19日、議会に台湾の安全
保障に関する報告書を送り、米国が台湾への中国の軍事攻撃に備えて、抑止体制を強化して
いることを明示した。同報告書は中国の武力行使への反対を改めて明確にするとともに、中国
の軍事作戦の内容を予測している。
米国の国防当局は台湾関係法に基づき、台湾の安全保障に対する米国の備えや中国の台湾
への軍事攻撃の意図と能力に関する報告書を毎年、提出することを義務づけられている。
同報告書は、中国が台湾併合のための軍事手段をなお保持しているとし、具体的には、(1)水陸
両用部隊の使用などによる台湾への侵攻、(2)台湾の海上封鎖、(3)台湾への空爆とミサイル攻
撃−の三手段があり、中国はそのいずれに関しても米国が台湾防衛のために介入することを防
ぐために、種々の対米軍事戦略を立てている、と述べている。
報告書は米国の対応として、まず台湾に対するいかなる非平和的な併合の試みにも反対し、行
動をとると言明したうえで、米側が軍事抑止力を高めて、「中国が軍事力で脅しをかけても脅しに
ならず、実際に軍事力を使って台湾を攻撃してきても、はね返せる」だけの水準に保つことが肝心
だと強調している。
同報告書は中国側の軍事手段行使の可能性に対しては、米軍がそれを撃退できる能力を東アジア
で保持することで抑止効果が機能するとしながらも、台湾が攻撃をはね返せる能力を有する、あるい
は米国の支援が来るまで持ちこたえられることこそが、最大の抑止に結びつく、としている。
69 :
古森義久:02/02/04 07:07 ID:plH4M73D
■車が人を変えた−13 「馬車」 まちの中心は馬であふれていた
20世紀冒頭にアメリカでベストセラーの自動車となったオールズモビル・ランアバ
ウトの広告には、「わが『馬なし馬車』は決して蹴りません。かみつきません。長く
走っても疲れず、猛暑でも汗をかかず、食べ物も欲しがりません」と書かれていた。
開発者のランサム・オールズは明らかに自分の車と馬との違いに焦点をあてていた。
当時のアメリカ社会では自動車が急速に発展しても、個人の足としてはまだまだ本物
の馬や馬車が主力だったからである。オールズの競争相手はまだ馬車だったともいえ
るのだ。
《移動の主役》 人間の馬への依存の歴史は文明社会の以前にまでさかのぼる。アメ
リカでも建国以来、馬の果たした役割は計り知れない。独立戦争の前から東部のボス
トン、ニューヨーク、フィラデルフィアという主要都市の間は定期の駅馬車(*)が最
大の動脈だった。19世紀に入って蒸気機関の鉄道や船舶が大量輸送手段となったが
なお馬車への依存が変わらず、とくに個人レベルでの移動は馬が絶対の主役だった。
1880年代に近代的な自転車が発明され、ガソリン車の開発の先頭に立ったデュリ
ア兄弟も元は自転車(*)製造業界の出身だった。自転車は個人の交通手段として、か
なり普及したが、なお人間の筋力にのみ頼る移動の方法だけに、その発展には限度が
あった。馬を使った個人の移動がなお主力だったのだ。十九世紀の終わりまでアメリ
カの地方でも都市でも、馬車が個人レベルでは移動の究極の手段だったのである。
しかし、都市の発展の近代性は次第に馬車交通の有する原始的な側面とぶつかるよう
になってきた。大都市では馬の起こす公害が深刻になってきたのだった。そうした摩
擦や公害が一面、いやが応でも自動車の発達を促したともいえる。
《深刻な汚染》 1890年代のアメリカの都市では馬や馬車による交通渋滞、駐車
問題、騒音、事故、汚染といった現象が市民をひどく悩ますようになっていた。百年
後の1990年代に自動車がちょうど同じような公害で市民を悩ましているのは皮肉
である。
馬公害では汚染が特に深刻だった。1890年代前半頃、ニューヨーク市には17万
5千頭の馬がいた。馬車を引き、人を乗せ、連日連夜、動いていた。街の中心はそん
な往還の馬でいっぱいだった。いまのニューヨークからは想像もできない光景である。
だが、人間に忠実で温和なマナーの馬も、排泄となると時も所も選ばない。1頭の馬
は1日平均14キロの糞(フン)をする。その17万5千倍なら2450トンになる。
集めて積めば文字通り巨大な山となる、そんな馬糞が全市に散らされる。市の清掃職
員はそれを必死で集め、川や海に廃棄したが、追いつかない。冬には凍ってしまって
も春になると一斉に溶けて広がる。夏は乾いて風に吹かれ、そこらじゅうに飛び散る。
70 :
古森義久:02/02/04 07:10 ID:plH4M73D
臭気や汚れだけでなく、細菌を運んで病気も広げた。屋外で遊ぶ子供たちには特に有
害だった。破傷風のような感染症の病原菌を持つ馬も少なくなかった。そのうえに馬
は突然、路上で死ぬことも多かった。1890年の統計ではニューヨーク市内だけで
年間に約1万5千の馬の死体が道路から収容された。収容作業が遅れる事も多く、大
きな死体が数日間、放置されるのも普通だった。死んだ馬が腐って、ひどい衛生問題
を引き起こすだけでなく、交通渋滞の原因にもなったという。
馬の蹄が石畳の道路に響かせる音も人間の立ち話をさえぎるほど大きかった。馬車の
鉄の車輪がキイキイきしむ音は道路に面した住宅のなかにまで聞こえてきたという。
要するに馬車の増加は市街の発展と人口の密集にまともにぶつかり、こうした多層な
トラブルを深刻にしていたのだ。だから馬に替わる車のような新たな交通手段がすで
に切望されてもいたのである。そして実際に車は大都市の環境を短期にせよ、よりよ
くしていった。
こうみると車は人だけでなく馬の生活も根底から変えてしまったといえる。まず都市
部から、やがては農村部も、馬は姿を消していった。こうしたモータリゼーションと
馬との関係を知ると、どうしても自分のささやかな馬体験を連想させられる。
《宣伝の効果》 私は東京で育ったにもかかわらず、馬に触れたり、身近にみたりす
る時期があった。小学生のころ、担任の先生が世田谷区用賀に住んでいて、よく遊び
にいった。すぐ近くに馬事公苑(*)という競走馬の訓練場があり、そこに立ち寄って
馬をたっぷりと見物した。その経験から馬への興味を覚え、中学生のころは自宅近く
の乗馬クラブへときおり通った。たまたま徒歩で10分たらずの渋谷区参宮橋に東京
乗馬倶楽部というクラブがあったのだ。父の友人に乗馬の達人がいて、その人によく
連れていってもらい、狭い馬場でおっかなびっくりの乗馬を何度も体験した。
そのときに馬の魅力とともに排泄とか悪臭にも十分に曝された。馬がニューヨークや
ボストンの中心街を人間を乗せた車を引いて走りまわり、排泄物をまき散らす光景を
想像すると、改めて人間社会の変化の激しさを感じる。そして自動車こそがその光景
を完全に消し去る役を果たしたことを思うと、車が馬を幸福にしたことは間違いない
だろうという子供じみた感慨さえ覚える。
アメリカの自動車史を専門とする、歴史学者のリチャード・シャーチバーグはランサ
ム・オールズの車販売戦略について語る。「オールズは1910年ごろからの車の販
売努力では現実に馬と競う必要があったのです。それは彼の新車の販売対象がそれま
で馬車を保有できた、わりに富裕な層以上にしぼられていたからです。小型車のラン
アバウトでも価格は650ドルと設定され、当時の一般市民にはなかなか手が出ませ
ん。だから馬車を持つ階層に馬車よりもよいことをアピールするしかない。車の方が
便利で安価で頼りになる。長く走っても休む必要がない。馬小屋も飼料も与える必要
はない。こう宣伝するわけです」オールズの宣伝は効果をあげた。だが車が馬と共存
し、やがて完全に交代していく急速なプロセスでは両者の間に摩擦もあった。
>>67 >社長の人格はかなり差があるという噂です
○和>○井?
農村地帯ではとくに馬と車との共存がしばらく続いたが、荷車を引く馬は路上で自動車に接近されたり追い越されたりすると、脅えて、唐突な動きをとることが多かった。
その馬を操る農民が車に怒りをぶつけるのは当然である。一部の州では馬車と自動車
が細い道ですれ違う場合、まず自動車が必ず停止して道を譲り、エンジンを切り、馬
の通過を待つという規則もつくられた。だが、その規則がきちんと守られることはほ
とんどなかったという。
■豆事典
◇駅馬車 一定区間を定期的に走る公共用の乗合馬車で、17世紀にロンドンやパリで
登場した。アメリカでは18世紀後半、東部太平洋岸で運行され、19世紀になると東部
と西部をつなぐ交通機関として発展した。しかし、1869年の大陸横断鉄道の完成など
鉄道の普及と自動車の登場に伴い衰退していった。
◇自転車 乗り手の力によって駆動する2輪車。起源は諸説あるが、1813年にドイツ
のカール・フォン・ドライスが発明した足けり式自転車を第1号とする説が有力とさ
れる。その後、ペダル式自転車が考案され、1880年にはイギリスのダンロップが自転
車用に空気入りタイヤを開発、自転車の性能が飛躍的に発展、欧米で普及した。日本
では宮田栄助が1890年に国産第1号自転車を製作している。
◇馬事公苑 日本中央競馬会が管理する馬術の総合施設である。1940年の第12回オリ
ンピック東京大会の会場になる予定だったとされるが、この大会は中止になり、24年
後の1964年、東京五輪で馬術会場として使われた。
73 :
古森義久:02/02/05 07:30 ID:0J2D675P
■車が人を変えた−14 「自動車を持つ階級」 大量生産が車の民主化を実現した
第28代アメリカ大統領となるウッドロー・ウィルソン(*)が20世紀冒頭に自動車
に対し苦情を述べた。「自動車というのは上流階級が自分たちの富をひけらかすシン
ボルだ。自動車はその意味で社会の階層間の対立をあおるといえる」
ウィルソンはこのころプリンストン大学の学長だった。1900年当時、アメリカの
自動車にはそんな実態と認識とがあったのである。自動車はその後、ウィルソンの苦
情とは反対にアメリカ社会の階層の垣根を低め、ぼかす効用を発揮するのだが、初期
には買えない人たちのうらやみや怒りの標的となった。
《怒りの標的》 1900年の時点で試作車が次々と生まれ、実際の車の製造、販売、
使用が広がっていっても、なおその値段は一般労働者の目からすれば、とてつもなく
高かった。製造が基本的にすべて手づくりで、材料も新奇な部品ばかりだからコスト
高は避けられなかった。
車の普及の初期には普及すればするほど階級の差が際立つ傾向さえあった。車を所有
する人間と所有者のために運転する人間との格差も顕著となった。「自動車のお抱え
運転手には召し使い経験者が最高である。召し使いを経験した人間は主人の気持ちを
くむのに慣れているため安心できるからだ」
デトロイト・サタデー・ナイトという週刊紙には当時、こんな論評が載った。大衆は
初期の自動車を富裕な階級の高価なおもちゃのようにみて、憤慨の対象とした。嫉妬
をも露骨にぶつけた。とくに農村部では自動車が馬車を引く馬を脅かし、野菜を乗せ
た荷車にぶつかり、農作業に出る人をはねるといった事故も多く、車への敵意は激し
かった。
「当時の自動車は金持ちの遊び道具とみなされ、一般市民や農民は車を傲慢と権威の
シンボルとして憎みさえしました。その背景には一八九〇年代のアメリカが深刻な不
況からまだ立ち直れず、貧富の差が広がっていたことがあります。とくに農民や移民
労働者の間で社会一般への不満が強くなっていました。その不満が富者の象徴である
自動車に向けられるのは、ある意味では自然だったといえます」アメリカの自動車発
展史の初期を専門に研究する歴史学者ロン・エズフォースは語る。各地で車への投石
や場合によっては銃撃さえ起きたという。
《最大の達人》 自動車を階級差と結びつけ、反感を覚えるのはなにも1900年ご
ろのアメリカに限らない。私自身も小学校のころ世田谷区北沢に住んでいて、近所の
路上にアメリカ軍の日系米人軍属が大きな自動車を毎晩、駐車するのに強い反感を覚
えたことを記憶している。その反感から車のタイヤの空気を毎晩少しずつ抜くという
非行にまで走った。そのうち日系米人軍属にみつかり、どなりこまれたが、両親が平
謝りに謝って、どうにか許してもらった。
74 :
見物:02/02/06 00:47 ID:uvuJGh62
ここが噂になっているスレッドですね
75 :
古森義久:02/02/06 04:58 ID:thHZ2uOK
最近の話では、「お役所の掟」など一連の官僚批判の書で知られる精神分析医の宮本
政於が総合雑誌に「ベンツのマークをわざと取ってしまった知りあいの医師」につい
て報告している。
日本で病院を五つほど経営するその医師は運転手つきのベンツに乗っているが、車体
の前後についているベンツのマークをあえて取りはずしてしまった。「こうすればク
ラウンと思う人もいるだろう。ベンツに乗っていると思われてプラスになることなど
何もない」からだという。
日本社会で成功するにはここまで他人のねたみを気にしなければならないというのが
宮本の診断だが、要するに車の差を人間の差に結びつけ、過剰に反応することには東
西古今の違いはさほどないということだろう。
20世紀冒頭のアメリカで自動車に対する国民一般のこうした差別意識をがらりと変
えたのは、ヘンリー・フォードである。フォードは「自動車王」とか「20世紀のア
メリカを変えた人物」、さらには「二十世紀の最大の偉人の一人」などと評されてい
る。彼は自動車の生産価格をびっくりするほど低くして一般大衆が買えるようにした。
しかも、その車は高性能、堅固で、操作が簡単だった。
「私は自動車の民主化を果たしたかった。だれもが買えて、だれもが運転できる車を
製造したかった。自動車を所有することは特権でもなんでもなく、市民の当然の活動
の一部というふうにしたかった」フォードは後年、こう述懐した。彼は、その魔法の
ような偉業を大量生産という新方式で実現したのだった。
《機械に没頭》 ヘンリー・フォードは1863年、ミシガン州ディアボーンの貧し
いアイルランド移民の農家に生まれた。兄弟姉妹は7人、母親はフォードが12歳の
時に病死した。父のウィリアムはアイルランドのジャガイモ大飢饉(*)で祖国を追わ
れるようにアメリカに移住し、ほぼ無一文でミシガン州の農村での新生活を始めた。
フォードは15歳で学校を中退する。父の農業を手伝わされたが、農作業がいやでた
まらなかった。機械には異様なほどの関心を示した。時計から脱穀機までどんな機械
でもそのメカニズムを調べたがった。
1879年、16歳のときに家を出て、工業都市として発展しつつあったデトロイト
に職を求める。まず車両会社で修理見習工となり、つぎに機械工場や船舶修理工場で
働く。機械の世界に没頭し、技術と知識を積み重ねていった。
ところが、フォードは23歳の時に故郷にもどっている。父が40エーカーの土地を
譲ること条件に呼びもどしたのだ。その後の5年間ほど彼は父の求めに従う形で、農
業に従事する。だが機械への興味はますます激しくなり、農場の一画に建てた仕事場
で各種の機械をいじることが多かった。技術の雑誌や文献を読み、蒸気やガソリンの
エンジンの製造まで試みた。
ごらー
いたずらはイヤズラ
77 :
古森義久:02/02/07 08:22 ID:CtM0p8xY
彼は原始的な道具を使った日常の農耕や伐採、製材という肉体労働への嫌悪を隠さな
かった、新婚の妻のクララには「いまにエンジンを使ってすべての農作業ができる時
代がくる」とか「馬を使わない乗り物を必ず発明する」ともらしていた。
そして28歳で農場を離れ、デトロイトにもどって発明王トーマス・エジソン(*)の
創設したデトロイト・エジソン電灯会社に技師としての職を得た。
フォードはエジソン社で電気や電灯の技術と取り組む一方、自分の時間はすべてガソ
リン・エンジンとそれを使う自動車の開発に専念した。そして1896年、33歳の
時に自宅裏庭の工作場で独自のエンジン車を完成させ、デトロイトの路上での試運転
に成功した。
いざ路上で運転というときに工作場のドアが小さすぎて、車を外に出せず、フォード
がオノで工作場のレンガの壁を打ち壊したという話は有名である。
■豆事典
◇ウッドロー・ウィルソン(1856−1924年) プリンストン大学の学長を経て、1912年
に民主党から米大統領選に立候補して当選。第28代米国大統領となる。第1次大戦で
は米国が参戦後の1918年1月、平和14カ条の原則を発表。これがパリ講和会議で締結
されたベルサイユ条約の基調となった。ウィルソンはその中で国際連盟の創立を提唱
したが、実際に発足した国際連盟には米国は議会の承認が得られず加盟しなかった。
◇ジャガイモ大飢饉 1845年から49年にかけて、アイルランドでジャガイモの疫病が
原因で起きた飢饉、この時の疫病はヨーロッパ各地のジャガイモの収穫を減少させた
が、ジャガイモを主食にしていたアイルランドでは特に打撃が大きかった。アイルラ
ンドの人口はこの飢饉で約160万人減少したといわれ、このうち約100万人は飢えや感
染症で死亡、残りはアメリカなどへ移民したとみられている。
◇トーマス・エジソン(1847−1931年) 米国の発明家。少年時代から図書館で独学し
て電気技士になり、自動中継器、印字電信機などを発明。1876年には自分の研究所を
つくって、蓄音機、白熱電球などを次々に生み出した。また1881年には発電所を建て
るなど19世紀後半のエジソンの発明は20世紀に入って人々の生活を大きく変える基礎
を築いた。
79 :
古森義久:02/02/08 03:31 ID:Z+eR0yca
■車が人を変えた−15 T型フォード 大衆のために流れ作業でより安く
人間が物をつくる。そのプロセスの進化は人間の歴史そのものだろう。まず初歩の段
階ではふつう一人の人間が一つの物をつくる。一定の時間の労働が一定の生産量につ
ながる。ごく当然の摂理である。
だが、この製造プロセスをいろいろ分解し、整理し、組み直し、人間の割り振りを変
えといった作業をうまく進めると、労働の効率をとてつもなく飛躍させられる。大量
生産はその効率の歴史的な飛躍だった。大量生産方式はヘンリー・フォードの自動車
生産によって1908年ごろから実現され、車の歴史、アメリカの歴史を変え、人間
の生活そのものまで変えていった。
それまでの自動車生産は手工業生産、つまり手づくりだった。典型は1890年ごろ
世界でも最高の自動車メーカーとされていたフランスのパナール・エ・ルバソール
(P&L)社(*)である。
P&L社は買い手の注文に応じて車の設計を決め、それにあわせて種々の部品を専門
の熟練工につくらせた。注文ではなくても最初の計画にあわせて部品をあとから製造
する。それぞれの自動車が独立した手工業の集大成だから各部品のサイズや様式が完
全に同じ車は一台もない。その結果、製造には長い時間と大きな出費を要した。アメ
リカでも当初はずっとこの方式だった。フォードはそれを根底から変える革命を起こ
したのである。
《経営に反発》 フォードは1899年、デトロイト自動車会社に幹部技師として就
職した。しかし、富裕階級からの注文に応じて高い車を手工業生産でつくる経営に反
発する。「大衆のためにより安く、よりよい車をより多く生産する」というのが彼の
信念だった。そのため、フォードは間もなく会社を離れたが、それでも車の開発に没
頭、1901年デトロイトのカーレースに手づくりの車を運転して出場し、100台
もの競争相手を破って優勝する。
フォードが自分でフォード自動車会社を設立したのは1903年である。日本では明
治36年、日露戦争の前年だった。新会社には友人知人を中心に12人が出資した。
彼はすでに40歳となっていたが、常に設計や製造の先頭に立ち、A型、B型、K型、
N型と次々にフォード車を世に出す。ただし価格はB型で2000ドル、K型で25
00ドルと、まだ大衆には高根の花だった。自動車業界全般に高級車の販売こそが最
重要だという考えが根強く残っていた。
しかし、フォードは大量生産方式を大胆に取り入れていった。まず部品の互換性を確
保した。このころでも自動車の部品は5000種を数えたが、計測を厳密にし、一種
類の部品であればサイズもスタイルも寸分と違わないようにした。この標準化で、ど
の車にも合致する部品ができた。手工業生産では車が違えば、部品もわずかながら異
なっていたのだ。
80 :
古森義久:02/02/08 03:40 ID:JGxNsA8l
車の組み立ては車台(シャシー)を中心に一定の順序で部品を供し、乗せていく。工程
を細分化し、分業を徹底させる。部品供給の順番を効率よくして、車台を動かしなが
ら組み立てていく。やがてベルト・コンベヤーが導入される。この分業や流れ作業は
車全体の組み立てだけでなく、エンジンとかトランスミッションという主要部品の生
産にも適用された。熟練工は不可欠ではなくなり、人件費もぐっと下がった。
その結果、旧来の方法では平均12時間28分かかった車1台の生産時間が1年後に
は一挙に1時間33分となった。その後、12年たつと、1台生産に平均1分、さら
にその5年後には、なんと1台の製造が10秒でできるまでになったのである。
フォードは精肉工場のパッケージづくりの流れ作業をみてこうした生産方式へのヒン
トを得たのだとも伝えられている。
この生産革命と同時進行でデビューしたのがフォードのモデルT(T型)だった。
1908年、ヘンリー・フォードは究極の大衆車を世に出したのである。四気筒水冷
エンジン、20馬力、重量544キロ、全長3メートル、時速56キロ、というT型
フォードは決して誇張ではなく世界を変えてしまった。
《簡素で堅固》 質のよい素材の部品は堅固で壊れないし、操縦もスピードのコント
ロールも容易、修理も簡単、馬力があり悪路でも走り、しかも軽量、すべての飾りを
そいだ簡素な合理性、そしてなによりも低価格という特徴である。運転のハンドルの
位置も車内の右側から初めて左に移された。フォードは明らかに自分が生まれ育った
農業地帯の農民たちのニーズをまず念頭においていた。
T型フォードの価格は当初、850ドルだった。それでも爆発的な人気を呼んだ。
他の乗用車は2000ドル前後という時代だったのだ。フォードはT型の売れ行きに
応じて価格を下げ、発売翌年には690ドル、その4年後の1913年には550ド
ルで販売した。他社の車は安くても1000ドルはした。T型の値段は1920年代
には275ドルにまで下がっている。
T型の生産や販売の伸びはものすごかった。T型が登場した1908年のアメリカで
は自動車の年間生産が63500台だったが、うちビュイック(*)が8500台で最
も多く、フォードとかマックスウェル(*)、キャデラック(*)などという会社がその後
を追っていた。メーカーの数は多く、フォードのシェアなど10%を少し超えるほど
だった。この年、全米で登録されている車の合計も40万台にすぎなかった。
しかし、1914年にはT型の年間生産だけで30万台を超えた。その二2年後には
年間58万台、2925年には202万台の年間生産記録が樹立され、T型一車種だ
けでアメリカの自動車市場全体の56%を占めるという異様な状況にまでなった。
T型は結局、総計1600万台近く生産されている。
81 :
古森義久:02/02/08 03:49 ID:EhJQHmyG
《新車の半分》 1902年のアメリカでは車1台当たりの人口は150万人だった
が、T型がデビューした翌年の1909年には1台当たり800人にまで普及率は上
昇している。20年にはT型の年間販売が200万台を超え、アメリカ全体の新車販
売の半分以上に及んだ。こんなすさまじい車の普及が人の社会を激変させないはずが
ない。とくに農村部の変化は大きかった。
デトロイト市の自動車史研究家デービッド・ルイスが解説する「フォードが大衆、と
くに農村部の大衆のため車を作ることに全力をあげたのは、彼自身が少年のころから
肉体を酷使する農作業を憎むほど嫌っていたからでしょう。T型フォードは農民を果
てしない単調な難作業や汚れた馬の世話から解放しました。この車はぬかるみの悪路
でも険しい丘でも農具を運んで走ったのです」
T型が農村に普及し始めたころ、自宅にバスタブもないのにT型を買った農婦がミシ
ガン州にいた。周囲が自宅で入浴もできないのになぜあえて自動車を買うのかとたず
ねた。農婦は「バスタブは私の重労働を軽くしてくれないし、都会へ連れていっても
くれません」と答えたという。
■豆事典
◇パナール・エ・ルバソール(P&L)社 フランスのレネ・パナールとエミール・ル
バソールが1889年に設立した世界初の自動車製造会社。ドイツのゴットリープ・ダイ
ムラーが発明したガソリン自動車を最初に工業化した。P&L社は1965年、シトロエ
ン社に吸収された。
◇ビュイック 芝生の散水器やエナメル吹き付けの鋳物などの発明家デビッド・ダン
バー・ビュイックが1903年にビュイック・モーター社を創設。彼の考案したエンジン
を搭載した車がビュイックと呼ばれた。このビュイック・モーター社が後年ジェネラ
ル・モーターズ(GM)社の母体となった。
◇マックスウェル アメリカのジョナサン・マックスウェルとベンジャミン・ブリス
コは1904年に第1号車を製作。短命に終わったUSモーター社を経て1913年、マック
スウェル・モーター社を発足させた。その後、25年につくられたクライスラー社に引
き継がれた。
◇キャデラック フォードが去った後のデトロイト自動車会社が1902年キャデラック
社と改称した。翌03年にキャデラック第1号を出した。この名前はデトロイトを最初
に開拓したとされるフランス軍人アントニ・デラモース・キャデラックに由来してい
るが、1909年GMに吸収された。
>>78 この会は当社の発案で発足しました。
従って当会のリーダは当社であると自負しています。
かってジェネリックと言えるのは当社のみであると、
業界を席巻して参りました実績からして当然です。
83 :
古森義久:02/02/09 11:34 ID:eqWlEh5P
■ 車が人を変えた−16 フロンティア
アメリカの世紀が幕を開けた
自動車は世界各国のなかでもなぜアメリカで急速に発達したのだろうか。国土の広さ
が大きな原因であることは間違いない。もちろん工業の基盤とか国民の知識や技術の
水準とか人間レベルの要因が自然環境の前提とはなるだろう。だがそれら人為的要素
を強力に圧縮し、個人や社会のモータリゼーションへのほとばしるような流れへと推
進していったのはアメリカという国の自然の立地条件だったようにみえる。
《農民の孤独》 1900年のアメリカの人口は7600万だったが、ほとんどは農
業地帯に住んでいた。広大な山野に点在する農村には電気も交通手段もなく、都会の
文明とは切り離されていた。農村や地方の人たちは都市で何が起きているか、世界で
何が起きているか、まるで知らなかった。農民の生活は自給自足で孤独だった。この
地理的条件は国土がずっと狭く中小都市が鈴なりにつながるヨーロッパとは異なって
いた。
自動車はヨーロッパで発明されたものの、アメリカで本格的に発達した。世界でも最
初にアメリカで中産階級の乗り物となった。ヨーロッパで車が真に中流層の交通手段
となるのは、アメリカにくらべて20〜30年も後となる。アメリカでの車の普及は
やはり、個人が自由に操れる交通手段への切実な生活上の物理的、精神的なニーズの
ためだったのだろう。孤立を減らし、文明に近づき、他人との接触を増すという人間
の本能に近い住民たちの欲求がヨーロッパよりはずっと強かったということだろう。
広い山野での生産活動の効率をあげるためにも、自動車のような機動力の必要性は高
かった。広大すぎることが欠陥となる地理的条件が自動車への潜在需要をより先鋭に
したといえる。その背後にはもちろんヘンリー・フォードに象徴されるアメリカ人の
強烈な進取の気風があった。
アメリカでの自動車の急速な発展に農村でのニーズが大きな動因となったことは、初
期の自動車界のリーダーたちの背景をみてもわかる。典型的な農家の出身のフォード
をはじめランサム・オールズ、チャールズ・キング、デビッド・ビュイック、アレクサンダー・ウィントン(*)、ジェームズ・パッカード(*)、トーマス・ジェフリーなど
という20世紀冒頭の前後にそれぞれ独自に自動車を開発したり、自動車企業を設立
したパイオニアたちは、面白いほど一様に中西部の五大湖周辺地域の農村部や地方の
出身なのである。少なくとも最初から都会で生まれ育ったエリートは一人もいない。
ミシガン、イリノイ、オハイオ各州などの中西部は当時、東部からの開拓民がどっと
移住し、第一次、第二次産業が急成長するフロンティアだった。自動車という新しい
製品が勢いよく産声をあげるにはまさにふさわしい地域だったのである。
84 :
古森義久:02/02/09 11:35 ID:eqWlEh5P
《燃える草原》 アメリカでの石油の発見も、自動車産業の発展には絶対不可欠の要
因だった。自動車と石油の二つの産業が、ともに相手を支え、推し、広げ、栄えさせ
ていく相乗の効果はものすごかった。石油の発見がガソリン自動車の発展、特にT型
フォードの大躍進を可能にした。そのガソリン自動車業界の黄金時代が逆に石油業界
の黄金時代にも直結した。
人間が石油を採取して工業用途に使うという事業が始まったのは1856年、アメリ
カのペンシルベニア州からだったが、このころの用途はランプなど照明用だけだった。
やがて19世紀末に、原油を分溜してつくるガソリンをエンジンに使うというエネル
ギー用途も生まれたが、なお石油の消費の主流ではなかった。なにしろ石油自体の比
重が小さかった。
ところが1901年、テキサス州ボーモントの草原で大油田が発見され、人間社会で
石油が果たす役割ががらりと変わってしまったのだ。その歴史的な変化は石油が自動
車と結びつくことで劇的な幕を開けた。
ボーモント郊外の「スピンドル」という草原は、以前から子供たちの奇妙な遊びの場
だった。草原に生える背の低い松の木の姿がスピンドルと呼ばれる紡績の心棒に似て
いることからこう名づけられたこの地域では、地元の子供が火をつけたマッチを地面
に投げると、きれいな炎がほのかに燃え浮かぶのだった。地下からしみ出す石油の蒸
気がそんな現象を起こしていたのだが、その地下に巨大な油田が存在することが確認
されるまでには時間がかかった。
アメリカの石油発掘は、そもそも東部や中西部に限られ、南西部のテキサスに関心を
向ける人は少なかったのだが、そんななかでボーモントの鉱山師パテロ・ヒギンズは
スピンドルの地下の石油の存在を信じて、数年もこつこつと試掘を続けた。そしてつ
いに1901年1月10日、大油田を掘りあてたのだった。掘削が300メートルを
超える深度に及んだところで、火山の噴火のように原油が噴き出した。噴出はやぐら
の上空30メートルにも達した。
この1本の油井だけで1日10万バレルの産出になることがわかる。それだけでなん
と当時のアメリカの総産出量の60%を占めていた。ボーモントではさらに5本の油
井により豊富な油田が掘りあてられ、合計で年間1億3600万バレルの石油生産と
なった。この量は当時、世界最大の石油産出国ロシアの総量の2倍を超えた。
ボーモントは小さな町からあっという間に都会となり、石油ブームにわきにわいた。
石油の量がとにかく巨大だったから価格も安かった。当時のテキサスでは水が1バレ
ル6ドルで売られていたのに、石油が1バレル3セントだったという記録もある。
85 :
古森義久:02/02/09 11:36 ID:eqWlEh5P
《石油の時代》 石油はそれまでの燃料の主役の石炭よりもエネルギー源としてはる
かにすぐれていた。運びやすく軽く汚染が少なく、コストも石炭の半分だった。世界
のエネルギー源の主役がまさに石油になろうとしている時期にアメリカは一夜にして
世界一の石油産出の国になってしまったのだ。「アメリカの世紀」の幕開けはここに
もあった。石油が工業化された世界の新通貨となるにつれ、アメリカは他の先進諸国
を引き離して豊かで強くなっていったからである。自動車の開発ではアメリカの先を
走っていたフランスなどは、石油資源の不足により車の国際競争では決定的に遅れて
いった。
著名なジャーナリストのデビッド・ハルバースタム(*)は日米両国の自動車摩擦を歴
史的に追ったノンフィクション「清算」(日本語訳は「覇者の驕り」)のなかで述べて
いる。
「二十世紀冒頭の石油産業の異様なほどの拡大はヘンリー・フォードの重要性と成功
とを決定的に強めた。アメリカ国民に対しフォードが自動車を提供し、テキサスの石
油業界がガソリンを提供したのだ。安いエネルギーと低価格の大衆車が入手可能にな
り、アメリカの景観はすぐに一変していった」
■豆事典
◇アレクサンダー・ウィントン(1860−1932年) スコットランドから1880年にアメリ
カに移住。自転車部品の製造業を経て1896年、ガソリン自動車のウィントン1号車を
作った。翌97年にはウィントン自動馬車会社を設立した。1902年にはウィントンのス
ポーツカーがデイトナの自動車レースで1マイル55・2秒と言う当時のスピード記録を
出した。
◇ジェームス・パッカード(1863−1928年) 1899年に弟のウィリアムとともに自動車
を完成させた。1903年にはパッカード・モーターカー社を設立。パッカード社は高級
車メーカーとして知られたが、ビッグ3に押されて第2次大戦後の54年にスチュード
ベーカー社と合併、その後、消滅した。
◇デビッド・ハルバースタム(1934年−) アメリカのジャーナリスト、作家。1960年
代にニューヨーク・タイムズ紙のコンゴ、ベトナム、ポーランド特派員などを経験し
た後、フリーになった。著書に「ベスト・アンド・ブライテスト」「メディアの権力」
「覇者の驕り」「フィフティーズ」など。
86 :
古森義久:02/02/11 23:21 ID:dV5VYMo9
■ 車が人を変えた−17 最低賃金
一般労働者も自動車が買える
アメリカの自動車大衆化時代の幕を開けたヘンリー・フォードには、奇抜な言動も多
かった。「歴史というのは多かれ少なかれ、でっちあげだ」、「本を読むことは考える
ことからの逃避だ。読書は麻薬中毒に似ており、読書病は現代病である」、「仕事と
いうのは人間の救済そのもの、人生そのもの、夜も昼も仕事のことを考えることこそ
人間にとっては重要なのだ」、「フォード社のよき社員である限り、アルコールは飲
まないことが望ましい。スポーツは水泳はいいが、ゴルフは奨励しない」、「犯罪者
の経歴をみると、みな喫煙常習者なんだ」フォードの独断や偏見の例証としてよく引
用される言葉の数々である。
機械に関する天賦の才と、それをフルに生かした革命的な成功でアメリカの歴史を変
えた人物が後年、独善に走ったとしても、そう不思議はないだろう。
《怒りで破壊》 フォードは自分が開発したT型フォードのデザインを部下の幹部技
師たちが自分に告げずに改良したのを知り、怒りを爆発させて車の形がうせるまでに
破壊した。1912年、フォードが欧州に出張した際、技師たちが彼を喜ばせようと
改良を進め、帰社した彼にみせたところ、いきなりハンマーをふるったのだ。T型は
どんな細部でも自分以外の人間が変えてはならないという、頑なな心情からだった。
だが、フォードの的を射た独創は技術以外の面でも発揮された。自社の車の宣伝にコ
ピーライターが「フォード車を買って、差額を貯金しよう」という文句を書いた。
フォード車が他社の車よりずっと安いことを強調するアピールだった。だがフォード
はただちに「フォード車を買って、差額で別なものを買おう」と書きかえた。
彼は少年時代から貯金が大きらいで、カネは次の活動につながる消費にあててこそ最
大の効用を発揮するという考えを実践してきた。大量生産は大衆消費と並行してこそ
繁栄に向かってばく進するという思考であり、いまの日本のマクロ経済政策の欠陥を
指摘しているような趣もある。
ヘンリー・フォードは1914四年、自社の従業員の日給をそれまでの2ドル30セ
ントから一挙に5ドルに上げ、アメリカ産業界に衝撃を与えた。全米からフォード社
に職を求める労働者が殺到し、賃上げ発表の翌日には1万人以上がフォード工場の門
前に集まった。
日本では大正三年、ジーメンス事件(*)が明るみ出たり、大阪福島紡績工場や東京モ
スリン吾嬬工場で女子工員の過激で長期のストライキが起きたりしていた頃である。
フォードが労働者の所得倍増へと大胆に踏み切ったのは、ひとつには自社の社員、つ
まり一般労働者も購買力の引き上げで自動車の購買者にしようとの狙いからだった。
>>82 >従って当会のリーダは当社であると自負しています。
他社の威を借りている印象は拭えない。
この研究会、ゾロ専業2位と3位の連合なんだね。
4位陥落・泥船日○工は余裕がないからまだしも
東○はどうするつもりなんだろう。
東○は、業界状況に文句を述べたてるより、業容の改善に熱心だから、
静観するんだろうね。
88 :
古森義久:02/02/12 07:47 ID:EoKjMZp0
さらに大きなもう一つの要因は車の大量生産技術の普及とともに労働者の長期の確保
が難しくなってきたことだった。合理性のみが追求される単調なベルトコンベヤーの
作業は向上心の強い労働者を飽かせ、体の強くない労働者を消耗させがちとなり、離
職者が増えていたのだ。
年間の離職率400%、つまりあるポジションの労働者が年に四人もやめるというと
ころまで悪化していた。フォードは労働者の給料を破格に上げ、福祉や厚生の面でも
待遇をよくして、会社への連帯を強くさせる措置をとったのだった。その結果、離職
率は37%にまで激減した。
フォードのこうした措置に、他の自動車会社も程度の差こそあれ、追従を余儀なくさ
れたため、自動車業界は労働市場としての魅力を高めた。フォードはユダヤ人への不
信や偏見を露骨に表明していたことでは悪評だったが、黒人を他社に先駆け大幅に採
用した。自動車業界で働く男女の総数は1910年には、わずか1万5千人だったの
に対し、1920年には16万人へと増加していた。
《変化の波が》 この背景にはもちろん労働者の優遇だけでなく、自動車産業自体の
記録的な発展、利潤の積み上げのほか、関連分野の鉄鋼、ガラス、工作機械、石油な
どの各産業の飛躍があった。そうした産業界の繁栄が大衆消費をふくらませ、さらに
多くのアメリカ人に自動車を買わせるというサイクルを広げていった。自動車のその
ダイナミックなうねりがアメリカ社会全体に逆転不可能な変化の波を勢いよく広げて
いくこともまた必至だった。
「車の発達により都市の住民は徒歩や電車で仕事に通える範囲内に住むというクサリ
のような制限をなくしました。逆に地方の住民は都市にも通えるようになり、子供の
教育も一変した。遠くのよい学校へいけるわけです。地方の住民はさらに都市の美術
館や劇場にいけるようになりました。文化面でも大きな変化が起きたのです」
アメリカの自動車史を専門に研究する歴史学者リチャード・シャーチバーグによれば
車の普及は当時のアメリカ人の医療や食生活までを変えた。医師も患者も車でそれま
でより遠距離を動いて必要な医療を与え、また受けた。新鮮な食料の遠距離への輸送
は当然、食事の内容をよくして食生活全体を向上させた。男女が知りあい、恋をして
結婚する舞台も、それまでの馬車がカバーする40〜50キロから一挙に広がった。
車が女性に特に大きなインパクトを与えたのは1912年、エンジンを電気で始動さ
せる電気スターターが開発されてからである。それまではどの車もエンジンの始動に
はクランク・ハンドルを力をこめて回し、ピストンの上下運動を人力でスタートさせ
ねばならなかった。この作業はエンジンの爆発を急に起こすこともあって、ときには
危険だった。
89 :
古森義久:02/02/12 07:48 ID:EoKjMZp0
《女性が激増》 自動車開発の先駆者の一人、バイロン・カーターは路上でエンジン
の始動に苦労している女性を助け、クランク・ハンドルを回したところ、ハンドルが
急回転してアゴを砕き、死んでしまった。
だから、始動方法の改善は自動車界の悲願だったのだが、GM社の初期の幹部技師の
チャールズ・ケタリング(*)が電気スターターを完成させて、1912年型のキャデ
ラックに初めてつけた。セルフ(自動)スターターである。だれからも大歓迎されたこ
の新装置はとくに女性ドライバーを激増させた。
女性の運転はアメリカ社会での女性の地位向上にもつながっていく。「女性のモータ
リストはその姿自体が女性の積極性や自己主張を目にみえる形で宣言する文化的な声
明となりました。ホコリよけのゴーグルをかけ、軽快でスポーティーな服装で、背筋
を伸ばしてハンドルを握る。そんな姿は従来の女性の生活の場を超えて活動するとい
う強い決意の表明として社会に映ったのです」アメリカの女性史に関する著作の多い
女性歴史作家バージニア・シャーフは、こう述べている。
■ 豆事典
◇ジーメンス事件 1914年(大正3年)に発覚した日本帝国海軍の汚職事件で、ドイツ
のジーメンス・シュケルト社の事務員による恐喝事件の裁判で、同社が日本海軍の軍
需品受注のため日本の高官に贈賄したとの疑惑が浮上、日本に伝えられて国会で取り上げられた。さらに野党、世論の厳しい追及によって司法当局も捜査に乗り出したた
め、ジーメンス・シュケルト社のほか、イギリスのビッカース社などからの日本海軍
に対する贈賄工作も判明した。山本権兵衛内閣は同年3月に総辞職、5月には海軍将
官、佐官らが軍法会議で懲役刑を宣告された。
◇チャールズ・ケタリング(1876−1958年) エジソンやベルと並ぶアメリカの発明家
であり、電動式自動金銭登録機、自動車の自動スターター、高速ディーゼル・エンジ
ンなどを発明した。ケタリングが設立したデイトン技術研究会社は1916年にGM社に
買収され、彼はGMの副社長、研究部門の代表として活躍した。妻と妹を癌で失った
事から、晩年は私財を投じ、世界的に有名なスローン・ケタリング癌研究所の設立な
どに尽力した。
>>82 >従って当会のリーダは当社であると自負しています
そのまえにねつ○を止めたまえ!! (激怒)
91 :
古森義久:02/02/13 04:40 ID:PBVVwyad
■ 車が人を変えた−18 ハイウエー
郊外が生まれ、車文化が確立した
自動車の数が急に増えれば、当然、支障が起きるのは道路である。いつの時代のどん
な国でも、交通の質や量の変化にあわせて道路をどう変えていくかは、重大な課題だ
ろう。20世紀はじめのアメリカも、この課題に急速に、しかも真正面から迫られた。
全米に広がるモータリゼーションの波に対応して道路の拡張が緊急に必要となったわ
けだ。その結果の道路の拡張、とくに自動車用の幹線道路網の広がりは人間の活動パ
ターンを変えていった。
そもそもアメリカの主要都市を結ぶ幹線道路は、まず馬車を念頭にいれて、つくられ
ていた。自動車の通行には向かなかった。1900年ごろの時点でアメリカ全土の道
路延べ3億2千万キロのうち路面になんらかの舗装ふうの加工をほどこした道は合計
24万キロほどだった。全体の0・1%にも満たない。しかも舗装ふうといっても大
部分は単に砂利を敷いた程度である。残りの99・9%以上は泥や土のむきだしの道
だったわけだ。だが自動車はこの時期になると、全米で30万、40万という大台を
超え、1910年には50万台にも達することになる。
《ぬかるみ》 要するに二十世紀冒頭は車は増えても、まだまだ雨が降ると、車の通
行ができないという道が多かったのだ。悪路に強いT型フォードでもぬかるみの深い
泥道では前進できない。すでに車を使って郵便事業を始めていた各地方自治体ではぬ
かるみで通れない道路のために年間総額二百八十万ドルの損失が出たともいう。農民
たちも農作業にまで使う万能のT型フォードが、雨の日には町での買い物に使えない
ことに激しい不満を訴えるようになっていた。
各地の地域住民から車の通行に適する道路の建設が求められた。自動車業界も当然の
ことながら、道路拡充を望み、運動を始めた。ヘンリー・フォード自身はあまり熱心
ではなかったが、パッカード社の社長ヘンリー・ジョイが業界の道路建設推進の先頭
に立った。その結果、アメリカで初のコンクリート舗装道路が1908年、デトロイ
ト地域に建設された。
そして、フォード社が間もなく都市間を結ぶ幹線道路、つまりハイウエーの必要性を
訴えるPR映画をつくって、各地で上映する。
《軍隊も一役》 ハイウエーは国家防衛にも不可欠だということで軍隊も一役買った。
1919年には陸軍の車両部隊がニューヨークからサンフランシスコまで道路の状況
をくわしく調べながら、大陸横断の行軍ドライブを敢行したのだ。3カ月かけてサン
フランシスコに着き、国の安全保障の見地からも道路整備の必要性を、あらためめて
全米にアピールした。このときの車両部隊の司令官、ドワイト・アイゼンハワー陸軍
大佐(*)は後に大統領となった。
92 :
古森義久:02/02/13 04:47 ID:w/tqh7BR
ハイウエー建設の必要は広く認められ、そのため「連邦ハイウエー法」が1921年
に成立する。道路建設ブームが始まり、州と州とを結ぶ州間ハイウエー(*)が続々と
整備される。種々の州間ハイウエーでも東西に走る道路は偶数、南北に走るのは奇数
の番号をそれぞれ名称として与えられた。コンクリートやアスファルトがアメリカの
道を覆いはじめたのだ。
現在ではアメリカの国土全体の10%に相当する広さが舗装されているという。大地
をどんどん人工の表皮で覆っていくことには、いまでこそ環境保護や景観保存の見地
から反対が多い。だが当時のアメリカでは車をフルに利用することへの国民的コンセ
ンサスともいえる熱気が渦巻いて、道路の整備が全米規模で推進されたのである。
日本でも、当然ながら道路の舗装というのは景観を変え、地域社会の質さえも変えて
きた。私の育った東京の世田谷区北沢でも、渋谷からそう遠くない地域にもかかわら
ず、かつては本格的な舗装道路といえば、地域にはただの一本だけだった。私の幼い
記憶では井の頭線の池の上駅から淡島方向へ抜ける道だけがアスファルト舗装で、そ
こからいったん、わき道に入ると、すべて砂利道か赤土むきだしの道だった。
厳冬になると、土のままの道には一面に霜が降り、自宅から徒歩で6〜7分の区立小
学校まで霜柱をサクサクと踏みながら通ったものだ。そんな情景は今やまぼろし、ど
んな細い道さえも近代舗装が施され、景観は異邦のようになった。
1920年代のアメリカではハイウエーが完備されるにつれ「郊外」が生まれ、都市
で働く人々も車と道さえあれば、都市の外周のより広いスペースに居住の拠点を移す。
商店がそれに従う。と同時にハイウエー沿いに商店やレストランが生まれ、看板広告
が道の両側に花を咲かせるように飾られる。
車をキャンプのように使って旅行するオートキャンプも全米で大流行した。屋外で寝
たくない人たちのためにモテル(*)が普及した。ハイウエー沿いにはガソリン・スタ
ンドが雨後のタケノコのように店を開いていった。
ちょうどこの時期、それまではむきだしだった自動車に屋根や窓がきちんとつけられ
るようになり、アメリカ社会に「車文化」を確立するペースを速めた。
《恋する男女》 車文化は男女の交際をも変質させた。恋愛する男女たちにとっては
車は新しい自由と独立とプライバシーの城であり、密室となった。男女のデートの形
が根本から変わってしまった。倫理にうるさいH・フォードは男女の交際での一定限
度を超えた車利用にブレーキをかけるため、T型車の後部座席をあえて狭く設計した
といううわさも当時、流れていた。
93 :
古森義久:02/02/13 04:51 ID:w/tqh7BR
ハイウエー網の整備と相乗した形の車文化の拡大は、アメリカ人の国民的性格と呼べ
る特徴までに影響を及ぼすようになっていく。「アメリカが社会の階級の壁を突き崩
し、ヨーロッパの伝統から離れるうえで、自動車は強力な道具となった」
日米自動車摩擦に関する大河ノンフィクション「清算」(日本語訳「覇者の驕り」)を
書いたデービッド・ハルバースタムは同書のなかで、1920年代のアメリカで車が
人をどう変えたかの分析を試みている。
「車と道路の発達はアメリカ人の根なし草ふうの心理部分を刺激し、自分の育った地
方を捨て、両親の習慣を放棄し、車に乗ってどこかへいき、新たな挑戦に応じる、と
いう性向を強める効果を発揮した。車はアメリカ人に新しい機動性を供し、もはや両
親と同じ地域に住み、両親と同じ水準の教育を受けることも不必要とした。もしその
同じ地域の小さな村が気に入らなければ、車に飛び乗って、どこか新天地へ向かえば、
それでよいのだ」
■豆事典
◇ドワイト・アイゼンハワー(1890−1969年) 第34代米国大統領(1953−61年)。第2次
大戦の欧州戦線で連合国側の最高司令官として44年6月のノルマンディー上陸作戦を
指揮。翌45年、ドイツのナチ政権を壊滅させた。戦後の52年、共和党から米大統領選
に立候補して当選。東西冷戦が激化するなかで59年には訪米したソ連のフルシチョフ
首相と会談、米ソの歩み寄りにつとめた。
◇州間ハイウエー アメリカで2つ以上の州にまたがって走るハイウエーを指す。米
国の人口5万以上の都市のほとんどは州間ハイウエー・システムの幹線道路で結ばれ
ている。ハイウエーは米国では都市間を結ぶ幹線道路を指し、日本のいわゆる高速道
路に相当する道路はエクスプレスウエーと呼ばれる。
◇モテル 米国で1920年代の自動車普及に伴い、幹線道路沿いなど自動車旅行に便利
な場所に生まれた宿泊施設で、ホテルのような人手をかけたサービスは期待できない
が、車利用者にとっては機能的で、料金も安い。モータリスト用ホテルが短縮されて
モテルと呼ばれるようになった。
>従って当会のリーダは当社であると自負しています。
給料は最低であります。マジ何とかしてして欲しいヨ
漏れのアルバイトは仕方がないがせめて女房の内職は辞めさせたい。
95 :
古森義久:02/02/13 07:25 ID:JiHoTXyu
■車が人を変えた−19 モーター・シティー
自動車がきらびやかな隆盛を生んだ
車は人だけでなく街も変えた。その変え方はもちろん多様である。車の持つ機動性が
街を変える一方、車のもたらす富も街を変えた。街の変容は、当然ながら人をさらに
変えていく。車と街のそんな変化の相関が、最も顕著に見られたのが「モーター・シ
ティー」(自動車の都)と呼ばれたデトロイトだった。
《エリー運河》 そもそもデトロイトはなぜ「自動車の都」となったのか。多くの必
然といくつかの偶然とが組みあわさって、その歴史が生まれたといえる。
19世紀前半から大規模に始まったアメリカでの東から西への移住ではデトロイトが
まず地理的条件から要衝となった。ニューヨークやニューイングランドからの移民や
農民が西へ西へと新天地での機会を求めて動くときに、まず通るのは交通の便のよい
デトロイトだった。1825年のエリー運河(*)の完成で五大湖のひとつ、エリー湖
に面するデトロイトの交通の便は飛躍的に高まり、中西部の商業の中心となった。
デトロイト周辺はさらに木材、鉄、銅などの豊富な自然資源に恵まれ、関連の産業が
発達した。小規模ながら金属工業、機械工業が発展し、なかでも船舶製造や馬車製造
は当時の先端だった。これらの工業のベースが自動車産業の土壌となった。デトロイ
トでの機械や馬車の手工業で成功した人たちの財が初期の自動車産業への貴重な投資
となったことも大きい。
ヘンリー・フォードもランサム・オールズも、デトロイトの投資家たちに強く勧めら
れてこの地に工場を開き、生産を拡大した。自動車生産が飛躍的に伸びると、デトロ
イトも都市として急成長した。人口も1890年には20万、全米で第14位の規模
だったのが1920年には100万以上、全米第4位の大都市へと発展した。
肉体労働や技術が主体の自動車製造作業は外国から移ってきたばかりで英語を解さな
い新移民にも適していた。フォードが黒人への自動車産業の門戸を一部、開いたこと
で、南部からの黒人の流入も多くなった。この結果、デトロイトは伝統的に黒人が多
く、戦後でも市民の44%が黒人という高比率となった。
《文化の先端》 富と人口の増加はモータリゼーションの波と相乗してデトロイトの
都市としての顔を急激に変えた。市街整理で道路が整備され、高層ビルがつぎつぎに
建てられた。アルバート・カーン(*)という地元の著名な建築家がフォードらの特別
の依頼を受けて、華麗で優雅な建造物の設計に力を注いだ。
美術館、図書館、コンサート・ホール、大学などの新築が続く。1920年代に連続
して建てられたデトロイトの劇場はとくに国際的に注視された。
フィッシャー劇場、ナショナル劇場、フォックス劇場、マジェスティック劇場などな
ど、当時としては世界の文化の先端をいくという感じだった。ことに巨大な総合エン
ターテインメント・ビルだったフィッシャー劇場は、内部をマヤ(*)ふうのデザイン
で統一して話題を呼び、連日、押し寄せる人でごったがえした。
96 :
卵の名無しさん:02/02/13 18:43 ID:esgQ4kgL
おめでとうございます。
ゾロの薬価算定が1/2.5になるそうです。実質はもっとキツい算定に
なりそうですね。今のうちにのさばってなさいな。
97 :
↑:02/02/14 04:59 ID:3OGyDymh
薬価内示の引き下げは酷いらしいよ
また、ボーナスは1.5ヶ月だよ。
98 :
古森義久:02/02/14 07:36 ID:5xnFdlgI
フットボール、野球、ホッケーなどというプロのスポーツでもデトロイトはメッカと
なる。こうした栄華はやがては色あせていくのだが、当時のデトロイトの勢いはすご
かった。みな自動車産業の隆盛の結果だった。
「デトロイトのきらびやかな隆盛は1929年の大恐慌で下降はしますが、それまで
の状態はまさに『アメリカン・ドリーム』の実現でした。自動車というごくアメリカ
的な産物がもたらした経済のダイナミズムが文化や芸術、教育、スポーツなどの各分
野にみごとな花を咲かせたのです」デトロイト市の「モーターシティー展示館」のマ
イケル・スミス館長が解説した。
また、自動車はアメリカの労働運動をも変えた。1936年12月から翌年の1月に
かけてジェネラル・モーターズ(GM)の工場で労働者たちが敢行した44日間の座り
込みストは、アメリカの労働組合の歴史に特筆されることとなったのである。
このころまでにはアメリカの自動車業界もフォードの圧倒的優位が崩れ、ビッグ3の
時代を迎えていた。T型フォードの生産も1927年に打ち切られた。18年間にわ
たり1500万台以上を製造した末である。安価で堅実な大衆車万能の時代の終わり
でもあった。フォードに正面から挑戦し、トップの座を奪ったのはGMだった。
GMは、馬車の製造と販売から自動車業界に身を転じたウィリアム・デュランにより
ビュイック社を中心にオールズモビル、キャデラック、オークランドの3社の買収を
経て、1908年に設立された。その後、シボレー、ポンティアックの両部門を加え
て伸びていく。
1923年にはウォルター・クライスラーによりクライスラー社が設立され、GM、
フォードにつぐ業界第三の地位を占めた。ビッグ3の市場制覇の始まりである。
《労使協定》 自動車業界も大恐慌で深刻な打撃を受けたが、回復は他の産業よりい
くらか早かった。だが従業員の労働条件は厳しいままで、なかなか向上しなかった。
とくに鋳造所で働く人たちが酷使されていた。
1935年、フランクリン・ルーズベルト大統領は国家労働関係法を施行し、労働者
に団体交渉権を認めた。自動車産業の労働者たちは全米自動車労組(UAW)を自主的
に組織した。後にアメリカの労働史に重要な名を残すウォルター・ルーサー(*)が議
長となったがビッグ3の経営側はUAWを正式に認めず、労使協定の締結を拒んだ。
ルーサーはフォード社のプレス工だったが、政治活動への関与を理由に解雇された後
は、業界全体の組合専従の形となって自動車産業の経営陣に闘争を挑み、その時点で
最も利益をあげていたGMを組合認知獲得の闘争の主標的とすることに決めた。デト
ロイト北西のGMフリント工場で座りこみストを指揮し、流れ作業の操業を完全に止
めてしまったのだ。
99 :
古森義久:02/02/14 07:37 ID:5xnFdlgI
GM経営陣は当時の社長アルフレッド・スローンの下で強硬に反発した。実力排除や
法廷提訴、州知事への訴え、州兵出動の要請などあらゆる手をとった。労働者側との
衝突が何度も起き、負傷者も多くなった。警官側の催涙ガスの使用から実弾の発射ま
で熾烈な手段がとられた。だが組合側は決死で座りこみを続け、車組み立ての作業の
うち車体製造を44日間もストップさせた。警官の突入を他の労働者たちがピケを築
いて阻んだ。
ルーズベルト大統領も労働組合の側に同情を示し、GMの経営陣もついにUAWを正
式に認知して労使協定を結ぶにいたる。UAW側は次に当時、フォードを抜いて業界
第二位になっていたクライスラー社に同じ種類の実力を行使して、労使協定にサイン
することに成功した。UAWの地位が一挙に高まる。車生産から生まれたUAWが以
後、アメリカ労働界でも指導的な役割を演じるようになったのである。
■豆事典
◇エリー運河 エリー湖岸のニューヨーク州バファローと州都オールバニを結ぶ運河
であり、ハドソン川を通じてニューヨークと五大湖をつなぐ交通、輸送路となった。
◇アルバート・カーン(1869−42年) ドイツ生まれ、1881年にアメリカに移住、デト
ロイトの建築会社に勤め、鉄筋コンクリート建築を研究、工場建築の第一人者となる。
工場以外の文化建造物も数多くデザインした。出世作とされる1904年のパッカード工
場をはじめフォード、ゼネラル・モーターズ、クライスラーなどの各工場、またソ連
の第1次5カ年計画の重工業施設などの建設を手がけた。
◇マヤ文明 中央アメリカのグアテマラ高地からユカタン半島にかけての地域で紀元
前後に興ったマヤ族の古代文明。4世紀から9世紀の間に全盛期を迎え、神権政治を
確立。巨石建造物をのこし、天文、暦法、象形文字などを発達させた。
◇ウォルター・ルーサー(1907−70年) アメリカの労働運動指導者。フォードの工場
を組合活動のために解雇された後、ゼネラル・モーターズの機械工となって労働組合
の組織化を進め、UAW会長などを経て、1955年に成立した米国労働総同盟産業別会
議(AFL−CIO)では副会長に就任した。しかし、1958年にはUAWを率いてAF
L−CIOを脱退し、運輸関係労組のチームスターズ・ユニオンとともに労組行動同
盟(ALA)を結成した。70年に飛行機事故で死亡した。
101 :
↑:02/02/16 08:20 ID:UAtQwUWf
だったら月給2万円上げてくれよ。
この板は「会社・職業」のジャンルにあって
医者病院についてかたったりけなしたりする板です
ここで健康相談やよい病院選びの話題を求めて
返答に誠意がないなどと文句を言うのはお門違いです。
◆病気や治療については身体・健康板へ
◆医学の話は医歯薬看護板へ
◆受験の話は受験板へどうぞ
103 :
古森義久:02/02/17 00:07 ID:lTB7jskb
■ 車が人を変えた−20 自動車旅行
消費者の財布に応じて車を提供した
私の義父エリック・バルソは寡黙な人物だが、こと自分の車の歴史となると熱をこめ
雄弁に語る。「私が2歳の頃、父がモデルT(T型フォード)を運転していてね。急に
カーブを切ったので、助手席の母のひざに乗っていた私が外へほうり出されたという
んだよ。幸いにもスピードが出ていなかったので、私は頭をちょっと打っただけです
んだようだが、だれの責任かで両親はあとで大ゲンカをしたそうだ」
エリック本人がもちろん覚えているはずはない。みな後年に両親から聞かされた話な
のだが、この小さな事故は彼の幼時では最大の事件だったのだという。建材会社の副
社長を最後に引退したエリックはいま76歳だから、「事故」が起きたのは1924
年のはずである。T型にもまだきちんとしたドアがなかったのだろう。
日本では大正13年、関東大震災の翌年で、国をあげての復興に大わらわの年だった。
アメリカではこんな時期から自動車がもう家庭や家族のなかに、ここまで深く組みこ
まれていたわけである。
《最大の衝撃》 西海岸のシアトルに住んでいたエリックは子供時代に父ハンツが運
転していた車もよく覚えている。T型フォードのあとはスチュードベーカー、その次
はビュイック、さらに初めて自分が運転を許されたのは母のジーンが使っていた19
33年型プリムスだった。14歳で運転免許を得て、ときおりは母の車を運転して高
校に通った。自分の車でくる生徒はまだ珍しかったため、それだけでクラスの人気者
となった。こんな現象は私の高校時代と変わりなかったわけだ。
自動車がエリックの人生に与えた最大のインパクトとして、彼が語るのは、17歳の
ときの全米ドライブ旅行である。ハイスクール卒業の祝いにと、母が彼と親友のハン
ク・アーンストロムとを新車に乗せて、文字どおり全米各地の見物に連れていってく
れた。ただしシアトルからデトロイトまでは汽車で旅した。
たまたま、父がクライスラー社にデソートというスポーティーな車を注文しており、
3人がそれをデトロイトで引き取って、まずニューヨークへ向かった。1939年の
ことである。ヨーロッパではこの年の9月、ドイツ軍がポーランドへの攻撃を開始し、
第二次世界大戦が始まったが、アメリカはまだ中立を宣言していた。
エリックらは、ニューヨークでは、ちょうど開催中の世界博を楽しみ、エンパイアス
テートビルに昇り、初めてのテレビをみたりした。
母のジーンがたまたま訪米中のイギリス国王、ジョージ六世のパレードを見物にいく
間、エリックとハンクはトミー・ドーシー(*)やジプシー・ローズ・リーの公演へと
出かけた。スコットランド生まれの母は息子とその友にもイギリス国王の行列を見に
いくよう強く促したのだが、アメリカ少年二人は頑として応じなかった。三人はその
後、首都ワシントンを見学し、さらに南下してフロリダを訪れた。
104 :
古森義久:02/02/17 00:15 ID:aUhL2B+P
帰途はニューオーリンズでフレンチクオーター(*)を見物、テキサスを経て、ロスア
ンゼルスやサンフランシスコではベニー・グッドマン(*)やライオネル・ハンプトン
の演奏に耳を傾ける、という大旅行となった。
運転は3人で交代した。時速は平均60マイル(96キロ)前後だったというから、か
なりのスピードだった。だがそれでも全日程には2カ月をかけたという。
「全人生でも最高のファンタスティックな旅だった。アメリカという国の偉大さを自
分の目で学んだ点では最大の教育だったね。自分たちの車で自由に動くことで初めて
得られた体験でもあった。それ以降、私にとって車は絶対に欠かせない生活の一部と
なった。まじめな話、もし自動車がなかったらアメリカ合衆国はひとつにまとまらな
かっただろうし、自動車の発達自体、20世紀最大の人類の偉業のひとつだと私は思
うね」
エリックはこう語るが、彼の両親が1930年代に持っていた多様な車の名を聞くと、
この時期のアメリカではすでに人々は自分の生活様式や好みや収入、地位にあわせて
多種多様な車を求めるようになっていたことがわかる。だれもが必需品として同種同
機能の車を買うというT型の黄金時代は終わっていたのだ。
《「富」の反映》 1920年代の終わりにはアメリカの自動車所有者は2千万を超
えていた。自分の車を買うことはもう特別のことではなく、一生に一度の大事業でも
なくなっていた。国民全体が豊かになると、車を自分の個性や地位、富の反映とみな
す人が増えてきた。車は他の人と同じ移動手段ではなく、人間としての表現の手段に
もなってきたわけだ。
その結果、フォード社以外のメーカーは次第に豪華、高性能、優雅という特徴を強調
する車をつくり、高所得層に売ろうとするようになった。その極端な例はコード社の
社長エレット・コードが自ら開発したレースカーふうの快速乗用車デュセンバーグで
ある。J型デュセンバーグは1930年に1万4千ドルという当時とすれば天文学的
な価格で俳優のゲーリー・クーパーが買い、話題を呼んだ。
アメリカ人のこうした車への態度の変化を製造や販売に最も体系的に採用して、大成
功したのがGM社長のアルフレッド・スローン(*)だった。1923年にGMの社長
となったスローンは時間をかけて、ヘンリー・フォードの哲学とは対照的な「総合的
で体系的な経営管理制度」を導入し、事業部制を確立した。
そのうえで「消費者の財布の大きさに応じた、あらゆる車の提供」を目指した。最高
級車はキャデラック、上級車はビュイック、中級車はオールズモビル、ポンティアッ
ク、大衆車がシボレー、というわけである。
フォードはまず車を生産し、その結果、市場を創出したのに対し、スローンは市場を
調べてから生産にとりかかった。スローンはさらに車の買い替えを推進する革命的な
マーケティングを打ち上げた。同じ車種でも毎年、デザインや技術、性能に少しずつ
微妙な変化を加え、既存の車はすでに時代遅れという印象をつくり出す。
105 :
古森義久:02/02/17 00:19 ID:aUhL2B+P
魅力ある新製品を買うことは社会での自分の進歩であり、向上であるという一種の幻
想をつくり出す。こうしたアピールは当然、新車の売り上げ増につながる。
《計画的退化》 この概念は「計画的退化」と呼ばれた。消費者に既得の製品がもう
退化してしまったように思わせるマーケティング手法である。その手法は、巧みな広
告が前提となる。GMのスローン社長が先頭に立って進めたこの方法は自動車だけで
なく、洗濯機から芝刈り機まで他の工業製品の販売にも採用され、大量消費をあおり
にあおった。車はここでも人の行動パターンを変えていったのである。
■豆事典
◇トミー・ドーシー(1905−56年) アメリカのジャズ奏者、指揮者でもある。兄のジ
ミー・ドーシーとともに1934年、ドーシー・ブラザーズ・オーケストラを結成。翌35
年には独立して自分の楽団をつくり、歌手にフランク・シナトラを迎えた。
◇フレンチクオーター ニューオーリンズの中心の繁華街。バーボン・ストリートを
中心にジャズなどのライブハウスやレストランが並ぶ。18世紀前半にフランス人が入
植したが、当時の建物は大火で焼失、現存する建物の多くは18世紀末にニューオーリ
ンズを支配していたスペイン人によって建てられた。
◇ベニー・グッドマン(1909−86年) アメリカのジャズ・クラリネット奏者。1935年
に自己のバンドを結成し、「スイングの王様」と呼ばれた。38年にはニューヨークの
カーネギー・ホールで初めてジャズコンサートを開いた。
◇ライオネル・ハンプトン(1915年− ) アメリカのジャズ奏者。ビブラフォーンを
ジャズの楽器として定着させたほかドラマー、歌手としても活躍。ベニー・グッドマ
ンのコンボの一員として人気スターとなり、後に自らのバンドでも活躍した。
◇アルフレッド・スローン(1875−1966年) ユナイテッド・モーターズ社の社長を経
て、同社がゼネラル・モーターズ(GM)に吸収された際にGMの副社長に就任。23年
には社長となり、フォードを抜いてGMを世界最大の自動車会社に育てた。46年から
GM会長。37年に設立したスローン財団は大学や研究機関に多額の寄付を行ってきた。
株価も安いし、薬価も下がったし、
来期は大変だね。ゾロ諸君!
