ゾロの名門!!沢井製薬バンザ〜イ! パート4

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261卵の名無しさん:01/12/15 17:32 ID:P6m+6ow2
ポセビン大問題になりそうだな この荒らしのために
2621:01/12/15 19:35 ID:rV0PLAmU
一人芝居じゃねくて自作自演だろバカ
263卵の名無しさん:01/12/16 00:01 ID:4x8uJjCs
点けたり消したり大変だなぁ〜。。。でも、ニュースソースとしてありがたい!
264卵の名無しさん:01/12/16 00:04 ID:kCtODM7h
ケンタンあげ
265Yoshiura@無能につき馘:01/12/16 07:27 ID:+fr27CXI
恩恵も負の遺産も一身に: ココ・シャネルが生まれた一八八三年八月十九日付のフラン
スの新聞、フィガロ紙は二人の人妻の不倫事件がトップ記事だった。見出しは「二つの裁
判」。 第一の事件は、副知事と情事を重ねていた人妻を夫が告訴し、人妻は三カ月の禁
固刑を言い渡された。ところが、副知事は無罪放免となっている。理由は彼が「公務員だ
から」だった。

第二の事件は二年間、南米に出掛けた夫の留守に、「当然のことながら愛人を持った」人
妻の不倫事件である。ある日突然、帰国した夫はわが家に「自分の後任者どころか後継者」
がいるのを発見した。不倫で告訴された妻は「夫を裏切ったわけではない。死んだと思っ
たからだ」と必死に主張したが、判決はやはり二年の禁固刑だった。夫は「妻の相手も訴
えたかったが公務員だからできなかった」と悔しがった−。

 フランスは当時、「女は果樹が園芸家の所有物であるように、男の所有物だ」としたナ
ポレオン法典によって結婚制度が厳しく規制されていた。カトリックの国フランスでは中
絶も協議離婚も一九七五年まで認められなかった。裏返せば、厳しい結婚制度の裏で愛人
を持つ習慣が大いに認められていたともいえよう。

 この記事を書いたアルベール・デルプル記者は公務員重視の「裁判の不公平」を批判す
る一方で、夫の後任者のみならず後継者まで作ってしまった人妻の不用心を「ちょっと早
すぎる」と批判した。突然、帰国した夫に対しても「予測できた事態」と、その無分別を
冷笑し、「現代に適合しないこうした古い法律のもと」では「バルザックの小説のような
ことがたくさんある」と慨嘆している。

 一方、当時の高級週刊紙で「世界新聞」と副題を掲げた「リラストラッション」の一八
八三年八月二十五日号は、十九日の日曜日に地方議会選挙が実施され、共和党が千四百四
十五議席中千十二議席を獲得して勝ったことを伝えている。 共和党は一八七一年に第三
共和政の初代大統領に選出されたティエールらが育てた党だ。共和主義的ブルジョアの政
党として二月革命の実現に努め、普仏戦争の開戦に反対し、パリコミューンに圧迫されな
がら、徐々に支持を伸ばしていった。

■ 波乱の時代: 同紙はまた一八八三年一−七月のフランスの貿易収支も報告している。
それによると、輸入が約二十八億フラン、輸出が約十九億五千万フランで、前年度比では
輸入が五千八百万フラン増加し、輸出は五千万フラン減少。「あまり好ましくない状況」
と指摘している。

 参考までに十九日付フィガロ紙によると、当時のグレビェ大統領が自分のアパートを家
賃一年一万七千フランで貸していたが三年後に五千フラン値上げし、代償として借家人に
レジョン・ドヌール勲章を与えたという記事がある。現在の日本の物価で考えれば、一フ
ラン二百円前後だろうか。ちなみに約十年前の普仏戦争で、フランスがドイツに支払った
戦争賠償金は五十億フランだった。 さらに同紙を見ていくと、インドシナのトンキンで
は戦闘が続き「安南人に多大な戦死者が出たが仏軍は二人が戦死、六人が負傷と善戦」と
ある。仏遠征軍を率いるバデン大佐が苦戦している状況も伝えている。フランスは八月二
十五日にはユエ条約を締結してベトナム(安南)を保護国化した。
266Yoshiura@無能につき馘:01/12/16 07:28 ID:+fr27CXI
フランスは八三年にマダガスカル島遠征、八八年には仏領ソマリランドの建設と植民地政
策を活発化させていくが、その結果、ベトナムで中国(清)と軍事対立が起きるなど、植民
地政策遂行のために多額の軍事費と人命を投入しなければならず、クレマンソーら急進派
から攻撃されることにもなる。シャネルの生まれた日のフランスの政治、外交、経済状況
は波乱含みだったわけだ。

「馬上のサン・シモン」と呼ばれたナポレオン三世の第二帝政時代にフランスは本格的な
産業革命が展開し、鉄道網が発達した。 パリではオスマン男爵の都市計画によって狭い
曲がりくねった道路が拡充整備されている。

暴動やバリケード防止の政治的目的もあったが、凱旋(がいせん)門やコンコルド広場、シ
ャンゼリゼ大通りが出現し、パリは光にあふれ、印象派の画家を育てたことも事実である。

しかし、第二帝政時代は一八六七年のパリ万博を頂点に陰りを見せ、普仏戦争で幕を閉じ
る。パリコミューンで再び首都にバリケードが築かれ、それも壊滅。一八七一年には第三
共和政が発足し、一九四〇年のナチ・ドイツによるフランス占領まで続いていく。一八八
三年生まれのシャネルはこの第三共和政の恩恵も負の遺産も一身に背負い、その興亡を生
き抜いたことになる。

■馬との関係 リラストラッション紙の「パリ通信」欄にはチュイルリー公園で開催中の
「パリ・イースキア祭り」の記事もある。イースキア島はイタリア南部の火山島で、温泉
や海水浴場のある夏の避暑地として知られている。紀元前五世紀にギリシャ人が建設した
町なので遺跡も多い。

記事は「パリをまだ離れられないパリジャンがチュイルリー公園にイースキア祭りを見に
行けば、切符を買った入場者は失望しないはずだ」と述べ、この有料イベントの盛況ぶり
を伝えている。フランスの有名な有給休暇制度が始まり、一般国民がバカンスに出掛ける
習慣を持つようになるのは一九三六年のレオン・ブルムの人民戦線内閣時代からだが、記
事は十九世紀末にはすでにパリジャンが夏のバカンスに出掛けていたことを示している。

リラストラッション紙は題字が示す通り、イラストが売り物だ。シャネルが成人し、オペ
レッタの歌手を夢見ていたころ、同紙の服飾ページを参考にしたという。この号ではアム
ステルダムの万博や仏中部トゥールの町の火事現場や騎兵部隊の演習風景がイラストで紹
介されている。さらに「馬のプロポーション」と題する記事もあり、これには理想的な数
値を記入した馬のイラストが付いている。 シャネルの生地、ソーミュールは騎兵学校の
所在地だが、シャネルと馬はどうやら縁があるらしい。シャネルの最初の愛人エティエン
ヌ・バルサンも、彼女が生涯で唯一、愛したといわれるアーサー・カペルも、彼女にプロ
ポーズしたとされるウエストミンスター公も馬が生活の大きな部分を占めていた。
267Yoshiura@無能につき馘:01/12/16 07:29 ID:+fr27CXI

養われた規則正しい生活: 初春の柔らかな日差しの中、森の中の曲がりくねったなだら
かな坂道を上っていくと、突然、視界が開け、そこに十字架をいただいた教会の尖塔が見
えてきた。 パリから約五百キロ。最寄りのブリーブ・ガイヤード駅にはフランス自慢の
新幹線(TGV)が停車しないので、電車だと四時間かかる。さらに十五キロ東のオーバジ
ーヌ行きの列車は一日四、五本しかない。 空路ならパリからロンドンには三十分、ボス
ニア・ヘルツェゴビナのサラエボでも二時間の距離だ。仏中西部リムーザン地方のこの人
口七千人の町はサラエボよりも遠くにあるともいえる。

■シャネルの色: 町は中世がそのまま残っているような静寂に包まれていた。二軒ある
ホテルは本格的な春がやってくるまで休業だ。 先刻見えた教会は中世の修道士が建てた
僧院の付属施設だった。標高三百メートルの小高い丘にある町に入り、僧院と教会の石造
りの黒い屋根とベージュ色の壁を仰ぎ見たとき、「あっシャネルの色」と思わず声が出た。

先入観のせいだろうか。屋根と壁の色は、パリのカンボン通りにあるシャネル本店の基本
色、黒とベージュと同じ色だった。この基本色は世界中のシャネルの店で使われており、
室内装飾を勝手に変えることは契約違反となる。この黒とベージュはシャネル・モードの
基本色でもある。 それに無駄をいっさい排した典型的なロマネスク様式も、ある意味で
シャネルの原型といえないだろうか。シャネルの伝記「シャネル ザ・ファッション」の
作者、エドモンド・シャルル=ルーは、シャネルが十二歳から十八歳まで暮らしたのはこ
の僧院だった、と推定している。

シャネルの母親が一八九五年二月六日、行商人の夫の後を追って疲れ果てて結核に倒れた
のはブリーブ・ガイヤードだった。母親は逝き、五人の子供が残された。父親は最寄りの
孤児院にシャネルと長女ジュリアンを預け、そのまま姿を消した。幼い妹アントワネット
は親類に預けられた。 二人の弟たちは農家の養子になった。男の子は労働力になるから
だ。孤児だったり、親がいても育てる能力のない子供を町や市が面倒を見て、適当な農家
などに紹介し、養育費は国が持つ。そんな制度があった。弟たちはその後、父親と同様、
行商人になった。

シャネルはこの弟たちを含めた親類縁者について積極的に語ったことはない。孤児院生活
のことは口をつぐんだままだった。ただ一九四七年の冬、ポール・モランに自分の過去を
語ったとき、こう述べている。「そのときから、孤児ということばが、あたしを恐怖の氷
づけにしてしまいました。いまでも、小さな女の子たちのいる孤児院を見に行くのも、『あ
の子たちは、みなしごなのよ』ということばを聞くのも、涙なしには、できない始末です」
(「獅子座の女シャネル」)

■暖房もなく…: オーバジーヌの僧院は十二世紀、教会が本格的な改革運動に初めてさ
らされていたころ、当時の教会に愛想をつかした隠とん者、エティエンヌ・ドバジーヌが
建てたという。町の名前もこの聖人からきている。森をひらき、水を引き、神との対話だ
けで過ごしていたこの世捨て人を慕って支持者が集まり、共同体が形成された。一一四七
年には、女性が共同体に参加しているというハンディがあったにもかかわらず、修道会か
ら僧院建設の許可が出た。
268卵の名無しさん:01/12/16 08:41 ID:0Jfcs3wA
フランス革命後、マリア聖心修道会が廃虚同然だった僧院を孤児院として買い取った。当
時の書類によると一八五九年六月二十一日に二万六千フランで購入となっている。 当初
は孤児のほかに寄宿生徒もおり、一八九〇年には孤児二十六人、寄宿生徒六人の記録があ
る。有料の寄宿生徒の共同寝室が広いホールで天井には天使の絵が描かれ、暖房もされて
いたのに対し、孤児の共同寝室は屋根裏部屋で暖房もなかった。

孤児は十二−十四歳が「守護天使組」と呼ばれてニワトリやウサギの世話を担当し、十四
−十六歳の「聖ジョセフ組」は畑仕事、十六−十八歳の「聖母組」は年少者の世話のほか
牛乳やチーズ作り、裁縫などの作業を行った。 夏は午前七時、冬は午前八時起床、夕食
は夏が午後七時、冬が午後六時、就寝は午後八時三十分だった。

シャネルは一九三一年九月、米国の作家ジュナ・ベルネスのインタビューに次のように答
えている。「睡眠は七時間か八時間が必要。窓は開けたまま寝ること。早起きして仕事は
懸命に、一生懸命にやりなさい。夜更かしは禁物。耳や目、考えや神経を研ぎ澄ましてお
きなさい。夜更けすぎに面白いことなんか何もない」 シャネルは当時、社交界にも君臨
し、一九二一年に発表した香水「シャネルの五番」も大成功していた。一九三一年にはハ
リウッドを制覇し、グレタ・ガルボやマレーネ・ディートリヒらが争ってシャネルと交際
することを名誉としていたころだ。

■過去の遺物: 生活も不規則だったと思えがちだが、シャルル=ルーをはじめシャネル
をよく知る人は「彼女はアルコールもほとんど口にしなかった」と証言する。こうした規
則正しい生活態度は、孤児院時代に養われたのかもしれない。「キッスや愛撫や、教師や
ビタミン剤が、子供を殺してしまうだけではなく、不幸にし、ひよわな人間に仕立ててし
まうのだ」(「獅子座の女シャネル」)とも警告している。

授業は孤児も寄宿生も合同だったから孤児たちには余計、つらいものがあったろう。寄宿
生はその後、姿を消し、「孤児(約三十人)がトゥルソー(僧院や寄宿舎に入る者が持参する
衣類一式)の製作を修道女と裁縫室で行っている」(一九〇二年三月四日付のブリーブ市の
副市長からコレーズ県知事にあてた書簡)という状態になる。

