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ケンタン :
01/11/27 23:19 ID:??? 本社の親戚連中ご苦労さま(大爆笑)
このスレッドはどこまで続けるつもりだ?
ここもあのあらしが来るのかなあ、ワクワク
恐らくクラヤかスズケンの仕業だろ
↑ 社長です
あの荒らしはわざと沢井スレッドを目立たせようとしているように 思えてならないですが、考えすぎか?
なんかなぁ、なかばあきれつつ。 懲りないですなぁ。 沢井関連のスレを複数立てて、荒し攻撃を分断させようとする目論見? いろいろと問題が百出するのは沢井だけではないでしょう。 批判・意見には真摯に受け止める姿勢が大切だとは思うものの あの荒し、いったい誰の仕業なんだ。
密使に与えた? 「皇帝の委任状」 新聞社の海外支局はどこでもそうだろうが、ソウルでもよく人がたずねてくる。見知ら ぬ人の突然の訪問もある。それに、これはおそらくソウル特有のことかもしれないが、モ ノの売り込みも多い。そのため時に支局の韓国人スタッフがドアに「雑商出入り禁止」な どと張り紙をはったりする。しかし「雑商」も情報源である。できるだけ付き合うように している。 モノの売り込みにはいわゆる骨董品のたぐいが多いのだが、これはこちらに見る目がな いからあまりお相手できない。それでも「日帝(日本帝国主義)時代のモノですが」といっ て持ってこられると、歴史的想像力がはたらいてつい話に乗ったりする。 ●大変なモノ たとえば日本統治時代の昔、朝鮮総督府の職員食堂で使っていた食器だといって、それ らしいマークの入った古皿など面白い。日韓併合前に韓国統監をした伊藤博文や彼を暗殺 した安重根の「書」などというのは、本物かどうかは分からないが思わず「ホーッ」とな って引き込まれる。 そんな中で、これは知り合いの韓国人が持ってきたのだが、先年、 八十八歳で亡くなられた故李方子さんの「書」というのがあった。 「無量寿」と書かれ額縁入りだった。李方子妃は晩年、ソウルで身障者のための福祉事 業をやっておられ、篤志家たちにしばしば書を贈られていたという。ぼくも生前、何度か お会いしているので、この持ち込みには珍しく食指が動いた。そう高いものでもなかった ので買い取った。 「無量寿」は心なごむ穏やかな書体で、今もぼくの部屋の壁に掛かっている。 それか らしばらくしてくだんの知り合いは別の品を持ち込んできた。知り合いの知り合いが緊急 の金に困っているので人助けのつもりで引き取ってくれないかという。聞くとかなり高い。 ある歴史文書で額入りだったが、ぼくが乗り気を見せないため、手持ちのほかの品をつけ てもいいといっているがどうかという。 ほかの品というのは、故朴正煕大統領のほか金 鍾泌氏ら現存の政治家の揮ごうだった。 その熱心さと「人助け」という言葉に釣られ、 とうとう引き取らされた。安くはなかった。 ぼくには骨董の趣味はない。だから故朴大統領ら政治家の揮ごうなら持っていて面白い と思い、手を打った。問題は歴史文書の方である。引き取った後、よく考えてみると大変 なモノだった。 ●3人の密使 日韓併合(一九一〇年)の直前の一九〇七年(明治四十年)に起きた歴史的な「ハーグ密使 事件」にかかわるもので、当時の韓国皇帝・高宗が日本糾弾のためオランダのハーグで開 かれた第二回万国平和会議に派遣する密使たちに与えた委任状だった。皇帝の親印である 「御璽(ぎょじ)」もちゃんとついている。
つまり朝鮮王朝(李朝)末期の大韓帝国皇帝が、この密使たちは自分が任命し派遣する正 式の使節であるということを証明した文書なのだ。大きさは縦・横三十センチほどのほぼ 正方形で、紙は黄ばんでおり、毛筆とみられる本文や皇帝のサインは鮮明だが「皇帝御璽」 の朱色はあせている。いかにも古文書といった趣だ。 後で紹介するように、この密使は皇帝が正式に派遣したものであるかどうか、ニセ物だ と主張する日本代表の抗議によって万国平和会議は大騒ぎになるのだが、まさに九十年前 の歴史的事件で焦点になった「皇帝の委任状」である。 妙なものを引き取ってしまった。売り込み通り、もしこれが本物だとするときわめて貴 重な歴史的資料ということになる。韓国では陶磁器などを含め、文化財の勝手な売買や海 外持ち出しは禁じられている。 こんな貴重な歴史的文書だと文化財みたいなものだから日本に持って帰るわけにはいか ない。それに「ハーグ密使事件」という日本がらみの史実にかかわる資料とあっては、日 本人が持っていること自体まずいかもしれない。しかし、とりあえず本物かどうか確かめ る必要がある。 韓国には「ハーグ密使事件」で派遣された密使三人のうち、主人公の李儁(イ・ジュン) を顕彰する「李儁烈士記念事業会」というのがある。この会に電話して「皇帝の委任状を 持っている」とはいわず、それとはなしに聞いてみたところ「どこにも原本はなく、写真 でコピーしたものがあったようだ」という。 日本支配時代の抗日抵抗運動に関する資料 を大々的に集め展示している独立記念館に問い合わせても、ないという。学者や研究者に 聞いても原本は見たことがないし、密使に与えられた皇帝委任状が万国平和会議の後、果 たして再び韓国に戻ってきたかどうかも確認されていないという。 ●疑問だらけ となると本物の可能性がある。委任状にも記されているように密使は三人だったが、委 任状は一枚だったのだろうかそれとも一人に一枚ずつ三枚あったのだろうか。あるいは皇 帝は原本だけで控えは作らなかったのだろうか、など疑問がわいてきた。 それでも、もし本物だった場合、やはり外国人とくに日本人が持っているというのはま ずい。これが韓国の人びとに知られると何かと面倒だ。しばらくはせんさくはせずに保管 しておこう。引き取った当初はあれこれ考え、楽しんだり気にしたりしたのだが、そのう ち忙しさにとりまぎれ、半ば忘れていた。 ところが今回、この「20世紀特派員」で朝鮮半島の二十世紀を振り返ることになり、は たと思いだし、あらためて「皇帝の委任状」の真がんを確かめる気になった。 と同時に 当時、日韓を揺るがせた「ハーグ密使事件」というのは何だったのか。密使のうち李儁は ハーグで「憤死」したというがなぜ死んだのか。そういえば先年、北朝鮮に拉致(らち)さ れたとして話題になった韓国の映画監督・申相玉氏に、北で製作した「帰らざる密使」と いう映画があったはずだ。
日本の圧力下、皇帝は動いた 先ごろ台湾に旅行した際、台北のホテルの部屋にあった英語、中国語、日本語からなる ガイドブックを見ていたら、台湾の歴史を書いた部分にこうあった。 「一八九四年に は朝鮮戦争が勃発した。一八九五年下関条約で清は台湾と澎湖の日本への割譲に同意した。 中国に属していた朝鮮も独立を宣言し、その後、日本の領土に組み込まれる」 はて、「朝鮮戦争」とは第二次大戦後の一九五〇年に朝鮮半島の南北の間で起きた戦争 ではなかったか。一瞬、首をかしげたが、よく読めば分かるように日清戦争(一八九四− 九五年)のことを「朝鮮戦争」といっているのだった。 なるほど、日清戦争は朝鮮半島に対する支配権をめぐって日本と清(中国)が争ったのだ から「朝鮮戦争」でもいいわけだ。あの戦争が中国あるいは台湾サイドからはそう見える というのは面白い。 日清戦争は十九世紀末だが、二十世紀に入って起きた日露戦争(一九〇四−一九〇五年) も実は朝鮮半島の支配権をめぐる日本とロシアの戦いだった。「朝鮮半島における日露戦 争」については後に詳しく触れる。日露戦争において苦戦しながらもロシアに勝った日本 は朝鮮半島に対する支配を強める。その象徴がポーツマス条約の二カ月後、一九〇五年(明 治三十八年)十一月に結ばれた日韓保護条約である。 正式には「第二次日韓協約」といい、韓国ではその年の干支(えと)から「乙巳(ウルサ) 条約」といっている。これで日本は韓国の外交権を奪い韓国を日本の保護国にしてしまっ た。日韓併合の五年前だが、韓国は実質的には日本の植民地になってしまった。 当時は弱肉強食の帝国主義時代だから、列強による領土分捕りが行われていた。日本が 韓国を保護国にして外交権を奪うことについても、ライバルのロシアは日本との戦争に負 けたためどうすることもできない。英国は日英同盟のため日本に理解を示し、米国は同じ 年の七月の桂・タフト秘密協定で事前了解している。 桂・タフト協定というのは、米国のタフト陸軍長官がフィリピン訪問の途中、日本に立 ち寄り桂太郎首相との間で交わした秘密覚書で、日本がフィリピンに対する米国の支配を 認める代わりに、米国も韓国に対する日本の支配を認めるというものだった。 この「20世紀特派員」の太平洋編で高山記者は、米国のフィリピン支配に先立つハワイ 王国併合の話を紹介しているが、そんな当時の国際情勢の中で日本もまた「ロシアの脅威」 を背景に韓国に対する支配に乗り出したのである。 しかし、弱肉強食の時代だからと いって、食われる方が黙って静かに引き下がるというわけにはいかない。韓国はこの保護 国化に当然、猛烈に反発した。 とくに皇帝・高宗は「自分は協約を認めていない。だから署名していない。協約は無効 だ」といい、日本の横暴を国際社会に訴えようとひそかに動いた。一九〇七年の「ハーグ 密使事件」は日本の厳しい監視の目をくぐっての皇帝・高宗による窮余の一策だった。
密使になったのは李儁(イ・ジュン)、李相●(イ・サンソル)、李▲鍾(イ・イジョン)の 三人。李儁が日本の目をかすめてひそかに皇帝から委任状を受け取り、釜山から船でウラ ジオストクに渡った。 そこで李相●と合流し、さらにシベリア鉄道でロシアの首都サンクトペテルブルクに行 き、駐ロシア公使館員で外国語の堪能な李▲鍾を加え、三人になって第二回万国平和会議 が開かれているオランダの首都ハーグに乗り込んだ。六月二十四日だった。 一行は途中、サンクトペテルブルクで皇帝・高宗からロシアの支援を求める親書をニコ ライ二世ロシア皇帝に手渡してもいる。万国平和会議の開催も実はニコライ二世の提唱に よるものだった。日露戦争が終わって二年たっているが、韓国皇帝は日本の力をけん制す るため依然、ロシアの力を借りようとしていた。 しかし、万国平和会議は三密使を正式代表とは認めなかった。三密使は場外でのビラま きや記者会見、演説会などで日韓保護条約の無効、不法を国際世論に訴えた。 このあたりを韓国の申相玉監督が北に連れていかれて作ったという映画「帰らざる密使」 で見ると、正式代表として会議での発言を認めろと各国代表に迫る密使たちに対し、日本 代表の都築馨六は「連中はニセの使節団だ。本当に皇帝から派遣されたものかどうか本国 に問い合わせてはどうか」という。 数日後、韓国皇帝から回答の電報が届いた。 「一九〇五年の条約は双方の完全な合意 により円満に締結されたものである。私は貴会議にいかなる代表も使節も送ったことはな いし、いかなる者にも委任状を与えたことはない」 密使たちがたずさえてきた皇帝・高 宗の署名と親印の「御璽(ぎょじ)」が記された委任状もニセ物というわけだ。 会議場は騒然となり、得意顔の日本代表とは対照的に密使達は呆然と立ち尽くす。密使 達には各国代表から「サギ野郎!」「出ていけ!」と罵声が飛ぶ。 「違う、違う!皇帝 は日本によって軟禁されているのだ!」「回答は統監の伊藤博文がよこしたのだ!」怒り に震える密使・李儁。「われわれが日本にどう抵抗するか、見せてやる!」と叫ぶや、隠 し持った短刀で腹をかき切って自決する。これが「ハーグ密使事件」の顛末である。 今では、事実は密使たちの主張が正しいというのが定説だ。ハーグの万国平和会議によ せられた韓国皇帝の回答は、当時、韓国統監としてソウルで韓国朝廷ににらみを利かせて いた伊藤博文など日本側が皇帝に圧力をかけた結果という。ただ、李●の会議場での自決 は間違いで、今ではホテルでの病死が定説になっている。韓国では憤死といっているが。 では、前回紹介したように九十年後の今、ぼくの手元にある問題の「皇帝の委任状」の 真がんはどうなるのだろうか。 ●=咼のうえに├ ▲=王へんに偉のつくり
複数が存在? カギ握る皇帝印 ソウルの景福宮の前の路地に日本大使館があり、隣が韓国日報社でその角を安国洞(ア ンクッドン)ロータリーという。このロータリーの交差点から斜めに入る通りが仁寺洞(イ ンサドン)で画廊や民芸店、骨董屋、表具屋、古本屋などが並んでいる。 仁寺洞の左右の路地には「韓式」といわれる韓国料理屋が軒を並べており、七〇年代ま では韓国の料亭政治の舞台になっていた。ぼくも昼メシ時よく出掛ける。仁寺洞のいいと ころはメシの後、画廊や古本屋などをのぞきながらぶらぶら歩けることだ。 昼メシの後、ある古本屋にぶらっと入ったところ偶然に「一醒・李儁烈士−輝く民族の 精華」(李善俊著一九七三年刊)という本を見つけた。一九〇七年「ハーグ密使事件」の際、 現地で「憤死」したという李儁(イ・ジュン)の伝記である。立ち読みでページをめくって みたところ、口絵写真に皇帝・高宗が李儁ら密使に与えた委任状のコピー写真が出ている ではないか。 ■微妙な違い 委任状そのものの写真ではなく、文字や署名、親印の部分を凸版で印刷し てある。早速、買って帰って手元にある原本とおぼしき委任状と比べてみた。 そっくり である。文字から皇帝の署名、それに「皇帝御璽(ぎょじ)」の印章まで実によく似ている(た だ掲載の都合でか、署名と印章の位置を上に移動させてある)。委任状は毛筆の漢文で文 字は全部で二百九十五字ある。 虫メガネで両方の字を見比べてみた。ところが書体はそっくりなのだが、一部の字に微 妙な違いがある。たとえば、署名の上の方に三文字で書かれている「大皇帝」の「大」の 字をみると、凸版コピーの方は左のはねる部分が右に比べて太いのに対し、手持ちの方は 細かくスマートである。 本文の字にも微妙な違いが散見される。そういえば「皇帝御璽」の印章も、手持ちの方 がどこかスマートで、字画の傾斜部分などにわずかな違いがある。となると二つは別物と いうことになる。ではどちらが本物なのか。伝記に収録された凸版コピーの原本はどこに あるのか。 伝記に掲載されているコピーは「ハーグ密使事件」の後、米国のインディペンデント誌 一九〇七年八月号に掲載された写真から取ったものであることがその後、分かった。 密使三人のうち李相●はハーグ万国平和会議の後、欧米各国を歴訪し、日本による韓国 の外交権はく奪など日本の不法ぶりを訴えて回った。 この李相●の生涯を追跡した本に尹炳▲著「李相●伝」(一九八四年刊)というのがあり、 この本に委任状の写真が出ていたのだ。 著者の尹炳▲・元国史編纂委員会調査室長に聞 くと、李相●が米国でのアピール活動の一環として委任状を米国で紹介したのだという。
この写真でみると、先の伝記の凸版コピーの原本はこれという感じである。尹炳▲博士 も、そのようだという。しかし現在、皇帝委任状は米誌に掲載された写真が残っているだ けで原本はどこにもない。 ところが、尹博士の研究によると、高宗皇帝が密使たちに与 えた委任状は署名と「皇帝御璽」だけの白紙委任状だった。高宗は日本の不法ぶりを各国 に訴えるため秘密の皇帝親書をかなり出しているが、それらも白紙委任状の場合が多く、 内容はそれぞれ持っていく者たちに書かせたのだという。 ■「本物に近い」 しかしハーグへの密使三人に白紙委任状を何枚持たせたかは明らかで ない。途中で日本側に奪われるかもしれないし、日本側の刺客に消されることだってあり うる。万一のことを考え、持たせた委任状は一枚ではなかったかもしれない。だからぼく の手元にある委任状が本物という可能性はまだ、ある。 白紙の委任状が複数出されていたとしたら筆跡に多少の違いがあってもおかしくない。 では皇帝のハンコである「皇帝御璽」はどうか。 当時の条約や協定の署名、捺印(なつ いん)に詳しい李泰鎮ソウル大教授(国史)に聞くと、同じく国を代表する印章だった「勅 命之宝」など他のハンコは残っているが「皇帝御璽」は行方不明で現存しないという。 問題の委任状の真がんについて李教授は「限りなく本物のように見えるが、やはりハン コが色をはじめちょっと違うようだ」という。しかし「皇帝御璽」が一つしかなかったの かどうか、これまた分からない。 ■商売目的? ニセものをつかまされたとすると一種の詐欺だからぼくも腹が立つ。では 本物そっくりのニセ物だとして、なぜこんな歴史的文書が偽造されるのか。李教授は「骨 董品として商売にしようとしたのかもしれない。原本が存在しないという品物が最も偽造 者たちのターゲットになりやすい。 皇帝のハンコのある文書まで偽造するとはとんでも ないだって?いや、王家をつぶされ国まで奪われたわれわれですから、それくらいのこと はあるでしょう」と自嘲気味にいうのだった。 韓国駐在の伊藤博文統監をはじめ日本側は、韓国の外交権を奪った保護条約の押し付け に対する韓国皇帝の抵抗に手を焼いた。「ハーグ密使事件」の後、怒った日本側は高宗を 無理やり退位させ、体が弱く判断力が乏しかったという純宗を皇帝の座につけ、三年後に は韓国を併合してしまう。 ところで「ハーグ密使事件」では面白いエピソードがある。 密使の一人だった李儁の 「憤死」だが、今でも映画「帰らざる密使」にあるように割腹自決が広く信じられている。 抗日運動家の英雄的な死としてはそうでなくてはいけない。現地では日本による毒殺説も 流れたという。しかし、ハーグ平和会議を取材した唯一の日本人記者に大阪毎日新聞の高 石真五郎がいた。彼は現地で密使たちに会っているのだが、二十年以上たった一九三〇年 (昭和五年)一月に新聞に連載した回想録で、李儁の死は顔に重症のはれ物ができたための 「病死」だったと伝えている。まさに「二十世紀特派員」の証言である。 ●=咼のうえに├ ▲=夾の人を百
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社長 :01/11/28 11:40 ID:???
荒らしはやめろ
仁川沖海戦 「半島支配」めぐり日露激突 今年二月九日、ソウル西郊の仁川港にロシア太平洋艦隊のミサイル巡洋艦「ワリヤーク」 (11,560トン)が入港した。親善訪問ということで一般市民にも公開された。凍りつ きそうなひどく寒い日だったが、見に出かけた。 仁川港の第三埠頭に横付けされた「ワリヤーク」は巡洋艦だけに相当デカイ。グレーの 横腹にロシア文字で白く「ワリヤーク」と書いてある。艦尾には白地にブルーのロシア海 軍旗がひるがえっていた。舷側のミサイル発射管の列が不気味である。 「ワリヤーク」 は二月九日という日に合わせて仁川に入港した。仁川港における「二月九日」とは。 「ワリヤーク」は入港に先立ち、港内の海上でちょっとした海上慰霊祭をやっている。 一九〇四年二月九日、日露戦争開戦に際し仁川沖で日本海軍と戦い沈没した巡洋艦「ワリ ヤーク」(六、五〇〇トン)の戦没将兵の霊を弔ったのだ。今回、韓国を親善訪問したミサ イル巡洋艦は当時の沈没艦の名前をそのまま受け継いで仁川港にやってきた。 ■堂々と慰霊 九十年前、ロシアは韓国の支配を巡って日本と争った。しかしロシアがそ のことで韓国側に気を使ったふしはない。堂々たるものである。三年前の二月九日にもこ んなことがあった。 前の月に赴任したばかりのクナーゼ駐韓ロシア大使が、駐在武官を 伴って仁川港を訪れた。 クナーゼ大使は韓国の海洋警察の警備艇に乗って沖合に出向き、 海に弔花を投じて戦没将兵の霊を慰めた。大使にとってソウル赴任後、初めての地方視察 がこれだった。 これは大使の個人的な趣味から出たものではない。在韓ロシア大使館の 公式行事である。 ロシアは幸か不幸か韓国を植民地支配しなかった。しかし日露戦争の原因の一つは、朝 鮮半島に対し日本とロシアのどちらが支配権を握るかだった。だから戦争は仁川沖で始ま った。ロシアは日清戦争(一八九四−九五年)後の三国干渉に加わり、韓国から日本の影響 力を追い出そうとしていた。 これを日本人がいうと韓国人たちは「過去を正当化するもの」といって反発するが、も し日露戦争でロシアが勝っていれば、韓国がロシアの支配下に入っていたことはかなりの 確率で確かだろう。 ■京城の一報 日露戦争は韓国にとっては迷惑な戦争だった。しかしロシアにとって仁川 沖の海戦は「勇敢なロシア魂」の歴史というわけだ。ロシア人たちは大使以下、自分たち の歴史観にしたがってだれはばかることなく歴史の現場を訪れ、自国の将兵の霊を慰めて いる。 日露戦争開戦の日本への第一報は、実は京城(ソウル)から発せられた。 (京城来電九 日午後特派員発)日露砲戦/露艦沈黙/仁川にある露艦二隻より発砲したるため、本日正 午十二時二十五分より一時まで約三十分間砲戦の後、露艦ワリヤーク号は命中のため前方 に傾き沈黙し、コレーツ号はマストを折りて沈黙し、二隻とも八尾島陰に隠れたり(一九 〇四年・明治三十七年二月九日の大阪毎日新聞号外から)。
この砲撃戦で「ワリヤーク」は死者四十一人、負傷者六十六人を出した(昭和八年刊「仁 川府史」)。艦長は残る乗組員を退避させた後、午後四時すぎ砲艦「コレーツ」を爆薬で 自沈させた後、「ワリヤーク」も艦底に浸水させ自沈させた。その後、同行していたロシ ア商船「スンガリー」も自爆し沈んだ。ロシア艦船は日本艦隊による仁川港からの撤退の 呼びかけを拒否して自爆、自沈したのだった。 韓国・朝鮮日報の名コラムニスト李圭泰氏は今回の「ワリヤーク」の仁川入港に際しい くつかの歴史エピソードを紹介している。 たとえば仁川沖海戦の前夜、「ワリヤーク」 のルードネフ艦長は仁川にあった日本料亭「一山楼」でキーセン(妓生)遊びに興じていた というキーセンの回顧談があって、ロシア艦隊はかくも天下太平だったという。 しかし「仁川府史」によると、ルードネフ艦長に料亭遊びを教えたのは実は日本艦隊の 巡洋艦「千代田」の艦長・村上格一大佐だった。開戦前、村上艦長が友好親善のため「一 山楼」に招待し、ロシアの艦長はそれが面白くてその後、何回も通ったのだという。 ■新艦を派遣 また当時、韓国で「コリアリビュー」紙を作っていた米国人ハルバートの 海戦目撃談もある。ハルバートは後に韓国皇帝・高宗の外交相談役になる人物だが、既に 紹介した「ハーグ密使事件」にも加担し「お雇い密使」として諸外国に日本糾弾を訴えて 回った。 ハルバートによると、仁川沖海戦ではロシア艦の砲撃は日本艦隊に一発も当たらなかっ たが砲撃戦などによる爆風はものすごく、民家の門の閂がはずれるほどだったという。 また英タイムズ紙によると、「ワリヤーク」沈没に際し英国艦に避難した「ワリヤーク」 の軍楽隊は沈みゆく艦に涙しながらロシア国歌を演奏したとか。 「ワリヤーク」は後に引き揚げられ日本海軍の練習艦「宗谷」になった。日本艦隊の主 役だった「千代田」は引退後、そのマストが港を見下ろす現在の「自由公園」の丘の上に 飾られていたが、朝鮮戦争(一九五〇−五三年)の際、焼失してしまったという。 ロシア海軍は「ワリヤーク」の名前を忘れず、しかもわざわざ二月九日に仁川に新「ワ リヤーク」を堂々と派遣している。これが国際的には普通のことなのだろう。 現場に近い仁川港の月尾島(ウォルミド)には今や観光魚屋が軒を連ねている。イケスの 魚を刺し身にしてくれる活魚料理で有名だ。二十世紀初頭の海の古戦場を前に、刺し身を 食べながら日露戦争に想像力をはたらかせるのも興味深い。 日本は一九〇四年二月十日、日露戦争の宣戦布告にあたって開戦の詔勅を発表した。そ れには「韓国の存亡は帝国(日本)安危のかかる所」と書かれている。近代日本はなぜそん なに韓国にこだわったのだろう。
巨済島に残る英雄たちの魂 昨年九月二日、日本の海上自衛隊の練習艦隊が戦後、初めて韓国を訪れた。現場は首都 ソウルから遠く離れた南部の釜山港だった。天気は快晴。練習艦「かしま」(4,050 トン)と護衛艦「さわゆき」(2,950トン)の艦尾に揺れる白地に赤の「海軍旗」が目 にしみた。 一九四五年の日本敗戦に伴う日本人撤退以来、初めての日本艦隊の韓国訪問だった。山 田通雄艦隊司令官以下、乗組員一同は韓国民の対日感情をおもんぱかって緊張した上陸だ った。 一同は寄港前の艦内教育で韓国の歴史を熱心に教えられた。その中には十六世紀の豊臣 秀吉の朝鮮出兵のことや二十世紀初頭の日露戦争、一九五〇年代の朝鮮戦争も当然、入っ ていた。 今から四百年前、韓国南部の海域で秀吉の水軍を迎え討った韓国(朝鮮)水軍の 名将・李舜臣(イ・スンシン)将軍が、現代韓国で偉人の一人として大いに尊敬されている という知識も教わった。 日本練習艦隊は五日間、滞在した。一同は陸にも上がり、南北が緊張する休戦ラインの 板門店も視察した。平穏かつ無事に日程を消化し、日本艦隊は静かに釜山港を出港した。 ところでこの釜山の西沖合に巨済島という島がある。水中翼船で片道四十分ほどの距離 にある。島には韓国有数の財閥企業が経営する造船所がいくつかあって、近年大いに開け た。島は椿の花が美しい。 巨済島は歴史的に実に面白い。古い方からいうと、前述のようにこの周辺海域は秀吉の 朝鮮出兵で双方の水軍が激戦を交えた海の古戦場である。 新しいところでは朝鮮戦争(一九五〇−五三年)の際、国連軍の捕虜になった北朝鮮の人民軍や中国軍将兵らの捕虜収容所があった。収容所は十万人もの大規模なもので、捕虜たちの反乱や暴動、内部粛清などトラブルが絶えず国際的に大いに注目された。 この間にはさまって二十世紀の初頭、日露戦争の際の日本海海戦がある。東郷平八郎司 令長官の日本連合艦隊がこの島の沖でバルチック艦隊を待ち伏せした。旗艦「三笠」から 日本に伝えられた戦闘開始の第一報「天気晴朗ナレドモ波高シ」はここから発せられた。 巨済島には以前から気になっていることがあって、今回の「20世紀特派員」の企画で思 い立って出掛けた。というのは日本海海戦の戦勝を記念する東郷平八郎の親筆の石碑が、 この島の倉庫にひそかに保管されているのだ。 記念碑の存在が明らかになったのは一九八〇年のことで、大阪在住の日本人篤志家が地 元に復元したいと要請してきたことからだった。当時、ソウルにいたぼくは現地の巨済島 は訪れないまま、その話を八一年一月三十一日付の新聞に書いたことがある。
記念碑は三二年(昭和七年)に建てられたものという。四五年八月の日本敗戦に際し「日 帝の遺物だ」として破壊された。もとは台座があり高さ四メートルの塔のようになってい たのだが、台座と碑面の一部だけが残った。 その後、地元の警察分署前のドブ板に使わ れていたのを文化財調査の学者が見つけ、本署の倉庫に保管した。石碑は花こう岩で大き さは縦一・六メートル、横六十センチ。上部三分の一あたりで二つに割れている。 碑文は漢文で「接敵艦見之警報聯合艦隊欲直出動撃滅之本日天気晴朗波高(敵艦見ゆと の警報に接し、連合艦隊は直ちに出動しこれを撃滅せんと欲す、本日天気晴朗なれども波 高し)」となっている。 例の有名な一文である。この後に「平八郎書之」と刻まれている。 まだ石碑は保管されているのだろうか。復元話はどうなったのだろうか。 巨済島は 一九〇八年当時は巨済郡だったが今や巨済市になっていた。碑は市庁の物置にあった。保 管というよりバケツやホウキ、こわれたいす、不要の機材などとともに雑然と置かれてい た。ほこりをかぶり、刻まれた碑文もよく見なければそれとは分からない。 復元話の方は、郡庁など地元も日本人向けの観光資源として活用できると賛成し、日本 側から資金援助の申し出もあり、当時の全斗煥大統領にも慶尚南道視察の折に復元計画案 が報告されたという。 ところがこの話を地元の一部新聞が特ダネ報道したことから、抜かれた他紙の記者たち が「聖域に日帝の亡霊復活!」と一斉に非難記事を掲載し、つぶしにかかった。 「聖域」とは、既に紹介したようにこのあたりが秀吉の水軍を撃退した救国の英雄・李 舜臣将軍の「民族守護」の古戦場だからだ。 マスコミに反日キャンペーンを展開される ともうダメだ。ソウルの各種民族団体も騒ぎ出し復元計画は結局、流れてしまった。 この一部始終を知っている地元の郷土史家・李勝哲氏(市文化公報室勤務)に島を案内し てもらった。彼は「日本は百済(くだら)文化など韓国の文化をちゃんと保存している。わ れわれは韓国から日本文化をなくそうと熱心だが、日本に支配された恥辱も歴史は歴史だ。 残してなぜそうなったのか反省、教訓にすればいいのに、それを無くそうとするのは間違 いですよ」と力説する。今でも市当局に復元を建議しているという。 記念碑は東郷平八郎の旗艦「三笠」が停泊していた鎮海湾や、艦隊の主力が待機してい た加徳島が見える松真浦(ソンジンポ)にあった。今は畑になっている。 この鎮海湾や 加徳島での東郷艦隊の様子は司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に詳しい。その中で、東郷 艦隊の出撃に際して水雷艇(魚雷艇)のある艇長が「李舜臣提督の霊に(勝利を)祈った」と いうエピソードが紹介されている。 また日本のある海軍少佐が書いた本では「英国のネルソン以前の海の名将は世界史上に おいて李舜臣を除いてなく、朝鮮においては長く忘れられたが、かえって日本人の側に彼 への尊敬心が継承され、明治期に海軍が創設されるとその業績と戦術が研究された」とも いう。
竹島(独島)紀行 “宝探し”主人公の素顔 日露戦争は陸の旅順攻略と並んで日本海海戦が大ヤマとなった。ロシアのバルチック艦 隊は一九〇五年五月二十七日、韓国東海岸の浦項沖の海上で壊滅した。日本の連合艦隊の 各艦は翌二十八日、集合を命じられた北方海上の鬱陵島(うつりょうとう)に向かった。 この時、日本とロシアの海の大会戦で決戦場になったのが例の「竹島」近くの海域であ る。バルチック艦隊が「降伏」の旗を揚げたのは「竹島の南南西約十八カイリ」だったと いう(児島襄著「日露戦争」から)。 その後、日本海海戦の最後の戦いが残敵を追跡する日本の駆逐戦隊とロシア巡洋艦「ド ミトリー・ドンスコイ」(六、二〇〇トン)との間で鬱陵島沖を舞台に行われた。 「D ・ドンスコイ」は日本艦隊の激しい砲撃、雷撃で大いに傷つき、鬱陵島の海岸に乗り上げ、 乗組員を上陸させた後、沖合約四百メートルの地点で自沈した。乗組員は島民の助けを受 け、その後、日本軍の捕虜になった。 ■引き揚げ話 ぼくはこの「D・ドンスコイ」には思い出がある。一九八〇年代の初め のことだが、韓国で引き揚げ話があって記事を書いたことがある。日本でも話題になった 対馬沖の「ナヒモフ号」の引き揚げ話と同じく、一種の「宝探し」だった。 鬱陵島に一九八〇年当時、洪淳七氏という人物がいて、「D・ドンスコイ号には金貨や 白金が大量に積まれていた」として引き揚げに執念を燃やしていた。 彼の話によると日本海海戦の時、彼の祖父が「D・ドンスコイ」の負傷した多数のロシ ア水兵を救助し、そのお礼としてヤカン一杯もの金貨をもらった。彼の家にはその時の銅 製のヤカンが家宝として残っているという。 洪氏にはソウルから電話して話を聞いた。バルチック艦隊の財宝はすべて「ナヒモフ号」 に積まれていたという説があったのだが、洪氏は「貴重品は分散して積み荷にするはず。 まして艦隊行動をしている軍艦の場合はそうだ」といい「D・ドンスコイ宝船説」を信じ ていた。 その後、水中カメラによる調査などがあり、それらしい影の見える海中撮影の写真が新 聞に出たりしていたが、いつの間にか話は立ち消えになってしまった。洪氏もその後、亡 くなったと漏れ聞いた。 ■異郷への想像 ところで日本のNHKラジオは今でも気象通報というのを放送してい るのだろうか。ぼくは昭和二十年代の子供のころ、ラジオの気象通報というのが好きでよ く寝転がって聞いていた。 日本および周辺国の気象観測拠点での風力とか気温とか空模様など、気象情報をアナウ ンサーが次々と読み上げていくきわめて単調な内容である。たとえば「小名浜、風力2、 曇り、気温一五度…」というように地名と数字だけが続く。
何が面白いかというと、気象通報では各地の地名が出てくるため、その地名と気象状況 によって「異郷」への想像が働くからだ。この気象通報の中でどういうわけか好きな地名 が三つあった。「さいごう(西郷)、いづはら(厳原)、うつりょうとう(鬱陵島)」である。 地域的に近いためこの三つは続けて登場する。西郷は島根県沖の隠岐島(おきのしま)に、 厳原は玄界灘の対馬(つしま)に、鬱陵島は韓国東海岸沖の日本海にある。したがって韓国 に住むようになって鬱陵島にはぜひ行ってみたいと思い続けてきたが、これまで機会がな かった。行かなくても「うつりょうとう」と聞くと今でも「風力2、曇り…」といった気 象通報の口調が出る。 鬱陵島は韓国語では「ウルルン島(ド)」という。「ウルルン」は明らかにカモメの鳴き 声からきている。日本ではカモメの鳴き声を「オロロン、オロロン」と表現した歌謡曲が あったように思うが、韓国では「ウルルン、ウルルン」というわけだ。 余談ながら、カモメのことを韓国語では「カルメギ」といい、日韓類似語の一つになっ ている。 鳴き声の連想からいえば「鬱陵島」という難しい漢字名は韓国側で付けられ たということになるが、それはともかく、ぼくはこの懐かしの「うつりょうとう」に昨年 秋、ついに行くことができた。 韓国の新聞社の主催で、日韓が領有権を争っている竹島(韓国名・独島)を巡る海上ツア ーがあってそれに加わった。ツアーは竹島を“望見”した後、鬱陵島に一泊するという日 程で鬱陵島に上陸することになったのだ。 ツアーにはたまたま与党の有力政治家で次期大統領候補を狙っている朴燦鍾氏が加わっ ていた。船中で顔を合わせ「ヤア、ヤア」となり、こちらの意向はお構いなしに体よく「随 行外国人記者」にさせられてしまった。 鬱陵島は現在人口一万二千人で慶尚北道鬱陵郡になっている。朴氏の島内視察に半ば無 理やり同行させられ、夜は夜で地元の有力者との夕食会にもはべらされた。 しかし、 おかげで郡守や警察署長をはじめ地元の名士と親しく懇談できた。 ■奇妙な場面 名物のイカ刺しをさかなに宴は盛り上がった。そこで分かったのだが、 実は「D・ドンスコイ」引き揚げ話の主人公・洪淳七氏は、韓国による「竹島占拠」のき っかけになった一九五〇年代の武装民間人による「独島守備隊」のボスだったというのだ。 「独島守備隊」については先年、テレビドラマで見たことがある。日本刀を振り回す日 本の右翼集団が島に上陸し、浜辺で韓国人守備隊と一戦を交えるという奇妙な場面などが あったことをおぼえている。 岩山でできた断崖絶壁の竹島に砂浜などなかったはずで、 ずいぶんいいかげんなドラマだったという記憶しかなかったが、その主人公が洪淳七氏と は不覚にも知らなかった。 ソウルに戻って早速、彼を主人公にしたドキュメンタリー小説「独島守備隊」(金教植 著、一九八〇年刊)を探して読んでみた。
荒らしレス削除しろよ削除人
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21はIP抜かれるのがイヤなんだろ。>22
↑ ばーか 削除依頼だしたぞヴォケ
于山国探訪 − 竹島は韓国併合と無関係 日韓が領有権を争っている日本海の孤島・竹島(韓国名・独島)が日本の領土に正式に編 入されたのは一九〇五年二月二十二日の島根県告示による。まさに日露戦争の最中である。 前回紹介したように、竹島海域が決戦場となった日本海海戦は五月のことだ。竹島領有 は日本海での日露の大海戦を想定してのことだったのだろうか。 竹島編入は、島根県 の漁業者・中井養三郎が「無主の島」における独占的漁業権を得ようと日本政府に請願書 を出したことを機に行われた。韓国側では日本の海軍がやらせたという見解があるが(金 学俊著「独島はわが土地」一九九六年刊)、違う。この島にかかわる日本側の動きは今も 昔もローカル的である。 ■「無主の島」 日本海軍は日本海海戦が終わった後、七月になって竹島に仮設望楼を設 けたが、監視員はその年のうちに引き揚げ、施設は民間人の中井に払い下げられている。 当時、韓国は日本側の竹島領有の措置を知りながらとくに対応策はとらなかった。韓国 側にいわせると、日露戦争下で韓国は日本によって軍事的に支配され外交権を発揮できる 状況にはなかったからという。 周知のように日露戦争の後、韓国は日本の保護国となり一九一〇年には日本に併合され る。だから韓国側は日本が竹島を日本領に編入したのは日本の韓国支配の一環だったとい うのだ。その結果、一九四五年の韓国解放で竹島の領有権も当然、韓国に戻ってきたと主 張する。 日本側は竹島を「無主の島」として自国領に組み込んだのだが、この島がも ともとどちらのモノだったのかについては各種の研究、論争がある。その中で興味深いの が鬱陵島(うつりょうとう)と竹島の関係である。 鬱陵島に行ってみると、ずいぶん北の方にあるのに暖流のせいだろうか竹が生えている。 鬱陵島は昔、日本では「磯竹島」とか「竹島」といわれた。日本では今の竹島を「松島」 といった時期がある。 ■同じ子供が… 昨年秋、韓国側の「独島ツアー」に加わり中継地の鬱陵島を訪れた際、 鬱陵島では「第二回于山文化祭」が終わったばかりでその横断幕が残っていた。 「于山(うさん)」は鬱陵島の昔の名前だという。「于山文化祭」は、この地の由緒ある 古地名をいただいて「村興し」をやろうというわけだ。地方自治がはじまった韓国におけ る地域活性化である。島には「于山中学校」があり「于山・喫茶店」の看板も見えた。 韓国側で竹島が古代の新羅(しらぎ)時代から自分たちの領土だったという証拠に挙げて いるのが「于山イコール独島」説で、日本側は「于山イコール鬱陵島」説を主張し対立し てきた。しかし「于山文化祭」の鬱陵島にいってみれば、「于山」は百キロ近く離れたか なたの孤島・独島(竹島)などではなく、鬱陵島そのものだった。 于山島と鬱陵島は別 物で、于山島が竹島であるかのように主張する韓国側の古地図や古文献の読み方の誤りを 実証的に指摘するなど、韓国で孤軍奮闘している日本人がいる。
仁川大学客員教授の下條正男氏で、その論文「竹島考」は日本の「現代コリア」昨年五 月号に掲載されている。下條氏は昨年の竹島問題をめぐる反日騒ぎの際、娘を含むソウル の日本人学校の子供たちのことに触れ、こう書いている。 「…状況がつかめずただ不安げに過ごす日本の子供たち。それとは対照的に“独島はわ が領土”を?(ハツ)剌たる表情で口にする韓国の子供たち。同じ子供がなぜこうも違った姿 を見せるのか。これは大人の責任である。竹島問題の実相を明らかにし、子供たちの心に 子供らしさを取り戻してやらねばならない」−。 下條氏によると韓国側が昔から自国領として意識してきたのは「于山国」という名の鬱 陵島であって、竹島はほとんど関心外だったという。しかも近世においては、漁業上の関 心を中心に日本との関係がはるかに強かった。 とすると、日本が日露戦争の時期にあえて日本領に正式編入したことが後に韓国併合の 一環と誤解されることになったということもできる。しかし実は竹島領有は韓国併合とは 関係ないのだ。 最近、ソウル在住の日本人で島根県の隠岐島に旅行してきた人から「隠 岐の文化財」第七号(隠岐島教育委員会、平成二年発行)のコピーをもらった。そこには明 治四十四年(一九一一年)に鬱陵島で生まれ、敗戦で引き揚げた日本人漁民の聞き書きが出 ていた。 それによるとイカで有名な鬱陵島でのイカ取りは、明治時代に隠岐の日本人が道具を持 ち込んで始めたのだという。それまでは「韓国人は百姓をしていてイカは取らなかった。 日本人がやるのを見てわれわれもとやりだした。本当は鬱陵島は日本人が開発した」とい う。戦前、この島には約千人の日本人が住んでいた。 鬱陵島ではいたるところにスル メが干してある。鬱陵島は今やイカ(スルメ)抜きには存在しないといっていい。 ■民間人が主導 ドキュメンタリー小説「独島守備隊」にもどれば、鬱陵島在住の洪淳 七氏ら武装民間人からなる「独島守備隊」が竹島を「占拠」するのは朝鮮戦争直後の一九 五四年から五六年までの二年間となっている。 約三十人からなる守備隊は迫撃砲、機関銃、小銃で武装し、竹島に常駐して監視活動に 当たった。その間、接近した日本の海上保安庁の巡視船に発砲し「死傷十六人」や、水産 高校の練習船をだ捕するなどの「戦果」を挙げたという。しかし日本側の記録では、巡視 船が被弾した事実はあるが死傷者や練習船だ捕の事実はない。 韓国政府は彼らをいったん撤収させた後、正式に武装警備隊(警察)を常駐させて現在に いたる。 だから韓国の竹島支配は民間人が主導したともいえる。今、中国や台湾との間で問題に なっている尖閣諸島で、日本の民間人が灯台を設置して日本の領有権を内外に誇示してい る意味は小さくない。
ゴルァ削除人 なんとかしろヴォケ
荒らしが根負けするまでスレを永遠にたてよう!
それじゃオマエが荒らしになるよ
>>28 (´ー`)y-~~
韓国支配のうらに「露の脅威」 産経新聞ソウル支局はソウル中心街、徳寿宮の裏手の貞洞(チョンドン)にある。一帯に は英国大使館や米国大使公邸があり、さらに小公園になった昔のロシア公使館跡もある。 市の保存記念物になっている樹齢五百年の「えんじゅ」の木もあり、このあたりの由緒深 さを物語っている。 徳寿宮から貞洞にかけては晩秋のイチョウ並木が美しい。市民に人気の散歩道になって いる。 旧ロシア公使館跡は実際は六千二百坪もの広さがあり、往時の威勢をしのばせる。 現在は韓国のものになっており、小公園には洋風の塔屋が残っている。この跡地をめぐっ ては一九九〇年の国交回復の後、韓国とロシアの間で返還・補償交渉が続けられてきた。 最近の新聞報道によると、跡地はこのまま韓国のものとし、その代わり双方がソウルと モスクワで大使館用地を提供し合ったうえ、韓国側がロシア側に差額として二千七百五十 万ドルの補償金を支払うことでケリがついたという。 ■小さな石碑 ロシア公使館跡に通じる路地の入り口に、前述した「えんじゅ」の大木が 立っている。そのわきに小さな石碑があり「ゾンターク・ホテル跡 韓末にロシアからき たゾンターク(Miss Sontag)がホテルを建て内外国人の社交場に使った」とご く簡単な説明が刻まれている。 近年は「何南ホテル」といううらぶれた小さな旅館になっていたが、それも取り壊され 今は更地になっている。 「ゾンターク・ホテル」は一九〇二年、当時、駐韓ロシア公使 として辣腕をふるっていたウエーベルの夫人の姉「ミス・ゾンターク」が国王・高宗から 土地を下賜されて建てた韓国最初の洋風ホテルだった。 ここは当時、ソウルで最大の国際的社交場だった。開化期のいわば韓国版・鹿鳴館(ろ くめいかん)である。ロシアはここを舞台に韓国支配の策略を展開した。その狙いは日本 に対抗し韓国要人をいかにロシア側に取り込むかだった。 韓国側もまた、日本の支配拡大を防ぐためロシアを利用しようとした。「ゾンターク・ ホテル」は日夜、親露派韓国人とそれをけん制しようとする親日派韓国人でにぎわった。 ウエーベル公使は韓国朝廷に深く入り込み、ミス・ゾンタークは国王・高宗以上に政治 力があった王妃・閔(ミン)氏のお気に入りとなった。ウエーベル公使夫人やミス・ゾンタ ークらがもたらすロシア経由の西洋文化は王妃をとりこにした。 ■釜山赤旗論 ここで二十世紀に先立つ十九世紀末の韓国に触れておく。 明治維新後の 日本が韓国支配に乗り出すのは、新生近代国家として「遅れた隣国」に対する気負いとい う印象が強いが、同時に幕末から明治にかけてアジアに押し寄せつつあった西欧帝国主義 の圧力の中で、とくに北方からの「ロシアの脅威」に対する不安感が背景になっている。
時代は下って第二次世界大戦後の冷戦時代、ソ連や中国さらには金日成の北朝鮮が「共 産革命の輸出」に熱心だったころ、日本では「釜山赤旗論」という言葉があった。 朝鮮半島の南端の釜山に赤旗が立っては日本の安全が危なくなる、それを防ぐためには 韓国を支援しなければならない。こうした冷戦時代を背景にした韓国擁護論が冷戦崩壊後 に後退し、今や逆に日本と対立局面が目立つのは周知の通りだ。 「釜山赤旗論」の源流は百年前の「ロシアの脅威」に対する不安感である。ロシアの南 下を防ぐためには韓国を防波堤として確保しておかなくてはならない−というわけだ。 十九世紀末、日清戦争(一八九四−九五年)で日本は清(中国)に勝ち韓国に対する支配権 を握ったが、ロシアなどの三国干渉によって支配拡大を阻まれる。 韓国朝廷から親日勢力は排除され、代わって親露派が勢力を伸ばす。その中心人物と目 されたのが王妃・閔氏だった。そうした中で日本は一八九五年十月八日「閔妃暗殺事件」 を引き起こす。 ■恨みのタネ ぼくの韓国との付き合いは一九七〇年代からだが、これまで「閔妃暗殺事 件」に何回接しただろうか。この事件は日本公使館が画策した「蛮行」として韓国では繰 り返し繰り返し語り伝えられている。 最近でも、一昨年はちょうど事件百周年にあたり関連行事が盛んで、彼女を主人公にし た初のミュージカル「明成皇后」が人気を博していた。昨年のKBSテレビの大河ドラマ 「輝かしき黎明」も、最終回のクライマックスがこの王妃殺害場面だった。 日本人たち が日本刀を振りかざして王宮の景福宮に乱入し、王妃を惨殺した後、遺体を焼いてしまう というシーンだから在韓日本人としてはいたたまれない。 映像のない時代はよかった(?)。しかしテレビ時代とあって、この歴史的場面は想像に よって毎回より生々しく再現される。テレビドラマ「輝かしき黎明」の場合、惨殺された 王妃を焼く炎の周りで憎々しげな顔の日本人たちが勝ち誇ったように歓声を上げる。鬼気 迫るシーンである。 今では、日本は「ロシアの脅威」を防ぐためにそこまでしなくてはならなかったものか、 という感じだ。事件が百年後のいまなお韓国人の「恨み」のタネになっていることを考え れば「親露派排除にも別のやり方がなかったものか?」と痛恨である。 明治維新(一八六八年)から三十年足らず。近代日本外交の未熟さだろうか。 しかし親露派王妃殺害から四カ月後、今度は高宗が王宮からロシア兵の護衛下でロシア 公使館に居を移す。ロシアにかつがれての一種の「国内亡命」である。ロシアの巻き返し であり、韓国朝廷における親露派のクーデターだった。 高宗は一年にわたり「えんじゅ の木」の見えるロシア公使館で国政をつかさどる。日本はロシアに対するいらだちの中で 二十世紀を迎え、この覇権争いの決着は事件から十年後の日露戦争にまで持ち越される。
削除人の介入、ないみたいですね。
暗殺と報復と 二十世紀の幕開けに先立ち日本がソウルで親露派排除のため引き起こした「閔(ミン)妃 暗殺事件」(一八九五年十月八日)の現場は、景福宮の奥の片隅にある。韓国の観光ガイド は遠慮してか日本人観光客にはほとんど紹介しないが、「明成皇后遭難の地」と刻まれた 石碑があり、王妃殺害の場面を描いた大きな絵二枚が展示されている。 事件は当初、王妃・閔氏と政治的に対立していた舅の大院君(高宗の父)によるクーデタ ーと伝えられた。日本がそのように装ったからである。しかし事件を目撃した西洋人たち の証言が伝わるなどして、しだいに真相が明らかになってくる。 ●諭吉の記事「閔后弑(し)に遭ふの説」 (十月十三日発仁川特電)八日変乱の混雑中、一 群の暴徒は王后陛下の寝殿に乱入し女官と覚しき婦人三人を引き出し無残にも惨殺しその 死骸は城外に搬出して焚棄したり、しかうしてその一人は正しく王后陛下なりしよしもっ ぱら伝説す(略)右の下手人は何ものなるやをつまびらかにせざるも洋服を着し日本刀を帯 び居たりとのこと。 (十月十三日在京城通信員発)京城に在留する本邦人はこの風説の果たして事実なるにお いては壮士の挙動の不都合千万なるはいふまでもなく(略)わが公使館の館前取締の不行届 を遺憾として憤慨する者多し、これらの邦人は両国の前途の為に憂慮してしかず時々会合 し居れり。 (十月十四日在京城通信員発)韓人中、王妃を弑したるは日本人なり(略)吾らよろしく奮 起してこれら日本人を国境外に攘逐し以てこれが仇をうたざるべからずとの檄文を各地に 散布する者あり、為に人心きょうきょうたり。(以上、明治二十八年十月十五日の東京日 日新聞から) ●福沢諭吉が書いた記事もある。 「他国民の身にてありながらかくのごとき容易ならざ る企などに加担するとは実に怪しからぬ次第にして我輩の赤面にたへざる所なれども、今 の日本の国情においては時としてかかる乱暴人の出ずるも自ら止むを得ざるの事情あり」 ただし「他国宮中にちん入して乱暴を働くがごとき実に言語道断の挙動にしてその罪は決 してゆるすべからず」(同、時事新報から) ●一大ピンチ この事件で日本は国際的に一大ピンチに立った。三浦梧楼駐韓日本公使、 王室の軍部顧問・楠瀬幸彦中佐をはじめ事件に関係した日本人たちは十月末までに日本に 呼び戻された。 この中には「漢城新報」社長・安達謙蔵や「国民新聞」特派員・菊地謙譲ら新聞記者も 含まれている。当時の新聞はいわゆる政論新聞で政論をもっぱらとした。安達や菊地は記 事を書くより「壮士」として事件実行者になった。 関係者は船で広島の宇品(うじな)港 に送られて獄に入り裁判にかけられた。軍人八人は第五師団広島軍事法廷、三浦梧楼ら四 十八人は広島地裁で裁かれたが翌一八九六年一月二十日までに全員無罪になる。
裁判結果にも当然、内外の批判はあった。しかし意外にも国際社会の日本非難は続かな かった。ロシアに対する警戒心からである。 事件直後の十一月二十八日には事件の収拾 でろうばいしている日本のスキをついた親露派によるクーデター未遂事件「春生門事件」 があり、判決から三週間後の九六年二月十日には国王・高宗の「ロシア公使館亡命」とい う事態が起きている。 この時期の国際世論の一端を見ると−(杵淵信雄著「海外の新聞にみる日韓併合」から) 「日本は日清戦争の勝利者であるが利得者はロシアだ。ロシアはすぐにも朝鮮を手に入れ ようとはしていないようだが明らかに狙っている。彼らは好みのままに朝鮮の領有、いや 保護開始の時期を速めるか遅らせるか待機している」(一八九六年五月十五日仏・ル・タ ン紙) 「極東におけるロシアの進出はとりわけこの半年ほとんど驚異的である。(略)日本が過ち を犯したせいで朝鮮はロシアの腕の中に投げ込まれてしまった」(同1965年七月三日英・ ノースチャイナ・ヘラルド紙) 国王・高宗は一八九七年二月、一年ぶりにロシア公使館を出る。新しい居所はロシア公 使館に隣接する貞洞の慶雲宮(現在の徳寿宮)だった。高宗は依然、ロシアの拠点ともいう べき外交街の貞洞に取り込まれたに等しい。 事件の首謀者・三浦梧楼は公使としては不 適格だったというのが定評である。幕末の長州・奇兵隊出身の軍人で外交知らずだった。 「観樹将軍回顧録」(中公文庫版)で解説の佐伯彰一氏も「直情径行家」と評している。 ●臨機応変に 日清戦争後の外交的にきわめて難しい時期だけに三浦はソウル行きを再三 断った。「自分は外交のことは一向知らんから」といって「朝鮮は独立させるか、併合す るか、日露共同の支配にするか、この三策のうち、政府の意見はいずれにあるか明示して もらいたい」と政府に注文したがまったく指示がなく「臨機応変に自分でやるの他ないと 決心した」という。 したがって事件は本国政府の指示によるとする証拠はない。三浦なら何かやりそうだと の期待(?)はあったかもしれないが、公使赴任わずか一カ月後の彼のとんでもない「臨機 応変」で、日本政府は事後処理に追われた。 事件から十年以上たった一九〇九年、明治 の元勲伊藤博文がハルビン駅で安重根に暗殺される。安重根は暗殺の理由の一番目に「伊 藤サンノ指揮ニテ韓国王妃ヲ殺害シマシタ」と述べている。伊藤は事件当時、総理大臣だ った。事件に直接かかわってはいないが報復されたのである。 ところで事件には韓国人も何人か加わっていた。日清戦争の後、日本人教官が指導して いた政府訓練隊の禹範善第二大隊長らである。王室の親露策で親日系の訓練隊は解散直前 だった。日本人と行を共にした禹範善隊長は事件後、日本に亡命するが一九〇三年、広島 の呉市で王室派の刺客に暗殺された。彼もまた報復されたのである。
35 :
>1 :01/11/29 15:23 ID:???