107 :
卵の名無しさん:02/02/20 08:04 ID:9ZFkq7EJ
>>106 その前にマトモな給料を出して欲しい...
バイトしながらのMRってのはつらいものがあるよ
こんな会社のMRをなぜやってるのか不思議だ。
同族糞ゾロ会社のMRに未来はないように思うけど。。。
>>108 >同族糞ゾロ会社のMRに未来はないように思うけど。。。
御意
外資でも雇ってはもらえそうだが、ぬるま湯に
つかっていると飛び出すタイミングが難しいんだよ。
112 :
卵の名無しさん:02/02/21 16:03 ID:cOeMgp2s
>110
ぬるま湯というよりも 安売りのゴキブリ商法に慣れたゾロMRは
外資では通用しないかも
トラバーユするなら35歳まで
安売りは頭がいらんから楽すぎる。
給料が安くても我慢するか。
社長、土日のゴルフもいいけど、土日はアルバイトうを
やってる社員のことも頭に入れておいて下さい。
広告にまわすお金があれば給料上げてくださいヨ。
115 :
一流病院:02/02/23 18:25 ID:2yfOriOO
うちでは糞ゾロのMRが来たら 水をかけて追い出すように職員に指導してます
ゾロメーカーでもやはりMRというんか?
ゾロにMRはいらんだろ
とにかく給料が安すぎる
某営業所のMR 土日にコンビニの店員のバイトやってる奴いると聞いたが
そいつはけっこうな年齢
>>115 >うちでは糞ゾロのMRが来たら 水をかけて追い出すように職員に指導してます
ありがとうございます。
おかげでこちらは助かっています。
やはりジェネリックと呼べるのは沢井だけです。
119 :
古森義久:02/02/24 13:06 ID:CGq8q6mA
■車が人を変えた−21 戦争と自動車
爆撃機1機を63分でつくった
車は戦争をも変えた。戦闘する軍隊に自動車がある戦争と、ない戦争との違いは、想像しただけでも明白である。また、同時に自動車産業は戦争では最大の軍事産業に変
身した。自動車産業のその機能が戦争の勝敗さえも左右した。
ごく人間くさいレベルでの車と戦争とのつながりの認識といえば、シンボルはジープ
かもしれない。少なくとも私は車と戦争というテーマから真っ先にジープを連想した。
ジープといえば私の年代から上の日本人ならおそらくだれでもアメリカ軍、占領、進駐、そしてその由来となる戦争へとつながるなんらかの記憶があるだろう。
《緑のジープ》 私の記憶でいえば、小学校6年のころ、引っ越したばかりの渋谷区代々木の家の近くに毎夕止められていたジープである。1952年(昭和27年)だった
から連合軍の日本占領は終わっていたが、米軍の駐留将兵はまだ多かった。とくに私
の家の近くにはワシントン・ハイツという米軍将校住宅があり、アメリカ軍関係者の
姿は珍しくなかった。そんなひとりが近所のたばこ屋の2階に間借りして住む日本女
性を絶えず訪れていた。その際に濃い緑色のジープを路上に駐車していたのだ。
当時の私にとっては、毎日、いやでも目につくジープは、米軍という存在の強大なパ
ワーや、狭い子供の世界の外にある現実の迫力を感じさせるシンボルだった。そして
その場所でのジープの存在は日本とアメリカの間に戦争があり、アメリカがその戦争
に勝ったことの帰結なのだ、という認識を幼い私に明確に与えていた。
実際の戦争でのジープとしては、それから20数年後に南ベトナム山地でみたジープ
が忘れがたい。1974年(昭和四49年)、戦争の続く南ベトナムで、私はひそかに北
ベトナム側に招かれ、中部のビンディン省の北側支配地区に潜入した。
北ベトナム、つまり革命勢力側が支配する村から村へ、戦士たちの案内で山間の悪路
を長時間、移動するときはみなアメリカ製のジープだった。たくましい兵士がポンコ
ツとしかみえないジープを手足のように巧みに運転し、南ベトナム軍の空爆がありそ
うな時間帯や場所を避けてジャングルを走りに走った。その性能のよさにはびっくり
した。米軍から南ベトナム軍に供与されたジープを北側が捕獲して、フルに利用して
いたのだ。
ベトナム戦争ではゲリラ戦法だけがもっぱら強調された北ベトナム軍側も実際には車
の持つ機動力に依存する度合いは計り知れなかった。サイゴン陥落の日に南ベトナム
大統領官邸に最初に突入して、とどめを刺したのはソ連製のT54戦車やPT76装甲車
だった。その後に続々とサイゴン市内に入城した数万の将兵もみな中国製やソ連製の
軍用トラックに乗っていた。
120 :
古森義久:02/02/24 13:06 ID:CGq8q6mA
《ルノー600台》 自動車が戦争で組織的に使われたのは第一次大戦が初めてだった。
この戦争では地上の機動力の主力はなお馬だったが、1914年9月、パリ近くのマ
ルヌの会戦(*)ではフランス軍がタクシーを緊急に動員して、将兵の輸送に使い、勝
利を得た。パリに迫るドイツ軍の精鋭に対し、フランス側は新たに防衛線を築き、阻
まねばならなかった。
フランス軍はパリのタクシー、ルノーを600台緊急に徴発し、6千人の歩兵をわず
か数時間でパリから投入して見事にドイツ軍撃退に成功した。この作戦は戦争での車
の威力を立証した最初の実例として軍事史にも特筆された。
第一次大戦では戦車や装甲車もごく一部の戦線とはいえ、登場していたが、第二次大
戦ではアメリカの自動車産業が決定的な役割を果たした。
アメリカにとってのこの大戦の勝利は自動車産業の軍事生産への貢献なしに、また自
動車の戦場での寄与なしにも、まず考えられなかったとい言える。
1941年12月、日本軍によるパール・ハーバー奇襲を受けて、アメリカがアジア
と欧州の両面で戦争に突入すると、自動車産業界は民間用の車の生産をすべて停止し
て、軍事生産へと切り替えたのだった。
1939年に欧州で大戦が始まると、アメリカ国内では自国の参戦もやがては不可避
とみて、軍事力増強への声が高まった。当時のアメリカは、陸軍兵力の規模では世界
第19位と、決して軍事大国ではなかった。フランクリン・ルーズベルト大統領は兵
器生産拡大のために生産管理局(OPM)を新設し、GM社長のウィリアム・ヌードセ
ン(*)を責任者に任命した。
《兵器製造》 自動車業界は当初、政府の軍事生産支援の要請には、あまり熱意をみ
せなかった。ひとつには当時の自動車産業は民間の需要の伸びでブームを迎えていた
からだ。さらに業界のドンのヘンリー・フォードがドイツへの親近感や反戦感情など
から難色を示していた。それとは対照的に、全米自動車労組(UAW)は議長のウォル
ター・ルーサーを先頭に政府への全面協力を叫んでいた。
だがアメリカがいったん参戦すると、自動車業界は、経営側も労組もものすごい団結
をみせ、戦争への全面協力を誓った。従来の車の生産をあっという間に全面ストップ
し、大量生産のメカニズムのすべてを兵器の製造に切り替えて、総力をそそぎこんだ。
GMがM5戦車の主要部品や高射砲の製造に着手し、フォードは新設のウィローラン
工場で、もっぱらB24爆撃機をつくり始めた。4万3千人が働くこの工場では爆撃機
機を63分で製造するところまで効率をあげ、終戦までに合計8500機を戦場へ送
り出した。クライスラーはシャーマン型戦車の製造に全力を投入した。
121 :
古森義久:02/02/24 14:05 ID:jKiuThRu
自動車企業はジープ、軍用トラック、装甲車、戦車から軍用機、爆弾、機関銃、長距
離砲、弾薬まで戦争に必要な兵器、機械類はなんでもつくった。生産施設を必要に応
じて軍事目的に改造し、奇跡と呼ばれるほどの効率をあげた。
自動車産業は結局、第二次大戦中の期間に、兵器590万基、戦車とトラックあわせ
て280万台、航空機2万7千機を製造し、デトロイトは「民主主義の兵器庫」と呼
ばれた。
アメリカ自動車産業はこの戦争期間に合計60万台の軍用ジープをつくって、各地の
米軍に調達した。悪路でも険路でも自由に動く四輪駆動の小さくて軽いこの車は、移
動にも輸送にも戦闘にも適すということで「総合目的の車」とされた。
その総合目的(general purpose)という言葉からジープという略称が
生まれたのだという。ジープは最初、中級の自動車メーカーのウイリーズ・オバーラ
ンド社がデザインして米軍当局に採用され、その後の生産ではフォード社から全面支
援を受けるようになった。そんな軍用ジープのほんの2台が私の人や世をみる認識に
大きな足跡を残したといえるのだった。
■豆事典
◇マルヌの会戦 第1次大戦開始直後の1914年9月5日から12日にかけてパリ盆地東
部を流れるマルヌ川をはさんでドイツ軍とフランス・イギリス連合軍が会戦。パリ進
攻を目指すドイツ軍は当初右翼大旋回による攻撃を計画していたが、シェリーフェン
元帥の「右翼を強化せよ」との遺言にそむいた参謀総長、小モルトケが右翼兵力を縮
小したため包囲力が弱まり、フランス軍の反撃を受けた。このため、ドイツ軍は撤退
を余儀なくされ、西部戦線はこう着状態に入った。また、ドイツの参謀総長はファル
ケンファインにかわった。
◇ウィリアム・ヌードセン(1879−1948年) デンマーク出身、1899年にアメリカに渡
り、フォード社の社員からシボレー・モーターズ社長を経て、1933年にGM副社長に
就任、37年には社長となった。第2次大戦ではアメリカ政府の生産管理局長、国防省
生産局長などをつとめた。彼の息子、シモン・ヌードセンは1968年、GM副社長から
フォード社の社長に引き抜かれたが、わずか1年半で会長のフォード2世によって解
任され、話題になった。
122 :
卵の名無しさん:02/02/24 23:14 ID:wazIV2ii
名門のスレッドはなんと2つあるみたいだ!
>>122 お陰で荒らしも忙しいニダ。
ゴルフも行かにゃならんし。。。。
124 :
古森義久:02/02/25 07:16 ID:J0flIH67
■車が人を変えた−22 栄枯盛衰
日本の小型車が消費者をつかんだ
「自動車の都」とされたデトロイトを初めて訪れたときの印象は強烈だった。街が衰
えていることが一目でわかったのだ。1980年(昭和55年)7月のことである。
中心街にさえ空っぽになった由緒ありげな古いビルがあった。10数階のビル全体が
骨格はしっかりとしたまま廃屋のようになっている。しかもひとだけではない。五大
湖につながるデトロイト川沿いの波止場はもっと荒れはてていた。窓ガラスの割れた
倉庫が、がらんとしたまま並んでいる。古い貨物用の鉄道線路が赤茶けたサビをあら
わにしている。サビついたクレーン車が水際に放棄されている。私のデトロイトの記
憶にはいつもこの赤茶けたサビの色がつきまとう。
戦前からずっと、戦後に入てからも、30年近く「自動車の都」として活力をみなぎ
らせたデトロイトは1980年、栄枯盛衰のまさに「枯」と「衰」の極にあった。
《険悪な空気》 この時(1980年)、私は共和党全国大会の報道のためにデトロイトを
訪れていた。その年の大統領選挙に、共和党はこの大会でロナルド・レーガン(*)と
ジョージ・ブッシュ(*)を正副大統領候補に指名した。同時にこの1980年という
のは日米両国間で自動車をめぐる摩擦が最も険悪になりつつある時期だった。アメリ
カ市場で日本車が売れ行きをはてしなく伸ばし、アメリカ車を圧倒していたのだ。
ビッグ3にとっても、おそらくこの年は最悪だっただろう。クライスラーは80年の
1年間に17億ドル近くの赤字を出していた。フォードは同様に年間15億ドルの損
失だった。傷の浅いGMでさえ7億ドル以上の赤字だった。経営悪化は当然、大量の
失業を生み、労働者の間の日本に対する怒りを激しくする。
こうした損失と激怒の中心がデトロイトだった。だから私も「デトロイトで日本人が
日本車を運転して、派手に動き回ることだけはやめろ」という警告をさんざん聞いて
いた。実際にこの時期、デトロイトを中心に自動車産業が広がる中西部では、交差点
で止まった日本人の車が投石を受けたり、バーで日本人と間違えられた中国系米人が
失業した自動車労働者にバットで殴られて殺されたり、という事件が起きていた。
私もデトロイトではあまり動き回らなかった。だが共和党大会の会場前で人だかりが
しているので立ち止まると、ジャパンとかジャパニーズという言葉がすぐ耳に飛びこ
んできた。
「私たちの失業はメイド・イン・ジャパンのせいなのです。日本の車の洪水のような
輸出攻勢でアメリカ市場が乗っ取られている。そもそも日本人は自動車製造のテクノ
ロジーをだれから学んだのか。アメリカ以外にだれから学べたというのか!」中年の
白人男性がビラを手に叫んでいた。明らかに職を失った自動車労働者である。共和党
大会に集まった報道陣に日本車輸入規制を訴えているのだった。
125 :
古森義久:02/02/25 07:17 ID:J0flIH67
自動車はこの時期、アメリカ人の日本人をみる視線を変えていった。だが同時にア
メリカ人が自身をみつめる目をも間違いなく変えていた。車をめぐる新たな潮流は日
米両国の関係を変質させただけでなく、アメリカの社会を変え日本人が自分自身や自
国をみる目をも変えていったのである。
《「冬の時代」》 だがアメリカ自動車業界はこの冬の時代を迎えるまでに光り輝く
黄金の時代を経験していた。その落差が衰退の痛みをさらに激しくした。自動車業界
にとって戦時中の軍事生産は戦後の飛躍の基盤となった。兵器生産は政府から巨額な
補助金を受け、利益を保証された。生産施設の拡大も後の大きなプラスとなった。
ドイツと日本を破ったアメリカは自由主義陣営の至高のチャンピオンとして戦後世界
の主導権を握った。経済面でも絶対の王者だった。国内は戦場から帰った1千万もの
若い男女を迎えて消費ブームにわいた。戦後の新生活を築くアメリカ人には車は必需
品となった。
自動車業界は軍事生産用の施設の再編成を緊急に終え、新モデルを続々と作り、ふく
れあがる需要に応じた。新車の販売は毎年、倍増に近く、1949年には480万
台と、戦前の最高を100万台近く上回った。55年には年間販売は720万台に達
する。車の総数も45年に2600万台だったのが55年には5200万台となった。
車は冷戦でのイデオロギーの象徴ともなった。共産主義の独裁に対し、個人の自由や
権利を表現するのが自分自身の車だというわけだった。車のデザインも活力や富の力
を象徴し、巨大で強壮で派手なイメージの追求となっていった。1950年代のそん
な志向に登場したのがキャデラック・エルドラド、サンダーバード、シボレー・ベル
エアなどという豪華で大型の車である。
《日米の衝突》 アメリカ自動車産業は50年代から60年代にかけ、歴史にも希な
成功と繁栄を享受する。この時代は「大きいことはよいこと」だった。乗用車といえ
ば大型車を意味した。そんな価値観の反映となったのが巨大なテール・フィン(尾ヒ
レ)だった。車体の後部の本来、尾灯取りつけの部分を魚のヒレのように大きく跳ね
上げる装飾である。GMの技師がP38戦闘機のスタイルからヒントを得たというこの
テール・フィンは多くの車種につけられた。傲然と翼を広げた巨鳥のようなその姿は
当時のアメリカ自動車業界の自負と誇りをそのまま表していた。
しかし、そうした誇りも自負も価値観も、まず1973年の石油危機で大きく揺さぶ
られ、やがては崩されていった。アメリカでもガソリンが不足し、高騰した。ガソリ
ン1ガロン(3・8リットル)で10数キロしか走らない大型車の効用が問われた。
ちょうど車の排ガスや安全性欠陥がラルフ・ネーダーに代表される消費者の側から追
及されていた。作れば売れるという状態に慣れた自動車業界は消費者への配慮を欠く
ようになっていたのだ。
126 :
古森義久:02/02/25 07:30 ID:kKi8NYX8
燃料効率がよく安くて良質な日本の小型車は当然、人気を集め出した。日本の自動車
の対米輸出は日産とトヨタにより1950年代に始まったが、一度挫折して、60年
代後半からまた本格化していた。日本のメーカーは国内の激しい競争で質を向上させ
た高性能の小型車をアメリカでも綿密な市場調査で消費者のニーズをつかみ、売り広
げていった。80年にはアメリカで売れる新車の4台に1台は日本車となった。
日本車の魅力はアメリカ側に数々の反省を強いた。「メード・イン・ジャパン」は安
っぽくすぐ壊れる不良品の代名詞ではなくなった。日本車の質と効率はアメリカの日
本人イメージや日本観さえ変えたといえる。だがその一方、自動車戦争とまで評され
た両国の車をめぐる衝突で払われた政治コストも大きかった。
■豆事典
◇ロナルド・レーガン(1911年− ) アメリカ合衆国の第40代大統領、スポーツアナ
ウンサーを経てハリウッドで映画俳優となり、西部劇などに出演した。俳優組合委員
長としても活躍した。1964年の大統領選で共和党のゴールドウオーター候補の応援演
説を行って保守主義の旗手として知られるようになり、66年、カリフォルニア州知事
に当選した。80年には共和党から大統領選に立候補したが、民主党のカーター大統領
を破って当選、81年から89年まで2期8年にわたってアメリカ大統領をつとめ、冷戦
を勝利に導いた。
◇ジョージ・ブッシュ(1924年− ) アメリカ合衆国の第41代大統領である。国連大
使、CIA長官などを経て、1981年から89年までレーガン政権の副大統領、88年の大
統領選に共和党から立候補して当選し、冷戦終結を見届けたアメリカ大統領となった。
92年の大統領選では再選を目指したが、民主党のクリントン候補に敗れた。
>>123 >お陰で荒らしも忙しいニダ。
>ゴルフも行かにゃならんし。。。。
古森さん、社長と同伴ですか
128 :
卵の名無しさん:02/02/25 22:11 ID:kz3R8x9N
129 :
古森義久:02/02/25 22:21 ID:3eiyY1iQ
■車が人を変えた−23 アメリカの復活
日本車の攻勢を「雄牛」がはね返した
私は1989年(平成元年)、再びワシントン駐在の特派員となったとき、フォードの
トーラスを買った。アメリカ車はマスタングでこりたはずなのに、あえてそうしたの
はそれなりの理由があった。
1982年にワシントンから東京へもどったあと、マスタングの故障で苦労を重ねた
せいか、車への関心は薄れていた。だが自分の車は必要だった。故障しないで確実に
動いてくれる車であればなんでもよい、という心境だった。
自動車にくわしい友人に相談した結果、トヨタのスプリンターという小型車を中古で
買った。走行距離3万キロ以上、値段は20万円という安さ、あまり特徴のない白い
車である。だがこの車が期待を超える当たりだった。とにかく以後の4年以上、ただ
の1度も故障しなかったのだ。
私は東京では政治部に配属され、首相官邸や外務省、防衛庁に通った。そんな取材先
の近くに、うまく駐車場所をみつけ、自分の車で通勤することもあった。新聞社の車
はもちろん使えたが、当時の安倍晋太郎外相(*)の渋谷区富ケ谷の自宅へ夜回り取材
に自分で中古スプリンターを運転して出かけるようなことは何回もあった。
友人と関西や東北へ長距離のドライブもしたが、中古車はふしぎなほど異常をみせな
かった。欠陥マスタングと何年も苦闘した私には、自動車というものが壊れないで確
実に動くということ自体が、なにかひどく幸運な特権にさえ思えた。アメリカで日本
車がなぜ売れるかが改めてわかった気もした。ただし、私の年代の人間がこの種の安
価な中古車を運転することは明らかにファッショナブルではなかった。
そのころ売り出し中の若手女性作家にベトナム戦争の体験を取材され、青山で話をし
たあと、近くに住む彼女を車で送ったら「古森さん、なんでこんな車に乗ってるんで
すか」と、いかにもふしぎそうに問われたものだった。
《購入の要件》 1987年にはロンドン駐在となった。無事に任務を終えてくれた
スプリンターは友人に贈った。ロンドンではあれこれ調べた末にオライオンという小
型車を買った。フォードのイギリス工場で製造された車である。新車だが、日本車よ
りずっと安かった。
この地味な白い車は2年ほどの間、十分に需要を満たしてくれた。ロンドン内外の煩
雑な運転はもちろん、スコットランドやウェールズまで遠乗りしても故障はほとんど
なかったからだ。
130 :
卵の名無しさん:02/02/25 22:44 ID:YCrm2Awi
これが有名なサワイ関係者という噂の荒らしか.
俺の会社でもこの荒らしは話題になっとるで.
ゾロってほんまに嫌やね.
131 :
古森義久:02/02/25 22:45 ID:8tAyV4fM
ワシントンでトーラスを買ったのは、ひとつにはオライオンのせいだったといえる。
欧州の工場とはいえフォードも信頼できる車をつくるようになったと実感した。だが
より大きな理由は、トーラスがアメリカの「消費者リポート」など一連の車の調査で
非常に高い評価を得ていることだった。私もいつしか消費者用の種々の調査に目を通
し、車の選択をするというふうに成熟していたのだ。
今回は、年老いた親や親類を乗せるという要件も考え、最初から中型車を求めた。消
費者リポートでは日産のマキシマ、トヨタのカムリがトーラス同様に高く評価されて
いたが、トーラスがフォード社を救った話題の車ということもあり、あえてトーラス
に決めた。価格は1万6千ドル、くすんだ赤という地味な色を選んだ。
《衰から盛へ》 雄牛という意味の名のトーラスはアメリカ自動車業界の日本への反
撃の象徴だった。日本車に押されて不況一方のビッグ3は、生産の合理化、車の小型
化、スタイル改善、ガソリン消費節約、品質管理の徹底など日本の方式もどんどん採
用し、アメリカのベビーブーム世代中心の消費者の好みを考えて車づくりに努めた。
小型車ではベガとかピントという車種がつくられたが、失敗だった。
そんななかでフォードが社運をかけて1980年から開発に着手し、総額30億ドル
も費やして85年に世に出したのがトーラスだった。そのへんの経緯はメリー・ワル
トン著「カー(自動車)」という書に詳しい。
この車はヨーロッパふうの柔らかいカーブの車体、高い燃料効率、切れのよいハンド
ル、ゆとりのある車内空間などで爆発的といえるほどの人気を呼んだ。92年にはホ
ンダのアコードを抜いて40万台以上を売り、全米1位の売れ行きの乗用車となった。
その結果、フォードも経営をすっかり立て直した。私のトーラスも以前のマスタング
とは異なり、壊れることは少なく、私のアメリカ車観を変えることともなった。アメ
リカ自動車業界も90年代には活力と創意を復活させていった。
この業界にはそもそも自分たちこそ最もアメリカ的な部分を背負って立っているのだ
という誇りがあった。アメリカの精神や心を体現したのが自動車産業だという自負が
あった。それがすべて日本車の攻勢に踏みにじられていたのだから、復活の意味は大
きかった。私は期せずして自分の車の選択により、アメリカ自動車業界の盛衰の衰か
ら盛へのサイクルをなぞる形となったのだった。
132 :
古森義久:02/02/25 22:48 ID:8tAyV4fM
《人間の道具》 さて、これまで自分の自動車史とアメリカの自動車史とをすりあわ
せながら、車が人間の生活や行動をいかに変えるかをみてきた。私自身の体験報告で
は車の持つプラスの側面のみを強調しすぎたきらいもあるだろう。自動車にはもちろ
ん大気汚染、環境破壊、人間殺傷などマイナスの側面もある。1960年から90年
までの間に世界の人口は2倍の増加に留まったのに自動車は4倍にも増えた。このま
まだと、車が人を引きずり回すような倒錯も激しくなりかねない。
大学時代に友人のS・Oが車にガールフレンドを乗せて事故を起こし、その後、人間
が変わったようになったことも忘れがたい。本人は腰を傷つけ、それまでラグビーの
花形選手だったのが、競技をやめ、沈みがちの青年になってしまった。同乗の女性が
後遺症の残る重傷を負ったことへの責任を痛感した末だった。車が一瞬にして人を悲
劇にたたきこむ例証である。
アメリカでの特派員の取材活動でも車の効用は個人次第によるところが大きい。大手
通信社で在米特派員を通算3回、10年以上も務めながら、車の運転は1度もしなくても立派に勤務を果たし、編集局長にまでなった人もいるからだ。
車を自分で運転しなくても、職業活動はもちろんのこと私生活も充実させることはで
きるのだ。逆に日本の新聞社の海外特派員でも他の日本企業の在外駐在員でも、自動
車の事故を起こしたり、巻きこまれたりして悲惨な目にあったケースも少なくない。
それでも私自身の場合、率直にいって車を自由に運転できてよかったと思う。事故に
あわなかったのは単なる幸運だとしても、車の機動性がもたらす生活への付加価値は
どうにも否定できないからだ。自動車の効用を考えるにしても、危険や害毒を考える
にしても、しょせんは人間がつくり出した、人間のための道具だと思えば、使いこな
せないはずはないと感じるのである。
133 :
卵の名無しさん:02/02/25 23:06 ID:N6WPvTOE
>130
こんなこと話題にするなんてのんびりした会社だね(^^)。
それにしても、この会社の社長の写真を時々見るけど極悪人相と思いませんか?
135 :
卵の名無しさん:02/02/26 22:31 ID:sE/s95Bi
工場建てる金があるなら給料上げろ ボケ
136 :
卵の名無しさん:02/02/26 22:49 ID:jnKB1iMS
俺が分からないのは35歳以下でMRの資格持ってて糞ゾロ薬品会社で
働いている奴だ。なんで、安い給料で病院でバカにされるゾロ会社で働く
のだろう? 謎だ。
外資、大手でもMRは募集中なのに なぜ?
年とるとだんだん転職は難しくなるぜ
137 :
古森義久:02/02/27 04:01 ID:kzyh5Nsi
■サイゴン陥落−01 勝者の入城
北の装備は強大で近代的だった
1975年4月30日という日は忘れられない。サイゴン(*)が陥落し、ベトナム戦
争が終わった日だからだ。というよりも自分自身があの日、南ベトナムの首都サイゴ
ンにいて、いやというほど目撃したベトナム戦争の終結の歴史的光景が忘れられない
のである。
毎年、4月30日になるとあの日の情景をことさら思いだす。あの日に終わったベト
ナム戦争とはなんだったのかと、また改めて考える。20世紀の激動の歴史のなかで
もベトナム戦争は間違いなく主要な出来事だった。その終幕から四半世紀近くが過ぎ
た今、あの戦争をどう意味づけるのか。その終幕のサイゴン陥落とは何だったのか?
《歴史の明暗》 戦争の解釈や記録は、当然ながら戦争のどこに光をあてるかでまる
で内容が異なってくる。戦いの帰結には必ず勝者と敗者という立場の相反する二種類
の当事者が存在する。そのどちらにより多くの光をあてるかで、描かれるドラマは明
とも暗ともなる。心弾む勝利の叙事詩とも、重く沈む悲劇ともなる。伝え手も受け手
も時間がたてばたつほど、どちらか一方の型に押しこめてみたくなる。
まして戦った両者を善と悪とで区分してしまえば、その型の押しつけはもっと極端に
なる。型にはまらない事実はいつしか切り捨てられ、忘れ去られる。ベトナムでの戦
争を後世に残す記録や解釈にも、時の経過とともに、そんな“単純化のゆがみ”が影
を広げてきたようにみえる。他の戦争の例からも明白なように、戦った一方が絶対の
悪で、他方が絶対の善である、などというはずがない。
そもそもベトナム戦争の日本での報道には、最初から大きな偏向があった。政治的な
先入観から生じた虚構の神話や伝説が大手をふって歩いていた。それらは現実の重み
の前に何度も砕かれ、正されても、また水が低きに流れるように、よみがえろうとす
る。現に一部はよみがえり、正史として定着しそうでもある。歳月がたつと、虚構と
現実の区分もなおさらぼやけやすくなるから、その危険はまた一段と高くなる。
そんなことを懸念するうちに、サイゴン陥落で終わるベトナムでの戦争をどうしても
再訪してみたくなった。あの戦争の変転から終結までを現地に住み、じっくりとみた
日本人の数が少なくなってきたことも、再訪や再考の作業への意欲を駆り立てる動因
となった。
《陥落の朝》 陥落した日のサイゴンの街は朝から陰気な雨にぬれていた。ラジオか
ら南ベトナムの最後の大統領ズオン・バン・ミンの重苦しい声が流れたのは午前十時
すぎだった。「ベトナム共和国軍すべての将兵に一切の戦闘行為を停止し、現地点に
留まることを命令する。革命政府側にも全ての攻撃をやめることを要求する。私たち
は今、政府の実権移譲を討議するため革命政府代表との会見を待っています…」
>>136 >安い給料で病院でバカにされるゾロ会社で働くのだろう?
馬鹿だから給料の安い糞ゾロ会社で働く以外に道はないんだよ。
ほっといてくれよ。でも仕事はMSみたいなもんだから楽だよ、
頭はいらんわ。
139 :
古森義久:02/02/27 07:31 ID:cMrgw6xO
私はこの声明を南ベトナム政府の全面降伏と解釈し、テレックスで東京あてにそう速
報した。だが肝心の革命側、つまり北ベトナム側はこれを降伏とは受け取らず、停戦
の呼びかけとみて断固拒否した。そして全軍になお進撃の継続を命じていたのだった。
その2時間後、北ベトナム人民軍の戦車がサイゴンの大統領官邸になだれこみ、ミン
大統領を捕虜にして放送局に連行した。そこで、北側が作った降伏声明を読み上げさ
せ、初めて南ベトナム、つまりベトナム共和国の降伏を認めたのだった。しかし、私
はミン大統領の最初の声明を聞いてすぐ、組織的な戦闘は終わったと判断し、街を走
り回った。
サイゴン東方からは数千人もの南ベトナム軍将兵が戦車、装甲車、ジープ、あるいは
徒歩で、傷ついた足を引きずるような乱れた隊形で敗走してきた。そのあと時計が止
まったような緊迫がしばらく流れてから、北ベトナム軍の大部隊が四方八方から市内
へとなだれこんできた。
今、思えば私も無謀だった。戦闘は公式には終わったとはいえど、各所で衝突はなお
残り、実際に銃声や砲声は絶えてはいなかった。だから危険も高かったはずだ。だが
気にはならなかった。ベトナム戦争の終わりを見逃してなるものかという高揚がすべ
てを忘れさせたのだろう。
《10万人部隊》 私が最初にみた北ベトナム軍は、疾走するソ連製の軍用トラックに
乗った草色の制服とヘルメットの将兵20人ほどだった。彼らは皆、しっかりと銃を
抱え、どんな動きにでも即応できるような鋭い眼光と容ぼうだった。陽光に焼きつく
された肌、戦闘に無用なぜい肉は全てそぎ落としたような細身の体つきである。みな
いかにも歴戦の勇士らしく、若者というよりは壮年の古参将兵らしい姿が目立った。
南ベトナム国防省が北軍に占拠される瞬間も目撃した。カムフラージュの木の枝を車
体につけたままの草色のトラックが数台、国防省前に急停車すると、兵士たちが機敏
に降り立ち、構内に音も立てず、躍りこむ。AK47ライフル(注2)や軽機関銃を腰だ
めにして中庭にすばやく散開し、建物に向けて銃座を据える。将校らしい指揮官が内
部に声をかける。かたずをのむ瞬間が過ぎ、南ベトナム軍の将校が白い小旗を掲げて
姿を現す。北軍の指揮官がピストルを突きつける。
こんな光景に至近から私がカメラを向けても北軍将兵はちらりと視線を投げただけ
で、あとは無視だった。清潔でスマートな軍服の敗者が汗と泥にまみれたやぼったい
制服の勝者たちに恭順の意を表し、勝者の代表がするすると屋上に駆けあがる。南ベ
トナム国旗を革命旗に替えて掲げ、国防省占拠という歴史的なドラマはあっけないほ
ど短時間で幕を閉じた。
この日の午後から夜にかけて、サイゴン地区には10万人を超える大部隊が入城して
きた。みな北ベトナム、つまりベトナム民主共和国の人民軍正規軍部隊である。
140 :
古森義久:02/02/27 07:32 ID:cMrgw6xO
北ベトナムはサイゴン攻略の「ホーチミン作戦」では、バン・チエン・ズン参謀総長
指揮下、なんと正規軍15個師団を投入し、敵の首都に向けて突撃させたが、南側は
これに対し首都防衛は5個師団弱にすぎず、またたく間に撃破されていった。
私は市内に入ってきた北軍部隊のあまりに巨大な規模と、あまりに強大な装備に圧倒
されつくした。周囲を威圧するソ連製のT54戦車(*)、巨大な130ミリ砲、機動性
に満ちた感じのPT76水陸両用軽戦車(*)、「第一汽車製造廠」などという中国語が車
体に書かれたトラック部隊、ロケット砲部隊…。近代装備の大戦力なのである。
「ベトナム戦争では南ベトナム独自の少数の解放戦線ゲリラが神出鬼没のゲリラ戦で
アメリカの大軍を打ち破った」という神話とはあまりに異なる現実を目前にさんざん
みたのだった。
■豆事典
◇サイゴン 中国語の西貢がベトナム語化した。クメール人の勢力圏だったが、中国
南部から南下を開始したベトナム人が1689年に進出。その後清朝から逃れた中国人が
多数移住し、ショロンなどの中国人街をつくった。フランス軍がサイゴン周辺部を占
領、阮王朝から1862年に割譲を受けて湿地に排水工事を行い、鉄道やゴム輸出港を作
るなど植民地経営の根拠地とした。フランス風の街路から「東洋のパリ」と呼ばれた。
人口は第2次大戦前に50万人だったが、ベトナム戦争末期には地方からの難民の集中
で350万人に達した。ベトナム戦争の最後に陥落し、76年ホーチミン市と改称された。
◇AK47ライフル 第2次大戦中にドイツが開発した歩兵用「突撃銃」を旧ソ連のミ
ハイル・カラシニコフが改良し、ソ連軍が1947年にAK47として制式採用した。AK
はロシア語の「自動小銃カラシニコフ」の頭文字である。小銃小口径(7.62ミリ)の弾
を使い、単射・連射の切り替えが可能な設計は西側各国も追随し、戦後の歩兵銃のモ
デルとなった。構造は単純で故障が少ないことから、ゲリラ戦でも多用された。また
プレス加工部品が多く生産が容易なため、ほとんどの東側諸国で生産され、改良型も
加えると、これまでに約2000万丁が作られた。ベトナムでは中国製の56式がもっとも
多く使われた。
◇T54戦車 大口径の100ミリ砲を装備、正面の装甲は厚さ100ミリにも達するソ連の
主力戦車。72年の攻勢で初めて17度線を越え、南ベトナム軍の米国製戦車と激戦を交
えた。改良型のT55、中国がコピー生産した59式も広く使われた。
◇PT76水陸両用軽戦車 北ベトナム軍が戦場投入した最初のソ連製戦車。武装・装
甲ともに米軍の主力戦車には劣ったが、ゲリラ戦主体だった北ベトナム軍が正規戦に
乗り出す契機を作った。同じ形式で中国製の63式水陸両用軽戦車も広く使用された。
配当上げる前に社員の給料上げたれや!
配当上げて喜ぶのは同族だけ。
なんで配当上げるねん?
バイトしないと生活できない社員のことちょっとは考えろ!
143 :
古森義久:02/03/01 17:51 ID:fTgJcovm
■ サイゴン陥落−02 最後の大統領
共産主義は第三勢力も切り捨てた
南ベトナム最後の大統領となったズオン・バン・ミン将軍の趣味はランの花を愛でる
ことだった。サイゴンの大統領官邸に近い自宅の庭で彼は色とりどりのランの花を育
て、咲かせていた。私もミン邸を訪れて政治や軍事の話を聞いたことが何回かあった
が、そう広くはない庭を埋めつくすランの花の華麗さに目を奪われた。そんな花を背
景に彼はいつものんびりと、ゆったりと話すのだった。
ミン将軍はベトナム人には珍しい巨体のために「ビッグ・ミン」と呼ばれた。フラン
ス統治時代からの軍人一筋だったが、生粋の南ベトナム出身の仏教徒で、温和な人柄
と地味な生活ぶりで広い人気があった。1963年には独裁者ゴ・ジン・ジェム大統
領(*)を倒すクーデターの中心となり、アメリカの支援も得て、南ベトナムの国家元
首にまでなった。だがその後の将軍たちの権謀術策に敗れ、タイに亡命した。
《2日前就任》 ミン将軍は、68年に帰国を認められてからは、当時のグエン・バ
ン・チュー(*)政権に対して穏健な反対派となり、仏教徒のアンクアン寺派(*)や反政
府学生組織からも支持されていた。とくに七三年のパリ和平協定成立後はチュー政権
と革命勢力の間に立つ第三勢力の指導者として民族和解を唱えてきた。
そのミン将軍が南ベトナム大統領に正式に就任したのはサイゴン陥落のほんの2日前
の75年4月28日だった。北ベトナム側はすでにサイゴンへの怒濤のような最後の
総攻撃を始めてはいたが、なおパリ協定に従い、南側の第三勢力となら民族和解のた
めに停戦交渉に応じてもよいという姿勢をちらつかせていた。ミン政権はそのかすか
なともしびへのかけだったのだ。
ミン新大統領の就任式は「独立宮殿」と呼ばれる大統領官邸の大ホールで開かれ、仏
教徒のブー・バン・マウ上院議員、カトリック系のグエン・バン・フエン前上院議長、
弁護士のチャン・バン・チュエン下院議員という第三勢力の顔ぶれが新閣僚として並
んだ。みな南ベトナムの体制内にありながらチュー政権に反発し、アメリカとも一線
を画してきた民族主義的な政治家たちだった。民衆には人気のある人たちである。
「民族和解の精神に基づき一刻も早く停戦を実現し、パリ協定の枠内で南ベトナムの
紛争の政治解決を交渉しなければならない」
ミン新大統領がゆっくりとした口調で演説した。ふだんなら護衛や補佐官でぎっしり
と人垣ができる大統領の周囲もいまは閑散としている。顔見知りの護衛官のトンが私
の顔をみて、素早く会釈した。柔道の練習を通じて親交のあったトンは前日も、国外
に脱出すべきかどうか私に相談にきたばかりだった。ミンの演説の最中、ざわざわと
周囲を掃くような音が響き出した。豪雨だった。演説は雨音に阻まれ、読経のように
聞こえた。
144 :
古森義久:02/03/01 18:00 ID:9NTY52NH
就任式の帰途、雨のあがったサイゴンの街を歩いていると、大地を揺さぶる爆発音が
とどろいた。一瞬、道路にうずくまってしまうほどの衝撃だった。周囲の人もバイク
もみな物陰へと飛びこむ。さく裂音が聞こえてくるのは明らかにタンソンニュット空
港の方向だった。やがて空港の方角の上空に黒雲がもくもくと広がった。南ベトナム
空軍のパイロットが寝返ってのA37攻撃機による爆撃だとすぐに伝えられた。
こんな状況でも私はまだ交渉解決の可能性は捨て切ってはいなかった。北ベトナム側
は一貫してパリ協定の民族和解交渉の規定の順守を誓っていた。それに北が宿敵とし
たチュー政権が退陣し、同政権を非難していたミンらが実権を握ったからだった。就
任式の直後、新政権の副首相になるというホー・バン・ミン下院議員が私のところに
寄ってきて「まだチャンスはあります」と白い歯をほころばせて告げたこともいくら
かは作用していた。彼は日ごろ交流のあった若手政治家だが、それまでの情勢分析で
は期待を裏切られたことがなかったのだ。
しかし、そのほんの40数時間後、私はミン政権の新閣僚たちが同じ大統領官邸内で
捕らわれの身となったのを目撃した。北ベトナム側はミン政権の交渉解決の求めをは
ねつけた。その理由のなかに「共産主義に反対する人物がいる」という一項があった。
思えば、この条件はベトナム戦争の本質を考えるうえで重要だった。革命側にとって
は相手がいくら反米でも反チューでも、共産主義に同調しない限りは軍事粉砕すると
いう基本姿勢の表れだったのだ。ただしこの条件は戦争の最終局面で初めて前面に出
された。
《2日前就任》 サイゴンが陥落した4月30日、私は北ベトナム軍が占拠した大統
領官邸の内部を思う存分に見ることができた。第一陣の戦車隊が突入してから一時間
もたたないころに官邸内に入り、自由に動き回ることができたのだ。北軍の将兵たち
は鉄の規律を保ち、外国報道陣の行動を絶対に妨げないという命令を厳守しているよ
うだった。
武装兵士が駆け回るなかをあちこちと歩くうち、二階の一角にオレンジ色のカーテン
を垂らした部屋が目についた。風でカーテンが揺らいだすき間から内部に十数人の私
服の男たちがいるのが見えた。四方の壁にそったイスに無言のまま座っている。なじ
みのある顔がみえた。ミン政権の閣僚たちだった。
みな身じろぎもせず、ある人はうつろな視線を宙に投げ、ある人は床を見つめ、ある
人は目を閉じ、重い沈黙のなかにある。敗者を絵にした光景である。明らかにみな降
伏した捕虜として拘束されていた。
《数奇な運命》 私がベトナム戦争を再考するとき、まず胸をふさがれるのは、この
種の南ベトナム第三勢力の人たちがたどった数奇な運命である。彼らはサイゴン政権
の腐敗や独裁を長年にわたり糾弾し、アメリカの横暴にも抗議し、民族の自立と和解
を唱えてきた。戦争の話合いによる解決を主張し、パリ和平協定を信じて、北ベトナ
ムや南ベトナム解放戦線との融和を模索してきた。
145 :
古森義久:02/03/01 19:09 ID:uwVU7R7z
だがやっと政権の座につき、積年の悲願を実現させられる立場に立ったとたん、その
よって立つ基盤のすべてを軍事粉砕されて捕虜となったのだった。
第三勢力は同じベトナムの民族の和解や自立を求めながらも、最後の土壇場で共産主
義に同調しないとして切り捨てられた。共産主義を闘争の基底に据える革命勢力に対
しては、しょせん第三の道は最初からなかったのである。ベトナム戦争のこうした側
面は「ベトナム人民がアメリカの侵略を撃退した」という特徴づけからはまず浮かん
でこない。この戦争にはアメリカとの戦いだけでなく、ベトナム民族同士のイデオロ
ギーを軸とする闘争という側面も確実に存在したのである。
戦後、ミン元大統領は十年近くサイゴンに軟禁された後、フランスへの出国を認めら
れた。チュエン元下院議員は革命側の再教育収容所で死んだ。私に笑顔をみせ、希望
を語ったホー・バン・ミンの消息はいまも不明である。
■豆事典
☆ゴ・ジン・ジェム(1901−1963年) グエン(阮)王朝に連なる名家の出身の政治家。
1933年にバオダイ帝の下で内相を務めたが、仏植民地統治当局と対立して辞任。大戦
後の45年、ベトナム独立同盟(ベトミン)の捕虜となり協力を要請されたものの、拒絶
して渡米した。ベトナムが17度線で南北に分断され、仏軍が撤退した後の55年10月、
米国の後押しで南ベトナムの大統領に就任した。共産ゲリラ活動の活発化に対抗して
親族主体の独裁政権を作るとともに、60年には米軍の介入を要請した。しかし、親カ
トリックとして仏教弾圧政策を取ったことなどから民心が離れ、63年には米国が支援
するズオン・バン・ミン将軍によるクーデターで政権を追われ、秘密警察長官の弟と
ともに逮捕されて移送中の車内で射殺された。
☆グエン・バン・チュー(1923年−) 陸軍将校として63年の反ゴ・ジン・ジェム、64
年の反ズオン・バン・ミンの両クーデターに参加。65年に副首相、67年に大統領とな
った。米政権の支援をうけ北ベトナム軍や南ベトナムの武装共産ゲリラと戦ったが、
独裁的手法には批判も集まった。サイゴン陥落直前の75年4月21日、大統領を辞任し
て台湾に亡命し、その後、英国を経て米国に移住した。
☆アンクアン寺派 ベトナム国民の大多数は大乗仏教の信者だが、ベトナム戦争当時
はゴ・ジン・ジェム政権に協力する国寺派と、反政府色の強いアンクアン寺派に別れ
対立していた。カトリックに支持基盤を持つゴ・ジン・ジェム大統領は仏教徒弾圧策
をとり、63年に軍がフエで仏教徒の集会を武力で解散させ死者8人が出たことから政
府への批判が高まった。フエのティエンムー寺の僧ティック・クアン・ドクが仏教弾
圧に抗議し、サイゴン街頭でガソリンをかぶって焼身自殺した。
147 :
古森義久:02/03/02 09:35 ID:n0k/RJUB
■サイゴン陥落−03 米国の幕引き
米軍は2年前に去っていた
アメリカの南ベトナム駐在大使グラハム・マーティンと初めて握手したとき、彼の手
にほとんど力がこもっていないのに異様な感じを受けたことをいまも覚えている。
1973年(昭和48年)の末頃、サイゴン中心にあるアメリカ大使館でのことだった。
マーティンがその以前に交通事故で重傷を負い、後遺症で握力が弱くなったという話
を後で聞いた。
《撤退に抵抗》 アメリカの最後の南ベトナム駐在大使となるマーティンは、細身の
体の暗い感じの人物だった。職業外交官としてパリ勤務や、タイとイタリアの大使を
歴任したあと、73年7月に61歳でサイゴンに大使として赴任した。病気がちの人
物だったが、グエン・バン・チュー大統領下のサイゴン政権に強い期待をかけ、革命
勢力側の共産主義に激しい反発を示した。
サイゴン政権への軍事、経済の援助供与を渋るアメリカ議会に対し、マーティン大使
は熱心にロビー工作を展開した。革命側への彼の対決姿勢はアメリカ海兵隊員の息子
を68年、ケサン基地での激戦で失ったことにも起因しているという説もあった。
マーティンはパリ和平協定の成立後、南ベトナムがアメリカの大型援助を5年ほど受
ければ、あとは自由主義陣営の一員として完全に自立していけると主張した。だから
チュー政権を徹底して擁護した。アメリカの政府と議会に南ベトナム支援を一貫して
訴え、とくに七五年三月に北ベトナム軍の大攻勢が始まってからは七億ドルの緊急援
助を出せば、南ベトナム軍が強化され、軍事面での劣勢を逆転できる、と熱っぽく説
いた。だが議会は冷たく、逆にすべての援助を打ち切ってしまった。
マーティンは北ベトナムの大部隊がサイゴンに迫ってもなお、南ベトナムの存続を信
じ、交渉解決を目指して必死に動いた。だからワシントンからの全面撤退命令にも最
後まで抵抗した。
《延長を要求》 アメリカによる最終撤退はサイゴン陥落の前日、4月29日の午後
2時すぎから始まった。米軍のヘリコプターを総動員して、サイゴン市内からアメリ
カ政府関係者やベトナム側の政府、軍の幹部たちをサイゴン河口の先の南シナ海に停
泊した米海軍第七艦隊の艦艇へと運ぶ大作業だった。
外国人への全面撤退の合図は、米軍ラジオ放送から、熱帯の地にはいかにもそぐわな
い「ホワイト・クリスマス」のメロディーで流された。だがマーティン大使は現地の
アメリカ代表として撤退がいざ始まってからも、その作業の延長を求め続けた。少数
の補佐官とともになお大使館に残ろうとして、最後はヘンリー・キッシンジャー国務
長官(*)から直接の激烈な命令を受けてサイゴンを離れた。4月30日の午前4時す
ぎである。マーティンはアメリカの公式の避難では文字どおり最後に引き揚げる人物
となった。
>>142 社長は他社誹謗中傷を裏でいろいろやってるらしいですね
>>148 >社長は他社誹謗中傷を裏でいろいろやってるらしいですね
それだけ自分に向かってくる風当たりが気になるのかな
150 :
卵の名無しさん:02/03/02 19:18 ID:NUNrbwt7
.