シャネルがオーバジーヌのこの孤児院にいたことを証明する記録はいまのところ何もな
い。孤児院は一九六五年に廃止になり、現在は「生命の言葉」という宗教団体が研修など
の合宿用に使用している。

シャルル=ルーは「ありふれた不幸というものはない。あるのは、その時代のさまざまな
不幸だ」と指摘している。社会保障制度が進み、それが財政赤字を圧迫するフランスの現
代では、孤児院はもはや過去の遺物なのかもしれない。
269Yoshiura@無能につき馘:01/12/16 08:44 ID:0Jfcs3wA
あたしは いつも傲慢だった: 子供の時間はゆっくりと流れる。青春が短く感じられるの
は大人になってからだ。フランス中部の森の奥、小高い丘の上の元僧院を利用した孤児院
で、十二歳から十八歳までの六年間を過ごしたシャネルにとって、この歳月はどんなに長
かっただろう。

後の壮麗、華美なゴシック建築に比較して、十二世紀に建てられた典型的なロマネスク様
式の僧院と教会には彫像も飾りもない。その黒い屋根とベージュ色の壁。孤独な少女の目
には冷たく映ったに違いない建物に秘められた、凛(りん)とした力強さや温かさ、繊細さ
にシャネルが気が付いたのはいつごろだろう。

孤児院の生活を忘れたころに、その美しさが蘇ってきたのだろうか。そして孤児たちが着
ていた白と黒の制服。エドモンド・シャルル=ルーの「シャネル ザ・ファッション」に
は、白と黒の対照について、こんな記述がある。

「黒のスカートは、長持ちするように、そして大またで歩けるように、ボックス・プリー
ツに裁ってあった。修道女たちのベールは黒く、彼女たちの頭を締め付けている糊のよく
きいたまっ白いバンド…」 白もまた、シャネルが生涯、愛した色ではなかったか。孤独
だった少女時代について、シャネルはポール・モランにこう語っている。

「服を注文するカタログをながめては、お金を湯水のように使う夢にひたっていた。真っ
白な服、白い部屋、そして白いカーテン。白い色ばかりが夢にうかぶのは、あまりにもう
す暗い家に閉じ込められていたせいだろうか」(「獅子座の女シャネル」)

《聖女の物語》 当時の孤児院の生活をしのばせる記録がある。一九〇五年に作成された
孤児院所有の家具などの目録だ。それによると、食堂には「二個の引き出し付きの長さ四
メートルの木製のテーブル二個」「二個の引き出し付きの三メートル八十センチのテーブ
ル一個」「四メートルベンチ一個と三メートルのベンチ二個」「小さな二メートルのベン
チ一個」「スプーン二十五個とフォーク二十五個」「二十五個のコップ」など。

教室には「壁にかかった黒板」「教師用の小さな机と網藁張りのいす」「生徒用の状態の
悪い机二個とその木製のいす」「フランスと欧州の地図二枚」「宗教ものの額縁四個」な
ど。 共同寝室には「わら入りのマットレス付きの鉄製のベッド八個、各ベッドに敷布二
枚」「古いわら入りの鉄製のベッド五個」「小さな鉄製のベッド十六個」などなど。

さらに図書室には「ジャンヌ・ダルク五幕もの、ジョセフ・ド・ムーラン作」「ジャンヌ
・ダルクに関する他の本、ジョセフ・ド・ムーラン作」「気で病む男、ジョセフ・ド・ム
ーラン作」「聖エティエンヌ・ドバジーヌの生涯」など。

ジョセフ・ド・ムーランは通常の仏文学史などには名前も記載されていないマイナーな作
家だ。しかし、感受性の鋭い少女時代にシャネルはおそらく、火刑となった救国の聖女の
物語を繰り返し読んだはずだ。そして、世捨て人同然の極貧生活を送りながら、当時とし
ては珍しく男女混成の共同体を容認し、男女双方の熱い支持を得て僧院の建立に成功した
聖者の伝記も読んでいるだろう。
270Yoshiura@無能につき馘:01/12/16 10:43 ID:eW8KIuTy
第二次大戦中、シャネルと交友があった元ナチ将校、テオドール・モームは戦後、シャネ
ルの伝記を執筆中のシャルル=ルーにあてた書簡の中で、「彼女の血潮にはジャンヌ・ダ
ルクの血が流れている」と書いたことがある。あながち「ロマネスクな推量」(仏週刊誌
レクスプレス、クリストファ・アグニュス記者)とは言い切れないかもしれない。

《裁縫の日々》 シャネルら孤児が修道女の指導の下で、熱心に行ったのが裁縫だった。
孤児たちはトゥルソー(僧院や寄宿舎に入る者が持参する衣類一式)を仕上げ、それは地方
の町やパリに卸されて孤児院のわずかな収入となった。

シャネルのアトリエの主任だったマノン氏は「マドモワゼル・シャネルはいつもハサミを
首から鎖でぶらさげ、気に入らない作品はほどいたが、針を持っていたのは見たことがな
い」と証言するが、孤児院でみっちり裁縫の技術を習得したことは間違いない。

それにしても孤児院では毎日、着ていたのが白と黒の制服なら、毎日、目にしていたのも
修道女の制服だった。そして毎日、縫っていたのも他人の制服ということになる。幼い目
に映ったであろう生地ソーミュールの騎兵学校の士官たちの制服に、孤児院を出て最初に
行った町ムーランの猟騎兵部隊の制服、それにこれらの少女時代の制服群。

機能性と持久性と合理性。そして、そこから生まれてくる独特の美しさ。シャネルのモー
ドの基本が制服を通して形成されていったことがうかがえる。

《成功の秘密》 孤児院の孤独で屈辱的ともいえる生活を、シャネルは頭を上げ、誇り高
く耐えた。 「あたしは、いつも、とっても傲慢だった。頭を下げたり、ぺこぺこしたり、
卑下したり、自分の考えを押しまげたり、命令に従うのは、大きらいだった」「傲慢さは、
あたしの性格のすべての鍵ともなったかわりに、独立心となり、または非社交性ともなっ
た。それは同時に、あたしの力や、成功の秘密にもなっていったのである」(「獅子座の
女シャネル」)

孤児院はすでに廃止され、僧院の建物は現在、宗教団体の合宿場として使われている。し
かし、僧院の創始者である聖者エティエンヌ・ドバジーヌの墓はいまも残っている。墓に
は聖者の石像が横臥しているが、その顔の部分は擦り減っている。聖者の顔を愛撫(あい
ぶ)すると願い事がかなうという言い伝えがあるからだ。

シャネルもこの静謐と薄闇が支配する教会の中で、聖者の顔を何度か愛撫したはずだ。シ
ャルル=ルーの「シャネル ザ・ファッション」によると、孤児院を出てから数年後に出
会った最初の愛人、エティエンヌ・バルサンに、シャネルはこう言った。 「前にもエテ
ィエンヌという名前の保護者がいたのよ。彼も奇跡を見せてくれたわ」

シャネルにとって、孤児院があった町の名前の由来でもある聖者、エティエンヌ・ドバジ
ーヌ(オーバジーヌのエティエンヌ)こそが、最初の愛人だったとも言えよう。
271Yoshiura@無能につき馘:01/12/16 11:33 ID:zH4eJ6Ox
最初の世間だったムーラン

パリから南に約三百キロ。人口約二万七千のムーランは中世の建物が随所に残る典型的な
フランスの地方都市だ。この町の中央広場に面して「ル・グラン・カフェ」がある。

ベルエポックの典型的レストランであるパリの「マキシム」と同じように、店内は鏡が張
りめぐらされ、高い天井には草花の蔦模様のフレスコ画が描かれている。ブルボン王朝の
十八世紀に大流行し、ナポレオン三世の第二帝政時代に復活し、さらに世紀末にも蘇った
ロカイユ様式(貝、小石をセメントで固めた装飾や複雑な曲線が特徴)の典型だ。

店の奥にはスタッコと呼ばれる大理石の粉の入った化粧しっくいの付け柱(壁の一部が張
り出している柱)風の飾り露台も見える。隅におかれたピアノからはベルエポックの陽気
なシャンソンが今にも聞こえてきそうだ。 「私はかわいそうなココを見失ってしまった、
大好きな私の犬のココを…」

<人気カフェ> シャネルは孤児院を出た後、この町にやってきた。おそらくは修道会の
紹介でお針子として働きながら「カフェ・コンセール」の歌手を夢見ていた。まだ自分の
本当の才能に気が付かず、将来を探っていたころだ。

歌やショーなどのステージがあるカフェ・コンセール(演芸カフェ)こそ十九世紀の世紀末
とベルエポックの象徴だった。シャンパンなどを飲みながら風刺のきついシャンソンを聴
き、手品や軽業を楽しむ娯楽場兼社交場である。パリでは一八六〇年代から出現し、一八
八九年にはモンマルトルに「ムーラン・ルージュ」が開店して全盛期を迎える。

「ムーラン・ルージュ」の呼び物であるフレンチ・カンカンの、ちょっとエロチックで陽
気な踊りにパリっ子は熱狂した。ロートレックも「ディヴァン・ジャポネ(日本の長いす)」
とともにこのカフェを愛し、傑作を生んでいる。ここは今でも日本人をはじめ世界各国の
観光客を引き付けている。

こうした人気カフェではお針子出身の大テレザやモデル出身のイベット・ギルベールが大
スターとして人気を集め、女優たちより収入も多かったといわれる。ムーランのような田
舎町にもカフェ・コンセールは浸透し、パリ風の「ル・グラン・カフェ」は人気の中心だ
った。

<黒い学生服>  シャネルがこのカフェに出入りするようになるのはいつごろだったの
だろう。十八歳以降は修道女を目指す者以外は預かれないという孤児院の規則のため、シ
ャネルは十七歳のときに、姉のジュリア、そして親類の家にいた妹のアントワネットとと
もにムーランにあった宗教施設の寄宿舎に送られ、ここで二年間を過ごす。

 ムーランの近くの町には鉄道員を夫に持つ叔母が暮らしており、シャネル姉妹を引き取
る能力はなかったものの、バカンスには呼んでくれた。ムーランにはシャネルと同年の叔
母、アドリエンヌもいた。シャネルの伝記作者、シャルル=ルーはこうした関係でシャネ
ル姉妹はムーランに送られたと推察している。
272Yoshiura@無能につき馘:01/12/16 11:37 ID:zH4eJ6Ox
ムーランはシャネルにとって最初の世間だったとも言える。町には孤児院では見かけな
かった男子学生がいた。少年たちは黒い学生服を着て、白いワイシャツに花形結びにした
ネクタイをしていた。ネクタイは後に、シャネルによって断髪のボブヘアとともに「ガル
ソンヌ(少年)・スタイル」として大流行することになる。 一九二〇年代のことだ。

若い叔母のアドリエンヌは美しく優雅で、親類にはなじめなかったシャネルもすぐ親し
くなった。二人は二十歳になると寄宿舎を出て修道会の世話で、町の中心街、オルロージ
ュ通りの洋裁店で働き出した。

ムーランの町のはずれ、アリエ川の向こうには猟騎兵連隊の宿舎があり、町には周辺の城
館の貴族たちの通う競馬場があった。シーズンの呼び物のレースには駐屯場の士官たちも
出場した。

またしても馬である。シャネルと馬はよほど、縁があり相性が良いのだろう。しかもこの
時代、ここに駐屯していた猟騎兵第十連隊は、騎兵の中でも「えりぬきの部隊」として知
られていた。名前には貴族を表す「ド」が付き、「聖ルイ王が騎士たちに十字軍遠征を呼
びかけた時代に後戻りしたような感じ」(「シャネル ザ・ファッション」)の若者たちだ
った。 彼らは「武装を解くと、すぐに散歩に繰り出した。大げさにふくらませた真っ赤
な乗馬ズボンをはき、軍帽はあまり目立たないようにかぶっていた」(同)という。

<魅力を発散> こうした散歩着や、三列の金ボタンやそでに飾り紐を縫い付けた長外と
う、騎兵の特徴の空色の上着などはパリの最高級店に注文したが、飾りひもの繕いや金ボ
タンのつけ替えには町の店にやってきた。

シーズンにはこうした店は大繁盛だった。シャネルとアドリエンヌは臨時にこうした店に
アルバイトにやってきた。士官たちが二人の美しい娘に気がつき、「ル・グラン・カフェ」
など流行のカフェに誘うようになるのは時間の問題だったはずだ。当時の写真を見ると、
アドリエンヌはふっくらとした官能美だが、シャネルの方はやせて大きな目と口、鼻ばか
りが目立っている。

しかし、後のシャネルの友人で、ロートレックやルノワール、ボナールのモデルも務めた
パリ社交界の女王、ミジア・セール(彼女については後述する)は一九一七年に女優のセシ
ル・ソレルの家の夕食会で初めてシャネルと会ったときの印象をこう述べた。