アホを晒すのは恥ずかしくないか(W
しかし3割負担になったら沢井の株あがるな
広島で死んだ韓国人 葛藤と利害が悲劇を生んだ 一九六〇年代に駆け出し記者時代を過ごした広島は、ぼくにとって何かと懐かしい。この 「20世紀特派員」をソウルで書いていて意外な場面に「広島」が出てくる。ここですこし 広島にこだわってみたい。 一八九五年(明治二十八年)、韓国でおきた「閔(ミン)妃暗殺事件」の日本人関係者が全員、 広島に送られ裁判にかけられたという事実は前回、紹介した。この事件でなぜ広島かとい うと、おそらく日清戦争(一八九四−九五年)と関係があるだろう。 日清戦争に際しては戦争指揮所ともいうべき「大本営」が広島に置かれ、明治天皇は広島 に滞在された。将兵たちも広島にあった第五師団がまず宇品港から戦場の朝鮮半島に派遣 された。広島は日清戦争ときわめて縁が深かったのである。 日本近代史を彩る対外戦争のスタートが広島を拠点とし、その日本の軍事的滅亡が一九四 五年広島での原爆によってもたらされたのは歴史の皮肉である。いわゆる「自虐史観」で は「歴史の業(ごう)」となるのかもしれないが。 《自らの判断》 「閔妃暗殺事件」は日清戦争が終わって半年後のことだった。日清戦争 後、三国干渉で朝鮮半島への影響力を拡大した「ロシアの影」が事件の時代的背景だった ことを思えば、この事件は日清戦争の延長線上のできごとだったといえる。だから「広島」 が出てくる。 知人の原田環・広島女子大教授から先ごろ「乙未事件と禹範善(ウ・ボム ソン)」という論文が送られてきた。彼は朝鮮近代史が専門の気鋭の歴史学者だが、「広島」 の因縁からだろうか、広島で死んだ禹範善のことを考察した論文だった。 日本人たちとともに事件に加わった政府訓練隊第二大隊長・禹範善は事件後、日本に亡命 する。日本女性と結婚し広島県の呉に住んでいたとき王室派の刺客によって暗殺される。 王妃殺害の罪を追及され事件から八年後に報復されたのである。時代は既に二十世紀に入 っていた。 この二十世紀に入る前後、日本には韓国から多くの政客が亡命している。反王室派もいれ ば王室派もいた。禹範善を暗殺した高永根、魯允明は国王の側近だったが途中、民間運動 の過程で政治犯として祖国を追われて日本に亡命していた。禹範善暗殺の「功」を評価さ れ後に再び韓国に戻っている。 韓国側では禹範善は当然、日本の手先となった「反逆者」 であり「逆賊」である。また事件での役割も「日本側に利用されただけ」というのが一般 的な評価で、それ以上の関心もない。 しかし原田教授によると「その後の朝鮮の政権が事件において禹範善が『自主』的役割を 果たしたと認識しているように、禹範善はこの事件に主体的にかかわったのであり、それ 故に執拗に命をねらわれ、ついには死に至ったのである。(略)禹範善の行動は当時の朝鮮 社会に存在した一つの政治的潮流の上に立つものであり、自らの政治的判断に基づいたも のであった」という。
そして「禹範善らの行動を明らかにすることによって、朝鮮の近代化が抱えていた課題と 特質に迫ることができるだろう」と書いているのだが、この部分を分かりやすくいえばこ ういうことだろうか。 《寂しがり屋》 当時の韓国は近代化を目指す中で自力では難しい部分をロシアや日本を 利用しようとし、日本やロシアは逆にそれを利用して韓国支配を狙っていた。王妃殺害も 近代化の方向をめぐって葛藤(かっとう)を続ける韓国内部のまとまりのつかない状況と一 部外国勢力(日本)の利害が重なった悲劇であり、韓国側にも事件を誘発するそれなりの事 情があった−。 韓国からの亡命者は既婚者を含め日本人女性と居を構えることが多かった。余談だが、こ れは百年前も今も変わらない。韓国人の男たちは寂しがり屋なのだろうか、独り暮らしが 苦手である。 禹範善も本国に妻がいたが酒井奈可(なか)という日本女性と結婚し、子供 ももうけた。「北野一平」という日本名を使っていた。当初、東京にいたが1898年(明治31 年)、酒井奈可の親せきを頼って広島県の呉に移り住んだ後、難に遭う。 禹範善が日本女性との間にもうけた長男が後日、解放後の韓国に戻って最高の農学者、植 物学者になる禹長春である。禹長春の生涯については角田房子著「わが祖国−禹博士の運 命の種」(新潮文庫)に詳しい。 それによると、未亡人になった母・酒井奈可はこの日韓混血児の長男を「あなたのお父様 は、朝鮮の国事に奔走なさった偉いかたでした。あなたはその遺児であることを誇りとし、 やがては父の国に尽くす立派な人物になってください」と言い聞かせながら育てたという。 韓国では農学者・禹長春は有名だが、彼が「閔妃暗殺事件」の禹範善の子供だったという ことはほとんど知られていない。 《悲運を象徴》 「広島で死んだ韓国人」にもう一人忘れられない人物がいる。時代は下 るが一九四五年八月六日、広島に投下された原爆で亡くなった陸軍中佐・李☆殿下である。 「殿下」といわれたように王族の一人だった。 終戦の直前、日本軍人として広島にあった第二総軍司令部の教育参謀をしていた。八月六 日の朝、いつものように乗馬して出勤の途中、原爆に遭遇する。 国王・高宗の血を引く王族ではあるが、禹範善が暗殺に加わった王妃・閔氏(明成皇后)の 血は引いていない。高宗と側室の張氏との間に生まれた義親王・李★殿下の子供である。 韓国の王家(李氏朝鮮)は日本による王妃殺害にはじまり、二十世紀にいたって最後の皇太 子、英親王・李★殿下の日本皇族・梨本宮方子さんとの政略結婚などを通じ五百年の歴史 の幕を閉じることになる。日本支配からの解放を目前にした王族・李殿下の「原爆死」も、 王家の悲運を象徴している。 ☆はカネヘンに「偶のツクリ」 ★はツチヘンに「岡」
40 :
50 :01/11/29 21:32 ID:???
>>36 上がらないでしょう。
何かある度にSWの時代だと言い続け、今に至る訳ですし。
一族が舞い上がり、営業に発破かけるぐらいでしょう。
がんばってね、営業さん。
原爆死した王孫 葬儀は8月15日だった 広島市の本川(ほんかわ)橋のたもとに「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」が立っている。爆心地 の原爆ドームに近く、平和記念公園のすぐわきである。亀が石碑を背負った韓国式で、各 種の慰霊碑の中ではひときわ目立って大きい。 1970年(昭和45年)に建てられた。今回、久しぶりに行ってみたところ、碑の裏面に刻まれ たハングル文字の碑文が二行ほど醜く削り取られている。何を削ったのだろう。 ぼくは 慰霊碑ができた当時、碑文の全文をメモしている。碑文には「無辜(むこ)の同胞二万余柱」 が広島で犠牲になった由来が記されている。 冒頭は、韓民族が「大国の谷間で」いかに侵略の憂き目に遭ってきたかを説明し「王孫、 高官の子弟を人質に送らなければならなかった話や美しい娘たちを貢女にしなければなら なかった悔しい話、そして国王が敵の王にひざまずかなければならなかった物語がそうで ある」となっていたのだが、この部分が削り取られているのだ。 内容は「韓民族五千年の悠久の歴史」の説明で、ことさら日本との関係だけを意識したも のではない。この部分をだれが、いつ、どういう意図で削ったのか分からない。 しかし、この部分が気に食わないというわけだから韓国人が削ったことは間違いないだろ う。韓国人がよく使う言葉を借りれば「自尊心」のゆえと思われる。「民族の悲哀ばかり 強調したのでは日本に対する怒りが出てこないではないか!」といった感じだろうか。 慰霊碑の碑文には「国を失った王孫であったため悲しみと苦難がいっそう大きかった李☆ 殿下をはじめ…」と「李☆殿下」の名前が二回出てくる。日本陸軍中佐・李☆殿下の原爆 死を、広島における韓国人たちの犠牲の象徴として記している。 ■出勤の途中 王朝の悲運、悲劇は民族の悲運、悲劇を象徴する。 ぼくは駆け出し記 者時代に広島にいたとき、李☆殿下のことを知ったがそれほど知識はなかった。今回、こ の企画に際しあらためて調べてみる気になった。 李☆殿下は五百年続いた朝鮮王朝(李朝) の最後の王(皇帝)・純宗のおいにあたる。純宗は199910年の日韓併合で日本によって廃位 させられ、これで李朝は実質的に滅んだ。 しかし日本政府は「李王家」の存続は許し、王族たちに対しては日本の皇族に準ずる処遇 をした。 李☆殿下は1912年(明治45年)、皇帝・純宗の腹違いの弟である義親王・李★殿 下の子供として生まれた。日本の皇族男子がみんなそうであったように軍人にさせられた。 日本軍人のエリート・コースである陸軍幼年学校に入り陸軍士官学校(四十五期)を卒業 し、日本軍将校として昭和の戦争時代を過ごす。 太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)二 月、陸軍大学研究部員から中国・山西省太原の北支方面軍に情報参謀として派遣され翌 1945年四月、広島に転勤になる。途中、故郷の京城(ソウル)に立ち寄り約二カ月間、東京 から疎開させていた家族と過ごし、六月広島に赴任した。
ええかげんにやめろ (激怒) 面白がってもっと沢井スレッドたてる奴がでてくるのがわからんのか!
■手当に最善 広島着任から二カ月後の「運命」の八月六日朝、馬に乗って司令部に出勤 途中、原爆に遭遇する。爆心地に近い相生橋(あいおいばし)のあたりだった。土手の防空 ごうにやけどを負って避難しているところを軍の捜索班に発見され、広島湾・似島(にの しま)の陸軍検疫所に設けられた臨時救護所に収容された。 原爆投下直後の大混乱の中だったにもかかわらず、軍当局は「皇族」ということで捜索、 救出、手当に最善を尽くしたが、七日午前零時過ぎ容体が急変して死亡。享年三十二歳だ った。 当時、治療に当たった船舶衛生隊の軍医など関係者の証言によると、李☆殿下は やけどのほか外傷はほとんどなかったが終始「痛い、痛い」と苦痛を訴え、かなり高熱を 出していた。 東京から皇族や軍関係者が駆けつけ、半旗を掲げて通夜まで行われた。翌八日午後、港に 近い吉島飛行場に山口県小月の陸軍第十二飛行師団から双発の一式高等練習機がやってき て、遺体を京城に運んだ。 米軍の空襲が激しいころである。機は米軍機の来襲を気にしながら玄界灘上空を飛んだ。 操縦士の回顧談によると「京城では川の中の飛行場に着いた」というから、現在は「ヨイ ド広場」になっている漢江の中洲の汝矣島(ヨイド)飛行場である。 遺体は朴賛珠夫人ら 家族のいる雲▲(けん)宮に届けられた。阿部信行総督ら各界要人が出席し、あらためて通 夜があった。葬儀は陸軍葬として京城運動場(現在の東大門運動場)で行われた。 ■悲運の広島 葬儀はくしくも日本の敗戦で韓国が日本の支配から解放された八月十五日 だった。正午から天皇陛下の終戦の「玉音放送」があり、さらに阿部総督が疑心暗鬼、動 揺混乱、軽挙を戒めた「諭告」を発表した。しかし葬儀は午後一時からちゃんと行われた(森 田芳夫著「朝鮮終戦の記録」から)。 日本は亡国の瀬戸際でこのように礼を尽くした。 よくやったと思う。 雲▲宮で李☆殿下の家族に仕えていた女官によると、その夜から市内は解放を喜ぶ「マン セー、マンセー(万歳、万歳)」の声であふれ、怖いほどだった。ひつぎに納められた李☆ 殿下の遺体を垣間見たが、顔の半分が真っ黒だった。原爆の熱線のせいではなかったかと いう。 以上の話は「李☆殿下の死」を長年にわたって追跡取材してきた広島の映像作家・松永英 美さん(元・中国放送)の傑作テレビ・ドキュメンタリー「民族と海峡」(一九八九年九月 十五日放送)に全面的にお世話になっている。 ところで李☆殿下は韓国の王孫の中でも聡明で知られ、男ぶりもよかった。そして何より も民族意識が強く反骨精神に富んでいた。 殿下は日本の敗戦を予感していたのか京城に は二カ月も滞在し、広島行きを延ばし延ばししている。終戦を目前にしての死は韓国王族 で唯一の「戦死」となった。繰り返すが悲運というしかない。 ☆は金へんに隅のつくり (金+(偶-ニンベン)) ★は山へんに岡 ▲は山へんに見
がんばってゾロゾロ売ってください 受付では嫌われてますが
吉成弘中佐の殉死 遺書には「楠公ニナレヨ」 広島で「戦死」した王孫・李☆殿下の未亡人、朴賛珠さんが95年七月十三日、ソウルで亡 くなった。八十一歳だった。韓国の新聞に顔写真入りで記事が出ていたのだが、あの時、 日本になぜ彼女の死亡記事を送らなかったのか今でも悔やまれる。 恥を忍んで書けば、 実はその記事を見るまでぼくは未亡人の朴賛珠さんがソウルで存命だとは知らなかった。 ■婚約に困惑 日本での陸軍士官学校時代、同期生の同胞が「母国語の朝鮮語で話しかけ てくるので困った」ほど「民族意識が強く反骨精神に富んでいた」という李☆殿下だが、 朴賛珠さんとの結婚も大いに物議をかもした。 婚約は昭和八年(1933年)で実際に結婚で きたのは二年もたってからだった。天皇陛下から結婚の許しが出たのが挙式のわずか十六 日前だったという。 「皇族」は好き勝手な結婚は許されない。相手は日本の皇族か華族(貴族)という決まりも あった。日本人としか結婚してはいけないというわけだ。日本政府は李☆殿下の勝手な(?) 婚約に困った。そこで仕方なく規範を改め「朝鮮の貴族」とも結婚できることにして許可 した。 朴賛珠さんは、韓国開化期の大物政治家で親日派として日本の侯爵に列せられた 朴泳孝の孫娘という「朝鮮の貴族」だった。 「李☆殿下の死」を長年、追跡してきた広島の映像作家・松永英美さん(元・中国放送)は、 この朴賛珠さんに何回もインタビューを申し込んだがついに実現しなかった。「主人を返 してくれるなら会ってもいい」とも言っていたとか。 本田節子著「朝鮮王朝最後の皇太子妃」によると著者は彼女に「何度か逢った」というが、 李☆殿下が広島に発つときのことを「秋には、子供たちを広島によんであげると約束して いましたのに…。夫がなくなりましたとき十歳と五歳でした」と語ったほかは「もう古い 話ですから…、何もいうことはありません」といい、過去には口を閉ざし語らなかったと いう。 ■立派な最後 ところで李☆殿下が広島で原爆に遭い亡くなったとき、お付きの武官だっ た吉成弘中佐が自決している。 前回、紹介したように広島の第二総軍所属の教育参謀(中 佐)だった李☆殿下は八月六日の朝、馬で出勤の途中、原爆に遭遇した。しかしお供をす べき吉成中佐はその日、「腰にはれ物ができていた」と「ひどい水虫」の二説あるのだが、 馬に乗れなかったため殿下の配慮で別途、車で司令部に出勤し難を逃れた。 吉成中佐は原爆投下直後から、地獄図のような市内で行方不明の殿下を捜して回った。夕 刻、見つからないままぐったりして司令部に戻ったところに収容先の似島(にのしま)から 連絡があり、駆けつけた。 しかし手当のかいなく李☆殿下は七日未明に亡くなる。吉成 中佐は七日夜に通夜を済ませ翌八日朝、棺を送り出した後、殿下が息を引き取った陸軍検 疫所臨時救護所の民家で自決した。右手の軍刀で腹を刺し、左手のけん銃で頭を撃ち抜い ていた。 上官だった井本熊男大佐は吉成中佐の死に顔に顔を寄せ「よくやった。立派な 最後だった」と声をかけてやったと後に証言している。四男一女の子供への遺書には一言、 「楠公ニナレヨ」と書かれていた。
「楠公」とは、南北朝時代の忠義の武者・楠木正成(くすのき・まさしげ)のことである。 これらは松永英美さんから聞いた話である。松永さんによると吉成中佐の「戦死」が妻の 吉成まきのさんに伝えられたのは、八月十四日、京城(ソウル)の朴賛珠さんからの電報に よってだという。 昭和三十七年(一九六二年)、李☆殿下と同期の陸軍士官学校四十五期生の生き残りが、任 官三十周年を機に慰霊祭を東京で行った。同期生たちは殿下の未亡人、朴賛珠さんをソウ ルから招いた。吉成まきのさんも招かれて朴賛珠さんと対面、ともに靖国神社に参拝した。 二人の未亡人の間には手紙の往来があり、季節ごとに暑中見舞いや年賀状をやり取りして いた。朴賛珠さんからまきのさんに寄せられたある手紙にはこう書かれている。 「…吉 成さまは武人のかがみ、深く深くご冥福をお祈り申し上げます。亡き主人の供をしていた だきまして、地下にて主人は寂しくないことと思っております…」−。 あの時、日本は 滅んだが、吉成中佐は日本の名誉を救ったのである。 ■祭り上げる 松永英美さんはその後、李☆殿下の「民族意識」に焦点をあてたテレビ・ ドキュメンタリーの続編「抗日−日韓併合のかげに」(1994年三月二十一日、広島・中国 放送から放映)を作っている。 その中で陸軍士官学校の同期生(日本人)の「殿下は京城 の志士(独立運動家)をひそかに支援していたという話を聞いたことがある」という証言が 紹介されている。 李☆殿下の父、義親王・李▲殿下は、上海にあった抗日独立運動家たちの亡命政権(上海 臨時政府)に加わろうと、中朝国境の新義州まで行ったところで日本の官憲に連れ戻され ている。李☆殿下もその血を引いていたのだろうか。 したがって韓国では当然、そんな李☆殿下を持ち上げようとする。先年、韓国で王族たち の独立運動をテーマにした「皇室は生きている(上・下)」(安天著、ソウル「人間愛」社 刊)というノンフィクション風の本が出た。 そこでも李☆殿下のことが取り上げられているのだが、殿下を「隠れた独立運動家」に祭 り上げるあまり、似島の救護所での死を日本側による「謀殺」の疑いありとし、お付き武 官・吉成中佐との関係も終始、敵対関係として描いている。 めちゃくちゃな話だが、韓国では近年の「よくやった史観」−抵抗史観のせいで過去は時 にこのようにゆがめられ、信じられていく。 さて二十世紀、日本支配下での「朝鮮王朝の最後」は、李王家に嫁ぎ李方子(イ・バンジ ャ)妃となった日本の皇族・梨本宮方子(なしもとのみや・まさこ)さんのことを抜きには 語れない。(ソウル支局長) ☆はカネヘンに「偶のツクリ」 ▲は土へんに「岡」
偉いさんはこの程度の 荒らしぐらいしかできなのかい
李王朝の最後 ウリ王妃は歴史に耐えた 1989年五月八日、李方子(イ・バンジャ)妃の葬儀は今、思いだしても涙腺がゆるむ。日本 の皇族から「政略結婚」によって韓国王家に嫁し、激動の日韓近代史の中で88歳の生涯を 終えたその「歴史」への想像も背景になっていたが、葬列を見送るソウル市民たちの風情 に涙が出そうになったのだ。 ■恩讐を超え 方子(日本名まさこ)妃はソウル中心街の故宮・昌徳宮の一角にある楽善斎 に住んでいた。ちなみに「斎」とは「書斎」で分かるように部屋、家屋の意味である。 葬儀は「秘苑」で知られる昌徳宮で行われた。王朝葬列は敦化門を出て鍾路四街の宗廟ま で連なり、沿道につめかけた市民は「最後の王妃」に別れを惜しみ、手を合わせた。 ひつぎが敦化門を出たあたりだったろうか、沿道の人垣からチマ・チョゴリ姿の老女が進 み出てアスファルトの路上にひれ伏し、通り過ぎるひつぎに二回、三回と「チョル(礼)」 をささげた。恩讐(しゅう)を超えた「ウリ(われわれの)王妃」への市民の温かさ、なごや かさ−。 韓国の王家が異民族から王妃を押し付けられた例は元(モンゴル)に支配された 高麗時代をはじめ必ずしも異例のことではないが、あの時、葬列を見送りながらぼくは日 本人として方子妃に「ご苦労さまでした、ありがとうございました」と心の中でお礼を述 べた。 方子妃は晩年、障害者福祉事業に尽力された。福祉法人「明暉園」には日本人からの支援 も多かった。そうした努力もあって彼女は「ウリ王妃」として韓国民に受け入れられ、親 しまれていた。 ぼくは80歳になられた1981年と日韓国交正常化二十周年の1985年の二回、 楽善斎で会っている。あんな小柄な体でよく「歴史」に耐えてこられたものだと、頭が下 がった。 その楽善斎は今どうなっているのだろうと、今回、訪ねて驚いた。韓国政府の「歴史立て 直し」政策の一環だろうか、王宮復元事業で当時の庭園付きの楽善斎は姿を消し、真新し い楽善斎が箱庭の模型のようにこつ然とできていた。 説明の表示板には李垠(イ・ウン)殿下・方子妃夫妻が日本から帰国(一九六三年)後、居住 されたと記してはあった。しかしそこには人工的に復元された王朝風建物のコピーはあっ ても、李垠・方子夫妻に象徴される日韓近代史の「歴史」のにおいはまったくなかった。 ■波乱の人生 方子妃は一九〇一年(明治三十四年)、皇族の梨本宮(なしもとのみや)守正 の長女に生まれた。現在の皇太后さまとはいとこの間柄になる。一時は昭和天皇の皇太子 時代に妃候補にあげられたこともある。 朝鮮王朝(大韓帝国)最後の皇太子、英親王・李 垠殿下と一九二〇年(大正九年)に結婚する。日本の植民地支配を確固とするための「政略 結婚」であり、当時の言葉でいえば「日鮮(日本と朝鮮)融和」のためだった。 韓国では前年の一九一九年(大正八年)、日本支配に反対する大規模な抗日独立運動「三 ・一万歳事件」が起きている。民衆が「独立万歳!」を叫びながらデモをしたため日本側 ではそう称した。韓国の歴史教科書によると犠牲者は「死傷者二万余人」という。
いやぁタメになるわ
このスレ最高
51 :
名無し :01/12/01 00:18 ID:???
いや〜!誉めてもらって光栄です!!
「連載」を楽しんでいたのは俺だけじゃなかったのか(笑)。 こうなったら、スレ立てた側の人も気にせずに書込めば良いじゃないの。 一つのスレで二つの内容がパラレルに進行、実に面白い。
53 :
事情通 :01/12/01 00:38 ID:???
この連載楽しみなんだオレも
連載だったんだ。 てっきり、どこかのコピペだと思っていました。 ほんなら、思い切ってあげるべ。
55 :
SW :01/12/01 00:49 ID:???
SW社員も100%見てますから 質問事項はどんどん受け付けます。 先発MRさん、どんどん書きこんでください。 きっと面白い答えが返ってくると思いますよ。
56 :
SW :01/12/01 00:50 ID:???
そうそう! ドクターや薬剤師の方々からの質問もどんどん受け付けます。
57 :
事情通 :01/12/01 00:51 ID:ohhcbJH+
↑ ジスロマックのゾロはいつでますか?
この事件の発生には元皇帝・高宗(李太王)の急死が微妙に影響している。高宗はこの企 画の最初に紹介したように「ハーグ密使事件」(一九〇七年)で日本の怒りを買い退位させ られていたが一九一九年一月二十一日、六十六歳で波乱の生涯を終える。 死因は脳いっ血というのが日本側の見立てだったが、日本当局による毒殺とするウワサ が広く流布され民衆の感情を刺激した。国葬は三月三日。これを前に一日の土曜日に合わ せて独立運動が計画され、全国に広がった。 李垠殿下と方子妃の結婚式は父・高宗の死 や三・一事件などで翌年に延期された。二人の人生はスタートから波乱含みだった。 夫妻は一九二二年(大正十一年)、生まれて八カ月の長男、晋殿下を連れて初めて韓国に 里帰りしたが、その際、晋殿下が異物を吐きながら急死する。 方子妃は自伝「流れのままに」で「日本人の血がまじっているというただそのことのた めに、非業の死を遂げなければならなかった哀れな子…。もし父王さま(高宗)が殺された その仇が、この子の上に向けられたというのなら、なぜ私に向けてはくれなかったのか…」 と書いている。 二男の李玖殿下は一九三一年(昭和六年)に生まれる。 ■“人望なし” 先年、日本で公表された宮内庁の木下道雄・元侍従次長の「側近日誌」 は敗戦直後の1945年12月18日のところで「(昭和天皇から)李王家の朝鮮における人望いか ん、横溝(元京城日報社長)に聞くべしと仰せなりしが、これを大臣に訊したるところ、大 臣、既にこの事につき横溝の観察を尋ねあり。問題ならぬ、人望なしとの事。これをお答 す」と書いている。 昭和天皇はひょっとして独立韓国に立憲君主制の可能性を考えておられたのかもしれな い。 李王朝は最後の王・純宗皇帝が1910年(明治43年)の日韓併合で廃位となり滅んだ。 最後の皇太子・李垠殿下も満九歳だった1907年、日本に連れていかれ日本に住んだ。 李垠・方子夫妻が韓国に帰国できたのは、解放から20年近くもたった1963年(昭和38年)の ことだった。解放後の韓国政治には「王党派」は見当たらない。右も左も圧倒的に共和制 で、立憲王政は人びとの視野にはまったく入らなかった。 李王家が「人望なし」になったのは、日本支配下で日本の傀儡になってしまったことが大 きい。しかし王家は日本支配の犠牲の象徴だったのではないのか。それにしては本国は王 家に冷たかった。 韓国では今、旧朝鮮総督府庁舎を解体・撤去し「日帝」が壊したという景福宮の完全復元 を急いでいる。昌徳宮も復元工事中だ。しかし建物の復元には忙しいのに王家のその後に は関心はない。 96年秋、李垠・方子夫妻の遺児で日本に住んでいた李玖氏(65)が永久帰国した。李王家を 生んだ全州李氏の同族会「全州李氏大同宗約院」の総裁という肩書だが、国からは何の配 慮もない。
幻のアリラン 映画が民族の魂を象徴した 1926年(大正15年)10月1日、京城(ソウル)では朝鮮総督府庁舎の落成式が盛大に行われた。 1916年の着工から十年という大工事だった。韓国に対する日本の支配を誇示するように王 宮・景福宮の前面にそびえ、景福宮を後ろに追いやって人びとの目から隠してしまった。 《不朽の名作》 1919年、大規模な抗日独立運動「三・一独立運動」の後、新しく赴任し た第三代総督の斎藤実は「武断統治」に代わる「文化統治」で知られる。 斎藤総督は赴 任した九月二日、京城の南大門駅に降り立った際、さっそく爆弾テロの洗礼を受けるが無 事で、八年間の在任中、民心をつかむため教育や文化に力を入れる。しかし景福宮の一部 を破壊しての総督府庁舎建設はそのまま進めた。 「朝鮮の美」を愛した日本の民芸家・柳宗悦(やなぎ・むねよし)は1922年(大正11年)に「失 はれんとする一朝鮮建築のために」という一文で「光化門よ、光化門よ、お前の命がもう 旦夕に迫らうとしている…」と書いて景福宮破壊に抗議したが。 新総督府庁舎で斎藤総督をはじめ各界要人が出席した華やかな落成式が行われていると き、同じ鍾路区の映画館「団成社」では映画「アリラン」に人びとが詰めかけ熱狂してい た。 当時はまだ無声映画時代だった。韓国(朝鮮)人による映画史は1919年にスタートし たが「アリラン」は最初のヒット作品であり、その民族主義的な内容から韓国映画を代表 する不朽の名作となった。 しかも総督府庁舎の落成と封切りがくしくも同じ日だったため、映画「アリラン」は日本 支配に抗する民族魂の象徴として後にその評価はいやがうえにも高まる。制作・撮影は日 本人だったが、監督・主演・シナリオを担当した羅雲奎(ラ・ウンギュ)は民族的英雄とな り、今年から韓国の国定歴史教科書に写真付きで登場している。 それにもう一つ、主人公が日本人巡査に引かれてゆくラストシーンに流れる「アリラン、 アリラン、アラリヨ…」の主題歌「アリラン」はその後、韓国を代表する民謡になった。 知人の宮塚利雄・山梨学院大助教授の著書「アリラン−歌に刻まれた朝鮮民族の魂」(創 知社刊)は、太平洋戦争末期、日本軍特攻隊員の卓庚鉉少尉が出撃前夜に知覧基地で歌っ た「アリラン」や慰安婦が歌った「アリラン」、さらには1960年冬、往年の名テナー永田 絃次郎(金永吉)が北朝鮮帰還を前に九段会館で最後に歌った「アリラン」、1984年初めて 訪日した全斗煥大統領の宮中晩さん会での「アリラン」など、民謡「アリラン」を素材に 日韓現代史を興味津々につづっている。 余談だが先年、この本の書評をある雑誌に頼まれたとき、ぼくは「思い出のアリラン」と して、1988年ソウル五輪閉会式での「アリラン」を挙げ、さらに命名に手間取っている韓 国版・新幹線の「京釜高速鉄道」も「アリラン号」にしてはどうかと書いたことがある。 「アリラン」は韓国そのものなのだ。
映画「アリラン」に戻れば、韓国人がこんなに思い入れを込めている映画であるにもかか わらず実はそのフィルムが韓国にはない。 唯一、大阪在住の日本人収集家のところにあ ることが関係者の間で知られており、この所蔵フィルムをめぐって近年、日韓の間が騒が しい。韓国では昨年秋「映画アリラン探し汎国民署名運動」さえ行われた。 署名運動のビラには、所蔵者は「総督府の検閲官、警察通訳官、伝染病医薬製造専門家」 だった人物の息子で、「アリラン」は父親が大戦末期に核開発実験用の爆薬製造のため大 量に集めたフィルムに含まれており、したがってその返還問題は「民族問題」であり、国 民の名で日本に返還を要求しなければならない―などと書かれている。 日本が奪っていったフィルムだから返せというのだ。「核開発実験」などというのも妙な 話である。東大阪市の生駒山のふもとに住む問題の収集家、安部善重さん(75)をたずねて みた。話は全然違っていた。 《返還を拒否》 明治二十年(1887年)生まれの父・安部鼎(かなえ)は京都府立医専を出て、 1918年(大正七年)警察医として妻とともに韓国に渡り、請われて無医村で開業医となる。 馬山、河東、麗水、光州など主に南部の地方で診療にあたり五年ほど滞在した。 若いころから映画が好きで、韓国では幻燈を使って衛生思想の普及に努めたり、その後は 十六ミリフィルムに収めた医学標本を作ったり、ドイツ留学の折にはチャプリンやキート ンなどの映画を善重さんに土産に買って帰ったりもした。 当時、資金に困っていた韓国の映画関係者を援助したことからしばしば作品を贈られ、約 六十本を所蔵していた。帰国後、大阪で病院を開業し昭和四十一年亡くなった。 安部さ んは父の所蔵品を引き継いだ。戦時中は火薬用に処分する古フィルムを集めたり、終戦直 後は空襲に遭わなかった京都の映画会社などからも多くのフィルムを買い取った。 安部さんは骨とう品などいろんな物の収集家で、現在、映画フィルム十万本のほか切手百 万枚以上、無数の写真、カメラや映写機といった機材数千台など膨大な品々が、自ら「化 け物屋敷」といっている百三十五坪の廃屋のような自宅の内、外に文字どおり山のように 積み上げてある。 このものすごい資料の山を見れば「『アリラン』がどこにしまってあるのか分からない」 という話がまんざらウソではないように聞こえる。 安部さんによると中学生だった昭和 八、九年ごろ家で「アリラン」を見た。犬と猫の字幕で始まり、主人公が鎌を振り上げ格 闘する場面が印象に残っている。そして父から「危険思想だからあまり見るな」と言われ たことを覚えている。 近年、韓国側から責められ続けている安部さんは「アリラン」の所蔵は否定しない。しか し「韓国には絶対渡さない」という。 「(奪っていった)戦利品だから返せといわれたの では承服できない」からだ。韓国側の強引な「返還要求」に怒りが強く、今では「ネッシ ーと同じで幻のままがいいのではないか。幻だから価値があるのかもしれない」といって いる。
61 :
50 :01/12/01 01:07 ID:???
仕事はやる気ないけど、2chへのカキコはやる気ありあり。 なぜ?
この荒らしは人種差別主義者のようですね
ハングル板へ逝けば歓迎されるyo
歌は知っている 「半島」に渡った大衆歌謡 朝鮮半島が日本支配から解放されて半世紀の一九九五年八月十五日、ソウルでは韓国政府 主催「光復五十周年記念行事」の最大イベントとして旧朝鮮総督府庁舎の解体が行われた。 ■日帝の象徴 この建物は解放後、一時、米軍政庁に使われた後、大韓民国政府樹立(1948 年)で政府中央庁舎になり、86年からは国立中央博物館になっていた。 日本支配を象徴 する建物で、しかも故宮・景福宮の前面に建っているとあって韓国人のうっぷんの対象に なってきた。しかし近代建築として見事なものだし、まだ十分使えるとあって壊しかねて きた。 それに「日帝(日本帝国主義)の象徴」ということで「歴史の教訓」として残すべ きとの保存論も根強かった。 しかし「民族の精気を取り戻そう」といい、「歴史立て直し」を叫ぶ気負いの金泳三政権 は、民族感情を背景に「光復五十周年」を機に一気に解体・撤去に踏み切った。 代わり の国立中央博物館はまだない。常識的には新しい博物館ができてから解体・撤去するもの だろうが、待てなかった。政権の任期中に何としても無くしたい−解体・撤去は政治的に 強行された。 その結果、国立中央博物館の膨大な所蔵品を保管・展示する代わりの場所 に困った。そこで「日帝に破壊された景福宮の完全復元!」を名分にしているにもかかわ らず、解体・撤去された旧総督府庁舎の左わきにまた、仮博物館を建て、この二月に開館 している。 旧朝鮮総督府庁舎は一九二六年(大正十五年)完成だから六十九年間、存在し た。うち日本統治時代は一九四五年までの十九年間に過ぎない。(米軍政時代を含め)残り 五十年間は韓国のものだった。 一九四八年の大韓民国建国宣言や制憲議会はこの建物で行われた。朝鮮戦争(一九五〇 −五三年)では南北による激しい攻防、争奪の的になった。この時、大韓民国と朝鮮民主 主義人民共和国の国旗が何回も揚がったり降ろされたりした。そしてクーデターの度に戦 車に包囲された。 こうした韓国現代史の現場も今回の解体・撤去で永遠に姿を消した。 旧朝鮮総督府庁舎が無くなった後の光化門あたりは風通しがいい。景福宮の後ろに北岳が よく見通せる。今や日本統治時代の主な建物で残るのはソウル市庁とソウル駅くらいだ。 ソウルの風景は日本が深くからんだ「近代」は壊して「中世」と「現代」だけになりつつ ある。 「光復五十周年」にもどる。 ■“希望の歌” あの日、旧総督府庁舎の解体・撤去の象徴として式典に参加した各界要 人や市民が見守るなか尖塔部分の取り外しが行われた。雰囲気を盛り上げる祝賀の曲がバ ンドによるバックミュージックで流された。 その最初の曲を聞いた瞬間、ぼくは「オッ」となった。曲がナツメロ大衆歌謡の「感激時 代」だったからだ。大衆歌謡が悪いというのではない。 「感激時代」はラジオのナツメ ロ番組のテーマ曲になるほどよく知られている明るく軽快な一種の青春歌謡である。文字 では説明しにくいが、歌詞は「街は呼ぶ、歓喜に輝く街…口笛吹き、行こう明日の青春よ」 とか「海が呼ぶ、情熱あふれる青春の海…希望の春は遠くない、幸運の船路よ」とか「芝 草は呼ぶ、春の香りの希望の大地…あの丘越えて、行こう花咲く村へ」といった感じだ。
つまり喜びと希望の歌である。したがって多くの韓国人は一九四五年の解放直後の歌だと 思ってきた。だから「光復五十周年」の祝賀行事の会場で演奏されたのだが、実はこの歌 は日本統治時代の1939年(昭和14年)に人気歌手・南仁樹(ナム・インス)が歌って大ヒット した一種の「戦時健全歌謡」だった。 当時、日本は中国大陸に戦線を拡大しており、いわゆる「満蒙開拓」をはじめ大陸ブー ムで映画や歌謡も「大陸への雄飛」を呼びかけていた。 同じ昭和十四年には長谷川一夫・李香蘭主演の「熱砂の誓い」(渡辺邦男監督)が封切ら れているが、伊藤久男が「砂漠の野菊の朝露に…」と豪快に歌った同名の歌などもその典 型だ。韓国(朝鮮)における「感激時代」はそうした時代背景の中でヒットした。 当時、韓国人もブームに乗って多くが大陸に「進出」した。日帝下の韓国人にも「希望 の青春」はあったのだ。 「光復五十年」の八月十五日の翌日、新聞は案の定、「あの記 念すべき式場で侵略美化の親日歌謡とは何事だ!」とかみついた。 「感激時代」は韓国歌謡界で三千曲以上も作曲した最大の長老作曲家・朴是春氏の曲で ある。解放直後には「ラッキーソウル」をヒットさせ、朝鮮戦争の時には「戦線夜曲」で 人気を博した。一九八二年、大衆歌謡の作曲家としては初めて韓国政府から文化勲章(宝 冠章)を贈られている。 ■学徒歌に ところでぼくは韓国(朝鮮)歌謡史でもう一つ「オッ」と思ったことがある。 ずっと以前に日本で「朝鮮労働党創建三十周年記念行事」を紹介する北朝鮮の記録映画を 見たときだった。スタジアムで例の大マスゲームが展開され、その最初に流れた軍楽隊の マーチ風の曲が何と日本の「鉄道唱歌」だったのだ。 もちろん韓国(朝鮮)では昔から「学徒歌」といわれ、「学徒よ学徒よ、青年学徒よ…」 とか「青山に埋もれし玉も、磨いてこそ光あり…」など別の歌詞をつけて親しまれてきた。 韓国近代歌謡史の第一ページに出てくる。 韓国の文献によると、日本支配時代には独立の気概を歌う国民歌謡だったという。今で は作曲未詳とした文献もあり、元は日本の「鉄道唱歌」と知っている人はだれもいない。 日本の交通博物館に電話して聞いたところ「汽笛一声、新橋を」で知られる「鉄道唱歌」 は多梅稚ほか作曲、大和田建樹作詞で明治三十三年(一九〇〇年)に作られたという。まさ に二十世紀の幕開けである。韓国には当時の日本留学生たちによってもたらされた。 この連載企画の冒頭の「ハーグ密使事件」のところで、八〇年代に北朝鮮で作られた映 画「帰らざる密使」を紹介したが、この映画の主題曲も実は「鉄道唱歌」いや「学徒歌」 なのだ。北朝鮮で今なお「鉄道唱歌」が健在とは実に楽しい。
67 :
事情通 :01/12/02 01:30 ID:XAzZcrOu
沢井最高
エル○トニンはやはり申請データ捏○が原因だったのでしょうか?
69 :
社長 :01/12/02 19:19 ID:???
そんなことない!!
70 :
ユーザー :01/12/02 20:17 ID:???