151 :
そそ:02/03/02 20:07 ID:GfkhtcEl
>148
そのコピーつかわしてもらってます。
第二弾よろしくお願いします。
152 :
古森義久:02/03/02 21:15 ID:6o5GjlnX
私はこのアメリカにとっての終幕をただただ至近距離で見つめていた。超大国が19
50年代からのベトナムの紛争への関与についに終止符を打ち、目的を果たさないま
ま挫折して去っていく姿だった。ただし、そこで目撃した現実は後によくいわれた「サ
イゴン陥落では、最後の米軍部隊がベトナム解放勢力に敗れてヘリで逃げ去った」と
いう描写とは異なっていた。
最後の米軍部隊は実際にはサイゴン陥落の二年以上前にベトナムを去っていた。アメ
リカにとっての直接の軍事関与という意味でのベトナム戦争は、実はサイゴン陥落の
2年以上前に終わっていたのである。パリ和平協定が成立し、その規定に従って、米
軍の完全撤退が実施されていたのだ。
私は73年3月29日、最後の米軍部隊が南ベトナムを去る光景をも間近に見ていた。
米軍がそもそもベトナムに介入したのは62年、沖縄駐留の陸軍部隊が南ベトナム軍
の軍政と兵站の援助に派遣されたのが出発点だった。65年には海兵隊がダナンに上
陸し、地上戦闘部隊の初めての投入となった。その後、68年から69年にかけてベ
トナム駐留米軍の総数は54万人をも超えた。その軍事介入が73年3月に終わった
のだ。
《市民も脱出》 南ベトナム側による最後の米軍の送別の儀式はサイゴンのタンソン
ニュット空軍基地で催された。その日、基地には強い風が吹いていたことを記憶して
いる。私のすぐわきには同じ取材のために作家の開高健(*)が立っていた。南軍参謀
総長のカオ・バン・ビエン将軍が英語でチュー大統領からの感謝のメッセージを読み
あげた。米軍ベトナム援助軍司令官のフレデリック・ウェイアンド将軍がたどたどし
いベトナム語で惜別の辞を述べた。
「あなた方の軍隊は、自力で戦うに十分な能力を有していることをすでに立証しまし
た」この言葉はもちろん間違っていた。実際に撤退する最終の米軍は合計56人の将
兵だった。C141輸送機(*)へと整然と乗りこんでいく彼らは司令部勤務の古参下
士官や高級将校ばかりとあって、いかにも落ち着いた様子だった。だが多くの男たち
の目が涙でぬれていた。
私はこんな米軍の最終撤退をすでにみていただけに、サイゴン陥落ではアメリカ人の
避難よりもむしろベトナム人の脱出に自然と視線を向けていた。75年4月29日か
ら30日にかけてのサイゴンからの最終避難でヘリで離脱したアメリカ人は合計千人
ほどで、ほとんどが外交官や技術者など民間人だった。武装した将兵は大使館などを
警備していた海兵隊員数10人にすぎなかった。
だが同じ時間帯に米軍ヘリでアメリカ人の10倍にもあたる1万人近いベトナム人た
ちが脱出していた。その数日前をも含めれば、アメリカ人の数10倍もの数のベトナ
ム人が退避した。制圧されたサイゴンで迫害される恐れのある南ベトナムの政府、軍
の幹部やアメリカの官民組織で働いたベトナム人たちとその家族である。アメリカが
責任をとる形でその避難に尽力したのだ。
153 :
古森義久:02/03/02 21:19 ID:6o5GjlnX
私は4月29日夕、仕事場のビルのオフィスからサイゴンの街の狂乱のような騒ぎを
眺めていた。市街の上空にはヒューイとかコブラ(*)とよばれる米軍ヘリが乱舞して
いた。ふと視線を水平に向けると、窓から真正面のフランス文化センターのビルの屋
上にアリのような行列をつくってハシゴを昇っていく男女の群れがみえた。やがて米
軍ヘリが屋上に舞い降り、一人ずつ乗せていく。ほとんどはベトナム人の男女だった。
ベトナム戦争の最終局面ではアメリカはもはや決して主役ではなく、現状を守ろうと
する南ベトナム側とそれを打倒しようとする北ベトナム側との衝突を軸に歴史は急展
開していったのである。
■豆事典
◇ヘンリー・キッシンジャー(1923年− ) ドイツのユダヤ人家庭に生まれ、1938年
にナチの迫害を逃れ一家で米国に移住、43年に帰化した。ハーバード大卒業後は政治
学者として、それまでの米国の核戦略だった「大量報復戦略」に反対し、戦術核から
戦略核までを含む「柔軟対応戦略」を唱えて核戦略の専門家となった。69年ニクソン
大統領に大統領補佐官(国家安全保障問題担当)として登用され、72年のニクソン大統
領訪中やソ連との第一次戦略兵器制限条約(SALT1)の交渉を手がけた。ベトナム
戦争については、米軍撤退と南ベトナム軍による肩代わりを目指すニクソン大統領の
「ベトナム化」政策を推進、73年1月のパリ和平協定の調印にこぎつけた。これによ
りノーベル平和賞を受賞(同時受賞の北ベトナム共産党政治局員のレ・ドク・トは辞
退)した。73年から77年まで国務長官。
◇開高健 (1930−1989年) 大阪市出身。大阪市立大卒。寿屋(現サントリー)宣伝部
のコピーライター時代に芥川賞受賞。ルポルタージュにも関心を示し、ベトナム戦争
でも前線で従軍取材を続け、ゲリラとの遭遇で同行部隊がほぼ全滅するなど九死に一
生を得る経験をしたという。戦争取材以後は釣り紀行文を数多く発表、ベトナム戦争
を題材にした小説「輝ける闇」などがある。
◇C141A ロッキード社が1964年に開発した大型軍用輸送機。4発ジェットエン
ジンを備え全長51メートルの巨大な胴体の後部ドアから30トン以上の物資を収容。無
給油で約4000キロを飛行できる。ベトナム戦争でもフィリピンのクラーク基地などか
ら補給・輸送任務に当たった。その後胴体を延長したC141Bも開発され、現在も
米空軍の主力輸送機の地位にある。
◇AH1Gコブラ ベル社が1967年に開発した対地攻撃用の軍用ヘリコプター。対空
砲火を避けるために機体幅が非常に狭く、速度は従来ヘリの二倍となった。地表をな
めるように飛行しながら機関砲やロケット弾で北ベトナム軍の戦車や地上部隊を攻
撃、大きな成果を上げたことで、以後の対戦車ヘリの基本型となった。自衛隊でも採
用している。
>>151 いわゆる怪文書?
さすがに、ここにコピペは出来ないだろうなぁ、古森くん。
155 :
古森義久:02/03/03 09:22 ID:RGbuJZQM
■ サイゴン陥落−04 首都脱出
“解放の町”から人々は争って逃げた
「私の夫になってくれませんか」
「えっ?」
「いえ、もちろん書類のうえだけです。決して迷惑はかけません」
顔見知りのベトナム女性からこんな頼みを初めてぶつけられたときはびっくりした。
サイゴン市内の私のオフィスに近い旅行会社に勤める若い女性である。顔をあわせれ
ば軽い言葉を交わす程度の知りあいにすぎないのに、私のオフィスを訪れていきなり
そんなことを求めてきた。相手の表情は真剣だった。外国人と結婚していれば南ベト
ナムからの出国許可が得られるからと、形式だけの結婚を必死で懇願するのである。
1975年(昭和50年)3月末、サイゴン陥落の1カ月ほど前のことだった。北ベトナ
ム軍の大部隊が南ベトナムの北部から中部高原を制圧し、古都ユエ(*)と南ベトナム
第二の都市ダナン(*)とをあいついで攻略すると、首都のサイゴンもパニックに襲わ
れ、市民の間では国外脱出の熱が高まったのだ。
《わいろ出国》 南ベトナムからの外国渡航はもともと厳しく制限されていた。公務
の旅行や公費の留学、外国にいる家族の訪問、国内では無理な病気治療など特別な場
合に限られた。もっともサイゴン政権の特徴の汚職はここでも機能し、高額のわいろ
を払えば出国の許可が得られた。だがいずれにしても富裕な階層だけの話で、一般市
民には出国は不可能に近かった。ただし外国人と結婚していれば別であり、サイゴン
では書類だけの外国人の夫を探して、国外に出ようと試みる若い女性たちが増えてい
たのだ。
私は当時独身であり、それまで3年もベトナムで暮らしていたから知己も多く、そん
な形の出国の助力を求められることが多くなった。女性だけでなく1、2度、会った
だけの実業家が日本へ渡りたいので日本大使館員に紹介してくれと頼んできた。以前
にオフィスを借りていたビルの持ち主の宝石商夫婦が、若い息子二人だけでも国外に
出したいので助けてくれと頭を下げた。だがこういう外国での非常時に日本人ができ
ることは少なかった。
私はむしろ、国を簡単に捨てようとするベトナムの人たちの思考に反発を感じた。情
勢がどうなってもベトナム人はベトナムに留まるのが自然だろうと説きもした。私の
フランス語の先生で国立銀行に勤める女性の友人にも脱出への助けを求められ、そん
なことを最初は述べた。だがふだんは温厚な彼女から激しい語調で反撃された。
「コンサン(共産主義勢力)の支配する社会で幸せに生きられるかどうかは私が決める
問題です。ベトナムを去ることがよいか悪いかをあなたと議論しにきたのではありま
せん。去ることを助けてほしいのです」私はもう口ごもるだけだった。
156 :
古森義久:02/03/03 09:23 ID:RGbuJZQM
《非合法の道》 4月中旬になり、戦局がさらに悪化すると、南ベトナム政府は国外
渡航の全面禁止令を出した。どんな有力者も富豪もベトナムを離れられなくなった。
国自体が戦争で存亡の危機に瀕し、敵と必死で戦っているのに、味方の一部の国外逃
亡を許すわけにはいかないのは当然だろう。遅きに失した措置でさえあった。逃げた
い人たちはこんどは非合法の道を探すことになった。
危機がまた深まると、脱出をめぐる状況がまたがらりと変わった。4月20日すぎか
らアメリカが、C130(注3)とかC141という空軍輸送機を動員しての避難作業を始め
たのだ。ただしこの避難は最後の全面撤退とは異なり、残留のさほど必要ではないア
メリカ人とか大使館員らの家族の婦女子をまず対象とした。
だが軍事情勢の急激な悪化とともに、アメリカの政府機関や企業に勤めるベトナム人
やアメリカ人と結婚したベトナム人とその親族らも、この避難への便乗を認められる
ようになった。さらには北ベトナム軍がサイゴンを制圧したときに、報復をまぬがれ
ないとみられるベトナム人までがこれに加わった。かつて米軍に協力したとか、革命
側から南側に寝返ったという人たちである。
こうしてアメリカに依存しての国外脱出の輪が南ベトナム社会に広がった。われもわ
れもと、まさに狂乱だった。米軍の輸送機が発着するタンソンニュット空軍基地には
ベトナム人の老若男女の大集団が群がった。私もこのプロセスで請われるままに、ベ
トナムの友人たちのために、アメリカ政府関係者に紹介をしたり、自分でわけのわか
らぬ結婚証明書にサインしたりした。
こんな状況が続いた末のサイゴン陥落だったから、その最後の日にはサイゴンの街は
とにかく国外に出ようとする市民たちの人の波に渦巻いた。4月29日までは全面外
出禁止令が出ていたため、市民の街路での動きにも遠慮がややあったが、30日になるといよいよそんな外出禁止令を出した政府自体が崩れつつあるとわかって、さらに
多数の人たちがどっと外に出てきた。私は外出禁止令を免除される特別許可証を車の
前部にはって、街を走り回った。
《悲痛な光景》 とにかくものすごい数の市民が家族を連れ、荷物を持ち、恐怖にお
ののくように駆け回っていた。市の中心部で私が目撃しただけでも数千、いや数万と
いう多数だった。曲がりなりにも一つの国家、一つの社会だった南ベトナムがいまや
同じベトナムとはいえ、外部から進入してきた軍隊に破られ、崩される。その恐怖に
これまでとくにアメリカやサイゴン政権を積極的に支持したわけでもないふつうの市
民までが狂ったように逃げまどう。この光景はその社会に慣れ親しんでいた私にはた
まらなく悲痛だった。
米軍のヘリや輸送機がついさっきまで発進していたアメリカ大使館や周辺の建物、タ
ンソンニュット空港などにはなお人の群がひしめいていた。サイゴン川のふ頭ではあ
りとあらゆる舟艇に人が乗りこんでいた。動くかどうかもわからない古い貨物船も人
でいっぱいだった。みな船を使って海上へ逃げようと試みたわけである。
157 :
古森義久:02/03/03 09:24 ID:RGbuJZQM
実際に4月29日から30日にかけてサイゴン地区から国外に出たベトナム人だけで
も、その数は十万を超えていた。その同じ時間帯にサイゴンに入城してきた北ベトナ
ム軍将兵の数にほぼ匹敵していた。
しかし一体なぜ、ふつうの南ベトナム市民が生命の危険をおかしてまで、愛するはず
の故国から逃げたのか。長年の同じ民族同士の殺しあいの終わりとなれば、敗者が勝
者の報復を恐れるのは当然ではあろう。だが北ベトナム側はサイゴンの攻略を解放と
呼び、人民をそれまでの苦痛と搾取のくびきから解き放つのだと宣言していた。では
解き放たれるはずの祖国からなぜ多数の人たちが脱出していったのか。
■豆事典
☆ユエ フエとも表記される。紀元前200年の史書に中国(漢)の軍事拠点として登場
する。2世紀末からチャンパ王国の一部となり、中国が何回か奪回したが、14世紀に
ベトナム人が南進し併合した。1802年にグエン(阮)王朝のザーロン帝がハノイからユ
エに遷都して以降、本格的に発展をはじめ、1945年バオダイ帝が退位するまで13代の
王都として繁栄した。城壁に囲まれた条里制の整然たる街路を持つ旧市街には、極彩
色の王宮や官庁、寺院などがみられ、市外にも寺院や孔子廟、天壇があるなど、ベト
ナム有数の歴史的都市だった。しかし、第一次ベトナム戦争(1946−54年)で大きな被
害を受けたほか、1968年2月のテト(旧正月)攻勢では北ベトナム側の革命勢力が拠点
としたことから、20日あまりにわたり北軍約6000人と米軍約1万6000人が激しい市街
戦を展開し、主戦場となった王宮は破壊され、遺跡や市街地が廃虚となった。現在は
世界文化遺産に指定され修復作業が進められている。
☆ダナン 古くから東西交易で開けた港町で、17世紀初頭には日本町もあった。1858
年にフランス海軍が占領、植民地支配の拠点としてツーランと呼んだ。54年のジュネ
ーブ協定でベトナムが分断されると、南北境界線近くの古都ユエに代わって発展し、
ベトナム戦争では米軍が65年から港湾を大規模に拡大。米軍最大の空軍基地と第1海
兵師団司令部が置かれた。現在は中部最大の都市で、商業の中心地となっている。
☆C130 1955年にロッキード社が開発した中型軍用輸送機。前線近くの短い荒れた
路面の滑走路でも離着陸できる。約90人を収容し、航続距離は約3500キロ。空てい部
隊から物資輸送まで幅広い目的に用いられ、開発後40年以上になる今も世界各国で改
造を重ねて使用されている。ベトナム戦争でもフルに使われた。
158 :
12345:02/03/03 09:56 ID:0RTyC2MB
この荒らしも例の他社誹謗中傷罵倒の3流新聞記事を書かせた奴と同じ奴が
犯人なのか?
159 :
古森義久 :02/03/03 10:00 ID:tnh+9QDs
■サイゴン陥落−05 完全な勝利
北は一挙に首都の心臓部を突いた
北ベトナムの人民軍参謀総長バン・チエン・ズン大将を私が初めてみたのはサイゴン陥落から2週間後の1975年(昭和50年)5月15日だった。戦争の勝利を祝う大
祝賀式典の会場で、だった。
《若き戦士》 ズ大将ンはサイゴンの大統領官邸前に設けられたカラフルな大演壇の
上に、ベトナム労働党(共産党)政治局員のレ・ドク・ト(*)ら他の北ベトナム首脳と並
んで立っていた。ズン自身も同じ政治局員だった。ぱりぱりの制服に前ツバの飛び出
た軍帽、胸には人民軍大将であることを示す勲章やメダルがきらびやかに飾られてい
た。中肉中背、全体に精気を感じさせるものの、これといって特徴のない外見の人物
だと思った。
だが、このズン大将がサイゴン総攻撃の「ホーチミン作戦」の総指揮官だった。ベト
ナム革命勢力はこの作戦により30年余りの民族独立闘争での完全勝利をついに果た
したのだが、バン・チエン・ズンはこの闘争を戦士として一貫して戦い、1954年
のディエンビエンフーでのフランス軍との決戦(*)でもベトナム人民軍最高司令官の
ボー・グエン・ザップ(*)の右腕となっていた。
ズンはその前年53年、36歳の若さですでに人民軍の参謀総長となった。もっとも
ザップもそのとき41歳だった。革命とか闘争はやはり若さが起点なのだろう。だか
らズンはサイゴン攻略の時点ではディエンビエンフーの勝利から数えても21年間も
参謀総長の地位を保ってきたわけである。
ただしサイゴン陥落の時点でも、また勝利祝賀式典の時点でも、ズンがベトナム人民
軍のホーチミン作戦の軍事面での最高司令官だった事実はまだ知られていなかった。
ここでいうベトナム人民軍とは、ハノイを首都とするベトナム民主共和国、つまり北
ベトナムの軍隊である。
北ベトナム軍将兵がサイゴンに入城する姿に私は素直に感動を覚えた。と同時に自分
のそんな反応に戸惑った。というのは南ベトナム側のごくふつうの市民が北軍の総攻
撃に恐怖に駆られ、逃げまどう姿を悲痛に感じていたからだった。南ベトナムの要人
たちが国外への脱出に必死となり、敗北に打ちひしがれるのをみるのも、つらかった。
サイゴンにそれまで3年も住み続け、友人や知人も多数いたから、そういう人たちが
パニックに襲われ、悲鳴をあげることが私の胸を刺したのは自然ではあった。
だがその一方、北ベトナム軍将兵が勝利の歓喜を体いっぱいに表しながら、敵の首都
に突入してくる光景も胸を揺さぶった。サイゴン川沿いの広い道路を走り抜けるモロ
トフ・トラック上の兵士の集団をみあげていると、なかの一人と視線があった。その
若い兵士は間違いなく私に向けて手を振った。そしてなんともうれしそうな笑顔をみ
せた。一瞬、私も思わず手を振り返していた。
>>158 例の他社誹謗中傷罵倒の3流新聞記事、って?
詳細希望!!!
161 :
古森義久:02/03/03 12:52 ID:3DjyQ6rl
だがすぐに奇妙な自責の念に襲われた。敗者の南ベトナムの市民の悲しみにすっかり
共感していたのに、こんどは勝者の北ベトナムの兵士のよろこびに感激して、手まで
振る。自分は一体なんなのか。変に後ろめたい思いだった。
《目標は5つ》 ズン将軍指揮下の北軍大部隊がサイゴンへの最終の総攻撃を始めた
のは4月29日午前5時である。人民軍15個師団、約20万人の将兵が加わってい
た。ホーチミン作戦のこの最終段階の経緯は、ズンがサイゴン陥落から1年後に発表
した「偉大な春季勝利」という手記にくわしい。
北ベトナム側は、サイゴン攻略の総司令部をサイゴン北100キロほどのロクニンの
樹林地帯においていた。軍事の最高責任者はズンだったが、労働党でズンより上席に
なるレ・ドク・ト、ファム・フン両政治局員も詰めて、この歴史的な大攻撃の政治や
外交の側面に配慮していた。
ズン将軍は最終攻撃に備え、総司令部を出て、さらにサイゴンに近いベンカトの前線
司令部へと進む。サイゴン北西の、この司令部は南ベトナム軍レンジャー部隊基地跡
で、木の葉を屋根にした小さな建物だった。風が吹くたびに、木の葉の間から青い空
がみえた、とズン将軍は書いている。
サイゴンの人口は350万にも達していた。その外郭には南軍5個師団が曲がりなり
にも防衛線を築いている。ズン将軍はそんな状況の都市圏に突入するには、損害と戦
闘期間を最小限にすることを至上目標として一挙に敵の心臓部を突き、息の根をとめ
るという戦術を決めた。そのための攻撃目標を大統領官邸、参謀本部、首都特別軍区
司令部、国家警察本部、タンソンニュット空軍基地の5カ所にしぼった。
《妥協せず》 ハノイ首脳はズン将軍に、完全勝利を得るためには作戦の途中で一切
の妥協に応じるなと指令していた。いかなる政治交渉の求めにも応じず、南ベトナム
の軍と政府とを軍事粉砕せよという指令だった。そのためには、ズン将軍は激しい市
街戦をも想定し、市内の戦闘での同士打ちを避けるための北軍相互の合図をも細かく
決めていた。
だから南側がいかに譲歩に譲歩を重ねて停戦の交渉を請い願っても、しょせんは無益
だったのである。同時にこの作戦はまかり間違えば、首都の住民を巻きこんでの大流
血の市街戦ともなりかねなかったわけだ。ズン将軍はサイゴンの心臓部の直撃と同時
に、南軍の反撃を抑えるため、南側の5個師団にそれぞれ猛攻をあびせ、足どめにす
るという作戦をとった。
北軍は全軍を各3個師団ほどから成る五軍団に分け、5方向からサイゴンへの総攻撃
を開始した。五本の矢のように進む大部隊はやがて攻撃翼を広げ、五稜の星、五輪の
ハスの花のように展開していった、とズンは手記で述べている。各部隊は「停戦する
な!」「進撃せよ!」「千年に一度の好機なのだ!」を突撃の合言葉とした。
162 :
古森義久:02/03/03 12:53 ID:3DjyQ6rl
北ベトナム軍の第一軍団は南ベトナム軍の参謀本部を攻略した。第二軍団は大統領官
邸に突入した。第三軍団はタンソンニュット空軍基地を制圧した。その他の軍団もみ
な突撃に成功し、南ベトナム側の五主要拠点を完全に占拠した。
北ベトナム側は、南のズオン・バン・ミン大統領が全軍に戦闘停止を命じてもなお終
戦とはみなさなかった。攻撃の手を緩めず、ミンを拘束してラジオ局に連行し、北側
の用意した降伏声明を読みあげさせて初めて、完全勝利を確認した。「司令部ではだ
れもが歓喜におどり、叫び、抱きあった。だれもが胸をつまらせた。食べることも寝
ることも忘れ、ただ泣いた」ズン将軍は勝利の感激をこう書いた。
■豆事典
☆レ・ドク・ト (1911−1990年)1930年のベトナム共産党創立に参加、68年にベトナ
ム和平交渉のパリ会談においては北ベトナム代表団特別顧問となり、69年からキッシ
ンジャー米大統領補佐官との秘密和平交渉を始め、73年にパリ和平交渉の代表として
合意をまとめた。キッシンジャーとともに同年のノーベル平和賞を受賞したが、「ベ
トナムに本当の平和が到来するまではもらえない」として辞退した。
☆ディエンビエンフーの戦い 1946年からの第1次ベトナム戦争で当初優勢だったフ
ランス軍は、次第にベトミン(ベトナム独立同盟)軍の反撃を受け劣勢となった。この
ため仏軍は53年11月20日、ベトナム北西部のラオス国境沿いの山に囲まれた戦略的要
衝で、ベトミン支配地に囲まれたディエンビエンフーに空てい部隊3000人を降下させ
て陣をしき、その後、総兵力1万6000人で要さいを建設して劣勢を盛り返そうとした。
しかし、ベトミン側は中国、ソ連の支援による砲撃で滑走路を破壊したほか、4万人
以上の大部隊による人海戦術で攻撃を続けたため、補給を絶たれた仏軍は5月7日に
降伏、フランスのインドシナ支配が終わった。
☆ボー・グエン・ザップ (1911年− )ゲリラ戦や正規戦を駆使してベトナム戦争の
勝利をもたらした戦略家として名高い。1927年ごろから独立運動に加わり、30年のベ
トナム共産党創設に参加。39年に中国の広西に亡命し、帰国後、抗日ゲリラを組織し
た。45年の独立宣言とともに内相、国防相、人民軍最高司令官を歴任し、54年のディ
エンビエンフーの戦いを勝利に導いた。南北分断後の55年に副首相となり、ベトナム
戦争終結後も副首相兼国防相、政治局員を務めた。
163 :
日○:02/03/03 15:13 ID:ueScjkqe
164 :
古森義久:02/03/03 15:50 ID:i24mBiWi
■ サイゴン陥落−06 スアンロクの戦い
つかの間の勝利に市民は沸いた
ベトナム戦争最後の激戦はスアンロクでの戦闘である。スアンロクはサイゴン東北東
約60キロ、ロンカン省の省都だった。北ベトナム軍が南ベトナムを滅ぼす75年春
の大攻勢ではスアンロクでの戦闘が最大かつ唯一の、両軍が正面からぶつかる正規戦
となった。ベトナム戦争の最終会戦でもあった。
皮肉なことにこの省都のすざましい攻防戦では南ベトナム軍は大奮闘し、つかの間な
がら見事な勝利を飾った。スアンロクを守った南ベトナム第18師団のレ・ミン・ダ
オ将軍は南側の数少ないヒーローとして語り伝えられることとなった。
《戦略要衝》 ふだんのスアンロクは人口は10万、ゴム園に囲まれ、市内では小さ
な商店や住宅に混じって風格あるカトリック教会が目だつ程度の、のどかな風情の町
だった。中部の高原や海岸に向かう途中の町のため、私も車で通りすぎたことは何度
もあった。このスアンロクに北ベトナム軍の猛攻撃が始まったのはサイゴン陥落に先
だつ3週間前の4月9日だった。
北ベトナム軍はスアンロクを守備する南軍第18師団の陣地に対し、まず130ミリ
砲(*)の連続砲火をあびせた。射程27キロのこの長距離砲は北軍の戦力でも最大の
破壊力を誇る。ソ連と中国の両方の製造だった。私もサイゴン陥落後に130ミリ砲
を数え切れないほどみたが、その巨大さにはいつも圧倒された。
スアンロクには北ベトナム軍の戦車部隊も突撃を試みた。歩兵部隊も進撃した。この
攻撃にあたったのは北軍第4軍団である。第6、第7、第341の3師団から成るこ
の軍団はサイゴン北方のカンボジア国境付近で活動してきた兵力で、今回の大攻勢で
はそれまで本格的な戦闘に加わっていなかった。それが南東へと動いて、スアンロク
攻略の先頭に立ったのだ。
1個師団は1万人もの大兵力である。それが3個も集まって、一地方都市の攻略にあ
たるのだから、ものすごい攻撃となる。北ベトナム軍がスアンロク占拠にそれほど力
を注ぐのは、この省都が戦略要衝だったからだった。
中部海岸を下ってくる国道1号線と、中部高原から降りてくる国道20号線とが合流
し、首都サイゴンへと伸び始める地域にスアンロクの町は立ちふさがるように位置し
ていた。サイゴンからみれば首都防衛圏の東の城壁でもあった。中部を席巻した北ベ
トナム軍は国道1号線と20号線の両方から大部隊を南下させていた。そうした部隊
がサイゴンを攻略するには必ず通らねばならない関門がスアンロクだった。だからま
だ南ベトナムの政権の座にあったグエン・バン・チュー大統領も死守の命令を出して
いた。
165 :
卵の名無しさん:02/03/03 17:35 ID:VA0MFxdQ
所長の年収は武田の33歳のMRの年収と同じだと聞いたが、
本当ならやる気なくすね
166 :
古森義久:02/03/03 17:47 ID:VsvVC2iC
《「NO.1だ」》 北軍第4軍団はスアンロクへの波状攻撃を繰り返した。砲弾の雨を
降らしながら市内突入を続けた。だが南軍団第18師団は1対3の兵力の劣勢にもめ
げず驚異の反撃を展開した。何波の攻撃をも撃退し、市内には1千人近くの北側の死
体や数十台の戦車の残がいが遺棄された。
北軍は連日、猛攻を続けた。南軍もサイゴン北方にいた第5師団の1部や精鋭のレン
ジャー、空挺の一部をヘリで投入し、第18師団のレ・ミン・ダオ司令官の指揮下に
入れて、防衛を強化した。猛烈な反撃となった。南側としてはなにしろスアンロクは
首都防衛の重要拠点だから、なんとしても守ろうという決意があった。
激烈な市街戦がなお続いたが、攻撃開始から4日目、北ベトナム軍はあまりに多くの
被害を出したと判断し、スアンロク攻略をついに断念する。攻撃側の総指揮官だった
バン・チエン・ズン参謀総長はのちに書いている。
「スアンロクでは、わが軍は必死となった敵に初めて正面からぶつかった。わが軍は
市内に何度も突入し、敵に大打撃を与えたが、なお出撃地点まで引き返さねばならな
かった。第4軍団は敵の抵抗の頑強さを的確に評価していなかった」
北軍はこの当初のスアンロク攻防では失敗を認め、撤収したのだった。敗北続きの南
軍にとってはこの初の大激戦での勝利は大きな意味を持った。南軍司令部は外国報道
陣にもこの勝利を宣伝した。サイゴン市民もよろこびにわいた。
私はこのスアンロク戦の直後、サイゴンのUPI通信(*)のあるビルで、戦闘写真を
提供するためにきた第18師団の広報担当の若い将校2人と顔をあわせたが「第18
師団はナンバーワンですよ。共産軍の大部隊をみな撃退したのですからね」野戦服か
ら汗のにおいを強く漂わせる将校たちはこぶしを突き出し、得意げに話した。
《再び猛攻》 サイゴンの街に明るい空気が流れた。南ベトナム軍は意外と強い。こ
の勝利を機に北軍を巻き返せるはずだ。勇将レ・ミン・ダオがいれば、きっとだ大丈
夫だ。そんな声も広がった。日曜日の4月13日、そんなムードが輪を広げ、サイゴ
ンの中心街は家族連れでにぎわった。わずか数十キロのところまで北ベトナムの大部
隊が迫っていることも忘れたように、市民たちはなごやかに道を歩き、買い物を楽し
むようだった。商店街も久しぶりで活気づき、だれもが戦争も敗北も一時、忘れたか
にみえた。
だが北ベトナム軍はスアンロクへの正面攻撃を一時、断念したにすぎなかった。数日
間は、もっぱらスアンロク周辺地域の制圧を徹底させて、補給ラインを断ち、守備側
を締めつけた。そのうえで中部海岸を南下してきた第2軍団の3個師団を加え、合計
7個師団の大兵力で南軍の第18師団に再び襲いかかった。第18師団はまる1日が
んばったものの、敵の圧倒的戦力に耐え切れず、4月20日にはスアンロクから撤退
を始めるにいたる。
167 :
卵の名無しさん:02/03/03 19:28 ID:71sr421H
>古森くん
そんなくだらないコピペより○●社長の書かせた怪文書記事のコピペ
載せたらどう? ○○の仙台販社でもりあがってたぞ
168 :
古森義久:02/03/03 21:53 ID:O+7Npb0E
第18師団は、このあとまた再編成して、サイゴンのすぐ東の防衛にあたった。だが
4月30日、なだれのように進撃してきた北軍の第2軍団に再び猛攻を受け、散り散
りに破られた。師団長のダオ将軍はやがて捕虜となる。最後の土壇場で戦わず、国外
へ逃げてしまった将軍たちが多かったから、ダオは市民たちからのひそかな称賛を受
け続けた。
ダオはサイゴン陥落後、新政権によって他の南ベトナム軍高官らとともに再教育収容
所に拘束された。収容所生活は10年近くにわたった。結局、アメリカ政府の間接の
介入によりベトナム政府がダオを妻子が在住するアメリカへの出国を認めたのはサイ
ゴン陥落から19年もが過ぎた1994年だった。ダオはいま、成人した子供たちと
ニュージャージー州に住むが、妻が別の男性と再婚してしまったために、ひとり黙然
と時間を過ごすことが多いという。
■豆事典
☆130ミリ砲 ベトナム戦争で共産側が使用した最大の火砲。北ベトナム軍は122ミリ
砲とともに、長砲身で射程距離も長い130ミリ砲による米軍基地への砲撃をしばしば
行った。米軍も各種口径の火砲を多用したが、ジャングルを移動する部隊に対してよ
りも、基地にこもる米軍に対する砲撃のほうがはるかに効果が大きかったといわれる。
☆UPI通信(ユナイテッド・プレス・インターナショナル) AP通信と並ぶアメリ
カの2大通信社で、1958年にUP通信とINS通信が合併した。前身のUPは1907年
の設立。25年に世界で始めて電送によるニュース写真配信を開始したほか、欧州系通
信社に対抗して支局網を全世界に広げた。INSは28年に設立され、小規模ながらポ
イントを絞ってテーマを掘り下げる重点取材を特色にしていた。UPIは一時は全世
界に7500社の配信先を抱えたが、61年に黒字決算となって以降は経費増による赤字経
営が続き、82年にメディア・ニュース社(米国)に身売りされた。
>>163 日○工様と違って、わしらのような場末のゾロには情報が入ってこないのでございます。
日○工様に対して何かと云われておるようですが、わしらから見上げると神様のような会社。
何とか生き残れるよう資金繰りに奔走する毎日です。
170 :
古森義久:02/03/04 02:22 ID:LTSc76kn
■ サイゴン陥落−07 平凡な真実
最期見届けず国外逃避した反共の士
《皆で戦おう》 「サイゴン市民300万のうち50万人が銃をとって戦えばよいの
です。多くの市民が死を覚悟すれば共産側に手痛い打撃を与えられる。サイゴンを第
二のスターリングラード(*)にするのです。そうなれば国際世論も必ず沸いて、停戦
交渉を求める声が巻き起こるでしょう−」
私の目の前に座ったグエン・カオ・キ将軍は重々しい口調で語り続けた。1975年
4月25日、サイゴン陥落のほんの5日前である。サイゴン郊外のカトリックのロク
フン教会でのことだった。
勇ましい空軍パイロット服のキ将軍の背後には機関銃を肩につるした空軍の護衛兵が
数人、立っていた。南ベトナムの空軍司令官、首相、副大統領を歴任したキ将軍はサ
イゴン政権の要人としてはベトナム戦争全体を通じて、対外的におそらく最も広く知
られた人物だったといえよう。均整のとれた細身の体駆、ハンサムな容貌、真っ黒な
口ヒゲという彼の姿は全世界のマスコミに登場してきた。スチュワーデス出身の美し
い夫人がいつも花をそえていた。
だが、キ将軍は71年からは、それまでコンビを組んできたグエン・バン・チュー大
統領と争って敗れ野に下っていた。その後は表舞台に出ることは少なかったが、75
年春の危機ではたまりかねたように腰をあげ、チュー政権の軍事面での失態や政治面
での腐敗を非難するようになった。カトリック教のチャン・フー・タン神父が率いる
救国行動委員会という反政府組織と行動をともにし、この日はその組織が主催したカ
トリック教徒の決起集会で演説をすることになっていた。
キ将軍は機銃を据えたジープで颯爽と教会に乗りつけた。教会内外にはすでに3千人
ほどが集まっていた。ロクフン地区には1954年のベトナム南北分割(*)で北の共
産党支配を嫌って南下したカトリック教徒の住民が多かった。キ将軍はこの集会で演
説をする前に私たち外国人記者の求めに応じ、質問に答えたのだった。
「国民が一致団結すればまだ生きる道はあります。死ぬまで戦うという決意をみせね
ばならない。共産側はこちらの自壊を待っているのです」キ将軍はこう語るとさっと
立って、教会のテラスに駆けあがった。詰めかけた住民たちにマイクを通じて叫び始
める。
「私はサイゴンに留まって死ぬまで戦う!この決意を市民に知らせたい。敵の進撃を
前に、いま国外に逃げる人間はみなひきょう者だ!」キ将軍のよく響く言葉に数千人
のカトリック集団は気勢をあげた。キの勇姿はいかにも頼もしくみえた。戦場では北
ベトナム軍はすでに首都防衛の外郭拠点のスアンロクを攻略、サイゴンへの最後の総
攻撃の態勢を強めていた。だがキの熱弁を聞くうちに私はひょっとして南ベトナム側
もまだ完全な敗北はまぬがれられるのではないか、とも思った。
171 :
古森義久:02/03/04 02:26 ID:fg7ngHyJ
しかし死を覚悟しての徹底抗戦を誓ったキもその4日後の4月29日朝、ヘリで国外
へ脱出した。自ら攻撃機を操縦、迫りくる北軍に機銃掃射をあびせたりはしたが、結
局、サイゴンで死ぬことはなかった。
《南軍総崩れ》 だが、キ将軍が逃亡してからまる1日後の陥落の日の朝まで、戦い
を続けた南ベトナム軍の将兵も少なくはなかった。敗北を受け入れずに死んでいった
将軍たちもいた。サイゴン首都圏に配備されていた5個師団のうちサイゴン北50キ
ロの国道13号線沿いのライケ基地を守っていた第5師団は30日朝、サイゴンに向
け南下中、北ベトナム軍の第一軍団の猛攻をあびた。北軍のバン・チエン・ズン将軍
は指揮下の5個軍団15個師団約20万人を首都の心臓部へと突入させると同時に首
都周辺の南軍にも攻撃をかけていたのだ。南軍第5師団は数倍の兵力の敵に総崩れと
なった。師団長のレ・グエン・ビ将軍はその場で自決した。
サイゴン北西30キロほどのクチ基地に集結していた南軍第25師団は北軍第3軍団
に襲われ、粉砕された。リ・トン・バ師団長は投降し、捕虜となった。サイゴン南西
のメコンデルタ(*)への入り口にあたるタンアン地区に布陣した南軍第22師団も数
倍の規模の北軍に殲滅された。サイゴン東方を守っていたレ・ミン・ダオ将軍指揮下
の南軍第18師団の残り部隊も、突撃してきた北軍第2軍団の大部隊に破られ、ダオ
将軍も捕虜となった。
サイゴンからそう遠くないメコンデルタのミト市にいた南軍第7師団も首都防衛兵力
に数えられていたが、首都への道を北の大部隊に断たれ、サイゴン陥落後、降伏した。
メコンデルタ全域を統括する南軍第4軍管区司令部はカント市にあり、第9、第21
両師団をなお抱えていたが、やはり降伏した。第4軍管区の司令官グエン・コア・ナ
ム、副司令官レ・バン・フンの両将軍は、ともにカントの司令部内で自ら命を絶った。
どの将軍が国外に逃げ、どの将軍が留まって最後まで戦ったか。どの政府高官が脱出
し、だれが残ったか。私にとって極限に立たされた人間の身の処し方を考えるうえで
興味深い観察の対象となった。民族主義や愛国心を叫んだ反共の闘士が、実はかなり
早い時期に国外に避難していた。いかにもフランスやアメリカ一辺倒という感じの欧
米臭の強い高官が確実に去れたはずなのに残っていた。人間の表面の言動だけで内容
は即断できないという平凡な真実を改めて実感させられた。
《弁解の言葉》 サイゴン陥落から2年半、アメリカ駐在の特派員となっていた私は
グエン・カオ・キをカリフォルニアの新居に訪ねた。アメリカ入国を認められた彼は
ロサンゼルス近郊にスーパーマーケットを開いていた。店から20キロほどの彼の自
宅は、地元の基準では中の上程度の邸宅だった。白い壁のベルを押すと、玄関のドア
が開き、彼が直接、出迎えた。
キは渋い枯れ葉色のシャツに同系色のズボンと、ダンディーな服装だった。変わった
といえば、口ヒゲがやや灰色になったことぐらいだった。
172 :
古森義久:02/03/04 02:55 ID:h8dP+BFG
愛想よく私を客間に招き入れ、インタビューに応じた。キは四男二女の子供たちと妻
とともにアメリカに移ってからの苦労を語ったあと、戦争を回顧した。
「共産主義勢力との民族和解はしょせん幻想だという私の主張は正しかった。完全降
伏か徹底抗戦しか道はなかった。この点でチュー大統領の認識も正しかったといえま
す」だがキは徹底抗戦はしなかった。サイゴンで死ぬと宣言しながら脱出したことを
問わざるをえなかった。
キはやはり表情を硬くした。「退避したのは最後まで最善を尽くし、もう完全な敗北
だと分かったからです。それに私は民間人だった。もし政権の中枢の地位にあれば、
必ず残り、戦って自決したでしょう。でも最後まで戦った将兵には言葉では表せない
ほどの敬意を感じています」こんなキの弁解の言葉はどう聞いてもやはりむなしく響
くのだった。
■豆事典
☆スターリングラードの戦い 第2次大戦でソ連に侵攻したドイツ軍は1942年夏、ヒ
トラーの命令で南部のボルガ川沿いの都市スターリングラード(現ボルゴグラード)を
攻撃した。カスピ海沿岸油田への道を確保するのが作戦の目的だったが、ソ連軍の強
硬な抵抗に遭遇し、パウルス大将の率いる第6軍は同年9月、市街中心部まで達しな
がらも、11月に逆にソ連の大軍に包囲され、将兵25万人が補給路を断たれて孤立した。
ドイツ側は大規模な補給・救出作戦を敢行したが失敗に終わり、ドイツの侵攻部隊は
翌年1月に降伏した。この戦いでソ連側は100万人以上、ドイツ側は80万人が死亡し
たとされる。この攻防戦を機にドイツの攻勢は止まり、ソ連側の反撃が始まるなど、
東部戦線情勢は折り返し点を迎えた。
☆ベトナムの南北分断 1954年に第1次ベトナム戦争が終わり、フランスとベトミン
(ベトナム独立同盟)の代表がジュネーブ協定を締結した。協定では、北緯17度線でベ
トナムを一時的に南北に分断、ベトミン軍はその線より北に退去し、北は「ベトナム
民主共和国」、南はバオダイ政権が統治すると定めた。しかし、56年に統一選挙を実
施するとした最終条項については合意できず、75年の北ベトナム軍による南の制圧ま
で分断が続いた。
☆メコンデルタ チベット高原からタイ・ラオス国境を流れ、カンボジアを経てベト
ナムに至るメコン川の河口で、ベトナム・カンボジア両国に広がる沖積平野。三角州
の頂点はカンボジアのプノンペン付近で、大部分はベトナム領。河のはんらんが多い
低湿地のため、農地としての利用は遅れたが、19世紀からベトナム人の入植が盛んに
なった。現在は農地の5分の4が水田だが果樹園やゴム園も多い。漁業も盛んである。
2010年までに河口付近の塩害などを解決し、栽培作物の多角化を目指すメコンデルタ
開発計画が検討されている。
他社誹謗中傷記事とは古森義久氏の勤務する新聞社の
子会社の夕刊紙が某製薬会社の注射剤の原末ソースに
疑義ありとした一面ぶち抜きの記事のことかな。
(この夕刊紙にはS社が広告を乗せているせいか、
S社株が化けるなどのコラム記事がよく載る)
>>173 疑義つ〜かぁ、もろに●●の疑いありという感じで書いてありましたね
175 :
古森義久:02/03/04 08:03 ID:sdHYLy5Z
■サイゴン陥落−08 饒舌な報道官
「空虚な勝利」と北の英雄は語った
北ベトナム人民軍将校のブイ・ティンを初めてみたとき、口八丁手八丁という古ぼけ
た表現が思わず頭に浮かんだ。まさに口の活動も体の活動も達者の一語につきるのだ。
ポンポンと飛び出す即妙の冗談、皮肉、その背後にひそむ威圧、そしていつもピョン
ピョンと跳びはねるような体全体の動作での存在感の示威に、さすが北ベトナムが全
世界向けの宣伝役として送り出してきた人物だけのことはあると感じた。だが彼は後
にサイゴン陥落の歴史の皮肉を逆に体現する存在ともなった。
《笑顔で握手》 1973年2月4日、ティンは北ベトナム軍事代表団のスポークス
マンの中佐として南ベトナムの首都サイゴンの街に乗りこんできた。サイゴン陥落に
先立つ2年少し前のことである。73年1月のパリ和平協定の結果、北ベトナム代表
団がアメリカや南ベトナムと撤退や停戦を協議するために、サイゴン地区へ送りこま
れた。革命側の代表団は、普段はタンソンニュット基地内の滞在しか許されなかった
が、この日、米側などとの会談で市内の施設へと初めて出てきたのだった。
長年の戦争の、敵同士の公開の場での対面である。アメリカの将軍も、南北両方の将
軍も、みな固くなっていた。しかし、ティン中佐1人だけが笑顔いっぱい、軽やかに
動き回り、フランス語とベトナム語で記者団や南側代表に自由に語りかけるのだ。
ティンは直立する警備の南軍将校に近寄り、肩をポンとたたいて握手を求める。たく
ましい将校が気まずそうに横を向く。と、ティンはその光景をみていた外国記者団に
向けて、なめらかなフランス語でこれみよがしに大声で語る。「こちらはこんなに積
極的に民族和解を求めているんですよ」とにかくそんな調子なのである。
ティンはその2カ月ほど後の米軍の最終引き揚げの場でも、独特のパフォーマンスで
革命側のヒーロー役を果たしてのけた。73年3月29日、タンソンニュット空軍基
地で最後にベトナムを去る米軍将兵グループの撤退を確認する北ベトナム側の検分役
がティン中佐だったのだ。
米軍将兵が黙ったまま整然と並んでC−141機に乗りこむなかで、ティンは例のス
キップを踏むような軽い足どりで笑顔いっぱいに米軍将兵に声をかける。大きな軍帽
に草色の制服、深紅の肩章をきらめかせる。私の目前での光景だった。
彼は搭乗者名簿で、最後にリストアップされた陸軍曹長を探し出し、記念品を差し出
した。鮮やかな彩色の竹のスダレだった。ティンの求めに応じて米軍曹長も握手する。
だが実際に最後に飛行機に乗りこんだのはタンソンニュット米軍基地の司令官ポイン
ト・オデル大佐だった。最後の撤退米兵としてタラップに足をかけたオデルにティン
がさっと駆け寄り、記念品を差し出し握手を求める。
176 :
古森義久:02/03/04 08:05 ID:sdHYLy5Z
だが、オデル大佐は無言のまま首を振り、顔をそむけた。握手にも応じない。プロレ
スラーのような巨大な体格のオデル大佐が涙をこぼすのがはっきりみえた。ティン中
佐は笑顔を崩さず、C−141機が飛び去るのをみつめていた。ベトナム戦争での米
軍の最終撤退を確認するティンは間違いなく歴史のヒーローだった。
《実権は粉砕》 サイゴン陥落でもブイ・ティンはさらに重要な歴史的役割を演じた
とされる。75年4月30日、サイゴンの大統領官邸に突入した北軍将兵は南ベトナ
ム最後の大統領ズオン・バン・ミンとその閣僚らを拘束した。北軍側はその時点で官
邸内部にいた将校では最も階級が高いブイ・ティン中佐にミンらの降伏を確認させる
任をゆだねたというのだ。その結果、次のようなやりとりがあったとされる。
ミン大統領 「私は今日の早朝から政府の実権を移譲しようと待っていました」
ティン中佐 「あなた方は実権を移譲することなど、できません。そちらの実権は
すでに粉砕されてしまった。持っていないものを移譲することはできないのです」
ミンはこの後に放送局に連行され、降伏声明を読まされたのだ。このティンの「実権
はすでに粉砕」という言葉は戦争の劇的な終幕にふさわしい告知として国際的にも伝
えられてきた。
今までのベトナム戦史では、米側で最も広く受け入れられているスタンレー・カーノ
ウ(*)著の「ベトナムの歴史」も、まさにティンによるミンへの引導渡しを大作の結
びとしている。
この書を基とした米英仏合同製作のテレビ・ドキュメンタリー「ベトナム」でも最終
部分はティンとのインタビューで降伏の情景を同様に再現している。肝心のベトナム
側でもティンの記述や談話を基に、彼のミンに対する言葉が戦争の大団円だったとす
る歴史には異論がなかった。
《亡命と変節》 ティンは陥落の日の大統領官邸に入ったときは人民軍機関紙クアン
ドイ・ニャンザンの記者という資格だった。そもそも彼は1945年に18歳でフラ
ンスに抵抗するベトミン組織に加わり、ベトナム共産党にも入党した。父は古都ユエ
に住み、第二次大戦中に日本軍が樹立したバオ・ダイ(*)政権の法務大臣を務めた。
彼の父はその後、ホー・チ・ミンの政府に加わり、国会議長にも選ばれたというから
ティンは名門の出なのだろう。ティンは54年のディエンビエンフーの戦闘に大隊長
として加わり、重傷を負ったため以後は戦闘任務をはずれ、軍のスポークスマンとか
記者になった。
サイゴン攻略戦でも、記者として大統領官邸突入の部隊と行動をともにしたのだとい
う。戦後はクアンドイ・ニャンザンの主筆にまでなり、82年にはベトナム共産党機
関紙のニャンザン(*)に移って、副主筆にまでなった。軍の階級も大佐に昇進した。
177 :
古森義久:02/03/04 08:09 ID:FBZst94f
米軍撤退の最後と南ベトナム政権降伏の最後でともに歴史の証人となった栄誉に光り
輝いているようにみえた。ところがベトナム当局は90年代に入ると、国営ベトナム
通信などを通じて「ブイ・ティンが大統領官邸で最初に敵の降伏を確認したというの
は自己宣伝の作り話だ」という非難を流し始めた。「ティンのデマはカエルがウシに
なれると思い、体をふくらませるような妄想にすぎない」とまでののしった。陥落の
日もティンが大統領官邸に入ったのはミンの降伏がすんだずっと後だったし、ディエ
ンビエンフーでの戦傷も虚言だと断じた。
ベトナム当局のティン糾弾は彼が90年にフランスに亡命し、ベトナム共産党の独裁
や弾圧を非難し始めたことへの反撃だった。彼は政治と経済の自由を説き、民主主義
や多元主義の重要性を強調し、戦後のベトナムにそれが不在なことを悲劇だと語った。
私はブイ・ティンに91年秋、ワシントンで会った。今、自由や民主主義を説くのな
ら、その価値観を曲がりなりにも掲げた側を軍事粉砕したあの戦争は一体何だったの
かと思うのかと問うと、彼は答えるのだった。「空虚な勝利、意味のない勝利のため
に同志たちが生命を犠牲にしたのかもしれないと思うと、心が引き裂かれるように痛
みます」
■豆事典
☆スタンレー・カーノウ(1925年− ) ハーバード大学卒後、タイム誌のパリ特派員
や、ワシントン・ポスト紙、NBC放送、PBS放送などで東南アジア特派員などを
務めた。ベトナム戦争を描いた「ベトナムの歴史」(84年)でエミー賞を受賞。フィリ
ピンに関して、アメリカがスペインに勝利して手に入れた植民地統治、アメリカ化や
マッカーサー元帥の与えた影響などを描いた「われわれのイメージ フィリピンにお
けるアメリカの帝国」(89年)では90年のピュリツァー賞を受賞した。近著に「50年代
のパリ」(97年)がある。
☆バオ・ダイ(1913−97年) 漢字の表記は保大。カイ・ディン(啓定)帝の子として古
都ユエに生まれた。9歳で渡仏、フランスで教育を受けた後、32年にパリから帰国し
て皇帝に即位した。第2次大戦中の40年9月、日本軍がインドシナに進駐し、その援
助下で45年3月に独立を宣言した。しかし、日本の敗戦とともに45年8月25日にはベ
トミンに政権を奪われて退位し、グエン朝は終わった。46年、いったん香港へ亡命し
たものの、第1次ベトナム戦争の発生でフランスから復位と独立を認められ、49年に
国家元首として復帰した。第1次ベトナム戦争の終結によるジュネーブ協定(54年)で
も、そのまま南ベトナムの統治を認められたが、55年の国民投票で米国を後ろ盾とす
るゴ・ジン・ジェム(後に共和制を敷き大統領に就任)に敗れ、以後は南仏カンヌの別
荘に移り住んだ。
☆ニャンザン ベトナム労働党の機関紙で、ベトナム語で「人民」の意味。第1次ベ
トナム戦争中の1951年にベトナム共産党の機関紙として創刊された。
前身はホー・チ・ミンが1925年に創刊した「青年」紙で、現在の部数は約18万部。「ク
アンドイ・ニャンザン」(人民の軍隊)はベトナム人民軍の機関紙で1950年の創刊。
178 :
卵の名無しさん:02/03/04 18:29 ID:Z31UydWh
>174
なんかどす黒いって感じなんだよな こういうことが多いから
179 :
古森義久:02/03/04 18:43 ID:EtV4UrJI
■ サイゴン陥落−09 辞任圧力
チュー大統領は米国を激しくなじった
南ベトナムの大統領を7年半も務めたグエン・バン・チューは少年時代、ピンポンが
大好きだったという。学校仲間の試合ではまず負けることがなかった。その戦法はリ
スクの高い攻めには決して出ず、とにかく相手のミスをじっくりと待つという粘りの
プレーに徹することだったという。
若き日のチューに関する逸話といえばこんな程度で、むしろふしぎなほどエピソード
が少ないのが特徴だった。規律を重んじ、型破りを好まず、慎重きわまる性格の反映
なのだろう。だからこそ幾多の政変、動乱、クーデターを巧みに生き抜き、着実に権
力の階段を登ってこられたのだろう。
《独裁体制》 チューは中部海岸ファンランの農家に生まれ、ユエのフランス系学校
を出て、一時は地方官吏となった。だがその後すぐフランス統治下の南ベトナム軍に
入って順調に昇進していった。フランスが去ってからはアメリカで軍事教練をも受け
た。南部の裕福なカトリック教徒の家庭出身の夫人に影響された形でチュー自身も結
婚後にカトリック信者となった。
ゴ・ジン・ジェム政権を倒した1963年のクーデターの際、チューは首都サイゴン
北の地域に駐屯する第五師団の師団長を務める大佐だったが、この第五師団の動きが
クーデターの成功を決定的にしたため、彼はその後の新政権に重用される。さらに地
雷原のようなサイゴンの将軍たちの権力闘争を的確な判断で巧妙にくぐり抜け、65
年には国家元首に任命された。
1967年には一応の民主的選挙で、グエン・カオ・キを副大統領として大統領に当
選する。チューはその後はアメリカの力を利用しながらキらのライバルをうまく排除
して独裁体制を固め、71年の選挙では再選を果たした。
《キバむく豹》 私が大統領としてのチューと自由に話しあう機会を得たのは75年
3月5日だった。彼が大統領官邸で、サイゴンの日本人記者数人との長時間の会見に
応じ、私がたまたま駐在最古参だったため、すぐわきに座り、進行役となったからで
ある。チューの率いる政権がその後2カ月たらずで滅亡することなど、もちろん夢に
も知らなかった。
さわやかな風の流れこむ官邸3階の広間にチュー大統領は側近数人を従えて、定刻ど
おりに現れた。小柄ながらがっしりとした体駆をダークスーツにつつみ、力強い歩調
で席につく。まだ52歳だが、きちんとなでつけた髪は半分は白くなっている。私は
それまでの3年間に彼を目前にみたことは何回もあったが、白髪が急に増えたように
みえた。チュー大統領は私たちに愛想のよい笑顔を向け、全員と握手を交わした。
180 :
古森義久:02/03/04 18:45 ID:EtV4UrJI
チュー大統領は当時、世界でも最も不人気な国家元首だったと言えよう。政権に反対
する人間を裁判なしに投獄し、政権内部の汚職の横行を許していた。独裁と腐敗が横
行していたが、その一方で共産主義勢力の軍事脅威に対して曲がりなりにも国内の団
結を保ち、アメリカとの複雑な駆け引きをもこなしてきた手腕には非凡な面もあった。
しかし、会見ではチュー大統領はアメリカへの批判にもっぱら熱をこめた。「パリ和
平協定(*)の際には、ニクソン大統領もキッシンジャー博士も、南ベトナムが必要と
する限りの軍事援助を続けることをはっきり誓っていました。なのに、いまや市場で
野菜の値段を値切るように援助を削ってくるのです」
チュー大統領は、パリ協定に違反する北ベトナム側の軍事攻撃に対処するには75年
度にアメリカからの16億ドルの援助が不可欠なのに、アメリカはそれを7億ドルに
削り、さらに3億ドルにまで減らしたのだと語った。正確で流暢な英語だった。だが
アメリカへの不満を述べるうち、顔に赤みがさし、振りかざす手に力が入っていった。
官邸の前庭の芝生をみおろす眺めのよい広間の片隅には剥製のヒョウがキバをむいて
いた。
《運命は一変》 チュー大統領がその次にアメリカを非難するのを私がじっくりと聞
いたのは会見から40数日後、4月21日の夜だった。その40数日間に南ベトナム
の運命は一変していた。
3月10日に突然、火ぶたを切った北ベトナム軍の大攻勢にチュー大統領は中部の要
衝を開け渡すという戦略的な大ミスを犯した。北軍は北部、中部で怒濤のような攻勢
に出て、南ベトナム軍を突き崩していった。その一方で北側は、チューが大統領ポス
トから辞任さえすれば、民族和解を目ざして停戦交渉に応じると宣言し続けた。
チュー大統領は南部に防衛を集中して、徹底抗戦する事をあくまで主張した。だが国
内では北部、中部の喪失の責任を糾弾され、アメリカやフランスからは交渉拒否の路
線を非難され、辞任の圧力をかけられていた。そんな圧力を1カ月程は、はね返して
いたが、ついに耐え切れず、4月21日に全国向けにテレビ演説をして辞任を表明し
たのだった。ただし7年半前の大統領就任時までさかのぼっての長い演説となった。
「72年の終わり、アメリカは私に新協定に調印することを迫ってきました。共産主
義者と協定を結んでの共存など絶対にいやだというと、アメリカは援助を打ち切ると
脅してきた。ニクソン大統領は調印さえすれば必要な援助を保証し、もし共産軍が大
挙、攻めてくれば、米軍が必ず再介入するとはっきり誓ったのです」草稿なしの演説
だった。身を大きく乗り出し、腕を激しく振っての熱気のこもる演説だった。だが彼
が何回も言及するニクソンは前年、ウォーターゲート事件(*)で大統領辞任へと追い
こまれていた。
「しかし、いざ協定ができると、アメリカは援助を減らしていった。共産主義者は中
国やソ連から無制限の援助を受けているのに、アメリカは私たちが戦車を失い、大砲
を失っても、損失を埋めてはくれなかった。共産軍が私たちの郡都や省都をつぎつぎ
に奪っても、アメリカは支援はしてくれないのです」
181 :
古森義久:02/03/04 18:46 ID:EtV4UrJI
もはや悲痛な叫びだった。チュー大統領は、そのうえでアメリカ議会がチュー政権に
は援助を与えないというのなら、自分はいさぎよく退きたい、と宣言したのだった。
ただし彼は「チューこそ平和への障害」という北ベトナムの主張は「共産側のプロパ
ガンダ」であり、「アメリカの世論、世界の世論がそれに引きずられている」と強調
した。
確かにチュー大統領が辞任すれば停戦交渉に応じるようにみせた北ベトナムの姿勢は
まったく虚構ではあった。だが全世界がチュー大統領さえ辞任すれば、ベトナムに平
和が実現するような見通しを信じていたのである。
チュー大統領は辞任に際して「最後までサイゴンに留まり、共産主義者と戦う」と宣
言していた。だがその4日後の4月25日夜、チャン・チエン・キエム元首相(*)と
ともに、それぞれの家族を伴い、ひそかに台湾へと脱出したのだった。
■豆事典
☆パリ和平協定 ベトナム戦争終結のために米国と北ベトナムは1969年ごろから秘密
交渉を重ね、73年1月、パリで南ベトナムも参加して和平協定に調印した。協定には
米軍の全面的撤退や南ベトナム全土での停戦、南政府、革命政府、第三勢力による民
族和解評議会の設置と総選挙による紛争の政治的解決−などが盛り込まれた。
☆ウォーターゲート事件 ニクソン米大統領(共和党)が再選された1972年の大統領選
挙で、運動期間中の同年6月、ワシントンのウォーターゲートビル内にある民主党全
国委員会本部に、盗聴器をしかけようとした侵入者がガードマンに見つかり、逮捕さ
れた。裁判の過程でホワイトハウスによる被告への偽証圧力が発覚。その後、ワシン
トン・ポスト紙などマスコミの追及で事件もみ消しや、民主党への選挙妨害の実態が
次々と暴露された。このため上院が調査委員会を設置、公聴会ではニクソン大統領の
元側近が大統領自身の関与を証言し、ホワイトハウス内の秘密の会話録音テープの存
在までが明らかにされた。世論の反発も強まり、下院司法委員会は74年7月に大統領
弾劾決議を採択した。ニクソン大統領は上院での弾劾裁判開始を前に8月8日、辞任
した。
☆チャン・チエン・キエム (1925年− ) サイゴン出身、陸軍士官学校を卒業しフ
ランス植民地軍に加わる。師団長となり、63年のゴ・ジン・ジェム政権に対する軍事
クーデターに参加、軍事革命委員会の委員となる。64年には反ズオン・バン・ミン政
権のクーデターでも中心的役割を果たし、国防相兼統合参謀本部議長となった。その
後、駐米、駐台大使を歴任し、68年にグエン・バン・チュー大統領の下では内務大臣
を務める、69年には副首相、続いて首相に就任した。反共路線を貫き、北ベトナム軍
と戦ったが、75年に首相を辞任しサイゴン陥落直前に台湾に亡命した。
182 :