「食卓で、私の注意はたちまち非常に濃い褐色の髪の、一人の若い女性に引かれた。彼女
は一言も発言しなかったが、抵抗しがたい魅力を発散していた」(オーサー・ゴールド、
ロバート・フィザル著「ミジア」)

上流階級の士官たちもミジアと同様の感想を持ったのだろう。彼らはたちまち二人をデー
トに誘い出す。待ち合わせ場所はもちろん「ル・グラン・カフェ」や「ラ・ロトンド」な
どの人気カフェ・コンセールだった。
273Yoshiura@無能につき馘:01/12/16 13:33 ID:uxw+k1EY
「ココ!」と叫ぶ熱狂的な士官

フランス中部の町、ムーランにあるレストラン「ル・グラン・カフェ」のオーナー、モー
リス・ポシュロンによると、この店が建設されたのは一八九九年だった。 費用は二十五
万フラン。 現在の金額に換算すると、四百五十万フラン(約一億円)前後だという。シャ
ネルが通った開店早々の時期には、ベルエポックを代表する豪華カフェだった。

一九〇三年、二十歳を迎えたシャネルはこうしたカフェで士官たちに囲まれながら、いつ
か田舎町からもお針子仕事からも解放され、パリで暮らす日を夢見ていたのだろうか。
フランス文明の輝かしい一ページ、ベルエポックの定義はさまざまだ。大修館の新スタン
ダード仏和辞典では「二十世紀初頭の古き良き時代」となっている。

「普仏戦争と第一次大戦という二つの戦争の間(一八七一−一九一四年)の悲劇的時代。フ
ランスはドイツとの戦争という固定観念と脅威に捕らわれていた時代」と定義するのは哲
学者アンドレ・グリュックスマンだ。 「だからこそ人々は消費社会に快楽を求め、今の
人生をより良く生き、謳歌しようとした。水平線のかなたには戦争が感じられ、いずれ危
険(戦争)という運命を避けられないと感じていた。危険と香水、快楽、女性、オペラ、オ
ペレッタで代表されるベルエポックは隣り合わせのものだ」

一九〇五年、フランスの兵役制度は二年になり、兵役免除も廃止された。同年三月には日
露戦争でフランスの同盟国ロシアが敗北するのを見たドイツは、モロッコのタンジールに
上陸してモロッコにおけるドイツの権益を宣言した。単独でドイツと戦争に入ることを恐
れたフランスは国際会議(アルヘシラス会議)に訴え、米英の支持を得てやっとモロッコで
のフランス、スペインの優位を確認することに成功したが、その後もモロッコでは反仏民
衆ほう起が起きるなど不穏な動きは続いた。

一九〇六年からは労働争議が頻発し、労働総同盟(CGT)はアミアン憲章を採択して社会
革命を目標にしたストライキなどあらゆる手段に訴えることを確認した。こうした中で誕
生した急進派のクレマンソー内閣は短命に終わり、一九〇九年にはかつてのゼネストの提
唱者、アリスティード・ブリアンの内閣が発足する。一方で国家主義も台頭し、戦争の脅
威は日に日に増大していった。

歴史学者ピエール・ノラもベルエポックを第一次大戦前までとして次のように定義する。
「ある種のクラスにとってのある種の平等、国全体にとってはある種の均衡と一定の財政
的繁栄、ある種の生活の楽しみ、ある種の平和、ある種の安定。つまりすべてが暫定的だ
った。一方でアナキズム、社会主義があり、非常に惨めな生活を送っていた労働者がいた
からだ」

そして「当時の人々はナポレオン三世時代を《第二帝政時代の祭典》と呼び、古き良き時
代として懐かしんだ。ベルエポックはそれぞれの人間の記憶の中に存在する」と総括する。

 一方、歴史学者のミシェル・ヴィノックは「ベルエポックは神話だ」と指摘し「幸福な
時代は決して存在しないが、幸福な思い出というのは存在するからだ」という。
274Yoshiura@無能につき馘:01/12/16 16:42 ID:9Yn+0UBp
ムーランのシャネルにとって、この時代はベルエポックだったのだろうか。彼女はカフェ
・コンセール(演芸カフェ)の人気歌手を夢見ていた。孤児院出身の若い女性にとって、手
っ取り早い出世の道に思えたからではなかったか。

ムーランで最も繁盛していたカフェ・コンセールの一つ「ラ・ロトンド」の主人は彼女の
採用を決める。彼女の歌手としての才能より、集客能力を重視した結果かもしれない。彼
女にはその時点ですでに士官のファンがたくさんいた。

一九〇五年ごろ、ムーランのカフェ・コンセールには「ポーズ嬢」と呼ばれる女性たちがいた。
「スターの後ろに半円状に座った十人ほどの端役。彼女たちはサロンのような雰
囲気をかもしだして店の格が高いように見せ、スターが舞台から消えると、彼女たちが立
ち上がって代わる代わるシャンソンを歌い始める」(シャルル=ルー「シャネル ザ・フ
ァッション」) シャネルも「ポーズ嬢」としてデビューする。持ち歌は二つしかなかっ
た。「コ・コ・リ・コ」と「トロカデロでココを見たのはだれ?」だ。いずれもパリのカ
フェ・コンセールではやっていた歌である。

舞台にシャネルが登場すると、観衆はいっせいに鶏のコッコッという鳴き声をまねる。「そ
れが最後に、彼女のしゃがれ声で、とても雄鶏の鬨の声だとは思えないくらいおずおずと、
『コ・コ・リ・コ』が始まると、彼女を勇気づけることになるのだった」(「シャネル
ザ・ファッション」)   シャネルは後に「ココ・シャネル」と愛称で呼ばれるように
なる。彼女自身は「父親がつけてくれた愛称」と説明したが、シャルル=ルーは「トロカ
デロでココを見たのはだれ?」が起源だとみている。

「私はかわいそうなココ、私の大好きな犬ココを見失ってしまった、トロカデロで。私の
最大の後悔だ。男に裏切られるよりもずっとつらい」 歌のルフラン(繰り返し)の部分は
「ココ!ココ!」。ここで熱狂したファンたちはいっせいに「ココ!ココ!」と叫び、ア
ンコールを求めた。士官たちにとってシャネルはいつしか「ココ」になったというわけだ。

しかし、シャネルはこの程度の成功では満足しなかった。ムーランは田舎町にすぎない。
五〇キロ先には鉱泉で知られる保養地のビシーがあった。富裕階級が集まり、猟騎兵たち
も休暇を過ごしにしばしば、でかけていった。競馬場もカフェ・コンセールももっと立派
なのがある。 シャネルはここで運を試すことにした。その彼女を援助したのがシャネル
の最初の愛人といわれるエティエンヌ・バルサンだった。
275Yoshiura@無能につき馘:01/12/16 16:43 ID:9Yn+0UBp
小さな挫折 服装ほどには成功しなかった

 フランス中部の保養地ビシーは鉱泉の町として有名であり、同時に一九四〇年六月の仏
独休戦条約によって、その年の七月から一九四四年八月までフランス政府が置かれていた
ところとして世界史に名を残している。

 ペタン元帥に全権がゆだねられ、「フランス国家(エタ・フランセ)」と名乗ったこのビ
シー政府は「抹殺すべきあの四年間」(粛清裁判における検事総長アンドレ・モルネの言
葉)といわれるように、フランス人にとっては今でも触りたくない傷口だ。

 もちろん、シャネルがこの町で歌手としての運を試そうとしていたころには、だれもこ
の町がたどる過酷な運命について考えたことなどなかったろう。ましてシャネル自身この
町の運命が後年、自分の運命とも重なり合うことになるとは想像さえできなかったはずだ。

●最初の愛人 「理想的な花婿候補」。これがシャネルの最初の愛人といわれるエティエ
ンヌ・バルサンの当時の評判だった。シャネルの孤児院の聖人、エティエンヌ・ドバジー
ヌと同じ名前だ。 「大きくもなく、すらりともしていなくて、口ひげも平凡で、丸顔」(「シ
ャネル ザ・ファッション」)だったという。要するに気取った猟騎兵隊を見慣れたシャ
ネルには、親しみやすかったはずだ。しかも名前には貴族の印の「ド」も付いていない。

 家族はフランス中部の工業都市シャトールーに住み、金持ちで堅実でまじめだった。第
一次大戦前まで存在した典型的なフランスのブルジョア階級だ。バルサンはシャトールー
の歩兵連隊の出身だったが、競走馬の飼育しか興味がなかったためムーランへの配置換え
を希望した。ムーランでは東洋語研究所に潜り込んで、たちまち騎兵たちの仲間になり、
彼らのアイドルだったシャネルとも知り合うことになる。

 シャネルが同じ年齢の叔母アドリエンヌとともにビシー行きを決心すると、バルサンは
その準備も援助する。若い娘二人は、自分たちが勤めていたオルロージュ通りの店で、今
度は客として布地などを選んだ。

 シャネルは自分のアイデアで作った帽子と服を身につけてさっそうビシーに乗り込む。
「きっちりとした肩、高いカラー、ぴったりした身ごろ、バックルできちんと締めたベル
ト」(「シャネル ザ・ファッション」)。どこか騎兵隊の制服に似たその服はシンプルさ
の中に、若い女性のしなやかな体を一層、強調し、その若々しさで見る者をハッとさせた。

 アドリエンヌがコルセットやひもでがんじがらめに締め付けられていただけ、シャネル
の服は引き立ったのかもしれない。 しかし、シャネルはビシーでは、服装ほどには成功
しなかった。彼女はアドリエンヌと一緒に質素な小部屋を借りて住み、レッスンを受け、
衣装も自分で工夫し、歌手を志して必死で頑張ったが、結局、ムーランのように簡単には、
雇用主は出現しなかった。

 あのパリの人気歌手のテレザ・バラドンもお針子出身だったし、今や大女優より収入の
多いイベット・ギルベールもデビュー当時は一日二フラン、そしてモーリス・シュバリエ
も最初は一日三フランだった。こうした事実をシャネルは知っていたのだろうか。
276Yoshiura@無能につき馘:01/12/16 19:34 ID:NwDTT6C5
 ビシーは金持ちの保養地だった。すでにローマ時代から鉱泉が出る町として知られてい
たが、十六世紀から十七世紀にかけてアンリ四世のころに町として発達し、ナポレオンが
一八一〇年にパルク・デ・ソルス(鉱泉公園)を建設したことで飛躍的に発展する。

 鉱泉はリューマチや肝臓病に効くといわれ、ナポレオン三世時代にはワインやごちそう
に疲れた金持ちたちが重炭酸塩や炭酸が豊富な鉱泉を飲みに競ってやってきた。一九四〇
年夏にフランス政府がここに移動した理由も「ホテルの数が多く、官庁をはじめ行政機関
を収容するのに便利」(アンリ・ミシェル「ビシー政権」)だったからだ。

●鉱泉飲み場

 ビシーはムーランとは異なり、客の目も耳も肥えていた。歌手の職探しに失敗したシャ
ネルは結局、「この土地に明るい猟騎兵隊第十連隊のある士官の推薦に力を得て、鉱泉会
社の事務所に職を探しにいき、“グランド・グリーユ鉱泉”の鉱泉くみに採用された」(「シ
ャネル ザ・ファッション」)。

 ビシーは現在も高級保養地の地位を保っている。穏やかな気候や町の周辺を流れるアリ
エ川の風光が人を引き付けるのだろうが、夏には特に鉱泉治療にやってくる金持ちの年配
客でにぎわう。

 パルク・デ・ソルスの中央にあるガラス張りの円屋根の建物の中には、共同鉱泉飲み場
があり、「グランド・クリーユ」「ショメール」などの会社名が記されている下には蛇口
が設置されていて、各自が自分で好きな銘柄の鉱泉を飲める仕組みになっている。

●もっと高く

 シャネルの時代は、同じ建物ながら、鉱泉くみが深い洞くつのような奥の壁に並べられ
たコップを取りに行き、鉱泉をそれにくんで湯治客に差し出していた。彼女はここでも愛
きょうをふりまいたわけでもないのに、何か人を引き付ける力があったらしく、「シャネ
ル ザ・ファッション」によると「何本もの手がさし出された」という。

 鉱泉くみの制服は白衣に白い長靴だった。長靴は足がぬれないためだった。この彼女が
履いていた白い小さな長靴も後に、彼女の手でファッションとして蘇ることになる。彼女
は何ひとつ、見逃さなかった。

 しかし、シャネルがジリジリして暮らしていたのは想像にかたくない。自分はこんなと
ころで何をやっているのだろう。この低空飛行をしているような感じ。自分はもっと高く
飛べるはずだ。自分には天職があるはずだ。 そのころ、両親から遺産を相続したバルサ
ンはパリから北約八十キロの地、コンピエーヌの近くのロワイヤリュに広大な土地を購入
していた。ロワイヤリュはサラブレッドの調教地として知られる土地である。バルサンは
きゅう舎を建て、馬を飼育し、騎手になることを夢見ていた。「女の騎手見習いはいらな
いの」 シャネルがバルサンに対し、そう尋ねたとしても不思議ではない。
277Yoshiura@無能につき馘:01/12/16 21:30 ID:It/pQV5J
手作りの帽子 ぜいたくを手にジレンマ

