ゾロの名門!!沢井製薬バンザ〜イ! パート5

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1ポセビン
こんばんは
2Yoshiura@無能につき馘:01/12/20 22:39 ID:TjmiNFqC

■冷戦が始まった!(1) 【裏切りのヤルタ】

土地奪い、民族を引き裂いた悲劇

《脅迫と弾圧》 冷戦と呼ばれた時代に自らを投影して、できるだけ過去に網を投げてみ
ると、どの時点に達するだろうか。私自身のわずかな原体験からは、二十七年前のある冬
の情景だけがなぜか鮮明に浮かんでくる。 それは一九七〇年十二月十九日の「ソ連戦車
隊、ポーランド国境近くに集結」との衝撃的なニュース報道だった。当時、大学三年の私
はこのニュースに耳をそばだてながら中央線の市ケ谷駅に降り立っていた。

 その夜は学生たちの小さな集まりがあって、柄にもなくカール・ポパー(注1)の『歴史
主義の貧困』という難解な本に取り組んでいた。社会思想研究を気取る学生の読書会に本
物の法哲学者、碧海純一(注2)がくると聞いて、苦吟しながら読んだことを覚えている。

 このころの日本ではノンセクト・ラジカルのにわか左翼がばっこして、ポパーのマルク
ス主義批判を読むなんて一言でいえばはやらない、少数派の忌むべき存在であった。熱病
は全国の大学に広がり、反論は角材で封じられた時代である。 ポパーが痛烈に批判する
歴史主義というのは、社会の進化には必然的な「歴史法則」があって、マルクス主義だけ
が歴史の流れに適合しているとの考え方を指している。しかしポパーは「思想の自由な競
争」がない社会では、経験的事実すら否定され、多くの悲劇を生み出すことになると繰り
返し警告していた。

 あの冬の夜、ポパーの「理論」とポーランドの過酷な「現実」が急に接近し、ついに火
花を散らして交差したように思えた。この時、ポーランドを覆っていたのは、ソ連の容赦
のない支配力であり、仮借ない脅迫や弾圧であった。 その夜の学生たちは、マルクス主
義の「歴史法則」が角材の暴力や国家の軍事力を正当化する単なる道具に使われている現
状を憂え、ポパーのいう「峻厳な法則を信じたファシストやコミュニストの犠牲者」に思
いをはせた。

《流れはソ連》 さて、人それぞれが記憶する冷戦という過酷な歴史の起点を、どこに求
めるべきなのだろうか。ここではソ連による東欧支配を結果として容認した一九四五年二
月の「ヤルタ会談」から始めたいと思う。

 舞台は黒海に突き出たソ連領クリミア半島の南端の保養地ヤルタに移る。チェーホフら
多くの文学者に愛されてきたヤルタが、戦後世界を決定する指導者たちに外交上の駆け引
きの場を提供することになった。 フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャー
チル、ヨシフ・スターリンの米英ソ三カ国の指導者が、ロマノフ王朝(注3)のリバディア
宮に集まり、ひそかに戦後世界の運命を決めていた。三巨頭はここで、欧州を東西に分断
し、それぞれの勢力圏を分け合っていたのである。 ここに掲載する写真は会談がスター
トして五日目の四五年二月九日に撮影された有名な記念写真である。勢ぞろいした主役た
ちの中で右端のスターリンがひときわ脂ぎっていることが分かる。写真中央には、なお威
厳に満ちてはいても、ほおがそげ落ち、健康の悪化が明らかに分かるルーズベルト。その
左手に不機嫌そうなチャーチルがいる。
3Yoshiura@無能につき馘:01/12/20 22:40 ID:TjmiNFqC

 会談では妥協点が見えなかったポーランド問題の協議に日程の半分以上が費やされ、そ
の流れがどちらに傾いていたかは、この写真が明白に物語っていた。 ヤルタ会談の唯一
の証言者は、ことし九十一歳になるロンドン在住のフランク・ロバーツ卿(注4)である。
後に駐ソ大使になるロバーツはこの時、補佐官としてチャーチル首相に同行していた。

 会談を通じてルーズベルトが、なぜスターリンに親近感を持ち、東欧をこの独裁者に与
えてしまう過ちを犯したのか。この問いにロバーツは人を介して次のような見解を寄せて
きた。 「スターリンは独裁者のようには見えなかった。小柄でソフトな語り口だし、ヒ
トラーのようなすごみはなかった」「チャーチルはルーズベルトよりずっと現実主義的だ
った。しかし最大の過ちはスターリンをいずれ同じクラブに勧誘できると考えたことだ」

 会談そのものが、実はソ連に有利なタイミングで始まっていた。ヤルタ会談が始まった
のは、チャーチルがスターリンにソ連軍の東部戦線でのドイツ攻撃を要請した一カ月後で
あった。一方で米軍は太平洋戦線での日本との決戦を控えており、ルーズベルトはソ連に
よる北からの対日参戦を熱望していた。 ポーランドの扱いでスターリンは、東半分を削
り取る代わりに、ドイツの東側の領土をポーランドに与えるとの勝手な名目を手に入れた。
その結果、ポーランドは国全体が西に移動させられたのだ。

《真実に失望》 米上院議員のバーバラ・ミカルスキによれば、ポーランド系米国人にと
って、美しいヤルタの町は許し難い「裏切りの地」でしかなかった。ヤルタの合意は「住
み慣れた土地を奪われ、民族が引き裂かれる悲劇」を生んだからだ。

 ミカルスキに会ったのは、ヤルタ会談から五十年以上も過ぎた九七年の夏、街路樹が美
しいマドリードだった。 北大西洋条約機構(NATO)の首脳会議(注5)で、チェコ、ハ
ンガリーと並んでポーランドの加盟が新たに認められ、ミカルスキは明らかに興奮気味だ
った。顔は紅潮し、ギュッと握られた手が汗ばんでいた。ヤルタ会談の取引で、勝手に共
産圏に組み込まれた祖先の国が、いま自らの意思でNATOに入ることを許されたのであ
る。 一家は二十世紀はじめにポーランドを逃れて米国にやってきた。この国では反乱と
抑圧が周期的に繰り返され、東からロシア軍、西からはプロイセンに蹂躪されてきた。二
十世紀に入っても、大国に挟まれた小国の悲劇は変わらない。

 ミカルスキは「曾祖母は大国主義の鎖から逃れ、希望と機会を求めて米国にやってきた」
と述べた。一家は東海岸メリーランド州の港町ボルティモアに落ち着き、細々とベーカリ
ー店を始めた。曾祖母は、敬けんなカトリック教徒らしく自宅の暖炉の上にローマ法王の
絵を掛け、東欧からの移民に寛容な民主党リベラルの旗手、ルーズベルト大統領の肖像画
を掲げていた。

 しかし、ヤルタ会談の衝撃をのちに知り、ルーズベルトへの尊敬と憧憬を失望と憤怒に
変えた。ルーズベルトが祖国ポーランドを東側に見捨てたことから、涙の中で肖像画を引
き裂き「裏切り」をののしったのである。
4Yoshiura@無能につき馘:01/12/20 22:41 ID:TjmiNFqC
冷戦が始まった(2) 【祖国喪失】 スターリンに譲歩重ねたルーズベルト

《カチンの森》 バーバラ・ミカルスキはポーランド移民三代目にして、ポーランド系米
国人の女性として初の上院議員になった。大西洋を渡った曾祖母や祖母が夢に描いた「希
望と機会」がかなえられたのである。 ミカルスキの外交公約はポーランドの北大西洋条
約機構(NATO)への加盟促進であった。かつてフランス大統領のミッテラン(注1)が「西
欧の愛国者の思いはただ一つ、ヤルタ体制の打破である」と語ったのと同じ思いであった。

 ミカルスキは、NATO拡大が浮上してきたときのことを「一部の米国人が、ポーラン
ドを入れるとロシアを怒らせることになると心配顔だった」と不機嫌に語った。そのたび
に彼女は「ソ連はカチンの森(注2)でポーランド人を大虐殺し、ワルシャワを見殺し、そ
してヤルタで東欧のすべてを奪い取ったのです」と激しく反撃した。

 いまポーランド移民が多い米メリーランド州ボルティモアで「カチン虐殺の像」をつく
る準備が進んでいる。カチン追悼碑委員会の事務局に電話すると、委員長のアルフレッド
・ウィスニウスキ(七五)と委員のミラン・コムスキ(七三)が日を置かずして産経新聞ワシントン
支局にわざわざ足を運んでくれた。

 コムスキはポーランド東部のリボフ市で生まれたが、ソ連首相ヨシフ・スターリンがヤ
ルタ会談で米英からこの地の割譲をとりつけたことから、戦後、帰るべき故郷を喪失して
米国に渡ってきたという。

 ドイツ軍が一九三九年九月一日にポーランドに侵略し、次いでソ連軍が十七日に今度は
東側から侵入したため、ポーランド軍は挟み撃ちにあって散りじりになった。 コムスキ
の住んでいた東部リボフ市を中心とするソ連占領地では、一九四〇年春以来、ポーランド
将校の捕虜約一万五千人がソ連軍に連行され、そのまま行方不明になっていた。彼らがカ
チンの森でソ連軍に虐殺されたことが分かったのは後のことである。

 将軍の息子であるコムスキは、仲間とルーマニアからトルコに抜けて中東地域で再編さ
れたポーランド軍に参加した。彼らはイタリアのモンテ・カシーノの激戦で奮闘したが、
ポーランド軍はここで壊滅状態になる。

《骨抜き計画》 話が激戦の地に及ぶと突然、目の前にいるウィスニウスキの目から、大
粒の涙がこぼれた。「つい感傷的になって」と目頭をおさえるウィスニウスキは、この奮
戦ぶりをうたった「モンテ・カシーノのけしの花」が、国民的な愛唱歌になったと語る。
一方、コムスキはからくも、わずかな将兵とアドリア海にそって逃れた。 この間の一九
四三年、ドイツ軍がカチンの森で、ポーランド人の死体が埋められた虐殺場所の一部を発
見したのだ。

 ナチスは、これらの死体がソ連軍に虐殺されたポーランド軍将校らのものだと主張した。
しかしモスクワは、これをゲシュタポ(注3)の手による宣伝であると反撃した。やがてポ
ーランドの捕虜約一万五千人がソ連軍の占領地域で大量虐殺にあった証拠が浮かんできた。
5Yoshiura@無能につき馘:01/12/20 22:43 ID:TjmiNFqC

 ロンドンのポーランド亡命政権が、国際赤十字による調査を要求したところ、これに怒
ったスターリンが亡命政権との関係を断絶してしまった。さらに、モスクワにポーランド
民族解放委員会を設立してソ連の管理下においた。 スターリンが戦中、戦後を通じてと
った政策は、仮借ない「ポーランド弱体化」であった。ソ連の影響力を東欧に拡大するた
めに、ナチス・ドイツに対する自国の勝利を利用した。このため、西への回廊にあたるポ
ーランドを骨抜きにしようとしたのである。

 転戦に疲れたコムスキはやがて「連合軍の勝利」を聞いたものの、帰るべき祖国がなく
なっていたことに気付く。米大統領フランクリン・ルーズベルトと英首相ウィンストン・
チャーチルが、ヤルタ会談で生まれ故郷を含む国土の東半分をソ連に引き渡すことに同意
してしまったからだ。 「故郷を喪失することほど、むごい仕打ちはなかった。ポーラン
ドは国全体が西に移動させられ、故郷リボフもいまではウクライナ領になっていて二度と
戻ってこない」 コムスキの軍はいったん亡命政権のあるロンドンに移り、大半の人々が
その後、米国とカナダに移民した。故郷をなくした彼らは、新しい移民の国を選ばざるを
得なかったのである。

 それにもかかわらず、ルーズベルトは戦後の欧州を決定づけるヤルタ会談で、チャーチ
ルに比べ、スターリンに譲歩を重ねた。それはなぜなのか。コムスキらポーランド移民に
は無念でならなかった。

《善意に期待》 チャーチルは「ドイツはすでに片付いた。混乱がおさまるには時間がか
かるだろうが、いま問題なのはソ連だ。そのことが米国人にはどうしても分かってもらえ
ない」と慨嘆していた。彼はテヘラン会談(注4)、ヤルタ会談を通じてソ連がナチス・ド
イツに代わって欧州を思うままにすることを警戒していた。 ルーズベルトの方は「英国
の植民地政策に手は貸さない」とむしろチャーチルを警戒し、スターリンの善意に期待を
寄せたのだ。

 長年の友人である労働長官フランシス・パーキンズ(注5)の著書『私の知るルーズベル
ト』によると、その前のテヘラン会談で大統領がチャーチルに距離を置くことを心がけて
いたことを次のように語ったという。 「ウィンストン(チャーチル)は赤くなり、睨み付
けた。そして彼がそうすればするほど、スターリンは微笑んだ」「私がスターリンをアン
クル・ジョーと呼んだのもその時だ。その日、彼は笑い、味方になり、私の手を握った」

 しかしスターリンの素顔は、ルーズベルトが「アンクル・ジョー」と呼ぶほど善人では
なかった。元国務長官ヘンリー・キッシンジャー(注6)は著書『外交』で「スターリンは
ヒトラーとの条約でナチスと世界を分割する交渉をしてきた老かいな現実主義者であり、
粛清裁判やカチンの虐殺を組織した冷酷な偏執症の持ち主である」と断じた。

 米国務省スタッフだった元ジュネーブ大学の教授ルイス・ハレーは、英仏両国が一九三
九年にドイツに宣戦布告したのも、戦後、同様に西側が冷戦に突入したのも、ポーランド
を救済しようとしたことから始まったと指摘している。
6卵の名無しさん:01/12/20 23:05 ID:jLQbh/yv
給料も安いし、製品は猿真似ばかりだし、ときたま製品がイ●チキだったり
する惨めな日常の上にこの荒らしかい。。
7卵の名無しさん:01/12/20 23:20 ID:LsvsPElQ
いま>>6は良いことを言った
8卵の名無しさん:01/12/20 23:59 ID:P+NHLbah
辞めた人の名を使って荒らしか・・
沢井の社風がどんな感じか部外者にもよくわかるだろう。
9卵の名無しさん:01/12/21 00:23 ID:QwzJBVoW
サイプロミン効く〜
10卵の名無しさん:01/12/21 00:32 ID:MaixYDyu
2番手が荒らしとは懲りないねぇ。
パート6は荒らしでスレが立ったりして。
それにしても執拗にスレ、立ててるよね。
どういうつもりだろ?
11Yoshiura@無能につき馘:01/12/21 00:37 ID:2YlkGKQW
冷戦が始まった(3)  【大統領の死】「スターリンとは取引できない」

 米大統領フランクリン・ルーズベルトの死(注1)はヤルタ会談のほぼ二カ月後に訪れ
る。ポーランドはじめ東欧移民から「ヤルタの裏切り」を非難されたルーズベルトは、一
方で、ウッドロー・ウィルソン流の「善意の国際主義者」としての評価も高かった。 「欧
州の戦争にはかかわらない」との米孤立主義(注2)の伝統の中で、米国を第二次大戦参戦
に導いたのは、紛れもなくルーズベルトの指導力だった。ルーズベルトの優雅な立ち居振
る舞いは王者の余裕を感じさせたし、時に狐のような狡智にもたけていた。

 ところが、ルーズベルト外交に関する書物を何冊か読むと、経済改革のニューディール
政策での人気と対照的に、外交ではこれほど評価が分かれる人物も珍しいことが分かる。

 孤立主義がまん延する米国内で、連合国側にせめて武器を提供する武器貸与法を成立さ
せた功労はあったが、親ソ派の側近ハリー・ホプキンズ(注4)を通してソ連にまでその対
象を広げる矛盾を抱えていた。

《認識の甘さ》 いまとなっては、ルーズベルトをよく知る側近はすでに没した。モスク
ワからの「長文電報」やソ連封じ込め論の「X論文」で有名になる元駐ソ大使ジョージ・
ケナンはルーズベルトを知る数少ない一人である。だが、彼もこの二月十六日で九十四歳
になる。 ルーズベルトはソ連に関しては、ケナンやチャールズ・ボーレンなど国務省の
ロシア専門家の見解を信用せず、もっぱらソ連首相のスターリンとの「個人外交」に終始
した。ボーレンが回想記『歴史の目撃者』で「国務省の専門家の文書、覚書、ファイルに
よく目を通すようになったのはトルーマンからであった」と特記するほど、国務省は無視
されてきた。 だが、あまりにスターリンの善意を期待しすぎたルーズベルトは、病弱な
上に明らかに外交行動の自由を自ら制限していた。

 一九四五年二月のヤルタ会談で、ルーズベルトはチャーチルとスターリンに対して「米
軍を二年以上、欧州に駐留させることには議会が反対する」と述べていた。米国内の孤立
主義の回帰に抗しきれない側面は否定できないものの、ソ連に対する認識の甘さから当面
は米軍事力の縮小を優先させたのである。

 手元のデータは、四五年から四七年に至る間に、米国の総兵力が千二百万人から百四十
万人に減少していることを示している。 だがジュネーブ大学の元教授ルイス・ハレーに
よると「英国は国力が疲弊し、真空を埋める実力がなくなっていた。フランスは自分自身
が真空状態だった。残ったのはソ連だけであった。ソ連は戦後になっても武装解除をせず、
戦時体制を解かなかった」という。

 米国にとっての裏切りとなるソ連の動きは、すぐにやってくる。スターリンはヤルタ合
意によってポーランドでの自由選挙を約束したものの、三月の選挙実施のための委員会で
外相モロトフ(注5)は「選挙はソ連式で行われる」と宣言した。ソ連が協定を無視するこ
とがはっきりしてきたのだ。
12Yoshiura@無能につき馘:01/12/21 00:38 ID:2YlkGKQW

 この二日後、駐ソ米大使のアヴェレル・ハリマンから報告を受けたルーズベルトは、車
いすをたたいて悔しがった。 「アヴェレルのいうとおりだ。スターリンとは取引できな
い。ヤルタ合意をすべて破った」 やがて彼は「スターリンは約束を守る人間ではなかっ
た」と言い残して死地に赴く。

《退屈な日常》 神話的な地位に祭り上げられていた大統領の陰で、副大統領ハリー・ト
ルーマンの日常は、退屈なものだったらしい。議会があるときは、上院本会議の議長席に
陣取って議員たちの討議ぶりを傍聴し、終わると下院議長のレイバーン(注7)のオフィス
でひそかにウイスキーを飲みながら、談笑するのが常だった。

 現在のアル・ゴアを含め歴代の副大統領が議会に足を運ぶのは、せいぜい年頭の大統領
による一般教書演説のさいに、議長席でさい配を振う程度しかない。しかも、この時は下
院の議長席に陣取るのが慣習になっている。

 確かに上院議長席は副大統領にあてがわれてはいるが、ここに日参するほどトルーマン
は政策決定から除外されていたといえる。トルーマン回顧録『決定の日々』を読むと、副
大統領としてのトルーマンは、この職務が「異例のつまらないもので、非常に不安定のも
の」とのウィルソン大統領の言葉を引用しながら、自らを納得させていたようなところが
ある。

 さて、一九四五年四月十二日午後のこと。その日もトルーマンは、レイバーンの部屋で
一杯ひっかけてから、仲間とホテルにこもって好きなポーカーで時間をつぶす気でいた。
シークレットサービスをまんまとまいてレイバーンの部屋に行くと、「ホワイトハウスか
ら緊急電話があった」と告げられた。 電話に出た報道官に促されてホワイトハウスに行
くと、大統領夫人のエレノア・ルーズベルトから突然、夫がジョージア州ウォームスプリ
ングスの静養先で死去したことを告げられた。トルーマンがホワイトハウスに到着したの
が午後五時二十五分、「ルーズベルト死去」の報がラジオから流れたのは、その二十二分
後であった。

《棚ぼた就任》 トルーマンは副大統領に就任してから、八十三日間しかたっていなかっ
た。戦後の欧州分割を決めたヤルタ会談や、彼自身が投下を決断することになる原爆製造
計画など重要政策からは、いつも蚊帳の外に置かれていた。 『回顧録』はこの時、トル
ーマンがエレノアに「何かできることがありますか」と語り掛けると、エレノアがまもな
く新大統領に就任するトルーマンに「むしろ、何か私たちにできることがありますか」と
逆に聞かれたと書いている。 ルーズベルト政権の盲腸のような存在の人物が、一夜にし
て世界の指導者に躍り出たのである。

 大統領として宣誓したトルーマンは「私はもはや議事堂の見慣れた環境の中にはいなか
った」と述べ、単なる表決が同数になったときに投票するだけの副大統領の職務から、「私
は大統領になったのである」と棚ぼた就任を「回顧録」に書き付けている。 だが、政権
を支える閣僚たちの間では、戦後処理をめぐってソ連との対立を抱える重要な時期に、「ミ
ズーリの田舎者」トルーマンをよく知らないまま、不安だけが広がっていた。
13卵の名無しさん:01/12/21 19:44 ID:rfPnX2xx
あげてもいい?
14卵の名無しさん:01/12/21 21:09 ID:RXzrbNc8
>>13
難しい問題。
荒らしもネタ切れなのか、元気がなくなってきている感じ。
別に荒らしを奨励したり、励ましているわけではないよ。
念のため。
15鶴原:01/12/22 00:03 ID:dZGJaX7/
アテネミールあげ
16Yoshiura@無能につき馘:01/12/22 02:13 ID:3fQgf9st
冷戦が始まった!(4) 【転換点ポツダム】“戦士・トルーマン”の登場

 ベルリンからポツダムに入るには、かつて東西ドイツのスパイ交換地点だったグリニッ
カー橋を渡らなければならない。寒風の中を橋のたもとに立つと、ジョン・ル・カレが小
説『寒い国から帰ってきたスパイ』で描いた冒頭の情景が二重映しになってくる。 英情
報部員リーマスが、東ドイツ側の検問所を抜けてやってくる部下カルルを西側の監視台付
近で待つシーンだ。カルルは脱出寸前で身分が発覚し、真ん中の境界線付近で東ドイツ哨
兵の銃弾を浴びて倒れた。

《妥協図るも》 ポツダム宣言の舞台となったツェツィーリエンホフ宮殿は東西対立の残
像を引きずるこの橋からほんの数百メートルの距離にある。ドイツ最後の皇太子ウィルヘ
ルムの別荘だった英国風のどっしりとした館で、米大統領トルーマンは「広大な敷地にソ
連側がゼラニウムやバラを赤い星型に敷き詰めていた」と回想録に記している。

 拍子抜けするほど質素で小ぶりな会議場で、案内の女性ガイドがトルーマン、チャーチ
ル、スターリンの米英ソ三首脳が座ったいすを指し示した。さらに窓の向こうを指して「あ
の湖水の対岸は西ベルリンで、数年前までここからは見えませんでした。壁があったので
す」と語り、この地がかつてソ連の影響下にあったことを強調していたのが印象的だった。

 ポツダム会談はトルーマンにとって、大統領に就任して初めての巨頭会談だった。ヤル
タに続いてソ連の管理下にある土地が会談の場に選ばれたのは、単にスターリンが飛行機
嫌いだったからというだけではないはずだ。トルーマンは軍事顧問の進言を入れて、自己
の考えを抑制しながらポーランド問題やドイツの処遇でソ連との妥協を図ろうと務めてい
た。全体主義に強い疑念を抱くトルーマンにとって、自らの信念を百八十度曲げなければ
ならない作業である。

 そこまでする最大の理由は、なお死闘を続ける日本に対し、ソ連を参戦させる必要があ
ったことだ。 しかし、十七日間にわたる交渉で米国は徐々に対ソ観を変えていった。ソ
連は「無情な取引者」であり、「わが方が非常な苦難に向かっているとの結論に立って、
こちらの行き詰まりに乗じて利益を得ようとたくらんでいる」とトルーマンは結論づけて
いる。

 その結果、トルーマンはソ連を対日参戦させたいとの考えを棚上げし、「ポツダムにお
ける苦い経験から私はソ連には日本の占領管理に参加させない決意を固めた」と語ってい
る。もっとも、米国にそれを可能にさせたのは、会談の途中ではるか米ニューメキシコ州
の核実験場からもたらされた原爆実験成功(注4)の知らせだった。

《過激な発言》 新大統領トルーマンの外交指導力はポツダム会談の少し前まで未知数だ
った。急死したルーズベルトが東部のエリートだったのに対し、トルーマンは中西部出身
で中学校しか出ていない。しかも、ルーズベルトが副大統領に望んだジェームズ・バーン
ズが労働組合の拒否にあい、やむなく選択した人物だった。
17Yoshiura@無能につき馘:01/12/22 02:14 ID:3fQgf9st
 しかしトルーマンはソ連をルーズベルトほど甘くは見ていなかった。ヒトラーがソ連に
侵攻したさい、彼はニューヨーク・タイムズ紙に驚くほど過激なコメントを明らかにして
いる。 「仮にドイツがソ連に勝利するようなら米国はソ連を支援すべきだし、逆にロシ
アが勝利しそうならドイツを支援すべきだ。できるだけ互いに殺しあえばいいのだ」

 トルーマンは「どちらも誓約した言葉を守る気などない輩だ」と続けている。さらに日
記には「私は全体主義国家を一切信用してはいない」と書いており、「冷戦の戦士」の登
場を十分に予感させている。 トルーマンは冷戦の始まりの主役であり、半世紀のちに、
冷戦に勝利する米国の封じ込め戦略(注6)の決定者でもあった。その気配は大統領に就任
した当初から垣間見えていた。

《「実行せよ」》 ホワイトハウスの斜め向かいに迎賓館「ブレアハウス」がある。橋本
龍太郎首相や中国の江沢民国家主席も泊まった、こざっぱりした館だ。トルーマンは大統
領就任からわずか十日後の一九四五年四月二十二日と二十三日、このブレアハウスに訪米
中のソ連外相モロトフを呼び出している。

 トルーマンはいらだっていた。ソ連がヤルタ合意で約束したポーランドの民主選挙を実
施せず、かいらい政権をそのまま温存していたからだ。回顧録には「モロトフが本論を避
けるので、米国は友好関係を望むが、あくまで相互に合意を実施する場合にのみ可能であ
って、一方的にはできないと語った」と穏やかに書いている。

 しかし、モロトフが「私の生涯で、こんな言われ方をしたのは初めてです」と不満を述
べたというから、実際にはかなり強い調子だったに違いない。トルーマンの回顧録は「合
意事項を実行したまえ。そうすれば、こんな言われ方をしなくても済むのだ」と突き放し
たと結んでいる。

 興味深いのは、国務省の公式文書「米対外関係」所収のボーレン文書にまったくこのく
だりが触れられていないことである。この段階で国務省はソ連との対決を慎重に避けてい
たと見ることができる。だが、トルーマンの方は「僕は単刀直入に言ったよ。やつをとっ
ちめてやった。あごにストレートのワンツーパンチが決まったみたいだったな」と後に語
っている。 しかし、そのトルーマンでさえ、戦争末期の米国の外交政策を直ちに変える
ことはできなかった。頭痛の種は日本である。

 ポール・ニッツェはじめ当時の国務省当局者から取材するにつけ、やり切れない思いに
とらわれるのはこの点だった。日本攻略にソ連の支援を望み「太平洋に精力をつぎ込まな
ければならないので、東欧の大半とバルカン半島のほとんどが全体主義者の手に落ちてし
まった」との論理である。

 ブラッドレー将軍はベルリンをとるとすれば米軍に十万人の犠牲者が出るとはじき、ア
イゼンハワー将軍は赤軍との軍事協調をご破算にすることにはすべて反対した。 海軍長
官ジェームズ・フォレスタルの日記には、モスクワから帰った駐ソ大使ハリマンが「欧州
の半分、もしかしたら全部が次の冬の終わりには共産主義になっているかもしれない」と
訴えていたことが記されている。
18Yoshiura@無能につき馘:01/12/22 02:18 ID:3fQgf9st
冷戦が始まった!(5) 【第3の男】腐敗の巷にスパイが入り乱れた

 プラター地区の巨大なゴンドラは冬の雨に煙っていた。ウィーンの遅い午後、だれもい
ない遊園地をトボトボ歩くと、日暮れは駆け足でやってくる。 見上げる大観覧車は一八
九七年に英国の技師、ワルター・バセットの手でつくられ、当時としては画期的なものだ
った。しかし、バロック風の建築物と石畳が美しい町並みに、このウィーンの大観覧車は
不釣り合いに思えた。

《暗い過去》 その大観覧車も一度は戦災で破壊され、戦後すぐに復活して陰影の深いサ
スペンスの古典的映画『第三の男』の重要な場面で登場してくる。英国人の映画監督キャ
ロル・リードが、オーソン・ウェルズ演じるハリー・ライムにゴンドラの中で「悪の哲学」
を語らせるシーンで、戦後の荒れたウィーンが生々しく映し出されていた。

 ハリーは水で薄めたペニシリンを闇で売りさばき、ウィーン市内で多くの犠牲者を出し
た張本人だった。米国から訪ねてきた友人の作家、ホリー・マーチンスにとがめられ、眼
下にうごめく人波を指しながらこう語る。 「あの点の一つが動かなくなっても関係ない
さ。一つ動かなくなるごとに二万ドルになれば、君だってあといくつあるか数えるよ。し
かも、税金がかからないからこの上ない」 ペニシリンは戦後の日本で、医師の証明書さ
えあれば米軍が配給をしてくれたいわば魔法のような薬だった。しかしウィーンの戦後に
は、映画と同様の悲劇が現実に存在していた。

 この国は一九三八年、ヒトラーの第三帝国に吸収され、ユダヤ人処刑に積極的に応じる
暗い過去を引きずっていた。後に世界的なヒット映画となる『サウンド・オブ・ミュージック』は
ウィーン併合後、ドイツ海軍に参加することを拒んだゲオルク・フォン・トラップ男爵をモデル
に、一家(注4)がナチスの手を逃れてオーストリアを脱出するまでを描いている。

 やがて首都ウィーンは、連合軍の爆撃とソ連軍による市街戦で多くが破壊され、いまは
復元されているが、ハリーが暗躍したウィーンはオペラハウスが、がれきの山と化し、荘厳
な聖シュテファン大聖堂が焼夷弾で被災していた。

《共同統治》 ベルリンとウィーンという二つ敗戦都市の決定的な違いは、ウィーンが戦
後に分割占領されなかったことだ。ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三巨頭が一
九四三年にモスクワで会談したさい、オーストリアに特別の地位を与えて、ナチス・ドイ
ツへの支援を渋らせるとの合意がすでに生まれていた。 従って戦後も、東西どちらかの
勢力範囲として分割する代わりに四カ国が共同統治し、米英仏ソから一人ずつが乗り込む
「四人編成ジープ」が占領軍のシンボルになった。映画『第三の男』でも、この奇妙なジ
ープがこっけいな姿で描かれている場面をご記憶だろうか。

 しかし、ウィーンは東西対立の深まりとともに冷戦の最前線にほうり出されていく。両
陣営のスパイが入り乱れ、闇商人の天国と化した。『第三の男』の原作者、グレアム・グ
リーン(注7)自身がタイムズ紙記者を経て英国の情報部員であったことを考えると、現実
と映画とがダブってくるのは避けられない。『寒い国から帰ってきたスパイ』の英国人作
家、ジョン・ル・カレがベルン大学卒業後に短期間ながら英国情報部員として従事したの
も、一九五〇年前後のウィーンだった。
19卵の名無しさん:01/12/22 09:23 ID:k03Kzb1C
パート4も逝っちゃったね。
ここもしぶとく荒らされるのだろうか?
20卵の名無しさん:01/12/22 22:18 ID:Ex/fY7Ev
どうせ荒らすなら読んでプッと笑うような話をペーストしてこいよ
全然おもろないぞ、この荒らし
21卵の名無しさん:01/12/22 23:51 ID:oTSZQtVt
おもしろくないのが狙いだろ
22Yoshiura@無能につき馘:01/12/23 02:03 ID:9bUkaLqk
 『第三の男』ではオペラハウスに近いカフェ・モーツァルトやチターで奏でるテーマ曲
が、異様に張りつめた腐敗の巷を描いていた。ハリーを地下水道に追いつめていくのも、
これら占領中の国際警察であり、地下ホールの闇の世界で各国の言葉が交錯していた。

 一九四五年のヤルタ合意では、共同統治は東欧に新政府ができて、外国軍が撤退するま
での暫定的な取り決めのはずだった。だが戦後、一年もしないうちに東西の反目が表面化
し、オーストリアにも陰を落としはじめた。

 ドイツにあるポツダム大学の教授、マンフレート・ゲーテマルカーは「四つの占領国は、
オーストリアを特殊な地位に置いたままだらだらと交渉を続け、駆け引きの中で突破口が
開かれなかった」と語った。変化の兆しが現れたのは、スターリン死後の後継争いの中か
らフルシチョフがようやく地位を固めた一九五五年になってからだった。

《中立確認》 平和条約が結ばれて、ようやく占領に終止符が打たれ、オーストリアは永
世中立国を宣言した。ソ連首相フルシチョフが六〇年にオーストリアを公式訪問してこの
国の中立を確認し、名実ともに東西の中間に位置づけられたのである。

 しかし、フローラ・ルイスの大著「ヨーロッパ」によると、翌六一年にはそのフルシチ
ョフと米大統領ジョン・F・ケネディが中立国の首都ウィーンで会談したものの、かえっ
て両者の緊張を生むことになる。

 東西の対決ムードが高まり、おびえた東ベルリン市民が難民となって西ベルリンに洪水
のようになだれ込んだ。その結果が一九六一年八月のベルリンの壁の構築につながり、ル
イスは「オーストリアはこの新しいもめごとに何とか巻き込まれずにすんだ。この国は中
立のありがたさを思い知った」と書く。その筆さばきは万事うまくすり抜けてきたオース
トリアという国を冷ややかに見ている。

 ポツダム大学のゲーテマルカーは、オーストリアが常に欧州の過酷な歴史の中心にあり、
プロイセンとロシアに挟まれていたオーストリア・ハンガリー帝国(注8)が崩壊して「分
裂した東西の中間という特異な地位を築くしかなかった宿命を非難はできない」と語る。

 欧州の真ん中にあって、政治的には柔軟に禍を避けながら生き抜くしかなく、ハプスブ
ルク家のきらびやかな帝国は、建築様式や映画や音楽の中でだけ生き続けている。逃走中
のハリーが消えたアム・ホーフ広場の広告塔は、いまも石畳の上に変わらぬ姿を見せ、世
の転変を映してきたように思えた。
23Yoshiura@無能につき馘:01/12/23 02:04 ID:9bUkaLqk
冷戦が始まった!(6) 【鉄のカーテン】小さな大学が歴史の舞台になった

 長い間、フルトン(注1)を訪ねてみたいと考えていた。連合国を勝利に導いた戦略家ウ
ィンストン・チャーチルが人々に「次に迫り来る危機」を明確に位置づけたのが、この米
中西部の大学町だったからだ。 英国の前首相チャーチル(注2)が、なんでちっぽけな町
を選んで有名な「鉄のカーテン」演説をぶったのか。そんな疑問もあって、いつのころか
らか、冷戦の起点の一つとしてのフルトンが、心の隅を占領していたように思う。

《公然の事実》 地図を広げてみると、フルトンは北米大陸の真ん中からやや東寄りのミ
ズーリ州にある。セントルイスで乗り換えた小型機が暴風雨に巻き込まれて引き返したた
め、クルマを転がしながらフルトンの町にたどり着いた時には午前零時を少し回っていた。
町にはホテルもなく、小奇麗な民宿風のカントリーインがぽつんと一軒あるだけだった。

 チャーチルが演説したのは、歩いてわずかな距離のウエストミンスター大学の体育館で
ある。大学といっても学生総数はわずか六百人。当時はもっと少なく、「五百人だったわ」
とチャーチルの演説を最前列で聞いたヘレン・ダヌーザー(八三)が教えてくれた。 しか
し、この大学にはその後、数多くの人が訪ねてくるようになった。九六年三月にチャーチ
ル演説から五十周年を迎えるまでの半世紀の間に米国のレーガン、ブッシュ両大統領、ソ
連のゴルバチョフ大統領、サッチャー英首相ら多数の指導者がここで演説している。ちな
みに、サッチャーが参加した五十周年記念式典のキャッチフレーズは「鉄のカーテンから
鉄の女まで」とパンチがきいていた。

 キャンパスに建つ小さなチャペルの地下にチャーチル記念館事務局長ウォーレン・ファ
ーラーを訪ねた。ここに掲載するのは、ファーラーが「欲しかったのはこれですね」と提
供してくれた演説原稿のコピーの一部である。

 米国を訪れたチャーチルが一九四六年三月五日に行った演説の「鉄のカーテン」のくだ
りに当たる。演説風景はビデオにも残されていて、愛称そのままにブルドックのような顔
のチャーチルが登壇してくる。

 「ごく最近まで連合軍の勝利という火に照らされていた情景に、一片の影が落とされた。
ソ連とその国際共産主義組織が近い将来何をたくらんでいるのか。またその布教者のよう
な拡大傾向を防ぎうるかどうか、知る者はいないのだ」

 チャーチルのソ連批判は極めて率直、かつ辛らつだった。その上でチャーチルは、手で
大きく空を切りながら「バルト海のシュテッティン(注3)からアドリア海のトリエステま
で、欧州大陸を横断する鉄のカーテンが降ろされた」とソ連の拡張主義に警鐘を鳴らした。

 「中欧および東欧の古くからある国々の首都は、すべてその向こう側にある」

 チャーチルはこの演説により、米ソ冷戦を公然の事実として宣言した。米国の政策担当
者が心の中で思い悩みながら、あえて公言するのをはばかっていた事実を演説はズバリと
表現していたのだ。
24卵の名無しさん:01/12/23 18:10 ID:9O0L9yL+
東和の株上がってるねー
25社長:01/12/24 06:44 ID:r72pkODc
おもしろくねー
26卵の名無しさん:01/12/24 21:54 ID:NNH4E41X
>25
低い給料と猿真似薬をなんとかしてくれ!!
27卵の名無しさん:01/12/25 20:00 ID:1PseYZtc
このスレッドの意味は?
28SW:01/12/25 22:00 ID:l7EyvZ7Q
沢井社員のストレス解消の場です!!
29社長:01/12/26 07:11 ID:tx+2S+l9
>>26 〜 >>28
これでいいニダ
もっと働くニダ
30卵の名無しさん:01/12/26 07:14 ID:A7FmjO3s
>>29
こんなに働いているのに、ちっとも給料が上がらないのは何故?
社長、お願いしますよ。
31Yoshiura@無能につき馘:01/12/26 10:51 ID:tZV6kN0k
《新たな戦略》 欧州から遠く離れた米国では、まだ国民の間に戦勝気分が抜けていなか
った。チャーチル演説は、その気分に水をかけてソ連との間に冷たい戦争が進行しつつあ
る事実を公に知らせる意図が込められていた。 「ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィ
ーン、ブダペスト、ベオグラード、ブカレストそしてソフィア。これらすべての有名な都
市と人々はソ連圏と呼ぶべき圏内にあり、ソ連の影響を受けているばかりか、モスクワか
らの直接支配も極めて高く、ますますその度を深めている」

 古びたタイプ文字の原稿をよく見ると、ところどころ自分のペンで手を加えたと思われ
る部分がある。その一つ、「と呼ぶべき圏内」の挿入は「ソ連圏」を強調する効果を高め
ていた。ソ連がいかに独自のブロックを築いているか。チャーチルがこの演説で、それを
強く訴えたかったことが理解できる。 そしてチャーチルは、軍事力を重視しているソ連
に対抗するため、米英が協調して同盟関係を強化すれば、「欧州の勢力均衡が崩れて不安
定になることが避けられ、野心と冒険心を誘うという事態にならない」と新たな危機に対
応する処方せんを描いている。

 この時すでに、国務省にはモスクワの駐ソ代理大使ジョージ・ケナンから、ソ連の西側
への敵意が共産主義と伝統的な拡張主義によるものであると分析する「長文電報」が届い
ていた。チャーチルはこれをさらに明確化させ、米英同盟によってのみ事態は克服できる
と新たな対ソ戦略を提示したのだ。

《名指し攻撃》 政府部内だけの私的な分析が、政治色を帯びて公の場に持ち出された。
チャーチルは一年前の選挙で敗れ、公職を退いていたため比較的、自由に発言できたとい
う側面はある。ソ連を平然と名指し攻撃し、「鉄のカーテン」という象徴的な言葉をはじ
めて使った。

 演説会場にいた随行の米大統領法律顧問クラーク・クリフォード(注5)は回想録で、「事
前に読んでいた草稿よりも、実際の演説の方が鉄のカーテン部分がより力強く感じられた」
と印象を語っている。 しかし、前列で聞いていたヘレン・ダヌーザーやウエストミンス
ター大学の卒業生、ボブ・ガサリー(七七)のような米国の「普通の人々」には、米英同盟
の重要さを訴えた演説との印象だけが残ったようだ。

 目撃者のリストから電話をすると、チャーチル記念館まで来てくれたガサリーは「米国
人は戦争に疲れていて、もはや次の冷たい戦争を聞く耳はもっていなかった」と述べた。
またダヌーザーは「ことの重要性に気付いたのは、後のことだった」と正直に語った。

 チャーチルが「鉄のカーテン」のレトリックで指摘した「次の危機」の認識は、フルト
ン発の新聞報道と社説によって徐々に広がっていった。しかし、この時点ではチャーチル
演説が「ソ連との戦争を誘発する可能性があり、米国にはもはや同盟国はいらない」(ウ
ォールストリート・ジャーナル)とする孤立主義の中に閉じこもりつつあったのだ。

 当時の米国内の反応について元国務長官ヘンリー・キッシンジャーは著書『外交』で「予
言者が彼らの母国で称えられることが滅多にない理由は、彼らの役割が同時代人の経験や
想像を超えることにあるからだ」と述べ、チャーチルの先見性をたたえている。
32Yoshiura@無能につき馘:01/12/26 10:52 ID:tZV6kN0k

冷戦が始まった!(7)湯浅博 【フルトンの波紋】大統領は75ドルも巻き上げた

 ウィンストン・チャーチルの歴史的な「鉄のカーテン」演説が飛び出すきっかけをつく
ったのは、ウエストミンスター大学の学長フランク・マクルアーのちょっとした思い付き
だった。米ミズーリ州フルトンにある同大学の教授ビル・パリッシュによると、こんない
きさつで話は進んだ。

《強力なコネ》 たまたまマクルアーの友人で、ウエストミンスター大学のフットボール
選手だったハリー・ボーンが大統領補佐官としてホワイトハウス入りしており、しかも大
統領は大学のあるミズーリ州の出身だった。チャーチルなど世界の大物に特別講義を依頼
する構想を持っていたマクルアーは、コネクションを最大限に使うチャンスだと考えた。

 早速、マクルアーはワシントンに同窓生だったボーンを訪ね、ちゃっかりトルーマンに
取り次いでもらう手続きをとった。 トルーマンの行動も早い。「チャーチル招請」の提
案を受けると、彼はマクルアーが用意したチャーチルあての招請状にペンで書き添えた。
 「これは私の出身の州にある素晴らしい大学です。あなたが招請に応じるよう期待しま
す」 ここに掲載した招請状の左下のペン字が、トルーマンの添え書きとサインである。
依頼した演説テーマは「国際情勢」と漠然としていたが、このヒョウタンから歴史的な「鉄
のカーテン」という駒が出る。

 チャーチルは一九四六年二月に米南部フロリダの旧友宅に滞在する計画があったことか
ら、二つ返事でこの依頼を受けた。強力なコネが成功のカギを握っていることは古今東西、
変わらない。 フロリダからやってきたチャーチルは、トルーマンに会うと、「世界の平
和維持のために米英の軍事的な協調が必要であることを訴える」と述べた。

 トルーマンとチャーチルは三月四日、特別仕立ての列車でワシントンを発ち、セントル
イスに向かった。伝記作家のデビッド・マカラは、大統領が「世界で最も有名な演説家と
いっしょに故郷ミズーリの大学に乗り込めることで、とてもご機嫌だった」と伝記『トル
ーマン』に書いている。 トルーマンは車中で得意のポーカーゲームにチャーチルを引き
込み、英国紳士が吸う葉巻の煙の中で午前二時半まで延々と興じた。トルーマンは結局、
「一癖あるはず」と思っていたカードの相手から七十五ドルを巻き上げることに成功した。
現職大統領対前首相という米英首脳のまれにみる大ばくちであった。

《素晴らしい》 翌朝、列車がミズーリ川を渡るころ、チャーチルは演説原稿に最後の手
を入れた。チャーチルは「自己の過去の演説の中で、もっとも重要なものになる」と述べ
たという。随行スタッフや同行の記者にも事前に演説原稿が配布された。随行した大統領
法律顧問のクラーク・クリフォードは、草稿の内容を国務長官バーンズから説明されたト
ルーマンが「文句なんかあるもんか。素晴らしいじゃないか」と感嘆を漏らしたことを回
想録に書いている。

 ところが、この「素晴らしい」はずの演説が、やがてトルーマンの狭量さを暴露するこ
とになる。
33Yoshiura@無能につき馘:01/12/26 10:53 ID:tZV6kN0k
 セントルイスからオープンカーでフルトン入りしたチャーチルは大学が近くなると小高
い丘の上でリムジンを止めさせ、風を避けながら葉巻に火をつけた。「人々が彼の葉巻姿
を見たがっているのをよく知っていたからだ」とチャーチル記念館事務局長ウォーレン・
ファーラーは解説する。 学長のマクルアーらと食事をしたあと、チャーチルは会場でト
ルーマンから紹介を受けた。このとき、トルーマンは「世界に向けて建設的な提言をする
ことになる」と期待を表明している。

 チャーチルは「鉄のカーテン」のレトリックでソ連の拡張主義に警鐘を鳴らした。ワシ
ントンから同行した四十三人の記者には、背後に座るトルーマンがこの見解に同意してう
なずいているように見えたという。 ところが、演説に対する新聞の論評には、「困難な
米ソ関係に毒を盛るようなもの」とチャーチル批判が渦巻いた。著名なジャーナリストの
ウォルター・リップマン(注1)は「天変動地の大失策である」と非難の言葉を浴びせた。
当然ながらスターリンは「ソ連との戦争を望むのか」と激しく反撃した。

 あわてたのはトルーマンである。彼はワシントンに戻ると、事前に熟知していたのに「チ
ャーチルが何を演説するかはまったく知らなかった」とうそぶいたのだ。その上でトルー
マンはスターリンに同じ州のミズーリ大学で演説するよう招請状を出して、あっさり断ら
れる始末だった。

《親ソ派排除》 チャーチルの予言に西側は、直ちに対応できなかった。この間にも、東
欧はソ連の「勢力圏」として徐々に確立されていった。戦後の二年間でユーゴスラビアと
アルバニアがまず共産党独裁を打ち立てた。ブルガリアやチェコスロバキアなど五カ国で
は、他政党も残ってはいたが、共産党が最強の地位を確立してやがて衛星国となった。

 しかし、米政府の中では着実に変化が起きていた。駐ソ大使だったアヴェレル・ハリマ
ンはチャーチル演説を支持し、リーヒ提督(注2)、フォレスタル海軍長官、アチソン国務
次官(注3)らが同様の考え方を示した。

 元国務長官キッシンジャーに言わせると「スターリンは彼の立場を押し付けすぎた」よ
うなのだ。ソ連軍は東欧や中東の各地で撤退期限を無視し、中東では国連の安保理に非難
されてからようやく動いた。八月にはユーゴスラビア軍が米輸送機二機を撃墜した。

 この事態に、米国とカナダは対空対潜共同防衛システムを完成させ、米英空軍が戦略に
関する協議を開始した。スターリンの力の政策に米国民の意識も徐々に変わり、五月の世
論調査では、チャーチルの米英軍事同盟の考えに八三%が賛成している。トルーマンも政
府部内の親ソ分子排除に乗り出し、七月にはスターリンに親近感を示すチャーチル嫌いの
商務長官ヘンリー・ウォーレス(注4)の首を切った。

 チャーチルはポーカーでトルーマンに七十五ドルも巻き上げられたが、「それだけの価
値があった」と満足げだった。さらに十月には「私がフルトンで行った以上のことが実行
されている」と語るまでになっていた。チャーチル演説の直後に頭をもたげかけていた米
国の伝統的な孤立主義の影が、ようやく晴れてきたのである。
34卵の名無しさん:01/12/26 21:13 ID:JCnV2UXm
レンラクそ
35SW:01/12/26 22:08 ID:ylFTHDUr
またまた荒らしが復活!
3連休で旅行でも行ってたのか?
36Yoshiura@無能につき馘:01/12/27 02:13 ID:h8xdMr5V
冷戦が始まった(8) ---【長文電報】 駐ソ代理大使は「不屈の抵抗力」説いた

「対ソ冷戦」戦略の生みの親、ジョージ・ケナンが目の前にいた。

 一九〇四年二月十六日生まれだから、この原稿が掲載されているときには九十四歳にな
っている。ケナンこそは、東欧に進出して仮借ない共産化をはかるソ連との対決理論「封
じ込め政策」を打ち出した米外交界の巨人である。彼が構築した外交思想は冷戦期を通じ
ておよそ半世紀の間、米国の政策に脈々と生き続けることになる。

《政策転換》 つえを突き、補聴器に頼ってはいるが、背筋をピンと伸ばしてすこぶる健
康そうに見えた。元政府高官が名を連ねる米外交アカデミーから「外交優秀賞」が授与さ
れることになり昨年十二月三日、ワシントンのマディソンホテルにアナリス夫人と出席し
ていた。 ニュージャージー州に住むケナンは、いまも自宅から近くのプリンストン高等
研究所(注1)に通う毎日だと聞いた。外交アカデミーの事務局スタッフは「ケナン夫妻は
プリンストンから列車でいらしゃったんですよ」と、その頑健ぶりに驚きの表情だった。

 あいさつのあと、フロアに降りたケナンは旧友の元司法長官エリオット・リチャードソ
ンと握手を交わし、冷戦後の外交官の役割がいかに後退してしまったかを嘆いた。彼の執
筆意欲はなお衰えず、昨年も外交誌「フォーリン・アフェアーズ」の九、十月号に「外交
官なき外交」を寄稿して、この議論を展開したばかりだった。

 ケナンと並んで写真を撮ることを求めたのは、国務省で最近まで朝鮮半島問題を担当し
ていたロバート・ガルーチ(注3)だった。彼が一段と若く見えたのは、ケナンが在モスク
ワ米大使館の代理大使だったころに生まれたことを考えると当然なのかもしれない。 ガ
ルーチが生まれたわずか十一日後の一九四六年二月二十二日、ケナンはモスクワから米外
交の政策転換を促した「ロング・テレグラム(長文電報)」を打っている。この公電でケナ
ンはトルーマン政権の対ソ戦略の理論的な裏付けを提供し、「封じ込め戦略」を打ち出す
基礎を築いた。ガルーチはいってみれば「冷戦ベイビー」なのである。

 米中央情報局(CIA)(注4)が最近まとめた報告書「ソ連の脅威−冷戦初期」のページ
をめくると、一九四五年の十一月ごろからスパイ網を通じて東欧諸国内で異変が起きてい
ることがCIAの前身、戦略情報局(OSS)に次々に報告されていたことが分かる。

 日本降伏から二カ月後には、ハンガリーの共産政権の独裁ぶりが表面化し、アルバニア
で共産主義者が首相に就任し、ブルガリアで共産政権ができるように仕組まれた選挙があ
ったことなどが報告されていた。背後には常にソ連の影があった。

 この情報を受けて西側が足並みをそろえて防衛することを提言していたのが、CIA生
みの親であるOSS局長ウィリアム・ドノバンだった。

 さらに明けて一九四六年一月五日、モスクワの外相会議から帰国した国務長官バーンズ
の報告を受け、トルーマンは「これ以上、妥協すべきではない。ソ連にちやほやするな。
もう、うんざりだ」とはき捨てるようにいった。
37Yoshiura@無能につき馘:01/12/27 02:26 ID:NyYsW8xj
《公電の意義》 こうしてワシントンの政策決定者たちが、いらだちを募らせていた翌二
月二十二日、モスクワの米大使館にいるジョージ・ケナンからタイミングよく八千語にの
ぼる長い公電が国務省に届いた。後に「長文電報」といわれた報告でケナンは、米ソの摩
擦の原因が、単に両者の誤解からくる擦れ違いなどではなく、ソ連に内在する拡張主義と
共産主義イデオロギーにあるのであって「不屈の抵抗力」で対抗する必要があると説いた。

 ケナンは共産主義の過酷な教義が独裁制やそこから来る残酷さをすべて正当化し、「対
外的な安全保障を確保するために自国を軍事大国のひとつにまで押し上げてきた」と分析
した。 その上で「世界の問題に対するクレムリンの神経症的な見方の根底には、ロシア
の安全保障に対する伝統的かつ本能的な不安感が存在している」と断じた。その結果、国
際社会との協調の余地がなくなり、「ほかの国を破壊することしかない」と、その危険性
を見抜いていたのだ。

 米国はただちにソ連との長期の闘争を準備しなくてはならないとケナンは結論づける。

 ソ連に抱いていた違和感から、危険なにおいをかぎ取りはじめていた政策決定者たちは、
この公電でソ連の脅威を具体的に突きつけられた格好だった。 後に北大西洋条約機構(N
ATO)司令官になるアンドリュー・グッドパスター(注5)は陸軍省の戦略局スタッフと
して、この公電コピーを渡されたという。現在、大西洋評議会の会長の地位にあるグッド
パスターは「当時、だれもが漠然と考えていたことが明確に定義付けられた。暗がりにラ
ンプがともったように、一気に理解が深まった」と公電の存在意義を語った。

《ソ連の占領》 第二次世界大戦の終了間際から始まる米外交史上もっとも外交思潮が混
乱した時期に、ケナンは揺るぎない一本の鋼鉄をぶち込んだのである。 ケナンの公電は、
たちまち米政府部内にセンセーショナルな反響を呼んだ。とりわけ興味深いのは、陸軍と
海軍の現場でケナンの対ソ警戒論に対する受け取り方の違いが鮮明だったことである。

 帰国していた駐ソ大使アヴェレル・ハリマンは、以前からソ連共産主義の危険を話し合
っていた友人の海軍長官ジェームス・フォレスタルに公電を手渡した。さっそくフォレス
タルは、トルーマン大統領はじめ国務省、三軍の高官らにコピーを配り、とりわけ空母を
主体とする海軍力強化を進める海軍にケナンの公電は歓迎された。

 だが陸軍は、ドイツ進駐の米軍司令官ルシアス・クレイ(注6)のように、この段階では
「米国を巻き込もうとする英国の戦術に巻き込まれるだけである」との認識が根強かった。

 しかし、一九四五年にドイツ崩壊で欧州の勢力均衡が崩れ、戦争が終わってみるとソ連
軍は東欧という緩衝地帯のほぼ全域を占領していたという事実が目の前にあった。この現
実を前にケナンの公電は米国のソ連対処の基軸となり、やがてトルーマン政権の具体的な
新戦略に練り上げられていく。
38Yoshiura@無能につき馘:01/12/27 02:45 ID:NyYsW8xj
冷戦が始まった!(9)  【X論文】米国民の対ソ観が変わった

 米国の「冷戦戦略」の生みの親、ジョージ・ケナンの対ソ警戒論は、トルーマン政権内
で初めから歓迎されたものではなかった。 元大統領補佐官(軍備管理担当)のポール・ニ
ッツェにワシントンで会ったさい、彼が国務省スタッフだったころの興味深い話を教えて
くれた。

《宣戦布告だ》 まだ対独戦争が激しかったころのこと。ワシントンからニューヨークに
向かう列車の中で、ニッツェは偶然、ケナンと出会った。初めてじっくり彼の対ソ観を聞
く機会の到来だった。ところが、そのケナンが「国務省の幹部が私の見解に耳を貸さない
のだ」とグチっていたことをニッツェはよく覚えている。 しかし、海軍長官ジェームズ
・フォレスタルだけは別で、駐ソ大使アヴェレル・ハリマンの話を通してケナンに理解を
示していた。一九四六年二月九日のスターリンによる演説内容を検討して「これは米国へ
の遅れた宣戦布告だ」とニッツェに明快に語っていたほどだった。

 しかし、国務省の主流である国務次官のディーン・アチソンは、ニッツェに対し表向き
は「ナンセンスだよ、ポール」とフォレスタルの過剰な対ソ警戒感を退けた。だが、賢明
なアチソンは、その一方でソ連専門家の見解をすぐ聞く必要があると判断してケナンと並
ぶ国務省のソ連専門家チャールズ・ボーレン(注1)に取りまとめを指示していた。 興味
深いのは、後に米外交界の輝かしい理論家となるケナンが、実はこの時、外交官をやめる
かどうかの瀬戸際に立っていたことである。トルーマンの外交顧問たちを描いた大著『ワ
イズ・メン』によると、ケナンは大使館のベッドで「石にでも報告しているようで、だれ
も聞いてくれない」とふて寝していたというのだ。友人のボーレンは「いい加減にしろ」
としかり飛ばしていた。 ケナンがすねたまま辞職でもしていたら、米国の対ソ外交戦略
の転換が遅れ、封じ込め戦略も生まれなかったかもしれない。

《関心と無視》 その日は祝日で、大使館も休みだった。アチソンの指示もあってケナン
は自分の考えを巡らせていた。そして、たまたま手にした駐ソ大使ハリマンの書類の束に、
自分がこれまでせっせと書いてきた公電が残されていたことが分かった。 ハリマンはケ
ナン理論を理解してくれてはいたが、直接、国務省に送っていたかどうかは疑問だった。

 突然、ケナンの意欲が呼び起こされた。しかもハリマンは、米国に一時帰国していて留
守だった。 ケナンはすぐ秘書を呼んだ。独自のソ連分析がほとばしる言葉の連射となっ
て文章化され、八千語にのぼる長文電報がまもなく、ワシントンに送られた。

 ケナンの孤立感と疎外感はその後も時折頭をもたげる。彼は後年、回顧録で「ここ数年、
ワシントンでの私自身の役割について最大のミステリーは、四六年のモスクワからの公電
やその後のX論文の場合のように、ある場合は異常なほどの関心が払われ、他の場合には
まったく無視されることだ」と述懐している。そして、理論内容より国内の政治的な事情
にその原因を求め、彼らしく「ナイーブなのはほかならぬ私なのだ」と自己分析している。
39Yoshiura@無能につき馘:01/12/27 02:46 ID:NyYsW8xj

 興味深いのはケナンがワシントンに「長文電報」を発信していた同じころ、駐ソ英大使
館の外交官フランク・ロバーツがほぼ同じ結論の公電を本国に三本立て続けに打っていた
ことである。ケナンの公電が二月二十二日、ロバーツのそれは三月十四日からだった。

 冷戦研究を進めているアメリカン・エンタープライズ研究所の研究員ジェフリー・スミ
スが、九十一歳になるロバーツから数年前に聞き取り調査していた。スミスによると、ケ
ナンとロバーツはモスクワで活発な交流があり、互いに影響し合っていたという。 「ロ
バーツはソ連に対してより強硬であり、英国人らしく歴史的な視点から議論を展開してい
る。ケナンはよりアカデミックな視点から対ソ観の枠組みを描いていた」

 しかし、本国政府への影響力には格段の違いがあった。英国ではチャーチルと、その後
継首相アトリーら首脳がソ連の危険性を十分認識していて、ロバーツ報告はソ連の実態を
「確認」する役割を担っていた。これに対し、ケナン報告は米政府の対ソ観に「変化」を
促していたのである。 変化は確実に醸成されつつあった。当時、国務省スタッフだった
ルイス・ハレーはケナンの報告に対する反応が「即時、かつ積極的であった」と述べ、「探
していたものを見いだしたという感じが広がった」と省内の雰囲気を語った。公電のコピ
ーは瞬く間に省内に配布され、比較的、関係の薄いラテン・アメリカ担当にまで手渡され
たとハレーは苦笑する。

《立ち上がれ》 チャーチルの「フルトン演説」と前後して作成されたケナン報告は、第
二次大戦の戦火が収まった後、くすぶり始めた新たな脅威と挑戦に対抗する基本文書にな
った。この公電が認められ、まもなくケナンはワシントンに呼び戻されて翌四七年に国務
省に創設された政策企画局の初代局長に就任する。

 いったん火がついたケナンの意欲は外交誌「フォーリン・アフェアーズ」四七年七月号
に掲載された有名なX論文として昇華していく。論文は「ソ連の行動の源泉」と題し、筆
者は「X」と記されていた。

 長文電報はトルーマン政権に影響を与えたが、この論文はさらに広く米国民の対ソ認識
に衝撃を与えた。X論文の執筆をケナンに勧めたのは海軍長官フォレスタルであった。

 最初のケナン報告と異なるのは、対ソ「封じ込め」という新しい言葉を使い、「十年か
ら十五年間」にわたって有効に封じ込めれば、ソ連の脅威は異なったものになると大胆な
予測をしていることだ。「ソ連の拡張傾向に対する米国の長期的で忍耐強い、かつ確固と
した封じ込め政策がその中心でなければならない」と指摘し、米国が難局を迎えて立ち上
がることを求めていた。

 ケナンは同時に、ユーラシアの大国であるソ連の周辺地域のいたるところで、米国が紛
争や摩擦に耐え抜くことを強いた。それは、ソ連がすべての封じ込めラインから打って出
るのを防戦する受動的な戦略であり、米国の軍事的優位が保てなくなれば、とたんに崩れ
る性格を持っていた。 実際、ソ連の崩壊には、ケナンが予言した十五年どころか、およ
そ半世紀を待たなければならなかったのである。
40Yoshiura@無能につき馘:01/12/27 02:59 ID:8bFG5kai
冷戦が始まった!(10) 【トルーマン宣言】 米国は伝統的な孤立主義を脱した

 いつの時代でも、事件や政策は始まりこそ大騒ぎをしても、終わりはひっそりと消えて
いくことが多い。クリントン米大統領がこの二月二日、議会に報告した一九九九会計年度
の予算教書からはギリシャとトルコに対する軍事支援が削除されていた。国務省に確認す
ると、両国と交渉のすえ「冷戦の落とし子」のような項目を外したとの回答だった。

 何気ない予算の削減に見えるけれども、実は支援の始まりは共産主義との対決を宣言し
た一九四七年三月十二日の「トルーマン・ドクトリン」にまでさかのぼる。

《破滅の危機》 地図で分かるように、この二つの国は地中海の東の奥にあり、冷戦時代
のソ連から見ると、黒海から地中海に抜ける出口をふさぐ形で向かい合っている。いわば
戦略的な要衝であり、米国はこの両国を支援することで、ソ連の地中海進出の野望を半世
紀もの間、封じ込めてきたのである。

 しかし、ソ連が崩壊したいまとなっては、軍事的な支援を続ける意味合いは著しく低下
している。 もともとギリシャ、トルコ支援は第二次大戦で消耗した英国に代わり、トル
ーマン政権が議会を説得して踏み切ったものだった。英国側は当時、「残された時間は三
十八日間しかない」と緊迫した情勢の中で即時決定を米国に求めた。

 いまとなっては、この両国が「破滅の危機」にあったことを想像するのは難しい。しか
し、その危機はギリシャとトルコに限らず、十九世紀に「七つの海」を制してパックス・
ブリタニカ(英国による平和)とまでいわれた英国も、そして欧州全体までもが崩壊しつつ
あるといえるほど深刻だった。欧州を救えるのは、無傷の米国をおいてほかになかった。

 一九四七年二月二十一日金曜日の午後。在ワシントンの英国大使が米国務省に電話をか
けてきた。国務長官のジョージ・マーシャル(注1)に「至急面会したい」という。マーシ
ャルは翌二十二日にニュージャージー州のプリンストン大学で演説するため、ちょうど国
務省を出たばかりだった。

 長官に就任して一カ月しかたたないマーシャルのこの演説は、米外交政策の転換を示唆
する重要な演説であった。彼は「米国が何をし、またしないかが世界の秩序と安全に決定
的に重要性をもつ」と位置づけている。そのような事態がまさに、刻一刻と現実のものに
なりつつあった。

 長官が不在だったため、英国大使館の一等書記官が中近東部長ロイ・ヘンダーソンにギ
リシャとトルコ情勢に関する二通の文書を手渡した。ギリシャでは経済の疲弊から共産党
が政権を奪取しつつあり、トルコも海峡の共同防衛を主張するソ連の圧力に耐えかねてい
て、「スターリンの帝国が地中海をうかがう情勢になってきた」と分析していた。

 アトリー英内閣の文書はさらに、自国の経済危機のために三月三十一日をもってすべて
の援助を停止し、四万人の英軍をギリシャから撤退せざるを得ないことを宣言していた。
元ジュネーブ大学教授のルイス・ハレーはこの文書を「パックス・ブリタニカ(英国によ
る平和)が終わったことを告げるものであった」と定義づけている。
41卵の名無しさん:01/12/27 05:52 ID:wd/cgNHX
マンセー マンセー
42卵の名無しさん:01/12/27 20:12 ID:9o9R1PdQ
沢井製薬20位です
みんなで投票しよ〜
http://www.ktplan.ne.jp/rentcgi/vote2/jakouin/vote.cgi
43卵の名無しさん:01/12/27 20:46 ID:wd/cgNHX
>>42
荒らしと2人三脚、頑張れ糞ゾロ代表と言うことで3票入れて来ました。
44Yoshiura@無能につき馘:01/12/27 21:20 ID:c8uJNurp
《疲れた巨人》 英国は二十世紀はじめに工業力で米国とドイツに追い抜かれ、確実に覇
権国の地位から滑り落ちていた。元海相ジョセフ・チェンバレン(注3)の見解によれば、
英国は「疲れ果てた巨人であり、その肩に担う運命の重みによろめいている」状態だった。

 誇りと伝統を捨て、迅速に行動しなければ、そう遠くない時期にギリシャとトルコがス
ターリンに飲み込まれる。それどころか、英国自身がこの冬、厳しい暴風雪に襲われ、石
炭不足の危機から救援を必要としていた。フランスもイタリアも寒さで穀物がやられ、東
欧諸国のように共産党が政権をうかがっていた。

 米大統領トルーマンは、こうした欧州の惨状と英国の動向をすでに掌握していた。手元
にある中央情報局(CIA)の解禁文書(四六年七月二十三日付、当時はCIG)には「ソ連
がギリシャ、トルコ、イランに友好的な政府を打ち立て、安全保障ゾーンにすることを切
望している」との報告がある。

 トルーマン回顧録『決断の日々』によると、英国大使館からの通告より前に、二月三日
には在アテネの米大使から英軍撤退のうわさが流れているとの公電が届いていた。十二日
には米国のギリシャ支援を考慮すべきとの提案がなされ、在トルコの米大使からもほぼ同
じ内容の公電が届いた。

 英国大使から正式通告があったことを国務次官ディーン・アチソンから聞かされたトル
ーマンは「考えていたより早かったな」と語っている。

《ドミノ理論》 米国の外交政策の方向を決する重要会議は二月二十七日朝、ホワイトハ
ウスの大統領執務室で行われた。トルーマン、マーシャル、アチソンら外交首脳が、共和
党の上院外交委員長アーサー・バンデンバーグ(注4)はじめ共和、民主両党の有力者を招
き、ギリシャ、トルコへの援助計画に理解を求めたのである。

 この時、議会の両院を支配していたのは伝統的に孤立主義の立場をとる共和党だった。
マーシャルが誠実に援助計画と米国の国益について説明したが、すぐに「英国のために貧
乏クジを引くのか」との反論にぶつかった。

 この事態にアチソンは「ギリシャが腐ったリンゴになれば、たるの中のすべてのリンゴ
が腐る」と分かりやすい比ゆを用い、「ソ連の攻撃や共産主義による転覆の脅威を受けて
いる国々を強化するために、あらゆる手段をとることは、米国の安全を守り、自由を守る
ことだ」と訴えた。アチソンのレトリックは将棋倒しのように共産主義化が進むとする「ド
ミノ理論」の原形をなしている。 この訴えがバンデンバーグらを動かし、ギリシャ、ト
ルコへの援助は民主主義対独裁体制の戦いの一部と見なされた。

 大統領トルーマンは三月十二日、議会の特別合同会議で演説し、「武装した少数や外か
らの圧力による制圧の試みに抵抗している自由な国民を援助することが米国の政策でなけ
ればならない」と理念を語った。この「トルーマン・ドクトリン」はギリシャ、トルコ支
援だけでなく、対ソ封じ込めを具体的に宣言するものだった。ルイス・ハレーは米国が伝
統的な孤立主義を放棄し、「世界のいたるところにパックス・アメリカーナ(米国による平
和)を打ち立てることを明らかにした」と位置づけた。
45Yoshiura@無能につき馘:01/12/27 21:22 ID:c8uJNurp
冷戦が始まった!(11) 【封印文書】 議会の指示得た過剰なレトリック

 民主主義の防衛を高らかに宣言した「トルーマン・ドクトリン」は、戦後世界に新たな
歴史を刻んだ。ニューヨーク・タイムズ紙のジェームズ・レストン(注1)は「モンロー宣
言と比較すべき重要な演説」と指摘した。伝統的な孤立主義からの決別である。

 米国は第一次大戦も第二次大戦も始まりは中立の立場をとろうとした。しかも、ちゅう
ちょしながら参戦(注2)し、戦争が終わるとすぐに撤退しようとした。三回目に冷戦とい
う力の闘争に組み込まれ、初めて永続的な介入の宣言をした。それがトルーマン・ドクト
リンである。

《米国の任務》 トルーマンにとって外交とは、相手を疑いながら戦争が発生したときの
準備をしつつ、できるだけ友好関係を保つ文明社会の技である。トルーマンは一九四六年
二月、駐ソ米大使館のジョージ・ケナンから送られた対ソ封じ込めにつながる「長文電報」
を読み、直ちに行動を起こしている。

 手元にある中央情報局(CIA)の七月十八日付の解禁文書によると、トルーマンは法律
顧問のクラーク・クリフォードに対し、ソ連が戦中、戦後の米国との合意をどの程度、ほ
ごにしているかをまとめるよう指示した。実際の調査はクリフォードの補佐官、ジョージ
・エルシーに託されている。

 CIA解禁文書によると、クリフォードは国務長官マーシャルや大統領顧問のリーヒ海
軍提督、陸海軍長官など高官を中心に数十人に文書で見解を求める書簡を出している。エ
ルシーはその結果を九月に、膨大な報告書としてまとめた。 報告書はケナンの「長文電
報」による対ソ外交の枠組みを軍事的な戦略行動にまで拡大し、当時の米政権の中枢にい
る戦略家たちの対ソ観とその変化を的確に反映していた。

 この中でクリフォードとエルシーは「米国の安全保障にとって決定的な地域へのソ連の
攻撃を抑止する上で重要なのは、米国の軍事力である」と、ソ連に対抗する軍事力に初め
て明確に触れた。さらに「米国は屈服させるにはあまりに強力であり、脅迫するにはあま
りに意志強固であることを信じ込ませるべきである」と軍備強化をおり込んだ。最後に報
告書は、米国の任務として「ソ連によって脅威や危険にさらされているすべての民主的な
国々」を対象にすると宣言している。 ソ連の崩壊という、いわばドラマの結末を知って
いる私たちには、極めて自然な論理展開に思える。だが当時は、ソ連に対抗する軍事力に
大胆に踏み込んだ衝撃的な報告書として迎えられた。

《コピーの束》 クリフォードはこの報告書を九月二十四日付でトルーマンに提出し、夜
のうちに報告書を読んだトルーマンは翌早朝、クリフォードの自宅に電話をかけた。

 クリフォードの自伝『大統領法律顧問』によると、トルーマンは「力作だった」と評価
したうえで「ところでクラーク。このコピーを何部持っているのかね」とただした。クリ
フォードが二十部を保管していることを伝えると「いますぐオフィスにいって、すべての
コピーを私の手元に持ってきてほしい」と命じた。
46Yoshiura@無能につき馘:01/12/27 21:23 ID:c8uJNurp
 クリフォードがホワイトハウスに駆けつけ、大統領執務室でコピーを手渡すと、トルー
マンは「昨夜、熟読させてもらった。私には極めて価値あるものだった」と語った。大統
領はさらに「しかし、これがクレムリンに流れると、極めてやっかいな問題を引き起こす」
といってコピーの束をしまい込んでしまった。以来、二度とこの最高機密文書を見る者は
なかった。

 それから二十年後の一九六六年、ニューヨーク・タイムズ元ワシントン支局長のアーサ
ー・クロック(注3)が自分の回想記を書くので使わせてほしいとクリフォードにいってき
た。クリフォードの手元に公式文書はなかったが、草稿は保管していたので「背景説明と
しての活用なら」と貸し出した。ところが、翌六八年に出版されたクロックの本には、巻
末にその草稿が二万三千語、六十三ページにわたって収録されていた。