ふうん、そうなんだ。同じゾロでもちゃんとしたメーカーにつくって欲しい。
波濤よ語れ 朝鮮学徒兵は総督に訴えた 今から二十年ほど前の一九七八年夏、ソウルに語学留学していたとき、あるテレビドラマ に感動したことがある。韓国マスコミが毎年やっている「八・一五光復節」記念の特集番 組だった。そのドラマ評が新聞に出ていて興味をそそられたのだが、住んでいた下宿の部 屋にはテレビがなく、ドラマの作家に手紙を出し、テレビ局で放送済みのものを見せても らったのである。 ●民族越えて 当時のメモを見ると、新聞のテレビ評はこういうものだった。「TBS(東 洋放送)の特集劇『波濤よ語れ』は韓雲史氏による三部作で、敗戦の混乱のさなか孤児に なった日本人少年モリ・シンが韓国人漁父に育てられ、朝鮮戦争の動乱をヘて、らでん漆 器の技法を学ぶ。苦難の末、成功した後、父母を探して日本に渡るが、故郷となった韓国 が忘れられず再び韓国に戻ってくるというドラマである。つまりドラマは民族、国境を越 えたヒューマニズムの勝利を謳ったものだ」 「韓雲史氏は視聴者に伝えたい強烈なメッセージを持った作家として高く評価されてきた が、しかしこのドラマは見方によっては多くの問題を内包している。たとえば日本人の主 人公を受け入れるにはまだ感情的にすっきりしない。韓氏はヒューマニズムの究極の勝利 を一貫して追求してきた作家だが、コスモポリタン的思考の危険を指摘する声もある。し たがってまだ感情的に消化されるだけの素材ではないともいえる」 ぼくは習いたての韓国語で韓雲史氏に手紙を書き、その紹介によってテレビ局で二日間に わたって計三時間半のドラマを見せてもらった。 ドラマは「日韓の和解」をテーマにしたもので、韓国にこんな作家がいて、しかも日本人 を主人公にそれをテレビドラマで訴えている、と驚きかつ感激した。テレビ局のスタジオ で一人、ドラマに見入りながら、涙腺が緩むことしきりだったのを覚えている。 このドラマは、日本人少年の故郷が石川県の輪島であり、韓国で一流のらでん職人になっ たモリ・シンが日本で輪島の漆(うるし)塗りの技法を習得し「世界に誇るべき東洋工芸で あるらでん漆器の美」を完成する−というストーリー構成で、最後に帰っていくのも韓国 という「国」ではなく、彼を育ててくれた暖かい「人」たちのもとというのだった。 このドラマのことがきっかけとなって韓雲史氏との付き合いができた。そして後で知った のだが、彼は太平洋戦争末期の「朝鮮学徒特別志願兵」で動員され、日本統治下での韓国 版・学徒出陣の経験の持ち主だった。その「学徒出陣」がまた、一遍のドラマのように感 動的だった。 ●「壮行会」で 韓雲史氏は東京・駿河台の中央大学予科二年だった昭和十八年(一九四 三年)秋、朝鮮半島出身の学生にも「志願兵」のかたちで召集の動きが出るなか、満州に でも逃れようかと下関から関釜連絡船に乗った。ところが、刑事によって居合わせた学生 すべてが船内食堂に集められ「学徒志願兵」にさせられてしまった。
故郷の忠清北道・槐山で母に会った後、十二月末になって「学徒志願兵」たち約二千人は 京城(ソウル)の京城帝大法文学部と東星商業学校に集合し、一週間の軍事訓練を受けた。 修了式は12月28日、京城帝大法文学部の運動場(現在の大学路)で行われた。そこから隊列 を組んで昌徳宮、総督府前を通って壮行会が行われる京城府民館まで行進した。沿道には 家族たちが詰め掛け泣いて別れを惜しんだ。 京城府民館は現在、ソウル市庁(当時は京城府庁)の斜め後ろ、コリアナ・ホテルの隣でソ ウル市議会になっている。この時、韓雲史氏は満二十歳。日本で雨の神宮外苑の出陣学徒 壮行会が行われてから二カ月後のことである 府民館の会場では二階左側の隅に座った。壇上には小磯国昭総督、板垣征四郎朝鮮軍司令 官ら高官が並び、著名な文学者・李光洙をはじめ各界名士の激励のあいさつがあった。 小磯総督が演説に立ち、静まり返った場内に「…幸いにして諸君は今こそ皇恩の無限なる をさとり、決然と立って今後まさしく皇国臣民として堂々とその義務を遂行することにな ったのであります」(これは韓氏の自伝的小説「玄海灘は知っている」から)と声が流れる。 この時、二階にいた韓雲史氏は突然、立ち上がって「小磯総督におたずねします!」と叫 んだ。すべての視線が集中するなか「総督はわれわれ朝鮮学徒兵が出征したあと、朝鮮二 千五百万の将来を確実に保証しうるやいなや、明確な返答を乞います!」と訴えた。 韓氏は、今では「さすが総督だった」というが、これに対し小磯総督は一瞬、絶句したあ と「そういうことをうたぐっている者は、皇国臣民としての訓練、いまだ足らずというべ きである!」と答えた。 ●胸の内の声 この時の心情について韓氏は「みんな気が高ぶっていたので、これに火を つけてやるかと思った。どうせ死地に行くのだからここで死んでもいい、その方が歴史に 残るかも、とも思った」という。 しかし場内は静まり返ったままで火はつかなかった。一階の方ではざわめきがあったよう に思うが、小磯総督は何事もなかったように演説を続けた。 韓氏はがくっとした感じで 席に座った。その瞬間、後ろから憲兵に襟首をつかまれて引きずり出され、足払いをかけ られて地下に連れていかれた。 憲兵や刑事に取り巻かれ「大変はことをしでかしたな、どういうつもりなんだ、死刑だぞ、 事前の謀議はしなかったのか、覚悟はできてるんだろうな…」などと脅かされた。「動機 は何なんだ?」には「正直でありたかったからであります、ここにきているみんなの胸を 開いて聞いてみれば分かると思います」と答えたという。 そのうち外から「軍艦マーチ」の曲が聞こえてきて壮行会は終わったようだった。韓氏は 居残った「ショウジ(東海林?)」という名前の刑事に京城府庁裏の路地の旅館に連れてい かれた。ショウジ刑事は「おれはお前の正直さにほれた。いいよなあ…。総督閣下も特別 にお前のことを心配してくださった。ひとつ今晩は語り明かそうじゃないか」といった後、 「本署に行ってくる」と出掛けてしまった。
玄海灘は知っている 民族を超えた視点貫く 昭和十八年(一九四三年)の暮れ、京城府民館での学徒志願兵壮行会で小磯国昭総督に注文 を付けた二十歳の韓雲史氏は、その晩、ショウジ刑事と旅館で語り明かした。翌日、本町 警察署(現在の中部警察署)に連れて行かれ始末書を書かされた。ショウジ刑事の話では、 前夜、街では壮行会が終わった学生たちで荒れた。しかし小磯総督は(韓氏のことも含め) 「みんな許す」といったという。 夕方、釈放になりいったん故郷に帰されたが、自宅から二キロ以上の遠出には警察の許可 がいるという禁足令付きだった。入隊は翌昭和十九年一月二十日。忠清北道清州に集まり 忠清南道大田で入隊し、釜山港から日本に向かった。 ●いい日本人 その後の話だが、朝鮮人学徒志願兵の生き残りたちはこの入隊日を記念し て「一・二〇同志会」をつくり、今でも時々、集まっている。 入隊した韓雲史・初年兵は、壮行会の一件が情報として伝えられていたせいか憲兵から人 一倍、引っ張たかれた。サイパン陥落(昭和十九年七月)の報が伝わったときも、古参兵か ら「貴様、うれしいのだろう」といわれ、また引っ張たかれた。 韓雲史氏の日本軍隊生活は自伝的小説「玄海灘は知っている」(三部作の一部が角川書店 で翻訳出版された)に詳しい。彼は「どこの国にもいいヤツもいれば悪いヤツもいる」と いう人間哲学の持ち主である。この小説では「いい日本人」として「中村一等兵」が登場 し、著者の分身である主人公「阿魯雲」と最後まで心を通わせる。 韓国側の文献によると朝鮮人学徒志願兵は四千三百八十五人、終戦前年の昭和十九年ただ 一回の召集で終わった。ちなみに朝鮮半島出身者で日本軍に動員され犠牲になった軍人・ 軍属は日本側資料では約二万二千人である。日本軍全体の犠牲者の一%を占める。 ぼくは前回紹介したテレビドラマ「波濤よ語れ」のことを知ったとき、韓雲史氏の名前を かすかに覚えていた。七〇年代の中ごろだったか、日韓文化交流のことを取材していて作 家の松山善三氏に会った際、松山氏から「韓国に韓雲史といういいシナリオ作家がいる」 と聞いていたからだ。 なぜ松山善三氏かというと、日韓国交正常化の直前の一九六五年、韓国で梶山季之の小説 「李朝残影」が映画化されていて、松山氏がシナリオに協力した。この映画は当初、日韓 初の合作映画として計画されたが結果的には完全な合作に至らず、この経緯の中で韓雲史 氏の名前が出てきたのを思いだしたのである。 ●批判が続出 テレビドラマ「波濤よ語れ」の後、韓雲史氏は梶山季之の小説「族譜」の 映画化に際しシナリオを書いた。映画「族譜」(林権沢監督)は一九七八年度下半期の韓国 での優秀映画に選ばれている。これは同じ年の「三・一独立運動記念日」に特集テレビド ラマとして放映されたものの映画化だった。いずれも韓氏がシナリオを担当した。
74 :
事情通 :01/12/02 22:54 ID:???
何だ気味は
エルカトニンは同等性試験捏○したの?
小説「族譜」は、日本統治時代の末期(昭和十五年から)、韓国(朝鮮)人の名前を日本風に 変えさせた「創氏改名」政策の史実を素材に、それに抵抗して自殺した親日派名士の韓国 人と、その政策推進に悩む道(県)庁職員の心優しき日本人青年の姿を描いている。朝鮮(韓 国)で少年時代を過ごした梶山季之のかの地への「贖罪意識」が色濃く出ている作品だ。 韓雲史氏は「三・一節」という韓国にとっては輝かしい抗日闘争記念日の特集テレビドラ マで、日本人が主人公の梶山作品を使って「あの時代、いい日本人もいた」と視聴者に語 りかけ、さらに映画化までしたのだった。 「人間を国や民族で見るのでなく、人間その ものとしてみようではないか」というのが韓氏の一貫した考えである。 しかし映画「族譜」が優秀映画賞を受賞したときも、韓国の新聞には「原作者は青年時代 を日帝下の韓国ですごした人で韓国および韓国人には一種の罪意識をもって作家活動をし た。しかし小説にしろドラマにしろ映画にしろ、もろ手をあげて歓迎するにはどこか抵抗 感がある。日帝虐政に対する日本人の良心的苦悩は日本人の問題であってわれわれの問題 ではない。へたするとそれは日本人の自己慰安と弁明になるだけだ」との批判が出た。 批評はさらに「問題は自決した韓国人で、死をかけて姓氏を守ろうとしたことはほめられ るべきだが、日本に対するほかの協力は積極的、消極的を問わずやりながら姓氏だけを固 守しようとしたのは、その抵抗の意味をほとんど無にしてしまうものだ」といい「三・一 節」にはふさわしくないというのだった。 ●抵抗を強調 ぼくは以来、二十年近くにわたって韓国のテレビドラマを見ているが、韓 雲史氏のような発想はむしろ後退し、批評がいうような「抵抗」のドラマばかりが幅を利 かしているように見える。韓国では日本統治時代を知らない人びとが多数を占める中で、 あの時の日本も日本人も単純化されつつある。 韓雲史氏は「年を取るとこわいものは何もない。何でもいえるんだよ」といい「後になっ て抵抗した話がよく出るんだが、学徒兵だって年齢の違いをはじめいろんな人がいてね。 好んで行った人もいるし、信じて行った人もいる。また日本人も人間としてみるべきで、 あまりにも最近は誇張された一面的な描き方が多いのでよく文句をいうんだ」と語っている。 映画「族譜」には後日談がある。韓国での語学留学を終えて帰国した後、一九八〇年のこ とだっただろうか、作家・梶山季之の六回忌の時だったと思うが美那江夫人から電話があ り、自宅での追悼会で映画「族譜」の試写会をやりたいので通訳兼解説をしてほしいとい うのだ。 そういえば映画「李朝残影」も梶山季之の一周忌を記念して一九七六年五月、韓国映画と しては日本で初めてテレビ(当時の東京12チャンネル)で放映されている。韓雲史氏から話 がいったようだが、ぼくは喜んで梶山邸に出掛けた。 梶山季之は広島大学卒業である。 また「広島」が登場するが、彼は昭和五年(一九三〇年)朝鮮総督府の役人の息子として京 城(ソウル)に生まれ、南大門小学校から京城中学に進み、中学四年のとき終戦を迎えた。 彼は自分の体験をもとに「京城での八・一五」を小説にしている。
77 :
事情通 :01/12/03 19:32 ID:???
日本人化の時代 差別排除を願い「改名」選ぶ 戦前の韓国(朝鮮)で生まれ育った作家・梶山季之の贖罪意識が反映した小説「族譜」は「創 氏改名」をテーマにしたものである。小説としての評価や韓国での映画化のできばえはよ かったが、問題の「創氏改名」については誤解があるとして専門家の間では評判がよくな い。この誤解は日本統治時代の「創氏改名」(昭和十五年から実施)の悪名ぶりを強調する あまり、現在、日韓双方にある。 《「皇軍兵士」に》 映画「族譜」は「創氏改名」に抗議して自殺した人がいたという実 話を素材にしている。自殺例は全羅北道高敞郡での一件だけが記録として残っているのだ が、映画は「創氏改名」によって韓国人が先祖代々、自らの存在証明(アイデンティティ ー)として受け継いできた一族の系譜である「族譜」が断絶するかのように描いている。 しかしこれは誤りだという。 まず「創氏改名」は戸籍に別途、日本式の「氏名」を新たに作るというものであって、個 人が所持し維持してきた「族譜」はそのまま残ったし、韓国人が大事にしてきた金とか李 とか朴といった「姓」も戸籍にはそのまま残された。つまり、実際は「創氏改名」と「族 譜」は関係なかったのだ。 韓国(朝鮮)は昔から男系社会であるため妻は夫の家系に入ることができず夫婦別姓であ る。また子供は必ず夫の姓を受け継ぐ。したがって戸籍では夫と妻の姓が違い、夫や妻の 母親もそれぞれ別姓で、同じ戸籍にいくつもの姓が混在している。しかも姓自体が二百数 十しかないため三大姓の金・李・朴だけで何百万人もいる。 「創氏改名」は日本風の氏名、日本風の戸籍にすることで韓国人の家族観を変え、日本人 にしようとしたものというわけだ。日本が植民地の韓国(朝鮮)や台湾を含め、国家総動員 体制で戦争に対処しなければならなくなった南次郎総督時代のいわゆる「内鮮一体」「皇 民化」政策である。とくに「皇軍兵士」として韓国人を動員する必要性から日本人化が進 められたともいえる。 韓国人にとって最も重要な家族−血縁に関する問題だけに当然、反発があったし、ごく一 部だが自殺者も出た。「創氏改名」は法律による半ば強制、半ば自由意思という政策だっ たが、応じないと不利益をこうむるといわれ、さらに「時流」もあって韓国人の約八割が 応じた。 《進む一体化》 著名な文学者だった李光洙は昭和十五年二月「香山三郎」と「創氏改名」 した際、その理由を次のように説明している。 「内鮮一体を国家が朝鮮人に許した。朝 鮮人が内地人と差別がなくなる以外に、何を望むことがあろうか。したがって差別を除去 するためにあらゆる努力をすることの他に、何の重大でかつ緊急なことがあるだろうか。 (略)われわれの従来の姓名は、支那を崇拝した先祖の遺物である。地名や人名を支那式に 統一したのは、わずか六、七百年前のことだ。すでにわれわれは日本帝国の臣民である。 支那人と混同される姓名を持つよりも日本人と混同される氏名を持つ方が、より自然だと 信じる」
李光洙は「同じ日本人」として差別排除を願って日本人風の氏名を選択したというのだ。 たしかに日本軍では韓国(朝鮮)人の上官の下で日本人の兵が動くという、西欧の植民地国 では考えられないような「平等」ぶりも見られたが、李光洙の「願い」は五年後の日本の 敗戦、撤退もあり結局、実現はしなかった。 余談だが、前述のように「族譜」は韓国では「創氏改名」とは関係なく維持され、人びと は数百年、ときには千年以上もさかのぼって祖先を意識しながら血縁・同族社会に生きて いる。しかし北朝鮮では1945年の解放後、共産主義化によってあの「日帝」もやらなかっ た「族譜」の全面廃棄ということをやっている。 韓国の歴史教科書を見ると、日本統治時代の末期にあたる1940年あたりから解放の45年ま でがきわめて簡単である。「われわれはよくがんばった」という抵抗史観からすれば、こ のころはもう目ぼしい抵抗の歴史が見当たらないということだろう。 戦時体制下でそれほど日本との一体化が進み、日本への協力が進んだ時代ということであ る。当時、少年だった韓国人は今60代だが、彼らの多くは「あの当時、ぼくらはもう日本 人になりつつあった」という。先に紹介した学徒兵出身の作家・韓雲史氏も「あのままい ってたら完全に日本人になっていただろうね」という。 《99%日本人》 ぼくは七〇年代の韓国留学時代、元日本軍出身だという行きつけの食堂 のオヤジから「日本が戦争に負けていなければ自分は今ごろはアメリカのカリフォルニア の知事にでもなっているのに」と、まじめ半分、冗談半分の顔でいわれ驚いたことがある。 日本がアメリカを支配して自分も出世しているというわけだが、今回、日本統治時代に日 韓同数の生徒で日韓共学をやっていたというソウルの名門高校・善隣商業を取材しよう と、ある韓国人OBと会ったときもこんな話が出た。 あまりにも鮮やかな印象だったので紹介する。昭和19年(1944年)春、陸軍航空少年兵の募 集があって、学校の上空に日の丸をつけた陸軍戦闘機「隼(はやぶさ)」三機が飛来して何 回も低空旋回した。 生徒はみんな校庭に出て手を振った。その中の一機のパイロットが善隣商業出身の韓国人 で、機上からしきりに手を振るのがはっきり見えた。この後、生徒たちはわれもわれもと 少年航空兵に志願したが、実際に行けたのはわずかだった。この話の主は「あの時、ぼく らは99%日本人になっていたからねえ」といっていた。 日本の韓国併合は三十五年間続いた。これは一世代分である。一九四〇年代の戦時中、壮 年以下の韓国人は日本人化していた。 解放後の韓国で徹底した反日教育が行われたのもこうした背景がある。日本人になってし まったのを元の韓国人にするためには、日本を全否定する反日教育が必要だったのだ。い まなおマスコミや識者が一方で「日本に学べ」といいながら「反日」に熱心なのも、「日 本人になってしまった」という過去の経験からくる不安のせいかもしれない。
上司ムカツク! 03-3446-4567
>>80 電話番号を書くのはやめようよ。
何かトラブルが起きたら、この板や管理者に迷惑が及ぶから。
82 :
SW :01/12/03 23:28 ID:???
しかし何でお前が適当な報告してるのに 俺達のことばかり指摘するんだ? お前がいかに適当なことをやってるか報告してやろうか? お前の週報100%虚偽だろ? パチンコばっかりやっててほとんど仕事しないくせに たまに事務所いるときはネットで遊んでやがって!! 頼むから早く転勤してくれよ〜! いっそのこと悪さが会社にバレて首になっちゃえ!! まぁ〜、分かっているくせに放っておいてる上にも問題ありだけどね!! 所詮こんな会社だね!!
■冷戦が始まった!(1) 【裏切りのヤルタ】 土地奪い、民族を引き裂いた悲劇 《脅迫と弾圧》 冷戦と呼ばれた時代に自らを投影して、できるだけ過去に網を投げてみ ると、どの時点に達するだろうか。私自身のわずかな原体験からは、二十七年前のある冬 の情景だけがなぜか鮮明に浮かんでくる。 それは一九七〇年十二月十九日の「ソ連戦車 隊、ポーランド国境近くに集結」との衝撃的なニュース報道だった。当時、大学三年の私 はこのニュースに耳をそばだてながら中央線の市ケ谷駅に降り立っていた。 その夜は学生たちの小さな集まりがあって、柄にもなくカール・ポパー(注1)の『歴史 主義の貧困』という難解な本に取り組んでいた。社会思想研究を気取る学生の読書会に本 物の法哲学者、碧海純一(注2)がくると聞いて、苦吟しながら読んだことを覚えている。 このころの日本ではノンセクト・ラジカルのにわか左翼がばっこして、ポパーのマルク ス主義批判を読むなんて一言でいえばはやらない、少数派の忌むべき存在であった。熱病 は全国の大学に広がり、反論は角材で封じられた時代である。 ポパーが痛烈に批判する 歴史主義というのは、社会の進化には必然的な「歴史法則」があって、マルクス主義だけ が歴史の流れに適合しているとの考え方を指している。しかしポパーは「思想の自由な競 争」がない社会では、経験的事実すら否定され、多くの悲劇を生み出すことになると繰り 返し警告していた。 あの冬の夜、ポパーの「理論」とポーランドの過酷な「現実」が急に接近し、ついに火 花を散らして交差したように思えた。この時、ポーランドを覆っていたのは、ソ連の容赦 のない支配力であり、仮借ない脅迫や弾圧であった。 その夜の学生たちは、マルクス主 義の「歴史法則」が角材の暴力や国家の軍事力を正当化する単なる道具に使われている現 状を憂え、ポパーのいう「峻厳な法則を信じたファシストやコミュニストの犠牲者」に思 いをはせた。 《流れはソ連》 さて、人それぞれが記憶する冷戦という過酷な歴史の起点を、どこに求 めるべきなのだろうか。ここではソ連による東欧支配を結果として容認した一九四五年二 月の「ヤルタ会談」から始めたいと思う。 舞台は黒海に突き出たソ連領クリミア半島の南端の保養地ヤルタに移る。チェーホフら 多くの文学者に愛されてきたヤルタが、戦後世界を決定する指導者たちに外交上の駆け引 きの場を提供することになった。 フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャー チル、ヨシフ・スターリンの米英ソ三カ国の指導者が、ロマノフ王朝(注3)のリバディア 宮に集まり、ひそかに戦後世界の運命を決めていた。三巨頭はここで、欧州を東西に分断 し、それぞれの勢力圏を分け合っていたのである。 ここに掲載する写真は会談がスター トして五日目の四五年二月九日に撮影された有名な記念写真である。勢ぞろいした主役た ちの中で右端のスターリンがひときわ脂ぎっていることが分かる。写真中央には、なお威 厳に満ちてはいても、ほおがそげ落ち、健康の悪化が明らかに分かるルーズベルト。その 左手に不機嫌そうなチャーチルがいる。
会談では妥協点が見えなかったポーランド問題の協議に日程の半分以上が費やされ、そ の流れがどちらに傾いていたかは、この写真が明白に物語っていた。 ヤルタ会談の唯一 の証言者は、ことし九十一歳になるロンドン在住のフランク・ロバーツ卿(注4)である。 後に駐ソ大使になるロバーツはこの時、補佐官としてチャーチル首相に同行していた。 会談を通じてルーズベルトが、なぜスターリンに親近感を持ち、東欧をこの独裁者に与 えてしまう過ちを犯したのか。この問いにロバーツは人を介して次のような見解を寄せて きた。 「スターリンは独裁者のようには見えなかった。小柄でソフトな語り口だし、ヒ トラーのようなすごみはなかった」「チャーチルはルーズベルトよりずっと現実主義的だ った。しかし最大の過ちはスターリンをいずれ同じクラブに勧誘できると考えたことだ」 会談そのものが、実はソ連に有利なタイミングで始まっていた。ヤルタ会談が始まった のは、チャーチルがスターリンにソ連軍の東部戦線でのドイツ攻撃を要請した一カ月後で あった。一方で米軍は太平洋戦線での日本との決戦を控えており、ルーズベルトはソ連に よる北からの対日参戦を熱望していた。 ポーランドの扱いでスターリンは、東半分を削 り取る代わりに、ドイツの東側の領土をポーランドに与えるとの勝手な名目を手に入れた。 その結果、ポーランドは国全体が西に移動させられたのだ。 《真実に失望》 米上院議員のバーバラ・ミカルスキによれば、ポーランド系米国人にと って、美しいヤルタの町は許し難い「裏切りの地」でしかなかった。ヤルタの合意は「住 み慣れた土地を奪われ、民族が引き裂かれる悲劇」を生んだからだ。 ミカルスキに会ったのは、ヤルタ会談から五十年以上も過ぎた九七年の夏、街路樹が美 しいマドリードだった。 北大西洋条約機構(NATO)の首脳会議(注5)で、チェコ、ハ ンガリーと並んでポーランドの加盟が新たに認められ、ミカルスキは明らかに興奮気味だ った。顔は紅潮し、ギュッと握られた手が汗ばんでいた。ヤルタ会談の取引で、勝手に共 産圏に組み込まれた祖先の国が、いま自らの意思でNATOに入ることを許されたのであ る。 一家は二十世紀はじめにポーランドを逃れて米国にやってきた。この国では反乱と 抑圧が周期的に繰り返され、東からロシア軍、西からはプロイセンに蹂躪されてきた。二 十世紀に入っても、大国に挟まれた小国の悲劇は変わらない。 ミカルスキは「曾祖母は大国主義の鎖から逃れ、希望と機会を求めて米国にやってきた」 と述べた。一家は東海岸メリーランド州の港町ボルティモアに落ち着き、細々とベーカリ ー店を始めた。曾祖母は、敬けんなカトリック教徒らしく自宅の暖炉の上にローマ法王の 絵を掛け、東欧からの移民に寛容な民主党リベラルの旗手、ルーズベルト大統領の肖像画 を掲げていた。 しかし、ヤルタ会談の衝撃をのちに知り、ルーズベルトへの尊敬と憧憬を失望と憤怒に 変えた。ルーズベルトが祖国ポーランドを東側に見捨てたことから、涙の中で肖像画を引 き裂き「裏切り」をののしったのである。 (20)
86 :
社長 :01/12/04 09:46 ID:bRi31XcW
ここの荒らしは著作権を侵害しています。 他人の著作物を無断で掲示することは禁じられています。
>>86 社長を騙るのもまずいんとちゃぅ。
もっとも副業で社長をやっているのなら問題ないか。
それにしても、安月給であることよ。
月給の安いのはお気の毒ですが、 そうの内、良いことも有りますよ。
>>80 俺も上司ムカツク! 06-6309-0177
90 :
卵の名無しさん :01/12/05 00:12 ID:RL9yRDTF
沢井にはろくな管理職がいません。 まともな人は昇進できませんし、たまにそういう人が管理職に就いても 潰されるだけです。
冷戦が始まった(2) 【祖国喪失】 スターリンに譲歩重ねたルーズベルト 《カチンの森》 バーバラ・ミカルスキはポーランド移民三代目にして、ポーランド系米 国人の女性として初の上院議員になった。大西洋を渡った曾祖母や祖母が夢に描いた「希 望と機会」がかなえられたのである。 ミカルスキの外交公約はポーランドの北大西洋条 約機構(NATO)への加盟促進であった。かつてフランス大統領のミッテラン(注1)が「西 欧の愛国者の思いはただ一つ、ヤルタ体制の打破である」と語ったのと同じ思いであった。 ミカルスキは、NATO拡大が浮上してきたときのことを「一部の米国人が、ポーラン ドを入れるとロシアを怒らせることになると心配顔だった」と不機嫌に語った。そのたび に彼女は「ソ連はカチンの森(注2)でポーランド人を大虐殺し、ワルシャワを見殺し、そ してヤルタで東欧のすべてを奪い取ったのです」と激しく反撃した。 いまポーランド移民が多い米メリーランド州ボルティモアで「カチン虐殺の像」をつく る準備が進んでいる。カチン追悼碑委員会の事務局に電話すると、委員長のアルフレッド ・ウィスニウスキ(七五)と委員のミラン・コムスキ(七三)が日を置かずして産経新聞ワシ ントン支局にわざわざ足を運んでくれた。 コムスキはポーランド東部のリボフ市で生まれたが、ソ連首相ヨシフ・スターリンがヤ ルタ会談で米英からこの地の割譲をとりつけたことから、戦後、帰るべき故郷を喪失して 米国に渡ってきたという。 ドイツ軍が一九三九年九月一日にポーランドに侵略し、次いでソ連軍が十七日に今度は 東側から侵入したため、ポーランド軍は挟み撃ちにあって散りじりになった。 コムスキ の住んでいた東部リボフ市を中心とするソ連占領地では、一九四〇年春以来、ポーランド 将校の捕虜約一万五千人がソ連軍に連行され、そのまま行方不明になっていた。彼らがカ チンの森でソ連軍に虐殺されたことが分かったのは後のことである。 将軍の息子であるコムスキは、仲間とルーマニアからトルコに抜けて中東地域で再編さ れたポーランド軍に参加した。彼らはイタリアのモンテ・カシーノの激戦で奮闘したが、 ポーランド軍はここで壊滅状態になる。 《骨抜き計画》 話が激戦の地に及ぶと突然、目の前にいるウィスニウスキの目から、大 粒の涙がこぼれた。「つい感傷的になって」と目頭をおさえるウィスニウスキは、この奮 戦ぶりをうたった「モンテ・カシーノのけしの花」が、国民的な愛唱歌になったと語る。 一方、コムスキはからくも、わずかな将兵とアドリア海にそって逃れた。 この間の一九 四三年、ドイツ軍がカチンの森で、ポーランド人の死体が埋められた虐殺場所の一部を発 見したのだ。 ナチスは、これらの死体がソ連軍に虐殺されたポーランド軍将校らのものだと主張した。 しかしモスクワは、これをゲシュタポ(注3)の手による宣伝であると反撃した。やがてポ ーランドの捕虜約一万五千人がソ連軍の占領地域で大量虐殺にあった証拠が浮かんできた。
ロンドンのポーランド亡命政権が、国際赤十字による調査を要求したところ、これに怒 ったスターリンが亡命政権との関係を断絶してしまった。さらに、モスクワにポーランド 民族解放委員会を設立してソ連の管理下においた。 スターリンが戦中、戦後を通じてと った政策は、仮借ない「ポーランド弱体化」であった。ソ連の影響力を東欧に拡大するた めに、ナチス・ドイツに対する自国の勝利を利用した。このため、西への回廊にあたるポ ーランドを骨抜きにしようとしたのである。 転戦に疲れたコムスキはやがて「連合軍の勝利」を聞いたものの、帰るべき祖国がなく なっていたことに気付く。米大統領フランクリン・ルーズベルトと英首相ウィンストン・ チャーチルが、ヤルタ会談で生まれ故郷を含む国土の東半分をソ連に引き渡すことに同意 してしまったからだ。 「故郷を喪失することほど、むごい仕打ちはなかった。ポーラン ドは国全体が西に移動させられ、故郷リボフもいまではウクライナ領になっていて二度と 戻ってこない」 コムスキの軍はいったん亡命政権のあるロンドンに移り、大半の人々が その後、米国とカナダに移民した。故郷をなくした彼らは、新しい移民の国を選ばざるを 得なかったのである。 それにもかかわらず、ルーズベルトは戦後の欧州を決定づけるヤルタ会談で、チャーチ ルに比べ、スターリンに譲歩を重ねた。それはなぜなのか。コムスキらポーランド移民に は無念でならなかった。 《善意に期待》 チャーチルは「ドイツはすでに片付いた。混乱がおさまるには時間がか かるだろうが、いま問題なのはソ連だ。そのことが米国人にはどうしても分かってもらえ ない」と慨嘆していた。彼はテヘラン会談(注4)、ヤルタ会談を通じてソ連がナチス・ド イツに代わって欧州を思うままにすることを警戒していた。 ルーズベルトの方は「英国 の植民地政策に手は貸さない」とむしろチャーチルを警戒し、スターリンの善意に期待を 寄せたのだ。 長年の友人である労働長官フランシス・パーキンズ(注5)の著書『私の知るルーズベル ト』によると、その前のテヘラン会談で大統領がチャーチルに距離を置くことを心がけて いたことを次のように語ったという。 「ウィンストン(チャーチル)は赤くなり、睨み付 けた。そして彼がそうすればするほど、スターリンは微笑んだ」「私がスターリンをアン クル・ジョーと呼んだのもその時だ。その日、彼は笑い、味方になり、私の手を握った」 しかしスターリンの素顔は、ルーズベルトが「アンクル・ジョー」と呼ぶほど善人では なかった。元国務長官ヘンリー・キッシンジャー(注6)は著書『外交』で「スターリンは ヒトラーとの条約でナチスと世界を分割する交渉をしてきた老かいな現実主義者であり、 粛清裁判やカチンの虐殺を組織した冷酷な偏執症の持ち主である」と断じた。 米国務省スタッフだった元ジュネーブ大学の教授ルイス・ハレーは、英仏両国が一九三 九年にドイツに宣戦布告したのも、戦後、同様に西側が冷戦に突入したのも、ポーランド を救済しようとしたことから始まったと指摘している。
冷戦が始まった(3) 【大統領の死】「スターリンとは取引できない」 米大統領フランクリン・ルーズベルトの死(注1)はヤルタ会談のほぼ二カ月後に訪れ る。ポーランドはじめ東欧移民から「ヤルタの裏切り」を非難されたルーズベルトは、一 方で、ウッドロー・ウィルソン流の「善意の国際主義者」としての評価も高かった。 「欧 州の戦争にはかかわらない」との米孤立主義(注2)の伝統の中で、米国を第二次大戦参戦 に導いたのは、紛れもなくルーズベルトの指導力だった。ルーズベルトの優雅な立ち居振 る舞いは王者の余裕を感じさせたし、時に狐のような狡智にもたけていた。 ところが、ルーズベルト外交に関する書物を何冊か読むと、経済改革のニューディール 政策での人気と対照的に、外交ではこれほど評価が分かれる人物も珍しいことが分かる。 孤立主義がまん延する米国内で、連合国側にせめて武器を提供する武器貸与法を成立さ せた功労はあったが、親ソ派の側近ハリー・ホプキンズ(注4)を通してソ連にまでその対 象を広げる矛盾を抱えていた。 《認識の甘さ》 いまとなっては、ルーズベルトをよく知る側近はすでに没した。モスク ワからの「長文電報」やソ連封じ込め論の「X論文」で有名になる元駐ソ大使ジョージ・ ケナンはルーズベルトを知る数少ない一人である。だが、彼もこの二月十六日で九十四歳 になる。 ルーズベルトはソ連に関しては、ケナンやチャールズ・ボーレンなど国務省の ロシア専門家の見解を信用せず、もっぱらソ連首相のスターリンとの「個人外交」に終始 した。ボーレンが回想記『歴史の目撃者』で「国務省の専門家の文書、覚書、ファイルに よく目を通すようになったのはトルーマンからであった」と特記するほど、国務省は無視 されてきた。 だが、あまりにスターリンの善意を期待しすぎたルーズベルトは、病弱な 上に明らかに外交行動の自由を自ら制限していた。 一九四五年二月のヤルタ会談で、ルーズベルトはチャーチルとスターリンに対して「米 軍を二年以上、欧州に駐留させることには議会が反対する」と述べていた。米国内の孤立 主義の回帰に抗しきれない側面は否定できないものの、ソ連に対する認識の甘さから当面 は米軍事力の縮小を優先させたのである。 手元のデータは、四五年から四七年に至る間に、米国の総兵力が千二百万人から百四十 万人に減少していることを示している。 だがジュネーブ大学の元教授ルイス・ハレーに よると「英国は国力が疲弊し、真空を埋める実力がなくなっていた。フランスは自分自身 が真空状態だった。残ったのはソ連だけであった。ソ連は戦後になっても武装解除をせず、 戦時体制を解かなかった」という。 米国にとっての裏切りとなるソ連の動きは、すぐにやってくる。スターリンはヤルタ合 意によってポーランドでの自由選挙を約束したものの、三月の選挙実施のための委員会で 外相モロトフ(注5)は「選挙はソ連式で行われる」と宣言した。ソ連が協定を無視するこ とがはっきりしてきたのだ。
この二日後、駐ソ米大使のアヴェレル・ハリマンから報告を受けたルーズベルトは、車 いすをたたいて悔しがった。 「アヴェレルのいうとおりだ。スターリンとは取引できな い。ヤルタ合意をすべて破った」 やがて彼は「スターリンは約束を守る人間ではなかっ た」と言い残して死地に赴く。 《退屈な日常》 神話的な地位に祭り上げられていた大統領の陰で、副大統領ハリー・ト ルーマンの日常は、退屈なものだったらしい。議会があるときは、上院本会議の議長席に 陣取って議員たちの討議ぶりを傍聴し、終わると下院議長のレイバーン(注7)のオフィス でひそかにウイスキーを飲みながら、談笑するのが常だった。 現在のアル・ゴアを含め歴代の副大統領が議会に足を運ぶのは、せいぜい年頭の大統領 による一般教書演説のさいに、議長席でさい配を振う程度しかない。しかも、この時は下 院の議長席に陣取るのが慣習になっている。 確かに上院議長席は副大統領にあてがわれてはいるが、ここに日参するほどトルーマン は政策決定から除外されていたといえる。トルーマン回顧録『決定の日々』を読むと、副 大統領としてのトルーマンは、この職務が「異例のつまらないもので、非常に不安定のも の」とのウィルソン大統領の言葉を引用しながら、自らを納得させていたようなところが ある。 さて、一九四五年四月十二日午後のこと。その日もトルーマンは、レイバーンの部屋で 一杯ひっかけてから、仲間とホテルにこもって好きなポーカーで時間をつぶす気でいた。 シークレットサービスをまんまとまいてレイバーンの部屋に行くと、「ホワイトハウスか ら緊急電話があった」と告げられた。 電話に出た報道官に促されてホワイトハウスに行 くと、大統領夫人のエレノア・ルーズベルトから突然、夫がジョージア州ウォームスプリ ングスの静養先で死去したことを告げられた。トルーマンがホワイトハウスに到着したの が午後五時二十五分、「ルーズベルト死去」の報がラジオから流れたのは、その二十二分 後であった。 《棚ぼた就任》 トルーマンは副大統領に就任してから、八十三日間しかたっていなかっ た。戦後の欧州分割を決めたヤルタ会談や、彼自身が投下を決断することになる原爆製造 計画など重要政策からは、いつも蚊帳の外に置かれていた。 『回顧録』はこの時、トル ーマンがエレノアに「何かできることがありますか」と語り掛けると、エレノアがまもな く新大統領に就任するトルーマンに「むしろ、何か私たちにできることがありますか」と 逆に聞かれたと書いている。 ルーズベルト政権の盲腸のような存在の人物が、一夜にし て世界の指導者に躍り出たのである。 大統領として宣誓したトルーマンは「私はもはや議事堂の見慣れた環境の中にはいなか った」と述べ、単なる表決が同数になったときに投票するだけの副大統領の職務から、「私 は大統領になったのである」と棚ぼた就任を「回顧録」に書き付けている。 だが、政権 を支える閣僚たちの間では、戦後処理をめぐってソ連との対立を抱える重要な時期に、「ミ ズーリの田舎者」トルーマンをよく知らないまま、不安だけが広がっていた。
冷戦が始まった!(4) 【転換点ポツダム】“戦士・トルーマン”の登場 ベルリンからポツダムに入るには、かつて東西ドイツのスパイ交換地点だったグリニッ カー橋を渡らなければならない。寒風の中を橋のたもとに立つと、ジョン・ル・カレが小 説『寒い国から帰ってきたスパイ』で描いた冒頭の情景が二重映しになってくる。 英情 報部員リーマスが、東ドイツ側の検問所を抜けてやってくる部下カルルを西側の監視台付 近で待つシーンだ。カルルは脱出寸前で身分が発覚し、真ん中の境界線付近で東ドイツ哨 兵の銃弾を浴びて倒れた。 《妥協図るも》 ポツダム宣言の舞台となったツェツィーリエンホフ宮殿は東西対立の残 像を引きずるこの橋からほんの数百メートルの距離にある。ドイツ最後の皇太子ウィルヘ ルムの別荘だった英国風のどっしりとした館で、米大統領トルーマンは「広大な敷地にソ 連側がゼラニウムやバラを赤い星型に敷き詰めていた」と回想録に記している。 拍子抜けするほど質素で小ぶりな会議場で、案内の女性ガイドがトルーマン、チャーチ ル、スターリンの米英ソ三首脳が座ったいすを指し示した。さらに窓の向こうを指して「あ の湖水の対岸は西ベルリンで、数年前までここからは見えませんでした。壁があったので す」と語り、この地がかつてソ連の影響下にあったことを強調していたのが印象的だった。 ポツダム会談はトルーマンにとって、大統領に就任して初めての巨頭会談だった。ヤル タに続いてソ連の管理下にある土地が会談の場に選ばれたのは、単にスターリンが飛行機 嫌いだったからというだけではないはずだ。トルーマンは軍事顧問の進言を入れて、自己 の考えを抑制しながらポーランド問題やドイツの処遇でソ連との妥協を図ろうと務めてい た。全体主義に強い疑念を抱くトルーマンにとって、自らの信念を百八十度曲げなければ ならない作業である。 そこまでする最大の理由は、なお死闘を続ける日本に対し、ソ連を参戦させる必要があ ったことだ。 しかし、十七日間にわたる交渉で米国は徐々に対ソ観を変えていった。ソ 連は「無情な取引者」であり、「わが方が非常な苦難に向かっているとの結論に立って、 こちらの行き詰まりに乗じて利益を得ようとたくらんでいる」とトルーマンは結論づけて いる。 その結果、トルーマンはソ連を対日参戦させたいとの考えを棚上げし、「ポツダムにお ける苦い経験から私はソ連には日本の占領管理に参加させない決意を固めた」と語ってい る。もっとも、米国にそれを可能にさせたのは、会談の途中ではるか米ニューメキシコ州 の核実験場からもたらされた原爆実験成功(注4)の知らせだった。 《過激な発言》 新大統領トルーマンの外交指導力はポツダム会談の少し前まで未知数だ った。急死したルーズベルトが東部のエリートだったのに対し、トルーマンは中西部出身 で中学校しか出ていない。しかも、ルーズベルトが副大統領に望んだジェームズ・バーン ズが労働組合の拒否にあい、やむなく選択した人物だった。(25)
しかしトルーマンはソ連をルーズベルトほど甘くは見ていなかった。ヒトラーがソ連に 侵攻したさい、彼はニューヨーク・タイムズ紙に驚くほど過激なコメントを明らかにして いる。 「仮にドイツがソ連に勝利するようなら米国はソ連を支援すべきだし、逆にロシ アが勝利しそうならドイツを支援すべきだ。できるだけ互いに殺しあえばいいのだ」 トルーマンは「どちらも誓約した言葉を守る気などない輩だ」と続けている。さらに日 記には「私は全体主義国家を一切信用してはいない」と書いており、「冷戦の戦士」の登 場を十分に予感させている。 トルーマンは冷戦の始まりの主役であり、半世紀のちに、 冷戦に勝利する米国の封じ込め戦略(注6)の決定者でもあった。その気配は大統領に就任 した当初から垣間見えていた。 《「実行せよ」》 ホワイトハウスの斜め向かいに迎賓館「ブレアハウス」がある。橋本 龍太郎首相や中国の江沢民国家主席も泊まった、こざっぱりした館だ。トルーマンは大統 領就任からわずか十日後の一九四五年四月二十二日と二十三日、このブレアハウスに訪米 中のソ連外相モロトフを呼び出している。 トルーマンはいらだっていた。ソ連がヤルタ合意で約束したポーランドの民主選挙を実 施せず、かいらい政権をそのまま温存していたからだ。回顧録には「モロトフが本論を避 けるので、米国は友好関係を望むが、あくまで相互に合意を実施する場合にのみ可能であ って、一方的にはできないと語った」と穏やかに書いている。 しかし、モロトフが「私の生涯で、こんな言われ方をしたのは初めてです」と不満を述 べたというから、実際にはかなり強い調子だったに違いない。トルーマンの回顧録は「合 意事項を実行したまえ。そうすれば、こんな言われ方をしなくても済むのだ」と突き放し たと結んでいる。 興味深いのは、国務省の公式文書「米対外関係」所収のボーレン文書にまったくこのく だりが触れられていないことである。この段階で国務省はソ連との対決を慎重に避けてい たと見ることができる。だが、トルーマンの方は「僕は単刀直入に言ったよ。やつをとっ ちめてやった。あごにストレートのワンツーパンチが決まったみたいだったな」と後に語 っている。 しかし、そのトルーマンでさえ、戦争末期の米国の外交政策を直ちに変える ことはできなかった。頭痛の種は日本である。 ポール・ニッツェはじめ当時の国務省当局者から取材するにつけ、やり切れない思いに とらわれるのはこの点だった。日本攻略にソ連の支援を望み「太平洋に精力をつぎ込まな ければならないので、東欧の大半とバルカン半島のほとんどが全体主義者の手に落ちてし まった」との論理である。 ブラッドレー将軍はベルリンをとるとすれば米軍に十万人の犠牲者が出るとはじき、ア イゼンハワー将軍は赤軍との軍事協調をご破算にすることにはすべて反対した。 海軍長 官ジェームズ・フォレスタルの日記には、モスクワから帰った駐ソ大使ハリマンが「欧州 の半分、もしかしたら全部が次の冬の終わりには共産主義になっているかもしれない」と 訴えていたことが記されている。
朝も早うから荒らしとは…… ご苦労さんなことですなぁ。
冷戦が始まった!(5) 【第3の男】腐敗の巷にスパイが入り乱れた プラター地区の巨大なゴンドラは冬の雨に煙っていた。ウィーンの遅い午後、だれもい ない遊園地をトボトボ歩くと、日暮れは駆け足でやってくる。 見上げる大観覧車は一八 九七年に英国の技師、ワルター・バセットの手でつくられ、当時としては画期的なものだ った。しかし、バロック風の建築物と石畳が美しい町並みに、このウィーンの大観覧車は 不釣り合いに思えた。 《暗い過去》 その大観覧車も一度は戦災で破壊され、戦後すぐに復活して陰影の深いサ スペンスの古典的映画『第三の男』の重要な場面で登場してくる。英国人の映画監督キャ ロル・リードが、オーソン・ウェルズ演じるハリー・ライムにゴンドラの中で「悪の哲学」 を語らせるシーンで、戦後の荒れたウィーンが生々しく映し出されていた。 ハリーは水で薄めたペニシリンを闇で売りさばき、ウィーン市内で多くの犠牲者を出し た張本人だった。米国から訪ねてきた友人の作家、ホリー・マーチンスにとがめられ、眼 下にうごめく人波を指しながらこう語る。 「あの点の一つが動かなくなっても関係ない さ。一つ動かなくなるごとに二万ドルになれば、君だってあといくつあるか数えるよ。し かも、税金がかからないからこの上ない」 ペニシリンは戦後の日本で、医師の証明書さ えあれば米軍が配給をしてくれたいわば魔法のような薬だった。しかしウィーンの戦後に は、映画と同様の悲劇が現実に存在していた。 この国は一九三八年、ヒトラーの第三帝国に吸収され、ユダヤ人処刑に積極的に応じる 暗い過去を引きずっていた。後に世界的なヒット映画となる『サウンド・オブ・ミュージ ック』はウィーン併合後、ドイツ海軍に参加することを拒んだゲオルク・フォン・トラッ プ男爵をモデルに、一家(注4)がナチスの手を逃れてオーストリアを脱出するまでを描い ている。 やがて首都ウィーンは、連合軍の爆撃とソ連軍による市街戦で多くが破壊され た。いまは復元されているが、ハリーが暗躍したウィーンはオペラハウス(注5)ががれき の山と化し、荘厳な聖シュテファン大聖堂(注6)が焼夷弾で被災していた。 《共同統治》 ベルリンとウィーンという二つ敗戦都市の決定的な違いは、ウィーンが戦 後に分割占領されなかったことだ。ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三巨頭が一 九四三年にモスクワで会談したさい、オーストリアに特別の地位を与えて、ナチス・ドイ ツへの支援を渋らせるとの合意がすでに生まれていた。 従って戦後も、東西どちらかの 勢力範囲として分割する代わりに四カ国が共同統治し、米英仏ソから一人ずつが乗り込む 「四人編成ジープ」が占領軍のシンボルになった。映画『第三の男』でも、この奇妙なジ ープがこっけいな姿で描かれている場面をご記憶だろうか。 しかし、ウィーンは東西対立の深まりとともに冷戦の最前線にほうり出されていく。両 陣営のスパイが入り乱れ、闇商人の天国と化した。『第三の男』の原作者、グレアム・グ リーン(注7)自身がタイムズ紙記者を経て英国の情報部員であったことを考えると、現実 と映画とがダブってくるのは避けられない。『寒い国から帰ってきたスパイ』の英国人作 家、ジョン・ル・カレがベルン大学卒業後に短期間ながら英国情報部員として従事したの も、一九五〇年前後のウィーンだった。
『第三の男』ではオペラハウスに近いカフェ・モーツァルトやチターで奏でるテーマ曲 が、異様に張りつめた腐敗の巷を描いていた。ハリーを地下水道に追いつめていくのも、 これら占領中の国際警察であり、地下ホールの闇の世界で各国の言葉が交錯していた。 一九四五年のヤルタ合意では、共同統治は東欧に新政府ができて、外国軍が撤退するま での暫定的な取り決めのはずだった。だが戦後、一年もしないうちに東西の反目が表面化 し、オーストリアにも陰を落としはじめた。 ドイツにあるポツダム大学の教授、マンフレート・ゲーテマルカーは「四つの占領国は、 オーストリアを特殊な地位に置いたままだらだらと交渉を続け、駆け引きの中で突破口が 開かれなかった」と語った。変化の兆しが現れたのは、スターリン死後の後継争いの中か らフルシチョフがようやく地位を固めた一九五五年になってからだった。 《中立確認》 平和条約が結ばれて、ようやく占領に終止符が打たれ、オーストリアは永 世中立国を宣言した。ソ連首相フルシチョフが六〇年にオーストリアを公式訪問してこの 国の中立を確認し、名実ともに東西の中間に位置づけられたのである。 しかし、フローラ・ルイスの大著「ヨーロッパ」によると、翌六一年にはそのフルシチ ョフと米大統領ジョン・F・ケネディが中立国の首都ウィーンで会談したものの、かえっ て両者の緊張を生むことになる。 東西の対決ムードが高まり、おびえた東ベルリン市民が難民となって西ベルリンに洪水 のようになだれ込んだ。その結果が一九六一年八月のベルリンの壁の構築につながり、ル イスは「オーストリアはこの新しいもめごとに何とか巻き込まれずにすんだ。この国は中 立のありがたさを思い知った」と書く。その筆さばきは万事うまくすり抜けてきたオース トリアという国を冷ややかに見ている。 ポツダム大学のゲーテマルカーは、オーストリアが常に欧州の過酷な歴史の中心にあり、 プロイセンとロシアに挟まれていたオーストリア・ハンガリー帝国(注8)が崩壊して「分 裂した東西の中間という特異な地位を築くしかなかった宿命を非難はできない」と語る。 欧州の真ん中にあって、政治的には柔軟に禍を避けながら生き抜くしかなく、ハプスブ ルク家のきらびやかな帝国は、建築様式や映画や音楽の中でだけ生き続けている。逃走中 のハリーが消えたアム・ホーフ広場の広告塔は、いまも石畳の上に変わらぬ姿を見せ、世 の転変を映してきたように思えた。 (30)
100!