 シャネルが最初の愛人、バルサンと暮らしたロワイヤリュはコンピエーヌの森に近い。
パリから北約八十キロのコンピエーヌもまた二十世紀の世界史でおなじみの場所だ。ここ
にはフランスの栄光と屈辱、ドイツのフランスに対するおん念、そして両国の和解の歴史
が刻まれている。

 第一次大戦の休戦条約は一九一八年十一月十一日、この森の中の引き込み線に乗り入れ
た寝台車で結ばれた。この地が選ばれた理由について、コンピエーヌ休戦記念館に残る仏
側資料は「英仏連合軍総司令官フォッシュ元帥の司令部サンリスが首都パリに近かったの
で、(報道機関などから)隔離し、敗戦した敵の尊厳を保障するため」と、フランスの敵国
ドイツに対する寛容性を強調している。

 事実、フォッシュ元帥は寝台車の内部の写真の撮影を禁止したので、この時の歴史的写
真は存在しない。フォッシュ元帥や背広姿のドイツ側の休戦委員長、エルツベルガー(国
務大臣)などが条約文を置いたテーブルの前に勢ぞろいしている挿絵が存在するだけだ。

●仏独の遺恨  条約の調印が終了して、寝台車から出てきた一行の写真だけがこの時の
雰囲気を伝えている。胸を張ったフォッシュ元帥ら仏側の軍人の姿は認められるがエルツ
ベルガーの姿はない。

 この時の寝台車はナポレオン三世が使用していたもので、室内装飾のグリーンのサテン
には「N」の縫い取りがなされていた。フランスはすでに第三共和政時代だったが、アル
ザス・ロレーヌ地方を分割された普仏戦争の敗北がきっかけになって崩壊した第二帝政時
代の栄光を示すことで、ドイツに対して「復讐」を果たしたことになる。

 また翌年のベルサイユ条約はいっさいの戦争責任をドイツに負わせる過酷なものだった
が、仏側によれば「ドイツの武装解除はごまかされ、参謀本部は一指もふれられず、賠償
は、最初に、それもアメリカの金で、支払われたにすぎなかった」(アンドレ・モロア「フ
ランス史」)となる。フランスのドイツに対する遺恨と畏怖の強さが表れている。

 そして二十二年後の一九四〇年六月二十二日、同じ寝台車で今度はヒトラーがフランス
への「復讐」のために休戦協定を結んだ。仏側はこの時の情景を「仏代表団を騒音と白日
の中にさらした」(モロア)と、批判した。

 この寝台車は第一次大戦の後には一時、大統領専用車として使用されていた。その後、
一九二一年から二七年までナポレオンの墓があるパリのアンバリッドで展示され、さらに、
当時のコンピエーヌ市長の運動と米国人の篤志家の寄付によってコンピエーヌの森に展示
場が設けられた。

 ヒトラーは休戦協定の調印後、この展示場を破壊し、寝台車の方はベルリンに輸送して
展示した後、ベルリンに近い駅の構内に放置している。そして、米軍が近づいた一九四五
年四月には寝台車の焼却を命じた。ヒトラーのおん念のすさまじさがしのばれる。
278卵の名無しさん:01/12/17 01:00 ID:j3yRhIMR
ゾロあげ
279Yoshiura@無能につき馘:01/12/17 07:41 ID:Kog+TQLw
●馬との日々 コンピエーヌの森には現在、記念館が建ち、寝台車の模型が置かれている
が、これは一九五〇年一月十一日の記念式典の際に復元されたものだ。今ではドイツ人を
含む年間数十万の観光客が訪れる観光地になっている。

 しかし、シャネルがロワイヤリュで暮らしていたころのコンピエーヌはまだ、ロワイヤ
リュの栄光の陰に隠れていた。ロワイヤリュは「イギリス出身の由緒正しい調教師たちが
全部、この土地に居を構えていた」(「シャネル ザ・ファッション」)という栄光の馬の
町だった。

 ここで「フランス最高の乗馬の仲間に入ろうとして時間と財産をすっかり費やしていた」
(同)バルサンとともに、シャネルも馬に明け暮れていた。出入りするのはきゅう務員や調
教師にバルサンの馬仲間という気楽な暮らしの上、中世の元僧院だった城館は広く、オー
ブン付きの台所もあれば庭にはスカッシュ競技場もあった。

 シャネルにとって、このロワイヤリュの暮らしは初めて知るぜいたくの味だったわけだ
が、そうした日々を過ごしながら、彼女が相変わらずジリジリし、低空飛行をしているよ
うに感じていたことは確かだ。競馬と乗馬だけが気晴らしの生活がいったい、いつまで続
くのだろう。

 シャネルは乗馬服をあつらえるために、ロワイヤリュにある仕立屋によく通った。仕立
屋の主人はコンピエーヌの猟騎兵第五連隊で兵役を務め、その間に連隊の制服やきゅう務
員の服などの直しを通して本職の腕を磨いていた。

 シャネルはここで、イギリスのきゅう務員がはいているようなひざから下の細い乗馬ズ
ボンや飾りのない上着、小さなちょうネクタイを注文した。女性たちがまだベールやリボ
ンで飾り立てていた時代だけに、彼女の服装は注目の的になった。

●相次ぐ注文 こうした服装に合わせてシャネルが自分で作った黒い帽子はとりわけ新鮮
だった。バルサンのところには古い女友達もたくさん、訪れていたが、彼女たちは、この
シャネルの黒い小さな帽子を次々に注文し、シャネルが作る新しい帽子を競ってかぶった。

 女性にとって帽子がまだハンドバッグと同様、外出時のなくてはならない必需品だった
時代である。 時は一九〇八年。パリでは地下鉄(一九〇〇年開通)も珍しいものではなく
なり、かしましかったエッフェル塔(一八八七−八九年に建設)をめぐる美醜論争にも、現
実に観光客が多数訪れる中で事実上の決着がついていた。一九〇四年にはオートレースの
国際グランプリ制度が創設され、一九〇七年にはレース用車は時速二百キロに達する。女
性たちの服装も変化しつつあった。

 シャネルはやっと天職を見いだしたのだろうか。バルサンが友人のために帽子を作ると
いうシャネルの暇つぶしを援助することになったのだ。バルサンが借りていたパリ・マル
ゼルブ大通り一六〇番地のアパートの一階の部屋がシャネルの仕事場になった。この時期
にシャネルを大いに勇気づけてくれた人物がいる。バルサンの友人のイギリス人だった。
280卵の名無しさん:01/12/17 19:59 ID:WtgH1OdP
仕事してるかー
281Yoshiura@無能につき馘:01/12/17 20:36 ID:IgfFScim
>>280 仕事しろよ。月給泥棒。
282Yoshiura@無能につき馘:01/12/17 20:40 ID:IgfFScim
最も幸福な時期 “ボーイ・カペル”にひと目惚れ

 シャネルはなぜか生涯を通じてイギリス人やアメリカ人と相性が良い。 シャネルの服
を一九一六年に初めて活字で紹介したのは、米国のモード雑誌「ハーパーズ・バザール」
だった。時代が下って第二次大戦後の一九五四年、シャネルが十五年ぶりに店を再開した
とき、フランスのマスコミが「時代遅れ」と批判したのに対し、米誌「ライフ」は特集を
組んでシャネルの復活を祝った。

 シャネルの服がアングロサクソンの実用主義やスポーツ重視の精神と呼応するからだろ
うか。それともシャネルがイギリス人との交際から受けた精神的な影響がモードにも反映
された結果なのか。生涯でただ一人、彼女が本当に愛したといわれるアーサー・カペルや、
結婚の申し込みをしたとされるウエストミンスター公もイギリス人だった。

似た者同士 一九一〇年二月、シャネルがバルサンの借りていたパリ・マルゼルブ大通り
一六〇番地のアパートで開いた帽子店は開店一周年を迎え、顧客は順調に増えていた。バ
ルサンやその仲間の女友達に加えて、流行に敏感な上流階級の夫人たちがやってきたから
だ。 ロスチャイルド男爵夫人やピニャテック公爵夫人、開店するにあたりバルサンらが
見つけてくれた専門家に加え、美人の妹のアントワネットも手伝いにやってきてお針子仕
事からモデル代わりまで務めた。

 しかし店は住宅街の真ん中にあり、商売をする場所として適しているとはいえなかった。
それにシャネル自身がバルサンの見つけた専門家と手を切り、自分流の店で、「自分名義
で商売をしたかった」(シャルル=ルー「シャネル ザ・ファッション」)という事情もあ
った。 シャネルはバルサンに借金を申し込んだが、断られてしまった。新たに牧場を入
手しようとしていたバルサンに余裕がなかったからだ。それにバルサンには「退屈しのぎ
のはずだったのに」という思いがあり、女友達が本格的に商売をしようとしていることに
戸惑いがあったと思われる。

 この時、バルサンに代わってシャネルの前に登場したのが、イギリス人のアーサー・カ
ペルだった。一九〇八年の春、バルサンの競馬、乗馬仲間になったこの青年は仲間から「ボ
ーイ・カペル」と呼ばれていた。「ボーイ(BOY)」はフランス人がイギリス人やアメリ
カ人の若者に対して好んで使う呼称である。 この「ボーイ」という言葉には、フランス
人やイタリア人などラテン民族には欠けているアングロサクソン的なものへの憧憬の響き
が含まれているようだ。

 例えばフランスの報道機関は湾岸戦争やボスニア紛争で、「米軍派遣」のニュースを伝
えるとき、「GI」とともにこの「BOY」という言葉を多用した。無意識のうちにフラ
ンス人の米軍への期待感が表明されているように思えた。 カトリック的なものに対する
プロテスタント的なもの、ともいえようか。この相違について、ドミニク・モイジ仏国際
関係研究所副所長はこう指摘する。 「寛容と慈悲を尊び、ざんげすることで贖罪(しょ
くざい)されるカトリックに対し、神と己の対峙(たいじ)という絶対的状態に自分を置く
プロテスタントは、ともすればより厳格でより過酷な状況に自分の身を置く」 そこから
生じる日常生活の中での公平の感覚やきびきびした態度などは欧州大陸の住人にはまれな
特質だといっていい。
283卵の名無しさん:01/12/18 00:39 ID:LEkt3Lxw
あげ
284卵の名無しさん:01/12/18 00:43 ID:uumThNLZ
さぼりまくってた本社のF部長はまだいるのか?
285Yoshiura@無能につき馘:01/12/18 02:13 ID:Al68q1mx
 シャネルは一九〇九年にバルサンと参加した狩猟会で一位になったカペルに初めて会っ
たときの印象を「ほかの男とはちょっと違っていた。第一、魅力にあふれる美しい男だっ
た。その無造作な態度、緑の瞳は感動さえあたえる」(「獅子座の女シャネル」)と語って
いる。ひと目惚(ぼ)れだったわけだ。

 シャネルの晩年十年間の友人で伝記「シャネル 孤独」の作家、クロード・ドレイも弁
護士のルネ・ド・シャンブランも「シャネルが唯一、愛したのは彼だけだ」と口をそろえ
て証言する。

 そして「獅子座の女シャネル」の中でシャネルは彼の魅力をこう続ける。 「同じ世代
の連中が、もらった財産をただ浪費している三十代に、彼はすでに自力で石炭の運輸業で
財産をつくり上げていた」 この事業への才能、仕事への愛着や意欲がシャネルを魅了し
た最大の理由かもしれない。

 シャネルは「父であり、兄であり、家族全員の役をすべて引き受けてくれたのだ」と述
べているが、仕事に対する態度という点では二人は一卵性双生児といえそうだ。 週末の
乗馬 カペルの出生もまたあいまいだった。銀行家の私生児ともいわれた。 ただし、行
商人で子供を孤児院に預けて行方をくらませたシャネルの父親と異なり、彼の父親はこの
嫡子ではない息子に一流の教育を受けさせた。また彼は父親からニューカッスルの炭鉱が
上げる利益も相続している。

 その上、彼はポロの名手だったからイギリスの上流階級から受けいれられ、従ってフラ
ンスの上流階級もこれにならった。スポーツマンであると同時に読書家でもあった。書架
にはニーチェやボルテールの著作、それにハーバート・スペンサーの「政治録」などが並
んでいた。

 カペルもシャネルに恋したのだろうか。帽子店に熱中し、この時代には珍しく独立志向
の強いちょっと風変わりな若い女性に。「ごく自然にバルサンと入れ替わった。そして営
業権の取得に必要な金を前貸ししたのも彼だった」とシャルル=ルーは著作で指摘する。

 一九一〇年の末、シャネルはついにカンボン通り二一番地に引っ越す。この通りにはい
まもシャネルの本店があり、ココ・シャネルにとって生涯、切っても切れない場所になる。