 不思議なのは、CIA文書にあるクリフォードの秘密任務がトルーマン回顧録や国務省
の公式記録「米外交関係」には一行も出てこないことだ。当時の政策決定者は大半が没し、
九十一歳のクリフォードはいま病床にある。陸軍省の戦略局スタッフだったアンドリュー
・グッドパスターは「政策には影響しなかったからではないか」と解説した。本当にそう
だろうか。

《骨格を採用》 問題はトルーマンによって封印された文書が半年後の四七年三月十二日
のトルーマン・ドクトリンに反映されたかどうかである。 ケナンの「回顧録」によると、
ケナンは国務省にできたギリシャ、トルコの支援問題を協議する特別委員会に参加してお
り、委員会の意向が反映されてドクトリンになる教書の草案が作られた。

 しかし、トルーマンはこの草案を「ギリシャの統計的数字を載せた投資説明書のようだ」
と突き返したと自分の回顧録で語っている。トルーマンはさらに「この演説ではどちらと
もつかないような文章表現は避けたかった。これは、共産党の暴政の広がる大波に対する
米国の回答だった」と断固たる決意を示した。

 クリフォードの自伝には「報告書がトルーマンに強烈な印象を与えたのは疑いない。私
たちの提言がトルーマン・ドクトリンとその後のマーシャル・プランの中核として浮上し
た」との認識を示す部分がある。しかも、この自伝には当初の国務省草案をクリフォード
とアチソンが何度もキャッチボールしながら一字一句を詰めていく様が述べられている。

 伝記作家のデビッド・マカラは、大統領の指示を受けたアチソンが葬られたクリフォー
ドの機密文書の骨格部分を採用したと解釈している。「ソ連の攻撃や共産主義による転覆
の脅威を受けている国々」を対象にすると言い換えた部分がそれにあたる。

 ケナンはホワイトハウスに提出された最終案を一読して「あまりに強すぎる」と感じ、
パリにいたケナンの友人ボーレンは「レトリック過剰ではないか」と語った。特にケナン
はギリシャ、トルコへの支援が「ソ連の脅威を受けている国々」に拡大され、無差別に適
用される危険を感じた。 しかし、政治の世界の反応は違った。トルーマンが演説を終え
ると、議員は総立ちになって拍手を送り、有力上院議員のバンデンバーグは直ちに大統領
支援の声明を出した。過剰と思われたレトリックによって、孤立主義に傾斜していた議会
の支持を引き戻したのである。
47卵の名無しさん:01/12/27 23:13 ID:qhANWxPr
もうええかげんに止めてくれ!
おまえが粘着な荒らしつづけるから沢井製薬が世間の笑い者になっとるやないか!
48卵の名無しさん:01/12/27 23:35 ID:LawBmb8P
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49卵の名無しさん:01/12/28 00:01 ID:M4PWLtPE
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50Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 00:20 ID:QlP92slK
冷戦が始まった!(12) 【チェコの教訓】ナチスのあとにソ連の狼がやってきた

 米国務長官マドレーン・オルブライトが記者会見で「同世代の人々はベトナム戦争の教
訓をあげるが、私にとってはミュンヘン会談なのです」と語ったことがあった。ベトナム
が米軍介入の失敗を指すのに対し、一九三八年のミュンヘンは逆に不介入によるチェコス
ロバキア(注1)の悲惨を呼び起こす。

《独が侵略》 第二次大戦開戦の前年の三八年九月、ヒトラーの呼びかけで英仏独伊の列
強四カ国がミュンヘンに集まった。ドイツ系住民の多いチェコのドイツ国境地域、ズデー
テンランドの分割を協議するためだった。会議はチェコの指導者を欠いたまま、この地域
をドイツに与えることで一致した。

 英首相チェンバレンはチェコを「英国人の知らないちっぽけな国」と表現し、「戦争は
ミュンヘンで回避された」と喜び勇んで帰った。しかし翌年三月にはドイツがあっという
間にチェコ全土を制圧してしまう。皮肉にもミュンヘンの合意はドイツの侵略を誘い込ん
だだけだった。

 チェコ生まれのオルブライトは、この教訓から時に米軍の武力行使に果敢な決定を求め
ることがある。典型的な例は、彼女がまだ国連大使だったころ、ボスニア介入をめぐるホ
ワイトハウスでの討議だった。

 軍事介入に慎重な湾岸戦争の英雄、統合参謀本部議長のコリン・パウエル(注2)に対し、
オルブライトは「この優れた米軍を率いている意味はなんなのですか。あなたはいつも軍
事力が使えないことばかり話しているではありませんか」と責め立てた。ベトナムの教訓
に縛られるパウエルは著書「マイ・アメリカン・ジャーニー」で「この時、私は金縛りに
あった」と率直に書いている。 米国は結局、セルビア人勢力に対する空爆を決行して各
勢力を交渉のテーブルにつかせ、デイトン合意(注3)を引き出す。ミュンヘンを教訓とす
るオルブライトの狙い通りだった。

 チェコ、ポーランド、ハンガリーの東欧三カ国を北大西洋条約機構(NATO)に新しく
加盟させる方向に導いたのも、オルブライトの馬力だった。オルブライトは「スターリン
が人工的に引いた分断線を消し、力の真空を埋める誘惑を跳ね返す」と宣言していた。そ
れは「鉄のカーテン」除去の後始末をしてヤルタ合意を完全に葬ることを意味している。
ここにも、侵略を誘発してしまったミュンヘン会談の教訓が見え隠れしていたように思う。

《消えた家族》 マドレーン・オルブライトの外交思想の原点であるチェコスロバキアは
ミュンヘン会談によってどんな歴史をたどったのだろうか。チェコの首都プラハで彼女の
いとこのダグマー・シモバ(七〇)に会った。美術館に近いホテルに訪ねてきてくれたダグ
マーは、一目でわかるほど体つきがマドレーンと似ていた。

 戦争の間、ダグマーは英国のチェコ人学校にいた。ダグマーの両親が一九三九年の開戦
と同時に、マドレーンの父である叔父ヨセフ・コルベルを頼って英国に疎開させたからだ。
両親がユダヤ人であるためナチの迫害に危険を感じ、外交官としてロンドンに駐在中のヨ
セフに彼女を預けたのだ。この決心が娘ダグマーの命を救うことになる。
51Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 00:22 ID:QlP92slK
 「もう一人、建築技師だった母方の叔父もロンドンにいて、寮に入っていた私は週末に
両方を交互に訪ねた。もちろん八歳年下のマドレーンとは仲良しで、姉のように慕われて
いた」 チェコスロバキアではドイツ軍の敗色が濃くなり、パットン将軍(注4)率いる米
第三軍は首都プラハまでわずか四十マイルの地点に迫ったが、ソ連軍との協定で国境まで
撤退していった。

 一九四五年五月、ソ連軍が赤旗をなびかせてプラハにやってきた。ミュンヘン会談で西
側主要国の「裏切り」を感じていたチェコ国民は、会談に参加していないソ連を解放軍と
して歓迎した。ナチスと入れ違いにやって来たソ連軍もまた別の狼であることに人々はま
だ気づかなかった。

 戦争が終わり、ダグマーは叔父ヨセフ一家とともにチェコに帰った。だが、家族の姿は
消えていた。ユダヤ人というだけで一家は強制収容所に連行され、二度と戻ってこなかっ
たのだ。彼女の母親と祖父がテラシン・ゲットーで死に、父親たちはポーランドのアウシ
ュビッツ(注5)で殺されたと聞かされた。 孤児になったダグマーは叔父ヨセフの家にし
ばらくいた。しかしヨセフがユーゴ大使としてベオグラードに赴任したため、今度は母方
の叔母に預けられた。

 チェコの臨時政府が一九四七年、米国の欧州援助計画、マーシャル・プランの打診に応
じようとすると、ソ連から横やりが入った。外相ヤン・マサリク(注6)はクレムリンに呼
び付けられ、拒否するよう無理やり承諾させられた。 翌四八年二月、チェコ共産党がク
ーデターを起こし、反対する者は「反動分子」として追放された。背後で糸を引いていた
のはソ連である。マサリクの死体がアパートの下の石畳で見つかり、窓から突き落とされ
たとのうわさがプラハを駆け巡った。

 「この時、初めてチェコの人々は自分の国に主権がないことが分かったのだと思う。こ
れがソ連という大国を意識したはじまりだった」

《反動分子》 チェコスロバキアはすでに「鉄のカーテン」に閉じ込められていた。ベオ
グラードにいた叔父一家は米国に亡命する。後に米国初の女性国務長官になるマドレーン
もいっしょだった。 「国境は閉鎖され、私たちにはパスポートが発行されないから出国
もできない。突破しようとした多くの人々は銃撃で死んだ。叔父一家が米国に移ったのが
四八年十二月六日。その後、一カ月もたたないうちに私は大学から追放された」

 大学に入れるのは共産党員の子弟か労働者、もしくは農民の子に限られた。三年生にな
っていたダグマーは、英国で教育を受け、一族に亡命者のいる「反動分子」として排除さ
れた。すべてが国家運営になり、ソ連がベストであると繰り返し聞かされた。

 企業も「英語を話せる人は歓迎だ」といいながら履歴書を見ると翌日には断ってきた。
仕事がもらえたのはチェコ鉄道のプラハ駅での肉体労働だけだった。 ミュンヘン会談と
同じように、西側主要国は今度もチェコスロバキアを助けてはくれなかった。しかし、米
国に渡ったマドレーン・コルベル、後のオルブライトの心には一族とチェコ民族の悲劇が
しっかりと刻まれていた。
52卵の名無しさん:01/12/28 00:27 ID:M4PWLtPE
沢井製薬15位です
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53Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 00:33 ID:ZMJD0/1i
冷戦が始まった−13 【プラハの春】ソ連の戦車が変化を踏みつぶした

 時計の針を少し進ませ、時代を一九六八年春のプラハに移す。米国務長官マドレーン・
オルブライトのいとこ、ダグマー・シモバの物語は続く。 ダグマーは工科大学卒の電気
技師と結婚していた。戦後は電気関係の会社でデザインの仕事をして東京にも六五年と六
六年に来ている。ソ連軍の戦車がチェコスロバキアの自由を蹴散らした「プラハの春」は、
ダグマーが英語力を買われてチェテカ通信(注1)の翻訳部門で働いていたときに起きた。

 チェテカがロイター通信やUPI通信などのニュースを受信していた関係で、ダグマー
はオフィスで英語のニュースが読めた。自宅では英国のBBCや米国のVOA(注2)の短
波放送をひそかに聞いていた。

《許容範囲》 チェコの変化は共産党の内部から出てきた。一九六八年一月、党の指導者
の地位についたアレクサンデル・ドプチェク(注3)は「人間の顔をした社会主義」を主張
し、一般大衆もモスクワも目をこらして自由化の許容範囲を品定めしていた。しかし、ダ
グマーにいわせると、ドプチェクは政治の民主化を実践したわけではなかった。

 「彼は党本部ビルに入るさいに人々に語り掛け、人々の前でプールに飛び込むパフォー
マンスを見せた。でも、依然として共産主義者であり、政治スタイルを変えただけなのだ。
新聞の検閲こそ廃止されたが、学生がデモをして、警察が許すわけではなかった」

 それでも人々は大きな変化を感じた。新聞、テレビはますます遠慮なく発言するように
なった。新路線は人々の支持を受け、新しい社会主義の形ができつつあるとだれもが信じ
た。 だが、まもなくモスクワが動き出した。ソ連、チェコ双方の国境で首脳会談が開か
れることになった。フローラ・ルイス著『ヨーロッパ』によると、六八年七月二十九日、
ともに特別列車で人口二千五百人の国境の町ツィルナにやってきた首脳たちの会談はソ連
の列車内で行われた。

 レオニード・ブレジネフ(注4)は厳しい口調でチェコスロバキアの共産党指導部を非難
した。ドプチェクは一月以前に戻るのは不可能だが、「依然として社会主義であり、ソ連
との友好は絶対に変わらない」と理解を求めた。ソ連側は長い「反革命分子」のリストを
渡し、会談はなんの結論も出ないまま物別れに終わった。

《突然の爆音》 そして、あの日がやってきた。ダグマーの夫は仕事でドイツに行ってい
て留守だった。夜になって突然、上空を飛ぶ航空機の音が騒がしくなった。ダグマーの家
はルズィーネ空港への飛行ルートの下にあったが、その夜の航空機音はいつもと違ってい
た。窓から空を見上げると、軍用機が次々に低空で飛んでいく。

 一九六八年八月二十一日、ソ連特殊部隊がルズィーネ空港を確保し、増援部隊が続々と
空輸された。 ダグマーはラジオのスイッチを入れ、短波放送で米国のラジオ局をとらえ
た。ニュースはソ連の戦車がごう音をたててプラハに侵入していることを報じていた。ダ
グマーは電話でチェテカ通信の当直に事態の推移を確認し、すぐ何人かの同僚と連絡を
取り合って通信社に向かった。  ラジオ局の近くを通り過ぎるころ、空港方面から戦車
が近づいてくる音を聞いた。飛行機は兵員と機材を輸送していたのだ。
54Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 00:36 ID:ZMJD0/1i
 ソ連側は直ちにテレビ、ラジオ局を押さえたが、通信社までは手が回らなかった。チェ
テカ通信は二十四時間フル回転した。二日後、数両の戦車が通信社のビルの前で止まった。
編集局は二階にあった。四人の兵士が自動小銃を抱えて翻訳室に入り、棚に積んであった
英語の新聞を見た。一人がヘルメットを脱ぐと、英字紙の一部を詰め込んでかぶり直す。

 ダグマーが「英語が読めるのね」と聞くと、「そうだ。でも実際に英字紙を見たのは始
めてだ」と答えた。スタッフはすぐに外に排除され、報道通信機材は破壊された。しかし、
スタッフが機転を利かして通信機材の一部はすでに近くのアパートに持ち出しており、翌
日にはアパートで再び仕事をしていた。

 同じころ、チェテカ通信東京特派員だったイボ・シュトルツ(六四)は「ソ連戦車隊、プ
ラハ侵入」との報を日光の旅館で知った。ソ連の戦車がプラハを踏みにじる信じられない
テレビ画像が飛び込んできて、ショックを受ける。シュトルツは直ちに妻マリシャと車で
東京に取って返し、翌日午前四時には自宅にたどり着いていた。

《無法に衝撃》 その一時間後に産経新聞からコメントを求める電話がかかってきた。日
本の新聞からの最初の電話取材だった。シュトルツは事件の衝撃から、「プラハの春」を
戦車で踏みにじったソ連の無法を糾弾した。

 東京特派員のソ連批判はやがて親ソ派の共産党幹部たちの耳に入った。その結果、チェ
テカ通信東京支局は閉鎖され、シュトルツは閑職に回される。 これが後に「産経新聞の
プラハ通信員となるきっかけだった」とシュトルツは語る。だが、この時はそんなことに
なるとは考えもしなかった。ひたすら東京の反応をテレックスで打ち続けた。シュトルツ
の原稿はロンドン経由で無事プラハに届いていた。

 プラハでチェテカ通信の記者たちが本社ビルに戻れたのは、戦車侵入から十四日後だっ
た。それ以後は検閲が厳しくなり、たちまちドプチェクの登場以前に戻った。ソ連軍の一
部は「共産主義支援」「正常化」を理由に一九九〇年までプラハの北に駐留する。

 「一九四五年にナチが出ていって、ソ連が入ってきた。チェコには同盟国もなく、だれ
も助けてはくれなかった。六八年も同じだ。小さなチェコに介入して核戦争になるよりは
ましという判断だろう」

 ダグマーは、チェコの北大西洋条約機構(NATO)加盟は決定的に重要であり、「マド
レーン・オルブライトは良い仕事をしてくれた」といとこの仕事ぶりを称賛した。 「私
にとって経済中心のEU(欧州連合)に入ることはどうでもいい。必要条件であっても十分
条件ではない。軍事機構のNATO加盟こそが、生存のために必要なことなのです」

 欧州の過酷な現実をくぐり抜けてきた人々の安全保障観は、日本とはあまりにかけ離れ
ている。四方を海に囲まれ、かつ米軍という最強の軍隊に守られている日本の現状は、ダ
グマーの想像をはるかに超えている。
55Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 00:45 ID:9tXGH07e
冷戦がはじまった!(14)  【マーシャル計画】国務次官は英国記者を招いた

 クリントン大統領が最も嫌っている評論家といえばウィリアム・サファイアをおいて他
にない。おそらくそれは、サファイアが核心を突いた批判の矢をたびたびニューヨーク・
タイムズ紙上で放つからだろう。サファイアは歴史に裏打ちされた論評をする保守派の論
客であり、彼の電話帳のように分厚い『新政治辞典』は時折、学術論文に引用されるほど
信頼性が高い。

《最初の演説》 この辞典の「冷戦」の項目で、興味深い記述にぶつかった。一般に「冷
戦」という言葉が使われ始めたのはジャーナリストのウォルター・リップマンが一九四七
年に出版した『冷戦−米外交政策の研究』からだと考えられている。

 ところがサファイアによると、前年に英国の前首相チャーチルがミズーリ州フルトンで
「鉄のカーテン」演説をしたのと同じころ、米上院議員のバーナード・バルーク(注2)が
サウスカロライナ州で「今日、私たちは“冷戦”の真っただ中に置かれている」と演説し
たのが最初だという。

 バルークの演説原稿を書いたのはハーバート・スウォープ(注3)で、それを聞きつけた
リップマンが、この「冷戦」を繰り返し使ってすっかり有名になったというのだ。なるほ
どスウォープが使用した時期は冷戦の始まりを象徴しているし、「鉄のカーテン」演説に
は批判的だったリップマンが、四七年に方向を転じたのも冷戦が広範に認識され始めたと
いう意味で正しい判断だった。

 リップマンの歴史的きゅう覚は『冷戦』を出版したその四七年の四月五日付ニューヨー
ク・タイムズ紙上で欧州経済が崩壊寸前にあると指摘し、「世界を混乱に陥れる」ことを
防ぐために「大規模な政治的、経済的な措置が必要とされる」といち早く主張したことに
も示されている。彼はさらに米政府に先駆けて五月一日付紙上で欧州復興計画の基本構想
を具体的に提案した。

 米政府部内でも、四月二十八日に国務長官マーシャルが一カ月以上にわたるモスクワの
外相会議から帰国し、大統領に欧州の惨状を報告していた。トルーマンは報告を受けて「欧
州回復の措置をとらなければならないとの信念を強めた」と回顧録に記している。

《危機的状況》 ソ連外相モロトフの態度から会議の参加者たちは、ソ連政府が西欧の混
乱と崩壊を必ずしも嫌っていないとの印象をもっていた。マーシャルは二十九日のラジオ
を通じた講演で、ソ連が西欧の復興を妨害している点を強調し、「一刻も早く手を打たな
ければならない」と語っている。

 実際に、トルーマン政権がマーシャル・プランの基本的な考え方を打ち出したのは、リ
ップマン提案の一週間後だった。国務次官のディーン・アチソンが五月八日にミシシッピ
州クリーブランドの大学で講演し、欧州の危機的状況への対応を政府の立場から具体的に
説明したのである。 ワシントンを離れる前にアチソンは三人の英国ジャーナリストと昼
食を共にしかいにた。アチソンはBBCはじめ三人のワシントン特派員に、欧州にとって
いかに重要な講演であるかを力説したと著書『創造に立ち会って』で明らかにしている。
56Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 00:47 ID:9tXGH07e

 米国民よりも、欧州に対して米国の断固たるメッセージを送る必要を感じていたのだ。
アチソン講演はマーシャル・プランのいわば序論であり、総論は一カ月後にマーシャル自
身によって発表された。 この間、欧州視察から戻った国務次官補のウィリアム・クレイ
トンの報告書がアチソンの手元に届く。クレイトンは欧州経済の実情にショックを受け、
「われわれは戦争による欧州経済の破壊状況を低く見積り過ぎていた」と反省を込めて書
いた。五年間に及ぶ戦争の惨禍は経済だけでなく政治、社会、そして人々の心理的側面に
まで及んでいたのである。

 クレイトン報告は欧州が再建されるまでの間、年二十五億ドルにのぼる石炭、小麦粉な
どが必要であることを主張しており、一読したアチソンは「もう、これ以上の研究は必要
ない。実行のためにどう組織化するかだ」と語っている。同じころ、政策企画局長のジョ
ージ・ケナンからもほぼ同様の報告が寄せられた。

 マーシャルはハーバード大学で卒業式の講演を頼まれていた。彼はこれを欧州復興計画
について話す良い機会だと考え、長官特別補佐官のチャールズ・ボーレンにクレイトンと
ケナンの報告を勘案しながら講演原稿を作るよう命じた。 マーシャルの講演が歴史的な
ものになると感じていたアチソンはハーバードで行うことには反対だった。自分の体験か
ら大学での講演は報道機関の関心を呼ばないとみていたからだ。だが、マーシャルが気軽
に講演を受け入れてしまったことから、少なくとも欧州には伝わるようにしなければなら
ないと考えた。

《ベタ扱い》 講演の前日、アチソンは再び英国の三人の記者を昼食に招き、マーシャル
講演の重要性を強調して、英国のベビン外相(注5)に講演のテキストがそれとなく届くよ
う依頼した。 マーシャルは六月五日、ハーバード大学で、世界経済を回復させ、自由な
体制を維持するために米国が欧州を援助する意思があることを表明し、「どのような政府
であれ復興に協力する用意があれば、米政府から完全な協力が得られると確信する」と対
象の範囲を広く示した。計画がソ連の勢力圏にある国にも開放されることを表明したのだ。

 演説は、欧州が主導権を握るべきであるとして欧州の誇りに配慮し、「国や原則に向け
られたものではなく、飢餓、貧困、絶望、そして混乱に向けられたものである」と慎重に
言葉を選んでいた。 国務省政策企画局のスタッフだったルイス・ハレーによると、当時
の米政府当局者は「もし冷戦が不可避なら、冷戦を始める責任をソ連でなく西側が負って
しまうような行動は避けたい」と考えていた。

 マーシャルが講演を行った日に、ワシントンではトルーマンがハンガリーで起こった共
産革命を「暴虐行為」と非難していた。翌日の米国の新聞はトルーマンの大統領声明を大
きく取り上げ、マーシャル講演はベタ扱いだった。 しかし、欧州での反応は違った。ト
ルーマンの『決定の日々』は「自由世界に対して電気が通じたようにただちに現れた」と
書く。BBCの記者から講演の全文を入手したベビンが真っ先に提案に応じる意思を伝え、
フランス外相のビドーがこれに続いた。欧州の新聞もラジオも講演をトップで伝えており、
アチソンの狙いは当たった。
57Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 01:13 ID:AerAb/cO
冷戦が始まった!(15) 【復興発進】崩れた地下室で花を飾る人々

 米国の国務長官ジョージ・マーシャルに関する資料はバージニア州レキシントンのバー
ジニア陸軍士官学校内の記念館にある。マーシャルは一九〇二年にこの士官学校を卒業し
て少尉に任官し、一時フィリピンに駐屯して、第一次大戦中はジョン・パーシング司令官
(注1)の参謀として活躍する。

《長官の原点》 レキシントンは首都ワシントンから車で三時間ほどの山間の町である。
高台にある士官学校から眺める冬のブルーリッジ・マウンテンは夕映えの中で美しい山肌
を見せていた。若き日のマーシャルは、この壮大な風景に包まれて四年間を過ごした。大
統領トルーマンが回顧録の中で「戦略家としてまた外交家として、海外でも彼くらい尊敬
されたものは米国でも少ない」と称賛したマーシャルの原点である。 欧州復興計画をト
ルーマン政権内で検討していたとき、大統領法律顧問のクラーク・クリフォードが「トル
ーマン・プランと名付けよう」と提案したことがあった。だがトルーマンは即座に否定し
た。議会に政敵が多く、自分の名前を聞いただけで反対に回る議員が増えてしまうという
のが理由だった。トルーマンは「マーシャル・プランとすべきだ」と逆提案した。

 この提案には、マーシャルは議会の受けがよいとのトルーマンの狡知が働いていたこと
は間違いない。しかし、回顧録を読むと、彼がマーシャルの軍人らしい簡潔さと要点をつ
いた語らいに敬意を払い、米国民に尊敬されている人間性を称賛してやまないことも伝わ
ってくる。 マーシャル記念館を案内してくれた歴史家ラリー・ブランドは「ハーバード
大学での講演後、マーシャルが最も気にかけていたのはソ連の反応だった」と語った。

 一九四七年六月五日に構想が明らかにされたマーシャル・プランはソ連の姿勢を見る試
金石になった。マーシャル自身はモスクワの外相会談を通じて、ソ連に和解や協力の意思
がないことを骨身にしみて感じ、必要ならソ連と対抗してでも欧州の復興に着手せざるを
えないと考えていた。

 講演の翌日、マーシャルは国務省でジョージ・ケナンとジェームズ・ボーレンの二人の
ソ連専門家に「ソ連は受け入れるだろうか」と尋ねた。二人はともに否定的だったが、「米
国はどの国も排除しないとの姿勢を貫くべきです」と進言した。

 「ソ連排除せず」の方針に、内と外で相反する反応が飛び出すのは明らかだった。米国
内では、議会が激しく反対することは十分、予想できたし、政府部内でも海軍長官のフォ
レスタルがソ連の参加を警戒していた。 しかし、対外的には西側がソ連に和解の最後の
チャンスを提供し、逆にソ連が拒否すれば「冷戦の引き金を引いた責任はソ連にあるとい
える」とブランドは指摘する。 重要なのはただ一点、ソ連に対しても門を閉ざさないこ
とであった。

《ソ連の圧力》 マーシャルのハーバード講演は、ソ連と東欧諸国を意識して「われわれ
の政策の対象は特定の国やイデオロギーでなく飢餓、貧困、絶望、そして混乱である」と
寛容さを示し、いかなる国であっても「米政府として全面的な協力を惜しまない」と誘い
かけている。すでにこの段階で米国はソ連の圧力に対抗して、地中海に戦艦ミズーリと空
母フランクリン・ルーズベルトを派遣し、英国の要請を受けてギリシャとトルコへの軍事
援助も開始していた。
58Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 01:17 ID:AerAb/cO
 英仏両国は六月十九日、ソ連に対しマーシャル提案に沿って三カ国外相会談を開くよう
提案した。 国務省政策企画局スタッフのルイス・ハレーは、ソ連がこの提案を受け取っ
た時点でのソ連内部の動きを「戦後の勢力拡大をこれ以上続けることは危険であり、歴史
の弁証法的発展の法則に従えば、いまや休止の時であり、敵を宥和するときであるとの考
えが存在していたかもしれない」とまず希望的側面から描いてみた。

 しかし、ソ連の外相モロトフが六月末にもたらした答えは「ニェット」という拒否の言
葉だった。ハレーは「スターリンとモロトフは“帝国主義”陣営の宿命的な弱みを見たの
かもしれない」とソ連指導者の計算違いを示唆した。

 トルーマンの外交顧問たちを描いた大著『ワイズ・メン』によると、この時、商務長官
になっていた前駐ソ米大使のアヴェレル・ハリマンは「モロトフは参加することによって
マーシャルプランを葬る機会を逃した」と後に語った。米政府内では案外、ソ連と対決す
る覚悟を決めていて、実際にはモロトフの反応にホッとしていたのかもしれない。

 モロトフの回答を受け、英仏両国政府はソ連とスペインを除くすべての欧州諸国にパリ
会議の開催を呼びかけた。東欧諸国の中でもチェコスロバキアの臨時政府が内閣の全会一
致で受諾し、ポーランドも参加を望んだ。だが、直ちにソ連の圧力でつぶされ、欧州分裂
の引き金となっていく。 結局、七月のパリ会議(注2)に参加したのは十六カ国であった。

《がれきの山》 トルーマンは欧州復興計画に四年間で百七十億ドルの投入を議会に求め、
この額は米国民所得の三%を下回ると説明した。マーシャル・プランが上下両院で採択
されたのは、ハーバード講演の一年後の四八年四月だった。

 ハリマンはまもなくマーシャル・プラン実施のための移動大使に任命され、パリにオフ
ィスを構えた。この時、ハリマンの軍事補佐官になったのが後の国連大使バーノン・ウォ
ルターズ(注3)である。現在フロリダに住むウォルターズは電話取材に対し、欧州各地を
訪れて最も印象深かったのは、がれきの山となったドイツだと語っている。

 崩れた地下室に住むドイツ人一家を訪ねた帰り、ウォルターズはハリマンに「彼らは立
ち直れるでしょうか」と聞いた。ハリマンは自信ありげに「テーブルの上の花を見たかい」
と聞き返した。確かにボールに活けた花がテーブルの上に置いてあった。 「この荒廃の
中で花を飾ることを考えられる人々は、きっと崩壊から立ち上がるさ」 共産党ゲリラが
暗躍するギリシャはやや違った。なお市民戦争(注4)のさなかにあり、ウォルターズはホ
テルで寝るときも、銃をまくらの下に置いて警戒するほどだった。

 計画は四八年七月に始まって三年間続き、米国は年間百二十五億ドルの貿易黒字を欧州
援助に還流していった。実際に経済復興にかかった仕事は予想を下回る百三十億ドルです
んだ。 東西冷戦の兆しは四五年二月のヤルタ会談で現れ、ポツダム会談を経て四七年の
トルーマン・ドクトリンで明確な形をとった。そして欧州復興計画であるこのマーシャル
・プランで欧州分断が確定する。
59Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 01:22 ID:y1d8XWSl
冷戦が始まった!(16) 【シベリア流刑】逃げれば死ぬから監視はゆるい

 手元に二本の録音テープがある。再生ボタンを押すと、やさしい老人の声が言葉を一語
一語、刻みながら語りかけてくる。その口調には古くから伝わる欧州の童話を読んでいる
ような音感がある。カナダのバンクーバー(注1)に住むユダヤ系カナダ人、ミクローシュ
・ホルバート(七六)が、遠く米東海岸のワシントン郊外に住む孫娘、ジリアンのために、
波乱の半生を語り継いだものである。

《苦難の人生》 ミクローシュが自らの個人史をテープに吹き込んで孫に送ったのは一九
九六年冬、ジリアンが十一歳のころだった。ジリアンは祖父の生涯を作文の題材に使って
先生に出したところ、小学校を代表してバージニア州マクリーン地区の作文コンクールに
提出された。 このテープを私に貸してくれたのは、当時、ジョンズ・ホプキンス大学外
国語センターの上級研究員だったジリアンの父アンドリュー・ホルバートだった。アンド
リューは三十年近くも東京を拠点に活躍しているフリーのジャーナリストで、外国人特派
員協会の会長も務めている。

 ミクローシュは一九二一年、後にハンガリーに割譲されるチェコスロバキアのカルパチ
ア地方で生まれた。昨年亡くなった妻のベロニカはハンガリーの首都ブダぺスト(注2)生
まれである。 ミクローシュ夫妻の物語はナチス・ドイツとスターリンの暴政にほんろう
される苦難の人生だった。これら全体主義者の手から逃れ、いわば亡命者として落ち着い
た先がバンクーバーなのだ。大西洋を渡り、大陸を横断するはるかな旅は、ホルバート一
家にとって希望への旅路であった。

 ミクローシュには、辛苦に耐えたもう一つの旅の思い出がある。一九四八年のシベリア
流刑である。ソ連官憲に政治犯として捕らえられ、家畜専用の貨車で凍土を横断した屈辱
的な記憶だった。 「それはおそらく数十万人、いや百万人単位だったと思う」 突然、
テープの声がかすみ、鼻声になって涙を流す様子が伝わってきた。声を詰まらせ、「ちょ
っと待って」と聞き役である息子のアンドリューに断る。

 「その貨車には、一車両に四十人が詰め込まれ、延々太平洋の端まで二十五日間にわた
る辛い旅だった。なぜ、こんなはめにあわねばならないのか。なぜ、ソ連という共産主義
の敵と考えられたのか。次々に疑問がわいてきた」

《突然の逮捕》 ソ連がナチス・ドイツを撃滅した当初、チェコスロバキアと同じように、
ハンガリーの人たちも彼らソ連軍を「解放軍」と考えた。しかし、まもなく彼らは隠して
いたきばをむくことになる。

 ミクローシュは突然、共産党幹部暗殺の策謀に加担したとして逮捕された。三日間の拘
留後、証拠が不十分なのに「占領軍にとって危険人物」との名目でソ連側に引き渡され、
まもなく簡易裁判所で二十五年のシベリア送りの略式処分が決まった。ソ連はロシア人政
治犯といっしょにミクローシュを六カ月も強制収容所にほうり込んだ。政治犯のほとんど
はドイツの捕虜だった人々で、ソ連は洗脳されたり、米国のスパイになっているのではな
いかとの恐れをもっていた。
60Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 01:24 ID:y1d8XWSl
 「問題は、自由な発言を許さないソ連のシステムにある。共産党政権は常に情報屋を泳
がせて市民を監視し、体制の敵かどうかを確認するためわなにはめる。その結果、国民の
半分が敵になってしまうような政治体制がいいわけがない」

 家畜用列車に詰め込まれてハバロフスク(注3)に着き、アムール川を渡って港町ソビエ
ツカヤガバニ(注4)で貨物船に乗り換えた。宗谷海峡を経てオホーツク海を北上し、沿岸
の町マガダン(注5)のさらに北の凍土に建つバラックがミクローシュの新たな生活の場に
なった。ハンガリーに帰るまで八年余りをここで過ごすことになる。 ソ連は戦後、囚人
を使って極寒の地の金鉱を掘っていた。逃げれば死ぬから監視は緩い。囚人がつくった道
路は死んだ人の頭がい骨でできているとささやかれたほどだ。

 ある日、砂に足を取られもう一歩のところで歯車に挟まれそうになった。ミクローシュ
のコートがコンベヤーの歯車に挟まっているのに他の囚人が気づき、コートを脱がせて寸
前で脱出することができた。またガス爆発後の地下の坑道で、ガスもれ確認中に気を失っ
て倒れたこともある。異変を感じた仲間が引き揚げてくれなければそのまま息を引き取る
ところだった。

 だが皮肉なことに、機械操作の技術を覚えたおかげで、後にバンクーバーですぐ就職す
ることができたし、六、七年後には自分で掘削機械メーカーをおこすこともできた。 一
九五三年にスターリンの死が伝えられ、「外国人はすぐ帰れる」とのうわさが収容所内に
流れた。しかし、変化が現れたのは、それから一年後だった。

《ソ連の介入》 ミクローシュは収容所長のオフィスに呼ばれた。机の上にはミクローシ
ュに関する文書がうずたかく積まれ、所長は「二週間かけて読んだが、君の容疑が何かが
分からない」と述べた。所長は一部がハンガリー語からの翻訳であることを指摘し、「翻
訳の間違いかもしれない。ハンガリー語の原文を自分で読んで、確認のうえ報告してくれ」
とおうような要求をした。

 そこにはオーストリアの強制収容所にいた人物が、米国の軍服を着ていたミクローシュ
の姿を見たとの証言があった。しかし彼はハンガリーの収容所にいたことはあってもオー
ストリアにはいなかった。この矛盾の問い合わせに対し、モスクワの裁判所から最終報告
が届いたのはそれから一年後の五五年十二月だった。二十五年の刑期を撤回して直ちに釈
放が決まった。 五六年夏、ハンガリーに帰った。到着まもない十月二十三日にポーラン
ドの自由化の動きに呼応して学生たちがスターリンの銅像を引き倒し、秘密警察が発砲す
る事件が起きた。ハンガリー動乱の幕開けだった。

 ハンガリー駐留ソ連軍は暴動の激化とともに撤退した。しかし、群衆に追い出されたハ
ンガリー共産党の要請を受ける形で十一月に入るとソ連の大規模介入が始まった。群衆に
向けた無差別の発砲、虐殺−。ミクローシュにはもう共産主義の経験はたくさんだった。
十二月十八日深夜、オーストリア国境を越えられるとの情報を頼りに持てるだけの荷物を
抱えて国境を越え、ウィーンに脱出した。 ホルバート一家はウィーンのカナダ大使館で
移民手続きを済ませ、西ドイツ、英国経由でカナダの東海岸にたどりついた。
61卵の名無しさん:01/12/28 07:30 ID:33Dd87R9
ゾロ会社=荒らし
どちらも世間の役に立たない
62卵の名無しさん:01/12/28 07:38 ID:lmHPMEP2
いくら何でも酷すぎないか?
アクセス規制を望みたいところだが、読んでると教養にもなるんだよな、これが(苦笑)。
63卵の名無しさん:01/12/28 07:42 ID:Dv17bUpA
シャネルは、終わったの?
64卵の名無しさん:01/12/28 07:52 ID:lmHPMEP2
ネタ元は産経新聞サイトなんだね。
代わりにコピペしてあげようか?(笑)
あと、コピペするならちゃんと最後まで(豆事典まで)コピペしてよ。
その方が読むときにタメになるから。
65卵の名無しさん:01/12/28 08:44 ID:I5/5jJ3P
煽りに反応するどころかお手伝いまで申し出るとわ。。。
奇特なお人でんなあ
66Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 11:30 ID:jiIMXEHZ

豆事典

(注1)バンクーバー カナダ西海岸にあるカナダ第3の都市。人口約160万。英国の探検
家、G・バンクーバーにちなんで命名された。18世紀後半、カナダ太平洋鉄道の建設工事
に伴って発展し、20世紀に入ってパナマ運河が開通したことから、穀物、木材輸出港とし
て大きくなった。カナダの太平洋側の玄関口であり、日系、中国系の移民も多い。

(注2)ブダペスト ハンガリーの首都。人口約200万。ドナウ川東岸の台地ブダと西岸の
低地ペストの2つの地区からから成り立っており、オーストリア・ハンガリー二重帝国の
もとで、1873年にブダとペストが合併してハンガリー王国の首都となった。

(注3)ハバロフスク ロシア極東地方最大の軍事都市。1658年、アムール川流域を調査し
たロシアの探検家、エロフェイ・ハバーロフが要さいを作り、19世紀に町が建設された。

(注4)ソビエツカヤガバニ ロシア極東地方のタタール海峡(間宮海峡)に面した良港。漁
業、缶詰製造、製材業などが主な産業となっている。

(注5)マガダン オホーツク海の北部のタウイ湾岸にあり、ソ連時代の1933年に計画的に
建設された港湾都市。

(注6)ハンガリー動乱 1956年10月23日に起きたブダペストの学生、労働者のデモをきっ
かけに、ほぼ2カ月にわたって続いた暴動。23日のデモは警官隊と衝突、翌24日に成立し
た穏健派のナジ内閣は大衆の要求を入れ、ソ連軍も一時、撤退して事態は沈静化するかに
見えた。しかし、暴動は次第に反共・反ソの傾向を強め、ナジ内閣がワルシャワ条約機構
脱退と中立を宣言したため、ソ連は政策を転換して軍事介入を再開し、暴動を鎮圧。ナジ
は反逆罪で処刑された。
67Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 11:31 ID:jiIMXEHZ
冷戦が始まった!(17) 【逃亡の日々】スパゲティはいまも口にしない

 昨年十月九日、バンクーバーに住むユダヤ系カナダ人、ミクローシュ・ホルバート(七
六)の妻ベロニカが死んだ。六月に脳腫瘍(しゅよう)が見つかってから、あまりにも早過
ぎる七十一歳の死だった。戦中戦後を通じ、ヒトラー、スターリンという全体主義の独裁
者の圧政に二度までも苦しめられてきた波乱の生涯だった。

《差別制度化》 夫のミクローシュは早朝、苦しみを分かち合ったベロニカの遺体と病院
で対面した。愛妻の死にミクローシュはその場で泣き崩れはしたが、それはわずか一、二
分のことだった。一人息子のアンドリュー・ホルバート(ジャーナリスト)には、すぐ悲し
みの感情を抑制してしまった父の姿がかえってふびんに思えた。 アンドリューは「もし
父が悲しみに耐えられない人であったなら、第二次大戦や冷戦時の過酷な体験を生き延び
ることはできなかったはず」とその強じんな精神力を語った。

 ミクローシュ・ホルバートが遠く米東海岸のバージニア州に住む孫娘のために吹き込ん
だもう一本の録音テープには、ナチスの追跡を振り切り、戦後は冷戦下で生きた「逃亡の
日々」が語られていた。

 ミクローシュとベロニカが生まれたハンガリーは、ナチス・ドイツの圧力をかわすため
第二次大戦開戦の前年の一九三八年、反ユダヤ法を制定して高等教育などでの差別を制度
化した。ハンガリーは親ナチスの姿勢をとったため、ドイツ軍の占領は辛くも免れた。

 ミクローシュは四二年に橋脚の部品をつくる労働大隊に所属していた。二年後には、ひ
そかに連合国と通じていたハンガリー政府がドイツの怒りに触れ、政権をはく奪された。
代わった親ナチ政権は一段と厳しい反ユダヤ政策をとり、首都ブダペスト以外に住んでい
たユダヤ人を根こそぎアウシュビッツに送った。わずか五週間で、四十六万人にものぼっ
た。ミクローシュの両親と三人の兄弟がこの中にいた。

 労働大隊のユダヤ人は収容所送りの代わりにソ連との最前線の地雷原にほうり出される
か、武器を与えられずに塹壕掘りを命じられた。絶望のふちにあったミクローシュは仲間
と謀ってグループをつくり、武器を集めてパルチザン(注1)になろうと計画した。 しか
し、列車から銃を奪おうとしたところを見つかり、結局、彼を含めた七人が収容所に送ら
れた。

《拾った軍服》 しばらくして収容所の病院側の壁が連合軍の爆弾で破壊された。ミクロ
ーシュは病気を装い、監視員が差し入れの食べ物に気を取られているスキに壊れた壁を抜
けて脱走に成功した。必死に走り、途中の理髪店に忍び込んで、つるしてあったコートを
盗んで身にまとった。

 妻のベロニカに再会できたのは、彼女の家族が疎開していたブダペスト郊外の別荘だっ
た。そこにはすでに追手がやってきて捜索したあとだった。彼はベロニカとその別荘を出
て、首都ブダペストの友人宅に別々の道をたどっていくことにした。ミクローシュは道に
迷っているドイツ軍の憲兵に「ウィーン方面はあっちだ」と偽ってちゃっかりブダペスト
まで憲兵のサイドカーに乗った。一方、ベロニカは赤十字のバスでやってきた。
68Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 11:32 ID:jiIMXEHZ
 それから一年間は、偽の身分証明書と拾ったハンガリー軍将校の服を着てユダヤ人であ
ることを隠し続けた。身分が発覚すれば、その場で殺されるかアウシュビッツ送りしかな
い。逃亡の日々が続いた。まだミクローシュ二十三歳、ベロニカ十八歳のころである。

 ある日、二人が路面電車(注2)に乗っていると抜き打ちの検問があった。ハンガリー軍
の軍曹が乗り込んできたため、ミクローシュは逮捕されることを覚悟した。ところが、そ
の軍曹は彼の軍服をチラッと見て、「失礼しました将校殿」と敬礼してきびすを返した。
背中を冷たい汗が流れ落ちた。

 ブダペストの戒厳令の夜、あるホテルに泊まっていると、ホテルのフロントから「ドイ
ツ軍がチェックに来るので身分証明書を用意しておくように」といわれた。二人は荷物を
まとめてその時をじっと待っていたが、明け方になってもドイツ軍は現れなかった。

 翌朝、ミクローシュがホテル側に尋ねると、「ドイツ軍は二階までチェックしたが、三
階以上は面どうくさくなっていかなかったらしい」と教えてくれた。二人が泊まっていた
のは三階だった。 ミクローシュの五人いる兄弟のうち三人がアウシュビッツで殺され、
もう一人生き残った弟は米国に亡命してニューヨークにいる。弟がニューヨークで洋服店
員になれたとき、ミクローシュはシベリアで強制労働に従事していた。

 一九四五年一月、ミクローシュとベロニカが隠れていた農家についにソ連軍がやってき
た。「逃亡生活も終わった」と思えた。ミクローシュはロシア語も話すことができたため、
しばらくソ連軍の通訳として働いた。兵士が、妊娠していた妻ベロニカにもっと食事をと
るよう勧めてくれたこともあって、はじめはソ連軍にも親近感を抱いた。

 二十五歳になったミクローシュは、ルーマニアに出かけては物々交換の貿易商のような
仕事をはじめた。オーストリアのホテルに滞在中に、だれかも分からない同宿者に電話番
号を教えたことがあった。これがその後、なんの容疑かも分からないままハンガリー官憲
に連行された原因であると彼は思っている。 ミクローシュは、ソ連側に引き渡され、簡
易裁判所の決定でシベリアに二十五年の略式処分を受ける。

《祖父の実像》 一人息子のアンドリューは「収容所では時折、スパゲティがでたらしく、
父はいまでも口にしない」と語る。八年余りのシベリア収容所の強制労働では、金鉱掘り
の粉塵で肺をやられ、手術を受けて半分は切除してしまった。

 愛妻を亡くしたミクローシュは自らの生涯を振り返って「人類が決して誇ることのでき
ない不幸な世紀だった」と述べた。しかし、東海岸に住む孫娘のジリアンに二本の録音テ
ープを聞かせることで、何かが伝わることにかすかな期待を抱いている。

 北米大陸の東と西に住んでいて、たまにしか会えないジリアンにとって、祖父ミクロー
シュは優しい遊び相手であった。しかし、送られた録音テープでミクローシュの波乱の半
生に衝撃を受け、ようやく祖父の実像をつかみかけている。祖父の方は「不幸な世紀」を
見つめる孫の世代に希望を見いだそうとしている。「新しい世紀に向かう人々の英知にね」
と優しい声が結んだ
69Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 11:33 ID:jiIMXEHZ
豆事典

(注1)パルチザン フランス語で、もとの意味は党員、仲間。武装した一般市民によって
組織された非正規の戦闘集団で、多くは正規軍と連携しながら、遊撃隊として活動する。
パルチザンの法的地位は1907年の陸戦の法規慣例に関する規則、49年の捕虜の待遇に関す
る条約で交戦者として確認されている。

(注2)ブダペストの路面電車 ブダペストの市電は戦後、バス、トロリーバスとともに市
民に愛用されてきた。また、市内には1894年に欧州大陸で最初に開通した地下鉄が走って
いる。
70Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 12:11 ID:he+9zOsK

冷戦が始まった!(18) 【ベルリン封鎖】人々は屈服することを拒んだ

 オルブライト米国務長官のいとこ、ダグマー・シモバに会うために訪れたプラハのホテ
ルに、あきらめかけていた相手から電話が入った。ドイツの誇る自動車メーカー、ダイム
ラー・ベンツ社の前会長エッツァルト・ロイター(七〇)のオフィスからだった。「明日の
午後、ボンにきてくれれば会える」との急な連絡だった。

《伝説の市長》 ロイターはベンツの経営を一九九五年五月まで指揮してきたドイツ経済
界の大物である。同時に戦後ベルリンの初代市長エルンスト・ロイターの息子であり、ベ
ルリン封鎖など数々の苦難の目撃者でもあった。父エルンストこそは、市民を飢えに追い
込もうとした全体主義の卑劣な手口に対し、敢然と戦いを挑んだベルリンの伝説的な指導
者であった。

 私は急きょ予定を変更してボンに飛んだ。ライン河畔の重厚な外交評議会ビルの一室を
訪ねると、拍子抜けするほど人懐っこい笑顔が待ち受けていた。気難しい財界の大御所の
イメージとはほど遠く、父エルンストの気迫に満ちた演説写真とも違っていた。

 現在は英仏独スペインの四カ国からなる欧州航空会社の評議委員長をしていて、このイ
ンタビューを終えたらすぐパリへ飛ぶのだという。エッツァルトは一九二八年にベルリン
で生まれ、ゲッティンゲン大学、ベルリン自由大学で数学、物理などを学んで、近くから
市長としてのエルンスト・ロイターの苦闘を見てきた。

 社会民主党(SPD)(注1)のベルリン市議だった父エルンストは、三一年にベルリンに
近いマグデブルクの市長に選ばれた。しかしアドルフ・ヒトラーが三三年に政治の実権を
握ると、エルンストはいきなり強制収容所にほうり込まれてしまった。二年後に収容所か
ら釈放されたエルンストは国外に脱出し、ロンドンを経てトルコのアンカラ大学で教授と
して公共政策を教えていた。

 ベルリンに戻れたのは敗戦後の四六年末である。父エルンストに従ってベルリンに戻っ
たエッツァルトが見た光景は、破壊された故郷の無残な姿だった。

 「しかも、その年は過去三年間で最も厳しい冬を迎え、住まいも食料もない。女性たち
はロシア軍兵士にレイプされ、市民は氷点下の街で生きることだけを考えていた。同じ敗
戦国の日本が幸運だったのは、あの貪欲なロシア軍に分割占領されず、寛容な米軍だけの
占領だったことです」

 一瞬のことだったが、エッツァルトの柔和な顔がゆがんだように思えた。エッツァルト
はこのインタビューの間、ソ連のことを「ロシア」と呼んでいた。ドイツ連邦共和国(注
2)の初代首相コンラート・アデナウアー(注3)も決して「ソ連」という言葉を使わず、
その拡張主義がイデオロギーにではなくロシアそれ自体にあると信じて疑わなかった。彼
らにとって共産主義は「正当化の粉飾」に過ぎなかったのである。
71Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 12:12 ID:he+9zOsK

《理想と現実》 ソ連軍占領の恐怖について、私は米国内でもドイツ系米国人の友人マン
フレット・ビターから略奪、暴行、放火など「ロシアの暴虐」として繰り返し聞かされて
いた。彼の妻ミヒテルトは地下の冷蔵庫に一年分の食料を備蓄している。その理由を尋ね
ると彼女は「戦中、戦後の教訓」をあげ、「でも母は三年分よ」と平然と語っていたこと
を思いだす。

 欧州の敗戦国ドイツは、エルベ川を東から攻めてくるソ連軍と、西から攻め上る連合軍
とが出会う線の取り決めに従って占領され、ベルリンは米英仏ソの四カ国が合同で統治し
ていた。ベルリンの悲劇は四大国の接点ではなく、ソ連の占領地域に奥深く離れ小島のよ
うに存在していたことだった。

 エッツァルトが大学に入学した四七年、父のエルンストはベルリン市長に当選した。し
かし、ベルリンの占領政策を扱う連合国管理理事会の構成国、ソ連が拒否権を行使したた
めに公式就任は許されなかった。

 エルンストはもともと共産党からの転向組だった。第一次大戦に参戦してロシアで捕虜
になり、一九一七年のロシア革命を目の当たりにして共産主義に傾倒した。翌年、ドイツ
に戻ってドイツ共産党の書記長にまでなった。

 しかし、現実は理想にほど遠く、やがてソ連の指導者レーニンがドイツも含め各国の共
産党を支配するコミンテルン(注4)をつくった。エルンストはこれに反対して二〇年に離
党し、社民党にくら替えした。戦後の社民党は、ドイツ共産党を「他国の帝国主義的な利
益のために操られる道具」と非難する反共主義者クルト・シュマッハー(注5)に率いられ
ていた。

 一九四八年になるとドイツの西側地域は、国家の枠組みへと一歩を踏み出し、憲法にあ
たる基本法の制定作業が始まっていた。そして六月の通貨改革の実施へと進んで行く。

《新通貨導入》 ソ連側は通貨の図版を押収して、東地区で印刷しては西側に流していた。
当然、インフレを拡大しドイツの復興に脅威を与える。西ベルリン市長に就任していたエ
ルンストは、たとえベルリンが東側占領地域の飛び地のような存在であっても、共産主義
を断固拒否して、西側通貨の導入を求めた。

 エッツァルトによると、父エルンストはこの時、「ヒトラー独裁の悪夢からさめた人々
が窮乏に耐えてでも再びスターリン独裁に甘んじることを拒絶している」と語っていたと
いう。

 国家が独自の通貨をもつことは、その国に主権があり、独立国家であることのあかしで
ある。 しかし、ソ連にとって西ドイツが安定した通貨を持つ独立国家になり、マーシャ
ル・プランに組み込まれることは、ドイツのソ連に対する要さい化に映った。ソ連側は四
月一日から鉄道輸送に対する妨害行為をたびたび実施するようになった。そして、ついに
「ベルリン封鎖」の日がやってくる。
72Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 12:13 ID:he+9zOsK
 ドイツの西側地域に続いてベルリンの西側でも新通貨が導入されると、ソ連はこれを口
実に一九四八年六月二十四日、ベルリンへの陸路と水路を完全に遮断した。食料はじめ必
需品が徐々に不足し、ベルリンは飢え、ソ連に屈服するしかなくなると思われた。

 しかし、ソ連政府は西ベルリン市民の意志の強さを過小評価していた。エッツァルトは
当時の市民が「どんな征服者の過酷な試みに対しても、打ち勝たねばならないと決意して
いた」と語る。しかも米英両国が六月末に西ベルリン市民二百三十五万人に対する大規模
な空輸作戦を開始した。西側から「空の架け橋」がかけられたのである。

■豆事典

 (注1)社会民主党(SPD) 1875年にドイツの改良主義派とマルクス主義派が合同して
社会主義労働者党が発足、1890年の社会主義者鎮圧法撤廃とともに社会民主党と改称され
た。ナチスの弾圧を受け、1933年に解散。第2次大戦後、西ドイツで再建され、59年のバ
ートゴーデスベルク綱領でマルクス主義と絶縁して国民政党の立場にたつことを示した。

 (注2)ドイツ連邦共和国 通称・西ドイツ。1949年5月に成立。ボンに首都が置かれた。
これに対し同年10月に成立したドイツ民主共和国(首都・東ベルリン)は東ドイツと呼ばれ
たが、冷戦後の90年10月3日、西ドイツ基本法23条に基づき、西ドイツが東ドイツを編入
するかたちで、ドイツ統一が実現、分裂国家に終止符を打った。

 (注3)コンラート・アデナウアー(1876−1967年) ワイマール体制下のドイツでケルン
市長、国家評議会議長などを務めたが、ナチスによって市長の座を追われ、1944年、強制
収容所に送られた。第2次大戦後、キリスト教民主同盟(CDU)創設に参加して党首とな
り、49年から63年までドイツ連邦共和国の初代首相として西ドイツを奇跡の経済復興に導
いた。

 (注4)コミンテルン レーニンらの指導のもとに1919年、モスクワで創設された国際共
産主義運動の指導組織。マルクスらが1864年にロンドンで結成した第1インターナショナ
ル(国際労働者協会)、1889年にパリで作られた第2インターナショナル(各国の社会主義政
党や労働組合の国際連合組織)に対し、第3インターナショナルとも呼ばれる。

 (注5)クルト・シュマッハー(1895−1952年) 1918年に社会民主党入党。党機関紙の編
集長、国会議員などを務め、共産党とナチスを激しく批判して33年からドイツが第2次大
戦に敗れるまで収容所に入れられていた。戦後、社会民主党を再建して党首となった。第
1次大戦で右腕を失っている。
73Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 21:40 ID:oBbnk55u
冷戦が始まった!(19)  【空輸作戦】航空機の轟音が心の支えになった

 ベルリン封鎖は冷戦の事実上の宣戦布告だった。飢えによって自由を奪おうとする非情
な行為に対し、米国はじめ西側はどうしたら応戦できるのか。地上軍で圧倒するソ連の前
に、核攻撃の選択の余地もあり得るのか。その答えは米駐留軍司令官ルシアス・クレイと
ベルリン市民が直ちに解いてみせた。

《苦渋の選択》 西ベルリン市長のエルンスト・ロイターを父に持つダイムラー・ベンツ
社の前会長、エッツァルト・ロイター(七〇)は当時を振り返って、こう分析している。

 「ベルリン空輸作戦はワシントンの苦渋の選択だったと思う。それは西側連合国とロシ
アとのもう一つの世界戦争を導きかねなかったからだ。トルーマン大統領は輸送機が撃墜
される懸念があるにもかかわらず、クレイ将軍の提言を受けて空輸を決断した。ベルリン
をロシアに差し出すことは西欧を失うことにつながると考えたからだ」

 ルシアス・クレイはこれまで、冷戦に突入することには最も抵抗を示してきた将軍だっ
た。だが、ベルリン市民に飢えを強いる行為に態度を一変させた。当初、クレイは列車に
護衛の小銃隊を増強して限定的な軍事力行使も辞さない覚悟を表明していた。しかし、新
国防長官フォレスタルは「大規模な衝突に対する十分な準備体制がない」との理由で却下
した。

 一九四〇年代末期に「鉄のカーテン」をはさんで対峙(たいじ)する地上兵力は、百二十
五対十四の比率でソ連軍が圧倒していたからだ。戦闘が拡大した場合、米軍には約三百万
のソ連軍に対抗できる兵力の展開がなかった。そこでクレイはドイツの三つの占領地から
輸送機を動員し、設備の貧弱なベルリンの二つの空港でも積み荷を十分に受け入れられる
ことを確認した。そして、この結果をもってワシントンに飛んだ。

 トルーマンの回顧録『決定の日々』によると、クレイは西ベルリンを放棄することがど
れほど悪影響を及ぼすかをホワイトハウスで訴え、西ベルリン市民の覚悟を伝えた。さら
に十分な量の食料、石炭を供給するために七十五機の輸送機C−47(注1)の追加を求めた。
トルーマンは閣僚や軍事顧問に意見を求めた。空軍参謀総長ホイット・バンデンバーグは
じめ多くが「戦闘が発生した場合に大半が破壊される恐れがあり、戦略上の能力を著しく
低下させる」と反対した。

 すっかり落胆したクレイは会議後、大統領にあいさつしてホワイトハウスを後にしよう
とした。その際、トルーマンは「空輸は確かにうまくやれるのかね」と尋ねた。クレイが
陸上輸送より戦争の危険が少ないと指摘すると、トルーマンは「では、飛行機を提供しよ
う」と応じた。

《市民を鼓舞》 空輸大作戦のシステムが出来上がった。ピーク時には、二十四時間にな
んと千三百九十八機が六十一・八秒ごとに発着し、一万二千九百四十・九トンの貨物を運
んだ。米軍だけでなく英国、フランスの軍も航空機を用立て食料、医薬品、暖房用の石炭
など生活にかかわるすべてが空輸された。昼夜の別なく飛来する航空機の轟音が、「西ベ
ルリン市民にとっては、心理的な支えになった」とエッツァルトはいう。
74Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 21:41 ID:oBbnk55u
 東西分裂を受けて西ベルリン市長に就任していた父エルンスト・ロイターは、東側の体
制の邪悪さを確信していた。彼のラジオから流れる演説は、ベルリン市民の痛切な思いを
世界に訴え、市民を鼓舞した。

 「世界の人々よ、この街を見てほしい。この街と国民を決して見捨ててはならない。こ
の戦いに勝ち抜くまで、敵に勝利し、暗黒の力に勝利する日まで、力を合わせて頑張りぬ
くしかないのだ」

 この叫びによって、ベルリンは自由を求めるドイツ市民を象徴する街となり、エルンス
トは西側から尊敬と信頼を勝ち得た政治家の一人となった。ソ連側が西の市民を絶望のふ
ちに追い込み、東側に誘い込もうとする狙いを打ち砕いたのである。

 フローラ・ルイスの著書『ヨーロッパ』が、このころの西ベルリン市民の心情をとらえ
た見事なジョークを紹介している。

 「東ベルリンの犬と西ベルリンの犬とが、それぞれ相手側の地区に行く途中、境界線で
ばったり出くわした。“なぜこっちに来るんだい?”東ベルリンの犬が尋ねた。西ベルリ
ンの犬が答えた。“腹が減っているからさ。何か食べるものが欲しいんだ。おまえこそど
うして西に行くんだい?”すると、東ベルリンの犬は答えた。“僕はほえたいんだよ”」

 飢えと背中合わせだった西ベルリンの人々は、米軍の空輸作戦を見て不屈の闘志をかき
たてていたのだ。日本の一部の知識層が、自由のない東ドイツを「社会主義圏の優等生」
と礼賛したことが、いかに空虚であったかが分かる。

 ワルシャワ、プラハ、ブダペストにも自由に立ち上がった人々がいたが、西側は支援に
までは踏み切れなかった。国務省スタッフだったルイス・ハレーは「もしソ連の挑発から
戦争になることを恐れてベルリン市民を赤軍に渡してしまえば、西側が防衛を約束した他
のすべての国民は、その約束がどれほどあてにならないかを疑ったに違いない」と述べ、
ギリギリの選択であったことを強調した。

 戦後、欧州で核兵器の使用が米国のオプションの一つになり得る事態は、このベルリン
封鎖だった。しかし、クレイの決断とベルリン市民の戦いは、核攻撃オプションが不用な
ことを証明したのではないか。

《大きな誤算》 それにしても、なぜ、ソ連は封鎖という危険を冒すことができたのか。
この疑問に対する一つの答えを、元国務長官キッシンジャーは著書『外交』で、外相を辞
任したばかりのアンドレイ・グロムイコ(注2)から直接聞き出したと書いている。

 グロムイコによると、当時、何人かの外交・軍事顧問がスターリンに憂慮を表明したが、
スターリンはこれを無視する理由を三つ挙げたという。まず米国はベルリンに核兵器を使
用しない。仮に米国が物資の護送隊を通過させれば赤軍が阻止に動く。そして米国が全戦
線で攻撃を仕掛けそうな場合は、スターリンが自ら最終的な決断をするという判断であっ
た。キッシンジャーは、武力で反撃の可能性があるときにのみ強硬策を撤回するスターリ
ンの行動様式を指摘している。
75Yoshiura@無能につき馘:01/12/28 21:42 ID:oBbnk55u

 だが、スターリンには大きな誤算があった。封鎖によって比較的容易に目的を達成でき
ると考え、西側の空輸能力と、それ以上に西ベルリン市民の意志の強さを過小評価してい
たのだ。スターリンの狙いは外れ、かえって米国の威信を高め西側陣営を結束させてしま
った。四九年四月に北大西洋条約(注3)が調印され、西側の軍事同盟である北大西洋条約
機構(NATO)ができると、翌五月にソ連は封鎖を解かざるを得なくなったのである。

■豆事典

(注1)C−47 ダグラス社が本格的商業輸送機として初めて開発した双発ピストンエンジ
ン機で、DC−3の名で1936年から各国民間航路に就航。軍用機としては42年から使われ、
C−47と呼ばれた。

(注2)アンドレイ・グロムイコ(1909−89年) ソ連科学アカデミーの経済学者だった1939
年にスターリンに直接、呼ばれて駐米参事官に任命され、4年後の43年には駐米大使とな
った。戦後は国連安保理ソ連代表、第1外務次官、サンフランシスコ対日平和会議首席代
表、駐英大使などを経て57年、外相に就任。83年には第1副首相を兼任した。外相の在任
期間は28年間に及び、「現代史の生き証人」などといわれた。また国連安保理では拒否権
を連発するところから「ミスター・ニェット(ノー)」と異名をとった。85年に辞任後は儀
礼的な国家元首であるソ連最高会議幹部会議長となった。

(注3)北大西洋条約 1994年4月4日、ソ連に対する集団安全保障を確保するため、ワシ
ントンで結ばれた条約。ベルギー、カナダ、デンマーク、フランス、アイスランド、イタ
リア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポルトガル、イギリス、アメリカの12カ
国が調印した。この条約に基づいてできた北大西洋条約機構(NATO)には理事会、常設
理事会、軍事委員会があり、軍事委員会の下にヨーロッパ連合軍(いわゆるNATO軍)最
高司令部、大西洋連合軍最高司令部、海峡連合軍最高司令部などが置かれた。
76卵の名無しさん:01/12/29 00:08 ID:lJ6FTX5d
沢井製薬20位です
みんなで投票しよ〜
http://www.ktplan.ne.jp/rentcgi/vote2/jakouin/vote.cgi
77Yoshiura@無能につき馘:01/12/29 01:02 ID:1v4IaKzY
>76

13位だろうが・・・、俺も何票かいれた。
順位も数えられないお前の知能程度は・・・
78Yoshiura@無能につき馘:01/12/29 01:06 ID:1v4IaKzY
■冷戦が始まった!(20) 【疑惑の旋風】3つの国を愛することなどできない

 米ソの冷戦が加速すると同時に、それぞれの国内では「内なる敵」の摘発が容赦なく行
われた。米国では共産主義者と疑わしい人物が標的となり、ソ連では帝国主義分子として
血の粛清の対象となった。

 ワシントン郊外の国立公文書館新館には、冷戦の初期にスパイに見立てられて調査され
た人々の個人ファイルがある。その中には、国務省高官のアルジャー・ヒス(注1)やジャ
ーナリストのウィタカー・チェンバーズのように世相を揺るがせたスパイ事件の主役もい
れば、簡単な調べを受けただけの人物もいる。

《「解禁文書」》 解禁文書のリストで目にとまったのが「李香蘭」、後の参院議員の山口
淑子(注2)である。波乱の人生を送った淑子に対する不幸な疑惑は上海から始まっている。

 この解禁文書によると、淑子は父親が満州鉄道に勤務していた関係で旧満州(現・中国
東北部)で生まれ、ラジオでデビューした後、日本の映画会社からスカウトされて日本で
は中国女優「李香蘭」として活躍した。敗戦は上海で迎え、一九四五年八月から八カ月間
にわたりスパイ行為の疑いをかけられて中国情報機関に軟禁された。

 山口淑子自身が東京新聞の九二年十二月二十五日付夕刊の連載「この道」という自伝的
な随想で、この体験に触れている。 「憲兵の監視付きで軟禁され、外部の情報は限られ
ていますから、疑心暗鬼と不安ばかりがつのります。中には“中国のスパイになれば、安
全は保障する”などの誘惑もありました」 随想ではやがて「私は敗戦で“李香蘭”から
“山口淑子”に戻り、“間諜”の疑い晴れて、焼け野原の祖国へ戻ることになるのです」
と述べている。

 しかし、帰国すると今度は占領軍によるひそかな追跡調査が待ち受けていた。四七年二
月二十一日付の連合国軍総司令部(GHQ)参謀第二部(G2)の文書には、淑子が戦後の日
本で「共産主義シンパ」として在京のソ連スパイと接触していたと記されている。

 この文書は、その人物の名を「ソ連のスパイ、エフィム・ボエボディンだった」と書い
ている。また、大使館の近くでCIC(米防諜部隊)要員が彼女に「この丘の上がソ連大使
館ですか」と尋ねたものの、知らないふりをしていたと報告している。

 同じ月の二十七日付文書では、ある情報提供者の話として、ボエボディンが淑子に接近
し、彼の自宅で開いたクリスマス・パーティーに彼女を招いた。だが、ボエボディンが淑
子に恋心をよせただけで「彼女が共産主義シンパやロシア人仲間の一員であるとの証拠は
ない」と報告している。

 当時、米軍の情報将校たちは日本語の教材に彼女の主演映画『支那の夜』(注3)を使っ
ていたし、エキゾチックな美しさをもつ淑子に近づく米国人は多かった。淑子自身はいま
もボエボディンの名前に記憶はなく、「当時はソ連の人との付き合いもなかった。偽名を
使っていた人物がいたか、何かの間違いでは」と首をかしげる。背後から何者かに追尾さ
れ、ひそかに疑惑の目を向けられるいやな時代であった。
79Yoshiura@無能につき馘:01/12/29 01:07 ID:1v4IaKzY
 しかし、これらの文書が記録されたために、淑子は後々まで米側から疑惑の目で追跡調
査されることが、別の「山口ファイル」で分かってくる。

 このころの米国は欧州復興には寛容だったものの、足元の社会に息づく反対勢力には魔
女狩りのような仕打ちで報いた。政治的な野心に燃えた共和党の上院議員ジョセフ・マッ
カーシー(注4)は「国務省に共産主義の同調者がいる」と扇動していた。一九五〇年には
ニューヨークの電気技師ローゼンバーグ夫妻(注5)がソ連の原爆スパイとして逮捕され、
五三年六月に死刑が執行されている。

《ビザ下りず》 マッカーシー旋風が吹き荒れるさなかの一九五二年十二月、淑子は米国
籍を持つ結婚相手の彫刻家イサム・ノグチ(注6)とともにニューヨークに行く準備をして
いた。しかし、淑子の「移民査証」は再三の申請にもかかわらず発給を拒否された。

 当時の日本の新聞には、「赤の疑い?下りない査証」の見出しが躍り、この時も淑子は
談話の形で「ロシア人に会ったことがあるかと聞かれましたが、まったく身に覚えがない
ことです」と述べている。だが米側の手元には、ボエボディンという人物との交流記録が
保管されていて、疑惑は一向に晴れなかった。

 随想の中で淑子は、イサムとの出会いを仲立ちした石垣栄太郎、綾子夫妻らとの交流や、
東京の総領事館で「米国に忠誠を誓いますか」と問われ「ノー」と反射的に答えてしまっ
たこと−などが拒否の理由だろうかと自問自答している。

 ビザ発給の拒否は、それらすべてが原因だった。パリの米大使館から国務省にあてた五
三年十月二十三日付の八ページにわたる公電がそれを示している。淑子は東京からパリに
飛んで、現地の米国大使館で発給の再申請をしていたのである。

 公電は東京の米大使館に照会して、ソ連スパイ宅のパーティーに再び触れ、さらにイサ
ムが米国共産党の一機関といわれたハリウッド芸術家・作家組合のメンバーであること
や、淑子の米国への宣誓拒否も指摘されている。

 淑子は宣誓について「日中の愛する二つの祖国の間で苦しんできたので、三つ目の国を
愛することなどできないとの思いから、ノーという言葉が出てしまった」と振り返る。公
電は、イサムの証言として淑子の英語の解釈に誤解があるとの主張が寄せられ、「再調査
はするがビザの発給が妥当」との結論を出している。淑子がビザの発給を受けるのは最初
の申請から一年半後の五四年五月だった。

 米本国のマッカーシー旋風がおさまったのはその五四年末で、朝鮮戦争と第一次インド
シナ戦争が終わっていた。淑子は随想に「米国の“反共ヒステリー”が収まり、入国査証
が出るころは、もう疲れ果てていました」と書いた。せっかくとった入国ビザだったが、
淑子は二年後の五六年にはイサムと離婚する。淑子が在ラングーン日本大使館勤務の書記
官、大鷹弘との婚約を発表したのはその翌年だった。
80Yoshiura@無能につき馘:01/12/29 01:09 ID:1v4IaKzY
《再度の登場》 だが山口淑子の記録はこれで終わっていない。米CIC所属の情報将校
ピーター・ドラガーリンに関する六七年十二月付の文書などに再び登場してくる。これは
ドラガーリンが昇級するさいの調書で、淑子が四七年に米側情報要員と交流のあったこと
が報告されている。だが、どの文書も淑子自身の情報活動への関与は触れられていない。

 冷戦期を通じて米国はソ連のスパイ活動に過敏であった。特に冷戦の最前線であるベル
リン、東京はスパイたちにとって過酷な情報戦争の主要舞台である。山口淑子の波乱の半
生も、時代にほんろうされながら、その華麗な交友関係の中で揺れ動いていた。(

■豆事典

 (注1)アルジャー・ヒス(1904−96年) 米外交官。1945年のヤルタ会談でフランクリン
・ルーズベルト大統領の補佐官、国連憲章制定会議では米国代表団事務局長などを務めた。
米下院非米活動委員会で48年、ソ連スパイの疑いをかけられ、ヒスは否定したが、偽証罪
で有罪とされ、3年8カ月、服役した。

 (注2)山口淑子(やまぐち・よしこ=1920年− ) 李香蘭の名で『白蘭の歌』『支那の夜』
などの映画に出演、人気スターとなり、41年2月の東京・日劇の歌謡ショー「歌う李香蘭」
は観客が殺到して劇場を7周半も取り巻く行列ができた。戦後は日本映画界に復帰し、ハ
リウッドで主演映画を撮るなど活躍。74年には自民党から参院選に立候補して当選、92年
に引退するまで、参院議員を3期つとめた。

 (注3)『支那の夜』 1940年の東宝映画。監督・伏水修。李香蘭、長谷川一夫の主演作
品で、空前のヒットとなった。

 (注4)ジョセフ・マッカーシー(1908−57年) 米共和党上院議員。1950年に国務省の秘
密共産党員205人のリストを持っているとの無責任な爆弾演説で「マッカーシズム」と呼
ばれる共産主義者追放運動を巻き起こした。しかし、54年には「上院の伝統に反する」と
非難決議を受け、影響力を失っていった。

 (注5)ローゼンバーグ夫妻 電気技士で共産党員のジュリアス・ローゼンバーグ(1918−
53年)と妻エセル(1915−53年)。ソ連に原爆の機密を渡していたとの容疑で逮捕され、無罪
を主張したが、スパイ罪で死刑となった。