冷戦が始まった!(6) 【鉄のカーテン】小さな大学が歴史の舞台になった 長い間、フルトン(注1)を訪ねてみたいと考えていた。連合国を勝利に導いた戦略家ウ ィンストン・チャーチルが人々に「次に迫り来る危機」を明確に位置づけたのが、この米 中西部の大学町だったからだ。 英国の前首相チャーチル(注2)が、なんでちっぽけな町 を選んで有名な「鉄のカーテン」演説をぶったのか。そんな疑問もあって、いつのころか らか、冷戦の起点の一つとしてのフルトンが、心の隅を占領していたように思う。 《公然の事実》 地図を広げてみると、フルトンは北米大陸の真ん中からやや東寄りのミ ズーリ州にある。セントルイスで乗り換えた小型機が暴風雨に巻き込まれて引き返したた め、クルマを転がしながらフルトンの町にたどり着いた時には午前零時を少し回っていた。 町にはホテルもなく、小奇麗な民宿風のカントリーインがぽつんと一軒あるだけだった。 チャーチルが演説したのは、歩いてわずかな距離のウエストミンスター大学の体育館で ある。大学といっても学生総数はわずか六百人。当時はもっと少なく、「五百人だったわ」 とチャーチルの演説を最前列で聞いたヘレン・ダヌーザー(八三)が教えてくれた。 しか し、この大学にはその後、数多くの人が訪ねてくるようになった。九六年三月にチャーチ ル演説から五十周年を迎えるまでの半世紀の間に米国のレーガン、ブッシュ両大統領、ソ 連のゴルバチョフ大統領、サッチャー英首相ら多数の指導者がここで演説している。ちな みに、サッチャーが参加した五十周年記念式典のキャッチフレーズは「鉄のカーテンから 鉄の女まで」とパンチがきいていた。 キャンパスに建つ小さなチャペルの地下にチャーチル記念館事務局長ウォーレン・ファ ーラーを訪ねた。ここに掲載するのは、ファーラーが「欲しかったのはこれですね」と提 供してくれた演説原稿のコピーの一部である。 米国を訪れたチャーチルが一九四六年三月五日に行った演説の「鉄のカーテン」のくだ りに当たる。演説風景はビデオにも残されていて、愛称そのままにブルドックのような顔 のチャーチルが登壇してくる。 「ごく最近まで連合軍の勝利という火に照らされていた情景に、一片の影が落とされた。 ソ連とその国際共産主義組織が近い将来何をたくらんでいるのか。またその布教者のよう な拡大傾向を防ぎうるかどうか、知る者はいないのだ」 チャーチルのソ連批判は極めて率直、かつ辛らつだった。その上でチャーチルは、手で 大きく空を切りながら「バルト海のシュテッティン(注3)からアドリア海のトリエステま で、欧州大陸を横断する鉄のカーテンが降ろされた」とソ連の拡張主義に警鐘を鳴らした。 「中欧および東欧の古くからある国々の首都は、すべてその向こう側にある」 チャーチルはこの演説により、米ソ冷戦を公然の事実として宣言した。米国の政策担当 者が心の中で思い悩みながら、あえて公言するのをはばかっていた事実を演説はズバリと 表現していたのだ。
《新たな戦略》 欧州から遠く離れた米国では、まだ国民の間に戦勝気分が抜けていなか った。チャーチル演説は、その気分に水をかけてソ連との間に冷たい戦争が進行しつつあ る事実を公に知らせる意図が込められていた。 「ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィ ーン、ブダペスト、ベオグラード、ブカレストそしてソフィア。これらすべての有名な都 市と人々はソ連圏と呼ぶべき圏内にあり、ソ連の影響を受けているばかりか、モスクワか らの直接支配も極めて高く、ますますその度を深めている」 古びたタイプ文字の原稿をよく見ると、ところどころ自分のペンで手を加えたと思われ る部分がある。その一つ、「と呼ぶべき圏内」の挿入は「ソ連圏」を強調する効果を高め ていた。ソ連がいかに独自のブロックを築いているか。チャーチルがこの演説で、それを 強く訴えたかったことが理解できる。 そしてチャーチルは、軍事力を重視しているソ連 に対抗するため、米英が協調して同盟関係を強化すれば、「欧州の勢力均衡が崩れて不安 定になることが避けられ、野心と冒険心を誘うという事態にならない」と新たな危機に対 応する処方せんを描いている。 この時すでに、国務省にはモスクワの駐ソ代理大使ジョージ・ケナンから、ソ連の西側 への敵意が共産主義と伝統的な拡張主義によるものであると分析する「長文電報」が届い ていた。チャーチルはこれをさらに明確化させ、米英同盟によってのみ事態は克服できる と新たな対ソ戦略を提示したのだ。 《名指し攻撃》 政府部内だけの私的な分析が、政治色を帯びて公の場に持ち出された。 チャーチルは一年前の選挙で敗れ、公職を退いていたため比較的、自由に発言できたとい う側面はある。ソ連を平然と名指し攻撃し、「鉄のカーテン」という象徴的な言葉をはじ めて使った。 演説会場にいた随行の米大統領法律顧問クラーク・クリフォード(注5)は回想録で、「事 前に読んでいた草稿よりも、実際の演説の方が鉄のカーテン部分がより力強く感じられた」 と印象を語っている。 しかし、前列で聞いていたヘレン・ダヌーザーやウエストミンス ター大学の卒業生、ボブ・ガサリー(七七)のような米国の「普通の人々」には、米英同盟 の重要さを訴えた演説との印象だけが残ったようだ。 目撃者のリストから電話をすると、チャーチル記念館まで来てくれたガサリーは「米国 人は戦争に疲れていて、もはや次の冷たい戦争を聞く耳はもっていなかった」と述べた。 またダヌーザーは「ことの重要性に気付いたのは、後のことだった」と正直に語った。 チャーチルが「鉄のカーテン」のレトリックで指摘した「次の危機」の認識は、フルト ン発の新聞報道と社説によって徐々に広がっていった。しかし、この時点ではチャーチル 演説が「ソ連との戦争を誘発する可能性があり、米国にはもはや同盟国はいらない」(ウ ォールストリート・ジャーナル)とする孤立主義の中に閉じこもりつつあったのだ。 当時の米国内の反応について元国務長官ヘンリー・キッシンジャーは著書『外交』で「予 言者が彼らの母国で称えられることが滅多にない理由は、彼らの役割が同時代人の経験や 想像を超えることにあるからだ」と述べ、チャーチルの先見性をたたえている。
冷戦が始まった!(7)湯浅博 【フルトンの波紋】大統領は75ドルも巻き上げた ウィンストン・チャーチルの歴史的な「鉄のカーテン」演説が飛び出すきっかけをつく ったのは、ウエストミンスター大学の学長フランク・マクルアーのちょっとした思い付き だった。米ミズーリ州フルトンにある同大学の教授ビル・パリッシュによると、こんない きさつで話は進んだ。 《強力なコネ》 たまたまマクルアーの友人で、ウエストミンスター大学のフットボール 選手だったハリー・ボーンが大統領補佐官としてホワイトハウス入りしており、しかも大 統領は大学のあるミズーリ州の出身だった。チャーチルなど世界の大物に特別講義を依頼 する構想を持っていたマクルアーは、コネクションを最大限に使うチャンスだと考えた。 早速、マクルアーはワシントンに同窓生だったボーンを訪ね、ちゃっかりトルーマンに 取り次いでもらう手続きをとった。 トルーマンの行動も早い。「チャーチル招請」の提 案を受けると、彼はマクルアーが用意したチャーチルあての招請状にペンで書き添えた。 「これは私の出身の州にある素晴らしい大学です。あなたが招請に応じるよう期待しま す」 ここに掲載した招請状の左下のペン字が、トルーマンの添え書きとサインである。 依頼した演説テーマは「国際情勢」と漠然としていたが、このヒョウタンから歴史的な「鉄 のカーテン」という駒が出る。 チャーチルは一九四六年二月に米南部フロリダの旧友宅に滞在する計画があったことか ら、二つ返事でこの依頼を受けた。強力なコネが成功のカギを握っていることは古今東西、 変わらない。 フロリダからやってきたチャーチルは、トルーマンに会うと、「世界の平 和維持のために米英の軍事的な協調が必要であることを訴える」と述べた。 トルーマンとチャーチルは三月四日、特別仕立ての列車でワシントンを発ち、セントル イスに向かった。伝記作家のデビッド・マカラは、大統領が「世界で最も有名な演説家と いっしょに故郷ミズーリの大学に乗り込めることで、とてもご機嫌だった」と伝記『トル ーマン』に書いている。 トルーマンは車中で得意のポーカーゲームにチャーチルを引き 込み、英国紳士が吸う葉巻の煙の中で午前二時半まで延々と興じた。トルーマンは結局、 「一癖あるはず」と思っていたカードの相手から七十五ドルを巻き上げることに成功した。 現職大統領対前首相という米英首脳のまれにみる大ばくちであった。 《素晴らしい》 翌朝、列車がミズーリ川を渡るころ、チャーチルは演説原稿に最後の手 を入れた。チャーチルは「自己の過去の演説の中で、もっとも重要なものになる」と述べ たという。随行スタッフや同行の記者にも事前に演説原稿が配布された。随行した大統領 法律顧問のクラーク・クリフォードは、草稿の内容を国務長官バーンズから説明されたト ルーマンが「文句なんかあるもんか。素晴らしいじゃないか」と感嘆を漏らしたことを回 想録に書いている。 ところが、この「素晴らしい」はずの演説が、やがてトルーマンの狭量さを暴露するこ とになる。 (41)
セントルイスからオープンカーでフルトン入りしたチャーチルは大学が近くなると小高 い丘の上でリムジンを止めさせ、風を避けながら葉巻に火をつけた。「人々が彼の葉巻姿 を見たがっているのをよく知っていたからだ」とチャーチル記念館事務局長ウォーレン・ ファーラーは解説する。 学長のマクルアーらと食事をしたあと、チャーチルは会場でト ルーマンから紹介を受けた。このとき、トルーマンは「世界に向けて建設的な提言をする ことになる」と期待を表明している。 チャーチルは「鉄のカーテン」のレトリックでソ連の拡張主義に警鐘を鳴らした。ワシ ントンから同行した四十三人の記者には、背後に座るトルーマンがこの見解に同意してう なずいているように見えたという。 ところが、演説に対する新聞の論評には、「困難な 米ソ関係に毒を盛るようなもの」とチャーチル批判が渦巻いた。著名なジャーナリストの ウォルター・リップマン(注1)は「天変動地の大失策である」と非難の言葉を浴びせた。 当然ながらスターリンは「ソ連との戦争を望むのか」と激しく反撃した。 あわてたのはトルーマンである。彼はワシントンに戻ると、事前に熟知していたのに「チ ャーチルが何を演説するかはまったく知らなかった」とうそぶいたのだ。その上でトルー マンはスターリンに同じ州のミズーリ大学で演説するよう招請状を出して、あっさり断ら れる始末だった。 《親ソ派排除》 チャーチルの予言に西側は、直ちに対応できなかった。この間にも、東 欧はソ連の「勢力圏」として徐々に確立されていった。戦後の二年間でユーゴスラビアと アルバニアがまず共産党独裁を打ち立てた。ブルガリアやチェコスロバキアなど五カ国で は、他政党も残ってはいたが、共産党が最強の地位を確立してやがて衛星国となった。 しかし、米政府の中では着実に変化が起きていた。駐ソ大使だったアヴェレル・ハリマ ンはチャーチル演説を支持し、リーヒ提督(注2)、フォレスタル海軍長官、アチソン国務 次官(注3)らが同様の考え方を示した。 元国務長官キッシンジャーに言わせると「スターリンは彼の立場を押し付けすぎた」よ うなのだ。ソ連軍は東欧や中東の各地で撤退期限を無視し、中東では国連の安保理に非難 されてからようやく動いた。八月にはユーゴスラビア軍が米輸送機二機を撃墜した。 この事態に、米国とカナダは対空対潜共同防衛システムを完成させ、米英空軍が戦略に 関する協議を開始した。スターリンの力の政策に米国民の意識も徐々に変わり、五月の世 論調査では、チャーチルの米英軍事同盟の考えに八三%が賛成している。トルーマンも政 府部内の親ソ分子排除に乗り出し、七月にはスターリンに親近感を示すチャーチル嫌いの 商務長官ヘンリー・ウォーレス(注4)の首を切った。 チャーチルはポーカーでトルーマンに七十五ドルも巻き上げられたが、「それだけの価 値があった」と満足げだった。さらに十月には「私がフルトンで行った以上のことが実行 されている」と語るまでになっていた。チャーチル演説の直後に頭をもたげかけていた米 国の伝統的な孤立主義の影が、ようやく晴れてきたのである。
冷戦が始まった(8) ---【長文電報】 駐ソ代理大使は「不屈の抵抗力」説いた 「対ソ冷戦」戦略の生みの親、ジョージ・ケナンが目の前にいた。 一九〇四年二月十六日生まれだから、この原稿が掲載されているときには九十四歳にな っている。ケナンこそは、東欧に進出して仮借ない共産化をはかるソ連との対決理論「封 じ込め政策」を打ち出した米外交界の巨人である。彼が構築した外交思想は冷戦期を通じ ておよそ半世紀の間、米国の政策に脈々と生き続けることになる。 《政策転換》 つえを突き、補聴器に頼ってはいるが、背筋をピンと伸ばしてすこぶる健 康そうに見えた。元政府高官が名を連ねる米外交アカデミーから「外交優秀賞」が授与さ れることになり昨年十二月三日、ワシントンのマディソンホテルにアナリス夫人と出席し ていた。 ニュージャージー州に住むケナンは、いまも自宅から近くのプリンストン高等 研究所(注1)に通う毎日だと聞いた。外交アカデミーの事務局スタッフは「ケナン夫妻は プリンストンから列車でいらしゃったんですよ」と、その頑健ぶりに驚きの表情だった。 あいさつのあと、フロアに降りたケナンは旧友の元司法長官エリオット・リチャードソ ンと握手を交わし、冷戦後の外交官の役割がいかに後退してしまったかを嘆いた。彼の執 筆意欲はなお衰えず、昨年も外交誌「フォーリン・アフェアーズ」の九、十月号に「外交 官なき外交」を寄稿して、この議論を展開したばかりだった。 ケナンと並んで写真を撮ることを求めたのは、国務省で最近まで朝鮮半島問題を担当し ていたロバート・ガルーチ(注3)だった。彼が一段と若く見えたのは、ケナンが在モスク ワ米大使館の代理大使だったころに生まれたことを考えると当然なのかもしれない。 ガ ルーチが生まれたわずか十一日後の一九四六年二月二十二日、ケナンはモスクワから米外 交の政策転換を促した「ロング・テレグラム(長文電報)」を打っている。この公電でケナ ンはトルーマン政権の対ソ戦略の理論的な裏付けを提供し、「封じ込め戦略」を打ち出す 基礎を築いた。ガルーチはいってみれば「冷戦ベイビー」なのである。 米中央情報局(CIA)(注4)が最近まとめた報告書「ソ連の脅威−冷戦初期」のページ をめくると、一九四五年の十一月ごろからスパイ網を通じて東欧諸国内で異変が起きてい ることがCIAの前身、戦略情報局(OSS)に次々に報告されていたことが分かる。 日本降伏から二カ月後には、ハンガリーの共産政権の独裁ぶりが表面化し、アルバニア で共産主義者が首相に就任し、ブルガリアで共産政権ができるように仕組まれた選挙があ ったことなどが報告されていた。背後には常にソ連の影があった。 この情報を受けて西側が足並みをそろえて防衛することを提言していたのが、CIA生 みの親であるOSS局長ウィリアム・ドノバンだった。 さらに明けて一九四六年一月五日、モスクワの外相会議から帰国した国務長官バーンズ の報告を受け、トルーマンは「これ以上、妥協すべきではない。ソ連にちやほやするな。 もう、うんざりだ」とはき捨てるようにいった。
《公電の意義》 こうしてワシントンの政策決定者たちが、いらだちを募らせていた翌二 月二十二日、モスクワの米大使館にいるジョージ・ケナンからタイミングよく八千語にの ぼる長い公電が国務省に届いた。後に「長文電報」といわれた報告でケナンは、米ソの摩 擦の原因が、単に両者の誤解からくる擦れ違いなどではなく、ソ連に内在する拡張主義と 共産主義イデオロギーにあるのであって「不屈の抵抗力」で対抗する必要があると説いた。 ケナンは共産主義の過酷な教義が独裁制やそこから来る残酷さをすべて正当化し、「対 外的な安全保障を確保するために自国を軍事大国のひとつにまで押し上げてきた」と分析 した。 その上で「世界の問題に対するクレムリンの神経症的な見方の根底には、ロシア の安全保障に対する伝統的かつ本能的な不安感が存在している」と断じた。その結果、国 際社会との協調の余地がなくなり、「ほかの国を破壊することしかない」と、その危険性 を見抜いていたのだ。 米国はただちにソ連との長期の闘争を準備しなくてはならないとケナンは結論づける。 ソ連に抱いていた違和感から、危険なにおいをかぎ取りはじめていた政策決定者たちは、 この公電でソ連の脅威を具体的に突きつけられた格好だった。 後に北大西洋条約機構(N ATO)司令官になるアンドリュー・グッドパスター(注5)は陸軍省の戦略局スタッフと して、この公電コピーを渡されたという。現在、大西洋評議会の会長の地位にあるグッド パスターは「当時、だれもが漠然と考えていたことが明確に定義付けられた。暗がりにラ ンプがともったように、一気に理解が深まった」と公電の存在意義を語った。 《ソ連の占領》 第二次世界大戦の終了間際から始まる米外交史上もっとも外交思潮が混 乱した時期に、ケナンは揺るぎない一本の鋼鉄をぶち込んだのである。 ケナンの公電は、 たちまち米政府部内にセンセーショナルな反響を呼んだ。とりわけ興味深いのは、陸軍と 海軍の現場でケナンの対ソ警戒論に対する受け取り方の違いが鮮明だったことである。 帰国していた駐ソ大使アヴェレル・ハリマンは、以前からソ連共産主義の危険を話し合 っていた友人の海軍長官ジェームス・フォレスタルに公電を手渡した。さっそくフォレス タルは、トルーマン大統領はじめ国務省、三軍の高官らにコピーを配り、とりわけ空母を 主体とする海軍力強化を進める海軍にケナンの公電は歓迎された。 だが陸軍は、ドイツ進駐の米軍司令官ルシアス・クレイ(注6)のように、この段階では 「米国を巻き込もうとする英国の戦術に巻き込まれるだけである」との認識が根強かった。 しかし、一九四五年にドイツ崩壊で欧州の勢力均衡が崩れ、戦争が終わってみるとソ連 軍は東欧という緩衝地帯のほぼ全域を占領していたという事実が目の前にあった。この現 実を前にケナンの公電は米国のソ連対処の基軸となり、やがてトルーマン政権の具体的な 新戦略に練り上げられていく。 (45)
冷戦が始まった!(9) 【X論文】米国民の対ソ観が変わった 米国の「冷戦戦略」の生みの親、ジョージ・ケナンの対ソ警戒論は、トルーマン政権内 で初めから歓迎されたものではなかった。 元大統領補佐官(軍備管理担当)のポール・ニ ッツェにワシントンで会ったさい、彼が国務省スタッフだったころの興味深い話を教えて くれた。 《宣戦布告だ》 まだ対独戦争が激しかったころのこと。ワシントンからニューヨークに 向かう列車の中で、ニッツェは偶然、ケナンと出会った。初めてじっくり彼の対ソ観を聞 く機会の到来だった。ところが、そのケナンが「国務省の幹部が私の見解に耳を貸さない のだ」とグチっていたことをニッツェはよく覚えている。 しかし、海軍長官ジェームズ ・フォレスタルだけは別で、駐ソ大使アヴェレル・ハリマンの話を通してケナンに理解を 示していた。一九四六年二月九日のスターリンによる演説内容を検討して「これは米国へ の遅れた宣戦布告だ」とニッツェに明快に語っていたほどだった。 しかし、国務省の主流である国務次官のディーン・アチソンは、ニッツェに対し表向き は「ナンセンスだよ、ポール」とフォレスタルの過剰な対ソ警戒感を退けた。だが、賢明 なアチソンは、その一方でソ連専門家の見解をすぐ聞く必要があると判断してケナンと並 ぶ国務省のソ連専門家チャールズ・ボーレン(注1)に取りまとめを指示していた。 興味 深いのは、後に米外交界の輝かしい理論家となるケナンが、実はこの時、外交官をやめる かどうかの瀬戸際に立っていたことである。トルーマンの外交顧問たちを描いた大著『ワ イズ・メン』によると、ケナンは大使館のベッドで「石にでも報告しているようで、だれ も聞いてくれない」とふて寝していたというのだ。友人のボーレンは「いい加減にしろ」 としかり飛ばしていた。 ケナンがすねたまま辞職でもしていたら、米国の対ソ外交戦略 の転換が遅れ、封じ込め戦略も生まれなかったかもしれない。 《関心と無視》 その日は祝日で、大使館も休みだった。アチソンの指示もあってケナン は自分の考えを巡らせていた。そして、たまたま手にした駐ソ大使ハリマンの書類の束に、 自分がこれまでせっせと書いてきた公電が残されていたことが分かった。 ハリマンはケ ナン理論を理解してくれてはいたが、直接、国務省に送っていたかどうかは疑問だった。 突然、ケナンの意欲が呼び起こされた。しかもハリマンは、米国に一時帰国していて留 守だった。 ケナンはすぐ秘書を呼んだ。独自のソ連分析がほとばしる言葉の連射となっ て文章化され、八千語にのぼる長文電報がまもなく、ワシントンに送られた。 ケナンの孤立感と疎外感はその後も時折頭をもたげる。彼は後年、回顧録で「ここ数年、 ワシントンでの私自身の役割について最大のミステリーは、四六年のモスクワからの公電 やその後のX論文の場合のように、ある場合は異常なほどの関心が払われ、他の場合には まったく無視されることだ」と述懐している。そして、理論内容より国内の政治的な事情 にその原因を求め、彼らしく「ナイーブなのはほかならぬ私なのだ」と自己分析している。
興味深いのはケナンがワシントンに「長文電報」を発信していた同じころ、駐ソ英大使 館の外交官フランク・ロバーツがほぼ同じ結論の公電を本国に三本立て続けに打っていた ことである。ケナンの公電が二月二十二日、ロバーツのそれは三月十四日からだった。 冷戦研究を進めているアメリカン・エンタープライズ研究所の研究員ジェフリー・スミ スが、九十一歳になるロバーツから数年前に聞き取り調査していた。スミスによると、ケ ナンとロバーツはモスクワで活発な交流があり、互いに影響し合っていたという。 「ロ バーツはソ連に対してより強硬であり、英国人らしく歴史的な視点から議論を展開してい る。ケナンはよりアカデミックな視点から対ソ観の枠組みを描いていた」 しかし、本国政府への影響力には格段の違いがあった。英国ではチャーチルと、その後 継首相アトリーら首脳がソ連の危険性を十分認識していて、ロバーツ報告はソ連の実態を 「確認」する役割を担っていた。これに対し、ケナン報告は米政府の対ソ観に「変化」を 促していたのである。 変化は確実に醸成されつつあった。当時、国務省スタッフだった ルイス・ハレーはケナンの報告に対する反応が「即時、かつ積極的であった」と述べ、「探 していたものを見いだしたという感じが広がった」と省内の雰囲気を語った。公電のコピ ーは瞬く間に省内に配布され、比較的、関係の薄いラテン・アメリカ担当にまで手渡され たとハレーは苦笑する。 《立ち上がれ》 チャーチルの「フルトン演説」と前後して作成されたケナン報告は、第 二次大戦の戦火が収まった後、くすぶり始めた新たな脅威と挑戦に対抗する基本文書にな った。この公電が認められ、まもなくケナンはワシントンに呼び戻されて翌四七年に国務 省に創設された政策企画局の初代局長に就任する。 いったん火がついたケナンの意欲は外交誌「フォーリン・アフェアーズ」四七年七月号 に掲載された有名なX論文として昇華していく。論文は「ソ連の行動の源泉」と題し、筆 者は「X」と記されていた。 長文電報はトルーマン政権に影響を与えたが、この論文はさらに広く米国民の対ソ認識 に衝撃を与えた。X論文の執筆をケナンに勧めたのは海軍長官フォレスタルであった。 最初のケナン報告と異なるのは、対ソ「封じ込め」という新しい言葉を使い、「十年か ら十五年間」にわたって有効に封じ込めれば、ソ連の脅威は異なったものになると大胆な 予測をしていることだ。「ソ連の拡張傾向に対する米国の長期的で忍耐強い、かつ確固と した封じ込め政策がその中心でなければならない」と指摘し、米国が難局を迎えて立ち上 がることを求めていた。 ケナンは同時に、ユーラシアの大国であるソ連の周辺地域のいたるところで、米国が紛 争や摩擦に耐え抜くことを強いた。それは、ソ連がすべての封じ込めラインから打って出 るのを防戦する受動的な戦略であり、米国の軍事的優位が保てなくなれば、とたんに崩れ る性格を持っていた。 実際、ソ連の崩壊には、ケナンが予言した十五年どころか、およ そ半世紀を待たなければならなかったのである。
コピペだけの荒らしは虚しいだろうね
真夜中ご苦労さん
>>110 ネタ元の違いかもしれないけど、パート3の方が面白い。
コピペではなく少し自分で考えてみたら。
113 :
SW :01/12/06 22:35 ID:NQwmLw7h
お!! IDが出てるじゃん!! やっぱり荒らしてるのは同一人物と思われ。
■ソウルからヨボセヨ 平成12年12月9日 産経新聞 先日、韓国の新聞にセピア色の古い人物写真が出ていた。無精ヒゲを生やした 不敵な面構えで、よくいえば精かんな風ぼうだが、悪くいえば犯罪者の手配写真 といった感じのものだ。ほとんどの新聞に掲載され、一部の新聞には一面に大き く出ていたので相当、目についた。 この人物は一九三二年(昭和七年)、中国の上海で日本人による天長節(天皇誕生 日)の祝賀式に爆弾を投げた韓国人抗日テロリスト尹奉吉で、写真は事件当時、 日本の憲兵隊に逮捕された際に撮影されたもので最近、関係団体が日本の研究 家から入手したという。 この事件では上海派遣軍司令官の白川大将が重傷を負い後に死亡し、後年、外 相になった重光葵総領事も負傷し生涯、つえをつく身になった。犯人の尹は刑死し たが韓国では歴史的な英雄として銅像になり、いまなお「義士」とたたえられている。 事件現場の上海・虹口公園(現在の魯迅公園)には先年、韓国政府の手で記念施 設が建てられた。 彼の生前の姿はすでに知られており今回の写真が初めてというわけではないの だが、それでも韓国マスコミでは一斉に大きく取り上げられる。このあたりが「韓国 マスコミの対日歴史感情の現住所」といったところか。 一方、有名な安重根による伊藤博文暗殺事件については最近、事件現場の旧 満州・黒竜江省のハルビン駅に記念施設がないと不満の声が聞かれる。 中国当局が認めないためらしいが、新聞には「韓国政府は何をしている」といった 投書が出ている。
■コラム ソウルからヨボセヨ 平成12年12月16日 産経新聞 南北女性の言葉遣い 北朝鮮から韓国に亡命してきたある亡命者の話で、韓国のテレビドラマを 見ていて最初は面白かったが、そのうち女性の物の言い方があまりに激しく、 特に男を男と思わないような話し方に嫌悪感を感じて見なくなったという。 北の女性とあまりに違い過ぎるからだ。 二十年以上、韓国のテレビを見てきた外国人の僕も、そう思う。例えば最近、 毎朝見ているあるテレビドラマなど、検事の男性と恋愛結婚した主人公の 女性は終始、韓国語でパンマルといわれるぞんざい語を使っている。 男に対し若い女性がいわば「オレ、オマエ」といった言い方をしているのだ。 これが男女平等でカッコいいというわけだが、北から来た人には大変な驚き だという。北では女が男にそうした物言いは絶対にしないからだ。韓国のテレビ で最近よく紹介される北の映画やテレビドラマでも、北の女性の言葉遣いは 実に大人しく丁寧で女性的だ。 先頃、北の金剛山観光に行った際、日程外で案内された北朝鮮側のさるレスト ランで登場した美形のウエートレスもまた、もの静かで秘めやかな喋り方だった。 現代韓国女性の突っかかるようなきつい物言いや物腰と比べ、これが同じ民族 かと思う程だ。北の女性も社会が開放・改革された場合、韓国風になってしまうの かしら。亡命者によると北は韓国より遙かに男尊女卑というが、お陰で女性の 話し方だけは北の方が間違いなくいい。
アジアスケッチ エイズ患者に「やすらぎ」を タイでは、家族のケアが何らかの理由で難しくなった高齢者や末期患者を、寺院がひきと ってターミナルケアを施すという伝統がある。近代化と西洋医療の充実にともなって、し だいにその役割も希薄となりつつあるが、それでもタイの人々の生活に、寺院が深く関わ っていることに変わりはない。 チェンマイ行きの電車に乗って、バンコクから北へ3時間ほど行くと、ロッブリーとい う街に到着する。そして、この街はずれには、パバナプ寺という、タイでは有名な寺院が ある。ここは通称「エイズ寺」、エイズ患者専門のホスピスを運営している寺院である このパバナプ寺を訪れてみると、その規模は意外に大きかった。僧侶や看護婦など約40 名のスタッフによって運営されているという。とはいえ、境内に暮らす200名以上の患者 を前にしては、本当に人手が足りないようだった。しかも、このホスピスに入るために、2 万人もが予約を入れているということだった。 さて、僕と同行した友人が境内をうろうろしていると、若い僧侶が僕らを手招きして、 事務局らしき場所へと連れていってくれた。ここで「働かせていただけませんか?」と申 込むと、すぐに寝る場所を提供してくださり、「明日からどうぞ」と言ってくれた。 確かに日は傾き、夕闇が迫っていた。その日は見学だけで、主に建物を確認してまわっ た。1キロほどの境内の入口正面には、立派な火葬場があり、煙突がそびえ立っていた。 その左手には遺体の安置所、その奥には集会所、事務所、そしてホスピス棟が並んでいた。 そして、これらを取り囲むように、患者たちが生活するバンガローや僧侶の住居が建っ ている。こうした施設が拡張中らしく、至るところで建築作業が行われていた。 僕らが案内された宿泊所というのも、新築のバンガローである。おそらく、患者が家族 と入所できるのであろう。バンガロー内には、3畳と2畳ほどの二部屋があり、さらにトイ レと水浴びができる小さな空間もあった。 そのコンクリートにシートをひいて寝たが、大量の蟻と蚊、そしてしばしばムカデの襲 来を受けて、安眠はできなかった。これから来る人は、蚊帳は持参したほうがいいと思う。 翌朝8時ごろ、寝不足の目をこすりながらホスピス棟へ向かうと、さっそく入口そばの 患者が虫の息だった。昨晩、見学の案内をしてくれた僧侶が「ディスイズナンバーワンペ イシェント」と、彼を指して言っていたが、ナンバーワンの意味が、その時になってわかった。 ボーッと、死に逝く人を眺めていると、看護婦がやってきて、手拭とバケツ、そしてベ ビーパウダーを僕に渡して、「その一帯の患者を拭いてやんなさい」と指示してくれた。 看護婦も患者も、ほとんど英語を解さないので、ここでボランティアをしようと考えるな らタイ語を少し勉強してから行くことが望ましい。 とはいえ、それほど高度な会話がで きる必要はない。タイ語にまったく覚えがない人でも、ボランティアに入る前に、1週間 ほどバンコクで、タイ語の学校に通えばいいのではないかと思う。 活動内容はいたって単純である。薬草を使ったマッサージも、食事介助も、見よう見ま ねで何とかなる。清拭は初めてで少々苦労したが、看護婦が最初の患者で、ていねいに教 えてくれたので、すぐに要領を得た。要は、服を脱がし、拭けばよい。 患者によっては痛いところがあるらしいが、顔色を見ていればそれとわかった。まわり の患者が教えてくれることもあった。もっとも、ベビーパウダーは最後までへたくそだっ た。決まって患者を粉まみれにしてしまったのである。 それでも、ありがたいことに、当の患者もまわりの患者も意に介さず、僕が四苦八苦し ているさまを、ニコニコ見守ってくれていた。ここで、同行した看護学生のレポートを紹 介したい。実は、僕はここで2日しか活動せず、すぐにバンコクに逃げ戻ってしまったが、 彼女は1週間ボランティアを続けている。
117 :
卵の名無しさん :01/12/06 23:26 ID:pXh4L8/o
>荒らし 荒らすのはいいが、おまえのおかげでサワイスレッドを面白がって たくさん立ち上げる奴が出て来るんだよ はっきり言うがおまえがいなければとっくにサワイスレッドは下がって 無くなっていたと思うよ
↑ 沢井は人気があるカイダ
>>117 >はっきり言うがおまえがいなければとっくにサワイスレッドは下がって
>無くなっていたと思うよ
甘いなぁ。
沢井はネタの宝庫。
パート1、終盤から荒らしが突入してきたけど、それがなくても1000で満願行ったと思うよ。
あなたこそ、荒らしとつながりがあると、お見受けしたが如何?
●死を待つ人のコミュニティー(大坪智美) パバナプ寺での朝は、やはりちょっと辛かったです。慣れない労働で疲れているからか、 目は覚めるけれど起きあがれない体を引きずりながら、無口に朝食をとっていました。 8時半頃からホスピスに入って、ボランティアを始めるのですが、すぐに、あちこちか ら声がかかります。「お湯持ってきて」、「マッサージをしてくれ」、「おしめを換えて」な ど、ほとんどタイ語を理解できない私たちのために、一生懸命、身振り手振りを加えなが ら話してくれます。 しばらくすると、「ルーパッホッ」と看護婦さんたちが呼んでいる、薬草を煮たものに、 これもまた薬草を入れている熱い布袋がでてきて、それを使って10時ごろまで、休みなく マッサージを行いました。10時ごろになると、私が着用しているディスポのゴム手袋の中 に汗がたまって、逆さにすると流れ落ちてくるほどになります。 その後、シーツやおむつを交換したり、マッサージをするうちに11時になり、食事にな ります。食事の介助は、私にとってはあまり得意ではなく、気の重いものでした。タイの 食べ方は日本の食べ方とは違うし、言葉が分からない。「こうしてくれ」と言わない患者 さんのときは、特に緊張していました。2度ほど、患者さんに怒られたりもしました。 ここまで終わると、私たちのお昼の時間です。朝とは違って、食堂のおばちゃんやおじ さんと片言のタイ語で話したり、朝の出来事を話したりしながら、10バーツ(約35円)だ けど結構おいしいご飯を食べました。辛すぎたり単調だったりして、残すことも何度かあ りましたが、食事は悪くなかったです。 午後はまず清拭です。1人1枚のタオルで、顔、体を拭いていきます。とはいっても、こ のホスピスでは患者間における感染に対して、それほど注意を払っている様子ではありま せんでした。ルーパッホッは使いまわしているし、ゴム手袋も、患者さんごとに付け替え るようなことはありません。結核の患者さんもいたのですが、みんな、フロアに並べられ たベッドにいて、隔離されてはいませんでした。 全身を拭いたあと、体中にいっぱいのパウダーをつけて終わりです。ホスピスの3分の2 ほどの人(全体で49のベッドがあり、45人程度がはいっています)は、自分で水浴びがで きるので、1人が3、4人程度すれば終わります。 2時半から4時まで、またもマッサージです。思い出してみても、なんだか1日中マッサ ージをしていたような気になるくらい、多くの時間をマッサージに費やしました。でも、 これは患者さんにとっては嬉しいことなんだろうな、と思います。マッサージをしながら、 会話にならない話をしたり、無言でいるときは、いろんな事を考えていました。 4時になるとまた食事介助があり、そのあと看護婦さんや患者さんと話したりして、1日 のボランティアのスケジュールはおわりです。 変な、ダンスのおじさんから、部屋にしつこく誘われたことや、「死ぬこと」について の話だったのになぜか爆笑してしまっていたウィーさんのことなど、パバナプ寺での生活 は楽しかったです。死を抱えて生きているはずなのに、パバナプ寺はとても過ごしやすい、 柔らかさを持っていたように感じました。 もう、開き直っているからなのか、それともタイの人の人柄なのか、よく分かりません が、少なくとも表面だけのものではなかったと思います。なぜ、あのような環境で、私は あんなにリラックスできていたのか、不思議に思っています。 たとえば、滞在した1週間のうちに7人の患者さんが亡くなりました。人が死んでゆくと ころを見たことがなかったので、「どんなにショックを受けることだろう」と覚悟してい ましたが、実際は私が思っていたほど悲惨でも、荘厳でもなく、ただ静かに息を引き取っ てゆく人が多かったように思います。
エイズ脳症の患者さんもいました。1人の女の人は、「お姉ちゃんが御見舞に来てくれ るんだ」と信じていました。でも、実際には、彼女の姉はもうずっと前から、御見舞には 来なくなっていました。 別の男の人は、おむつをはずそうとするので、看護婦さんから抑制(シーツの切れ端で、 手をベッドにくくりつける)されていました。近くに行くと、「メー、メー」(お母さん) と言っているのが聞こえてきて、この時はなんだか悲しくなりました。 日本語と英語ができるぺーさんと友達になって、いろんなことを教えてもらいました。 ぺーさんは患者さんのひとりですが、元気なのでパバナプ寺を訪問する人たちの案内役を しています。 「彼は、昔バンコクにあるゲイのお店で売春をしていたんだよ」と看護士さんから聞き ましたが、聞く前から「きっとぺーさんはホモセクシュアルだろうなぁ」と思わせるアク セントの、「だからぁ」を連発していました。 ペーさんは先月、昔つき合っていた彼氏を、エイズでなくしました。別れた彼氏だった し、その人からエイズをうつされたにもかかわらず、ペーさんはその人のことが好きだっ たんでしょう。 それ以来、生きる気力を無くして、お酒をたくさん飲んでいるようでした。その昔の彼 氏が死ぬまでは、ペーさんはお寺の戒律を守って、お酒も魚も口にしないようにしていた そうです。でも、今のペーさんは、「もう早く死にたい」と言っていました。 ワットパバナプーは、死ぬのを待っている人たちが一緒に生活するコミュニティーです。 ここにいる患者さんたちは、普通の社会から、そしてほとんどの場合、家族からさえも拒 否されて、このお寺に来ているのでした。 ●安らぎのうちに迎える最期 彼女が報告しているように、パバナプ寺では患者の「やすらぎ」をとても大切にしてい たと思う。とはいえ、僕たちは活動の前に、何の注意事項も受けなかった。また、ミーテ ィングなどもなく、僕たちはやりたいようにやっていた。そして実は、このことは僧侶や 看護婦たちも似たり寄ったりで、パバナプ寺のホスピス運営はアジア的混沌そのままに、 なんとも雑然と進められているようだった。 だから、日本人がいきなりパバナプ寺を訪れると、あまりの大雑把な患者の扱いに憤慨 するかもしれない。しかし、ここで最期を迎えようとしている患者たちのやすらいだ顔は、 その非難が必ずしも当たらないことを教えてくれる。 アランコット師は「エイズを治療しようとするのではなく、患者がエイズを受け入れら れるよう説くことが大切なのです」と語っていた。そして、「やすらぎ」とは完全な医療 でも看護によるものでもなく、とにかく傍らにいてあげることが大切なのだという。 口のきける患者には耳を傾け、口がきけなくなっても耳の聞こえる患者には語りかけ、 口も耳も目も駄目になってしまった患者でも、とにかく体に触れて、そばにいることを伝 えつづける。 つまり、ミーティングの時間をも惜しんで、患者のそばに居続ける。これがタイ流のタ ーミナルケアだったのである。
アジアスケッチ 僧侶がめざす弱者のユートピア 高山義浩 ●タイに蔓延するエイズ タイにおけるエイズの蔓延は深刻である。タイでは、当初、薬物使用者を中心に流行し ていたが、やがてその性交相手、売春婦(夫)に感染し、さらにその顧客、顧客の相手へ と広がっていった。そして、現在なお、タイのHIV感染者数は急増中であり、カンボジ アと共に世界有数のHIV流行地域になると考えられている。 それでは、タイのHIV流行の実態はどのようになっているのだろうか。タイ政府によ るスクリーニングで、ある程度、信頼できると考えられているのは、徴兵時に実施される HIV検査の統計である。 この検査は、タイの男性が兵役につくときに受けるものだが、陽性率が4%だった93年 をピークに、98年5月には1.9%にまで下がってきているという。しかし、それでも青年男 性の50人に1人がHIV感染者という現状は、今後対策を講じなければ、いくらでも爆発 する潜在的な危険を有している。 また、タイ保健省による報告では、エイズ患者数が1984年から1998年10月末までの累計 で99,555人(うち27,279人死亡)、HIV感染者については、1997年末で9万人余りと推測 している。 しかし、昨年10月、バンコクのEUエイズプログラムの局長は、この保健省の報告を「実 態を反映できていない」と批判し、これまでにエイズで死亡したのは22万2千人以上、感 染者も実際には27万人を超えており、2000年には28万6千人に達する恐れがあると発表し ている。 タイのエイズ対策を考えるうえで、大きな障害となっていることは、このように、エイ ズ流行の実態がまったくもって不明であることだ。憶測だけでは、計画的なエイズ予防を 打つことはできない。だから、タイのエイズ予防プログラムは単発的、あるいは局地的な ものに終始している。 こうしたなか、前回の記事で紹介したパバナプ寺の住職アランコット師が計画している 『2000ライプロジェクト』が注目されている。続編である今回は、まずはパバナプ寺の現 状を評価し、次いでこの『2000ライプロジェクト』の概要を説明して、この施設の将来を 考えてみたい。 ●創設者アランコット師 アランコット師は1955年生まれで現在44歳。タイの東北部にあるノーンカイ生まれであ る。仏門に入るまでの彼はタイのエリートコースを順調に進んできていた。カセトサート 大学工学部を卒業後、1979年、オーストラリアに大学院留学し、修士号を取得している。 そして、1984年、文化省に入省し、民間サービス部門で働いた経歴がある。僧侶になった のは意外に最近のことで、1990年、彼が35歳のときであったという。 仏門に入った彼が派遣されたのは、当時はまだ小さな丘の上の寺院に過ぎなかったパバ ナプ寺であった。しかし、アランコット師は、そのころ見学した病院でのエイズ患者の現 状に強い衝撃を受け、エイズホスピスの設立を決意したという。その光景とは、エイズ患 者が家族や友人たちから見捨てられ、社会から排除されたまま寂しく死んでいくさまであった。 こうして、1992年に設立されたパバナプ寺エイズホスピスは、アランコット師の卓越し た運営手腕によって、たった6年の間に8床から400床に、規模を大きくしてきた。もちろ ん、アランコット師の「エイズ患者の痛みをできるだけ取り除き、やすらぎのうちに死を 迎えさせる」という理念が、タイの人々に受け入れられ、支持されてきたからでもあるだろう。
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幹部 :01/12/07 06:58 ID:YLWQ3MOf
これでいいのだ 上げろ、上げろ
●増大する予算規模 現在のパバナプ寺は、事務スタッフ約30名、僧侶約10名、ボランティア約30名(患者を 含む)、看護婦(士)2名、看護補助員7名によって運営されている。患者数は200名以上(う ちホスピス患者約50名)だが、月当たりの新患数が約20名で、死亡数が約10名であるから、 毎月10人ずつ患者が増加しつづけていることになる。それでも、入院予約者が1万人以上 いるという。 この施設を運営し、拡大させてゆくための予算は、月に約100万バーツ(=約330万円) にもなっている。この施設規模と同時に拡大しつづけている予算の調達方法が、今後のパ バナプ寺の方向性を決めることになるだろう。 タイ政府の労働福祉局からの支援も若干あるが、パバナプ寺の収入の大半は、民間から の寄付に依存している。しかも、そのほとんどが国内企業や財団などからの、大口の寄付 によっており、海外からの寄付は1割程度に過ぎないという。 こうした予算調達が生み出している最大の問題点が、入院患者の選定にみられる。すな わち、寄付関係者からの入院を優先させるようになってきており、ビジネス化する危険を はらんでいる。 たとえば、バンガロー20軒を寄付した「ミニマート」、毎年100万バーツを寄付している 「ホンダ」(いずれも日系企業)については「社員がエイズを発症した場合、優先的に入 院させる」という契約が交わされており、企業の厚生施設という役割を担いつつあるようだ。 また、入院患者の9割が男性であるという点にも、選定において何らかの意図が働いて いる可能性を感じざるを得ない。もっとも、女性がエイズを発症しても、家族があまり公 にしたくない、あるいはあまりケアを重視しないというタイの社会的背景も、無視できな いだろう。 また、原則として入院患者の財産は死後、すべてパバナプ寺に寄付されることになって いる。このシステムは、遺産の多い患者を優先的に入院させることにつながりかねない危 険性を感じる。このパバナプ寺でボランティアを体験した友人は、次のような光景を目撃 したという。 「ボランティアに入ったとき、もう長くないなという患者がいました。おそらく寺から 連絡があったのでしょう。家族も来て泊まりこみで、患者に付き添っていました。そして 数日後、その患者さんがとうとう亡くなってしました。家族が悲嘆にくれているところに、 アランコット師ともう1人の若い僧侶が来たのです。患者が臨終の苦しみに喘いでいると きは一度も来なかったのに、患者が死んだ知らせを聞くとすぐ来たのです」 「若い僧侶は患者の指輪をはずし、また荷物をあさって、金目のものがあるとアランコ ット師に見せていました。荷物の中から金色のアクセサリーが出てきました。アランコッ ト師は興味をもって丹念に見ていましたが。おそらく貴金属でないことが判ったのでしょ う。急に失望したような表情になって、それを床に放り投げました。その患者の家族があ わてて拾い上げ、大切そうに胸元で握りしめていました。やがて、アランコット師は家族 にちょっとだけ話しかけ、そしてあっさりと立ち去ってしまいました」 このように語られた友人の印象は、もちろん一面的なものであり、多分に偏見をはらん だものかもしれない。ここで一方的にアランコット師を非難することのないよう、タイ仏 教の立場から代弁しておきたい。(57)
パート4は荒らしの内容がイマイチ。 辛気(しんき)くさいのは勘弁。
こんな荒らしやってると いずれ捕まるか、逝って舞うよ
●タイ仏教における「やすらぎ」とは タイの仏教は上座部仏教という宗派に属している。この上座部仏教には、南伝仏教の呼 び名もあり、日本や中国、韓国の大乗仏教(北伝仏教)とは違う経路で伝来したものであ る。よって、当然に日本とは違う発展を示しており、その特徴として原始仏教経典を重視 し、仏陀の教えに忠実であろうとする点が指摘される。 日本の僧侶は妻帯し、財産を有するが、タイの僧侶は妻帯はおろか、女性に手を触れる ことすら禁じられている。僧侶によっては、一緒に写真に写ることすら拒否する人もいる。 そして、所有するのは原則として、袈裟と托鉢のみである。 この戒律は、べつに清貧を気取って定められたものではなく、愛欲を絶ち、所有を解く ことによって執着から解放されようとするからである。 仏陀はこのように説く。 「人生は苦しみに満ちています。それは、あなたが物事に執着するからです。あなたが 何かを手にしたとしても、それは必ず失われるでしょう。永遠にこの世に留まるものなど 無いのです。家族とも、財産とも、いつかあなたは別れを告げなければなりません。それ が生きる苦しみのもとであり、こうしたものを集めれば集めるほど、苦しみは増大してゆ くことでしょう」 「だから、苦しみから解放されたければ、物事に執着するのをやめなさい。そしてもし、 あなたが命にすら執着することをやめることができたとすれば、あなたは死の苦しみから も解放されることになるでしょう」 執着から解放されることを願って、タイの僧侶たちは所有を放棄している。だから、僧 侶は尊敬され、民衆は喜んで布施をする。布施は僧侶の所有にはなりえず、おもに弱者の 救済に当てられる。よって布施とは、それをする者の執着を減らし、また功徳を積むこと につながるのだ。 パバナプ寺の患者たちの財産もすべて布施になる。これもまた、患者たちが何かを所有 したまま死に逝くことを、防ごうとするからである。財産を貯め込んだ患者の死の苦しみ は大きい。死ぬときに、一気にすべてを失うからだ。 しかし、所有を解かれた患者が失うものは命だけである。そして、その命への執着すら 手放すことができれば、そこには「完全なやすらぎ」があるだろう。パバナプ寺の僧侶た ちは、この最終的な解脱の支援をしているのだ。 パバナプ寺の僧侶は、患者の介護や施設の清掃などを実践することはない。それは、タ イ仏教では僧侶の労働が厳しく戒められているからである。そのかわり、説法をすること で、民衆を救済することが求められている。だからパバナプ寺では、毎週、患者を集めて 法話をしており、患者たちは真剣に耳を傾け「やすらぎ」を得ようとしている。 このような精神的な、あるいは宗教的な側面を無視して、パバナプ寺を語ることはでき ないだろう。エイズホスピスで、アランコット師がボランティアと一緒に汗を流して働く ことはありえない。しかし、アランコット師は確かに患者たちから崇拝され、パバナプ寺 はタイの人々から支持されている。 このこととアランコット師が戒律を守る僧侶であること、エイズホスピスが仏教寺院で あることとは、無関係ではないのである。
●2000ライプロジェクト パバナプ寺の受け入れ体制は、土地の広さからしても、スタッフの人数からしても、限 界となりつつある。しかし、一方で入院希望者はうなぎ登りに増えつづけており、前述し たように1万人もが入院を待っている状況にある。 そこで、アランコット師は、新たなプロジェクトを計画している。それは、エイズ患者 に限らず、孤児や障害者、身寄りのない老人など、社会的弱者が共同で生活する町を建設 することである。 この計画は、きわめて壮大なものである。町の広さは2000ライ(3.2平方キロ)、予定し ている人口は、1万人にもなる。町の中には、小学校や職業訓練学校、それに病院が作ら れ、さらに患者たちが自活できるよう農地に当てられる区域もある。いくつかの施設の建 築はすでに始まっており、この町が誕生するのは西暦2000年のことになるようだ。 アランコット師は、この『2000ライプロジェクト』を、『コミュニティー・リハビリテ ーション』と呼ぶこともある。その理念は、社会的に弱く、自力で生きてゆくことが難し くなった人々を支援して、自立できるよう励ますことである。 アランコット師は、障害者であれ、エイズ患者であれ、不足しているごく一部のニーズ を満たしてやることができれば、自立することが可能だと信じている。そして、この2000 ライの町の中で、僧侶の指導のもと、できる人ができない人を助けるように、互いに協力 し合えば、さしたる予算がなくても町は機能するはずだと考えている。 アランコット師のユートピアは実現するだろうか。その成否の重要なファクターは、や はり予算にあると思う。 エイズ患者救済活動は、そもそも10名程度しか僧侶がいないパバナプ寺の規模を、大き く上回るものになってきている。これは、活動において、それだけ世俗的要素が紛れ込み、 仏教理念が希薄化する可能性を秘めている。 また、アランコット師と話をしていると拡張主義が強く感じられる。アランコット師に は、ある種のあせりがあるのではないか。それは、殺到するエイズ患者たちを前にしてい るからかもしれない。あるいは順調だったホスピス運営が、タイの通貨危機によって資金 的に行き詰まり、大きな運営方針の転換が求められているからなのかもしれない。 もちろん、これは俗世にある筆者のいらぬ誤解かもしれないが、それでも大企業からの 資金を導入し便宜を図ったり、あるいは先程紹介した友人のエピソードなどから察するに、 アランコット師は先を急いでいるような印象が筆者にはある。 今後、2000ライプロジェクトが開始されることになれば、企業や財団の寄付が増加した り、仏教関係者でないスタッフを受け入れたりするようになるだろう。また、海外のNG Oが、共同運営を申し込んで来ることも考えられる。 こうした申し出のほとんどが、何らかのヒモつきであり、それだけ運営に混乱が生じは じめることが、十分考えられる。これは、アランコット師をはじめとしたタイ仏僧のカリ スマ性を、弱体化させることにつながりかねない。 アランコット師のエイズ問題への取り組みには、いつも「患者の視点からエイズを語る」 という尊敬すべき理念を感じた。しかし、今後、同プロジェクトが拡大し継承されてゆく 場合、「理念は引き継がれにくく、経営は引き継がれやすい」という現代社会の傾向につ いて、よく考えておく必要があるのではないか。
このスレ最高
カルカッタ・死を待つ人の家 インドの子供向けテレビ番組にシャクティマァン(Shukti Maan)というものがある。日 頃はドジで失敗ばかりしている新聞記者が、ここ一番で変身してシャクティマァンとなり、 悪と対決、勝利して美女を救出するのだ。設定はまさにスーパーマンそのもので、戦闘シ ーンではスペシウム光線のようなものを出すので、ウルトラマンに似ている。 これがインドの子供たちに大人気だそうで、放映される日曜日の正午になると彼らはテ レビにくぎ付けとなっている。加えて、あるインド人はこう言っていた。 「シャクティ マァンはね、インドの子供と日本人旅行者に人気があるんだよ」 なるほど、そういえば日本人の女の子がぶら下げているビニール袋を覗かせてもらった とき、シャクティマァン絵葉書やシール、それにポスターまでもが、たくさん入っていた ことがある。そのときは、周囲の日本人が集まってシャクティマァン・グッズの話題で盛 り上がったものである。 もちろん、インドの子供たちも群がってきた。ひとりの子供が絵葉書に描かれた登場人 物の論評をしながら、さりげなく持ち去ろうとしたので、持ち主の女の子が結構真剣に怒 っていたのを思い出す。 美女を救出するヒーローの名がシャクティマァンとは、いかにもインド的で興味深い。 というのも、ヒンドゥーにおける「シャクティ」とは、女性によって動的となる一種のエ ネルギーのことだからである。 アートマンとブラフマンの合一という、ヒンドゥーの中心思想は、男女の性的な交わり (ヨーガ)と重ね合わされ、崇拝の形態を取ることが多い。そして、そのエネルギーの本 質を男性側に認めるシヴァ派と、女性側に認めるシャクティ派が存在している。 シャクティマァンが、リンガム(男根のことでシヴァ派のシンボル)マァンとならなか ったのは、製作者がシャクティ派だったからなのだろうか。それとも、インド社会でも女 性の力が増してきているからなのだろうか。 ●カーリー女神 さて、僕が滞在しているカルカッタは、このシャクティ派の総本山カーリー寺院がある ところである。そもそも「カルカッタ」という地名そのものが、「カーリーカタ」がなま ったものであると言う。 カーリーとは、シャクティ派が拝礼する女神の名で、ヒンドゥー教の神々のうち最もグ ロテスクかつ残忍な性質を有している。 乱れた髪、黒い顔、べろりと長い舌、死骸の耳飾、頭蓋骨の首飾、そして切断した人間 の腕をベルトにしている。また、手が4本あり、1対には剣と生首をそれぞれかかげ、もう1 対で拝礼者を励ましている。そして、人々は血を好むカーリーのために、生贄をささげつ づけている。 花輪で飾られた山羊は両耳を針で固定され、大きなナイフで一息に首を切り落とされる。 2、3人の男たちが、首を失いながらも暴れる生贄を押さえつけ、抱えあげて、切断面から 噴出する血潮を、カーリーの神体へと振りかけるのだ。 しかも、つい近年まで、信徒は疑うことなく、人間をも生贄にして、その生き血をカー リーに捧げていたのだという。
エルシトニンのゾロを捏造したのはお前らだろ 最低だな 即刻ツブれろ
●死を待つ人の家 バスか地下鉄でカリガート駅で下車し、にぎやかな方へ人の波に乗っていればカーリー 寺院へとたどり着く。この寺院の混沌と喧騒は、先に述べたとおりだ。 今回の話題の主役は、実はその隣の建物にある。その建物の角にある、両開きの小さな ドアを開ける。薄暗い、ひんやりとした空気。カーリー寺院の参道とは、まったく異なる 別世界が、そこにはあるようだ。よどんだ静けさのようなものに吸い寄せられ中に入ると、 そこが「死を待つ人の家」である。 200坪弱のコンクリート建築は、中世ヨーロッパの療養院のような静けさに満ちている。 いやむしろ、牢獄のような印象と述べたほうがいいかもしれない。 建物は中央の炊事場、洗濯場、貯蔵庫で仕切られて、男女別の2つの病棟を有している。 それぞれ約50のベッドが、規則的に3列に並べられており、ベッドの頭の部分にペンキで 番号が振られている。そして、外界はまったく見えず、シスターとボランティアたちだけ が、これまた男女別に活発に動き回っている。 ここは、1952年、マザーテレサによって設立された施設である。以来50年近く、カルカ ッタの路上で行き倒れている人々が運び込まれ続け、これを"Missionary of Charity"のシス ターたち、そして世界各地のボランティアが救済してきたのである。 もちろん現在も、多くのボランティアが集っている。約30人のボランティアは西洋人と 東洋人が半々で、東洋人の大半が日本人学生である。医学生や看護学生が目立つが、ほと んどが短期ボランティアなので、手際が良いとは言えないかもしれない。しかし、長期ボ ランティアに指示されながら、熱心に働いていた。 ボランティアが働くのは、8:00〜12:00と15:00〜18:00。仕事の内容は、患者の食 事と入浴の援助、そして手洗いの洗濯である。僕が働いた印象で言っても、午前の部は特 に仕事量が多かったように思う。 とりわけ洗濯は力仕事で、汗だくになりながら、何十枚もの衣類やタオル、シーツを洗 って絞らなければならない。 ここで、僕の友人が寄せてくれた2つのレポートを紹介したい。その友人とは社会福祉 の学生で、半年間ここで活動した経験のある女性である。
●ある1日 午前の活動が終わって、ほとんどのボランティアが帰っていった後、一人の女性が、入 口近くの階段に腰掛けているのに気がついた。 よく見ると、それは踊り好きで、いつもにっこり笑っていた白髪の患者だった。しかし、 彼女は施設服を脱ぎ、新しい黄色のパンジャビと、それにあわせた少し色の濃い黄色のシ ョールに身を包んでいる。 カリガートに55ある女性のベッドは満杯で、次に誰が、いつ運ばれてきてもいいように、 動けるようになった人から、カリガートを出なければならないのだ。そして、今日、選ば れたのが、このおばあちゃんだった。 一人の長期ボランティアが彼女の近くにやってきた。おばあちゃんは、すかさず彼女に しがみつき、声をあげて泣き出した。周りにいた者も、しばらく二人の別れを静かに見守 っていた。そして、一人のシスターが、彼女にわずか5Rs(=約15円)を握らせた。 今まで泣いていた彼女だったが、もう顔に涙の跡はなかった。シスターと二人、静かに 外へ向かった。入口の前でシスターは立ち止まった。おばあちゃんは腰をかがめながら、 久しぶりに目にする外の世界にも、表情ひとつ変えずに、ゆっくりと歩き出した。 ゆっくりと、ゆっくりと、彼女は人をかきわけながら、やがて人ごみに消えていった。 一度もこちらを振り返らずに。 わずか5Rs、チャーイを2杯飲めるだけのお金だ。それだけのお金で彼女はこれからど うしてゆくのだろうか? どこかに彼女の帰りを待つ人がいるのだろうか? 今日はどこ で寝るのだろうか? そんな不安が私の頭をよぎる。 そして、マザーテレサのこんな言葉を思い出した。それは、「"Missionary of charity"の医 学的アプローチは、あまりに基礎的なレベルにとどまっており、重病の患者に対して十分 に対応しきれていないのではないか?」という質問に答えたものである。 「そのことは承知です。私たちの医療技術に限界はありますが、しかし、その基礎的な 治療すら受けることが出来ないでいる人々がいるのです」 カリガートが、西洋人の望むような、完全な社会復帰のできるリハビリ施設にならない、 なり得ない、そしてシスターたちがそれを望まない理由が、この時、はじめてわかるよう な気がした。 路上では、誰にも気を止めてもらえない人々が、本当に多くの人々が、今日も朝を迎え たことだろう。カリガートとは、その多くの人の中でも、死に瀕している人々の一時療養所にすぎないのだ。 今日は、いつになくどんより曇っていて、蒸し暑い。明日は雨かもしれない。私は、午 後の活動に備え、休息をとるため帰路についた。
●愛ゆえに気高く マザー・テレサは、1910年マケドニアに生まれ育ったアルバニア人である。 そして、17歳のときドミニコ修道会に入り、翌年はじめてインドの土を踏んだ。以後20年 間、カルカッタの聖マリア学院で英語の教師をして、最後は校長にまでなっている。 ところが、38歳のとき神の啓示をうけて、スラム街の人々のために働こうと決意する。 そして、1950年、"Missionary of Charity"を設立。1952年、有名な「死を待つ人の家」をカ ーリー寺院の隣に開設した。 このとき、マザーは次のように述べている。「この世の最大の不幸は、貧しさや病では ありません。だれからも自分は必要とされていないと感じることです」 以後、彼女の活動は国際的な支持を得て広がりをみせる。カルカッタ市内にいくつもの 施設を開設したのみならず、世界中の恵まれない人々にまでマザーの愛の手はさしのべら れ、現在、東京の山谷を含む全世界80ヶ所以上の施設が運営されている。 献身的な活動が評価されて、1978年、彼女はノーベル平和賞を受賞している。そのとき のマザーのスピーチは次のようであった。「私はこの賞を受ける立場にはありません。し かし、世界すべての苦しむ人々に代わって、この賞を受けます」 それからも変わることなく献身の生活がつづけられ、1997年9月、彼女は87年の生涯を 閉じた。現在も遺体はカルカッタのマザーハウスに安置されている。愛ゆえに気高く、貧 しい人々のために生涯を捧げられた聖者であった。
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卵の名無しさん :01/12/08 23:42 ID:A22kiYIG
やはりポセビン関係ですか?