 新しい恋人同士は週末にはロワイヤリュで乗馬を楽しんだ。シャネルは当時の女性が馬
に乗るときの服装だったシルクハットにチョッキ姿の代わりに、開襟(きん)シャツや丸え
りのブラウス、大きなシフォンのちょうネクタイをし、髪にはピケ地のヘアバンドをした。

 そして以前には決して見せなかった快活さで、皆の前に現れたという。帽子の店の成功
に加え、愛する男性との生活。カペルもたくさんいた女友達と次第に手を切った。シャネ
ルにとって、このころが生涯で最も幸福な時期だったかもしれない。 いずれにせよ、シ
ャネルが歴史という舞台に登場するまでの時間は、あとわずかだった。
286Yoshiura@無能につき馘:01/12/18 02:15 ID:Al68q1mx
フランス版白木屋火災 “モードの犠牲”になった女性たち

 「ひとつのモードが終わり、次のモードが生まれてくる。その変わり目のポイントに、
あたしはいたのだ。チャンスが与えられ、それをつかんだ。新しい世紀をあずかる世代に
あたしがいて、だからこそ、そのことを、服装で表現しようとしたのである」(シャルル
=ルー「獅子座の女シャネル」) シャネルが自分自身について語っているように、一世
を風靡(ふうび)した人物には常に時代との幸福な出会いがある。少しでも出会いがずれれ
ば、モードの女王シャネルは誕生しなかったかもしれない。

 時代の側に目を移そう。シャネルの登場を二十世紀は待っていた。そしてその前兆とし
て、さまざまな事件が彼女の登場を予告していた。例えばフランス版白木屋火災というべ
き大火が十九世紀末のパリで発生している。 旧来の着物の伝統が原因で多数の女性犠牲
者が出た白木屋百貨店の火災は、昭和の風俗史に示唆的な一ページを記しているが、フラ
ンスでも同じように女性が「モードの犠牲」になった火災事件が今からちょうど百年前に
発生しているのだ。

■焦げた遺体 一八九七年五月四日、パリのシャンゼリゼ大通りに近いジャングージョン
通りの広場で慈善バザーが開かれていた。一八八五年に始まったその慈善バザーは十三回
目を迎え、参加慈善団体は約百五十に増えて、地方の慈善団体の中には参加を拒否される
ところが出現するほどの盛況ぶりだった。

 前年までの会場は、バンドーム広場やあるいは貴族の館の一部などを借りて開催されて
いたが、実行委員長のマッコー男爵らの尽力で、その年は特別に土地の所有者から無料提
供されたジャングージョン通りの空き地に仮設テントが設けられた。

 開幕二日目のその日、オペラ座などの舞台装置を担当して好評だったフィリップ・シャ
ペロンが中世的な装飾を施した会場では、貴族の夫人たちが参加者としてあるいは買い物
客として高価な宝石や服飾品などの陳列物を楽しんでいた。

 会場にはアトラクションとして、リュミエール兄弟が発明したばかりの「シネマトグラ
フ」の上映館も仮設されていた。午後になって気温が上がり、「暑い日になった」と負傷
者の一人は後に捜査当局に証言している。午後三時にはマッコー男爵の案内で教皇庁大使
(大使として各国に派遣された大司教)も会場を訪問し、参加者を祝福した。

 午後四時。入場者は約千七百人に達していたとされる。その雑踏の中で火災が発生した。
午後四時十分、十五分、二十分、証言によって異なるが、「火事だ!」との声が上がる。
後は地獄絵。マツなどの薄い木材を多用した会場に、火が走る。帽子のリボンや花の飾り
に火が燃え移り、長いスカートに足をとられ、きついコルセットのため身動きも容易にで
きない女性たちが炎に包まれて倒れる。 消防署の迅速な消火と救済活動にもかかわらず、
死者百四十五人、負傷者約二百人の大惨事になった。犠牲者の大半は女性だった。男性の
死者は三人。この時間に入場していた男性の数自体が約五十人と少なかったこともあるが、
女性が「モードの犠牲」になったことは明白だ。
287Yoshiura@無能につき馘:01/12/18 10:23 ID:l7+7qcHu
 事件の百周年に当たり、出版されたばかりの「慈善バザーの火災から百年」(ドミニッ
ク・パオリ著)によると、事件を担当したベルテュラス予審判事は、生存者の証言などか
ら「長いすそは走ったり階段を下りたりするのに不便だし、締め上げたコルセットのせい
で呼吸は十分にできないという婦人たちの服装がこういう場合、男性の服装よりハンディ
になる。実用的でない服装が女性の犠牲者を多くした」との結論に達し、捜査報告書に記
入した。 女性の遺体の大半は黒焦げ状態で、逃げ遅れたことを証明していた。

 遺体はすべてシャンゼリゼ大通りの展示場パレ・ド・ダンダストリ(工業館)に運ばれ、
そこで近親者が身元を確認した。身元の確認も容易にできない黒焦げの遺体の中にはオー
ストリア皇女の姉妹であるダランソン公爵夫人らも含まれていた。

 この時、事件を担当した法医学者のソケ、ビベルト両博士が歯型からの確認方法を思い
付き、彼女らを治療した歯科医が呼ばれてやっと身元が確認された。この事件後、法歯科
医学が発達することになる。それでも最終的に約十人の身元が確認できず、パリのペール
・ラシェーズの墓地に共同埋葬された。

■事件の反響 火事の原因は、シネマトグラフの映写室の技師二人の過失によるものだっ
た。映写中、アセチレンガスのランプが消えたため、映写技師ベラックが助手のバグラシ
ョフに、手元が暗くて見えないから明るくするよう頼んだ。助手がマッチをすったところ
エーテルに燃え移り、あっという間に火が燃え広がったという。 無知か不注意か規則無
視か。裁判ではマッコー男爵が五百フランの罰金だったのに対し、ベラックには一年の禁
固刑と罰金三百フラン、バグラショフには八カ月の禁固刑と二百フランの罰金が科せられ、
同年十二月十一日の控訴審で刑が確定した。

 マッコー男爵は当時、弁護士だったレイモン・ポワンカレに弁護を依頼したが、勝ち目
がない、とみたポワンカレは断ったといわれる。 主催者の男爵の刑が軽かったのは、バ
ザーの会場建設に当たり、建築家が火事の危険を指摘したのに対し「会場では禁煙にしよ
う」と答えたほか、会場には正規の出口二カ所、臨時出口三カ所を設置し、さらに食堂の
わきなどにもひそかに出口を設けて緊急時には千二百人が三分で脱出できるように配慮し
たことが裁判で考慮されたからだとみられる。

 多数の名士夫人が犠牲になったこの悲劇的事件に関しては翌五月五日から仏マスコミが
詳細を報道し、フェリックス・フォール大統領が事件現場に急行したことやオーストリア
皇帝に弔電を打ったことも伝えて、事件が普仏戦争後の複雑な国際関係にも影響を与えた
ことを示している。外国紙も大きく取り上げ、米ニューヨーク・タイムズ紙は「パリの恐
怖の火事」と一面で報道している。

 また、当時の仏大衆紙「ル・プチ・ジュルナル」は五月十六日付でイラスト入りの臨時
特集号を発行するなど事件の反響は大きく、後にシャネルの伝記を書くポール・モランも
この事件にヒントを得た短編「慈善バザー」で、女性の服装をはじめとする風俗描写を交
えながら、当時の貴族階級の生活を皮肉っている。
288卵の名無しさん:01/12/18 19:41 ID:GaqQriCE
ポセビンの責任者か?この荒らしは
ヨシウラって誰?
289卵の名無しさん:01/12/18 19:46 ID:FQB3KNJf

バレたか
290Yoshiura@無能につき馘:01/12/18 21:08 ID:FU9W1bVb
炎の中の旧モード 女性たちは新しい生き方を求めた

 ポール・モランの短編小説「慈善バザー」の女主人公、デフリュス伯爵夫人はその日、
三十歳年上の夫に「午後三時前にダランソン公爵夫人に慈善バザーの会場に来るようにい
われたの」と告げて外出する。 しかし、行き先は若い愛人のサクシィフロン子爵の館だ
った。彼は週刊誌「世紀末」にコラムを寄稿している文学青年だが、乗馬と女性とばくち
に目がなく、借金に苦しんでいた。

 結婚七年目を迎えたデフリュス伯爵夫人は「労働者の話ばかりのゾラ」や「下層階級の
物語の多いモーパッサンの小説」にも飽き、ちょうどフィガロ紙に連載中のピエール・ロ
チの小説を愛読していた。

 新しい思想の持ち主で、東京にも旅行したことがあるプレーボーイはたちまち伯爵夫人
の心を捕らえる。日本のコレクションを見に来ないか、とサクシィフロン子爵に誘われた
伯爵夫人が、きゅう舎もある彼の広大な館に人目を忍んで通うようになるのに時間はかか
らなかった。

●人形の装い この日もローズ色のモスリンのドレスに留め金がエメラルドの真珠のネッ
クレスをつけた夫人は、夫の「賛嘆のまなざし」を受けながら自宅を後にする。 ところ
が伯爵夫人を待ち受けていたのは、愛人の破産という悲しいニュースだった。 情事の後、
彼はこう告げる。 「馬を全部、売ることにした。君も彼らに最後のお別れを言ってくれ
たまえ。人生は煙のようなものだ。あすになればきゅう舎もアトリエもなくなり、そして
僕も消える。破産したんだ」

 二千ルイ金貨(四万フラン)の借金があると告白されて、伯爵夫人はネックレスを外し、
子爵のポケットにすべりこませる。

 子爵は愛人の贈り物を金貨に換えるべく知り合いの古物商のところに行くが、相手は不
在だった。「慈善バサーを手伝いに行った」との留守番の返事に彼はジャングージャン通
りへと急ぐ。

 午後四時前に慈善バザーの会場に到着した彼は古物商を探して、暑さと人込みの中を歩
き回る。そこに突然、「火事だ!」の叫び声が上がる。彼の周囲ではたちまち女性たちが
火に包まれていった。 「ルーシュ(レースやチュールのひだ飾り)やそで飾り、大きな麦
わら帽子、モスリンのドレス、フリルのついたタフタ、小さな絹の日傘、ベール、リボン、
羽根飾り、オーガンディやパーケル(目の詰んだ平綿織物)など女性の体をかすみのように
包んでいるこうした軽やかな布地のすべてが、まるで歓喜の炎のように燃え上がり、ふく
いくたる香水や竜涎香(りゅうぜんこう)のローションがしみ込んだ生暖かい空気の中で燃
え盛る」

 ポール・モランは、この火災の捜査を担当した予審判事の調書よりずっと文学的に、女
性が当時の「モードの犠牲」になった様子を描写している。
291Yoshiura@無能につき馘:01/12/18 21:09 ID:FU9W1bVb
 後にシャネルの伝記を書くことになるポール・モランはこの時、気が付いていたのだろ
うか。シャネルこそが、この大惨事で燃え上がり、犠牲者を炎に包んだ十九世紀の代表的
モードを決定的に壊滅させる立役者になることを。ジャージーやツイードを多用し、スポ
ーティーで機能的なシャネルのモードとこの時、炎上したモードは何と異なっていること
か。 犠牲者の中には当時、流行の先端だったウォルトやドゥーセのドレスをまとってい
た貴夫人が多数いたはずだ。

 デフリュス伯爵夫人も新婚のころ、夫が注文した肖像画のモデルになったとき、「初め
て作らせたドゥーセの舞踏会用の服」を着用した。 「金のギピュール(浮彫風の模様の
レース)のベールが炎のようなビロードを覆っていた。ヒョウの毛皮の折り返しのついた
そでなしの絹タフタの大きなマントに包まれた彼女は緊張してみえた。マントには流れる
ような襞(ひだ)があった。彼女は非個性的で人形がケープを羽織っているようだった」

 モランはここでも無意識のうちに「シャネル前」と「シャネル後」のモードの差異を指
摘している。 「シャネル前」のモードはどんなに素材がぜいたくで素晴らしい技術を駆
使してあっても、着ている人間を非個性的な人形のようにしてしまった。 「シャネル後」
のモードは逆に、着ている人間の個性を引き出すと同時に着心地の良いものであることが
優先条件になる。

●外出の口実 慈善バザーを訪問した妻が火災の犠牲になったと信じて疑わなかったデフ
リュス伯爵は、この遺体安置所で、妻のエメラルドの留め金付きの真珠のネックレスを発
見する。妻の愛人が夢中で逃げるうちに、落としたものだった。

 一方、愛人を待ちくたびれて夜十時に帰宅した伯爵夫人は、悄(しょう)然として、真珠
のネックレスを機械的にコートでこすり続ける夫の姿を目の当たりにする。 慈善バザー
は、当時の女性たち、特に上流階級の女性たちが、一人で大手を振って外出できる数少な
い機会だった。

 一八八五年の開始当時、参加慈善団体は十六だったが、大惨事のあったこの一八九七年
にはフランス全土から百五十以上の団体が参加し、国中の名家が漏れなく協力した。こう
した現象に批判があったのも事実だ。