 (注6)イサム・ノグチ(1906−88年) 米国の日系人彫刻家。父は詩人の野口米次郎、母
は米国人作家レオニー・ギルモア。代表作にパリ・ユネスコ本部の石庭やエルサレム国立
美術館彫刻庭園など。
81卵の名無しさん:01/12/29 19:30 ID:wYabrTjT
沢井製薬14位です
みんなで投票しよ〜
http://www.ktplan.ne.jp/rentcgi/vote2/jakouin/vote.cgi
82卵の名無しさん:01/12/30 00:44 ID:Q7To5zDP
11位にあがってるぞ!!
さすがは医薬品界のガチンコ企業ですな
83先発です:01/12/30 01:04 ID:kzHy8zqk
ここの荒らしって捏●しまくってきため
罪の意識で精神状態のおかしくなった開発員ちゃうか?
84Yoshiura@無能につき馘:01/12/30 06:57 ID:b6ICNp+R
■冷戦が始まった!(20) 【疑惑の旋風】3つの国を愛することなどできない

 米ソの冷戦が加速すると同時に、それぞれの国内では「内なる敵」の摘発が容赦なく行
われた。米国では共産主義者と疑わしい人物が標的となり、ソ連では帝国主義分子として
血の粛清の対象となった。

 ワシントン郊外の国立公文書館新館には、冷戦の初期にスパイに見立てられて調査され
た人々の個人ファイルがある。その中には、国務省高官のアルジャー・ヒス(注1)やジャ
ーナリストのウィタカー・チェンバーズのように世相を揺るがせたスパイ事件の主役もい
れば、簡単な調べを受けただけの人物もいる。

《「解禁文書」》 解禁文書のリストで目にとまったのが「李香蘭」、後の参院議員の山口
淑子(注2)である。波乱の人生を送った淑子に対する不幸な疑惑は上海から始まっている。

 この解禁文書によると、淑子は父親が満州鉄道に勤務していた関係で旧満州(現・中国
東北部)で生まれ、ラジオでデビューした後、日本の映画会社からスカウトされて日本で
は中国女優「李香蘭」として活躍した。敗戦は上海で迎え、一九四五年八月から八カ月間
にわたりスパイ行為の疑いをかけられて中国情報機関に軟禁された。

 山口淑子自身が東京新聞の九二年十二月二十五日付夕刊の連載「この道」という自伝的
な随想で、この体験に触れている。 「憲兵の監視付きで軟禁され、外部の情報は限られ
ていますから、疑心暗鬼と不安ばかりがつのります。中には“中国のスパイになれば、安
全は保障する”などの誘惑もありました」 随想ではやがて「私は敗戦で“李香蘭”から
“山口淑子”に戻り、“間諜”の疑い晴れて、焼け野原の祖国へ戻ることになるのです」
と述べている。

 しかし、帰国すると今度は占領軍によるひそかな追跡調査が待ち受けていた。四七年二
月二十一日付の連合国軍総司令部(GHQ)参謀第二部(G2)の文書には、淑子が戦後の日
本で「共産主義シンパ」として在京のソ連スパイと接触していたと記されている。

 この文書は、その人物の名を「ソ連のスパイ、エフィム・ボエボディンだった」と書い
ている。また、大使館の近くでCIC(米防諜部隊)要員が彼女に「この丘の上がソ連大使
館ですか」と尋ねたものの、知らないふりをしていたと報告している。

 同じ月の二十七日付文書では、ある情報提供者の話として、ボエボディンが淑子に接近
し、彼の自宅で開いたクリスマス・パーティーに彼女を招いた。だが、ボエボディンが淑
子に恋心をよせただけで「彼女が共産主義シンパやロシア人仲間の一員であるとの証拠は
ない」と報告している。

 当時、米軍の情報将校たちは日本語の教材に彼女の主演映画『支那の夜』(注3)を使っ
ていたし、エキゾチックな美しさをもつ淑子に近づく米国人は多かった。淑子自身はいま
もボエボディンの名前に記憶はなく、「当時はソ連の人との付き合いもなかった。偽名を
使っていた人物がいたか、何かの間違いでは」と首をかしげる。背後から何者かに追尾さ
れ、ひそかに疑惑の目を向けられるいやな時代であった。
85Yoshiura@無能につき馘:01/12/30 07:01 ID:b6ICNp+R
 しかし、これらの文書が記録されたために、淑子は後々まで米側から疑惑の目で追跡調
査されることが、別の「山口ファイル」で分かってくる。

 このころの米国は欧州復興には寛容だったものの、足元の社会に息づく反対勢力には魔
女狩りのような仕打ちで報いた。政治的な野心に燃えた共和党の上院議員ジョセフ・マッ
カーシー(注4)は「国務省に共産主義の同調者がいる」と扇動していた。一九五〇年には
ニューヨークの電気技師ローゼンバーグ夫妻(注5)がソ連の原爆スパイとして逮捕され、
五三年六月に死刑が執行されている。

《ビザ下りず》 マッカーシー旋風が吹き荒れるさなかの一九五二年十二月、淑子は米国
籍を持つ結婚相手の彫刻家イサム・ノグチ(注6)とともにニューヨークに行く準備をして
いた。しかし、淑子の「移民査証」は再三の申請にもかかわらず発給を拒否された。

 当時の日本の新聞には、「赤の疑い?下りない査証」の見出しが躍り、この時も淑子は
談話の形で「ロシア人に会ったことがあるかと聞かれましたが、まったく身に覚えがない
ことです」と述べている。だが米側の手元には、ボエボディンという人物との交流記録が
保管されていて、疑惑は一向に晴れなかった。

 随想の中で淑子は、イサムとの出会いを仲立ちした石垣栄太郎、綾子夫妻らとの交流や、
東京の総領事館で「米国に忠誠を誓いますか」と問われ「ノー」と反射的に答えてしまっ
たこと−などが拒否の理由だろうかと自問自答している。

 ビザ発給の拒否は、それらすべてが原因だった。パリの米大使館から国務省にあてた五
三年十月二十三日付の八ページにわたる公電がそれを示している。淑子は東京からパリに
飛んで、現地の米国大使館で発給の再申請をしていたのである。

 公電は東京の米大使館に照会して、ソ連スパイ宅のパーティーに再び触れ、さらにイサ
ムが米国共産党の一機関といわれたハリウッド芸術家・作家組合のメンバーであること
や、淑子の米国への宣誓拒否も指摘されている。

 淑子は宣誓について「日中の愛する二つの祖国の間で苦しんできたので、三つ目の国を
愛することなどできないとの思いから、ノーという言葉が出てしまった」と振り返る。公
電は、イサムの証言として淑子の英語の解釈に誤解があるとの主張が寄せられ、「再調査
はするがビザの発給が妥当」との結論を出している。淑子がビザの発給を受けるのは最初
の申請から一年半後の五四年五月だった。

 米本国のマッカーシー旋風がおさまったのはその五四年末で、朝鮮戦争と第一次インド
シナ戦争が終わっていた。淑子は随想に「米国の“反共ヒステリー”が収まり、入国査証
が出るころは、もう疲れ果てていました」と書いた。せっかくとった入国ビザだったが、
淑子は二年後の五六年にはイサムと離婚する。淑子が在ラングーン日本大使館勤務の書記
官、大鷹弘との婚約を発表したのはその翌年だった。
86Yoshiura@無能につき馘:01/12/30 07:02 ID:b6ICNp+R
《再度の登場》 だが山口淑子の記録はこれで終わっていない。米CIC所属の情報将校
ピーター・ドラガーリンに関する六七年十二月付の文書などに再び登場してくる。これは
ドラガーリンが昇級するさいの調書で、淑子が四七年に米側情報要員と交流のあったこと
が報告されている。だが、どの文書も淑子自身の情報活動への関与は触れられていない。

 冷戦期を通じて米国はソ連のスパイ活動に過敏であった。特に冷戦の最前線であるベル
リン、東京はスパイたちにとって過酷な情報戦争の主要舞台である。山口淑子の波乱の半
生も、時代にほんろうされながら、その華麗な交友関係の中で揺れ動いていた。(

■豆事典

 (注1)アルジャー・ヒス(1904−96年) 米外交官。1945年のヤルタ会談でフランクリン
・ルーズベルト大統領の補佐官、国連憲章制定会議では米国代表団事務局長などを務めた。
米下院非米活動委員会で48年、ソ連スパイの疑いをかけられ、ヒスは否定したが、偽証罪
で有罪とされ、3年8カ月、服役した。

 (注2)山口淑子(やまぐち・よしこ=1920年− ) 李香蘭の名で『白蘭の歌』『支那の夜』
などの映画に出演、人気スターとなり、41年2月の東京・日劇の歌謡ショー「歌う李香蘭」
は観客が殺到して劇場を7周半も取り巻く行列ができた。戦後は日本映画界に復帰し、ハ
リウッドで主演映画を撮るなど活躍。74年には自民党から参院選に立候補して当選、92年
に引退するまで、参院議員を3期つとめた。

 (注3)『支那の夜』 1940年の東宝映画。監督・伏水修。李香蘭、長谷川一夫の主演作
品で、空前のヒットとなった。

 (注4)ジョセフ・マッカーシー(1908−57年) 米共和党上院議員。1950年に国務省の秘
密共産党員205人のリストを持っているとの無責任な爆弾演説で「マッカーシズム」と呼
ばれる共産主義者追放運動を巻き起こした。しかし、54年には「上院の伝統に反する」と
非難決議を受け、影響力を失っていった。

 (注5)ローゼンバーグ夫妻 電気技士で共産党員のジュリアス・ローゼンバーグ(1918−
53年)と妻エセル(1915−53年)。ソ連に原爆の機密を渡していたとの容疑で逮捕され、無罪
を主張したが、スパイ罪で死刑となった。

 (注6)イサム・ノグチ(1906−88年) 米国の日系人彫刻家。父は詩人の野口米次郎、母
は米国人作家レオニー・ギルモア。代表作にパリ・ユネスコ本部の石庭やエルサレム国立
美術館彫刻庭園など。
87卵の名無しさん:01/12/30 10:53 ID:y752nzCh
沢井製薬14位です
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88Yoshiura@無能につき馘:01/12/30 12:22 ID:/8JYlXFt
冷戦が始まった!(21) - 【偽証の告発】人は母国を裏切り続けられるのか

 ソ連の共産主義を警戒して「封じ込め」戦略を築いた元駐ソ大使ジョージ・ケナンは、
国内でも深く潜行する「体制内のモグラ」の存在を早くから警告していた。ケナンの回顧
録『メモリーズ』の中に、国務省内のソ連スパイを示唆する興味深い記述が出てくる。

 「一九三〇年代末期に、米国の共産党員またはその手先が政府機関に浸透していたとの
事実は、やがて登場する右派によるでっち上げなどではなかったのだ」「当時、駐ソ米大
使館や国務省ロシア課のスタッフたちは、早い時期から彼らの行為に気づいていた」

 しかしケナンは、ルーズベルト政権が「ソ連専門家の警告に、まったく聞く耳を持たな
かった」とじだんだを踏んでいる。これに対し、次のトルーマン政権はすばやく反応し、
ソ連がヤルタ合意を無視して東欧支配に動き出した四七年十一月には、政府職員の忠誠を
審査する委員会を発足させた。

《米国共産党》 ケナンの回顧録は「共産党の手先」がだれであるかについては慎重に記
述を避けている。ただ、数ページ後にやがてソ連のスパイとして告発される国務省高官ア
ルジャー・ヒスとの接触場面がでてくる。駐ソ大使館にいたケナンは「一九四五年二月の
ヤルタ会談に出席したヒスがモスクワに立ち寄った」と淡々と書いているのだ。

 当時、摘発される側の米国共産党の実態はどのような状況にあったのか。米国の対ソ政
策が転換するこの時期に入党した経験を持つハバート・ロマーシュタイン(六六)にワシン
トンで会った。彼は後に転向し、いまではソ連情報機関の研究者として知られている。

 ロマーシュタインが育ったニューヨークのブルックリンは、共産党の活動が活発な地域
だった。十五歳で最年少党員になった彼は、市議選では大人たちに負けずに頑張った。当
時の共産党はシンパこそ多かったが全米で実数八万人足らず、ニューヨークがそのうち半
分を占めていた。このほかに隠れ党員が政府機関の中枢に潜り込んでいたことは後に分か
る。戦争中は反ナチスで共産党のイメージはそれほど悪くなかったが、ロマーシュタイン
が入党したころには、危険視される存在になっていた。

 入党二年後の五〇年に朝鮮戦争が勃発し、懐疑的な気分になっていたロマーシュタイン
はこれをきっかけに離党した。「自分がどちらに忠誠心をもっているかは明らかだったか
らだ」と彼はいう。入党希望者は平和への貢献や差別への反感など純粋な動機だったが、
「党が関心があるのはソ連に対する忠誠ばかりだった」と振り返る。

 ロマーシュタインは転向者の常として、共産主義の徹底した批判者となる。スパイ摘発
に熱心だった下院の非米活動委員会スタッフとして十年間働き、情報委員会に転じた。八
三年からはUSIA(広報・文化交流局)でソ連関係の情報収集に従事した。

 ロマーシュタインによると、米政府がソ連のスパイに関心を抱き始めたのは四六年ごろ
からだ。ソ連の暗号担当官が機密情報を抱えてカナダに亡命してきた。まもなく、米国の
原爆開発計画がソ連に筒抜けになっていたことが判明した
89Yoshiura@無能につき馘:01/12/30 12:24 ID:/8JYlXFt
《「えん罪説」》 しかし、ソ連スパイの活動に関する情報はこれが初めてではなかった。
四五年に元共産党員のエリザベス・ベントレーが米国には二つのソ連スパイ・ネットワー
クがあることをFBI(連邦捜査局)に暴露していた。三九年にもソ連のスパイでジャーナ
リストのウィタカー・チェンバーズ(注1)が国務省高官に共産主義者がいることを明らか
にしていたが、彼の言い分を聞こうとする人は少なかった。

 四八年になって非米活動委員会の公聴会で証言したチェンバーズは、アルジャー・ヒス
が共産党の元同志で政府機密文書を自分に渡した張本人であることを糾弾した。ヒスはア
イビーリーグ(注2)出身の外交エリートだっただけに、この告発は極めて衝撃的だった。
ヒスは偽証罪で有罪となり、三年八カ月服役した。

 しかし、その後もヒスのえん罪説は根強く、彼はソ連のスパイであることを否定し続け
たまま、二年前に九十二年の生涯を閉じている。ところが、ヒスの死から数日後、彼がス
パイ行為に関与したことを立証する極秘文書が、米国防総省国家安全保障局(NSA)の解
禁文書の中から突如浮上した。米国内のスパイからGRU(ソ連軍情報部)とMGB(国家
保安委員会KGBの前身)あてに発信した電文の米情報当局による傍受記録である。

 四三年九月二十八日付のニューヨーク発モスクワのGRUあて電文には「ネイバーがヒ
スの名による国務省からの情報を報告してきた」とあり、欄外にネイバーはソ連情報機関
メンバーの暗号名と記している。

 さらに四五年三月三十日のワシントン発モスクワのMGBあて電文には「アリスは一九
三五年から継続的にネイバーのために仕事をしてきた」「アリスと彼のグループは主に軍
事情報を入手している」とあり、欄外にアリスは「ヒスの暗号名」という脚注を付けてい
る。興味深いのは、アリスがヤルタ会談後にモスクワで軍の情報担当高官と会談している
ことをMGBに報告していることだった。

 欧州の戦後処理を決めたヤルタ会談に、ヒスは米大統領ルーズベルトの補佐官として随
行した。当時の写真を良く見ると、首脳たちの背後にヒスのうつむき加減の顔がある。ケ
ナンがモスクワでヒスに会ったと回顧録に書いたのは、この会談の帰りだった。

 これらの文書は、米国内で再び台頭しつつあったヒスのえん罪論を退ける役割を果たし
ていた。というのは、九二年に独裁者スターリンの伝記作家バルコガノフがロシア公文書
館から得たソ連KGB文書に「ヒスがスパイであることを示す証拠はない」と公表してい
たからだ。

 ヒスは情報機関のMGBでなく、軍のGRUのために働いていたので「基本的にKGB
文書にはない」とロマーシュタインは指摘する。モスクワを訪問したさいに他の証拠とと
もにそのことをルコガノフに突きつけると、彼は自分の間違いを認めたという。

《抑圧の現実》 それにしても人間は、母国を裏切り、仮面の下の自分を生涯偽り続ける
ことができるのだろうか。ロマーシュタインは「彼はソ連にではなく、最初の共産主義の
国家に忠誠心があったのだ」と述べた。
90Yoshiura@無能につき馘:01/12/30 12:24 ID:/8JYlXFt
 三十年もの間、ソ連に機密情報を流し続けたキム・フィルビー(注3)はソ連亡命後、反
体制作家ソルジェニーツィン(注4)への弾圧を知ると「われわれに責任がある」と叫び、
書記長ブレジネフがテレビに映るとスイッチを切った。ヒスが実際に共産主義の母国に亡
命していたら、自由抑圧の現実を前にどんな反応を示しただろうか。(ワシントン支局長)

■豆事典

 (注1)ウィタカー・チェンバーズ(1901−61年) タイム誌などの記者、編集者だったジ
ャーナリスト。1923年から38年まで米共産党の秘密党員で、48年に米下院非米活動委員会
でヒスに関する証言を行った。52年に自伝『ウイットネス』を出版している。

 (注2)アイビーリーグ 米東部の名門私立8大学(ブラウン、コロンビア、コーネル、
ダートマス、ハーバード、ペンシルベニア、プリンストン、エール)を指す。もともとは1900
年に非公式に結成されたフットボールのリーグ戦の名前で、その由来は伝統校でツタのか
らまる古い校舎を持つ大学の集まりだからという説、リーグ戦が4校からスタートしロー
マ数字で「IVリーグ」と書いたからという説などがある。

 (注3)キム・フィルビー(1912−88年) ジョン・ルカレやグレアム・グリーンの小説の
モデルにもなった英国の二重スパイ。英海外秘密情報部(MI6)の対ソ作戦の最高責任者
の地位にあった大物で、冷戦期にはフィルビーがひそかにソ連に流した情報で多数の英国
スパイが死に追いやられたといわれる。後にジャーナリストとなり、63年にベイルートか
ら姿を消してソ連に亡命した。

 (注4)アレクサンドル・ソルジェニーツィン(1918年− ) ロシアの作家。第2次大戦
中、独ソ戦の前線から友人にあてた手紙でスターリン批判をにおわせ、終戦直前に8年の
刑を宣告された。釈放後、学校教師をしながら文筆活動に入り、収容所生活を描いた『イ
ワン・デニーソビッチの一日』を発表した。67年から検閲などをめぐってソ連当局を批判
し、国内で発表できなかった『がん病棟』などを海外で出版。70年にノーベル文学賞を受
賞した。73年に『収容所群島』をパリで発表し、翌74年、ソ連当局に逮捕されて国外に追
放された。冷戦後の94年5月、ロシアに帰国している。
91卵の名無しさん:01/12/30 13:56 ID:fqSd3jZ/
こんにちは
921:01/12/31 00:58 ID:znN6SPGS
我が沢井製薬は武田薬品のジェネリックメーカーとして
再出発するそうです!!
93卵の名無しさん:01/12/31 01:27 ID:OOA65xrf
ポセビンは歴史に残る薬になったようです
94卵の名無しさん:01/12/31 01:46 ID:mAgQdnHN
>>87 のURLが間違っているので、投票はこちらへ
http://www.ktplan.ne.jp/rentcgi/vote2/jakouin/vote.cgi
第5位。
荒し軍団も投票に加わっているのだろうか。
95Yoshiura@無能につき馘:01/12/31 10:14 ID:lTbAMvqm
冷戦が始まった!(22) 【戦慄の兵器】 熊と仲良くするためにはマサカリが必要だ

 冷戦時代に核戦争がいかに現実と背中合わせだったかを実感したのは、中立国スウェー
デンの海軍基地ムスケを見たときだった。首都ストックホルムから車で南へ約一時間。地
下トンネルでスカンディナビア半島と結ばれた岩ばかりの小さな島である。

 ふつうの軍事基地と違うのは、高速艦や潜水艦がそっくり岩盤の中に隠れる世界でも珍
しい地下要さい島であることだった。二十五年かけて島の岩盤がくりぬかれ、三つの造船
ドックまで飲み込んだ地下の巨大空間である。

《「堅い殻」》 ソ連のベルリン封鎖に対抗して、米国に核攻撃のオプションもあり得た
一九四八年、スウェーデンは「戦慄の兵器」の衝撃に耐え得る地下の軍事基地を探り始め
た。国防省が領海内の約一千の島を調査し、首都に近く、岩盤のしっかりしたこのムスケ
を選定した。

 翌年九月には、米大統領トルーマンがソ連の原爆実験の成功を控えめに発表した。米軍
機が原爆実験によるとみられる放射性物質の証拠を入手したのだ。米国の「核の独占」が
崩れ、米国とその同盟国がソ連と同様に大量殺りくの危険にさらされることになった。

 スウェーデンの国防方針は、国全体を「堅い殻」にして「侵略されたら侵略者の手を焼
く」との抑止理論に基づいている。中立とはいえ、北端はソ連の海軍基地ムルマンスクに
近く、南端はソ連のバルチック艦隊が外海に抜ける出口にあって、「東からの脅威」に対
処している。

 私がムスケ基地を訪ねたのは八五年十二月だった。雪に閉ざされた外部と違って、内部
は暖房が行き届き、三階まで届く武器、食糧など二十万種類の備蓄にまず驚かされた。常
時千人が働き、戦時には三千人がストックホルムの王宮三十個分の地下空間におさまって
しまう。トンネルの底部に分厚いゴムを敷き、その上に建築物を乗せて、核の衝撃に耐え
られる構造になっている。三つある造船ドックの一つで駆逐艦、水雷艇などを数えてみる
と、七隻も入っていた。

 戦後の冷戦から今日に至るまで、この国は多くの核シェルターを作り上げてきた。軍事
基地ばかりか教会や地下鉄駅など公共施設の地下は堅い岩盤を利用している。疎開できな
い民間人のために、人口八百三十万の実に六六%を収容できるのである。兵器工場、石油
備蓄、格納庫も地下にあり、まさに「地表下のスウェーデン」が全国に張り巡らされている。

 国防省のグスタフ・ウェスベルイ報道官は「第二次大戦中、領土領空をわがもの顔に振
る舞うドイツ軍を抑止できなかった教訓からです」と説明した。苦い経験は、重武装なき
中立がいかにもろいものであるかを知らしめた。バルト海は戦後、ドイツに代わって「ソ
連の海」になっていた。
96Yoshiura@無能につき馘:01/12/31 10:15 ID:lTbAMvqm
《ソ連の侵入》 ムスケのような「堅い殻」に対し、冷戦期にソ連海軍が何度か侵入を試
みている。注目されたのは八一年十月のソ連潜水艦による領海侵犯座礁事件(注1)であっ
た。潜水艦がウイスキー級U137だったので、外国通信社から「ウイスキー・オン・ザ
・ロック」として打電された。

 「この事件が決定的だったのは、座礁した潜水艦に核魚雷が積まれていたことです」と
述べたのは、スウェーデン国際関係研究所のズデネーク・ヘイツラー研究員だった。座礁
で水面に出た魚雷発射管からウラン238が測定されたからである。とたんに五八年にソ
連が提案した北欧非核地帯化構想が色あせた。

 当時は北大西洋条約機構(NATO)が、米中距離ミサイル「ジュピター」「ソア」の西
欧への配備計画を進めていたころで、その後も非核化構想が練られていた。しかし、この
座礁事件は、国際政治にはいくつもの駆け引きと落とし穴が隠されていることを露呈して
しまった。

 その後も続くソ連の領海、領空侵犯についてヘイツラー研究員は「ロシアの古い格言に
“熊と仲良くしなさい。ただしマサカリを忘れずに”というのがある」と述べ、外交、国
防両にらみの姿勢を強調した。

 ソ連崩壊後、スウェーデンは、平和のためのパートナーシップ(PFP)協定(注2)の枠
組みに調印したが、国民皆兵制度はじめ国防の基本は変わらない。日本列島とほぼ同面積
の小国が、東西緊張のはざまで国家存立と自由のためにすさまじい執念を燃やしているの
である。

 さて、新国務長官ディーン・アチソンは、ソ連の原爆保有によって冷戦が新しい段階に
突入したことを認めざるを得なかった。対ソ封じ込め戦略を唱えながら軍事対決には懐疑
的なジョージ・ケナンが辞職し、アチソンは後任の政策企画局長にポール・ニッツェを指
名して「冷戦を戦うための指針」の作成を命じた。

《核軍拡時代》 これが冷戦政策のバイブルになる「国家安全保障会議文書第六八号」(N
SC−68)である。NSC−68は、米ソ間の対決が必然であり、大量破壊兵器の増大によ
って「すべての人間が常に絶滅の可能性に直面している」と考えた。さらにソ連の軍事力
の阻止、封じ込めという受け身の戦略ばかりでなく「ソ連システム内に壊滅の種を育てる
ことができる」と積極策に踏み出している。

 それにはより多くの核兵器が必要であり、威力の強い「原子核融合」爆弾を作らねばな
らなかった。核分裂でなく核融合による強力な水素爆弾の製造である。トルーマンは五〇
年四月にNSC−68を決定し、五二年には水素爆弾の実験(注3)に成功した。一年後にソ
連も爆発実験に成功して核軍拡時代を迎える。
97Yoshiura@無能につき馘:01/12/31 10:17 ID:lTbAMvqm
 その核超大国が上下両院議員用の巨大な地下核シェルターをウエストバージニア州の山
中に隠しもっていたことが明らかになった。ソ連崩壊後の九二年五月にワシントン・ポス
ト紙が暴露したのである。アイゼンハワー大統領の命令で、五九年から米国有数のリゾー
トホテルの地下二十メートルに、二年がかりで建設されていた。このころの米国は対ソ核
優位戦略をとり、核戦争の脅威が現実化することを否定できなかった。

 シェルターの基本構造はムスケ基地と似ている。三つある入り口は四十トンの鋼鉄の扉
で仕切られ、放射能で汚染されたことを想定して何重ものシャワーで洗浄される。フット
ボールのグランド二つ分のシェルター内には下院本会議場や病院があり、一千人が外部か
ら遮断されながら六十日間も生活できるよう設計されている。この施設は、米国が保有す
るものの一部とみられ、政府用施設などを含む核シェルターの全容はまだ明らかにされて
いない。

 過去、二つの都市が現実に核攻撃を受けながら、日本ほど核戦争に対する防備がおろそ
かな国はない。被災した側にあると訴えることで、攻撃対象から外されるとの錯覚が、こ
の国の安全保障心理を長く支えてきたのではないか。

■豆事典

 (注1)ソ連潜水艦の領海侵犯座礁事件 1981年10月28日、スウェーデン南部のバルト海
沿岸でソ連潜水艦が座礁。ソ連側は計器故障による事故と説明したが、スウェーデンの領
海内では、それまでにも国籍不明の潜水艦による領海侵犯事件が発生しており、スウェー
デン側はソ連によるスパイ活動と主張した。

 (注2)平和のためのパートナーシップ(PFP)協定 冷戦後の欧州大陸の安定をはかる
ため、北大西洋条約機構(NATO)が旧ワルシャワ条約機構加盟国と間の安全保障面での
協力拡大を目指した協定。1994年1月のNATO首脳会議で採択された。東欧諸国はロシ
アの強大な軍事力に対する警戒感からNATO早期加盟を求めたが、NATOの急速な東
方拡大にはロシアの反発が強く、代替案としてPFP構想が浮上。協定には東欧諸国のほ
か、中立政策をとっていたスウェーデン、フィンランド、さらに「特別な地位」を認めら
れる形のロシアも加わった。

 (注3)米国の水爆実験 米大統領トルーマンは1950年1月、米原子力委員会に水素爆弾
を含むあらゆる核兵器に関する作業を続けるよう特別声明を出した。この声明で米国の水
爆製造の動きは加速し、52年11月1日、太平洋上のマーシャル諸島エニウェトク環礁で世
界初の水爆実験が行われた。
98卵の名無しさん:01/12/31 10:53 ID:62LVyeXg
おいおい!ホントに5位だぞ
http://www.ktplan.ne.jp/rentcgi/vote2/jakouin/vote.cgi
99卵の名無しさん:01/12/31 17:39 ID:RP5I1v1M
止めてくれよ〜〜〜
この粘着荒らしのためにえらいことになってきた〜〜〜〜
100卵の名無しさん:01/12/31 18:36 ID:0WY4SA/7
100Get!!
http://www.ktplan.ne.jp/rentcgi/vote2/jakouin/vote.cgi
1200票目投票。
どこまで逝くのか。
101卵の名無しさん:01/12/31 19:04 ID:N1xpIk04
裁判はどうなったの?まだもめてんのか?大変やねぇ
102卵の名無しさん:01/12/31 22:45 ID:iZ3GEee6
5位以上は難しいと思う
103卵の名無しさん:01/12/31 23:40 ID:iZ3GEee6
104卵の名無しさん:02/01/01 00:28 ID:NTLSJVET
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105卵の名無しさん:02/01/01 09:05 ID:cNVcvwp9
>>102
>5位以上は難しいと思う

靴屋の息子に抜かれて、6位陥落。
今年の沢○を象徴することになるかも。
今年は、メルク・ホエイ、躍進しますぞ!
106卵の名無しさん:02/01/01 09:40 ID:nRYYAfCN
>>105
ヴァ〜カ
寄り合い所帯でジェネリック専業に勝てると思っているのか
107卵の名無しさん:02/01/01 11:10 ID:ER/aOPYh
>>106
がんばれ
108卵の名無しさん:02/01/01 11:41 ID:heEK+oBD
>>107
向こうは世界大手の資本をバックにした強者だよ。
どうして、形勢不利な沢○を応援しないで、帝国を応援するのかな。
判官贔屓は日本人の特質だったはず。
グローバルスタンダードの名を借りたアメリカナイズも、ここまで来たか。
嘆かわしいよ。
産経新聞をもっと読め!
109卵の名無しさん:02/01/01 12:09 ID:SJAhDsgR
>>108
>判官贔屓は日本人の特質だったはず。

寄らば大樹の陰、これもまた日本人の特質です。
SさんもMさんも、それぞれ頑張っていただくということで……
110外資:02/01/01 16:18 ID:/vvmpWpU
ジェネリック専業と言ってもたかだか従業員数が500人ぐらいの
中小企業。こんな零細レベルであれだけの商品数を出して販売して
るのが不思議。アメリカではあり得ない。以上
111卵の名無しさん:02/01/01 18:12 ID:vlRwZI5W
>>110
腐れ外資
裁判で負けてココで意趣返しかヨ
112卵の名無しさん:02/01/01 23:40 ID:zEDAv24R
>>107産経新聞?さすがは3流メーカー
113卵の名無しさん:02/01/02 02:23 ID:a/XRr0Lf
おいおい!6位にさがったぞ
http://www.ktplan.ne.jp/rentcgi/vote2/jakouin/vote.cgi
114鶴原:02/01/02 09:09 ID:TG+wSt3q
>>110
>ジェネリック専業と言ってもたかだか従業員数が500人ぐらいの
>中小企業。こんな零細レベルであれだけの商品数を出して販売して

従業員が500人もいれば、わしらから見て、とんでもない大企業ずら。
115先発です:02/01/02 11:28 ID:+8g8WjDW
>114
従業員499人以下は企業分類では中小企業だろう
後発で規模的にそこそこの企業規模と言えるのは東和だけでしょう
でも東和も売上は話にならないほど少ないけどね
企業規模が小さいと対応、品質管理などが不十分にならざるを得ない
ので医薬品を総合的に扱うのは普通は不可能
後発品で問題が続出するのは仕方ないといえる
116卵の名無しさん:02/01/02 20:44 ID:gqP3i0nJ
荒らしはさすがに正月休みか?
117卵の名無しさん:02/01/02 21:13 ID:FggNqjSs
           http://1.????
         http://1.????????
        http://1.??.._?.._?????
       http://1.??.._?????????
      http://1.?.._????????????
     http://1.?????.._?.._?.._?.._???.._?
    http://1.???????.._???.._????.._?
    http://1.??????????????????
    http://1.??????????????????
      http://1.???.._?.._?.._?.._?.._??
     http://1.?.._?.._?.._?.._?.._?.._?.._.._?
    http://1.?.._?.._??.._?.._?.._?.._?.._?.._?
     http://1.??.._?.._?.._?.._?.._?.._?.._?
118卵の名無しさん:02/01/02 23:09 ID:F0ANyhcl
>>115
>企業規模が小さいと対応、品質管理などが不十分にならざるを得ない
>ので医薬品を総合的に扱うのは普通は不可能

これには同意。
ゾロの数が多すぎる。
少なくとも後発専業の販社は数社に限って、総合的なサポート体制を充実すべき。
後発専業の販社は御三家(東和、沢井、メルク・ホエイ)に残ってもらって、
残りのゾロは、大手の受託製造、業態変更、廃業清算等を検討すべきでしょう。

FDAのOrangeBookがin_vivoの生同性試験で後発薬剤をランク付けするのに対して、
日本版がin_vitroの溶出試験にとどまっているのは、一部憶測の厚生官僚の天下り先確保ではなく、
そもそもゾロの数が多いことに起因しています。
今年は不良・悪質ゾロが一掃、淘汰されることを希望します。
119卵の名無しさん:02/01/02 23:54 ID:aYkI0/Yr
まず、この問題を解決してもらわないと

 http://ton.2ch.net/test/read.cgi/hosp/1004974268/l50
120卵の名無しさん:02/01/03 00:07 ID:Mb8ny5ua
>118
御三家と言っても東和に比べると沢井、メルクホエイは企業規模が
中小すぎる。特に優秀な人はみんな外資へ行った旧模範社員中心
のホエイは本当にやる気があるのかどうか・・
沢井はポセビンみたいな製剤を販売しているようでは・・・
121卵の名無しさん:02/01/03 03:47 ID:qvPUTkCD
>>120
>沢井はポセビンみたいな製剤を販売しているようでは・・・

http://ton.2ch.net/test/read.cgi/hosp/1004974268/424-432
原因が外注先にあっても、販社としての責任を明確にしてもらわないと……

http://ton.2ch.net/test/read.cgi/hosp/1004974268/418
自分に責任がないと言い張るのは、真摯さに欠けるし、再発防止をしようという意思が感じられない。
122産経新聞:02/01/03 13:29 ID:S8LINrIz

>>112

>産経新聞?さすがは3流メーカー

その産経新聞の『社説』を盗用する「大新聞」もあるんだよね。
123産経新聞『主張』:02/01/03 13:30 ID:S8LINrIz

『主張』(社説)   産経新聞 2001年10月23日

中国に対する政府開発援助(ODA)削減が確実になった。外務省の
削減案を自民党が了承したもので、小泉純一郎首相が江沢民国家
主席との会談でも伝えた。極めて妥当な政策判断といえよう。

ODA予算の削減は「聖域なき構造改革」の柱の一つである。とくに
年間二千億円にのぼる対中ODAについては、軍事力増強や歴史
教科書問題での修正圧力などから国民の反発が強かった。だが、
中国の経済発展の側面からみても、対中ODAの必要性は急速に
縮小している。

中国沿海部は十分なインフラ整備と産業・技術集積が進み、今や
「世界の工場」となった。そこから輸出される低価格の電子電機製
品は強い競争力を持ち、東南アジアの輸出に打撃を与え、米国も
日本も多額対中貿易赤字を抱えるに至った。

さらに眼前にせまった世界貿易機関(WTO)加盟が呼び水となって
中国への海外直接投資は昨年後半から過熱、今年も昨年の四百
億ドル(実行ベース)を大幅に上回る勢いだ。資金は十分だろう。
しかも、中国は多額の援助を受ける一方で、昨年だけで友好国に
四億ドルもの援助を行っている。

にもかかわらず、中国が被援助国なのは内陸部との貧富の差が
激しく、一人あたりの平均所得が千ドルにも満たないからだ。援助
対象はこれら地域への民生支援と日本への酸性雨被害などを防ぐ
環境対策にシフトすべきだろう。そうすれば対中ODAは必然的に
大幅な削減が可能になる。

東南アジア各国の経済は、テロによる米景気のさらなる悪化の影
響と好調な中国の輸出のしわ寄せで苦しんでいる。とくに、周辺国
に比べ開発が大きく遅れているベトナムやカンボジアなどからは、
ODAを減額しないよう強い期待が寄せられている。

テロに関連した新たなODA需要も出てくる。「タリバン後」のアフ
ガニスタンの政治的枠組みづくりと復興に日本が深くかかわれば、
ODA供与が不可欠になる。援助凍結の解除が検討されている
パキスタンなど周辺諸国への支援も必要だ。

圧縮されるODAは効率的に使わねばならない。それには不要
不急な対象を思い切って削減し、必要なところに配分する以外に
ない。
朝日新聞『社説』01/10/28

■対中ODA――減額は自然なことだ

 中国に対する政府の途上国援助(ODA)を今後どう展開していくのか。外務省が基本
方針となる「対中国経済協力計画」をまとめた。

 中国の経済は沿海部ではすでに中進国段階に入っている。そうした地域のインフラは基
本的に中国が担えばよい。日本の援助は、水資源の管理や森林保全といった環境対策や、
貧困対策に重点を移したほうがよい、というのが計画の柱である。

 ODA大綱は、援助が軍事的用途に使われないようにすることや、被援助国の軍事支出、
大量破壊兵器の開発・製造に注意することなどを盛っている。それらの原則を中国側にも
っと理解してもらうよう努力することも計画は明記している。いずれも以前から指摘され
ていることで妥当だと考える。むしろ問題は、日本の途上国援助全体の中での中国の位置
づけという視点が欠けていることである。

 中国が70年代末期に改革開放路線に転じたのを受けて、日本はODAの供与を始めた。
背景にあったのは、中国が豊かになり国際社会に組み込まれていくことは、アジア地域の
安定につながり日本の国益にもかなうという判断である。99年度までの援助総額は約2
兆7千億円に上る。うち約9割が円借款だ。外務省によると中国の鉄道電化の35%、1
万トン級以上の大型ふ頭建設の13%が円借款によるもので、経済発展に大きく寄与した。

 今や中国は、「世界の工場」といわれるほどの一大生産拠点となった。世界的な不況下
で唯一高度成長を遂げており、海外から途上国への直接投資を独り占めしているといって
も過言ではない。中国はもはや経済建設資金を援助に頼る必要がなくなった、という見方
も出ている。すでに国際開発協会(第二世銀)やアジア開発銀行は、中国を超低利長期の
特別融資の対象からはずしている。

 経済発展の恩恵はまだ内陸部まで及んでいないとはいえ、対中ODAは当初の目的を相
当程度達成したといえよう。いつまでも対インドネシアODAと並ぶ最大規模の援助を続
けるべきではあるまい。

 政府は財政難から来年度のODA予算の1割削減を決めている。限られた予算を有効に
使うためにも、供与先の優先順位は見直さなければならない。日中関係の重要性や、国交
正常化にあたって中国が賠償請求を放棄した事実を踏まえつつも、対中ODAは減額して
いくのが自然である。

 外務省によると、中国は昨年、58カ国に対して総額4億5千万ドルに上る援助を実施
した。そのことについて、日本側には何の説明もされていない。これでは、相互の信頼関
係に傷がつきかねまい。日本からの援助についても、中国政府は相変わらず国民に十分な
説明をしていない。援助にあたっては、使い道とその効果を双方が明確に共有することが
大切だ。
125卵の名無しさん:02/01/03 17:15 ID:xdJ7Hl6H
>>123-124
名物(?)の荒らしが戻ってきた。
荒らしにも、正月に帰るべき故郷があったんだね。
冷戦が始まった!(23) 【大物スパイの独白】真実に迫るな、電文を処分しろ

 ワシントンのナショナル・プレスビル(注1)の近くで時折、見かける人物が気になって
いた。元ソ連KGB(国家保安委員会)の大物スパイ、オレグ・カルーギンである。探し当
てた彼のオフィスは、プレスビルからわずか五分足らず。正面に彫刻をあしらった社名の
わきに「ニューヨーク証券取引所会員」と刻まれた資本主義の手先のようなビルの中にあ
った。

《国家のため》 大きな身ぶりで迎えてくれたカルーギンは現在、公職を辞して投資情報
ビジネスに身を投じ、ワシントンとモスクワを往復する毎日だという。しかし冷戦期の話
になると、いきなり「KGBの作戦展開はいまのようなやわな情報収集ではなかった」と
火を噴いた。 「敵の政府内部に深く潜入して扇動、謀略、転覆をはかることであって、
それなくして諜報の意味はない。情報取りだけなら新聞や雑誌を読めばいい」 冷たい戦
争を戦い抜いてきた筋金入りの諜報部員なのである。

 「戦争がドイツの敗北、ソ連の勝利で終わったとき、まだ子供だった私は二度とドイツ
軍に占領させないよう、国家のために何ができるかを考えた」 カルーギンは「階級の敵
を打ち砕き、共産主義の教義を世界に拡大したい」との結論に達した。一九五二年に陸軍
士官学校を出たが、軍ではなく、平時から敵の中に潜入し、場合によっては国家転覆をは
かるKGBで働くことを選んだ。このころの自分をカルーギンは「一〇〇%スターリニス
トだった」と述べる。

 しかし、独裁者スターリンを継いだフルシチョフは五六年二月の第二十回共産党大会で
スターリン主義を批判(注2)し、秘密警察の支配を非難した。この演説は、ソ連国内はも
とより世界に衝撃を与えた。東欧の衛星諸国ではスターリン派の指導者が窮地に陥り、西
欧の共産党は独自の道に踏み出した。

 フルシチョフもまた、ソ連の権威主義を他国に押し付けるやり方はスターリンと同じだ
ったが、スターリン時代にはないことが起きた。二十四歳のカルーギンに五八年、米国留
学の機会が与えられたのだ。ニューヨークのコロンビア大学に留学し、やがてモスクワ放
送のニューヨーク特派員、六五年から五年間はワシントンのソ連大使館に広報官として赴
任した。もっとも特派員も広報官も表向きの顔で、実際はKGB所属の諜報部員であった。

 事前にKGB諜報学校で教えられていたため、米国の繁栄も貧困も、そして高層ビルに
も驚くことはなかった。しかし、長く住むにつれ、米国にあってロシアにないものが目に
ついてくる。人権、言論の自由、そして多様性だった。

《キング牧師》 KGB要員カルーギンは人種差別撤廃を求める黒人指導者、マーチン・
ルーサー・キング牧師(注3)に近づいた。狙いは米政府攻撃への扇動である。ところが交
流が深まるにつれ、キングの無抵抗主義と真摯(しんし)な姿勢にひかれていった。カルー
ギンの日記には、キングの発言として「自宅が爆破され、家族が傷つくことを恐れている。
しかし、いま真実と権利のために立ち上がらなければ、道義的な死を迎えるだけである」
と書かれている。
127Yoshiura@無能につき馘:02/01/03 19:48 ID:q2YUNBNw
 当時、米国では黒人指導者への脅迫が続いていた。キングの自宅に爆弾が仕掛けられた
ことが判明して、興奮した黒人群衆が集まってきたことがある。キングは「武器を持つ者
は去れ」と諭した。カルーギンにはキングの言葉が座右の銘となった。

 ソ連の戦車が「プラハの春」を踏みにじったチェコスロバキア事件の当時、カルーギン
はKGBワシントン支局長代理だった。ソ連の報道機関から「米国とNATO軍の特殊部
隊がチェコにできた親ソ政権の転覆を計画している」との情報が入った。カルーギンは当
時、CIA(米中央情報局)や軍情報機関を含む米政府の極秘情報を入手するルートを持っ
ていた。急いで情報をチェックし、米軍がチェコ事件に関与する兆候がないことを確認す
ると、すぐKGB議長のアンドロポフ(注4)あてに暗号電報を打った。

 だが、その事実を前にしてもソ連のプロパガンダは西側の介入を声高に流し続けた。ア
ンドロポフの反応は「すぐ電文を処分しろ。だれにも見せるな」だった。カルーギンはい
ま、苦々しい気持ちで「真実に迫るな、誤った情報で自国民すらだます必要があるという
ことなのだ」とソ連首脳部の欺まん性を非難する。

 「私はその一人になりたいとは思わなかった。チェコ事件の六八年八月が私にとっては
上層部と見解を異にする始まりだった」

《忠誠心今も》 それにしても当時の米政府は、ホワイトハウスを除いて、ペンタゴン(注
5)も国務省も無防備だった。カルーギンによると、国防総省内でKGB要員が昼時に部
屋をぶらつき、人影がないのを見計らって机の上の機密書類を簡単に盗み出すことができ
たという。

 「尾行をまくぐらいは訓練を積んでいれば簡単なことだ。われわれは銃撃や警笛がなっ
ても決して走らず、沈着冷静に行動する。群衆の中からも、必要な会話をえり分けるのだ」

 左翼系出版社のパーティーで金髪の美人が近づいてきたことがある。彼女のアパートに
他の一人と誘われ、政府要人と親交があることを聞かされた。ある日、夜九時に来るよう
にいわれたが、用心のため一時間半早く行くと、驚きながらも新しいダグラス社製の航空
機計画書を押し付けようとした。受け取りを断り、九時前に退去した。計画書を受け取っ
た上、九時を過ぎれば、待っているのはFBIによるおとり捜査の手錠だからだ。 フロ
リダに車で遊びに行ったときも、FBI要員がつけてきたが、途中で故意にパンクさせ、
尾行のFBIに声をかけて修理を手伝わせた。

 カルーギンがショックを受けたのは、八〇年の配置転換だった。理由はKGB要員がC
IAのスパイとして疑われた際に彼をかばったためだった。とたんにモスクワの対外防諜
局長の座から、自国民を監視するレニングラード(現サンクトペテルブルク)本部副部長に
回された。
128Yoshiura@無能につき馘:02/01/03 19:49 ID:q2YUNBNw
 やがてカルーギンが「ロシアの地平をひらいた」という新しい指導者ゴルバチョフが登
場し、ペレストロイカの時代に入る。ベルリンの壁を砕き、東欧の自由化を呼び込み、ソ
連崩壊の引き金となった。カルーギンがKGB少将を退役して国会議員になったのは九〇
年二月だった。彼は「ソ連共産主義は数百万人を粛清した最悪の政治システムだった。し
かし、依然として私が祖国ロシアへの忠誠心を抱いていることを忘れないでほしい」とい
う。確かに、以上のすべての話が扇動、謀略、転覆に通じたオールドKGBの独白である
ことも忘れてはならない。


■豆事典

 (注1)ナショナル・プレスビル ワシントン中心部にある13階建てのビル。ナショナル
・プレスクラブをはじめ、各国の新聞社、通信社の支局などが入っており、米国の政治の
中心、ワシントンの取材、報道拠点となっている。

 (注2)スターリン批判 スターリンの死去3年後の1956年2月のソ連共産党大会で党第
1書記フルシチョフが秘密報告を行い、大量粛清で無実の人々が処刑・弾圧され、それを
スターリン自ら指導していたことなどを暴露した。報告は公表されなかったが、米国務省
が6月にすっぱ抜き、世界に衝撃を与えた。フルシチョフは61年10月の第22回党大会で再
びスターリン批判を行い、スターリンの遺体をレーニン廟から出すことが決議された。

 (注3)マーチン・ルーサー・キング(1929−68年) 米国の黒人指導者。ガンジーの非暴
力主義に学び、牧師として赴任した米南部アラバマ州モントゴメリーのバス・ボイコット
運動で無抵抗主義による人種差別廃止運動の指導者として注目された。公民権運動に指導
的役割を果たし、1964年にノーベル平和賞を受賞。テネシー州メンフィスで遊説中に暗殺
された。

 (注4)ユーリー・アンドロポフ(1914−84年) ソ連指導者。1967年からKGB議長。82
年11月、ブレジネフの死後、党書記長に就任し、ソ連の最高権力者となったが、在位1年
3カ月で死去した。

 (注5)ペンタゴン 米国防総省の通称。バージニア州アーリントンにある米国防総省の
建物が上から見ると5角形であることから、こう呼ばれている。
129Yoshiura@無能につき馘:02/01/03 20:33 ID:NWjbuPni
冷戦が始まった!(24) 【アジアの防壁】日本経済を復興させた「恐怖の連鎖」

 冷戦は欧州を舞台に、ソ連がその版図を拡大したことから始まった。恐怖の連鎖は、東
西の相互に防衛ラインの拡大をもたらし、西側のソ連「封じ込めライン」は、やがて中東
から南アジアを通って朝鮮半島にまで延長されていく。

《募る警戒感》 米国では、欧州を重視する国務長官ジョージ・マーシャルと、東京の連
合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官ダグラス・マッカーサー(注1)との関係が次第にギ
クシャクしていった。そのマッカーサーが一九四七年二月に突然、議会あてにメッセージ
を送り、日本の非軍事化と民主化が達成され次第、早期講和によって占領の終了があり得
ることを表明した。

 驚いたマーシャルは、対ソ戦略の理論家である政策企画局長ジョージ・ケナンを東京に
派遣した。中国が内戦で混乱し、欧州が経済的な苦境にある中で、日本が真空地帯となっ
てソ連の影響を受けることを警戒したからだ。ケナンの回顧録『メモリーズ』によると、
東京行きには、陸軍省が情報担当の将軍コートランド・スカイラーを監視のため随行させ
た。しかも、東京でケナンを待ち受けていたのはマッカーサーの冷たい視線であった。

 一九四八年二月、シアトルを離陸した軍用機は吹雪に巻き込まれ、アリューシャン列島
を島伝いに南下した。東京まで三十時間もかかり、到着したのは午前四時。帝国ホテルに
着いてからも煩雑な用事に追われ、ケナンは結局、四十八時間も眠りから遠ざかったまま
マッカーサーとの昼食に臨んだ。 ところが、国務省嫌いのマッカーサーは二時間の昼食
の間、もっぱらスカイラーに向かって日本国内の事情を解説した。

 主賓であるケナンはメモをとる役回りに徹していた。 おかげで、この時のケナンのメ
モが三月一日付文書として詳細に報告され、国務省文書「米対外関係」に収められている。

 そのメモによると、マッカーサーはソ連が軍事力で日本を制圧しようとしても、「すで
に自由を享受した日本人は共産主義を受け入れはしないだろう」と語った。ケナンはマッ
カーサーが日本人を過大評価していると記し、早すぎる講和条約の締結は日本から米国を
追い出す口実となり、代わりにソ連の影響力が高まる危険があると指摘している。

 ケナンはこの後二回、マッカーサーと会談し、「マッカーサーはソ連による日本の共産
化攻勢に無防備であり、日本人が共産主義に同調しないとする議論のパターンには同意で
きない」と繰り返し懸念を表明している。ケナンはさらに、日本が「太平洋安全保障シス
テムの礎」でなければならないと指摘し、沖縄の米軍基地にある空軍力だけで日本本土を
防衛できるとするマッカーサーの楽観論に警戒感を示している。

《認識の時差》 GHQ外交局スタッフだったリチャード・フィン(八〇)は、ケナンが日
本を「封じ込めライン」の防壁として対ソ戦略の中に位置づけたのに対し、マッカーサー
は日本の武装解除と民主化に重点を置き、両者に認識の「時差」が生じていたことを指摘
した。この認識の差が埋まるのは五〇年六月に北朝鮮軍が三八度線を突破したときだった。
130Yoshiura@無能につき馘:02/01/03 20:34 ID:NWjbuPni

 ケナンは帰国後に、講和の延期、日本の軽武装、沖縄基地の長期使用などを提案した。
彼は特に、日本経済の復興が「冷戦の防壁」になると考えた。 日本への共産主義の浸透
に関し、ジョージ・ケナンは何を根拠に対ソ警戒感を強調していたのだろうか。米側から
見た不安の種はいくらでもあった。米メリーランド州の国立公文書館新館に保管される解
禁文書からは、米国が大内兵衛ら経済学者のソ連礼賛を懸念し、都留重人ら進歩的文化人
を共産党シンパとして警戒する様子がうかがえる。四六年元旦の朝日新聞は二面で独裁者
スターリンを「消えぬ革命家の情熱」と持ち上げていた。

 解禁文書の中には「東アジアの各国共産党に不穏な動きがある」と、いくつかの兆候を
示す報告もある。米軍第九七一防諜部隊(CIC)が四八年にまとめた報告書『コミンフォ
ルムと朝鮮労働党』は、日本共産党、中国共産党、朝鮮労働党がひそかに連携して「東方
解放大同盟」を結成し、かく乱、破壊工作を密議していたとしている。

 この報告書によると、四五年十二月にソ連軍の将軍が招集した準備会合を経て、四七年
五月には中国東北部ハルビンでアジア各国の共産党幹部が集まって一カ月間の大会議を開
いた。その結果、「東方解放大同盟」が結成され、十一月には「アジア社会主義同盟」と
改称している。「同盟」の最高指導者は中国共産党の朱徳(注2)で、ナンバー2が後に日
本共産党を除名される野坂参三(注3)だった。

 これより少し前の四七年九月には、欧州の共産党の代表がポーランドに集まり、「欧州
支配の意図を持つマーシャル・プランに対抗する」との名目で東欧諸国をソ連に従属させ
るコミンフォルム(注4)を創設していた。「同盟」はそのアジア版である。

 米大統領トルーマンの頭痛のタネは、日本に君臨する太平洋の英雄マッカーサーの米国
内での政治的影響力であった。そこでマッカーサーが大統領選の予備選で敗退し、撤退す
るのをじっと待った。ひとたびマッカーサーが政治的に脅威でなくなると、トルーマンは
直ちに行動を起こした。

 四九年二月、デトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジ(注5)を日本に送り込んだ。ドッジ
は米国の援助に頼る日本を「竹馬経済」と揶揄し、「インフレには厳しい手段で対応し、
できる限り速やかに均衡予算を達成する」との引き締め策を迫った。

 しかもGHQは企業整理にかこつけて共産主義者の排除に乗り出した。「コミンフォル
ム司令第一七二号」という文書を入手していたからだ。この司令は「発電所、送電線、送
電施設などを破壊する」「活動を妨害する重要人物の行動を監視し、反動的人物を暗殺す
る」などと共産党に武力闘争を指示し、行動計画として「十二、三万丁のピストルで武装
する」と明記してあった。
131Yoshiura@無能につき馘:02/01/03 20:37 ID:NWjbuPni
 この文書を入手した米国が、冷戦の深刻化に伴い、どれほど神経をとがらせていたかが
理解できる。日本国内では熱病のようにレッドパージ旋風が吹き荒れ、一方でドッジライ
ンが日本経済をインフレから救って復興の軌道に乗せた。

 しかし、米国は中国で国民党支援に失敗し、朝鮮戦争の勃発で、恐怖の連鎖から「封じ
込めライン」拡大へと傾斜していく。その結果、一九六〇年代にはアジアで抜き差しなら
ない局面に立たされていった。ベトナム戦争である。

         ◇  「冷戦が始まった」はこれでおわり。


豆事典

(注1)ダグラス・マッカーサー(1880−1964年) 米軍人。第2次大戦で西南太平洋方面連
合軍司令官として対日反攻作戦を指揮。戦後は日本占領連合国軍最高司令官となった。50
年には朝鮮戦争で国連軍司令官に任命されたが、戦線の中国への拡大問題でトルーマンと
対立、51年に解任された。

(注2)朱徳(1886−1976年) 毛沢東、周恩来と並ぶ中国共産党指導者。軍事の専門家とし
て抗日戦で国民革命軍第八路軍などを率い、1949年の中華人民共和国成立後は全国人民代
議員大会の常務委員長など党長老としてまとめ役にまわった。

(注3)野坂参三(1892−1993年) 大逆事件の影響を受けて日本共産党に入党。2度検挙さ
れた後、「眼病の悪化」を理由に保釈中の1931年(昭和6年)、ソ連に亡命した。第2次大
戦中は中国共産党に協力して反日宣伝工作を行い、戦後は帰国して58年から82年まで日本
共産党議長。ソ連亡命中に同行した日本共産党指導者、山本懸蔵をスパイと密告し、山本
が銃殺されていたことが、旧ソ連内部文書で判明して92年に党を除名された。

(注4)コミンフォルム(共産党・労働者党情報局) 米国のソ連封じ込めに対抗してヨーロ
ッパ9カ国の共産党が1947年に組織。50年には1月6日付機関紙で日本共産党の平和革命
戦術を批判した(コミンフォルム批判)。56年、スターリン批判後に解散。

(注5)ジョセフ・ドッジ(1890−1964年) 米国の財政金融専門家。1933年、デトロイト銀
行頭取。第2次大戦後、ドイツ占領米軍司令官の金融顧問として西ドイツ通貨改革を立案
し、49年には日本占領軍総司令部の財政金融顧問として来日し、吉田内閣を指導して新し
い財政経済政策(いわゆるドッジライン)を実施させた。
132江戸時代の庶民生活:02/01/03 21:01 ID:Ek3DkX8x
江戸時代の庶民の生活

●えどじだい江戸時代

1603年、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いてから
1867年、幕府が倒れるまでの264年の間を江戸時代という。
この時代は700年にわたる日本の封建制の体制が最も強化・完成された時代である。
政治の面では、将軍の下に大名があり、それぞれの藩を支配した。
当時の人々はその職業によって身分=階級が分けられ
士・農・工・商をはじめ、公家・僧侶・神官
のほか、非人・穢多(エタ)等の特殊のものが法律によって身分を規定された。

それらの身分は自由に変更することは原則的には許されず、
当時の人口の1割にすぎぬ武士階級が
支配階級として政治上の権力を握っていた。
この時代のすべての人々は強い封建制度・封建意識によって縛られていた。
忠君・孝行、主人に対する絶対的服従をその倫理としていた。
幕府は動揺する政権を正徳・享保・寛政・天保の諾改革によって
立て直そうとしたが結局は失敗に終った。

経済的には、商工業が非常な発達を示し、町人の力が大きく、商業の発展は
次第に封建的体制を動揺させていった。
この時代の武士階級の経済的基盤は農民の貢租=土地の上に置かれていた
ため・商業の進展・生活の向上のため・武士階級は経済的窮乏に追い込まれていった。
町人の中には高利貸資本家として大名・幕府の財政を一手に握る者もふえていった。
これら農・工・商等・なかんずく農民層は全生活にわたって詳細な規則で縛られ、
極めて制限された自由しか与えられていなかった。

町人の台頭につれて、町人の力を背景に町人文化が生れ、元禄・文化文政の
町人文化黄金時代を現出し、歌舞伎・浮世絵・浮世草子等町人生活を中心とした
文化が栄えた。
学問の分野では儒学、なかんずく朱子学は御用学として栄え、
それと共に幾多の流派の儒学も普及した。
一方国学・蘭学・自然科学一般の勃興も江戸中期からみられ
これらの中から封建制批判の精神が芽生えてきた。
また俳諧・川柳・狂歌も庶民層の広い支持の下に隆盛を極めた。
133江戸時代の庶民生活:02/01/03 21:03 ID:Ek3DkX8x
●ぱくはんたいせい 幕藩体制

江戸時代の政治支配体制をいう。徳川家康は関が原合戦後論功行賞を行い、
諸大名に領地を与えたり、
配置換えを行つた。家康は将軍となり、幕府を江戸に創め(1603)諸大名を
統御する中央集権的封建国家を完成した。
諸大名の領地を藩といい、藩内の政治は各大名に一任された。

将軍は全国の土地3000万石のうち約700万石の豊饒地・重要地を
支配したほか、交通の要地・金銀山・重要都市を直轄す。
幕府の組織は,将軍の下に老中・若年寄が置かれ、必要な場合は
それらの上に臨時の職として大老が置かれた。
その他寺社・勘定・町の三奉行が置かれ種々の行政にあたる。

行政監督役に大目付・目付が置かれ,地方の重要地たる京都には
所司代を置き公家に関する事柄と町の政治を行わす。
直轄地支配は郡代・代官・奉行による。これらの職に任ぜられるものは
すべて譜代大名・旗本であったが、政治は将軍独裁の傾向強し。

各藩の職制も大体幕府に倣い,藩主の下に年寄または家老が政治を執り、
藩主の留守の間は城代が留守役となり、藩主在国の時は留守役が江戸屋敷を預かった。
これら大名には親藩・譜代・外様の3種が徳川氏との関係の親疎によって定められる。
大名統制には,配置に苦心を払ったほか、武家諸法度を定め、
幕府の命を守るらしめ、藩政を監督し、勝手に築城したり、大名同志の自由な
婚姻等固く禁じ、違反者は厳罰に処した。また参勤交代制を実施した。

朝廷に対しては表面は尊敬の意を表わしながら、
実は禁中井公家衆諸法度等で種々の干渉を行つた。

幕藩体制下の一般人民は、武士の下に農・工・商等の職業によって
階級が分けられ、それぞれの自由の範囲が定められ、自由に
その職業をかえることは禁じられていた。
これら農・工・商に対して支配階級たる武士は切捨御免の不文律の特権を有した。
幕藩体制は明治維新と共に滅ぶ。


疑問や矛盾

全体としては、一部の武士が権力を握り、その他のものが
虐げられたような印象を受ける記述である。
たしかに、教科書の記述と大枠で違いはないようであるが、
このくらいの分量にまとめてみると、非常に無理が目立ってくる。
134江戸時代の庶民生活:02/01/03 21:30 ID:MtxECyoJ
1.封建体制

「日本の封建制の体制が最も強化・完成された時代」
「商業の発展は次第に封建的体制を動揺させていった」
「これらの中から封建制批判の精神が芽生えてきた」
「封建時代は明治維新をもって終わりを告げる」とされているが

何が言いたいのだろうか?、自ら封建制度という悪玉を創作し、
それを勝手に揺るがした風に解説しているように見える。

2.町民の台頭

これら農・工・商等・なかんずく農民層は全生活にわたって
詳細な規則で縛られ、極めて制限された自由しか与えられていなかった」と
しながら、「町人の台頭につれて、町人の力を背景に町人文化が生れ、
元禄・文化文政の町人文化黄金時代を現出し,歌舞伎・浮世
絵・浮世草子等町人生活を中心とした文化が栄えた。

いったい「士農工商」の他に「町人」という階級が存在したのだろうか?

3.経済に対する感覚

経済的には、商工業が非常な発達を示し、町人の力が大きく、商業の発展は
次第に封建的体制を動揺させていった。

経済の発展が、もたらした真の恩恵はいったい何だったのだろうか、
それが、明治以降にどのような作用を及ぼしたのだろうか?、
そういった視点は、歴史の専門家には無いのだろうか?

この時代の武士階級の経済的基盤は農民の貢租=土地の上に置かれていたため
商業の進展・生活の向上のため・武士階級は経済的窮乏に追い込まれていった。

この部分は、全く因果関係が理解不能である。
135江戸時代の庶民生活:02/01/03 21:31 ID:MtxECyoJ

江戸時代の税 江戸時代は「五公五民」だったか?

山本七平の「日本人とは何か―神話の世界から近代まで、その行動原理を探る〈上下巻〉PHP
研究所」の中にある、「五公五民は搾取だったか」という文を紹介しよう。

ある人から面白い話を聞いた。ある左翼進歩的教授が、徳川時代の農民は五公五民でどれ
だけ苦しめられたかを講義した。これは明治以来の定説で、今では教科書や通俗歴史書の
殆どすべてに記され、だれ一人疑わない"常識"である。だが、そのとき一人のアメリカ人
学生が質問した。「では日本はその米をどこへ輸出していたのか?」

教授には質問の意味がわからなかったらしく、しばらくぽかんとしていたが、やがて狼狽
の色を浮かべて絶句し、立ち往生してしまった。この"白紙"のアメリカ人学生の質問は、
小学生でもわかるきわめて単純な計算から成り立っていた。

徳川時代を通じて、農民の人口は全人口の84%前後、後期には、推定人口三千万のうち、
武士7%、工商6%、その他3%とするのが通説である。すると農民外の消費者は16%
しかいない。農民から収穫の半分を取り上げる言う事は、穀物、主として米の総生産量の
42%ぐらい(誤り)を取り上げる事になる。だがこれを、農民外の16%の人間がこと
ごとく消費することは不可能で、少なく見積っても20%ぐらいの余剰農産物を生ずるは
ずだから、では一体それをどこへ輸出していたのか、ということである。

誤り:税は「全農民から収穫の半分をとりあげる」のだから、米の総生産量の50%が税
である。総人口の84%を占める農民は残りの50%の米で生活し、武士階級は得た50
%の米を、自分達が消費し、残りを6%の工商と、その他3%に売る事になる。故に「米
の市場」は総人口の9%にしかならない訳である。

鎖国下の米の大量輸出などあり得ない。とするとマクロで見ると計算が合わない。一体ど
こへ消えたのか。答えられないから教授は立ち往生となる。まことに固定観念とはおかし
なもの、われわれは常に"白紙の人"の質問を受ける必要があるであろう。本当に「五公五
民」なら、わずか7%といわれる武士階級の困窮などあり得ないし、借知などあるはずも
ないからである。
136江戸時代の庶民生活:02/01/03 21:32 ID:MtxECyoJ

農民は貧しかったか?

農民の伊勢志向からも、農民自身少なからず「商品経済」「貨幣経済」に浴している筈で
す。また、享保の改革による米の増産で、農民の「収入が減少し、農民生活を苦しめ・・・・。」
となるのですから、大変理解に苦しむ話です。「食うや食わず」の実態は、もしかして「幻
想」なのでしょうか?