一流外資:02/03/05 00:27 ID:5Y3IWp9S
よくこんな会社で働いてるねぇ
まあ、人いろいろだろうけど
>>182 結局、同族だからね。
社員も何らかのつながりがあって、辞めようにも辞められないじゃないのかな。
自浄作用がないから、社会通念上、異常とも思える出来事が起こってしまうのさ。
184 :
古森義久:02/03/05 00:47 ID:7bGvD8Rt
■サイゴン陥落−10 未解のパズル
青年副首相は金塊移送を阻んだ
歴史の大ドラマには、長く解けないナゾはつきものだろう。南ベトナムの青年副首相
と呼ばれたグエン・バン・ハオのサイゴン陥落前後の行動も、そうしたパズルの一つ
だった。
私がハオに最初に会ったのはサイゴン陥落の一年ほど前、1974年(昭和49年)春
である。彼は政府の農業開発基金の総裁だった。そのころはパリ和平協定のうたった
平和が本当に定着するという幻想が現実のように語られ、南ベトナムの経済開発が日
本の政府や企業まで巻きこんで期待されていた。ハーバード大学とジュネーブ大学の
両方で博士号を得たというハオは南ベトナムでも有数のエコノミストとして政権に重
用されるようになった。
《30代副首相》 そのハオに私は会見して、南ベトナム経済の展望をたずねた。彼は
いかにも頭の回転が速そうな度の強いメガネをかけた人物だった。正確な英語で、才
気をほとばしらせるように将来への明るい見通しを語った。74年末にはグエン・バ
ン・チュー大統領に抜てきされ、ハオは経済担当の副首相となった。まだ30代の若
さだったことから、青年副首相などと評された。彼はビン・スエン団の頭領バイ・ビ
エン将軍の若き未亡人を妻にしたことでも有名だった。
ビン・スエンというのは1950年代にサイゴン地区で威勢をふるったマフィアのよ
うな私兵団である。時のゴ・ジン・ジェム政権の軍隊と激烈な市街戦を1カ月も続け
た末に敗れて、頭目のビエンは文字どおりギロチンで斬首された。ビエンの妻は絶世
の美女で南ベトナム三大美人の1人とまでいわれていた。ハオはこの美女と後に結婚
したのである。欧米で学んだエコノミストと土着の私兵団頭領の未亡人と、珍しい組
あわせだった。
そのハオが破局のふちのサイゴンで、奇妙なほど活発に動いた。75年4月21日に
チュー大統領が辞任し、それまでの首相だったチャン・チエン・キエムらとともに国
外へ脱出した。本来なら、そのチュー政権の副首相だったハオも避難しておかしくな
かったが、サイゴンに堂々と残って、次の新政権への権力移譲のプロセスに果敢に介
入した。
チュー辞任の後は副大統領のチャン・バン・フオン(*)が大統領に昇格し、北ベトナ
ム側に停戦交渉を求めた。しかし、北側はフオン政権を「チューなきチュー政権」と
断じ、一切の交渉を拒否し、第三勢力のズオン・バン・ミンの政権なら交渉に応じる
ようなそぶりをみせた。これはあくまでそぶりだった。
だがフランスの南ベトナム駐在大使ジャン・メリヨンは北側がミン政権なら交渉に応
じると判断し、フオン大統領にあの手この手で辞任を勧めるにいたった。ハオはなぜ
かこの複雑な駆け引きに深く関与した。フオン大統領、メリヨン大使、アメリカ大使
館のデニー・エラーマン参事官らの間をあわただしく往還し、調停に努めたのである。
>>183 この荒らしも、同族の絆を深めるためかもYO
186 :
古森義久:02/03/05 02:11 ID:Tq88Y+hA
ハオはフランスの判断を、当初は疑いながらも、結局はミン政権を実現させることが
唯一の生存の道と信ずるにいたった、と後に語っている。私はこの時期の4月24日
夜、ハオが国営テレビに出て、南ベトナム国民に鎮静を訴えるのを聞いた。
《真剣な誓い》 「みなさん、落ち着いてください。冷静になって規律を守ることこ
そ重要です。逃げる必要はない。私自身も絶対にサイゴンに留まることをここに誓い
ます。私の家族も同様です」
真剣な口調でこんな誓いを述べるハオの姿はなんとも頼もしくみえた。フオン大統領
の下でもハオは一応、経済担当大臣代行という立場にはあった。そしてその立場で南
ベトナム政府所有の金塊の国外持ち出しを阻んだのだった。この部分でのハオの言動
にもなお不可解な点が残る。
南ベトナム政府は、4月上旬の時点で16トンの金塊を保有していた。当時、1億数
千万ドルの価値である。危機が深まるとともに中央銀行はこの金塊をサイゴンの金庫
からジュネーブかニューヨークの銀行に移管する計画を立てた。当時、開発途上国の
金準備(*)の外国保管はふつうだった。
中央銀行では大統領の了解を得て当初、スイス航空のチャーター機で金塊を運ぶ準備
を進めた。アメリカからの援助を断たれ、武器弾薬を独自に購入するような場合、金
準備が外国銀行にあることが不可欠という緊急の理由も指摘された。
だが戦時の危険な輸送に適当な保険が出ず、スイス側は降りてしまった。そこでアメ
リカ当局が軍用機での輸送を申し出た。フオン大統領も米側のグラハム・マーティン
駐南ベトナム大使に輸送を要請した。金塊はこん包を終え、フィリピンのクラーク基
地(*)から飛来する米軍機でタンソンニュット基地からいつでも輸送できるところま
で準備が整った。
ところが、そこにハオが介入し、輸送を阻んだ。彼はマーティン大使の命で輸送準備
にかかるエラーマン参事官にはフオンが反対していると告げた。ハオはフオンに対し
ては、ミン政権が成立して金塊の国外移管を知れば責任者を反逆罪に問いかねないと
説得し、方針を変えさせたという。このへんの経緯は当事者の事後の証言では大きく
食い違う。とにかく結果として金塊16トンは陥落直前のサイゴンからの搬出をハオ
の活動でまぬがれたのだった。
私はちょうどこの時期の4月28日、サイゴン市内の一角でハオの姿をみた。ハオは
白いシトロエンの後部座席に座り、外に視線を投げていた。多数の市民が必死で国外
脱出を図っているのに、彼は明らかに落ち着いてみえた。護衛の武装ジープに背後を
守られ、まだ完全に副首相格の扱いだった。ハオはわりにゆっくりと走っていた車の
なかでなぜか表情を一瞬、固くした。路上に立つ私に気がついたようだった。
私はその2日後のサイゴン陥落の日、大統領官邸内でまたハオをみた。北ベトナムに
降伏したミン政権の高官たちとともに拘束された形で、官邸の一室に無言で座ってい
る姿がちらりとみえた。ハオは厳密にはミン政権の一員ではなかったから、あえてそ
こにいる理由はなく、これもまたナゾだった。
187 :
古森義久:02/03/05 02:17 ID:abxd3wkS
《破格の厚遇》 ハオはサイゴン陥落後、革命政権の経済顧問に登用された。経済の
識見を買われたのか、金塊確保の功績を買われたのかは不明だったが、旧政権の高官
としては破格の厚遇だった。だが7年後の1982年、ハオはハノイの政府当局に出
国の許可を得て、ベトナムを離れた。まず腰を据えたフランスで彼は「民族和解を期
待したが、共産主義の独裁政治に幻滅した」と語った。84年には先に移住した家族
の後を追って、アメリカに移っている。
ハオのこうした複雑な軌跡をたどるとき、サイゴン陥落当時の彼の行動はますます未
解のパズルめいてみえるのである。
■豆事典
☆チャン・バン・フオン 1903年生れ。南ベトナムの政治家。メコンデルタのビンロ
ン省に生まれ、ハノイの高等師範学校を卒業して教師となるが、やがて政治の道に進
み、54年にはサイゴン市長となる。しかし、時のゴ・ジン・ジェム政権を批判して辞
職、61年には同政権打倒のクーデター未遂事件に関係し逮捕、投獄された。63年には
ジェム政権が崩壊し、64年9月、サイゴン市長に復帰、63年10月から65年1月まで首
相を務めた。67年9月、大統領選に立候補して落選したが、グエン・バン・チュー政
権下で首相(68年5月〜69年8月)に就任、71年、副大統領に就任した。75年4月に辞
職したチュー大統領を継いで大統領に昇格したものの、すぐにズオン・バン・ミンに
政権を譲った。
☆金準備 もともとは金本位制における正貨準備のことで、同制度の下では、銀行券
を発行する銀行(多くは中央銀行)に持っていけば、金貨と交換できた。また、こうし
た銀行券の兌換のために各国の中央銀行は発券額にあわせ一定量の金地金、または金
貨を保有していた。しかし現在、金本位制を実施している国はなく、外貨準備の一部
として、国が保有している金を指す。
☆クラーク基地 フィリピン・ルソン島北西部に置かれていた旧米空軍基地。1898年
の米西(スペイン)戦争後、米国が陸軍キャンプとして接収した。その後、空軍基地に転
用され、1918年、第一次大戦の名パイロット、ハロルド・M・クラーク少佐を顕彰し
て基地名が決まった。第二次大戦では日本軍の主要な航空基地となり、米軍のフィリ
ピン奪回作戦が始まった44年には、日本軍初の航空機による体当たり攻撃(神風特攻
隊)の出撃が同基地から敢行された。戦後は再び米軍基地となり、ベトナム戦争中に
は、米軍の戦略補給基地ともなった。しかし、91年9月、フィリピン上院が米軍基地
存続の条約批准を否決。91年11月にフィリピンに返還された。
188 :
古森義久:02/03/05 13:01 ID:j/NxOyE1
■サイゴン陥落−11 大使不在】
危機の中、日本人70人が残された
闇のなかで地を揺さぶる砲撃の音を聞くのは、なんともいやなものである。砲弾がい
くら身近に迫ってきても、なにひとつできないという無力感に自分の体から力がへた
へたと抜けていくのがよくわかる。1975年(昭和50年)4月29日の払暁、私は
サイゴンの自分のアパートでそんな思いを味わっていた。サイゴン陥落のほんの前日
である。
砲弾が自分のところに落ちてくる確率は決して高くはないだろう。そう思えば恐怖感
は遠のく。だがつい2日前にも、サイゴン市内への北ベトナム側の砲撃があったばかりだった。122ミリロケット砲(*)が5発、撃ちこまれ、サイゴン川岸にあるマジェス
ティック・ホテル(*)の白亜のビルの最上階が無残に吹き飛ばされた。もう1発は国
家警察本部近くの住宅密集地に落ちて、20数人の死傷者を出した。
《瓦礫の山》 この現場を見に行って、122ミリロケット砲の威力のすごさに改めて
びっくりした。30軒ほどの民家がぬぐい去られたように破壊しつくされているのだ。
ベトナムの民家はコンクリート作りがほとんどだが、それが家の形を全く失い、文字
どおりの瓦礫となってしまった。しかもその破壊された面積が広い。まるで大火災の
跡のようだった。闇のなかでつい2日前のそんな光景を思いだすと、恐怖がもどって
きた。
しかし、ベトナム戦争の長い歴史の中でも、首都サイゴンへの本格的な砲撃は極めて
少ない。今回の一連の砲撃は71年以来、初めてで、私自身もそれまで3年のサイゴ
ン生活ではまったく未経験だった。
29日未明の砲撃は絶え間なく続いた。数えているとまず連続で20発、ビル全体が
震動し、窓ガラスが音をたてる。炸裂音は市街北のタンソンニュット空軍基地の方向
から聞こえてくる。窓からのぞくと、たしかに基地の方向の上空に赤い火の手がもう
もうと吹きあがっていた。砲撃はちょっと途絶えたあとに7発、更にまた7発と、続
いていく。
電話が鳴った。「タンソンニュット基地への130ミリ砲の集中砲撃です。軍用機や空軍
の施設がどんどん破壊されています。ただし共産軍の歩兵部隊はまだ基地周辺には出
てきていません」南ベトナム軍のグエン・タン・ガ少佐だった。私が軍事情報の提供
をずっと依頼してきた協力者である。こんな非常時でもきちんと約束どおりに連絡し
てくれる誠意がうれしかった。
私はこの砲撃で日本人の救援機出動の計画は完全に潰れたなと思った。危機の迫った
サイゴン地区になお残っていた日本人150人程を対象とする日本航空の特別救援機
が複雑な曲折の末にやっと日本を発って、フィリピンのマニラまできていた。サイゴ
ンのタンソンニュット空港には翌三十日に着く予定だった。三十日といえば戦争が終
わった日である。
189 :
古森義久:02/03/05 13:02 ID:j/NxOyE1
戦火の危機のなかで、日本人はわが身の進退をどう処すればよいのか。崩壊が迫った
サイゴンで、この問題は日夜、私達に重くのしかかる重大な試練でもあった。いま思
えば、わが日本はこの種の問題となると、いかに特殊で奇妙な国かを私はサイゴン陥
落の体験で頭を殴られるように知らされたのだった。
ベトナムでの戦争もしょせんは日本人にとっては外国での戦闘である。いくら戦争の
報道に職業的な責務を負い、ベトナムの人間や風土に愛着を感じたとしても、他国で
の紛争となれば、わが身の安全をまず優先させ、場合によっては国外に退避せねばな
らない状況も必ず生じてくる。4月29日未明に私がやや離れて体験したような大砲
撃がもし連日、身近で起きるとなれば、当然、逃げねばならない。問題はそんな状況
の判断をどこでどう下し、実際にどう撤退するか、である。
《後任は未着》 海外の日本人の安全保護というと、責任はまず日本政府の出先機関
の日本大使館となる。サイゴンの日本大使館も3月下旬から在ベトナムの日本人一般
に退避勧告は出していた。その結果、婦女子や一般企業の駐在員の多くは去っていた。
ただし、南ベトナムの存亡が問われるこの重大な時期でも、サイゴンには日本大使は
不在だった。奈良靖彦大使(*)が危機を目前にして次の任地へと去り、外務省はその
後、1カ月以上も後任を送ってこなかった。
だから、後任の人見宏大使(*)は4月11日に赴任すると、サイゴンになお残留する
250人程の日本人の避難問題に直面することになった。これら日本人はベトナム永
住のつもりだった旧日本軍人や固定資産を抱えたビジネスマン、最後の土壇場までは
残らねばならない特派員や外交官がほとんどだった。だからサイゴンが戦場になるこ
とが確実になるまではまず去ろうとはしない。その見通しを立てることは至難だった。
救援機を出す手続きはあまりに非現実的だった。外務省が日本航空に要請するという
手順だが、現地での発着の安全が確保されていない限り出動はされない。だがそんな
安全が確保されていれば、そもそも特別救援機の必要はない。他の定期便も飛べるか
らだ。
他国なら自国民の保護には軍用のヘリや艦艇を出し、危険を冒しても救出の手段をと
るが、日本は海外での戦争とか軍事にはどんな理由でも触れてはならず、たとえ日本
国民の貴重な生命を救うためであっても、その種の危険地域には入れないというわけ
である。その理由は憲法の制約にまで遡るから、外務省だけを非難もできない。
サイゴンでもそんな特殊制約の下に、日本大使館の渡辺幸治参事官(*)と日本航空営
業所の間淳所長とが苦労して準備を進めていた。だが肝心の空港が破壊され、努力は
水泡に帰したのだった。
あとはアメリカに頼る以外になかった。日本大使館は日航救援機の準備と並行して米
軍ヘリでの緊急避難では当初、30人分の便乗を要請していた。4月29日のアメリ
カの最終撤退に際し、日本大使館はその便乗分の増加を求めて一応の了解を得た。
ただし、その打ち合わせにアメリカ大使館を訪れた日本人外交官が自分だけそのまま
米軍ヘリに乗り、避難してしまうという混乱もあった。
>>185 ただの業務命令とちゃぅ。
それほど深い意味合いはないでしょう。
この荒しは執念深くて欲得では出来ないね。
何かを守るのに必死だね。
すると、Sの関係者以外にないね。
192 :
古森義久:02/03/05 23:00 ID:+Rd04kPk
>この荒しは執念深くて欲得では出来ないね。
>何かを守るのに必死だね。
執念深いのは、お互い様だろ。
何も守っていない、邪魔するのが趣味なんだな。
193 :
古森義久:02/03/05 23:02 ID:+Rd04kPk
《来ないバス》 日本大使館は在留日本人に対し、米軍ヘリによる退避ができるから
29日午後にサイゴン大学前に集まるよう指示を流した。報道陣の一部を含め70人
程が集まった。アメリカ当局が準備したバスがきて、ヘリ発進地点へ連れていくとい
う手はずだった。だが日本人のためのバスもヘリもこなかった。米側にはもうそんな
ゆとりはなかったのだ。
70人の日本人は日本大使館員の先導で銃砲声が響く炎熱のサイゴンを歩き回ったあ
げく、そのまま残留するしかなかった。報道陣でも日本大使館に頼らず、アメリカ大
使館に直接に連絡して外国報道陣の枠内でヘリに乗るという道を選んだ日本人記者数
人だけが避難に成功していた。なんとも含蓄の深い相違だった。
■豆事典
☆122ミリロケット砲 北ベトナム軍が榴弾砲の代わりに多用した対地ロケット砲で
ある。誘導されないロケット弾のため命中精度は低かったが、軽量のため数人で操作
でき、電池による点火で重量46キロのロケット弾を最大で約20キロ先まで飛ばし、発
射後はすばやく撤収することができた。
☆マジェスティック・ホテル 1925年創業でサイゴン川沿いに建つクラシックな雰囲
気の高級ホテル。現在の客室数は約120。川沿いという立地条件に恵まれ、上階から
はサイゴン港までが見渡せる。ベトナム戦争中は、日本大使館とも間近の距離にある
ことから、日本の報道陣もよく利用した。95年にリニューアルオープンした。
☆奈良靖彦(1917年− ) 大分県出身。1941年(昭和16年)、東京商大(現一橋大)卒とと
もに外務省入り。ニューヨーク総領事、シンガポール大使を経て、72年にベトナム大
使となり、サイゴン陥落直前の75年2月にカナダ大使に転出した。現在はメリルリン
チ東京支店顧問をしている。
☆人見宏(1916−93年) 朝鮮・京城(現ソウル)出身。1941年(昭和16年)、東大法学部を
卒業し外務省に入った。サイゴン陥落直前の75年4月中旬、ベトナム大使として現地
に赴任したが、同年7月に北ベトナム側がチュー政権側に信任状を提出した大使につ
いては在任を認めない方針を示したため帰国。その後タイ大使を務めた。
☆渡辺幸治(1934年− ) 静岡県出身。1956年(昭和31年)、東大教養学科卒。同年外
務省に入り、在米一等書記官を経て74年に駐ベトナム大使館参事官となり、ベトナム
戦争終結後の76年に本省北米一課長として帰任するまでサイゴンに滞在した。以後サ
ウジ、イタリア、ロシア大使を歴任した。
194 :
古森義久:02/03/05 23:03 ID:+Rd04kPk
■ サイゴン陥落−12 ユエの虐殺
ベトナム認識への懐疑が芽ばえた
私が南ベトナムに特派員として赴任したのは1972年(昭和47年)の4月、サイゴ
ン陥落のちょうど3年前である。日本では佐藤栄作首相の長期政権がそろそろ終盤を
迎えるころだった。
私は、自分がサイゴン特派員になりそうだという話を聞くまでは、ベトナムという国
にも、その地での戦争にも、それほど強い関心は持たず、知識もなかった。日本の新
聞を読んで、戦争が続くのはただアメリカが強引に軍事介入しているからだろうと思
う程度だった。
南ベトナムの国民はみなアメリカの手先のサイゴン政府に弾圧され、アメリカに対し
果敢なゲリラ戦を挑む南ベトナムの解放戦線をこぞって支持しているのだろう、とも
思っていた。この戦争はアメリカ軍とそれに反発する南ベトナム民衆との戦いで、北
ベトナムはその民衆の武装勢力を背後で支援するだけだという構図を描いていた。
ベトナムでの戦いは、外国の支配を排除するためのみの純粋な民族独立闘争だろうと
も漠然とながら考えていた。悪いのはすべてアメリカであり、アメリカさえいなくな
れば紛争は一気に解決し、平和が実現するように感じていた。私の以上のような認識
はほぼすべて日本の新聞でベトナム戦争に関する記事を読むことで形成されていた。
だがいざ現地に着いてみると、すぐにどこかがおかしいと感じるようになった。自分
の頭のなかの認識と目前にみる現実との間になにかズレがあるようなのだ。現地では
たまたま後に一九七二年春季大攻勢(*)と呼ばれる北ベトナム側の総攻撃が始まって
いた。
《北の総攻撃》 戦車を先頭とする北ベトナム軍の大部隊は、南北ベトナムを分ける
北緯17度線の非武装地帯を越えて、南ベトナム最北端のクアンチ省になだれこんで
いた。中部の要衝コンツム市にも猛攻をあびせていた。サイゴン北のカンボジア国境
沿いのアンロク市をも猛攻撃の標的とした。米軍は南ベトナム領内にまだ5万人ほど
残ってはいたが、地上戦闘部隊はすでにほとんど撤退し、空爆や砲撃による支援だけ
だった。
私がサイゴンに着任してすぐ、クアンチ省の省都クアンチ市が陥落した。北軍が包囲
猛攻の末にソ連製のT54戦車50数台をもいちどきに市内に突入させると、防衛にあ
たっていた南ベトナム軍第三師団は敗走した。長いベトナム戦争の歴史でも南側の省
都が完全に北側に制圧されたのは初めてだった。72年5月1日である。
北ベトナム軍はさらに南下の構えをみせた。クアンチから南東へ70キロほどの古都
ユエ(フエ)までも攻撃しかねない情勢となった。ユエにはグエン朝の旧王都としての
由緒だけでなくサイゴン、ダナンにつぐ南ベトナム第3の主要都市としての戦略的重
要性があった。その攻防などということになれば大ニュースである。現地に飛ぶこと
にした。
195 :
卵の名無しさん:02/03/06 01:30 ID:A0RoWDzF
こういう荒らしってのもやはりあの同業他社誹謗中傷罵倒怪文書記事と同じルーツ
なのだろうか?
>>何も守っていない、邪魔するのが趣味なんだな。
やはり、信念などはない。
どっかのコマネズミ社長と同じやな。
197 :
古森義久:02/03/06 08:02 ID:iOCrWlLP
《自衛組織》 支局助手のテ・ゴク・イエンが同行してくれた。イエンは日本の大学
で電気工学を専攻した女性で、日本語に堪能だった。ユエの南15キロほどのフーバ
イ飛行場に着くと、待合室は家財道具を持った人々でびっしりと埋まっていた。カウ
ンターも黒山の人で、出発便の問いあわせや発券をめぐって激しい言葉が交わされて
いた。みなサイゴンへ飛ぼうというのだ。
ユエまでの国道1号線を車で走ると、対向車線はありとあらゆる車両の洪水で、どの
車にも住民がこぼれそうに乗っていた。その人数の多さと流れの勢いのすごさに息を
のんだ。ユエの市内でも南半分は国道沿いに逃げようとする市民の波だった。「香り
の川」といわれるフォン川を越えて市内北部に入ると、こんどは逆に目抜き通りもが
らんとしていた。北ベトナム軍はユエの北方にいるのである。
住民は明らかに北軍から逃げようとしていた。単に戦闘を恐れるだけなら、南へ南へ
と逃げる必要はない。住民の大多数は民族解放をスローガンとする革命勢力の北ベト
ナム軍の進撃から逃げようとしているとしか思えない動きなのだ。ユエ大学の構内に
入ると、学生らしい若者の集団に出会った。避難しようとする気配はない。
「私たちはコンサン(共産側)に対する学生の自衛組織をつくったのです。クアンチが
陥落したあと、逃げた学生も多数います。でも断固、残るという学生も多い。私たち
はサイゴンの政権には反対ですが、共産勢力にはそれ以上に強く反対なのです」
集団のなかで年長にみえる人物が語ってくれた。哲学の講師のカン・フー・トクだと
名乗った。トクに連れられ、学生自衛組織の本部を訪れると、数人がどっと私を取り
囲み、手が痛くなるほど固く握手してきた。彼らは口々に共産勢力、つまり北ベトナ
ムや南ベトナム解放戦線とは戦わねばならないのだ、と強調した。ユエの市民の多く
は「ユエの虐殺」を決して忘れないのだ、とも指摘した。68年のテト攻勢(*)の際
のユエでの虐殺については私も英語の文献でちらりと読んではいたが、ベトナムの人
の口から聞くのはこれが初めてだった。
《目撃者処刑》 ユエの虐殺とは共産側がテト攻勢でユエ市内の一部を1カ月以上も
占拠したとき、南ベトナムの官吏、警察官、軍関係者やその家族を大量に処刑した事
件である。復習、威嚇、警告などが動機とみられ、一般の市民も多数殺された。共産
側がそのまま市街を支配し続けるという可能性もあったため、南ベトナム側市民の間
にひそんでいた秘密の工作員数百人までがどっと浮上してしまった結果である。
秘密工作員たちは一般市民の一部に真の顔をみられてしまった。だが米軍と南軍の反
撃で共産軍はユエから撃退されることとなった。工作員は市内に留まってまた偽装の
生活にもどるには、自分たちの顔をみた目撃者を消すことが不可欠となった。だから
老若男女を海岸とか山岳地域に連れ出し、大量に殺した。殺害されたユエ地区の市民
は総計五千人を超えた。後にユエ近郊の砂浜や谷間から針金でしばられた男女の惨殺
死体がおびただしい数、つぎつぎに発見されている。
198 :
古森義久:02/03/06 08:03 ID:iOCrWlLP
こうした事件の詳細はわりに早い時期からアメリカの国務省外交官でベトナム研究家
のダグラス・パイク(現テキサス工科大学ベトナム・センター所長)らによって立証さ
れ、公表されてはいた。だが日本ではほとんど伝えられなかった。ユエの虐殺を概要
にせよ、きちんと報道したのは当時、毎日新聞記者の徳岡孝夫(*)ぐらいだった。だ
から私もこうした詳細はそのころなにも知らなかった。
しかし、炎暑のユエの混乱のなかで学生たちが「共産側の殺害行為を憎む」などと述
べるのを実際に聞いて、私の内部には日本で形成した自分のベトナム認識への懐疑が
はっきりと芽ばえたのだった。(編集特別委員)
■ 豆事典
☆春季大攻勢=イースター(復活祭)攻勢 パリで行われていた和平協議を有利に運ぶ
ため、北ベトナム軍は1972年3月末、北緯17度線をはさむ非武装地帯、中部高原、サ
イゴン北方などで大攻勢に出た。とくに北軍が大規模砲撃の後に戦車150台と3万人
の兵力を投入して攻撃した北部のクアンチ市は激戦のすえ陥落した。米軍は地上軍を
参加させず、大規模な北爆を再開(ラインバッカー作戦)、中ソの援助を封ずるためハ
イフォン港を機雷封鎖して、補給路に艦砲射撃を加えた。クアンチ市を占拠していた
北ベトナム軍は南ベトナム軍の猛攻を受けて9月に同市を放棄し、撤退した。
☆テト攻勢 ベトナム戦争中も、重要な祝日の旧正月(テト)前後の48時間は、南北軍
ともに戦闘を停止するのが慣例だったが、1968年の旧正月の1月30日、共産側は6万
人以上の兵力で南ベトナム全土を奇襲。サイゴンでは大統領官邸、統合参謀本部など
6カ所が数百人のゲリラに襲撃され、非武装地帯近くのケサン基地や古都ユエ(フエ)
も数万人規模兵力がぶつかる激戦地となった。テト攻勢で共産側は、5万近い戦死者
を出しながらも主要目標を奪取できず、戦術的には失敗とされた。しかし、共産ゲリ
ラによるサイゴンの米国大使館占拠もあり、これを機に米国内の厭戦ムードを一挙に
高めることにもなった。
☆徳岡孝夫(1930年− ) 大阪市生まれ。京大文学部卒業後、1953年(昭和28年)毎日
新聞入社。大阪社会部、サンデー毎日、英文毎日での取材活動を経て、テト攻勢中の1968
年2月にベトナムに特派員として赴任、テト攻勢の激戦地ユエなどを取材した。サイ
ゴン陥落前日の1975年4月29日、米海兵隊のヘリコプターでベトナム沖の米艦に避難
した。中東戦争や三島事件取材も手がけ、学芸部編集委員を経て1985年(昭和60年)に
退社した。以後はフリーとしてのジャーナリスト活動で菊池寛賞などを受けた。
199 :
古森義久:02/03/06 09:05 ID:3BRPtKfO
■ サイゴン陥落−13 解放戦線の虚構
主役は北の共産党と人民軍だった
南ベトナム領内で南ベトナム政府とその政府を支援する米軍に対して闘争を挑んでき
た勢力とは一体、なんなのか。南ベトナムの政府と軍隊に対して武力攻撃をかける人
たちとは一体、だれなのか。この問いへの答えはベトナム戦争の本質の認識に直結し
ている。サイゴンに毎日新聞の特派員として着任した私がまず真っ先に考えねばなら
なかった重要課題だった。
《南独自の人民》 闘争を挑む当事者たちは自らを民族解放勢力と呼んでいた。この
勢力は南ベトナムの政府がフランス植民地主義の下に育ち、アメリカ帝国主義の支援
を受けた傀儡(かいらい)政権だからそれを打倒し、人民を外国支配のくさびから解き
放つ、という目標を宣言していた。一九六〇年(昭和三十五年)に結成が発表された「南
ベトナム民族解放戦線」(注1)という名の組織がその主体である。
この組織の活動目的は、あくまで民族の独立であり、とくに特定の思想はなく、メン
バーはみな南ベトナム土着の人間だという主張だった。北ベトナムとは別個の南独自
の人民によるイデオロギーにとらわれない民族独立闘争の組織ということだった。
民族解放戦線は時のジェム政権に容赦のない武力闘争を挑んだ。数え切れないテロを
断行した。もともと弾圧と独裁のジェム政権の側も過酷に反撃した。だが解放戦線側
の軍事闘争は政治工作と相乗し、効果を高め、政権の基盤を揺るがす。ここでジェム
政権を従来、背後で支援していたアメリカが直接、部隊を投入して、南ベトナム政府
を軍事面でも支えるようになった。
民族解放戦線の側は69年には「南ベトナム臨時革命政府」の樹立を宣言する。民族
解放戦線の拡大政治組織で、南ベトナム領内に従来のベトナム共和国(南ベトナム)政
府以外にももう一つ政府を興しうる勢力がある、という建前だった。この臨時革命政
府ももちろん北ベトナムとは別個の政体という主張だった。北ベトナムは南領内には
北の兵士も闘士もまったくいないと宣言していた。
《裏の真実》 結論を先にいえば、北ベトナム側のこうした宣言も主張も、みな壮大
な虚構だった。歴史的な大フィクションだった。南ベトナムを主舞台とする30数年
の戦争は最初から最後まで北ベトナムに本拠をおくベトナム共産党が主導し、ベトナ
ム人民軍が主役となった軍事、政治の闘争だったのだ。しかもその戦いは外国の支配
や支援を排除する民族独立の闘争であると同時に、マルクス・レーニン主義という強
烈なイデオロギーに貫かれた共産主義革命でもあった。
当事者のベトナム共産党がサイゴン陥落後に闘争中の「南ベトナム独自の人民の政治
イデオロギーなき民族解放闘争」という構図がフィクションだったことをあっけらか
んと暴露していた。
200 :
古森義久:02/03/06 09:06 ID:3BRPtKfO
革命の当事者が自ら信ずる大義や正義のために、戦術として虚偽のプロパガンダを叫
び続けるのは、ごく自然である。だが革命に直接かかわりのない第三者が同じプロパ
ガンダを流し続けるとなると、また別の問題だろう。日本の知識人やマスコミの多く
は知ってか知らずか、ベトナム戦争のこの虚偽を実態として受け入れ、語り続け、広
め続けたのである。私も日本のそんな知的環境、政治的風土にどっぷりと漬かってい
たから、現地で暮らし始めると、虚構と現実の落差にとまどうのは当然だった。
いま思えば、私の3年半のベトナム体験は、この巨大な虚構のさまざまな側面にだま
され、まどわされながらも、やがてはその一つ一つの仮面のほころびに気づき、裏の
真実をのぞいて、頭を殴られる思いに襲われるという経験の連続だった。サイゴンに
居を定め、ベトナム語を少しずつ覚えて現地の人に接近していくと、まず南ベトナム
に戦いを挑む勢力をコンサン(共産)と呼ぶのがふつうであることを知った。そしてだ
れもがその南の共産勢力が北ベトナムと一体であり、その延長であるという認識をご
く自然に持っていた。
サイゴンでは共産主義勢力をカクマン(革命)勢力と呼ぶ人もいた。だが日本のマスコ
ミの大部分が使った「解放勢力」という表現を使うケースは官民ともになかった。南
ベトナム民族解放戦線という組織の省略名称としてマッチャン・ジャイホン(解放戦
線)という固有名詞は使われた。だがジャイホン(解放)という言葉だけを単に形容や
特徴づけとして用いる「解放側」とか「解放勢力」「解放軍」という表現はまず絶対
に使われなかった。
《不当な偏向》 欧米のマスコミも同様だった。AP(*)やUPI、ロイター(*)、A
FP(*)という国際通信社も南ベトナム政府を攻める側を「共産側」「共産軍」とか「北
ベトナム軍」「ベトコン」、または「革命勢力」と表記する場合がほとんどで「解放
軍」とか「解放勢力」という言葉を一般表記として使う例は私の知る限り皆無だった。
解放戦線の名称として使う場合は別である。
「解放」という言葉は政治プロパガンダとしては強力な機能を果たす。「束縛を解い
て自由にする」という言葉の意味自体にすでに主観的な価値判断が入っているからだ。
「解き放つ」という言葉そのものが正しいことをする側という意味に通じるからであ
る。闘争の両当事者の一方を解放側と断じれば、他方は束縛側とか弾圧側となってし
まう。正義側と邪悪側と呼ぶほどの主観的なレッテル言葉なのである。
もし朝鮮半島で戦争が起きて、北朝鮮の軍隊が南下して韓国軍と米軍を相手にして戦
う場合、日本のマスコミがその北朝鮮武装勢力を解放軍とか解放勢力と呼んだらどう
だろう。北朝鮮はかねてから韓国の米国帝国主義からの解放を唱えてきたから、北の
立場からすれば、それほど非現実的な想定でもないだろう。だが米韓の立場、あるい
は国際的な立場からすれば、アメリカの同盟国である日本が、同じ同盟国の韓国が攻
撃され、敗退することを「解放」と呼ぶのがいかに奇異な主観かはわかるだろう。
革命をする側が自らを解放勢力と呼ぶのは自らの闘争を正義と断じる主張の反映とし
て、それなりに自然ではあが、革命をされる側からすればとんでもない暴力勢力、無
法勢力となる。
201 :
古森義久:02/03/06 09:06 ID:3BRPtKfO
第三者にとっては闘争の一方を解放側と呼ぶのは、そちらの側がすでに正義だとする
基本的な価値判断を下すことに等しい。日本のマスコミの多くはベトナム戦争では共
産主義の革命を進める側を解放側と呼んだのだった。その用語の選択は客観報道から
の逸脱といわざるをえまい。
特に極端なのは全国の新聞など各マスコミにニュースを流す共同通信社(*)だった。
共同はベトナム戦争中、APとかUPIという外国通信社のサイゴン発などの記事の
翻訳では革命勢力を評するのにいつも解放勢力という用語を使っていた。原文では「共
産軍」とか「北ベトナム軍」となっている英文記事でもなぜか共同が和訳して各新聞
社に配信する日本語記事では全て「解放勢力」とか「解放軍」「解放側」となってい
た。もし意図的に英語の原文を異なる意味の日本語にしていたとしていたら、国際規
模の不当な偏向ジャーナリズムということになろう。
■豆事典
☆南ベトナム民族解放戦線 1960年12月に反ゴ・ジン・ジェム政権・反米と南北ベト
ナム統一を目指して設立された。62年には北ベトナムのベトナム共産党が公然と指導
層に加わり、米国は共産主義勢力として、その軍事組織をベトコン(越共)とも呼んだ。
公式にはサイゴン陥落後の76年6月、ベトナム社会主義共和国の誕生とともにベトナ
ム共産党に統合された。
☆AP通信社 Associated Pressの略。世界最大の通信社。1848年にニューヨークの
新聞6社が欧州情報を共同で配信する組織を作ったのがはじめで、新聞協同組合とし
て運営され、APから配信を受ける米国内加盟社はAP側に分担金と地元ニュースな
どを提供する。
☆ロイター通信社 1849年にパリで電信・伝書バトによる通信事業を始めたドイツ生
まれの英国人電信技士ポール・ジュリアス・フォン・ロイター(1816−99)が、英仏海
峡に電信回線が敷設された1851年にロンドンで創設した。当初は商業通信を手がけて
いたが次第に新聞社などの配信先を増やした。現在はオーストラリア、ニュージーラ
ンドを含む通信社・新聞社の共同機関的組織(Reuters Trust)となっている。
☆AFP(フランス通信社) Agence France Pressの略。フランス政府から助成を受け
ている半官営の国際通信社。前身は1832年にパリで設立された外国新聞の翻訳・配信
サービス会社「アバス」。1835年に世界最初の近代的ニュース通信社に衣がえ、19世
紀中には世界中に特派員を派遣し国際ニュース報道の体制を整えた。第2次大戦では
多くの社員が反独地下活動に加わり、パリ解放後の1944年に現在の名前となった。
☆共同通信社 1914年(大正3年)に発足した国際通信社が大正15年(1926年)に日本新
聞連合社に改組、1936年(昭和11年)には電通の通信部を合併して同盟通信社となった
が、戦後の1945年(昭和20年)11月にマスメディア向けの共同通信社と、一般法人向け
の時事通信社に分かれた。加盟新聞社の出資による社団法人というのが建前となって
いる。
202 :
古森義久:02/03/06 09:12 ID:v/sn1+xe
■ サイゴン陥落−14 パリ平和協定
そして米軍はベトナムを撤退した
パリ和平協定が発効した日の早朝、サイゴンの空は茜色に美しく彩られていた。私は
大統領官邸の周囲をゆっくりと車で走りながら、そんな情景を眺めた。さわやかな空
気のなかで、中央郵便局前のカトリック教会の鐘がすずしく鳴り響いた。和平協定に
よる停戦の発効を告げる鐘だった。
《弔鐘》 協定は停戦や民族和解への手続きを詳しく決めていた。全世界を揺るがし
てきたベトナム戦争の終わりを宣言していたのだ。街路を往来する人やバイクの動き
にもほっとした様子がうかがわれた。私もひょっとしたらベトナム戦争はこれで本当
に終わり、真の和解や平和が実現するのではないかと一瞬、思った。1973年(昭
和48年)1月28日のことである。
だが和平協定は完全な停戦をただの1日も、もたらさなかった。アメリカの離脱だけ
は徹底して達成された。だが協定は戦うベトナム人同士に和解はもたらさず、2年後
に北ベトナムが協定で禁じられた軍事力で南ベトナムを滅ぼす結末となった。振り返
れば、あの朝、サイゴンで聞いた和平の鐘は南ベトナムへの弔鐘でもあったのだ。
72年3月末から始まった北ベトナム軍の春季大攻勢はクアンチ、コンツム、アンロ
クという3省都を主目標に激しく続いた。北軍は当初、クアンチを占拠したが、その
後、南ベトナム軍の必死の反撃で撤退し、省都を1つも保持できないまま夏を迎えて
いた。この過程では米軍の空爆と艦砲射撃とが南軍への強力な支えとなっていた。
私は戦局の報道に全力をあげ、前線のかなり近くまで出ての取材を続けた。トンキン
湾(*)で北ベトナムへの空爆を実施するアメリカ空母へも飛んだ。クアンチの戦場で
死んだ北ベトナム軍兵士の日記を入手し、訳文を読んだ。グエン・ジン・タオという
その兵士はハノイに残した妻の身を思い、故郷のジャスミンの花の香を懐かしみなが
ら、人民の理想のために死ぬという決意を記していた。私はそれを熟読し、この戦争
が「話しあえばわかる」という性質の闘争ではないのではないかと、初めて感じさせ
られたものだった。
しかし、戦場での攻防もやや鎮静するにつれ、サイゴンの街には「停戦交渉」とか「ア
メリカの全面撤退」という噂が流れ始めた。72年7月アメリカのヘンリー・キッシ
ンジャー大統領補佐官と北ベトナムのレ・ドク・ト労働党(現共産党)政治局員がパリ
で秘密に会談したことが明るみに出たのが契機だった。
この会談は内容を秘密にしたまま、その後、何度も重ねられた。一度、終わるたびに
キッシンジャーか、その副官のアレグザンダー・ヘイグ(*)が特使としてサイゴンに
飛んできて、チュー大統領ら南ベトナム首脳に会見した。私たち特派員はそのたびに
タンソンニユット空港に出かけ、アメリカの特使に質問をぶつけた。熱気でかげろう
の揺らぐ飛行場に降り立ったキッシンジャーもヘイグも愛想はよかったが、会談の内
容はなにももらさなかった。
203 :
古森義久:02/03/06 09:19 ID:fuL0BJbQ
《突然の暴露》 私の特派員活動もそれまでは炎天下を飛びまわり、見たことをただ
書くという戦場取材が主だったのが政治家や外交官との話しあいから意味ありげな情
報の断片を拾いあげ、モザイクを組んでいくような政治取材へと変わっていった。
アメリカがベトナムから完全に離脱しようとしていることはもう明白だった。南ベト
ナム政府への軍事、経済の間接援助は続けるが、戦争自体はベトナム化して、後はベ
トナムの当事者同士に全てを任せるという姿勢である。ただアメリカの撤退は敗退で
あっても、同盟国の放棄であってもはならない。「名誉ある撤退」というわけだった。
だが当然ながら南ベトナム側は、各界こぞってこの頭越し交渉に反発した。米軍捕虜
を北側から取り返し、1日も早く南から撤退したがるアメリカに不利な協定を押しつ
けられてはたまらないという抵抗だった。南ベトナムからアメリカは全面撤退するの
に、北ベトナム軍の大部隊は手つかずなのはおかしい、というような苦情でもあった。
チュー大統領はアメリカへの抵抗の過程でアメリカで教育を受けたオイのホアン・ド
ク・ニャという青年を重用した。ニャは長身のハンサムな人物で、キッシンジャーを
みおろすようにして、なめらかな英語で議論を展開し、米側からは嫌われ、南ベトナ
ム側では一時、人気を博した。やがてアメリカと北ベトナムの合意は南ベトナムの反
対のために協定にはできないという状態ともなった。
北ベトナムはそんな事態に不満を爆発させた形で、72年10月26日、協定草案を
突然、ハノイ放送で暴露する。アメリカはチュー大統領に対し協定にあくまで反対す
るなら援助を全て打ち切ると脅してまで同意を迫った。だがこんどは北ベトナムが要
求を拡大した。アメリカが反発し、北の中枢にかつてない規模の大爆撃を断行する。
72年暮れから七三年初頭にかけての「クリスマス爆撃」(*)だった。
そんな曲折を経てなんとかまとまった協定は、南ベトナムでの停戦と北ベトナムへの
米軍の空爆停止、米軍の撤退と米軍捕虜の解放をまずうたっていた。政治面では南ベ
トナムは国際的監視の下に総選挙を実施して、自らの将来を決める。その選挙の実施
のために南ベトナム政府と南ベトナム臨時革命政府は第三政治勢力を加えて、3派平
等の「民族和解一致全国評議会」を樹立することになっていた。
《特異な役割》 この協定は73年1月27日にアメリカ、南北ベトナム、南臨時革
命政府という四者により調印された。正式には「ベトナムにおける戦争終結と平和回
復に関する協定」と題された。全世界はベトナム和平の到来として歓迎した。
日本でも、和平協定にチュー大統領が反対している段階から、チューを「平和への障
害」と糾弾し、「一日も早い協定を」と叫ぶ声が圧倒的だった。その声は「ベトナム
戦争はアメリカさえ去れば、ベトナム人同士が話しあい、民族の和解と平和とが必ず
実現して、円満に終結する」という主張に基づいていた。だがこの協定できちんと実
現されたのは米軍の撤退と米軍捕虜の返還だけであり、民族の和解も恒久の平和も協定がうたう話しあいや総選挙は、決して実現することがなかった。
204 :
古森義久:02/03/06 09:26 ID:ff+z+xnG
あの協定は、結局、何だったのか?私はニューヨーク・デーリー・ニューズ(*)のジ
ョー・フリード記者の言葉を思いだす。フリードは当時、サイゴン駐在十年のベテラ
ンだった。
「いいか、だまされるなよ。パリ協定なんてアメリカのベトナム離脱のための出国ビ
ザなんだ。米軍捕虜を取り返し、一応の格好をつけて去るためだけの書類だよ。後は
南ベトナムがどうなろうが知らぬ顔、武器と弾薬は提供するからベトナム人同士で好
き勝手にやってくれ、というわけさ」
だがアメリカはその武器と弾薬の提供さえ打ち切っていく。そしてパリ和平協定は北
ベトナムの勝利と南ベトナムの崩壊への道を開くという特異な歴史的役割を果たして
いくのである。
■豆事典
☆トンキン湾 ベトナム北部と中国南部に挟まれた奥行き約500キロの湾。沿岸には
港も多い戦略的要衝。1964年には米駆逐艦が北ベトナムの哨戒艇に攻撃されたとして
米軍が報復空爆を実施、ベトナムへの軍事介入を開始した「トンキン湾事件」の舞台
ともなった。
☆アレグザンダー・ヘイグ(1924年− )陸軍軍人として朝鮮戦争、ベトナム戦争に参
加した。70年に国家安全保障会議のメンバーとなり、72年から73年にかけて、ニクソ
ン米大統領とグエン・バン・チュー南ベトナム大統領の間の連絡役となる。73年、陸
軍参謀次長、次いでニクソン政権の首席補佐官となり、74年には北大西洋条約機構(N
ATO)軍最高司令官。その後、ユナイテッド・テクノロジー社長に転身した。81年
にレーガン政権の国務長官に登用されるが、中東政策などをめぐる政権内の意見対立
から82年、辞任した。88年に共和党保守派として大統領候補指名を目指すが予備選段
階で脱落した。
☆クリスマス爆撃(ラインバッカーII作戦) 1972年12月18日から実施されたベトナム
戦争での米軍最後の北爆作戦。第2次大戦以来最大規模の爆撃機編隊が投入され、初
日は3波に分かれ、129機のB52爆撃機が空港や鉄道施設を目標にハノイ近郊を爆撃
した。11日間の作戦を通してグアムやタイから飛来したB52は延べ約700機、戦闘爆
撃機は延べ約2500機が参加、爆弾投下量は約4万トンに上った。米軍は15機のB52を
含む計26機を北ベトナム軍の防空ミサイルなどにより撃墜されたが、北ベトナム側も
空襲で甚大な被害を被り、和平に傾いたとされる。
☆ニューヨーク・デーリー・ニューズ 1919年創刊、ニューヨークで発行されている
タブロイド判大衆紙。かつてはアメリカ最大の220万部を発行した。
205 :
卵の名無しさん:02/03/06 23:07 ID:vgR5B3Tl
こんなとこ荒らすヒマがあるなら給料上げてくれよな。。。。。
206 :
卵の名無しさん:02/03/07 00:21 ID:JQGiUFv1
>>205 一族のために配当上げるので給料は上げない。
そのかわりバイトは認める。
208 :
古森義久:02/03/07 00:55 ID:A1ZlGb7m
■ サイゴン陥落−15 チュー政権打倒
「解放戦線はずっと怖くて嫌いだ」
戦火の南ベトナムで、私はとにかく現地の普通の人たちが戦争をどう見ているか知り
たいと思った。そのため知らず知らずのうちに、その地の風土や社会や習慣になじも
うとする努力を重ねていったようである。歩を進めるにつれ、新しい意外な発見をす
るが、こんなはずはない、これは間違いだろう、と言った驚きと疑いに襲われ、それ
がさらに前に進むエンジンとなった。
《庶民の本音》 私が接し、問いかける南ベトナムの人たちは一様に「チュー政権も
いやだが、コンサン(共産側)はもっと嫌いだ」という反応を見せた。アメリカや米軍
将兵に対しても、特に嫌悪も恐怖も見せない。むしろ好意をみせる人も多い。日本で
理解していた反応とは正反対である。どうして日本の新聞で読んでいた事とは違うの
か?という疑問に当然、襲われた。
当初、私にそんな反応をみせるベトナムの人がウソをついているのではないか、とう
たぐった。ベトナム共和国では解放戦線への支持表明は犯罪とされる。背景のわから
ない外国人に危険を冒して真実を告げるのは愚の極みだろう。それに革命側を嫌いだ
などというのは一部の金持ちだけなのではないか。
そういぶかりながら、なお探求を続けたがベトナム語を学び、広い階層の人と接すれ
ば接するほど、革命勢力を恐れ、嫌う心情の吐露にぶつかるのだった。しかも本音を
語っているとしか思えない反応なのである。例えばサイゴンの洋装店で働く20代後
半のマイという女性は幼時の体験をためらいがちに語った。
「私は10歳の時に解放戦線のゲリラに誘拐されたのです。両親がミト(*)でわりに
大きな商店を開いていて、金持ちとみなされ、身代金を求められました。そういう誘
拐は多いのです。私は数日間、縛られて目隠しをされ、メコンデルタの奥の小島に監
禁されたのですが、その間にゲリラが同じ場所に捕まっていた男の一人を処刑したの
です。私はその男の殺される声が忘れられません」
男はおそらく同志を裏切ったのだろう。ナイフのような刃物で刺され絶叫をあげて死
んでいった。マイはその後、両親が身代金を払ったおかげで解放されたが、男の叫び
がいつまでも耳に残った。その後は、解放戦線というと、どうしてもその声を思いだ
し、恐怖を感じてしまうというのである。マイは私の支局に勤めるベトナム人女性の
友人だった。
南ベトナム政府も革命側を同様に殺した。米軍も革命ゲリラを暗殺するフェニックス
作戦(*)を展開していた。戦争は殺しあいなのである。だから革命側のそんな粛正行
為だけを取りあげて、一般民衆の反応を論じるのは不公正ではあろう。
>>205 こんなとこ見るヒマがあるなら売上成績上げてくれよな。。。。。
210 :
古森義久:02/03/07 08:11 ID:KKgY3F38
《反共産主義》 だが親しい友人や兄弟を戦闘で失ったという南ベトナム軍の若い兵
士たちが腕に「コンサンを殺す」などという入れ墨をしているのをみると、長年の闘
争で積み重ねられた本能的な怨念の深さを認めざるをえなかった。ベトナムでの戦争
はそのうえ戦場の区分がはっきりしなかったため、殺しあいは民間の領域にまで複雑
な形で広がっていた。こうした怨念の広がりがわかると「チュー政権は嫌いだが、北
ベトナムや解放戦線はもっとずっと怖くて嫌いだ」という人たちがなぜ多いのかと言
う事も、おぼろげながら判明してくる。
ただし、この種の憎しみや恐れは理屈抜きの心情だったといえよう。闘争のそもそも
の原因となった民族独立とか共産主義という理念とはまた異次元の感情だろう。だが
サイゴン市民にはコンサンの社会体制では個人の自由や権利が犠牲にされ、反対分子
は有無をいわさず切り捨てられる、というような漠然とした政治意識をそれなりの言
葉で語る人も少なくなかった。
共産主義勢力へのその種の反発には、チュー政権やアメリカによる反共宣伝の受け売
りも多々感じられた。しかし、実際に革命側の地区で生活した人たちからの伝聞も多
かった。その種の共産主義に対する反発の由来をさかのぼると、やはり1954年の
ジュネーブ協定成立で北ベトナムから南へ移住したカトリック教徒たちの体験に突き
あたる。
北ベトナムに住むカトリック教徒約100万人は共産主義政党の独裁支配下に住むこ
とを嫌い、南ベトナムへ移るという道を自ら選んだのだった。この人たちは短期間に
せよ、ホー・チ・ミンの率いるベトナム労働党(共産党)が政権をとり、統治を始めて
からの北ベトナムの各地域で生活した体験を有していた。
彼らは、共産主義無神論の政権による信仰の自由の抑圧が南下の主な理由だと語るの
だが、この北のカトリックの人たちの口調は、共産主義がどんなものか、自分たちは
よく知っているのだ、と自信に満ちているのだった。
《神父の闘争》 こうしたカトリック教徒が集中して住む地域としては、サイゴン北
東30キロほどのホナイの町が有名だった。国道1号線沿いのこの町はわりに狭い地
域に大きな教会がいくつも立ち並んでいるので、車を走らせて入ればすぐにわかった。
町には製材や家具の製造、販売の店がずらりと軒を連ね、ぎらぎらとした活気がみな
ぎっていた。ホナイの町の住民7万人はほぼ全員が北ベトナム出身のカトリック信者
だった。
町は7教区に分かれ、それぞれ教会と神父とが核となり、個別の行政単位ともなって
いた。神父の多くは北ベトナムで実際に武器をとって、ベトミン軍と戦った経験を持
つ反共の闘士でもあった。しかし、カトリック教徒は南ベトナム政府に対しても激し
い闘争を挑んだ。この辺がベトナム戦争の知られざる複雑な側面だった。73年1月
にパリ和平協定が成立して間もなく結成された「南ベトナム刑務所施設改善要求委員
会」という組織は、チャン・チンというカトリック神父が指導者となっていたが、こ
の組織はチュー政権に対し政治犯の釈放や待遇改善を求める反政府グループだった。
211 :
古森義久:02/03/07 08:12 ID:KKgY3F38
チャン・フー・タン神父が率いる「反腐敗人民運動」(*)という組織もチュー政権に
対し、根強い抗議活動を続けた。74年から75年にかけ、全国規模でデモや集会を
たびたび開き、チュー政権に汚職の一掃を迫るとともに、チュー自身の辞任までも求
めるに至った。タン神父はさらに75年春、北ベトナム軍の総攻撃でチュー政権の基
盤が揺さぶられると、「救国行動委員会」という組織を作り、チュー打倒を叫んだ。
民族和解の新政権ができれば、北が停戦の交渉に応じると主張したのだった。
革命側はカトリックの反政府行動にはいつも支援を送った。だがいざ南ベトナム全土
を制圧すると、こんどカトリック組織をあっさりと抑えこみ、骨抜きにしたのだった。
私はサイゴン陥落から2カ月ほど後、タン神父を市内の教会に訪れた。教会内部の薄
暗い一室にひっそりと座ったタンはチュー打倒を街頭で叫んでいたころとは別人のよ
うにやつれていた。「とにかくすべては過ぎ去ったのです」と口ごもりながら語る様
子が痛々しかった。
■豆事典
☆ミト ベトナム南部サイゴンから南西約70キロのメコンデルタ低地にあり、ティエ
ンジャン省の省都。17世紀に中国の明が滅び、南下した難民が先住クメール人を追い
払い定住したが、1862年にベトナムがフランスに割譲、仏陸軍の手で湿地の排水が行
われ、稲作・ココナツなどの農耕が始まった。ベトナム戦争では戦火の被害を大きく
受けた。
☆フェニックス作戦 1968年、浸透するベトコン情報員を一掃し、ベトコン協力者を
威圧する目的で、米軍とCIA(米中央情報局)が南ベトナムの警察・情報・軍当局と
共同で開始した摘発作戦。ポスターやパンフレットなどメディアを利用してベトコン
協力者の潜伏場所の密告を奨励するとともに、共産側からも情報提供者や亡命者を取
り込もうとした。また、ベトコン情報網への逆浸透作戦を行い、南の各農村などでベ
トコン容疑者のブラックリストを作成、特殊部隊による容疑者の大量逮捕、拷問・処
刑も行った。無実の犠牲者が多数出た一方で、共産側の情報網も甚大な被害を受けた
といわれる。
☆反腐敗人民運動 ベトナムのカトリック教徒はゴ・ジン・ジェム政権時代は政府支
持が多かったが、チュー政権では次第に官僚や軍人の腐敗に反感が広がり始め、1974
年6月、301人の神父が「チュー政権の腐敗、汚職に挑戦する」との宣言を発表、同
年8月に指導者のチャン・フー・タン神父を議長とする反チュー政治組織「反汚職人
民運動」を結成した。タン神父らは翌9月、ユエ(フエ)で5000人規模の大衆デモを組
織、政府批判はアンクアン寺派の仏教徒などにも広がっていった。その後、タン神父
らは75年3月には、グエン・カオ・キ元副大統領らとともにチュー政権にとってかわ
る反共、非共陣営を糾合した新政権の樹立を目指す「救国行動委員会」を結成した。
212 :
卵の名無しさん:02/03/07 08:18 ID:kYA0bD1d
外資並みとまではいかないまでも世間一般の薬品会社並みの給料を
出してくれ
213 :
古森義久:02/03/07 08:29 ID:tbc5pwqN
■ サイゴン陥落−16 虚偽と打算の街
極限でも人々は明るく生きていた
戦火のなかの南ベトナムはふしぎな魅力の国だった。サイゴンの社会には嫌悪を催す
いやらしさと、胸にしみるけなげさとが雑居していた。人間の醜さと美しさ、悲しさ
と明るさがむき出しの世界だった。ベトナム土着の原色の風俗の上に、中国、フラン
ス、アメリカの文化を加えて、かきまわした東と西、旧と新との混然一体の社会でも
あった。精霊信仰や運勢占いが完ぺきなフランス語で語られる、というふうなのだ。
《直情の背後》 南ベトナムの人たちは本来の民族性からか、戦争による死生観から
か、情を素直にほとばしらせるようにみえた。肉親の死への号泣、政府の無法への悲
鳴、しっとに狂う金切り声、だまされて怒る罵(ば)声…。人間のそんな激情が日常に
あふれているのだ。東京の満員の地下鉄で通勤客がみせる抑えた表情とはちょうど正
反対だった。
だがその一方で、サイゴン社会にはだれも心底は他人を信じないという虚偽と不信の
志向も強かった。直情の背後にしたたかな二面性がちらつく。人の裏をかきあうウソ
が飛び交う。だまさなければ、だまされる。金銭万能の傾向が強い。カネだけがもの
をいう。腐敗と背徳の社会でもあったのだ。
だが私は、まずベトナムの男女がいつ襲ってくるかわからない死とか破壊の影に耐え
てひたむきに、明るく生きている姿に心を揺さぶられた。自分のそんな反応がいかに
も平板だとは思ったが、のどかな晩春の東京から戦火の地に飛びこんできて目撃した
人間の生き方の対照は強烈だった。
私は特に197年(昭和48年)1月にパリ和平協定が成立した後、ベトナムの人たち
に広く深く接し、その喜怒哀楽を身近に感知するようになった。和平協定でたとえ虚
構にせよ、平和の展望が生まれた感じのサイゴンでは軍事情勢を追うことを小休止し
て、サイゴン社会に踏みこむゆとりが出てきたのだった。
《したたかさ》 しかしサイゴンの生活になじむまでには手痛い目にもあった。とに
かく外国人は富裕だからいくら騙しても当然という了解があるようなのだ。もっとも
ベトナム人同士でも騙されて損をすれば、騙された方が愚かだとする風潮もあった。
美容院経営の中年女性が所有するという市内の中心部のアパートを借り、契約書らし
い書類にサインして住み始めると、早朝、見知らぬ男が訪れて「あなたの入居は違法
です」と告げる。女性はその男から借りたアパートを無断でまた貸ししたというのだ。
何とか話をつけ、こんどはさらにまたかなり高い代金を払って、そのアパートに電話
をつけた。翌朝、ベルが鳴ったので受話器をとると、もう二人の男が話しあっている。
何のことはない。独立した電話ではなくて隣の家との親子電話を私のアパートに延長
してきただけと判明した。もちろん代金は電話の新設分を取られたのだ。
>>212 薬品会社ではなく、世間一般の会社の状況を考えてみようよ。
リストラされてハローワークに通い詰める中高年から見れば、給料が貰えるだけパラダイス。
215 :
卵の名無しさん:02/03/08 06:46 ID:aUu3xO72
>>214 世間一般でリストラは悲惨といわれているが電機業界、通信業界の
上場会社の殿様リストラの実態はあまり知られていない。
例えば
富士通 45歳退職金プラス割増金(4年分)= 6100万円
丸紅 50歳退職金プラス割増金 =6700万円
やはり勤めるなら大手ということだ
216 :
卵の名無しさん:02/03/08 06:55 ID:ghUXEsMw
沢○は45歳ぐらいで辞めたらどれぐらいもらえるの?