 週刊誌「クリ・ド・パリ(パリの叫び)」は、慈善バザーが開幕する直前の号で、「慈善
バザーはあらゆる人間の服装の見せびらかしと待ち合わせの口実にすぎない」と手厳しい
記事を掲載した。 「人々は、ケーキ屋に行くかわりに社交的な義務を履行するために慈
善バザーに行く。また、慈善の課す寛容のおかげで、それまで閉ざされていた世界に入り
込むために行く人も多い」

 心ときめかすことといえば新聞の連載恋愛小説か情事ぐらいだった貴族階級の女性たち
や、そういう階級にあこがれる一般庶民が、「慈善」という大義名分を得て、いそいそと
参加した様子がうかがえる。 シャネルは自活の道と同時に自分の才能を生かして自分ら
しく生きられる道を探していた。新世紀を前にして、新しい生き方を求めていた女性は彼
女だけではなかった。
292東和の営業:01/12/19 18:57 ID:O9+3w0s7
こんばんは
このスレ腐ってますな
おたくらの経営体質も腐ってますが(w
293卵の名無しさん:01/12/19 19:08 ID:0wgphwAp
コルセットからの解放  旧大陸の価値観が揺れ動き始めた

 「これは白のコルセット。娘のは黒だから、これは違う!」と一人の母親が勝ち誇った
ように叫ぶ。「悲しいかな! 伯爵夫人は新しいコルセットをなさって出掛けました。そ
の色は−」と小間使いが答える。ポール・モランの短編「慈善バザー」の一節だ。

 フランス版白木屋事件ともいうべき一八九七年五月四日の慈善バザー火災の遺体や遺留
品はシャンゼリゼ大通りのパレ・ド・ランドストリ(工業館)に安置された。現在のグラン
・パレの敷地のあたりである。

 遺体の多くは黒焦げで身元確認は困難をきわめた。遺留品が頼りだったが、犠牲者の貴
婦人たちは流行の薄地の衣装をまとっていたため、燃え残ったのはコルセットだけという
ケースが多かった。 当時のコルセットは表面は布地でレースに飾られていたが、骨格は
鋼(はがね)や鯨の骨入りだった。それを背中と腹部に当て、二重のひもできつく締め上げ
る。細くくびれたウエストを保つことはできるが、腹部を締め付けられ腰を曲げるのも困
難だった。

《男性のエゴ》 火災事件から六年後の一九〇三年六月十三日付の仏週刊紙「リリュスト
ラッション」にマルセル・ティナル記者の署名入りで「ファンフレルーシュ(リボンやレ
ースなどの飾り)」と題する記事が掲載された。

 「モード新聞を読むのが面白い」と告白する記者はまず、「女性には他者のために生き、
美しく着飾って愛される装飾品であることが任務の者」と「あまり美人ではなく、あまり
幸福でなく、いや単に条件や精神、気分の相違にすぎないかもしれないが、自分自身のた
めに生き、活動的な人生を送っている女性」がいると指摘する。そして前者がリボンやレ
ースで飾られているのに対し、後者は「歩いたりバスに飛び乗ったり、おしゃれにささげ
る時間を節約するためにテーラード・スーツを創作した」と書いている。

 「私はこうした改革の悪口を言うつもりはない」と前置きしてはいるものの、この記者
の本音はまさにこうしたモードの改革の悪口を言うことだった。

 「ルターの弟子であるオランダ人や英国人は、悪弊を廃止するだけでは満足せず、服飾
のプロテスタント主義、大改革を実施しようとしている」と述べ、「レースもきぬ擦れ音
もコルセットもなし」のその服装改革を嘆き、その代わりに「恐ろしくもこっけいなコン
ビネーションが登場した」と悲憤慷慨(こうがい)する。 「彼女たちはコンビネーション
の上に糊の効いたシャツを着て、つりひもでつった絹や毛織りのキュロットをはく。つり
ひもの女性! ドンフアンも後ずさりすること間違いなし!」

 彼女たちはこうしたやぼな下着の上にルダンゴート(ぴったりしたフロックコート)など
を着用したという。今から見るとなかなかおしゃれでモダンなスタイルだったわけだが、
この記者は「パリジェンヌが朝は花開く花のように服をまとい、夜は花弁を一枚一枚、落
とすように脱ぐ習慣を放棄して、つりひもをつる決心をする前にラインの橋の下、流れが
流れ去りますように」と結んでいる。
294卵の名無しさん:01/12/19 19:09 ID:0wgphwAp
 この男性エゴ丸だしの記事には、男性の中にもカチンときた読者が多かったようだ。同
七月四日付の同紙でティナル記者は「美容のための教育」と題する記事を掲載し、まず男
性読者の投書を紹介する。

 「私はコルセットもウエストを絞ったドレスも膨らんだスカートも好きではない。女性
の服装は大いに改革する必要がある。シンプルでしかも優美な現代風ギリシャ・スタイル
をどうして採用しないのか」

 この投書に対し、記者は、若くて美しい女性やダンスで鍛えた「イサドラ・ダンカン」
には確かに「現代風ギリシャ・スタイル」は似合うかもしれないが、体形が崩れた年配の
女性が着用したら、その場合、どんなことになるか想像したまえと反論する。 そして「コ
ルセットなしに救済なし」と断罪する。つまりコルセットを着けていない見苦しい女性に
は、神のご加護も望めない、というわけだ。

 この記事から見て取れるのは、当時の欧州大陸の絶対的価値観であったカトリック的価
値観が日常生活の次元でもアングロサクソンに代表されるプロテスタント的実用主義や改
革主義の影響を受け始めた点だ。

 また二十世紀を迎えたばかりの欧州でイサドラ・ダンカンが評判になり、その舞台衣装
にヒントを得た「現代風ギリシャ・スタイル」が流行の兆しを見せていたこともうかがえ
る。イサドラ・ダンカンが欧州にわたり、パリで初公演をしたのは一九〇一年だった。素
足に薄物だけという舞台衣装で創作ダンスを披露する彼女は、パリでセンセーションを引
き起こした。

《ポワレ登場》 一方、モード史「ラ・モード」の中で、ブリュノ・デュ・ロゼルは「一
九〇三年の最大の出来事はポール・ポワレがオベール通りに店を構えたことである」と指
摘する。ポワレは女性からコルセットを追放した恩人として知られる人物だ。ドゥーゼの
店でオートクチュールの基本を学び、さらに一九〇一年から開店直前まではウォルトの店
で腕を磨いた。 世紀末の女性を苦しめたコルセットは一九〇〇年には医学研究家のガシ
ュ・サロート夫人によって改良され、「健康コルセット」と呼ばれて登場する。ヒップま
で包むトルソ形で、上半身はまっすぐに伸び、胸を解放していた。しかしコルセットであ
ることに相違はない。しかもこのコルセットも下着屋がたちまち、さまざまな手を加えて
改良した結果、横から見ると胸は詰め物で極端にふくらませられ、ヒップは突き出され、
横から見るとSの字に見えるS字形スタイルの流行の誕生につながった。

 ポワレはこうしたコルセットの代わりに胸の部分だけのブラジャーを用い、ハイウエス
トのシンプルな服を考案した。またきぬ擦れの源である何枚も重ねたペチコートも追放し
た。彼は日本のキモノや中国服からも影響を受けたとされるが、イサドラ・ダンカンの現
代風ギリシャ・スタイルが彼のモードの原点とする見方は多い。事実、二人は友人関係に
あった。 このスタイルはフランス革命の時期にもはやったもので、ドレスのシルエット
はI字形になった。ポワレは長身でやせぎすの夫人に着せ、それがよく似合って流行に一
役、買うことになった。ポワレの名は彼の派手な行為とともにパリの社交界にも君臨した
が、やがてシャネルに取って代わられることになる。
295卵の名無しさん:01/12/19 20:10 ID:qQxsvzTr
避暑地の店 「いつも客でいっぱいだった」

 一九一三年一月、ロレーヌ出身の愛国者、ポワンカレが熱狂的支持を受けてフランス
大統領に就任し、七月には三年兵役制が可決する。第一次大戦前夜のそんな時期にシャネ
ルはカペルの支援で仏北部ノルマンディー地方のドービルに店を出した。

 英仏海峡に面したドービルはクロード・ルルーシュ監督の映画「男と女」の舞台として
日本でも有名だが、当時から避暑地として人気を集めていた。町の中心街のノルマンディ
ー・ホテルには金持ちが滞在し、近くのカジノは大入り満員だった。シャネルが店を出し
たのはこの豪華ホテルとカジノの間、海岸にあと一歩のゴントオ・ビロン通り一三番地だ
った。大きな白い日よけに黒い文字でシャネルの名前を記した。

 今ではその場所に深紅の日よけを付けたカルティエの店がある。この通りで第二次大戦
前から店を出しているという服飾店の主は最初、このカルティエの店から十メートルほど
離れた場所をかつてのシャネルの店だと教えてくれた。 ところが、その場所にあるルイ
・フェローの店主は「ここではない」といってカルティエの店を示した。カルティエの若
い男性店主はそこが旧シャネル店であることを確認したが、「シャネルというのはてっき
り、英仏をつなぐカナル(運河)から取った店名だと思っていた。人の名前とは知らなかっ
た。驚いた」と言って逆に私を驚かせた。

 シャネルが英国の影響を受けたことは確かだが、そうした情報がどこかで誤ってこの店
主に伝えられたのだろうか。フランスは今でも情報社会ではない面がある。マスコミより
口コミの世界だ。こういう社会だからこそオートクチュールが生き延びたともいえる。

 シャネルが育ったオーバジーヌから車で約十五分、コレーズ県ブリーブ市近くの小村、
サント・フェレオールにシラク大統領の両親がかつて住んでいた家がある。実業家だった
大統領の父親は主としてパリに住み、大統領もパリで生まれたが、子供時代には時々、こ
の両親の田舎の家にやってきたという。大統領の選挙区はコレーズ県だ。 ところがサン
ト・フェレオール村を訪れ、すぐ隣の食料品店で教えてくれたその家の写真を撮っている
と、近くの家の窓から顔を出してこちらを眺めていた年配の女性が「そこじゃないわよ、
その家の隣、隣よ」と叫んだ。

顧客を紹介 さて、このドービルのシャネルの店は「いつも、お客でいっぱいだった」(「シ
ャネル ザ・ファッション」)という。シャネルはポール・モランに「手にふれるすべて
のものを黄金にかえるほどの商才にたけたおんなと思い込まれている。これはまとはずれ。
計算するときは、いまでも五本の指で勘定する」(「獅子座の女シャネル」)と告白してい
るが、天性の勘があったといえよう。

 それから三年後にスペインとの国境近くの避暑地、ビアリッツに最初のオートクチュー
ルの店を開くが、この店も海岸から緩やかな上り坂をのぼり切った四つ辻にあり、いかに
も客が入りそうな好位置だった。
296卵の名無しさん:01/12/19 23:34 ID:0F6KpGo/
公私混合社長で有名 
297卵の名無しさん:01/12/20 00:44 ID:MwSv+r38
 シャネルの店がはやった理由は他にもあった。「シャネル ザ・ファッション」は「ロ
スチャイルド夫人のおかげだった」と書いている。夫人は当時の上流階級の女性の典型と
もいうべき存在で、ポワレの顧客だった。ところがわがままな夫人がポワレのモデルを傍
若無人に侮辱したため、ポワレは夫人を自分のレセプションから締め出してしまった。

 今度は夫人がポワレに「仕返し」をする番だった。夫人はシャネルの店の顧客になった
ばかりか、友人の貴婦人を大量に紹介した。その中には女優で社交界に君臨していたセシ
ル・ソレルもいた。彼女たちはシャネルの店の帽子を愛用し、シャネルが始めたばかりの
ドレスを注文した。そしてパリに帰った後も、シャネルの忠実な顧客となる。 「シャネ
ル ザ・ファッション」によると、ドービルの店でシャネルは、典型的なイギリス製の服
地を二種類手に入れ、服を作った。その素材はカペルが着ていた編みセーターとフランネ
ルのブレザーを取り入れたものだった。 出来上がった服のカットは、水兵服からヒント
を得て、ゆったりしたものだった。コルセットを着ける必要はなかった。彼女自身もテー
ラード・スーツに先の丸い靴を履いて町を歩き回り、開襟シャツに自分でデザインしたパ
ナマ帽をかぶってポロ見物に出掛けた。カペルとの仲は公然化していた。

 当時、正式に結婚していないカップルを上流階級は受け入れず、招待もされなかったが、
ドービルの別荘ではイギリスの上流階級が彼らに門戸を開いた。カペルの事業が成功し、
「スターの座を独占していた」(「シャネル ザ・ファッション」)ことが理由に挙げられ
よう。

 彼の会社の石炭船団は大きく発展した。ずっと年上の「虎」の異名を持つ政治家クレマ
ンソーとも交流があった。南北戦争の通信員だったクレマンソーはアメリカ女性と結婚し
ており、イギリス人のカペルとは馬が合ったのかもしれない。