ストリートチルドレンを治療する カルカッタの安宿街サダルストリートから歩いて15分ほどの位置に"Missionary of Charity"の本部、マザーハウスがある。ただし、わかりにくい場所で看板などもないので、 はじめて訪れようとする人はボランティア経験のある人に連れて行ってもらったほうがい いだろう。 最後の細い路地を折れると、右手に2つの入口が見える。はじめの入口はマザーの遺体 が安置されている部屋へと続いており、一般の弔問客用である。そして次の入口がボラン ティア用であり、その木の扉の横には [ MOTHER TERESA IN ] と書かれた小さなプレー トが埋め込まれている。 ここはマザーの聖跡であり、いまもシスターが生活する場所となっている。そしてボラ ンティア希望者は、ここでボランティア登録を行なうことになっている。ただし、1週間 以下の短期ボランティアの場合は、登録の必要はないようだ。 また毎朝5:50〜7:00にミサが行われており、これはキリスト教徒でなくても参 加することができる。ただし、聖体拝領はできないので注意したい。 ミサが終わるとボランティアルームへと向かう。ここにボランティアのための朝食(パ ンとバナナ、チャイ、コーヒーなど)が準備されている。もちろんミサに参加しなくても、 7:00までに来れば、朝食を頂くことができる。この朝食の時間は、各施設の活動予定 を知り、他のボランティアたちとの情報交換をするうえで重要なので、存分に活用したい このマザーハウスを拠点にして、ボランティアたちは、それぞれ希望の施設へと散らば ってゆく。以下、それぞれの施設を紹介してゆこう。 ●プレム・ダン 前回紹介したカリガートよりも、比較的症状の軽い患者が入る施設。男女それぞれ20 0名ほどが入院しており、規模はかなり大きいといえる。また、同じ敷地内に、貧しい子 供たちのための学校が併設されている。 ここへはマザーハウスから歩いて行ける(約30分)。ボランティア時間は8:00〜 12:00で、仕事内容は洗濯、掃除、入浴と食事介助で仕事量は多い。ただし、患者の 多くが自分で動くことができ、話もできるので、患者とコミュニケーションを取りながら 働くことができる。 ●シシュババン 「子供の家」と呼ばれる施設で、障害をかかえた子供たちを含め、50〜60人の乳幼 児がいる。ここへのアクセスは簡単で、マザーハウスの並びの道を徒歩で2、3分行った 所にある。ボランティア時間は8:00〜12:00と15:00〜18:00の2回で、 仕事内容は子供たちの食事介助、衣服の着脱、排尿の介助など。そして、子供たちとの遊 びになる。子供好きのボランティアがはまる施設のようで、子供たちに会うため、毎日通 っている人が少なくない。 ●ハウラ・シシュババン カルカッタのハウラ地区にある「子供の家」で、5〜10歳くらいの子が50〜60名 くらい入院していて、教育もここで受けている。養子がほしかったり、召使いがほしかっ たりする人が、時々訪れて子供たちを連れて行っているようである。マザーハウスから遠 い施設なので、ボランティアは少ないが、仕事自体もあまりない。
●シャンティ・ダン 2つの施設が併設している場所で、ひとつは「子供の家」、もうひとつは「女性の家」 である。「子供の家」には、およその2歳以下の子供たちが生活している。ここの子供た ちは健康で、養子をもらいに来る人が訪れている。子供たちの世話をするソーシャルワー カーが数人常駐しているので、ボランティアはその手伝いをすることになる。しかし実際 には、子供たちと遊んでいるうちに、ボランティア時間が終了する。 一方「女性の家」 は、乱暴を受けた女性や、精神病の女性が入院する施設である。30〜40人の入院患者 がいるが、ボランティアの仕事はないようだ。ほとんどが見学で終わる。 ●ナボジュボン ダウン症や盲目など、障害のある男の子たち約20人が生活している。ここは他の施設 と違って、シスターではなく、ブラザーによって運営されている。ボランティアも男性の 方が多いようだ。仕事内容は、洗濯と食事の介助、そして掃除である。 ただし、毎週日 曜日には100人近くのストリートチルドレンを迎え入れているため、ここの活動内容は 平日とは異なったものになる。この日のボランティアは、きわめて腕白な彼らの体を洗い、 きちんと整列させて食事を提供をする。 ●生き抜く子供たち 日曜日のナボジュボンを僕が訪れたときは、医学生ということもあって、怪我をしてい るストリートチルドレンたちの治療を任された。確かに、裸足で走り回る彼らの足は傷だ らけで、ひどい子は5センチちかくも皮膚がめくれていたり、傷口が盛り上がるほどに化 膿している子もいた。 まず、僕は与えられた薬棚のチェックからはじめた。オキシド ールとヨードはすぐに見つかった。これで消毒はできる。ついで抗生剤の塗り薬がかなり あった。あとは実のところ、僕には使えない薬ばかりであった。 あちこちの国から援助されたのであろう、多彩な薬があるにはあるのだが、商標名しか 書かれていなかったり、成分表示がドイツ語、フランス語、中国語などだったりしていて、 誤用が怖くて使うことができなかった。 日本製の医薬品にも日本語しか表示されていないため、世界各地に援助物資で送られな がらも、結局、現地の医師が使うことができないままになっているケースが多いという。 その逆の体験を僕がすることになるとは、予想もしていなかった。 結局、いろんな薬箱をひっくり返したりしてみたが、出てくるのは抗生剤ばかり、苦労 して解読してみれば「日焼け止め」などという嫌味としか思えないものも入っていた。
最高のレスだわ
実は、僕が懸命に探しているのは、バンドエイド、もしくはガーゼとテープなのである。 しかし、この基本的な物資がほとんど見つからなかった。目の前には20人ほどの子供た ちが群がり、傷口を示しながらギャーギャー言っている。この混乱した状況で、結局、僕 はトリアージ(治療する患者の優先順位の決定)を余儀なくされた。 子供たちの中を見てまわり、傷口のひどい子を抱えて即席の治療台へと連れてゆく。こ のとき傷口が泥で汚れているときは、自分で洗って来るように指示して後回しにし、次の 子を探す。傷口を消毒し、必要なら膿を出して抗生剤を塗る。そしてガーゼを貼り付けて テープで固定する。また、次の子を探しに行く。 この方法は、群がる子供たち、とりわけ前のほうで待っている子供にとっては不公正な ことと映ってしまうようだ。そもそも、路上のサバイバルをもって人生としている彼らで ある。日本のへなちょこ学生の言うままに、おとなしく従っているはずがないではないか。 彼らは僕に怒鳴り、割り込み、薬を持ち去ろうとしたり、ありとあらゆる反抗を試みた。 小さな子は、傷口を示しながら「治して! 治して!」と哀願するように、僕の手にしが みついてくる。 確かに、その傷口は小さいかもしれない。しかし、化膿し悪化しつづけ切断を余儀なく されたり、それがもとで破傷風に感染して死の危険にさらされたりする可能性はある。そ して彼らは、仲間たちの経験から、そのことをよく知っているのだ。 そう、僕にとっては何気ないトリアージも、彼らにとってはサバイバルそのものなので ある。それは分かっている。それでも僕は治療しながら、後回しにする他の子たちを怒鳴 りつけ、ときには威嚇し、追い払い続けていた。 神の子らに愛は平等に降り注ぐだろう。しかし、人間がそれにフィルターをかけようと するのだ。この神への裏切りを「原罪」と呼ぶ。
国際協力は侵略の手段か ストリートチルドレンを相手に奮闘しながら、ひとつだけ気になっていた事があった。 「カルカッタには、千人以上のストリートチルドレンがいると言われているのに、どうし てナボジュボンには100人そこそこしか集まらないのだろうか?」 マザーが設立したナボジュボンでは、毎週日曜日、ストリートチルドレンのために風呂と 食事を提供している。お菓子を配る事もある。こんな素敵なプレゼントが待っているのだ、 もっと集まってきてもいいはずではないだろうか。 しかし、集まって来るのは、ほぼ1 00人、まるで施設の規模とボランティアのキャパシティーに合わせたかのような帳尻の 良さである。どこかにからくりがあるに違いない。 そのからくりは、ミトという名のインド人青年が教えてくれた。僕と同じくボランティア に参加していた学生で、ナボジュボンからの帰りのバスが一緒になったのだ。 「それは 簡単ですよ。皆さん外国人ボランティアが一生懸命に子供を洗っている間、ブラザーが門 前で何をしているか御存知ですか? 入れる子供の選別ですよ。だいたい常連てのが決ま ってましてね。まあ、それは行儀が良いとか、アーメンが上手に言えるとか、そういう子 供達なんですが、彼らがまず入って、そしてその紹介とかで新入りが入れたりするんです」 「私自身が見た光景ですが、あるストリートチルドレンが、ブラザーに棒で叩かれて追 い払われていた事がありました。何の紹介もなく来た子だったんでしょうね」 それを知 っていながら、なぜ彼はナボジュボンで活動するのだろう。 「確かにナボジュボンに入れる子供達は比較的幸運ですが、だからと言って彼らが幸せ な人生を歩んでいる訳ではないでしょう。ストリートチルドレンの問題に心を痛めるイン ド人として、機会があるなら私は貢献したいと思うのです」 「もちろん、私が働いてい るのはあそこだけじゃないですよ。他にも、ストリートチルドレンに食事を提供する活動 をしているインド人自身による団体があります。その活動では、私は街頭に出て子供達に 食事を配って歩いています。ナボジュボンより粗末な食事ですが、なるべく多くの子供達 に、分け隔てなく配ろうとしています」 こんなインド人がいるとは、正直驚いた。しかも、そうしたインド人が集まる団体すらあ ると言うのである。その僕の疑念を察したかのように、彼はこう続けた。 「皆さん外国 人旅行者はね。インドの商人としか接していないんですよ。聖職者や教育者、あるいは職 人、農民などとは接点がないでしょう。その事に、まず気がついてください」 「インド はカーストごとに、生活も考え方も大きく変わります。それなのに、皆さんは商人に執拗 に売りつけられたり、騙されたり、そんな経験だけをして、インド人は○○だと決めつけ ています。10億人が生活するインドは、そんなに単純じゃないですよ」 まもなくオーストラリアに留学するという、エリート青年の目つきは鋭かった。 「マザ ーの活動にしても、インド人の間には様々な評価があります。彼女が死んだとき、BBC では嘆き悲しむカルカッタの民衆が放映されたかもしれませんが、カルカッタの民衆なん て概念は、無意味ですよね。存在し得ません。それは、カルカッタの誰かなんです」
では、ミトという名の一個人は、彼女の死をどのように受け止めたのか。 「インドの貧 しい人々のために献身した女性だったと思います。しかし、それが何のためだったのかも 知っています」 ● キリスト教徒でない日本人が参加する事への不快感も 最後の(それが何のためだったのかも知っています、と言う)発言は、もちろん「キリス ト教の布教」を意味するのだが、実はこうした見解は少なからぬインド人から聞かされた。 そして、キリスト教徒ではない日本人が、好んでこの活動に参加している事に不快感を示 す人もいた。 この「キリスト教の布教」という問題は、長きにわたる植民地支配に苦しみ、そして独立 を勝ち取ったインド人にとって、複雑な感情を刺激する事があるようだ。 最初に宣教師が来たときは、問題はなかった。彼らは国際NGO「イエズス会」などが派 遣する、情熱的なボランティアであった。教育や医療、農村開発をも手がける、マルチな 国際協力人間である。 しかし、宣教師の後を追い、文明のたいまつを掲げて、東インド 会社がやって来た。様々な軋轢はあったものの「西欧化こそ福音を知る最短の方法」とい う宣教師と「西欧化こそわが社の製品を作り、買わせる事のできる最短の方法」という点 では一致していたようだ。 そのうち、地域住民は「何か変だぞ」と思い始め、急進的な一部が事件を起こしたりする ようになる。すると、邦人保護の声が西洋で湧き上がり、ここぞとばかり、政府の軍隊が 海を渡って来たのである。 このようにして「宣教師が軍隊を呼び寄せた」とするのは、論を急ぎすぎているかも知れ ない。しかし、アジアのほとんどの国々で、歴史はそのように流れてしまった。そして「キ リスト教とは、市場を狙う企業と軍隊をアジアに持ち込む事を狙ったトロイの木馬だった」 との歴史認識は珍しくない。さらにこうした立場から、現代の国際協力についても「市場 を狙うために考案された、より洗練された侵略手段である」と危惧しているアジアの人々 は多い。 このような危惧があるのは、多くの国際協力が「する側の論理」で事業が進められている からである。現地のニーズを無視し「援助したい」という、自らのニーズに耽溺してしま っているNGOが、いかに多い事だろうか。 パンツをはかない慣習のある部族が可哀想だからと、パンツを援助したと言う日本のNG Oの話は笑い話ですむが、便利だからと貨幣経済に巻き込み、時代遅れの宗教の衣を脱が せて世俗主義を促し、人は誰しも平等だと民主化を教育するのは、文化的侵略として批判 されても仕方がないかもしれない。幸福は、万国共通の味はしないものである。(504)
● カルカッタの異世界 マザーの施設に話を戻そう。 マザーの施設の全てが外界から遮断され、キリスト教色に染め上げ られている。至るところに十字架が掛けられ、マリア像が見下ろしている。そして、シスター達の判 断が絶対のルールであり、患者達の意見が反映される事は、まずありえない。 例えば「死を待つ人の家」では、水を飲む時間すら決められており、患者が「水を飲みたい」と言 っても、シスターが「NO」と言えば、それまでである。もし、ボランティアが勝手に水を与えると、 シスターに叱られてしまう。もちろん、これには理由があり、トイレの時間以外に、患者が尿意をも よおさないようにするためだ。 このように患者達は、シスターの完全な管理下にある。患者達は、しばしばベッドの番号で呼ばれ ながら、決められた時間に決められた場所で食事をし、水を飲み、トイレに行き、そして消灯時刻に 眠らなければならない。 これは、以前紹介したタイのパバナプ寺とはまったく異なっている。 パバナプ寺のエイズ患者達は、実に勝手気ままな生活をしていた。食事の時間はあるにはあるが、 食べたくなければ食べなくてもよく、あとで食堂で食事をする事もできた。煙草は寺により禁止され ているはずだが、堂々と吸っている患者もいた。消灯しても外を散歩しており、ギターを弾いている 患者のまわりに、輪ができていたりした。 この相違は何ゆえであろうか。予断をおそれずに言えば、その理由はマザーの施設では「患者が信 頼されていない」からだと僕は思う。それが「野蛮で自らは救われようのないアジア人を指導する」 という植民主義の残滓であるかは判らないが、シスター達は「患者につけいる隙を与えれば、それは 混乱のもとになる」と考えている節がある。 事実、その通りであろう。施設の外に出れば、そこは混沌(カオス)のインドである。それを恐れ、 秩序(コスモス)を望むのなら、インド人である患者は完全に支配され続けなければならない。 こ れが悪循環をもたらしていると、第三者の僕からは見える。患者の自主性を排し、支配するためには 人手が必要となる。だから、世界中からボランティアが集まっている。 あの、200人のエイズ患者が暮らすパバナプ寺には、海外からのボランティアなど、ほとんどい ない。いなくてもやって行ける。自主性を与えられた患者達が、互いに助け合いはじめているからだ。 その違いを、タイの社会風土であるとか、インド人の性質などという点に帰結させる事は容易であ る。しかし、こうした発想は、過去の「インド人に解決能力は無い」とする植民思想と根底はつなが っているだろう。 何千年もの歴史の中で、そして今もインドでは、多くの人々が社会を形成し、人が生まれ、病み、 老いて死んでいる。その多くが、悲しみに満ちたものだったかもしれない。貧しい人々は苦しんでき た事だろう。しかし、それをすべて過ちとして、外来の指導者が外来種を植え付けようとしても根付 く事はないだろう。 これからの国際協力は、もっとよく大地を観察し、そこにある小さな芽を見つけ出す姿勢が求めら れるのではないだろうか。そして、日当たりを良くし、水をあげて大切に育むのである。 おそらく、インドにも、インドの貧者救済施設の運営があるはずだ。マザーハウスのシスター達が それを望むかどうか、僕は知らない。ただし、外界から隔絶した彼女達流の救済を、今後も続けると するならば、そこはキリスト教徒の美しい汗が流される「カルカッタの異世界」であり続ける事だろう。
危険な「下痢止め薬」 下痢になった。う〜ん、う〜ん。1時間おきにトイレに行っているような気がする。ORS(経口 補水塩)を飲んでいるが、飲んだ量以上に便(ただの水)が出て行っている。何が悪かったのだろう? 一昨日、カルカッタからバラナシに移動する直前、ハウラ駅前で生水を飲んだ。たしか、腹痛はあ のときからのような気がする。夜行列車の寝台でトイレに行きたかったが、荷物が心配で我慢してい るうちに、おさまってしまった。 そして昨日、ガンジス河でボートをレンタルし、裸で日光浴を1時間した。同乗してきた男がいて、 何者だろうと思っていたら、おもむろに懐から骨の入った袋を取り出してガンジスに散らしはじめた。 聞くと母親の遺骨なのだそうだ。 ガンジスの流れは天界へと通じている。母親の遺骨をガンジスに 返しに、はるばる地方農村から男は来たのであった。一方、僕はそれを横目に、相変わらず裸で寝転 がっていた。これで脱水したか、さもなくばバチがあたった可能性がある。 宿に帰ると、親父が「ビールあるよ」と言う。ターリー(カレー定食)を肴に、久しぶりにビール をたらふく飲んだ。そして、扇風機にあたりながら裸で寝た。 そして今朝4時、腹痛で目が覚めた。 腹が痛くて眠れそうもなかったので、ガンジス河に腹を押さえながら向かった。月明かりのガンジス 河は、まだ人も少なく、静かな光芒を放っていた。巡礼者の数が増すにつれ、祈りの声が高まりをみ せてゆく。 それを岸辺に感じつつ、30分程泳いだ。ガンジスにはあらゆるものが流れている。捧げられた赤 い花びらに混じり、河藻が流れ、火葬用の木片が流れ、半焼け屍体が流れ、牛が流され、嬰児が流さ れ、糞が流れ、尿が流れる。 その聖なる流れに身を浸すために、インド各地から巡礼者がここを訪れている。たしかに僕達は糞 と尿のあいだから生まれ、糞尿のガンジスに帰る事になる。でも、生きているうちに泳ぐと下痢にな るかもしれない。 案の定、猛烈な下痢に襲われ、バラナシの安宿でのたうちまわっている。夜中じゅうトイレに行っ ているのだが、同じように両隣の部屋の日本人も、トイレに通っているようだ。3人がかち合わせる 事もあり、うめき声で話しをする。 ■隣の男の子の場合 「どうすか?」「やっぱ、インドはダメだわ」「どっからきたの」「イスタン。パキまでは調子良か ったんだけどね」「ここはインドでも最悪の部類じゃん? カルカッタまで逃げりゃ治るよ」「いや、 もうバンコクに帰りたい」「天国だよね」「酒と女」「ガンジャ」「バンコクで体調整えたら、今度は 中国に行くのさ」「で、カキ油で下痢すんの?」「あっちの下痢はうまいもん食ってだから、割に合 ってるよ」 ■隣の女の子の場合 「君の下痢はどう?」「どす黒いの。それで粘り気があって・・・」「それって、やばそうだねぇ」 「もう1週間近く続いてるのよ」「いつインド入りしたの?」「10日前。初めての海外旅行なんで す」「ほー。何しにインドに来たの?」「下痢かな・・・」 (512)
●アジアを目指す若者達 若者達がアジアを目指しはじめている。ひと昔前であれば、卒業旅行はヨーロッパが当たり前であ った。もちろん金があればの話だったが。しかし、いまどきの学生達は、安上がりなアジアに、なる べく長期に滞在しようとしている。 インド1ヵ月、アルバイトで15万円なんとか貯めれば実現する。東南アジア1ヵ月なら、切り詰 めれば10万円でしのぐ事が出来る。欧米旅行に見切りをつけた若者にとって、海外はどんどん身近 になってきているのだ。 ただし、欧米旅行ではあまり深刻ではなかった「旅先での病気」という洗 礼が、一方で待ち受けている。WHOは「先進国の人間が1ヶ月間途上国を旅すると、30〜80% の確率で下痢を経験する」と報告している。 一泊400円前後の安宿に泊まり、そこらの屋台で食事をして、たまには生水を飲んで、川で水浴 びなどする。これが、いまどきの若者の海外旅行である。 スタイルはきまっているつもりだが、残 念ながら肉体がついてこれていない。つまり、温室育ちの日本人が下痢にならないわけがない。そう いうわけで、僕達は下痢をしている。 ●途上国における下痢の治療法 僕が下痢で苦しんでいるのを知った宿の主人は、翌朝、ORSを買ってきてくれた。ORS(Ora l Rehydration Salts)とは日本語で「経口補水塩」と言い、そのパッケージを水に溶かして飲む事で、 下痢によって失われる水分と塩分を補う事ができるようになっている。 このORSパッケージは、 途上国の薬局ならどこにでも売っており、また薬局で買い求めなくとも、家庭でも「ひとつまみの塩 とひとにぎりの砂糖を水に溶かす」という簡単な方法で作成する事ができるものである。 何だか単純な飲み物で、有難味が無いようだが、最も権威ある医学雑誌のひとつである『ランセッ ト』が「今世紀におけるもっとも重要な医学の進歩」と認めている治療法なのである。 実際、この ORSの登場により「1993年以来、世界の子供の死因のなかで、下痢疾患が肺炎に次いで2位に 下がった」とユニセフが報告しているほどだ。 ところが、ほとんどの日本人旅行者は、このORSの事をまったく知らない。また、種々様々な旅 行ガイドブックが日本の書店にあふれているが、寡聞にしてか、僕はORSの使用法を紹介している ガイドブックを手にした事がない。 その代わり、下痢止め薬を持ってきている日本人が、あきれるほど多い。いったいどうやって手に 入れたのか知らないが、残念ながら、その薬を途上国で服用しても、症状を悪化させる可能性が強い のである。 下痢止め薬には、腸を麻痺させる作用がある。だから、腸の痙攣による腹痛が和らぎ、 そして運動が抑制されるので、便が出なくなる。長い時間、便が腸に留まるため水分がとれ、一見し て正常な便が出る。 日本では自律神経性の下痢がほとんどなので、これで問題はない(ただし1970年頃、日本で多 発した神経障害を引き起こす疾患スモンは、当時の下痢止め薬の副作用であった事を忘れてはならない) ところが、途上国旅行中に経験する下痢は、細菌性のものが少なくない。たとえば、生水を飲んで 下痢をしたとすれば、それは細菌性の下痢だと考えてよい。 ここで下痢止め薬を服用し、腸を眠ら せてしまえば、何が起こるだろうか。答えは簡単である。これ幸いに細菌が増殖し、それによる炎症 は腸管のみならず、腹膜までも広がってしまうかもしれない。 途上国で下痢をしたのなら、身体の生理作用にまかせて、細菌を便と一緒にどんどん出してしまっ たほうがよい。ただし、大量に水分が失われるので、脱水症状を引き起こす可能性がある。だから、 ORSを利用して水分と塩分、そして栄養を補うのだ。
真の囚人:負けないチェチェン人 ロシアの作家、ソルジェニーツィンの有名な著作「収容所群島」は、ロシア革命(1917 年)からスターリン批判(1956年)までの、ソ連の強制収容所での人々の様子を、自らの 収監体験と他の人々からの聞き取りなどによってまとめた、ノンフィクションの大作である。 その、日本語版(新潮社)で全6巻のうちの最後の巻に「諸民族の強制移住」という章 がある。ロシアでは1937年以降、ソ連国家に反感を持ちそうな民族を丸ごと、中央アジア のカザフスタンなど遠隔地に強制移住させる政策がスターリンによって行われた。本国が 日本の植民地なので、日本の味方をしそうだ、と疑われた極東・沿海州の朝鮮人や、ナチ スのスパイになる懸念を持たれたカスピ海北部のドイツ人などの移民が、カザフスタンに 送られた。この章では、その人々のことを描いている。 この時代、強制移住地に送られた人々の多くは、服従の中で生きる心理が身につき、移 住当初の最も厳しい状況がその後わずかに改善されると、服従する状態に慣れる傾向が強 まった。そうした状態は、強制収容所に送られた人々や、その他一般の、ソ連で抑圧され た人々に共通しており、ソルジェニーツィンは「またしても同じことの繰り返しではない か?」と、従順になってしまう人々の姿に対する苛立ちを書き連ねている。 (「服従」どころか、ことさら一生懸命に働いたのは、朝鮮人やドイツ人、それから敗戦 とともに満州からシベリアに抑留された日本兵の集団など、その後、高度成長を遂げた国 を故郷とする人々だった) とはいえ、そんな服従の精神をまったく受け入れなかった民族が、一つだけあった。そ れは、チェチェン人であった。彼らは個人としてではなく、民族全体として、「当局に取 り入るとか、気に入るようなことはいっさいやらず、いつも胸を張って歩き、その敵意を かくそうともしなかった」。「あえて言えば、特別移住者の中で、チェチェン人たちだけ が精神的に正真正銘の囚人だったのだ」と、ソルジェニーツィンは書いている。 このチェチェン人こそが、ロシア軍をてこずらせ、世界の注目を集めている、あのチェ チェン人である。
▼非服従の背景にイスラム神秘主義 チェチェン人の特異性は、彼らが住んでいる地域の地理的な状況に由来する部分が大き い。チェチェン共和国は、モスクワから1500キロほど南に行った、黒海とカスピ海の間、 コーカサス山脈の北側にある。 この地域は北にロシア、南西にトルコ、南東にペルシャ(イラン)という、昔から強大 だった3つの帝国の境界にあたり、いくつもの勢力が、この地を支配しようと攻めてきて は去る、という歴史が繰り返されてきた。 だが、そこには5000メートル級の高峰が連な る険しい山脈があり、古代からここに住む人々は、強国が攻めてくると山に篭もり、難を 逃れたり抵抗運動を展開したりしてきた。 チェチェンの人々は、イスラム教徒である。この地域にイスラム教が入ってきたのは18 世紀ごろだったが、入ってきたのは、それまで信仰されていた地元の宗教儀式と混じり合 うことを容認する「イスラム神秘主義(スーフィズム)」だった。 イスラム教では本 来、生きている人を崇拝の対象にすることを禁止しているが、スーフィズムでは修行を続 ける聖者たちを崇拝し、聖者は「奇跡」を起こすとされ、厳格なイスラムでは禁止されて いる宗教儀式の踊りや音楽などもあり、人々を恍惚とさせることで宗教意識を高める。 スーフィズムは8世紀ごろから存在し、現在までイスラム世界の周辺部を中心に広く信 仰されているが、旅をする行者たちによってチェチェンにもたらされたスーフィズムは、14 世紀に中央アジアに起こった流れを組んでいた。 チェチェンでは、シャイフ(shaykh) と呼ばれる聖人を中心に、その弟子たちが各地の村々の指導者となり、宗教的な強いつな がりが、チェチェンの氏族社会を覆うようになった。この同族的なつながりに加え、山の 民としての自尊心の強さが、非服従の姿勢のベースとなった。 ▼200年前に始まった「聖戦」 18世紀、チェチェンの南のオスマントルコ帝国が衰退し始めると、北方のロシア帝国が 南下政策を展開した。ロシアの軍隊は、チェチェンなどカフカス地方の無数の小さな民族 を征服していったが、その際に大きな抵抗をしたのがチェチェン人だった。 チェチェ ンでは、シャイフ・マンスールという聖人指導者がロシアに対する「聖戦」を宣言し、チ ェチェン周辺の北カフカス地方の人々全体を束ね、抵抗戦争を始めた。1785年にはロシア 軍を打ち破ったが、その6年後にはロシア軍に捕らえられて殺された。 その後もチェチェン人はロシア軍に抵抗したが、1859年、ついにロシアの支配下となっ た。この抵抗戦争によってチェチェン人の3分の2が死んだといわれるが、その武勇は有名 になり、マンスールは今もチェチェン人にとって英雄である。 ロシアの支配下となっ た後、チェチェン人はオスマン帝国のスパイという疑いをかけられ、モスクの破壊などの 宗教弾圧が行われた。だが、チェチェンのスーフィズム信仰は、モスクが礼拝に不可欠な 中東のイスラムと異なり、モスクが破壊されても、村の家々で礼拝や儀式が続けることが できた。信仰には差し支えなく、支配者の目の届きにくいところで、信仰と同族の団結が 維持された。
この時期、ロシアの圧政を逃れ、南のオスマントルコ領内に移住したチェチェン人も多 かった。当時のオスマン帝は現在のシリア、ヨルダン、レバノンなどを含んでおり、これ らの国々には今も多くのチェチェン人がいる。 ロシアのエリツィン大統領が99年大晦 日に辞任し、代わりにチェチェン弾圧推進派のプチン首相が大統領に昇格することになっ た直後、レバノンの首都ベイルートでロシア大使館が攻撃された。レバノンはロシアから ずいぶん遠いが、歴史を振り返ると、ロシアとレバノンとの間のチェチェン・コネクショ ンが見えてくる。 ▼人口の半分が強制移住 チェチェンがロシア領となってから60年後の1917年にロシア革命が起きた。この機に乗 じて、チェチェンとその周辺のイスラム教徒たちは「北カフカス首長国」の建国を目指し、 ロシア皇帝の軍隊や共産軍などと戦った。 その最中、チェチェンにやってきたロシア共産党の代表は、大幅な自治権を認めてやる から、自分たちに味方するよう求めた。当時ロシアでは、皇帝の勢力と共産勢力との間で 全面的な内戦になる可能性があり、共産党はイスラム教徒を味方につけておきたかったの だった。 結局、北カフカスはソ連邦の中に組み込まれることになり、約束は守られて1922 年にチェチェンは自治州となった。だが、それは形だけのことだった。ソ連の統治が始ま ると、スーフィズム信仰は「迷信」から「反革命」となり、それに反発する多くの宗教者 たちは、犯罪人として逮捕、処刑された。 チェチェン人の結束の固さが、村々をつなぐ宗教のネットワークにあると知ったソ連当 局は、村を解体して集団農場にすることで、結束を崩そうとした。だが、どこに連れて行 かれても、氏族とスーフィズム、血縁と信仰が絡み合ったチェチェン人どうしの強いきず なは保たれ、ロシアに対する組織的な憎悪も止まなかった。 ソ連の他のイスラム地域 でも、信仰は事実上禁止され、ほとんどの人は非宗教化されてしまったが、広いソ連の中 でほとんど唯一、イスラム信仰が生き残ったのがチェチェンであった。それは内々の信仰 で、外から察知されにくい地下的なものだったが、ソ連の公安警察は状況を細かく把握し ていた。 チェチェン人が崩れないのをみて、警戒したスターリンがとった次の手が、この文章の 冒頭で紹介した、民族ぐるみのカザフスタンへの強制移住だった。1944年2月、当時のチ ェチェンでは人口の半分近くを占める25万人、北カフカス全体では100万人が、突然の命 令で、家族ごと強制移住させられた。
おおーぃ 誰かいます?