誰か計算してみてください。
217 :
古森義久:02/03/08 07:39 ID:cHeK9EZI
自動車は盗まれるし、空き巣にも入られた。風土病の一種にかかり、しばらく寝たき
りだった後、やっと回復して外出したその夕にアパートに泥棒に入られたのだ。ガラ
ス窓を割られて、侵入されていた。現金、カメラ、録音機など根こそぎに盗まれた。
アパートに掃除と洗濯にくるお手伝いの女性には引き出しやズボンのポケットに入れ
た現金を少しずつ、ずいぶん長い期間にわたって盗まれていたことがわかった。友人
とブンタオ(*)という海岸に泳ぎにいったときは子供たちに車のカギを盗まれ、それ
を買い取れと迫られて困った事もある。
汚職もものすごかった。官庁からなにか許可を得るには賄賂がつきものだった。車を
運転していると、警官に理由もなく止められ、運転免許とか車検とかに文句をつけら
れ賄賂を要求された。安い額ですむから、つい払ってしまう。なにしろ火事で出動し
てきた消防車の放水の分量が賄賂の額で左右される社会なのだ。
ただし賄賂には一定のルールがあることや、市民から汚職への怒りの表明があること
は救いだった。国軍のパレードで最後尾に国家警察の武装警官達が行進すると、観衆
からは「ホイロ(賄賂)!」「ホイロ!」というあざけりの声が飛んだりするのだった。
《悲劇を笑いに》 しかしえげつなく醜い表面のどろどろをかきわけて社会の奥に踏
みこんでいくと、根底にはびっくりするほど無垢な人間の姿があった。ウソと打算の
格子の向こうには明日を知れぬ日々を必死で生きる薄幸な男女の、ひたむきな生活が
あった。ベトナム語を覚えながら、平均的な階層の人達との親交を深めるにつれ、南
ベトナムの特異な人間社会の内側のそんな魅力と迫力に強烈にひかれていった。
日本ではとっくに古すぎるとして片づけられる家族や親族への滅私の義務が、なお生
き方の支柱となっている。友人知人とのつきあいでも、恩義やメンツの意識が身を処
すうえでの最大の尺度となる。多くの人たちは目前の打算を重視するようでも、心底
では美しいことに感動し、悲しいことに涙し、正義をたたえるという素直な感受性を
秘めているようだった。
ただ戦乱で荒れた社会をそうした純粋な感覚だけで歩めば、たちどころに傷つき、打
ちのめされる。だからだれもが打算や虚偽のよろいを身につけて自分を守る。とくに
だれが敵だか味方だかわからない内戦では他人を簡単には信用できない。なにしろ死
がすぐ身近にあるのである。ちなみに南ベトナムの人たちのこうした生活ぶりは産経
新聞サイゴン特派員だった近藤紘一(*)の一連の著書に生き生きと描かれている。
当時の私はベトナムの人達のそんな鎧の下のまっとうな人間性をかいまみたとき、素
直に感動を覚えた。ほっとした安堵でもあった。彼らの表面のしたたかさに散々挫折
と失望を味わわされ、もうあきらめかけていたからだろう。
やがてだれもが戦争での悲しく痛ましい体験にじっと耐えていることが実感としてよ
くわかってきた。小さな商店の店頭に立つ60代のごく平均的な男性が実は3人の息
子をほんの1年ほどの間にあいついで戦死させていた。ナイトクラブで働く20歳そ
こそこの女性が実は妊娠7カ月のときに夫を戦場で失って、遺児を自分の母とともに
養っていた。
218 :
古森義久:02/03/08 07:40 ID:cHeK9EZI
そんな悲劇の部分だけをみれば、自殺をしても追いつかないほどむごい人生のはずな
のだが、彼らは極限のなかで、それなりに生活と自由を楽しむすべを知っているよう
だった。暗い戦争のなかで、人生を部分部分にせよ明るく快く生きる方途を心得てい
るようなのだ。
悲惨で陰惨な出来事もふっと冗談のテーマとしてかわし、笑いとばす。自分の悲劇を
も笑いの材料にしてしまう。そんな南ベトナムの人たちに私はいつしか強く魅せられ
ていったのだった。
■豆事典
☆ブンタオ サイゴン南東60キロにある南シナ海に突き出た小半島にあり、海水浴場
で有名。メコンデルタ北西部のサイゴン川河口に位置する、フランスの統治時代はカ
プ・サンジャックと呼ばれた。サイゴン最寄りの海水浴・保養地として人気を集め、
フランス人総督の別荘も作られた。現在も欧米などからの観光客が多い。沖合の海底
油田の基地でもある。
☆近藤紘一(1940−1986年) 東京都生まれ。昭和38年(1963年)早稲田大学仏文科を卒業
後、産経新聞に入社。静岡支局から外信部勤務を経て、71年から75年までサイゴン特
派員。サイゴン陥落を現地で取材する。78年から83年までバンコク支局長。サイゴン
特派員時代に再婚したベトナム人女性のナウ夫人と連れ子ユンとの生活を描いた「サ
イゴンから来た妻と娘」で第10回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞(78年)。難民問
題などの一連の解説や報道活動により80年、国際報道にめざましい活動を行った記者
に授与されるボーン・上田賞を受賞した。また、84年には小説「仏陀を買う」で中央
公論新人賞も受けた。ほかにサイゴン陥落を描いた「サイゴンのいちばん長い日」な
どの著書がある。胃癌のため86年1月、45歳で死去。
219 :
卵の名無しさん:02/03/08 09:04 ID:wc19Wx+z
安い給料でよく働けるねぇ 感心感心
220 :
古森義久:02/03/08 09:43 ID:zpdiIlQz
■ サイゴン陥落−17 古縁故主義と汚職
「腐敗した政権は長続きしない」
南ベトナムでは1973年(昭和48年)1月にパリ和平協定が成立してから、平和とも
戦争ともつかない奇妙な状態が続いた。南ベトナム政府は「戦後」の経済開発8カ年
計画を発表した。メコンデルタ沖の海底油田(*)の存在が確実だとされたことがベト
ナム経済のミニブームを起こした。南ベトナム側はアメリカの援助が減る展望を踏ま
えて、日本に対し投資や援助の拡大を求めた。
日本政府は2年間で5千万ドルの経済援助を提供することを決めた。民間でも観光開
発ブームで、日本の旅行会社がサイゴン市内につぎつぎと店を開いた。日本人の観光
客が増えた。「アオザイ(*)娘とサイゴンの夜を」といった日本語の宣伝が街に目につ
くようにさえなった。
みな錯誤のうえに咲くあだ花だった。だが南ベトナム政府が全国の44省都と人口密
集地域を全て支配しているのだから、まるで根拠のない見通しではなかった。ただし
北ベトナムの労働党(共産党)政治局が和平協定成立から9カ月後の73年10月の時
点で、すでに南ベトナムの軍事制圧をひそかに決めていたことはもちろんサイゴン側
ではだれも知らなかった。
《賄賂体質》 私はサイゴン社会の上層にも触れるようになった。グエン・バン・チ
ュー大統領の体制の内部をのぞく機会をも得た。フランス語の個人教授を受けた女性
がたまたまチュー夫人の縁続きだったため、親切に私を大統領周辺の人物に紹介した
り、一族のパーティーに招いてくれた。上智大学に留学した経験のある大統領のめい
の結婚披露大パーティーに招待もされた。
サイゴン川につながれた大きな船の上でのパーティーには首相、主要閣僚、各軍司令
官、国立銀行総裁、ベトナム航空会長といったチュー体制のオールスター・キャスト
が顔をそろえた。大統領のおいで情報相となっていたホアン・ドク・ニャ夫妻の颯爽
たる姿が目立った。大統領側近にはニャのようにチューの縁続きが多かった。
アメリカ留学から帰ったばかりの若手が大統領の親類というだけで政府報道官とか住
宅建設庁長官というポストについていた。独裁志向の体制は身内や腹心の重用が不可
欠なのだろう。ネポティズム(縁故主義)は体制の団結強化の効用はあるかもしれない
が、明らかに指導層の資質の低下と腐敗をも招いた。
行政の機能そのものに、賄賂の支払いが組みこまれている腐敗慣行は、貧困にも帰せ
られた。なにしろ政府職員や軍人の給料が安いのである。フランス植民地支配や中国
の科挙の影響までもが南ベトナムの汚職の遠因だとする説明もあった。ちなみに、私
は98年9月にベトナム社会主義共和国を訪れたが、現地で働く日本やアメリカのビ
ジネスマンは賄賂がないと手続きが進まないベトナムの体質をこぞって非難していた
から、この地の汚職の原因説明は至難である。
221 :
古森義久:02/03/08 09:44 ID:zpdiIlQz
《少数派》 しかし当時の南ベトナムでも汚職は悪い事だという意識は厳存し、清廉
な高官や将軍は、絶大な尊敬を受けた。和平協定後のチュー政権で大蔵大臣となった
チャウ・キム・ニャンもそんな少数派の一人だった。ニャンは私にも「腐敗した政権
は長期存続できないから、大改革が不可欠です」ともらしていた。彼の質素な私生活
をよく知るにつれ、真実を語っているのだと感じた。
ニャンは60年代末、悪名高いグエン・ゴク・ロアン将軍(*)が国家警察長官だった
ころ、税関局長だった。空港で金塊の密輸入が摘発され、押収と懲罰の措置をすぐと
ると国家警察から金塊と密輸犯の両方を放置することを要請してきた。断ると、札束
を詰めたトランクが届けられた。それでも断るとロアン自身が目こぼしを頼んできた。
国警長官自身が密輸組織につながっていたのだという。
ニャンは結局、圧力に負け、犯人の釈放には応じてしまった。その後すぐ税関局長の
職を解かれ、ロアン一派が政権から遠ざかるまでは閑職に留めおかれたが、ニャンは
この種の話をぽつぽつと述べて、祖国の将来への不安をもらすのだった。
《青年たち》 私が南ベトナムの社会になじむには、ある青年男女のグループと親し
くなったことが役立った。サイゴンのフランス系の私立高校マリキュリー出身の同窓
生が中核となった20数人ほどの友人同士の集まりだった。ほぼ全員がサイゴンの大
学を出て、政府職員、銀行員、医師、薬剤師、技師、通訳などという専門職について
いた。学歴だけでは社会の上層だが、富や権力に恵まれた家庭の出は少ない点で一般
社会から遊離もしていなかった。
このグループとは、英語での意思疎通が容易だったことや、年齢も私と近かったこと
で、ずいぶんと親しくつきあう結果になった。彼らも私を真の仲間の一員にみなして
くれたように思えた。日曜日のサイゴン近郊の果樹園への果物摘み、ブンタオへの海
水浴の遠出、仲間の誕生日とか結婚式の集まりなど、必ず招いてくれた。
彼らは欧米志向の知識や教養を身につけていたが、ベトナム人としての民族意識も強
く、アメリカ依存、腐敗横行のチュー政権にも批判をちらつかせた。戦争の続く自国
の不運を嘆きながらも、無力感からか積極的な政治論議は避けていた。ただし北ベト
ナムの規律社会に象徴される共産主義勢力の統治の下では自分たちは暮らし難いこと
ははっきり認めていた。
ベトナム社会のさらに広い階層に接するには学生時代に身につけた柔道が驚くほど有
益となった。和平協定後、南ベトナムでは柔道が盛んだと知って、サイゴン地区の町
道場を見物にいくと、日本人ならできるだろうと勧められ、つい稽古をした。私は大
学卒業までは一応、本格的な練習や試合を続けて、4段だった。だがごく平均的な選
手だっただけで、練習もやめており、自信はなかった。それでもいざ2、3人の黒帯
と乱取りをすると、相手はみなびっくりするほど水準が低かった。
222 :
古森義久:02/03/08 09:45 ID:zpdiIlQz
そのとき、わりに楽に投げた相手が元南ベトナム選手権者だったとかで、こちらが恥
ずかしくなるような噂が広がり、あちこちの柔道場からコーチとして招かれるように
なった。大学から農業専門学校、軍医学校の柔道クラスから仏教のベトナム国寺派が
管理する生徒数2千人の柔道学校にまで何度も招請され、一生懸命に教え、練習した。
東南アジア大会に出場する南ベトナム柔道チームの特訓コーチまで頼まれた。
この柔道経験では外国特派員としては決して会えない多様なベトナムの若い男女に接
した。チュー大統領のボディーガードにも柔道の生徒がいて、私が記者として公式の
場で大統領に質問しようと接近すると、彼が「すみません」などといいながら、私を
押し止めるような光景もあった。
■豆事典
☆海底油田 ベトナム南部沖の海底油田は1970年代にモービル社(米国)が開発に着手
し、サイゴン陥落後はソ連が引き継ぎ、86年にバクホー油田で商業生産を開始した。
2010年をめどに、インドネシアの全原油産出量を超える日量80万バレルを産出する予
定で欧米諸国や日本が試掘を続けている。だが最近では、油田が中国、フィリピンな
どと帰属問題で係争中のスプラトリー(中国名・南沙)諸島まで達する可能性があるこ
とや、埋蔵量が当初予想より少ない可能性が指摘され、当初に比べると開発意欲は落
ちているとの指摘もある。
☆アオザイ ベトナム女性の民族衣装。アオは着物、ザイは長いの意味で、グエン王
朝時代に清朝の官服を簡略化したものがアオザイと呼ばれて民間に広まり、女性用衣
装となった。立ち襟やわきの切れ目などは中国風だが、細いそでが手首までを隠して
おり、クワンと呼ばれる白い絹ズボンを合わせるため、正式にはクワンアオと呼ばれ
ている。絹製が多い。
☆グエン・ゴク・ロアン(?−1998年) 北部ベトナム出身ではあるが、1954年のジュ
ネーブ協定時に南部に移住。空軍副司令官を経て65年に軍治安局長、66年からは国家
警察長官を兼任した。中部ベトナムで多発した仏教徒や学生の反政府デモの鎮圧にあ
たったほか、68年2月のテト攻勢でベトコンのゲリラ数百人がサイゴン各所を襲撃し
た際、逮捕した青年ゲリラの頭部にけん銃を突きつけ、路上で射殺した写真は全世界
に配信され米国の厭戦感情を強める結果にもなった。その後、市街戦で重傷を負った
こともあり、同年6月に解任された。75年4月のサイゴン陥落とともに米国に亡命し
てバージニア州に居を定め、レストランを経営。78年に米移民帰化局が戦争犯罪者と
して国外追放にしようとしたが、カーター大統領が拒否した。98年7月にワシントン
郊外の自宅で病死した。
223 :
卵の名無しさん:02/03/08 21:02 ID:hX2+tLVX
怪文書第2弾 おねがいしますよ! 社長
224 :
卵の名無しさん:02/03/08 21:40 ID:gItDDnCj
どうでもいいけど、ここの社長。。。
225 :
名無しさん:02/03/09 00:29 ID:Q7SrvN8F
大阪新聞
226 :
卵の名無しさん:02/03/09 19:21 ID:1ZgFAASO
今後は主に広域卸を中心にしてゆきいままで取引のある販社をいかにして切っていくか
が課題です
227 :
卵の名無しさん:02/03/09 23:18 ID:nRBgD6Hu
不自然な怪記事
誰がやったかはみんな知ってるが、本人は誰も知らないと思っているらしい
228 :
古森義久:02/03/09 23:27 ID:mE835f/T
■ サイゴン陥落−18 女優キム・クン
「いつ死んでもよい」と彼女は言った
ベトナム戦争の記録は勝者と敗者のどちらにより多くの光をあてるかで、描かれるド
ラマは明とも暗ともなるとこのシリーズの冒頭で書いた。南ベトナムの女優キム・ク
ンのたどった軌跡は、その明と暗のどちらにも分けがたい。彼女の歩んだ道こそサイ
ゴン陥落という歴史的大事件の光と影の複雑な交錯のように思えるのだ。
《壁際の白花》 私が初めてみたキム・クンは、レセプションの人の輪からちょっと
離れて、1人で立っていた。サイゴン陥落の2年前の1973年(昭和48年)春の事で
ある。日本政府が「戦後の南ベトナム」に送った文化使節団をベトナム側のペンクラ
ブが歓迎するレセプションがサイゴン市内で開かれたのだった。
使節団の盛田昭夫(*)、三浦朱門(*)という著名の士を迎えた会場で、壁際に清楚な白
のアオザイの女性がいた。優雅な挙措だった。優しげな微笑に引きこまれるように英
語で挨拶をすると「英語はわかりません」という言葉がきれいなフランス語で返って
きた。私のつたない言葉でいろいろ聞くと、彼女は自分の専門は演劇だと告げた。
その場に運よくフランス語のできる産経新聞特派員の近藤紘一が加わり、南ベトナム
の演劇とか文芸、映画に話がはずんだ。横から現地に長い日本大使館員がそっと「そ
の人は南ベトナムでも最も有名な女優ですよ」と教えてくれた。びっくりした。全体
の印象がごく質素だったからだ。レセプションの後も夕暮れの街路を一人で歩いて帰
ろうとするので、近藤記者とともに車で送ってあげた。
こんな契機でキム・クンと知りあった。ダイヤモンドという意味の名の彼女は南ベト
ナム伝来のキックと呼ばれる近代劇の名女優とされていた。メコンデルタのゴコン省
出身で三世代にわたる演劇一家に生まれ、幼いころから舞台に立った。そのころは現
代物でも時代物でも、喜劇でも悲劇でもこなし、映画やテレビにも出ていた。
キム・クンの最も得意なのは過酷な運命に耐え抜いた末に、よよと泣き伏しながらも
なお立ち上がるような悲劇のヒロイン役だという。戦火の国の薄幸な女性たちに共感
を呼ぶのだろう。そんなことを聞いて映画や演劇の宣伝に注意すると、なるほど、キ
ム・クンの名と顔はいたるところにあった。テレビでも毎週の「キム・クン・アワー」
が人気を集めていた。
だが舞台を離れた彼女は控えめで、独身の私生活も地味にみえた。私は南ベトナムの
演劇や映画の話を聞き、記事にした。彼女も日本に関心を示し、食事に招いてくれた。
私の片言のベトナム語とフランス語にも辛抱強く耳を傾け、サイゴン社会の伝統や慣
習についても教えてくれた。近藤記者とベトナム人の夫人を交え、音楽を聴き、会食
をすることもあった。
229 :
古森義久:02/03/09 23:27 ID:mE835f/T
キム・クンはサイゴンで活躍する人物にしては珍しく英語を全く話さなかった。アメ
リカがどうしても好きになれないといい、チュー政権の演劇統制の政策をやんわりと
ながら批判した。「私は将来に希望が持てません。だからいつ死んでもよい、などと
思ってしまうのです」人気スターの彼女がこんな言葉をもらすのをひどく意外な感じ
で聞いたこともあった。だがその後、日常の仕事に追われ、しばらく会わないうちに
彼女が年下の海軍予備役中尉と結婚したという話を聞いた。そしてやがてサイゴン陥
落となった。
《革命の士》 陥落から1週間後の75年5月7日、旧大統領官邸での革命側の勝利
祝賀の集会でキム・クンにまた出会った。著名な映画スターや歌手がほぼすべて国外
に脱出したのに彼女は残っていたのだ。濃紺のアオザイを着た彼女は野外の強い陽光
に顔を少ししかめるようにしていたが、私を見ると、にこやかな笑顔をみせた。彼女
の頭上には「愛国芸術家連盟」という横断幕がはためいていた。
その後、キム・クンと夫のトゥックを交え何回か会った。彼女は革命の新時代到来を
歓迎する言葉を述べたが、本当にどう思っているのかは私にはわからなかった。だが
その間、彼女は革命当局からは重用され、サイゴン地区の軍事管理委員会とか人民革
命委員会の委員に選ばれていた。「キム・クンはもともと革命側の闘士で、実は人民
軍の中佐なのだ」という噂も広まった。
さらにその後、朝の街で彼女と偶然、会った。彼女はちょうどよかったといい、サイ
ゴン市場脇の小さな食堂に私を招いた。「夫が再教育のために連行されてしまったの
です。どうしたらよいのか・・・」革命当局は旧南ベトナムの政府職員や軍人を山中の
収容所に隔離し始めたのだった。もし彼女が人民軍の将校ならば、その立場で夫の優
遇を頼めないのかと問うと、彼女はそんな話は全くの事実無根だと否定し、表情を暗
くした。そしてサイゴン政権側で暮らしてきた自分を革命政権がなぜ丁重に扱うと思
うか、と逆に質問してきた。革命をひどく恐れているようにもみえた。
しかし女優としてのキム・クンはさらに重用された。南ベトナム伝来の演劇類は共産
主義の新時代にはあわないとして禁じられたが、キム・クンだけは劇団の主宰が認め
られ、キックの上演を許された。陥落から4カ月後の75年8月、市内の大きな劇場
でキックの初公演となった。出し物はキム・クンの十八番とされる「ドリアン(*)の
葉」だった。
メコンデルタの村の貧しい少女ベアがサイゴンに勉学に出る恋人との別れに緑の葉が
ついた果物のドリアンを贈る。悲恋のベアはその後20数年、数奇な運命にもてあそ
ばれ、俗物の実業家となった元恋人に再会する。そしてドリアンの葉のみずみずしい
緑にたくし、彼に真の人間性の徳を説く、こんな筋書きの舞台劇である。
キム・クンが演じる貧しい女の一生に超満員の観客は息をのみ、笑い、泣いた。彼女
の台詞はみな柔らかい南独特の発音だった。義理と人情のしがらみの物語も南部人の
心情にぴったりなのだ。そもそも主題のドリアンも南では最高の美味とされるが、北
の人は人間の腐肉のようだとして手もつけない。北の革命当局がこの公演を許したの
も、自分達の社会が崩壊されたと感じる南の人の失意への配慮だったのかもしれない。
230 :
古森義久:02/03/09 23:28 ID:mE835f/T
《問いかけ》 それから23年(1998年)、ホーチミン市と名を変えたサイゴンで、こ
の9月に私はキム・クンと再会した。長い歳月にも拘わらず彼女の外見は驚くほど変
わっていなかった。キム・クンはいまも約70人の劇団を主宰してはいるが、キック
は人気が落ちてしまったと打ち明けた。夫のトゥックとは離婚し、彼との間にできた
息子がカナダに留学しているという。その息子が幼児のころ誘拐されて殺されかけた
という苦労話も語った。しかし彼女はいまのベトナムは問題こそあれ、基本的にうま
くいっていると強調した。
その一方、私に微妙な問いかけをしてきた。「戦争が終わる直前に私はどう身を処し
たら最善なのかと、もしあなたにたずねたとしたら、なんと答えたと思いますか」キ
ム・クンがサイゴン陥落や、その前後での自分の人生の選択を本当はどう思っている
のか、私には今度もわからなかった。
■豆事典
☆盛田昭夫(1921年−) 愛知県の造り酒屋に生まれ、昭和19年(1944年)大阪帝大理学部
を卒業。東京工大講師を経て海軍航空技術廠光熱兵器部で東京通信工業(現ソニー)創
業立者の井深大と知りあい、21年の同社創立に加わった。主として経営・販売・財務
面に携わり、ソニー製品を世界に販売した。46年に社長、51年に会長就任。63年には
日本企業として初のニューヨーク証券取引所に上場を果たした。達者な英語で外国メ
ディアに登場することも多く、日本の代表的ビジネスマンのひとりとして海外でも知
名度は高い。財界人としても国際的に活動し経団連会長候補として名前があげられた
こともあるが、脳内出血で倒れ、平成6年(1994年)には一線を退いた。
☆三浦朱門(1926年−) 東京都生まれ。昭和23年(1948年)東大文学部卒。大学院入学と
ともに日大講師となるが、同人誌の作品が認められ、吉行淳之介や島尾敏雄らととも
に「第三の新人」として文壇にさっそうとデビューした。28年に作家の曽野綾子と結
婚した。戦後日本社会と個人のあり方を描いた「箱庭」(昭和42年)で新潮社文学賞を
受賞、他に「武蔵野インディアン」(昭和57年)、「夫婦は死ぬまで喧嘩(けんか)するが
よし」(平成5年)など著書多数。60年から61年にかけては文化庁長官を務めた。
☆ドリアン 熱帯果物の王様といわれるが、「ジャコウネコのにおいとテレピン油の
においを混ぜた感じ」「腐敗した玉ねぎ臭」などと形容されるほど、強烈なにおいが
特徴。マレー半島やボルネオ島が原産地で、野生では30メートルを超える高木に、堅
くとがった突起に覆われた重さ数キロの人の頭大ほどの実がなる。割ると5つの部分
に分かれており、それぞれ数個の栗の実大の種があって、その種のまわりの白い果肉
を生で食べる。食べると体がほてる性質がある。
231 :
卵の名無しさん:02/03/10 11:10 ID:KNDskNNt
>>227 その怪記事とやら どういう内容なのですか?
232 :
卵の名無しさん:02/03/10 16:56 ID:8B5emq6B
age
>>233 悪口というよりもっとえげつないことを書いてたようですよ。
あのコピーがかなり出回ってるね。
>>234 そこまでしなければならなのか。
兄弟の確執って、恐ろしい。
236 :
古森義久:02/03/11 06:44 ID:3Zcl4lS6
■サイゴン陥落−19 革命地区潜入
「北の後ろ盾」は公然の秘密だった
私は南ベトナム中部のビンディン省の国道1号線わきの草むらで、左手に白いハンカ
チを巻いた人物が現れるのをひたすら待っていた。1974年(昭和49年)1月16日
サイゴン陥落に先立つ15カ月ほど前のことである。
ひとりぼっちで地面に腰を下ろし、不安にさいなまれながら、落ち着かない視線を周
囲に配った。革命勢力側の密使が姿をみせ、革命側支配区内部へと連れていってくれ
るのを待ったのだ。
《不安な時間》 73年1月のパリ和平協定で南ベトナム領内には南ベトナム(ベト
ナム共和国)政府と臨時革命政府と第三勢力という3つの政治勢力が存在するという
前提が紛争解決の方途として採択された。だが南ベトナム政府は44省都全てと居住
地区のほぼ全てを統治していたから、臨時革命政府の支配地域とは一体どこなのかと
いう疑問が当然、生まれる。
革命地区を探訪する必要がある。そう考えた私は和平協定でタンソンニュット基地駐
在を認められた革命政府軍事代表団に密かに訪問許可を求めたのだった。何カ月もか
かって代表団次席のボー・ドン・ザン大佐からOKが出た。
大佐からビンディン省人民革命委員会議長にあてた私の顔写真つき紹介状をカバンの
底に隠し、サイゴンから同省の省都クイニョン(*)へ飛んだ。だが南ベトナム政府は
国民に革命側との接触を法律で禁じていた。革命側が公然と姿をみせれば、もちろん
南軍は攻撃する。和平協定後とはいえ戦闘は続いていたのだ。
そんな危険な状況のために、私はスパイ映画のような秘密の接触を詳細に指示されて
いた。クイニョンから北へ80キロほど、郡都ボンソンに近い国道沿いのビンミンの
三差路という地点で一定の時間帯に白いハンカチを左手に巻いた人物と会い、その案
内に従う、という指示だった。こちらの服装も細かく指定されていた。
国道は完全に南軍の支配下にあり、三差路の近くにも装甲車がおかれ、武装兵士が機
銃を構えていた。人や車の往来は少ない。兵士の1人がやがて私のところにきて、こ
んなところで何をしているのかと問う。友人にはぐれたので待っている、などとごま
かした。
不安な時間が流れた。「エイ、エイ」もしもしという意味のささやくような声が聞こ
えた。野良仕事の帰りのような農婦が3人、カゴをかつぎ歩いていく。うちの1人が
人差し指を曲げて、ついて来いと指示したが白いハンカチがない。一瞬ためらったが、
ついていった。国道から西への小道を数十メートル歩くと、農家があった。内部から
目つきの鋭い中年女性が飛び出してきた。左手に白いハンカチがあった。
そこからさらに西へ数百メートルいくと集落があり、革命側の武装ゲリラ数人が待ち
構えていた。こちらの手が痛くなるほど熱烈に握手してくる。実物の革命ゲリラをみ
るのは初めてとあって緊張した。彼らの先導で木立や水田を抜け3時間以上も歩くと
2〜3百軒の農家が点在する村に着いた。ホアイニョン郡ホアイハオ村だった。この
村で6人ほどのビンディン省人民革命委員会の代表の出迎えを受けて、私の革命地区
訪問が正式に始まった。
《高い英語力》 私は結局、旧正月のテトをはさんで10日間を革命地区で過ごした。
歩きに歩き、ときにはバイクや南軍から奪った米国製ジープに乗せられ、2郡6村を
訪れた。国道から遠く離れた山あいの農村ばかりとはいえ、「もうひとつの南ベトナ
ム」があった。村々には「アメリカ帝国主義者への戦いの勝利祝賀」とか「パリ和平
協定は米帝を追い出した大勝利」という標語の看板が掲げられていた。
私の取材のためにティンとテップという2人の英語の通訳がついた。ティンはハノイ
の外交学院で英語を学び、六八年からは南領内で活動する人民軍正規軍師団の将校だ
と自己紹介した。近くの山中にある師団司令部から私のために村へ下りてきたという
が、彼の英語力はびっくりするほどの高い水準だった。
同行班の長のズーは抗仏時代からのベテラン闘士で北ベトナムで政治教育を受けたと
いう。ホアイニョン郡の地方軍司令官のトンもフランス軍と戦ったという古参の闘士
だった。郡の政治幹部のタオもルオンも十年以上の闘争歴だと語った。みなチェコ製
のピストルを携帯していた。
革命地区は日夜を問わず、ピンとした緊張に包まれていた。いつ砲撃や爆撃があるか
わからないために、どの家にも堅固な退避壕(ごう)があった。私も農家に宿泊中に南
軍側の砲撃があり、その農家の家族とともに、壕に飛びこんだことが二回あった。
住民は生活を昔ながらの農業に依存しているようだった。郡、村、集落全てが人民革
命委員会に支配され、住民はその指示で動いていた。医療面での問題も多く、マラリ
ア(*)発病はごく普通のようだった。通訳のテップもマラリアにかかって震え出した
ので、同じ部屋で簡易ベッドを並べて寝る私はずいぶんと不安だった。
住民と話していて頻繁に耳にしたのは「チェット(死んだ)」という言葉だった。父が
死んだ、夫が死んだ、息子が死んだ…。なにを語るにも死に触れなくては説明ができ
ないという風なのだ。それだけ多くの生命がこの地区での戦闘で失われた訳だった。
ビンディン省は第一次ベトナム戦争当時から、ベトミンの勢力が強い地域だったので
ある。そんな歴史のせいか、住民たちはスパルタ的な規律を厳しく保っていた。辛苦
に耐えて、とにかく闘争を進めるという決意をみせるところは私がサイゴンで日ごろ
接する市民たちとは対照的だった。ただし闘争が北ベトナムと一体であることは誰も
隠さなかった。政治幹部はみな一度はハノイで暮らしたと言うし、省内のどこかに強
大な北ベトナム軍の正規師団がいて革命地区を防衛している事も公然の秘密だった。
通訳のティンは北の人民軍が南領内に入ると、階級章などをすべてとり、南の解放軍
に変身するというメカニズムを説明してくれた。
238 :
古森義久:02/03/11 06:59 ID:geQEVWWG
《傀儡を強調》 私はどの村でも公式にせよ歓迎された。トン司令官はビンディン省
内の革命地区を訪問した外国人の新聞記者は、これまでフランスのミシェル・レイ、
オーストラリアのウィルフレッド・バーチェット(*)の2人だけで、私は3人目だと
述べて、実情を詳細に報道してほしいと要望した。
郡レベルの歓迎の会合では政治幹部たちは用意した分厚い書類を読みながら、フラン
ス植民地支配への戦いから米軍との戦闘にさかのぼり、ホー・チ・ミン思想に触れて、
民族独立闘争の大義を必ず説いた。サイゴンの南ベトナム政府はアメリカの傀儡にす
ぎないと強調した。
こうした姿勢からこの闘争が南ベトナム側と協調しての和解などは絶対に認めず、南
ベトナム政府という存在自体を完全に否定していることが明白だった。私はこの戦争
の深いふちを改めてのぞく思いだった。
■豆事典
☆クイニョン ベトナム南東部(旧南ベトナム中部)の海岸都市でビンディン省の省
都。港湾のほか国土を縦貫する国道1号線沿いにあり、周辺への道路分岐点ともなっ
ていることからベトナム戦争中は戦略的要衝でもあった。海岸には海水浴に適した浜
辺があり、近くの山地には少数山岳民族が住む。1965年2月にはクイニョンなどの米
軍宿舎がベトコンの攻撃を受け、米軍が報復のため北爆を本格的に開始するきっかけ
ともなった。
☆マラリア 東南アジア、アフリカ、南米など熱帯・亜熱帯の風土病。マラリア原虫
を持つハマダラ蚊を媒介に感染する。原虫が赤血球内部で分裂・繁殖する周期にあわ
せ、約40度の発熱や悪寒と震えの発作が、数日おきに繰り返される。原因発見まで長
い間、人類の死因として第1位を占め、日本でも瘧(おこり)と呼ばれて恐れられた。
特効薬としてキニーネやクロロキンがあるが、副作用も多く、現在でも年間3億人が
発病し150−300万人が死亡しているとされる。「熱帯熱マラリア」の場合、免疫のな
い日本人や欧米人は死亡率が25%にも達するという。
☆ウィルフレッド・バーチェット(1911−1983年) オーストラリア人ジャーナリスト。
中学校中退後、肉体労働をしながら独学し、1936年に渡欧。41年からロンドン・デー
リー・エクスプレスのアジア特派員として第2次大戦を取材した。日本の降伏時には
連合国側の記者として広島に一番乗りし、「ノー・モア・ヒロシマズ」の言葉ととも
に被ばく地の惨状を伝えた。その後フリーランスとして主にモスクワに住み、朝鮮戦
争や中国内戦、ベトナム戦争をもっぱら共産側の立場から取材。67年には「米国が北
爆を停止すれば和平を話しあう」との北ベトナム側の最初の和平サインをスクープし
て注目された。一方でソ連のスパイともいわれ、オーストラリアに17年間も再入国を
拒まれた。「17度線の北」「再び朝鮮で」など著書は30冊を超える。夫人の故郷ブルガ
リアで病死した。
>>235 大阪新聞はヨタ記事とはいえ格別の嘘は書いてなかった。
T社が過去薬事法違反でよく名前が出たのも事実、今回の
原末すり替え事件でヒタスラ被害者を装うのも不自然。
ただ、昨夏の露見・処分が、今頃新聞ネタになるのは作為。
240 :
>239:02/03/11 07:20 ID:+YgTVrOP
>>239 お前、
「ゾロ品を処方している医者」の311だろ?
リンクの張り方の知らんのに、いっちょまえの口きくんじゃないよ
241 :
卵の名無しさん:02/03/11 07:21 ID:wRSrvvar
>>234 ここの社長 裏でいろいろ○ないこと画策してるらしいね.
変な噂をいろいろ聞きます.
242 :
古森義久:02/03/11 07:22 ID:+YgTVrOP
■ サイゴン陥落−20 運命の数奇
国を捨てて悔いないことの方が悲しい
南ベトナム中部ビンディン省の革命地区を訪れた私は、旧正月テト(*)の元旦、グエ
ン・デという医師との朝食の集いに招かれた。アンラオ川のゆったりした流れに近い
ホアイアン郡アンティン村だった。1974年(昭和49年)1月23日のことである。
デもサイゴン陥落にいたるベトナム戦争に運命を数奇にもてあそばれた人だった。
サイゴンを発って革命地区に潜入する前からデには会いたいと思っていた。革命側に身柄を拘束されているらしいことを知っていたからだった。
《とらわれの身》 私がサイゴンで親しかった青年男女のグループにニュンという女
医がいた。魅力的な女性だったが、いつも控えめで、陰気でさえあった。仲間に聞い
てみると、同じ医師の夫、デが72年の北ベトナム軍の春季大攻勢で戦闘に巻きこま
れ行方不明なのだという。デは当時、ビンディン省の郡都ボンソンの公立病院に勤務
していたが、ボンソンは北ベトナム軍に制圧され、彼は姿を消した。ボンソンはその
後、南軍が奪回したが、デは帰ってこなかった。
私はビンディンへの旅が決まり、案内役との密会の場所がボンソンの近くとわかって
から、革命側にデの消息を聞くことをニュンに提案しようかどうか考えた。日ごろ親
切なベトナムの友人仲間に役立てれば、うれしい。だが革命地区入りを事前に知らせ
てよいのかどうか。しばらく思案した末に結局、デの消息調べを提案することに決め
てニュンを訪れ、計画を打ち明けた。 サイゴン市場近くの両親の古い家に幼い子供
2人と住んでいたニュンは私の申し出を聞くと一瞬、考えこんでから、せきを切った
ように語りはじめた。
「ぜひとも夫に会ってください。実は夫は行方不明ではなく、共産側に捕らわれてい
るのです。ボンソンの病院の元の患者たちが共産側の支配区にも出入りしていて、こ
っそり教えてくれたのです」夫が生きているのを知っていながら、親しい友人にまで
行方不明だと述べていたのだ。だれも完全には信用できないからだろう。ニュンは言
葉をついだ。「もしも夫に会えたら、家族はみな元気だと伝えてください。そしてで
きることなら、釈放のために共産側に身代金を払う用意もある、と彼に告げてくださ
い。話がまとまりそうなら、私がすぐ現地にいきます」
《偽りの表情》 だから私はビンディンで革命側代表に会うと、すぐに、取材のため
の一連の要請にデ医師との会見を含めた。私の案内班の責任者ズーは調べてみると答
え、その翌日、「デ医師は確かにビンディン省の解放区で医療にあたっています」と
告げた。もとはサイゴン側だったが、民族解放の思想に共鳴し、自分から残って働く
ことを求めたのだという。
だがデとの会見は省内でも遠い地域にいるとか、連絡がとれないという理由で、なか
なか実現しなかった。私が不満をかなり露骨にすると、革命地区入りして一週間後の
旧暦の大晦日、やっとアンティン村で対面できた。
243 :
古森義久:02/03/11 07:36 ID:TRdl7UQ8
石油ランプだけの農家の暗い一室で会ったデは、妙に疲れた感じの神経質そうな人物
だった。33歳という年齢よりふけてみえた。案内班の政治幹部数人のほかに、ビン
ディン省病院の院長だというたくましい男につきそわれていた。
一見してデがこの地に自分の意思で留まっているのではないことは明白だった。顔に
は日焼けの跡がなく、おびえている。私は通訳のテップを通して、家族が元気でいる
ことを伝え、デの体調について聞いた。マラリアに何度もかかり調子はよくないと彼
は答えた。私はサイゴンに帰りたいかとか、この闘争をどう思うかなどという質問は
一切、しないことにした。あたりさわりのない話をして終わりにした。
翌朝のテトの元旦、ズーから「お祝いの朝食をデ医師がもてなし役で差しあげたいと
いっています」と告げられた。農家の庭には明るい陽光の下、大きなテーブルがおか
れ、革命地区にしては手をかけた料理が並んでいた。前夜と同じ顔ぶれで座ったが、
デだけは暗い表情だった。それでも彼はきちんと立って、私を改めて歓迎し、テトを
ともに祝えるのはよろこばしいとあいさつした。
食事後の短時間、デと二人だけで庭を歩いた。彼は「これを妻に渡してください」と
小さく折った手紙を手渡してきた。革命側の許しも得ているようだった。私は彼に家
族への伝言をテープレコーダーに吹きこむことを勧めた。デは自分が元気で、家族を
いつも懐かしく思っているという意味の言葉をおずおずと述べた。私は身代金の話は
持ち出さないことに決めた。もし革命側にわかった場合の危険が大きすぎるからだっ
た。デは間もなく革命側の人たちと徒歩で村のはずれの林の中へと消えていった。
サイゴンに帰るとすぐ、ニュンに夫の近況を報告し、手紙とテープを渡した。ニュン
は手紙を開け、最初の数行を読んだだけで、むせるように泣いた。
《二重のユダ》 ところが意外なことにデはこの九カ月後の74年10月、サイゴン
にもどってきたのである。台風が中部を襲った夜、増水したアンラオ川の支流に飛び
こみ、一晩中、泳いで南ベトナム政府側の地域へと脱出したのだという。私はニュン
から電話でこの報を受けて、デに再会した。
「あのときはあなたが困る質問をしないので助かりました」デは革命地区での様子と
は別人のように明るく語った。彼はやはりとらわれの身だった。山中の施設で無理に
革命側の治療をさせられた。私と会うに先立っては、応答の要領を指示され、練習ま
でさせられた。解放の大義に共鳴して残ったという虚偽の答えを用意していたのだが、
私がそのことを聞かなかったので本当に助かったというのだ。ニュンもそんな話を体
全体を弾ませるようにして聞いていた。
デ一家は文句なしに幸福にみえた。彼はまたサイゴンで医療の場にもどった。ところ
が3カ月ほどしてニュンからデが職場で共産側で働いていた人間としてあれこれ不信
の目でみられるという話を聞いた。デ自身も革命側の規律や献身とサイゴン側の自由
や放漫とのギャップについて真剣に悩むようにもなったのだという。デは二重のユダ
のような立場におかれたのだった。
244 :
古森義久:02/03/11 10:08 ID:+qgiT7oQ
そのほんの3カ月後、サイゴンに陥落の危機が迫った。革命側を裏切ったことになる
デは革命側の勝利を恐れ、一家を連れて国外へと逃げた。2度目の脱出だった。
私がデやニュンにまた再会したのはサイゴン陥落から7年が過ぎた82年、ピッツバ
ーグ(*)でだった。やっと連絡がとれ、招きに応じ、彼らの自宅を訪れたのだった。
二人ともすでにアメリカの医師として働いていた。三人になった子供たちもアメリカ
にすっかりなじんでいるようだった。
「私にはこの道しかなく、悔いはまったくありません。でも故国を捨てて悔いないと
いうのは故国を捨てること自体より悲しいことかもしれませんね」すっかり肉づきの
よくなってデはそんなことを淡々と語るのだった。
■ 豆事典
☆テト(旧正月) 正月元旦の意味で、中国、朝鮮とならび旧暦で正月を祝うベトナム
で最大の年中行事。親類一同が家を飾りつけ、会合して祖先を祭る。仏教寺院やカト
リック教会への初もうでが行われるほか、全土で多くの催しが行われる。年明けの瞬
間が最も重要とされ、どらや爆竹で新年の霊を迎える。また新年の第1日や第1週は
特に大事とされ、福を呼ぶために最初の訪問客が裕福で重要な人物となるよう事前に
手配する習わしなどもみられる。ベトナムでは行事や祝日の多くが旧暦で祝われるが、
メーデー、独立記念日は太陽暦で定められている。
☆ユダ(?−30年ごろ) 聖書に登場するイエス・キリストの12使徒の1人、ユダ・イ
スカリオテ。イエスを追及するユダヤの神職に銀貨30枚を代償にイエスの居所を教え、
裏切ったとされる。
☆ピッツバーグ(ペンシルベニア州) 二つの川が合流しオハイオ川となる地点にあ
り、独立以前の1758年に英植民地軍が仏軍を撃退し入植したのが町の始まり。英国の
政治家の大ピットから名づけられた。独立後はオハイオ川を下る入植者の物資補給地
となったが、五大湖のスペリオル湖西岸および周辺で鉄鉱石や石炭が産出したことか
ら1792年に高炉が築かれ、さらに1834年にはペンシルベニア運河や鉄道が完成して市
場と結ばれ、19世紀中に全米一の鉄鋼業の町となった。その一方、労働争議やスモッ
グ公害でも知られた。
245 :
古森義久:02/03/11 10:42 ID:JPB2TuhL
■ サイゴン陥落−21 悲劇の外相
身にしみた共産主義の冷酷な本質
南ベトナムの外務大臣を3度、務めたチャン・バン・ドはときどきツルを思わせるよ
うな人物だった。痩(そう)身を滑らかに動かす立居、やわらかそうな白髪、色白で面
長の容ぼうなどが品格をも感じさせた。
私はサイゴンでは陥落の直前までドを訪れ、南ベトナムの政治や外交についての話を
よく聞いた。大統領官邸に近いホンタプトゥー通りにある彼の、そう大きくはないア
パートで、くすんだ石のテーブルをはさみ、長い時間、話しあった。控えめな夫人が
熱いジャスミン茶を必ず供してくれた。彼の情勢分析に耳を傾けると、いつもベトナ
ム戦争の基本構図が頭にしみこんでくる気がしたものだった。
《軍医総監に》 ドはベトナム北部に生まれ、1931年にパリ大学医学部を卒業し
たというから、やはりフランス植民地下のエリートといえよう。その後はフランスと
ベトナムの両方で医師として働き、五一年にはバオダイ帝を国家元首とした南ベトナ
ムの軍医総監に任命された。
ドは54年にジュネーブ国際会議の南ベトナム政府の首席代表となる。同時に外相と
なり、翌55年のゴ・ジン・ジェム政権の成立までそのポストにあった。ジェム政権
がクーデターで倒された後も、65年のファン・フイ・クアト内閣で副首相となり、
その後、67年までの間に短期ながら外相をさらに2回、務めた。
こうしたドの経歴はまさにベトナムの複雑な歴史そのものだった。私が知りあったこ
ろは彼は、すでに70歳ぐらいだったが、会見の申しこみには、いつも快く応じてく
れた。会えばその時点でのベトナム情勢を歴史と国際関係の両方を背景に、格調高い
英語でわかりやすく解説してくれた。
ドは一度、日本軍の仏領インドシナ進駐に触れて、「ベトナムにきた日本軍将兵は自
己への規律が厳しく、フランス軍をあっという間に制圧し、畏敬の念を強く感じまし
た」と、ちらりともらしたことがあった。私は東南アジアと日本軍といえば悪いこと
しか習ってこなかったため、意外だった。ドはそんな経験のせいか、日本には明らか
に好感を持っていた。
彼のジュネーブ会議考は含蓄が深かった。会議では南ベトナム政府の首席代表として
不名誉な譲歩は、決してしなかったという。フランス植民地軍とホー・チ・ミンが率
いるベトミン軍とが戦った第一次ベトナム戦争を収拾することを目的としたこの会議
には、フランスのビドー、イギリスのイーデン、ソ連のモロトフ、アメリカのダレス(*)
といった外相クラスがそれぞれ首席として加わった。中国は首相の周恩来が、北ベト
ナムは外相ファン・バン・ドンがそれぞれ首席だった。
会議では交戦当事者が休戦協定に調印し、ベトナムの南北の暫定分割と2年後の総選
挙をうたう最終宣言が発表された。ただし法的拘束力のあるのは休戦協定だけで、最
終宣言には各国代表のサインもなかった。しかもアメリカと南ベトナムはその宣言に
反対する声明を発表していた。
246 :
古森義久:02/03/11 10:43 ID:JPB2TuhL
だからドは南北共存が長期に続くべきなのに北が南を武力で制圧しようとし始めたこ
とが今日の戦火の原因なのだ、と強調した。彼は73年のパリ和平協定を南ベトナム
やアメリカにとっての事実上の降伏だとも評していた。
「ジュネーブ協定の方がずっとましでした。南北ベトナムの分割でベトミンは北へ引
き揚げ、国民は自由に国内の好きな地域に移住できた。だがパリ協定では同盟軍は引
き揚げ、北ベトナムからきた敵軍はすべて残るのです。米軍が五十万の兵力でも撃滅
できなかった相手に私たちが独力でどうして勝てるでしょうか。世界最強国で最高の
頭脳とされるキッシンジャー氏は3年を交渉に費やし、降伏を得ただけのようです」
《独立の大義》 ドはこの戦争の本質部分についても啓発してくれた。ベトナム戦争
は民族独立闘争と共産主義革命が一体となった闘争だ。フランスの植民地支配(*)の
悪は自明であり、そこからの脱却を図る民族独立には大義があろう。だが共産主義が
自明の善であり、大義であるかは疑問だろう。ではベトナムではなぜ植民地主義を倒
すのに共産主義革命しか方法がなかったのか。
ドは抗仏闘争の歴史を解説した。1880年代に始まったフランスの植民地支配下で
今世紀に入り、ベトナム民族の独立志向が高まって以来、系統だった抗仏闘争は共産
主義と無縁のベトナム国民党、大越党、ベトナム光復会という組織によって当初は推
進された。これら民族主義の組織はホー・チ・ミンがコミンテルンとの固いきずなを
基盤にベトナム民族独立闘争の舞台に登場してからも、彼の掲げるマルクス・レーニ
ン主義を無視どころか敵視したのだというのである。
国民党や大越党での闘争歴を持ち、なおサイゴンに現存するチャン・バン・チュエン
下院議員、ダン・バン・スン上院議員、グエン・ゴク・フイ教授らの系譜を教えてく
れたのも、ドだった。私はこれら反共、あるいは非共の民族主義者たちに直接、何度
も会って、闘争の歴史を聞くことになった。
日本軍が降伏してすぐの四六年にフランスに対抗して結成された抗戦連合政府に国民
党の幹部として加わり、ホー・チ・ミンらと協力したことのあるチュエンは、連合政
府のなかで共産党が他の民族主義勢力をありとあらゆる手段を使って排除していった
歴史を語った。
共産党はまず共通の敵フランスに反抗する全ての勢力を集め、連合戦線の組織を拡大
し、強化したうえで、今度は組織内部で共産主義に同調しない勢力を仮借なく切って
いったというのだ。
スンやフイも共産主義への信奉を誓うことなしに民族独立を唱えた活動家たちが共産
党により暗殺や欺瞞(ぎまん)を含む巧みな方法で除去されていった実例をいろいろ話
してくれた。民族主義者でもあっても同時に共産主義者でなければ真の民族主義者た
りえないというベトナムの闘争独特の鋼鉄の規範が1950年代前半までには揺るぎ
なく打ち固められていったというのだ。そして共産思想に同調しない政治勢力は終極
的にはすべて切って捨てるベトナム共産主義者たちの冷酷な本質を自分たちこそ骨身
にしみて知っているのだ、と説くのだった。
247 :
古森義久:02/03/11 10:43 ID:JPB2TuhL
《背信に抗議》 ドも1975年4月末、危機の迫ったサイゴンから国外へ避難した。
最後までアメリカの背信に悲痛な声で抗議していた。彼との交流はサイゴン陥落後も
15年ほど続いた。医師を開業する息子の住むパリに居を定めたドを私は2年に1度
ほどのわりで訪れた。ビクトルユゴー通りに近い由緒ありげな建物のアパートに入る
と、サイゴン時代と同様にジャスミン茶が出て、きちんとネクタイをしたドはベトナ
ム戦争を現在の出来事のように語るのだった。
90年の秋、珍しく彼から「また話をしにきてください」という手紙をもらい、再訪
した。ベトナムは当時、カンボジアでの戦争の泥沼から脱し切れず、国内は貧困の極
にあった。ドはいつもの活力がなく「ベトナムという家はまだ業火に焼かれているの
です」と述べたのが妙に印象に残った。彼の訃報を知らされたのはその1カ月後だった。
■豆事典
☆ジョン・フォスター・ダレス(1888−1959年) 祖父もおじも米国務長官の名門に生
まれ、ニューヨークで国際法専門の弁護士となる。パリ和平会議(19年)や国連憲章起
草のサンフランシスコ会議で米政府の法律顧問となり、49年に共和党の上院議員。対
日講和条約の全権大使をつとめ、53年から59年までアイゼンハワー大統領の下で国務
長官を務めた。強烈な反共姿勢を貫き、北大西洋条約機構(NATO)に加えて中東・東ア
ジアでも東南アジア条約機構(SEATO、54年)などの安保体制創設に尽力した。CIA元
長官のアレン・ウェルシュ・ダレスは実弟。
☆フランスの植民地支配 フランスは17世紀からポルトガル、スペインとともにカト
リック宣教師をベトナムに派遣、18世紀末にはルイ16世が阮福映(グエン・フク・ア
イン)の全土統一に軍事支援を約束し、宣教師が援軍を送っていた。19世紀初頭の統
一後、阮朝がキリスト教を禁じて欧州人宣教師と信徒を処刑したため、英国の中国進
出に対抗してベトナム進出を狙っていたフランスはこれを口実に1847年にダナン港を
攻撃。1857年にはナポレオン3世がスペイン人宣教師処刑を理由にサイゴンを占領し、
メコンデルタ3省の割譲を受けた。フランスはさらに1884年の清仏戦争で宗主国の清
を破って宗主権を奪い、1887年に保護領としていたカンボジアと合わせ、仏領インド
シナ連邦を完成した。第2次大戦前までの植民地経営では産業をゴム・米・石炭など
輸出向け天然資源に限定し、劣悪な生活環境を放置したため、本国議会でも批判の声
が上がった。抗仏ゲリラは1860年代から活動したが、日露戦争(1904年)で日本が勝利
したことで民族運動が刺激され、1920年代後半の労農運動の発展に続いて1930年にホ
ー・チ・ミンがベトナム共産党を結成した。日本軍進駐の翌年の41年にベトミンが結
成され、日本降伏後には独立を宣言。植民地回復を狙うフランス軍を54年のディエン
ビエンフー陥落で降伏させるまで第1次ベトナム戦争が続いた。
248 :
古森義久:02/03/11 11:01 ID:XB3H8TsU
■ サイゴン陥落−22 終幕の始まり
首都決戦の判断が「南」の総崩れに
1975年(昭和50年)3月10日、南ベトナム中部高原にあるダルラク省の省都バン
メトート(*)が北ベトナム軍の猛攻を受けて陥落した。この日からわずか50日ほど
でサイゴンを首都とするベトナム共和国(南ベトナム)は地崩れのように崩壊し、つい
え去った。そしてサイゴン陥落とともに三十年にも及ぶベトナム戦争が終幕を迎えた。
《50日で抹殺》 南ベトナムはアメリカの援助に依存し、領土の一部の統治を失って
いたとはいえ、2千万近くの国民と100万の軍隊を抱え、全世界の90以上の国か
ら承認されたひとつの国家だった。その国家が北ベトナムの軍事攻撃をあびて、なん
と50日という短期間であっけなく抹殺されてしまった。現代世界史にも珍しい異様
な出来事だったといえよう。私はベトナム戦争最終のこの激烈な展開を主としてサイ
ゴンから追い、報道した。
それまでの3年間の戦争報道の常識や定石では夢にも想像できないことが毎日のよう
に起きた。信じがたい大激震に息をのみ、その意味をなんとか考えようと一瞬、静止
すると、またすぐにそれ以上に大きな揺れが襲ってくる。走り、あえぎ、書き、また
走り、恐れ、怒り、悲しみ、という日々となった。
南ベトナムにとってこの年は元旦から不吉な幕開けとなった。サイゴン北約130キ
ロにあるフォクロン省の省都フォクビンが、北ベトナム軍第7師団に占拠されたのだ。
フォクビンは山地の小さな町だが、73年1月にパリ和平協定が成立して以来、省都
が軍事攻撃で占拠されるという事態は1度も起きてはいなかった。和平協定の基本を
否定するような重大な違反だった。だが北ベトナム側は攻撃をさらに広げ、フォクロ
ン省全体を制圧してしまった。大規模な攻撃の理由としては南ベトナム軍側の停戦違
反攻撃をあげていた。
南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領は奇妙にもフォクロン省の防衛に力を注が
なかった。カンボジア国境沿いのこの地域は人口も資源も極端に少ないことや、北軍
が同地域でホーチミン・ルート(*)を整備して、兵力を大幅増強し南軍の反撃を不利
にしていることがあったが、アメリカに共産側の侵略を明示して、援助の削減を防ぐ
という政治計算が真の理由だと伝えられた。
だがアメリカは何の反応もみせなかった。政府は北ベトナムの和平協定違反を言葉で
非難するだけで、何の行動もとらなかった。議会は援助の削減し続けた。「アメリカ
は共産側の重大な協定違反を座視しない」と軍事支援までを誓ったリチャード・ニク
ソン大統領はウォーターゲート事件ですでに辞任していた。アメリカの世論もベトナ
ムへの関与を1日も早く終わらせたいと願う声が圧倒的だったのだ。
アメリカのこの態度は北ベトナム首脳にとって歴史的な意味を持つ事となった。人民
軍参謀総長のバン・チエン・ズン将軍の手記によると、北側はすでにこの時点で南ベ
トナム軍がアメリカの援助削減で戦闘力を大幅に弱めたとみて、南領内での大規模な
軍事作戦再開の基本を決めていた。だがその場合にアメリカがどう出るかがカギだった。
249 :
古森義久:02/03/11 11:07 ID:nXI6fI5L
米軍がたとえ空爆だけでも南軍を軍事支援するとなると、北軍は勝利はつかめないと
判断された。米軍との戦闘はなんとしても避けるという基本戦略だった。そのために
アメリカの対応をみる瀬踏みがフォクビン攻略だったのである。
北ベトナムはフォクロン省制圧後、米軍はなにがあっても絶対にもどってこないと判
断し、初めて歴史的な決定を下す。労働党(現共産党)政治局は一月八日、「七五年春
からほぼ二年の予定で南ベトナムへの総攻撃を断行し、七六年中に南全土を解放する」
という大作戦を決定したのだった。その幕開けが三月の中部高原バンメトート攻撃だ
ったのである。
《奇襲を断行》 ズン将軍はこの大作戦のために2月にハノイをひそかに離れ、南北
境界線のベンハイ川を越えて、チョンソン山脈東部に新設された戦略道路を南下して
いた。そして中部の森のなかの前線司令部でバンメトートへの奇襲作戦を指揮したの
だった。奇襲は中部高原の要衝プレイク(注3)周辺に大部隊集結を偽装する陽動作戦
と一体になっていた。
バンメトート攻略自体には人民軍3個師団が投入された。守備の南軍は主力の第23