注:享保年間になると農地の拡大により、米の増産が進み、価格が低下するほど「米あま
り」なのだから、農民が米を食べられなかったとは考え難い訳だ。

農民も作物は「米」以外にもあります。中には換金性の高い作物もあったでしょう。また
当時の漁村も多くは「半農・半漁」でしたから、魚介類などを獲ったりも出来ます。赤穂
の塩で有名な塩田による製塩などは、通常は「藩単位」の専売でしたが、それに従事した
労役なども、労賃が支払われていたことは、想像に難くないでしょう。もし「五公五民」
による搾取が行われていても、ご指摘通り、士・工商で消費しきる事は不可能です。農民
も様様な現金収入を得て、それらを「買う」もしくは、米に変わる物資・貨幣を収めた可
能性が考えられそうです。(根拠は今のところありませんが)

当時の基本財・財政基準は「米」でした。米こそ富の象徴だったのでしょう。しかし、米
以外の諸色が上昇し、相対的に支配者階級・武士階級の所得が降下し、新たな税の枠組み
も作ることが出来なかった当時の幕府は、慢性的財政難に陥ったのでしょう。

江戸幕府が取りたてた財の基本は、あくまで「米」です、米以外は余り課税されなかった
でしょう。現在と比較すれば、どちらが重税でしょうか?確かに今のほうが豊かでしょう。
物質的にも、金銭的にも、相当良いでしょう。しかし、馬車馬のように働き、努力し、そ
れに見合っただけのサラリーは、平等の名の下に否定され、かなり再配分され、しかも課
税されるのです。これだと、休暇が大変多く、文化的活動にかなり時間を割けた江戸時代
も捨てがたいと言えます。当時が貧しいというのは、どうも信じるに値しない話です。
137江戸時代の庶民生活:02/01/03 21:40 ID:nNzlKu9L


江戸時代−農民暴動は希だった

江戸時代の民衆殊に農民の生活を語るには「五公五民」を避けて通れない。この「五公五
民」について山川出版「日本史小辞典」では、次のように述べている。

・当初四公六民であったが、享保の改革以降五公五民となった。
・ところにより様々で、最高八公二民のところまであった。
・このような高率の課税は、封建時代の特徴であり、農民の再生産費のみを残し、余りは
すっかり取り上げるという課税原則の現れであった。
・しばしば百姓一揆を引き起こす原因となった。

そうして、巻末の資料の中に「封建時代の百姓一揆年表」として、1333(元弘3年)から1967(慶
応3年)までの間の一揆を始め、強訴、愁訴、逃散、打毀などの事象を一覧にしている。
それぞれの事象については、規模は不明だが、場所と事象の名称と原因が略記されている。
焦点を、江戸時代、事象を一揆と打毀に当ててみると、この間に約170件発生している
事がわかる。

●江戸時代の一揆と打ち壊し−時期別区分からの考察

1600年代は、10件のみである。
1700年代は、約70件−このうち前半の50年間には16件のみ
そして残りの約90件が1800年代の67年間に発生している。

特に多い時期は
・宝暦5年1年間に5件
・天明6年〜7年2年間に15件
・文化9年1年間に6件
・天保7〜8年2年間に16件
・慶応2年1年間に12件
などとなっており、凶作の年が圧倒的に多い事がわかる。

●江戸時代の一揆と打ち壊し−場所的区分からの考察

江戸時代約260年間を通じ、一揆・打毀の件数が多かった地方は以下の通り。

信濃11件
伊予9件
摂津、越後8件
豊後、備後、陸中7件
肥後、加賀、伯耆、羽後5件

などであり、その他はそれ以下であった。
138江戸時代の庶民生活:02/01/03 21:42 ID:nNzlKu9L
逆に、一件も無かったところは
薩摩、日向、讃岐、紀伊、伊勢、駿河、江戸、房総、会津などであった。
もちろん、一揆・打ち壊しが無くとも、強訴・逃散のたぐいがあったところもある。

ここで特異なのは、
伊予:強訴・逃散・一揆・打毀などをすべて数えると、ダントツで一番多くなる。
あの狭い地方で、江戸時代を通じて多くの事象が発生している。
豊後:全部で7件の一揆のうち、6件までが同じ文化9年に発生している。

また、備後福山、飛騨高山、信濃上伊那、佐渡など「一揆の名所」と言える様な場所も
あった。

以上のような地方毎の分布から、土地の収益、藩の経営、地方の気質などが影響して
いるのではないかと言うことが推測できる。

●まとめ

藩の経営の善し悪し、気候の変動による凶作などによって民衆が「時に」困窮した
のは事実かもしれない。その実態を見てみると、当時の「諸国」で約260年の間
に多いところで11回、少ないところで0回、平均して2〜3回の暴動が起きている
事になる。これを多いと見るか、少ないと見るか。

そこで、現代と比べてみるとどうだろう。戦後五十数年の間に「我が国」が経験した
暴動に類する事象といえば、

・安保闘争に係わるもの
・成田闘争に係わるもの
・反皇室闘争に係わるもの
・労働争議に係わるもの

逮捕者がでるようなデモだけでも結構な数となる。

その上、爆弾、迫撃弾、ハイジャック、籠城などを含めると、相当な数に上る。
これに比べると、江戸時代が、現代との比較において
如何に「平穏」であったかがよくわかろう。
139江戸時代の庶民生活:02/01/03 22:08 ID:mJaTmktF
江戸の治安は非常に良好だった

江戸百万人の治安を守る南・北町奉行所における、「廻り方(捜査・逮捕)」の数ですが、
わずか24人です。100万人の治安を守る警察官の役割者が、たったの「24人」とは
現代の平和ニッポンでも想像することが困難なほどの治安の良さです。あとはせいぜい「隠
密」位でしょうか?「隠密同心、死して屍拾うもの無し」なんて、冗談にもなっていません。

まあ、確かに「岡っ引き」も数人はいるでしょう。(岡とは「正式でない」という意味に
通じます)同心一人に岡っ引き数人が大体の行動形態だったそうです。江戸の治安の良さ
・平和さは、世界史的偉業とも言えるようで、享保年間には、「牢に囚人一人も無し」と
言うこともあったそうです。とりわけ、「農民」が不幸であって、他はそうでは無かった
と言うのでしょうか?お伊勢参りの実態からも、決して「農奴」と呼べる代物ではなかっ
たのでは?どうも日本史的常識の落とし穴が、この辺にありそうです。

1.町民の台頭

例えば農民の生活ですが、歴史的に「百姓は生かさず殺さず」、「油と百姓は搾れば搾る
ほど・・」といった、さながら「女工哀史」ならぬ、「百姓哀史」のような物を教育され
ます。あたかも帝政ロシアの「農奴」さながらです。確かに過酷な税制としか形容できな
い、「五公五民(50%が徴税対象)」位が普通、酷い場合には「六公四民」もままあっ
たそうです。領民に寛容な領主で「四公六民」です。現在の高額納税者に対する最高税率
で65%程度ですから、古来より日本国の税金は高かったのですね。現在は収奪の対象が、
農民では無くなっただけのこと。

現在では、所得税に住民税(市民税)、社会保険に厚生年金などを入れると、手元に残る
のは7割に満たない。おまけに酒を飲めば酒税、タバコもかなり税金、何か買えば消費税
5%、ガソリンも税金、競馬やれば最低でも第一国庫納付金と第二国庫納付金で18%程
度、宝くじも配当率は47%という、まさに「タックスヘル」ぶりです。実感としては、
「直接税」のトリックにより、当時よりは重税で無いと思い込んでいるだけではないでし
ょうか?これだけ収奪して「財政危機」なんですから、よほど国家の役人が無能なのか、
誰かが払ってないのか?あるいはその両方でしょう。(江戸時代の幕府もそれだけ取った
のに財政危機でした)

当時において、経済の基本となるのは米の生産量(石高)でした。米という物が、諸藩・
幕府における「収入源」だった訳です。米以外に生産という概念が余り見受けられなかっ
たのでしょうか?商人に対する課税は、農民から較ぶるに、殆ど無いに等しかったのでは
無いでしょうか?何しろ換金できる商品として、米は絶対的存在でしたから、江戸中期よ
り、新田開発・技術開発・品種改良等による増産が図られたのです。その結果、米が生産
過剰になり、米の値段が下落し、市中に米がダブつくようになったのは、大体吉宗公の時
代です。幕府の財政を立て直すのに、幕府財源の基礎であった米を増産し、どこの米蔵も
米で満ち満ちて・・・・その結果が価格の大暴落。なんと、増産によって本来助かるはずの農
民でさえ、米価下落の影響をモロに受けてしまったそうです。例えば、「ただでさえ取れ
ない米を収奪されて・・・・。」とはかなり違う素顔があったように見受けます。
140卵の名無しさん:02/01/03 22:11 ID:hVDyMbed
http://www.ktplan.ne.jp/rentcgi/vote2/jakouin/vote.cgi
1400票目投票。
まあええわが急伸。
6位陥落目前!
141江戸時代の庶民生活:02/01/03 22:34 ID:Ge/a5w1B

2経済に対する感覚

経済が発達する」なら、為政者であり支配階級である層にも、本来「恩恵」が有るものと
思いますが、「武士階級は経済的に没落」ですから、町人文化が武士に何らの(経済的)
恩恵をもたらさなかったという解釈しかできません。また、「経済的に窮乏」ですから、
「収入」よりも「支出」が多くって生活がままならないとう事でしょう。そこで、解釈を
加えてみます。

@当時の武士の生活の基盤は米以外には殆ど無し、米が生産過剰気味となり、米価が下落
(収入が減少)した。米の生産(税収)が増加しても、米価下落のほうが大きく、金銭的な
収入は実質減となる。
A収入は減るが、諸色(衣類・米以外のその他食品・家具・工芸品)や、住居費などは相
対的に高騰する。
B結果、生活にまつわる費用は高くなり、財政的に苦しくなる。

このような事象により、武士階級が没落したのならば、十分に考えられることだと思いま
す。武家たるもの、庶民よりも貧しい生活をするわけにもいかんでしょう。おまけに「参
勤」もありますし、常に何かと入用だったことでしょう。しかし、肝心の収入がおぼつか
なったとすれば、財政は破綻を来します。案外、江戸時代こそ今の日本よりも「市場経済」
が徹底していたのかも知れません。

ですから、経済が発達する=市場経済が発達する、と捉えれば、自民党みたいに、「生産
者米価一律・・・・・」なんてことをしません。すべては「神の見えざる手」にゆだねられる
わけですから、「米は絶対に普遍の価値」と思い込んで止まない武士の生活を苦しめたの
は想像に難くないでしょう。あたかも「土地は・・・・」とやった近世のように、今のアメリ
カの株式のように、市場は明確に反応したのでしょう。余っている米は安く・より価値の
あるものは高く、この場合、市場の担い手たる商人が力を持つというのも、時代の必然だ
ったのかも知れません。先に述べたように、商人に対する課税は、余り行われていないの
でしょう。商品経済発達による武家の没落は、意外と整合性があるかも知れません。
142卵の名無しさん:02/01/03 22:40 ID:RwWsK1MU
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〜/U /
. U U  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄.
143江戸時代の庶民生活:02/01/03 22:58 ID:EC4KeWvC
伊勢参りから江戸時代の農民を考察する

当時の人口構成上86%もの農民から50%課税(収穫物の物納)しても、それを捌くべ
き市場があったのか?ここのところと、庶民の豊かさについて考察致します。

引用文に置いて、一揆・打毀の類が一度もなかった場所として、伊勢が挙げられています。
この伊勢における同時代の庶民の関わりから、この時代の「真の姿」が理解できそうです。

江戸時代というよりも、古くから日本人の信仰心の拠り所とは、「伊勢神宮」をおいて他
に無いかもしれません。出雲の方々からはお叱りを受けそうですが、とにかくケタが違い
ます。この時代、庶民は「お伊勢まいり」をすることを、人生における一つの「目的」と
さえしていたのではないでしょうか?当時の総人口は、3000万人といわれております
が、一年間に伊勢神宮を参拝したものは、最高で文政12年における参拝者、わずか半年
で457万人であったといいます。平成の世における、伊勢神宮参拝者総数は、内・外宮
で600万人程度といわれておりますので、如何にこの数字がすさまじいものかを、教え
てくれます。

大袈裟ではなく、江戸時代の庶民は、「死ぬまでに一度は」お伊勢まいりをした事でしょ
う。問題はそれにまつわる金銭的・時間的コストです。当時は、多くは「徒歩」による旅
です。江戸から伊勢までは、東海道経由で450〜500kmでしょうか?整備された街
道で30〜50km程度は歩けるとして、ほぼ2週間は要した事でしょう。往復で一月と
いうことも、言い過ぎではないかもしれません。また、遠くは東北の最北部から、果ては
九州の対馬などからも、絶え間無く伊勢に向かったといいます。対馬からですと、船など
の乗り継ぎや、険阻地などの横断も含めて、なんと100日掛かったという話もあるそう
です。途中の旅篭代金や、食費・茶費、草履や衣服などの身の回り品なども購入しなけれ
ばなりません。今の海外旅行などとは、単純に比較できませんが、相当の路銀を要した事
でしょう。

また、お伊勢まいりに赴く男性には、参拝前の禁欲による反動から、参拝後には遊郭など
に繰り出すという楽しみ?もあったそうです。特に、未だ女を知らない我が息子に、お伊
勢参りをさせ、そこでなじみの旅篭の女将に遊郭案内をさせて、一人前の男にするという
話も、普通に見られた光景だとか?お伊勢参りをし、女を知り、一挙に一人前になるのが、
この時代の通過儀礼のようです。また、男に限らず、この時代は「不浄」といわれ、神域
には、いれてくれなかった女性達も大挙してやってきたそうです。

考慮に値するのは、その数です。当時の人口から察するに、一年間に伊勢にやってくる旅
行者は、あまりにも多いです。この時代より、日本人の旅行好きは、「民族性」とまで言
えるほどになっていたのは間違いないでしょう。しかし、これだけの数がやってくるので
すから尋常では有りません。また、日常は「商売」がある、商人達よりも、庶民・農民の
構成が大変多いのも特徴でしょう。大工や日用品などを作る職人・農閑期を持つ農民は、
結構気軽に「長期休暇」を持てたのでしょう。これら身分の者が相当数を占めていた事は
想像に難くないでしょう。また、意を決してお伊勢参りをする商人は、一団を組んでの集
団旅行さながらだったとか?旅行先は伊勢に限ったわけではないのですから、当時の庶民
の持つこの「余裕」は一体どこから来るのでしょうか?
144江戸時代の庶民生活:02/01/03 23:00 ID:EC4KeWvC

少なくとも、「農民の再生産費のみを残し、余りはすっかり取り上げるという課税原則の
現れであった」という表現など、およそ想像もつかない現象化かと思います。当時の為政
者は、お伊勢参りだけは、かなり寛大だったといいます。通行手形などの発行も円滑だっ
たそうです。また、五穀豊穣を感謝したく、一年の農作業の「アカ」も流したい、農民の
気持ちにも、時の権力者は理解が深かったそうです。

しかし、これだけの日数と費用を要しそうな旅行を、これだけ多くの者が行えた、当時の
社会の持つ豊かさだけは、垣間見る事が出来ないでしょうか?現代は豊かだといいますが、
当時の内需も凄まじい程に存在したのです。それは、「宵越しの金は持たん!」江戸庶民
の気風がそれを可能にしたのかもしれません。蓄えが無くとも、子が老いた親と、自らの
子の面倒を見ることが当然で、老後などの心配を余り必要としないからかもしれません。

しかし、現代に生きる我々は、ろくな休暇なども取れず、あくせくと「貯蓄」に励み、そ
れでいて将来に悲観している人の、なんと多いことか。勿論当時を最高とは言いません。
物質的にも、金銭的にも、大変恵まれています。そして、自由があります。しかし、当時
の江戸庶民が、同時代に産業革命による「公害」「長時間労働」などに呻吟するヨーロッ
パの国民と比しても、決して物質的にも劣らず、文化的にも著しい進歩を遂げ、何よりも
自由であったとは言えないでしょうか。少なくとも、我々は江戸時代を、「為政者による
搾取」「自由の否定」「生活苦」とか言いながら、「絢爛豪華な文化が花開き」「多くの国
民が旅行に殺到し」となる矛盾に悩まされてはいないでしょうか?少なくとも、農奴のよ
うな状態で、伊勢への参拝を恒常化させるなど、絶対に考えられません。

このように大挙して旅行者がやってくる、当時の伊勢は日本有数の豊かな国だったそうで
す。伊勢松坂からは三井家が生まれたり、後世に残る豪商も多く輩出しました。また、一
揆・打毀しの発生が無かったのも、伊勢神宮の存在が大きかったそうです。(何しろ豊か
です)いまでも伊勢の人々が、神社に大いなる感謝と畏敬の念を持つ理由が、理解できます。
145卵の名無しさん:02/01/04 00:08 ID:4VdDLujY
http://www.ktplan.ne.jp/rentcgi/vote2/jakouin/vote.cgi
荒し軍団が投票?
いきなり2位に躍進。
146江戸時代の庶民生活:02/01/04 00:47 ID:xTpsrZZz

江戸時代は五公五民か?

江戸時代の各藩が行っていた五公五民の実態を、山本七平氏の著作の該当部分の要約によ
り紹介する。

1.当時の税制

西洋のような「人頭税」は日本では行われなかった。

検地により確定した「石盛(生産力)」に対する「定免」すなわち、その年の出来高の多
少に関わらず、検地により判定された土地の生産力の半分(毎年一定量又は額)を納める
形式となっていた。その検地は、近世を通じて各村平均二回しか行われていない。とくに
1700年代以降ほとんど行われていない。そこで、「粗放」から「集約」による増産が行わ
れても、税として納める量は一定であり、これにより農民は収入を増やすことができた。
また、領主によっては、米よりももっと付加価値の高いものを生産させて米に換算して税
に相当す分を納めさせたところもあった。

2.鎖国下における自給自足

貿易が制限された中で、自給自足体制が促進された。そういった中で、木綿、菜種、藍、
紙などの付加価値の高い産物が各地で生産された。租税(土地の石盛の半分)を納めた上
で、生産した収益は、農民の手元に残った。

3.各藩の経営能力

このような体制の下では、各藩の経営能力により経済状況に大きな差が生じた。上手な例
を一つあげると、津和野藩などでは、藩が楮(コウゾ)、三椏(ミツマタ)・漆(ウルシ)などの経営を行
い、四万石の土地から十五万石相当の収益をあげていた。

漫然と税のみで運営されていた藩では、農民が自発的に付加価値の高い作物を生産し、租
税(土地の石盛の半分)に相当する金額を納めるようなことが生じた。こうなると、納税
額が実際の収益の5%に過ぎなかったところもあった。インフレと相まって、藩の収入は
どんどん目減りして行くわけである。このことが、武士が貧困状態となり、豪農、豪商が
発生していく原因となったのである。

4.生産力拡大の努力と無軍役の効果

勧農政策が採られ、灌漑・水利などの基盤造成、生産技術の改良、新作物、副業等の奨励
が行われた。新田開発が活発に行われ、江戸時代を通じ、我が国の耕作面積はほぼ2倍と
なった。これは、幕府と各藩の政策的な努力と、新田開発における租税の率が軽かったた
めに、農民達の利益同期が作用したことによるものだといえる。これに加えて、軍役と、
軍事的労役が無かったことが大きく作用した。
147江戸時代の庶民生活:02/01/04 00:49 ID:xTpsrZZz

このように当時の税制と農業の状況について記述された部分を要約した。山本氏も述べて
居られるが、その状況は、藩により、地方により、また農家によりまちまちであり、一概
にどうであったとは言えないのが実態であろう。しかしながら、江戸時代の農業に係わる
制度は、概して農民に多くの機会を与えるものであり、農民は生産性の向上のために努力
を払ってきた。その努力が、明治維新以降の飛躍的な我が国の発展を可能にした要因の一
つとなったのではないだろうか。

飢饉の際には、百姓一揆、打毀、農民の逃散などが多く生じており、その時期において農
民が難儀をしたのは事実であろう。推察するに定免により、税額が一定であれば、生産が
上がればあがるほど農家の可処分所得は増えるが、生産が落ち込んだ場合、手元に残るも
のが必要に満たないということが起きる。平素から藩が主体となり、または自ら生産の向
上に努めていれば、多少の備蓄を持つこともできたであろうし、飢饉にあっても、各種の
創意をもってこれを克服したことであろう。逆に、藩も農民も増産の努力をしていなかっ
た、あるいは何かの事情によりできなかった所、加えて気候条件が厳しく変化したところ
が大きな打撃を受けているのではないだろうか。そのような部分のみを捉えて、江戸時代
を「暗黒時代」と思って居られる方がまだまだ多いのではないだろうか。


経済の特徴

この時期の経済の特色を列挙すると以下のようになる。
1資本主義経済の素地が確立された。
2藩主体の経済から、豪商主体の経済に移行した
3技術の発達

これらがあったからこそ、開国〜明治維新以降急速に我が国が列強に比肩しうるような国
力を身につけることができたのである。では、それぞれについて説明を加えたい。

1.資本主義経済の素地が確立された

○物資の流通
商都大阪に様々な物資が流入するようになった。たとえば、米の他に付加価値の高い綿や
藍、そうした商品作物の栽培に必要な乾鰊、乾鰯などが河村瑞軒の開いた全国航路を通じ
て大阪へ集まった。さらに大消費都市江戸への物資輸送にも船が用いられた。

○商取引の発達
大坂は幕府の直轄地であり、大名が屋敷を持つ事は禁じられていた。そこで町人の家を借
り、藩から武士が出張して来て藩の物産を売ることになる。これが蔵屋敷だが、やがてそ
の販売の実権は蔵屋敷の主人である蔵元の手に移った。これらの物産の取引所が会所で、
米・塩・灯油・綿は毎日のように取引が行われ、1730年ごろから公然と信用取引も先
物取引も行われるようになった。そしてこの取引所の代表的なものが大坂堂島の米会所で
ある。
148卵の名無しさん:02/01/04 08:05 ID:vFfO1R6S
>>145
不適切ということなのだろう。
あぼ〜んしてた。
沢○もGE市場にあぼ〜んされないように精進し給え。
149江戸時代の庶民生活:02/01/04 08:24 ID:dGRaZ0qz

○市場経済の確立
投機的な取引が行われるようになり、物資の相場が高下するようになった。物資の売買を
通じ人々が自分の利益のみを考えて行動すると、その総計が、市場原理という鉄則になり、
それが「天地自然の道理」の「見えざる手」のように作用して相場がきまるといった考え
方がされるようになった。ここにはすでに資本主義的発想の芽があるといってよい。

○新しい「経済的人問」の出現
経済の先行きを見抜き、余人に先駆けて事業を興して巨利を手にする者が現れた。例えば、
江戸で清酒を販売した鴻池、吉野漆を手がけた吉野屋、銅山を経営した住友などである。

○金融業の発達
藩の産出する米をはじめとする商品を売買するようになると、当然に金融業の両替商や送
金などを行う飛脚問屋を生ずる。そして決済手段として為替手形、小手形(約束手形)、振
手形(小切手)、預り手形等が登場する。預り手形は両替商の発行する預金証書だが、これ
をそのまま支払いに当てることが出来たので銀行振出の小切手に似た点もあった。すでに
当座預金があり、当座貸越があった。こうなると両替商の倒産の社会的影響は大きい。そ
こで「両替商の両替商」である「十人両替」ができて、その筆頭が鴻池である。このよう
なシステムは、関ケ原からほぼ一世紀の問に完備したが、これはごく自然発生的なもので、
だれかがプランを立てたわけでもなく、どこかの国のシステムを導入したのでもない。い
わば「鎖国」という封鎖された世界の中で、生産から運送・流通・販売・金融まですべて
自らの手で行なっているうちにこのような世界を現出したのである。

2.藩主体の経済から、豪商主体の経済に移行した

○藩の経済の行き詰まり
各藩にとって最も経済的に難題であったのは作物の豊凶であった、凶作の年は藩内で生産
される米を藩外に流通させられなくなるため、藩にとっての現金収入が無くなってしまう。
それでも支出は変わらないので赤字が発生する。これに対応する唯一の方策は、商品作物
の経営であるが、すべての藩がこれを行ったわけではなく、必ず現金化できる「米」に頼
った藩ほど経営が苦しくなっていった。

○藩札の発行と両替商
藩の赤字を補填するため、銀札(藩札)を発行し、藩内の「銀」を銀札と引き替えに集め、
これを対外的な決済に当てようとした藩があった。この銀札は一応兌換券ということにな
っていたが「赤字埋め」に発行したのだから現実には兌換できない。結果、だれも信用せ
ず、銀は退蔵され、物価は暴騰し、わずか四カ月の間に米価は四十倍になった。この狂乱
インフレは貧しい者を直撃し、たちまち民衆蜂起が起こり、藩はわずか一年余で藩札を廃
止せざるを得なくなった。このような方法はただただ痛手を受けるだけだと知った諸藩は、
藩札を発行する場合、豪商、主として両替商の保証のもとに発行せざるを得なくなった。
両替商は藩の下で発券銀行のような役割を演ずるようになったが、それにはもちろん、何
らかの利権か利益を直接に、または間接に彼らに保証せざるを得なかった。
150江戸時代の庶民生活:02/01/04 08:27 ID:dGRaZ0qz

さらに多くの藩は、蔵元や彼らが兼営する掛屋から、前借りをしていた。二年先、三年先
までの米を担保にしているわけである。こうなると藩の代理店であった蔵元と藩の地位は
逆転し、藩はまるで蔵元のための米の収買人のようになってしまう。殆どの藩が、蔵元や
両替商や問屋のため、二重三重に拘束されるような経済状態になっていった。

3.技術の発達

○製鉄技術
徳川時代はしばしば「米遣いの経済」といわれるが、それはむしろ「米が貨幣にリンクし
た経済」といってよい。そしてこのような大きな取引が行われることは、その背後に米だ
けでなく、膨大な商品の蓄積があったという事である。そしてそれを可能にしたのが「大
開墾時代」だが、そのため不可欠なのが農具の改良であり、その背後にあったのが鉄であ
る。豊富で廉価な鉄がなければ、このような状態は現出しない。

日本では、豊富な砂鉄と森林資源を活かし「たたら」と呼ばれる炉を用い製鉄が行われて
いた。戦国時代には平地の森林を伐採して炭にし、これで鉄を生産し、あとを開墾して畑
にするといった方法がとられ、こういう技術者集団が移動しながら製鉄をしていた。製鉄
は野天で行われ、これが「野たたら」といわれ、天候に左右される産業であった。

この情況は徳川時代に変わり「たたら」は大型化して家の中に置かれ、固定された。西欧
がコークスによる近代的な製鉄技術を確立するまでは、日本の方が鉄が安かったことがオ
ランダ人の記録からわかる。そしてこの豊富で安価な鉄が農具に用いられ、これが開墾を
容易にし、また生産性を高めた。

○銅の精錬技術
日本の銅鉱は殆どが硫化銅なので、古代に自然銅と酸化銅を採りつくすと、銅の生産は不
可能になり、これが渡来銭を用いる一因となった。ところが文亀・永正年間(1501〜1521
年)に硫化銅から銅を精錬する方法が発明された。これで豊富な硫化銅から銅がとれるよ
うになったが、日本人は相変わらずこれを中国に輸出して銅銭と交換していた。硫化銅に
は銀も含まれており、出来たのがいわば銀と銅の合金のようなものだが、これを分離する
技術が日本にはなかった。ところが先進国の中国はすでにその技術をもっていた。含有し
ている銀と共に評価したので、非常に有利に銅銭と交換できたからである。そしてその含
銀銅が一時は日本の輸出品のトップとなっている。

ところが、それから七十年後、天正年間(1573〜1592年)に京都の銅吹屋・蘇我理右衛門、
養子として住友家に入った住友寿斎が、この銅銀を分離する技術を開発した。この技術開
発と、別子銅山の開発により、元禄十二年(1699年)に住友は253万444斤(一斤は600
g)の銅を生産している。いわば当時の住友は世界最大の銅精錬業者で、銅は日本の重要
な輸出品となった。
151江戸時代の庶民生活:02/01/04 08:28 ID:dGRaZ0qz
○精密機械工業の基礎
我が国では、太陰暦(陰陽暦)と不定時法を採用していた。不定時法(日出と日没を基準と
し、この間を六等分して一刻とする、このため、季節により一刻の長さが変化した)の下
で正確な時刻を刻むためには季節毎に昼と夜とで時の進み方を調節する必要があり、複雑
な構造を持つ「和時計」が考案され、改良を加えられていった。

これに比較すれば、明治以降取り入れられた定時法(1日を24時間とする現代のシステム)
での時計などはむしろ単純なものであり、和時計を通じて蓄積された技術は、明治以降の
精密機械工業の隆盛の基礎となった。

●ここまでのまとめ

我が国は、稲作、製鉄、精銅その他の分野において、中国をはじめとする周辺国から常に
文化を吸収しながらやってきた。いわば、それまでは「後進国」であったわけである。と
ころが、明治以降、その立場は大きく逆転するに至ったということに異論をもたれる方は
きわめて少ないであろう。

これを可能ならしめたのが江戸時代に発達した経済機構と技術革新なのであろう。さらに
付け加えるならば、この時期、様々な科学的思想の発展があったのである。これについて
もいずれ論じたいとは思うが、いかんせん、私自身が十分に咀嚼・消化できているかどう
かはなはだ自信がないので、これはまた「いずれ」ということにさせていただきたい。
152江戸時代の庶民生活:02/01/04 08:51 ID:kPPoRRiB

これは大正の初期に早稲田大学編集部がまとめた「大日本時代史」のうちの「幕末史」(文
学士小林庄次郎著)の「緒論」の一部である。

さて当代の輿評の如きに至りては、各自己の利害より打算しての言のみ。如何なる政策も
四民挙がりての謳歌は望み難し、一に可なれば他に不可なり、右を揚ぐれば左を抑えるべ
からず。且つ社会全般より見たる、その実際の効果の良否は、当時の人の知悉し得べき限
に非ざるべし。これ利害に執着するより起る偏見の避け難きのみにあらずして、また麓に
ありては山の全景を見えざるの理によるなり。従って百年の後より見れば、毀誉褒貶の前
後転倒することその例に乏しからず。而して如上の理を了解するは頓て史上の人物に対す
る同情の源泉にして、史を読むものの最も心すべき所の一なり。

ここでは、歴史を観察するものの態度について小林氏の考えが著されている。さらに「要
するに史家の目に映る個人は、如何に偉大なりとも、その勢力を過大視するを得ざるな
り。」と続けて述べている。著者は「要するに」以下の事が最も言いたかったようである
が、私はさらに「史書は、必ず何らかの『利害』(あるいは政治的意図)に基づいて書か
れている物である」という事を重く受け止めた。

歴史はともすると「政治の道具」とされやすい。どういうことかと言えば「賢者は歴史よ
り学ぶ」と言う言葉があるが、その「賢者」が学ぶべき「歴史」を操作すれば「将来」ま
でも操作できるのである。近年は、外交の道具に使うため、わざわざ捏造までする国まで
見られる。自らの政治的目的に添って記述する史実を取捨選択したり、その評価を操作し
たりするのである。

我々は、様々な史書を読む際には、著者の立場をまず見抜き、その「立場から見た歴史」
なのだということを承知の上で、描かれている歴史を読む必要があると思う。以後、この
視点から、江戸時代を描いたいくつかの史書について、例示して観察していきたい


戦後になると、戦前とは逆に「階級闘争史観」「反権力・反皇室」を背景に持つ学者が主
流となるにつれ、「民衆の発展」と「権力者の弾圧と衰退」といった構図で江戸時代を描
く傾向が現れる。要は、幕府の衰退と崩壊は、農民なり町民なりの発展によりもたらされ、
幕府は、これら農民や町民を弾圧するが、その発展の勢いは止まらず、その発展と共に幕
府は衰退していったというものである。

明治から見た江戸時代と共通して言えるのは、幕府のことを批判しているということであ
るが、明治時期は、その「政治の腐敗」を主として批判していたのに対し戦後の時期は、
その「人民の弾圧」を批判している所、さらにその対象は明治政府にまで向けられている
所に特色がある。その傾向を有する「史書」を紹介しながら考察したい。
153江戸時代の庶民生活:02/01/04 08:53 ID:kPPoRRiB
例に「江戸時代の農民」(安藤精一著、至文堂、昭和34年)を紹介しよう。

2.江戸時代の農民

この本は、当時の農民が、如何に苛酷で、惨めな生活を強いられていたか、そうしてその
農民の発展が遂に幕府を崩壊に導いた、ということについて述べた本である。まずは、前
書きから引用すると

江戸時代の農民は、数の上から総人口の八割から九割近くに及ぶのみならず、さらに当時
の経済組織から見てその役割は大きい。徳川幕府体制成立の基盤は農民であったが、その
体制崩壊の根本的な原因の一つは農民の発展による物である。従って近代日本の出発点と
なった明治維新、さらに現代日本を理解するためにも、江戸時代における農民の歴史は重
要な意味を持つことは言うまでもない。

と書き出しにあり、

・江戸時代の農民の性格を決定づけた秀吉の農民政策
・農民統制を通じた農民の性格
・封建社会における農村の構造と問題
・農村共同体の特質と変化
・封建社会の特質が農村商業によりうち破られる経緯
・農民生活のなかでの生活経済

などについて古文書などを参考として、述べている。これを読んでいくと、あちらこちら
で疑問にぶつかるのである。

3.農民の経済生活

この章を検討してみよう。著者は、いかに小作農民が悲惨な生活をしていたかということ
を強調しているが、読んでいくと大変な「まやかし」があることが判った。この章は、著
者が研究した古文書などから、農民の生活を例示している。

当然、筆者の立場は定まっているのだから、自らの主張を裏付けるに有利な資料を引用す
る。たとえば、農民が如何に年貢に苦しめられていたかを示すために、次のような資料を
提示している。
154江戸時代の庶民生活:02/01/04 08:54 ID:kPPoRRiB
資料-A田畑の質入れの記録

農民が租税に如何に苦しんでいたかは、田畑の質入れを見ても明らかである。例えば、備
中国浅国郡乙島村の天保三年の例をとりあげると、五月1件、七月3件、八月九月十月各
1件、十一月5件、十二月59件となっている。質入れ証文には当年暮れの年貢にさしつ
まり、よんどころなく無心すると書いており、それが年貢皆済期限の十二月に最も多いこ
とからも、如何に貧農層にとって租税が負担であったかが明らかであろう。

というように、「天保三年」といえば、七年間にわたった天保の大飢饉がたけなわとなっ
ていく頃である。このようなきわめて特殊な時期の資料を引用して説明しているのである。
ところが、古文書などの資料は、必ずしも、著者の主張に沿った物だけではないようであ
る。

資料-B小作人の取り分

地主・小作・年貢の割合をみることとするが、実収高を把握することができないので、一
応、石高を実収高と仮定するならば次のようになる。ただし、場所は備中国浅国郡乙島村、
時代は元文元年(1736年)で、この村の石高は上田・一石八斗、中田一石六斗、下田一石
三斗の標準である。

一反につき上田は地主所得四斗二升五合・小作人六斗・年貢米七斗七升五合、中田は地主
所得三斗二升五合、小作人六斗・年貢六斗七升五合、下田は地主一斗九升五合・小作人七
斗五升・年貢三斗五升五合であった。地主の所得は上田24%、中田20%、下田15%、
小作人の所得は上田33%、中田38%、下田58%、年貢は上田43%、中田42%、
下田27%であった。(「小作人之覚」守屋家文書)大体地主19%、小作43%、年貢3
8%ということになる。

ここまで明らかにするならば、農家一戸あたりの取り高を明らかにすればよいものを著者
は、ここでは、特にコメントを付していない。ここで気がつくのは、先ほど天保三年に多
くの農民が田畑を質に入れたのと同じ備中国浅国郡乙島村(乙島守屋家文書:寛永年間よ
り明治初年に至る天領備中国浅口郡乙島村=現・岡山県倉敷市玉島乙島、の庄屋史料)な
のである。実際、飢饉でない年には、このように整然と収穫が配分されていることが判る。
いずれにしても、収量の約半分を小作が得ていたというわけである。

ついで、「中位の農民」の食物について述べているが、これは、引用元を明らかにしてい
ない。
155卵の名無しさん:02/01/04 13:44 ID:8jhIKfTQ
正月明けでまた出てきたようだな

ところで、荒しのためにこのスレッドがえらく注目されてるみたいだよ
いい加減に止めたら?
156卵の名無しさん:02/01/04 17:44 ID:mJcTgZf4
>>155
>ところで、荒しのためにこのスレッドがえらく注目されてるみたいだよ
それが狙いでしょう。
157江戸時代の庶民生活:02/01/04 17:51 ID:g/6Pge8l
資料-C農民の食生活

食物も中位の農民は、神奈川県の場合では、朝食は甘藷がある間はそれを定食とし、なく
なれぱ、米三分・麦七分の麦飯か、粟・黍団子など、昼食・夕食も大体同様である。新潟
県の一例では、朝食は屑米をひきわったものに、木の若葉を乾燥貯蔵したのを同量に混ぜ
てたべる。昼食はその残飯に漬物・みそ汁などをつける。夕食は大根・芋などの野菜に米
をすこしいれた雑炊をたべた。大阪地方では、朝夕粥で、昼が麦七・米三の麦飯であった。
島根県の直江村では、朝食は団子がおやき、最後に少量の茶漬飯、昼食は米麦半々で、そ
れに大根・菜葉などを多量に混和し、副食物はみそ汁であった。夕食は麦・大根や時節の
蔬菜類を多量にいれた粥と漬け物であった。熊木県では朝・昼・夕ともに甘藷あるいは雑
炊の場合が多いようである。

ここで、著者は、これが「中位」で、「大多数」の農民は「それ以下」であったと強調し
ている。しかし、資料-Bの内容を考えると、資料-Cで紹介された食生活が、大体最低の
ラインではないのかと思えてくる。著者は、貧農の年間を通じての生活を紹介している。

資料-D貧農の生活

江戸時代の農民の一年間の生活の概要を「民間省要」上編巻の五・百姓四季の産(日本経
済大典)によって紹介しよう。同書は江戸時代中期の享保六年(1721)の自序があり、著者旧
中丘隅は武州八王子の人で、後に川崎の里正、さらに本書の功によって支配勘定並に抜て
きされ、多摩・埼玉二榔の数万石の地を支配することになったが間もなく没した。したが
って江戸時代中期の関東地方農民の実状が書いてあると考えられる。

以下何れも旧暦であることはいうまでもないが、正月にも田のない地方では米の餅を一生
みることのできないところが多く、そのようなところでは粟のもちを神々にそなえる。も
ちろんこのような村でも富農は米の餅をつくことができ、それを村中の貧農にくぱると、
貧農の子供はこれを一年中待ち楽しむという。正月三日間も粟・稗・麦をたべ、それらの
中に平素のように菜や大根などを入れないのでそれを美食と思い、すこしずつでも米を入
れるのはまれである。小百姓は正月三日をまちかねて薪とり、綱ないなどそれぞれの仕事
を始める。

女性も山間部では夫と共にいろいろな山かせぎをし、身には「布」を着て、腰切にみじか
くし、草鞋・きやはんをつけ、斧・なた・鎌を腰にはさみ、牛馬に重荷をつけ、自分も頭
の上にあるいは背に荷を負って男におとらず、カも強く身も軽い。農民はこのように松の
内から仕事をし、七種の粥をするところはまれである。

二月には、いろいろの苗木に気をくぱり、彼岸には接木し、麦の手入れをする。この月は
郡役の諦普請があり自分の家の修繕などもし、すこしのひまもない。彼岸になると籾種を
水にひたす。その方法について、ある人が三十年来の経験としてつぎのようにして成果を
あげている。種籾を五日から十日水に入れておき、蒔く日の朝、種籾をひきあげ、ざるに
いれて水分をとり、さらさらとなったところをすぐ蒔く、従来は水にひたした種籾を早く
ひきあげ、五日から七日間ぐらい日向において、七・八分も芽をだしたのを、ざるにあけ
てふるいだして蒔いた。従来は田一反に種籾を一斗五升から六弁蒔いたのが、一反に五六
升の種籾でたりるようになったという。(中略)
158江戸時代の庶民生活:02/01/04 17:52 ID:g/6Pge8l

六月に入ると、暑さがきびしくなるが、田畑のことで、すこしのひまもない。所によって
は繭を繰って糸を作り、あるいは織物を作る。茶を土用の内につむところもある。田の草
の三番目は土用にかかり、山の水は熱湯のようにわき、稲葉が目などをさし、毎口うつむ
いて仕事をするので、額に血が下りて、非常に苦しい。雨天にも休まず、藁蓑(ワラミノ)を着
て、その重いことは、よろいのようであり、蛭(ヒル)にくわれて血がながれ、見るにたえが
たい。田の草とりで、男女とも指先から血がでるものが多く、男女ともに昼夜の別なく、
年中農事に骨をくだくが、それでも食事は牛馬にもひとしい。菜・蕪・大根・干葉・芋の
葉・大豆葉・小角豆葉を糧として、麦・粟.稗などを、ぬたで、あえものにしてたべ、穀
物は目に入らない程度の食事である。(中略)

九月に入ると、晩稲もみなとりいれる。小麦・えんどうを蒔き、籾・粟・稗・大豆などを
乾燥して俵に入れる。夜、縄をない、俵をあみ、俵に入れる。稲こぎは、すこし前までは
竹の管を手裏にはさんでこいだが、能率が上らず十一月から十二月まで仕事がのこったが、
享保年間から「鉄こぎ」というものが作られ、今はかり入れるとすぐこぐことができ、め
ざましいとしている。さらに新しい農具として唐箕という道具ができ、これまでは筵やう
ちわで処置していたのが、これによって非常に容易になっている。(中略)

十二月は一年間の諸払仕着せ、塩・味噌・農具などその外すべての支払の月である。かつ
年貢皆済の期限が十ニ月十日というのがあり、農民特に貧農層は一番困る月である。かく
して、年々つぶれて、妻子もちりぢりとなり、行方がわからないものが多い反面では田畑
・山林をもとめて富農となってゆくものもある。農民の一年間はひまもなく骨をくだくも
のであるが、特に十二月は一年のしめくくりに心をなやまし、「諸事の哀を止めたり」と
結んでいる。

だれでも、以上のことを読むと当時の小作農が、何と苛酷な労働をしながら、惨めな生活
を営んでいたのだろうという感想を持つことであろう。ところが、上記の原典を読むと、
全く違うのである。筆者が引用した「民間省要」というのは、農民の実態を書き表した書
物ではなく、役人や農民の心構えを記した物なのである。実際の「民間省要」上編巻の五、
百姓四季の産(日本経済大典)原典の書き出しを引用しよう。

夫(ソレ)百姓といふもの、四季の産業たる事月日の多しといへど、年に半日の閑暇なく二六
時中に四時ただ其業を心とせざれば、何時と無く備え心すさみて万事力及ばす、時に後れ、
期にはずれて、年中耕作のために致されて耕作を致すことなし。其品偏に武士の軍戦に似
たり。もとより卑賤の土民これを民に勤めて心に知る事なしといへどもよくこの心に叶う
者は其の家を興し、この心に背く者は其の家を亡ぼす。

そうして、様々な飢饉などの困難な状況にあっても、生活し、農業を営むための「知恵」
を農民に授けているのである。努力した者は財をなし、怠れば、十二月の年貢を納めるこ
とができなくなり、一家離散になりかねないと、警告を与えているのであり、ここで書か
れている内容は、あくまでも、飢饉を乗り越えるための「サバイバル術」なのである。な
ればこそ、公儀より其の功をたたえられようと言うものなのである。それを勝手に「あた
かも」当時の農民の悲惨な実態の如くに引用しているのである。
159江戸時代の庶民生活:02/01/04 17:54 ID:g/6Pge8l
4まとめ

ここから言えることは、江戸時代の農民が悲惨な生活をしていたという事は、戦後、階級
闘争史観が世の中に蔓延していくなかでかなりの誇張をされて伝えられていったという事
である。しかし、それとは別に、農民が飢饉などで苦しんだのは事実であろう。公儀は、
繰り返される飢饉に対応するため、教訓を積み、天保の大飢饉などでは、貧民に対する粥
などの炊き出しや、農民に対する年貢の減免、貸付などの処置も行っている(平凡社日本
史大事典)が、それが必ずしも十分ではなかったのであろう。各地で一揆や騒動が起きて
いる。問題は現代と同じで、「危機管理」と「社会保障」であったと、私は見る。

これまで、いくつかの例を取り上げて、江戸時代における先人達の生活、文化、経済など
について、自分なりの観察を述べてきた。その中で、私は、近代から現代にわたって江戸
時代を評価する人たちの様々な利害により、江戸時代の評価が、ずいぶん誇張されたり或
いは無視されている要素からなっていることを感じたものである。

この時代を評価する結語として、我々が日々接する「情報」の評価方法について、私なり
の考えを述べたい。

井沢元彦氏は「情報及び言論には隠蔽機能がある」と言う。彼は「一定のコード、検閲基
準思想といったもので、一度ふるいにかけられた情報が出される場合は、出されれば出さ
れるほど、読者はそれに洗脳されるという結果になる。」と付け加えている。

私は、情報を以下のように定義しよう。すなわち「ニュース、論説、論文、解説その他、
言語や映像などで表現され、我々の心理状態や状況判断になにがしかの影響を及ぼすもの」と。

様々な情報が氾濫する現代において、「信頼できる」情報を見分けることが大変難しくな
ってきているのであるが、その中で、私が普段心がけている事を簡単に紹介して、皆さん
の参考に供したい。

様々な情報を以下のような手順で評価し、その価値を決めると、比較的情報に惑わされに
くいであろう。
1情報の目的、性格の評価
2情報源の客観性の評価
3情報の正確性の評価
4情報の価値の評価、採否の判定

その細部を解説したい。

1.情報の目的、性格の評価

個々の情報の「目的」を明らかにするために、評価しようとする情報が、自らの如何なる
判断に関係するのか、或いは、如何なる感情を引き起こすものなのかを、先ず評価する。
160江戸時代の庶民生活:02/01/04 18:03 ID:j6nfi/pR
次に、「性格」としては、以下のうちのどれに該当するものなのかを明らかにする
○事実を単純に述べたもの
・目撃証言
・伝聞
・他の情報源からの引用
○事実に基づく論評を加えたもの
○事実に基づき「論理的手順」を経て推測或いは推論したもの
○事実に基づかない憶測、創作

往々にして、上記のうちの複数の要素が一つの情報に混在していることが多く、情報全体
の性格と、各部分ごとの性格を評価する事が必要となる場合がある。

2.情報の客観性の評価

これは、「情報源」(情報を発信する組織ないし個人)がもつ性格を明らかにする作業で
ある。特に情報源が持つ過去の履歴が重要な要因となる。客観性を評価する上で特に重要
な視点は以下のようになろう。

○情報源が持つ利害関係(思想的背景)の有無
私は、唯物史観の著者の本でも、読んで、参考とすべき部分は当然採用する。ただし、そ
うである点を考慮してその分を「割り引いて」理解するのみである。

○情報源がこれまでに発信してきた情報の特性
特に、誤報、虚報の頻度と、それに対する対応の要領−誤報をながして訂正もしなければ、
居直るような者は、基本的に信頼できない。それでも、その分を割り引いて参考とする場
合もある。

3.情報の正確性の評価

ここでは、発信された「情報そのもの」の内容を評価する。このため、以下のような視点
を重視する。情報が、いくつかの性格の異なる部分から構成されている場合は、その部分
ごとに評価することが必要となる場合がある。

○他の、独立した情報源から裏をとることができるか、或いは背反する情報が無いか。
○引用されている事実が正しく引用されているか。
○事実と、それに基づく論評等の間に矛盾や誇張や飛躍がないか
○根拠のない推測や憶測が混入していないか
○他の背反する情報が存在する場合、これらとの関係はどうか。
※上記のような観点から、情報に瑕疵があれば、当然に批判、反論ないし質問の対象となる。
161江戸時代の庶民生活:02/01/04 18:05 ID:j6nfi/pR

4.情報の価値の評価、採否の判定

この段階で、その情報をどのように扱うかを決定する。すなわち
○信頼し、採用すべき情報か否かとその理由。部分的に採用或いは否定できるならばその
部分と理由。
○自分の判断のための重さ、たとえば、「直接の証拠」となるのか、何かを「示唆」する
にとどまるのか。

そうして、採用する場合は、自分が何かを判断するため、どのように役立てるのか、を明
らかにして、自らの判断の要因として取り入れる。このような考え方は、マスコミが発信
する情報のみならず、ネット上の掲示板などでのやりとりにも当然適用できる。また、こ
うして、いちいち記述するとなんだか面倒なようであるが、皆さんも「これに近いこと」
を無意識にしておられるのではないだろうか、もし、上記に述べた視点のうち、皆さんに
とって一つでも二つでも参考となる視点があれば幸いである。
162卵の名無しさん:02/01/04 18:40 ID:Zl9bFLyK

おいおい!72位に下がったぞ
http://www.ktplan.ne.jp/rentcgi/vote2/jakouin/vote.cgi
163卵の名無しさん:02/01/04 19:04 ID:UY8i9uZM
>>162
投票するのはやめよう。
沢○の恥を晒すだけ。
164シャネル@20世紀特派員:02/01/04 21:37 ID:9KTnGwxW

皆殺しの天使 (1)

十七世紀フランスの絶対君主ルイ十四世をたたえて作られたパリのバンドーム広場は、こ
の町の名所の中でも最もパリらしい雰囲気を伝える場所として知られている。千二百門の
大砲を溶かして鋳造された中央の青銅の塔はナポレオンの像を頂き、世界の宝石業界のト
ップを形成する宝飾店やショパン臨終の地となった旧ロシア大使館などの歴史的建造物が
広場をぐるりと取り囲んでいるからだ。

欧州の富の蓄積を象徴するかのようなその建築群の中でも、華麗さと重厚さでひと際、群
を抜いているのがホテル、リッツである。今年一月二十一日朝、氷点下三度の冷え込みの
中でリッツは異様ともいえる熱気に包まれていた。二階にある六つのスイートルームを使
って午前十時からシャネルの春夏オートクチュール(高級仕立て服)のショーが行われるか
らだ。時間通りに集合することはめったにないフランス人の記者やカメラマンが緊張した
面持ちで招待状と身分証明書を示し、正面玄関を足早に通り抜ける。二階の廊下付近では
カメラマンたちが最良の位置を確保するために殺気立った雰囲気さえ漂わせている。

突然、テレビカメラのライトが輝き、だれかが「マダム・シラクだ」と叫んだ。カメラマ
ンたちが、その声の方向になだれを打って走り出す。招待客の一人、シラク大統領夫人が
到着したのだ。

●熱気と喧噪 ファッション界でこう言われてからすでに久しい。高級仕立て服の時代は
去ったという指摘は大衆化が進む世界の現状の中でもっともらしい説得力をもって伝えら
れてきたが、リッツを包む熱気と喧噪はオートクチュール・ショーが決して「死の祭典」
ではないことを物語っていた。

パリには年四回、ファッションの季節が訪れる。一月と七月にオートクチュール(正式加
盟十五社)、三月と十月にプレタポルテ(高級既製服=正式加盟二十六社)のショーが開か
れるからだ。「パリ・コレクション(パリコレ)」とはそれらの総称であり、世界中から集
まる記者は各シーズン千人にも達している。そのパリコレのハイライトとされているのが
シャネルのオートクチュール・ショーであることを私が知ったのは20世紀特派員の取材を
始めてからだった。

この町の数多くの国際イベントと同様、パリコレも事前に主催者のパリ・クチュール(服
飾製造業)協会に申請しておけば取材はほぼ可能である。ところがシャネルの場合、プレ
タポルテの招待状は届くものの、オートクチュールの招待状が届くことは一度もなかった。

●名前の魔力 「ココ・シャネルという創始者のロマンとなぞが染み込んだ名前の魔力、
メゾン(店)の持つ伝統の力、モード界をリードする現主任デザイナーのカール・ラガフェ
ールドの才気。モード記者にとってシャネルは必見のショーですよ」 フランスの女性週
刊誌「エル」のフランソワーズ・デュク記者はこう語る。パリコレの中でも「シャネルの
オートクチュール」は別格であり、招待状は厳選されたモード記者にしか届かないという
わけだ。
165シャネル@20世紀特派員:02/01/04 21:39 ID:9KTnGwxW
その招待状を何とか今年は手に入れ、私もちょっと緊張しながらリッツに出かけた。パリ
コレの大半はルーブル美術館地下の広大なホールで開かれているが、シャネルは昨年から
オートクチュール会場をリッツに移し、招待者も千五百人から三百五十人に絞った。「モ
デルが目の前を通るので細部が分かるし、布地に触って感触を味わうこともできる。マド
モワゼル・シャネルのショーの原点に戻したかったんです。それにリッツはシャネルゆか
りの場所ですから」と株式会社シャネルの広報担当責任者ド・クレモントネール氏はその
理由を説明する。

九八年に創業百周年を迎えるリッツは数多くの逸話に彩られている。開館式にはマルセル
・プルーストが出席し、皇太子時代の英国王エドワード七世はこのホテルを定宿にしてい
た。アーネスト・ヘミングウェーはパリ解放の四四年八月二十五日、米軍とともにナチに
接収されていたホテルに到着し「リッツを解放する」と叫んでいる。

そんな逸話の主人公の中でも最も有名なのがココ・シャネルである。彼女は一九三四年か
ら七一年一月十一日に八十七歳で生涯を閉じるまで、このホテルに住んでいた。「ココ・
シャネルが使っていたスイートはいまも最も人気があり、空き部屋になることはめったに
ありません」とリッツの担当者はいう。

カンボン通りにあるシャネルの店はホテルから歩いて五分ほど。「気に入らないとショー
の直前に出来上がったドレスを全部ほどいて縫い直しを命じた」(アトリエ主任だったマ
ノン・リグール氏)という完ぺき主義者シャネルにとって職住接近のホテル暮らしは、ぜ
いたくである以前に仕事のための欠くことのできない条件だったようだ。

こうしたきらびやかな合理性はシャネルの服にも反映されている。「典雅だが着やすくて
着崩れしない」とフランソワーズ・ジルー氏は指摘する。フランスの代表的週刊誌「レク
スプレス」の共同創立者でジスカールデスタン政権時代に女性の地位省、文化相を歴任し
たジルー氏も閣僚時代にはシャネルを愛用した。

公式の場でオートクチュールを着用することは、フランスの大統領夫人や女性閣僚にとっ
て半ば義務でもある。オートクチュールを含めたデラックス産業は石油、車、武器などに
次ぐフランスの重要産業なのだ。

第一次大戦後のパリで活躍した米国の写真家マン・レイの作品にシャネルの写真がある。
絵はがきになるほど有名なその写真の中のシャネルは横を向いてカメラを見ようともしな
い。それは、ひとつの時代と一人の個人との恋愛にも似た緊張関係を示しているかのよう
に見える。

皆殺しの天使(2) ひた隠しにされた少女時代

ガブリエル・ボンヌール・シャネルは一八八三年八月十九日、パリから南西約三百キロの
ロワール川流域の町、ソーミュールで生まれた。豊かな川辺に中世の城が並び「フランス
で最も美しい」といわれる地方である。詩人デュ・ベレーが「芸術の母フランス」と歌っ
たのもこの地のことだ。
166シャネル@20世紀特派員:02/01/04 21:42 ID:9KTnGwxW
しかし、一九七四年にモード雑誌「ヴォーグ」の元編集長でゴンクール賞作家のエドモン
ド・シャルル=ルーによる伝記「シャネル ザ・ファッション」が出版されるまで、シャ
ネルの出生地はこの町ではなく、フランス中央部のオーベルニュ地方とされることが多か
った。シャネル自身がそう語っていたからだ。「あたしは、オーベルニュの消ゆることの
ない火山そのものだ。馬のたてがみのように黒い髪の毛、煙突掃除のひとのように黒いま
つげ、オーベルニュの山の溶岩のような黒い肌」(「獅子座の女シャネル」)日本では虚実
が混同されて「オーベルニュ地方ソーミュール」などと紹介されてもいる。

●出生証明書

ソーミュールを訪ねてみた。タクシーの運転手からホテルの受付まで大半の市民はいまも、
「シャネルの家」の所在地どころか、この町がシャネルの生地であることさえ知らない。
しかし、市役所ではさすがに確認することができた。ナポレオン以来の行政王国フランス
らしく出生証明書が保存されていたからだ。

「一八八三年八月二十日午後四時、ソーミュール市救済院の職員、ジョセフィーヌ・ペル
ラン、独身、六十二歳が出頭し、同救済院で昨日午後四時に出生した女児の出生証明書を
申告。女児は商人アルベール・シャネル、二十三歳、住所サン・ジャン通り二九番地、同
じく女商人ウジェニー・ドゥボール、二十歳の子で、同女は夫と同所に住んでいる。女児
の名前はガブリエル」この日、市庁舎には助産婦と思われるジョセフィーヌ・ペルランの
ほかに救済院の職員二人が出頭した。三人とも読み書きができなかったため市長が署名し
ている。また女児の両親の結婚証明書などいっさいの書類がなかったことから、届け出は
口頭で行われ、「シャネル」のつづりも「CHANEL」ではなく「CHASNEL」と
間違って記入された。両親が籍を入れるのは翌年十一月だ。

ソーミュールの名所に「ウジェニー・グランドの家」がある。バルザックが一八三二年に
発表した純愛名作「ウジェニー・グランド」の女主人公の家だ。正確にはモデルの女性が
住んでいた家なのだが、「ウジェニー・グランドの家」の標識が掲げられ、町中がその存
在を誇っている。バルザックはこの地方がお気に入りで、「谷間の百合」の主人公にもこ
の地への愛着を述べさせている。

後にシャネルは「顧客の家に招待された初めてのデザイナー」とも言われるようになる。
一九〇〇年ごろまではどんなに成功した大デザイナーも、あくまで「出入り業者」であり、
顧客の家、つまり社交界から招待されることはなかった。フランスは現在も少数エリート
が支配する国だが、こうした階級意識の残存が「シャネルの生家」より文豪バルザックの
小説のモデルの家を優遇する背景となっているのかもしれない。

シャネルの死後、多数の伝記が出版された。中でも正統派「シャネルの伝記」としてシャ
ネル本社などが推薦するのが外交官で作家だったポール・モランが一九七六年に出版した
「獅子座の女シャネル」だ。
167シャネル@20世紀特派員:02/01/05 00:05 ID:6ess6DkO
モランは第一次大戦後の無秩序と狂騒の時代、そして同時にフランス芸術の栄光の時代で
もあった一九二〇年代の「ラネ・フォル(狂気の時代)」に流行作家として活躍した。ちょ
うどシャネルが認められ始めたころだ。十九世紀的なものすべてを葬り去ったとして「皆
殺しの天使」と呼ばれるようになるシャネルの本質をいち早く、見抜いたのもモランだった。

しかし、第二次大戦中、ビシー政府の外交官だったモランは戦後、「コラボ(対独協力者)」
として外交官を免職になり、年金もはく奪されて、スイスで一種の亡命生活を余儀なくさ
れていた。「獅子座の女シャネル」の出版は一九七六年だが、その内容は四七年にモラン
がスイスでやはり隠とん中のシャネルから聞いた話を一人称でまとめたものだ。シャネル
が生前、自ら流布した《履歴書》を忠実に再現すると同時に、その孤独な姿が浮かびあが
り、確かにシャネルの心の真実を伝えたということはできる。

シャネルはこの再会した旧友に夜を徹して自分の半生を語り続けた。少女時代については、
孤児同様の寂しい日々を送ったもののブルターニュ地方の金持ちの二人の叔母に預けら
れ、修道院経営の学校で教育を受けたと述べている。

●孤児院へ…  しかし、実際はシャネルが十二歳だった一八九五年に母親が結核のため
に三十三歳の若さで死亡し、以後十八歳まで仏中央部オーバジーヌの孤児院に預けられて
いた。シャネルには一歳上の姉、二歳下の弟、四歳下の妹、六歳下の弟がいた。七歳下の
弟もいたが生後、まもなく死んでいる。母親が出産を繰り返す間、父親は常に不在だった。

そして父親はシャネルを孤児院に預けると、二度と彼女の前に姿を現さなかった。シャネ
ルの洗礼名「ボンヌール」は「幸福」の意味だけに哀れだ。しかし母親の病死も父親が行
商人であることも貧困層の出身であることも孤児院で育ったことも非難されるべきことで
はない。例えば同時代の米国であれば、むしろ輝かしい成功物語を際立たせることになる
はずのこうした少女時代を、シャネルは生涯、ひた隠しにした。

●実像と裏切り  「本が出版されたときはシャネルの神話を壊した、と非難ごうごうで
した」とシャルル=ルーは当時を振り返る。彼女はモード記者として生前のシャネルと親
しかった。「ほとんど、毎週会って食事をした」という仲だ。それだけにシャネルの実像
を説き明かした彼女に、裏切られたという思いをもつ人も少なくなかった。その感情はシ
ャネルに近い人ほど強い。

シャネルは生前、コレット、ケッセル、ミシェル・デオンら名のある作家に伝記を書かせ
ようとしたが、結局、実現しなかった。六カ月間、シャネルのところに通って話を聞いた
後、執筆を放棄したミシェル・デオンは「彼女のいとこ、めい、おいなどに話を聞き、無
名時代の写真を見つけ、出生証明書を探し出し、第二次大戦後のスイスの生活を加え、彼
女が語る自伝とは別の伝記を書くことも可能だったかもしれない。しかし彼女への友情と
愛情と尊敬がそれを阻んだ。彼女のうそをそのままにしておきたかった」と告白した。
168シャネル@20世紀特派員:02/01/05 00:06 ID:6ess6DkO

少女の瞳に焼き付いた騎兵

ココ・シャネルの生地、ソーミュールは十八世紀から騎兵学校の所在地として知られてい
る。そもそもシャネルの父親がソーミュールにやってきたのも毎年、騎兵学校の広場シャ
ルドネールで開催される騎兵たちのショー「カルーセル」を見物にやってくる観光客にク
レープ菓子を売るためではなかったか。

現在は正式名を「陸軍機甲・偵察訓練学校」と呼ぶこの騎兵学校の起源は、ルイ十四世の
弟が率いる騎兵連隊が一七六三年にソーミュールに駐屯したときにまでさかのぼる。そし
てルイ十五世の時代の軍人で、騎兵を重視したショワズールは、一七六六年から七〇年に
かけて、広大な訓練場と校舎を建設し、騎兵養成学校を創立する。床や階段に大理石が使
われている壮麗な校舎は現在も使われており、フランス陸軍の往時がしのばれる。

●伝統ある学校 ナポレオンは騎兵の用兵に天才ぶりを発揮したが、その騎兵隊もソーミ
ュールで鍛えられたものだ。ロシアの帝政時代にはツァーの近衛兵がこの学校で学ぶなど、
外国から修練にきた将校も多かった。 日露戦争の沙河戦で秋山好古の騎兵が最左翼を守
ったのに対し、最右翼の「宮さま旅団」を指揮した閑院宮載仁親王もサンシール士官学校
のほかにここで学ばれている。

仏国防省の解禁秘密文書の中には、一八八八年五月十二日付で東京のフランス公使館戦争
省軍事アタッシェ、ブーグイン大佐が仏戦争相にあてた書簡が含まれている。そこには閑
院宮が「現在、ソーミュールの学校の生徒である」との記述もある。

日露戦争を前に、ロシアと同盟国だったフランスが日本に関する情報をかなり収集してい
たことを、これらの秘密文書は明らかにしている。また、日本では当時、海軍は英国式を
取り入れたものの、陸軍は当初、徳川幕府のフランス式を引き継いでいたことから日仏の
軍事関係は現在よりずっと密接だった。

後にプロイセン(ドイツ)が普仏戦争に勝ったため、陸軍はドイツ方式に切り替えられるの
だが、このことを残念がるフランス人がいまだに多いのにも驚かされる。彼らに言わせる
と、第二次大戦でドイツと組んだ日本が敗戦する遠因はここにあるというのだ。 ただし
騎兵だけはフランス式を堅持した。司馬遼太郎の「坂の上の雲」によると、日露戦争で活
躍した日本陸軍の騎兵部隊の生みの親、秋山好古がフランス留学中、硬直美を基本とする
ドイツ式は「人間の姿勢として不自然であるため騎手は長時間の騎乗にたえられなくなり、
疲労ははなはだしい」とみて、おりから訪仏した山県有朋にフランス式の有利さを直訴し
たからだという。

「坂の上の雲」には、秋山好古が後年、陸軍大学校で講義したときの話も書かれている。
好古は講義の最初に「騎兵の特質とはなにか」の命題をかかげ、いきなりかたわらの窓ガ
ラスをげんこで突き破って「これだ」と言った。 「騎兵は地上にたかだかと肉体を露出
している」と好古は講義を続ける。このため「容易に敵の銃砲火を受け、全滅する例も戦
史にはざらにある」「が、いかなる兵科よりも機動性に富み、効果的に奇襲に成功するこ
とができる」「しかも騎兵は、一騎一騎はよわいが、これを密集させてよき戦機に戦場に
投入すれば信じがたいほどの打撃力を発揮する」というのだ。
169シャネル@20世紀特派員:02/01/05 00:08 ID:6ess6DkO
この「打撃」を好古はガラスをやぶることで示し、しかし「打撃」を発揮した後に全滅す
るかもしれない危うさを素手が傷つくことで表した。

●頭を高々と…  シャネルの生涯を考えているうちに、このエピソードを突然、思いだ
した。機を見るに敏だった上、いつも頭(こうべ)を高々と上げて人生と時代に果敢に挑戦
しつづけたシャネルの生涯と、この騎兵の特質が二重写しになって見えてきたからだ。

何よりもシャネルのモード哲学が騎兵の特質を示していないだろうか。現在も世界中の女
性を魅了しているシャネル・スーツの原点は、女性が一人で自由に車の乗り降りができる
ということを前提にデザインされた。そのモードはまず、十九世紀の絞りに絞っていたウ
エストをゆったりと解放し、床に引きずっていたスカート丈も短めにして何よりも機動性
を尊重することから始まった。

「坂の上の雲」には久しぶりに会った兄の好古の服装を見て、弟の真之がその華やかさに
驚くシーンもある。陸軍士官学校から帰ってきた馬上の兄は「肋骨三重の上衣というのは
他の兵科とおなじであったが、金条(きんすじ)の入った真っ赤なズボンをはき、サーベル
の刀帯も革ではなく、グルメットという銀のくさり」という姿だった。

軍服の中でも騎兵の制服は各国とも飛び切り華やかだとされているが、好古は常々、「身
辺は単純明快でいい」と言い、服装のことで真之を「歴とした男子は華美を排するのだ」
と叱責したこともあった。それだけに、この仏陸軍の影響を受けた派手な騎兵の制服に対
する真之の驚きは大きかったろう。

ソーミュールの「陸軍機甲・偵察訓練学校」の付属博物館には歴代の騎兵の制服が展示さ
れている。黒、ブルー、ベージュなどの色鮮やかな制服の金ボタンや詰め襟スタイルは、
なんとシャネル・スーツの特色に似ていることか。

●鮮やかな印象 また、シャネルが孤児院から出て最初に行った町、ムーランにはこの時
期、えり抜きの猟騎兵第十連隊が駐屯していた。 エドモンド・シャルル=ルーの「シャ
ネル ザ・ファッション」によると「フランス最高の精華というべき男の集団」であり、
彼らは「薄手の綾絹の軍帽や、山羊の毛で七本の肋骨をつけ、三列の金ボタン、袖に巧み
に飾り紐を縫いつけた長外套や、騎兵だけが着ているような空色のブルーの上着」で町を
闊歩していたという。

シャネル・スーツの原型が騎兵の制服にあったことは今ではほとんど定説になっているの
もうなずける。騎兵の町ソーミュールはシャネルの生地であるばかりか、シャネル・スー
ツのルーツでもあるわけだ。 シャネルが母親の腕の中で見物したはずの「カルーセルの
ショー」は一八二八年に始まり、いまも続いている。人口約二万三千人の小さな町には毎
年、このショーを見るため三万人の観光客がやってくる。 そして最新型戦車の行進やオ
ートバイの曲乗りなども登場するショーの最大の呼び物は、かつて幼い少女の胸にも鮮や
かな印象を刻み付けたに違いない騎兵の乗馬演技である。だが、シャネルは生前、ソーミ
ュールの名を口にしたことはなかった。
170シャネル@20世紀特派員:02/01/05 00:09 ID:6ess6DkO
恩恵も負の遺産も一身に: ココ・シャネルが生まれた一八八三年八月十九日付のフラン
スの新聞、フィガロ紙は二人の人妻の不倫事件がトップ記事だった。見出しは「二つの裁
判」。 第一の事件は、副知事と情事を重ねていた人妻を夫が告訴し、人妻は三カ月の禁
固刑を言い渡された。ところが、副知事は無罪放免となっている。理由は彼が「公務員だ
から」だった。

第二の事件は二年間、南米に出掛けた夫の留守に、「当然のことながら愛人を持った」人
妻の不倫事件である。ある日突然、帰国した夫はわが家に「自分の後任者どころか後継者」
がいるのを発見した。不倫で告訴された妻は「夫を裏切ったわけではない。死んだと思っ
たからだ」と必死に主張したが、判決はやはり二年の禁固刑だった。夫は「妻の相手も訴
えたかったが公務員だからできなかった」と悔しがった−。

 フランスは当時、「女は果樹が園芸家の所有物であるように、男の所有物だ」としたナ
ポレオン法典によって結婚制度が厳しく規制されていた。カトリックの国フランスでは中
絶も協議離婚も一九七五年まで認められなかった。裏返せば、厳しい結婚制度の裏で愛人
を持つ習慣が大いに認められていたともいえよう。

 この記事を書いたアルベール・デルプル記者は公務員重視の「裁判の不公平」を批判す
る一方で、夫の後任者のみならず後継者まで作ってしまった人妻の不用心を「ちょっと早
すぎる」と批判した。突然、帰国した夫に対しても「予測できた事態」と、その無分別を
冷笑し、「現代に適合しないこうした古い法律のもと」では「バルザックの小説のような
ことがたくさんある」と慨嘆している。

 一方、当時の高級週刊紙で「世界新聞」と副題を掲げた「リラストラッション」の一八
八三年八月二十五日号は、十九日の日曜日に地方議会選挙が実施され、共和党が千四百四
十五議席中千十二議席を獲得して勝ったことを伝えている。 共和党は一八七一年に第三
共和政の初代大統領に選出されたティエールらが育てた党だ。共和主義的ブルジョアの政
党として二月革命の実現に努め、普仏戦争の開戦に反対し、パリコミューンに圧迫されな
がら、徐々に支持を伸ばしていった。

■ 波乱の時代: 同紙はまた一八八三年一−七月のフランスの貿易収支も報告している。
それによると、輸入が約二十八億フラン、輸出が約十九億五千万フランで、前年度比では
輸入が五千八百万フラン増加し、輸出は五千万フラン減少。「あまり好ましくない状況」
と指摘している。

 参考までに十九日付フィガロ紙によると、当時のグレビェ大統領が自分のアパートを家
賃一年一万七千フランで貸していたが三年後に五千フラン値上げし、代償として借家人に
レジョン・ドヌール勲章を与えたという記事がある。現在の日本の物価で考えれば、一フ
ラン二百円前後だろうか。ちなみに約十年前の普仏戦争で、フランスがドイツに支払った
戦争賠償金は五十億フランだった。 さらに同紙を見ていくと、インドシナのトンキンで
は戦闘が続き「安南人に多大な戦死者が出たが仏軍は二人が戦死、六人が負傷と善戦」と
ある。仏遠征軍を率いるバデン大佐が苦戦している状況も伝えている。フランスは八月二
十五日にはユエ条約を締結してベトナム(安南)を保護国化した。
171卵の名無しさん:02/01/05 01:37 ID:rnuVgN1o
大阪新聞 売れないので 解散らしいですね
172トホホ:02/01/05 07:08 ID:MIM4v14R
>171
こんな新聞にも広告を出しました
173シャネル@20世紀特派員:02/01/05 07:33 ID:us3eRJMC
フランスは八三年にマダガスカル島遠征、八八年には仏領ソマリランドの建設と植民地政
策を活発化させていくが、その結果、ベトナムで中国(清)と軍事対立が起きるなど、植民
地政策遂行のために多額の軍事費と人命を投入しなければならず、クレマンソーら急進派
から攻撃されることにもなる。シャネルの生まれた日のフランスの政治、外交、経済状況
は波乱含みだったわけだ。

「馬上のサン・シモン」と呼ばれたナポレオン三世の第二帝政時代にフランスは本格的な
産業革命が展開し、鉄道網が発達した。 パリではオスマン男爵の都市計画によって狭い
曲がりくねった道路が拡充整備されている。

暴動やバリケード防止の政治的目的もあったが、凱旋(がいせん)門やコンコルド広場、シ
ャンゼリゼ大通りが出現し、パリは光にあふれ、印象派の画家を育てたことも事実である。

しかし、第二帝政時代は一八六七年のパリ万博を頂点に陰りを見せ、普仏戦争で幕を閉じ
る。パリコミューンで再び首都にバリケードが築かれ、それも壊滅。一八七一年には第三
共和政が発足し、一九四〇年のナチ・ドイツによるフランス占領まで続いていく。一八八
三年生まれのシャネルはこの第三共和政の恩恵も負の遺産も一身に背負い、その興亡を生
き抜いたことになる。

■馬との関係 リラストラッション紙の「パリ通信」欄にはチュイルリー公園で開催中の
「パリ・イースキア祭り」の記事もある。イースキア島はイタリア南部の火山島で、温泉
や海水浴場のある夏の避暑地として知られている。紀元前五世紀にギリシャ人が建設した
町なので遺跡も多い。

記事は「パリをまだ離れられないパリジャンがチュイルリー公園にイースキア祭りを見に
行けば、切符を買った入場者は失望しないはずだ」と述べ、この有料イベントの盛況ぶり
を伝えている。フランスの有名な有給休暇制度が始まり、一般国民がバカンスに出掛ける
習慣を持つようになるのは一九三六年のレオン・ブルムの人民戦線内閣時代からだが、記
事は十九世紀末にはすでにパリジャンが夏のバカンスに出掛けていたことを示している。

リラストラッション紙は題字が示す通り、イラストが売り物だ。シャネルが成人し、オペ
レッタの歌手を夢見ていたころ、同紙の服飾ページを参考にしたという。この号ではアム
ステルダムの万博や仏中部トゥールの町の火事現場や騎兵部隊の演習風景がイラストで紹
介されている。さらに「馬のプロポーション」と題する記事もあり、これには理想的な数
値を記入した馬のイラストが付いている。 シャネルの生地、ソーミュールは騎兵学校の
所在地だが、シャネルと馬はどうやら縁があるらしい。シャネルの最初の愛人エティエン
ヌ・バルサンも、彼女が生涯で唯一、愛したといわれるアーサー・カペルも、彼女にプロ
ポーズしたとされるウエストミンスター公も馬が生活の大きな部分を占めていた。
174シャネル@20世紀特派員:02/01/05 07:33 ID:us3eRJMC
養われた規則正しい生活: 初春の柔らかな日差しの中、森の中の曲がりくねったなだら
かな坂道を上っていくと、突然、視界が開け、そこに十字架をいただいた教会の尖塔が見
えてきた。 パリから約五百キロ。最寄りのブリーブ・ガイヤード駅にはフランス自慢の
新幹線(TGV)が停車しないので、電車だと四時間かかる。さらに十五キロ東のオーバジ
ーヌ行きの列車は一日四、五本しかない。 空路ならパリからロンドンには三十分、ボス
ニア・ヘルツェゴビナのサラエボでも二時間の距離だ。仏中西部リムーザン地方のこの人
口七千人の町はサラエボよりも遠くにあるともいえる。

■シャネルの色: 町は中世がそのまま残っているような静寂に包まれていた。二軒ある
ホテルは本格的な春がやってくるまで休業だ。 先刻見えた教会は中世の修道士が建てた
僧院の付属施設だった。標高三百メートルの小高い丘にある町に入り、僧院と教会の石造
りの黒い屋根とベージュ色の壁を仰ぎ見たとき、「あっシャネルの色」と思わず声が出た。

先入観のせいだろうか。屋根と壁の色は、パリのカンボン通りにあるシャネル本店の基本
色、黒とベージュと同じ色だった。この基本色は世界中のシャネルの店で使われており、
室内装飾を勝手に変えることは契約違反となる。この黒とベージュはシャネル・モードの
基本色でもある。 それに無駄をいっさい排した典型的なロマネスク様式も、ある意味で
シャネルの原型といえないだろうか。シャネルの伝記「シャネル ザ・ファッション」の
作者、エドモンド・シャルル=ルーは、シャネルが十二歳から十八歳まで暮らしたのはこ
の僧院だった、と推定している。

シャネルの母親が一八九五年二月六日、行商人の夫の後を追って疲れ果てて結核に倒れた
のはブリーブ・ガイヤードだった。母親は逝き、五人の子供が残された。父親は最寄りの
孤児院にシャネルと長女ジュリアンを預け、そのまま姿を消した。幼い妹アントワネット
は親類に預けられた。 二人の弟たちは農家の養子になった。男の子は労働力になるから
だ。孤児だったり、親がいても育てる能力のない子供を町や市が面倒を見て、適当な農家
などに紹介し、養育費は国が持つ。そんな制度があった。弟たちはその後、父親と同様、
行商人になった。

シャネルはこの弟たちを含めた親類縁者について積極的に語ったことはない。孤児院生活
のことは口をつぐんだままだった。ただ一九四七年の冬、ポール・モランに自分の過去を
語ったとき、こう述べている。「そのときから、孤児ということばが、あたしを恐怖の氷
づけにしてしまいました。いまでも、小さな女の子たちのいる孤児院を見に行くのも、『あ
の子たちは、みなしごなのよ』ということばを聞くのも、涙なしには、できない始末です」
(「獅子座の女シャネル」)

■暖房もなく…: オーバジーヌの僧院は十二世紀、教会が本格的な改革運動に初めてさ
らされていたころ、当時の教会に愛想をつかした隠とん者、エティエンヌ・ドバジーヌが
建てたという。町の名前もこの聖人からきている。森をひらき、水を引き、神との対話だ
けで過ごしていたこの世捨て人を慕って支持者が集まり、共同体が形成された。一一四七
年には、女性が共同体に参加しているというハンディがあったにもかかわらず、修道会か
ら僧院建設の許可が出た。
175シャネル@20世紀特派員:02/01/05 07:34 ID:us3eRJMC

フランス革命後、マリア聖心修道会が廃虚同然だった僧院を孤児院として買い取った。当
時の書類によると一八五九年六月二十一日に二万六千フランで購入となっている。 当初
は孤児のほかに寄宿生徒もおり、一八九〇年には孤児二十六人、寄宿生徒六人の記録があ
る。有料の寄宿生徒の共同寝室が広いホールで天井には天使の絵が描かれ、暖房もされて
いたのに対し、孤児の共同寝室は屋根裏部屋で暖房もなかった。

孤児は十二−十四歳が「守護天使組」と呼ばれてニワトリやウサギの世話を担当し、十四
−十六歳の「聖ジョセフ組」は畑仕事、十六−十八歳の「聖母組」は年少者の世話のほか
牛乳やチーズ作り、裁縫などの作業を行った。 夏は午前七時、冬は午前八時起床、夕食
は夏が午後七時、冬が午後六時、就寝は午後八時三十分だった。