チンコネット
▼恐怖政治の共産主義者も怖じ気づいた「血の復讐」 ところが、この民族の苦難もまた、チェチェン社会を解体することはできなかった。強 制移住先のキャンプでの生活が始まると、間もなく氏族とスーフィズムのネットワークが 復活した。むしろ人々の受難は、信仰心を強化することにつながった。 チェチェン人が、強制移住先でも伝統を維持していたことは、「収容所群島」の中にも 描かれている。ソルジェニーツィンが教師をしていたコク=テレクの村である時、酔っ払 って喧嘩をしていたチェチェン青年が、喧嘩を止めようとしたチェチェン人の老婆を、刺 し殺してしまった。イスラム法を維持していたチェチェン社会では、殺された老婆の一家 は、殺した青年一家の誰かを殺し、あだ討ちを果たさねばならなかった。 青年自身は、殺されたくないので警察(内務省)に逃げ込んで自首し、監獄に入った。 知らせを聞いた青年の一家は、食料をかき集め、窓とドアをくぎ付けして閉じこもったが、 間もなく老婆の一族が、武器を持って青年の家を取り囲んだ。 この事態に対し、人々に恐れられていた共産党地区委員会や内務省は、怖じ気づいて何 の介入もしなかった。「野蛮な古い掟が息づくと、コク=テレクのソビエト政権は一ぺん にふっとんでしまったのである」。結局、チェチェン人の尊敬を集めている長老たちがや ってきて、殺人者の青年に呪いをかけることで、復讐の行為をしないよう命じることで、 事件は解決した。 ソルジェニーツィンは、「血の復讐というこの風習は、それほど多くの犠牲者を出さな いが、周囲の人々にはたいへんな恐怖感をいだかせる。風習をわきまえている山岳民族の 人びとは、私たち(ヨーロッパ人)のように、酒酔いや放蕩のため、何の理由もなく他人 を侮辱するような真似はしないだろう」と、このイスラム法を評価して書いている。 そして彼は、チェチェン人はこの風習によって、他の民族から復讐を恐れて敬遠される 状態を作り出し、自分たちの立場を強化している、と書いている。「他人を恐れさせるた めに、仲間を殺せ! これが、山岳民族の祖先が大昔に見つけた、民族を結束させる最良 の方法なのである」
▼今のロシアは「最も弱い敵」 強制移住が終わり、人々がチェチェンに戻る許可をもらったのは、1957年のことだった。 だが人々が10数年前に自宅だった場所に帰ってみると、そこには見知らぬロシア人たちが 住んでいた。チェチェン人が去った後、彼らの土地は、当局によって所有者不在とされ、 政策によって移民してきたロシア人に割り当てられてしまっていた。 今もチェチェンの人口の2割を占めるロシア人の多くはこの末裔で、1994年と99年にロ シア軍がチェチェンに侵攻した際は、彼らロシア人を守るという名目もあった。 ここまでされたチェチェン人が、ソ連崩壊の後もロシア人の支配下にとどまり続けよう と思うはずがないだろう。ソ連が崩壊した1991年、チェチェンは独立を宣言し、翌92年に は、新しいロシア連邦を結成する条約への調印を拒否した。調印しなかったのは、ロシア 内の21の共和国(少数民族地域)のうち、チェチェンとタタルスタンだけである。(タタ ルスタンはロシア憲法裁判所で係争中) この反抗に対して、ロシア政府は2年間、チェチェン人代表と交渉したが、チェチェン の独立意思は固いため、1994年9月、手段を再び暴力に切り替えて、ロシア軍がチェチェ ンに侵攻した。ロシア軍の戦車部隊は、やすやすと首都グロズヌイに進軍し、勝利したか のように見えたのだが、その直後、市内各所でのゲリラ軍の待ち伏せ攻撃が始まり、ロシ ア軍は壊滅した。 チェチェン共和国の公式サイトとおぼしき「Chechen Republic Online」に「The Religious Roots of Conflict」という記事があるが、その文の締めくくりには「ロシアとチェチェンの イスラム教徒との、長い戦いの歴史の中では、エリツィンのロシア連邦など、敵として最 も弱い相手なのである」と書いてある。 ロシア軍はこの年、3回にわたってグロズヌイを攻めたが、いずれも似たようなやられ 方をしてしまい、勝てなかった。1996年にロシア軍は撤退し、チェチェン共和国は事実上 の独立を勝ち取ったが、1999年8月、今度はチェチェン人の軍隊が西隣のダゲスタン共和 国に侵入したことをきっかけに、ロシア軍が再び侵攻した。 99年の侵攻にいたった経緯については、ソ連崩壊後、チェチェンの宗教界に、伝統的な スーフィズムとは別の、原理主義的な「ワッハビズム」が、サウジアラビア方面から入っ てきたことが、ロシア側の事情としてある。そのあたりのことは、改めて解説する。
■冷戦が始まった!(1) 【裏切りのヤルタ】 土地奪い、民族を引き裂いた悲劇 《脅迫と弾圧》 冷戦と呼ばれた時代に自らを投影して、できるだけ過去に網を投げてみ ると、どの時点に達するだろうか。私自身のわずかな原体験からは、二十七年前のある冬 の情景だけがなぜか鮮明に浮かんでくる。 それは一九七〇年十二月十九日の「ソ連戦車 隊、ポーランド国境近くに集結」との衝撃的なニュース報道だった。当時、大学三年の私 はこのニュースに耳をそばだてながら中央線の市ケ谷駅に降り立っていた。 その夜は学生たちの小さな集まりがあって、柄にもなくカール・ポパー(注1)の『歴史 主義の貧困』という難解な本に取り組んでいた。社会思想研究を気取る学生の読書会に本 物の法哲学者、碧海純一(注2)がくると聞いて、苦吟しながら読んだことを覚えている。 このころの日本ではノンセクト・ラジカルのにわか左翼がばっこして、ポパーのマルク ス主義批判を読むなんて一言でいえばはやらない、少数派の忌むべき存在であった。熱病 は全国の大学に広がり、反論は角材で封じられた時代である。 ポパーが痛烈に批判する 歴史主義というのは、社会の進化には必然的な「歴史法則」があって、マルクス主義だけ が歴史の流れに適合しているとの考え方を指している。しかしポパーは「思想の自由な競 争」がない社会では、経験的事実すら否定され、多くの悲劇を生み出すことになると繰り 返し警告していた。 あの冬の夜、ポパーの「理論」とポーランドの過酷な「現実」が急に接近し、ついに火 花を散らして交差したように思えた。この時、ポーランドを覆っていたのは、ソ連の容赦 のない支配力であり、仮借ない脅迫や弾圧であった。 その夜の学生たちは、マルクス主 義の「歴史法則」が角材の暴力や国家の軍事力を正当化する単なる道具に使われている現 状を憂え、ポパーのいう「峻厳な法則を信じたファシストやコミュニストの犠牲者」に思 いをはせた。 《流れはソ連》 さて、人それぞれが記憶する冷戦という過酷な歴史の起点を、どこに求 めるべきなのだろうか。ここではソ連による東欧支配を結果として容認した一九四五年二 月の「ヤルタ会談」から始めたいと思う。 舞台は黒海に突き出たソ連領クリミア半島の南端の保養地ヤルタに移る。チェーホフら 多くの文学者に愛されてきたヤルタが、戦後世界を決定する指導者たちに外交上の駆け引 きの場を提供することになった。 フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャー チル、ヨシフ・スターリンの米英ソ三カ国の指導者が、ロマノフ王朝(注3)のリバディア 宮に集まり、ひそかに戦後世界の運命を決めていた。三巨頭はここで、欧州を東西に分断 し、それぞれの勢力圏を分け合っていたのである。 ここに掲載する写真は会談がスター トして五日目の四五年二月九日に撮影された有名な記念写真である。勢ぞろいした主役た ちの中で右端のスターリンがひときわ脂ぎっていることが分かる。写真中央には、なお威 厳に満ちてはいても、ほおがそげ落ち、健康の悪化が明らかに分かるルーズベルト。その 左手に不機嫌そうなチャーチルがいる。
会談では妥協点が見えなかったポーランド問題の協議に日程の半分以上が費やされ、そ の流れがどちらに傾いていたかは、この写真が明白に物語っていた。 ヤルタ会談の唯一 の証言者は、ことし九十一歳になるロンドン在住のフランク・ロバーツ卿(注4)である。 後に駐ソ大使になるロバーツはこの時、補佐官としてチャーチル首相に同行していた。 会談を通じてルーズベルトが、なぜスターリンに親近感を持ち、東欧をこの独裁者に与 えてしまう過ちを犯したのか。この問いにロバーツは人を介して次のような見解を寄せて きた。 「スターリンは独裁者のようには見えなかった。小柄でソフトな語り口だし、ヒ トラーのようなすごみはなかった」「チャーチルはルーズベルトよりずっと現実主義的だ った。しかし最大の過ちはスターリンをいずれ同じクラブに勧誘できると考えたことだ」 会談そのものが、実はソ連に有利なタイミングで始まっていた。ヤルタ会談が始まった のは、チャーチルがスターリンにソ連軍の東部戦線でのドイツ攻撃を要請した一カ月後で あった。一方で米軍は太平洋戦線での日本との決戦を控えており、ルーズベルトはソ連に よる北からの対日参戦を熱望していた。 ポーランドの扱いでスターリンは、東半分を削 り取る代わりに、ドイツの東側の領土をポーランドに与えるとの勝手な名目を手に入れた。 その結果、ポーランドは国全体が西に移動させられたのだ。 《真実に失望》 米上院議員のバーバラ・ミカルスキによれば、ポーランド系米国人にと って、美しいヤルタの町は許し難い「裏切りの地」でしかなかった。ヤルタの合意は「住 み慣れた土地を奪われ、民族が引き裂かれる悲劇」を生んだからだ。 ミカルスキに会ったのは、ヤルタ会談から五十年以上も過ぎた九七年の夏、街路樹が美 しいマドリードだった。 北大西洋条約機構(NATO)の首脳会議(注5)で、チェコ、ハ ンガリーと並んでポーランドの加盟が新たに認められ、ミカルスキは明らかに興奮気味だ った。顔は紅潮し、ギュッと握られた手が汗ばんでいた。ヤルタ会談の取引で、勝手に共 産圏に組み込まれた祖先の国が、いま自らの意思でNATOに入ることを許されたのであ る。 一家は二十世紀はじめにポーランドを逃れて米国にやってきた。この国では反乱と 抑圧が周期的に繰り返され、東からロシア軍、西からはプロイセンに蹂躪されてきた。二 十世紀に入っても、大国に挟まれた小国の悲劇は変わらない。 ミカルスキは「曾祖母は大国主義の鎖から逃れ、希望と機会を求めて米国にやってきた」 と述べた。一家は東海岸メリーランド州の港町ボルティモアに落ち着き、細々とベーカリ ー店を始めた。曾祖母は、敬けんなカトリック教徒らしく自宅の暖炉の上にローマ法王の 絵を掛け、東欧からの移民に寛容な民主党リベラルの旗手、ルーズベルト大統領の肖像画 を掲げていた。 しかし、ヤルタ会談の衝撃をのちに知り、ルーズベルトへの尊敬と憧憬を失望と憤怒に 変えた。ルーズベルトが祖国ポーランドを東側に見捨てたことから、涙の中で肖像画を引 き裂き「裏切り」をののしったのである。
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卵の名無しさん :01/12/09 23:15 ID:lWONJ8h4
おいおい、ここは異常者のスレッドってことでほうぼうでえらい有名になってるで
冷戦が始まった(2) 【祖国喪失】 スターリンに譲歩重ねたルーズベルト 《カチンの森》 バーバラ・ミカルスキはポーランド移民三代目にして、ポーランド系米 国人の女性として初の上院議員になった。大西洋を渡った曾祖母や祖母が夢に描いた「希 望と機会」がかなえられたのである。 ミカルスキの外交公約はポーランドの北大西洋条 約機構(NATO)への加盟促進であった。かつてフランス大統領のミッテラン(注1)が「西 欧の愛国者の思いはただ一つ、ヤルタ体制の打破である」と語ったのと同じ思いであった。 ミカルスキは、NATO拡大が浮上してきたときのことを「一部の米国人が、ポーラン ドを入れるとロシアを怒らせることになると心配顔だった」と不機嫌に語った。そのたび に彼女は「ソ連はカチンの森(注2)でポーランド人を大虐殺し、ワルシャワを見殺し、そ してヤルタで東欧のすべてを奪い取ったのです」と激しく反撃した。 いまポーランド移民が多い米メリーランド州ボルティモアで「カチン虐殺の像」をつく る準備が進んでいる。カチン追悼碑委員会の事務局に電話すると、委員長のアルフレッド ・ウィスニウスキ(七五)と委員のミラン・コムスキ(七三)が日を置かずして産経新聞ワシ ントン支局にわざわざ足を運んでくれた。 コムスキはポーランド東部のリボフ市で生まれたが、ソ連首相ヨシフ・スターリンがヤ ルタ会談で米英からこの地の割譲をとりつけたことから、戦後、帰るべき故郷を喪失して 米国に渡ってきたという。 ドイツ軍が一九三九年九月一日にポーランドに侵略し、次いでソ連軍が十七日に今度は 東側から侵入したため、ポーランド軍は挟み撃ちにあって散りじりになった。 コムスキ の住んでいた東部リボフ市を中心とするソ連占領地では、一九四〇年春以来、ポーランド 将校の捕虜約一万五千人がソ連軍に連行され、そのまま行方不明になっていた。彼らがカ チンの森でソ連軍に虐殺されたことが分かったのは後のことである。 将軍の息子であるコムスキは、仲間とルーマニアからトルコに抜けて中東地域で再編さ れたポーランド軍に参加した。彼らはイタリアのモンテ・カシーノの激戦で奮闘したが、 ポーランド軍はここで壊滅状態になる。 《骨抜き計画》 話が激戦の地に及ぶと突然、目の前にいるウィスニウスキの目から、大 粒の涙がこぼれた。「つい感傷的になって」と目頭をおさえるウィスニウスキは、この奮 戦ぶりをうたった「モンテ・カシーノのけしの花」が、国民的な愛唱歌になったと語る。 一方、コムスキはからくも、わずかな将兵とアドリア海にそって逃れた。 この間の一九 四三年、ドイツ軍がカチンの森で、ポーランド人の死体が埋められた虐殺場所の一部を発 見したのだ。 ナチスは、これらの死体がソ連軍に虐殺されたポーランド軍将校らのものだと主張した。 しかしモスクワは、これをゲシュタポ(注3)の手による宣伝であると反撃した。やがてポ ーランドの捕虜約一万五千人がソ連軍の占領地域で大量虐殺にあった証拠が浮かんできた。
ロンドンのポーランド亡命政権が、国際赤十字による調査を要求したところ、これに怒 ったスターリンが亡命政権との関係を断絶してしまった。さらに、モスクワにポーランド 民族解放委員会を設立してソ連の管理下においた。 スターリンが戦中、戦後を通じてと った政策は、仮借ない「ポーランド弱体化」であった。ソ連の影響力を東欧に拡大するた めに、ナチス・ドイツに対する自国の勝利を利用した。このため、西への回廊にあたるポ ーランドを骨抜きにしようとしたのである。 転戦に疲れたコムスキはやがて「連合軍の勝利」を聞いたものの、帰るべき祖国がなく なっていたことに気付く。米大統領フランクリン・ルーズベルトと英首相ウィンストン・ チャーチルが、ヤルタ会談で生まれ故郷を含む国土の東半分をソ連に引き渡すことに同意 してしまったからだ。 「故郷を喪失することほど、むごい仕打ちはなかった。ポーラン ドは国全体が西に移動させられ、故郷リボフもいまではウクライナ領になっていて二度と 戻ってこない」 コムスキの軍はいったん亡命政権のあるロンドンに移り、大半の人々が その後、米国とカナダに移民した。故郷をなくした彼らは、新しい移民の国を選ばざるを 得なかったのである。 それにもかかわらず、ルーズベルトは戦後の欧州を決定づけるヤルタ会談で、チャーチ ルに比べ、スターリンに譲歩を重ねた。それはなぜなのか。コムスキらポーランド移民に は無念でならなかった。 《善意に期待》 チャーチルは「ドイツはすでに片付いた。混乱がおさまるには時間がか かるだろうが、いま問題なのはソ連だ。そのことが米国人にはどうしても分かってもらえ ない」と慨嘆していた。彼はテヘラン会談(注4)、ヤルタ会談を通じてソ連がナチス・ド イツに代わって欧州を思うままにすることを警戒していた。 ルーズベルトの方は「英国 の植民地政策に手は貸さない」とむしろチャーチルを警戒し、スターリンの善意に期待を 寄せたのだ。 長年の友人である労働長官フランシス・パーキンズ(注5)の著書『私の知るルーズベル ト』によると、その前のテヘラン会談で大統領がチャーチルに距離を置くことを心がけて いたことを次のように語ったという。 「ウィンストン(チャーチル)は赤くなり、睨み付 けた。そして彼がそうすればするほど、スターリンは微笑んだ」「私がスターリンをアン クル・ジョーと呼んだのもその時だ。その日、彼は笑い、味方になり、私の手を握った」 しかしスターリンの素顔は、ルーズベルトが「アンクル・ジョー」と呼ぶほど善人では なかった。元国務長官ヘンリー・キッシンジャー(注6)は著書『外交』で「スターリンは ヒトラーとの条約でナチスと世界を分割する交渉をしてきた老かいな現実主義者であり、 粛清裁判やカチンの虐殺を組織した冷酷な偏執症の持ち主である」と断じた。 米国務省スタッフだった元ジュネーブ大学の教授ルイス・ハレーは、英仏両国が一九三 九年にドイツに宣戦布告したのも、戦後、同様に西側が冷戦に突入したのも、ポーランド を救済しようとしたことから始まったと指摘している。
冷戦が始まった(3) 【大統領の死】「スターリンとは取引できない」 米大統領フランクリン・ルーズベルトの死(注1)はヤルタ会談のほぼ二カ月後に訪れ る。ポーランドはじめ東欧移民から「ヤルタの裏切り」を非難されたルーズベルトは、一 方で、ウッドロー・ウィルソン流の「善意の国際主義者」としての評価も高かった。 「欧 州の戦争にはかかわらない」との米孤立主義(注2)の伝統の中で、米国を第二次大戦参戦 に導いたのは、紛れもなくルーズベルトの指導力だった。ルーズベルトの優雅な立ち居振 る舞いは王者の余裕を感じさせたし、時に狐のような狡智にもたけていた。 ところが、ルーズベルト外交に関する書物を何冊か読むと、経済改革のニューディール 政策での人気と対照的に、外交ではこれほど評価が分かれる人物も珍しいことが分かる。 孤立主義がまん延する米国内で、連合国側にせめて武器を提供する武器貸与法を成立さ せた功労はあったが、親ソ派の側近ハリー・ホプキンズ(注4)を通してソ連にまでその対 象を広げる矛盾を抱えていた。 《認識の甘さ》 いまとなっては、ルーズベルトをよく知る側近はすでに没した。モスク ワからの「長文電報」やソ連封じ込め論の「X論文」で有名になる元駐ソ大使ジョージ・ ケナンはルーズベルトを知る数少ない一人である。だが、彼もこの二月十六日で九十四歳 になる。 ルーズベルトはソ連に関しては、ケナンやチャールズ・ボーレンなど国務省の ロシア専門家の見解を信用せず、もっぱらソ連首相のスターリンとの「個人外交」に終始 した。ボーレンが回想記『歴史の目撃者』で「国務省の専門家の文書、覚書、ファイルに よく目を通すようになったのはトルーマンからであった」と特記するほど、国務省は無視 されてきた。 だが、あまりにスターリンの善意を期待しすぎたルーズベルトは、病弱な 上に明らかに外交行動の自由を自ら制限していた。 一九四五年二月のヤルタ会談で、ルーズベルトはチャーチルとスターリンに対して「米 軍を二年以上、欧州に駐留させることには議会が反対する」と述べていた。米国内の孤立 主義の回帰に抗しきれない側面は否定できないものの、ソ連に対する認識の甘さから当面 は米軍事力の縮小を優先させたのである。 手元のデータは、四五年から四七年に至る間に、米国の総兵力が千二百万人から百四十 万人に減少していることを示している。 だがジュネーブ大学の元教授ルイス・ハレーに よると「英国は国力が疲弊し、真空を埋める実力がなくなっていた。フランスは自分自身 が真空状態だった。残ったのはソ連だけであった。ソ連は戦後になっても武装解除をせず、 戦時体制を解かなかった」という。 米国にとっての裏切りとなるソ連の動きは、すぐにやってくる。スターリンはヤルタ合 意によってポーランドでの自由選挙を約束したものの、三月の選挙実施のための委員会で 外相モロトフ(注5)は「選挙はソ連式で行われる」と宣言した。ソ連が協定を無視するこ とがはっきりしてきたのだ。
この板には伝説ともなっている削除人はおらへんのかな?
この二日後、駐ソ米大使のアヴェレル・ハリマンから報告を受けたルーズベルトは、車 いすをたたいて悔しがった。 「アヴェレルのいうとおりだ。スターリンとは取引できな い。ヤルタ合意をすべて破った」 やがて彼は「スターリンは約束を守る人間ではなかっ た」と言い残して死地に赴く。 《退屈な日常》 神話的な地位に祭り上げられていた大統領の陰で、副大統領ハリー・ト ルーマンの日常は、退屈なものだったらしい。議会があるときは、上院本会議の議長席に 陣取って議員たちの討議ぶりを傍聴し、終わると下院議長のレイバーン(注7)のオフィス でひそかにウイスキーを飲みながら、談笑するのが常だった。 現在のアル・ゴアを含め歴代の副大統領が議会に足を運ぶのは、せいぜい年頭の大統領 による一般教書演説のさいに、議長席でさい配を振う程度しかない。しかも、この時は下 院の議長席に陣取るのが慣習になっている。 確かに上院議長席は副大統領にあてがわれてはいるが、ここに日参するほどトルーマン は政策決定から除外されていたといえる。トルーマン回顧録『決定の日々』を読むと、副 大統領としてのトルーマンは、この職務が「異例のつまらないもので、非常に不安定のも の」とのウィルソン大統領の言葉を引用しながら、自らを納得させていたようなところが ある。 さて、一九四五年四月十二日午後のこと。その日もトルーマンは、レイバーンの部屋で 一杯ひっかけてから、仲間とホテルにこもって好きなポーカーで時間をつぶす気でいた。 シークレットサービスをまんまとまいてレイバーンの部屋に行くと、「ホワイトハウスか ら緊急電話があった」と告げられた。 電話に出た報道官に促されてホワイトハウスに行 くと、大統領夫人のエレノア・ルーズベルトから突然、夫がジョージア州ウォームスプリ ングスの静養先で死去したことを告げられた。トルーマンがホワイトハウスに到着したの が午後五時二十五分、「ルーズベルト死去」の報がラジオから流れたのは、その二十二分 後であった。 《棚ぼた就任》 トルーマンは副大統領に就任してから、八十三日間しかたっていなかっ た。戦後の欧州分割を決めたヤルタ会談や、彼自身が投下を決断することになる原爆製造 計画など重要政策からは、いつも蚊帳の外に置かれていた。 『回顧録』はこの時、トル ーマンがエレノアに「何かできることがありますか」と語り掛けると、エレノアがまもな く新大統領に就任するトルーマンに「むしろ、何か私たちにできることがありますか」と 逆に聞かれたと書いている。 ルーズベルト政権の盲腸のような存在の人物が、一夜にし て世界の指導者に躍り出たのである。 大統領として宣誓したトルーマンは「私はもはや議事堂の見慣れた環境の中にはいなか った」と述べ、単なる表決が同数になったときに投票するだけの副大統領の職務から、「私 は大統領になったのである」と棚ぼた就任を「回顧録」に書き付けている。 だが、政権 を支える閣僚たちの間では、戦後処理をめぐってソ連との対立を抱える重要な時期に、「ミ ズーリの田舎者」トルーマンをよく知らないまま、不安だけが広がっていた。
冷戦が始まった!(4) 【転換点ポツダム】“戦士・トルーマン”の登場 ベルリンからポツダムに入るには、かつて東西ドイツのスパイ交換地点だったグリニッ カー橋を渡らなければならない。寒風の中を橋のたもとに立つと、ジョン・ル・カレが小 説『寒い国から帰ってきたスパイ』で描いた冒頭の情景が二重映しになってくる。 英情 報部員リーマスが、東ドイツ側の検問所を抜けてやってくる部下カルルを西側の監視台付 近で待つシーンだ。カルルは脱出寸前で身分が発覚し、真ん中の境界線付近で東ドイツ哨 兵の銃弾を浴びて倒れた。 《妥協図るも》 ポツダム宣言の舞台となったツェツィーリエンホフ宮殿は東西対立の残 像を引きずるこの橋からほんの数百メートルの距離にある。ドイツ最後の皇太子ウィルヘ ルムの別荘だった英国風のどっしりとした館で、米大統領トルーマンは「広大な敷地にソ 連側がゼラニウムやバラを赤い星型に敷き詰めていた」と回想録に記している。 拍子抜けするほど質素で小ぶりな会議場で、案内の女性ガイドがトルーマン、チャーチ ル、スターリンの米英ソ三首脳が座ったいすを指し示した。さらに窓の向こうを指して「あ の湖水の対岸は西ベルリンで、数年前までここからは見えませんでした。壁があったので す」と語り、この地がかつてソ連の影響下にあったことを強調していたのが印象的だった。 ポツダム会談はトルーマンにとって、大統領に就任して初めての巨頭会談だった。ヤル タに続いてソ連の管理下にある土地が会談の場に選ばれたのは、単にスターリンが飛行機 嫌いだったからというだけではないはずだ。トルーマンは軍事顧問の進言を入れて、自己 の考えを抑制しながらポーランド問題やドイツの処遇でソ連との妥協を図ろうと務めてい た。全体主義に強い疑念を抱くトルーマンにとって、自らの信念を百八十度曲げなければ ならない作業である。 そこまでする最大の理由は、なお死闘を続ける日本に対し、ソ連を参戦させる必要があ ったことだ。 しかし、十七日間にわたる交渉で米国は徐々に対ソ観を変えていった。ソ 連は「無情な取引者」であり、「わが方が非常な苦難に向かっているとの結論に立って、 こちらの行き詰まりに乗じて利益を得ようとたくらんでいる」とトルーマンは結論づけて いる。 その結果、トルーマンはソ連を対日参戦させたいとの考えを棚上げし、「ポツダムにお ける苦い経験から私はソ連には日本の占領管理に参加させない決意を固めた」と語ってい る。もっとも、米国にそれを可能にさせたのは、会談の途中ではるか米ニューメキシコ州 の核実験場からもたらされた原爆実験成功(注4)の知らせだった。 《過激な発言》 新大統領トルーマンの外交指導力はポツダム会談の少し前まで未知数だ った。急死したルーズベルトが東部のエリートだったのに対し、トルーマンは中西部出身 で中学校しか出ていない。しかも、ルーズベルトが副大統領に望んだジェームズ・バーン ズが労働組合の拒否にあい、やむなく選択した人物だった。
しかしトルーマンはソ連をルーズベルトほど甘くは見ていなかった。ヒトラーがソ連に 侵攻したさい、彼はニューヨーク・タイムズ紙に驚くほど過激なコメントを明らかにして いる。 「仮にドイツがソ連に勝利するようなら米国はソ連を支援すべきだし、逆にロシ アが勝利しそうならドイツを支援すべきだ。できるだけ互いに殺しあえばいいのだ」 トルーマンは「どちらも誓約した言葉を守る気などない輩だ」と続けている。さらに日 記には「私は全体主義国家を一切信用してはいない」と書いており、「冷戦の戦士」の登 場を十分に予感させている。 トルーマンは冷戦の始まりの主役であり、半世紀のちに、 冷戦に勝利する米国の封じ込め戦略(注6)の決定者でもあった。その気配は大統領に就任 した当初から垣間見えていた。 《「実行せよ」》 ホワイトハウスの斜め向かいに迎賓館「ブレアハウス」がある。橋本 龍太郎首相や中国の江沢民国家主席も泊まった、こざっぱりした館だ。トルーマンは大統 領就任からわずか十日後の一九四五年四月二十二日と二十三日、このブレアハウスに訪米 中のソ連外相モロトフを呼び出している。 トルーマンはいらだっていた。ソ連がヤルタ合意で約束したポーランドの民主選挙を実 施せず、かいらい政権をそのまま温存していたからだ。回顧録には「モロトフが本論を避 けるので、米国は友好関係を望むが、あくまで相互に合意を実施する場合にのみ可能であ って、一方的にはできないと語った」と穏やかに書いている。 しかし、モロトフが「私の生涯で、こんな言われ方をしたのは初めてです」と不満を述 べたというから、実際にはかなり強い調子だったに違いない。トルーマンの回顧録は「合 意事項を実行したまえ。そうすれば、こんな言われ方をしなくても済むのだ」と突き放し たと結んでいる。 興味深いのは、国務省の公式文書「米対外関係」所収のボーレン文書にまったくこのく だりが触れられていないことである。この段階で国務省はソ連との対決を慎重に避けてい たと見ることができる。だが、トルーマンの方は「僕は単刀直入に言ったよ。やつをとっ ちめてやった。あごにストレートのワンツーパンチが決まったみたいだったな」と後に語 っている。 しかし、そのトルーマンでさえ、戦争末期の米国の外交政策を直ちに変える ことはできなかった。頭痛の種は日本である。 ポール・ニッツェはじめ当時の国務省当局者から取材するにつけ、やり切れない思いに とらわれるのはこの点だった。日本攻略にソ連の支援を望み「太平洋に精力をつぎ込まな ければならないので、東欧の大半とバルカン半島のほとんどが全体主義者の手に落ちてし まった」との論理である。 ブラッドレー将軍はベルリンをとるとすれば米軍に十万人の犠牲者が出るとはじき、ア イゼンハワー将軍は赤軍との軍事協調をご破算にすることにはすべて反対した。 海軍長 官ジェームズ・フォレスタルの日記には、モスクワから帰った駐ソ大使ハリマンが「欧州 の半分、もしかしたら全部が次の冬の終わりには共産主義になっているかもしれない」と 訴えていたことが記されている。
冷戦が始まった!(5) 【第3の男】腐敗の巷にスパイが入り乱れた プラター地区の巨大なゴンドラは冬の雨に煙っていた。ウィーンの遅い午後、だれもい ない遊園地をトボトボ歩くと、日暮れは駆け足でやってくる。 見上げる大観覧車は一八 九七年に英国の技師、ワルター・バセットの手でつくられ、当時としては画期的なものだ った。しかし、バロック風の建築物と石畳が美しい町並みに、このウィーンの大観覧車は 不釣り合いに思えた。 《暗い過去》 その大観覧車も一度は戦災で破壊され、戦後すぐに復活して陰影の深いサ スペンスの古典的映画『第三の男』の重要な場面で登場してくる。英国人の映画監督キャ ロル・リードが、オーソン・ウェルズ演じるハリー・ライムにゴンドラの中で「悪の哲学」 を語らせるシーンで、戦後の荒れたウィーンが生々しく映し出されていた。 ハリーは水で薄めたペニシリンを闇で売りさばき、ウィーン市内で多くの犠牲者を出し た張本人だった。米国から訪ねてきた友人の作家、ホリー・マーチンスにとがめられ、眼 下にうごめく人波を指しながらこう語る。 「あの点の一つが動かなくなっても関係ない さ。一つ動かなくなるごとに二万ドルになれば、君だってあといくつあるか数えるよ。し かも、税金がかからないからこの上ない」 ペニシリンは戦後の日本で、医師の証明書さ えあれば米軍が配給をしてくれたいわば魔法のような薬だった。しかしウィーンの戦後に は、映画と同様の悲劇が現実に存在していた。 この国は一九三八年、ヒトラーの第三帝国に吸収され、ユダヤ人処刑に積極的に応じる 暗い過去を引きずっていた。後に世界的なヒット映画となる『サウンド・オブ・ミュージ ック』はウィーン併合後、ドイツ海軍に参加することを拒んだゲオルク・フォン・トラッ プ男爵をモデルに、一家(注4)がナチスの手を逃れてオーストリアを脱出するまでを描い ている。 やがて首都ウィーンは、連合軍の爆撃とソ連軍による市街戦で多くが破壊され た。いまは復元されているが、ハリーが暗躍したウィーンはオペラハウス(注5)ががれき の山と化し、荘厳な聖シュテファン大聖堂(注6)が焼夷弾で被災していた。 《共同統治》 ベルリンとウィーンという二つ敗戦都市の決定的な違いは、ウィーンが戦 後に分割占領されなかったことだ。ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三巨頭が一 九四三年にモスクワで会談したさい、オーストリアに特別の地位を与えて、ナチス・ドイ ツへの支援を渋らせるとの合意がすでに生まれていた。 従って戦後も、東西どちらかの 勢力範囲として分割する代わりに四カ国が共同統治し、米英仏ソから一人ずつが乗り込む 「四人編成ジープ」が占領軍のシンボルになった。映画『第三の男』でも、この奇妙なジ ープがこっけいな姿で描かれている場面をご記憶だろうか。 しかし、ウィーンは東西対立の深まりとともに冷戦の最前線にほうり出されていく。両 陣営のスパイが入り乱れ、闇商人の天国と化した。『第三の男』の原作者、グレアム・グ リーン(注7)自身がタイムズ紙記者を経て英国の情報部員であったことを考えると、現実 と映画とがダブってくるのは避けられない。『寒い国から帰ってきたスパイ』の英国人作 家、ジョン・ル・カレがベルン大学卒業後に短期間ながら英国情報部員として従事したの も、一九五〇年前後のウィーンだった。
『第三の男』ではオペラハウスに近いカフェ・モーツァルトやチターで奏でるテーマ曲 が、異様に張りつめた腐敗の巷を描いていた。ハリーを地下水道に追いつめていくのも、 これら占領中の国際警察であり、地下ホールの闇の世界で各国の言葉が交錯していた。 一九四五年のヤルタ合意では、共同統治は東欧に新政府ができて、外国軍が撤退するま での暫定的な取り決めのはずだった。だが戦後、一年もしないうちに東西の反目が表面化 し、オーストリアにも陰を落としはじめた。 ドイツにあるポツダム大学の教授、マンフレート・ゲーテマルカーは「四つの占領国は、 オーストリアを特殊な地位に置いたままだらだらと交渉を続け、駆け引きの中で突破口が 開かれなかった」と語った。変化の兆しが現れたのは、スターリン死後の後継争いの中か らフルシチョフがようやく地位を固めた一九五五年になってからだった。 《中立確認》 平和条約が結ばれて、ようやく占領に終止符が打たれ、オーストリアは永 世中立国を宣言した。ソ連首相フルシチョフが六〇年にオーストリアを公式訪問してこの 国の中立を確認し、名実ともに東西の中間に位置づけられたのである。 しかし、フローラ・ルイスの大著「ヨーロッパ」によると、翌六一年にはそのフルシチ ョフと米大統領ジョン・F・ケネディが中立国の首都ウィーンで会談したものの、かえっ て両者の緊張を生むことになる。 東西の対決ムードが高まり、おびえた東ベルリン市民が難民となって西ベルリンに洪水 のようになだれ込んだ。その結果が一九六一年八月のベルリンの壁の構築につながり、ル イスは「オーストリアはこの新しいもめごとに何とか巻き込まれずにすんだ。この国は中 立のありがたさを思い知った」と書く。その筆さばきは万事うまくすり抜けてきたオース トリアという国を冷ややかに見ている。 ポツダム大学のゲーテマルカーは、オーストリアが常に欧州の過酷な歴史の中心にあり、 プロイセンとロシアに挟まれていたオーストリア・ハンガリー帝国(注8)が崩壊して「分 裂した東西の中間という特異な地位を築くしかなかった宿命を非難はできない」と語る。 欧州の真ん中にあって、政治的には柔軟に禍を避けながら生き抜くしかなく、ハプスブ ルク家のきらびやかな帝国は、建築様式や映画や音楽の中でだけ生き続けている。逃走中 のハリーが消えたアム・ホーフ広場の広告塔は、いまも石畳の上に変わらぬ姿を見せ、世 の転変を映してきたように思えた。
冷戦が始まった!(6) 【鉄のカーテン】小さな大学が歴史の舞台になった 長い間、フルトン(注1)を訪ねてみたいと考えていた。連合国を勝利に導いた戦略家ウ ィンストン・チャーチルが人々に「次に迫り来る危機」を明確に位置づけたのが、この米 中西部の大学町だったからだ。 英国の前首相チャーチル(注2)が、なんでちっぽけな町 を選んで有名な「鉄のカーテン」演説をぶったのか。そんな疑問もあって、いつのころか らか、冷戦の起点の一つとしてのフルトンが、心の隅を占領していたように思う。 《公然の事実》 地図を広げてみると、フルトンは北米大陸の真ん中からやや東寄りのミ ズーリ州にある。セントルイスで乗り換えた小型機が暴風雨に巻き込まれて引き返したた め、クルマを転がしながらフルトンの町にたどり着いた時には午前零時を少し回っていた。 町にはホテルもなく、小奇麗な民宿風のカントリーインがぽつんと一軒あるだけだった。 チャーチルが演説したのは、歩いてわずかな距離のウエストミンスター大学の体育館で ある。大学といっても学生総数はわずか六百人。当時はもっと少なく、「五百人だったわ」 とチャーチルの演説を最前列で聞いたヘレン・ダヌーザー(八三)が教えてくれた。 しか し、この大学にはその後、数多くの人が訪ねてくるようになった。九六年三月にチャーチ ル演説から五十周年を迎えるまでの半世紀の間に米国のレーガン、ブッシュ両大統領、ソ 連のゴルバチョフ大統領、サッチャー英首相ら多数の指導者がここで演説している。ちな みに、サッチャーが参加した五十周年記念式典のキャッチフレーズは「鉄のカーテンから 鉄の女まで」とパンチがきいていた。 キャンパスに建つ小さなチャペルの地下にチャーチル記念館事務局長ウォーレン・ファ ーラーを訪ねた。ここに掲載するのは、ファーラーが「欲しかったのはこれですね」と提 供してくれた演説原稿のコピーの一部である。 米国を訪れたチャーチルが一九四六年三月五日に行った演説の「鉄のカーテン」のくだ りに当たる。演説風景はビデオにも残されていて、愛称そのままにブルドックのような顔 のチャーチルが登壇してくる。 「ごく最近まで連合軍の勝利という火に照らされていた情景に、一片の影が落とされた。 ソ連とその国際共産主義組織が近い将来何をたくらんでいるのか。またその布教者のよう な拡大傾向を防ぎうるかどうか、知る者はいないのだ」 チャーチルのソ連批判は極めて率直、かつ辛らつだった。その上でチャーチルは、手で 大きく空を切りながら「バルト海のシュテッティン(注3)からアドリア海のトリエステま で、欧州大陸を横断する鉄のカーテンが降ろされた」とソ連の拡張主義に警鐘を鳴らした。 「中欧および東欧の古くからある国々の首都は、すべてその向こう側にある」 チャーチルはこの演説により、米ソ冷戦を公然の事実として宣言した。米国の政策担当 者が心の中で思い悩みながら、あえて公言するのをはばかっていた事実を演説はズバリと 表現していたのだ。
>沢井さんも落ちたね! >荒らしに蹂躙されて恥さらし。 だからageてやるよ
《新たな戦略》 欧州から遠く離れた米国では、まだ国民の間に戦勝気分が抜けていなか った。チャーチル演説は、その気分に水をかけてソ連との間に冷たい戦争が進行しつつあ る事実を公に知らせる意図が込められていた。 「ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィ ーン、ブダペスト、ベオグラード、ブカレストそしてソフィア。これらすべての有名な都 市と人々はソ連圏と呼ぶべき圏内にあり、ソ連の影響を受けているばかりか、モスクワか らの直接支配も極めて高く、ますますその度を深めている」 古びたタイプ文字の原稿をよく見ると、ところどころ自分のペンで手を加えたと思われ る部分がある。その一つ、「と呼ぶべき圏内」の挿入は「ソ連圏」を強調する効果を高め ていた。ソ連がいかに独自のブロックを築いているか。チャーチルがこの演説で、それを 強く訴えたかったことが理解できる。 そしてチャーチルは、軍事力を重視しているソ連 に対抗するため、米英が協調して同盟関係を強化すれば、「欧州の勢力均衡が崩れて不安 定になることが避けられ、野心と冒険心を誘うという事態にならない」と新たな危機に対 応する処方せんを描いている。 この時すでに、国務省にはモスクワの駐ソ代理大使ジョージ・ケナンから、ソ連の西側 への敵意が共産主義と伝統的な拡張主義によるものであると分析する「長文電報」が届い ていた。チャーチルはこれをさらに明確化させ、米英同盟によってのみ事態は克服できる と新たな対ソ戦略を提示したのだ。 《名指し攻撃》 政府部内だけの私的な分析が、政治色を帯びて公の場に持ち出された。 チャーチルは一年前の選挙で敗れ、公職を退いていたため比較的、自由に発言できたとい う側面はある。ソ連を平然と名指し攻撃し、「鉄のカーテン」という象徴的な言葉をはじ めて使った。 演説会場にいた随行の米大統領法律顧問クラーク・クリフォード(注5)は回想録で、「事 前に読んでいた草稿よりも、実際の演説の方が鉄のカーテン部分がより力強く感じられた」 と印象を語っている。 しかし、前列で聞いていたヘレン・ダヌーザーやウエストミンス ター大学の卒業生、ボブ・ガサリー(七七)のような米国の「普通の人々」には、米英同盟 の重要さを訴えた演説との印象だけが残ったようだ。 目撃者のリストから電話をすると、チャーチル記念館まで来てくれたガサリーは「米国 人は戦争に疲れていて、もはや次の冷たい戦争を聞く耳はもっていなかった」と述べた。 またダヌーザーは「ことの重要性に気付いたのは、後のことだった」と正直に語った。 チャーチルが「鉄のカーテン」のレトリックで指摘した「次の危機」の認識は、フルト ン発の新聞報道と社説によって徐々に広がっていった。しかし、この時点ではチャーチル 演説が「ソ連との戦争を誘発する可能性があり、米国にはもはや同盟国はいらない」(ウ ォールストリート・ジャーナル)とする孤立主義の中に閉じこもりつつあったのだ。 当時の米国内の反応について元国務長官ヘンリー・キッシンジャーは著書『外交』で「予 言者が彼らの母国で称えられることが滅多にない理由は、彼らの役割が同時代人の経験や 想像を超えることにあるからだ」と述べ、チャーチルの先見性をたたえている。
ウィンストン・チャーチルの歴史的な「鉄のカーテン」演説が飛び出すきっかけをつく ったのは、ウエストミンスター大学の学長フランク・マクルアーのちょっとした思い付き だった。米ミズーリ州フルトンにある同大学の教授ビル・パリッシュによると、こんない きさつで話は進んだ。 《強力なコネ》 たまたまマクルアーの友人で、ウエストミンスター大学のフットボール 選手だったハリー・ボーンが大統領補佐官としてホワイトハウス入りしており、しかも大 統領は大学のあるミズーリ州の出身だった。チャーチルなど世界の大物に特別講義を依頼 する構想を持っていたマクルアーは、コネクションを最大限に使うチャンスだと考えた。 早速、マクルアーはワシントンに同窓生だったボーンを訪ね、ちゃっかりトルーマンに 取り次いでもらう手続きをとった。 トルーマンの行動も早い。「チャーチル招請」の提 案を受けると、彼はマクルアーが用意したチャーチルあての招請状にペンで書き添えた。 「これは私の出身の州にある素晴らしい大学です。あなたが招請に応じるよう期待しま す」 ここに掲載した招請状の左下のペン字が、トルーマンの添え書きとサインである。 依頼した演説テーマは「国際情勢」と漠然としていたが、このヒョウタンから歴史的な「鉄 のカーテン」という駒が出る。 チャーチルは一九四六年二月に米南部フロリダの旧友宅に滞在する計画があったことか ら、二つ返事でこの依頼を受けた。強力なコネが成功のカギを握っていることは古今東西、 変わらない。 フロリダからやってきたチャーチルは、トルーマンに会うと、「世界の平 和維持のために米英の軍事的な協調が必要であることを訴える」と述べた。 トルーマンとチャーチルは三月四日、特別仕立ての列車でワシントンを発ち、セントル イスに向かった。伝記作家のデビッド・マカラは、大統領が「世界で最も有名な演説家と いっしょに故郷ミズーリの大学に乗り込めることで、とてもご機嫌だった」と伝記『トル ーマン』に書いている。 トルーマンは車中で得意のポーカーゲームにチャーチルを引き 込み、英国紳士が吸う葉巻の煙の中で午前二時半まで延々と興じた。トルーマンは結局、 「一癖あるはず」と思っていたカードの相手から七十五ドルを巻き上げることに成功した。 現職大統領対前首相という米英首脳のまれにみる大ばくちであった。 《素晴らしい》 翌朝、列車がミズーリ川を渡るころ、チャーチルは演説原稿に最後の手 を入れた。チャーチルは「自己の過去の演説の中で、もっとも重要なものになる」と述べ たという。随行スタッフや同行の記者にも事前に演説原稿が配布された。随行した大統領 法律顧問のクラーク・クリフォードは、草稿の内容を国務長官バーンズから説明されたト ルーマンが「文句なんかあるもんか。素晴らしいじゃないか」と感嘆を漏らしたことを回 想録に書いている。 ところが、この「素晴らしい」はずの演説が、やがてトルーマンの狭量さを暴露するこ とになる。
セントルイスからオープンカーでフルトン入りしたチャーチルは大学が近くなると小高 い丘の上でリムジンを止めさせ、風を避けながら葉巻に火をつけた。「人々が彼の葉巻姿 を見たがっているのをよく知っていたからだ」とチャーチル記念館事務局長ウォーレン・ ファーラーは解説する。 学長のマクルアーらと食事をしたあと、チャーチルは会場でト ルーマンから紹介を受けた。このとき、トルーマンは「世界に向けて建設的な提言をする ことになる」と期待を表明している。 チャーチルは「鉄のカーテン」のレトリックでソ連の拡張主義に警鐘を鳴らした。ワシ ントンから同行した四十三人の記者には、背後に座るトルーマンがこの見解に同意してう なずいているように見えたという。 ところが、演説に対する新聞の論評には、「困難な 米ソ関係に毒を盛るようなもの」とチャーチル批判が渦巻いた。著名なジャーナリストの ウォルター・リップマン(注1)は「天変動地の大失策である」と非難の言葉を浴びせた。 当然ながらスターリンは「ソ連との戦争を望むのか」と激しく反撃した。 あわてたのはトルーマンである。彼はワシントンに戻ると、事前に熟知していたのに「チ ャーチルが何を演説するかはまったく知らなかった」とうそぶいたのだ。その上でトルー マンはスターリンに同じ州のミズーリ大学で演説するよう招請状を出して、あっさり断ら れる始末だった。 《親ソ派排除》 チャーチルの予言に西側は、直ちに対応できなかった。この間にも、東 欧はソ連の「勢力圏」として徐々に確立されていった。戦後の二年間でユーゴスラビアと アルバニアがまず共産党独裁を打ち立てた。ブルガリアやチェコスロバキアなど五カ国で は、他政党も残ってはいたが、共産党が最強の地位を確立してやがて衛星国となった。 しかし、米政府の中では着実に変化が起きていた。駐ソ大使だったアヴェレル・ハリマ ンはチャーチル演説を支持し、リーヒ提督(注2)、フォレスタル海軍長官、アチソン国務 次官(注3)らが同様の考え方を示した。 元国務長官キッシンジャーに言わせると「スターリンは彼の立場を押し付けすぎた」よ うなのだ。ソ連軍は東欧や中東の各地で撤退期限を無視し、中東では国連の安保理に非難 されてからようやく動いた。八月にはユーゴスラビア軍が米輸送機二機を撃墜した。 この事態に、米国とカナダは対空対潜共同防衛システムを完成させ、米英空軍が戦略に 関する協議を開始した。スターリンの力の政策に米国民の意識も徐々に変わり、五月の世 論調査では、チャーチルの米英軍事同盟の考えに八三%が賛成している。トルーマンも政 府部内の親ソ分子排除に乗り出し、七月にはスターリンに親近感を示すチャーチル嫌いの 商務長官ヘンリー・ウォーレス(注4)の首を切った。 チャーチルはポーカーでトルーマンに七十五ドルも巻き上げられたが、「それだけの価 値があった」と満足げだった。さらに十月には「私がフルトンで行った以上のことが実行 されている」と語るまでになっていた。チャーチル演説の直後に頭をもたげかけていた米 国の伝統的な孤立主義の影が、ようやく晴れてきたのである。
沢井最高
ジェネリックと呼べるのは沢井製薬だけ
冷戦が始まった(8) ---【長文電報】 駐ソ代理大使は「不屈の抵抗力」説いた 「対ソ冷戦」戦略の生みの親、ジョージ・ケナンが目の前にいた。 一九〇四年二月十六日生まれだから、この原稿が掲載されているときには九十四歳にな っている。ケナンこそは、東欧に進出して仮借ない共産化をはかるソ連との対決理論「封 じ込め政策」を打ち出した米外交界の巨人である。彼が構築した外交思想は冷戦期を通じ ておよそ半世紀の間、米国の政策に脈々と生き続けることになる。 《政策転換》 つえを突き、補聴器に頼ってはいるが、背筋をピンと伸ばしてすこぶる健 康そうに見えた。元政府高官が名を連ねる米外交アカデミーから「外交優秀賞」が授与さ れることになり昨年十二月三日、ワシントンのマディソンホテルにアナリス夫人と出席し ていた。 ニュージャージー州に住むケナンは、いまも自宅から近くのプリンストン高等 研究所(注1)に通う毎日だと聞いた。外交アカデミーの事務局スタッフは「ケナン夫妻は プリンストンから列車でいらしゃったんですよ」と、その頑健ぶりに驚きの表情だった。 あいさつのあと、フロアに降りたケナンは旧友の元司法長官エリオット・リチャードソ ンと握手を交わし、冷戦後の外交官の役割がいかに後退してしまったかを嘆いた。彼の執 筆意欲はなお衰えず、昨年も外交誌「フォーリン・アフェアーズ」の九、十月号に「外交 官なき外交」を寄稿して、この議論を展開したばかりだった。 ケナンと並んで写真を撮ることを求めたのは、国務省で最近まで朝鮮半島問題を担当し ていたロバート・ガルーチ(注3)だった。彼が一段と若く見えたのは、ケナンが在モスク ワ米大使館の代理大使だったころに生まれたことを考えると当然なのかもしれない。 ガ ルーチが生まれたわずか十一日後の一九四六年二月二十二日、ケナンはモスクワから米外 交の政策転換を促した「ロング・テレグラム(長文電報)」を打っている。この公電でケナ ンはトルーマン政権の対ソ戦略の理論的な裏付けを提供し、「封じ込め戦略」を打ち出す 基礎を築いた。ガルーチはいってみれば「冷戦ベイビー」なのである。 米中央情報局(CIA)(注4)が最近まとめた報告書「ソ連の脅威−冷戦初期」のページ をめくると、一九四五年の十一月ごろからスパイ網を通じて東欧諸国内で異変が起きてい ることがCIAの前身、戦略情報局(OSS)に次々に報告されていたことが分かる。 日本降伏から二カ月後には、ハンガリーの共産政権の独裁ぶりが表面化し、アルバニア で共産主義者が首相に就任し、ブルガリアで共産政権ができるように仕組まれた選挙があ ったことなどが報告されていた。背後には常にソ連の影があった。 この情報を受けて西側が足並みをそろえて防衛することを提言していたのが、CIA生 みの親であるOSS局長ウィリアム・ドノバンだった。 さらに明けて一九四六年一月五日、モスクワの外相会議から帰国した国務長官バーンズ の報告を受け、トルーマンは「これ以上、妥協すべきではない。ソ連にちやほやするな。 もう、うんざりだ」とはき捨てるようにいった。
《公電の意義》 こうしてワシントンの政策決定者たちが、いらだちを募らせていた翌二 月二十二日、モスクワの米大使館にいるジョージ・ケナンからタイミングよく八千語にの ぼる長い公電が国務省に届いた。後に「長文電報」といわれた報告でケナンは、米ソの摩 擦の原因が、単に両者の誤解からくる擦れ違いなどではなく、ソ連に内在する拡張主義と 共産主義イデオロギーにあるのであって「不屈の抵抗力」で対抗する必要があると説いた。 ケナンは共産主義の過酷な教義が独裁制やそこから来る残酷さをすべて正当化し、「対 外的な安全保障を確保するために自国を軍事大国のひとつにまで押し上げてきた」と分析 した。 その上で「世界の問題に対するクレムリンの神経症的な見方の根底には、ロシア の安全保障に対する伝統的かつ本能的な不安感が存在している」と断じた。その結果、国 際社会との協調の余地がなくなり、「ほかの国を破壊することしかない」と、その危険性 を見抜いていたのだ。 米国はただちにソ連との長期の闘争を準備しなくてはならないとケナンは結論づける。 ソ連に抱いていた違和感から、危険なにおいをかぎ取りはじめていた政策決定者たちは、 この公電でソ連の脅威を具体的に突きつけられた格好だった。 後に北大西洋条約機構(N ATO)司令官になるアンドリュー・グッドパスター(注5)は陸軍省の戦略局スタッフと して、この公電コピーを渡されたという。現在、大西洋評議会の会長の地位にあるグッド パスターは「当時、だれもが漠然と考えていたことが明確に定義付けられた。暗がりにラ ンプがともったように、一気に理解が深まった」と公電の存在意義を語った。 《ソ連の占領》 第二次世界大戦の終了間際から始まる米外交史上もっとも外交思潮が混 乱した時期に、ケナンは揺るぎない一本の鋼鉄をぶち込んだのである。 ケナンの公電は、 たちまち米政府部内にセンセーショナルな反響を呼んだ。とりわけ興味深いのは、陸軍と 海軍の現場でケナンの対ソ警戒論に対する受け取り方の違いが鮮明だったことである。 帰国していた駐ソ大使アヴェレル・ハリマンは、以前からソ連共産主義の危険を話し合 っていた友人の海軍長官ジェームス・フォレスタルに公電を手渡した。さっそくフォレス タルは、トルーマン大統領はじめ国務省、三軍の高官らにコピーを配り、とりわけ空母を 主体とする海軍力強化を進める海軍にケナンの公電は歓迎された。 だが陸軍は、ドイツ進駐の米軍司令官ルシアス・クレイ(注6)のように、この段階では 「米国を巻き込もうとする英国の戦術に巻き込まれるだけである」との認識が根強かった。 しかし、一九四五年にドイツ崩壊で欧州の勢力均衡が崩れ、戦争が終わってみるとソ連 軍は東欧という緩衝地帯のほぼ全域を占領していたという事実が目の前にあった。この現 実を前にケナンの公電は米国のソ連対処の基軸となり、やがてトルーマン政権の具体的な 新戦略に練り上げられていく。