師団がプレイクに転進したばかりで、一個連隊強の兵力しか残っていなかった。こう
した兵力、戦力の圧倒的優位を確保したところで初めて攻撃に移るというのが人民軍
の戦略基本となっていたのだ。
この時点で、南ベトナム軍は中部全体の第2軍管区で2個師団の兵力を有していたのだが、北ベトナム軍はすでに中部に5個師団を布陣していた。この大部隊は当然、次
の攻撃の照準をプレイクに絞るとみられた。プレイクは南軍の第二軍管区司令部のあ
る重要拠点だった。南軍は劣勢を立て直し、プレイク死守に努めるとだれもが思った。
そんな状況の3月16日朝、サイゴンにいた私は国営ベトナム通信のグエン・ザ・ト
イ記者から奇怪な情報を聞いた。長年の情報提供者のトイは息を切らしてやってきて
私に告げた。「プレイクでなにかが起きています。プレイクとの通信が突然、すべて
切れてしまったのです。共産軍の攻撃は始まっていないので、ふしぎです」思えばこ
れが私にとっては南ベトナム軍総敗退へとつながる歴史的激変の第一報だった。
チュー大統領は突然、プレイクを放棄し、中部高原全地域からの全軍撤退を命じたの
だった。アメリカの援助の削減で兵器や弾薬の補充にも支障が出てきた南軍が北軍の
大部隊を相手にもはや中部高原では戦えないと判断して、戦略的撤退をするという意
図だった。防衛線を後退させ、人口の多い海岸部と首都サイゴン地域に部隊を集中し
て、南ベトナムの中枢だけを死守するという狙いである。
だがこの戦略が完全に失敗した。中部高原から撤退する南軍部隊は雪崩を打って避難
する住民たちの大洪水に埋めつくされ、戦力を失った。南軍の中部高原放棄は北軍の
ズン将軍にとっても青天のへきれきだった。中部高原全域の制圧は翌76年はじめを
目標としていたほどなのである。だが撤退する南軍へのフルスピードでの追撃を全軍
にすぐ命令したのだった。
250 :
古森義久:02/03/11 11:10 ID:nXI6fI5L
《総力を投入》 ハノイ首脳は一気に南ベトナム全土で大攻勢に出て、サイゴンを占
領するという作戦に切り替え、国家の総力を南に投入する態勢をとっていく。人民軍
第2軍団の大部隊が新たに北緯17度線を堂々と超えて、クアンチやユヘへと突入し
た。北ベトナムはやがて予備役までも動員し、行政や生産の現場の人員を3割も削減
し、すべて南での戦争へと注ぎこんだ。人民軍の20個師団もが南ベトナム領内を南
へ、南へと進撃することになった。
その結果、南ベトナム側は古都ユエを失い、中部の軍事都市ダナンを攻略され、いよ
いよサイゴン周辺地域へと追いこまれていった。この過程では何百万という難民が出
て、無数の悲劇や惨劇が繰り広げられた。
■豆事典
☆バンメトート 中部高原地方で最大の都市。ダラト高地南端の標高540メートルの
位置にある。茶、コーヒー、ゴムのプランテーションがある。
☆ホーチミン・ルート(トレイル=小道) 南ベトナム領内での政府軍や米軍との戦闘
のために、北ベトナムが兵器・物資・人員の輸送に建設し、利用した秘密ルート。北
の革命勢力は、フランス植民地時代から第2次ベトナム戦争まで自力で山岳地帯に道
路を切り開いて使った。北ベトナム側は、その存在自体を否定していたが、米国は北
ベトナムのホー・チ・ミン大統領の名前をとって、こう呼んだ。輸送路はハノイから
非武装地帯北側でアンナン山脈の密林内のラオス・カンボジア領内に入り、メコンデ
ルタに至る。随所に物資集積所やわき道があり、南ベトナム領内へつながっていた。
第2次ベトナム戦争で使われはじめた59年ごろは、せいぜい小道程度だったが、60年
代から輸送量が大幅に増加したことで道幅の拡大・補強が繰り返された。60年代後半
には大型トラックも通過できるようになり、戦争末期には一部が舗装された。南ベト
ナム内で活動する数十万の北軍兵士の主要な物資補給ルートであり続けたことから、
米軍は足音センサーなどの投下で通過状況の把握に神経をとがらせた。米軍は戦争の
全期間を通して空爆を加えるなど輸送路の分断を図ったものの、一部の破壊にとどま
った。サイゴン陥落時の北軍部隊も主要な補給路として活用していた。
☆プレイク 中部高原のコンツム高原にあり、道路が交差する戦略的要衝。平均標高
800メートル。2000メートル級の山が連なるアンナン山脈南部に位置する。住民は少
数山岳民族が多く、茶やコーヒー、陸稲を産する。プレイクの米軍航空基地が1965年
に共産側から初の本格的攻撃を受けたことから、ジョンソン大統領が数日後に海兵隊
のダナン上陸を命令して米軍の全面的介入のきっかけとなった。1972年の春季大攻勢
では共産側の攻撃を受けたものの、米軍の空爆支援を受けた南ベトナム軍が保持した。
251 :
古森義久:02/03/11 11:43 ID:lA1Tg1iz
■ サイゴン陥落−23 ボート・ピープル】
10人に1人が決死の脱出を試みた
サイゴン陥落の記録は南ベトナムの人たちがその後にとった行動に触れることなしに
は完結はできない。解放されたはずの母国から命の危険を冒してまで国外に脱出しよ
うとする人たちが果てしなく続いたのである。ボート・ピープルだった。文字づらか
らは「ボートに乗って、暮らす人」というような軽い感じしか伝わってこないこの造
語は、その背後にひそむ人間の苦悩を軽視するような悲しい言葉だった。
《大洋へ》 サイゴン陥落の前後には十数万の南ベトナム国民がさまざまな形で国外
へ逃避した。この種の人達には革命側との闘争で矢面に立った軍や政府の関係者、ア
メリカの軍や政府機関の勤務経験者、富裕な階層などが多かった。だが陥落後、社会
の革命が進むにつれ、南のごく一般的な男女までが国外に逃げるようになった。革命
政府の禁止令に逆らい、小舟で海上へと脱出するのである。
ボート・ピープルはサイゴン陥落から5年過ぎても、10年たってもなお続き、その
数は減らなかった。陥落から20年も国外脱出の流れは決して絶えることがなかった
のだ。毎年数万というおびただしい数の老若男女が大洋に乗り出し、幸運な人たちは
外国船に拾われた。あるいはタイやマレーシアの海岸に漂着した。不運な人たちは荒
海の藻くずと消えた。ベトナム当局に海岸近くで逮捕され、海上で海賊団に襲撃もさ
れた。
こんな国外脱出は30年間も続いたベトナムの戦争中は決して起きなかった。戦争が
終わり、勝者が解放を宣言した途端に脱出が始まり、それがいつまでも終わらなかっ
た事実は、サイゴン陥落が南ベトナムの大多数の国民にとって自由への解き放ちでは
なく、共産主義革命の過酷な抑圧の始まりだったことを立証している。
国外に出る道を選んだ人達は、難民や亡命者としてアメリカ、フランス、オーストラ
リア、カナダなど全世界の多数の民主主義国に受け入れられた。現在、その数はアメ
リカだけでも140万、全世界では200万を超える。その陰では数十万人が脱出の
過程で命を失っていた。
サイゴン陥落時の南ベトナムの総人口は約2000万人だった。200数十万という
人数は全国民の10人に1人以上となる。もし日本なら1200万人以上が国を離れ
ることになる。これだけの数のベトナム人が革命を嫌って故国を去ったとなれば、ベ
トナム戦争自体が「ベトナム人民をアメリカ帝国主義の侵略から解放する闘争」とい
う革命側の定義づけだけで断じられないことも、あまりに明白であろう。
《同化と成功》 私はサイゴン陥落の翌年からワシントン勤務となり、アメリカでベ
トナムの人達とまた接触することになった。親しかった旧知とはすぐに連絡がとれた。
私が柔道を教えた元軍医学校の学生が市内のレストランでウエイターとして働いてい
るのにばったり会い、奇遇をよろこびあった。ビルのエレベーターのなかでサイゴン
の私のオフィスの家主だった宝石商の息子に大きな声で呼びかけられ、びっくりした。
別のレストランで偶然、客同士として再会した元政府職員は保険業で成功したことを
うれしそうに語った。彼が誇らしげに告げた所得は私の収入の数倍だった。
252 :
古森義久:02/03/11 11:44 ID:lA1Tg1iz
移民の国のアメリカでもベトナム人の大量流入と短期間での同化と成功は記録破りと
されている。もちろん差別とか疎外というケースも一部にあったが、全体としては彼
らはいまやアメリカ社会の幅広い分野でみごとに活躍するにいたった。ワシントン周
辺にも1万数千人のベトナム人が住む。ワシントン近郊のバージニア州北部には「エ
デン・センター」というサイゴンを再現したようなショッピング・センターがある。
ここにはサイゴンの店をもっと清潔で豪華にしたようなレストラン、理髪店、宝石店、
洋品店などが軒を並べ、活気をみなぎらせる。広大な駐車場の中央には国旗掲揚の高
い柱があり、星条旗と並んで黄色の地に赤い三本線のベトナム共和国(南ベトナム)国
旗がいまも堂々と掲げられている。
この種の商業活動で最も有名なのはカリフォルニア州南部の「リトル・サイゴン」で
ある。ウェストミンスター市の周辺地域に10数万人が住み、その地域に数カ所、ベ
トナム人経営の巨大なショッピング・センター、オフィス・センターが立ち並ぶのだ。
商店だけで合計八百店、ほかに法律事務所、医院、保険会社、旅行代理店、ラジオ放
送局などすべてベトナム人が同胞を対象に営業している。
《黒い墓碑》 私はサイゴン陥落後のアメリカ側のベトナム戦争認識にも関心を払い
続けた。アメリカにとってベトナム戦争は国内的には歴史上、最も不人気な戦争だっ
たといえる。戦争だったのか、内戦への軍事介入だったのかもはっきりされなかった。
地下になかば沈んだ形のワシントンのベトナム戦死者の記念碑の重苦しい風情は、そ
の黒い墓碑に名を刻まれた58,214人の死が栄光とは無縁だったことを語りかけ
てくる。
アメリカにとってサイゴン陥落は米軍撤退2年後の出来事とはいえ、挫折であり、屈
辱だった。傷跡も深かった。北爆、ミライ(注1)、枯れ葉剤など米軍自身の過酷な行
動も含めて戦争の悲惨や不毛が苦しげに語られた。対外的にも内向きで軟弱な傾向が
強くなり、とくにカーター政権は「ベトナム症候群」のために共産主義の拡張に断固
たる対応をとれなくなった。そんな姿勢がアンゴラやエチオピアで共産主義革命を許
し、やがてはソ連軍のアフガニスタン侵攻を招いたともされた。
しかしその一方、歳月が流れ、ベトナム共産党政権が独裁と抑圧を強め、カンボジア
を軍事占領し、中国と戦争をするという事態が展開されると、アメリカ側の認識も少
しずつ変わってきた。戦争中に北ベトナム側を政治色のない民族和解の平和志向勢力
として位置づけ、自国の政策を激しく糾弾していた歌手のジョーン・バエズ(*)、女
優のジェーン・フォンダ(*)らが、あいついで「私は間違っていた」と認めるように
なったのである。
私も戦争中に北ベトナムの捕虜だったジョン・マケイン上院議員(*)から直接「勝利
への筋道を描けない軍事介入は間違いだが、介入の目的は正しかったと信じます」と
いう言葉を聞いた。北ベトナムを明確な敵として全面攻撃すれば、いくらでも勝てた
のに国内政治がそれを禁じた、というのだ。同じ捕虜だった日系米人のゴードン・ナ
カガワ大佐は「北ベトナムの武力制圧に抵抗する南ベトナムを支援した行動は正しく
道義にかなっており、自分がその行動に加わったことは誇りです」とも断言した。
253 :
古森義久:02/03/11 11:44 ID:lA1Tg1iz
81年に登場したロナルド・レーガン大統領は、こうした見解を総括して「アメリカ
はベトナムで崇高な大義のために戦いました。ただ今後、アメリカ政府自身が勝利を
恐れるような戦いに若者を送り、死なせることは絶対に避けるべきです」と宣言した。
アメリカ国内にはこれに対しベトナム政策のすべてを否定するようなロバート・マク
ナマラ元国防長官らの異論もあるが、多数派の認識はレーガン大統領のこの言葉に集
約されているといえる。
■豆事典
☆ミライ 北ベトナム軍によるテト(旧正月)攻勢直後の1968年3月16日朝、南ベトナ
ムのクアンガイ省ソンミ村ミライ地区でゲリラ掃討中のウィリアム・カリー中尉らが
率いる米陸軍第23歩兵師団(アメリカル師団)の部隊が女性や子供、老人を多数含む村
民約500人を灌漑用堀に並ばせ、小銃や手りゅう弾で無差別に殺害した。戦友から話
を聞いた元同部隊所属の帰還兵でフリージャーナリストのライデンアワーの調査によ
り発覚。69年3月に彼が国防総省に手紙を送り、9月にカリー中尉が逮捕され、11月
のニューヨーク・タイムズ紙の報道で明るみに出た。軍法会議はカリー中尉ら13人を
起訴したものの、有罪はカリー中尉のみで終身刑を宣告された。しかし同中尉はニク
ソン大統領の特赦によって20年の有期刑に減刑され、75年には仮釈放された。事件は
米国の反戦機運に拍車をかける結果にもなった。
☆ジョーン・バエズ(1941年−) ニューヨーク出身のフォーク歌手。公民権運動やベ
トナム反戦運動に加わり、反戦の立場から税金支払いを拒絶し刑務所に送られたこと
もある。
☆ジェーン・フォンダ(1937年−) 俳優のヘンリー・フォンダの娘で女優として有名
だが、弟のピーター・フォンダも俳優である。60年代末からベトナム反戦運動に参加
した。72年には北ベトナムに渡航し、ハノイから米兵に戦闘停止を呼びかける放送を
行った。再婚相手の反戦活動家トム・ヘイドンと反核・フェミニズム平和運動にも参
加した。91年にはCNNのテッド・ターナー会長と3度目の結婚をした。
☆ジョン・マケイン(1936年−) 米海軍出身の上院議員で祖父、父も海軍提督。海軍
兵学校卒業後、ベトナム戦争にパイロットとして参加。ハノイ上空で撃墜され、67年
から73年まで北ベトナムで捕虜生活を送った。帰国後の82年、アリゾナ州から共和党
下院議員に2期連続当選。86年には上院議員となった。
254 :
卵の名無しさん:02/03/11 12:55 ID:1Ox/EbKt
この荒らし、必死の妨害ペーストやな
241までの書き込みにかなりまずいことがあるようだな。。。。
255 :
古森義久:02/03/11 16:54 ID:gp3LPS8m
>この荒らし、必死の妨害ペーストやな
>241までの書き込みにかなりまずいことがあるようだな。。。。
古森義久の『サイゴン陥落@20世紀特派員』をまとめているのだ。
あと、「24」でおしまい。
単にコピペしている訳ではなく、sankei.co.jpのテキストをここで編集している。
256 :
古森義久:02/03/11 16:56 ID:gp3LPS8m
■ サイゴン陥落−24 勝者と敗者
磨かれた墓碑と埋もれた墓碑
サイゴン陥落はベトナム革命勢力にとっては輝ける歴史的な大勝利だった。1975
年(昭和50年)5月15日に開かれた勝利祝賀式典では、旧大統領官邸の正門前の大演
壇に著名な闘士たちがずらりと並んだ。
《民族独立の士》 民族独立派の中心は北ベトナム大統領トン・ドク・タン(*)であ
るが、ホー・チ・ミンと30年以上も手をとりあって戦ってきたタンはすでに87歳
だが、ずんぐりとした体にはたくましさがあった。そのすぐ背後に労働党(共産党)政
治局員のレ・ドク・トが立つ。長身のトはパリ和平協定の交渉での花形だった。この
2人が北ベトナム代表団を率いていた。
燦々たる陽光の下でタン大統領ら生涯を革命にささげてきた闘士たちが究極の勝利に
顔をほころばせる光景は圧巻だった。フランス植民地支配を打倒し、その延長とみな
したアメリカと戦って撤退させ、そのアメリカの傀儡(かいらい)とみなす南ベトナム
政府をついに粉砕したのだ。真の「主役」は北の代表団の横に並ぶ南ベトナム臨時革
命政府の首脳たちのはずだった。
革命政府諮問評議会の議長で南ベトナム民族解放戦線議長のグエン・フー・トが最前
列に立っていた。トはサイゴンの弁護士だったが、ゴ・ジン・ジェム政権に弾圧され、
61年に密林へと消えた。
少し離れて革命政府首相のフィン・タン・ファトの姿があった。ファトはサイゴンの
建築士で日本大使公邸を設計した実績もあったが、やはりジェム政権の迫害で首都を
離れて、50年代末に地下に潜行した。
この2人こそ南独自の民族主義者の代表であり、特定の政党やイデオロギーには属さ
ない民族独立の士とされてきた。この二人が代表する南革命政府と解放戦線こそが南
領内でアメリカや南ベトナム政府に戦いを挑む唯一の武装勢力とされ、北ベトナムは
後方支援をするだけで、南には一兵たりとも部隊を送っていないと宣言されてきた。
ところが、トかファトかが占めるべき南ベトナム代表団最上位には、驚くべき人物が
立っていた。北の労働党政治局員のファム・フン(*)だった。北ベトナムの副首相ま
で務めたフンは労働党南ベトナム支部書記長という肩書で紹介された。南代表団の第
2位はこれまた労働党中央委員のグエン・バン・リン(2)だった。労働党南支部副書
記長とされている。
革命勢力のこれまでの建前に従えば、北ベトナム政権の要人が南の闘争の中枢に位置
することなどあってはならない。まして北の共産政党の支部が実は南に存在するなど、
あるはずがないのだ。だが当の革命勢力首脳たちが勝利をつかんだとたん、それまで
の建前をぽいと捨てたのだった。
257 :
古森義久:02/03/11 16:57 ID:gp3LPS8m
長年の闘争戦術としてのフィクションをそのフィクションを描いてきた当事者が「あ
あ、これはみんなウソだったよ」というかのごとく、消し去ったのである。革命勢力
の実態をかなり理解していた私も当の革命側がこれほど早く、これほどあっさりと虚
構を打ち砕いてみせたことには唖然とした。
勝利祝賀式典の後のサイゴンでは南ベトナムの新しい勝利者かつ統治者となったはず
の南の革命政府も南の民族解放戦線も、実権を持った機関としてはまったく登場せず、
幻のままに消えていった。闘争の勝者が勝者になったとたんに消えたわけである。革
命行政は労働党が組織した軍事管理委員会が実施し、末端の要員も北からきた政治幹
部が中心となっていた。
《日本での錯誤》 南ベトナム独自の非共産民族主義勢力というのもジェム政権から
テト攻勢のころまでは一部には確実に存在しただろう。だが闘争の主体や主導は最初
から最後まで北の共産主義政党だったのである。
日本ではこの虚構を現実として提示するのが多数派だった。「労働党南ベトナム支部」
もアメリカのベトナム研究家ダグラス・パイク(*)らにより英語名の頭文字をとった
COSVNとして戦争の早い時期から詳細に報告されていたが、日本の識者の多くは
COSVNというだけで反共プロパガンダのデマだと断じていた。
日本での錯誤をさらに指摘するならば、「米軍さえ撤退すれば民族和解の平和がすぐ
実現する」とか「チュー大統領さえ辞任すれば戦争は交渉で解決する」という声が強
かったことである。これも幻想だった。北の革命勢力は一貫して共産主義に基づく武
力での南ベトナム制圧を目指し、その過程では共産主義を信奉しない勢力はあくまで
敵として排するという基本を決定していたのだ。この点はむしろ「共産勢力との交渉
解決などありえない」と主張し続けたチュー自身の言葉が正しかったわけである。
《報道操作》 ベトナム戦争は二つの政治システムの激突でもあった。戦争の長い歳
月、南ベトナムでは外国人記者の報道には事前検閲はなかったが、戦争が終わり革命
勢力の支配が確立したとたんに厳しい事前検閲が実行された。南ベトナムは外国報道
陣が味方の軍隊の不利となる情報をどんどん流すのを放置したが、北ベトナムは自陣
に友好的な外国記者だけを選別して報道させる一方、国営メディアを使って南領に潜
伏するバン・チエン・ズン参謀総長がハノイにいるという虚報を流すような「報道操
作」は日常だった。
南ベトナムに援助を与えるアメリカは世論が政策を決める民主主義国家だからこそそ
の援助を大削減したが、北ベトナムに援助を与えるソ連と中国は共産主義の一党支配
の下、揺るぐことなしに援助を続けたのである。
ズン参謀総長が大勝利の手記の最後で、かぐわしき花束をホー・チ・ミン主席とマル
クス・レーニン主義と国際共産主義運動とにささげるとうたったように、ベトナムの
戦争は民族独立闘争であると同時に共産主義革命だった。
258 :
古森義久:02/03/11 16:57 ID:gp3LPS8m
日本の識者の多くは前者しかみなかった。革命勢力対フランス・アメリカだけではな
く、同じベトナム人同士の間で共産主義を信奉する勢力と、信奉しない勢力とがぶつ
かりあい、前者が後者を粉砕した闘争でもあったのだ。
共産主義を信奉しない側は信奉する側に軍事攻撃を受けて生存を脅かされ、アメリカ
に依存し、自己の防衛を米軍に頼るという道を選んだ。その外国依存が悪だとされた。
では同じアメリカに国の防衛を第二次大戦後、一貫して委ねてきた日本はなんなのか。
私は陥落から23年が過ぎたサイゴンを再訪し、郊外のビエンホアにある2つの戦死
者墓地に足を運んだ。革命側の墓地はきれいに掃除され、石碑は磨かれ、ふんだんな
花や線香が勝者の霊を丁重に弔っていた。
同じ地域の国道を隔てた丘の麓にはかつての南ベトナム軍の将兵の墓地があった。
もっともいまは公式には墓地ではなく、雑草がやたらと伸びた草地となっている。荒
涼とした無人の草地に立ち、一望すると、雑草の陰に汚れきった墓碑が無数に並んで
いた。その情景は敗者たちの霊が幽鬼になってさまようのかと一瞬、感じさせるほど
荒廃していた。
だがふと足元をみると、白茶けた墓石のわきに小さな赤い切り花が一輪、人の目を避
けるように雑草に半分おおわれながら、ひっそりとささげられていた。
◇ 「サイゴン陥落」は終わり。
259 :
古森義久:02/03/11 17:01 ID:gp3LPS8m
■豆事典
☆トン・ドク・タン(1888−1980年) 1910年代から共産主義運動に身を投じ、25年に
フランスの中国共産勢力への干渉に抗議してフランス海軍でストライキを扇動、29年
から45年までベトナム・メコンデルタ沖のコンソン島の監獄に入れられた。出獄後、47
年に北ベトナムの内相、55年に祖国戦線議長、60年には副大統領に就任した。69年の
ホー・チ・ミン死去に伴い北ベトナム大統領。サイゴン陥落後の76年、ベトナム社会
主義共和国の初代大統領となった。
☆ファム・フン(1912−1988年) フランス植民地時代の1930年、インドシナ共産党(ベ
トナム共産党)の創設に参加、31年に仏警察に逮捕され死刑判決を受けるが、終身刑
に減刑され45年までコンソン島で服役した。釈放後はベトミン(ベトナム独立同盟)政
権に加わり、第1次ベトナム戦争中は南ベトナムで活動した。56年にベトナム労働党
(76年にベトナム共産党と改称)の政治局員、58年に副首相に就任した。第2次ベトナ
ム戦争では67年から党南部委員会の責任者として75年のサイゴン陥落まで南ベトナム
内の党・軍を指揮した。76年に副首相、87年に首相に就任したが、在任9カ月で死去
した。
☆グエン・バン・リン(1915−1998年) 十代で反仏活動に加わり、30年に逮捕されコ
ンソン島に送られた。36年に特赦され、インドシナ共産党に入党したが、41年に再逮
捕、45年まで投獄された。出獄後にサイゴンの秘密の党書記となり、60年にはベトナ
ム労働党の中央委員に就任。第2次ベトナム戦争中は南ベトナムでの宣伝工作を担当、
サイゴン陥落後の76年に党政治局員兼書記。82年に解任されたが、ホーチミン市党書
記として経済改革を強力に推進して85年に党政治局員に復帰、翌年には党書記長に昇
進した。91年に高齢のため引退。
☆ダグラス・パイク(1924− ) 米国学界でも有数のベトナム共産主義勢力の研究家。
1958年に国務省入。サイゴン勤務や本省政策企画局勤務を通じてベトナム問題に取り
組む。82年からカリフォルニア大学のインドシナ研究所長。96年からはテキサス工科
大学教授兼ベトナム研究センター所長。著書に「ベトコン=南ベトナム民族解放戦線
の組織技術」「ユエの虐殺」「ベトナム共産主義の歴史」「ベトナム人民軍」など。
>>255 >あと、「24」でおしまい。
それまでに、満杯になったら、どうすんの?
他にも害毒を及ぼすわけ?
261 :
古森義久:02/03/11 18:17 ID:Bgvm85Xs
262 :
古森義久:02/03/11 18:21 ID:NUhmOMuj
追伸:
古森義久のテキストは膨大なので、
これでオシマイと言う訳じゃないから、
そこらへんはよろしく。
黒田勝弘もあるし・・・・
263 :
卵の名無しさん:02/03/11 18:54 ID:IjniTisb
ここの本論の書き込みをまとめてペーストしてみようかな
妨害された直近の書き込み
234 :卵の名無しさん :02/03/10 22:13 ID:Q4DYZOd7
>>233 悪口というよりもっとえげつないことを書いてたようですよ。
あのコピーがかなり出回ってるね。
235 :卵の名無しさん :02/03/11 03:27 ID:PyUxOLeo
>>234 そこまでしなければならなのか。
兄弟の確執って、恐ろしい。
239 :卵の名無しさん :02/03/11 07:17 ID:eEpRR6NQ
>>235 大阪新聞はヨタ記事とはいえ格別の嘘は書いてなかった。
T社が過去薬事法違反でよく名前が出たのも事実、今回の
原末すり替え事件でヒタスラ被害者を装うのも不自然。
ただ、昨夏の露見・処分が、今頃新聞ネタになるのは作為。
240 :>239 :02/03/11 07:20 ID:+YgTVrOP
>>239 お前、
「ゾロ品を処方している医者」の311だろ?
リンクの張り方の知らんのに、いっちょまえの口きくんじゃないよ
241 :卵の名無しさん :02/03/11 07:21 ID:wRSrvvar
>>234 ここの社長 裏でいろいろ○ないこと画策してるらしいね.
変な噂をいろいろ聞きます.
>>264 240は単なる中傷に近い書き込みですから、荒らしも問題に
しないでしょうが、他は会社に関連した書き込みのようですね。
すると、この荒らしは会社関係ということになるが。。。。。
しかも、基地外。
>>234
>悪口というよりもっとえげつないことを書いてたようですよ
内容はどういうものですか?
267 :
卵の名無しさん:02/03/12 23:53 ID:RIMV0d22
268 :
卵の名無しさん:02/03/13 04:30 ID:2771jTAx
給料低そう.....
269 :
古森義久:02/03/13 13:53 ID:qrjZ9jhE
■ 国境線の画定 中露が終了宣言
なお3島対象外
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9904/28/paper/today/internat/28int002.htm 【北京27日=古森義久】 中国とロシアの国境線の画定終了が27日、北京で宣言
された。長い歴史を持つ両国の国境紛争はこれで事実上、決着したとされる。
中国・ロシア合同国境線画定委員会のロシア側議長のヘンリー・キレエフ氏は27日、
北京のロシア大使館で記者会見して、これまで7年にわたり続けてきた両国間の国
境の画定作業が終了したことを宣言した。
キレエフ議長の発表によると、両国の東部国境線は長さ4195キロ、西部国境線は
3480キロと画定され、とくに東部で紛争の絶えなかったウスリー川やアムール川の
数多くの島も三島を除外してすべて帰属が画定された。国境線画定の対象となった
これら諸島は合計2444で、このうち1163がロシアに、1281が中国に帰属すること
が決まった。
キレエフ議長は、ロシアが実効支配しながらも、中国側が異議を唱える大ウスリー島など
3島が対象外となったことを確認し、3島の処遇が両国間の別個の外交チャンネルで協議
される可能性があると述べた。しかし、議長はこの3島の帰属が原因で両国が再び紛争
を開始する見通しはほとんどないとしている。
270 :
古森義久:02/03/13 13:56 ID:qrjZ9jhE
■ODA 民間経由を主に
日本の「政府 対 政府」と対照的
米上院外交委員長が増額で条件
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0102/21/html/0221side010.html 【ワシントン20日=古森義久】 米国議会で長年、政府開発援助(ODA)の削減を推進して
きた上院外交委員長が、援助の大部分を民間組織を通じて供与することを条件に、援助額
全体の増加に初めて賛成を表明したことが20日、報道された。この提案は政府から政府へ
という日本のODAとは異なる米国の対外援助の新しい方向を示している。
米国の大手紙USA TODAYの20日の報道によると、上院外交委員長のジェシー・ヘルム
ズ議員(共和党)は米国政府が開発途上国に与える援助の大部分を「宗教団体やその他の民
間の救済組織」を通じて諸外国に供与する新方式が採用されれば、援助額全体の増加に初
めて賛成するという提案をまとめた。
ヘルムズ議員は長年、対外援助(ODA)の削減を主張し、実際にその削減を実現させてきたが、
今回はこの民間経由の供与という提案が受け入れられれば、削減の主張を逆転させる意向だ
という。
しかし、この報道ではヘルムズ議員は援助の供与に民間組織を大幅に使うことと引き換えに、
政府の援助実施機関の米国際開発局(USAID)を廃止することをも主張している。
米国の政府援助は現在でも総額約150億ドルのうち三分の一近くは自国の民間組織経由か、
あるいは相手国の非政府組織あてに供与されている。ヘルムズ議員の提案はこの比率を大
幅に増して、ODAの大部分を民間経由で実施するという革新的な内容となっている。
この点、援助のほぼ全額が政府対政府となっている日本のODAとは対照的な傾向を示すと
いえる。
271 :
古森義久:02/03/13 13:58 ID:qrjZ9jhE
■ 挑戦とジレンマ 51年目のNATO 【戦争か、アウシュビッツか】
内政干渉 どう正当化 民主主義、人権…普遍的価値観を強調
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9904/27/paper/today/internat/27int001.htm 北大西洋条約機構(NATO)ほど鮮やかな成功をおさめた同盟は近代史にもまず例がない。
だが、その過去の成果がきらめけばきらめくほど、がらりと変わった国際環境での現在の
課題の難しさが影となってコントラストを広げる。ワシントンでの今回のNATO首脳会議は
そんな変遷を強烈に印象づけた。
NATOは50年前、危機の中で生まれた。当時のソ連は東欧諸国への支配をひたひたと広
げていた。1948年にはチェコスロバキア(当時)で共産勢力が中道左派をクーデターで倒し、
東欧全域が「鉄のカーテン」に入った。ソ連が政治、軍事の両面で覇権をさらに西へと広げ
ようとしていることは明白だった。
西欧諸国の共産党までを指揮下におくソ連のコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)の動き
は活発をきわめた。そしてなによりも、欧州方面に配備するソ連軍175個師団という大戦力の
脅威が、米国と西欧側あわせて、14個師団の兵力を圧していた。そんな圧倒的優位がソ連を
ベルリン封鎖に踏み切らせたといえる。
1949年春、米国、英国、フランスなど米欧12カ国がソ連の脅威に対応してNATOを結成した
とき、加盟諸国の空軍パイロットたちは第三次大戦の危機さえはらんだ緊迫の中で、ベルリン
への大空輸作戦を実施していた。
それから50年、ワシントンでNATO創立50周年の首脳会議が開かれた今回も、加盟諸国の
空軍パイロットたちはユーゴスラビア連邦空爆という危険な作戦を実施していた。 この歴史の
符合は、NATOという軍事同盟集団の一貫した結束の固さを証するとはいえよう。
だが一方で、その符合は50周年の会議を、本来、意図された祝賀にはとどめず、新たな挑戦と
ジレンマ、あるいは苦悩への出発点として画すことともなった。
NATOは「メンバー国への攻撃は加盟国全体への攻撃とみなして反撃する」という集団防衛の
ドクトリンの下に過去半世紀の風雪、度重なる危機と試練に耐えてきた。ソ連軍のハンガリー侵
攻、チェコ侵攻、キューバをめぐる米ソ対決など枚挙にいとまがないが、欧州を舞台とする軍・政
混合の危機では80年代前半の西側の中距離ミサイル配備が特筆されるだろう。
当時、ソ連のSS−20の圧倒的な脅威への抑止としてNATOが西欧各国への新ミサイル配備を
意図したところ、民主主義陣営に特有の内部からの反対が反核運動として高まった。部分的には
ソ連とも結んだこの反対を各国が民主的ながら断固たる対応で抑えて、配備に踏み切ったことが、
ほぼ同時期に提唱されたレーガン米国大統領による戦略ミサイル防衛構想(SDI)と並び、ソ連崩
壊へのNATOの勝因とみなされた。
272 :
古森義久:02/03/13 13:59 ID:qrjZ9jhE
NATOのこうした軍事的対応への反対勢力には、現在はいずれも首相となった英国のトニー・ブレ
ア、西ドイツのゲアハルト・シュレーダー、イタリアのマッシモ・ダレーマといった当時の左派野党の
若き活動家たちも含まれていた。彼らがいま政府の代表としてNATO団結を誓い、ユーゴ攻撃をも
主唱するという歴史の皮肉は、NATOが本来、有してきた安全保障の実利と実効とを裏づけるもの
ともいえよう。
NATOは今回首脳会議での「新戦略概念」発表により、集団防衛という従来の機能からすれば革命
的ともいえる一連の新任務を宣言した。ユーゴへの軍事介入でも明白な加盟諸国の域外をも含めて
の紛争防止、平和執行、拡散防止、さらには民主主義拡大というような野心的な任務である。
その実行には、他国の主権の侵害とか、内政への武力介入という伝統的な国際規範違反の危険が
つきまとう。新生NATOは人道的な内政干渉、道義からの武力行使をどう正当化するかという悩みを
スタート点から突きつけられているわけだ。
このジレンマへのNATO自身の解答は、人権、民主主義、法の統治という普遍的な価値観の強調で
ある。人権の大規模な弾圧には少なくとも欧州では独立国家の主権を侵しても介入すべきという基本
的価値の優先論だといえる。これら価値観は冷戦中でもNATOの存立基盤となってきたが、今回は更
に顕著に前面へと打ち出されてきた。だがなおユーゴ攻撃の例でも明確な問題点や危険はつきまとう。
この点のジレンマはNATO内部ではよく「戦争か、アウシュビッツか」という表現で論じられる。「武力行
使や他国の主権侵害を避けるあまり、ユダヤ民族虐殺のような非人道行為を許してよいのか」という議
論である。NATOとしては、一応の答えを出してのユーゴ介入となった。
だがNATOが集団防衛の軍事メカニズムを、民主主義や人権という普遍的価値観のために域外でも
作動させるという現実は日本にとっても重い思考の糧となる。日本は民主主義を基盤にNATOと同じ
陣営にくみしながら、集団防衛や普遍的価値の保持に関しては異端の体質を保っているからである。
(編集特別委員兼中国総局長 古森義久)
273 :
古森義久:02/03/13 19:42 ID:W2VaFhTU
>>266 えげつないと言ってもSTSの内輪のけんかですから、
目くそが鼻くそをえげつない、汚いとののしるような
もので、外部の者にとっては馬鹿馬鹿しい限りです。
274 :
卵の名無しさん:02/03/13 21:27 ID:3xzwdnBU
STS、、、、、給料ほんとに低そうだな
たしかに安い。
マジでこの給料では結婚しても嫁さんを養うことは出来ないなあ。
先輩諸氏、大丈夫?
276 :
とほほ:02/03/14 07:00 ID:hiL0uVIH
漏れの嫁さんは内職をほぼ10年しているよ。
最近は不景気で収入も以前の半分ぐらいと
こぼしているよ。ゴルフ、宣伝に使う金を
社員に回してくれないかナ。
277 :
卵の名無しさん:02/03/14 08:35 ID:bot35W5m
MRなら給料が高いところに転職したら?
>>273 古森くん、外部の方なのですか?
この外部って、文脈から判断すると、ゾロではないという意味に思えるのだが、
ただ単に騙っているだけなのか。
それとも自分はイ○チキ部門とは関係がないと主張したかったのかな。
>>277 ですね。
同一労働・同一待遇の実現を望む。
279 :
卵の名無しさん:02/03/14 18:21 ID:PRBg/Opb
ブリストルがMR大募集するらしいよ。
280 :
古森義久:02/03/14 18:53 ID:flne8fvk
>>278 273は誰が見ても、ニセ者と気付くと思ったが・・・
281 :
卵の名無しさん:02/03/14 22:53 ID:H4m4vrCt
サワイのMR諸君!! 転職するなら ワーナーランバートも
リストに入れておいてくれ。
ゾロにMRなんて必要ないよ。その分値引きせーよ。
283 :
古森義久:02/03/15 06:54 ID:SKLF1aQy
>>276 >>277 >>279 >>281 このままここで働きなさいよ。外資とか大手へ行くと
頭(専門知識)が要るから、苦労するよ。
ここなら頭も勉強も要らんから、君らにぴったりだ。
(単なる学術資料のコピペで十分)。
給料の安い分は、バイトとか、嫁さんの内職で補いなさい。
284 :
卵の名無しさん:02/03/15 07:47 ID:bIVl/HXr
給料とか待遇だけが生きがいではないんだよ。
安い給料で医者や薬剤師にバカにされながら
生きていくというのも一つの生き方。
週末にはスーパーでバイトするのも仕方がないじゃないか。
285 :
古森義久:02/03/15 08:01 ID:ZikAmHzx
■ 小麦など禁輸撤廃 中国首相、ロス到着
合意表明 WTO加盟なお問題 99.04.07
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9904/07/html/0407side006.html 【ロサンゼルス6日=古森義久】 中国の朱鎔基首相は6日午前(日本時間
同日夜)、ロサンゼルスに到着、九日間にわたる米国公式訪問の日程を開
始した。朱首相は到着後、当地の経済会合での講演で、中国の世界貿易
機関(WTO)加盟問題に関し、米国の小麦とかんきつ類の輸入禁止措置撤
廃で米国と合意したことを明らかにした。朱首相は先に、米小麦などの輸入
を認めることで、WTO加盟交渉が進展することに期待を表明していた。
米中両国が今回の朱首相訪米を機に合意できる唯一の分野は、WTO加盟
での米国の同意だとされており、米中協議は6日もワシントンで続けられた。
農業分野が部分的に合意しても、両国間の主張の差は依然残っている。米国
側は十一月の中国加盟を目指す「枠組み合意」を朱首相の滞米中に打ち出す
ことを最大目標にしているともいわれる。
小雨の空港で特別機のタラップを夫人と並んで降りた朱首相は、リチャード・リ
オーダン・ロサンゼルス市長らの出迎えを受けた。朱首相は七日午後にはワ
シントンに着き、米国大統領の迎賓館のブレアハウスに宿泊し、八日にクリン
トン大統領との公式会談や同大統領主催の公式晩さん会にのぞむ。
初日のロサンゼルスでの米側との接触で早くも中国の人権抑圧、大量破壊兵
器輸出、核技術スパイ疑惑など、いま米中両国間に緊迫を招いている諸懸案
を提起されたように、朱首相の今回の訪米は両国関係の険悪化の最中の実
現とあって、その成果は朱首相個人の米側に対するアピールの手腕次第だと
期待されている。
286 :
古森義久:02/03/15 08:02 ID:ZikAmHzx
3被告に有罪評決
WW事件で米連邦地裁陪審
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/96/0529.html 【ワシントン28日=古森義久】 クリントン米大統領夫妻にかかる疑惑を中心と
するホワイトウォーター事件を審理していたアーカンソー州リトルロックの連邦地
裁は28日、クリントン夫妻の土地開発事業のパートナーだったジェームズ・マク
ドゥーガル被告と同被告の前夫人のスーザン被告、アーカンソー州現職知事の
ジム・ガイ・タッカー被告の3人に対し、詐欺罪などの有罪評決を下した。
タッカー氏は同日、知事辞任の意向を表明した。大統領は被告らの無罪を主張
する異例の証言をしたが、有罪評決はその証言を排除する形であり、大統領選
挙でクリントン陣営に深刻な影を投げることが予測される。
クリントン大統領 選挙戦への影響必至
WW事件3被告有罪
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/96/html/0529side12.html アーカンソー州リトルロックの連邦地裁陪審はホワイトウォーター事件捜査の一環
として起訴されていたマクドゥーガル被告の起訴事実十九件のうち十八件、スーザ
ン被告の起訴事実四件のすべて、タッカー被告の起訴事実七件のうち二件につい
て、それぞれ有罪の評決を下した。三被告は1985、86年にかけ共謀して、マク
ドゥーガル夫妻がアーカンソー州に開設した「マディソン・ギャランティー貯蓄信用
組合」を中心に連邦政府機関の「中小企業庁」などから合計約三百万ドルの融資
を不正な手段で得たとして詐欺や文書偽造などの罪で起訴されていた。
陪審が三被告への合計三十の起訴事実のうち24に対して有罪の判定を下した
ことはこの事件を追及しているケネス・スター特別検察官側の捜査の重要な進展
と受け取られている。
特別捜査の究極の対象はクリントン夫妻とされているものの、今回の裁判では同
夫妻の疑惑は追及されなかったが、マクドゥーガル夫妻はクリントン夫妻とともに
「ホワイトウォーター開発会社」を設立した旧友であり、タッカー・アーカンソー州知
事はクリントン氏の後任だ。さらにクリントン大統領は同裁判で4月28日にスーザ
ン被告を弁護する異例のビデオ証言をした。
裁判では86年当時、アーカンソー州知事だったクリントン氏が、同州内の実業家
デービッド・ヘール氏に不当な圧力をかけ、合計三十万ドルの不正融資をスーザン
被告に提供させたとのヘール氏の証言がなされていた。クリントン大統領はビデオ
証言でこれを否定したが、陪審は三十万ドル不正融資に関するスーザン被告の有
罪評決を下し、事実上、大統領証言を排除した。この評決は同事件の特別捜査や
議会での調査は加速し、大統領選キャンペーンでもクリントン陣営への大きな痛手
になるとみられる。
287 :
古森義久:02/03/15 08:04 ID:ZikAmHzx
なお北朝鮮へ年1億ドル
日本のパチンコ資金 96/06/08
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/96/0608.html 【ワシントン7日=古森義久】 米紙ワシントン・ポスト七日付は、日本のパチンコ
店の利益がなお年間一億ドルほど北朝鮮に送られ、食糧危機に直面する北朝鮮
の経済の有力な支えになっている、と報じた。同紙はこのパチンコ資金の送金は
近年、大幅に減ったものの、日本政府当局はなお日本から北朝鮮へのその他の
資金供与を大目にみているとも伝えた。
米紙報道「北朝鮮の貴重な財源」
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/96/html/0608side11.html 同紙は七日、日本のパチンコ資金の北朝鮮への流れについての長文の記事を掲
載し、日米両国の政府当局者は民間専門家の調査の結果として、「日本のパチン
コ業界の30%は北朝鮮に近い在日朝鮮系の人たちにコントロールされ、94年ご
ろには年間六億ドルものパチンコ利益の資金が北朝鮮に送られていた」と報じた。
しかし記事は米国の研究機関AEIの北朝鮮経済研究家のニコラス・エバースタット
氏の見解として、その後、金日成主席の死亡や日本経済の不況継続により送金額
は大幅に減り、現在は年間一億ドルほどとみられるが、これでも北朝鮮にとっては
依然、きわめて貴重な財源だ、と伝えている。
同記事はさらに日米関係者の話として(1)パチンコ利益の資金の大口は日本国内
の北朝鮮系の銀行から香港やオーストリア経由で送られているが、日本政府当局
は北朝鮮との衝突を恐れてその流れを故意に無視している(2)新潟と北朝鮮を往
来する定期船で北朝鮮を訪問する人たちは日本円の持ち出し許可額は5百万円
程度とされてはいるが、日本政府当局はそれ以上の持ち出しを大目にみている−
などと報じている。
同記事の内容については七日の米国務省の記者会見でも質問が出て、同省報道
官は「(記事の伝える資金の流れなどを)調べてみる」と答えた。
288 :
古森義久:02/03/15 08:50 ID:jRj0zikg
>給料とか待遇だけが生きがいではないんだよ。
>安い給料で医者や薬剤師にバカにされながら
>生きていくというのも一つの生き方。
人間いろいろな生き方があるのは確かだ。
たしかにこれもひとつの考え方だ。
289 :
高山正之:02/03/15 08:50 ID:LkMPhlTp
太平洋序曲−ハワイ王国の悲劇−01
「壮大な空間」に世界が注目
20世紀も余すところ4年足らず。振り返ると、それは「太平洋の世紀」でもある。世紀初め、欧米
列強による世界分割があらかた終わり、太平洋が「最後のフロンティア」として浮上した。単なる
広大な空間だった大洋が列強の覇権を争う舞台に変わり、世紀半ばにはアジアから出た日本と
新大陸の米国がこの舞台で死闘を演じた。その波紋はやがて民族自決のあらしを呼び、そして
生まれた「環太平洋諸国」は来世紀の主役をすでに予約されている。このシリーズでは「太平
洋」に視点を据えて20世紀を見通していく。
<神秘の場所> 欧州から見ると19世紀までの太平洋は、スウィフトの「ガリバー旅行記」で
小人の国リリパットなどと並んで出てくるぐらいの果てしなく遠い未知の空間として扱われてきた。とくに日本を含む北西太平洋はそのまま「ラピュタ」の所在地にもされた。
宮崎駿の同名のアニメと同じように空に浮かぶ国が金華山のずっと沖辺りにあって、ガリバーは
そこからの帰り道、日本に立ち寄り「江戸」から陸路「長崎」まで旅して船で英国に戻っている。
これは半分、史実にもあっていて日本に漂着した「蛮人」はいったん長崎に送られ出島に来るオ
ランダ船に乗せられるのが江戸時代のしきたりだった。いずれにせよ、太平洋とはそういう未知
で神秘的な場所であり、その中で日本はラピュタ辺りと同列に扱われていた。
1851年、つまりペリーが日本に開国を談判しに出掛ける前の年に刊行されたハーマン・メルビ
ルの「白鯨(モビー・ディック)」でも同じようなものだ。米国捕鯨船(ヤンキー・ホエーラー)はこのこ
ろ太平洋に進出し、日本海にも入り込んでいるが、エイハブ船長は日本列島の沖で白鯨に出く
わしてまず片足をちぎられる。 再度の航海で大西洋、インド洋、そして太平洋へとこの悪魔を追
い、日本の東方近海で対決、最期を遂げる。この辺りなら「宇宙の暗黒」の化身が出没してもお
かしくない空間だったのだろう。
太平洋の壮大な空間が持つ、未知と神秘性はこの「白鯨」でも示唆されているように、時に「日
本」というその当時はあまり知られていなかった国に置き換えられていたフシもある。
もちろん、日本に関する記述はマルコ・ポーロの見聞録を含め多少はある。戦国時代に来たル
イス・フロイスなどは「日本人は変わっている。われわれは鼻くそをほじるとき、人さし指か親指
を使うが、彼らは小指を使う。鼻の穴が小さいからだ」といった報告もしているが、総じて未知か
らくる好奇とおそれがにじんでいた。
<日本を確保> まだ日本を見たこともない17世紀ロシアの「宇宙誌1670年」が「彼らは聡
明にして記憶力優秀。気性激しく」と書いているのもその1例だが、ペリーが開国させたあとでさ
え、それは続いていた。
290 :
高山正之:02/03/15 08:51 ID:LkMPhlTp
1860年、日本からの初の外交使節団について、あの詩人、ウォルト・ホイットマンは次のような
詩をささげている。
《遥かなる西の海原越えて日本から/礼儀正しく、日焼けした二本差しの使節たち/無蓋の四
輪馬車にもたれて、ああ使節は威風堂々/今日、マンハッタンを駆けていく/自由な民よ/わ
が心他人は知らねど/日本からの貴公子が行列の中に/また、付き人が殿をつとめ進みゆく
姿に/私は歌いたい/その自由の民のために》(「アメリカ精神と近代日本(佐渡谷重信)」から)
あるいは「オブローモフ」を書いたゴンチャロフも長崎に入った感激を「フルガート・パルラダ」(18
53年)にこう記す。
「今ぞついに10カ月にわたる航海、苦労の目的を達するのだ。これぞ閉めたままかぎを失った
玉手箱だ。これぞ金力と武力と奸策を使って、これまで無駄骨折って手なずけようと各国がうか
がってきた国。これぞ巧みに文明の差し出口を避けて自己の知力と自己の法規で生きんとして
きた人類の集団…」
見方によっては日本の存在もあって、太平洋のミステリー性がいや増した気配もある。それはと
もかく、この「最後のフロンティア」に実利的な意味で開拓の必要性とその戦略を説いたのは外
ならぬハーマン・メルビルだった。
彼は「ハワイ、そして日本を確保せよ」とその著書で再三、繰り返している。念頭にあったのは自
身も乗組員だった経験のある米国捕鯨船の食糧、水、燃料などの補給基地で、「白鯨」の中でも
「あの二重錠を施した日本がよそ者を受け入れる気分になったら、最初に好意に甘えられるの
は捕鯨船だろう。なぜなら、もう入り口まで来てるんだから」とある。
<米国が触手> 壮大な空間である太平洋の覇権を握るには、ハワイと日本はどちらも欠かせ
ない足場となるものだった。 そして米国はこの2つに早々と着手していた。
1852年、マシュー・ペリーは「ずる賢い日本には、こけ脅しが最大の武器になる」(ペリー回想
録)と自ら設計した鉄甲内燃エンジン戦艦4隻を率いて太平洋を越えた。当時、米国には内燃エ
ンジン型の戦艦は7隻しかなかった事を考えればその気負いが十分理解できる。 ペリーは「日
本がいうことを聞かなければ沖縄を占領し、ついで北海道を占領する作戦」を立て、事実、半分
はこれを実行しようとした。
ハワイ王国についても着々と手は打たれていた。欧州諸国が植民地獲得の手段として伝統的に
行ってきた宣教師の派遣である。 20世紀の前夜、1898年に米国に併合されたハワイ王国の
命運をたどろう。
291 :
高山正之:02/03/15 08:54 ID:LkMPhlTp
豆事典
▽ジョナサン・スウィフト(1667−1745年) 英国の風刺作家。アイルランドのダブリン出身。辛ら
つな語り口で18世紀の英国政界、文壇で危険な論客として知られ、同時に黒幕的存在でもあっ
た。「ガリバー旅行記」は1726年出版。英国社会を風刺して評判の一冊となった。
▽マシュー・ペリー(1794−1858年) 米海軍軍人。1853年(嘉永6年)、東インド艦隊を率いて浦
賀に来航、開港を迫り、大統領の親書を幕府に提出した。翌54年(安政元年)、再び日本に来航
し日米和親条約に調印した。
▽ハーマン・メルビル(1819−91年) 米作家。ニューヨークの裕福な家庭に生まれるが、父親が
事業に失敗したため、職を転々とし、捕鯨船の水夫になる。その体験をもとに書いた「白鯨」は
米国文学の最高傑作の一つとされているが、発表当時は50部しか売れなかった。
▽マルコ・ポーロ(1254−1324年) イタリアの旅行家。ベネチア出身。1271年に父、叔父とともに
元朝の中国を訪れ、世祖フビライの厚遇を受けた。1295年に帰国。獄中で「東方見聞録」を口述
した。
▽ルイス・フロイス(1532−97年) イエズス会のポルトガル人宣教師。1563年(永禄6年)渡来。
日本語を学び、日本語の辞典や「日本史」の編さんに着手して日本側に欠けた史料を多く残し
た。長崎で死去。
▽ウォルト・ホイットマン(1819−92年) 米詩人。詩の伝統を破り、自由な形式で平和や民主主
義を歌った。代表作「草の葉」は1855年初刊。日本では1892年(明治25年)、夏目漱石が紹介し、
白樺派の有島武郎らにも影響を与えた。
▽イワン・ゴンチャロフ(1812−91年) ロシアの作家。日本には1852年(嘉永5年)、ロシア海軍
のプチャーチン提督の秘書として来航。59年、雑誌に代表作の長編「オブローモフ」を発表、当
時のロシアの農奴制を批判した。
292 :
高山正之:02/03/15 09:40 ID:VaIxSKKc
太平洋序曲−ハワイ王国の悲劇−02
合併へ…突き進むアメリカ
アメリカのクリントン政権は1995年、母校コーネル大学の同窓会に出席する李登輝・台湾総統
に入国ビザを出した。表向きは「ひとつの中国」を主張しているとはいえ、李総統の本音は実は
台湾独立にあるのではないかといわれている事もあり、北京がつむじを曲げる騒ぎになった。
そんな折、共和党の実力者ニュート・ギングリッチ下院議長がこんなスピーチをしている。
「中国は国境から何千キロも離れ、国際社会がだれも中国の領土と認めていないところにまで
領有権を主張している。そうしたごまかしを、われわれが拒否することは長い目でみれば中国の
助けにもなるだろう」
中国に対する皮肉たっぷりなスピーチだったが「それじゃあ、ハワイはどうなるんだ」という主張
が当のアメリカにある。ハワイとはもちろん、太平洋の真ん中にあるアメリカ50番目の州のあの
ハワイである。
《独立を主張》 ネムノキに似たモンキーポッドが涼しい木陰をつくるホノルルのカピオラニ通りの一角にあるレストランで、2人前の料理を平らげながらアメリカ政府を困らせているデニス・カ
ナヘレ、通称バンピーは「台湾よりはハワイの方がはるかに独立の可能性は高い。だから政府
も困っているんだ」という。
彼は李総統の訪米騒動が一段落した1995年8月2日、「連邦税を滞納した男をかくまった」容
疑で米連邦捜査局(FBI)に逮捕され、ホノルルの連邦地裁の保釈認定法廷では「社会に害毒を
流すおそれ」があるとして保釈も認められなかった人物だ。
彼の容疑は「通常なら逮捕もない」(カリフォルニア州法廷弁護士協会)という微罪である。3カ月
後にやっと保釈が認められたものの、司法当局は「逃亡のおそれ」を理由に一時は発信装置付
きの足輪を彼に取り付けもした。
横綱・曙と同じオアフ島ワイマナロ出身の生粋のハワイ人に連邦政府がここまで神経をとがらす
理由は彼の率いる「ネーション・オブ・ハワイ」にある。先住民によるハワイ独立運動体で、その
主張は「アメリカのハワイ併合は不法行為。接収した王家の領地7080平方キロを返還せよ」と
いうものだ。
バンピーは、返還されればその領土をもとに独立国家ハワイ国を再建したいという。ハワイ州全
体の面積は1万6700平方キロだから、最大のハワイ島(約一万平方キロ)を除いたオアフ、カウ
アイ、マウイなど残りの島々のすべてを合わせてもまだ余りある広さだ。
293 :
高山正之:02/03/15 09:41 ID:VaIxSKKc
《落とし穴》 ハワイは19世紀末まで独立国家、ハワイ王国だった。国旗もあって片隅にユニオ
ンジャックがついているのは英国のキャプテン・クックが18世紀に“発見”した名残だが、その英
国をはじめ欧州諸国、アメリカ、それに日本とも外交関係をもち、とくに日本が欧米諸国との不
平等条約で苦しんでいる折に、最初にその治外法権の撤廃を約束してくれた国でもある。
そのハワイをアメリカは1898年に自国領土として併合した。これがまず、おかしいとバンピーは