シャネルは一九三一年九月、米国の作家ジュナ・ベルネスのインタビューに次のように答
えている。「睡眠は七時間か八時間が必要。窓は開けたまま寝ること。早起きして仕事は
懸命に、一生懸命にやりなさい。夜更かしは禁物。耳や目、考えや神経を研ぎ澄ましてお
きなさい。夜更けすぎに面白いことなんか何もない」 シャネルは当時、社交界にも君臨
し、一九二一年に発表した香水「シャネルの五番」も大成功していた。一九三一年にはハ
リウッドを制覇し、グレタ・ガルボやマレーネ・ディートリヒらが争ってシャネルと交際
することを名誉としていたころだ。

■過去の遺物: 生活も不規則だったと思えがちだが、シャルル=ルーをはじめシャネル
をよく知る人は「彼女はアルコールもほとんど口にしなかった」と証言する。こうした規
則正しい生活態度は、孤児院時代に養われたのかもしれない。「キッスや愛撫や、教師や
ビタミン剤が、子供を殺してしまうだけではなく、不幸にし、ひよわな人間に仕立ててし
まうのだ」(「獅子座の女シャネル」)とも警告している。

授業は孤児も寄宿生も合同だったから孤児たちには余計、つらいものがあったろう。寄宿
生はその後、姿を消し、「孤児(約三十人)がトゥルソー(僧院や寄宿舎に入る者が持参する
衣類一式)の製作を修道女と裁縫室で行っている」(一九〇二年三月四日付のブリーブ市の
副市長からコレーズ県知事にあてた書簡)という状態になる。

シャネルがオーバジーヌのこの孤児院にいたことを証明する記録はいまのところ何もな
い。孤児院は一九六五年に廃止になり、現在は「生命の言葉」という宗教団体が研修など
の合宿用に使用している。

シャルル=ルーは「ありふれた不幸というものはない。あるのは、その時代のさまざまな
不幸だ」と指摘している。社会保障制度が進み、それが財政赤字を圧迫するフランスの現
代では、孤児院はもはや過去の遺物なのかもしれない。
176シャネル@20世紀特派員:02/01/05 11:13 ID:GFkNNvP0

あたしは いつも傲慢だった: 子供の時間はゆっくりと流れる。青春が短く感じられるの
は大人になってからだ。フランス中部の森の奥、小高い丘の上の元僧院を利用した孤児院
で、十二歳から十八歳までの六年間を過ごしたシャネルにとって、この歳月はどんなに長
かっただろう。

後の壮麗、華美なゴシック建築に比較して、十二世紀に建てられた典型的なロマネスク様
式の僧院と教会には彫像も飾りもない。その黒い屋根とベージュ色の壁。孤独な少女の目
には冷たく映ったに違いない建物に秘められた、凛(りん)とした力強さや温かさ、繊細さ
にシャネルが気が付いたのはいつごろだろう。

孤児院の生活を忘れたころに、その美しさが蘇ってきたのだろうか。そして孤児たちが着
ていた白と黒の制服。エドモンド・シャルル=ルーの「シャネル ザ・ファッション」に
は、白と黒の対照について、こんな記述がある。

「黒のスカートは、長持ちするように、そして大またで歩けるように、ボックス・プリー
ツに裁ってあった。修道女たちのベールは黒く、彼女たちの頭を締め付けている糊のよく
きいたまっ白いバンド…」 白もまた、シャネルが生涯、愛した色ではなかったか。孤独
だった少女時代について、シャネルはポール・モランにこう語っている。

「服を注文するカタログをながめては、お金を湯水のように使う夢にひたっていた。真っ
白な服、白い部屋、そして白いカーテン。白い色ばかりが夢にうかぶのは、あまりにもう
す暗い家に閉じ込められていたせいだろうか」(「獅子座の女シャネル」)

《聖女の物語》 当時の孤児院の生活をしのばせる記録がある。一九〇五年に作成された
孤児院所有の家具などの目録だ。それによると、食堂には「二個の引き出し付きの長さ四
メートルの木製のテーブル二個」「二個の引き出し付きの三メートル八十センチのテーブ
ル一個」「四メートルベンチ一個と三メートルのベンチ二個」「小さな二メートルのベン
チ一個」「スプーン二十五個とフォーク二十五個」「二十五個のコップ」など。

教室には「壁にかかった黒板」「教師用の小さな机と網藁張りのいす」「生徒用の状態の
悪い机二個とその木製のいす」「フランスと欧州の地図二枚」「宗教ものの額縁四個」な
ど。 共同寝室には「わら入りのマットレス付きの鉄製のベッド八個、各ベッドに敷布二
枚」「古いわら入りの鉄製のベッド五個」「小さな鉄製のベッド十六個」などなど。

さらに図書室には「ジャンヌ・ダルク五幕もの、ジョセフ・ド・ムーラン作」「ジャンヌ
・ダルクに関する他の本、ジョセフ・ド・ムーラン作」「気で病む男、ジョセフ・ド・ム
ーラン作」「聖エティエンヌ・ドバジーヌの生涯」など。

ジョセフ・ド・ムーランは通常の仏文学史などには名前も記載されていないマイナーな作
家だ。しかし、感受性の鋭い少女時代にシャネルはおそらく、火刑となった救国の聖女の
物語を繰り返し読んだはずだ。そして、世捨て人同然の極貧生活を送りながら、当時とし
ては珍しく男女混成の共同体を容認し、男女双方の熱い支持を得て僧院の建立に成功した
聖者の伝記も読んでいるだろう。
177シャネル@20世紀特派員:02/01/05 11:14 ID:GFkNNvP0
第二次大戦中、シャネルと交友があった元ナチ将校、テオドール・モームは戦後、シャネ
ルの伝記を執筆中のシャルル=ルーにあてた書簡の中で、「彼女の血潮にはジャンヌ・ダ
ルクの血が流れている」と書いたことがある。あながち「ロマネスクな推量」(仏週刊誌
レクスプレス、クリストファ・アグニュス記者)とは言い切れないかもしれない。

《裁縫の日々》 シャネルら孤児が修道女の指導の下で、熱心に行ったのが裁縫だった。
孤児たちはトゥルソー(僧院や寄宿舎に入る者が持参する衣類一式)を仕上げ、それは地方
の町やパリに卸されて孤児院のわずかな収入となった。

シャネルのアトリエの主任だったマノン氏は「マドモワゼル・シャネルはいつもハサミを
首から鎖でぶらさげ、気に入らない作品はほどいたが、針を持っていたのは見たことがな
い」と証言するが、孤児院でみっちり裁縫の技術を習得したことは間違いない。

それにしても孤児院では毎日、着ていたのが白と黒の制服なら、毎日、目にしていたのも
修道女の制服だった。そして毎日、縫っていたのも他人の制服ということになる。幼い目
に映ったであろう生地ソーミュールの騎兵学校の士官たちの制服に、孤児院を出て最初に
行った町ムーランの猟騎兵部隊の制服、それにこれらの少女時代の制服群。

機能性と持久性と合理性。そして、そこから生まれてくる独特の美しさ。シャネルのモー
ドの基本が制服を通して形成されていったことがうかがえる。

《成功の秘密》 孤児院の孤独で屈辱的ともいえる生活を、シャネルは頭を上げ、誇り高
く耐えた。 「あたしは、いつも、とっても傲慢だった。頭を下げたり、ぺこぺこしたり、
卑下したり、自分の考えを押しまげたり、命令に従うのは、大きらいだった」「傲慢さは、
あたしの性格のすべての鍵ともなったかわりに、独立心となり、または非社交性ともなっ
た。それは同時に、あたしの力や、成功の秘密にもなっていったのである」(「獅子座の
女シャネル」)

孤児院はすでに廃止され、僧院の建物は現在、宗教団体の合宿場として使われている。し
かし、僧院の創始者である聖者エティエンヌ・ドバジーヌの墓はいまも残っている。墓に
は聖者の石像が横臥しているが、その顔の部分は擦り減っている。聖者の顔を愛撫(あい
ぶ)すると願い事がかなうという言い伝えがあるからだ。

シャネルもこの静謐と薄闇が支配する教会の中で、聖者の顔を何度か愛撫したはずだ。シ
ャルル=ルーの「シャネル ザ・ファッション」によると、孤児院を出てから数年後に出
会った最初の愛人、エティエンヌ・バルサンに、シャネルはこう言った。 「前にもエテ
ィエンヌという名前の保護者がいたのよ。彼も奇跡を見せてくれたわ」

シャネルにとって、孤児院があった町の名前の由来でもある聖者、エティエンヌ・ドバジ
ーヌ(オーバジーヌのエティエンヌ)こそが、最初の愛人だったとも言えよう。
178シャネル@20世紀特派員:02/01/05 11:15 ID:GFkNNvP0
最初の世間だったムーラン

パリから南に約三百キロ。人口約二万七千のムーランは中世の建物が随所に残る典型的な
フランスの地方都市だ。この町の中央広場に面して「ル・グラン・カフェ」がある。

ベルエポックの典型的レストランであるパリの「マキシム」と同じように、店内は鏡が張
りめぐらされ、高い天井には草花の蔦模様のフレスコ画が描かれている。ブルボン王朝の
十八世紀に大流行し、ナポレオン三世の第二帝政時代に復活し、さらに世紀末にも蘇った
ロカイユ様式(貝、小石をセメントで固めた装飾や複雑な曲線が特徴)の典型だ。

店の奥にはスタッコと呼ばれる大理石の粉の入った化粧しっくいの付け柱(壁の一部が張
り出している柱)風の飾り露台も見える。隅におかれたピアノからはベルエポックの陽気
なシャンソンが今にも聞こえてきそうだ。 「私はかわいそうなココを見失ってしまった、
大好きな私の犬のココを…」

<人気カフェ> シャネルは孤児院を出た後、この町にやってきた。おそらくは修道会の
紹介でお針子として働きながら「カフェ・コンセール」の歌手を夢見ていた。まだ自分の
本当の才能に気が付かず、将来を探っていたころだ。

歌やショーなどのステージがあるカフェ・コンセール(演芸カフェ)こそ十九世紀の世紀末
とベルエポックの象徴だった。シャンパンなどを飲みながら風刺のきついシャンソンを聴
き、手品や軽業を楽しむ娯楽場兼社交場である。パリでは一八六〇年代から出現し、一八
八九年にはモンマルトルに「ムーラン・ルージュ」が開店して全盛期を迎える。

「ムーラン・ルージュ」の呼び物であるフレンチ・カンカンの、ちょっとエロチックで陽
気な踊りにパリっ子は熱狂した。ロートレックも「ディヴァン・ジャポネ(日本の長いす)」
とともにこのカフェを愛し、傑作を生んでいる。ここは今でも日本人をはじめ世界各国の
観光客を引き付けている。

こうした人気カフェではお針子出身の大テレザやモデル出身のイベット・ギルベールが大
スターとして人気を集め、女優たちより収入も多かったといわれる。ムーランのような田
舎町にもカフェ・コンセールは浸透し、パリ風の「ル・グラン・カフェ」は人気の中心だ
った。

<黒い学生服>  シャネルがこのカフェに出入りするようになるのはいつごろだったの
だろう。十八歳以降は修道女を目指す者以外は預かれないという孤児院の規則のため、シ
ャネルは十七歳のときに、姉のジュリア、そして親類の家にいた妹のアントワネットとと
もにムーランにあった宗教施設の寄宿舎に送られ、ここで二年間を過ごす。

 ムーランの近くの町には鉄道員を夫に持つ叔母が暮らしており、シャネル姉妹を引き取
る能力はなかったものの、バカンスには呼んでくれた。ムーランにはシャネルと同年の叔
母、アドリエンヌもいた。シャネルの伝記作者、シャルル=ルーはこうした関係でシャネ
ル姉妹はムーランに送られたと推察している。
179シャネル@20世紀特派員:02/01/05 11:16 ID:GFkNNvP0
ムーランはシャネルにとって最初の世間だったとも言える。町には孤児院では見かけな
かった男子学生がいた。少年たちは黒い学生服を着て、白いワイシャツに花形結びにした
ネクタイをしていた。ネクタイは後に、シャネルによって断髪のボブヘアとともに「ガル
ソンヌ(少年)・スタイル」として大流行することになる。一九二〇年代のことだ。

若い叔母のアドリエンヌは美しく優雅で、親類にはなじめなかったシャネルもすぐ親し
くなった。二人は二十歳になると寄宿舎を出て修道会の世話で、町の中心街、オルロージ
ュ通りの洋裁店で働き出した。

ムーランの町のはずれ、アリエ川の向こうには猟騎兵連隊の宿舎があり、町には周辺の城
館の貴族たちの通う競馬場があった。シーズンの呼び物のレースには駐屯場の士官たちも
出場した。

またしても馬である。シャネルと馬はよほど、縁があり相性が良いのだろう。しかもこの
時代、ここに駐屯していた猟騎兵第十連隊は、騎兵の中でも「えりぬきの部隊」として知
られていた。名前には貴族を表す「ド」が付き、「聖ルイ王が騎士たちに十字軍遠征を呼
びかけた時代に後戻りしたような感じ」(「シャネル ザ・ファッション」)の若者たちだ
った。 彼らは「武装を解くと、すぐに散歩に繰り出した。大げさにふくらませた真っ赤
な乗馬ズボンをはき、軍帽はあまり目立たないようにかぶっていた」(同)という。

<魅力を発散> こうした散歩着や、三列の金ボタンやそでに飾り紐を縫い付けた長外と
う、騎兵の特徴の空色の上着などはパリの最高級店に注文したが、飾りひもの繕いや金ボ
タンのつけ替えには町の店にやってきた。

シーズンにはこうした店は大繁盛だった。シャネルとアドリエンヌは臨時にこうした店に
アルバイトにやってきた。士官たちが二人の美しい娘に気がつき、「ル・グラン・カフェ」
など流行のカフェに誘うようになるのは時間の問題だったはずだ。当時の写真を見ると、
アドリエンヌはふっくらとした官能美だが、シャネルの方はやせて大きな目と口、鼻ばか
りが目立っている。

しかし、後のシャネルの友人で、ロートレックやルノワール、ボナールのモデルも務めた
パリ社交界の女王、ミジア・セール(彼女については後述する)は一九一七年に女優のセシ
ル・ソレルの家の夕食会で初めてシャネルと会ったときの印象をこう述べた。

「食卓で、私の注意はたちまち非常に濃い褐色の髪の、一人の若い女性に引かれた。彼女
は一言も発言しなかったが、抵抗しがたい魅力を発散していた」(オーサー・ゴールド、
ロバート・フィザル著「ミジア」)

上流階級の士官たちもミジアと同様の感想を持ったのだろう。彼らはたちまち二人をデー
トに誘い出す。待ち合わせ場所はもちろん「ル・グラン・カフェ」や「ラ・ロトンド」な
どの人気カフェ・コンセールだった。
180卵の名無しさん:02/01/05 21:05 ID:qZAt68Y6
181卵の名無しさん:02/01/05 21:06 ID:qZAt68Y6
↑32位です
182卵の名無しさん:02/01/05 21:43 ID:8LPbEnu4
この荒らしは捏●地獄で頭がいかれた奴か?
183シャネル@20世紀特派員:02/01/06 00:14 ID:l0x4pt5m
「ココ!」と叫ぶ熱狂的な士官

フランス中部の町、ムーランにあるレストラン「ル・グラン・カフェ」のオーナー、モー
リス・ポシュロンによると、この店が建設されたのは一八九九年だった。 費用は二十五
万フラン。 現在の金額に換算すると、四百五十万フラン(約一億円)前後だという。シャ
ネルが通った開店早々の時期には、ベルエポックを代表する豪華カフェだった。

一九〇三年、二十歳を迎えたシャネルはこうしたカフェで士官たちに囲まれながら、いつ
か田舎町からもお針子仕事からも解放され、パリで暮らす日を夢見ていたのだろうか。
フランス文明の輝かしい一ページ、ベルエポックの定義はさまざまだ。大修館の新スタン
ダード仏和辞典では「二十世紀初頭の古き良き時代」となっている。

「普仏戦争と第一次大戦という二つの戦争の間(一八七一−一九一四年)の悲劇的時代。フ
ランスはドイツとの戦争という固定観念と脅威に捕らわれていた時代」と定義するのは哲
学者アンドレ・グリュックスマンだ。 「だからこそ人々は消費社会に快楽を求め、今の
人生をより良く生き、謳歌しようとした。水平線のかなたには戦争が感じられ、いずれ危
険(戦争)という運命を避けられないと感じていた。危険と香水、快楽、女性、オペラ、オ
ペレッタで代表されるベルエポックは隣り合わせのものだ」

一九〇五年、フランスの兵役制度は二年になり、兵役免除も廃止された。同年三月には日
露戦争でフランスの同盟国ロシアが敗北するのを見たドイツは、モロッコのタンジールに
上陸してモロッコにおけるドイツの権益を宣言した。単独でドイツと戦争に入ることを恐
れたフランスは国際会議(アルヘシラス会議)に訴え、米英の支持を得てやっとモロッコで
のフランス、スペインの優位を確認することに成功したが、その後もモロッコでは反仏民
衆ほう起が起きるなど不穏な動きは続いた。

一九〇六年からは労働争議が頻発し、労働総同盟(CGT)はアミアン憲章を採択して社会
革命を目標にしたストライキなどあらゆる手段に訴えることを確認した。こうした中で誕
生した急進派のクレマンソー内閣は短命に終わり、一九〇九年にはかつてのゼネストの提
唱者、アリスティード・ブリアンの内閣が発足する。一方で国家主義も台頭し、戦争の脅
威は日に日に増大していった。

歴史学者ピエール・ノラもベルエポックを第一次大戦前までとして次のように定義する。
「ある種のクラスにとってのある種の平等、国全体にとってはある種の均衡と一定の財政
的繁栄、ある種の生活の楽しみ、ある種の平和、ある種の安定。つまりすべてが暫定的だ
った。一方でアナキズム、社会主義があり、非常に惨めな生活を送っていた労働者がいた
からだ」

そして「当時の人々はナポレオン三世時代を《第二帝政時代の祭典》と呼び、古き良き時
代として懐かしんだ。ベルエポックはそれぞれの人間の記憶の中に存在する」と総括する。

 一方、歴史学者のミシェル・ヴィノックは「ベルエポックは神話だ」と指摘し「幸福な
時代は決して存在しないが、幸福な思い出というのは存在するからだ」という。
184シャネル@20世紀特派員:02/01/06 00:16 ID:l0x4pt5m
ムーランのシャネルにとって、この時代はベルエポックだったのだろうか。彼女はカフェ
・コンセール(演芸カフェ)の人気歌手を夢見ていた。孤児院出身の若い女性にとって、手
っ取り早い出世の道に思えたからではなかったか。

ムーランで最も繁盛していたカフェ・コンセールの一つ「ラ・ロトンド」の主人は彼女の
採用を決める。彼女の歌手としての才能より、集客能力を重視した結果かもしれない。彼
女にはその時点ですでに士官のファンがたくさんいた。

一九〇五年ごろ、ムーランのカフェ・コンセールには「ポーズ嬢」と呼ばれる女性たちがいた。
「スターの後ろに半円状に座った十人ほどの端役。彼女たちはサロンのような雰
囲気をかもしだして店の格が高いように見せ、スターが舞台から消えると、彼女たちが立
ち上がって代わる代わるシャンソンを歌い始める」(シャルル=ルー「シャネル ザ・フ
ァッション」) シャネルも「ポーズ嬢」としてデビューする。持ち歌は二つしかなかっ
た。「コ・コ・リ・コ」と「トロカデロでココを見たのはだれ?」だ。いずれもパリのカ
フェ・コンセールではやっていた歌である。

舞台にシャネルが登場すると、観衆はいっせいに鶏のコッコッという鳴き声をまねる。「そ
れが最後に、彼女のしゃがれ声で、とても雄鶏の鬨の声だとは思えないくらいおずおずと、
『コ・コ・リ・コ』が始まると、彼女を勇気づけることになるのだった」(「シャネル
ザ・ファッション」)   シャネルは後に「ココ・シャネル」と愛称で呼ばれるように
なる。彼女自身は「父親がつけてくれた愛称」と説明したが、シャルル=ルーは「トロカ
デロでココを見たのはだれ?」が起源だとみている。

「私はかわいそうなココ、私の大好きな犬ココを見失ってしまった、トロカデロで。私の
最大の後悔だ。男に裏切られるよりもずっとつらい」 歌のルフラン(繰り返し)の部分は
「ココ!ココ!」。ここで熱狂したファンたちはいっせいに「ココ!ココ!」と叫び、ア
ンコールを求めた。士官たちにとってシャネルはいつしか「ココ」になったというわけだ。

しかし、シャネルはこの程度の成功では満足しなかった。ムーランは田舎町にすぎない。
五〇キロ先には鉱泉で知られる保養地のビシーがあった。富裕階級が集まり、猟騎兵たち
も休暇を過ごしにしばしば、でかけていった。競馬場もカフェ・コンセールももっと立派
なのがある。 シャネルはここで運を試すことにした。その彼女を援助したのがシャネル
の最初の愛人といわれるエティエンヌ・バルサンだった。
185シャネル@20世紀特派員:02/01/06 00:18 ID:l0x4pt5m
小さな挫折 服装ほどには成功しなかった

 フランス中部の保養地ビシーは鉱泉の町として有名であり、同時に一九四〇年六月の仏
独休戦条約によって、その年の七月から一九四四年八月までフランス政府が置かれていた
ところとして世界史に名を残している。

 ペタン元帥に全権がゆだねられ、「フランス国家(エタ・フランセ)」と名乗ったこのビ
シー政府は「抹殺すべきあの四年間」(粛清裁判における検事総長アンドレ・モルネの言
葉)といわれるように、フランス人にとっては今でも触りたくない傷口だ。

 もちろん、シャネルがこの町で歌手としての運を試そうとしていたころには、だれもこ
の町がたどる過酷な運命について考えたことなどなかったろう。ましてシャネル自身この
町の運命が後年、自分の運命とも重なり合うことになるとは想像さえできなかったはずだ。

●最初の愛人 「理想的な花婿候補」。これがシャネルの最初の愛人といわれるエティエ
ンヌ・バルサンの当時の評判だった。シャネルの孤児院の聖人、エティエンヌ・ドバジー
ヌと同じ名前だ。 「大きくもなく、すらりともしていなくて、口ひげも平凡で、丸顔」(「シ
ャネル ザ・ファッション」)だったという。要するに気取った猟騎兵隊を見慣れたシャ
ネルには、親しみやすかったはずだ。しかも名前には貴族の印の「ド」も付いていない。

 家族はフランス中部の工業都市シャトールーに住み、金持ちで堅実でまじめだった。第
一次大戦前まで存在した典型的なフランスのブルジョア階級だ。バルサンはシャトールー
の歩兵連隊の出身だったが、競走馬の飼育しか興味がなかったためムーランへの配置換え
を希望した。ムーランでは東洋語研究所に潜り込んで、たちまち騎兵たちの仲間になり、
彼らのアイドルだったシャネルとも知り合うことになる。

 シャネルが同じ年齢の叔母アドリエンヌとともにビシー行きを決心すると、バルサンは
その準備も援助する。若い娘二人は、自分たちが勤めていたオルロージュ通りの店で、今
度は客として布地などを選んだ。

 シャネルは自分のアイデアで作った帽子と服を身につけてさっそうビシーに乗り込む。
「きっちりとした肩、高いカラー、ぴったりした身ごろ、バックルできちんと締めたベル
ト」(「シャネル ザ・ファッション」)。どこか騎兵隊の制服に似たその服はシンプルさ
の中に、若い女性のしなやかな体を一層、強調し、その若々しさで見る者をハッとさせた。

 アドリエンヌがコルセットやひもでがんじがらめに締め付けられていただけ、シャネル
の服は引き立ったのかもしれない。 しかし、シャネルはビシーでは、服装ほどには成功
しなかった。彼女はアドリエンヌと一緒に質素な小部屋を借りて住み、レッスンを受け、
衣装も自分で工夫し、歌手を志して必死で頑張ったが、結局、ムーランのように簡単には、
雇用主は出現しなかった。

 あのパリの人気歌手のテレザ・バラドンもお針子出身だったし、今や大女優より収入の
多いイベット・ギルベールもデビュー当時は一日二フラン、そしてモーリス・シュバリエ
も最初は一日三フランだった。こうした事実をシャネルは知っていたのだろうか。
186シャネル@20世紀特派員:02/01/06 00:51 ID:T6tHeAvC
ビシーは金持ちの保養地だった。すでにローマ時代から鉱泉が出る町として知られてい
たが、十六世紀から十七世紀にかけてアンリ四世のころに町として発達し、ナポレオンが
一八一〇年にパルク・デ・ソルス(鉱泉公園)を建設したことで飛躍的に発展する。

鉱泉はリューマチや肝臓病に効くといわれ、ナポレオン三世時代にはワインやごちそう
に疲れた金持ちたちが重炭酸塩や炭酸が豊富な鉱泉を飲みに競ってやってきた。一九四〇
年夏にフランス政府がここに移動した理由も「ホテルの数が多く、官庁をはじめ行政機関
を収容するのに便利」(アンリ・ミシェル「ビシー政権」)だったからだ。

●鉱泉飲み場

ビシーはムーランとは異なり、客の目も耳も肥えていた。歌手の職探しに失敗したシャ
ネルは結局、「この土地に明るい猟騎兵隊第十連隊のある士官の推薦に力を得て、鉱泉会
社の事務所に職を探しにいき、“グランド・グリーユ鉱泉”の鉱泉くみに採用された」(「シャネ
ル ザ・ファッション」)。

ビシーは現在も高級保養地の地位を保っている。穏やかな気候や町の周辺を流れるアリ
エ川の風光が人を引き付けるのだろうが、夏には特に鉱泉治療にやってくる金持ちの年配
客でにぎわう。

パルク・デ・ソルスの中央にあるガラス張りの円屋根の建物の中には、共同鉱泉飲み場
があり、「グランド・クリーユ」「ショメール」などの会社名が記されている下には蛇口
が設置されていて、各自が自分で好きな銘柄の鉱泉を飲める仕組みになっている。

●もっと高く

シャネルの時代は、同じ建物ながら、鉱泉くみが深い洞くつのような奥の壁に並べられ
たコップを取りに行き、鉱泉をそれにくんで湯治客に差し出していた。彼女はここでも愛
きょうをふりまいたわけでもないのに、何か人を引き付ける力があったらしく、「シャネ
ル ザ・ファッション」によると「何本もの手がさし出された」という。

鉱泉くみの制服は白衣に白い長靴だった。長靴は足がぬれないためだった。この彼女が
履いていた白い小さな長靴も後に、彼女の手でファッションとして蘇ることになる。彼女
は何ひとつ、見逃さなかった。

しかし、シャネルがジリジリして暮らしていたのは想像にかたくない。自分はこんなと
ころで何をやっているのだろう。この低空飛行をしているような感じ。自分はもっと高く
飛べるはずだ。自分には天職があるはずだ。 そのころ、両親から遺産を相続したバル
サンはパリから北約八十キロの地、コンピエーヌの近くのロワイヤリュに広大な土地を
購入していた。ロワイヤリュはサラブレッドの調教地として知られる土地である。バルサ
ンはきゅう舎を建て、馬を飼育し、騎手になることを夢見ていた。「女の騎手見習いは
いらないの」 シャネルがバルサンに対し、そう尋ねたとしても不思議ではない。
187卵の名無しさん:02/01/06 01:24 ID:NC2IQgJ4
188シャネル@20世紀特派員:02/01/06 02:40 ID:pNjJSAfe
手作りの帽子 ぜいたくを手にジレンマ

シャネルが最初の愛人、バルサンと暮らしたロワイヤリュはコンピエーヌの森に近い。
パリから北約八十キロのコンピエーヌもまた二十世紀の世界史でおなじみの場所だ。ここ
にはフランスの栄光と屈辱、ドイツのフランスに対するおん念、そして両国の和解の歴史
が刻まれている。

第一次大戦の休戦条約は一九一八年十一月十一日、この森の中の引き込み線に乗り入れ
た寝台車で結ばれた。この地が選ばれた理由について、コンピエーヌ休戦記念館に残る仏
側資料は「英仏連合軍総司令官フォッシュ元帥の司令部サンリスが首都パリに近かったの
で、(報道機関などから)隔離し、敗戦した敵の尊厳を保障するため」と、フランスの敵国
ドイツに対する寛容性を強調している。

事実、フォッシュ元帥は寝台車の内部の写真の撮影を禁止したので、この時の歴史的写
真は存在しない。フォッシュ元帥や背広姿のドイツ側の休戦委員長、エルツベルガー(国
務大臣)などが条約文を置いたテーブルの前に勢ぞろいしている挿絵が存在するだけだ。

●仏独の遺恨  条約の調印が終了して、寝台車から出てきた一行の写真だけがこの時の
雰囲気を伝えている。胸を張ったフォッシュ元帥ら仏側の軍人の姿は認められるがエルツ
ベルガーの姿はない。

この時の寝台車はナポレオン三世が使用していたもので、室内装飾のグリーンのサテン
には「N」の縫い取りがなされていた。フランスはすでに第三共和政時代だったが、アル
ザス・ロレーヌ地方を分割された普仏戦争の敗北がきっかけになって崩壊した第二帝政時
代の栄光を示すことで、ドイツに対して「復讐」を果たしたことになる。

また翌年のベルサイユ条約はいっさいの戦争責任をドイツに負わせる過酷なものだった
が、仏側によれば「ドイツの武装解除はごまかされ、参謀本部は一指もふれられず、賠償
は、最初に、それもアメリカの金で、支払われたにすぎなかった」(アンドレ・モロア「フ
ランス史」)となる。フランスのドイツに対する遺恨と畏怖の強さが表れている。

そして二十二年後の一九四〇年六月二十二日、同じ寝台車で今度はヒトラーがフランス
への「復讐」のために休戦協定を結んだ。仏側はこの時の情景を「仏代表団を騒音と白日
の中にさらした」(モロア)と、批判した。

この寝台車は第一次大戦の後には一時、大統領専用車として使用されていた。その後、
一九二一年から二七年までナポレオンの墓があるパリのアンバリッドで展示され、さらに、
当時のコンピエーヌ市長の運動と米国人の篤志家の寄付によってコンピエーヌの森に展示
場が設けられた。

ヒトラーは休戦協定の調印後、この展示場を破壊し、寝台車の方はベルリンに輸送して
展示した後、ベルリンに近い駅の構内に放置している。そして、米軍が近づいた一九四五
年四月には寝台車の焼却を命じた。ヒトラーのおん念のすさまじさがしのばれる。
189シャネル@20世紀特派員:02/01/06 02:41 ID:pNjJSAfe
●馬との日々 コンピエーヌの森には現在、記念館が建ち、寝台車の模型が置かれている
が、これは一九五〇年一月十一日の記念式典の際に復元されたものだ。今ではドイツ人を
含む年間数十万の観光客が訪れる観光地になっている。

しかし、シャネルがロワイヤリュで暮らしていたころのコンピエーヌはまだ、ロワイヤ
リュの栄光の陰に隠れていた。ロワイヤリュは「イギリス出身の由緒正しい調教師たちが
全部、この土地に居を構えていた」(「シャネル ザ・ファッション」)という栄光の馬の
町だった。

ここで「フランス最高の乗馬の仲間に入ろうとして時間と財産をすっかり費やしていた」
(同)バルサンとともに、シャネルも馬に明け暮れていた。出入りするのはきゅう務員や調
教師にバルサンの馬仲間という気楽な暮らしの上、中世の元僧院だった城館は広く、オー
ブン付きの台所もあれば庭にはスカッシュ競技場もあった。

シャネルにとって、このロワイヤリュの暮らしは初めて知るぜいたくの味だったわけだ
が、そうした日々を過ごしながら、彼女が相変わらずジリジリし、低空飛行をしているよ
うに感じていたことは確かだ。競馬と乗馬だけが気晴らしの生活がいったい、いつまで続
くのだろう。

シャネルは乗馬服をあつらえるために、ロワイヤリュにある仕立屋によく通った。仕立
屋の主人はコンピエーヌの猟騎兵第五連隊で兵役を務め、その間に連隊の制服やきゅう務
員の服などの直しを通して本職の腕を磨いていた。

シャネルはここで、イギリスのきゅう務員がはいているようなひざから下の細い乗馬ズ
ボンや飾りのない上着、小さなちょうネクタイを注文した。女性たちがまだベールやリボ
ンで飾り立てていた時代だけに、彼女の服装は注目の的になった。

●相次ぐ注文 こうした服装に合わせてシャネルが自分で作った黒い帽子はとりわけ新鮮
だった。バルサンのところには古い女友達もたくさん、訪れていたが、彼女たちは、この
シャネルの黒い小さな帽子を次々に注文し、シャネルが作る新しい帽子を競ってかぶった。

女性にとって帽子がまだハンドバッグと同様、外出時のなくてはならない必需品だった
時代である。 時は一九〇八年。パリでは地下鉄(一九〇〇年開通)も珍しいものではなく
なり、かしましかったエッフェル塔(一八八七−八九年に建設)をめぐる美醜論争にも、現
実に観光客が多数訪れる中で事実上の決着がついていた。一九〇四年にはオートレースの
国際グランプリ制度が創設され、一九〇七年にはレース用車は時速二百キロに達する。女
性たちの服装も変化しつつあった。

シャネルはやっと天職を見いだしたのだろうか。バルサンが友人のために帽子を作ると
いうシャネルの暇つぶしを援助することになったのだ。バルサンが借りていたパリ・マル
ゼルブ大通り一六〇番地のアパートの一階の部屋がシャネルの仕事場になった。この時期
にシャネルを大いに勇気づけてくれた人物がいる。バルサンの友人のイギリス人だった。
190卵の名無しさん:02/01/06 10:41 ID:OM8F0y6b
>>187
恥かき投票
191卵の名無しさん:02/01/06 12:05 ID:V6QrePRX
記念下記コ
192卵の名無しさん:02/01/06 12:42 ID:rgY44V17
193ゲゲ:02/01/06 18:17 ID:OM8F0y6b
>>192
これは酷いか?  26票
 >インチキ会社の代表
 >沢井弘行
194シャネル@20世紀特派員:02/01/06 18:44 ID:X92hdpmu
最も幸福な時期 “ボーイ・カペル”にひと目惚れ

シャネルはなぜか生涯を通じてイギリス人やアメリカ人と相性が良い。 シャネルの服
を一九一六年に初めて活字で紹介したのは、米国のモード雑誌「ハーパーズ・バザール」
だった。時代が下って第二次大戦後の一九五四年、シャネルが十五年ぶりに店を再開した
とき、フランスのマスコミが「時代遅れ」と批判したのに対し、米誌「ライフ」は特集を
組んでシャネルの復活を祝った。

シャネルの服がアングロサクソンの実用主義やスポーツ重視の精神と呼応するからだろ
うか。それともシャネルがイギリス人との交際から受けた精神的な影響がモードにも反映
された結果なのか。生涯でただ一人、彼女が本当に愛したといわれるアーサー・カペルや、
結婚の申し込みをしたとされるウエストミンスター公もイギリス人だった。

似た者同士 一九一〇年二月、シャネルがバルサンの借りていたパリ・マルゼルブ大通り
一六〇番地のアパートで開いた帽子店は開店一周年を迎え、顧客は順調に増えていた。バ
ルサンやその仲間の女友達に加えて、流行に敏感な上流階級の夫人たちがやってきたから
だ。 ロスチャイルド男爵夫人やピニャテック公爵夫人、開店するにあたりバルサンらが
見つけてくれた専門家に加え、美人の妹のアントワネットも手伝いにやってきてお針子仕
事からモデル代わりまで務めた。

しかし店は住宅街の真ん中にあり、商売をする場所として適しているとはいえなかった。
それにシャネル自身がバルサンの見つけた専門家と手を切り、自分流の店で、「自分名
義で商売をしたかった」(シャルル=ルー「シャネル ザ・ファッション」)という事情もあった。

 シャネルはバルサンに借金を申し込んだが、断られてしまった。新たに牧場を入手し
ようとしていたバルサンに余裕がなかったからだ。それにバルサンには「退屈しのぎ
のはずだったのに」という思いがあり、女友達が本格的に商売をしようとしていることに
戸惑いがあったと思われる。

 この時、バルサンに代わってシャネルの前に登場したのが、イギリス人のアーサー・カ
ペルだった。一九〇八年の春、バルサンの競馬、乗馬仲間になったこの青年は仲間から「ボ
ーイ・カペル」と呼ばれていた。「ボーイ(BOY)」はフランス人がイギリス人やアメリ
カ人の若者に対して好んで使う呼称である。 この「ボーイ」という言葉には、フランス
人やイタリア人などラテン民族には欠けているアングロサクソン的なものへの憧憬の響き
が含まれているようだ。

 例えばフランスの報道機関は湾岸戦争やボスニア紛争で、「米軍派遣」のニュースを伝
えるとき、「GI」とともにこの「BOY」という言葉を多用した。無意識のうちにフランス人の
米軍への期待感が表明されているように思えた。 カトリック的なものに対するプロテス
タント的なもの、ともいえようか。この相違について、ドミニク・モイジ仏国際関係研究所
副所長はこう指摘する。 「寛容と慈悲を尊び、ざんげすることで贖罪(しょくざい)され
るカトリックに対し、神と己の対峙(たいじ)という絶対的状態に自分を置くプロテスタントは、
ともすればより厳格でより過酷な状況に自分の身を置く」 そこから生じる日常生活の
中での公平の感覚やきびきびした態度などは欧州大陸の住人にはまれな特質だと
いっていい。
195シャネル@20世紀特派員:02/01/06 18:45 ID:X92hdpmu
シャネルは一九〇九年にバルサンと参加した狩猟会で一位になったカペルに初めて
会ったときの印象を「ほかの男とはちょっと違っていた。第一、魅力にあふれる美しい
男だった。その無造作な態度、緑の瞳は感動さえあたえる」(「獅子座の女シャネル」)と
語っている。ひと目惚(ぼ)れだったわけだ。

シャネルの晩年十年間の友人で伝記「シャネル 孤独」の作家、クロード・ドレイも弁
護士のルネ・ド・シャンブランも「シャネルが唯一、愛したのは彼だけだ」と口をそろえ
て証言する。

そして「獅子座の女シャネル」の中でシャネルは彼の魅力をこう続ける。 「同じ世代
の連中が、もらった財産をただ浪費している三十代に、彼はすでに自力で石炭の運輸
業で財産をつくり上げていた」 この事業への才能、仕事への愛着や意欲がシャネルを
魅了した最大の理由かもしれない。

シャネルは「父であり、兄であり、家族全員の役をすべて引き受けてくれたのだ」と述べ
ているが、仕事に対する態度という点では二人は一卵性双生児といえそうだ。 週末の
乗馬 カペルの出生もまたあいまいだった。銀行家の私生児ともいわれた。 ただし、行
商人で子供を孤児院に預けて行方をくらませたシャネルの父親と異なり、彼の父親はこの
嫡子ではない息子に一流の教育を受けさせた。また彼は父親からニューカッスルの炭鉱が
上げる利益も相続している。

その上、彼はポロの名手だったから、イギリスの上流階級から受けいれられ、従ってフラ
ンスの上流階級もこれにならった。スポーツマンであると同時に読書家でもあった。書架
にはニーチェやボルテールの著作、それにハーバート・スペンサーの「政治録」などが並
んでいた。

カペルもシャネルに恋したのだろうか。帽子店に熱中し、この時代には珍しく独立志向
の強いちょっと風変わりな若い女性に。「ごく自然にバルサンと入れ替わった。そして営
業権の取得に必要な金を前貸ししたのも彼だった」とシャルル=ルーは著作で指摘する。

一九一〇年の末、シャネルはついにカンボン通り二一番地に引っ越す。この通りにはい
まもシャネルの本店があり、ココ・シャネルにとって生涯、切っても切れない場所になる。

新しい恋人同士は週末にはロワイヤリュで乗馬を楽しんだ。シャネルは当時の女性が馬
に乗るときの服装だったシルクハットにチョッキ姿の代わりに、開襟(きん)シャツや丸え
りのブラウス、大きなシフォンのちょうネクタイをし、髪にはピケ地のヘアバンドをした。

そして以前には決して見せなかった快活さで、皆の前に現れたという。帽子の店の成功
に加え、愛する男性との生活。カペルもたくさんいた女友達と次第に手を切った。シャネ
ルにとって、このころが生涯で最も幸福な時期だったかもしれない。 いずれにせよ、シ
ャネルが歴史という舞台に登場するまでの時間は、あとわずかだった。
196シャネル@20世紀特派員:02/01/06 18:47 ID:X92hdpmu
フランス版白木屋火災 “モードの犠牲”になった女性たち

「ひとつのモードが終わり、次のモードが生まれてくる。その変わり目のポイントに、
あたしはいたのだ。チャンスが与えられ、それをつかんだ。新しい世紀をあずかる世代に
あたしがいて、だからこそ、そのことを、服装で表現しようとしたのである」(シャルル
=ルー「獅子座の女シャネル」) シャネルが自分自身について語っているように、一世
を風靡(ふうび)した人物には常に時代との幸福な出会いがある。少しでも出会いがずれれ
ば、モードの女王シャネルは誕生しなかったかもしれない。

時代の側に目を移そう。シャネルの登場を二十世紀は待っていた。そしてその前兆とし
て、さまざまな事件が彼女の登場を予告していた。例えばフランス版白木屋火災というべ
き大火が十九世紀末のパリで発生している。 旧来の着物の伝統が原因で多数の女性犠牲
者が出た白木屋百貨店の火災は、昭和の風俗史に示唆的な一ページを記しているが、フラ
ンスでも同じように女性が「モードの犠牲」になった火災事件が今からちょうど百年前に
発生しているのだ。

■焦げた遺体 一八九七年五月四日、パリのシャンゼリゼ大通りに近いジャングージョン
通りの広場で慈善バザーが開かれていた。一八八五年に始まったその慈善バザーは十三回
目を迎え、参加慈善団体は約百五十に増えて、地方の慈善団体の中には参加を拒否される
ところが出現するほどの盛況ぶりだった。

前年までの会場は、バンドーム広場やあるいは貴族の館の一部などを借りて開催されて
いたが、実行委員長のマッコー男爵らの尽力で、その年は特別に土地の所有者から無料提
供されたジャングージョン通りの空き地に仮設テントが設けられた。

開幕二日目のその日、オペラ座などの舞台装置を担当して好評だったフィリップ・シャ
ペロンが中世的な装飾を施した会場では、貴族の夫人たちが参加者としてあるいは買い物
客として高価な宝石や服飾品などの陳列物を楽しんでいた。

会場にはアトラクションとして、リュミエール兄弟が発明したばかりの「シネマトグラ
フ」の上映館も仮設されていた。午後になって気温が上がり、「暑い日になった」と負傷
者の一人は後に捜査当局に証言している。午後三時にはマッコー男爵の案内で教皇庁大使
(大使として各国に派遣された大司教)も会場を訪問し、参加者を祝福した。

午後四時。入場者は約千七百人に達していたとされる。その雑踏の中で火災が発生した。
午後四時十分、十五分、二十分、証言によって異なるが、「火事だ!」との声が上がる。
後は地獄絵。マツなどの薄い木材を多用した会場に、火が走る。帽子のリボンや花の飾り
に火が燃え移り、長いスカートに足をとられ、きついコルセットのため身動きも容易にで
きない女性たちが炎に包まれて倒れる。 消防署の迅速な消火と救済活動にもかかわらず、
死者百四十五人、負傷者約二百人の大惨事になった。犠牲者の大半は女性だった。男性の
死者は三人。この時間に入場していた男性の数自体が約五十人と少なかったこともあるが、
女性が「モードの犠牲」になったことは明白だ。
197シャネル@20世紀特派員:02/01/06 18:50 ID:X92hdpmu
事件の百周年に当たり、出版されたばかりの「慈善バザーの火災から百年」(ドミニッ
ク・パオリ著)によると、事件を担当したベルテュラス予審判事は、生存者の証言などか
ら「長いすそは走ったり階段を下りたりするのに不便だし、締め上げたコルセットのせい
で呼吸は十分にできないという婦人たちの服装がこういう場合、男性の服装よりハンディ
になる。実用的でない服装が女性の犠牲者を多くした」との結論に達し、捜査報告書に記
入した。 女性の遺体の大半は黒焦げ状態で、逃げ遅れたことを証明していた。

遺体はすべてシャンゼリゼ大通りの展示場パレ・ド・ダンダストリ(工業館)に運ばれ、
そこで近親者が身元を確認した。身元の確認も容易にできない黒焦げの遺体の中にはオー
ストリア皇女の姉妹であるダランソン公爵夫人らも含まれていた。

この時、事件を担当した法医学者のソケ、ビベルト両博士が歯型からの確認方法を思い
付き、彼女らを治療した歯科医が呼ばれてやっと身元が確認された。この事件後、法歯科
医学が発達することになる。それでも最終的に約十人の身元が確認できず、パリのペール
・ラシェーズの墓地に共同埋葬された。

■事件の反響 火事の原因は、シネマトグラフの映写室の技師二人の過失によるものだっ
た。映写中、アセチレンガスのランプが消えたため、映写技師ベラックが助手のバグラシ
ョフに、手元が暗くて見えないから明るくするよう頼んだ。助手がマッチをすったところ
エーテルに燃え移り、あっという間に火が燃え広がったという。 無知か不注意か規則無
視か。裁判ではマッコー男爵が五百フランの罰金だったのに対し、ベラックには一年の禁
固刑と罰金三百フラン、バグラショフには八カ月の禁固刑と二百フランの罰金が科せられ、
同年十二月十一日の控訴審で刑が確定した。

マッコー男爵は当時、弁護士だったレイモン・ポワンカレに弁護を依頼したが、勝ち目
がない、とみたポワンカレは断ったといわれる。 主催者の男爵の刑が軽かったのは、バ
ザーの会場建設に当たり、建築家が火事の危険を指摘したのに対し「会場では禁煙にしよ
う」と答えたほか、会場には正規の出口二カ所、臨時出口三カ所を設置し、さらに食堂の
わきなどにもひそかに出口を設けて緊急時には千二百人が三分で脱出できるように配慮し
たことが裁判で考慮されたからだとみられる。

多数の名士夫人が犠牲になったこの悲劇的事件に関しては翌五月五日から仏マスコミが
詳細を報道し、フェリックス・フォール大統領が事件現場に急行したことやオーストリア
皇帝に弔電を打ったことも伝えて、事件が普仏戦争後の複雑な国際関係にも影響を与えた
ことを示している。外国紙も大きく取り上げ、米ニューヨーク・タイムズ紙は「パリの恐
怖の火事」と一面で報道している。

 また、当時の仏大衆紙「ル・プチ・ジュルナル」は五月十六日付でイラスト入りの臨時
特集号を発行するなど事件の反響は大きく、後にシャネルの伝記を書くポール・モランも
この事件にヒントを得た短編「慈善バザー」で、女性の服装をはじめとする風俗描写を交
えながら、当時の貴族階級の生活を皮肉っている。
198卵の名無しさん:02/01/07 06:54 ID:hMndU6r6
ポセビン
199シャネル@20世紀特派員:02/01/07 08:09 ID:aJJKpBqa
炎の中の旧モード 女性たちは新しい生き方を求めた

 ポール・モランの短編小説「慈善バザー」の女主人公、デフリュス伯爵夫人はその日、
三十歳年上の夫に「午後三時前にダランソン公爵夫人に慈善バザーの会場に来るようにい
われたの」と告げて外出する。 しかし、行き先は若い愛人のサクシィフロン子爵の館だ
った。彼は週刊誌「世紀末」にコラムを寄稿している文学青年だが、乗馬と女性とばくち
に目がなく、借金に苦しんでいた。

結婚七年目を迎えたデフリュス伯爵夫人は「労働者の話ばかりのゾラ」や「下層階級の
物語の多いモーパッサンの小説」にも飽き、ちょうどフィガロ紙に連載中のピエール・ロ
チの小説を愛読していた。

 新しい思想の持ち主で、東京にも旅行したことがあるプレーボーイはたちまち伯爵夫人
の心を捕らえる。日本のコレクションを見に来ないか、とサクシィフロン子爵に誘われた
伯爵夫人が、きゅう舎もある彼の広大な館に人目を忍んで通うようになるのに時間はかか
らなかった。

●人形の装い この日もローズ色のモスリンのドレスに留め金がエメラルドの真珠のネッ
クレスをつけた夫人は、夫の「賛嘆のまなざし」を受けながら自宅を後にする。 ところ
が伯爵夫人を待ち受けていたのは、愛人の破産という悲しいニュースだった。 情事の後、
彼はこう告げる。 「馬を全部、売ることにした。君も彼らに最後のお別れを言ってくれ
たまえ。人生は煙のようなものだ。あすになればきゅう舎もアトリエもなくなり、そして
僕も消える。破産したんだ」

二千ルイ金貨(四万フラン)の借金があると告白されて、伯爵夫人はネックレスを外し、
子爵のポケットにすべりこませる。

子爵は愛人の贈り物を金貨に換えるべく知り合いの古物商のところに行くが、相手は不
在だった。「慈善バサーを手伝いに行った」との留守番の返事に彼はジャングージャン通
りへと急ぐ。

午後四時前に慈善バザーの会場に到着した彼は古物商を探して、暑さと人込みの中を歩
き回る。そこに突然、「火事だ!」の叫び声が上がる。彼の周囲ではたちまち女性たちが
火に包まれていった。 「ルーシュ(レースやチュールのひだ飾り)やそで飾り、大きな麦
わら帽子、モスリンのドレス、フリルのついたタフタ、小さな絹の日傘、ベール、リボン、
羽根飾り、オーガンディやパーケル(目の詰んだ平綿織物)など女性の体をかすみのように
包んでいるこうした軽やかな布地のすべてが、まるで歓喜の炎のように燃え上がり、ふく
いくたる香水や竜涎香(りゅうぜんこう)のローションがしみ込んだ生暖かい空気の中で燃
え盛る」

ポール・モランは、この火災の捜査を担当した予審判事の調書よりずっと文学的に、女
性が当時の「モードの犠牲」になった様子を描写している。
200シャネル@20世紀特派員:02/01/07 08:10 ID:aJJKpBqa

後にシャネルの伝記を書くことになるポール・モランはこの時、気が付いていたのだろ
うか。シャネルこそが、この大惨事で燃え上がり、犠牲者を炎に包んだ十九世紀の代表的
モードを決定的に壊滅させる立役者になることを。ジャージーやツイードを多用し、スポ
ーティーで機能的なシャネルのモードとこの時、炎上したモードは何と異なっていること
か。 犠牲者の中には当時、流行の先端だったウォルトやドゥーセのドレスをまとってい
た貴夫人が多数いたはずだ。

デフリュス伯爵夫人も新婚のころ、夫が注文した肖像画のモデルになったとき、「初め
て作らせたドゥーセの舞踏会用の服」を着用した。 「金のギピュール(浮彫風の模様の
レース)のベールが炎のようなビロードを覆っていた。ヒョウの毛皮の折り返しのついた
そでなしの絹タフタの大きなマントに包まれた彼女は緊張してみえた。マントには流れる
ような襞(ひだ)があった。彼女は非個性的で人形がケープを羽織っているようだった」

モランはここでも無意識のうちに「シャネル前」と「シャネル後」のモードの差異を指
摘している。 「シャネル前」のモードはどんなに素材がぜいたくで素晴らしい技術を駆
使してあっても、着ている人間を非個性的な人形のようにしてしまった。 「シャネル後」
のモードは逆に、着ている人間の個性を引き出すと同時に着心地の良いものであることが
優先条件になる。

●外出の口実 慈善バザーを訪問した妻が火災の犠牲になったと信じて疑わなかったデフ
リュス伯爵は、この遺体安置所で、妻のエメラルドの留め金付きの真珠のネックレスを発
見する。妻の愛人が夢中で逃げるうちに、落としたものだった。

 一方、愛人を待ちくたびれて夜十時に帰宅した伯爵夫人は、悄(しょう)然として、真珠
のネックレスを機械的にコートでこすり続ける夫の姿を目の当たりにする。 慈善バザー
は、当時の女性たち、特に上流階級の女性たちが、一人で大手を振って外出できる数少な
い機会だった。

一八八五年の開始当時、参加慈善団体は十六だったが、大惨事のあったこの一八九七年
にはフランス全土から百五十以上の団体が参加し、国中の名家が漏れなく協力した。こう
した現象に批判があったのも事実だ。

週刊誌「クリ・ド・パリ(パリの叫び)」は、慈善バザーが開幕する直前の号で、「慈善
バザーはあらゆる人間の服装の見せびらかしと待ち合わせの口実にすぎない」と手厳しい
記事を掲載した。 「人々は、ケーキ屋に行くかわりに社交的な義務を履行するために慈
善バザーに行く。また、慈善の課す寛容のおかげで、それまで閉ざされていた世界に入り
込むために行く人も多い」

心ときめかすことといえば新聞の連載恋愛小説か情事ぐらいだった貴族階級の女性たち
や、そういう階級にあこがれる一般庶民が、「慈善」という大義名分を得て、いそいそと
参加した様子がうかがえる。 シャネルは自活の道と同時に自分の才能を生かして自分ら
しく生きられる道を探していた。新世紀を前にして、新しい生き方を求めていた女性は彼
女だけではなかった。
201シャネル@20世紀特派員:02/01/07 08:15 ID:aJJKpBqa
コルセットからの解放  旧大陸の価値観が揺れ動き始めた

「これは白のコルセット。娘のは黒だから、これは違う!」と一人の母親が勝ち誇った
ように叫ぶ。「悲しいかな! 伯爵夫人は新しいコルセットをなさって出掛けました。そ
の色は−」と小間使いが答える。ポール・モランの短編「慈善バザー」の一節だ。

フランス版白木屋事件ともいうべき一八九七年五月四日の慈善バザー火災の遺体や遺留
品はシャンゼリゼ大通りのパレ・ド・ランドストリ(工業館)に安置された。現在のグラン
・パレの敷地のあたりである。

遺体の多くは黒焦げで身元確認は困難をきわめた。遺留品が頼りだったが、犠牲者の貴
婦人たちは流行の薄地の衣装をまとっていたため、燃え残ったのはコルセットだけという
ケースが多かった。 当時のコルセットは表面は布地でレースに飾られていたが、骨格は
鋼(はがね)や鯨の骨入りだった。それを背中と腹部に当て、二重のひもできつく締め上げ
る。細くくびれたウエストを保つことはできるが、腹部を締め付けられ腰を曲げるのも困
難だった。

《男性のエゴ》 火災事件から六年後の一九〇三年六月十三日付の仏週刊紙「リリュスト
ラッション」にマルセル・ティナル記者の署名入りで「ファンフレルーシュ(リボンやレ
ースなどの飾り)」と題する記事が掲載された。

「モード新聞を読むのが面白い」と告白する記者はまず、「女性には他者のために生き、
美しく着飾って愛される装飾品であることが任務の者」と「あまり美人ではなく、あまり
幸福でなく、いや単に条件や精神、気分の相違にすぎないかもしれないが、自分自身のた
めに生き、活動的な人生を送っている女性」がいると指摘する。そして前者がリボンやレ
ースで飾られているのに対し、後者は「歩いたりバスに飛び乗ったり、おしゃれにささげ
る時間を節約するためにテーラード・スーツを創作した」と書いている。

「私はこうした改革の悪口を言うつもりはない」と前置きしてはいるものの、この記者
の本音はまさにこうしたモードの改革の悪口を言うことだった。

「ルターの弟子であるオランダ人や英国人は、悪弊を廃止するだけでは満足せず、服飾
のプロテスタント主義、大改革を実施しようとしている」と述べ、「レースもきぬ擦れ音
もコルセットもなし」のその服装改革を嘆き、その代わりに「恐ろしくもこっけいなコン
ビネーションが登場した」と悲憤慷慨(こうがい)する。 「彼女たちはコンビネーション
の上に糊の効いたシャツを着て、つりひもでつった絹や毛織りのキュロットをはく。つり
ひもの女性! ドンフアンも後ずさりすること間違いなし!」

彼女たちはこうしたやぼな下着の上にルダンゴート(ぴったりしたフロックコート)など
を着用したという。今から見るとなかなかおしゃれでモダンなスタイルだったわけだが、
この記者は「パリジェンヌが朝は花開く花のように服をまとい、夜は花弁を一枚一枚、落
とすように脱ぐ習慣を放棄して、つりひもをつる決心をする前にラインの橋の下、流れが
流れ去りますように」と結んでいる。
202シャネル@20世紀特派員:02/01/07 08:18 ID:aJJKpBqa
この男性エゴ丸だしの記事には、男性の中にもカチンときた読者が多かったようだ。同
七月四日付の同紙でティナル記者は「美容のための教育」と題する記事を掲載し、まず男
性読者の投書を紹介する。

「私はコルセットもウエストを絞ったドレスも膨らんだスカートも好きではない。女性
の服装は大いに改革する必要がある。シンプルでしかも優美な現代風ギリシャ・スタイル
をどうして採用しないのか」

この投書に対し、記者は、若くて美しい女性やダンスで鍛えた「イサドラ・ダンカン」
には確かに「現代風ギリシャ・スタイル」は似合うかもしれないが、体形が崩れた年配の
女性が着用したら、その場合、どんなことになるか想像したまえと反論する。 そして「コ
ルセットなしに救済なし」と断罪する。つまりコルセットを着けていない見苦しい女性に
は、神のご加護も望めない、というわけだ。

この記事から見て取れるのは、当時の欧州大陸の絶対的価値観であったカトリック的価
値観が日常生活の次元でもアングロサクソンに代表されるプロテスタント的実用主義や改
革主義の影響を受け始めた点だ。

また二十世紀を迎えたばかりの欧州でイサドラ・ダンカンが評判になり、その舞台衣装
にヒントを得た「現代風ギリシャ・スタイル」が流行の兆しを見せていたこともうかがえ
る。イサドラ・ダンカンが欧州にわたり、パリで初公演をしたのは一九〇一年だった。素
足に薄物だけという舞台衣装で創作ダンスを披露する彼女は、パリでセンセーションを引
き起こした。

《ポワレ登場》 一方、モード史「ラ・モード」の中で、ブリュノ・デュ・ロゼルは「一
九〇三年の最大の出来事はポール・ポワレがオベール通りに店を構えたことである」と指
摘する。ポワレは女性からコルセットを追放した恩人として知られる人物だ。ドゥーゼの
店でオートクチュールの基本を学び、さらに一九〇一年から開店直前まではウォルトの店
で腕を磨いた。 世紀末の女性を苦しめたコルセットは一九〇〇年には医学研究家のガシ
ュ・サロート夫人によって改良され、「健康コルセット」と呼ばれて登場する。ヒップま
で包むトルソ形で、上半身はまっすぐに伸び、胸を解放していた。しかしコルセットであ
ることに相違はない。しかもこのコルセットも下着屋がたちまち、さまざまな手を加えて
改良した結果、横から見ると胸は詰め物で極端にふくらませられ、ヒップは突き出され、
横から見るとSの字に見えるS字形スタイルの流行の誕生につながった。

ポワレはこうしたコルセットの代わりに胸の部分だけのブラジャーを用い、ハイウエス
トのシンプルな服を考案した。またきぬ擦れの源である何枚も重ねたペチコートも追放し
た。彼は日本のキモノや中国服からも影響を受けたとされるが、イサドラ・ダンカンの現
代風ギリシャ・スタイルが彼のモードの原点とする見方は多い。事実、二人は友人関係に
あった。 このスタイルはフランス革命の時期にもはやったもので、ドレスのシルエット
はI字形になった。ポワレは長身でやせぎすの夫人に着せ、それがよく似合って流行に一
役、買うことになった。ポワレの名は彼の派手な行為とともにパリの社交界にも君臨した
が、やがてシャネルに取って代わられることになる。
203卵の名無しさん:02/01/07 20:43 ID:14mYrRx1
204耐用:02/01/07 21:34 ID:hMndU6r6
>>203
26位で頑張っているがこれではね
>インチキ会社の代表
>沢井弘行
荒氏も手を出せないのか?
205シャネル@20世紀特派員:02/01/07 22:24 ID:RNI9cXD5
避暑地の店 「いつも客でいっぱいだった」

 一九一三年一月、ロレーヌ出身の愛国者、ポワンカレが熱狂的支持を受けてフランス
大統領に就任し、七月には三年兵役制が可決する。第一次大戦前夜のそんな時期にシャネ
ルはカペルの支援で仏北部ノルマンディー地方のドービルに店を出した。

 英仏海峡に面したドービルはクロード・ルルーシュ監督の映画「男と女」の舞台として
日本でも有名だが、当時から避暑地として人気を集めていた。町の中心街のノルマンディ
ー・ホテルには金持ちが滞在し、近くのカジノは大入り満員だった。シャネルが店を出し
たのはこの豪華ホテルとカジノの間、海岸にあと一歩のゴントオ・ビロン通り一三番地だ
った。大きな白い日よけに黒い文字でシャネルの名前を記した。

 今ではその場所に深紅の日よけを付けたカルティエの店がある。この通りで第二次大戦
前から店を出しているという服飾店の主は最初、このカルティエの店から十メートルほど
離れた場所をかつてのシャネルの店だと教えてくれた。 ところが、その場所にあるルイ
・フェローの店主は「ここではない」といってカルティエの店を示した。カルティエの若
い男性店主はそこが旧シャネル店であることを確認したが、「シャネルというのはてっき
り、英仏をつなぐカナル(運河)から取った店名だと思っていた。人の名前とは知らなかっ
た。驚いた」と言って逆に私を驚かせた。

 シャネルが英国の影響を受けたことは確かだが、そうした情報がどこかで誤ってこの店
主に伝えられたのだろうか。フランスは今でも情報社会ではない面がある。マスコミより
口コミの世界だ。こういう社会だからこそオートクチュールが生き延びたともいえる。

 シャネルが育ったオーバジーヌから車で約十五分、コレーズ県ブリーブ市近くの小村、
サント・フェレオールにシラク大統領の両親がかつて住んでいた家がある。実業家だった
大統領の父親は主としてパリに住み、大統領もパリで生まれたが、子供時代には時々、こ
の両親の田舎の家にやってきたという。大統領の選挙区はコレーズ県だ。 ところがサン
ト・フェレオール村を訪れ、すぐ隣の食料品店で教えてくれたその家の写真を撮っている
と、近くの家の窓から顔を出してこちらを眺めていた年配の女性が「そこじゃないわよ、
その家の隣、隣よ」と叫んだ。

顧客を紹介 さて、このドービルのシャネルの店は「いつも、お客でいっぱいだった」(「シ
ャネル ザ・ファッション」)という。シャネルはポール・モランに「手にふれるすべて
のものを黄金にかえるほどの商才にたけたおんなと思い込まれている。これはまとはずれ。
計算するときは、いまでも五本の指で勘定する」(「獅子座の女シャネル」)と告白してい
るが、天性の勘があったといえよう。

 それから三年後にスペインとの国境近くの避暑地、ビアリッツに最初のオートクチュー
ルの店を開くが、この店も海岸から緩やかな上り坂をのぼり切った四つ辻にあり、いかに
も客が入りそうな好位置だった。
206卵の名無しさん:02/01/08 00:43 ID:VAdSyHMc
インチキ会社の代表
沢井弘行より

うんこぺんぺん
207シャネル@20世紀特派員:02/01/08 08:04 ID:PZpT5cpV
シャネルの店がはやった理由は他にもあった。「シャネル ザ・ファッション」は「ロ
スチャイルド夫人のおかげだった」と書いている。夫人は当時の上流階級の女性の典型と
もいうべき存在で、ポワレの顧客だった。ところがわがままな夫人がポワレのモデルを傍
若無人に侮辱したため、ポワレは夫人を自分のレセプションから締め出してしまった。

今度は夫人がポワレに「仕返し」をする番だった。夫人はシャネルの店の顧客になった
ばかりか、友人の貴婦人を大量に紹介した。その中には女優で社交界に君臨していたセシ
ル・ソレルもいた。彼女たちはシャネルの店の帽子を愛用し、シャネルが始めたばかりの
ドレスを注文した。そしてパリに帰った後も、シャネルの忠実な顧客となる。 「シャネ
ル ザ・ファッション」によると、ドービルの店でシャネルは、典型的なイギリス製の服
地を二種類手に入れ、服を作った。その素材はカペルが着ていた編みセーターとフランネ
ルのブレザーを取り入れたものだった。 出来上がった服のカットは、水兵服からヒント
を得て、ゆったりしたものだった。コルセットを着ける必要はなかった。彼女自身もテー
ラード・スーツに先の丸い靴を履いて町を歩き回り、開襟シャツに自分でデザインしたパ
ナマ帽をかぶってポロ見物に出掛けた。カペルとの仲は公然化していた。

当時、正式に結婚していないカップルを上流階級は受け入れず、招待もされなかったが、
ドービルの別荘ではイギリスの上流階級が彼らに門戸を開いた。カペルの事業が成功し、
「スターの座を独占していた」(「シャネル ザ・ファッション」)ことが理由に挙げられよう。

彼の会社の石炭船団は大きく発展した。ずっと年上の「虎」の異名を持つ政治家クレマ
ンソーとも交流があった。南北戦争の通信員だったクレマンソーはアメリカ女性と結婚し
ており、イギリス人のカペルとは馬が合ったのかもしれない。

クレマンソーは一九〇六年に首相になるや政教分離法を成立させ、累進課税も国民議会
を通過させた。しかし鉱山ストライキを軍隊で弾圧し、ジョレースなどの運動の激化を招
いたとして、一九〇九年には辞任せざるをえなかった。 当時は野にあったが一九一七年
にフランスを危機から救うべく首相になり、国内の敗北主義と戦い、フォシュ元帥を登用
して連合国最高司令官に任じて、フランスを救った。

秘密の傷 客がいっぱいのシャネルの店には、叔母のアドリエンヌも妹のアントワンヌも
手伝いにきたが、カペルは次第にシャネルから遠ざかっていった。カペルの当時の心境に
ついて、「シャネル ザ・ファッション」の著者、シャルル=ルーはこう記述する。 「未
知の父という秘密の傷が彼をむしばんでいた。ユダヤ人排斥と国粋主義とが、前代未聞の
激しさで吹き荒れているフランスにおいては、数ある欠陥のうちでも出生のあいまいさと
いう欠陥を発見されて、引きずり落とされてしまう重要人物の例はたくさんあった」

これを解決するには由緒正しい家の娘と結婚する以外なかった。シャネルは捨てられよ
うとしていた。その焦燥がシャネルを仕事へと駆り立てたのだろうか。 一九一四年六月
二十八日、ボスニア・ヘルツェゴビナで一発の銃声が響いた。その音は避暑客でにぎわう
ドービルの喧噪の中では聞き取りにくいものではあったが、世界を震撼(しんかん)させる
ことになる。
208シャネル@20世紀特派員:02/01/08 08:06 ID:PZpT5cpV
第一次大戦 “19世紀的価値観”の崩壊

一九一四年八月二日、フランスで動員令が発布された。 「それは筆舌につくしがたい
歓喜だった。フランスはついにドイツ人から一八七〇年以来、受けてきた教訓を彼らに与
えるチャンスがきたのだ。あの悲しい戦争以来、われわれがアルザスとロレーヌを代価に
して得た教訓を」

第一次大戦に第百十三歩兵連隊所属の軍曹として動員されたフランシス・ペローは人生
の黄昏を迎えた一九八三年、当時の仏国民のごく一般的感情を文書にして第一次大戦の証
言を収集していた医師、ジャンダニエル・デスタンベールのところに送った。

「サラエボでセルビアの狂信者にオーストリア皇太子が暗殺されたことで、セルビアと
オーストリアは戦争状態に入った。同盟のルールによってドイツがオーストリアの側につ
き、仏英は小国セルビアを支援しているロシアの側についた。対立した二つのブロックと
の間で戦争が即刻、開始されるのは明白だ」と、この無名戦士は非常に簡潔、適切に状況
を説明している。翌三日、ドイツはフランスに宣戦布告を行う。

《悲しい現実》 ラ・マルセイエーズを歌って意気揚々と出征した彼らは「双方(仏独)と
もクリスマス前には相手に教訓を与えて帰還できる」と思っていた。ところが同月二十二
日に国境を越えた連隊は、ドイツとの激しい交戦に遭遇する。そして、仲間が傷つき倒れ、
しかばねと化すという「悲しい現実」を突き付けられる。 早々に捕虜になったペローは
それから一九一八年の戦争終結まで五十二カ月もの間、ドイツの捕虜収容所で暮らす。そ
の間も衛生状態の悪さから疫病などにかかって仲間が次々に死んでいく。

「暇があったら、フランスとベルギーの国境の小さな仏軍墓地の白い十字架群を訪ねて
ほしい。詩人ランボーが書いているように、《それは緑なす墓地で小川が歌っている》と
いう真に魅力的な場所だから」

ペローはその証言をこう結んでいる。 第一次大戦に動員された二十歳から四十五歳ま
でのフランスの男性は約四百万人。このうち約百五十万人が戦死し約百七十万人が負傷し
た。また統計学上の推定によると、フランスはこの四年間に戦争がなかったら誕生したは
ずの新生児約百五十万を失い、人口の急激な減少を招いた。第一次大戦による痛手はフラ
ンスにとって、第二次大戦への不気味な序曲でもあった。

フランスには、二十世紀は第一次大戦とともに始まったと定義する学者が少なくない。
哲学者のアンドレ・グリュックスマンは「第一次大戦によってフランス社会が根本的に変
動したからだ」と説明する。第一次大戦の影響は、それまでの戦争とは比べものにならな
いほど大きかったのだ。

確かにナポレオン時代、イタリアやエジプト、プロイセン、果てはロシアに遠征して戦
ったのはナポレオンと彼の率いる兵士(中には現場で調達した外人部隊もいた)だけで、フ
ランス国民は国内でほぼ平常通りの日常生活を送った。ナポレオンが妻ジョセフィーヌの
浮気を心配して、しきりに前線からラブ・レターを送ったのもそのためだ。
209シャネル@20世紀特派員:02/01/08 08:07 ID:PZpT5cpV
普仏戦争でもアルザス・ロレーヌ地方の割譲はあったが、フランス国民が大量に動員さ
れ大量に戦死することはなかった。 グリュックスマンは次いで、フランス社会の変動と
して「非キリスト教化の進展」を指摘する。 「宗教がもはや戦争を防止することができ
ず、フランスのカトリックはフランス国家に、ドイツのカトリックはドイツ国家の側につ
いた。つまり従来のキリスト教に基づく価値観の喪失だ」

歴史学者のミシェル・ヴィノックも「第一次大戦がベル・エポックに代表される幸福の
イメージをはじめ、すべてを破壊した点で二十世紀の始まり」とみている点ではグリュッ
クスマンと一致する。

《女性の解放》 アンドレ・モーロワも「フランス史」の中で、「いかにフランスが一九
一四年の戦争前には、幸福な生活を送っていたか」の例証として、アンドレ・ジーグフリ
ードが指摘するところのフランス社会固有の「小市民」の存在を挙げている。

「小市民は小金を蓄え、小金利と小家屋と小庭とで満足していた。新聞は『小(プチ)パ
リジャン』『小新聞(プチジャーナル)』だった」 そして小市民は(1)家庭的連帯の感情(2)
戦時中の国家に対する完全な忠誠(3)文化の尊重−を彼らの生活の柱にしていたと分析す
る。こうした十九世紀的価値観が失われたのが第一次大戦だったというのだ。

ヴィノックはまた、「フランス人は今でも戦争というと、《大量殺りく》が行われ、家
族のだれかが亡くなった第一次大戦を指す場合が多く、《大戦》と呼んでいる。第二次大
戦では数週間で多くの戦死者を出したものの、休戦条約がたちまち結ばれたので、第一次
大戦ほど肉体的犠牲者が多くはなかった。第二次大戦の衝撃は精神的なもので、それは現
在でも尾を引いている」と指摘する。

「二十世紀は一九一四年から一九八九年までだ。つまりサラエボの銃声からベルリンの
壁崩壊までだ」と定義するのは、仏国際関係研究所副所長のドミニク・モイジだ。つまり
フランスの二十世紀は第一次大戦から第二次大戦、そして東西冷戦と絶え間なく、大戦の
戦場であり続けたといえる。

昨年、八十歳を迎えたジャーナリスト、フランソワーズ・ジルーは、「二十世紀を一言
で説明すればオリーブル(ぞっとするような恐ろしい)な世紀だ」と総括する。 ただ、こうした
第一次大戦の否定的な面の一方で、唯一、肯定的な面としてジルーが挙げるのが女性
解放だ。 グリュックスマンも「大量の男性が前線に四年間も動員された結果、女性が
男性の穴埋めをする必要が生じ、女性の解放が進んだ」と述べる。