冷戦が始まった!(9) 【X論文】米国民の対ソ観が変わった 米国の「冷戦戦略」の生みの親、ジョージ・ケナンの対ソ警戒論は、トルーマン政権内 で初めから歓迎されたものではなかった。 元大統領補佐官(軍備管理担当)のポール・ニ ッツェにワシントンで会ったさい、彼が国務省スタッフだったころの興味深い話を教えて くれた。 《宣戦布告だ》 まだ対独戦争が激しかったころのこと。ワシントンからニューヨークに 向かう列車の中で、ニッツェは偶然、ケナンと出会った。初めてじっくり彼の対ソ観を聞 く機会の到来だった。ところが、そのケナンが「国務省の幹部が私の見解に耳を貸さない のだ」とグチっていたことをニッツェはよく覚えている。 しかし、海軍長官ジェームズ ・フォレスタルだけは別で、駐ソ大使アヴェレル・ハリマンの話を通してケナンに理解を 示していた。一九四六年二月九日のスターリンによる演説内容を検討して「これは米国へ の遅れた宣戦布告だ」とニッツェに明快に語っていたほどだった。 しかし、国務省の主流である国務次官のディーン・アチソンは、ニッツェに対し表向き は「ナンセンスだよ、ポール」とフォレスタルの過剰な対ソ警戒感を退けた。だが、賢明 なアチソンは、その一方でソ連専門家の見解をすぐ聞く必要があると判断してケナンと並 ぶ国務省のソ連専門家チャールズ・ボーレン(注1)に取りまとめを指示していた。 興味 深いのは、後に米外交界の輝かしい理論家となるケナンが、実はこの時、外交官をやめる かどうかの瀬戸際に立っていたことである。トルーマンの外交顧問たちを描いた大著『ワ イズ・メン』によると、ケナンは大使館のベッドで「石にでも報告しているようで、だれ も聞いてくれない」とふて寝していたというのだ。友人のボーレンは「いい加減にしろ」 としかり飛ばしていた。 ケナンがすねたまま辞職でもしていたら、米国の対ソ外交戦略 の転換が遅れ、封じ込め戦略も生まれなかったかもしれない。 《関心と無視》 その日は祝日で、大使館も休みだった。アチソンの指示もあってケナン は自分の考えを巡らせていた。そして、たまたま手にした駐ソ大使ハリマンの書類の束に、 自分がこれまでせっせと書いてきた公電が残されていたことが分かった。 ハリマンはケ ナン理論を理解してくれてはいたが、直接、国務省に送っていたかどうかは疑問だった。 突然、ケナンの意欲が呼び起こされた。しかもハリマンは、米国に一時帰国していて留 守だった。 ケナンはすぐ秘書を呼んだ。独自のソ連分析がほとばしる言葉の連射となっ て文章化され、八千語にのぼる長文電報がまもなく、ワシントンに送られた。 ケナンの孤立感と疎外感はその後も時折頭をもたげる。彼は後年、回顧録で「ここ数年、 ワシントンでの私自身の役割について最大のミステリーは、四六年のモスクワからの公電 やその後のX論文の場合のように、ある場合は異常なほどの関心が払われ、他の場合には まったく無視されることだ」と述懐している。そして、理論内容より国内の政治的な事情 にその原因を求め、彼らしく「ナイーブなのはほかならぬ私なのだ」と自己分析している。
もっと明るい話題の荒らしにせよ
興味深いのはケナンがワシントンに「長文電報」を発信していた同じころ、駐ソ英大使 館の外交官フランク・ロバーツがほぼ同じ結論の公電を本国に三本立て続けに打っていた ことである。ケナンの公電が二月二十二日、ロバーツのそれは三月十四日からだった。 冷戦研究を進めているアメリカン・エンタープライズ研究所の研究員ジェフリー・スミ スが、九十一歳になるロバーツから数年前に聞き取り調査していた。スミスによると、ケ ナンとロバーツはモスクワで活発な交流があり、互いに影響し合っていたという。 「ロ バーツはソ連に対してより強硬であり、英国人らしく歴史的な視点から議論を展開してい る。ケナンはよりアカデミックな視点から対ソ観の枠組みを描いていた」 しかし、本国政府への影響力には格段の違いがあった。英国ではチャーチルと、その後 継首相アトリーら首脳がソ連の危険性を十分認識していて、ロバーツ報告はソ連の実態を 「確認」する役割を担っていた。これに対し、ケナン報告は米政府の対ソ観に「変化」を 促していたのである。 変化は確実に醸成されつつあった。当時、国務省スタッフだった ルイス・ハレーはケナンの報告に対する反応が「即時、かつ積極的であった」と述べ、「探 していたものを見いだしたという感じが広がった」と省内の雰囲気を語った。公電のコピ ーは瞬く間に省内に配布され、比較的、関係の薄いラテン・アメリカ担当にまで手渡され たとハレーは苦笑する。 《立ち上がれ》 チャーチルの「フルトン演説」と前後して作成されたケナン報告は、第 二次大戦の戦火が収まった後、くすぶり始めた新たな脅威と挑戦に対抗する基本文書にな った。この公電が認められ、まもなくケナンはワシントンに呼び戻されて翌四七年に国務 省に創設された政策企画局の初代局長に就任する。 いったん火がついたケナンの意欲は外交誌「フォーリン・アフェアーズ」四七年七月号 に掲載された有名なX論文として昇華していく。論文は「ソ連の行動の源泉」と題し、筆 者は「X」と記されていた。 長文電報はトルーマン政権に影響を与えたが、この論文はさらに広く米国民の対ソ認識 に衝撃を与えた。X論文の執筆をケナンに勧めたのは海軍長官フォレスタルであった。 最初のケナン報告と異なるのは、対ソ「封じ込め」という新しい言葉を使い、「十年か ら十五年間」にわたって有効に封じ込めれば、ソ連の脅威は異なったものになると大胆な 予測をしていることだ。「ソ連の拡張傾向に対する米国の長期的で忍耐強い、かつ確固と した封じ込め政策がその中心でなければならない」と指摘し、米国が難局を迎えて立ち上 がることを求めていた。 ケナンは同時に、ユーラシアの大国であるソ連の周辺地域のいたるところで、米国が紛 争や摩擦に耐え抜くことを強いた。それは、ソ連がすべての封じ込めラインから打って出 るのを防戦する受動的な戦略であり、米国の軍事的優位が保てなくなれば、とたんに崩れ る性格を持っていた。 実際、ソ連の崩壊には、ケナンが予言した十五年どころか、およ そ半世紀を待たなければならなかったのである。
「ホモサピエンスからホモファーベルへ」進化する人類 97年の「日本文化デザイン会議」で、立花隆氏は、「日本文化デザイン大賞」を受賞した。 受賞理由は、「現在を素手で掴み捕りし、その場で自家製物差しを当てて寸法を測るとい う力業」(選考委員・川崎徹氏)に対してであった。授賞式の翌日、記念講演が行われた。 昨日(11月7日)の授賞式で少し触れたのですが、ぼくはたまたま最近、「デザイン」 ということについて考えていたので、今日はマクロに見た「人類史におけるデザインの意 味」というようなことをお話ししたいと思います。 日本では一般にデザインというと、衣装とか図案とか、いわゆるカタカナの「デザイン」 のイメージで考えられていますけれども、デザインの本来の意味は実は「設計」なんです。 設計であり、かつ「計画すること」をいうわけです。デザイナーというと、日本のデザイ ナーはいわゆるデザイナーのことになってしまいますけれども、むしろ「設計家」とか「計 画家」とか、そちらのほうが本来の意味になるわけです。 人間の現在 : ぼくは学校(東大教養学部)で、「マクロの人類史」について語るとい う内容の「人間の現在」という講義を2年間くらいにわたって続けていますが、マクロの 人類史をひとことで総括すると、“ホモサピエンスからホモファーベルへ”という、この 流れが人類史の一番大きな流れではないかと、ぼくはわりと語ってきたんです。 道具をつくる猿 :「ホモサピエンス」というのはヒトのラテン語名ですけれども、こ れは「知る人」という意味で、類人猿のなかで特に知恵に優れたサルをさしていったわけ です。それ以外に「ホモファーベル」という言葉がありまして、「ファーベル」はラテン 語で「つくる」という意味なんですけれども、要するに「つくる人」と。人間というのは そもそも何なのかという人間の定義づけを求めたときに、知る能力というものに着目する のではなくて、むしろつくる存在、つくるサルという、そちらのほうが人間のより本質的 な部分なんじゃないかということをいったわけです。 どういう意味で「つくる人」なのか、「ホモファーベル」というのはどういう意味なの かといいますと、原義は「道具をつくる」ということなんです。つまり、サルのなかで道 具をつくるという能力を獲得したのが人間だということなんですね。 食物連鎖の外へ : 実はチンパンジーも、道具を使っていたという事実だけがはじめに 発見されていて、後にだんだん、自然物を道具として使うだけでなく、その他にいろんな 道具をつくっていたんだということがわかってきました。わりと最近なんですけれども、 ホモファーベルだけじゃなくてチンパンジーファーベルみたいのもあるんだということが わかってきた。
チンパンジーは人間より前からつくる能力を持っていたことがわかってきたんですけれ ども、基本的には本格的な道具をつくる能力はヒトしか持っていないし、またそのことに よってヒトというものは、進化上、独特の地位を獲得したわけです。 それはどういうことかといいますと、道具をつくる能力を身につけたことにおいてヒト は、もともとあった進化上の生物界の位置の外へ出ることができたということです。 そ ういう、自然の生態系のなかでもともとヒトに与えられた系の外へ出たということは、い ろんな意味があるわけですけれども、ひとつは「食物連鎖」。生態系というのは全部、食 物連鎖の系になっているわけですけれども、その外へ出たということです。特にモノを食 う能力を拡大することにおいて食物連鎖の外へ出たわけです。 それはひとつは、狩猟とか農業のために使用する、食糧そのものを獲得する道具をつく り出して、それを利用したということです。 もうひとつは、食性を拡大できたわけです。 要するに食い方の工夫です。料理とか火を使うとかいうことによって、道具を一切使わな い火も使わないという、裸の原始人がいた生態系の中の位置と全然違うところへ行けたわ けです。 ヒト・プラス道具系: もうひとつは「ニッチの拡大」。「ニッチ」というのはその生物 に与えられた生態系上の位置づけです。道具のうちで衣とか住にかかわる能力、つまり、 服を着たり屋根があるところへ入ったりすることによって、自然状態ではとても生活でき ない空間、温度ひとつとっても少し寒いところへ行ったりとか、いろんなことができるよ うになったわけです。そういうことによって生態系上の生息空間というものを拡大したのです。 この二つの能力を身につけることによって、人間というのはとんでもない進化を始めた わけです。それまでのヒト以外の生物は全部、その生物が持っているもともとの、オリジ ナルな能力によって獲得した生物界上のある地位にいたわけです。 ところが、ヒト・ プラス道具というひとつの系になって、その系がそのまま仮想的に進化するという形で、 生態系上の独特の位置づけを持った存在に変わっていった。つまり、ヒトはヒト・プラス 道具系となることによって、自然人ではなく人間になった。それは「ヒトプラス」という 存在であるということなんです。 そのプラスの部分がどんどん拡大を続けていったというのがヒトの歴史といえるわけで す。 そのプラスの部分が、最初は単なる道具であったわけですけれども、更に、道具を 使ってつくるものと進化していきます。単にヒト・プラス・道具ではなくて、ヒト・プラ ス・モノという形で更なる進化を遂げた。つまり、ごく初期のヒト・プラス・道具では、 人間が持っているオリジナルな能力の一部、たとえば手足とか、大変に素朴な能力を少し 拡大しただけであるけれども、それがヒト・プラス・モノとなることによって、単なる生 命体として以上に……要するに文化進化というレベルに入っていったわけです。
複雑化・意識化 : テイヤール・ド・シャルダン(Teilhard de Chardin=ミズーリ州立大 学のデータベース)というフランスの有名な進化論学者がいった有名な言葉に、「進化の 歴史はひとことでいえば複雑化・意識化の法則に従っている」というものがあります。あ らゆる生物の進化というのは、より複雑になり、より複雑になることによってある意味で 意識化という過程を経るようになっていったと。それが生物進化で、その頂点として人間 があるんだということをいっているわけです。つまり、もともとはヒト・プラス・道具系 であったのが、ヒト・プラス・モノ系になって更なる進化を遂げたという形になるわけです。 生得機能の拡大と増大 : その「ヒト・プラス・モノ」文化進化のほうを考えると、そ の複雑化という過程がどういうふうに進行していったか。 まず、単純なモノをつくるんじゃなくて、モノでモノをつくるという、非常に複雑なモ ノ、つまり複合物をつくるという形で、複雑化のひとつの過程が進行しました。 更に、 それまでの単純な道具では足りず、道具をつくる道具をつくるという形でハイレベルの道 具をつくることによって、更に複雑な耕作を可能にし、その複雑な耕作によって複雑なモ ノをつくり、そのモノを組み合わせて更に複雑にするという、そういう過程を経ていった わけです。 それで、道具をつくる道具でつくり出したモノ、モノを更に複雑に組み合わせるという その過程で人間は何を獲得していったかというと、人間が本来持っている生得機能という ものをいろんな意味で拡大し、増大していった。拡大というのは領域を広げたということ で、増大というのはひとつひとつの領域におけるパワーをアップしていったことですね。 どういう生得機能を拡大したかというと、ひとつは、人間の持っている感覚能力そのも のをどんどん拡大するという過程にきているわけです。我々はいま、いろんな感覚能力を 行使しているけれども、オリジナルな感覚能力だけでやっている部分というのは実は結構 少ないんですね。個人のレベルだとオリジナルな能力しか使っていない人が多いですけれ ども、人間がつくり出す文化全体を考えると、この能力をものすごい拡大しているわけです。 飛躍的に拡大した感覚能力 : たとえば、「見る」ということ。個人だとせいぜいメガ ネを使うぐらいですけれども、人間全体がやっている活動でいうと、顕微鏡も使うし望遠 鏡も使うし、顕微鏡のなかでも電子顕微鏡を使うとか、あるいは、人間が本来持っている 感覚では可視光線の領域しか見えないけれども、それをX線でも見る赤外線でも見る何線 でも見るという具合で、人間は普段は電磁波のこれぐらいの領域しか使ってないけれども、 道具によって、スペクトル全体を使って見るということがいま可能になっているわけです。 それは視覚だけではなくて、ほかの領域でも、人間の感覚能力というのは全面的に拡大し ています。
それから、人間が本来持っているいろんな力も、最初はテコの力とか、その程度の拡大 であったけれども、産業革命以後、機械的な力を使うことによって、人間の使う力という ものは、パワーそのもの、つまり強度において強くなっただけではなく、より複雑な、精 密な力を出すことが可能になったわけです。だからいま、ミクロン(100万分の1)単 位どころかナノメーター(10億分の1)オーダーの精度で精密加工をすることまで可能に なっています。 コンピュータが知力を増大 : それだけではなくて、現代文明の発達は、知力の発達と いう方向にも向けられた。それは主として現代のコンピュータの発達によるところが大き いのですが、コンピュータを使うことによって人間というのは、単に計算能力だけでなく、 メモリー能力とかいろんな形で、持っている知力というものを全方位的に拡大してきたわ けです。 更に、いわゆる情報革命。現代の高度な技術文明以前のものにコンピュータをプラスす ることによって、それが二次的、三次的に増大していく。最近の技術の最先端というのは、 いま、本当に恐るべき広がりを見せつつあるのです。 集団としての進化 : そういう面で人間がする仕事というのはどんどん拡大してきたん だけれども、もうひとつ更に違う面での複雑化というものが出てきている。それは、ホモ ファーベルが単体としてでなく集団となって、つまり、つくる人を集めてつくると。そう いう能力を人間はどんどん拡大してきたわけです。単に個人がホモファーベルの能力を高 めるというだけでなくて、集団として製作していくという集団的な製作能力です。単にあ るグループでやるというようなことでなくて、あるモノをつくることを、非常に組織的に 集団をつくって、しかも製作という行為を組織的にやる。単純な集団よりちょっと上がっ た強力な組織をつくって、それがやっていくという、つくる能力を更に広げたわけです。 それが今度、単なるある目的で集まった組織ということじゃなくて、わりと社会全体が 協力しあってあるモノをつくるという行為をいろんな形でやる。それが複合するという形 で変わってきたわけです。つまり、テイヤール・ド・シャルダンのいう複雑化・意識化が、 ホモファーベルの集団によって社会がつくられることによって、社会レベルで進行すると いう形になったわけです。
「ホモファーベル」のつくった文明 だから、このすべてをいいますと、結局、いま我々が持っている文明というものは基本 的に、ホモサピエンスがつくったものというよりはホモファーベルがつくってきたものな わけです。 ホモファーベルがつくったもの全体は「人工物」といういい方をすることができると思 うんですけれども、文明というのは要するに人工物によってつくられていて、いまはまさ に人工物の時代なわけです。いまこの会場でちょっとあたりを見回すと、このなかには、 オリジナルな、もともとの、マザーネイチャーの自然物というのはほとんどないですよね。 ほとんどが人工物なんです。 つまり、よく環境というときにすぐみんな自然環境のことを問題にしますけれども、人 間の持つ環境の主要部分というのはいまや、ほとんど人工物になっているんです。だから、 人間の社会とか環境とかいう問題を考えるときには、まず人工物というものを非常に大き なカテゴリーとしてきちんと考えていかなきゃならないわけです。 人工物工学、一般設計学 東大の前の総長の吉川(弘之)さんはこのことを最初からものすごく強調していまして、 現代は基本的に人工物の時代であるから人工物というものをきちんと研究しなければいけ ないということで、人工物工学研究センターというのをつくるんです。これが私がいまい る東大の駒場の先端科学技術研究センターと並んであるんですが、吉川先生は非常にユニ ークな人で、人工物というのはそもそも何だ、どういう性格を持って、どういうふうにし て生み出され、環境としてどういう特性を持っているのか、と。要するに、自然物を研究 するように、あるいは人間を研究するように、人工物の総体を基本的にあらゆる角度から 研究していこうというもので、そういうことを進めているわけです。 いろんな成果が挙がっているんですが、そういうものを考えるなかで、基本的に人工物 というのは設計してつくられると。すべての人工物が設計というプロセスなしにつくられ ることはないわけです。それで吉川先生は一般設計学というのを考えるんです(論文「人 工物工学の提唱」吉川弘之氏)。そもそも設計とは何だということを考えるんです。設計 とはどういうプロセスなんだと。そういう思考を押し進めてきまして、一般設計学という ひとつのまったく新しい学問をつくってしまったのです。うだからいま、一般設計学会と いう学会もすでにあります。 そういうことになりますと、デザインというのは基本的に 設計で、デザイナーというのは設計家なわけです。ある意味で文明というのはデザイナー がつくってきたと。非常に広い意味で、設計家たるデザイナーがつくってきたということ ができるわけです。
グランドデザインの誤り その設計ということを考えたときに、いろんなレベルの設計があります。単にひとつの 単体、つまりモノ、個物の設計というレベルもありますし、非常に複雑ないろんなモノや 道具を組み合わせてつくっていくシステムの設計というレベルもあります。いろんなシス テムが複合して出来上がっている社会の設計というレベルもあります。更に、その社会全 体を含んだ文明の総体の設計という問題もあるわけです。 よく「グランドデザイン」といわれます。単に個物の設計ではなくて、もっと広い視野 で大きなシステムを考えてその設計を考えることを、グランドデザインといいます。もと もと政治学とかそういうところで一般に使われていることで、我々の社会をどういうふう にしていくのかといった、時代の方向づけとか、社会全体の方向づけとか、そういうもの をよくグランドデザインというわけです。 そういうグランドデザインが、我々の社会あるいは文明全体に対してきちんとあったか。 つまり、わりと簡単な個物の設計をやるときには、一生懸命、図面を引っ張って、これと これは合うとか合わないとか、これにどういう罫を入れなきゃならないとか、いろんなこ とを検討する。個物の設計は大変細かくきちんとやるんです。しかし、だんだんいろんな 複雑化のレベルが上がっていくと、その全体を見渡した本当の意味での設計が決定的に欠 けているということが、これまであったと思うのです。そのことは昨日、梅原(猛・前国 際日本文化研究センター所長)さんのお話(日本文化デザイン会議・開会式の基調講演) にもありましたけれども、いまのいろんな文明の破綻状況を考えるときに、当初のグラン ドデザインの問題を見なければいけないわけです。 設計に必要なプロセス 次に、設計段階においてどこがまずっていたのかということを考えるときに、設計とは 何か、設計のプロセスとはどういうものなのかということを考えておく必要があるわけです。 設計というのは基本的に、最初の段階ーー何か新しいモノをつくり出す、システムをつ くり出すという段階では、思いつきから出発するということがしばしばあります。そうい う思いつきをあるコンセプトとして固めていき(思いつきからコンセプトへ至るというこ の段階は発想から構想へというふうにいえると思うんですけれども)、そのコンセプトと して固まったものをリアライズ(現実化)していくというプロセスが必要になります。 そのリアライズの最初の段階は、モデル化というプロセスが必ず必要なわけです。非常 に抽象的なものをまずひとつの形象にしていく。そのモデル化もいろんなレベルがありま して、一番最初はまずそのプロトタイプ(試作品)というものをやってみるわけです。こ れは非常に試行錯誤的なモデル化で、そのプロトタイプでいろんなトライアルエラーを繰 り返し、このモデルならいけるんじゃないかということになると実用モデルというのをつ くるわけです。
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185 :
>182 :01/12/12 05:03 ID:n6+ApVWC
●97/11/08 「ホモサピエンスからホモファーベルへ」進化する人類 97年の「日本文化デザイン会議」で、立花隆氏は、「日本文化デザイン大賞」を受賞した。 受賞理由は、「現在を素手で掴み捕りし、その場で自家製物差しを当てて寸法を測るとい う力業」(選考委員・川崎徹氏)に対してであった。授賞式の翌日、記念講演が行われた。 97年11月8日、福井市美術館市民アトリエにて
実用モデルも、まだかなり下のレベルといいますか、本当にモノをつくるという段階の モデルをブレッドボード・モデルといいます。ブレッドボードというのはパンを切る小さ な台のことなんですが、ちょっと机の上に載せてみる、そういう感じのモデルとして最初 の実用モデルをつくるわけです。そこでまたいろんな検討を加えて、実際のモノをつくり 出すモデルというものをつくっていく。 そういう、発想から構想へ、そしてコンセプトの形象化、それをモデル化を通じて現実 化を図っていく、これが設計一般のひとつのプロセスだと思うわけです。人間はそれを繰 り返すことによって一連の非常に複雑なモノをつくり上げてきたわけです。 構想力と現実化能力 その設計において何が一番大切かといえば、いまいった構想力と現実化能力の二つとい うことになると思います。つまり、何か思いつくというところまでは結構みんなやるんで す。とんでもないときにふっと頭のなかにいろんなことを思いつきます。それをあるコン セプトとして固めていく。つまり、発想から構想へという、この構想力を持つことが非常 に大事で、その次は、そのコンセプトをいかにして現実化に持っていくかという、現実化 というものが非常に大切になるわけです。 この二つの核心部分がある意味ではデザイン問題の本質といってもいいと思うんですけ れども、それは、低いレベル、つまり個物の設計くらいのレベルではみんなちゃんとやる んです。システムの設計でも、一応社会的に使うようなシステムだときちんとやります。 やらないとだいたい事故が起きるんですね。世の中にときどきとんでもない大事故が起こ りますけれども、それはいまいったレベルのどこかに大変大きな欠点があるから起こるの です。
しかし、そのレベルだと非常に少ないんですけれども、更に大きなレベルの、我々の文 明の総体をつくっている複雑化の部分だと、そもそもグランドデザインそのものがないん じゃないか、あるいはいまいったような必要な設計のプロセス部分を踏まえなかったので はないか、ということがあると思うんです。 現代はデザインの時代 このことからいま何がいえるかといえば、我々の総体としての文明社会をどう構築して いくかというグランドデザインをきちんと描かなきゃならない。それを描くことができな いと、ヒトの時代というのはそう長続きしないで終わると。 昨日、梅原先生のお話にありましたように、我々はいま平気で「6500万年前は恐竜 の時代だった」というようなことを話しているわけです。その当時の恐竜たちにとっては、 6500万年後に次の世代の地球の支配者が現れて「昔は恐竜の時代だった」としゃべる ような時代がくるとは夢にも思わなかったわけで、我々もいまは全然そう思っていない。 ヒトの時代というのはずっと繁栄が続くと思っているけれども、ヒトの時代が繁栄が続 くという保証はまったくないわけです。いまはまさに、恐竜と同じように文明史的に見て 人間が最後の滅びの段階に入るかもしれない、そういうところへきているわけです。だか ら本当に、ポスト・ヒトの時代がきて、「昔はヒトの時代というものがあったようだ」と いうようなことにならないとも限らないわけです。 そうならないためにも、現代はまさしくデザインの時代であるということがいえると思 います。 ちょっと時間が超過しましたけれども、これで終わりにします。
米英200年の死闘 ●米英陰謀論の虚実 敢えて複雑な訴訟問題を引き起こしたくないので、出版社名、著者名は伏せるが、日本で は、いわゆる「ユダヤ陰謀論」の本が多数出版されている。そのなかの何冊かはアメリカ をユダヤ国家とし、アメリカ保守本流グループの中核財閥ロックフェラー家と、イギリス を牛耳るロスチャイルド家がともにユダヤ人であるとして、 「両者(米英、ロックフェ ラーとロスチャイルド)は対立していると言われているが、実は裏でつながっているので ある」 などと述べている(ロスチャイルドがユダヤ人であることは確実だが、ロックフ ェラーのほうがはなはだ疑問である。筆者はドイツ系プロテスタントと理解しているが、98 年4月の日本テレビの『知ってるつもり』では、なぜかイギリス系としていた)。 しかし、これは事実に反する。いったい、日本人のだれが、米英が対立しているなどと言 っているのだろうか? 日本の小・中・高等学校の歴史の教科書に米英関係はどう描かれているだろうか。アメリカ はイギリスの植民地だったが、宗主国イギリスを相手にジョージ・ワシントン率いる独立 軍が戦いを挑み、独立を達成した話は有名だ。日本人だってだれでも知っている。 が、「これだけ」である。米英が敵として戦った事実のうち、広く知られているのは、た ったこれだけで、このため「彼らは独立戦争後、同じ英語をしゃべる白人同士の親近感も あって、すぐに仲良くなった」と思い込んでいる日本人が少なくない(あとに述べるよう に、これは明らかな誤りである)。 第一次大戦でも第二次大戦でも、米英は同盟関係にあり、ともに共通の敵(ドイツ、日本 など)と戦った。戦後の冷戦時代も、米英は同盟を維持し、ともにNATO(北大西洋条約 機構)の一員として、ソ連を盟主とする社会主義諸国の軍事ブロック、ワルシャワ条約機 構と対峙した。91年の湾岸戦争でも、98年のイラク空爆でも、米英はともに戦闘行動を行 った。 外交評論家の岡崎久彦(元外務省情報局長)は、著書『戦略的思考とは何か』(中公新書、19?? 年刊)の中で、米英をアングロサクソン諸国として一括し、東西冷戦時代の日本の外交・ 防衛政策について「アングロサクソンかスラブ(ソビエト・ロシア)かの選択」に尽きる と述べている。元東大助教授の評論家、舛添要一も、米英のビジネスの手法を「アングロ サクソン・ルール」と述べて一体視している。 つまり、米英が対立している、などと言っている日本人はほとんどいないのだ。上記の「陰 謀論」の説はさしあたり以下のように修正されるべきである。 「両者(米英、ロックフ ェラーとロスチャイルド)は表でつながっていると言われているが、実は裏でつながって いるのである」 これは日本語として成り立たない。(102)
この陰謀論のように、単に米英を一体視するだけでなく、陰謀の主体として同一視する ことには、まったく合理的な根拠がない。このような陰謀論がまかり通る背景には、以下 のような実にくだらない原因があると思われる。 1. 知性・教養が乏しいくせに、世の動きについていっぱしの意見を言ってみたい生意気な 連中があとを絶たない(とくに系図や固有名詞をふんだんにちりばめた仰々しいタイトル のさる「ユダヤ本」の著者が、本文中で「弱冠四十七歳」と書いていたのには呆れるばか りだ。「弱冠」とは二十歳のことである)。 2. そういう連中は英語力が低く、英語コンプレックスがあるので「英語をしゃべる連中」 をまとめて敵視し、みずからの劣等感を処理しようとする傾向がある(これは人種差別で ある)。 3. あるいは、容姿に自身のない者が(自分が美しくないのは自分固有の問題と考えると つらいので、自分が白人でないからだ、ということにいして)「欧米」などという語を用 いて白人を一括して敵視し、これまた劣等感の処理を行おうとする(筆者は、べつに白人 の顔が一律に日本人より美しいなどとは思わないし、「欧」と「米」の歴史や価値観が似 通っているとも思わない)。 今度もし読者の皆様がどこかで「米英一体型陰謀論」を説く者に出会ったら、その英語力 と語彙力(とくに「弱冠」について)と容姿をチェックされることをおすすめする。 上記の陰謀論を正しい日本語に直せば、おそらく 「両者(米英、ロックフェラーとロス チャイルド)は表でつながっていると言われているが、実は裏で対立しているのである」 となるはずである。両者が対立していると主張する者は、日本には、この筆者を含めて ごくわずかしかいないのだから。 ● アメリカは「ユダヤ国家」ではない 上記の偏見に満ちた陰謀論に共通するのは、アメリカをユダヤ国家として、アメリカの中 東政策を「ユダヤ・キリスト教vs.イスラム教」の宗教対立の図式でとらえようとする点で ある。アメリカの中東における最大の同盟国はイスラエルであり、アメリカは中東では常 にイスラエルの利益を第一に考え、欧米先進諸国と人権思想や生活習慣の異なるイスラム 教徒を敵視している、というのである。 このような「イスラム敵視」は、ハーバード大学教授のサミュエル・ハンチントンが『文 明の衝突』(日本語版は鈴木主税訳で、集英社より1998年刊)なる人種・宗教の相違で生ま れる文明カテゴリー同士の対立の必然性を説いたことで、増幅された。たしかに、パキス タンやサウジアラビアなど、イスラムの戒律が厳しいいくつかの国では、女性にチャドル の着用が強制されたり、窃盗犯には手首の切断という重い刑が科せられるなど、欧米人は もとより、日本人にも受け入れがたい制度や慣習があるにはある。
190 :
50 :01/12/12 20:59 ID:y1YFHBr0
今度の金曜日にオフ会をします。 18:00に小汚い本社前、孫の食い残しが散乱してるシーマ横へ集合。
しかし、ハンチントンの説は、政治外交史の現実を無視した「しろうとくさい」ものである。 1999年1月4日放送のNHK総合テレビの番組で、ハンチントンと討論した山内昌之・東大教 授がいみじくも喝破したように、戦後50年間、アメリカの南アジアにおける最大の同盟国 はパキスタンであり、中東における最大の同盟国はサウジアラビアである。「宗教的価値 観が違うからといって、即敵となるわけではない」(山内)のである。 アメリカは中東においては、イスラム諸国に基地を置かせてもらって、それを安全保障・ 外交政策の基軸としている。1999年現在、サウジ、クウェート、トルコには米軍基地があ り、イスラエル国内にあって99年5月に国家となることをめざしているパレスチナ自治区 (元PLO議長のアラファトの政権)には治安維持の為、CIA工作員が駐留することになっ ている。他方、「最大の同盟国」であるはずのイスラエルの本土には、米軍基地はない。 筆者は、これはイスラエルが米国を信用しておらず、米国に「反イスラエル的な政権」が できることを常に警戒しているからと理解している。 これは専門家も含めて多くの人々が陥る落とし穴なのだが、ほとんどの日本人は、アメリ カとイギリス(の利害関係や歴史の相違)が区別できないだけでなく、アメリカの保守本 流(共和党)とリベラル(民主党)の区別ができないのだ。たとえば98年12月のクリント ン政権のイラク空爆を指して「アメリカの中東政策は場当たり的でよろしくない」「アメ リカはアラブ諸国の反感を招いた」などとする意見が日本でもアメリカでもよく聞かれた が、正確には「民主党の中東政策がよろしくない」のであって、べつにアメリカの主流が 場当たり的な政策を取ったわけではない。 筆者は、これ以降注釈なしに「アメリカ」「米国」と言うときは保守本流グループ(おも に共和党)を指し、非主流グループ(おもに民主党、リベラル派、ユダヤ団体)を含まな いので、その旨御記憶頂きたい。その理由は、以下のようなイスラエル建国以後の米国政 権の中東政策の変遷を見れば、一目瞭然である。
1981-88年ロナルド・レーガン(共和党): サウジアラビアに早期警戒機AWACSの売却を決め、その空軍力の増強に貢献。イスラエ ルからは新たな脅威として激しく非難される。 1989-93年ジョージ・ブッシュ(共和党): サウジに米軍基地を設けて(イスラエルの手を借りずに)湾岸戦争を戦い、戦後クウェー トにも基地を確保。また、旧ユーゴスラビアの内戦ボスニア和平問題では、一貫してモス リム人(イスラム教徒)を支持し、イスラエルと対立(イスラエルはともにナチスと戦っ た歴史を持つセルビア人勢力に肩入れしている)。 1993年-ウィリアム・クリントン(民主党): 自身の不倫もみ消し疑惑が議会やメディアで大きく取り上げられるたびに、それから国民 の目をそらすためか、アフガニスタン、スーダンの原理主義テロリストの拠点や、イラク など、イスラム教徒への空爆を実行。アラブ諸国の国民に非難される。 一目瞭然ではないか。共和党は親イスラム、民主党は親イスラエルで一貫しているのだ。 アメリカが親イスラエルを国是としているかのように誤解された背景には、つまり両者が 混同された原因には、以下のようなものがあると考えられる。 1. 冷戦時代、ソ連は米英共通の敵であり、またイスラエルの敵でもあったから、一見す るとこの3国は密接な同盟関係にあるように見えた。他方、シリア、リビア、PLO(パレ スチナ解放機構)、イランのイスラム原理主義派(ホメイニ革命政権)、王制打倒直後の エジプト(ナセル政権)などのイスラム諸勢力は明らかにソ連の盟友だった(ただし、イ スラム諸勢力のうち、サダト大統領以後のエジプト、革命以前のイラン、サウジアラビア ほか君主制度を取るペルシャ湾岸諸国にとっては、ソ連は敵であった)。 2. イスラム教徒の信仰や習慣について、欧米のマスメディアの大半が偏見と誤解に満ち た報道を繰り返した(あとで詳しく述べるが、たとえば米国ではテレビの3大ネットワー クのうち2つまでが、イスラエル寄りの反イスラムの報道を行っていた)。 3. ニクソン政権下で中東和平合意(アラブの盟主エジプトのアメリカ側への取り込み) の中心人物だった、当時のキッシンジャー国務長官がユダヤ人であった、イスラエルの利 益を最優先しているように見えた(が、彼はユダヤ団体のまわし者ではなく、れっきとし た共和党員で、多くのイスラム諸国に友人を持っている) 4. アメリカ最大のユダヤ団体のリーダーが共和党員である(ただし、彼は閣僚を務め得 るような共和党の有力者ではない。また、イスラエルのために働く共和党員はごく少数で、 これは例外中の例外であり、。おそらく、あとで述べるように「本籍民主党、現住所共和 党」の者であろう)。
193 :
SW :01/12/12 22:36 ID:YXp3qmwk
>>190 了解しました!
持ち物は先日各紙へ掲載した
新聞広告です。
忘れちゃあダメダメ!!
↑ 回収したポセビン37も忘れずに
データ○造は止めましょう!
196 :
600 :01/12/13 00:12 ID:D7q+YKa1
超一流ゾロ○造軍団!
実はアメリカも石油輸入国である。が、米軍が戦時用の地下備蓄と称して相当数の油田を 抑えていて、民間で掘ることが許されていない油田がかなりあり、石炭も豊富なので、そ の気になればいつでもエネルギーを自給できる。 筆者が高校や大学で学んだアメリカの歴史によれば、アメリカは自らの「裏庭」である中 南米を旧大陸勢力(欧州諸国)の干渉から守り、自国の勢力圏とすることを、安全保障上 や経済権益のための国是としていた、ということだった。この国是を体現している機関が、 おそらく米州機構であろう。米州機構はアメリカを盟主とする、中南米諸国のほとんどす べてが加盟した機構である(が、カナダは英連邦加盟国なのではいっていない)。 また、アメリカ自身が元植民地だったので、英仏などの植民地にされている第三世界諸国 に同情的で、国際連盟の設立を提唱したウィルソン大統領は「民族自決」(植民地反対) を唱えたこともよく知られている。第二次大戦後、多くの植民地が、このウィルソンのイ デオロギーを使って独立し、英仏などの支配から離れた。 上の表を見て明らかなように、世界のほとんどの産油国はイスラム教国か米州機構加盟国 である。 アメリカの歴史は東海岸の石油の出ない13の州から始まったが、西へ西へと開拓を進め、 西部のテキサス州、カリフォルニア州で大油田に遭遇する。ウラン産出国である(が、石 油のほとんどない)カナダには目もくれず、ひたすら西へ進み、そのあと中南米の確保に 腐心し、さらにロシア帝国から油田のあるアラスカ(ロシアは売った当時は石油があると は知らなかった)を買収する(結果的に、アメリカはひたすら石油を求め、ウランをあま り重視していなかった、と言える)。 イギリスもいくつかのイスラム国家、産油国を植民地化したことがあるので、その縁でい くつかの国を英連邦に加盟させているが、アメリカの画策ですぐに実質的な支配権を失っ てしまう。たとえば、サウジアラビア王国建国以前の米英の攻防などは、英国の敗北の典 型的な事例であろう。同王国建国前、トルコ帝国の衰退で力の空白が生まれたアラビア半 島は、イスラムの聖地メッカのある地域ではあるが、日本の戦国時代さながらの「群雄割 拠」の様相を呈していた。そこで、アメリカはサウド家を、イギリスはハシム家を推して 対立した(ハシム家を押したイギリス軍の情報将校はトーマス・エドワード・ロレンス大 尉、いわゆる「アラビアのロレンス」である)。しかし、サウド家がハシム家との(関ケ 原の戦いのような)決戦に勝ち、サウジアラビアが生まれ、イギリスは世界最大の産油国 を失う。 イギリスは石油よりもむしろ、ウラン(原子力発電)を重視しているように見える。カナ ダ、オーストラリア、南アフリカなど、ウラン産出国ばかりを選んで大量の白人移民を送 り込み、安定した関係を築いてきたからである。
アラビア半島(サウジ)を失ったイギリスは、それに代わる中東の橋頭堡を確保するため であるかのように、アメリカの民主党とともにユダヤ人国家イスラエルの建国を推進し、 パレスチナの地からアラブ人イスラム教徒を追い出してしまう。建国にあたってイスラエ ルの最大の都会であるテルアビブ市のインフラのほとんどは、実はイギリスのユダヤ人貴 族ロスチャイルド家の莫大な寄付でできており、このため同市には「ロスチャイルド通り」 がある。 しかし、イスラエルの首都エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3 大一神 教共通の聖地なので、それぞれの宗教の地区に別れている。このうちイスラム教徒地区に は、なんと「ロックフェラー美術館」なるものがあり、イスラム美術の粋を集めて展示し ている。 米英は断じて一体でないし、アメリカはユダヤ人国家ではない。英米がともに「英語をし ゃべる白人」の国であることをもって、あるいはアメリカがもともイギリス領、つまりイ ギリスと同じ国家を構成していたことをもって、「似たような国」であると判断するのは 浅はかなことである。もし、そんな考えに立つなら、以下のような判断が国際社会で普遍 的に妥当することになろう。 1990年代アフリカのある国の人が、自国に国際イベントを招致しようと考えていたところ、 A国とB国がそれぞれ開催に名乗りを上げ、凄まじい招致運動を展開したため、そのアフ リカ人はあっさりあきらめた。その後、A、B両国の争いは激化する一方となったので、 そのアフリカ人は、いったいどっちが勝つのかと興味深く眺めていたら、なんと土壇場で 両国は「引き分け」に持ち込んでしまった。いちおう国際機関の仲介によって決まったと いうことになってはいるが、A、Bはつい最近まで1つの国だったわけだし、人種的にも言 語的にもかなり近いという事実がある。そこでアフリカ人はこのように断定した。 「両国は『似たような国』だから、仲がよくて裏でつながっているんだ」 賢明な読者の皆様にはもうおわかりであろう。A、Bとは、日本と韓国のことであり、国 際イベントとは2002年のワールドカップサッカーのことである(日韓両国民は同じウラル ・アルタイ語族なので、両国の言語は西洋人などの耳にはほとんど同じ言語として聞こえ るらしい)。 外から見て軽々しく「似たような国」と判断するのは、その国の歴史や事情を知らない部 外者の無理解の産物にすぎない。たしかに、イギリスとアメリカには似たような制度や習 慣があるが、それは日本と韓国とて同じことである。英-米、日-韓の関係は、ともに「制 服者-植民地」の関係であり、もともと1つであった国が外敵によってむりやり分割された 東西ドイツの関係などとはまったく異なる。英国には貴族がいるがアメリカにはいない。 アメリカは貴族制度を否定して生まれた自由と平等の国であり、根源的な価値観において イギリスとは異なっている。だから、ジョージ・ワシントンは反英独立戦争を戦ったのだ。
●保守本流対リベラル派〜米英暗闘の始原 おそらく、アメリカ合衆国の起源は、1642年にイギリス王国で始まった清教徒(ピューリ タン)革命であろう。ここで、キリスト教と「自由と平等の理念」と普通選挙と共和制を 主張する人々が立ち上がり、国王の専制政治を終わらせ、さらに国王を処刑したが、革命 派のなかから軍事独裁者クロムウェルが出たため、革命派のなかの穏健派は王党派と妥協 し、王政復古によって秩序を回復させた。これ以降イギリスは「国王は君臨すれども統治 せず」の立憲君主制度に向かって進み、議会制民主主義の先達となる。が、庶民の人生の 出発点に著しい不平等をもたらす貴族制度は、さまざまな「へりくつ」とともにそのまま 残り、こんにちに至っている。 清教徒たちは、もはや古い歴史(とそのなかで生まれた貴族などの名門の家系)がある国 では、自分たちの理想は実現できない、と観念したのであろう。海の彼方にある新大陸、 貴族制度の旧弊のない処女地アメリカを目指し、そこを開拓して理想郷の建設をめざす。 しかし、イギリスの不平等主義者はそこにもやってきて、清教徒たちが苦労して農地など 開拓してようやく成果があがった頃に「税金をよこせ」と言った。 にもかかわらず、イギリスはアメリカの開拓者たちに選挙権は与えなかった。議会に代表 を送ることは認めず、ひたすらイギリスのために貢げという意味である。開拓者たちは思 った。 「代表なくして課税なし」 いずれ、このアメリカも「名門貴族の荘園」にされて しまうと感じた開拓者たちは、イギリスから独立することを決断する。 しかし、1776年、ジョージ・ワシントンが独立戦争を起こしたとき、イギリス領アメリカ にいたすべての住民が1 人残らず反英感情を持っていたわけではない。独立戦争に勝った ワシントン一派は、当然「建国の父」として、憲法や議会制度、経済政策、国防戦略など、 国家の中枢について着々と建設を進めていくことになるが、参加しなかった者やイギリス 側に与(くみ)した者は(アメリカで開拓生活を永く送っていれば)いまさらイギリスに 帰るわけにもいかないので、アメリカにとどまることになる。 当然のことながら、この「イギリスの手先」どもは、独立国アメリカにあっては「非主流 派」ということになる。近所付き合いもせずに黙って暮らしていればスパイとみなされる かもしれないし、主流派からどんな差別や迫害を受けるかわからない。そこで、彼らは、 社会的弱者を救済するボランティア活動などを始め、またそうした弱者の権利擁護を、主 流派の「建国の父」たちが定めた合衆国憲法の「自由と平等」の理念(のうちの「平等」 の部分)を使って主張することになる。いわゆる「リベラル派」の誕生である。
のちにユダヤ移民が増えてくると、ユダヤ人が世界各地(といっても第二次大戦前までは、 実際には、ほとんどロシアと東欧だけ。西欧の「宮廷ユダヤ人」はみな大富豪だったしイ スラム世界のユダヤ人は信仰や結婚の自由を保障されていた)で迫害された少数派だった ため、その大半はこのリベラル派に合流した。同じような理由で、女性解放運動、黒人解 放運動、アイルランドやイタリアなどからのカソリック系移民もこれに加わり、いつしか リベラル派の党「民主党」は、第二次大戦後は米連邦議会下院で恒常的に多数派を占める ようになる(この結果、口の悪い白人男性は民主党のことを「ユダヤ人と黒人の党」など と言うようになった)。 しかし、主流派の立場で言うと、リベラル派、などというのは正義の味方でもなんでもな い。その理由はイギリスとの戦いは、1776年(〜1873年)の一回で終わったわけではなく、 その後も執拗にイギリスはアメリカの再植民地化を目的として、陰に陽にアメリカに干渉 し続けたからである。 1812年、カナダ駐留イギリス軍が北からアメリカ本土を侵略し、首都を襲い、ホワイトハ ウスに火をかけた。もちろん、中に合衆国大統領がいれば焼き殺されたはずだが、イギリ スは本気でそれを狙っていた。 つまり、イギリスは合衆国大統領を戦闘行動で虐殺しようとした、歴史上唯一の国である。 ソ連もナチス・ドイツも日本も一度もこんな恐ろしいことを考えたことはない。アメリカ の最大の敵がイギリスであることが、このときはっきりした。が、この1812年戦争(第二 次独立戦争)について知っている者は、すくなくとも日本人のなかには非常に少ない。 この戦いは、1814年のニューオリンズの戦いで、イギリスが敗北したことを契機にアメリ カの勝利に終わる。以後、イギリスは直接的なアメリカ侵略をあきらめ、他方アメリカで は愛国心が高揚し、またイギリス貴族への劣等感が払拭され、さらに中部、西部へと領土 を拡張していくうえでの橋頭堡(ニューオリンズのあるルイジアナ州)を確保した(この ルイジアナの隣の州がこんにちの「石油大国アメリカ」を考えるうえで重要なテキサスで ある)。 このとき、前節で述べたように、あたかも対米敗戦を招いた責任を問うかのように、大英 帝国を支配する伝統的な名門貴族は全員破産し、ユダヤ人貴族のロスチャイルド家が、そ れらすべてに取って代わって、新たなイギリスの支配者になる。 この新たな支配階級の指導のもと、イギリスはふたたびアメリカに干渉する。19世紀には いって、アメリカ合衆国内で農業中心の南部(輸出品に国際競争力がある)と工業中心の 北部(まだ国際競争力がないので貿易自由化に反対)に貿易政策と奴隷制度について著し い考え方の違いがあることに目を付け、南部諸州をそそのかして、合衆国から脱退させた のである(「貿易自由化」とは即「イギリス製品を輸入せよ」という意味である。日米貿 易摩擦ならぬ「米英貿易摩擦」である)。
1861年、共和党のリンカーン米大統領は、奴隷制度維持を主張して分離独立した南部連合 政府を攻撃し、南北戦争が始まった。戦争は1865年に、北軍、つまりリンカーンの率いる 合衆国軍隊の勝利で終わり、アメリカは再統一された。戦後、リンカーンは奴隷解放を宣 言した。 しかし、戦いが終わったとき、何万人ものアメリカの若者が殺し合い、死傷していた。イ ギリスのせいで、イギリスの貴族どものせいで、大勢のアメリカ人同士が殺し合い、国家 が存亡の危機に立たされたのだ。 「イギリスを破壊せよ。イギリスの貴族制度、君主制度を終わらせよ。さもなくば、いつ かアメリカは滅ぼされてしまう」アメリカの主流派(共和党。筆者は「保守本流」と呼ぶ) が、こう思ったとしてもなんの不思議もない。 最近、歴代のアメリカ大統領はみな、就任式においては『新約聖書』に手を置いて宣誓す ることを慣例としているが、これは「イギリス対策」であろうと筆者は思っている。アメ リカは自由と平等の国で、かつ移民の国なので、イギリス人であろうがユダヤ人であろう が、移民したいと言ってやってくればこれを拒否できない。しかし、イギリスのユダヤ人 貴族ロスチャイルド家が、自分の身内を大勢の子分たちとともに、アメリカに移民させた らどうなるだろうか。アメリカにはワイオミング州やアリゾナ州のような人口の少ない州 がたくさんある。たとえば、アリゾナに大勢のメキシコ人などスペイン語系移民が流れ込 み、多数派となり、州議会に大勢の代表を送り込んで「スペイン語を公用語とする」と民 主的に法律を作って決めたら、合衆国憲法の規定ではそのとおりにしなければならない。 とすると、何万人ものロスチャイルド家の一族郎党がやってきて、どこかの州が「占領」 され、「民主的に」合衆国からの脱退などの反米的な決定をすることも制度上当然可能な のだ。また、大統領になるには憲法上、移民ではなく、出生によって米国籍を取得してい る必要があるので、「ロスチャイルド家の息子」がイギリスからアメリカに渡ってもすぐ には大統領にはなれない。しかし、孫の代まで待てば、それは可能である。 これはアメリカのジレンマであって、移民に寛大な国是を実践していくと、こういう「侵 略者」にも寛大になってしまうのだ。 そこで、おそらく「ロスチャイルド家の血をひく 者たちは絶対にアメリカ大統領になれない」ことを(憲法上差別的な規定を設けるわけに はいかないので)「慣習上」確定するため、「『新約聖書』に手を置く」ことを事実上の鉄 則としてしまったのだろう。