 クレマンソーは一九〇六年に首相になるや政教分離法を成立させ、累進課税も国民議会
を通過させた。しかし鉱山ストライキを軍隊で弾圧し、ジョレースなどの運動の激化を招
いたとして、一九〇九年には辞任せざるをえなかった。 当時は野にあったが一九一七年
にフランスを危機から救うべく首相になり、国内の敗北主義と戦い、フォシュ元帥を登用
して連合国最高司令官に任じて、フランスを救った。

秘密の傷 客がいっぱいのシャネルの店には、叔母のアドリエンヌも妹のアントワンヌも
手伝いにきたが、カペルは次第にシャネルから遠ざかっていった。カペルの当時の心境に
ついて、「シャネル ザ・ファッション」の著者、シャルル=ルーはこう記述する。 「未
知の父という秘密の傷が彼をむしばんでいた。ユダヤ人排斥と国粋主義とが、前代未聞の
激しさで吹き荒れているフランスにおいては、数ある欠陥のうちでも出生のあいまいさと
いう欠陥を発見されて、引きずり落とされてしまう重要人物の例はたくさんあった」

 これを解決するには由緒正しい家の娘と結婚する以外なかった。シャネルは捨てられよ
うとしていた。その焦燥がシャネルを仕事へと駆り立てたのだろうか。 一九一四年六月
二十八日、ボスニア・ヘルツェゴビナで一発の銃声が響いた。その音は避暑客でにぎわう
ドービルの喧噪の中では聞き取りにくいものではあったが、世界を震撼(しんかん)させる
ことになる。
298卵の名無しさん:01/12/20 00:46 ID:MwSv+r38
第一次大戦 “19世紀的価値観”の崩壊

 一九一四年八月二日、フランスで動員令が発布された。 「それは筆舌につくしがたい
歓喜だった。フランスはついにドイツ人から一八七〇年以来、受けてきた教訓を彼らに与
えるチャンスがきたのだ。あの悲しい戦争以来、われわれがアルザスとロレーヌを代価に
して得た教訓を」

 第一次大戦に第百十三歩兵連隊所属の軍曹として動員されたフランシス・ペローは人生
の黄昏を迎えた一九八三年、当時の仏国民のごく一般的感情を文書にして第一次大戦の証
言を収集していた医師、ジャンダニエル・デスタンベールのところに送った。

 「サラエボでセルビアの狂信者にオーストリア皇太子が暗殺されたことで、セルビアと
オーストリアは戦争状態に入った。同盟のルールによってドイツがオーストリアの側につ
き、仏英は小国セルビアを支援しているロシアの側についた。対立した二つのブロックと
の間で戦争が即刻、開始されるのは明白だ」と、この無名戦士は非常に簡潔、適切に状況
を説明している。翌三日、ドイツはフランスに宣戦布告を行う。

《悲しい現実》 ラ・マルセイエーズを歌って意気揚々と出征した彼らは「双方(仏独)と
もクリスマス前には相手に教訓を与えて帰還できる」と思っていた。ところが同月二十二
日に国境を越えた連隊は、ドイツとの激しい交戦に遭遇する。そして、仲間が傷つき倒れ、
しかばねと化すという「悲しい現実」を突き付けられる。 早々に捕虜になったペローは
それから一九一八年の戦争終結まで五十二カ月もの間、ドイツの捕虜収容所で暮らす。そ
の間も衛生状態の悪さから疫病などにかかって仲間が次々に死んでいく。

 「暇があったら、フランスとベルギーの国境の小さな仏軍墓地の白い十字架群を訪ねて
ほしい。詩人ランボーが書いているように、《それは緑なす墓地で小川が歌っている》と
いう真に魅力的な場所だから」

 ペローはその証言をこう結んでいる。 第一次大戦に動員された二十歳から四十五歳ま
でのフランスの男性は約四百万人。このうち約百五十万人が戦死し約百七十万人が負傷し
た。また統計学上の推定によると、フランスはこの四年間に戦争がなかったら誕生したは
ずの新生児約百五十万を失い、人口の急激な減少を招いた。第一次大戦による痛手はフラ
ンスにとって、第二次大戦への不気味な序曲でもあった。

 フランスには、二十世紀は第一次大戦とともに始まったと定義する学者が少なくない。
哲学者のアンドレ・グリュックスマンは「第一次大戦によってフランス社会が根本的に変
動したからだ」と説明する。第一次大戦の影響は、それまでの戦争とは比べものにならな
いほど大きかったのだ。

 確かにナポレオン時代、イタリアやエジプト、プロイセン、果てはロシアに遠征して戦
ったのはナポレオンと彼の率いる兵士(中には現場で調達した外人部隊もいた)だけで、フ
ランス国民は国内でほぼ平常通りの日常生活を送った。ナポレオンが妻ジョセフィーヌの
浮気を心配して、しきりに前線からラブ・レターを送ったのもそのためだ。
299卵の名無しさん:01/12/20 00:51 ID:LsvsPElQ
沢井のMRカコイイ
300卵の名無しさん:01/12/20 01:05 ID:wg8T/zB1
あまりの給料の低さにバイトに精を出す沢井のMRを俺は
一人知っている
301卵の名無しさん:01/12/20 08:46 ID:PMj1hruM
 普仏戦争でもアルザス・ロレーヌ地方の割譲はあったが、フランス国民が大量に動員さ
れ大量に戦死することはなかった。 グリュックスマンは次いで、フランス社会の変動と
して「非キリスト教化の進展」を指摘する。 「宗教がもはや戦争を防止することができ
ず、フランスのカトリックはフランス国家に、ドイツのカトリックはドイツ国家の側につ
いた。つまり従来のキリスト教に基づく価値観の喪失だ」

 歴史学者のミシェル・ヴィノックも「第一次大戦がベル・エポックに代表される幸福の
イメージをはじめ、すべてを破壊した点で二十世紀の始まり」とみている点ではグリュッ
クスマンと一致する。

《女性の解放》 アンドレ・モーロワも「フランス史」の中で、「いかにフランスが一九
一四年の戦争前には、幸福な生活を送っていたか」の例証として、アンドレ・ジーグフリ
ードが指摘するところのフランス社会固有の「小市民」の存在を挙げている。

 「小市民は小金を蓄え、小金利と小家屋と小庭とで満足していた。新聞は『小(プチ)パ
リジャン』『小新聞(プチジャーナル)』だった」 そして小市民は(1)家庭的連帯の感情(2)
戦時中の国家に対する完全な忠誠(3)文化の尊重−を彼らの生活の柱にしていたと分析す
る。こうした十九世紀的価値観が失われたのが第一次大戦だったというのだ。

 ヴィノックはまた、「フランス人は今でも戦争というと、《大量殺りく》が行われ、家
族のだれかが亡くなった第一次大戦を指す場合が多く、《大戦》と呼んでいる。第二次大
戦では数週間で多くの戦死者を出したものの、休戦条約がたちまち結ばれたので、第一次
大戦ほど肉体的犠牲者が多くはなかった。第二次大戦の衝撃は精神的なもので、それは現
在でも尾を引いている」と指摘する。

 「二十世紀は一九一四年から一九八九年までだ。つまりサラエボの銃声からベルリンの
壁崩壊までだ」と定義するのは、仏国際関係研究所副所長のドミニク・モイジだ。つまり
フランスの二十世紀は第一次大戦から第二次大戦、そして東西冷戦と絶え間なく、大戦の
戦場であり続けたといえる。

 昨年、八十歳を迎えたジャーナリスト、フランソワーズ・ジルーは、「二十世紀を一言
で説明すればオリーブル(ぞっとするような恐ろしい)な世紀だ」と総括する。

 ただ、こうした第一次大戦の否定的な面の一方で、唯一、肯定的な面としてジルーが挙
げるのが女性解放だ。 グリュックスマンも「大量の男性が前線に四年間も動員された結
果、女性が男性の穴埋めをする必要が生じ、女性の解放が進んだ」と述べる。

 シャネルが初めてオートクチュールの店をビアリッツに開いたのは第一次大戦中の一九
一六年だった。ココ・シャネルの伝記「獅子座の女シャネル」によると、戦争のため外出
する機会が増えた女性たちは同時に戦争のおかげでやせはじめてもいた。「ココのように
おやせ」となって、シャネルの新しいシルエットが似合う女性が増えたのだ。
302Yoshiura@無能につき馘:01/12/20 14:54 ID:AHfky8oH
時代はここでもシャネルの登場を求めていた

 初のオートクチュール 大西洋に面した保養地ビアリッツの地元新聞「ガゼット・ド・
ビアリッツ」は一九一六年三月十五、十六日の二日間にわたって「今シーズンの新製品」
と題する記事を掲載した。 その中に「マドモアゼル・シャネルがシーズンのためのあら
ゆる新製品を取りそろえてヴィラ・ド・ララルドに売り場を開設した」とシャネルの初の
オートクチュール店の誕生を伝える記述がある。

 この記事の書き方から推察すると、シャネルは当時すでにかなり名が売れており、ビア
リッツではその彼女の店の開店が待たれていたようだ。同紙は七カ月後の一九一六年十月
二十一日にはシャネルの店で「ソルド(バーゲン・セール)」が行われたことも伝えている。

 ヴィラ・ド・ララルドは町の中心部にあり、カジノも近かった。このヴィラ(別荘)は一
八六七年に英国海軍の将校で、ナポレオン三世とも姻戚関係のあるウィルソン・ベラーズ
という英国人が建設した四つのヴィラの一つで、当時は夫人の名を取ってヴィラ・ド・エ
ミリアと呼ばれていた。 いまはこのヴィラの一部が書店「ブックストア」になっており、
店名が英語であることが、旧所有者の国籍を忍ばせている。

 「ビアリッツの散歩道」(モニック・ルソー、フランシス・ルソー共著)によると、建設
当時は広いサロンと食堂に寝室十六室、数台の車が駐車できるガレージなどを擁し、ガレ
ージの運転手の部屋と母屋が電話で直結するなど当時の最先端の近代設備も整っていた。

 普仏戦争後の一八七五年にはビアリッツ市長の兄弟の弁護士に売られ、一九一八年十一
月には「数年前からすでに借家人だったデザイナー、シャネルが購入した」(同書)という。
このヴィラ購入の事実によっても、シャネルが順調に業績を伸ばしていたことが分かる。

●完ぺき主義 シャネルの店は「ガゼット・ド・ビアリッツ」を通じて四月二十日、八月
九日、十八日、九月八日にお針子の募集を行っている。シャネル社のピエール・ブンツ氏
によると「シャネルは約六十人のお針子を雇っており、給料は良かったが、完ぺき主義の
シャネルの要求で、しばしば徹夜をさせられ、夜の白むころまで仕事をすることが多かっ
た」という。 大西洋に面し、スペイン国境に近いビアリッツは十九世紀初めには、ひな
びた漁村だった。一八一三年にウェリントン率いる英軍部隊がナポレオン軍と戦い、戦死
した兵士がこの地に葬られたことから、まず英国の遺族たちが墓参にやってくるようにな
った。冬でも温暖な気候や大西洋岸の景勝は遺族たちの悲しみをいやしただけでなく、英
国の人たちの間ではやがて保養地としても知られるようになった。

 ビアリッツの名が一躍、有名になるのは、現在も豪華ホテルとして残るナポレオン三世
の別邸「ユージェニー宮殿」が一八五五年七月に完成したときである。少女時代からこの
地に親しんでいたナポレオン三世妃ユージェニーに説得された新婚の夫は一八五四年八月
に五万二千七百六十平方メートルを四万一千四十七フランで購入した。

 これをきっかけにパリの社交界では、この温暖の地で復活祭を過ごすのが流行になる。
当時の人気デザイナーだったウォルト、ドゥーセ、ポワレも競ってこの地に別荘を建て、
店を出した。
303卵の名無しさん:01/12/20 19:44 ID:LsvsPElQ
なんだで
304卵の名無しさん:01/12/20 20:26 ID:OTiEXnGZ
いいかげんに荒らしをやめてくれ
おまえのために後発会社MRは一層ミジメになるぞ
305Yoshiura@無能につき馘:01/12/20 20:45 ID:rZXXSaqj
 ユージェニーはパリ社交界の中心人物でその点では仏宮廷文化の伝統を引き継いだとい
える。マリー・アントワネット、ポンパドゥール夫人らはフランス宮廷から世界、つまり
当時のフランスにとっての世界である欧州に向けて流行を発信していたが、ロココ時代に
似た裾幅の広いスカートの流行もユージェニーに負うところが多い。

 このスカートを支えたのが麻(リン)と馬毛(クリン)を使った新型ペチコート「クリノリ
ン」である。それまでは何枚もペチコートを重ねることで張りを持たせていたが、これだ
と一枚で十分だった。ユージェニーはギロチンの露と消えたマリー・アントワネットをし
のんで、赤いリボンを首にまくのを流行させた逸話でも知られる。