シャネルが初めてオートクチュールの店をビアリッツに開いたのは第一次大戦中の一九
一六年だった。ココ・シャネルの伝記「獅子座の女シャネル」によると、戦争のため外出
する機会が増えた女性たちは同時に戦争のおかげでやせはじめてもいた。「ココのように
おやせ」となって、シャネルの新しいシルエットが似合う女性が増えたのだ。時代はここでも
シャネルの登場を求めていた。
2101:02/01/08 23:44 ID:iML8qK/R
211シャネル@20世紀特派員:02/01/09 07:47 ID:uXogT9LJ
初のオートクチュール

大西洋に面した保養地ビアリッツの地元新聞「ガゼット・ド・ビアリッツ」は一九一六年
三月十五、十六日の二日間にわたって「今シーズンの新製品」と題する記事を掲載した。

その中に「マドモアゼル・シャネルがシーズンのためのあらゆる新製品を取りそろえて
ヴィラ・ド・ララルドに売り場を開設した」とシャネルの初のオートクチュール店の誕生を
伝える記述がある。

この記事の書き方から推察すると、シャネルは当時すでにかなり名が売れており、ビア
リッツではその彼女の店の開店が待たれていたようだ。同紙は七カ月後の一九一六年十月
二十一日にはシャネルの店で「ソルド(バーゲン・セール)」が行われたことも伝えている。

ヴィラ・ド・ララルドは町の中心部にあり、カジノも近かった。このヴィラ(別荘)は一
八六七年に英国海軍の将校で、ナポレオン三世とも姻戚関係のあるウィルソン・ベラーズ
という英国人が建設した四つのヴィラの一つで、当時は夫人の名を取ってヴィラ・ド・エ
ミリアと呼ばれていた。 いまはこのヴィラの一部が書店「ブックストア」になっており、
店名が英語であることが、旧所有者の国籍を忍ばせている。

「ビアリッツの散歩道」(モニック・ルソー、フランシス・ルソー共著)によると、建設
当時は広いサロンと食堂に寝室十六室、数台の車が駐車できるガレージなどを擁し、ガレ
ージの運転手の部屋と母屋が電話で直結するなど当時の最先端の近代設備も整っていた。

普仏戦争後の一八七五年にはビアリッツ市長の兄弟の弁護士に売られ、一九一八年十一
月には「数年前からすでに借家人だったデザイナー、シャネルが購入した」(同書)という。
このヴィラ購入の事実によっても、シャネルが順調に業績を伸ばしていたことが分かる。

●完ぺき主義 シャネルの店は「ガゼット・ド・ビアリッツ」を通じて四月二十日、八月
九日、十八日、九月八日にお針子の募集を行っている。シャネル社のピエール・ブンツ氏
によると「シャネルは約六十人のお針子を雇っており、給料は良かったが、完ぺき主義の
シャネルの要求で、しばしば徹夜をさせられ、夜の白むころまで仕事をすることが多かっ
た」という。 大西洋に面し、スペイン国境に近いビアリッツは十九世紀初めには、ひな
びた漁村だった。一八一三年にウェリントン率いる英軍部隊がナポレオン軍と戦い、戦死
した兵士がこの地に葬られたことから、まず英国の遺族たちが墓参にやってくるようにな
った。冬でも温暖な気候や大西洋岸の景勝は遺族たちの悲しみをいやしただけでなく、英
国の人たちの間ではやがて保養地としても知られるようになった。

ビアリッツの名が一躍、有名になるのは、現在も豪華ホテルとして残るナポレオン三世
の別邸「ユージェニー宮殿」が一八五五年七月に完成したときである。少女時代からこの
地に親しんでいたナポレオン三世妃ユージェニーに説得された新婚の夫は一八五四年八月
に五万二千七百六十平方メートルを四万一千四十七フランで購入した。

これをきっかけにパリの社交界では、この温暖の地で復活祭を過ごすのが流行になる。
当時の人気デザイナーだったウォルト、ドゥーセ、ポワレも競ってこの地に別荘を建て、
店を出した。
212シャネル@20世紀特派員:02/01/09 07:48 ID:uXogT9LJ
ユージェニーはパリ社交界の中心人物でその点では仏宮廷文化の伝統を引き継いだとい
える。マリー・アントワネット、ポンパドゥール夫人らはフランス宮廷から世界、つまり
当時のフランスにとっての世界である欧州に向けて流行を発信していたが、ロココ時代に
似た裾幅の広いスカートの流行もユージェニーに負うところが多い。

このスカートを支えたのが麻(リン)と馬毛(クリン)を使った新型ペチコート「クリノリ
ン」である。それまでは何枚もペチコートを重ねることで張りを持たせていたが、これだ
と一枚で十分だった。ユージェニーはギロチンの露と消えたマリー・アントワネットをし
のんで、赤いリボンを首にまくのを流行させた逸話でも知られる。

第一次大戦中、ドービルは空っぽになったが、ビアリッツはスペインが中立国だったお
かげで戦火を免れることができた。

この時期にビアリッツを愛した芸術家にラベルやストラビンスキー、ロチ、コクトー、
ヘミングウェーらがいる。一九一八年の七月二十八日から九月二十八日までピカソはスト
ラビンスキーの支援者でもあったエラズリッツ夫人の館「ミモザ館」に宿泊し、傑作「ビ
アリッツの水浴女たち」を描く。

●大戦下の服  後にシャネルと親しくなるディミトリ大公もユージェニー宮殿の近くの
「ミラメール・ホテル」にしばしば投宿した。ビアリッツの人気は一九二〇年代の「ラネ
・フォル(狂乱の時代)」で頂点に達し、第一次大戦前には年間四万五千人だった観光客が
一九二九年には七万人と倍増している。シャネルの店は一九三〇年代の初めまで続いた。

第一次大戦下でシャネルはどんなドレスを作っていたのだろう。 戦争中も発行を続け
たモード誌「フェミナ」は、一九一七年六月十七日付でギャバジンや編み物による「シャ
ネルのコスチューム」を紹介している。

「スカートの両脇に襞が取られ、上着の長さはセミ・ロングでベルトによってオリジナ
ルな動きを見せており、カラーは高く、折り返しがありストラップを付けたポケットが非
常に新しい感じを与えている」

それに先立つ号では「シミーズ・ドレスは前年ほど流行していないが、ドレスの線は直
線で、繊細で体に密着していないようだ。この傾向は異常に柔らかな材質によって強調さ
れている。ジャージーも昨年のものとはまったく異なっている。色はグレーやベージュで
明るい色は使用されていない。ブルーマリンは相変わらず使用されている。全体の印象は
非常に控えめである」と書いている。

ギャバジンやジャージー。そしてグレーやベージュ。この特徴こそ、シャネルのもので
はないか。この記事はこの時代にシャネルがすでに流行を支配していたことを証明してい
る。 一九一六年二月、フランス北東部の小都市ベルダンでドイツ軍の攻撃が開始された。
フランスのペタン将軍を英雄にしたベルダン要塞攻防戦はその後、九カ月も激しい戦闘が
続く。シャネルがビアリッツにオートクチュールの店を開いたのは、そんな時期だった。
213シャネル@20世紀特派員:02/01/09 08:03 ID:+1MaWZNY
■ 豆事典

ロココ:
ルイ15世(1710−1774年)時代のフランスで広まった美術様式。その前のルイ14世(1638−
1715年)時代には威厳があり壮大華麗な宮殿・教会建築の多いバロック様式が流行したこ
とから、その反動として繊細、優美で軽妙な様式がもてはやされた。当時の欧州文化の主
流としてドイツやオーストリアにも伝わった。

マリー・アントワネット(1755−1793年):
ルイ16世の王妃。オーストリアのマリア・テレジア女帝の第15子で、同盟のためフランス
王子と1770年に政略結婚した。浪費が激しいとして国民の人気を失い、フランス革命(1789
年)でオーストリアに逃れようとして失敗。フランスがオーストリアに宣戦した後も、革
命を転覆しようとしてオーストリアと連絡を続けたため国民の憤激をかい、ギロチンで処
刑された。

モーリス・ラベル(1875−1937年):
フランス印象主義派の作曲家。フォーレやサティやドビュッシーの影響で「亡き王女のた
めのパバーヌ」(1899年)、「水のたわむれ」(1901年)などのピアノ曲を書いて注目された。
古典的な枠組みを保ちながら新鮮な和声やリズムで、ピアノ曲やオペラ、バレエ曲を作曲
した。管弦楽曲「ボレロ」は有名。

ウェリントン公爵(1769−1852年):
ナポレオンを破った英国の軍人。「半島戦争」(スペイン独立戦争)を支援する英軍司令官
としてナポレオン軍を破った。さらにナポレオンが再起した1815年、プロイセンなどとの
連合軍を指揮し「ワーテルローの戦い」で再度、ナポレオン軍を破った。その後は英国の
トーリー党首として首相(1828−30年)となった。ロンドンのセント・ポール寺院にスペイ
ン艦隊を破ったネルソン提督と並んで葬られている。

イゴール・ストラビンスキー(1882−1971年):

ロシア生まれの作曲家。1910年からパリでロシア・バレエ団のディアギレフのため、3大
バレエ音楽として有名な「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」を作曲、革新的なリ
ズムや管弦楽の手法で賛否両論を巻き起こした。39年から米国に移住し、昭和34年(1959
年)に来日している。
214シャネル@20世紀特派員:02/01/09 18:06 ID:rKqaYNeM
皆殺しの天使 (19)  女性の進出 「小さなキュリー」が負傷者を助けた

《だからこそ、あやふく命取りになりそうなこの弾疵も 星形に裂けたこの疵も僕の最悪
の痛手では決してない》

「或る星の悲哀」(堀口大学訳)でこううたったアポリネールは一九一六年三月、ちょうど
シャネルがビアリッツにオートクチュールの店を開いた時期に、戦場で流弾の破片を頭に
受けて負傷する。

アポリネールはポーランド国籍だったが、一九一四年十二月に志願して砲兵隊に入り、後
に危険率の高い歩兵隊に転属する。母方の祖父が陸軍大将だったからだとも、パリのルー
ブル美術館から「モナリザ」を盗み出した犯人にされた衝撃を忘れるためだったとも、マ
リー・ローランサンに失恋したのが理由だとも言われる。

ビアリッツも戦火にこそさらされなかったが、次第にホテルや館は臨時病院に転用され、
負傷兵でいっぱいになる。スペインのデル・ムニ駐仏大使夫人は国際赤十字のために募金
活動を行い、仲間の貴夫人らを募って負傷兵の看護にあたった。スペイン人やロシア人、
米国人も参加した。

●非難のあらし 哲学者のアンドレ・グリュックスマンは第一次大戦が二十世紀の始まり
だと定義する。二十七の国と一千万の人間が巻き込まれ、四年以上にわたった戦闘は国境、
階級、性別などあらゆるものに影響を与えることになる。貴夫人たちは慈善バザーと同様、
ここでも慈善行為に名を借りて、ようやく喜々として働く場を見つけることになる。この
機会に能力を発揮し、頼りにされた女性たちも多数いた。

その一人がアポリネールと同じポーランド出身のマリー・キュリーだった。第一次世界大
戦は一九一四年七月、オーストリアがセルビアに宣戦して始まり、翌八月にはドイツがロ
シア、フランスに宣戦して戦火が拡大する。キュリーはその八月に陸軍省から救護隊への
所属を要請され、十一月には自ら調達した車に医学の最新兵器、レントゲンを積んで前線
に出発する。救護隊の会長が実験室の生徒の一人、マルグリット・ポーレルの父親のポー
ル・アベルだったからだ。

フランソワーズ・ジルーが一九八一年に発表した伝記「マリー・キュリー」によると、彼
女は知人の金持ちの女性たちの間を廻り、「私が愛国者かどうかですって? 今がそれを
証明するときです。私に自動車を提供してください。戦争が終わったらお返しします」と
いって車を調達した。

この数年前、マリー・キュリーは夫のピエールが事故で死亡した後、仲間の物理学者、ポ
ール・ランジュバンと恋に落ちるが、相手に妻子がいたことと、折からの外国人排斥運動
が重なって激しい非難にさらされた。この時、キュリーとランジュバンの弁護士だったの
は、フランス版白木屋火災事件では主催者の弁護を引き受けなかったポワンカレである。
215シャネル@20世紀特派員:02/01/09 18:07 ID:rKqaYNeM

キュリーの二度のノーベル賞受賞もこの非難のあらしを弱めるのには、あまり役に立たな
かったようだ。アポリネールの志願もこうした外国人排斥運動と無縁ではあるまい。

「小さなキュリー」とあだ名を付けられたレントゲン車は規定通り、灰色に塗られ、赤十
字のマークが付けられていた。翌年にはキュリーの奔走で二十台に達し、彼女が設置した
二百カ所の放射線施設は、一九一七−一八年の二年間だけでも百十万枚のレントゲン写真
を撮影し、負傷者の治療を助けた。

第一次大戦の初期の段階では、頭部を負傷した者が多かったという。陸軍大臣は一九一一
年、ヘルメットの着用を提案するが、国民議会で否決された。ヘルメット姿が「ドイツ人
みたいだ」というのがその理由だった。一九一五年六月にやっと着用が決定するが、アポ
リネールはドイツ人に見られるのも、憶病だと見られるのもいやで、意識的にかぶらなか
ったのかもしれない。

この頭部のレントゲンを撮影するのに当初、慣れない外科医はいちいちキュリーに指示を
仰いだが、やがて放射線のスクリーンを見ながら手術を実施する程に熟練する。

キュリーの生徒のマルグリット・ポーレルは高等師範学校の一室に国民救護会の募集事務
所を開設し、簡単な適性検査に合格した女性たちを火薬製造所や飛行機工場に送った。彼
女たちは郵便配達人や美容師、農夫、鉄道従業員だった。女性の労働人口は工場だけで、
一九一四年八万、一五年には三十五万、一六年には四十九万、一七年には五十四万人と急
増する。教育分野でも動員された三万人の男性教師に代わって女性が教べんを執った。

●参政権への道 こうした第一次大戦中の女性の活躍に対し、国民議会議員ジュール・ジ
グフリードは戦後、女性に参政権を与えるように運動する。女性の参政権は一九一九年五
月二十日、国民議会(下院)では賛成三百四十四票、反対九十七票で可決されるが、上院は
これを「勝利に直結した感情的な錯乱行為」として否決した。

フランスで女性の参政権が国民議会に初めて提出されたのは一九〇一年だが、以後、一九
〇六年、一九一一年と提出されて否決され、第一次大戦後も二二、二九、三五年に提出さ
れた。結局、第二次大戦中のノルマンディー上陸作戦の直前の一九四四年四月二十一日に
ドゴール将軍によって署名されるまで待たなければならなかった。

そのドゴール将軍も一九五八年十二月に第五共和政の初代大統領に就任したときには、女
性の入閣を勧めた側近に「編み物省の副大臣はどうかね」とすまして言ったと伝えられる。

それから約四十年後の第五共和政五人目の大統領、正統ドゴール主義を標榜するシラク大
統領の下で誕生した第三次保革共存政権では、ジョスパン首相に次ぐナンバー2の雇用・
連帯相もナンバー3の法相も女性で、閣僚十六人のうち五人を女性が占めている。

ココ・シャネルが一九一六年に開店したビアリッツの店で発表したのは、こうした女性の
時代を先取りするモードだった。そして、シャネルを真っ先に評価したのはフランスでは
なく、新大陸・米国のモード誌「ハーパーズ・バザール」だった。
216シャネル@20世紀特派員:02/01/09 18:07 ID:rKqaYNeM

■豆事典

マリー・ローランサン(1885−1956年):
フランスの画家。友人アポリネールを通じてブラックやピカソなど、先鋭的な「キュビス
ム」の画家と知り合ったが、影響をあまり受けなかった。淡紅色、淡青色、灰白色を使っ
た優美な色彩の叙情的な少女像を数多く残した。本の挿絵やバレエの舞台装置も手掛けた。

ギヨーム・アポリネール(1880−1918年):
フランス20世紀初頭の代表的前衛詩人。無名時代のピカソらのキュビズムを擁護した。1911
年のモナリザ盗難事件では、同居人が嫌疑を受け、アポリネール自身も関連を疑われて一
時逮捕された。この後、第1次大戦に志願して出征、1916年に頭部を負傷し、3度手術を
うけたが完治しないままスペイン風邪で死亡した。

シャルル・ドゴール(1890−1970年):
フランスの軍人、政治家。第1次大戦では負傷して捕虜となり、戦後は1925年にペタン参
謀総長の幕僚となった。しかし、第2次大戦ではペタン元帥の対独休戦に反発して英国へ
逃れ、「自由フランス運動」を組織。フランス国内のレジスタンス組織と結び、徹底抗戦
を訴えてビシー政権に死刑や階級、財産のはく奪を宣告された。戦後は一時引退していた
が、アルジェリア独立運動の激化で国内が左右に分裂したため、1958年に大統領権限の強
い「第5共和政憲法」を成立させ、自ら大統領に就任。「偉大なるフランス」の独自外交
路線を貫いた。

マリー・キュリー(1867−1934年):
フランスの化学・物理学者。ポーランドから1871年フランスに移り、95年に同じく物理学
者のピエールと結婚。二人で1898年に鉱石「ピッチブレンド」から、新たな放射性元素ウ
ランとポロニウムを発見した。1902年にはラジウムの分離に成功し、翌年夫婦でノーベル
物理学賞を受賞。その過程で放射線を目印にした分析法など、放射化学の基本的方法を開
発し、夫の死後の1910年にも金属ラジウムの分離に成功してノーベル化学賞を受賞した。

女性の参政権:
ニュージーランド、オーストラリア、フィンランド、ノルウェーでは19世紀末から20世紀
初頭にかけて、女性の選挙権が認められ、英国や米国でも婦人参政権運動が盛んになった。
第1次大戦後にはさらに28カ国で女性の選挙権が認められた。日本では昭和20年(1945年)
にGHQ(連合国軍総司令部)の指示で選挙法が改正され、初めて婦人参政権が認められた。
217激怒する社長:02/01/09 23:48 ID:LOGAxDPZ
ええかげんに止めんか!
一体おまえは何がいいたいのだ?
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218シャネル@20世紀特派員:02/01/10 01:18 ID:+wrmpEvD
皆殺しの天使(20)感情の正確な表現 自由と独立の気分を代弁

「チャーミング・シミーズ・ドレス」、一九一六年十一月号の米モード誌「ハーパーズ・
バザール」はココ・シャネルの作品をこう紹介する。シャネルにとっては権威あるモード
雑誌に紹介された初めての記事である。 「パリから」と題する特集記事は当時のパリの
最新モード情報を伝えたもので、シャネルはドゥーセ、ランバン、パキャン、ジョルジッ
ト、キャロットら当時の一流デザイナーと並んで紹介されている。

体にそった美しい自然の流れ。ほっそりしたそでと、その折り返しのカフスにあしらった
刺しゅう。そして、飾りのないシンプルな帽子。たった一枚だけ紹介された彼女の作品は、
ビアリッツの店で働いていた妹のアントワネットの顧客のために作られたものだ。

スカートのひだや帽子の飾り、ウエストの絞りなどが目立つ他の作品に比較すると、シャ
ネルの新鮮さがよく分かる。彼女は後に、ポール・モランに次のようにシャネル・モード
の神髄を説明する。

「本当の服装美学とは、道徳的誠実さ、感情の正確な表現以外のなにものでもないと思う。
だからこそ、あたしの存在があり、だからこそ、あたしが永続し、一九一三年の競馬場で
着たスーツが、一九四六年の今日まで着られるという理由があるわけだ」(「獅子座の女
シャネル」)

シャネルと同時に「ハーパーズ・バザール」で紹介されたデザイナーのうち、ジャンヌ・
ランバンは一八八九年に創設した店が現在もパリにあり、ブランドとしても世界に通用し
ている。しかし、そのランバンの店もオートクチュールの発表は一九九三年にやめている。

創始者の個性が忍ばれるのは、中世の教会のステンドグラスからヒントを得た「ランバン
・ブリュ」と呼ばれる深い青色がネクタイやセーターなど男性物の基調になっている点ぐ
らいである。現在もオートクチュールを堂々と発表し、世界に君臨しているのはシャネル
の店だけだといっていい。

《経済的自立》 話を過去に戻そう。ドービルでは帽子や簡単なスポーツウエアを並べた
ブティックにすぎなかったのが、ビアリッツではヴィラ・ド・ララルドの中にブティック
とアトリエを備えた本格的なオートクチュールの店になった。この資金を出したのはアー
サー・カペルである。シャネルの才能を見抜いていたカペルには商売のセンスもあり、シ
ャネルのオートクチュールの服が一枚三千フランでも十分に売れると計算していた。

シャネルは時々、パリのカンボン通りの店に帰り、店の一部をビアリッツ用にあてて、お
針子たちを指揮した。ビアリッツとパリを合わせるとお針子の人数は約三百人に膨れ上が
っていた。ポワレの全盛期とほぼ同数である。そしてシャネルはカペルから借りた資金を
きちょうめんに返済し、経済的な自立を徐々に果たす。ヴィラ・ド・ララルドを一九一八
年に買い取った資金三十万フランも自己資金である。

パリのカンボン通りではシャネルの店の前を毎日、上流階級の女性たちが歩いていく。
行き先はバンドーム広場に面したホテル、リッツである。
219シャネル@20世紀特派員:02/01/10 01:19 ID:+wrmpEvD
戦争で男性が不在になったため、カクテルや昼食、夕食の会合を開く機会が少なくなった
夫人たちは第一次大戦の間、リッツでお茶を飲みながら情報交換するのが習慣になった。

彼女たちにとって、こんな風に一人で自由に外を歩き回るのは生まれて初めての経験だっ
たかもしれない。

シャネルの店に並んでいる服がそうした夫人たちを引きつけた。彼女たちの自由、独立の
気分を代弁するものだったからだ。それに空襲の激しくなったパリで、いざというときに
地下室に駆け込むのにも適していた。

シャネルは一九一七年にパンタロンの走りともいうべきパジャマ・スタイルの服を発表し
ており、髪もばっさり切ってショート・ヘアにした。彼女はその理由を「うるさいからよ」
(「獅子座の女シャネル」)と述べているが、シャルル=ルーはカリヤティスが手本だった
とみている。

シャネルはまだミュージック・ホールのスターを夢見ていた一九一二年ごろ、人気ダンサ
ーのカリヤティスに弟子入りしたことがある。カリヤティスは当時、斬新(ざんしん)なダ
ンスとショート・ヘアで話題を呼んでいたが、一般的にはショート・ヘアはまだスキャン
ダルだった。作家のコレットなどは「髪をとかしているとき、ランプの石油をこぼしてし
まったから」と言い訳しているほどである。

それでもシャネルがショート・ヘアにすると、パリの女性たちの間ではたちまちのうちに
断髪が流行していった。人々が心の中で求めるものが大きく変わろうとしていた。シャネ
ルは高価な毛皮を使うこともやめた。戦争によって南アメリカからチンチラが入らなくな
り、ロシアからは革命でミンクが輸入されなくなったからだ。ポワレはシャネルを「貧乏
主義」とののしり、他のデザイナーたちも「ココが成功したのも、大夜会がなくなったい
まのご時勢のおかげだよ」(「獅子座の女シャネル」)としっとまじりに批判した。

しかし、「お客にはいつも理由がある」ということわざを信奉していたシャネルの作品は、
社交界の女性だけでなく男性に代わって臨時工員や臨時教員になったあらゆる階層の女性
にとって、実際はぜいたくすぎたとしても、少なくとも気分的には十分に支持できたはず
である。

《カペルの結婚》 時代はシャネルに味方しているように見えたが、彼女の身の回りでは
悲しい出来事が相次でいた。姉のジュリアが一九一三年に病死したのに続き、妹のアント
ワネットも一九一九年にスペイン風邪で死去する。その前の年に英空軍勤務のカナダ人と
結婚してカナダに移住したアントワネットは一年後にはアルゼンチンの青年と駆け落ちし
て、青年の故郷で倒れた。以後、孤児院の思い出はシャネルの胸の中だけに閉ざされるこ
とになる。

しかし、シャネルにとって最も耐え難かったのはカペルの結婚だったかもしれない。カペ
ルは一九一八年十月、英国貴族の娘で美しい未亡人ダイアナ・リスターと結婚する。
220シャネル@20世紀特派員:02/01/10 01:21 ID:+wrmpEvD

一九一七年に「勝利についての考察」を出版したカペルは、ヨーロッパ連邦の理想を述べ、
中央集権を支配している老人を攻撃し、若者の解放を主張したが、結婚観は著作ほどには
進んでいなかったとみえる。

カペルの結婚の約一カ月後に第一次大戦は終わる。そしてカペルも時々、パリに戻り、シ
ャネルとの愛も復活させるが、シャネルの敗北感は生涯、いやされることがなかった。そ
のカペルも一九一九年のクリスマス前に自動車事故で亡くなる。

■豆事典

▽ジャンヌ・ランバン(?−1946年)  13歳から服飾店に勤めた後、婦人服の店を構えた。
オートクチュール店ではしにせの一つで、ホステス・ドレスやイブニング・ドレスに加え、
舞台衣装のデザインも手がけた。ランバンの店は1993年に赤字のためオートクチュールか
ら撤退している。

▽パンタロン  長ズボンを意味するフランス語で、16世紀のイタリアの喜劇役者パンタ
レオーネが舞台ですそ口の縛ってないぴったりとした長ズボンをはいたことに由来する。
女性の場合、19世紀前半までスカートの下に着用した装飾的ズボンもパンタレッツと呼ば
れたが、長ズボンが普及するのは1930年以降。

▽チンチラ  リスに似たほ乳類で、体長25−30センチ、尾の長さ16−25センチ。主な生
息地は南米ペルーのアンデス山脈で、細く柔らかな毛皮は虫も入り込めないほどちみつで、
絹のように繊細な銀灰色だが、丈夫さには欠ける。産出量が少なく、極めて高価なため、
主に襟やカフス、ストールに用いられる。

▽ミンク  食肉目イタチ科。雄は体長33−43センチ、尾の長さ18−23センチ。毛色は光
沢のある暗褐色で、毛皮は手触りが柔らかく耐久性に優れている。1930年代から養殖も盛
んになった。

▽スペイン風邪  第1次大戦中の1918年にフランス、スペインで大流行し、さらに世界
中に広まってイギリスで「スペイン風邪」と呼ばれた。数カ月間に第1次大戦の死者約1000
万人をはるかに上回る2000万人以上が死亡、その50倍以上が感染し、中世の「黒死病」(ペ
スト)と並ぶ感染症の大流行とされている。日本でも2380万人が感染、39万人が死亡して
いる。病気の発生源は1918年春のアメリカの兵営とも、中国とも言われ、1933年以降に発
見されたインフルエンザウイルスのうちA型の毒性の強いものだったと考えられている。

▽ショート・ヘア  女性の短い髪形は第1次大戦中から1920年代にかけて世界的に流行
し、米国ではボブ・ヘア、日本では断髪などと呼ばれた。第1次大戦の従軍看護婦たちの
髪の毛にしらみがわいたところから、髪を切ったのが始まりといわれ、活動的だとして一
般女性にも広まった。
221RISふぁっくす:02/01/10 21:47 ID:0H0Fy0Xl
窒息死するのですか?社長?会長?部長?
222卵の名無しさん:02/01/10 21:48 ID:mCPE9tz8
ただいま9位です
がんばれ
http://www.ktplan.ne.jp/rentcgi/vote2/jakouin/vote.cgi
223シャネル@20世紀特派員:02/01/10 22:13 ID:k2wY9/Iz
皆殺しの天使 (21) 不規則な女  「ドミ・モンド」の世界は葬られた

シャネルの晩年の十四年間、ほとんど毎日、彼女と会っていたというシャルル=ルーが書
いたシャネルの伝記「シャネル・ザ・ファッション」の原題は「イレギュリエール」という。

「不規則な、違反した」といった意味の形容詞の女性形で、大修館書店の新スタンダード
仏和辞典は例文として「不法監禁」「不正規部隊」「じだらくな生活」などを挙げている。

シャルル=ルーはシャネルの生地がソーミュールであることや孤児院生活を送っていたこ
となど、シャネルが生前、自ら語っていた生い立ちとは異なる事実をシャネルの死後の一
九七四年発刊のこの本の中で明らかにし、大反響を巻き起こしたが、フランス人にとって
最も衝撃的だったのは題名だったかもしれない。

シャルル=ルー自身は、こう説明する。 「プルーストが使った言葉から取ったものです。
結婚せずに男性と暮らし、その男性に面倒を見てもらっている女性たちです。十九世紀末
や二十世紀初頭にはこういう女性はたくさん居ました。《囲われもの》などの蔑称とはニ
ュアンスが異なり、法律外の女性、社会的地位の上では枠外の女性を指します」

シャルル=ルーは、フランス社会のあだ花的存在である「《ドミ・モンド》とも異なる」
と指摘する。《ドミ・モンド》は直訳すれば「半分の世界」。「モンド」には「世界」と同
時に「社交界」の意味があり、一般的に十九世紀の金持ちの囲われ者を中心とする半社交
界、つまり裏社交界とでもいうべき世界とそこで生きる女性たちを指す。

語源は、こうした女性を主人公にしたアレクサンドル・デュマ・フィスの同名の戯曲で、
デュマ自身は、「上流階級から堕落した女たち」または「ドン底からはい上がった女たち」
と定義している。

シャネルの最初の愛人、バルサンは上流階級の母親たちから「理想的な花婿」と評価され
ていたが、それはバルサンが当時、当代一のドミ・モンドと呼ばれたエミリエンヌ・ダラ
ンソンと「電撃的な関係を持ち、そして上手に手を切った」(「シャネル ザ・ファッシ
ョン」)からだった。

エミリエンヌはアパートの管理人の娘で、パリの国立音楽演劇学校の入試で良い点数を取
り、端役で十五歳でデビューするやたちまち話題になった。彼女がどんなに男性たちを夢
中にさせたかについてシャルル=ルーはこう書いている。

「ジョッキー・クラブの八人がメンバーを作って、彼女に年金や馬や絵画の贈り物をし、
そのかわりに、めいめいは彼女の家で『お茶を飲む』権利を手に入れた」「彼女のために
数え切れないほどの犠牲者が出たといわれていた。若いデュゼス公爵も、彼女のために破
産したではないか」(「シャネル ザ・ファッション」)

コクトーも、ドミ・モンドに関し「彼女たちの服を脱がせるには、三週間前から引っ越し
の準備をするような作業が必要だ」と述べ、征服の困難さを強調している。
224シャネル@20世紀特派員:02/01/10 22:14 ID:k2wY9/Iz
バルサンは最高のドミ・モンドを手に入れるだけの財力と男性としての魅力があり、しか
も彼女の手中に陥って結婚などせずにうまく別れたという二点を兼ね備えていたところが
高く評価されたわけだ。

シャネルは確かに一時、バルサンやカペルと生活を共にし、ブティックの開店資金も援助
してもらった。その点でシャネルはシャルル=ルーが題名に掲げたように「イレギュリエ
ール」であったといえる。

こうしたシャネルの過去に関し、生前からさまざまに取りざたされていたことは、シャネ
ル自身がポール・モランに語った次の言葉からも想像が付く。 「ひとつは、あたしの出
生の問題。いったい、あのおんなは、どこの生まれかというのが、世間の人たちが知りた
いことのひとつ。ミュージック・ホール、それともオペラ座の踊り子、いや、娼婦上がり
だということになっているらしい。もしそれがほんとならば、どんなに面白いだろうと、
残念でならない」(「獅子座の女シャネル」)

シャルル=ルーは「ドミ・モンドという手垢のついた言葉はシャネルには合致しません。
ドミ・モンドのイメージはコルセットで体を締め付け、巨大は羽根飾りのついた十四キロ
もある帽子をかぶった女優のセシル・ソレルのイメージそのものです。シャネルはその反
対です。シャネルが嫌悪し、そして戦い、打ち負かそうとしたのがドミ・モンドです」と
指摘する。

シャネルが否定したのはドミ・モンドの外見だけではない。経済的に自立し、自由を獲得
することで、こうした女性の生き方そのものを否定したのである。 フランスでこの時代、
シャネルのように孤児院で育った女性や下層階級の若い女性が、自分の階級から脱出して
贅沢をしたり才能を磨こうとすれば、ドミ・モンドになったり、いわゆる「囲われもの」
になって男性から援助される以外、ほとんど道はなかった。

シャルル=ルーによると、セシル・ソレルやサラ・ベルナールなど、当時の大女優や大歌
手らは、ほとんどが男性の援助を受けていたという。

男性にとって彼女たちは富や力の象徴であり、彼女たちを見せびらかす意味もあってマキ
シムなどに連れ立っていった。彼女たちは《公式の愛人》といわれ、男性と郊外にある別
邸の城館などに住んだが、男性の家族がこうした城館を訪ねることはなかった。

シャネルは自分の出自が批判や陰口の的になっていたことに対し、「人間の生まれの違い
からくる幸、不幸。そのハンディキャップを考えるとき、出だしが不幸だったことを、あ
たしはぜんぜん恨んでなんかいない。いい教育に耐えるにはよほど優秀な人間でなければ
ならない。あたしの人生の出発点は、ほんとに幸いだったのだ」と反発する(「獅子座の
女シャネル」)

シャネルが必死になって個人的に葬ろうとしたドミ・モンドの世界は、第一次大戦が一掃
した世界でもある。ドミ・モンドを支えた貴族社会は多数の戦死者を出し、相続人がいな
くなったという物理的理由もあるが、時代の変化によって急速に財力も失うからだ。
225シャネル@20世紀特派員:02/01/10 22:16 ID:k2wY9/Iz

一方、工場などで働く機会を得た女性は戦後、男性が職場に復帰してからも自活の道を求
めた。ドミ・モンドより貧しく、苦しかったとしても、「獅子座の女シャネル」の中のシ
ャネルの言葉は多分、当時のフランスの若い女性に支持されたにちがいない。

「傲慢な人間のいちばんうれしいことは、自由ということだ。ただ、自由でいるには、お
金がかかる。この牢獄の門を開くのは、自分で得たお金でしかないとあたしは考えていた」

■豆事典

アレクサンドル・デュマ・フィス(1824−95年)

フランスの作家。「モンテクリスト伯」「三銃士」などの著者デュマ(大デュマ)の息子。オ
ペラにもなった小説「椿姫」(1848年)で流行作家となり、フランス第2、第3帝政時代の
中流階級の社会問題を扱う「問題劇」を創始した。父親の不倫への反感から社会道徳を追
求したといわれる。

ジャン・コクトー(1889−1963年)
フランスの作家、画家、映画監督。パリ近郊の裕福なブルジョア家庭に生まれ、第1次大
戦中は救急車の運転手として従軍。戦後はピカソ、モディリアニ、アポリネール、ラディ
ゲらと知り合い、モダニズム芸術運動の旗手として詩や小説、評論、戯曲など多方面で活
躍した。映画監督としては「オルフェ」、ルネ・クレマンと共同監督の「美女と野獣」な
どの作品がある。

オペラ座
パリ中心部にある世界最大のオペラ、バレエ専門の国立劇場。正式名は「国立音楽舞踊ア
カデミー」で、起源はルイ14世時代の1671年に設立された「王立音楽舞踊アカデミー」に
さかのぼる。

サラ・ベルナール(1844−1923年)
「黄金の声」と呼ばれた美声を持つ19世紀フランスの女優。1870年の普仏戦争ではオデオ
ン座を傷病兵病院として看護にあたった。1872年にコメディー・フランセーズの座員とな
り、欧米各地を巡業。独立後も「椿姫」「トスカ」などの当たり役で名声を博した。舞台
で右ひざを強打したのが元で1914年に足を切断。第1次大戦では車いすで前線の将兵を慰
問した。イタリアでの自動車事故が元で亡くなり、葬儀はパリ市葬だった。

マキシム
1893年にマキシム・ガイヤールがパリ・ロワイヤル通りのアイスクリーム店を買収して創
立した高級レストラン。店内は19世紀末から20世紀初頭にかけてのベル・エポックの美術
品や調度が多く、1979年に歴史記念物に指定された。1978年にはガイドブックのミシュラ
ンが星の評価を下げようとしたため、これを不服としてガイドブックへの記載を拒否して
いる。現在のオーナーはピエール・カルダン。
226卵の名無しさん:02/01/10 22:16 ID:cSrO6sC3
その話し、まだ長い?
227シャネル@20世紀特派員:02/01/11 06:10 ID:nIiVPKZR
皆殺しの天使(22)  おしゃれなパリ娘 理想像はサロン主催する女性

シャルル=ルーがシャネルの伝記の題名に選んだ「イレギュリエール」という言葉は、マ
ルセル・プルーストの「失われた時を求めて」(筑摩書房刊、井上究一郎訳)の中では、次
のように使われている。

「彼女らは、しばらくまえから、あんなにも尊敬の念をこめて遇されているヴィルパリジ
夫人が、本物の侯爵夫人であるか、いかさま師であるかということを、つきとめたいとひ
どくあせり(中略)、じりじりしていた。ヴィルパリジ夫人がロビーを横ぎると、いたると
ころにイレギュリエール(異例)を嗅ぎつける裁判所長の細君が、その手にした編物の仕事
からひょいと顔をあげ、けげんな目つきでヴィルパリジ夫人をながめるのであった」

イレギュリエールはここでは「異例」と訳されているが、ヴィルパリジ夫人が裏社交界出
身の「イレギュリエール」ではないかとせんさくされている様子が分かる。

「失われた時を求めて」にはドミ・モンド出身の貴婦人が何人か登場し、サロンで活躍す
る。またドミ・モンドが正式に結婚する例が珍しくなかったことも告げている。 ヒロイ
ンの一人で富裕な株式仲買人スワンの妻、オデットもドミ・モンドの出身である。 「ベ
スト・ドレッサー」とされる彼女はその「じつに見事な体格」をコルサージュや二重スカ
ート、フリル、ボウやレース、ビーズの房飾りなどで覆っているため、「からだの線をと
らえることがむずかしい程」だった。 シャネルは、プルーストのヒロインも服装も抹殺
したことになる。

●貴族社会 プルーストの作品をはじめフランス文学にはサロンの女性がしばしば登場す
るが、哲学者のアンドレ・グリュックスマンは、このサロンの存在こそ、フランス特有の
現象だとして次のように指摘する。

「英国やドイツと比較すると常に中央集権国家型のフランスではパリの貴族社会が力をも
ち、その結果、サロンが発達し、そこでの女性の価値は女性として魅力的であることだっ
た」

グリュックスマンによると、ドイツの理想の女性はゲーテの「若きウェルテルの悩み」の
ヒロイン、ロッテに代表されるように子供たちに囲まれた「母親」のイメージである。ロ
ッテが世話をしたのは幼い兄弟、姉妹で、自分の子供ではなかったが、彼女が果たしたの
は母親の役割である。ドイツの理想は同時に「幸福な家族」のイメージでもある。

イタリアの理想的女性も「マンマ」の言葉に代表されるように、これまた母親であり、そ
の根底には大家族の連帯があった。ところが、フランスは異なる。フランスの女性の理想
像は次のようになる。

「アンリ四世やルイ十四世の時代から、女性の理想像はスタール夫人のようにサロンを主
催する女性でした。文学に通じ、おしゃれで粋で機知に富んだ女性、要するにモリエール
描くところの《女学者》が理想です。パリの町の不潔さを真っ先に指摘して、清潔にする
運動を起こしたのもサロンの女性たちでした」
228シャネル@20世紀特派員:02/01/11 15:18 ID:5xSxvSbq
グリュックスマンは「このおしゃれで粋」という部分が、ある意味で「娼婦とぎりぎりの
限界でつながる」と指摘する。

そしてこの「おしゃれなパリ娘」のイメージは、世界中の男性にとって、シャンパンやチ
ーズとともに、フランスの《特産品》にもなっている。一九四〇年にドイツがパリを占領
したとき、ドイツ兵士がどんなに胸を高鳴らせてパリに入城したかについては、多数の映
画や小説が描いている。それは、その四年後の自由解放でパリに入城した連合軍側の兵士
にとっても同様だったはずである。

その一方で、フランスの女性解放の歴史は、女性の参政権獲得が他の先進国に比較して遅
れ、一九四四年まで待たねばならなかったことにも示されているように、華々しかったと
はいえない。それはサロン文化を通して女性たちが活躍の場を与えられ、「欲求不満をあ
る程度、解消できたため」(グリュックスマン)の皮肉な結果でもあった。

フランスの女性解放運動の闘士で弁護士のジゼル・アリミは、女性解放の遅れの決定的要
因を一八〇四年制定のナポレオン法典にあると見る。「女性は男性という庭師の果樹」と
いうナポレオンの基本的女性観は一九三八年に一部、改正されるまで、約百三十年間、フ
ランス女性を未成年扱いすることになった。

二十世紀に入っても、フランス女性は、銀行口座さえ夫の名前を借りなければ開けなかったし、身分証明書も数年前まで「だれそれの妻」という記述の仕方が採用されていた。

一方で母性を重視するカトリックの国でもあるフランスでは第一次大戦後の人口低下の不
安も加わって、中絶は厳罰に処せられた。それは一九七五年に女性厚生相、シモーヌ・ベ
イユの下で中絶解禁法が成立するまで続く。

憲法で「労働、家族、祖国の諸権利を保障する」と規定したビシー政府時代の一九四三年
には、中絶罪で女性がギロチン刑になった例まである。それ以前は女性の場合、死刑の判
決を受けても大統領恩赦で減刑になるのが通常だった。

●享楽的文化 歴史家のミシェル・ヴィノックは、料理、服装など日常生活を尊重する「ア
ール・ド・ヴィーヴル(生活の芸術)」という言葉が代表するフランス独特の享楽的文化が、
女性はもとより、フランス人の生活態度に大きな影響を与えている、と見る。

「ルターもカルビンも、『諸君には神父は必要ではない。諸君自身が神父である』と述べ
たが、これは自分で自分を見張り、律することだ。だからプロテスタントの多い米英では
政治家の性的スキャンダルは致命傷になる。しかしカトリックの国のフランスやイタリア
では大統領に愛人がいても、それが国益に反しない限りほほえましいと思うだけだ。好き
なことをやり、ざんげして終わり、というのがカトリックである」

古い慣習が根強く残り、同時にそれに反発するかのような享楽的な面も見せるフランス文
化。シャネルが「断髪とかかとの低い靴によって、さっそうと歩く解放された女性の象徴」
(シャルル=ルー)となるには無数の障害があったに違いない。
229シャネル@20世紀特派員:02/01/11 15:20 ID:5xSxvSbq
一九〇九年に撮影された「イレギュリエール」の表紙の写真のシャネルは、まだ長い髪を
まげにしているものの、ネックレスなどのアクセサリーはいっさいつけていない。ちょっ
と寂しげではあるが、そのすがすがしい横顔は決然としている。そして自分でデザインし
た服には、すでに「シンプルで着心地が良く、無駄がない」というシャネル・モードの三
原則が見事に具現されている。

■豆事典

サロン
客間を意味するフランス語から転じて、貴族や金持ちの妻が日を定めて客間を開放し、同
好の士を招いて、文学、芸術、学問から恋愛、結婚にいたるまでさまざまな会話を交わす
フランス社交界の風習の意味でも使われるようになった。フランスのサロンは17、18世紀
に全盛をきわめ、現在でもサロン的雰囲気といった言葉が残っている。

ゲーテ(1749−1832年)
ドイツの詩人、作家。若くしてシュトルム・ウント・ドラング(疾風怒とう)運動の旗手と
なり、シラーとともにドイツ古典主義時代を築いた。またワイマール公国の宰相も務めた。
代表作に「ファウスト」など。「若きウェルテルの悩み」は1774年刊。親友の婚約者ロッ
テに対する主人公ウェルテルのかなわぬ恋と自殺を描いた書簡体小説で、恋愛小説の古典
とされている。

スタール夫人(ジェルメーヌ・ド・スタール=1766−1817年)
フランス・ロマン主義の生みの親の1人とされる作家、批評家。ルイ16世時代の財務総監
ネッケルの娘で、スウェーデンの駐仏大使と結婚。夫の外交特権によってフランス革命の
間もパリで過ごし、彼女のサロンは立憲君主主義者の政治的画策の中心となった。しかし、
ナポレオンが権力を握ると、彼女の自由主義思想がナポレオンと衝突するようになり、パ
リから追放されて、ドイツなどで亡命生活を送った。

ナポレオン法典
1804年に制定されたフランスの民法典。個人主義、自由主義を貫き、市民法典の範とされ
てきた。1807年の法律で正式名称は「ナポレオン法典」となり、第3共和政以降は民法典
と改められているが、現在も歴史的名称として「ナポレオン法典」と呼ばれることが多い。

シモーヌ・ベイユ(1927年− )
フランスの政治家。法務相官房参事官などを経て、1974年に厚生相、79年には欧州議会議
長となった。ミッテラン政権時代の93年にも社会問題・厚生・都市問題相に就任。
230卵の名無しさん:02/01/11 17:58 ID:CHaVRVbN
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231鶴原 ◇6ZE9uvAk:02/01/11 20:22 ID:FoW7iUc4
まった〜りぃ
232鶴原 ◇6ZE9uvAk :02/01/11 20:24 ID:FoW7iUc4
シャネルも終了か
233卵の名無しさん:02/01/11 23:29 ID:5adLAgt2


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜終了〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

        長い間 ありがとう ございました

        また会う日を楽しみに

        みなさん  さようなら〜〜〜〜 (涙)
234シャネル@20世紀特派員:02/01/12 00:18 ID:ZWRupPIN
皆殺しの天使(23) シャネルの5番 香りも容器も個性的だった

初めて女性に贈った香水が「シャネルの五番」だったという男性は少なくないはずだ。「シ
ャネル」というのは香水の名前だと思っている人も多い。「シャネルの五番」はそれほど
有名であり、一九二一年に発表されて以来、現在に至るまで世界の香水の売り上げのトッ
プを誇ってきた。

九六年度の売り上げで見ると一位がシャネルの五番、二位はゲランのシャリマール、三位
ニナ・リッチのレール・ド・タン(時代の空気)、四位サンローランのパリ、五位サンロー
ランのオプリュムの順になる(仏スコデップ調査)。

フランス香水産業連盟によると、香水類の昨年の年商は約六百二十億フラン(約一兆三千
六百億円)。シャネル社は「株式に上場していないので、年商を公表する義務はない」と
しており、正確な数字は明らかにされていない。

しかし、ディオールなどを傘下にかかえる総合デラックス産業、ルイ・ヴィトン・モエ・
ヘネシー(LVMH)やサンローランらが所属する化学総合企業サノフィの香水部門の年商
が五、六十億フラン(約一千億円)に上ることから推定すると、シャネル社全体の八〇%を
占める香水部門の年商は、モードや宝石・時計部門をはるかにしのぐ巨大な額である。《G
1が行列》

「シャネルの五番」のどこが、これほど人気を呼ぶのだろう。日本での知名度の高さは、
例のマリリン・モンローの「寝るときはシャネルの五番だけよ」の発言によるところが大
きい。モンローは一九五四年、ジョー・ディマジオと日本に新婚旅行にやってきたことも
あって、この“名せりふ”は日本でもよく知られている。

ただし、「シャネルの五番」の人気は発売当初から高く、モンロー発言の前から知名度は
抜群だった。一九四四年八月の自由解放でパリ入りしたGIたちが「長蛇の列を作って、
本国の妻や恋人のために《五番》を買い求めた」(シャネル社)という。

その人気の秘密についてシャネル社の香水・化粧品部門の部長で調香師のジャック・ポル
ジは「ジャスミンやバラというだれにでも合う香りがベースになっているが、そこに各自
の女性の秘密の香りのような珍しい香りや遠い異国を思いださせるような香りを加えるこ
とで個性的な香りにもなっている」と指摘する。

シャネルは一九二〇年、調香師のエルネスト・ボーに「女性の香りのする香水」を注文し
たといわれる。それまでの香水は花やジャコウなど自然の香りを使用していたが、ボーは
ジャスミンやバラに加え、それまで未使用だったアルデヒドなど化学合成品を初めて調合
した。さらにジャコウやびゃくらん、クチナシ、イランイラン(コモロ諸島の植物)やオレ
ンジなども加え、約八十種類の香りが調合されている。換言すれば、だれにでも似合うと
同時につけ手の女性の個性も引き立てるということだろうか。シャネル・モードの基本で
ある「平凡にして非凡」がここでも追求されている。
235シャネル@20世紀特派員:02/01/12 00:20 ID:ZWRupPIN
ポルジは古典文学の学士を取得後、興味のあった香水の勉強のため南仏の香水の産地、グ
ラスで研究を積み、一九八四年にシャネル社に入った。「はじめて《五番》の調合表を見
たとき、それまでに何度か試しても同じ香りに到達しなかった理由がやっと分かった」と
言う。その「やっと分かった」秘密は、シャネル社の金庫の奥深くしまいこまれている。

ただ、「最後の段階で混合するアルコールの基準が国によって異なる」(ポルジ)ので、需
要の多い米国など数カ国のシャネルの支社にはこの調合表が厳重に保管されている。

「シャネルの五番」は香りだけでなく、容器も品名も決定的にそれまでの香水とは異なっ
ていた。「シャネルの五番」以前の容器も品名も、モード同様に装飾過多の十九世紀的ロ
マンチシズムにあふれていた。シャネルが選んだ容器はまるで薬瓶のようにシンプルなも
のだ。包装も白地に黒で品名が記されているだけだ。この容器は美術品として一九五九年
にニューヨークの近代美術館入りした。シャネル社によると、容器には時代によって、あ
る時は丸みを帯びたり、鋭角的になったりと多少の変化があるという。

《命名の理由》 命名のいわれは、シャネルがボーの示した試作品の中から五番目を選ん
だからだとされている。数字を香水の名前に付けるという発想はシャネル以外には考えら
れなかったろう。香水の分野でもシャネルは「シャネル以前」の製品を流行遅れにしてし
まった。シャネルは晩年の若い友人だったクロード・レイに「《フロリスの甘いナシ》と
いう香水をもらったことがあるけれど、わたしには全然、似合わなかった。女性はいつも
贈り物の香水をつけているけれど、自分で香水を選ぶべきだ」と語っている。

さらに画期的だったのはシャネルがデザイナーとして初めて、自分の名前で香水を発表し
たことである。いまでこそオートクチュールやプレタポルテを発表している大デザイナー
は例外なく香水部門を所有しているが、それまでは香水といえば、ゲランやコティーなど
香水専門会社が出すものだった。

香水は大量生産が可能であり、当たればばく大な利益をもたらす。「シャネルの五番」は
その意味でオートクチュールやプレタポルテが重要産業に転換する大きなターニング・ポ
イントでもあった。

シャネルは一九二四年、ドービルの競馬場で知り合った実業家のヴェルメール兄弟と香水
会社を設立する。シャネルがばく大な財産を築くことができたのも「シャネルの五番」の
成功によるところが大きい。

重要産業となった香水の競争の激しさは、新製品が発売されるときの広告費からも推量で
きる。とくに一九八五年に米国のデザイナー、カルバン・クラインが初めての香水「オブ
セッション(妄想)」を発表した際に千二百万ドル(約十二億円)という記録的な数字を樹立
して以来、広告費は年々、上昇してきた。昨年度は「宣伝費約一億ドル、香水投資は約五
億ドル」(フランス香水産業連盟)に達している。

シャネルは「シャネルの五番」の発表によって、実業家への道も踏み出すことになった。
そして、その影には新しい愛人、ロシアのディミトリ大公の登場がある。
236シャネル@20世紀特派員:02/01/12 00:21 ID:ZWRupPIN
■豆事典

▽LVMH
フランスのデラックス産業最大手。高級バッグで有名な「ルイ・ヴィトン」やシャンパン、
ブランデーの「モエ」「ヘネシー」、服飾の「ディオール」「ジバンシー」「ラクロワ」「ケ
ンゾー」を傘下に持つ。95年度連結売上高は約300億フラン(約6000億円)。

▽マリリン・モンロー(1926−62年)
米国の女優。父を早く失って孤児院で育ち、1942年に16歳で工員と結婚したが、第2次大
戦後に離婚してB級映画にわき役で出演。無名時代にモデルとなったヌードカレンダーが
話題となり、「ノックは無用」(1952年)で主役の座を得た。その後ハリウッドの映画に多
数出演して約2億ドルの売り上げをもたらしたという。54年1月、ジョー・ディマジオと
結婚。同年2月には夫妻で日本を訪れたが、1年弱で離婚。56年には劇作家アーサー・ミ
ラーと結婚して61年に離婚した。ケネディ大統領らとのスキャンダルもうわさされ、ロサ
ンゼルスの自宅で裸体で死亡しているのが見つかった後、睡眠薬の多量服用による事故死
との発表にもかかわらず自殺、他殺説が絶えなかった。

▽ジョー・ディマジオ(1914年−)1940年代
最高のオールラウンドプレーヤーと評される米国の大リーグ選手。イタリア移民の子で、
1936年、ニューヨーク・ヤンキースに入団。39、41、47年に最高殊勲選手(MVP)となっ
た。41年には56試合連続安打を達成。51年に退団し、55年に「野球の殿堂」入りした。モ
ンローは2度目の妻。

▽GI
英語の「官給品」(ガバメント・イシュー)の頭文字が転じて、米国の陸軍下士官・兵士の
意味で使われるようになった。

▽ニューヨーク近代美術館(MoMA)
1929年にニューヨーク・マンハッタンの53丁目に開館した欧米屈指の美術館。近代美術収
集家のサリバン夫人、グッゲンハイム夫人、ロックフェラー2世夫人らにより建設が進め
られた。20世紀の絵画、彫刻のほか建築、デザイン、写真などアートを広範囲にとらえ、
収集品は10万点を超えている。
237沢井だ文句あるか:02/01/12 01:02 ID:qWn5e86V
こんなん書くから沢井製薬はバカにされるんだぞ
238シャネル@20世紀特派員:02/01/12 07:47 ID:PQHLCZlQ
皆殺しの天使(24) ロシアからの亡命者  彼らは東洋趣味を目覚めさせた

ポール・バレリーは「香水をつけない女性に未来はない」と警告した。もっとも、そんな
警告は不要なほど、フランス女性は香水好きだ。フランス香水産業連盟によると、香水類
の昨年の年商は約六百二十億フラン(約一兆三千六百億円)で、輸出と国内消費がほぼ半々
だった。

しかし、歴史をたどると香水はロシアが本家本元である。ルイ十三世の宰相リシュリュー
の一族で、一時、ロシアに移住していたエマニュエル・リシュリュー公爵が移民の憂さを
晴らすために唯一、自らに許したぜいたくが、ロシア宮廷の風習に従ってバラのエキスに
浸ることだったと伝えられる。

●新しい愛人 シャネルの新しい愛人として一九二〇年に登場したのは、そのロシアの最
後の皇帝ニコライ二世のいとこで、ラスプーチン暗殺事件にも関与していたディミトリ大
公である。ロシア帝政が一九一七年のロシア二月革命で崩壊した後、パリに従者一人を連
れて亡命してきた大公を、その従者ともどもパリ郊外のガルシュの別荘に引き取って経済
的に支援したのがシャネルだった。

その大公と従者の様子は「別荘のよく仕込まれた家令は、彼らのすり切れた三つ揃いや、
新聞紙を敷いて穴を隠した靴底を見てみないふりをしていた」(「シャネルザ・ファッシ
ョン」)というひどいものだった。

ディミトリ大公はシャネルより十一歳年下だった。母親が出産と同時に亡くなり、イギリ
ス人の乳母二人に育てられた。父親は彼が十一歳の時に再婚し、新しい妻とともにパリに
行ってしまう。一九〇五年には親代わりのセルゲイ大公が暗殺された。孤独な少年時代を
過ごした大公にシャネルは打ち解けたものを感じたのかもしれない。二人の関係は一年間、
続いた。

シャネルの周囲はこの時期、亡命ロシア貴族であふれた。シャネルは一九二〇年にフォー
ブール・サントノレ二九番地に引っ越し、店も同じ年にカンボン通り二一番地から三一番
地に移した。広くなった店内やアトリエでドアボーイや女性店員として働いたのは、ぜい
たくの限りを尽くしたロシアの貴族たちだった。彼らは典雅で完ぺきな礼儀作法を知って
いたから、シャネルの店の評価を高めたはずだ。

ディミトリ大公の姉のマリア大公夫人も弟を慕ってシャネルのところにやってきた。多少
とも財産を持ち出すことに成功した亡命貴族たちも仲間が働いているシャネルの店に顧客
としてやってきた。「シャネルの五番」の調香師、エルネスト・ボーも偶然の一致ながら、
ロシア宮廷の使用人の息子だった。シャネルがこの天才調香師に香水づくりを託したのも、
彼の作品にディミトリ大公の祖国の香りをかいだからだろうか。

シャネルはカペルの愛人だったころは、英国紳士のブレザーやギャバジンなどから作品の
ヒントを得たが、今度は刺しゅう工を雇い、ロシア風の凝った刺しゅうをドレスにほどこ
したり、ルバシカ風の上着を発表したりした。裏に毛皮のついたコートを発表したのもこ
の時代だ。
239沢井だ文句あるか:02/01/12 08:53 ID:2L3WfVSh
がんばってアゲ
240卵の名無しさん:02/01/12 08:55 ID:Kvmn10e9
心霊写真です、別の板で見つけました。一説には精神病で病んでいた
娘を犬のように外で飼っていたそうです。写真の至る所に異物が見られ
ます。自分も大体「2分」ぐらい探すのに時間がかかりました。なかな
か見えない方は良く目をこらしてじっと見る事をオススメします。

心臓の弱い方には絶対オススメ出来ません。

http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Bay/4700/image01.gif
241シャネル@20世紀特派員:02/01/12 13:41 ID:GbXhYglo
シャネルの周辺だけでなく、パリ全体に亡命ロシア人があふれていた。ロマノフ王朝の王
位後継者、ウラジーミル・ロマノフ大公はパリで一九一七年から亡命生活を送り、ベルリ
ンの壁崩壊後の九二年に講演先の米・マイアミで急死した。その直前のインタビューでは、
第二次大戦前にタクシーに乗ると「運転手から恭しくあいさつされた」と懐かしそうに語
り、当時のタクシー運転手に亡命ロシア人が多かったことを証言している。

ディミトリ大公がガルシュの別荘の住人だったころにはストラビンスキー一家五人もここ
で二年、暮らしていたし、シャネルが援助したロシア人にはディアギレフも含まれていた。
ジャン・コクトーが「偉大なる時代の興業主であり、あらゆる新作の評論家にして普及者」
と評したディアギレフは一九〇九年に「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」を創設し、
パリの音楽界や文学界に強い影響を与えた。

ニジンスキーがテニスのチャンピオン役で主演したバレエ・リュスの「青い列車」は一九
二四年六月二十日、シャンゼリゼ劇場で上演された。シャネルはこの公演の衣装を担当し、
真珠の役を演じたリディア・ソコロバのために大粒の模造真珠のイヤリングを考案した。
そのイヤリングは現在に至るまでシャネルのヒット商品である。

「青い列車」は脚本がコクトー、ポスターがピカソだったことは前述した。音楽は「六人
組」の一人、ダリウス・ミヨーである。ディアギレフはドビッシー、ラヴェル、サティ、
プロコフィエフらにも作曲を依頼し、装置もピカソやルオー、キリコを動員するなど、現
代風に言えば名プロデューサーだった。

●資金の援助 ディアギレフのスポンサーだったロシア貴族が革命で没落したため、彼は
「春の祭典」の再演ができずにいた。その再演資金を援助したのもシャネルである。彼女
はディアギレフの「希望をはるかに超えた額」の小切手を差し出した。そしてこの贈り物
に「このことをだれにもしゃべらないこと」との条件を付けた。

一九二九年五月、シャネルはバレエ・リュスに敬意を表して舞台がはねた後に「スペ(夜
食パーティー)」を主催した。そのとき、山盛りのキャビアを前に糖尿病を病むディアギ
レフは「少し悲しそうな様子だった」と伝えられる。

シャネルは後に「ロシア人はわたしを魅了した。ロシアはわたしに東洋趣味を目覚めさせ
た。彼らの《君のものはわたしのもの》という態度がうらやましかった」と語っている。
シャネルが生涯、愛した漆塗りのコロマンデルのびょうぶに出合うのもこのころである。
パリの芸術の中心もパリ北部のモンマルトルからセーヌ河の左岸、パリ南部のモンパルナ
スに移り、地下鉄「南北線」も開通した。シャネルの伝記を書いたポール・モランがシャ
ネルと初めて会うのも一九二一年のクリスマスである。

コクトーがバー「屋根の上の雄牛」を開店したのは一九二二年一月だ。シャネルはこの時
期のパリについて、晩年の友人、クロード・ドレイに「カンボン通りで働いた後、外出は
したくなかった。しかしパリは当時、最も輝き、最も好奇心に満ちていた」と述べている。
242シャネル@20世紀特派員:02/01/12 13:43 ID:GbXhYglo

しかし、ディミトリ大公もカペルと同じように他の女性と結婚してしまう。相手は「皇族
として生まれた男性が一文なしになったとき、高貴さ以外は何でも持っているどこかの若
い女性に自分の名前と称号を提供する」(「シャネルザ・ファッション」)という当時の流
行に従い、米国の金持ち女性だった。

■豆事典

ポール・バレリー(1871−1945年)
フランスの詩人、批評家。文学論や文明批評の「ヴァリエテ」5巻は20世紀前半の批評文
学の最高峰といわれる。フランスを代表する知識人として国葬が行われた。

リシュリュー(1585−1642年)
17世紀フランスで「絶対王権」の基礎を固めた政治家。1622年に枢機卿となり、ルイ13世
の事実上の宰相としてフランスの2大勢力だった大貴族およびユグノー(カルバン派プロ
テスタント)と戦って、国王直轄の官僚制度を作った。

グリゴーリー・ラスプーチン(1872?−1916年)
ロシア帝政末期、超能力によりアレクセイ皇太子の血友病を治したとしてアレクサンドラ
皇后の信頼を得た僧。第1次大戦で出征中のニコライ2世の留守宮殿で皇后顧問として国
政を動かした。怪僧といわれ、暗殺を試みた皇族の家に招かれ毒入りのワインや菓子を供
されたが死なず、短銃で何度も撃たれて氷の浮かぶネバ川に投げ捨てられ水死したという。

バツラフ・ニジンスキー(1890−1950年)
ポーランド系ロシア人舞踊家。1907年にサンクトペテルブルクのマリンスキー劇場でデビ
ュー。1909年にディアギレフの「ロシア・バレエ団」に入り、得意の跳躍や振り付けで伝
説的な名声を得た。

ダリウス・ミヨー(1892−1974年)
多調の技法を完成したフランスの作曲家。1917年にブラジル大使となったクローデルの秘
書として随行、ここで多調の技法を完成した。交響曲16、協奏曲31、室内楽曲約160のほ
か映画やラジオ曲など400以上を作曲し、多作で知られた。

クロード・ドビッシー(1862−1918年)
フランスの印象派作曲家。マラルメの詩による管弦楽曲「牧神の午後への前奏曲」で伝統
的な和声理論にとらわれない印象主義を確立、「色彩的な音楽の大家」といわれた。

エリック・サティ(1866−1925年)
フランスの作曲家。カフェーのピアニストとして生計を立て、自作の演奏にも「曲に注意
を払わぬこと」と注文をつけた。わざとらしさや感傷を排し第1次大戦後の理想とされた
生活と芸術の融和を目指した。
243卵の名無しさん:02/01/12 17:15 ID:JqJK1VSE
こんな荒れスレで世間の皆様申し訳有りません。
役員、社員一同心からお詫び申し上げます。
244シャネル@20世紀特派員:02/01/12 20:40 ID:RJaITQyX
見ればよくわかるね?、”整然”としてるよ。
245キンレイなべ焼うどん ◆XeeHYnko :02/01/12 22:15 ID:0zltvz9Y
あげ
246卵の名無しさん:02/01/13 01:25 ID:LxVyswq7
まんかすってなんやこら
247シャネル@20世紀特派員:02/01/13 07:09 ID:nfk/SSOS

皆殺しの天使 (25) 黒いワンピース 大量消費時代を予言していた

フランスでは一九二〇年代に消費文化が急激に進んだ。哲学者のアンドレ・グリュックス
マンによると、欧州大陸の中央に位置するフランスにはもともと消費文化をはぐくむ土壌
があった。古代ローマ人やゲルマン民族の侵攻など絶えず外的に脅かされ続けてきたこと、
スペインやハプスブルグ家の興亡を目の当たりにしたことから「世界が支配できないこと
も、世界を未来永劫(えいごう)には、支配できないことも知っている。だから今を大事に
する気質が育ち、消費社会が育った」というのだ。

そして、この気分が頂点に達するのが一九二〇年代の「ラネ・フォル(狂乱の時代)」だっ
た。第一次大戦で十九世紀的価値観が一掃され、米国が強国として台頭し、「西欧文明も
滅びることがある」(ポール・バレリー)と悟ったからである。

第一次大戦後のフランスはインフレが急激に進み、フランは一九一九年一月の一ドル=五
・四五フランから二六年には一ドル=五〇フランに下落した。

おかげでガートルード・スタインやアーネスト・ヘミングウェー、スコット・フィッツジ
ェラルドら「失われた世代」の米国人をはじめ多数の外国人がパリに移住する。

≪勝利の幻想≫ モーリス・サックスの日記体の回想録「屋根の上の雄牛の時代」による
と、一九二六年にパリに居住する外国人の数は英国人七十五万人、米国人四十一万人、カ
ナダ人二十二万人、スペイン人二万五千人だった。「彼らはパリに上陸して住居、お祭り
騒ぎ、買い物、あらゆる種類の娯楽に財産を消費した」という。その消費の総額は一九二
六年には七十億ドルに達した。

一九二〇年に六千フランだったモディリアニの作品が二六年には三十万フランに跳ね上が
る。こうした中でパリっ子は、そのつけを「ドイツ人が払うだろう」と言い合い「勝利の
幻想」に酔って夜明けまで遊び暮らした。サックスは回想録の二八年六月二十八日の項で
「一九一四年前のマキシムでは紳士と娼婦にしか出会わなかったが、今に初聖体も行われ
よう」と書いている。まさにパリはヘミングウェーが指摘したように「移動祝祭日」だった。

「屋根の上の雄牛の時代」によると、この狂騒の中でシャネル、コクトー、シュールレア
リストらがパリのスターになった。そして、「実用的なトリコット(編物地の一種)」や「模
造宝石」を使ったシャネルは「耐乏生活で受け入れたものをエレガントにし、顧客の家に
招待された初めての出入り業者」になる。

一九二六年十月一日付の米モード誌「ヴォーグ」には「小さな黒い服(プチット・ローブ
・ノワール)」が“シャネル・フォード”と呼ばれてイラスト入りで紹介されている。“フ
ォード”とは当時、流れ作業を開始した米国の自動車、T型フォードのことである。シャ
ネルの伝記「シャネルの時代」(一九七二年刊)の著者でジャーナリストのピエール・ギャ
ラントは「この一着だけでシャネルの名は不滅だ」と、その歴史的意味を強調する。
248卵の名無しさん:02/01/13 17:07 ID:9CGz5nM7
所詮 ゴキブリゾロ 
まあこんなもんでしょう?
249シャネル@20世紀特派員:02/01/13 19:49 ID:3wHgbikw
「ヴォーグ」はこの襟なしのシンプルなワンピースを「だれもが着られる」と推奨し、そ
の大量生産的性格を車のフォードと比較させたのだ。このワンピースが革命的だったのは
まず、当時、色のはんらんともいうべき状態だったモードを「黒」という単色でまとめた
点にある。「黒」のドレスは現在に至るまで、どんな場合でも最も無難で最もシックであ
るという点で、パリ・モードの主流であり、流行の先端になっている。

シャネルが「黒」に取りつかれたのはいつのことだったのだろう。恋人のカペルが急死し
たときから、この喪の色がシャネルの生活の中に侵入してきたのだろうか。それとも少女
時代を孤児として過ごしたオバジーヌの凛とした僧院の屋根の黒が心の片隅からいつまで
も離れなかったのだろうか。

シャネル自身は「黒は大地から生み出された色」(「獅子座の女シャネル」)と述べ、その
不滅性を指摘している。

第二の特長は、「ヴォーグ」が指摘しているようにだれにでも着られる点だ。シャネルに
は「よくできた服は、だれにでも合う服である」というモード哲学があった。

それはコピーが可能だという第三の特長にもつながる。「時代の空気をいちはやくつかま
える」のがデザイナーの仕事だとすれば、コピーが現れるのは栄誉だといってもいい。「獅
子座の女シャネル」の中でシャネルは「あたしは、自分のつくり出したアイデアが他人に
よって実現されたときのほうが、うれしくさえある」と言い放っている。二十世紀がコピ
ー文化の時代であり、大量生産、大量消費の社会が到来することをいちはやく見抜いてい
たのだ。

≪近づく暗雲≫ シャネルはすでに「ヴォーグ」で紹介されるデザイナーの常連になって
いた。一九二六年十一月十五日号の特集記事「ビジネス・ウーマンのためのシックなガイ
ド」は、「黒のクレープ・デシンはビジネス・ウーマンにとってもはや古典である」と指
摘し、「小さな黒い服」が定番であることを伝えている。

また「シャネルの昼用の黒のワンピースのコピー」も紹介され、「これは非公式の夕食用
にも着用可。ほかにシルク・ベルベットの素材で、色はグラナディーンの赤、サファイア
色がある」とある。シャネルの服がコピーされ、さまざまな素材や色彩で販売されていた
ことがうかがえる。

一九二五年には「ラネ・フォル」のクライマックスともいえる「アール・デコ展」が開催
され、シャネルとポワロも出展する。ポワンカレが財政危機の救世主として登場したのは
翌二六年であり、二八年六月にはフラン平価を五分の一に切り下げる荒療治を行って金本
位制に復帰する。フランはやっと安定し、フランスは一九三〇年まで繁栄を持続させた。

しかし、その繁栄のさなかにも、第二次大戦の暗雲は近づきつつあった。モーリス・サッ
クスは回想録の最後のページにこう記している。「一九二九年十月三十日。昨日、ウォー
ル街で大暴落があり、伯父が自殺した。母は狭心症に陥った。伯父が母と僕の財産管理を
していたからだ。パリの僕たちの現金は約一万フラン。宝石を売って生活費にしなければ
ならない。もう日記を書く時間はない」
250シャネル@20世紀特派員:02/01/13 19:50 ID:3wHgbikw

豆事典

▽ガートルード・スタイン(1874−1946年) 米国の女性詩人、小説家。1902年にフランス
に渡り、彼女の家はパリに住む前衛芸術家や文学青年のサロンとなった。

▽失われた世代 戦争の残酷さを実感し、既成の価値観に絶望した第1次大戦後の米国の
文学青年らを指してガートルード・スタインが命名。彼らの多くは1920年代のパリで虚無
的、享楽的な日々を過ごした。

▽モーリス・サックス(1906−45年) フランスの作家で、ジャン・コクトーの親友。カジ
ノを愛し、「現代のカサノバ」といわれた。第2次大戦中にドイツで死去。

▽アメディオ・モディリアニ(1884−1920年) イタリアの画家。シャガールや藤田嗣治ら
とともにエコール・ド・パリ(第1次大戦後のパリで活躍した外国人画家のグループ)の1
人で、細長い顔や首の人物を多く描いた。

▽聖体 カトリックで、聖なる使用のために儀礼的に清められたパンのこと。聖体拝領(聖
体を受けること)の意味でも使われる。

▽シュールレアリスム 超現実主義。1924年に詩人アンドレ・ブルトンが「シュールレア
リスム宣言」を起草、ダダイズムを継承しつつ、フロイトの精神分析の影響も受け、夢や
幻想など非合理の潜在意識の世界を表現しようとした。ブルトンのほか詩人のエリュアー
ル、画家のダリ、キリコらが有名。

▽T型フォード 1908年にフォード社が発売した大衆車。1927年までの間に約1500万台が
生産された。大量生産方式による大衆車は自動車王ヘンリー・フォードの長年の夢であり、
この車の出現が大量生産、大量消費社会への道を開いた。

▽アール・デコ 1920、30年代の装飾様式。25年にパリで開かれた現代装飾・工業美術国
際展(アール・デコ展)にちなんで名付けられた。19世紀末のアール・ヌーボーが曲線を主
にして装飾過剰気味なのに対し、アール・デコは実用的で単純な直線的デザインを好んだ。
1930年と31年に相次いで完成したニューヨークのクライスラー・ビル、エンパイア・ステ
ート・ビルにもアール・デコのデザインが取り入れられている。
251シャネル@20世紀特派員:02/01/13 20:06 ID:FtpCEKg3