いう。 「アメリカがメキシコ戦争で取ったテキサスでさえ、併合するときに住民投票をした。しか
し、よその国であるハワイでは住民の意志を問う国民投票も行わず一方的に併合してしまった」
ヨーロッパ諸国に遅れて植民地獲得に乗り出したアメリカにとって、こうしたよその国を獲得する
“ゲーム”の経験は乏しかった。 これを例えばイギリスのビルマ(ミャンマー)獲得と比べてみると
その違いは顕著である。
イギリスは弱小国家ビルマに対し19世紀後半、セポイの反乱の後に3度「戦争」を仕掛けた形
を取っている。 セポイの反乱は3年間にわたって中央インドで戦闘が繰り広げられ、多数の死
傷者を出した「1857年インド独立戦争」(独立運動闘士、サバルカール)だったが、英国は今で
も「反乱」と呼んでいる。
これに対し「英緬(ビルマ)戦争」はビルマ王朝を倒した第3次戦争でさえ、英国軍の死者はわずか
に4人だった。それでも「戦争」と呼ぶところに英国の深慮遠謀がある。マンダレーの王城の開城
を迫って国王夫妻を流刑に処し、高さ10メートルもある宝石をちりばめた黄金の玉座は押収す
る…という勝ち戦の手順を踏んでビルマを占領する。 しかも、とりあえず保護領としておき、の
ちにインドの1州としてインド政庁の下に置いた。
結論からいうと、こういうずるさを当時のアメリカは持ってはいなかった。それどころか、冷酷な
植民地帝国主義者になりきれない甘さがとんでもない落とし穴を作ってしまうことにもなる。
《「償い」なし》 ハワイ王国の最後は併合に先立つこと5年、1893年にハワイ経済を牛耳って
いたアメリカ系白人企業家グループが私設軍隊を動かしてリリオカラニ女王にクーデターを起こ
したことに始まる。駐ホノルルアメリカ公使と米軍艦はクーデター派に協力して武装海兵隊を上
陸させている。 この時点でアメリカの大統領は共和党のハリソンだったが、1893年3月4日に
民主党のクリーブランドが大統領就任式をすませ、政権が交代したため、アメリカのハワイ併合
策はいったん休止する。
クリーブランドはハワイに調査団を派遣し、その報告を聞いたうえで「アメリカの名と軍事力が友
好的な関係にある国家の独立と主権を脅かすことに誤って使われた場合、アメリカは国家の尊
厳と正義の名の下にあらゆる努力を講じてその償いをするだろう」という声明を出したのだ。
しかし、「償い」は実現しなかった。クーデター派はやがてハワイを丸ごとアメリカに寄贈する申し
出を行い、1898年に共和党が政権を奪還すると、アメリカは直ちにハワイ併合へと突き進んで
いった。
欧州列強に肩を並べてアメリカが一歩、太平洋に入り込んだ瞬間だが、このとき予想外の事態
がそのハワイで起きている。滅亡に瀕したハワイ王国とよしみのあるアジアの小国、日本が軍艦
を派遣してきたのだ。
294 :
高山正之:02/03/15 09:42 ID:VaIxSKKc
豆事典
▽キャプテン・クック(1728−1779年) 英国の探検家。太平洋方面の探検、調査を行って、欧州
には未知だった海域、島を見つけ、英国の太平洋進出の基礎を築いた。3回目の航海ではハワ
イ諸島に到達し、島民との争いにより1779年2月14日、ハワイ島のケアラケクア湾で戦死した。
▽アメリカ・メキシコ戦争 1845年12月にテキサスがメキシコを脱してアメリカに併合されたこと
から、1846−48年にアメリカとメキシコの間で戦われた。アメリカは48年2月、メキシコにテキサス
への請求権を放棄させたうえ、ニューメキシコとカリフォルニアを獲得。メキシコは国土のほぼ半
分を失うことになった。
▽セポイの反乱 セポイは東インド会社のインド人雇い兵で、約28万人が5万人足らずのイギリ
ス人将兵に率いられていた。このセポイが1857年、待遇などの不満から決起してデリーを占領。
さらに北インド各地の農民もほう起し、反乱は反英民族闘争に発展したが、英国の武力の前に
鎮圧された。これをきっかけに英国は東インド会社を解散し、インド直接統治を始めた。
▽英緬戦争(ビルマ戦争) 19世紀に英国がビルマ(現ミャンマー)を征服するために行った戦争。
英国は1824年から86年にかけて3次にわたる戦争でコウバウン朝を滅ぼした。ビルマは1886年、
英国が支配するインド帝国に併合された。
▽グローバー・クリーブランド(1837−1908年) アメリカ第22、24代大統領。南北戦争後初の民
主党大統領として1885年に就任した。2期目の選挙は共和党のハリソンに敗れたが、93年に返
り咲いた。アメリカで1期おいて2回大統領になった唯一の大統領。就任時は独身で在職中に結
婚、ホワイトハウスで結婚式を挙げたことでも知られる。
295 :
高山正之:02/03/15 10:16 ID:LkQBLPM4
ハワイ王国の歴史
カメハメハT世(1795〜1819) カメハメハ大王、ハワイを統一した。
カメハメハU世(1819〜1824) 大王の長男、ロンドン遊学中に病死した。
ボストンからキリスト教の宣教師団が渡来した。キリスト教が広がった。
カメハメハV世(1825〜1854) U世の弟。
ハワイ最初の学校が設立され、新聞も発刊された。
サトウキビ畑の開発が進み、王国は最も繁栄した。
外国人に土地所有権を認めた。
カメハメハW世(1854〜1863) 大王の孫、U世の異母弟の子。
白人資本家の台頭とサトウキビ産業呪う動力不足に悩まされた。
カメハメハX世(1863〜1872) W世の弟、内務大臣から国王になる。
外国人資本家に対抗するため、原住民保護に徹し、新憲法を制定した。
国民に選挙権が与えられ、貴族と選出者による(1院制)議会が発足した。
ルナリオ王(1873〜1874) W世、X世のいとこ。
X世に子供がいなかったため議会が選出したが、1年3ヶ月で病死した。
カラカウア王(1874〜1891) 議会が選出した。
新聞記者から、政治家になり、国王に就任した。
リリオカラニ女王(1891〜1893) カラカウア王の妹。
王国の最期を見届けることになった、最初の女王でもある。
アロハオエの作詞者として知られている。
296 :
高山正之:02/03/15 10:33 ID:FEb74uxJ
太平洋序曲 −ハワイ王国の悲劇−03
憂国の王は日本に感動した
ハワイの独立を叫んでアメリカ連邦捜査当局(FBI)に追われるバンピー・カナヘレは生粋のハワ
イっ子、つまりポリネシア系マオリ人である。横綱・曙とは同郷のオアフ島ワイマナロの出身であ
ることはすでに触れたが、身長1・8m、赤銅色のがっしりした体格は横綱とまではいかなくとも
小結ぐらいなら十分に通用しそうだ。しかし、本人は「格闘するのは米国政府だけで十分、それ
に血筋も許さない」という。彼はカメハメハW世直系を誇る、世が世なら王族なのだ。
もっとも19世紀半ばに即位したこの王様はハワイの先住民が人口7万ほどだった当時、29人
のお妃を抱えていたといわれ、「今のハワイ人は何らかの形で血がつながっている」そうだ。
《列強入らず》 さて、その艶福国王から2代おいて、1874に即位したのが憂国の王・カラカウ
ア王である。カラカウア王は81年に国際親善訪問の旅に立ち、アヘン戦争の代償として取られ
た香港で英国人総督の歓迎を受け、列強の侵食を受けて苦しむシャム(タイ)国王を表敬し、さら
に英国、イタリアなど欧州諸国も訪ねている。
この旅行で、カラカウア王が最も感動したのが、明治維新からまだ14年しかたっていない日本
だったと伝えられる。 国王は1881年(明治14年)3月、横浜に上陸した。翌日、横浜駅から特
別列車で新橋駅に着き、当時の皇居だった赤坂離宮に向かっている。このとき国王はまず、横
浜港も鉄道も日本人が仕切っていて「どこにもハオール(ハワイ語で白人)を見なかった」ことに
強い感銘を受けたという。
19世紀末のアジア諸国、例えばイランでは、郵政や電信電話回線は英国、カスピ海航路がロシ
ア、税関がベルギー、銀行は英国とロシア、そしてタバコは生産から販売まで全て英国系のタル
ボット社が独占する…という具合に近代化のノウハウをもつ列強諸国が入り込んでいた。イラン
ではこうした経済植民地化に反発した国民がいっせいに禁煙する「タバコ・ボイコット」事件を生
んでいる。
中国やインドも似たようなもので、とくにインドでは鉄道輸送から徴税、税関業務まで英国が独
占していた。おかげでインド綿には英国で高額な輸入関税がかけられ、一方、英国綿製品は関
税なしでインドに輸入されるという芸当が可能になって、インドの綿工業は全滅。インドが貧困と
飢餓にあえぐ理由のひとつとなった。
《移民を懇請》 ハワイ王国では、経済も政治も「島民の啓蒙、教化」を口実に、入り込んできた
アメリカ系宣教師に牛耳られていた。アメリカのジュースメーカーとして知られる「ドール」に名を
残すサンフォード・ドール以下サーストン、スミス、ジャッド、ダモンの5人の「宣教師とその息子
たち」は土地所有観念のない島民から土地を寄進させ、国王領以外の多くがハオールの私有地
となった。 議会もハオールが多数を占め、国王が訪日した折の随員には前述した「宣教師の息
子」の1人のジャッドがいたし、その時の駐日総領事もR・アーウィンという米国人だった。
297 :
高山正之:02/03/15 10:34 ID:FEb74uxJ
念のため言えば、大国が陰に陽に弱小国を裏から操作するケースは現代でも行われている。例
えば、国際捕鯨委員会(IWC)にカリブ海の黒人国家アンティグアバーブーダの政府代表として
出席し、日本の捕鯨を非難したのはアメリカの白人活動家だった。クウェートやオマーンなど中
東産油国の政府機関、経済顧問も英米人がその任に当たっていることが多い。
話を戻してカラカウア国王はとくに日本の鉄道が欧米列強に鉄道敷設権を認めることなく、“お
雇い外国人”を契約採用してノウハウを吸収し、ほとんど自力で完成させたことを知ってハワイ
王国の将来を託す気になったといわれる。
これは政府との交渉にも表れている。国王は日本が申し出た治外法権、いわゆる不平等条約の
解消を約束し、国王側からはハワイ先住民の深刻な人口減少を補うべく、日本からの移民を懇
請した。 さらに国王は随員の米国人を抜きにして、極秘で明治天皇に会談を申し入れ、妹のリ
リオカラニを継いで王位につくはずだった姪のカイウラニ王女と山階宮親王との婚儀を打診した
のだ。親王はのちに東伏見宮依仁親王と名を改められ、このハワイ王国滅亡の現場に行き合う
ことになる。
《銃剣憲法》 明治天皇はこの婚儀の打診に対し、翌82年に宮内省式部官、長崎省吾を特使と
して派遣し、謝絶した。その理由には「日本の皇室にはその前例がない」こと、そして「(この婚儀
によって)日本が米国の勢力圏に立ち入るのを好ましくないと判断」したことを挙げている。
生まれたての近代国家、日本にとって(ハワイに勢力を持つ)米国と戦争になるかもしれない危
険はおかせない、という小国の悲哀がそこにうかがわれる。
その予感は当たった。1887年、ハワイ王国の実権を握る「宣教師の息子」たちは国王に閣僚
の罷免権の剥奪など国政への関与を一切否定する新憲法の署名をさせたのだ。 この憲法の署
名はハオールの私設軍隊「ホノルル・ライフル」部隊が決起した中で行われたため「銃剣憲法」と
呼ばれている。これに対し、91年に王位についたリリオカラニ女王は93年1月、憲法の改正案
を議会に通告し、最後の巻き返しに出た。
改正案は、(1)ハワイ貴族の権利を回復する、(2)高額納税者(白人)以外のハワイ先住民に投票
権を認める、(3)閣僚罷免権は議会がもつ−などを骨子としているが、「旧憲法下で享受された
外国人の特権」については、「剥奪されない」と約束していた。
王朝奪取を最終目標としていた「宣教師の息子たち」は早速、動き出した。
298 :
高山正之:02/03/15 10:35 ID:FEb74uxJ
■豆事典
▼ハワイ王国 イギリスの探検家キャプテン・クックがハワイを「発見」した当時、ハワイ先住民
は小さな部族に分かれ、互いに覇権を争う群雄割拠の時代だった。その中で西洋の科学知識を
吸収し、武芸にも秀でた若者がハワイ島を統一、さらにマウイ、オアフ島なども制して1795年にカ
メハメハ大王と名乗った。ハワイ王国はこの時に始まり、新しい西欧文明を積極的に取り入れて
マウイ島のラハイナ港に出入りする外国船からの関税で王国の財政を豊かにした。
▼タバコ・ボイコット事件 イギリスのタバコ業者タルボットが1890年、イラン全土のタバコ原料
の買い付け、加工、販売、輸出などの独占的利権をカシャール朝から獲得。イラン国内では91
年から92年にかけてイスラムの学者、宗教指導者層であるウラマーや商人を中心に強い反発が
起き、ウラマーの最高権威ミールザー・ハサン・シーラージーがタバコ禁止令を発令した。不平
等条約の締結や列強への利権の譲渡などに対する国民の不満が爆発したこの事件はイラン民
族運動の起点とされ、20世紀初頭のイラン立憲革命(1905−11年)につながっていく。
▼サンフォード・ドール(1844−1926年) ハワイの法律家、政治家。ハワイ王国の米国併合を推
し進めた中心的人物。米国のプロテスタント宣教師の子供としてホノルルに生まれ、84年と86年
にハワイ議会に選出されて王権縮小運動のリーダーとなった。94年に成立したハワイ共和国で
は大統領に就任。1900年には米国ハワイ准州の初代知事となった。
▼お雇い外国人 明治政府が欧米先進国の技術や制度を取り入れるため、各分野の指導者と
して雇用した技術者、学校教師などの外国人。政府の富国強兵、殖産興業政策により、その数
は1874年から75年には、政府雇用者だけで520人ほどになった。お雇い外国人は日本の近代化
には欠かせない頭脳として尊重され、当時の大臣の月給を超える高給を受けていたものも多か
った。
299 :
高山正之:02/03/15 15:23 ID:k4ldYD/c
太平洋序曲 −ハワイ王国の悲劇−04
女王の抵抗はつぶされた
ハワイ独立を叫んで、ギングリッチ米下院議長を刺激するバンピー・カナヘレは「ネーション・オ
ブ・ハワイ」のホームページを作って自らの主張をインターネットに流している。以下はそこから
引用したハワイ王朝最期の瞬間である。
《デモが激化》 リリオカラニ女王は1893年1月14日、兄のカラカウア王が87年に署名させら
れた憲法を破棄し、白人高額納税者に独占されていた投票権をハワイ島民にも認める新憲法を
発布する予定だった。ホノルルのイオラニ宮殿には各国の外交官らが招かれ、女王の復権宣言
を待ったが、ハオール(白人)優勢の議会がそんな“女王の横暴”を許さず、土壇場で新憲法はつ
ぶされた。女王を立てる先住民と白人勢力の対立が一挙に表面化し、翌日には先住民数百人
が宮殿前で女王支持のデモを展開する。
「宣教師の息子」の1人ローリン・サーストンらはこの前年の暮れ、ワシントンでハリソン大統領と
会談してハワイ併合の了解を取り付けていたこともあり、白人側はこの新憲法発布の動きと民
衆のデモを敵対行動ととらえて一気に王朝打倒に動き出した。
彼らは駐ハワイ・アメリカ公使、ジョン・スティブンスと協議して、ホノルル港に停泊中のアメリカ
の軍艦「ボストン」とその海兵隊を動員する約束を得た。スティブンスは16日「血に飢えた、そし
て淫乱な女王が恐怖の専制王権を復活させようとしている」と訴え、「アメリカ人市民の生命と財
産を守るために」と「ボストン」の海兵隊員162人を強行上陸させてホノルル市内を制圧、軍艦
の主砲はイオラニ宮殿にぴったり照準を合わせた。
大使の発言に信頼性をもたせるかのように「国王は自分の影を踏んだものは打ち首にする」と
いった噂がさかんに流されていた。リリオカラニは米戦艦ボストンの砲口の前に屈し、翌17日
の夕方、退位を宣言した。この瞬間、ハワイはハワイ人の手を離れ、「宣教師の息子」たちのハ
ワイ臨時政府のものとなった。
勝ち誇るスティブンスは、国務省に「ハワイの梨は十分熟した。今こそ米国がそれをもぐとき」と
書き送り、ハリソン大統領にハワイ併合の手続きを要求するよう提案するが、ここで困ったこと
が起きた。
ワシントンでハリソンがハワイ合併条約案を上院に提出したとき、彼の大統領任期は2週間しか
残っていなかったのだ。1893年3月4日、就任式を終えたクリーブランド新大統領は上院に条
約案の撤回を求めるとともに、元下院外交委員長J・ブラウントを団長とするハワイ問題調査団
の派遣を決め、併合はしばらく見送られることになった。
《日本の脅威》 もうひとつ、これはバンピーのインターネットには書かれていないが、ハワイの
乗っ取り組だけでなく、アメリカ政府をも驚かす事件がこの混乱の中で起きていた。アジアの小
国、日本がハワイに軍艦を差し向けてきたのだ。
300 :
高山正之:02/03/15 15:24 ID:k4ldYD/c
王朝が倒れて約1カ月後の2月23日に巡洋艦「浪速」(3700トン)、さらに5日遅れて3本マスト
のコルベット艦「金剛」(2400トン)が相次いでホノルル港に入り、米軍艦「ボストン」のすぐ隣に
投錨した。「浪速」の艦長は東郷平八郎という大佐だった。また艦上には、若い海軍青年将校が
いた。先代国王カラカウアに王女との結婚を求められた当の山階宮親王である。
カラカウア王との約束で1885年(明治18年)から始まった日本人のハワイ移民はこの年まで
に2万5千人を数えていた。その日本人移民の「生命と財産の安全を守るため」というのが日本
の軍艦派遣の表向きの理由だったが、存亡の危機に見舞われたハワイ王朝からの緊急要請が
あったともいわれる。
その根拠となるのは、カラカウア王が訪日の際に約束した、懸案の不平等条約改定を認める公
文書が1月17日付で届けられたことだ。この日付はまさに女王が退位を宣言した日であり、女
王は最後の公務にこの治外法権放棄の文書署名を選んだことになる。日本政府はこれをばね
に列強との不平等条約を次々解消していった。ハワイ王国への感謝の気持ちは計り知れないも
のがあったろう。
入港した「浪速」は臨時政府には冷たく、寄港の挨拶も行わなかった。その冷淡さは地元紙アド
バイザーが「日本の脅威」という見出しで、アメリカ政府のハワイ併合についての日本の対応を
扱い、さらにサンフランシスコ・モーニング・コール紙はハワイ問題をめぐり、宗主国を自認して
いる英国が日本と手を結んで米国と開戦する可能性まで論じている。
《乱れる風評》 こんな中で女王の側近四人が東郷艦長と長時間の密議をもったという噂が流
れた。また、白人政権のもとで日本人移民は奴隷化されるという風評が巡り巡って“蜂起”の噂
にまでなった。 「浪速」は約3カ月間、ハワイにとどまり、米政府調査団が派遣されるのを待って
いったん帰国。翌年再びホノルルに戻っている。
このとき、ハワイ臨時政権は“建国1周年”を祝う21発の礼砲を要請したが、東郷艦長は「その
理由を認めず」と突っぱねた。ホノルル港に停泊していた各国の軍艦はこれにならい、1894年
1月17日のクーデター1周年は「ハワイ王朝の喪に服すような静寂の1日に終わった」と、ハワ
イ王国の最期をテーマにした米国のノンフィクション「盗まれた王朝」(ジョン・ワイリー著)は書い
ている。
バンピーによると、日本の軍艦が味方してくれた話は祖父の代から語られていた。それが東郷
艦長の浪速だったことまでは知らなかったが、「ハワイ人にはなぜかトーゴーやナニワという名
前が多い」という。 バンピーの育った街では「ナニワは“ありがとう”の意味」の現地語として使
われたという。アジアの小国の態度が共感を呼んだことのなによりの証左だろう。
301 :
高山正之:02/03/15 15:25 ID:k4ldYD/c
■ 豆事典
☆イオラニ宮殿 イオラニはハワイ語で「王者の鷹」を意味する。1882年、ハワイ王国7代目の
カラカウア王が完成させた米国唯一の宮殿。カラカウア王のヨーロッパ旅行の影響を受け、室内
水洗便所や電話などの当時としては最先端の近代的設備も取り入れられた。当時の家具やシ
ャンデリアなどが復元され、リリオカラニ女王の寝室は軟禁された当時のままに残されている。
☆ベンジャミン・ハリソン(1833−1901年) 第23代米国大統領。第9代大統領ウィリアム・ハリソ
ンの孫で、1888年の大統領選に共和党から立候補、民主党の現職クリーブランド大統領を破り、
翌年就任した。雄弁な弁護士ではあったが、大衆性に乏しい無愛想な人柄だったといわれ、4年
後の選挙ではクリーブランドに敗れて1期だけの大統領に終わった。
☆ハワイの日本人移民 サトウキビ産業の発展で労働力不足となったハワイでは19世紀後半、
アジアからの移民に労働力を頼るようになった。日本からは1868年(明治元年)に「元年者」と呼
ばれた移民153人がハワイに渡っている。その後は中断していたが、1885年(明治18年)2月8日
には国と国との正式な契約にもとづいて最初の官約移民944人がホノルル港に到着。以後、40
年間にハワイに移住した日本人は20万人にのぼっている。
302 :
高山正之:02/03/15 15:44 ID:EUbOPZMX
太平洋序曲 −ハワイ王国の悲劇−05
ルーズベルトは「脅威」を実感
ハワイの運命をもう少したどる。巡洋艦「浪速」の艦長、東郷平八郎が期待を込めたブラウント
調査団は、その期待に違わず、アメリカ人宣教師の二世、三世グループが仕組んだ陰謀を暴
き、さらに米国公使スティブンスが米軍艦と海兵隊員を使ってハワイ王朝を葬ったことを明らか
にした。
《経済の奴隷》 アメリカ大統領グローバー・クリーブランドは1893年12月、「米国の国名と軍
事力が乱用された」ことを認めてハワイ王国に謝罪し、リリオカラニ女王の復位に協力を誓った。
しかし、アメリカ議会がこの件に結論を出すことはなかった。「アメリカ人グループが反乱罪に問
われ斬首される」というデマが支配したためだといわれる。クリーブランドの大統領任期は97年
3月で終わり、翌98年8月に「宣教師の息子」の一人、ドール・ハワイ共和国大統領がハワイを
アメリカに寄贈して併合が完了した。クリーブランドは「この問題全を恥ずかしく思う」と語った
が、それで事態がどう変わるものでもなかった。
イギリス国旗と赤青白の縞を組み合わせたハワイ王国の国旗。8本のしまはハワイの主要8島
を表している。現在はハワイ州旗となっている この結果、現在のハワイ州の40%にのぼるカメ
ハメハ王朝の土地はアメリカ政府が譲り受け、真珠湾攻撃の際に、日本軍の攻撃目標となった
ウィッカム基地やハワイ国際空港などが作られている。あるいはカホオラベ島のように先住民を
追い出して島全体が射爆撃標的にされたところもある。
のちに「ビッグ・ファイブ」と呼ばれる宣教師の息子達は所有していた土地をそのまま私有地とし
て認められ、大地主として併合前と同じように経済の実権を握った。独立運動家のバンピー・カ
ナヘレなどは現在に至っても「われわれカメハメハ王朝の末えいは彼ら白人の経済的奴隷のま
ま」と主張する。
アメリカ議会は1993年10月、ハワイの違法な奪取を認める決議を出して先住民に謝罪すると
ともに、米政府も米国やハワイ州政府が不法に接収、利用してきたハワイ王国領について、過
去10年分として1億3500万ドル(約150億円)の用地借り上げ料を支払い、先住民の福利厚
生に充てる「歴史への償い」を明らかにした。
しかし、バンピーたちは「ひとつの国を不法に乗っ取った事実を認める以上、少なくとも王家の領
土をそっくりハワイ人に返すのが筋」として、その土地に彼らの国を作ることを主張しているのだ
が、ハワイの半分が独立国家になるかどうかはともかくとして、この事件は歴史に共通した教訓
を残した。他の主権国家、もしくはその領土を併合することの危険性である。
《大航路完成》 話を20世紀の入り口に戻す。見捨てられたハワイ人を感激させた巡洋艦「浪
速」は、米国にはショックを与えた。「出来得ることなら」と当時の海軍省次官セオドア・ルーズベ
ルトは米海軍名うての戦略家であるアルフレッド・マハンに書き送っている。
303 :
高山正之:02/03/15 15:44 ID:EUbOPZMX
「我々はハワイ諸島を明日にでも併合すべきだ。私の信念では、日本がイギリスに発注した戦
艦2隻がイギリスを離れる前に、我々はともかくもハワイのそこら中に星条旗を掲げ、細々した
問題はその後に片付ければいい。そしてニカラグア運河(パナマ運河)を早急に建設し、12隻の
戦艦を作って半分は太平洋に配置すべきだ。私は日本の脅威を現実のものとして感じている」
「オレンジプラン」と呼ばれたアメリカの「対日戦争計画」の第1ページとも読めるルーズベルトの
私信は「浪速」がホノルルを出た3年後の1897年にしたためられたものだ。セオドア・ルーズベ
ルトは20世紀最初の年である1901年に大統領となる。アメリカは米西(スペイン)戦争の結果とし
てグアム、フィリピンを獲得し、これにアリューシャン列島を加えて、いわゆる太平洋大圏航路を
手中にしていた。その中心に位置するハワイの重要性は一段と増し、クリーブランドの繰り言に
耳を傾けてハワイ先住民に同情する雰囲気は薄れていた。
それどころか、ルーズベルトはハワイ併合で「宣教師の息子」が使ったテクニックを大いに学ん
だ節がある。彼はマハンへの手紙で約束したようにレセップスが投げ出したパナマ運河の建設
に取り掛かるが、米国はこのとき、コロンビアの一州だったパナマの独立革命支援を口実にパ
ナマ地峡の運河建設地帯の永久租借権を獲得している。「パナマ」は独立することによってアメ
リカの影響下に置かれた。一方的に併合されたハワイとはまさに表裏をなしながらルーズベルト
の太平洋戦略に組み入れられている。
パナマ運河は1914年に完成し、アメリカの戦艦は太平洋と大西洋を自由に往来できるように
なった。アメリカ軍の艦艇は運河の通行が可能な、ぎりぎりの大きさに設計されている。これも太
平洋戦略を見据えたルーズベルトのアイデアである。
《日本を想定》 ハワイを併合し、パナマ運河を確保したアメリカの戦略は20世紀初頭の段階
ですでに「新たなる太平洋の脅威、日本」を想定したものだった。当の日本はどう受け止めてい
たのか。明治天皇はアメリカとの摩擦を考慮し、ハワイのカラカウア国王から打診されたカイウ
ラニ王女と日本の皇族との婚儀を断った。
アメリカの「宣教師の息子」たちがハワイを乗っ取ったクーデターの際も、日本の駐ハワイ公使
は日系移民が奴隷的な扱いを受けないという条件付きで「アメリカがハワイ王国を取ることにあ
えて反対はしない」と答えている。アメリカ本土を脅かすどころかあまりにナイーブな小国の姿が
そこにはある。
19世紀の終わりに起きた「浪速」のハワイ共和国への礼砲拒否に対し、アメリカの答礼は、太
平洋地域の軍事脅威論の中心に日本を据えることだった。20世紀に入るとそれは、人種にまつ
わる微妙な感情とあいまって米国の対日認識の基調低音となっていった。
304 :
高山正之:02/03/15 15:47 ID:EUbOPZMX
豆事典
☆米議会決議 「王国転覆から100周年ですが、昨年からハワイ先住民についての話は知事
に聞いていました。私はここに知事やイノウエ上院議員、アカカ上院議員と一緒になって積極的
にこの問題に取り組んでいくことを約束します」(1993年7月11日、ホノルルのヒルトン・ハワイア
ン・ビレッジでのクリントン大統領のスピーチより)。約3カ月後の10月27日、米上院はハワイ王国
転覆行為を違法と認め謝罪決議を採択した。
☆セオドア・ルーズベルト(1858−1919年) 第26代アメリカ大統領(共和党)。1901年9月、マッキ
ンレー大統領が暗殺されたため、米史上最年少(42歳)で大統領に就任した。社会経済政策では
政府が公共の利益に積極的に関与しなければならないとしてトラスト規制などを推進。対外的に
は「こん棒を手に、穏やかに話す」との手法で大国としての米国の利益を主張し積極外交を展開
した。1906年、米大統領として初めてノーベル平和賞受賞。
☆パナマ運河 パナマ地峡を通り、太平洋と大西洋を結ぶ長さ65キロの運河。パナマ運河の建
設は海面と内陸部の高低差が最大100メートルの険しい地形を掘り進む難工事で、フランスのレ
セップスらが黄熱病やマラリアなど熱帯病と資金不足で断念した後、1914年に米国が10年がか
りで完成させた。運河は太平洋側に2つ、大西洋側に1つの計3つの水門を作ることで、高低差
の問題を解消。世界の大型貨物船、軍艦の多くはパナマ運河の階段ともいうべきこの水門の水
路(幅33.5メートル)を通過できるぎりぎりの大きさに設計されている。パナマ運河管理権は米国
が握っていたが、77年の米パナマ新運河条約により、99年12月31日に米国が基地などに使って
いた周辺の14万ヘクタールの土地や関連施設とともにパナマに返還される。
今度は高山くん、なんだ。
なんか虚(むな)しくない?
社命とはいえ、荒らしをするのって。
306 :
元社員:02/03/15 22:41 ID:aAV8pASH
問題の解決をせず、解決にならないことを
必死になってやるのがこの会社のアホなところなのよ。
307 :
卵の名無しさん:02/03/15 22:56 ID:WBTVH6cP
こんな会社のMRって情けないやろなぁ
308 :
元社員:02/03/15 23:10 ID:aAV8pASH
たしかに情けないけど、こんな会社でも
何年かいれば愛着もわくし、お世話になった販社の方への
感謝もあるからなかなかやめられないんだよ。
俺もやめようと思ってから実際にやめるまで何年か掛かったし。
サワイって本当にいろいろ書かれてるなあ。
俺も実は1年ほど前に辞めて、現在某外資系でMRやってます。
辞める時はちょっと迷ったけど、やはり転職して正解だったと
今は思っています。
給料がどうのとかいう以前に将来このままここで働いていて
大丈夫だろうか?ということだったんです。
辞めるまで半年かかりました。
いままでに有能な人がたくさん辞めていき、その理由を聞くと
自分も早く転職した方がいいという気持ちがだんだん大きく
なっていったのです。今も転職を考えているサワイのMRさんが
いたら、転職した方が正解だと思います。
ただし、外資に来たいなら、必ず複数の在籍社員に状況を聞いて
見ることをお勧めします。
310 :
高山正之 :02/03/16 08:11 ID:kHJ9Lbge
■ 20世紀特派員−植民地の日々−01
ハノイヒルトン−床の上にさびた鉄の輪が残る
ベトナムの首都、ハノイには冷戦崩壊直後の1990年にも1度来たことがある。ホテルの部屋は
暗く、明かりも40ワットぐらいで、天井や壁をヤモリが好き勝手にはい回っていた。そのヤモリが
体に似合わず大きな声で鳴き、それが人間さまの笑い声そっくりで夜中にびっくりして跳び起き
ることもしばしばだった。レストランも照明は暗く、そのころはやっていた喫茶店にいたってはほと
んど真っ暗だった。ベトナム戦争時代の北爆と灯火管制のおかげで「夜目が利くようになったか
ら」という説明だったが、本当だったのだろうか。
《原型のまま》 それから7年後のこの春に訪れてみると、街は驚くほど変わっていた。ホテルか
らヤモリが消え、自転車の洪水だった道路もバイクと自動車に主役の座を渡し、郊外に出れば
どこにでも見かけた米軍の遺棄戦車や戦勝スローガンの垂れ幕が取り払われていた。
外国人の姿も目立ち、ハノイ中心部のホアン・キエム(還剣)湖で会った米国のコンピューター企
業、ロータス社の社員、マーク・バーグランドは「1回8000ドルもする人工授精を6回も失敗」し
て養子を求めにきたと話す。ほかに17組の夫婦がここやダナンで養子の斡旋あっせんを受けて
いるという。「ベトナム戦争はもう遠い歴史でしかない」とバーグランドは言った。
長らく空席だった駐ベトナム・アメリカ大使にダグラス・ピーターソンが指名され、赴任してきたの
もこの時期だった。実はピーターソンもハノイは初めてではない。1966年、米空軍パイロットと
して、F4ファントムに搭乗し、ハノイ爆撃に何度か出動した。いわゆる第一次北爆である。何度
目かの出撃のとき、地上砲火で撃墜されて捕虜(POW)になった。収容先は、あの「ハノイヒルト
ン」だった。彼はそこで6年半を過ごした。
ピーターソン大使はこの体験についてあまり多くを語らないが、“同宿者”だったジョン・マケイン
上院議員(アリゾナ州選出)はよく覚えている。「個室は奥行き1・8メートル、幅60センチで、床に
埋め込まれた鉄の輪に足を固定された。窓もなく、夏場には鎖で繋がれたまま熱射病になった。
ホテルとしてはまあ、三流だね」
その「ハノイヒルトン」はハノイ市内の中心、通称ファーロー(刑務所)通りにある。訪れてみるとす
でに取り壊され、跡地にはシンガポール資本の企業が25階建てと13階建ての「ハノイ・セントラ
ルタワー」を建設中だった。完成後はホテルとオフィスが入る予定だが、その一角に獄舎の一部
が原型のまま残されるという。
しかし、それは「ハノイヒルトンとしてではなく、監獄の正式名・メゾン・サントラル(中央刑務所)と
して」だと、国立歴史学委員会のブイ・ディンタン教授は「フランスがここにきてベトナム人のため
に最初に建てたのは学校でも工場でもなく、この監獄」だったと言う。解体中の獄舎を覗いてみ
ると、薄暗がりのコンクリート床にさびた鉄の輪が残っていた。その輪にはピーターソン大使を含
む335人の米軍POWのほか、「何十倍ものベトナム人がつながれた」とブイ教授は話す。
311 :
高山正之:02/03/16 08:12 ID:kHJ9Lbge
その中には、20世紀初頭の対仏抵抗運動のリーダーだったファン・ボイチャウ(潘佩珠)もいれ
ば、レ・ズアン、グエン・バンリンなどの名もある。ド・ムオイが脱獄に使った下水管の一部も保存
されている。ブイ教授によると「メゾン・サントラルはそのままベトナム独立史でもある」という。
収容定数460人のこのモダンな監獄が完成したのは1889年で、フランスはそれからの数年の
間にほぼ同じ規模の監獄を全土に7つ建設した。サイゴン(ホーチミン市)のカムロン刑務所もハ
ノイの「メゾン・サントラル」と並ぶ荘厳な建築物で、南北ベトナムが統一されたとき、取り壊すの
はもったいないから、と今では国立図書館として再利用されている。
《ギロチン台》 有名な「プーロ・コンドール」もこの時につくられた。ベトナム語では崑島(コンダ
オ)と呼ばれる南シナ海に浮かぶこの島の監獄は1896年に完成、ディエンビエンフーでフラン
ス軍が敗れる1954年まで反仏レジスタンスの終着駅として機能した。4棟の監獄のかたわらに
はレンガ壁の処刑場がある。
そこに立たされた数千人の中で最も有名なのがボー・ティサオだろうか?、抗仏独立戦争さなか
の1949年夏、フランス側についたベトナム人官吏を暗殺したというのが罪状だった。彼女は当
時13歳、そして16歳のときにもう1件の暗殺を企て、失敗してこの島に送られた。ベトナムでは
彼女を悼む歌「ビエト・ボー・ティサオ」は国歌についで広く知られている。
この監獄はその後、南ベトナム政府に引き継がれ、ベトナム戦争当時はベトコンを収容する「虎
の檻(おり)」として、世界に知れわたることになる。7つの監獄はもっぱら政治犯用として使われ
たが、20世紀に入るとこれでも足りなくなったため、フランスは定員の3倍まで囚人を詰め込む
ことにし、それでもあふれると、別の定員緩和策をとった。ギロチンの投入である。
ギロチンは今、ハノイの革命博物館に1台、そしてホーチミン(サイゴン)の戦争記念館に1台が
残されている。重さ50キロの鉄の刃が4・5メートルの高さから落ちてくるこの処刑台は「全土の
監獄に置かれ、総数は30台にのぼった」(ブイ教授)という。
執行状況は「調査中」だが、ブイ教授によると「1902年からの10年間の記録では24380人が
収監され、その半分の約12000人が首を落とされた」という。それが本当なら1日2人に執行さ
れた計算だ。この数字が必ずしも誇張とはいえないことをうかがわせるエピソードがある。20世
紀初めに「反仏闘争の首謀者の1人、リヨン・タムキーにギロチン刑が執行されたが、あまりに多
くの首を切ったため、刃がなまり、首を半分切られただけで、釈放された」というのだ。彼はその
後、1913年まで反仏活動を続けた歴史上の人物である。
しかし、それでも囚人は増え続け、フランスはもっと大型の監獄四つを新設する。最後のひとつ
となったのは、四階建のサイゴン第2刑務所「チーファ」で、完成は第2次大戦さなかの1943年
になる。
「フランス人はここにいる間、ひたすら監獄を作っていた」とはブイ教授の感想である。しかし、フ
ランスはそれだけのためにここにきたわけではない。
312 :
高山正之:02/03/16 08:13 ID:kHJ9Lbge
■豆事典
▽ダナン 港町として古くから栄えたベトナム中部の中心都市。ベトナム戦争への大規模直接
介入を決めた米軍は1965年3月、この地を上陸拠点としており、米空軍基地や南ベトナム政府
軍第一軍団司令部も置かれて、一時は軍事的要地にもなった。現在は商業港としてにぎわって
いる。
▽レ・ズアン(1908−86年) ベトナム南部クアンチ省の貧農の家に生まれ、1930年、インドシナ
共産党(ベトナム共産党の前身)の創立にホー・チ・ミンらと参加、その後は常に党の指導的立場
にいた。31年に抗仏運動で逮捕され、合計10年間の獄中生活を送る。51年に党中央委政治局
員、60年には党第1書記に選出された。第1書記は76年、書記長と改称、レ・ズアンが初代書記
長に就任した。
▽グエン・バンリン(1915年− ) ベトナム共産党前書記長。14歳で抗仏独立闘争に参加し、
1930年、フランス当局に逮捕される。獄中歴10年。ベトナム戦争中は南ベトナムでの宣伝工作を
担当し、76年、政治局員兼書記に登用される。一時失脚したが復活し、86年、党書記長に選出さ
れた。91年引退。
▽ド・ムオイ(1917年− ) ベトナム共産党書記長。19歳で抗仏闘争に身を投じ、24歳から4年
間、獄中で過ごす。ベトナム戦争時代は北部から南部への武器供給路「ホーチミン・ルート」の
建設、維持を指導した。1981年、副首相、88年には首相に選出され、91年から党書記長。
▽ディエンビエンフー ハノイの北西400キロ、ラオス国境に近い高原の町。フランス植民地軍
が精鋭部隊を常駐させていたが、ベトナム人民軍に包囲され1954年5月に陥落。このフランス軍
の決定的敗北により同年7月、ジュネーブ協定が成立。米中ソの思惑でベトナムは南北に分断
された。
▽ベトコン 「南ベトナム解放民族戦線」の俗称。共産主義者や農民、宗教家、知識人などの諸
団体を含んだ民族統一戦線として1960年12月に結成され、69年には南ベトナム共和臨時革命政
府を樹立、北ベトナム政府軍と結んでゲリラ戦を続けた。
313 :
高山正之:02/03/16 08:27 ID:PbF8DUJx
■ 20世紀特派員−植民地の日々−02
フランス的手法−重税、アヘン乱売、そして投獄
フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」の中で、「工業化に成功した西欧諸国は18世紀半ばに
して、1人当たり国民所得が今日の第3世界を上回っていた」と書いている。ニューヨーク・タイム
ズ紙(1996年8月20日付)の社説にも「19世紀、人口2900万の英国には200万人の家住み
召し使いがいた」とある。
フクヤマはその豊かさを「白人キリスト教国家のみが、いち早く工業化をなし得た成果」と断言す
るが、さてどうだろう。電気炉を開発したからといって、それでただちに「糞尿あふれるパリ」(アラ
ン・コルバン著「においの歴史」)を大改造できたり、中流以上の家庭がすべて住み込みの召し使
いをもてるようになったわけではない。フクヤマが別の項で書いているように、その成果を「軍事
的有利さ」に変えて植民地を獲得し、資源や富を吸い上げたからこそだという説明もある。
《生死にも税》 ベトナムにきて、まず監獄とギロチンを用意したフランスはその好例といえるか
もしれない。彼らがいかに資源と富の回収にいそしんだかを潘佩珠(ファン・ボイチャウ)が「越南
亡国史」に書いている。潘はベトナムの百年に及ぶ独立抵抗史の前半を仕切った最大の指導者
である。
「フランスの課税はひどかった。人々にはほぼ1カ月分の収入に当たる人頭税がかけられた」と
いう。これはイスラム勢力がアラーへの帰依を拒むペルシャなどで懲罰的に行ったジズヤと同じ
で、収入に関係なく一定額を全成人に課す方法だ。イスラムはこれだけだったが、フランスは「ほ
かに田畑、家屋、市場、河川の渡し税も用意した。さらに死亡と出産を対象とする生死税、葬式
や先祖の祭り、結婚式にも税金をかけた」と潘は記している。「越南亡国史」は1905年、潘が
日本を訪れたときに出版したもので、ここに列挙したのはまだ序の口だった。
女性ジャーナリスト、アンドレイ・ビオリスの「インドシナSOS」によると、ベトナム植民地政府は
このあと、種々の専売制を導入し、自家製だったジオガ(どぶろく)などアルコール類をフランス企
業「フォンテーヌ」の独占にして自家醸造を法律で禁止した。海岸線の長いベトナムでは塩も自
家製が普通だったが、酒と同様、専売制になり、「コメと同じ価格」になった。
「ニョクマム法」というのもできた。「人民の健康を保持するため」、ニョクマムの容器は衛生的な
ふた付きのビンとすることを義務づけた。その種のビンはフランス企業が独占製造していて、ビ
ンはもちろん高値で売られた。
「20世紀の初めの平均的農民、労働者は年収32ピアストルだった」と米国のベトナム史研究の第1人者、プリンストン大学のジョン・マカリスター教授はその著書「革命の原点」で述べている。
現在の円にすると約3万円に当たる。前述した直接税の合計は7ピアストル、塩など専売による
間接税も入れると20ピアストルとなり、収入のほぼ3分の2が直接、間接の税金としてしぼりと
られていたことになる。これでもまだすべてではない。
314 :
卵の名無しさん:02/03/16 09:03 ID:J0lL2i78
外資へトラバーユして心機一転がんばったらいいのですよ。
不満をもちながら劣悪な環境に固執する必要はないように思う。
315 :
高山正之:02/03/16 09:03 ID:UfdSwii+
もともとフランスが東南アジアに来たきっかけは阿片戦争の応援だった。イギリスはこの戦争で
香港を手に入れ、アヘン貿易の権利も取って1908年まで続けた。フランス、アメリカの貿易商
もこの「再開されたアヘン貿易」に加わり、巨万の富を築いた。アメリカでは後のフランクリン・デ
ラノ・ルーズベルト大統領の母方のデラノ家などがその筆頭格だった。
アヘンのうまみを知るフランスは、それをこのベトナムで商売にした。「各都市にはアヘン窟が置
かれ、地方の村にも『R・O』の看板をかけた店ができ、村の監督者はその割り当て量を消化す
るよう命令された」とビオリスは告発している。
「R・O」はレジ・オピアム(アヘン公社)の略で、植民地政府は「年間1500万ピアストル(現在の
価格で20億円)の収入を得ていた。アヘン吸引者もこの強制割当制で一挙に21万人に増加し
た」とビオリスは書く。
フランス本国ではアヘン売買、吸引は20世紀に入る前に犯罪として禁止されていたし、フランス
は1912年のハーグ国際アヘン禁止条約も批准している。しかし、同じ批准国であるイギリスの
植民地、マレー半島やビルマで、そしてフランス領インドシナでこうした商売がその後も公然と続
けられたのは、この条約に「その植民地、保護領のために、この条約を批准、又は廃棄をなしう
る」という例外規定があったからだ。
《強制連行も》 賦役もあった。鉄道、道路、フランス居留民のための快適な都市、ダラトなどの
建設に狩り出された。賦役には軍務も含まれ、第1次大戦では43000人がヨーロッパ戦線に出
兵し、ほかに49000人が炭鉱労働者として強制連行された。第二次大戦前にはさらに大規模
な強制連行が行われ、29万人がヨーロッパ、アフリカに送り出されている。
重税、賦役などで追い詰められた農民はインドやビルマ(ミャンマー)での農民と同じように、やが
て田畑を手放す。土地を手にいれるのは精米業者として入り込んでいた華僑やコーヒー、コメな
ど大型プランテーションを経営するフランス人たちだった。しかし、土地を失った農民にも人頭税
はかかる。滞納は投獄だった。残る手段は“逃散”だが、「住民はパスポート所持を義務づけら
れ、許可なく村を離れることを禁止した。背けば、親族まで投獄された」(ビオリス)フランス領イン
ドシナの成立直後から第二次大戦までフランス人が飽きもせずに監獄を作り続けた理由がここ
にもあった。
こうした統治には当然、強力な警察組織と軍隊が必要で、20世紀初頭にすでに「シュレテ(秘密
警察)」を数百人抱え、さらに近代装備を施したフランス人兵士2万人を常駐させた。その維持
費、さらにインフラ整備を行いながらも、植民地政府はスタート早々に単年度400万ピアストル
(約7億円)の純益を上げた記録が残っている。まさに3日やったらやめられないのが植民地経営
だった。
マカリスター教授は、「フランスは圧政を敷いたが、反面、戸籍を整備したし、財政の効率化をも
図った」と称賛する。しかし、それは人頭税やアヘンの割り当てを決めるための作業でもある。
富と資源を確保した植民地政府はさらにベトナム文化の破壊にも手を伸ばした。
316 :
高山正之:02/03/16 09:05 ID:UfdSwii+
■豆事典
▽フランシス・フクヤマ(1952年− ) シカゴ生まれの日系米人で、米国務省政策企画部を経
て、民間有力シンクタンク「ランド研究所」顧問。1989年夏に論文「歴史の終わり」を発表し、「西
側の自由民主主義がソ連や東欧の共産主義を圧倒して思想としての勝利を収め、全世界的に
広がる」と説き、ソ連・東欧の崩壊と冷戦終結を予言するかたちになった。
▽ジズヤ イスラム世界で行われていた人頭税。イスラム勢力は7世紀以降、西アジアや北ア
フリカを領土とすると、異教徒たちに従来の信仰を保持することを許す代わりに人頭税を課し
た。征服者側にとって重要な財源だったが、次第にイスラム教への改宗者の数が増大したため
ジズヤの財源としての重要性は失われ、20世紀に入ってから廃止された。
▽ニョクマム ベトナムやカンボジア料理でよく使われる調味料。魚醤(ぎょしょう)ともいわれる。
▽ハーグ国際アヘン禁止条約 1912年にオランダのハーグで開かれた国際アヘン会議で結ば
れた条約。この条約ではアヘンの生産、利用には触れておらず、貿易のみを禁止した。その後、
1931年に国際連盟の規約にもとづいて国際アヘン条約が結ばれ、生産を制限すること、利用は
医療・学術面に限ることなどが初めて決められた。
▽ダラト ベトナム南部の海抜1400〜1500メートルにある高原都市。熱帯だが年間を通じて気
温が18−23℃で、日本の軽井沢を思わせる避暑地になっている。20世紀初頭に開発され、フラ
ンス風建築のヴィラが点在している。付近ではホーチミン(サイゴン、南西240キロ)へ供給する花
や野菜の栽培が盛ん。郊外には、日本の戦争賠償で建設されたダニム・ダムがある。
317 :
高山正之:02/03/16 09:13 ID:ekSZxjcX
■ 20世紀特派員−植民地の日々−03
東風一陣 大国に翻弄される小国の悲哀
ベトナム中部最大の都市ダナンから少し南に下るとホイアンの街がある。東シナ海で漂流する
と、潮流に乗ってこの辺りに流れ着くといわれ、遣唐留学生だった阿倍仲麻呂も帰国の船が難
破して、ここに漂着している。そういう潮流の取り持つ縁もあって日本との交易も盛んで、ホイア
ンは江戸時代初めまでは日本人町として知られていた。
〈読めぬ言葉〉 7年前にベトナムを取材したとき、この街をベトナム外務省のルー・フォンさんと
訪ねた。彼女の父は大使の経験もあるベトナム労働党(ベトナム共産党)の高級幹部だった人で
あり、彼女自身もキエフ大学に留学し、ロシア語のほか、英、仏語も話せる。この国では怖いも
のなしのエリート外交官である。
その彼女が一瞬、しゅんとした。街中の川にかかる赤い橋に「日本国人所作」云々の漢文、正し
くはベトナム国字(チュノム)でその由来が書かれているのだが、フォンさんにはそれが読めない
という。「自分の国で、自分たちの祖父母が使っていた言葉を読めないつらさが分かりますか」
ベトナムも日本と同じ漢字文化である。ただ、日本では難しい漢字を平易な仮名文字に作り替え
たのに対してベトナムでは逆にもっと字画の多い造成漢字チュノムを作った。フランスは凝りす
ぎのチュノムをやめさせ、かわりにローマ字表記の「クオックグー」を強制した。
この辺は評価の分かれるところだが、フランスはさらに踏み込んで公用語にフランス語を据える
作業を始めた。この国は11世紀から中国風に科挙の制を取り入れてきたが、1903年からこの
科挙に仏文のエッセーを必修科目として加えた。そして第一次大戦後には全科目ともフランス語
に切り替えていった。
しかし、そのフランス語教育も対仏独立戦争、ベトナム戦争で中断され、今はローマ字表記だけ
が残っている。ベトナム語で革命を「カクマン」、漁業を「スイサン」というが、なぜ、そういうのか
ルー・フォンは語源を知らない。ベトナム共産党のバイブルでもあるホーチミンの「獄中日記」は
チュノムで書かれ、優れた漢詩も多いが、今それを読める党員はいない。
英国の近代史家、クリストファー・ソーンはこれを「文化的侵略」と呼ぶが、ベトナム国内にもこう
した言語、文化つぶしとも呼べる政策に、強く反発する男がいた。潘佩珠(ファン・ボイチャウ)で
ある。彼は1867年、地方の名家に生まれ、仏語エッセーが入る前の科挙の試験を首席でパス
している。学者としての名声に加え、早くから国際社会に目をむけてベトナムの進むべき道を説
く姿は吉田松陰に似ていなくもない。
彼が育った時代はフランスがベトナムを次々に武力で植民地化し、それに反抗して各地に反仏
抗争が燃え広がっていく時期に合致する。その中で最大の抵抗は1885年、安南国王ハムギ帝
を据えてベトナム全土でフランス軍に抵抗ののろしをあげた文紳(ブンタン)の乱だった。名のあ
る部将は山岳部に隠しとりでを築いて奇襲をかけ、ゲリラ戦を展開した。
318 :
高山正之:02/03/16 09:20 ID:O1PQfVgw
あんたの会社、営業所長の給料なんとかしてやれよ
あれではバイトしないと嫁さんと子供を養えないと思うよ
319 :
高山正之:02/03/16 09:22 ID:xeFDv34h
しかし、しょせん武器は刀と旧式の銃のみ。一方のフランス軍は連発式ライフルに73ミリ野砲な
ど近代兵器を送り込み、抵抗の芽を摘んでいった。結局、11年間に及んだ抵抗は完全に鎮圧さ
れ、ハムギ帝は捕らわれてアルジェリアに流され、2度と故国に帰ることはなかった。
圧倒的なフランス軍の強さの前に抵抗を放棄し、現状を容認する人々がでてくる。人心は乱れ、
伝統は捨てられていった。そのころのベトナムについて、潘はジャーナリストのアンドレイ・ビオリ
スに語っている。
「昔は官吏とは良識ある人を意味した。彼らは三年ごとに試験を受け、俸給も信じられないほど
安かった。たまに悪い役人もでるが、そういうとき、民衆には国王に直訴する権利が認められて
いた。フエの王城の前に太鼓が用意され、直訴する民がたたくと、国王は自ら門を開いて直訴に
耳を傾けなければならなかった」
しかし、と潘は嘆く。「今はフランス人の通訳や下僕だった人々が知事などの要職につき、思い
付くままに新しい税を課した。フランスの下僕になったものだけが私腹を肥やし、子弟をフランス
に留学させられた」
潘はその当時、すでに海外の情勢に目を見開いていた。文紳の乱のさなか、ハムギ帝は清に幾
度となく救援を請うた。中国は朝貢する属藩国の危機を救う義務がある。ところが、清は救援す
るどころか朝鮮をめぐって対立していた新興国日本を抑えるためにフランスと手を結び、その代
償にベトナムを放棄する。それは二千年にわたってアジアに君臨し、朝貢の見返りに安全保障
を約束してきた中国と周辺諸国の規範が消滅したことを意味した。
〈驚異の勝利〉 潘はこれを「琉球血涙新書」にまとめている。もうひとつの朝貢国、琉球がやは
り清王朝に見捨てられ、日本に併合された“悲劇”を綴ったものだが、それは「琉球」に託してベ
トナム自身の姿を投影させた憂国の書であり、同時にもはや過去の規範が通用しなくなった新し
い時代に入ったことを知らせる警告の書でもあった。
朝鮮をめぐる争いでは、朝鮮の領有をねらうロシアと日本が衝突し、日露戦争が勃発する。ベト
ナム人が芙桑(フータン)と呼ぶ同じ肌の色をした日本人が、白人の大国ロシアに自ら戦いを挑
み、勝利を続ける様子はベトナム人には驚異に映った。
「日本の戦いぶりは村々を流す歌謡(カーザイ)師や弾月(ダンゲット=一弦琴)の講釈師が歌や
語りで伝え歩き、人々は狂喜して聞き入った」と、このころの街の様子を川本邦衛・慶応議塾大
学教授は「ベトナム詩歌と歴史」に書く。
潘も当時の印象をこう書き留めている。「この時に当たって東風一陣、人をして爽快たらしめる
事件が起きた。旅順、遼東の砲声が私たちの耳に響いてきたことだ。日露戦役は私たちの頭脳
に一新世界を開かしめた」潘はベトナムを救う糸口を求め、この新興日本に旅立つ決意をした。
320 :
高山正之:02/03/16 09:23 ID:xeFDv34h
■豆事典
▽阿倍仲麻呂(698−770年) 天平時代の文人。19歳で遣唐使の一員として唐にわたり、官吏登
用試験の科挙に合格して要職を歴任した。その後、何度も帰国を願い出て753年にやっと認め
られたが、途中で船が難破し、安南に漂着。苦労の末に唐の都・長安に帰還した。帰国は実現
せず、長安に没した。
▽ベトナム労働党 ベトナム共産党の1951−76年の呼称。1930年2月、ホーチミンを中心に香
港で結成した政党が同年10月にインドシナ共産党と改称、マカオで初の党大会を開いた。41年
には民族統一戦線組織であるベトナム独立同盟(ベトミン)を結成。45年の8月革命後、一時偽装
解散したが、51年にベトナム労働党として公然と活動を再開、76年ベトナム共産党と改称した。
▽キエフ大学 1834年に設立されたウクライナを代表する大学。赤色の建築で有名。農奴出身
の詩人・画家で、革命家でもあったタラス・シェフチェンコ(1814−1861年)にちなんでシェフチェン
コ大学とも呼ばれている。
▽吉田松陰(1830−59年) 幕末の志士・教育者。長州藩士の二男として生まれ、幼時に軍学者
の吉田家の養子となる。ペリーの来航に触発されて米国船に密航を願い出たが、拒絶され、故
郷の萩の野山獄に幽閉された。後に松下村塾で藩士の師弟を教育。高杉晋作ら幕末を代表す
る志士が集まった。明治政府の中心となる伊藤博文や山県有朋も同塾の出身。
▽ハムギ帝(1872−1947年) グエン朝ベトナムの第8代皇帝。1884年に即位したが、ベトナムは
すでに南部のコーチシナがフランス直轄領になっており、帝の即位の年には北部のトンキンもフ
ランス保護領となったため、実質的には中部の安南国の国王でしかなかった。翌年7月、臣下と
ともにフランス駐留軍を急襲。フランスはハムギ帝の廃位を宣言し、兄を皇位につけた。約3年
間ゲリラ戦を続けたが、部下の密告でフランス軍の捕虜となり、流刑地のアルジェリアで死亡。
▽フエ ベトナム中部の古都。フランス語読みでは「ユエ」。漢字で「順化」とも書く。紀元前3世
紀ごろから発展、19世紀初頭のベトナム統一後は帝都として栄えた。
321 :
高山正之:02/03/16 09:39 ID:1e265QY5