 第一次大戦中、ドービルは空っぽになったが、ビアリッツはスペインが中立国だったお
かげで戦火を免れることができた。

 この時期にビアリッツを愛した芸術家にラベルやストラビンスキー、ロチ、コクトー、
ヘミングウェーらがいる。一九一八年の七月二十八日から九月二十八日までピカソはスト
ラビンスキーの支援者でもあったエラズリッツ夫人の館「ミモザ館」に宿泊し、傑作「ビ
アリッツの水浴女たち」を描く。

●大戦下の服  後にシャネルと親しくなるディミトリ大公もユージェニー宮殿の近くの
「ミラメール・ホテル」にしばしば投宿した。ビアリッツの人気は一九二〇年代の「ラネ
・フォル(狂乱の時代)」で頂点に達し、第一次大戦前には年間四万五千人だった観光客が
一九二九年には七万人と倍増している。シャネルの店は一九三〇年代の初めまで続いた。

 第一次大戦下でシャネルはどんなドレスを作っていたのだろう。 戦争中も発行を続け
たモード誌「フェミナ」は、一九一七年六月十七日付でギャバジンや編み物による「シャ
ネルのコスチューム」を紹介している。

 「スカートの両脇に襞が取られ、上着の長さはセミ・ロングでベルトによってオリジナ
ルな動きを見せており、カラーは高く、折り返しがありストラップを付けたポケットが非
常に新しい感じを与えている」

 それに先立つ号では「シミーズ・ドレスは前年ほど流行していないが、ドレスの線は直
線で、繊細で体に密着していないようだ。この傾向は異常に柔らかな材質によって強調さ
れている。ジャージーも昨年のものとはまったく異なっている。色はグレーやベージュで
明るい色は使用されていない。ブルーマリンは相変わらず使用されている。全体の印象は
非常に控えめである」と書いている。

 ギャバジンやジャージー。そしてグレーやベージュ。この特徴こそ、シャネルのもので
はないか。この記事はこの時代にシャネルがすでに流行を支配していたことを証明してい
る。 一九一六年二月、フランス北東部の小都市ベルダンでドイツ軍の攻撃が開始された。
フランスのペタン将軍を英雄にしたベルダン要塞攻防戦はその後、九カ月も激しい戦闘が
続く。シャネルがビアリッツにオートクチュールの店を開いたのは、そんな時期だった。
306Yoshiura@無能につき馘:01/12/20 20:46 ID:rZXXSaqj
死の地下壕  人は運命には逆らえない

 確かに彼は恐るべき歴史的現象であったかもしれない。しかし同時に彼は、重要な歴史
的現象であった。したがって、我々としては、彼の存在を無視してしまうわけにはいかな
いのである。(トレーバー=ローパー「ヒトラー最後の日」)

 アドルフ・ヒトラーの登場が果たして歴史的な特異現象なのかどうかという疑問は、ヒ
トラーの死後五十年以上を経た今も問われ続けている。とりわけその疑問は、ヒトラーが
ワイマール憲法で知られる自由な議会制民主主義のもとで登場したという事実に、より向
けられている。

 ヒトラーが政権についた一九三三年一月からポーランド侵攻までの六年八カ月の間に六
百万人の失業者が雇用され、経済的奇跡と激賞された。三八年のベルリンオリンピックの
大成功は聖火リレーなどの形式として今も引き継がれている。ワイマール時代の無秩序と
政治の不在に不満をうっ積させていたドイツ国民の八割はその時、ヒトラーを熱烈に支持
していた。 そして、大衆のその熱気こそが後に大量虐殺というすさまじい結果をもたら
す要因でもあったのだ。

 ベルリンが空爆と砲撃でほぼ完全に破壊され最終段階に入っても、ヒトラーは徹底抗戦
を叫んでいた。まるでドイツを道連れに自爆したような異様な死の現場から、この話は始
まる。

《物資を調達》 二百五十万人のソ連軍(赤軍)によるベルリン総攻撃が始まったのは一九
四五年四月十六日のことだ。これに対し、わずか二十五万人しか残っていなかったドイツ
首都防衛軍は総崩れとなった。二十四日深夜、ベルリン攻略最高司令官のゲオルギー・ジ
ューコフ元帥は、ヒトラーの立てこもる帝国総理府に向けて一斉砲撃を命令した。

 当時、ベルリン経済局食料調達責任者だった医師のエルンスト=ギュンター・シェンク
大佐は、砲撃で混乱状態にあった総理府内の総統官邸地下壕に入り、「ヒトラー最後の七
日間」を見届けた数少ない生き残りの一人である。

 「二十二日ごろだったと思う。私のところに帝国総理府防衛責任者だったモーンケ親衛
隊将軍から緊急電話があった」と九十三歳になったシェンクは話す。

 「食料をできるだけ調達してほしい、できれば武器弾薬も」との命令だった。総統官邸
に立てこもるのに必要な物資を用意せよというのだ。市の秩序を保つべき役所の管理者は
すでに逃げ出しており、兵士や部隊もそれぞれが最後の一戦に向かうなどと言いながら姿
を消していった。 シェンクはその時、シュプレー川沿いの臨時倉庫がまだ無事だったこ
とを知った。

 降り注ぐ砲弾や突撃してくる赤軍のことを考えれば、回収は至難の業だったが、とにか
く特別部隊を編成し、総統官邸に三千人が三十日立てこもれるだけの食糧を確保するのに
成功した。そしてシェンク自身もヒトラーの死のろう城に加わることになった。
307卵の名無しさん:01/12/20 21:01 ID:43TgWki3
>サイズが496KBを超えています。512KBを超えると表示できなくなるよ
だって。
いわゆる狙い通り?
308Yoshiura@無能につき馘:01/12/20 21:25 ID:oIaLZ9yN
 総統官邸はすでに崩壊寸前だった。旧官邸の地下十五メートルにある総統地下壕は二階
建てで、四方を厚さ二メートル以上のコンクリート壁で防護していた。そこにヒトラーと
愛人エバ・ブラウン、そしてゲッベルス夫妻ら側近グループを加えた約三十人が生活して
いた。そして地下道でつながる新官邸の地下室は臨時の野戦病院になっていた。

 地上階には総統幕僚関係者や総統護衛隊員らが潜んでおり、加えて避難民となった一般
市民数百人も周辺にいた。モーンケ将軍が指揮する官邸防衛部隊は三百人程度だった。

 ヒトラー警護を最後まで受け持ったのは武装親衛隊(SS)だったが、その内訳は特異な
ものだった。正規のアドルフ・ヒトラー警護連隊ではなく、フランス・シャルルマーニュ
師団、スカンディナビア戦車歩兵師団の残存部隊やヒトラー・ユーゲントらヒトラーを狂
信的に信奉する外国人および少年兵が主力となっていたのだ。彼らは官邸の外の陣地にい
て、定期的に食糧と弾薬を取りに来るだけだったので、実際の人数は見当もつかなかった。

《まるで病人》 一方、シェンクが徹夜で患者を診ることになる臨時野戦病院には著名な
外科医ウェルナー・ハーゼ博士がいたが、彼はそのときすでに重い肺炎に冒され、執刀す
る体力も気力もなく、本来、内科のシェンクが二人の看護婦やヒトラー少女てい身隊員と
ともに連日、五十人近くの市民や兵士の手術をしていた。

 興味深いのは、壮大な建築で知られる総統新官邸の謁見用大ホールだ。ヒトラーが外交
官を威圧するために作らせた大理石づくりの長大なホールは臨時の台所と化していた。料
理用ストーブのわきに手りゅう弾がいっぱい詰まった弾薬箱が山積みにされ、シェンクは
ゾッとしたのを今も思いだすという。 三十日午前三時半ごろ、シェンクは初めてヒトラ
ーと直接会った。それはヒトラーがエバと自殺する十二時間前のことだ。

 野戦病院に通じる階段にヒトラーがハーゼ博士とともに現れた。シェンクと看護婦二人
は直立不動の姿勢をとった。 「ヒトラーは落ち着いていた。まるで重病人のようで完全
に疲弊していた。しかし、例の規律を感じさせるあいさつをし、われわれ一人一人に『最
後までありがとう』と感謝とねぎらいの言葉をかけた」とシェンクは死を覚悟した独裁者
の姿を再現する。

 看護婦の一人が「ジーク・ハイル・ヒトラー(総統万歳)、私たちは最後まで従います」
とヒステリックに叫んだ。ヒトラーはくるりときびすを返して、「人は運命(宿命)には逆
らえない。ひきょう者になってはいけない」と静かに言った。 それから数時間後、シェ
ンクはヒトラーがエバやゲッベルスらとともにワインを飲んでいるのを見かけ、その直後
にハーゼからヒトラーの自殺の決意を聞かされた。

 「死の直前」とシェンクはいう。ヒトラーは側近たち十数人を集め、一人一人の労をね
ぎらいながら、勲章を手渡すように青酸カリ入りのアンプルを渡した。そして寝室で銃を
片手に持ち、青酸アンプルを口に含むと同時に自ら頭を打ち抜いた。 「ヒトラーの永遠
の同志を自認するヘーベル(外務次官)が私の目の前で死ぬとき、『総統と約束したから』
と言ってそんな死に方をしたので、私はヒトラーもこうやって命を絶ったのだと実感した
のです」
309Yoshiura@無能につき馘:01/12/20 21:32 ID:4hvDV3Fs
死の地下壕(2) 灰になるまで焼きつくせ

 アドルフ・ヒトラーは一九四五年四月三十日午後三時三十分、総統官邸の地下十五メー
トルにある地下壕で、青酸入りアンプルを口に含むと同時に愛用のけん銃ワルサー七・六
五ミリで自らの頭を撃ち抜いた。ウェルナー・ハーゼ医師が直接伝授したというこの「確
実な死」は、ヒトラーが望んだ通り即死だったと推測されている。

《銃声を待つ》  死の瞬間、地下壕にいたのは三十人前後。そのうち執務室のドアの前
で、今か今かと銃声を待っていたのは総統官邸官房長官、マルチン・ボルマン、帝国宣伝
相、ヨゼフ・ゲッベルス、ヒトラー・ユーゲント指導者、アルツール・アクスマン、そし
て総統付き副官で親衛隊少佐のオットー・ギュンシェの四人だった。総統の死を確認する
特別命令を受け、本来ならドアの一番前で待たなければならなかった従卒の親衛隊少佐、
ハインツ・リンゲはその時、落ち着きをなくし、地下壕の非常口にいた。

 このうち今も生存するのはギュンシェだけだが、彼は極度のマスコミ嫌いに陥っており、
産経新聞とのインタビューにも一切、応じなかった。代わりに総統執務室のすぐ向かいの
電話室にいた親衛隊軍曹、ロヒュス・ミッシェが当時の地下壕内の張りつめた雰囲気とそ
の瞬間を証言した。七十九歳になったミッシェはソ連での抑留を経験し、現在はベルリン
で年金生活を送っている。  「私が見た総統最後の姿は、なぜか足でした」とミッシェ
はいう。  砲撃や爆撃音にかき消されながらもピストルの発射音とみられる鋭い音が壕
内に響いた。

 その時、ミッシェは地上への非常口の階段のところにいた。「リンゲ、リンゲ、ついに
その時が来た」という叫び声が聞こえた。ボルマンのようだった。ミッシェがとっさに総
統執務室の方をみると、リンゲとギュンシェが青ざめた顔で執務室にはいるところだった。
ボルマンの姿もあった。ミッシェはドアが開け放たれたままの総統執務室をのぞいた。
「まずエバの遺体。ダークブルーのスーツに白い襟がみえました。その横にヒトラー総統
の遺体がある。しかし、にょっきり突き出た足しか見えず、結局、金縛りにあったように
総統の顔は正視できなかった。わずか三十秒ぐらいの出来事でした」

 ヒトラー自殺の場面で重要な役割を演じたのは、ヒトラーを継いでナチス党党首となっ
たボルマン、そしてヒトラーの信任の厚かったギュンシェとリンゲだった。  ギュンシ
ェはボディーガードを兼ねた総統付き副官という肩書だが、最後には個人的な話し相手に
なるほど頼られていた。

 一方、リンゲも一九三五年以来のヒトラー付き従卒で、私生活面のすべてを知る男とさ
れる。二人ともソ連軍捕虜となったとき、モスクワで徹底的な取り調べを受けている。

 そのリンゲが一九五五年にソ連での捕虜生活を終えて西ドイツに帰国、すぐにだした回
顧録(昭和三十年、産経新聞夕刊で五十回連載)では、ヒトラーは自殺の五日前に特別命令
をリンゲに与えていた。その命令とは「だれにも私の死体と分からせてはならない。灰に
なるまで焼きつくせ」というものだった。 この遺体焼却についてミッシェは「(ヒトラ
ーの)遺体は毛布にくるまれ、ギュンシェとリンゲが外に運び出し、エバはボルマンによ
って毛布にくるまれ、ケムカが運び出した。
310卵の名無しさん
これで最期の一撃になるかな?