皆殺しの天使 (26)  華麗な交遊関係 芸術家たちとの偉大なメセナ

シャネルはウエストミンスター公と結婚するつもりだったのか。それとも「公爵夫人は何
人もいるけれど、ココ・シャネルは一人よ」と言ってプロポーズを拒否したのだろうか。

シャネルの伝記を書いたシャルル=ルーは「二十世紀のおとぎ話を書きたかった。靴ひも
などを売っていた行商人の家に生まれ、孤児院で育った娘が《マドモワゼル・シャネル》
と呼ばれ、億万長者になるのだから」と、その動機を語っている。

金満家として知られる英国貴族、ウエストミンスター公がシャネルの心をとらえようとし
ていた一九二三年ごろ、シャネルの家には公爵の私設配達人から「愛の手紙やイートン・
ホールのクチナシ、温室で切られたランの花束、公爵自ら摘み取った果物のかご、スコッ
トランドのサケ、野菜かごの中に隠されたエメラルドの非常に大きな原石」などが届けら
れた。一九二四年から三〇年まで続いたウエストミンスター公との交際では、天がいつき
ベッドのある豪華ヨットで旅行をしたりもしている。確かに現代版おとぎ話ではある。
一九五三年に七十四歳で死去したウエストミンスター公は生涯に四人の女性と結婚してい
る。シャネルとの交際があった一九二五年秋には二度目の妻と離婚しており、シャルル=
ルーは「シャネルに子供が生まれたら、公爵は結婚したかもしれない」という。

しかし、結婚すれば、公爵は、たとえ無意識であるにせよ、シャネルから仕事と友人たち
を取り上げたにちがいない。そして、シャネルにとってすでに、宝石も花かごも買おうと
思えば自分で好きなだけ買える状態になっていた。

シャネルが一九七一年に八十七歳で死んだとき、仏週刊誌「レクスプレス」は編集長フラ
ンソワーズ・ジルーの「過酷なシャネル」と題する追悼文を掲載した。その中でジルーは、
シャネルが「そんな下品きわまりない言葉は使わない」といってプロポーズ拒否の逸話を
いつになく強く否定したと書いている。 確かにシャネルは地方の貧しい行商人の娘で、
ミュージック・ホールの歌手になりそこない、愛人として男性の庇護のもとにいたことも
あった。しかし、「分をわきまえる」という伝統的なフランス人の価値観と「いきなパリ
ジェンヌ」の心意気をあわせ持っていたことも確かである。

シャネルはウエストミンスター公と会う前の二一年に詩人のピエール・ルヴェルディに出
会っている。彼は「南北」を創刊、シュールレアリスムの詩人アラゴンを発掘し、ブルト
ンらの作品を刊行したが、自らは最後の数年に至るまで世間に認められることはなかった。

シャネルがこの不遇の詩人と知り合ったとき、彼にはデザイナー見習いの妻がいた。ルヴ
ェルディは南仏ナルボンヌのブドウ栽培者の息子で、ブドウのできが悪かったため少年時
代に一家は離散した。シャネルはルヴェルディに心休まるものを感じたのだろうか。彼女
自身、地方の出身であり、「私の父はブドウ栽培者」とよくいっていた。
252シャネル@20世紀特派員:02/01/13 20:08 ID:FtpCEKg3

コクトーを「食わせ者」とののしり、バレリーを「どこに行っても名誉をはりつけている
クリスマスのモミの木」と軽べつしていたシャネルはルヴェルディを「本物の詩人」と尊
敬していた。シャネルに夢中だったウエストミンスター公は「ココは気がふれている!
司祭といっしょになったりして」と非難したといわれるが、ルヴェルディは信仰のため一
九二六年に突然、パリを去り、仏北部ソレームの修道院近くに隠とんして窮乏の中で生涯
を過ごした。妻もいっしょだった。

シャルル=ルーによると、シャネルが本当に愛したのは「カペルの次はルヴェルディだっ
た」という。シャネルは彼の全集の初版本と原稿のほとんどを持っていた。またピカソが
水彩画を描いた詩画集「絞殺」も大事にしていた。これらの詩集を借りた友人たちは「わ
がいとも偉大ないとしのココに、最後のどうきがとまるまで心から愛をこめて」といった
愛の言葉が書き込まれているのを発見して当惑した。

ルヴェルディは隠とん後もシャネルに手紙を書き、「一つ一つの作品、一つ一つの原稿に
は、一九二一年から彼の死んだ一九六〇年まで毎年しるされた愛の言葉、優しい言葉が載
っていた」(「シャネル ザ・ファッション」)という。

シャネルから一時、伝記執筆を依頼された作家のミシェル・デオンは「シャネルは一九二
〇年から三九年の間、芸術家たちにとって偉大なメセナの一人だった」と述べ、「ラネ・
フォル(狂乱の時代)」にシャネルが果たした役割の重要性を強調する。デオンはコクトー
の友人でもあり、「シャネルとしばしばコクトーの家に遊びに行ったが、コクトーはシャ
ネルの判断を恐れていた。ダリもシャネルの前だと少年のようだった」と語っている。

シャネルのこうした愛の遍歴や仕事への情熱を見守ってきた友人にミジア・セールがい
る。父親はポーランドの彫刻家でピアニストを目指してパリで生活していたが、その「も
ぎとったばかりの果実」(シャルル=ルー)のような容姿はピアノ教師だったフォーレ、ボ
ナール、ルノワール、ロートレック、ヴェルレーヌらをとりこにする。

ミジアはいとこのタデ・ナタンソンと結婚した後、大発行部数の日刊紙「ル・マタン」の
社主で大金持ちのアルフレッド・エドワーズと再婚、さらにスペインの彫刻家ジョゼフ・
マリア・セールと結婚する。そして彼女は新しい夫とともにシャネルに新しい世界を開いた。

カペルの死後、シャネルをベネチアに連れて行き、生気を取り戻させたのも、シャネルに
ディミトリ大公やルヴェルディを紹介したのもミジアなら、シャネルとウエストミンスタ
ー公との仲が決裂寸前だった二九年に公爵のヨットに招待されたのもミジアである。

結局、公爵は三〇年に他の女性と結婚する。シャネルのおとぎ話の王子様はついに現れな
かった。いとこのアドリエンヌの方は同年、相手の父親が死んだためやっと三十年間、暮
らした貴族と正式に結婚する。

シャネルのモードはこの時期、再び英国調になる。公爵の衣装戸棚からツイードの上着や
金ボタンのブレザー、太いしまのブラウス、スポーツ用のコートやスーツのヒントを得た
ほか、セーターで暮らすという英国式の習慣も取り入れ、流行させた。
253シャネル@20世紀特派員:02/01/13 20:09 ID:FtpCEKg3

昼食の席でミジアがセーターにすばらしい三連のダイヤのネックレスをつけて登場したと
き、「お客たちのおどろきはぼうぜん自失に変わった」と「シャネル ザ・ファッション」
は書く。セーターは以後、世界中でモードの仲間入りをする。

■ 豆事典

ピエール・ルヴェルディ(1889−1960年)
フランスの詩人。貧しい少年時代を過ごし、第1次世界大戦中の詩集「卵形の天窓」など
でデビュー。1917年から18年にかけて詩誌「南北」を主宰、当時の前衛芸術・文学運動の
一翼を担う。特に詩的イメージ論とその実践はブルトンらに強く支持され、後のシュール
レアリスム思想に多大な影響を与えた。代表作に詩集「眠るギター」「空の漂流物」など。

ルイ・アラゴン(1897−1982年)
第1次大戦後のパリでシュールレアリスム運動に加わった詩人の1人。後に共産主義に転
じ、第2次大戦中はレジスタンス詩人として「断腸詩集」「エルザの瞳」などの作品を発
表した。戦後も詩や小説などの創作活動を続けた。

メセナ
古代ローマの政治家で、文芸の擁護者でもあった「メセナス」から転じたフランス語。
芸術・文化の庇護を意味し、企業による芸術・文化の援護活動の意にも用いられる。

ピエール・ボナール(1867−1947年)
フランスの画家。法律を学んだ後、画家に転身した異色派。浮世絵の影響を受け、優れた
色彩感覚を示して最後の印象主義者ともいわれた。

ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841−1919年)
フランスの画家。13歳から陶器の絵付師としての修業を積んだ。光と影の効果を取り入れ
ながら、屋外での幸福そうな人々の集いを描き、印象派の人物画家としてドガと並び称さ
れた。代表作に「日傘の女」「水浴の女たち」など。晩年はイタリアとの国境に近い地中
海岸の別荘で、裸婦や肖像画の制作と研究を続けた。

ポール・マリー・ヴェルレーヌ(1844−96年)
フランス象徴派の詩人。代表作は「言葉なき恋歌」「愛の詩集」など。若いころから飲酒
におぼれ、暴力事件などで獄中生活を繰り返した。詩人のランボーから絶交を言い渡され、
逆上してランボーに発砲したこともある。晩年は梅毒性の関節炎を患って療養施設を転々
としたほか、売春婦の情夫として暮らしたが、文名だけは高く、文部大臣から救済金を受
けた。
254鶴原 ◆6ZE9uvAk :02/01/13 22:52 ID:vyXEgKKG
下がってましたのでアゲました。
後発のボスがんばれ
255社員代表:02/01/13 22:56 ID:5OQMAYfj
>社長
世間からバカにされるゾロ会社の社員の惨めさを知るべし!
256鶴原 ◆6ZE9uvAk :02/01/13 23:04 ID:vyXEgKKG
うちよりマシだろ
257シャネル@20世紀特派員:02/01/13 23:53 ID:zlVCiwzK
皆殺しの天使 (27) 有給休暇の楽しみ 国民は自転車でバカンスに出た

「シャネルのアトリエで働いていて一番、感激したのは1936年以前に有給休暇が取れ、
彼女の用意した田舎の従業員用宿舎を無料で使えたことです。しかも、三等ではなく全員
が二等車の切符で出発した」1929年に13歳でパリ・カンボン通りのシャネルのアト
リエにお針子見習いとして入ったマノン・リギュエールはこう証言する。彼女は1960
年代から引退する78年までスーツ部門の第一アトリエの主任を務め、シャネル自身のス
ーツや街着もすべて、彼女が仕立てた。

人民戦線のレオン・ブルム内閣が労働総同盟(CGT)の代表らと2週間の有給休暇や週4
0時間労働制を定めたマティニヨン協定を結んだのは60年前の1936年6月7日であ
る。歴史家のミシェル・ヴィノックは「労働者にとってのベル・エポックは人民戦線時代
だ」という。

ドイツの再軍備の動きで軍事費とデフレーションが増大する中、国際的にも孤立したフラ
ンスは、その前の年の6月にはラベル内閣の下で緊急令を発し、賃金の一律10%削減を
断行した。このため、座り込みストなどが続き、36年4月にはストの参加者は商工業の
労働者の四分の一に達していた。

《長引く交渉》 パリのシャネルの店でもピケが張られ、シャネルは店に入ることもでき
なかった。彼女は有給休暇、労働時間の短縮、労働契約などを拒否して300人のお針子
の解雇を発表した。しかし交渉は長引き、シャネルは最後に店を従業員に贈与すると提案
したほどだ。

シャルル=ルーは「シャネルは仕事に厳しく、女性がよくやるおしゃべりも嫌いで男性的
だった。しかし政治には無関心で、労働者は働くことが幸福なのだと考える反動主義者で
もあった。顔を見たくないといって従業員を突然、首にしたことも何度かあった」と批判
する。

マノンもシャネルの仕事に対する厳しさは認める。「マドモワゼル・シャネルはよく《マ
ノンは泣かなかったわね。もっと泣かなければだめ》と言い、私が完ぺきに仕立てたと思
った作品を解いた。でも、私にとっては良き先生だった。天才的センスがあり、そのアイ
デアは思いもかけなかった」

マノンはシャネルが針を持つのを見たことはなかった。シャネルは常にハサミを首からぶ
らさげ、ミンクのコートをジョキジョキと切ってボレロに作り直したり、訪問者のそで付
けがまずいといって、その場でそでを直したりしていた。

シャネル・スーツの特徴の一つに飾りひもによる縁取りがあるが、それは「スーツ地の一
部を解き、その解いた糸で飾りひもを作る」という凝ったものだ。これを発案したのもシ
ャネルである。「マドモワゼル・シャネルに関しては、たくさんのことが忘れられている。

店の給料は良かったし、有給休暇を36年以前に実行しただけでなく従業員の医療費も支
払った。今の社会保障制度を先取りしていた」とマノンは指摘する。
258荒ら:02/01/14 00:24 ID:Cilj4KRc
すな
259卵の名無しさん:02/01/14 00:27 ID:RyEOlx16
新聞広告したり、工場作ったりする金があるなら
給料を上げてくれよ
バイトせんと生活ができんのはつらい
260シャネル@20世紀特派員:02/01/14 00:29 ID:hCDexy99

有給休暇を取ってマノンらが出掛けたのはフランス中部のランドの広大な土地に建てられ
たバカンス用の宿舎だった。当時、お針子だけでも約4百人いた。彼女たちは、交代で2
週間の有給休暇を楽しんだ。従業員数は35年には約4千人に達していた。

フランスでは金持ち階級がすでにバカンスの習慣を持っていたほか、軍人や一部役人、銀
行員にも有給休暇制度があった。しかし労働者にとって1936年まで、有給休暇は夢の
また夢であり、人口の一割、数百万の国民は海を見たことがなかった。

車はぜいたく品だったので、大半の国民は自転車でバカンスに出発した。36年に約52
万台だったフランス国内の自転車台数は37年には800万台に跳ね上がる。自転車には
家族や荷物を乗せる付属車が付けられた。 バカンス用に40−50%の列車割引も実施
され、パリから南部に向かう列車の出発駅であるリヨン駅からは同年8月、20万人が出
発している。

このバカンス制度は右翼団体などから「怠惰制度」と非難され、第二次大戦の緒戦でパリ
が陥落し、フランスがドイツと休戦条約を結んだときにはブルムはバカンス制度導入の責
任を問われている。

しかし、ブルムは「休暇は困難な生活のつかの間の晴れ間。労働者をキャバレーから引き
離し、家族だんらんや将来の設計を考える機会を与える」と反論し、共和政の施策を否定
したビシー政府も唯一、バカンス制度だけは維持した。

フランスは第三共和政からビシー政府を経て第四共和政、そして現在の第五共和政へと変
わるが、左翼政権も保守政権もバカンス制度は一種の国民懐柔策として堅持した。休暇の
期間も五六年に三週間になり、六九年には四週間、八一年には五週間に延長された。

《最後の輝き》 バカンス制度は自動車の普及もうながし、シトロエンの名車「ドゥー・
シュボ(2CV)」など小型車の発達を助けた。またパンタロンやTシャツ、セーターなど
のリゾート・ウエアが大衆化した。すでに20年代にこうしたものを流行させていたシャ
ネルはその点でも時代を見越していた。

シャネルの私生活にも大きな変化が起きていた。1930年にディミトリ大公の仲介で知
り合ったハリウッドの大プロデュサー、サミュエル・ゴールドウィンとハリウッド映画の
衣装担当契約を結び、三一年にはハリウッド入りする。

32年には当時、愛人だったポール・イリーブの勧めで宝石展を開催し、「同い年の彼と
の結婚を真剣に考えた」(シャルル=ルー)という。しかし、イリーブは三五年夏、シャネ
ルの南仏の別荘のテニスコートで倒れ、急逝する。

シャネルがフォーブール・サントノーレからホテル・リッツに引っ越したのは34年春だ
った。イリーブとの結婚に備えるためなのか生活を簡素化する必要からだったのかは不明だ。
261シャネル@20世紀特派員:02/01/14 00:30 ID:hCDexy99
モード界では35年にイタリアのエルザ・スキャパレリがバンドーム広場に店を出し、独
自のセーターがスポーツ・ウエアとして人気を集めてシャネルを脅かした。スキャパレリ
は1954年に店を閉めるが、シャネルは初めて追われる立場に立ったといえる。

1937年のパリ万国博の夜会で、シャネルはオーガンディのベールに身を包み花の王冠
をいただいた。その美しさにだれもがみとれたといわれるが、それは栄光の最後の輝きの
ように見えたかもしれない。

1939年9月、第二次大戦開戦。シャネルは香水とアクセサリー部門を除いて店を閉め、
約3千人の従業員に暇を出す。そしてドイツ占領下のパリで日々を過ごした後、戦後は1
954年までスイスに閉じこもった。

■豆事典

▽第4共和政(1946−58年) 第2次大戦で連合軍によりパリが解放された翌月の1944年9
月、フランスではレジスタンス(対独抵抗運動)の英雄ドゴール将軍を首班とする臨時政府
が成立した。しかし、戦後の議会選挙では共産党、人民共和派、社会党の3大勢力が勝ち、
ドゴールは議会主導の政治体制に反発して辞任。46年の新憲法制定でスタートした第4共
和政は短命内閣が続いた。こうした中でドゴールはフランスがアルジェリア戦争の処理に
行き詰まった58年、首相に選ばれ、再び政治の表舞台に登場した。 

▽第5共和政(1958年−) 第4共和政の欠陥を補うため、議会の力を抑え、大統領権限を
強化する新憲法を発布、ドゴールが初代大統領に選ばれた。フランス大統領は以後、ポン
ピドゥー(69−74年)、ジスカール・デスタン(74−81年)、ミッテラン(81−95年)と続き、95
年からシラク政権となっている。 

▽サミュエル・ゴールドウィン(1882−1974年) ハリウッドの映画製作者。ポーランド生
まれ。手袋のセールスマンとして成功した後、映画事業に進出し、1924年、他社を合併し
てメトロ・ゴールドウィン・メーヤー(MGM)を設立。ハリウッドの草創期以来、アメリ
カの映画産業の発展に貢献した。代表作に「グリード」(24年)「デッド・エンド」(37年)
など。 

▽エルザ・スキャパレリ(1890?−1973年) ファッション・デザイナー。1933年にパゴダ
・スリーブを発表して一躍人気デザイナーとなり、肩の張ったシルエットは30年代の女性
の代表的なイメージになった。シャネルの時代とされた20年代に対し、30年代はスキャパ
レリの時代ともいわれた。第2次世界大戦中はアメリカに逃れ、戦後、パリに戻って新し
いコレクションを発表したが、不評で54年に店を閉じた。 

▽1937年のパリ万国博 「現代生活における芸術・技術」をテーマに52カ国が参加。開催
国のフランスの展示館は週40時間の労働協約のため開幕日の5月4日になっても完成しな
かった。フランスの隣国スペインは人民戦線とフランコ軍との内乱の最中。万国博のスペ
イン館ではピカソの「ゲルニカ」が話題を集めた。
262会長:02/01/14 18:30 ID:Kn5bl828
世間の皆様、すれ荒らしの従業員を申し訳なく存じますニダ。
会社を代表してお詫申し上げますニダ。
身許が判明次第、懲戒処分にしてお詫しますニダ。
263卵の名無しさん:02/01/14 19:29 ID:WjbbcF04
会長って社長より、えらいんかのぅ?
264卵の名無しさん:02/01/14 19:38 ID:Kn5bl828
普通の会社ではえらい。
そうもない会社もまれにある。
265卵の名無しさん:02/01/14 21:01 ID:K4jpdZd8
>>264
下げながら、まったり進もうよ。
また、荒らしが来るぞ!
266卵の名無しさん:02/01/14 21:52 ID:MQCvob5/
だいたいイケイケで高度成長期を拡大路線に突っ走った現会長の尻拭いを社長がやるパターン
敗戦処理をしなければならないつらさかな?
267鶴原 ◆6ZE9uvAk :02/01/14 22:28 ID:Ga44GSKr
会長はいい人じゃん
268田胃世宇:02/01/14 22:44 ID:yfuZnurV
社長は世間知らずのアホボンボン社長って某会社の社長が言ってましたけど
269シャネル@20世紀特派員:02/01/14 23:13 ID:HXkutKvE

皆殺しの天使(28)  秘密文書の中の名前 “途方もない冒険”に乗り出した

米国の首都ワシントン郊外にある国立公文書館には第二次大戦関係の秘密文書も多数、保
存されている。その一つ、ナチ親衛隊の高官だったワルター・シェーレンベルクに関する
解禁秘密文書には「シャネル」の名前がはっきりと記されていた。

《一九四四年四月、シャイーブ参事官とモム大尉はシェーレンベルクにフラウ・シャネル
なる人物、フランス人で有名な香水会社の所有者の名を挙げた。この女性はチャーチルを
十分に知っている者なので、仏独を助けるためにロシアを敵として、チャーチルと政治交
渉を行えるということである。彼女は仏独が密接に結び付いていると信じている》

《最後の愛人》 シャネルはやはり対独協力者だったのだろうか。彼女の最後の愛人とい
われるドイツ人、ハンス・フォン・ディンクラージはスパイだったのだろうか。うずたか
く積み上げられた解禁文書の中から「フラウ・シャネル」の文字を見つけたとき、私は一
瞬、めまいにも似た感覚に襲われた。

ドイツ降伏後の一九四五年七月七日、ロンドンで行われた英国情報局によるワルター・シ
ェーレンベルクの尋問書の「序説」には、「報道界では、シェーレンベルクの名前はナチ
親衛隊での重要な地位のほか、ある種の和平工作を演じたことで知られる」とある。そし
て、第二次大戦当時の英首相ウィンストン・チャーチルはウエストミンスター公の友人だ
ったのでシャネルとも旧知の仲だった。

文書から判断すると、シャネルがチャーチルとの面識を利用して英独の単独和平交渉をシ
ェーレンベルクに提案したようにも読める。

シャネルは1939年9月1日、第二次大戦が勃発するや香水、アクセサリー部門を除い
て店を閉じ、四〇年六月の独軍パリ占領と同時に、ドイツ兵が占拠したリッツのバンドー
ム広場が見下ろせる豪華なスイートからカンボン通り側の小部屋に移った。

そして1944年8月の自由解放と同時にパリを離れてスイスに隠とんし、54年2月に
復帰するまで、デザイナー生活から完全に引退していた。この15年間に何があったのか。

シャネルの最後の愛人が敵国ドイツ人だった点について、大方のフランス人は「だれも恋
人のパスポートなんか見ない」といって寛容だ。しかし、彼がスパイであり、シャネルが
国を裏切っていたとしたら話はちょっと変わってくる。

シャルル=ルーはシャネルの伝記の中で愛人の名前をイニシャルで記し、すべてを明確に
はしなかった。しかし、尋問書はシャネルがベルリンでシェーレンベルクに面会したとき、
「ハンス・フォン・ディンクラージ」を伴っていたことを明記している。

ディンクラージとシャネルがいつ出会ったのかは不明だが、二人は占領下のパリで「幸福
だったから、人目につかずに三年近くの歳月をすごした」(「シャネル ザ・ファッショ
ン」)という。
270シャネル@20世紀特派員:02/01/14 23:14 ID:HXkutKvE
ディンクラージはシャネルより13歳年下だった。ハノーバーの貴族の出身で、母親は英
国人。英仏語に堪能だった。1933年から1年間、ゲッベルスの指示でパリのドイツ大
使館の報道担当として働くなどパリでの生活が長く、社交界ではスパッツ(スズメ)と呼ば
れていた。

シャネルの依頼で伝記を書くため、1951年から52年にかけてスイスのローザンヌを
訪ねたミシェル・デオンは「長身のすごい美男子で魅力的だった。多分、スパイだったと
思うが、むしろ典型的なジゴロに見えた」と語る。シャネルは当時、ディンクラージと一
緒に暮らしていた。

「彼女は早く寝るので、われわれはローザンヌに一件しかないナイトクラブに毎夜、繰り
出した。彼女に結婚を申し込んだが断られたと話していた。会いたくないといわれて泣い
ていたこともある。戦前からパリの社交界で何人もの有名夫人を愛人にしていたが、それ
も仕事だったのだろうか。いずれにせよ彼女は彼がスパイだったことは知らなかったはずだ」

デオンはこう証言する。シャルル=ルーはシャネルが英独の単独交渉を思い立った背景に
は「シャネルの五番」があるとみている。1924年にヴェルテメール兄弟と香水会社を
設立したとき、シャネルはカンボン通りの店で販売する分以外は販売権も製造権も兄弟に
譲った。「五本の指でしか計算したことがない」と自己評価するゆえんだ。

《作戦の失敗》 ところが自分の名前をつけた香水が年々、膨大な利益を生むようになる。
周囲から「だまされた」とささやかれたシャネルが奪還の意欲に駆られたとしても不思議
はない。この気持ちに油を注いだのが、1940年9月にドイツ占領軍が制定したユダヤ
人取締法である。

この法律では「全てのユダヤ人は自己の所有する企業の所有権を放棄しなければならない」
とされていた。ヴェルテメール一家はユダヤ系で米国に亡命していた。シャネルは好機到
来と考えたが、一家は香水会社をフランス人に委託していたため、奪還作戦は失敗する。

しかし、一時もじっとしていられないシャネルはこの事件をきっかけに、英独の単独講和
による戦争の早期終結という「途方もない冒険」(デオン)に乗り出す。ドイツ人の愛人の
スパイにそそのかされた行動というわけではなかった。

彼女はディンクラージの友人のテオドール・モムにこの計画を打ち明ける。彼はそれをシ
ェーレンベルクに伝え、「帽子作戦」の暗号名でシャネルをベルリンに連れていった。尋
問書に出てくる「モム大尉」である。

一方でシャネルは「マドリードの英大使館を通してシャネルの書簡をチャーチルに伝送す
る仕事」(尋問書)を「英国貴族出身でイタリア人と結婚していたロンバルディ夫人」に依
頼しようとする。しかし、夫人の協力が得られず、シャネルがチャーチルを説得するのを
あきらめたため「帽子作戦」は失敗する。
271シャネル@20世紀特派員:02/01/14 23:15 ID:HXkutKvE
もっとも、1943年1月の米英首脳によるカサブランカ会談で、ドイツに対する無条件
降伏の原則を確認していたチャーチルにとって英独単独和平などありえなかった。ドイツ
の敗色はこの時点ですでに濃厚だったからだ。

モムはシャルル=ルーに対し「シャネルにはジャンヌ・ダルクの血が流れている」と述べ、
シャネルの行為が愛国心によるものであることを強調している。シェーレンベルクもシャ
ネルの熱にうかされたのだろうか。

■豆事典

▽パリの自由解放 1944年8月25日午後3時、パリ駐留ドイツ軍司令官コルティッツがフ
ランス第2装甲師団のルクレール将軍に会い、降伏文書に署名。1時間後、ドゴール将軍
が凱旋(がいせん)門を通ってパリ入りし、群衆に迎えられた。コルティッツは「パリをが
れきの地にする前に、敵に渡すな」とヒトラーから厳命されていたが、「パリを破壊した
男」になることを恐れた。解放後、対ドイツ協力者は市民からリンチを受け、髪を切られ
たり、額にカギ十字を書き込まれたりして市内を引き回された。

▽ハノーバー ドイツ北部の工業都市。ライネ川にのぞむ市場町として12世紀末ころから
発展し、14世紀には自治都市として経済的にも繁栄した。1636年、ブラウンシュワイク公
が王宮を築いた後は、宮廷都市として発展した。

▽ヨーゼフ・ゲッベルス(1897−1945年) ナチス・ドイツの政治家で宣伝活動の責任者。
1922年、ナチ党に入党し、29年に党中央宣伝部長となる。「全ドイツ国民はラジオを通し
て(ヒトラー)総統に結びつけられている」と豪語し、新聞、ラジオなどの報道手段を統制
して国民をナチスの政策と戦争に動員した。

▽ローザンヌ スイス南西部のレマン湖北岸に位置する観光地。市内には観光名勝が多く、
特に1175年に創建された大聖堂は、スイスで最も美しいゴシック建築として知られる。世
界の著名人の別荘地としても知られる。

▽カサブランカ会談 1943年1月、イギリスのチャーチル首相とアメリカのルーズベルト
大統領が連合国側の戦略協議のため行った会談。同年6月にイタリアのシチリア島に上陸
し、翌年、フランスに上陸するという作戦で合意した。フランス問題では、ライバル関係
にあるフランスのジロー・アフリカ軍司令官とドゴール自由フランス軍指揮官も参加。両
者の協調を図ると同時に、連合国との共同作戦を協議した。会談後の共同新聞発表で、ル
ーズベルトは日本、ドイツ、イタリア3国に初めて無条件降伏を勧告した。
272卵の名無しさん:02/01/14 23:29 ID:PGJ8ptsS
>>267
やはり鶴原は沢井の別働隊であったか!!!
273沢井だ文句あるか:02/01/15 01:22 ID:YosJSazk
いい加減荒らすのヤメタラ。
3連休何してたの?
274病院薬剤師:02/01/15 05:26 ID:DpQLkIt8
不気味としか言えませんね
275シャネル@20世紀特派員:02/01/15 07:12 ID:CuByuH3k

皆殺しの天使(29)  ベルリンの証言「彼女を静かにしておきなさい」

ベルリンで会ったハンス=ボド・フォン・ディンクラージは1944年のクリスマスの夜
をよく覚えている。食事のとき、おじさんが当時の英国首相、ウインストン・チャーチル
のことを話していたからだ。

「マドリードで会うことになっていたが、ついに来なかったと言っていた。おじさんは英
語とフランス語がペラペラで、優雅でかっこいい男だった。士官学校を出て中尉だったは
ずだが制服姿を見たことはなかった。帝国治安総局で働いていたのかもしれない」

「おじさん」とはシャネル最後の愛人、ハンス・フォン・ディンクラージのことだ。ディ
ンクラージの父親と自分の祖父が兄弟なのだという。1929年4月生まれのハンス=ボ
ドは自由ベルリン放送のCM部長で定年退職し、現在は同放送局の交響楽団の名誉役員を
務めている。

「あの夕食会には祖母は同席しなかった。ユダヤ人だったからだ。父は母親がユダヤ人と
いうことで軍人や官吏にはなれず、計理士をしていた」

ドイツ国内の電話帳から探し出したハンス=ボドは当初、インタビューを拒否して、ドイ
ツ国内にナチス関係者であることを公にしたくない社会風土が残っていることをうかがわ
せた。最終的にインタビューを承諾したのは外国の報道機関が相手だという気安さからだ
ろうか。約束のホテルに現れたハンス=ボドは、父親と「おじさん」との間で交わされた
約二十通の書簡やシャネルに関する雑誌記事も持参していた。

ディンクラージは1896年、ハノーバーの貴族の家に生まれた。ユダヤ系の女性と結婚
し、離婚したという。「父はおじさんがシャネルの愛人だったことは知っていたと思う。
でも、家族の前で話したことはなかった。私がそれを知ったのは最近になって、マスコミ
が報道しはじめたからだ」

《敗戦と逃亡》 書簡にはローザンヌとマヨルカ(マジョルカ)島の消印が残っていた。デ
ィンクラージはドイツ敗戦と同時に中立国スイスのローザンヌに逃れ、そこでシャネルと
ともに暮らした。マヨルカ島に移ったのがいつなのかは不明だが、1952年にはミシェ
ル・デオンがローザンヌでディンクラージに会っている。そして53年の書簡の消印はマ
ヨルカ島になっているので、52年から53年の間にシャネルと別れて、この島に行った
とみていいようだ。ナチスに共感していたスペインのフランコ総統とアルゼンチンのペロ
ン大統領は戦後、旧ナチス関係者を多数、受け入れていた。

さすがに書簡のコピーは取らせてくれなかったが、内容については「シャネルに言及した
ものは一通もない。父がおじさんに昔のコネを利用して就職口を見つけてくれるように頼
んだり、おじさんからマヨルカ島に遊びに来いと誘いがあったりといったところだ」と説
明した。
276シャネル@20世紀特派員:02/01/15 07:15 ID:CuByuH3k
「おばが一度、マヨルカ島に行って、帰ってきたとき、シャネルと彼の話をドラマにした
ら、面白いと思うと言っていたが、当時は関心がなかった」

ハンス=ボドがCM部長時代に米国に出張したとき、オランダ人の老医師が「ハンスさん
の関係者ではないか」と懐かしげに話しかけてきたことがあったという。「おじさんはパ
リの社交界で有名だったようで」と苦笑する。

ハンス=ボドは高校生で敗戦を迎え、自宅を英軍に接収された。一家は「五時間で家を出
なければならなかった」ため、両親はフランクフルトに行った。彼だけがベルリン(西)に
残り、大学には行かずにアルバイトをしながら放送学校を卒業して就職した。

「生きていくのがやっとだった。戦後のドイツ人はみんなそうだった。元ナチスのおじさ
んのことなど考えている暇はなかった」という。

父親は1960年代後半に当時の西ドイツ南部のバイエルン州でディンクラージと再会する。
ディンクラージがミュンヘン近くのベルヒト・ガーデンで亡くなったのは76年だった。
ザルツブルクで火葬にし、生まれ故郷のハノーバーの墓地に埋葬した。死亡証明書には
「マヨルカ在住。独身」となっていた。「晩年はテオドール・モムの娘と暮らしていた。
愛人だったかもしれない」とハンス=ボドはいう。

テオドール・モムとは、ベルリンでシャネルがナチ親衛隊幹部のシェーレンベルクに会っ
たときに同席していたモム大尉である。彼はシャルル=ルーがシャネルの伝記を執筆して
いたころ、娘に付き添われてパリのシャルル=ルーの自宅を訪ねたことがある。

「われわれを許してくれるでしょうか」とモムは言った。「もちろん。もう戦争は終わり
ました」とシャルル=ルーが言うと、何度もうなずいたという。

《尋問と釈放》 「シャネル ザ・ファッション」を書いたシャルル=ルーがシャネルの
友人たちから非難された理由は、シャネルが隠していた生地や愛人のバルサンやカペルか
らの経済的支援を明らかにしたことだけではなかった。なによりも大きかったのは、この
戦中のベルリン行きを、仮定法を使用したとはいえ明記した点だ。

シャネルにドイツ人の愛人がいたことは周知の事実だったが、戦時下に敵国の首都で情報
担当の幹部と会ったことはシャネルに「対独協力者」のレッテルをはりかねないからだ。

シャネルは自由解放のとき、フランス国内軍(FFI)の尋問を受け、一時間で釈放されて
いる。「シャネルは一度もディンクラージと結婚しようとは思わなかったはずだ。彼女の
頭には仕事しかなかった」とシャルル=ルーは証言する。そして一時間で釈放されたこと
については「チャーチルの介入があったのだろう。シャネルは国外追放されたのではなく、
自らの意思でスイスに行った」と推測する。
277シャネル@20世紀特派員:02/01/15 07:17 ID:CuByuH3k

シャルル=ルーによるとチャーチルはその時、こう言ったそうだ。

「彼女は大胆かもしれないが、国益に反する行動をしたことは一度もない。彼女の恋人は
ドイツ人だったが、彼らはリッツの部屋に閉じこもっていた。彼女は彼に情報も与えなか
ったし、彼との愛を吹聴もしなかった。だから彼女を静かにしておきなさい」

シャネルがベルリンで会ったシェーレンベルクはニュルンベルク国際軍事法廷で、禁固6
年の判決を受けた。判決中、最も軽い刑だった。肝臓がんを病んでおり、出所した翌年の
52年3月に死去。葬儀の費用はシャネルが支払った。

ベルリン駐在の英人ジャーナリスト、シモン・スレブルニーは最近、シェーレンベルクの
息子に会った。その時、息子は「父はシャネルと非常に親しい関係にあった」と述べたと
いう。シェーレンベルクもディンクラージに劣らず美青年だった。

豆事典

▽マヨルカ(マジョルカ)島 地中海西部にあるスペインの島。近世初頭以来、地中海貿易
の中心地として栄え、起伏に富んだ地形の美しさと温暖な気候で避寒地としても知られる。

▽フワン・ドミンゴ・ペロン(1895−1974年) アルゼンチンの軍人、政治家。ナチスをま
ねた統一将校団(GOU)を率いて1943年にクーデターに成功。映画俳優のエバ夫人の大衆
的人気にも支えられ、46年大統領に当選した。以後は側近で政権を固め、反対勢力を抑圧、
独裁色を強めていった。一時、失脚していたが、73年大統領に返り咲き、9カ月後に病死。

▽フランス国内軍(FFI) ナチス占領下のパリでレジスタンスを組織するなど、1944年
8月25日のパリ解放に大きな役割を果たした。解放前の18日にFFIの軍事指導者タンギ
ー大佐が動員令を出し、ドイツ軍との間で市街戦が始まると、レジスタンスによって19日
にパリ警視庁が、20日にはパリ市庁が解放された。その後もFFIはバリケードを築いて
市街戦を指揮し、25日ドゴール将軍をパリに迎えた。

▽ニュルンベルク国際軍事法廷 1945年11月20日、第2次大戦時のナチス・ドイツの戦争
責任を追及するため、ドイツ南部の古都ニュルンベルクで始まった国際軍事裁判。米・英
・仏・ソ連が裁判官、首席検事をそれぞれ1人ずつ任命して行われた。ナチス指導者24人
が平和に対する罪などで起訴され、翌46年10月の判決で空軍総司令官ゲーリング、外相リ
ッベントロップら12被告が絞首刑を言い渡された。「勝者が常に裁判官なのだ」と最後ま
で反論していたゲーリングは刑の執行前夜、服毒自殺した。
278鶴原 ◆6ZE9uvAk :02/01/15 19:14 ID:YosJSazk
朝から何してんの?
279婿殿:02/01/15 22:11 ID:iuds2wXG
世間の皆様、こんな荒れスレで申し訳有りません。
一族を代表してお詫申し上げます。
280シャネル@20世紀特派員:02/01/16 00:14 ID:647pz4nU
皆殺しの天使(30)  消えない心の傷 苦い経験が「内なる敵」生んだ

歴史家のミシェル・ヴィノックは、フランスにとり第一次大戦が300万を超える死傷者
を出した「物理的衝撃」だったのに対し、第二次大戦は「精神的衝撃」だったと指摘する。

第二次大戦のフランス将兵の死者は8万4千人、民間の死者は8万人。負傷者は20万人、
捕虜150万人。第一次大戦と比べ死傷者の数がはるかに少ないのはさっさと降伏してし
まったためだが、それだけにその精神的衝撃は深く、現在も消すことのできない心の傷が
残っている。

また第一次大戦が「勝利の幻想」をもたらしたのに対し、第二次大戦は4年間のドイツに
よる占領、ビシー政府樹立という「歴史から抹殺すべき思い出」(粛清裁判におけるアン
ドレ・モルネ検事総長)を経た「人工的勝利」だった。

シャネルにとっても第一次大戦と第二次大戦は、相反する結果をもたらした。第一次大戦
では戦場に行った男性に代わって登場した働く女性の出現やそれに伴う女性の解放が彼女
のデザイナーとしての職業的大成功と女性としての経済的自立を可能にした。

しかし、第二次大戦がもたらしたものはスイスへの事実上の亡命生活だった。シャネルの
最後の愛人でナチスのスパイともいわれたディンクラージについて、晩年のシャネルを知
る友人のクロード・ドレイは「彼の母親は英国人だったとシャネルはよく話していた。対
独協力(コラボ)の意識などまったくなかった」と証言する。

《亡命者の悲哀》 シャネルは彼に英国人のボーイ・カペルやウエストミンスター公の面
影を見たのだろうか。シャネルにかぎらず、占領下のフランスでドイツ兵士と交際するフ
ランス女性が多かったことは、八万人の私生児が誕生したことでも分かる。占領軍が長期
間、同じ都市に駐留することで、金や出世のためではなく、単に友情や愛情からドイツ人
と交際するフランス人がいても不思議ではない。

「愛には戦争など関係ないからである。このような関係は《解放》時に罰せられることに
なった」と、ビシー政府とコラボを厳しく断罪した歴史家、ジャン・ドフラーヌも同情的
に述べている。

しかし、「ドイツの勝利を願う。それなくしては、ボルシェビズムが将来いたるところで
根をおろすことになる」ともっともらしい口実を挙げて、結局は国家を裏切ることになる
ラベルのように、政治家はもとより知識階級の中にも対独協力に心を奪われた者は多い。

ドゴールは「フランスを支える人々のほぼ全員が義務を放棄した」と嘆き、レジスタンス
の闘士だったフランスソワーズ・ジルーも「フランス人はバター一キロのために国を裏切
った」と悲しんだほどである。

シャネルの伝記を書いたポール・モランはビシー政府の外交官だったが、国外追放された
理由には、ファシストだったドリュ・ラ・ロシェルの主宰する文学誌「NRF」に寄稿し
ていたことも含まれていた。ドリュは戦後、「自分は裏切り者だ」と自殺している。
281シャネル@20世紀特派員:02/01/16 00:17 ID:647pz4nU
ジャーナリストのブラジャックは自首して裁判の結果、銃殺され、俳優のサッシャ・ギト
リや女優のアルレッティも戦中のドイツ人との派手な交際により戦後、「コラボ」のらく
印を押された。

モランがスイスでシャネルと再会したとき、二人は同じ亡命者の悲哀を味わっていたわけ
だ。シャネルが心を開いて自分の孤独を語ったのも納得がいく。一方、父親がコラボだっ
たミシェル・デオンは戦後、長い間そのために苦しんだ。一九二〇年代のシャネルの隆盛
ぶりを日記に記したモーリス・サックスはユダヤ人だったが戦争中、通信員に志願してド
イツで死んでいる。

シャネルの素晴らしい写真を撮ったマックス・ジャコブはユダヤ人であるがためにドイツ
軍に逮捕され収容所で殺された。シャルル=ルーは、シャネルがこの時、自分の恋に夢中
で何もしなかったと非難する。

モイジ国際関係研究所副所長は「あの時代のフランス人で、ビシー政府に反対し、本当に
レジスタンスをしたフランス人はごく少数だ。一方、本当に対独協力をした者もごく少数
だ。フランス人のうち、自分の態度が他人に比べてよかったとか悪かったといえる者はい
ないはずだ」という。

占領、コラボ、そして「人工的勝利」という苦い経験は戦後のフランスに「内なる敵」を
生んだ。特に冷戦が終わり、当面の敵が消滅した現在、この現象は顕著だ。ビシー政府の
要職にあり、ジスカールデスタン政権下で閣僚も務めたモーリス・パポンが近く「反人道
罪」で裁かれる。ビシー政府の警察長官で、やはり「反人道罪」で告訴されたブスケ(九
三年暗殺)とミッテラン前大統領との交際も激しい批判を呼んだ。

レジスタンスの実在の人物を描いた映画「リュシー・オブラック」(監督クロード・ベリ)
もこの春、フランス国内での封切りと同時に論議を呼んだ。オブラック夫妻はレジスタン
スの英雄ではなく裏切り者だとする史家や証言が出現する一方で、夫妻らも証拠や証言を
集めて反論するなどレジスタンスに関してもまだ不明な部分が多い。

《国民的合意》 さらに、ナチが没収した六万一千点の美術品の一部が戦後、所有者に返
されることなくルーブル美術館などに所蔵されていたことが問題になり、約二千点が一般
公開されるなどフランスでは「戦後はまだ終わっていない」と思わせる出来事が目につく。

しかし一方で、第二次大戦後のフランスはドイツとの和解の歴史でもあった。ドゴール、
ポンピドー、ジスカールデスタン、ミッテラン、そしてシラクまで第五共和政の歴代大統
領は例外なく対独関係を外交の最優先事項にしている。

冷戦終了まではソ連という共通の敵があったことにもよるが、「仏独の良好な関係なくし
てフランスの未来も欧州の未来もない」(モイジ)との認識は保革を超えた国民的合意にな
っているといってもいい。
282シャネル@20世紀特派員:02/01/16 08:20 ID:dFiTlfUZ
1983年からシャネル社のデザイナーとなり、シャネルの後継者の地位にあるカール・
ラガフェールドも、偶然の一致ながらドイツ人である。シャネルとは対照的に恵まれた少
年時代を送ったが、朝六時から働き、「簡素でぜいたく、落ち着いているが悦楽的で繊細
で完ぺき。そういうモードが目標」という点ではシャネルと共通するものがある。

シャネルがスイスで隠とん生活を送っていた一九四七年、「シャネルの五番」の販売、製
造権を持つヴェルテメール兄弟との長年の係争事件が解決し、彼女は世界の香水の売り上
げの二%と損害賠償三十五万ドルを手にする。そして一九五四年、すでに七十一歳になっ
ていたシャネルはパリで復活を果たすことになる。(パリ支局長)

■豆事典

▽ピエール・ラベル(1883−1945年) フランスの政治家。首相だった1935年、イタリアの
エチオピア侵略に対する国際連盟の制裁を拒否し親伊政策をとった。41年、ビシー政府の
副総理となり、42年からは首相として極端な親ナチス政策をとった。戦後、反逆罪で銃殺
された。

▽ドリュ・ラ・ロシェル(1893−1945年) フランスの作家。第1次大戦から復員後、シュ
ールレアリスムに傾倒し、大戦後の荒廃した社会を描いた小説「空っぽのスーツケース」
(1924年)を発表した。その後、ファシズム政党のフランス人民党に入党。第2次大戦中は
雑誌「NRF」の編集長としてドイツに協力し、解放後、自殺した。

▽アルレッティ(1898−1992年) フランスの映画女優。軍需工場などで働いた後、1920年
に女優として舞台デビュー。「北ホテル」(38年)、「天井桟敷の人々」(45年)などの映画に
主演し、世界中を魅了したが、戦後はドイツ人将校との恋愛で「対独協力者」のレッテル
を張られ、55年まで活動を制限された。 

▽マックス・ジャコブ(1876−1944) フランスの詩人、小説家。生活苦のためさまざまな
職業につきながら、アポリネール、ピカソなどと前衛的な芸術運動に従事する。1915年、
カトリックに改宗し修道院の門衛として生活した。

▽パポン裁判 1942年から44年にかけてフランス南東部ジロンド県のユダヤ人約1600人が
パリ郊外の強制収容所に送られた。当時、県の官房長で、戦後、パリ警視庁警視総監を経
て予算大臣となったモーリス・パポンの関与が81年、明らかにされ、パポンは「反人道罪」
で告発された。

▽ブスケ暗殺事件 ビシー政府の警察長官で、数千人のユダヤ人を強制収容所に送り込ん
だフランスの実業家ブスケが93年、パリの自宅で暗殺された事件。ブスケは49年に5年間
公民権停止の判決を受けたが、レジスタンスに協力したとして処分は見送られていた。

▽カール・ラガフェールド(1938年− ) ハンブルク生まれ。第2次大戦中もパリからオ
ートクチュールを取り寄せていた母親の影響でデッサンを始め、14歳でパリに留学。21歳
で繊維会社が企画したデザインコンクールに優勝した。18世紀絵画のコレクションでも知
られる。
283卵の名無しさん:02/01/16 17:02 ID:QLtZqWW2
あげてみた
284卵の名無しさん:02/01/16 19:05 ID:XeNh3PyY
>>283
   |
   |★★荒らしは放置が一番キライ!★★
   |
   |●重複スレには誘導リンクを貼って放置!
   | ウザイと思ったらそのまま放置!
   |
   |▲放置された荒らしは煽りや自作自演であなたのレスを誘います!
   | ノセられてレスしたらその時点であなたの負け!
   |
   |■反撃は荒らしの滋養にして栄養であり最も喜ぶことです
   | アラシにエサを与えないで下さい
   |
   |☆枯死するまで孤独に暴れさせておいて
   | ゴミが溜まったら削除が一番です
   |
   |     。
.  Λ Λ  /
  (,,゚Д゚)⊃ ジュウヨウ!
〜/U /
. U U  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄.
285シャネル@20世紀特派員:02/01/16 23:59 ID:XtgayTnW
皆殺しの天使 (31)  戦後の復活 アメリカがまっ先に評価した

1954年2月、シャネルは15年ぶりにパリ・カンボン通りの店でコレクションを発表
した。71歳だった。何が彼女を駆り立てたのだろう。

■混乱を経て シャネルが引退していた戦中と戦争直後の混乱期はオートクチュール(あ
つらえ服)を着る余裕のない時代だった。そして、一九四四年以降はシャネル自身がパリ
を離れ、スイスで隠とん生活を余儀なくされていたという事情もあった。

時代が変わったことがシャネル復活の条件を整えていたといえる。しかしモードの世界は
時代に敏感で移ろいやすく、その敏感さがカムバックを困難にすることもある。仲間のデ
ザイナーたちを「皆殺し」にしてきたシャネルにはその困難さもよく分かっていたはずだ。

シャネルが再起をはかろうとしていた時期に、パリのモード界に君臨していたのは「ニュ
ー・ルック」ともてはやされたクリスチャン・ディオールだった。シャネルの晩年の友人
であり、心理学者で作家でもあるクロード・ドレイは、シャネルが復帰の決意を固めた最
大理由はこのディオールの存在だったと見る。

「シャネルは自分が一掃したコルセットやグピエール(ウエスト・ニッパーの一種)に女性
を閉じ込めたディオールに我慢できなかったのだと思う」

第一回コレクションは「シャネルの時代は終わった」「流行遅れ」とフランスのマスコミ
からは酷評された。シャネルとともにカンボン通りに復帰したマノン・リギュエールはコ
レクションの翌日、シャネルがカンカンになってこう言ったのを覚えている。

「マノン、今にみんなにもわかるときがくるわ」シャネルは正しかった。当時、世界的に
影響があった米週刊誌「ライフ」がコレクションの直後の3月15日号で「シャネル復帰」
を写真入りで大々的に報道したのだ。

「ライフ」は「世界で最も有名な香水の名の背後に隠されたガブリエル・シャネルは戦前、
すでにデザイナーとして最も有名だった」と戦後の読者にまずシャネルを紹介した。そし
て、シャネルの「ヤング・ルック」が「着心地が良く、簡素でエレガントである」と強調
し、「小心な個人顧客のお気には召さないかもしれないが大衆が影響を受けるのは明白だ」
と書いている。

二回目のコレクションでシャネルは完全に復帰を果たす。オートクチュールの発表には多
額の資金が必要だった。シャルル=ルーによると「五番」の販売権や製造権で長年、争っ
たヴェルテメールが「あなたには才能がある」と言ってシャネルを資金的に援助した。

フランスではエレーヌ・ラザレフが創刊した新しい女性週刊誌「エル」がシャネルを推奨
した。「エル」が掲げた戦後の新しい女性像は「活発でエレガント、精神的にも経済的に
も自立した女性」だった。これはまさにシャネル・モードの目指す女性像でもある。
286卵の名無しさん:02/01/17 12:41 ID:mBYc3NL5
さげてみた
287卵の名無しさん:02/01/17 13:23 ID:mBYc3NL5
新規採用のコンクールするそうですが、某MRくんはいつもの如く、デタラメ報告するそうです。
伝票チェックも無いし、末端未公開販社で報告するので、何でもOKってか。
288シャネル@20世紀特派員:02/01/17 15:40 ID:rCC0g4VV
エレーヌは夫のピエールとともに亡命先の米国から戻ってきたばかりだった。ピエールは
60−70年代にかけて大衆紙「フランス・ソワール」の全盛期を築いた新聞人だ。「エ
レーヌは米国にいたため、ユダヤ人だったけれど、仏国内のコラボ問題には無関心という
逆説的なところがあった。それに彼女は本物のジャーナリストだったから新しい物、良い
物を見分けるセンスがあった」とドレイは指摘する。

米国の参戦で連合国の勝利に終わった第二次大戦は戦後の欧州に米国的価値観をいっそう
普及させることになった。1916年にシャネルを初めて認めたのも米国のモード雑誌な
ら、1954年にシャネルの復帰を真っ先に評価したのも米国の週刊誌と米国的精神風土
を持つフランスの女性ジャーナリストだった。このことは、二十世紀が欧州の没落と米国
の台頭の世紀であったことを考えると暗示的ですらある。

シャネルはよく、「父親はアメリカに行った」と語っていたが、こうした虚構の物語によ
って無意識のうちに米国への賛辞と感謝を表明したかったのかもしれない。復活を果たし
たシャネルは1971年1月に亡くなるまで、戦前を上回る成功を収め続けた。その成功
は戦後、国境の壁を超えて発達したマスコミの影響に負うところも大きい。

シャネルは自ら生み出したモードがコピーされることを恐れなかった。その意味で大量生
産時代の到来を早くから予感していたのだが、その大量生産時代と切り離すことのできな
い二十世紀のもう一つの特長であるマスコミの影響力と宣伝の重要性についても直感的に
察知していた。それは例えばモデルの使い方にもうかがうことができる。

■歩く広告塔 シャネルの店ではかつて亡命ロシア貴族が働いていたが、戦後、再開した
店ではモデルに上流階級の令嬢たち約20人を採用した。その一人オディル・ビルザーは
「シャネルのモデルだったころの私の名前はプリンセス・クロイ。旧姓はド・バイユル」
と誇らしげに答える。シャネルの店に初めて行った日、シャネル自身が首からぶらさげて
いたハサミで彼女の髪をばっさりと切った。以来、そのヘア・スタイルを堅持していると
いうビルザーは当時をこう振り返る。

「仕事は非常にきつかった。シャネルはモデルに着せたまま、何時間も仮縫いをやり、コ
レクションの時は顧客からは見えない店の階段の七段目に座って、張り巡らした鏡を通し
てモデルの動きを見た。良くない服は廃棄処分にした。モデルがちょっとでもへまをした
り、太ったりすると着るドレスの数を減らされた。でも娘のように私たちをかわいがり、
専用の衣装係を一人ひとりにつけ、欲しいものは何でも与えた。食事もいつも一緒だった」

彼女たちは昼も夜も私生活でもシャネルを着た。戦後も階級社会が残存し、その影響が強
いフランスでは、彼女たちはまさに歩く広告塔だったわけだ。次にシャネルの宣伝を担っ
たのが映画女優たちだ。

ジャンヌ・モローやロミー・シュナイダー、カトリーヌ・ドヌーブらはスクリーンと私生
活を通して宣伝に一役買った。「ヴィスコンティが初めてロミー・シュナイダーを連れて
きたとき、彼女はまったくあか抜けなかった。それがシャネルの助言でみるみる洗練され、
パリジェンヌになった」とドレイはいう。
289卵の名無しさん:02/01/17 18:20 ID:V7llLrNT
東和の株価が急落で、株価では国産GEのトップになったね。
290シャネル@20世紀特派員:02/01/17 19:05 ID:t4zStojT
ジャクリーン・ケネディも自分の意思とは無関係にシャネルの宣伝を務めることになる。
1963年11月22日、ケネディ大統領はテキサス州ダラスで銃弾を受け、暗殺された。
そのとき一緒に車に乗っていた大統領夫人の姿もテレビ画面に映し出され、血しぶきをあ
びた彼女のピンクのシャネル・スーツが世界中の人々の心に強く焼き付けられたからだ。

■豆事典

▽「ライフ」 週刊誌「タイム」を創刊したヘンリー・ルースが写真時代の到来を見越し
て1936年11月に創刊した。編集長はナチスに追われてアメリカに渡ったクルト・コルフ。
「真実の報道」を基本姿勢にロバート・キャパなど優れたフォト・ジャーナリストを世に
出したが、次第に広告収入をテレビに奪われ、72年12月29日号を最後に廃刊。

▽エレーヌ・ラザレフ(1909−88年) 父親はユダヤ系の事業家でロシア革命を逃れてパリ
に亡命した。第2次大戦後、女性向け週刊誌「エル」を創刊。モード、文化、料理などの
記事を盛り込んだ現在の女性誌の先駆けとなった。

▽ジャンヌ・モロー(1928− ) フランス女優。1948年に映画デビューし、「死刑台のエ
レベーター」(57年)「恋人たち」(58年)に出演。官能と知性あふれた演技で人気を博した。60
年、「雨のしのびあい」でカンヌ映画祭主演女優賞を受賞。

▽ロミー・シュナイダー(1938−82年) オーストリアの女優。58年に「恋ひとすじに」で
共演したアラン・ドロンと婚約したが、5年後に解消。2度の結婚で1男1女をもうけた
が、81年に長男を失ったショックから翌年、薬物過剰服用で死去。出演作に「ルードウィ
ヒ 神々の黄昏」(72年)「サン・スーシの女」(82年)など。

▽カトリーヌ・ドヌーブ(1943− ) フランス女優。68年、アメリカに招かれてジャック
・レモンと共演した「幸せはパリで」を機に、「ニューズウィーク」「ライフ」などの国
際的な雑誌の表紙を飾るようになり、「世界最高の美女」とうたわれた時期もある。出演
作に「シェルブールの雨傘」(63年)「終電車」(80年)など。

▽ルキノ・ヴィスコンティ(1906−76年) イタリアの映画監督。30歳のときパリに出てシ
ャネルの仲介で映画監督など著名な文化人と交際した。イタリアに戻ってから「郵便配達
は2度ベルを鳴らす」(42年)を映画化。第2次大戦ではレジスタンスの闘士を別荘にかく
まったとして銃殺刑を宣告され、脱出して終戦まで潜伏生活を続けた。63年、「山猫」で
カンヌ映画祭大賞受賞。
291卵の名無しさん:02/01/17 19:23 ID:nSFQhaTn
国内最強のGE企業です
292鶴原 ◆6ZE9uvAk :02/01/18 01:18 ID:fJK6yCkH
がんばれ大将
293影の声:02/01/18 01:21 ID:ztlP8Mvx
どうもこの鶴原ってのは沢井関係者くさい・・
294卵の名無しさん:02/01/18 06:53 ID:G9RbSq/W
最低や Oo..
295シャネル@20世紀特派員:02/01/18 07:12 ID:48xzFINs
皆殺しの天使 (32)孤独な死 自分のためにドレスをつくる

霧の深い日曜日だった。クロード・ドレイはいつものようにホテル・リッツでシャネルと
ともに昼食をとり、午後はパリ市内のオートーユの競馬場に行った。

「シャネルは寒がっていた。運転手付きのキャデラックで出かけた私たちが現代美術館の
前を通ったとき、彼女はここでダリが舞踏会をやったと懐かしそうに言った」

競馬は最後までシャネルの楽しみの一つだった。名騎手イブ・サンマルタンがシャネルの
持ち馬に乗ったこともある。夕方、リッツの玄関で別れるとき、シャネルは「明日はお昼
を一緒にできないわ。仕事があるから」とドレイに言った。シャネルの部屋係からドレイ
のもとに電話があったのはその二時間後だった。シャネルは夕食を部屋でとり、それから
寝る前の注射を打ち、部屋係のセシルにこう言った。「こんなふうにして人は死ぬのよ」
部屋にはドレイが届けた白いチューリップがあった。

1971年1月10日夜、ガブリエル・シャネルは死んだ。87歳だった。米紙ニューヨ
ーク・タイムズは「二十世紀最大のデザイナーの一人」と一面でその死去を報じた。今回
はフランスの報道機関も彼女にやさしかった。ルモンド紙は死亡記事の中で、彼女がディ
アギレフやコクトーを支援したことを強調した。

《明日も働く》 各紙の報道によると、13日のマドレーヌ寺院での葬儀には、パリのす
べての有名人やサンローランらデザイナー仲間、そして従業員3千5百人のうちカンボン
通りで働く250人が出席し、モデルたちが棺近くの前列を占めた。

死の前日の土曜日、シャネルは夜10時まで働いた。26日からのコレクションの準備の
ためだ。マノン・リギュエルは金曜日にシャネルが「明日も働く」と言ったときのことを
いまもおぼえている。アトリエの総責任者が驚いて叫んだ。「とんでもない。この1カ月
間、土曜日に3回、日曜日に2回、出勤しています。これ以上の許可はおりません」

フランスでは労働時間の延長は厳しく規制されている。違反すると雇用主は罰金や店の閉
鎖などの処分を受ける。マノンはそれでもこっそり土曜日に働いた。シャネルはため息を
つきながら「みんな働きたくないの? 恥ずかしいことだわ。働くのはあなたたちのため
なのよ」と言った。

マノンはだから、シャネルが安息日の日曜日に死んだことに納得している。そういえばシ
ャネルが生まれたのも日曜日だった。

マノンは毎朝、リッツに出来上がった服を届け、シャネルがそれを白い絹のパジャマ姿で
点検した。マノンが店に戻るとみんなが「マドモアゼルのご機嫌は良かった?」と聞く。
十時ごろ出勤してくるシャネルに備えるためだ。シャネルが店に着くとすぐ分かった。「五
番」の香りが強くしたからだ。シャネルが完ぺき主義者だったことはだれもが指摘する。
出入りの靴商はいつも届けた商品に満足してもらえず神経症に陥ったほどだ。
296シャネル@20世紀特派員:02/01/18 07:16 ID:48xzFINs
カンボン通りの店は建物四棟を占拠し、シャネルはそのうちの一棟の三階を私室にしてい
た。コロマンデルのびょうぶや中国の置物、ダリの絵、幸福をもたらす「麦の穂」などが
飾られ、ジャーナリストや顧客はここに迎えられた。店はモード、アクセサリー、香水、
宝石の四部門を擁する大企業に成長していた。シャネルが死んだとき、その莫大な遺産の
相続が話題になったものだ。

しかし、戦中に引っ越したリッツのカンボン通り側の部屋は食堂、寝室、バスルームの簡
素なもので壁は白、装飾らしいものは何もなく、寝室に置かれたびょうぶには友人が旅行
先から送った絵はがきがピンで留めてあった。

ベッドのそばの机にはウエストミンスター公の贈り物の七宝の箱があった。シャネルは寝
るとき、その中に「私の武器」と言ってハサミをしまっていた。

《時間がない》 シャネルと親しかった人たちは「孤独な晩年だった」と口をそろえる。
ディミトリ大公もウエストミンスター公もミジアも亡くなった。ドレイは学生時代の五八
年、シャネルの店でスカーフを選んでいて偶然、シャネルに会ったのが友人になるきっか
けだった。

「本をたくさん抱えている私を見て、本を読む時間があっていいわねと言った。私が本を
差し出すと、私には時間がないの、でも明日、お昼を食べにいらっしゃいと誘ってくれた」

シャネルが死ぬまで二人の友情は続いた。ドレイの父親は医学部の教授でフランス学士院
の会員である。彼女のいかにも育ちがよく、おっとりしたところがシャネルの気に入った
のだろうか。何の利害関係もない彼女にシャネルは心を開いたのかもしれない。ドレイが
結婚し、子供が二人生まれてからもシャネルとの友情は続いた。

「シャネルはいつも少女時代を内部に残していた。自分のためにドレスを作った。だれも
嫁入り支度を調えてくれなかったので、自分で目のくらむような素晴らしい花嫁衣装を作
ったのだ。シャネルはいつも男性の中に自分を捨てた父親を求めていた。そしていつも最
後は死別や離別で終わり、父親の時と同じ幻滅を味わった」

ミシェル・デオンはシャネルの伝記を準備していたころ、毎朝、シャネルに電話をかけた。
二度だけシャネルの方から電話があり、そのうちの一度はクリスマス・イブだった。デオ
ンは女友達とデートがあり、その女友達のためにシャネルはイブ用のドレスを貸してくれ
た。外出しようとしたときシャネルから電話がかかり夕食に誘われた。

リッツのレストランはあいにく予約客で満員。怒ったシャネルは「クリスマスは家族で祝
うもの。友人とドンチャン騒ぎをすべきでない」といって自分の部屋に簡単な食事を運ば
せた。「彼女は多分、私が女友達とデートの約束があるのを忘れていたと思う」とデオン
は苦笑しながらこの日を振り返る。シャネルはデオンに書かせようとした自分の伝記の原
稿に、いつも満足しなかった。それは結局、自分のうそを出版したくなかったからだとデ
オンは思っている。
297シャネル@20世紀特派員:02/01/18 08:54 ID:9/NiWZ+H
「彼女が話したことにはうそがあり、それを書いた私の原稿からは、どうしても本当の自
分の姿が見えてこない。彼女は文学が分かったからうそに基づく作品が感動的でないこと
も知っていた。シャネルの原稿は焼却するつもりです」

ジャン・コクトーは「私はいつも真実を語るうそつきである」と言った。シャネルほど、
この言葉にぴったりの人物はいないかもしれない。

■豆事典

▽オートーユの競馬場  1873年、パリ16区の大公園「ブローニュの森」に建設された由
緒ある競馬場。主に障害レースが開催され、6月のパリ大障害レースや11月のグランプリ
レースなどが有名だ。公園内にはオートーユのほかに、凱旋(がいせん)門賞レースが行わ
れるロンシャン競馬場もある。

▽マドレーヌ寺院  パリ市内のセーヌ川右岸にあるギリシャ風の教会。1764年、ルイ15
世の病気全快を機に着工されたが、建築家が他界するなどの理由から工事は何度も中断し
た。また、用途も立法院、株式取引所、裁判所と時代とともに変わった。ナポレオンは軍
団の栄誉をたたえる殿堂にすることを検討したが、1814年、ルイ18世がカトリック聖堂に
することを決定、1842年にようやく完成した。1837年に開通したフランス最初の鉄道の駅
舎として利用しようという案も一時は検討された。

▽コロマンデル  インド南部、ベンガル湾に臨む海岸地域。9−13世紀には海洋王国チ
ョラが栄えた。

▽フランス学士院 アカデミー・フランセーズ、文芸アカデミー、科学アカデミー、美術
アカデミー、道徳政治アカデミーの5部門で構成される。それぞれ独自の活動を行ってい
るが、なかでも有名なのがアカデミー・フランセーズで、終身会員制で会員は「不滅の人」
と呼ばれている。定員は40人で、会員が死亡したときに、新会員が選ばれる。パリのセー
ヌ川左岸にある現在の建物は17世紀にマザラン枢機卿の遺言と莫大な基金によって開校し
た貴族などの子弟のための学校が発端となっている。フランス革命の後は、さまざまな施
設として使われていたが、1806年にナポレオンがフランス学士院を現在の地に移した。
298卵の名無しさん:02/01/19 10:32 ID:orV8IWsq
東証2部あげ
299シャネル@20世紀特派員:02/01/19 13:31 ID:eUuZsxQZ
皆殺しの天使 (33)  ローザンヌに眠る あそこなら静かに休める

フランスの作家で政治家でもあったアンドレ・マルローは「外国で有名なフランス人はド
ゴール、シャネル、ピカソだ」と語ったといわれる。ピカソはもちろんスペイン人なのだ
が、フランス人はフランスで才能が開花し、世界に認知された人間はフランス人だと思っ
ている。マルローのこの多少、自嘲(じちょう)気味の言葉は、世界に通用するフランス人、
と言い換えてもよさそうだ。

《時代先取り》 その点でもシャネルは時代を先取りしたコスモポリタンだったといえよ
う。「二十世紀の特徴は人々が生まれた土地で死ななくなったことだ」と哲学者のグリュ
ックスマンは定義するが、シャネルの墓はフランスではなく、スイスのローザンヌにある。

墓地にはシャネルが好きだった白色のパンジーが咲き乱れていた。管理人によると、訪問
者が植えていくのだという。シャネルの墓の隣にはクーベルタン男爵の墓がある。マルロ
ーは彼の名も加えるべきだったかもしれない。

シャネルの姉ジュリアの孫のガブリエル・ラブリューニによると、シャネルは「あそこな
ら静かに休める」と、レマン湖のほとりのこの町に埋葬されることを希望したという。

ラブリューニは妹とともにシャネルの正統相続人になっている。シャネルの遺産に関して
は、リッツの給仕係が相続権を主張した事件などもあって、彼女はマスコミを避けて暮ら
していた。しかし、「もう昔のことだから」とインタビューに応じてくれた。そして、開
口一番、「シャネルが家族を遠ざけていたというのは間違いです。大叔母は仕事と家族を
別にしていたかっただけ。名付け親だったこともあって、私のことは特にかわいがってく
れた」と言った。

ジュリアが死んだとき、六歳だった彼女の父親はシャネルとカペルの世話で英国の寄宿学
校に送られ、成人してからは現地のシャネルの店を任せられた。

第二次大戦の終戦直後、シャネルは英語が達者なラブリューニを連れて、米国に四カ月、
滞在したこともある。香水の販売権などの交渉をするためだった。「昼は厳しい交渉を行
い、夜はみんなで和気あいあいと夕食をした」と彼女は当時を振り返る。

「シャネルの遺産は基金としてスイスで保管され、私たちは毎月、そこからお給料のよう
にお金をもらっています。一度にたくさん、お金が入ると良くないと大叔母は考えたので
しょう。またこの基金は内証で芸術家などを支援しているようです。でも詳しいことは知
りません」

シャネルの弁護士のルネ・ド・シャンブランは基金の存在は認めたが、六六年から臨終ま
で務めたもう一人の弁護士のロベール・バダンテールは「職業上の秘密を漏(も)らすつも
りはない」と述べ、遺言や基金に関しては口を閉ざした。
300卵の名無しさん:02/01/19 14:46 ID:5iMrs02N
300!
301卵の名無しさん:02/01/19 16:45 ID:8sI3oU7C
ココの荒らしは脳を病んでる。
会社と同じやな!
302シャネル@20世紀特派員:02/01/19 23:45 ID:eUuZsxQZ
バダンテールは、インタビューを申し込んだとき、「カメラを忘れずに持っていらっしゃ
い。良い被写体があるから」とわざわざ言い添えた。ミッテラン政権発足時の法相で、死
刑廃止法案を起草し、憲法評議会議長も務めた。

私はかつて、「内政不干渉」を名目にボスニア・ヘルツェゴビナなどの難民援助に及び腰
だった各国の態度を批判し、「干渉の権利」を主張するフランスの立場について彼にイン
タビューしたことがある。赤十字さえもがナチスのユダヤ人迫害を見過ごした第二次大戦
への反省から出発した「干渉の権利」について、ユダヤ系のバダンテールは法的見解も交
えて強く主張した。

その時はいかにも憲法の番人らしい厳しい雰囲気だったが、今回は別人のように柔和な表
情で弁護士事務所に迎えてくれた。

「良い被写体」は事務机の上の薄紫色のガラス製のネコだった。ある裁判で勝ったとき、
シャネルが「十八世紀のシャムネコよ」と贈ってくれたものだ。「法務省でも憲法評議会
でも机の上に置いた私のマスコット。娘に遺贈するつもり」と紹介した。

バダンテールは二週間に一度、シャネルの店の上の個室で昼食を共にした。「シャネルの
話は描写も分析も正確で、時には猛烈に批判的だった。それを威厳あふれる調子で語った。
一九二〇年代の話になると、その時代が一人の人物であるかのように話した。あなたはま
るでドゴールみたいに話しますねと冗談を言ったことがある」

「彼女は私が注意深く話を聞くのに満足していた。モードについても信念があった。服は
人間の体に着せるもので体を隠すものではない。また、体の関節は変えられないのだから、
醜いひざは見せてはいけないと言って、ミニスカートには反対していた」

《才能見抜く》 晩年の友人クロード・ドレイは「シャネルはピグマリオンだ」と指摘す
る。ドレイに作家になるよう勧めたほか、多くの芸術家を援助したからだ。シャルル=ル
ーもシャネルに触発されてモード記者から作家になった。バダンテールはシャネルの弁護
士になったときにはまだ無名の若い弁護士だった。ド・シャンブランの場合は事務所開き
の日に米国で修業を積んだとのうわさを聞いてやってきた最初の顧客だった。

シャネルには良い生地を見抜くように、人の才能も見抜けたのかもしれない。遺産の基金
によって今も多くの若者がそれとは知らずにシャネルの世話になっているようだ。

たくさんの人が「シャネルは痛烈だったが魅力的で大好きだった」と証言する。外交官の
娘だが社会党の闘士で、ミッテラン時代の内相、故ガストン・ドフェールの夫人でもある
シャルル=ルーは「シャネルは保守主義者で反動的」と非難する。それでも「シャネルは
好きですか」との質問には一瞬、涙ぐみ、「もちろん」と答えた。

「エレーヌ・ラザレフがアップにした私のヘアスタイルが流行遅れだから髪を切れと言っ
たとき、シャネルはカンカンに怒った。そのヘアスタイルはあなたのもの。だれが何と言
っても変えてはだめと」
303シャネル@20世紀特派員:02/01/19 23:46 ID:eUuZsxQZ
シャネルが死んだとき、衣装戸棚にはスーツが二着しか残っていなかった。お針子のマノ
ンはこう証言する。白地とベージュの地に紺の縁取りをしたシャネル・スーツだ。

戦前のパリ社交界で、ある夜、「シャネルのドレス」を着ていた女性が十七人いたが、だ
れも本物を着ていなかった。そんな話をシャネル自身がポール・モランに楽しそうに語っ
ているが、自分は本物のシャネル・スーツを何度も縫い直させて着た。

シャネルは発表会の前には夜もほとんど眠らず、食事も取らずに準備をした。そうやって
彼女が確立したのは「モードではなくスタイル(生き方)だった」とフランソワーズ・ジル
ーは追悼記事の中で書いている。