■ 20世紀特派員−植民地の日々−04
国際都市東京 祖国独立の夢託し、相次ぐ訪問
ほぼ1世紀に及ぶベトナム独立抵抗史の後半の主役がホーチミンだとすれば、前半の主役は潘
佩珠(ファン・ボイチャウ)になるだろう。その潘が横浜港に着いたのは1905年(明治38年)4月
中旬だった。日露戦争の帰趨を決めた日本海海戦はそれから1カ月余り先になり、ロシアのバ
ルチック艦隊はこのころ仏領インドシナのカムラン湾で落ち着かない最後の休養をとっていた。
横浜市内に宿をとった潘は、同じ市内で中国語の新聞「新民叢報」を発行する梁啓超に手紙を
したためた。梁は康有為と並ぶ変法自彊運動の推進者で、その数年前に起きた戊戌の政変に
よって国を追われ、日本に亡命していた。
潘は日本に独立の支援を頼みにきた。その彼が最初に面会を求めたのが日本の政財界人では
なく、中国からの亡命政客だったことは、このころの「日本」の姿をある意味で象徴しているかも
しれない。
《留学ブーム》 この時代、つまり20世紀の入り口にあった日本には、実にさまざまな国から亡
命者や祖国を思う留学生が集まっていた。「慶応義塾50年史」によれば、最初の留学生は朝鮮
からで、1881年(明治14年)、開化派の重鎮、金玉均が送り出した6人が来日し、「2人が慶応
義塾に、1人が中村正直の同人社に語学留学し、残る3人が陸軍士官学校に入った」とある。
83年にも金玉均は60人を慶応義塾に預けたが、日本語を習得した学生は税関、郵便事業、農
業、さらに陸軍にも入り、祖国近代化の実務を学んだ。彼らの一部は開化派による政変、いわ
ゆる甲申の政変(1884年)に加わるが、開化派は敗れてリーダーの金玉均は日本に逃げ、亡命
政客の第1号となる。金は一時、小笠原諸島にまで身を潜ませたが、1904年、上海で政敵の
手先に暗殺される。
中国からは、1895年に広東蜂起に失敗して清王朝に追われた孫文が亡命、98年には前述し
た梁ら変法自彊派が逃げてきて、シンガポールに脱出した康有為もやがて合流する。ともに広
東出身の孫文、康有為は満州民族の清と対決する「滅満興漢」の姿勢では共通していたが、孫
文は、いわゆる三民主義に基づいた共和制国家を、康有為は梁啓超とともに漢民族の王政復
古−立憲君主国家を目標に置き、この二派は東京を舞台に論争を続けていた。
中国からは留学生も大量にきた。日清戦争直後の96年に13人が東京高等師範学校(嘉納治
五郎校長)に留学して以来、毎年数百人単位の留学生が日本を目指し、潘が横浜に降り立った
1905年には「東京だけで8600人」(朝日新聞05年12月7日付)にも上っていた。この中には
文学者の魯迅、北京大学の教授となる弟の周作人なども含まれる。
日本留学のブームに火をつけたのは変法派の張之洞が著した「勧学篇」といわれる。大国中国
がなぜ小国日本に負けたのか。張はその答えはアジアでいちはやく富国強兵策をとり、近代化
を目指した日本にあること、そして日本には中国では得られない世界の文献が準備され、日本
語さえマスターすれば、そうした文献が全て習得できると説き、中国人青年に留学を勧めた。
322 :
高山正之:02/03/16 09:50 ID:ZYlBrUuc
当時の日本はこうした亡命政客や留学生の受け入れにかなり好意的だったようだ。慶応義塾や
東京高師、汪兆銘も学んだ法政速成科(現法政大)などが留学生枠を設けたほか、東京同文書
院、嘉納治五郎の私塾の弘文学院、語学研修を兼ねた士官学校予備校でもある振武学校(現
在の成城大学)など、アジアからの留学生の受け入れ施設も用意された。
主に朝鮮人学生を引き受けていた福沢諭吉は「(アジア諸国の青年を)文をもって誘導し、速や
かに我が例にならいて近時の文明に入らしめるべし」と書いている。それが当時の日本の雰囲
気だった。
《武器ほしい》 しかし、もっと切迫した訪問客もいた。例えばフィリピンからきたマリアーノ・ポン
セである。フィリピンは1898年の米西戦争で、やっとスペインの圧政から解放されたが、独立を
支援するはずだったアメリカはそのままスペインの後釜に居座り、かえってアギナルド将軍の率
いる独立軍を追い詰めていた。ポンセは新たな宗主国、アメリカと戦っているアギナルド将軍に
頼まれて武器を求めにきたのだ。
日本政府にはアメリカと事を構えるのにためらいがあった。しかし、ポンセに同情した孫文が民
族主義者の宮崎滔天ら政財界人に働きかけ、結局、憲政党の中村弥六議員が中心になって日
清戦争の戦利品だったモーゼル銃20万丁をフィリピンに送り出した。世にいう「布引丸」事件だ
が、この船は途中、東シナ海で台風のために沈没する。
アギナルド将軍は満足な武器もないまま、その後3年間戦い続けたが、1901年にアメリカ軍に
捕まってフィリピンの独立運動は消滅する。
潘の訪日もポンセと同じだった。宗主国フランスと戦う武器がほしい。それを得て「ベトナムとは
歴史的なつながりのある広東の軍閥の協力を求めて武装蜂起する予定だった」と後に死刑を待
つ監獄の中でまとめた「獄中記」に記している。
潘は梁啓超に会うと、その意図を素直に告げた。梁は首を振った。日本はロシアと文字どおり国
家存亡がかかった消耗戦をしているさなかで、ベトナムに武器を回すほどの余力がないことを説
明し、ベトナムを支援すれば、フランスのみならず欧米諸国を敵に回すことになるという国際情
勢を説いた。
そして「まず、人材を育て国内に実力を蓄えよ、軍備は瑣末なことで、日本にはむしろ外交援助
を求めるべきだと諭した」(獄中記)。梁はさらに日本にベトナムの現状を理解させるために有力
者に会うことを勧め、まず進歩党の犬養毅、大隈重信に潘を紹介した。潘はそれからの数カ月
間に政財界要人の知遇を得る。この中には後藤新平、頭山満などの名もあった。
潘は二つの決断を下した。ひとつは安南王朝の始祖、嘉隆帝の直系5代目に当たり、ベトナム
の独立をうたう「維新会」のリーダーでもあるクオンデ候を日本に亡命させること。そしてもうひと
つが中国、朝鮮にならってベトナム青年に日本留学を勧めることだった。
323 :
高山正之:02/03/16 09:52 ID:ZYlBrUuc
■ 豆事典
▽変法自彊運動 中国・清朝末期の改革運動。日清戦争の惨敗とこれに続く列強の中国分割
に危機感を深めた康有為(1858−1927年)、梁啓超(1873−1929年)ら若い知識人層が、中国の近
代化のためには政治、教育体制を根本的に改革しなければならないと主張し、光緒帝により登
用された。しかし、反対派による戊戌の政変(1898年)でこれら若手官僚は失脚し、運動はとん挫
した。
▽金玉均(1851−94年) 朝鮮・李朝末期の王朝官僚で、近代的改革を目指した開化派の主導
者。日本の力を借り、上からの改革運動を推進しようとした。1884年に甲申の変を起こし、親清
(中国)派を打倒しようとしたが、敗走して日本に亡命した。
▽魯迅(1881−1936年) 中国の文学者。1902年に日本に留学。当初、医者を志し仙台医専に入
学したが、2年で中退し文学運動に傾斜した。帰国後、教員生活を送りながら「狂人日記」「阿Q
正伝」などの代表作を著した。
▽周作人(1885−1967年) 魯迅の弟で随筆家。1906年、日本に留学、立教大学で文学を学び、
帰国後、北京大学教授となる。
▽東京同文書院 日清戦争後に組織された大陸政策推進団体の東亜同文会が1899年(明治32
年)、東京に開設した中国人留学生のための教育施設。1922年(大正11年)までの間に3000人近
い留学生が学び、1858人が卒業した。東亜同文会は1901年、大陸で活躍する人材育成のため
の東亜同文書院を上海に設立している。
▽マリアーノ・ポンセ(1863−1918年) フィリピンの革命運動家。スペインに留学して医学を学
び、1898年には訪日して孫文、犬養毅らと親交を深める。米国統治下のフィリピン議会議員を1
期務めた。
▽宮崎滔天(1871−1922年) 熊本県出身。孫文らの中国革命運動の協力者。1905年、東京で
中国革命同盟会結成に参画、11年の辛亥革命(清朝崩壊)に協力した。
324 :
卵の名無しさん:02/03/16 10:24 ID:ETkqNuOU
この荒らしゾロへの攻撃書き込みを呼び込もうというのが目的とみた。
おまえの作戦は成功で新しいゾロスレッドが一体いくつできたんだ?今
325 :
高山正之:02/03/16 11:36 ID:6Yho54Z1
■ 20世紀特派員−植民地の日々−05
日本の花 日露戦勝で「東遊」ラッシュ
ホーチミンがまだ阮愛国を名乗ってパリにいたころに付き合いがあった仏文学者、小松清はトン
キン地方に咲き乱れる「日本の花」のことを書いている。
《1941年4月のある日、私はパリ時代からの旧友である詩人、阮江(グエン・ジャン)につれられ
てグラン・ラック(大湖)のほとりを歩いた。水辺には薄紫色の花が一面に咲き乱れていた。水ヒ
ヤシンスの1種だろう。しとやかな気品をもった花である。花の名を聞かれ、知らないというと「越
南人は『日本の花』と言ってます」と彼はいった。「日本が日露戦争に勝ったとき、だれかがこの
湖に植えた。ハイフォン港に入る日本の貨物船から入手したらしい」と。花は幾年かのうちに増
え、だれ言うともなしに『日本の花』と呼ぶようになった…》
いい話である。それがどんな花なのか、私は興味をそそられ、何冊かの植物辞典や園芸店に当
たったが、「水ヒヤシンス」の名さえ見つからなかった。小松は「水ヒヤシンスは九州の水田など
に自生している、浜葵に似た花」とも書いている。それをヒントに福岡市植物園に尋ねたら、数日
して「中南米原産のほてい葵ではないか?」という返事をいただいた。金魚鉢などに浮かべるほ
てい草のことである。これなら確かにサイゴン川でもハノイ周辺の水田などでも多く見かけた。
薄紫のヒヤシンスのような花もつける。20世紀初め、ハイフォン、サイゴン(ホーチミン)などの港
はバンメトット・コーヒーなどプランテーション作物を運ぶ貨物船でにぎわった。そんな船がほて
い葵を持ち込んだのだろう。そして日露戦争というタイミングに水田や沼で薄紫の花を咲かせた
のだ。
〈大きな刺激〉 「日本の花」の正体が中南米からの外来雑草だったのはちょっと残念な気もす
るが、同じ皮膚の色の小国が白人大国に勝った事実が白人の作った無限地獄ともいうべき環境
下のベトナム人にどれほど感銘を与え、どれほど勇気づけたかをこの小さなエピソードは十分に
物語っている。
「日本の花」が咲いたころ、もうひとつ、今度はまぎれもなく日本からベトナムに届けられたもの
があった。中国からの亡命政客、梁啓超の勧告を受けて、潘がベトナム青年に呼びかけた「遊
学を勧むる文」という小冊子である。
「亜州なお大邦あり。東海に伯気存し、米虎欧鯨をしてわが黄人種の蹂躙に」初めて歯止めをか
けた。なぜ、日本がそれをなし得たか。答えは日本にある。東京はすでに中国、朝鮮、インドな
どからの学生であふれている。ベトナムの青年も「日本に行き、そして学べ」と潘は訴えかけた。
小冊子は梁の主宰する新聞社「新民叢報」で数千部が印刷され、潘に随行してきた曽拔虎が香
港から広東、そしてベトナム国境を密かに越えて持ち帰ったと言う。潘の名声は高かった。彼が
姿を消し、シュレテ(秘密警察)が必死に行方を追っていることも知られていた。その潘が、日本
に密かに渡っていた、そして日本への密航を呼びかけてきたことは衝撃となってベトナム全土を
駆け抜けた。ベトナム独立史に「東遊(ドンズー)」と大書される日本留学運動がスタートする。
326 :
高山正之:02/03/16 11:43 ID:ZvOoezRp
この冊子の反響はよほど大きかったようで、潘が世の親に子供を留学させるよう説得する「全国
の父老に敬告す」とともに瞬く間に国中に読み回され、さらにはハノイ、サイゴンなど数カ所にフ
ランス官憲の目を盗んで日本行きの青年をかくまい、密出国の手助けをする地下組織ができた
と潘は後に記述している。
日本側にもベトナム人学生の留学ラッシュの記録がある。同文書院幹事の柏原文太郎がまとめ
た「安南学生教育顛末」には、小冊子ができた1905年暮れにはもう3人の若者が日本の土を
踏み、その後「60人余を受け入れ…」とか、驚いたことに「9歳、11歳の2人は東京小石川礫川
小学校に…」など幼い子供まで留学してきたことを示す記述も見える。学生は「いずれも清国広
東、広西人と称した」(明治41年、内務省調査)密航者だったが、日本側はその辺を、実に鷹揚
に扱い、中国、朝鮮の若者と同じように、同文書院、振武学校(福島安正校長)などに入学を認め
1907年には「300人のベトナム人子弟が日本で学んでいた」と小松清は書いている。
この「東遊」のうねりに呼応してハノイに「東京義塾」も作られた。創設者のファン・チューチンは
潘とともに日本に行き、見聞を広めて、「わが国を引き比べれば実に雛と大鷹の差がある」こと
を痛感、日本での活動は潘に任せ、ベトナムに戻ってこの学校を作った。名前でも分かるように
福沢諭吉の慶応義塾をモデルにしたものだ。
〈皇子が密航〉 潘はこの「東遊運動」とともに、もうひとつ、ベトナム独立の悲願をかけた博打
を打った。ベトナムに独立を取り戻す民族派の秘密結社、維新会のリーダーに推挙されたクオン
デ侯を日本に密航させることだった。
クオンデは19世紀初頭にベトナムを統一した嘉隆帝の直系5代目に当たる。当時23歳、小松
も「高貴な雰囲気をもつ貴公子」、「国民の声望も厚い」という形容詞を使っている。実際、植民
地政府も、反仏抗争を抑え込める人材として、安南国王に就任を迫ったこともあった。国王の座
に最も近い皇子を亡命させれば、日本も本気でベトナムに目をむけるだろう、というのが潘の読
みだった。
潘は人を介してクオンデに日本の状況を伝え、祖国脱出を訴えた。クオンデには美しい妃と3人
の子供がいた。フエの王城は植民地政府が厳重な警備を敷いていることを除けば、日々を暮ら
すには何不自由はなかった。王領はフランスがすでに没収していたが、それに代わって数千ピ
アストルの扶持も出ていた。日本への脱出はそれらをすべて捨て去ることになるが、クオンデは
ためらうことなく潘の申し出を快諾した。
1906年2月、クオンデは王城を出た。小松清著『ベトナム』によると「貧しい農民の身なりで海
岸に至り、ジャンクでハイフォンに行き、そこからフランス汽船に火夫として乗り込んで香港」に
渡り、さらに2カ月かけて4月、クオンデは念願の日本に一歩を踏んだ。24歳の春だった。それ
は同時に美しい妃とも3人の子供たちとも再び会うことのないクオンデの半世紀に渡る流浪の旅
の始まりでもあった。
327 :
高山正之:02/03/16 11:44 ID:ZvOoezRp
■豆事典
▽小松清(1901−62年) 評論家、仏文学者。フランス留学から帰国後、マルローなどフランスの
新たな文学動向をヒューマニズム的行動主義として紹介。半自伝小説「ヴェトナムの血」など著
書、訳書多数。
▽グラン・ラック ハノイ市の北にある「タイ湖」(外周13キロ)のフランス語での呼称。大きな湖の
意味。「西湖」「霧の湖」とも呼ばれ、ハノイで最も美しい湖として市民から愛されている。湖岸に
は桃の木が植えられ、ヨーロッパ風のヴィラも点在、水上レストランや遊覧船乗り場もあり、夜景
が美しい。
▽ほてい葵 ミズアオイ科の浮遊性多年草。熱帯または亜熱帯の中南米原産の水草で、九州
など日本の温暖地にも野生化している。
▽ハイフォン ハノイの東約100キロに位置する港湾都市。ベトナム北部の海の玄関口で、街の
中心にはフランス風の建物が並んでいる。軍港でもあり、米軍は1972年5月から73年1月のパリ
和平協定調印まで、この港を機雷によって封鎖した。郊外はベトナム最大級の工業地帯になっ
ており、日本人ビジネスマンも多数滞在している。
▽バンメトット 標高500−1000メートルの中部高原地帯の中心地。月平均気温は乾期で20度前
後としのぎやすく、コーヒー、ゴムが特産品になっている。
▽嘉隆帝(1762−1820年) ベトナム阮(グエン)朝の初代皇帝(在位1802−20年)、阮福映のこと
で、ベトナムではザロン帝と呼ばれる。在位中は内治に尽くし、長期の内乱で疲弊した国民を休
ませることに気をつかった。統一の途上でフランスの援助を要請したことがフランスのベトナム
支配を招き、阮朝4代目の嗣徳(トゥドゥック)帝の時代にベトナムはフランスの保護国になった。
328 :
高山正之:02/03/16 12:13 ID:GpP6+nm0
■ 20世紀特派員 植民地の日々−06
我、日本を恨む−アジアの「新盟主」への期待
日本に上陸したクオンデ侯にとって、最初の1年間は希望と使命感で弾けそうだった。「何よりも
心を打ったことはこの文明社会の一切の仕組みを動かしているのが、全て日本人だったことだ。
彼らの瞳は勝利と誇りと自信に輝いている。ああ、越南に一日も早く独立を…」仏文学者、小松
清に語った日本の初印象である。
潘佩珠(ファン・ボイチャウ)の紹介で会った日本の要人も好意的だった。犬養毅もその1人で、ベ
トナムに深い同情を寄せ、クオンデのために本郷森川町にかなり立派な邸宅も世話した。ただし
クオンデを戴く「維新会」は本国でテロ活動を行っている反仏抵抗組織であり、日本側も彼に公
然と名乗らせる訳にはいかなかった。そのため「阮福民」という偽名の表札が掲げられたが、本
郷界隈ではだれでも素性を知っていて「安南の皇子」で通っていたという。おおらかな時代では
あったようだ。
クオンデはここを根城に大隈重信、宮崎滔天(とうてん)、頭山(とうやま)満らと会い、週末には振
武学校などに通うベトナムの青年志士が集まって独立の夢を語り合った。学生たちはここでベト
ナム新憲法「新越南公憲」の草案を書き上げ、同名の武装行動隊も発足させた。2年前に孫文
が東京で旗揚げした「中国革命同盟会」に刺激を受けたといわれる。「まず人材を育てる」という
潘の計画は順調そうに見えた。
《国際的常識》 しかし、クオンデのもうひとつの、そしてもっと切実な訪日の目的、日本を動か
して独立の支援を得る工作は遅々として進まなかった。このころの要人とのやり取りの記録をみ
ると、クオンデや潘の気持ちの中には日本をかつての中国に見立てていた気配がある。「亜州なお大邦あり。米虎欧鯨に蹂躙される亜州…のために異人種排斥するは日本に如かず」(潘佩
珠の小村寿太郎あて書簡)
虐げられたベトナムを救うために日本が当然、力を貸すべきだと言う思い込みであるが、中国の
亡命政客、梁啓超が潘に指摘したようにフランス植民地の抵抗組織に、日本が武器援助した
り、それ以上の独立支援を行ったりすることは考えられなかった。
反政府勢力に援助を与えることは、欧米が植民地を獲得するさいに宣教師の送り込みと同じぐ
らい頻繁に用いた手口で、この時代でも米国は民族自決に燃えるフィリピンのアギナルド将軍を
支援する名目でスペインに戦争を仕掛け、フィリピンを獲得している。さらにこの直後には太平
洋と大西洋を結ぶ運河建設の最適地を得るため、米国はまず、コロンビアの1州だったパナマ
に反政府勢力を育て、それに肩入れする形で介入しパナマ独立という事実上の“植民地化”に
成功している。
アメリカに反旗を翻したアギナルドに頼まれ、フィリピンに武器を送ろうと計画した「布引丸」事件
に対し、アメリカが激怒したのは「日本のフィリピンに対する領土的野心」を疑ったからで、クオン
デらの組織を支援することも全く同じ理由で「日本の仏領インドシナへの野心」と受け取られるの
が当時の国際的常識だった。
329 :
高山正之:02/03/16 12:13 ID:GpP6+nm0
加えて、この時期の日本は財政的にも苦しかった。日露戦争のツケである。この戦争は潘のいう
ように人種戦争という一面があった。だからこそ潘を感激させ、アジア諸国に、中東に、そしてア
メリカの黒人問題に大きな衝撃を与えた事は、既に触れた。
そして、その特異さゆえにポーツマス講和会議で「黄人種・日本」は孤立し、アメリカ大統領セオ
ドア・ルーズベルトの主導するままに賠償金を放棄させられた。それは、米に引き受けて貰った
巨額の戦争債権の償還ができなくなったことを意味した。
1907年6月、日本はフランスに3億フランの借款を申し入れ、かわりに中国南部の広東、雲南
などでのフランスの排他的優位性を認める日仏協約を締結した。日本が国際社会で生きていく
ために選んだ道はクオンデのいう「仏賊」と盟友関係になることだった。
その仏領インドシナでは同じ07年、羊のようにおとなしかったベトナムの民衆が重税に反発す
るデモを各地で展開した。翌08年6月にはハノイの仏軍守備隊兵営でフランス人兵士、士官の
食事に毒物が混入される事件が起きている。死者こそ出なかったものの、守備隊は数日間、総
督府を守るという機能を完全に止めてしまった。
容疑者が挙げられ、「つめの下にクギを刺され、通電した鞭でたたかれ…」(革命博物館資料)と
いった取り調べの結果、混入された毒物は皮肉にもフランスがベトナム住民に専売していた生ア
ヘンだったことが判明した。それ以上の驚きだったのは事件の背後に「維新会」のメンバーなど
で構成する大掛かりな反仏組織ができあがっていて、末端は現地兵や警察官の中にまで深く浸
透していたことだった。
主犯格の兵士ら13人はギロチンにかけられ、その首は街頭にさらされた。家族や友人ら数百人
が捕らわれ、崑島(コンダオ)の監獄に送られた。日本への留学生の身元も洗われ、その家族も
投獄された。そして締めくくりが本国を通して日本政府に突き付けた不穏分子の身柄引き渡し要
求で、3億フランの対日借款がその切り札だった。
《国外へ追放》 日本政府は屈した。ほかに選択肢がなかったことは述べた。ただ、黙って引き
渡せば、潘もクオンデもギロチンで処刑される可能性があり、それはさすがに忍びない、日本は
フランス側と協議して「引き渡さないが、国内にはとどめ置かない」国外追放という妥協を取り付
けた。
1909年1月、国外追放を前にして、本郷森川町のクオンデの邸に集まったベトナム人青年の
数は5、60人だったと小松清は著書「ベトナム」に書いている。彼らは潘の言葉に泣いた。アジ
アの新盟主と思い込み、期待していた青年には日本の対応は冷酷な裏切りに見えただろう。
《重苦しい沈黙を破り声があがった。ゲアン県出身の青年、チャン・ドンフー(陳東風)だった。「僕
は日本を離れない。心から愛し、希望をつないできた日本に裏切られたベトナム人の幻滅がど
んなものか、それをみせてやりたい」、チャンは仲間が全て去った後、小石川の東峰寺で首をつ
り、自らの命を絶った》チャンの墓は今、雑司ケ谷霊園に残る。「訪れるものはない」と霊園事務
所の人はいう。
330 :
高山正之:02/03/16 12:16 ID:GpP6+nm0
■豆事典
▽犬養毅(1855−1932年) 政党政治家。新聞記者を経て1882年(明治15年)立憲改進党の結成
に参加、1890年の総選挙で岡山県から初当選し、以降18回連続当選。1929年(昭和4年)、政友会総裁。31年には首相に就任して満州事変後の困難な政局運営に当たったが、翌32年の5・15
事件で暗殺された。
▽維新会 1904年(明治37年)、潘佩珠を中心に、クオンデを盟主に推戴して結成されたベトナ
ム民族運動組織。活動の中心は日本に置かれ、日本への留学を推進する東遊運動(ドンズー運
動)や抗仏武力闘争の準備を進めた。
▽中国革命同盟会 中国で最初の明確な綱領を持つ革命政党で、1905年に孫文が中心となり
東京で結成。三民(民族、民権、民生)主義を掲げ、機関紙「民報」を発刊した。中国南方を中心
に反清武装闘争を展開し、1911年の辛亥革命につなげた。中華民国成立後には中国国民党と
なった。
▽布引丸事件 1899年(明治32年)、日本の民間有志がフィリピン独立運動を支援するため、武
器・弾薬を送ろうとして失敗した事件。フィリピン革命政府から日本に送り込まれたマリアーノ・ポ
ンセは、亡命中の孫文を介してアジア解放に関心を抱く宮崎滔天、犬養毅らと知り合い、彼らの
協力で陸軍の使い古された武器・弾薬を払い下げて貰う事に成功。三井物産所有の老朽船、布
引丸を譲り受け、武器を積んで長崎港を出たが、暴風雨のため中国・寧波沖で沈没した。
▽ポーツマス講和会議 1905年、米国・ポーツマスで行われた日露戦争の講和会議。日本の韓
国における権益の承認、旅順、大連の租借権、南樺太の日本への割譲などが決められたが、賠
償金は獲得できないなど講和内容に対する国民の不満が高まり、東京では暴動が発生した。
331 :
高山正之:02/03/16 12:27 ID:oyi/NAXT
■ 20世紀特派員−植民地の日々−07
松岡総領事代理−きわどい“二重作戦”演じる
日本を頼って来ながらも、その日本から国外退去を命じられたベトナムのクオンデ侯は1909年
10月30日、神戸港発の日本郵船の客船「伊豫丸」で上海経由香港に向かうことになった。ベト
ナムにはもちろん帰れない。落ち行く当てのない流浪の旅の始まりである。
《唯一の楽園》 クオンデは出発前に世話になった犬養毅のもとを訪ねた。犬養は「我ら微力に
してこれ以上のご援助できぬは慚愧の極み」とわび、4千円の餞別と従者の分を含め3丁の短
銃を贈った。ここで犬養が言った「我ら」とは日本政府を指す。日仏協約の締結は日露戦争の戦
争債券償還のための借款が目的であり、また、フランスと今ことを構えれば、日本は欧米諸国が
もつ東南アジアの市場から締め出されてしまう。その辺を理解してほしいということである。
クオンデは「余は日本を唯一の楽園として修学のため来日した。これまでの日本の厚情に深く感
謝する」と謝辞を述べている。しかし、旅立ちはそう、すんなりとはいかなかったことが当時の内
務省の記録に残されている。出港を2日後に控えた28日、クオンデが投宿していた神戸のホテ
ルから行方不明になる事件が起きた。警察が懸命に行方を追い、やがてクオンデが親しくしてい
た「東京・鶴巻町のS女史のもとに潜んで」いたことが分かる。
内務省はクオンデを伊豫丸出港日の30日、新橋駅発の汽車に乗せ、船を門司まで追いかけて
乗船させた。クオンデが出国をいやがるのは当然で、すでにフランスはシュレテ(秘密警察)を動
員して出国の情報をキャッチし、反逆罪の首謀者として逮捕の準備を整えていた。ギロチンによ
る処刑の可能性もあった。
伊豫丸は11月3日、上海に入港した。しかし、クオンデは下船しなかった。波止場にはそれと分
かるシュレテがひそみ、乗客を検問し、ときには身体検査もした。夜は夜で、水上艇が数隻で
て、サーチライトで伊豫丸の周辺を照らし続けた。泳いで脱出するのを警戒しての措置である。
翌日、仏総領事が上海の日本総領事館を訪ねてきた。「伊豫丸にクオンデ侯と二人の従者が乗
っていることは確かめた。3人の偽名を教えろ」という。日本側が意図的にこの政治犯をかくま
えば、借款問題も極めて難しくなるだろうという脅しもにおわせた。
応対した総領事代理、松岡洋右(まつおか・ようすけ)はこのとき29歳であった。翌5日、伊豫丸
が香港に向けて出港する日に、事件が起きた。伊豫丸のボーイの制服をきた若者が総領事館
に保護を求めてきたのだ。若者はクオンデの従者の1人で「侯とともに船を脱出し、フランス官憲
の目を逃れるため3人ばらばらに行動した」と証言した。さらに別のルートで、クオンデが無事に
古河鉱業上海支所に逃げ込んだことが確認された。
松岡洋右は外務省には、「仏印住民の管掌は仏国の任務なれば保護は仏総領事館に求めるよ
う」指示したと11月6日付で報告している。しかし、これは表向きで、実際はクオンデの身柄保
護にかなり奔走したことを同16日付の手紙で知らせている。
332 :
高山正之:02/03/16 12:36 ID:7tifsz9s
それによると、松岡は伊豫丸の出港をまってフランス側に3人の偽名を教えて、日仏協調を演じ
る一方、日本人の複数のボーイがシュレテに捕まり、持ち物まで調べられた事実をフランス総領
事に詰問もしている。実はこの調べられたボーイの中に変装したクオンデも含まれていて、きわ
どい脱出劇だったことが後に判明している。
フランス側は、この松岡情報をもとにして、香港に入った伊豫丸に網を張るが、主のいない荷物
が残っただけでもちろん空振りに終わった。その2カ月後、香港総領事、船津辰一郎が「香港の
郵船支社に侯の従者が現れ、荷物を引き取っていった」旨の公電を打っている。
若き日の松岡がクオンデ脱出劇をなぜ懸命に支えたのか。公電からは読み取れないが、彼の
経歴にヒントらしいものがある。松岡は13歳のときに単身渡米し、苦学しながら1900年、オレ
ゴン大を卒業した。その後、ロースクール(法学部大学院)を目指して勉強中に、突然のように帰
国し、外交官になるが、彼はこの9年間で貴重な体験を重ねている。
まず、渡米の際の最初の寄港地ホノルルでは、米軍艦「ボストン」が王宮に砲口を向け、リリオ
カラニ女王に退位を迫る、ハワイ王朝乗っ取り事件が進行中だった。東郷平八郎の巡洋艦「浪
速」が駆け付けたおりも、松岡少年の船はホノルル湾にあったはずだが、そのことは彼の記述に
はない。
ひとつの国が力ずくで滅ぼされるのを目撃した少年は西海岸のオークランドの貿易商宅に居候
するが、その親切なファミリーは黒人奴隷に代わる中国人苦力の売買が生業だった。そして帰
国する前後の西海岸は、日本人移民への差別や排斥運動がまさに燃え盛っていた時期にあた
るのである。松岡研究の第一人者、三輪公忠・上智大教授は松岡の行動にこうした「人種問題
の現実が投影した」可能性を指摘する。クオンデを助けたのもアジア人への連帯意識からでは
なかったろうか。
《帰国の機会》 クオンデはその後、欧州などに逃避の旅を続けるが、第一次大戦のさなかに
再び日本に戻り、当時、同じような境遇のインドの志士、ビハリ・ボースやロシアのエロシェンコ
が世話になっていた新宿中村屋の相馬愛蔵、黒光(こっこう)夫妻のもとに身を寄せるが、この
頃、同家の令嬢・千賀子に「恋いわずらいで寝込むほど」思いをつのらせる騒動も起こしている。
第二次大戦中に日本軍がフランス植民地軍を倒したとき、さらには、南ベトナム政府の成立時な
ど、クオンデには凱旋帰国の機会が幾度かあった。しかし、国際情勢は一度も彼にほほ笑まない
まま1951年、東京・日本医大病院で肝臓癌のため死去する事になる。
当時の新聞は「安南・阮王朝嘉隆帝の直系であり、現バオダイ帝の大叔父に当たる。革命運動
の中心人物として明治39年、日本に潜入以後、帰国が果たせないまま亡命生活は40年余に
及んだ。侯の祖国は戦後、ホーチミンの共産政権とバオダイ政権に分かれて争っているが、侯
の二人の息子はホー軍に属している」と書く。どうにもやりきれない死である。
333 :
高山正之:02/03/16 12:39 ID:7tifsz9s
■豆事典
▽松岡洋右(1880−1946年) 外交官・政治家。米国留学から帰国後の1904年(明治37年)、外交
官試験に合格し、上海総領事館を振り出しにロシア、米国に在勤する。21年に外務省を辞めて
満鉄理事となり、29年に帰国、政友会代議士に転身した。33年の国際連盟総会に首席全権とし
て出席したが、日本の満州国建設批判決議に抗議して議場を憤然と退場、連盟脱退の英雄とし
て右翼に賛美された。40年(昭和15年)には近衛内閣の外相になり日独伊三国同盟を締結。戦後
A級戦犯に指名され、46年に結核で死亡した。
▽ハワイ王朝乗っ取り事件 ハワイは米国の圧力で1893年にカメハメハ王朝が倒され、共和制
を経て1900年に米国に併合された。1891年に王位に就いたリリオカラニ女王は王権強化を目的
に新憲法を公布しようとしたが、財産接収を恐れた米国のサトウキビ業者らの要請で米軍が出
動、93年に無理やり退位させられた。
▽ビハリ・ボース(1886−1944年) インド民族運動の指導者。1908年(明治41年)ごろから民族運
動を指導し、12年、英国のインド総督ハーディングに爆弾を投げつけ負傷させる。15年に来日し
たが、英国の圧力で国外退去令が出され、孫文らの助けにより新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫
妻のもとに隠れた。その後、夫妻の長女、俊子と結婚し、太平洋戦争ではインド独立連盟総裁と
して日本に協力した。
▽エロシェンコ(1889−1952年) ロシアの盲目の詩人、児童文学者。主に日本語とエスペラント
語で著作を残した。1914年(大正3年)に来日、相馬黒光、秋田雨情、大杉栄、竹久夢二らと親交
を結び、日本語による口述筆記で短編小説「提灯物語」など多数の詩、短編を発表した。21年、
スパイ嫌疑で国外追放処分を受けた。
▽相馬黒光(1876−1955年) 夫の相馬愛蔵とともに1901年(明治34年)、東京・本郷にパン屋中
村屋を開業、店を新宿に移してから事業が軌道に乗り、エロシェンコら多くの芸術家のパトロン
となった。自伝「黙移」がある。
334 :
高山正之:02/03/16 12:52 ID:+wkFBSTQ
■ 20世紀特派員 植民地の日々−08
祖国ベトナム−抗仏の強硬行動と大量逮捕
司馬遼太郎は陳舜臣との対談で「日本は日露戦争のあと、おかしくなった」と語っている。19世
紀、阿片戦争に代表される欧米のアジア侵略を見て、日本は明治維新を成し遂げ、近代化に邁
進した。日露戦争の勝利はそうした明治の気骨の集大成でもあったが、そこに到達した途端に
どっちに行くか、道を失った。そして日韓併合、対支21カ条要求と続く。欧米植民地帝国主義者
と変わらない行動が始まる。
その変身の説明に福沢諭吉の「わが国は隣国の開明を待って共にアジアを興す猶予あるべか
らず。むしろ、その伍を脱して西洋の文明国と進退をともにし、支那朝鮮に接する法も特別の会
釈に及ばず。まさに西洋人がこれに接するの風に従って処分すべき…」と言う「脱亜論」がよく引
用される。
諭吉の名誉のためにいえば、これは時事新報の社説として1885年(明治18年)3月16日付で
書かれた。日露どころか日清戦争の10年も前の、日本がまだひよこの時代の話である。諭吉は
当時、朝鮮の開化派の留学生を私財を投じて慶応義塾に受け入れていた。その学生たちが結
構悪くて慶応義塾の金庫破りをしたり、持ち逃げしたり問題ばかり起こしていると「福翁自伝」な
どでぶつぶつ書いている。
脱亜論は、そういう体験を踏まえ、時間のかかる「隣国の開明」を待つより、ともかく日本がまず
しっかりしなくては、それこそファン・ボイチャウ(潘佩珠)のいう「欧鯨米虎の蹂躙」の境遇に日本
もなってしまうという意図で語られたものだった。
《欧米と共に》 しかし日露戦争を経て、日本は確かに欧米とかわらない植民地帝国主義的行
動をとるようになっていく。「西洋の文明国と進退をともにして」対支21カ条を突き付けたのはベ
トナムにあれほど同情した大隈重信であり、犬養毅もまた植民地帝国主義を鮮明にしていった
張本人である。
そういう時期、「いやアジア人同士が今こそ団結しなければ」と潘は日本の進路に疑問をぶつけ
る「聯亜趨言(れんあすうげん)」を書いている。潘はクオンデ侯より一足先に日本からシャム(タ
イ)に逃げていた。「聯亜趨言」ではアジア諸国の自立の要は「(正統派の)中国と、近代化した日
本」がリーダーシップをとることだと訴える。
このアイデアは19世紀前半、松前藩から釈放されたゴローブニンがロシア皇帝に報告した内容
にも符合する。ゴローブニンは松前藩に捕らわれていたさい、知識階級からは程遠い感じの、し
りっぱしょりした牢番にコペルニクスの話を聞かされ、小さい星の上で争う愚を諭された体験を
語り、「日本と中国が力を合わせれば50年、100年のうちにロシアの脅威となる」と警告した。
335 :
高山正之:02/03/16 12:58 ID:Qnzx3WdL
日中が手をにぎれば、の予測は「黄色人種中の小さな巨人日本が眠れる隣人(中国)を揺り起こ
してヘゲモニーを掌握する日がこないとだれが言い切れるか」(ムソリーニ)とか、日中戦争につ
いてのチャーチルの「日中間で全面的な名誉ある講和を急いで実現させることはない。我々の
利益にはならないからだ」といった発言、さらにもっと端的な上海英国総領事サー・ジョン・ブレ
ナンの「(日中がひとつになることは)我々の国際的地位に対して極めて重大な打撃となる」という
言葉が示すように、世界に君臨する白人国家にとってこの20世紀を通しての現実に見える脅威
であり続けた。
しかし、日本も中国もそれに気付かなかった。そして泥沼の日中15年戦争に入っていくことにな
るわけだが、そのはるか前に潘がこの「欧米の悪夢」を見透かし、提言していたことは、彼の国
際的視野の確かさを裏付けてもいる。
孫文の辛亥革命が成功すると、潘は「聯亜趨言」を引っ提げて孫文の故郷であり、根拠地でもあ
る広東に行った。ここには日本を追われたベトナム人留学生や、フランス植民地政府の弾圧で
閉鎖された東京義塾の学生らが国境を越えて集まっていた。
《テロや暗殺》 潘は彼らを糾合して「越南光復会」を発足させる。会の宗旨は「仏賊を駆逐し越
南を回復して共和国たる越南民国を成立させる」事をうたい、明らかに孫文の国民党にならった
ものだった。
潘はここを根拠地にベトナム本国でのフランス要人の暗殺などを次々に展開していく。ハノイ兵
営毒殺事件から沈黙の5年間が過ぎた1913年3月、サイゴン(ホーチミン)の植民地政府庁舎
爆破テロで口火が切られ、4月にはビン市で政府役人が暗殺された。その2週間後、今度はハノ
イのホテルに爆弾が投げ込まれてフランス人2人が殺されている。この事件では250余人が逮
捕され、9人に死刑判決が下され、7人がギロチンで首を落とされた。残る2人は亡命中の潘と
クオンデ侯で、逮捕されれば、ただちに死刑が執行されることがこれで決まった。
その後も仏総督アルベール・サロー、二代後のメルラン総督をねらった爆弾テロが続き、仏軍基
地や政治犯を収容した監獄の襲撃が越南光復会のメンバーの手で次々行われたが、潘指揮に
よる抗仏活動は1925年にピリオドが打たれる。潘はその年、上海でフランス秘密警察に逮捕さ
れ、ハノイに護送された。
彼はすでに2回の死刑判決を受けていたが、フランスは死刑の執行をためらった。もし刑が執行
されれば全国的な規模の反政府デモが展開されるのは目に見えていた。総督は判決を書き直
し、終身禁固としたうえで、フエの王城が望めるソンフォン(香川)のほとりの家に軟禁を命じた。
潘の政治生命はここで終わるが、その残り火は今しばらく燃え続けた。彼のもとに何人かの学
生がこっそりと通い、その中にはやがてホーチミンの右腕となるボー・グエンザップも交じってい
たのである。この夏、ホーチミン市で会見したおり、老将軍は「日本のことも話してくれた。ベトナ
ムがどうすればいいかも。話を聞いているとじっとしていられなくなった」と当時を回想して語って
くれた。
潘は1940年、日本軍の北部仏印進駐の報を聞きながらこの家で死去する。最期の言葉はベト
ナム人が語ることを法律で禁止されていた正式の国名「ベトナム」だったという。
336 :
高山正之:02/03/16 12:59 ID:Qnzx3WdL
■ 豆事典
▽日韓併合 1910年(明治43年)の「日韓併合に関する条約」調印により、大韓帝国(当時の国
号)が朝鮮と改称され、日本領となった。これにより、1392年から続いた朝鮮・李朝は滅亡し、
1945年(昭和20年)まで日本の植民地支配が続いた。
▽対支21カ条要求 1915年(大正4年)、大隈重信内閣が中国の袁世凱(えんせいがい=1859−
1916年)政権に突き付けた日本の利益拡大要求。第1次大戦で、列強の関心がヨーロパに集中
しているすきに乗じて中国への進出をはかり、山東省のドイツ権益の譲渡、南満州鉄道権益期
限の99カ年延長などを求め、一部修正して承認させた。
▽ゴローブニン(1776−1831年) ロシアの海軍士官。1811年、軍艦ディアナ号の艦長として南千
島海域を測量中、国後島で部下とともに捕らえられ、函館で2年間抑留された。この間、間宮林
蔵らにロシア語やロシアの国情を教え、帰国後は抑留生活の詳細な記録と鋭い日本観察から
成る「日本幽囚記」を著した。この本は各国語に翻訳され、ヨーロッパの対日認識形成に影響を
与えた。
▽辛亥(しんがい)革命 1911年(明治44年)に起き、清朝を打倒して中華民国を樹立した中国の
革命。同年10月の武昌ほう起に始まり、12年1月には孫文(1866−1925年)を臨時大総統とする
南京臨時政府が成立した。しかし、革命勢力は軍事的に弱体だったため、清朝で首相に起用さ
れていた軍閥の袁世凱と談判、宣統帝(溥儀=ふぎ、1906−67年)の退位を条件に孫文は同年3
月、大総統位を袁に譲った。
▽ボー・グエンザップ(1912年− ) ベトナムの元副首相、大将。1930年のインドシナ共産党(現
ベトナム共産党)結成とともに入党。共産党非合法化により中国に亡命し、帰国後、抗日ゲリラ
隊を組織した。北ベトナムで人民解放軍最高司令官を務め、統一後、国防相、副首相、党政治
局員などを歴任した。
337 :
高山正之:02/03/16 13:26 ID:M3fgmUUx
■ 20世紀特派員 植民地の日々−09
若きホーチミン−欧米渡航で人種問題に目覚める
17歳でギロチンにかけられた少年ヒュイとその処刑前夜に“インタビュー”した模様をジャーナリ
ストのアンドレイ・ビオリスが「インドシナSOS」で紹介している。
ヒュイの罪状はフランス人刑事殺害だった。場所はサイゴン(ホーチミン)の街頭、雑踏の中で数
人の若者たちがビラを配り、植民地政府の過酷な税制を非難する演説を始めた。仏領インドシ
ナでは夜道をランプを持たずに歩くことは犯罪とされていた。3人以上の集会も禁じられ、政府を
批判、中傷することも重大な罪とされていた。
だから、この街頭の出来事は犯罪であり、目撃したルグラン刑事は若者の群れに入って片っ端
から殴り倒していった。若者たちともみ合いになったとき、銃声がし、ルグラン刑事が倒れた。弾
かれたように群衆が割れ、若者たちが逃げ散ったあとに気を失ったヒュイが倒れていた、という
のが1931年に起きた事件のあらましだ。
《人権がない》 犯人がヒュイかどうか目撃した者もいなかった。状況からむしろ彼は無関係と
思われたが、白人殺しは重大な犯罪だった。ヒュイは逮捕され、尋問という名の拷問を受けた。
ビオリスはその拷問について「逆エビ状態に手足を縛り、その足の裏をこん棒で殴る」「縛られた
後ろ手を頭の上まで水平になるまで引っ張る拷問ではほとんどの容疑者が失神した」「通電した
鞭で打つ近代的手法も有効だった」と記録する。しかし、ヒュイは「自分で舌をかみ切り、自白が
できないようにして拷問に耐えた」という。
植民地の人々には人権はなかったが、ただ、フランスは年齢について寛容だった。16歳で成人
の権利が与えられ、だから人頭税も課せられ、同時に死刑も適用された。「ヒュイはギロチン台
に寝かされたとき、不自由な口で『ベトナム』と叫んだ。しかし、すぐ50キロの鉄の刃が彼を沈黙
させた」
このヒュイについてビオリスは簡単に「広東のボロディン学校の学生」と触れている。ボロディン
学校とは、孫文が国共合作の象徴として1924年に広東に設立した「黄埔軍官学校」の事であ
り、校長に蒋介石、副校長には周恩来が就き、コミンテルンからミハエル・ボロディンが顧問の
形で派遣された。
ボロディンには通訳として東洋系のやせた男が随行していた。阮愛国、あるいはブォンと名乗る
男は軍官学校の中にベトナム青年を集め、独立抗争の活動拠点となる特別クラスを作った。
この通訳こそ、潘佩珠に代わってベトナムの独立抗争の後半部分を仕切ることになるホーチミン
その人であり、ボロディン学校は彼が欧州、ソ連を経て革命家としてアジアに戻ってきた最初の
舞台でもあった。潘はこのとき60歳、広東を根拠地に越南光復会を作り、独立活動を続けてい
たが、広東にきたホーチミンは34歳である。世代も手段も違った2人の革命家はこの地で対面
し、政治路線について話し合うが、実はこれが初対面ではなかった。
338 :
高山正之:02/03/16 13:27 ID:M3fgmUUx
ホーの父と潘は同じ郷土、ゲアン県の出身の親友だったといわれており、潘が日本に遊学(東遊
運動)に出かける際、15歳だったホーを日本に誘っている。しかし、ホーは断った。この辺のとこ
ろをベトナム外文書院のホー伝記などは「虎をやっつけるために狼に噛まれにゆくのか」と、帝
国主義日本を見透かしたかのような台詞を伝えているが、日露戦争の決着もつかないうちにそ
こまで見通していたというのは少々、作り過ぎだろう。そしてホーはフランス汽船「ラトゥシュ・トレ
ビーユ」号の釜炊きになって欧州に向かう。
問題はその旅立ちの日付で、1906年から12年まで諸説ある。ホーチミンの1番弟子といわれ
るファン・バンドン元首相は「日本行きを拒否したホーはユエの王立クォクホク高校に学び、それ
からパリに行った」と12年説を示唆し、バーナード・フォールなどホー研究家も12年説を取る。
《挫折と転向》
ところが1983年、あのセザンヌが好んで描いたサントビクトール山のふもと、エクサン・プロバ
ンスで、とんでもない史料がみつかった。イギリスのICS(インド高等文官制度)を見習ってフラン
スが創設したエコール・コロニアル(植民地官吏大学院)に阮愛国が提出した入学願書で、日付
は1911年9月15日となっていた。受験の理由として滑らかなフランス語で「フランスの統治に
ベトナム人である私にできることが多いと信ずる」といったようなことが書かれている。
フランスにあこがれ、迎合する軽薄なイメージは今日語られるホー伝説にはどうにもなじまない
が、それはともかく、この発見で12年渡航説は消え、フランス語のできからもっと早い時期の渡
航が有力になっている。
そして阮は試験に落ち、反仏反植民地主義に転向、やがて偉大な革命家に生まれ変わるのだ
が、その時期については「第一次大戦中、フランスを離れて貨物船の水夫や給仕をしながらアフ
リカ、アメリカ、そしてイギリスを渡り歩いている間」だったという説が強い。
実際、イギリスでは菓子職人をしながらアイルランドの独立運動に積極的に参加した記録があ
り、ニューヨークでは黒人差別の実態に触れて人種問題に目覚めていったことが1995年、カリ
フォルニア大のJ・リプシッツ教授の研究で明らかにされている。これはFBI(米連邦捜査局)の解
禁史料から見つかったもので、ホーは当時、ブルックリンに住み、「黒人と日本人の連合が白人
種と戦う世界大戦」を予言する黒人民権運動家、マーカス・ガービーのもとに通っていた。
「彼らは黒人を森に連れ込み木に縛り付けてガソリンをかける。赤い炎の葬式が始まる前に黒
人の歯が一本ずつへし折られ、目がくりぬかれ、焼けただれた鉄棒で舌が焼かれた。これが彼
らの言う文明なのか」コミンテルンの「国際通信」にホーが寄稿した一文である。「阮愛国はこの
時期に目覚めた」というリプシッツ教授の言葉の方がホー伝説よりも信頼が置けそうだ。
ちなみに宗主国の植民地官僚試験に落ちて180度転向した例はいくつかある。1920年、最難
関のICSをほぼトップで合格しながら、最後の乗馬試験で落ちたチャンドラ・ボースもその1人で
あるが、彼は第二次大戦末期、40万人の日本兵とともにインドに攻め入るインパール作戦を演
出した。
339 :
高山正之:02/03/16 13:28 ID:M3fgmUUx
■豆事典
▽コミンテルン 1919年(大正8年)、レーニンらの指導の下、モスクワに創設された国際共産主
義運動の指導組織。共産主義インターナショナルの略称で、第3インターナショナルとも呼ばれ
る。マルクス・レーニン主義を思想的基礎にした中央集権の組織原則をとり、各国共産党はその
支部となった。1943年(昭和18年)に解散。
▽ミハエル・ボロディン(1884−1951年) ソ連の政治家、コミンテルンの活動家。早くから地下活
動を続け、米国に亡命し、ロシア政治犯の救援活動にあたった。コミンテルン創設後、トルコ、メ
キシコ、スペイン、イギリスを転々とした後、1923年(大正12年)に孫文に招かれて広東省広州で
中国国民党の政治顧問となり、中国共産党との第一次国共合作(1924−27年)に動いた。蒋介石
の反ソ政策により国共分裂後、ソ連に帰国したが、反ユダヤ政策の犠牲となり獄中で死亡した。
▽マーカス・ガービー(1887−1940年) ジャマイカ生まれの黒人運動指導者。1916年に渡米。ニ
ューヨークのハーレムを中心に大規模な黒人大衆運動を展開して白人社会への同化を拒否し、
黒人の自立を呼びかけた。20年代に黒人のアフリカへの帰還運動を行ったが挫折、27年に米国
を追放処分になり、ロンドンで客死した。
▽チャンドラ・ボース(1897−1945年) インド独立運動の指導者。英国ケンブリッジ大学を卒業
し、帰国後、対英非協力運動に参加して4回投獄された。カルカッタ市長、ガンジーの国民会議
派議長などを務めたが、急進的主張のために1939年(昭和14年)、同派を脱退。41年にドイツ、43
年に日本を訪れ、インド独立の立場から、対英戦を遂行する日独を支持した。終戦直後、台湾で
飛行機事故により死亡。
▽インパール作戦 第2次大戦中の1944年(昭和19年)、日本軍がインド北東部のインパールへ
進攻し、英国・インド連合軍に敗退した作戦。ビルマ防衛線の前進が目的だったが、補給路と制
空権がなく惨敗、撤退途中でも数万人の犠牲者を出した。
340 :
高山正之:02/03/16 14:18 ID:I5PsyLSi
■ 20世紀特派員 植民地の日々−10
革命世代の交代−英雄は2人もいらない
仏文学者の小松清はパリ時代のホーチミン(阮愛国)と親交のあった恐らくただ1人の日本人だ
ろう。彼はその出会いを「ヴェトナムの血」に書いている。1921年10月、アメリカの法廷がイタ
リアの無政府主義者に死刑判決を下した、いわゆるサッコ、バンゼッティ事件を糾弾する集会が
パリ・テルヌ広場の近くで開かれ、小松はそこで「痩身長躯、蒼ぐろい顔、奥まった眼窩の底から
鋭い視線を放つ」東洋人に会う。「アンナミット(安南人)の阮愛国」と彼は名乗った。仏共産党機
関紙「リュマニテ」に論文を執筆中という彼は流ちょうなフランス語をこなし、目下語学研修中の
小松とは「もっぱら英語で話した」という。
小松はモンマルトルの奥、アンパス・コンポアン通り九番地の七階屋根裏にある阮のアパートも
訪ねている。「電灯もなく、アルコールランプが灯火と煮炊きを兼ねていた」。仏共産党員の友人
も「寒い冬には家主のおばさんに頼んでストーブに煉瓦を入れさせてもらい、夜、それを毛布に
くるんでアンカ代わりにしていた」とその貧しさを書く。阮はアパートの一階の写真屋に勤めてわ
ずかな生活費を得ていた。「写真の修正はグエンの店で。すてきな額縁付きで四十五フラン」と
いう新聞広告が残っている。
《立ち尽くす》 阮が先鋭的な共産党活動家だったことは、彼が主宰した「ル・パリア」誌の論文
でも明らかだが、それでもなお、ベトナム学の権威であるプリンストン大学のJ・マカリスター教授
が言うように「彼は共産主義者というよりは、愛国者、民族主義者だった」という評価が目につく
し、第二次大戦末期にホーチミンに協力したOSS(米戦略局)の報告にもそうした記述がある。
事実、1920年、ツールで開かれた社会党大会で、阮は「牢獄を増やし、拷問と毒殺(アヘンとア
ルコールを指す)で自国の利益だけ追求している」とフランスの植民地支配を糾弾し、「ベトナム
を救って欲しい」という哀願の言葉で演説を結んでいる。しかしフランス共産党は同じヨーロッパ
人のサッコには燃えても、非白人世界の問題には全く無関心でしかなかった。
その前年には、有名なベルサイユの立ちん坊騒動もあった。第一次大戦後の戦後体制について
の会議に臨んだ米大統領ウィルソンに対し、阮が直訴状を届けようとしてベルサイユ宮殿の前
で数日間、立ち尽くしたことをいう。
例の14カ条にいれた「民族自決」の言葉が祖国を奪われた阮には福音のように聞こえたからだ
が、ウィルソンもまた、非白人世界には冷淡だった。彼の提案した国際連盟が欧米の植民地支
配を公認し、日本の提案した「人種平等」案を葬り去ったことを阮は裏切りととらえ、小松にもそ
の怒りを語っている。
阮は小松との出会いから2年後、突然の別れを告げてモスクワに行くが、これも多くの共産主義
者の“メッカ巡礼”とは違い、レーニンの第三インター(コミンテルン)に最後の望みを託したから
である。
341 :
高山正之:
レーニンはこの中で初めて植民地解放と後進諸民族の自決をうたいあげ、これが仏共産党に挫
折し、ウィルソンに絶望した阮愛国にとって新しい福音となった。まずベトナムの独立があり、そ
れに力を貸してくれそうな勢力なら何でもすがっていこうという、それからの阮の行動パターンの
原型になるものだ。
彼が広東の黄埔軍官学校に現れ、ボロディンの通訳になるのは仏共産党のコミンテルン代表と
してモスクワに行き、そして東方勤労者共産大学(クートベ)で共産党戦略を学んだあとの1924
年暮れになる。
このころの阮愛国について、ホーチミン市(サイゴン)でこの夏、インタビューに応じたボー・グエン
ザップは「彼の出した『ル・パリア』誌や『ベトナム人の魂』はハノイ大学の学生の間で読み回さ
れた。フランスの秘密警察がどこでも目を光らせていたので、彼らに見つからないように大変な
苦労をした。教室の黒板の裏がよく隠し場所に選ばれた」「その先導者が国境のすぐ向こうの広
東に現れたという知らせはみんなを興奮させた」と語っている。
ボロディン学校には噂を聞き付けた学生たちがつめかけ、この中にはファン・バンドンや17歳で
ギロチンにかけられたヒュイ少年もいた。しかし、阮が全く共産党的でなかったかというと、そう
でもない。プリンストン大学のジョン・マカリスター教授は「ホーチミンが最初にした共産党員とし
ての任務はまず潘佩珠(ファン・ボイチャウ)をフランス官憲に売り渡すことだった」と「革命の原
点」の中で書いている。潘はこの時期、広東に作った越南光復会を擁して抵抗運動の指揮を続
け、フランスも十万ピアストルを超える賞金をその首にかけてこの抵抗の英雄を追っていた。
《架空の手紙》 1925年7月、杭州の潘の隠れ家に1通の手紙が届いた。ベトナムの革命を遂
行する国際連帯会議が上海で開かれる、という文面だった。潘は杭州の隠れ家から上海に向か
い、汽車が上海北駅に入ったところで突然、数人のフランス人密偵に取り囲まれた。「まるで動
物を扱うように引きずり出され、上海のフランス租界の警察署に運ばれ、留置された。私がもし
独立国の国民だったらこのようなひどい仕打ちは受けなかっただろう」(潘佩珠「獄中記」)
連帯会議などもちろん架空の話だった。手紙の発信人は阮愛国の側近の1人であり「ホーチミン
は潘の首にかかっていた15万ピアストルの賞金をえて」(マカリスター)、党の活動資金とした。
英雄は2人もいらない、ということだろうか。しかし、その阮愛国もやがて国民党とソ連の仲たが
いで居場所を失い、1931年6月6日、香港で英国官憲に逮捕、投獄される。それから間もなく
フランス共産党機関紙「リュマニテ」は阮が「香港の監獄で肺結核のため獄死した」と報じ、少し
遅れてソ連の「プラウダ」、イギリスの「デリー・ワーカー」もこの訃報(ふほう)を載せた。モスクワ
のクートベではささやかな葬儀も営まれた。
ベトナム政府のホー伝記では「イギリス人弁護士ロズビーが仮釈放させ、厦門(アモイ)に密出国
させた」とある。この死亡記事は後々、阮愛国・ホーチミン別人説の根拠のひとつになるが、それ
は後に触れる。