シャネルは生涯、独身だったが、実は二十世紀という時代と結婚したのかもしれない。そ
して、時代もこの類まれな女性を良き理解者として愛した。

■豆事典

▽コスモポリタン 自国に定住することなく、世界をまたにかける人。

▽ピエール・ド・クーベルタン(1863−1937年) 国際オリンピック競技会の創始者。1892
年、スポーツを通じて世界平和に貢献しようと、古代ギリシャのオリンピア競技復活の構
想をソルボンヌ大学で発表。その後、世界各国のスポーツ団体や関係者にオリンピア競技
復興の書状を送り、意見を求めた。また、米、英、独、スイスを歴訪して趣旨を説いて回
り、96年に第1回オリンピック大会の開催にこぎつけた。

▽ピレネー山脈 ビスケー湾岸から地中海にかけて連なるフランス・スペイン国境の山
脈。長さ約434キロ。

▽ロベール・バダンテール(1928年− ) フランスの政治家、弁護士。1971年に社会党入
党。74年からパリ大学教授を務め、ミッテラン政権で法相となる。89年から90年にかけて
ソ連の大統領制導入や東欧諸国の民主化で、法律的相談を引き受けた国際法の専門家とし
ても知られる。

▽ピグマリオン ギリシャ神話のキプロス島の王。ぞうげでできた女像に恋したため、女
神アフロディテがそれに生命を与えて妻にさせたという。

▽ガストン・ドフェール(1910−86年) フランスの政治家。弁護士の出身で第2次大戦中
はレジスタンスに参加した。1946年から社会党の国民議会議員を務め、53年にマルセイユ
市長。その後、81年内相、83年国土開発相に就任した。
304シャネル:02/01/20 00:16 ID:zU2utdoj

現代の“皆殺しの天使”

http://www.fcg-r.co.jp/safety/kura/kura0190.htm
http://www.fcg-r.co.jp/safety/kura/kura0192.htm

シャネルの創始者であるガブリエル・ボンヌール・シャネル、いわゆるココ・シャネル
は「皆殺しの天使」と呼ばれていたそうだ(20世紀特派員2・産経新聞「20世紀特
派員」取材班・第一章皆殺しの天使(山口昌子)・扶桑社文庫より)。

その理由は、コルセットでギュウギュウに固められ、やたら飾り物がついた帽子を
かぶっていた当時のフランス貴婦人の服装を、シャネルスーツに代表されるような
機能的服装にしたから。それで旧態以前の服飾デザイナーはシャネルに“皆殺し”
にされたというわけだ。

この本はシャネルを通じて、当時のフランス社会が描写されている。その中に、18
97年に起こった、パリ・ジャングージョン通り慈善バザー火災事故の話も載っている。

映画をやっていた仮設テントから出火し、焼死者145名、うち女性142名。貴婦人
たちは、コルセットで前にかがむこともできない、また長いスカートで逃げられず、
帽子や衣服の飾り物にも着火したのが原因と言われている。このように当時のフラ
ンスにはシャネルが活躍できる素地が十分にできつつあったのだ。

日本でも同様の事故が発生している。先日つぶれた東急百貨店日本橋店、当時の
白木屋で火災(1932年)、和服の裾が乱れるのを気にした女性が逃げ遅れ、14名
が死亡した。これを機に日本では一気に女性の洋装化が進んだとされる。

さて、女性の服装を機能面だけでとり上げることはヤボというものだが、このような
非常事態においては、服装の機能性がとても重要になってくる。
305シャネル:02/01/20 00:17 ID:zU2utdoj

100年前のコルセット話を持ち出して、現代女性の自由な服装を論じるのは、はた
してバカげているだろうか?いや、そうでもないかもしれない。例えば厚底のブーツ
やサンダルが流行していたが、万が一災害が起こったとしたら、この靴ではたぶん
逃げられないだろう。長いスカートやタイトスカートの方も見られる。夏のミュールは
裸足同然だし、安全靴を履けとまではいわないが、交通事故が起こったときに裸足
の女性もいたそうだ。破片が散らばった交通事故現場で裸足でいることがどんなに
危険か容易に想像がつく。いつ災害が起こるかわからない昨今、女性のファッション
をより機能的で美しいものにしてくれる、“皆殺しの天使”が日本にも現れてくれない
ものだろうか。

シャネルが1920年代に出した「黒」の襟無しのワンピースを『ヴォーグ』が取り上げ、
当時大量生産が開始されたフォード自動車とともに、絶賛したそうだ。「誰でも着れ
るスーツ」だと。

ココ・シャネルは、コルセットで動きがとれないのを解放し、15キロもあった帽子を
普通の耳が隠れる帽子に、氾濫していた色をシックなものにまとめるなど、女性の
服装を機能的なものにした。そう、シャネルスーツの原点は機能性である。そして
彼女のモード哲学は「よくできた服は、誰でも着られる服である」だと述べてあった。

私はここの部分を読んで大変感動してしまった。いまから80年も前の女性デザイ
ナーが、まさにファッションをバリアフリー化し、さらにはユニバーサルデザインとも
とれる哲学をもっていたことにである。

個人的な趣味が幅を利かすと思われるファッション業界で、“誰でも”というのは、
やっぱりあったのだ。プリーツ・プリーズのイッセイ・ミヤケもそうだが、一流のデザ
イナーはやはり違うもんだなと素直に感心した。

それならみんなシャネルのスーツを着ればいいじゃないかと思い、研究所の女性
に「シャネルのスーツっていくらくらいするんですか」と尋ねたところ「そうねえ、日
本では60万円くらいかしら」「えっ.....!、ちなみに持ってます?」「私は持ってない
わよ!」

ココ・シャネルとは女性デザイナーであることを数日前に知った私は、やはり愚か
者であった。いくらモード哲学がユニバーサルデザインに通じるものであっても、
この価格では“誰でも”というわけにはいかない。ユニバーサルデザインの商品
とは、やはり大衆性というのも必要だと、私は思っている。

そういう面でも、プリーツ・プリーズの方がよっぽどユニバーサルデザインファッシ
ョンに近いのではないだろうか、とため息まじりに感じている。

306卵の名無しさん:02/01/20 01:38 ID:ZUyiI6AJ
誰か削除依頼出せよ
307これでいいのだ:02/01/20 19:58 ID:VXvihhLO
はいはい
308卵の名無しさん:02/01/20 21:49 ID:I3u3gnf/
あげるぞゴルァ
309千野境子@sankei.co.jp:02/01/20 23:19 ID:rpu1DXhz
アジアを変えた夜 (1) 騒がしい年 ミノの波 新興の風 吹き荒れる

東南アジア諸国連合(ASEAN)は今年、創立三十周年を迎えた。いまでは「東アジアの
奇跡」(世界銀行)の一翼を担うほどに成長したASEANが、発足時においては世界はも
とより、域内でさえ、その先行きを疑われたほどだった過去を知る人は、もうそう多くは
ない。

この連合体の誕生に深くかかわっているのが、一九六五(昭和四十)年十月一日未明、イン
ドネシアの首都ジャカルタで起きたいわゆる九・三〇事件である。ひと言でいえば、いま
私たちの目の前に広がる東南アジアの風景は、この事件を転換点としている。

《多くのなぞ》 いわゆると形容したのは事件がいまだに多くのなぞに満ちているからで
ある。インドネシアの公式見解では、インドネシア共産党(PKI)と親共派軍人によるク
ーデター未遂事件とされているが、陸軍内部の権力闘争説から米中央情報局(CIA)、ス
カルノ、そしてスハルト関与説まで異論・反論は多く、真相はいまも二十世紀アジア史上
のミステリーなのだ。

わずか一夜のうちに、陸軍の中枢にある六人もの将軍が惨殺され、その後、全土で始まっ
た共産党大弾圧では三十万とも五十万とも言われる犠牲者を生んだ。それでいながら当時
もいまも、事件と虐殺の記憶はナチス・ドイツやスターリンのソ連、そしてカンボジアの
ポル・ポト政権時代のそれとは比較にならないほどの形しか止めず、歴史のかなたに消え
去ろうとしているかのようにもみえる。

アジアを大きく転換させたそのミステリーにもう一度、光をあててみたいと考え、米国公
文書館に眠る資料と当時の関係者を訪ねて歩いた。しかし、いまは本題に入る前に、事件
のあった一九六五年の世界を少し振り返ってみたい。そのことで、この事件の同時代性も
また浮かび上がってくるように思えるからである。

第一に特筆されるのは、暗殺されたケネディ米大統領に代わって登場したジョンソン大統
領が二月七日、北ベトナムへの北爆の開始を命令したことだろう。暗号名ローリング・サ
ンダー作戦、またの名を持続的北爆という。

米国のベトナムへの介入はいわゆるドミノ理論に基づいていた。《もしインドシナが共産
主義者の手に渡れば、タイ、ビルマ、インドネシアを共産主義者から守れるでしょうか。
マレー、オーストラリア、ニュージーランドは直接の脅威にさらされます。非共産圏の市
場と食料・原料源を奪われた日本は経済的圧力の結果、いずれ共産主義を受け入れること
になり、共産主義はアジアの労働力と天然資源を日本の工業力と結びつけるおそれがあり
ます》アイゼンハワー米大統領はチャーチル英首相にあてた一九五四年四月四日の書簡で
こう訴えている(キッシンジャー著、岡崎久彦監訳「外交」から)。

その北ベトナムを、ソ連のコスイギン首相は北爆開始前日に訪れている。さらに同首相は
中国を訪問して毛沢東主席、周恩来首相と相次いで会談する。ソ連では前年の十月、中国
のいう修正主義者フルシチョフが失脚し、イデオロギー論争はともかく、中ソの国家関係
には一時的に緩和の兆しも見られた。
310千野境子@sankei.co.jp:02/01/21 08:16 ID:UMTHjQBM

中国ではプロレタリア文化大革命という名の、毛沢東による奪権闘争が始まろうとしてい
た。後に「四人組」の一人として、毛沢東が死去するや逮捕される姚文元が十一月十日に
発表した論文「『海瑞免官』を評す」が文革の狼煙(のろし)とされている。

《対立と衝突》 東西対立、さらには東側内部の亀裂。振り返れば一九六五年の世界は騒
がしかった。六月十九日、アフリカのアルジェリアでは無血クーデターが発生、建国の父
ベンベラ大統領が失脚した。非同盟諸国の力を誇示するはずの第二回アジア・アフリカ(A
A)会議は延期、流会となった。

中国はベンベラに代わって権力を握ったブーメジェン陸軍参謀総長を議長とする革命評議
会支持を打ち出したが、ソ連はベンベラを支持。ここでも中ソ対立が顔をのぞかせた。第
二回AA会議の流産はインドネシアのスカルノ大統領にも打撃となった。

九月、インドとパキスタンが再度、衝突した。中南米では十月三日、フィデル・カストロ
とともにキューバ革命を担ったアルゼンチン生まれのチェ・ゲバラがカストロに別離の手
紙を残して、南米に向かったことが明らかになった。ゲバラはこう書く。

《私は世界のあちこちから、ささやかな力を貸してくれるように誘われている。キューバ
に対する責任のために、きみに禁じられていることが私にはできる。別れの時がきたのだ》
(柳澤英二郎ほか著「危機の国際政治史」)

余談になるが、当時私の学ぶ大学のある男子学生は「ゲバラに会いに行く」と級友たちに
宣言すると退学した。ゲバラ・ブームが日本の若者たちの間でも起きていた。二年後、ボ
リビアの山中でゲリラ戦の最中に逮捕、殺害されたゲバラの遺骨は三十年後の今年、キュ
ーバに返還された。日本は佐藤栄作首相の下、懸案の日韓国交正常化がようやく日の目を
見た。第一回会談が一九五一年に始まって以来、実に十四年がかりのことだった。

さて、インドネシアはこの年、スカルノ大統領の国連脱退宣言で明けた。一月二十日付の
ウ・タント事務総長あて書簡は言う。《マレーシアが安全保障理事会に席を占めることに
なった以上、インドネシア政府は一九六五年一月一日にさかのぼって国際連合から脱退す
ることを本七日付で決定した。…マレーシアが選出されたことは、植民地主義の第二の工
作によるものであって、理事会を愚弄するものだ。…マレーシアの成立自体が東南アジア
に混乱と不安をもたらしているのだ》

一九六三年九月に発足したマレーシア連邦の結成に、スカルノは帝国主義の陰謀を見た。
国際連盟脱退の苦い経験を踏まえ、翻意を求める日本の説得工作も奏功しなかった。

マレーシア対決政策「コンフロンタシ」を掲げるスカルノは国連に挑戦するように新興国
会議(コネフォ)構想をぶち上げ、世界銀行、国際通貨基金(IMF)からの脱退も通告する
など元気だった。だが事実は地平線に沈みゆく太陽のように、その身には落日の時が迫っ
ていたのである。
311千野境子@sankei.co.jp :02/01/22 12:56 ID:j/eajpU1

スカルノの凋落とスハルトの登場。これが九・三〇事件のもう一つの重要な側面である。
そして、この二人の周囲には、周恩来や毛沢東、リンドン・ジョンソン、川島正次郎らの
故人とデヴィ夫人をはじめいまなお活躍する人々が重要プレーヤーとして数多く登場する
ことになる。

豆事典

▽ドミノ理論 将棋倒しのように冷戦期の東南アジア諸国が次々に共産化していくことを
警戒し、米国のベトナム介入強化の根拠となった考え方。1954年の東南アジア条約機構(S
EATO)結成時に当時のダレス米国務長官は「東南アジアのすべての国々が中国、北朝
鮮、北ベトナムの後を追って共産主義陣営に陥落することを防がなければならない」と述
べている。

▽アレクセイ・コスイギン(1904−80年) スターリンによる大粛清後に台頭したソ連のテ
クノクラート的党官僚で、1964年にソ連共産党第一書記で首相だったフルシチョフが失脚
した後、首相となり、党第一書記(後に書記長)となったレオニード・ブレジネフと権力を
分担して握った。

▽姚文元(よう・ぶんげん=1931年− ) 中国の文芸評論家。1966年に開始された中国の
文化大革命で毛沢東側近の1人として勢力をふるった。しかし、毛沢東死後の76年、文革
派の4人組の1人として逮捕され懲役20年の判決を受けた。4人組の他の3人のうち、毛
沢東夫人の江青と張春橋は死刑、王洪文は無期懲役の判決だったが、江青と張春橋の死刑
判決は後に無期懲役に減刑された。

▽アジア・アフリカ会議 平和地域の拡大と東西の緊張緩和を目指し1955年4月、インド
ネシアのバンドンに日本を含むアジア15カ国、中東8カ国、アフリカ6カ国の計29カ国の
政府代表が参加して開かれた会議。前年4月に中国とインドが「チベットに関する協定」
で確認した平和5原則を発展させた平和10原則(バンドン10原則)を採択した。しかし、10
年後の第2回会議は開催国アルジェリアの政変で開けず、第1回会議で強調された反帝国
主義、反植民地主義を基調とするアジア、アフリカ諸国の連帯は薄れていった。

▽ウ・タント(1909−74年) 第3代国連事務総長。ビルマ(現ミャンマー)の駐米大使、国
連大使を経て1961年に飛行機事故で急死したハマーショルド国連事務総長の後任となる。
71年末までの在任中は冷戦構造のもとで、国連にとっては無力感を味わうことが多い時代
でもあった。
312卵の名無しさん:02/01/22 18:24 ID:G0+nRIE5
他の所
http://ton.2ch.net/test/read.cgi/hosp/1004974268/879-855n
へ出かけて、迷惑を掛けるのは止めよう
313卵の名無しさん:02/01/22 18:27 ID:G0+nRIE5
>>312
すまねぇ、リンク先のURL、間違えてしもうた
http://ton.2ch.net/test/read.cgi/hosp/1004974268/879-885n
まぁ、別に見に行くほどのことでもないがね
314卵の名無しさん:02/01/22 19:05 ID:A8b8l47H
よっぽど沢井製薬を宣伝したいのか?
315 ◆RdHcDa8Y :02/01/22 19:08 ID:Gs265zhq
 
316卵の名無しさん:02/01/22 20:19 ID:VtGmMffS
よそを荒らすくらいなら給料あげろヨ
317千野境子@sankei.co.jp:02/01/22 21:58 ID:z3B70RgL

アジアを変えた夜 (2)  ワニの穴 血ぬられた古井戸から始まった9・30事件

インドネシア総選挙がスハルト大統領の与党ゴルカルの記録的大勝に終わって間もない六
月のある日、ジャカルタ市南東部のルバン・ブアヤ(ワニの穴)へと車を走らせた。交通渋
滞が日々悪化するジャカルタでもルバン・ブアヤへの道はとびきりの混雑で有名だ。住宅
地は郊外に伸び、朝晩の通勤ラッシュを生む。加えて内外の賓客が必ず訪れる名所、タマ
ン・ミニ・インドネシア・インダー(美しいミニ・インドネシア公園)も近くにある。

さらに隣接するハリム空軍基地からは、メッカ巡礼の特別機が飛び立つ。インドネシアは
世界最大のイスラム教徒人口を抱える国でもある。 そんなルバン・ブアヤも三十年前は、
ワニの穴という恐ろしげな語感がぴったりの、へんぴなカンポン(村落)だったのだろう。

一九六五年十月一日、金曜日。まだ周囲が闇に包まれていた午前三時過ぎ、多数の兵士を
乗せた十数台のトラックやバスが次々とジャカルタへ向かった。スカルノ大統領の警護に
あたる親衛隊チャクラビラワ連隊や、中部ジャワのディポネゴロ師団第四五四大隊、東部
ジャワのブラウィジャヤ師団第五三〇大隊、そしてジャカルタ軍管区第一機甲旅団などの
面々である。

約二時間後、ハリム空軍基地に引き揚げてきたトラックの荷台には六人の将軍と別の将軍
の身代わりとなった副官一人の計七人がほとんどひん死で横たわっていた。これらの将軍
をメンバーとする将軍評議会によるクーデター計画を阻止し、スカルノ大統領を守ろうと
いう「九月三十日運動」の幕開けだった。 この七人がルバン・ブアヤの古井戸から正視
に堪えない虐殺体として発見されるのは十月三日のことだ。テレビは遺体引き揚げの一部
始終を映し出し、その凄慘な光景が事件の首謀者、ひいては背後のパルタイ・コムニスタ
・インドネシア(インドネシア共産党=PKI)に対する人々の憎しみを全国に広げていく
のに時間はかからなかった。

《観光名所》 それから三十二年。ルバン・ブアヤは全国から来訪者の絶えない観光名所
となっている。きれいに保存された古井戸の周りでは、白いシャツに真っ赤なスカート、
真っ赤なパンツに真っ赤なネクタイのかわいらしい制服の小学生たちがはしゃいでいた。
インドネシアも日本に負けず劣らず制服好きだ。赤と白は国のシンボル・カラーでもある。

少し離れた所では、これまた制服姿の中学生とおぼしき一団がしゃがみこみ、メガホンで
の解説に耳を傾けている。その傍らを深々とスカーフをまとったイスラム教徒の一団が通
り過ぎ、その間にも大型バスが続々と到着して人々を吐き出していく。

古井戸の向こうには戦闘司令部跡や記念の廟が広がる。廟の中央の高い台座には軍服姿の
長大な銅像が七体、インドネシアの国章である巨大な霊鳥ガルーダを背にして人々を見下
ろすように並ぶ。殺害された七人の像である。道を示すように手を差し出し、中央に立つ
のが、当時陸相・陸軍参謀長だったヤニ中将だ。残る六人は陸相第一補佐官パルマン少将、
陸軍第二副司令官スプラプト少将、同第三副司令官ハルヨノ少将、陸相第四補佐官パンジ
ャイタン准将、陸軍法務局長ストヨ准将、そしてテンデアン中尉である。
318千野境子@sankei.co.jp:02/01/22 21:59 ID:z3B70RgL
国軍参謀総長兼国防治安調整相ナスティオン大将の身代わりとなった副官のテンデアンが
二十代だったのを除き、いずれも四十代で、インドネシア陸軍の中核を担っていた将軍た
ちだ。

インドネシア国軍は陸・海・空・警察の四軍で構成されるが、九月三十日運動の標的とさ
れたのは陸軍の将軍たちだけだった。ここにもこの事件を解くかぎの一つがある。スカル
ノは自らを脅かす程に力を蓄えた陸軍に、残る三軍を競わせることで、国軍を支配しよう
と考えた。それでも足りず共産党も駒に使った。スカルノの威を借りて、共産党も国軍に
浸透する。陸軍の壁は厚かったが、空軍への浸透度は五〇%とも言われた。九・三〇事件
の背景にはスカルノ、陸軍、共産党、三つどもえの戦いがある。

ただ一人、命拾いしたナスティオンは独立戦争を戦い、国軍西部ジャワのシリワンギ師団
の初代旅団長だった。十七歳も若い陸軍の雄にスカルノは敵意を燃やした。スカルノはナ
スティオンの無事を知って、九月三十日運動への支持を表明せず、距離を置いたとの解説
が流布されてきた。裏返せば、スカルノはナスティオンの力を侮れないものとみていたの
である。九月三十日運動は将軍たちのクーデターからスカルノを守ろうとする将兵たちの
決起というかたちをとった。しかし、親スカルノ派将兵たちのもくろみは、彼らが標的と
した将軍たちの最重鎮である国軍の雄、ナスティオンを討ちもらしたことで崩れた。

《暗闘へ移行》 そして、その後のし烈な権力闘争はナスティオンよりもスハルトを浮上
させ、対立の軸はスカルノとスハルトの暗闘へと移行していく。ナスティオンはスハルト
大統領の下で暫定国民協議会議長を務めたが、一九八〇年には五十人請願グループの一員
として、スハルト体制批判文書にその名を連ねた。

廟の石碑に刻まれた言葉は、声なき将軍たちに代わってこう語りかける。「警戒せよ。再
びこのような事件が起こらぬように」敷地内には将軍たちの遺品、勲章や銃剣、あるいは
写真などを展示した記念館もある。彼らはほとんどが無防備、無抵抗だった。「大統領が
お呼びです」と将軍たちは告げられた。未明の訪問とはいえ、大統領親衛隊の制服を着た
兵士らの言葉に大きな疑いも抱かず従った。当時も今も大統領の命令は絶対である。

もっともヤニ将軍は、パジャマ姿のため「マンデー(水浴)をするから待ってほしい」と言
ったが、兵士の一人に「その必要はありません」と冷たくあしらわれ、すぐさま銃口が火
を噴いてくずおれたと言う。

ルバン・ブアヤには共産党のほう起の歴史を克明にたどった博物館もある。小さな人形の
模型で再現されたほう起の数々は、共産党の破壊活動がインドネシアにいかに災禍をもた
らしたかを念入りに教え込もうとする。

しかし、古井戸には興味津々でのぞきこんでいた小学生たちも、この展示館では面白くも
なさそうに、模型の前を足早に通り過ぎていくのだった。
319千野境子@sankei.co.jp:02/01/22 22:00 ID:z3B70RgL
豆事典

▽インドネシア 「インド」に、ギリシャ語の「ネーソス(島)」の複数形がついた名前で
元来は「インド諸島」の意味。赤道をはさみ南北約1900キロ、東西約5100キロの範囲の約
1万の島々から成る世界最大の島しょ国家。人口約2億。イスラム教徒が約87%を占めて
いる。1602年、オランダが現在のジャカルタに東インド会社を設立し、短い英国統治期間
を除き、1942年の日本軍占領まで植民地支配した。第2次大戦終戦直後の45年8月17日、
インドネシア国民党の指導者スカルノが独立を宣言。翌18日、大統領に就任した。

▽ゴルカル 1971年に組織されたスハルト大統領の政権与党。職能グループを意味するイ
ンドネシア語「ゴロンガン・カルヤ」の略称。公務員や官僚が支持母体の翼賛政党で、主
要な参加団体に公務員組合、全国労働者組合などがある。今年5月の総選挙では、425議
席のうち325議席を獲得、得票率は過去最高の75%を記録した。

▽インドネシア共産党(PKI) 1920年5月23日、スマウンを議長にアジア最初の共産主
義政党として結成された。いったん非合法化されるが、45年10月21日、合法政党として再
建された。48年9月8日のマディウンほう起事件の失敗で壊滅的打撃を受け衰退するが、
アイディット議長の下で党勢を再び回復。9・30事件直前には党員300万人、シンパ1500
万人とソ連、中国を除いて、世界最大の共産党に成長した。

▽ガルーダ インド神話の中の想像上の鳥。インド文明の影響を受けた東南アジア諸地域
の神話や美術などによく描かれている。一般には鋭いくちばしとつめ、大きな翼をもつ鳥
の姿で表されるが、くちばしと翼をもった人間の形をとることもある。インドネシアでは
国章、タイでは王室のシンボルになっている。
320卵の名無しさん:02/01/23 00:52 ID:11GMHT2g
こっちも荒らしてくれ

 http://ton.2ch.net/test/read.cgi/hosp/1000798205/l50
321千野境子@sankei.co.jp:02/01/23 00:58 ID:8OUIgzBl
アジアを変えた夜 (3) クーデターに理想的な都市 スカルノをさがせ…

東南アジアの歴史を大きく変えることになる1965年の9・30事件について、米中央
情報局(CIA)の報告書『失敗に帰したクーデター』(1968年)は「ジャカルタはクー
デターに理想的な都市である」と書く。

インドネシアの首都ジャカルタの中心部、ムルデカ(独立)広場にはモナスと呼ばれる独立
記念塔がそびえ、大統領宮殿(官邸)、インドネシア共和国ラジオ放送局、電信電話会社、
陸軍戦略予備軍司令部(KOSTRAD)などが広場を囲んでいる。つまり、クーデターを
挙行した場合に押さえるべき要所は、見事に一カ所に集中していた。

《静かな市内》 9・30事件から8年後の73年9月、南米チリでアジェンデ社会主義
政権を転覆させたピノチェト陸軍司令官によるクーデターをオペレーション・ジャカルタ
と呼んだのは、これに習ったのであろう。

夜明けのジャカルタでヤニ陸相をはじめとするインドネシア国軍の将軍らを拉致(らち)、
殺害した将兵たちは、クーデターの定石通り、インドネシア共和国ラジオ放送局を占拠す
ることも忘れなかった。声明は十月一日午前七時過ぎ、朝の定時ニュースの最後に発表さ
れた。

《九月三十日、木曜日、首都ジャカルタで陸軍内に軍事運動が発生した。…スカルノ大統
領の親衛隊チャクラビラワ連隊大隊長、ウントン中佐に率いられた九月三十日運動は、自
称将軍評議会のメンバーである将軍たちに対抗して立ち上がった。多数の将軍が逮捕され、
重要な通信手段、その他重要施設は同運動の支配下にある。一方、スカルノ大統領は同運
動の保護の下にあり安全である…》(米コーネル大学「現代インドネシア・プロジェクト、
71年」収録の「ウントン声明」より抜粋翻訳)

この朝のジャカルタ。市民は出勤途上、出動した兵士の多さに目を見張るが、軍事パレー
ドが行われる国軍記念日を五日に控えていたこともあり、まさかクーデターが進行中とは
思わなかった人も多い。一部で銃撃戦はあったが、市内はおおむね平静だった。

異変をいち早く察知した市民も、もちろんいる。有力紙ムルデカの主筆などを務めた著名
なジャーナリスト、ロシハン・アヌワルは著書で書いている。

《ものすごい音が聞こえた。一連の射撃音が夜のしじまを破った。私は驚いてとび起きた。
妻も目を覚ました。大通りの方を見ようと寝室のガラス窓の方へ行く。「おそらく泥棒よ。
さっき悲鳴が聞こえなかった?」妻が聞いてきた。われわれの寝室は、大通りのトゥク・
ウマル通りから一〇〇メートルほどしかない。わが家はちょうどナスティオン将軍邸の前
にある。…今、何時頃だろうか。三時前だろうか。ナスティオン邸の前で、一台のトラッ
クが動くのが見えたが、すぐ視界から消えた》(井村文化事業社『嵐の前のインドネシア』)

前回書いたように、ナスティオンは辛くも難を逃れていたから、トラックには身代わりに
なった副官テンデアンが押し込められていたであろう。
322千野境子@sankei.co.jp:02/01/23 07:24 ID:5ev16MFb

9月30日運動司令部はウントン声明に続いて、新たに「インドネシア革命評議会設置に
関する布告第一号」も電波に乗せた。布告第一号と先の声明との最大の違いは、保護下に
あるとされたスカルノについての言及が一切なくなったことである。

彼らはスカルノを必死で探していた。首謀者の一人、西カリマンタン駐屯戦略予備軍野戦
軍司令官、スパルジョ准将は早朝から、いまかいまかと大統領宮殿でスカルノの到着を待
っていた。CIA報告によれば、スパルジョの任務はクーデター司令部と大統領との間の
連絡役だった。大統領から「クーデター支持」の一言をもらえば、計画は成功に大きく近
づくと考えた。

スカルノの行方を追うことでは、ジャカルタの外交団も同じだった。電話線は至るところ
で不通になっていた。二カ月前に着任した米国のマーシャル・グリーン大使は、公邸から
ムルデカ広場に近い大使館に向かう車中で急を知った。

「午前八時ごろだったろうか。大使館に着くとスタッフらがラジオにかじりついていた。
スカルノ大統領の所在が分からない。私はマダム・デヴィ(大統領の日本人妻デヴィ・ス
カルノ)をよく知っていたので、彼女に連絡を取ろうとしたがダメだった」

現在82歳になるグリーンは米国の首都ワシントンの郊外に暮らす。長身、細みの体は三
十年前と変わらない。国際関係の蔵書が埋まった応接間で、インタビューに応じてくれた。
同大使の証言は今後も、この連載に登場する。

《放送途絶え》 日本の斎藤鎮男大使は中部ジャワを視察旅行中だった。ジャカルタ情勢
が気がかりだった斎藤は、インドネシア語の堪能な館員を同行、一時間おきに携帯ラジオ
を聞かせた。バンドンに入った一日午後、放送が途絶えたとの報告に不吉な予感が走った。

斎藤の著書『外交』(サイマル)は、異変後の行動を次のように書く。

《私は即時出発を決意し、車中の人となった。事件は悪い方に解釈したほうがよい、との
歴史の教訓によったのである。そのころには、もうバンドンのシリワンギ部隊がジャカル
タに向けて移動していたが、そのなかを日の丸を翻した車で追い越し、ジャカルタに向か
って疾走した。途中何回か兵隊に誰何(すいか)されたがそのたびに大声で、“サヤ・トワ
ンブッサール(私は日本の大使だ)”と言うと、圧倒されるように敬礼して通してくれた》

初動は後れをとったが、その後の斎藤はじめ日本大使館は「日本情報」として西側各国に
も貴重な情報源となった。その歴史的経緯もあり、日本とインドネシアは何と言っても近
い。おまけに斎藤は、日本軍政時代からインドネシアとかかわり、スカルノとは旧知の仲
だった。いまなお多数の要職を持って活躍する斎藤の話も連載の中で折に触れ、紹介する。

革命評議会は布告一号に続いて決定一号、同二号を発表する。しかし布告も決定もそれで
最後となった。九月三十日運動の粉砕に陸軍戦略予備軍司令官、スハルト少将が素早く立
ち上がったからである。クーデターは三日天下にもならぬぶざまな結末を迎える。
323千野境子@sankei.co.jp:02/01/23 07:26 ID:5ev16MFb

代わって右にインドネシア国軍、左にインドネシア共産党を置き、スカルノとスハルトと
いうインドネシアの傑出した新旧二人の人物による、まさに国運をかけた権力闘争が幕を
開けつつあった。


豆事典

▽ムルデカ(独立)広場 ジャカルタ市の中心で、オランダ植民地時代から周囲には統治機
関の建物などが並んでいた。現在は大統領官邸をはじめ、中央官庁の建物が並び、広場中
央の高さ138メートルの独立記念塔の台座内の展示室には1945年8月17日にスカルノが読
み上げた独立宣言文が収められている。独立宣言から1カ月後に行われた独立集会には、
インドネシア全土から10万人以上がこの広場につめかけた。

▽サルバドル・アジェンデ(1908―73年) チリの政治家、社会主義者。下院議員、上院議
員、上院議長を歴任し、1970年に社会党や共産党などに推されて大統領に当選、人民連合
政権を樹立した。議会を通じ社会主義国家を目指す「チリの実験」として注目された。73
年9月の軍事クーデターで、大統領府にたてこもって抵抗、死亡した。

▽アウグスト・ピノチェト(1915年― ) チリの軍人、政治家。1973年に陸軍総司令官。
同年9月のクーデターでアジェンデ政権を倒して軍事評議会議長となり、74年に大統領に
就任、軍事独裁体制をしいた。88年、信任を問う国民投票で大敗し、90年3月に任期満了
で退任した。

▽ロシハン・アヌワル(1922年― ) インドネシアのジャーナリスト、作家。日刊紙の記
者をした後、1947年に週刊誌「シアサット」を発刊。48年には日刊紙「プドマン」の発行
者兼編集長となった。

▽ウントン声明 声明は次の4点が骨子となっていた。(1)将軍評議会はCIAに支援さ
れた国家転覆運動で、最近とくに8月第1週にスカルノ大統領が重病の時から極めて活発
化した(2)スカルノ大統領の病死という彼らの望みは現実化しなかった(3)将軍評議会は
その目的達成のため、10月5日の国軍記念日に東部、中央、西部ジャワから部隊を導入、
軍事力を誇示し、直前には反革命クーデターさえ計画していた(4)ウントン中佐が9月30
日運動に乗り出したのは、この反革命の阻止のためであり、それは偉大なる成功を収めた。

324卵の名無しさん:02/01/24 06:56 ID:RTyfPlmN
>>320
荒らしを呼ぶな!
荒らしは此所が似合う。
325千野境子@sankei.co.jp :02/01/24 08:14 ID:ORKxvhYl

アジアを変えた夜 (4)  デヴィ夫人との口論  大統領の行動はすべて裏目に  

1965年9月30日の夜から10月1日にかけてインドネシアのスカルノ大統領はどこ
で何をしていたのだろうか。戦後アジアの動向を大きく変える転換点となった、その夜の
スカルノの行動を残された資料と証言によって再現しよう。

《関与の疑惑》 30日夜、スカルノはジャカルタ市内のスナヤン競技場で開かれた技術
者の全国会議に出席した。午後11時ごろ、いったん大統領宮殿(官邸)へ戻った。 当時、
スカルノは月曜から木曜までを日本人妻である第三夫人のデヴィとジャカルタ市内のヤソ
オ宮殿で過ごすのが習わしとなっていた。金曜と週末はジャカルタの南約六十キロにある
ボゴールの第二夫人、ハルティニと過ごしたが、新たに第四の女性、ハルヤティ夫人が登
場してからはハルヤティのもとで金曜日を過ごすこともあった。

大統領官邸を出たスカルノの車はムルデカ広場からさほど遠くないタムリン通りの角に立
つホテル・インドネシアに向かった。木曜日のその夜、デヴィがイラン大使夫妻の招きを
受け、ホテル・インドネシアのサパークラブで食事をしていたからだ。いまではその面影
もないが、このホテルは当時、ジャカルタ随一の社交の場だった。

次は『デヴィ・スカルノ自伝』(文芸春秋)からの引用である。

《大統領がサパークラブまで上がって来られるはずはなく、護衛の人の知らせで、私は一
人で下へ降り、大統領と同乗してヤソオ宮殿へ帰った。大統領官邸からホテルまでが車で
十分、ヤソオまでが六分か七分だから、私たちが自邸に着いたのは午前零時前だったと思
う。大統領はお味噌汁の好きなかただったし、あのころは日本人のコックもいたので、お
やすみ前にワカメと半熟の卵が入った味噌汁を差し上げた》

デヴィの自伝によれば、ぐっすり就寝したスカルノは何も知らぬまま、翌朝午前六時から
六時半にかけて護衛を伴い大統領宮殿へと向かった。彼が無線連絡で事態を知るのは、そ
の車中だった。親衛隊は警察から事件の報を早々と入手していたが、それまでスカルノに
連絡を取ることができなかったのだ。

スカルノは、大統領宮殿が所属不明の部隊に包囲されていることを知り、万一を考えて宮
殿には行かないよう要請されると、行き先をハルヤティの家へと変えた。 そして、ハル
ヤティの家に到着するやいなや、ナスティオン大将が間一髪、難を逃れたことを知る。米
中央情報局(CIA)の報告書『失敗に帰したクーデター』(一九六八年)によると、その瞬
間のスカルノは非常な驚きを示した。

《その驚きが事件そのものへの驚きか、ナスティオンが逃れたことへの驚きかは分からな
い》 同報告はこうした表現を使ってスカルノの事件への関与を疑っている。 この後、ス
カルノは自らの判断でハリム空軍基地へと向かう。緊急時の脱出用ヘリが用意されたハリ
ム空軍基地が、一番安全ではないかと考えたからだとは後になっての説明である。
326千野境子@sankei.co.jp:02/01/24 08:25 ID:bQNWgO3w

しかし先の『デヴィ・スカルノ自伝』は《このハリム基地行きは、彼の命運を制する決定
的なマイナスになった》と書く。

デヴィは今年、滞在中の東京のホテルで、インタビューに応じてくれた。私がハリム基地
行きの件を話題に上せると、まるで昨日のことのように悔しそうな表情を浮かべて言った。

「今から思えば、大統領が10月1日から起こした行動は全部、ミステークですね。まず
第一のミステークはヤソオ宮殿から真っすぐ官邸へ入らなかったこと。官邸へ行けばまだ
いろいろな将軍たちとも連絡をとれたのに、危険だからと他所へ行ってしまった」

ハリム空軍基地はクーデターを起こしたウントン陣営の出撃基地であり、将軍らの遺体が
投げ込まれた古井戸のあるルバン・ブアヤに隣接していた。

「死体がほうり込まれたなんて、大統領が知っていたらハリムになんか行かない。それこ
そ知らないから大統領は行ったんです。ところがスハルトさん(現大統領)たちはすでにそ
の情報(遺体の行方)をキャッチしていて、(そこへ行った)大統領もこの事件に関与してい
たのではないかと疑いを持たれた。私、見ていてすぐ分かりましたね。あの朝からの大統
領の行動は神に見放されたというかすべてが逆、逆でした」

《無事の連絡》 さらにデヴィは「いまはもう声を大にして言ってもよい時期だと思う。
これだけはぜひ書いてほしい。私の意見としても」と前置きして、事件への見方をこう述
べた。 「事件は共産党が起こしたのではない。軍内部の争いです。アメリカの支援があ
って(軍は)勝った。スカルノは負けた。コミュニスト(共産党)のクーデターというのは、
いまの政権のストーリーです。歴史は勝者が書きますから」

話が少し先へ行き過ぎたようだ。 スカルノの“ミステーク”は続く。空軍基地でオマー
ル・ダニ空相・空軍司令官や西カリマンタン戦略予備軍野戦軍司令官、スパルジョ准将に
会ったこともそうだ。二人とも、九月三十日運動の革命評議会に名を連ねていた。ハリム
空軍基地行きは、スカルノの身をクーデター側に置かせる形にしたのである。 事態が急
を告げる中、スカルノはデヴィに無事を知らせる。今日なら携帯電話の出番だが、手紙を
連絡係に託した。

《私は元気で“某所”にいる。昨夜、陸軍部内で事件があった。その“反乱”とかをやっ
た連中は、私を救おうとしたのだ。私に危害を加えようというんじゃないから、心配する
必要はない》(『デヴィ・スカルノ自伝』から)

その夜、スカルノにひそかに会ったデヴィは、「これからマディウン(中部ジャワ)へ行く
ところだ」と聞かされ、猛反対する。「そんなことをなさったら、連絡も指揮もとれない
し、国民の混乱と不安はつのるばかりです。どうしてもおいでになるなら私も連れていっ
てください…」「女の来るところじゃない」「足手まといとおっしゃるのですか」押し問
答すること約一時間。レイメナ第二副首相を見つけたデヴィは、すがる思いでスカルノに
再考を促すよう頼むと帰宅した。
327千野境子@sankei.co.jp :02/01/24 12:44 ID:E1Nh+7U4
■豆事典

▽スナヤン競技場 ソ連の援助で1962年、ジャカルタ市内に建設された10万人収容の大ス
タジアムで、同年8月の第4回アジア競技大会の会場となった。この大会でスカルノ大統
領が台湾とイスラエルの参加を拒否したため、インドネシアはオリンピック委員会から除
名された。スカルノ時代は8月17日の独立記念日の演説もここで行われた。

▽デヴィ・スカルノ(1940年− ) 東京・赤坂のナイトクラブのホステスをしていた1959
年、来日中のインドネシア大統領、スカルノと知り合い、62年にインドネシア国籍を取得
して第3夫人となった。日本名・根本七保子。スカルノ失脚後、パリに亡命。83年に永住
を決意してインドネシアに戻った。

▽ヤソオ宮殿 デヴィ夫人に与えられたジャカルタ市内の宮殿。自殺した弟、八曾男の名
前がつけられた。現在は軍事博物館となっている。

▽スカルノの夫人たち 大統領時代のスカルノには4人の妻、つまり大統領夫人がいた。
スカルノは流刑時代(1933−42年)に流刑先のスマトラ島で教師をしており、43年に結婚し
た第1夫人ファトマワティはその時の女生徒だった。第2夫人のハルティニとは大統領就
任後の54年に結婚。この時、国母として国民の人気も高かったファトマワティは怒って家
出したが、離婚には応じなかった。このためハルティニは第1夫人への配慮からジャカル
タの大統領官邸でなく郊外のボゴールに住むことになったという。スカルノはさらにその
後、若い第3夫人デヴィ、第4夫人ハルヤティと結婚した。
328卵の名無しさん:02/01/24 18:26 ID:8ClMDMJ2
荒しさん、頼むから他に出没しないで。
沢○のイメージ失墜の工作なら、もう十分に目的は果たしたでしょ。
口封じ目的なら、逆効果だと断言しておきます。
329卵の名無しさん:02/01/24 19:59 ID:XvmheTgz
沢井バンザーイ
330卵の名無しさん:02/01/24 20:15 ID:MEFQqd1R
>>328
これも宣伝、メディアなら何でもいいの
331卵の名無しさん:02/01/25 07:58 ID:me6wRCFr

アジアを変えた夜 (5) 運命の分かれ道  れぎぬを着せられ…殺された

インドネシアのスカルノ大統領夫人、デヴィは1965年10月1日の夜、スカルノが中
部ジャワのマディウンへ行くことに強く反対した。 マディウンはインドネシア共産党(P
KI)勢力の牙城だった。すでに1日昼には、9・30事件の背後に共産党がいるとのう
わさがジャカルタで持ち切りだったのを、デヴィは独自の情報源から知っていた。マディ
ウン行きは大統領のために絶対にならない。これはデヴィの直感であり、確信だった。

《存亡の危機》 マディウンは、人々にいまわしい記憶を蘇(よみがえ)らせもする。オラ
ンダとの独立戦争さなかの1948年9月18日、PKIなど人民民主戦線と国軍の一部
が反乱し、ジャワ・ソビエト共和国を樹立した。マディウン事件と呼ばれている。大統領
にソ連から帰国間もない共産党のムソ党首、首相にシャリフディン元共和国首相が就任し
たが、革命政府は間もなく倒され、共産党は壊滅的打撃を受けた。

それを党員300万人と非共産圏で最大の共産党に再建したのが、アイディット議長やル
クマン第1、ニョト第2副議長らだった。 マディウンはスカルノにも関係が深い。マデ
ィウン事件の掃討のため国軍が弱体化したすきを突いて、再植民地化を狙うオランダが空
てい部隊を投入、当時の首都ジョクジャカルタを占領しスカルノやハッタ副大統領らを逮
捕したのだ。

国軍の抵抗と国連安全保障理事会の釈放要求決議などの前にオランダは翌年、スカルノら
を釈放するが、事件はインドネシア共和国にとって存亡の危機であった。スカルノは19
49年8月17日の独立四周年記念演説でマディウン事件に言及している。

《わが国は、まことにくるしい災厄の試練をうけた。この毎日をおもいかえすとき、私は
胸のつぶれる思いがする。…中略。おびただしい国家の財宝がついえ、無数の国民がくる
しみ、罪なき多数の人々が生命を失ったのである》(日本インドネシア協会訳編『スカル
ノ大統領演説集』から)

結局、スカルノはマディウン行きをやめ、ジャカルタの南約60キロのボゴール宮殿に向
かう。10月22日の米国務省公電は、スカルノのこの変心を知ったアイディットが怒っ
て自分のコートを床に投げ付けたという目撃談を、情報の一つとして送っている。 アイ
ディットもハリム空軍基地にいた。同夜、彼は中部ジャワに護衛とともに飛び去る。

スハルト少将の追っ手が迫っており、共産党勢力を立て直すためだったとされるが、永遠
に姿を消すことになる。

デヴィにすれば、ボゴール行きも間違いだった。「ボゴールにいるハルティニ夫人という
のは、アイディットやニョトとすごく親しく、PKIを擁護していました。だから、左派
系の人たちはボゴールのスカルノに会いに行けるけれど、軍部の人たちは会いたいと思っ
ても行けない。私は(ボゴール滞在にも)すごく反対しました。ハルティニさんの所に大統
領が行くのが個人的に嫌とか、そんなことではなくて、連絡が取れないからです」
332千野境子@sankei.co.jp :02/01/25 08:02 ID:me6wRCFr
スカルノをめぐって張り合う女性同士の嫉妬心からではない、そう言いたげだった。実際、
彼女の反対は正しかったのである。スカルノの耳には左派の情報しか入らず、情勢判断は
ますますおかしくなった。

例えば10月3日朝、スカルノがラジオを通じて発表した声明は次のようなものだ。
 (1) 空軍が9月30日運動に関与したという非難は正しくない。
 (2) ハリム空軍基地に行ったのは自らの意思だ。
 (3) 空軍と陸軍を衝突させるな。
 (4) 国家とインドネシア革命のために国軍の全軍人は団結し私の命令に従え。
前途に不安を抱く国民が待っていた大統領の言葉とは、このような内容だったろうか?

10月3日の米国務省公電は「スカルノ演説は奇妙だ」と述べている。 スカルノは、将
軍らを襲った事態に遺憾の意を表すこともなければ、大統領親衛隊でありながら事を起こ
したウントンらの告発もせず、さらには素早く治安回復に動いたスハルトや部隊の評価も
せず、共産党の役割にも言及しなかった。スカルノは、あたかも事件が存在しなかったか
のように、自らの権力も指導力も微動だにしなかったかのように振る舞った。その認識自
体がもはや現実と大きくかけ離れていたのである。

《追悼の言葉》 10月5日、国軍記念日恒例のパレードに代えて、国葬のため将軍たち
の柩を乗せた装甲車が、ルバン・ブアヤからさほど遠くないカリバタ国軍英雄墓地へと向
かった。『デヴィ・スカルノ自伝』にはナスティオン将軍の追悼の言葉が紹介されている。

《弟たちよ−。インドネシアが独立してから20年、君たちがこの新生の国に、そしてわ
れわれの大統領に、どんなに忠誠を尽くしてきたかを、私はよく知っている。弟たちよ、
君たちはぬれぎぬを着て殺された。もし、ぬれぎぬが真実であるのなら、私も、いつでも
君たちのように殺されよう。しかし、これはぬれぎぬだ、ぬれぎぬだ!》

銃撃で負傷した足を引きずり、国葬に参列したナスティオンの言葉に人々は事件に対する
怒りと悲しみを新たにした。例えば、国軍が葬儀を反共キャンペーンの一環に利用してい
るのではないかなどと考えを巡らすことができるような状態ではなかった。葬儀の模様は
テレビやラジオで報じられ、多くの国民同様にデヴィも泣きじゃくりながら見ていたとい
う。中国は葬儀を欠席した。中国大使館はなぜか弔意の半旗すら掲げず、間もなく怒った
武装部隊の乱入を受ける。

スカルノは出席しなかった。国民と常に一体であることを意識してきたのに、肝心の瞬間
に国民と気持ちを共有しえなかった。事件についてスカルノは「革命という大洋にこの程
度のさざ波はつきもの」とさえ述べる。もし葬儀に参列し、自分の目で遺族や兵士、市民
たちの悲嘆と怒りを見ていたら、さざ波などと言い切ることができたかどうか疑問である。

葬儀の陣頭に立ったのはスハルトだった。スカルノはボゴール宮殿に10月9日まで滞在
する。その間にジャカルタでは共産党を弾劾する大集会が開かれ、共産党本部や幹部の家
が焼き打ちにあった。その動きは燎原の火のように全国に広がっていく。運命の分かれ道
である。インドネシアはスカルノからスハルトへと大きく動き出していた。
333千野境子@sankei.co.jp:02/01/25 08:03 ID:me6wRCFr

■豆事典

オランダとの独立戦争: インドネシア共和国は1945年8月17日、独立を宣言したが、旧
宗主国のオランダは認めず、ジャカルタをはじめジャワ島の主要都市を占領。これに対し
共和国側は国軍を編成してゲリラ戦を展開した。48年のマディウン事件後、オランダ軍が
内政の混乱に乗じて共和国の首都ジョクジャカルタを空襲して、スカルノ大統領らを捕ら
えたが、東南アジアの安定化を望む米国の意向もあってオランダの行動は国際世論の支持
を得られず、49年のハーグ円卓会議でインドネシアの完全独立を認めることになった。


ディパ・ヌサンタラ・アイディット(1923−65年) : インドネシア共産党の指導者。日本
軍政下の1943年、共産党に入党。48年のマディウン事件で崩壊した党を再建し、53年に党
書記長就任。スカルノ大統領支持の大衆路線を展開し、党を資本主義国最大の共産党に育
てあげた。軍部をけん制するスカルノに重用され、国民議会副議長などの要職を歴任した
が、65年の9・30事件の際、逃亡先の中部ジャワで捕まって射殺された。

ジョクジャカルタ: ジャワ島中南部の古都。1755年にマタラム・イスラム王国が分裂し
た後、ジョクジャカルタ侯国の初代王が新王国の都をこの地に定めた。1946年から49年に
かけて、独立戦争時のインドネシア共和国の首都でもある。近郊に仏教遺跡ボロブドゥー
ルがあり、インドネシアではバリ島に次ぐ観光地。

モハマド・ハッタ(1902−80年) : インドネシア共和国初代副大統領。オランダ留学から
帰国した1932年に「インドネシア民族教育協会」を結成し、独立獲得のために民衆を教育
することに重点をおいた。34年に逮捕されたが、日本軍によって救出され、以後、スカル
ノとともに政治活動の先頭に立った。45年8月17日の独立宣言にスカルノとともに署名し
て初代副大統領に就任。56年にはスカルノの容共、反議会路線に反発して副大統領職を辞
任した。

カリバタ国軍英雄墓地: ジャカルタ郊外にあり、オランダとの独立戦争の戦死者ら軍人
が葬られている。埋葬者には第2次大戦後、インドネシアにとどまり、独立戦争で死亡し
た日本人も含まれている。

334卵の名無しさん:02/01/25 23:05 ID:rYJ6Bzvc
この荒らしは間違いなく沢井のイメージをボロボロにしようという悪意のある奴の仕業
だろう。おそらく同業他社か新薬メーカーのキチガイ野郎か.
この荒らしのためにこのスレッドは見てる奴が多い。
俺の会社でも不気味がられているぞ。
335千野境子@sankei.co.jp :02/01/25 23:18 ID:YCKeGHgI
アジアを変えた夜 (6) 電光石火の行動 ナゾの大佐は病院から消えた

スカルノ大統領の九・三〇事件をめぐる言動には、事件関与説が出てくるのも無理がない
ほどに疑問符がついた。一方で、スハルト少将(現大統領)は事件に電光石火のごとく行動
を起こし、決起部隊の鎮圧に成功して国権の最高位まで駆け上がっていった。その鮮やか
すぎる行動にも、これまた疑問が消えない。

《沈着たれ》 スハルトの口伝による伝記『スハルト自伝−ドゥウィパヤナとラマダンに
語る』には、事件当夜の行動が次のように書かれる。

《一九六五年九月三十日、午後九時頃、私は妻と四歳になる私たちの息子のトミーを見舞
うため、ガトット・スブロト病院にいた。熱いスープをかぶる事故で火傷の手当てを受け
ていた。私たちは最愛の息子と数時間一緒にいた》

トミーとは三男のフトモ・マンダラ・プトラ氏。現在は世界貿易機関(WTO)への提訴問
題で揺れる国民車メーカー、ティモール・プトラ・ナショナルの経営で知られる実業家で
ある。

《夜十時頃、私はラティフ大佐がトミーの病室の前を通り過ぎるのを見た。夜更けになっ
て妻は、まだ一歳の末娘を使用人とハジ・アグス・サリム通りの家に残して来たので、私
に帰るよう言った。そこで私は妻とトミーにおやすみを言った。帰宅するやいなや、私は
すぐ眠りについた。十月一日、午前四時半頃、インドネシア・テレビのカメラマン、ハミ
ッドが立ち寄り、何カ所かで銃撃を聞いたと告げた。その時は、私はそれほど気にしなか
った。…中略。ブロト・クスマルジョが来て何人かの陸軍高級将校が拉致されたと切迫す
るニュースをもたらした。私はすぐさま野戦服に着替えた》

自伝はこの後、時々刻々と行動をつづる。午前六時、身支度を整えトヨタの小型四輪駆動
車を駆って、ムルデカ広場の陸軍戦略予備軍(KOSTRAD)司令部に向かう。事件の報
告に来たサジマン中佐には「ヤニ陸軍参謀長に代わり、私が暫定的に陸軍の指揮を執る」
と告げ、心の中で「沈着たれ」とジャワの格言をかみしめる。

午前八時半には、九月三十日運動に参加した部隊の副隊長をKOSTRADに呼び、午後
六時までに原隊に復帰するよう求める。

午前九時、一回目の参謀会議招集。首謀者ウントン中佐の背後には共産党(PKI)がいる
と説明し、クーデター粉砕の同意を取り付けた。

ウントンとスハルトの二人は長年の知己だった。スハルトが中部ジャワのソロで第一五連
隊の隊長当時、ウントンは四四四歩兵中隊を率いていた。スハルトによれば、ウントンは
マディウン事件後の再建共産党の幹部で中国帰りのアリミンの弟子だ。

昼過ぎには二回目の参謀会議を開き、早くもハリム空軍基地の奪還を検討している。大統
領が基地にいることも把握し、奪還は大統領の退去を確認してからとの余裕さえ見せる。
336千野境子@sankei.co.jp:02/01/25 23:20 ID:YCKeGHgI

スハルトの行動は、あらかじめ計算されていたかのように沈着冷静だった。陸軍幹部の中
でスハルトだけがなぜ、襲撃を免れ得たのか。そして、素早く行動を起こすことが可能だ
ったのか。なぞは尽きない。

《危うい均衡》 世界中の九・三〇事件の研究者たちが注目してきたのは、先の『自伝』
にさりげなく記されたラティフの名前である。ラティフは最初から謀議に参加していた中
心的人物である。しかしウントンら首謀者が殺害、もしくは早々と処刑されていく中で、
ラティフは逮捕の記録はあるが、その後の消息を絶っている。裁判は書面のみで姿を現さ
ず、いまなお獄中の可能性が高い。要するに存在自体がミステリーなのだ。

スハルトはラティフとも面識がある。スハルトがディポネゴロ師団の参謀長、師団長時代
の部下だったのだ。スハルトの『自伝』には、事件直前の三十日夜、ラティフを病院で「見
た」と書かれているが、実は「会った」のではないか。これが少なからぬ人が抱いている
疑問である。

スカルノの日本人妻のデヴィ夫人も、私に「二人は会ったといわれています。何を話した
かは分かりません。知りたいところです」と語った。京都大学東南アジア研究センターの
白石隆教授は、著書『スカルノとスハルト』(岩波書店)で次のような興味深い仮説を展開
している。

《彼がどのような思想傾向の持ち主か、誰と親しいか、スハルトが知らないはずがない。
誰がターゲットか、別に具体的に言わなくても、「進歩的将校」が決起しようとしている、
こうラティフが言って、暗にスハルトの支持を求め、スハルトが何も言わずただうなずく、
そういうことがおこったのではないか。…中略。ラティフはスハルトの承認が得られたと
考えたのだろう。そう考えれば、謎は氷解する。…中略。これはもちろん仮説である》

共産党は陸軍の反共攻勢を恐れ、陸軍は共産党の台頭に危機感を抱き、その一触即発の緊
張の中でスカルノが危うい均衡を保つという図式は、何かが仕掛けられ何かが起きること
を、当然のように予想させた。当時、危険を察知して、東京に避難していたインドネシア
高官もいたという。それが一九六五年のインドネシアの政治状況だった。

スハルト自身は、標的から外された理由について、スハルト評伝『ほほ笑みの将軍』の著
者O・G・ローダーに「彼らは私を重要でない将校と見なしていたから」と答えている。

一方、ジャカルタでは事件当夜、スハルトが旧知のドクン(まじない師)の助言で、家を不
在にし、助かったとの噂(うわさ)話も広く流布した。ドクンが「九月三十日夜から一日に
かけては自宅を不在にし、二つの水が合流する場所で過ごせ」と指示し、スハルトは川が
海へ流れ込む地点へ息子と夜釣りに行っていたという。
337千野境子@sankei.co.jp:02/01/25 23:21 ID:YCKeGHgI

『スカルノ大統領の特使−鄒梓模回想録』(中公新書 増田与編訳)は、この情報に基づい
ているのであろう。こう書いている。

《なおスハルト将軍は、日本軍のジャワ占領時代の第一六軍参謀部(情報担当)別班の通訳
中島正周とジャカルタ沖のスリブプラウに夜釣りに出ていて、難を逃れたという信頼すべ
き噂がある》

これについてスハルトはローダーに「私は病院に行き、帰って寝ただけだ」と一笑に付し
ている。ただし噂話には一片の真実も含まれる。スハルトのドクンを頼りにする性向が、
早くも語られているからだ。


豆事典

▽ティモール・プトラ・ナショナル フトモ・マンダラ・プトラ氏が経営する国民車メー
カー。インドネシア政府から税制上の優遇措置を与えられ、1996年9月、韓国の起亜自動
車と提携して韓国内で国民車「ティモール・プトラ」(1500cc)を製造、それを無税で輸入
する方式で国内販売を開始した。これに対し日、米、欧州連合(EU)は10月、国民車の優
遇措置は外国車の不当差別に当たるとして世界貿易機関(WTO)に提訴。インドネシア政
府は個別交渉で、提訴の取り下げを求めている。

▽陸軍戦略予備軍(KOSTRAD) 1963年、スハルト陸軍少将を初代司令官として発足。
当初は歩兵3個旅団と降下部隊で構成されていたが、66年までに砲兵部隊、空てい部隊が
加わった。65年の9・30事件後、スハルトが陸軍司令官として治安や秩序回復に乗り出す
と、KOSTRADはその中核として反共、反スカルノ作戦を執行した。

▽ウントン(1926−66年) 1965年の9月30日運動の首謀者。陸軍中佐で大統領宮殿のチャ
クラビラワ親衛隊の第1大隊長。10月1日に国営ラジオ放送局を占拠し、自ら革命評議会
議長を名乗って新政権樹立を宣言したが、10月13日、スハルトが創設した治安秩序回復作
戦本部に逮捕された。66年2月、特別軍事法廷で死刑判決を受けて処刑された。

▽ドクン 一般に占い師を指す。インドネシアでは、ジャワ島をはじめ各地で精霊の使者
として尊敬され、社会的地位は高い。病気を治すドクンや予言を行うドクンなど、それぞ
れに専門分野があり、政府の閣僚クラスになるとそれぞれが予言やお告げを行うドクンを
抱えている。スカルノ前大統領とスハルト現大統領には別々のドクンがいたが、スカルノ
の失脚は彼のドクンが位負けしたからだと説明されることもある。重要行事の日程や政府
用庁舎の建築場所の決定なども、ドクンのお告げに左右されることも少なくない。


338卵の名無しさん:02/01/26 09:24 ID:pNe1t6zR
>>334
>この荒らしは間違いなく沢井のイメージをボロボロにしようという
>悪意のある奴の仕業だろう。
>おそらく同業他社か新薬メーカーのキチガイ野郎か
よほどアコギなことをしないと、外部の者はココまではしないよ。
同業者ならオチョクル方が面白いし、ココまで暇がない。
新薬メーカは沢井をまず問題にしてない、やはり暇がない。
犯人は内部の人間の可能性が強い。
339千野境子@sankei.co.jp :02/01/26 09:37 ID:7cZkzLmB
>334、>338 はずれ
340千野境子@sankei.co.jp:02/01/26 10:54 ID:ammi/HKD
アジアを変えた夜 (7) 最初の対決 スハルトがカードを切った

クーデター鎮圧に立ち上がったスハルト少将(現大統領)とスカルノ大統領は10月2日午
後、事件後初めてジャカルタから南60キロのボゴール宮殿で対面する。宮殿にはレイメ
ナ第二副首相、プラノト少将ら大統領の側近たちも顔をそろえた。

『スハルト自伝』で描かれる二人の対面は息詰まるようである。そでをまくり上げながら
スカルノは言った。「スハルトよ。こういう出来事は、革命にはつきもののありふれたこ
とだ」ひと呼吸おいてスカルノは続ける。

「陸軍は他の国軍を疑ってはいけない。オマール・ダニ(空軍司令官)は、空軍は事件につ
いて何も知らないと私に知らせた。そこで私は彼に『陸軍も何も知らないし、事件に関係
ない』と請け合った」

何もなかったのだ、あるいは何もなかったことにして後のことは自分に任せよ−スカルノ
はそう言っているのである。

《軍の指揮権》 「しかし事実は違います、パッ(敬称)」スハルトは即座にさえぎり、多
数の共産主義青年グループがハリム空軍基地周辺で軍事訓練をしていたこと、彼らの武器
が空軍のものと類似していることを述べた。「うそです。空軍のものではありません」同
席していたオマール・ダニが口をはさんだ。しかし、スハルトが証拠として差し出した武
器は、調査の結果、空軍の目録にあるものと確認された。ダニは無言だった。

二人の対面の最大のヤマ場は、軍の指揮権をめぐって訪れる。「ハルト(スハルトのこと)、
私が陸軍を直接指揮をすることになった。日常業務にはプラノトを指名した」お前は勝手
に指揮を執るな。スカルノは暗にそう言っている。前日の一日午後八時四十五分、クーデ
ター派から奪還されたインドネシア共和国放送は、陸軍戦略予備軍(KOSTRAD)司令
部が事態を掌握し、指揮を執っているのがスハルトであることを伝えていた。

スハルトは必死で自分の感情を抑えた後、思い切って言った。「この機会にご報告します
が、私は自らのイニシアチブで一時的に陸軍の指揮権を執りました。これはヤニ将軍が不
在のとき、彼に代わって私が任命された過去の経験によるものです。加えて陸軍のリーダ
ーシップの空白を避け、国民と地方司令官に平静を呼びかけるため、私は放送でそれを発
表したのです」 スハルトはここで一枚、大きなカードを切る。

「大統領、あなたはプラノト将軍を任命しました。陸軍のリーダーシップの二重性を避け
るため、私は治安と秩序回復の責任を返上します」、「違う! そんなことは言っていな
い。ハルト、お前は治安と秩序回復の責任をそのまま果たすのだ」、「しかし、何に基づ
いて役割を果たすのでしょうか。大統領はプラノト将軍を任命されました」

スハルトは思い切り深く息を吸った。「人々は私を野心的で規律を知らない人間だと思う
かもしれません。それは非常にまずいです。そうではありませんか?パッ」周囲の重い沈
黙を破ってスカルノが言った。
341千野境子@sankei.co.jp:02/01/26 10:57 ID:ammi/HKD
「何か提案はあるか」この瞬間、スハルトは心の中で(やった!)と叫んだのではないだろ
うか。「私が考えられる唯一の方法は、私に治安と秩序回復の権限を与えたと、あなたが
国民にラジオで発表してくださることです」

《お墨付き》 二人の対面は四時間あまりに及んだ。夕刻、スハルトは「日常業務はプラ
ノト、治安と秩序の回復はスハルト」という役割分担に言及したスカルノの声明を吹き込
んだテープを手に、ボゴール宮殿を後にした。

陸軍の指揮権は大統領に返された。しかし、スハルトは治安と秩序回復という名の下に何
でもできるお墨付きを得たのである。スカルノの声明が発表された同じ日、スハルトもラ
ジオで演説を行い、従来通り治安回復をはかる任務が与えられたことを伝えた後で「神に
誓って最善を尽くす」と言った。

スカルノはスハルトのしたたかな交渉ぶりに舌を巻いていたのだろうか。それとも自分が
そんな重大な役割を与えてしまったなどとは思っていなかったのか。いまとなっては推測
の域を出ないが、私には両方とも真実のように思える。スカルノは自分の力をまだ信じて
いた。スハルトにとって二十歳も年長のスカルノの威光は、まだまだ十分にまぶしかった
はずである。

同時に私はこの二人のやり取りから、相手をじわじわと追い詰めていく、スハルトの流儀
を早くもかいま見る気がする。今日にまで続くスハルト体制の片りんがある。

《ボゴール宮殿におけるスカルノ大統領とスハルト将軍のこの最初の会談は、事件の終わ
 りではなかった。それは向こう二年にわたる長い一連の戦いの初めであった》(評伝『ほ
 ほ笑みの将軍』から)

スハルトはボゴール宮殿での閣議にも参加する。閣僚ではないが、治安情勢を説明するた
めだった。事件後初の6日の閣議には後に処刑・殺害される共産党(PKI)閣僚のルクマ
ン第一副議長、ニョト第二副議長も顔を見せていた。スカルノの打ち出したいわゆるナサ
コム体制の結果、共産党幹部の入閣が実現し、スハルトにとっては、満場が“敵”だった。

《わずか一日前には革命的英雄たちの遺体が埋葬されたにもかかわらず、閣議の雰囲気は
 悲しみや追悼からほど遠かった。私は笑いがあふれる会議にいることに居心地が悪く、
 PKIの人間が出席していることに憤慨した》(『スハルト自伝』から)

10月16日、スハルトは殺されたヤニ陸相・陸軍司令官の後任に正式に任命される。「こ
の発表はスカルノにとって、いやいやながらのものだった」と十五日(米国東部時間)の米
国務省公電は、任命発表の記者会見で、スカルノの表情を間近に見たフリーのジャーナリ
ストの言葉を紹介している。

後方には記者たちを避けるように、スカルノの第一の側近、スバンドリオ外相が不安げな
様子で立っていた。スバンドリオの逮捕は五カ月後に来る。スハルトは共産党をつぶし、
国軍の親スカルノ派を粛清し、次々と「治安と秩序回復」の任務を果たしていった。
342千野境子@sankei.co.jp:02/01/26 10:59 ID:ammi/HKD
豆事典

▽ボゴール宮殿 ボゴールはジャカルタから車で1時間ほどの高級避暑地。パンジャラン
王国の中心として栄え、オランダ植民地時代は別荘地となった。市内に広大な植物園があ
ることでも知られ、その植物園に隣接するボゴール宮殿はかつてのオランダの東インド会
社総督の別荘で、スカルノの第2夫人との逢瀬に使われた。また、スカルノ自身も大統領
失脚後、この宮殿で軟禁状態となり、失意の日々を過ごした。

▽ヨハネス・レイメナ(1905−1977年) ジャカルタ医科大学を卒業後、医師として活動す
るかたわら、小さな島々からなる出身州のマルク州で青年団を組織するなど大衆運動に従
事し、政治家としての道を歩むようになる。インドネシア独立後は保健相などを経て1959
年から66年まで副首相。専門知識と行政能力で政変を生き抜き、インドネシアのテクノク
ラートの先駆者とされている。

▽インドネシア国軍 陸、海、空軍と警察の4軍で構成。第2次大戦後のオランダとの独
立戦争の際、インドネシア共和国によって編成された軍隊で、その主体となったのは大戦
中に占領者だった日本がインドネシア人による軍事組織として作った「祖国防衛軍(ペタ)」
の将校や兵士たちだった。国軍とはもともと陸軍のことだったが、スカルノは大統領時代
に海軍大臣、陸軍大臣を設けて優遇し、陸軍勢力のけん制をはかった。

▽ナサコム体制 スカルノが1956年1月に打ち出した挙国一致体制構想。民族主義(Nas)、
宗教(A)、共産主義(Kom)を一体化した体制ということで、「ナサコム」と呼ばれた。共
産党と国軍との対立などで、必ずしもスカルノの思い通りにはいかなかったが、1964年成
立のドゥイコラ内閣にはアイディットら共産党の幹部が入閣し、ナサコム体制が一応、実
現している。
343千野境子@sankei.co.jp :02/01/26 13:13 ID:e8yurqTP
>338 お前の頭の悪さを証明しよう

>よほどアコギなことをしないと、外部の者はココまではしないよ。
>同業者ならオチョクル方が面白いし、ココまで暇がない。
>新薬メーカは沢井をまず問題にしてない、やはり暇がない。
>犯人は内部の人間の可能性が強い。

1.内部だとすれば、
a)sawai.co.jpからのアクセスなら会社側にバレる。
b)荒らしはIPを公開すると、2ちゃんで決めてる。
c)タイム・スタンプを見れば、社内からは無理だと分かるだろ。
d)社外(PC+携帯)からだと、電話代が大変だと分かるだろ。
344卵の名無しさん:02/01/26 16:57 ID:zvq82OKF
>>343
>a)〜d)sawai.co.jpからのアクセスなら会社側にバレる....
会社にバレても何も問題ないな。会社はこの荒らしで
困ること何もないし、逆にボロ隠しで喜ぶな。
(給料上げろとか、アホ所長とか書かれるよりましだな)
社内の人間で無ければ、どんなアコギなこと外部にしたんだ。
345千野境子@sankei.co.jp

アジアを変えた夜 (8) 親近感装う“暴れん坊”の策略

連載の冒頭で書いたように1965年はベトナム戦争の大きな転換点だった。再選を果た
したリンドン・ジョンソン米大統領はこの年の二月、北爆の開始を命令。駐ベトナム派遣
軍総司令官、ウェストモーランド将軍の要請による兵力増派が相次ぎ米国はベトナムへの
本格介入に突き進んでいった。

世界の目はインドシナ半島に奪われていた。はるか赤道を越えたインドネシアの首都ジャ
カルタの事情にはどうしても疎くなる。しかし、米国はインドネシアでも、この年、重要
な政策転換を行っている。契機は西イリアン紛争の調停者、エルズワース・バンカーの特
使派遣である。

《政策転換》 3月18日付ホワイトハウス覚書はこう始まる。

《インドネシアとわれわれの関係は、いまや瓦解のふちにある。スカルノはますます共産
主義者に傾斜し、伝統的な対抗勢力である国軍は、内部に問題を抱えている。この数日間、
情勢は急激に悪化した。米系ゴム会社の経営のみならず、米系石油会社の接収も切迫して
いる。こうした状況から、ラスク国務長官と私(ジョージ・ボール国務次官)は同国情勢を
明確かつ客観的に読むことが必須と感じている。ジャカルタ駐在七年のジョーンズ大使は
疲れ、悩んでいる。彼は米国のために、スカルノとの緊密な個人的関係を通じて可能なこ
とはすべて行ってきた。しかしそれはもうつきたように思われる》

情勢判断の正しさは覚書の翌々日、スカルノ大統領がすべての外国石油企業を政府の管理
下に置くと発表したことで証明される。

急きょ、ジャカルタに飛んだバンカーはスカルノと三度会談し、スカルノはここぞとばか
り米国のベトナム介入、マレーシア政策、新興アジア・アフリカ諸国への内政干渉などを
非難した。ちなみにスカルノが、「ジャカルタ−北京−プノンペン−ハノイ−平壌」反帝
枢軸の構築を宣言するのは同年八月のことだ。

関係改善は奏功しなかった。米国はスカルノが友情さえ抱いていたハワード・ジョーンズ
大使の更迭を決める。もはや両国の関係は個人的友情ではどうにもならない段階に来てい
た。米国には国益こそが、石油権益の死守こそが、最優先事項であった。さらに言えばイ
ンドネシアの共産化阻止も、大きな外交戦略の目標であったろう。

国務省副次官補(東アジア担当)のマーシャル・グリーン新大使が着任したのは、特使派遣
から四カ月後の七月末のことだ。空港からの沿道の建物や塀には「グリーン、ゴーホーム」
の文字があふれていた。しかしグリーンは、その傍らに小さく「私も一緒に連れて」とい
う落書きを見て苦笑するのだった。

今(97)年2月、ワシントン郊外にある自宅で、グリーンが語ってくれた次のようなエピ
ソードは、冷戦下の米ソをも手玉に取ろうとした暴れん坊・スカルノの横顔をほうふつと
させる。