言うまでもなく、ユダヤ教の聖典は『旧約聖書』だけなので、これでユダヤ人貴族の米国 乗っ取りは不可能になった(が、「敵もさる者」と言うべきか。イギリスの貴族は、アメ リカの貧しい家庭の子弟をイギリスの貴族の家にホームステイさせ、名門大学に留学させ 「徹底的に劣等感を植え付けて帰す」ための基金「ローズ奨学金」なるものを作った。 たとえば、クリントン大統領は若いときこの基金の世話になったため、おそらく個人的に は「イギリスにはあたまがあがらない」と思っていることだろう)。 クリントンの対極 にあるのが、同じ民主党の大統領ながら、おそらくケネディであろう。彼はアイルランド 系移民の孫で、彼の祖父がアメリカに渡った当初、就いた職業は「どぶさらい」だった。 が、次の(父親の)代に事業に成功して富裕になり、アメリカンドリームを体現すると、 息子を大統領にする夢にかけた。アイルランド系は非主流なので、「リベラルな民主党員」 になったが、他の民主党員とはかなり違った。それは、イギリスの植民地にされ永年貧し い境遇にあったアイルランドの人々が持つ、独特の反英感情であった(アイルランド系市 民団体は、第一次、第二次大戦でイギリスが苦況に陥ったとき、アメリカは助けるべきで ない、と主張する市民運動を展開した。 このためか、アメリカの援軍は、イギリスが植民地や領土を大幅に失ってどん底になるま で派遣されなかった。また、北アイルランドの反英テロ集団IRA に資金援助をしてきたア イルランド系アメリカ人は少なくない、と言われている)。このせいか、ケネディは、あ まりイスラエル支持に熱心でなかった。ケネディもある意味では「現住所民主党」の範疇 に入れることができるのではないか、という仮説を筆者は持っている。 民主党の大統領のうちイスラエル寄りでなかったのはルーズベルトとケネディだけだが、 注目すべきは、この2人はともに死亡によって大統領職を去り、後任 は副大統領から昇格 したということである。そして、その後任の大統領たち、トルーマンもジョンソンも、ま るで待ちかねたかのように、就任するとイスラエル寄りに外交国防政策の舵を切り、イス ラエル建国の承認や 6日間戦争(第三次中東戦争)における艦隊派遣を決定する。もし、 ルーズベルトの急病死とケネディの暗殺がなければ、イスラエル共和国という国家は今頃 存在していないのではないか、と思わざるをえない。
さらに、大統領だけではなくて、米軍および米国務省の高官にも、ユダヤ人は慣例上就く ことができないのではないか、という感じを、筆者は抱いている。筆者は、1998年の年末 ワシントンDCを訪れ、国防省を訪問した。 米国防省はその建物の形が五角形であることから、ペンタゴンと呼ばれる。このペンタゴ ンは、世界最大のオフィスビルで、実は一般に公開されおり、ワシントンの観光名所の 1 つになっている。パスポートを見せ、金属探知機のチェックを受けたあと、20人ぐらいず つ1 組になって2 人の職員(もちろん軍人)の案内でペンタゴンの長い廊下を巡る1 時間 半ほどのツアーに出るのである。 ツアー中ビデオカメラは使えないが、通常のカメラによる撮影は(ドアの開いたオフィス の内部と、職員以外は)可能である。というより、案内役の軍人が、ここで撮ったら、と 促すことさえある。ペンタゴンはあくまでオフィスビルであって、べつに軍事基地ではな いので軍事技術上の機密があるわけではない。だから、当然と言えば当然なのだが、その あまりに「オープンな」態度には、驚かないわけにはいかない。何しろ「ハイ、ここは空 軍長官の部屋」「海軍長官の副官の部屋」などと案内されながら、ほんものの軍高官の部 屋の前を通るのだから(米英によるイラク空爆の直後ということもあり)筆者はかなりド キドキした。 時期がちょうどクリスマスからニューイヤーズデー(1月1日)にかけての中間の、いわゆ るクリスマス休暇の最中だったので、国防省内でも、各部屋のドアにはクリスマスの飾り 付けが施されていた。空軍長官ら高官の部屋ばかりか、国防省人事部の部屋にも………… と、筆者はこの「人事部」の飾りを見たときに、ふと思った、 「キリスト教徒でない軍人、たとえばユダヤ人がこのクリスマスの飾りを見たら、どう思 うだろうか?」 軍には高度の公共性があり、その人事部には最高度の中立性が求められるはずである。に もかかわらず、クリスマスという一宗教を特別扱いしたかのような表現がなされることに は、あたかもキリスト教がアメリカの国教であり、ユダヤ教徒は軍にいてはならない、と 「宣言」していることにならないか。言うまでもなく、ユダヤ教にはクリスマスはない。 キリストやマリアへの敬意もない(ただしイスラム教徒はキリストやマリアを尊敬する)。 軍の高官がこぞって自分の部屋のドアにクリスマスの飾りを付けているところを見せ付け られれば、ユダヤ人の軍人は出世をあきらめてしまうのではないか、という気がする。筆 者も、この「無言の圧力」にはユダヤ人への同情を感じないわけにはいかない。べつにす べてのユダヤ人がイギリスやロスチャイルドの手先ではないのだから(そして、ロスチャ イルドがいま現在、アメリカの中東政策はともかく、アメリカの存在そのものに異を唱え るはずはないのだから)、はたして、ここまでする必要があるのだろうか、と疑問を感じ ずにはいられない。
ナニが何でも隠してしまう 捏造と共通してるね
誤解されるような言動は止めよう。 清廉潔白でんがな。
●「ユダヤ系のメディア」の攻防 1991年、湾岸戦争開戦に先立って、イラクのサダム・フセイン政権は「西側のメディアは みな『ユダヤ系』で、アラブ諸国の悪口ばかり書くので出ていけ」と、アメリカのニュー ヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、ABC テレビなどをはじめ西側のほとんどすべ てのメディアの記者を国外に追い出した。ところが、米 CNNだけは「アラブの言い分も 伝える公正なメディアなので、残ってよろしい」として取材許可を与えた。この結果、湾 岸戦争開戦のニュースはCNN の独占スクープとなった。ニューヨークに本拠を置く既存 の 3大地上波テレビネットワークに対抗して、南部の田舎のアトランタに本拠をかまえ、 衛星とケーブル回線を使って有料で24時間ニュースばかり流すという、まことに奇妙なメ ディアにすぎなかったCNN が、この瞬間に「世界のCNN 」になった。これはCNN とそ の創設者のテッド・ターナーが、米保守本流に属していることが世界に明らかになった瞬 間でもあった。 「ユダヤにこだわると世界が見えなくなる」と安っぽい「ユダヤ陰謀論」の本が売れるこ とに警鐘を鳴らす意見があることは筆者も承知しているし、同感である。しかし、ユダヤ 系とそうでないものを区別することは、重要である。上記のサダム・フセイン政権の決断 にはっきり表れているように、その違いはかなり明瞭に存在するからである。 ただし、ここで重要なのは、「人脈的」にユダヤ系かどうか、つまり、イギリスのユダヤ 人貴族ロスチャイルド家につながっているかどうか(イスラエルの利益を重視し、アラブ ・イスラム諸国を敵視しているかどうか)ということであって、宗教的、人種的に、血統 的にユダヤ的であるかどうかは、どうでもいい(テッド・ターナーやロックフェラーが宗 教として何を信じていようが、近い祖先にユダヤ人がいようがいまいが、そんなことはど うでもいい)。 誤解を防ぐ目的で、筆者は、米非主流派(リベラル派)や民主党、ロスチャイルドにつな がる企業や個人を「イギリス・ユダヤ系」という言い方で「保守本流」から区別すること にしている(ちなみに「米保守本流」には、ホワイト・アングロサクソン・プロテスタン ト、略してWASP、つまりイギリス系のプロテスタント系白人が多いが、ドイツ系のロッ クフェラーや、黒人のコリン・パウエル元米軍統合参謀本部議長、そしてアイルランド系 カソリックのレーガン元大統領もいるので、人種や宗教での区別はあまり意味がない)。 1973年の第一次石油危機以降、国際社会で発言力を強めたアラブ諸国は、イスラエルを利 する「ユダヤ的な企業」を「アラブ・ボイコット・リスト」に列挙して取り引きを拒否し、 制裁を加えた。その筆頭はコカコーラだった。コカコーラの社員にユダヤ人が1人もい な くても、イスラエルを利することをすれば「ユダヤ系企業」ということになる。逆にライ バルのペプシの社長がユダヤ系であっても、彼が儲けるためにはアラブ諸国へ輸出するし かないと判断してアラブ諸国の要求を受け入れれば、「非ユダヤ系」ということになる。 つまり、世界の市場においてライバル関係にある企業同士は、必然的にどちらかの陣営に 組み込まれざるをえない状況にあったのである。
この結果、世界中のほとんどすべての企業は、親アラブか親イスラエルか、保守本流かリ ベラルか(ロックフェラーかロスチャイルドか)といった二者択一を迫られることになり、 2 つの陣営に「編成」されてしまった。 といっても、「我が社はユダヤ系です」と看板をかけている会社は1 社もないので、両者 を区別するのはかなり難しい。個別の業界ごとの提携関係やライバル関係などについて、 かなり詳細な知識がないと不可能なめんどうくさい作業である(「米英が裏でつながって いる」と称する安っぽい「ユダヤ陰謀論」は、両者を区別する作業をめんどうくさいと感 じた「怠け者」が、個々の業界ウォッチングをサボるために考え出したに相違ない)。 この分類に挑戦した著書としては、元ハーバード大学研究員の藤井昇の『ロックフェラー 対ロスチャイルド』(徳間書店、1994年刊)が有名で、98年 4月に放映された日本テレビ の『知ってるつもり』のロックフェラーを取り上げた回でも紹介された。しかし、筆者は 最初にこの本を手にしたとき、藤井には悪いがすぐには信じなかった。例によって「ユダ ヤ陰謀論」の一種かと思ったからである。が、筆者の持つコンピュータ業界の合従連衡関 係に関する知識をあてはめると、若干の修正は要するものの、藤井の説の、情報・電気電 子産業界についての分類が、かなりの程度合理的なものとして納得できたので、それ以降 しばしば参照することにしている(ただし、全部信じているわけではない)。 しかし、あまり知識がなくても区別できる業界がある。それはアメリカのテレビ業界であ る。昨今はNHK の衛星放送などで米英のニュースがそのまま見られるので、それを毎日 見ていれば、容易に区別ができる。1984年と1996年のアメリカでのオリンピックで、藤井 の分類の正しさが露骨に証明されたのである。 1984年のロサンゼルス五輪の開会式において、例によって各国選手団の入場行進があった。 直前にソ連など東側諸国のボイコットがあったので、それにもかかわらず参加した社会主 義国家の中国、ルーマニア、ユーゴスラビアに対して割れんばかりの拍手と歓声が会場を 埋め尽くしたアメリカ人の観衆によって浴びせられた。が、イスラエル選手団の入場のと きにも、中国やルーマニアに対するのと同様の、いやそれ以上の拍手が送られた。そこで、 筆者は「入場券を買えるのは金持ちが多く、ユダヤ人には金持ちが多いので、こういう場 所にはユダヤ人観衆が大勢いて、こういう反応を示すのが普通なのか」と思ってしまった。 ちなみに、この五輪の米国内における放映権はABCが独占していたから、開会式を 仕切 ったのもABCだった。
1996年、テッド・ターナーが建設した「ターナーズ・フィールド」で、アトランタ五輪の 開会式が行われた。筆者はイスラエル選手団の入場行進に注目していた。はたして、イス ラエルの名が告げられたとき、観客はどう反応するか…………なんの拍手も起こらなかっ た。おそらく、このとき入場券は、アメリカの人種別の人口比率に従って正しく配分され ていたのであろう。ユダヤ人はアメリカには600 万人しかいない。アメリカの総人口の2 〜3%にすぎない。そんな国で、イスラエル選手団に対して「地元」のような大歓声があ がることなど、きわめて不自然であり、本来ありえないはずのことだったのだ(つまり前 回の「大歓声」は演出されたものだったのだ)。ちなみに、このときの国内放映権はNBC が 独占していた。 これによって、米3大ネットワークのうちABCがイギリス・ユダヤ系、NBCが保守本流系 で あることがはっきりわかる(ちなみにNBC本部は、ニューヨークのロックフェラー・ センター・ビル内にある)。実はNBCにも「演出」があって、イスラエル選手団の名が呼 ばれ る直前には、なぜかカメラを数秒間だけ貴賓席のクリントン大統領を映すように切 り替えていたし、サウジアラビア選手団の入場に際しては同じく貴賓席のサウジの皇太子 をアップで映すこともした。この開会式を日本に中継したNHK のブースには当時スポー ツキャスターだった原辰徳・現巨人軍コーチがいたが、彼がいみじくも「東洋的な音楽」 と言ったように、この開会式の最初と最後には、イスラム教のコーランの吟詠のような声 とメロディ−が流れたのである。そして聖火の最終ランナー(聖火台への点火者)はイス ラム教徒のモハメッド・アリだった。 この「NBCの開会式」が、アメリカユダヤ国家でないことをアピールすること、「イスラ エ ルのまわし者」はクリントンらのリベラル派だけで、ロックフェラーらの保守本流は 関係ないことをアピールするためのものだったことは、疑う余地がない(サウジの王様や アラブ各国の指導者が見て大喜びしたであろうことも想像に難くない)。 1997年5 月、イスラエルの諜報機関がアメリカでスパイ行為を働いていたことが発覚した。 クリストファー米国務長官がイスラエル支配下のパレスチナ自治区を統治するパレスチナ 解放機構(PLO )のアラファト議長への秘密の書簡のコピーを、イスラエルのスパイが 入手しようとしたのである(これによって、アメリカとイスラエルには利害の一致も信頼 関係も何もなく、両者は対立しているのだということがはっきりした)。CNN はこれをト ップニュースの扱いで報じたが、同じ日に放映されたPBS (公共放送)の『レーラー・ ニュースアワー』(日本ではNHK 衛星第一放送が毎週火曜日から金曜日の午後2 時と深夜 3時30分から放送)では、このニュースをまったく扱わなかったばかりか、「スイス銀行」 の話題と「米国における情報公開の不完全性」の話題を取り上げたのである。前者は、第 二次大戦中ナチスの強制収容所で死んだユダヤ人の財産がナチスに奪われスイス銀行に預 けられたが、スイス銀行(現ユニオンバンク・オブ・スイッツァランド、略してUSB ) がナチスの崩壊の後それを没収してしまった(ユダヤ人遺族に返すべき)という「お涙頂 戴」のネタ。後者は、国務省はどうでもいい情報まで機密扱いにしすぎるのでアメリカ民 主主義の情報公開の精神にそぐわないのではないか、という批判的な討論であった。
なるほど、このPBS の報道はだれが見ても「偏向」報道であろう。いやしくもアメリカ に対してスパイ行為を働いた国をかばっているのだ。「ここまでやるか」と筆者は思わず 感心してしまったほどだった(PBS は公共放送といってもNHK のような巨大なネットワ ークを持っているわけではなく、 3大ネットワークの恩恵の及ばない過疎地などに「公共 的なニュース」を社会福祉的に提供するために、民主党が作った制度である。共和党はこ れをつぶしたがっているそうだ)。 CNNができる前の1970年代まで、テレビはABC、CBS、NBCの地上波3大ネットワークし かなかった。このうち、ABC、CBSがイギリス・ユダヤ系で、NBCだけが保守本流系だっ た。読者のみなさまはこの「布陣」を見て「アメリカ国民の見るニュースの2/3がイスラ エル寄 りだったのか」と思われるだろうが、実はそうではない。 日本の場合NHKが難視聴解消のために、民放のテレビ電波も中継できるアンテナを各地 に 立て続けたので、全国どこへ行っても鮮明な画像でテレビが見られる。たしかに山間 地では画像がよくないこともあるが、日本国民の80%は都会に住んでいるので、国民の大 多数 は、NHKと民放あわせて数チャンネルのなかから好きなものを選んで見ることがで きる。 しかし、アメリカではそうはいかない。まずアメリカ国民の80%は田舎に住んでいる。田 舎では 、日本におけると同様、地上波テレビの場合は都会ほど鮮明な画像で見ることは できない。とくにNHKのような強力な公共放送がなく、3大ネットワークが互いにライバ ルとして激しく競っているような状況では、各局は、自分たちの視聴率をあげるためだけ にアンテナを設置していくのであって、別に他の局のためのアンテナなどは設けない。こ の結果、国土の広さと局の難視聴解消予算の制限(彼らは人口の少ないところに高いコス トをかけて設備を作ることはない)もあって、ほとんどの地域では3大ネットワークのう ち1つか2つ しか見られないのである(筆者が年末年始滞在していたバージニア州北部の 田舎では、地上波3大ネットワークのうち鮮明な画像で見ることができたのはCBSだけで、 あとはボケボケだった)。 つまり、1970年代まではかなりの数のアメリカ国民は、100%イギリス・ユダヤ系のメデ ィア「だけ」しか見ることができなかったのだ。 そこで、保守本流は技術革新によって、ユダヤ系の支配のおよばない新たなメディアを作 る必要を感じたのだ。そして生まれたのが、アナログ衛星を使ったケーブルテレビのCNN、 FOX テレビ、デジタル衛星多チャンネル放送、そしてインターネットであった。これは、 アメリカ国民の中東問題などへの世論を明らかに変質させる効果を持つであろう。「ユダ ヤ系のメディア」の報道におけるシェアが明らかに低下したからである。
移民大国アメリカを実感する アメリカは国民のアイデンティティに関して「ハイフネーションの国」であるといわれる。 ハイフネーション(hyphenation)とは「ハイフン(横棒)でつないだ」という意味で、た とえば日系アメリカ人を「Japanese-American」と呼ぶように、外国系アメリカ人を表現す るときにつく「-」がハイフンで、これは日本語の「系」にあたる。 ハイフンでつないでいるのは、言葉の上の特徴というだけではない。アメリカに住む移民 は、アメリカ人としての意識(アイデンティティ)と、もともと属していた民族(日系人 なら日本)を愛する意識の両方を維持してかまいません、という政策をも表している。移 民が2つのアイデンティティを持ち続けることを認めるのは「無理やりアメリカに同化さ せない方が、むしろアメリカに対する愛国心を持ってもらいやすい」という意図がある、 と英語の本に書いてあった。(Myron Weiner: The Global Migration Crisis) アメリカのほか、カナダやオーストラリアなども同様の政策をとっている。一方、日本で は「在日韓国人」とは呼んでも「韓国系日本人」という呼び方はない。日本の国籍を取っ た後は、単なる「日本人」であり、「日本人」は「○○系」と「▽▽系」などに分別でき るものではなく、単一のアイデンティティだ(でなくてはならない)と考えられている。 国民性に単一のアイデンティティしか認めていない「単一民族国家」は日本ばかりでない。 フランスやドイツなどヨーロッパの多くや、韓国などアジアの多くの国も同じである。フ ランスでは識者の多くが「フランス人になろうとする移民は、もともとの母国の文化を捨 て、完全にフランスに同化せねばならない」と考えているという。(前出の英語の本による) だが「キリスト教徒」をベースにしたフランスなど西欧諸国の国民性の前提は最近、イス ラム教徒の国民(国籍を取った移民)の増加により、矛盾を生んでいる。アジアでも、民 族や宗教の違いを超えて国民意識の強化を進めてきたインドネシアで、イスラム教徒と中 国系やキリスト教徒との紛争が止まず、辺境地域が次々と独立に動くなど、あちこちで「単 一民族」の神話は揺らいでいる。 ▼紛争地域の関係者も参加する大学のセミナー 今年8月からアメリカのボストンに住んでいる私が、多民族国家アメリカの「ハイフネー ション」文化を最も感じるのは、ハーバード大学で世界各地の紛争や地域問題について講 演会やセミナーが開かれるときだ。ほとんどどの会合にも、テーマとなっている地域にゆ かりのある人々(移民やその子孫、留学生など)が出席しており、発言することが多いか らである。 たとえば先日開かれた、旧ソ連のカフカス(コーカサス)地方の民族紛争をめぐる2回続 きのセミナーには、アルメニア、アゼルバイジャン、グルジアという、この地方を構成す る3つの国からの移民や留学生が聴衆として出席し、発言していた。
なるほど、このPBS の報道はだれが見ても「偏向」報道であろう。いやしくもアメリカ に対してスパイ行為を働いた国をかばっているのだ。「ここまでやるか」と筆者は思わず 感心してしまったほどだった(PBS は公共放送といってもNHK のような巨大なネットワ ークを持っているわけではなく、 3大ネットワークの恩恵の及ばない過疎地などに「公共 的なニュース」を社会福祉的に提供するために、民主党が作った制度である。共和党はこ れをつぶしたがっているそうだ)。 CNNができる前の1970年代まで、テレビはABC、CBS、NBCの地上波3大ネットワークし かなかった。このうち、ABC、CBSがイギリス・ユダヤ系で、NBCだけが保守本流系だっ た。読者のみなさまはこの「布陣」を見て「アメリカ国民の見るニュースの2/3がイスラ エル寄 りだったのか」と思われるだろうが、実はそうではない。 日本の場合NHKが難視聴解消のために、民放のテレビ電波も中継できるアンテナを各地 に 立て続けたので、全国どこへ行っても鮮明な画像でテレビが見られる。たしかに山間 地では画像がよくないこともあるが、日本国民の80%は都会に住んでいるので、国民の大 多数 は、NHKと民放あわせて数チャンネルのなかから好きなものを選んで見ることがで きる。 しかし、アメリカではそうはいかない。まずアメリカ国民の80%は田舎に住んでいる。田 舎では 、日本におけると同様、地上波テレビの場合は都会ほど鮮明な画像で見ることは できない。とくにNHKのような強力な公共放送がなく、3大ネットワークが互いにライバ ルとして激しく競っているような状況では、各局は、自分たちの視聴率をあげるためだけ にアンテナを設置していくのであって、別に他の局のためのアンテナなどは設けない。こ の結果、国土の広さと局の難視聴解消予算の制限(彼らは人口の少ないところに高いコス トをかけて設備を作ることはない)もあって、ほとんどの地域では3大ネットワークのう ち1つか2つ しか見られないのである(筆者が年末年始滞在していたバージニア州北部の 田舎では、地上波3大ネットワークのうち鮮明な画像で見ることができたのはCBSだけで、 あとはボケボケだった)。 つまり、1970年代まではかなりの数のアメリカ国民は、100%イギリス・ユダヤ系のメデ ィア「だけ」しか見ることができなかったのだ。 そこで、保守本流は技術革新によって、ユダヤ系の支配のおよばない新たなメディアを作 る必要を感じたのだ。そして生まれたのが、アナログ衛星を使ったケーブルテレビのCNN、 FOX テレビ、デジタル衛星多チャンネル放送、そしてインターネットであった。これは、 アメリカ国民の中東問題などへの世論を明らかに変質させる効果を持つであろう。「ユダ ヤ系のメディア」の報道におけるシェアが明らかに低下したからである。
移民大国アメリカを実感する アメリカは国民のアイデンティティに関して「ハイフネーションの国」であるといわれる。 ハイフネーション(hyphenation)とは「ハイフン(横棒)でつないだ」という意味で、た とえば日系アメリカ人を「Japanese-American」と呼ぶように、外国系アメリカ人を表現す るときにつく「-」がハイフンで、これは日本語の「系」にあたる。 ハイフンでつないでいるのは、言葉の上の特徴というだけではない。アメリカに住む移民 は、アメリカ人としての意識(アイデンティティ)と、もともと属していた民族(日系人 なら日本)を愛する意識の両方を維持してかまいません、という政策をも表している。移 民が2つのアイデンティティを持ち続けることを認めるのは「無理やりアメリカに同化さ せない方が、むしろアメリカに対する愛国心を持ってもらいやすい」という意図がある、 と英語の本に書いてあった。(Myron Weiner: The Global Migration Crisis) アメリカのほか、カナダやオーストラリアなども同様の政策をとっている。一方、日本で は「在日韓国人」とは呼んでも「韓国系日本人」という呼び方はない。日本の国籍を取っ た後は、単なる「日本人」であり、「日本人」は「○○系」と「▽▽系」などに分別でき るものではなく、単一のアイデンティティだ(でなくてはならない)と考えられている。 国民性に単一のアイデンティティしか認めていない「単一民族国家」は日本ばかりでない。 フランスやドイツなどヨーロッパの多くや、韓国などアジアの多くの国も同じである。フ ランスでは識者の多くが「フランス人になろうとする移民は、もともとの母国の文化を捨 て、完全にフランスに同化せねばならない」と考えているという。(前出の英語の本による) だが「キリスト教徒」をベースにしたフランスなど西欧諸国の国民性の前提は最近、イス ラム教徒の国民(国籍を取った移民)の増加により、矛盾を生んでいる。アジアでも、民 族や宗教の違いを超えて国民意識の強化を進めてきたインドネシアで、イスラム教徒と中 国系やキリスト教徒との紛争が止まず、辺境地域が次々と独立に動くなど、あちこちで「単 一民族」の神話は揺らいでいる。 ▼紛争地域の関係者も参加する大学のセミナー 今年8月からアメリカのボストンに住んでいる私が、多民族国家アメリカの「ハイフネー ション」文化を最も感じるのは、ハーバード大学で世界各地の紛争や地域問題について講 演会やセミナーが開かれるときだ。ほとんどどの会合にも、テーマとなっている地域にゆ かりのある人々(移民やその子孫、留学生など)が出席しており、発言することが多いか らである。 たとえば先日開かれた、旧ソ連のカフカス(コーカサス)地方の民族紛争をめぐる2回続 きのセミナーには、アルメニア、アゼルバイジャン、グルジアという、この地方を構成す る3つの国からの移民や留学生が聴衆として出席し、発言していた。
セミナーの1回目は、カフカスの真ん中にあるナゴルノカラバフ州の紛争がテーマだった。 イギリスの記者が講演し、この地域の近況などを伝えた。 ナゴルノカラバフはかつてアルメニア領だったが、アゼルバイジャン人も住んでおり、両 者は平和に混住していた。だが1920年代にソ連ができた後、スターリンは分離独立に つながる民族主義を警戒してナゴルノカラバフをアゼルバイジャン領へと編入し、この地 方のアルメニア人を本国から切り離した。その後70年近くたってソ連が崩壊すると、ア ルメニアはアゼルバイジャンと戦争し、ナゴルノカラバフを奪還したが、数十万人のアゼ ルバイジャン人が難民となった。94年から両国で和平交渉が始まったが、途中で暗礁に 乗りあげている。 講演は昼どきだったので、大学側からハンバーガーなどの昼食が無料で出され、円卓型の セミナー室に20人ほどの出席者が集まり、講演の後はなごやかに質疑応答が始まったが、 その途中で雰囲気が変わった。私の隣に座っていた初老の女性が「アルメニア人も難民に なっているのに、アゼルバイジャン側の難民の状況ばかり説明し、話が偏っている」と講 演者を強く批判したからだった。 ▼怒れるアルメニア系の人々 私の隣の女性と、弁明する講演者とがしばらくやりあった後、司会の教授(女性)が間に 入って他の質問者に質問させた。すると今度は、別の中年男性が「アルメニア人はトルコ に大虐殺されたのに、その歴史が全く語られていないじゃないか」と言い出した。 キリスト教徒の国アルメニアとイスラム教徒の国トルコは隣どうしだが、トルコ(オスマ ン帝国)が強かった時代には、アルメニアのかなりの部分はトルコ領だった。オスマン帝 国が縮小していった19世紀、ロシアの勢力が南下してきてトルコと衝突し、1914年 に起きた第一次世界大戦でアルメニアは戦場となった。 多くのアルメニア人は、トルコからの独立をめざしてロシアに味方したため、トルコの軍 隊はアルメニア人を虐殺したり強制移住させ、1918年に独立したばかりのアルメニア に戦争を仕掛けた。アルメニア側の主張では、1915−23年に150万人のアルメニ ア人がトルコに殺されたという(トルコ側の発表では30万人)。 かつてのアルメニア人居住地域は現在、北部が独立してアルメニア共和国となったが、南 部はトルコに併合され、そこに住んでいたアルメニア人の多くはアメリカや中東諸国に移 住した。 アメリカに移住したアルメニア人(アルメニア系アメリカ人)は、ユダヤ系、アイルラン ド系などに次ぐ大きな勢力となっている。私が住んでいるボストン周辺は、ニューヨーク やカリフォルニアと並び、アルメニア系が多い地域で、非難口調の質問をした2人は、い ずれもアルメニア系アメリカ人であった。
かみつかれた講演者は「大虐殺も重要な歴史事項だ」と認めつつも、話をナゴルノカラバ フに限定しようとした。これに対して質問者の男性は「そもそもイギリスはトルコの大虐 殺を助長したじゃないか。それについてはどうなんだ」と、イギリス人である講演者に詰 め寄った。19世紀末のイギリスは、ロシアの領土拡大を警戒し、ロシアに味方するアル メニア人を弾圧するトルコの肩を持った歴史があり、そのことを非難したのだった。 すると講演者は「あなたの気持ちはよく分かる。私はユダヤ系で、両親は中部ヨーロッパ から移民してきた。だからユダヤ人差別の問題が起きると、つい感情的に考えてしまいが ちだが、そのたびに理性的に考えることが重要だと自分に言い聞かせている」と述べた。 この返答で、質問者側の発言のトーンが変わった。くだんの男性はその後「われわれアル メニア系アメリカ人はみな、トルコの迫害を受けてアメリカに来た歴史がある。だから虐 殺の問題なると黙ってはいられないのだ。分かってほしい」と、参加者の理解を求めた。 その後も質疑応答が続き、今度はアゼルバイジャン人の学生が質問した。質問内容は、ナ ゴルノカラバフの現状についてで、感情的なものではなかったが、この学生が発言の最初 に「私はアゼルバイジャン人です」と自己紹介したとき、私の隣にいたアルメニア系の女 性が驚いたような表情で学生の方を見た。「アゼルバイジャン側に偏っている」と講演者 を批判した彼女は、会場にアゼルバイジャン人がいるとは思っていなかったようだった。 こうして参加者がお互いについていくつかの発見をした後、会場の雰囲気はふたたび和や かなものに戻り、最後は講演者に対して大きな拍手が送られて終わった。 アルメニア系の人々が80年前の虐殺の問題に今ごろ敏感になるのは、ほかにも理由があ った。このセミナーが開かれたのは9月下旬だったが、それはちょうど、アメリカ議会で アルメニア人虐殺の問題でトルコを批判する決議が審議されていた時だった。 アルメニア系アメリカ人は政治的に活発な集団で、大統領選挙がある今年は、政治家にと って無視できない。そのためアルメニア系の人々が以前から米議会に要請していたトルコ 批判決議が、選挙前になって審議されていた。 トルコは一貫して「アルメニア人がたくさん死んだのは一般人も反トルコ戦争に参加した ためで、それは虐殺ではなく戦死である」と主張し、人権問題ではないと言い続けていた。 トルコの主張を説明するため、アメリカに代表団を送り込んだりした。 トルコはアメリカにとって軍事的な同盟国で、トルコの協力がなければイランやイラク、 シリアに対するアメリカのにらみが効かない。そのため議会が決議しても、大統領は拒否 する可能性が高い。こうした展開の中で、アルメニア系の人々は感情的になっていた。
▼生き別れた一族の再会 セミナーが終わった後、隣席の女性と立ち話をした。最初に講演者を非難する発言をした 人である。彼女の両親は、トルコに併合された西部アルメニアの出身で、虐殺を逃れてア メリカに来た後、彼女が生まれたという。彼女が祖国アルメニアに初めて行ったのは、大 学卒業後の1961年だったが、その時に非常に不思議な経験をした。 ・・・エレバン(首都)のホテルに泊まっていたある日、ホテルのロビーで見知らぬ男性 が「あなたは○○という人を知っているか」と声をかけてきたんです。男性が尋ねていた のは、私の母の姉の名前でした。私が「知っている」と答えると「それなら着いてきなさ い」と言われ、一緒にタクシーに乗りました。見知らぬ男についていくなんて、普通なら 断るのですが、この時は別でした。トルコによる虐殺のさなかに、母は姉と分かれて逃げ、 それ以来音信不通になっていたからです。 ・・・長距離タクシーに乗って着いた村の家には、母の姉が住んでいました。私に声をか けた男性も、親戚にあたる人でした。彼はホテルのロビーで私を見掛けたとき、何かを感 じて声をかけたそうですが、私も同じように何かを感じて、彼にについて行ったのです。 これが、一族のきずななのかもしれません。 ・・・こうして私たちの一族は再びひとつになったのですが、そのとき伯母(母の姉)は 80才を越え、病気でした。私がアメリカに帰り、母を連れてもう一度アルメニアに戻っ た時には、すでに伯母は亡くなっていました。アメリカに住む一族の中で、私だけが伯母 に会うことができたのです。 彼女は、そんな身の上話を私にした後「話を聞いてくれてありがとう」と言って笑った。 ▼アメリカ人権意識の根源 アメリカ人の中には、本人や祖先がアメリカに移民する前、母国で弾圧されたり貧しい状 態に置かれていた人々が多い。トルコに弾圧されたアルメニア系の人々がその好例だろう。 アメリカ人を祖先の出身地別に分けると、多い順にドイツ(5800万人)、アイルラン ド(3900万)、イギリス(3300万)、アフリカ(3000万)となっている。ド イツからはクエーカー教徒、イギリスからは清教徒という、宗教上の弾圧を受けた人がア メリカ移民の先駆者だったし、アイルランドからもイギリスの支配下で苦しめられた人々 が移民してきた。アフリカからの黒人は、奴隷として連れてこられた。 このように抑圧された歴史を持つ移民がアメリカを構成しているためアメリカは「人権問 題」を強調し、母国の民族意識を維持できる「ハイフネーション文化」の国になったので はないかとも思える。「アメリカでは今も差別が厳しい」という指摘を良く聞くが、その 一方で公の場では、人権や差別を社会全体の問題として議論しようとする姿勢がみられる。
たとえば、大統領選挙選の一環として10月5日に行われた副大統領候補どうしの討論会 (ディベート)では「あなたが黒人だったとして、歩いているか車を運転しているときに 人種差別の攻撃を受けたら、どうしますか」というのが質問の一つだった(CNNの黒人 キャスター、バーナード・ショーが司会をつとめていた)。2人の副大統領候補はいずれ も黒人差別がアメリカに存在していることを認め、差別を減らす努力をすると約束した。 とはいえアメリカは国内の公開討論での人々の誠実な姿勢とは対照的に、外国での「人権 問題」に対しては、しばしば独善的で自己中心的な内政干渉を「正義」として相手国に押 し付けている。戦後の日本のように国際問題になるべく首を突っ込まない姿勢ならまだし もアメリカが外国のことに介入する以上は、イスラム諸国や中国など、キリスト教を中心 とした自国の社会とは異なる価値観を持つ人々に対する理解をもっと深める必要がある。 ▼民族紛争地をアメリカ型の国に変える ハーバード大学で開かれたカフカス地方に関する連続セミナーの2回目は「カフカスの人 々が平和に共存するには、全体を一つの連邦国家にするのが良い」という解決案を進めよ うとしているベルギーの大学の先生の講演をベースに討論した。 カフカスは多民族の地域だ。たとえばグルジアは人口が500万人しかいないのに、70 の民族に分かれており、分離独立を目指す勢力もいくつかある。冷戦終結以降、旧ソ連東 欧地域では「あらゆる民族は独立する権利がある」という考えに基づき、新しい国が次々 とできたが、グルジアでそれを許すのなら、大混乱になってしまうだろう。 多くの民族 は、今よりも昔のある時期の方が領土が広かったという歴史を持っており、民族主義の行 き着くところは、その過去の最大領土を回復して自分たちの国家を作る、という主張にな りがちだ。 領土が最大だった時期は民族ごとにずれており、各民族の「過去の最大の領土」は幾重に も重複している。だから多くの民族が混住するカフカスやバルカン半島では、民族主義が 強まるほど領土紛争が激しくなり、戦争が続くことになる。 こうした領土対立を乗り越えるため、連邦制の考え方が出てきている。講演者は、経済政 策など、民族の違いがあまり現われない分野は連邦政府が行う一方で、教育や文化など民 族性が色濃く出る分野では、各民族の自治が行われるようにするというプランについて説 明した。 こうした体制は、すでにベルギーやスイスで実施されており、EU統合は、そ れを西欧全域に拡大するものだ。バルカンやカフカスで連邦制が成功すれば、EUに加盟 して先進国に仲間入りすることも夢ではないというわけだ。 こうした計画は、EU統合が「ヨーロッパ合衆国」の建国であると欧米のマスコミで指摘 されているのと同様に、連邦に対する忠誠心と、コミュニティに対する帰属意識とを国民 があわせ持っているアメリカ流の「ハイフネーション」型の連邦国家を、カフカスやバル カンに作ろうという趣旨とも読み取れる。
▼「歴史こそが民族生き残りの武器」 ところがこの講演者に対し、グルジアからの留学生が疑問を投げかけた。「連邦制を成功 させるには、歴史を前提にして各民族が言い争うのを止める必要がある」と講演者が述べ たのに対し、この留学生は「民族のアイデンティティにとっては、歴史こそが最も重要な ものだ。歴史を語らずに、民族間の交渉などできない。大国は経済力や軍事力を武器にで きるが、グルジアのように小さな国の場合、民族が生き残るための武器は、歴史的な正当 性しかない」と反論した。 歴史的な正当性とは「先祖代々住んでいるのだから、ここは自分たちの土地だ」と主張で きることである。大昔なら、そんな主張をしても武力侵略されれば弱い民族は滅びた。だ が19世紀にヨーロッパで戦争を防ぐために、今につながる「国際社会」の枠組みが作ら れて以来、「歴史」が武力侵略に対抗できる理論となった。だが、まさにその理論が、歴 史が重複しているがゆえに民族紛争の絶えない地域を生み出したのである。 留学生からの反論に対して講演者は「民族が違う人々が歴史観で合意することは非常に難 しい。歴史観を議題にせずに政治交渉をしていかないと、合意することは不可能だ」と述 べ、原則論ではなく現実論で問題を解決していく必要を強調した。 この討論を聞いて、なぜバルカンやパレスチナなどの民族紛争地域で、アメリカの仲介が なかなか成功しないのか、その一因が分かったような気がした。バルカンやパレスチナに アメリカ型の連邦国家を作ろうとして失敗しているのではないか、ということだ。 たとえばパレスチナ和平の頂点だった1993年のオスロ合意は、アラブ・ユダヤの対立 を「経済発展」という利点で乗り越えさせ、イスラエルとパレスチナを、双方が神聖と考 えるエルサレムを共同管理できる双子の国家体制にする計画だった。だが、現実論が原則 論を乗り越えることはできず、パレスチナ和平は今や完全に破綻している。 またバルカンに関しても、コソボのアルバニア人に「自治と巨額の支援金をあげるから独 立はあきらめろ」と納得させたかに見えたが、セルビアのミロシェビッチ大統領が政権を 去ることになった今、コソボのアルバニア人はしだいに独立の意志を明確にするだろう。 移民が作った国であるアメリカは、何千年もの歴史を持つヨーロッパや中東の国とは、社 会の成り立ちが異なるのに、それを深く考えずに「アメリカ型」をあてはめようとしたと ころに、問題があるように思われる。 アメリカにはハーバードのように国際問題を深く分析する人々がいる大学がいくつもあ り、その教官が政府高官のポストに就くことも多いのに、アメリカの外交政策は意外にお 粗末なものが多い。その点についてアメリカを非難するのは簡単だが、むしろそれだけ今 の世界情勢は複雑だということを表しているのかもしれない。
バイオマス・エタノール ◆バイオマス・エタノールという新エネルギー 20世紀初頭、ヘンリー・フォードは、「自動車の燃料になるのは、ガソリンではな くエタノールだろう」と考えていたという。彼がそう考えた理由は、ガソリンに比 べ、エタノールは炭素、水素、酸素の単純な組み合わせから成っている。 ややこしい説明は省くが、排出問題と動力の双方を改善するからであった。もし も、エタノールが輸送用燃料に使われてきたならば、CO2などによる今日のような深 刻な環境汚染もなかったかもしれないし、「中東問題」もずっと穏やかなものであっ たに違いない。 フォードが活躍した時代のアメリカは、「禁酒法の時代」であった。エタノールが 効率的な燃料となりうる可能性を、一度も疑問視されることなどなかったにもかかわ らず、実質的に200度のウオッカにほかならないエタノールは敬遠され、石油精製技 術の向上でコスト面からもガソリンが主流となった。 しかし最近になって、「交通燃料としてのエタノールの先行きが大きく開けてき た。遺伝子操作を施した酵素、酵母、バクテリアなどの生体触媒によって、実質的に すべての植物、あるいはセルロース・バイオマスとして知られる植物廃棄物からエタ ノールをつくれるようになった」という。 そうなると、ゴミの概念に革命が起き、文明の 基礎になる軸が変わっていくことに なる。 「現在一握りの国家(主として中東)の金庫へと流れ込んでいる数千億ドルの資金 が、植物を育てる数百万の(アメリカの)農家に行き渡るようになれば、それは世界 のほとんどの諸国にとって、国家安全保障、経済、環境面での大きな利益になる」と いう。つまり、交通燃料の生産は農業が主体を担うことになり、石油需要が大幅に減 少することになる。 これは、『FOREIGN AFFAIRS』(『論座』1999年4月号)の、「新エネルギー資源 の誕生」という論文の一節である。リチャード・G・ルガー米上院議員とジェームス ・ウールジー元CIA長官とが共同執筆したものだ。 筆者には「92年秋」以来、長いこと解けない問題があった。その謎を解くカギを提 供してくれたのが、上の論文であった。
219 :
卵の名無しさん :01/12/13 17:09 ID:Rv+CxGsS
ポセビンのいんちき発覚したんか? 一般論だけどねつ造はまずいよ、きみ〜
お前、アホやのう、ポセビンしか言う事ないんかい。 それはとっくに解決済み。。
YOSHIURA 元気にしてるか〜。。 yahooもお前やろ〜、
▼生き別れた一族の再会 セミナーが終わった後、隣席の女性と立ち話をした。最初に講演者を非難する発言をした 人である。彼女の両親は、トルコに併合された西部アルメニアの出身で、虐殺を逃れてア メリカに来た後、彼女が生まれたという。彼女が祖国アルメニアに初めて行ったのは、大 学卒業後の1961年だったが、その時に非常に不思議な経験をした。 ・・・エレバン(首都)のホテルに泊まっていたある日、ホテルのロビーで見知らぬ男性 が「あなたは○○という人を知っているか」と声をかけてきたんです。男性が尋ねていた のは、私の母の姉の名前でした。私が「知っている」と答えると「それなら着いてきなさ い」と言われ、一緒にタクシーに乗りました。見知らぬ男についていくなんて、普通なら 断るのですが、この時は別でした。トルコによる虐殺のさなかに、母は姉と分かれて逃げ、 それ以来音信不通になっていたからです。 ・・・長距離タクシーに乗って着いた村の家には、母の姉が住んでいました。私に声をか けた男性も、親戚にあたる人でした。彼はホテルのロビーで私を見掛けたとき、何かを感 じて声をかけたそうですが、私も同じように何かを感じて、彼にについて行ったのです。 これが、一族のきずななのかもしれません。 ・・・こうして私たちの一族は再びひとつになったのですが、そのとき伯母(母の姉)は 80才を越え、病気でした。私がアメリカに帰り、母を連れてもう一度アルメニアに戻っ た時には、すでに伯母は亡くなっていました。アメリカに住む一族の中で、私だけが伯母 に会うことができたのです。 彼女は、そんな身の上話を私にした後「話を聞いてくれてありがとう」と言って笑った。 ▼アメリカ人権意識の根源 アメリカ人の中には、本人や祖先がアメリカに移民する前、母国で弾圧されたり貧しい状 態に置かれていた人々が多い。トルコに弾圧されたアルメニア系の人々がその好例だろう。 アメリカ人を祖先の出身地別に分けると、多い順にドイツ(5800万人)、アイルラン ド(3900万)、イギリス(3300万)、アフリカ(3000万)となっている。ド イツからはクエーカー教徒、イギリスからは清教徒という、宗教上の弾圧を受けた人がア メリカ移民の先駆者だったし、アイルランドからもイギリスの支配下で苦しめられた人々 が移民してきた。アフリカからの黒人は、奴隷として連れてこられた。 このように抑圧された歴史を持つ移民がアメリカを構成しているためアメリカは「人権問 題」を強調し、母国の民族意識を維持できる「ハイフネーション文化」の国になったので はないかとも思える。「アメリカでは今も差別が厳しい」という指摘を良く聞くが、その 一方で公の場では、人権や差別を社会全体の問題として議論しようとする姿勢がみられる。
たとえば、大統領選挙選の一環として10月5日に行われた副大統領候補どうしの討論会 (ディベート)では「あなたが黒人だったとして、歩いているか車を運転しているときに 人種差別の攻撃を受けたら、どうしますか」というのが質問の一つだった(CNNの黒人 キャスター、バーナード・ショーが司会をつとめていた)。2人の副大統領候補はいずれ も黒人差別がアメリカに存在していることを認め、差別を減らす努力をすると約束した。 とはいえアメリカは国内の公開討論での人々の誠実な姿勢とは対照的に、外国での「人権 問題」に対しては、しばしば独善的で自己中心的な内政干渉を「正義」として相手国に押 し付けている。戦後の日本のように国際問題になるべく首を突っ込まない姿勢ならまだし もアメリカが外国のことに介入する以上は、イスラム諸国や中国など、キリスト教を中心 とした自国の社会とは異なる価値観を持つ人々に対する理解をもっと深める必要がある。 ▼民族紛争地をアメリカ型の国に変える ハーバード大学で開かれたカフカス地方に関する連続セミナーの2回目は「カフカスの人 々が平和に共存するには、全体を一つの連邦国家にするのが良い」という解決案を進めよ うとしているベルギーの大学の先生の講演をベースに討論した。 カフカスは多民族の地域だ。たとえばグルジアは人口が500万人しかいないのに、70 の民族に分かれており、分離独立を目指す勢力もいくつかある。冷戦終結以降、旧ソ連東 欧地域では「あらゆる民族は独立する権利がある」という考えに基づき、新しい国が次々 とできたが、グルジアでそれを許すのなら、大混乱になってしまうだろう。 多くの民族は、今よりも昔のある時期の方が領土が広かったという歴史を持っており、民 族主義の行き着くところは、その過去の最大領土を回復して自分たちの国家を作る、とい う主張になりがちだ。 領土が最大だった時期は民族ごとにずれており、各民族の「過去の最大の領土」は幾重に も重複している。だから多くの民族が混住するカフカスやバルカン半島では、民族主義が 強まるほど領土紛争が激しくなり、戦争が続くことになる。 こうした領土対立を乗り越えるため連邦制の考え方が出てきている。講演者は、経済政策 など、民族の違いがあまり現われない分野は連邦政府が行う一方、教育や文化など民族性 が色濃く出る分野では、民族の自治が行われるようにするプランについて説明した。 こうした体制は、すでにベルギーやスイスで実施されており、EU統合は、それを西欧全 域に拡大するものだ。バルカンやカフカスで連邦制が成功すれば、EUに加盟して先進国 に仲間入りすることも夢ではないというわけだ。 こうした計画は、EU統合が「ヨーロッパ合衆国」の建国であると欧米のマスコミで指摘 されているのと同様に、連邦に対する忠誠心と、コミュニティに対する帰属意識とを国民 があわせ持っているアメリカ流の「ハイフネーション」型の連邦国家を、カフカスやバル カンに作ろうという趣旨とも読み取れる。
▼「歴史こそが民族生き残りの武器」 ところがこの講演者に対し、グルジアからの留学生が疑問を投げかけた。「連邦制を成 功させるには、歴史を前提にして各民族が言い争うのを止める必要がある」と講演者が述 べたのに対し、この留学生は「民族のアイデンティティにとっては、歴史こそが最も重要 なものだ。歴史を語らずに、民族間の交渉などできない。大国は経済力や軍事力を武器に できるが、グルジアのように小さな国の場合、民族が生き残るための武器は、歴史的な正 当性しかない」と反論した。 歴史的な正当性とは「先祖代々住んでいるのだから、ここは自分たちの土地だ」と主張 できることである。大昔なら、そんな主張をしても武力侵略されれば弱い民族は滅びた。 だが19世紀にヨーロッパで戦争を防ぐために、今につながる「国際社会」の枠組みが作 られて以来、「歴史」が武力侵略に対抗できる理論となった。だが、まさにその理論が、 歴史が重複しているがゆえに民族紛争の絶えない地域を生み出したのである。 留学生からの反論に対して講演者は「民族が違う人々が歴史観で合意することは非常に 難しい。歴史観を議題にせずに政治交渉をしていかないと、合意することは不可能だ」と 述べ、原則論ではなく現実論で問題を解決していく必要を強調した。 この討論を聞いて、なぜバルカンやパレスチナなどの民族紛争地域で、アメリカの仲介 がなかなか成功しないのか、その一因が分かったような気がした。バルカンやパレスチナ にアメリカ型の連邦国家を作ろうとして失敗しているのではないか、ということだ。 たとえばパレスチナ和平の頂点だった1993年のオスロ合意は、アラブ・ユダヤの対 立を「経済発展」という利点で乗り越えさせ、イスラエルとパレスチナを、双方が神聖と 考えるエルサレムを共同管理できる双子の国家体制にする計画だった。だが、現実論が原 則論を乗り越えることはできず、パレスチナ和平は今や完全に破綻している。 またバルカンに関しても、コソボのアルバニア人に「自治と巨額の支援金をあげるから 独立はあきらめろ」と納得させたかに見えたが、セルビアのミロシェビッチ大統領が政権 を去ることになった今、コソボのアルバニア人はしだいに独立の意志を明確にするだろう。 移民が作った国であるアメリカは、何千年もの歴史を持つヨーロッパや中東の国とは、 社会の成り立ちが異なるのに、それを深く考えずに「アメリカ型」をあてはめようとした ところに、問題があるように思われる。 アメリカにはハーバードのように国際問題を深く分析する人々がいる大学がいくつもあ り、その教官が政府高官のポストに就くことも多いのに、アメリカの外交政策は意外にお 粗末なものが多い。その点についてアメリカを非難するのは簡単だが、むしろそれだけ今 の世界情勢は複雑だということを表しているのかもしれない。
消費社会のあとに来るもの:21世紀の価値基準とは? ●今日の繁栄は21世紀へのツケを前提としたもの 欧米史の大きな流れの一つは、宗教を社会の周縁に追いやるというプロセスだった。過 去数世紀、一神教は企業活動の自由を容認する方向で変容を遂げてきた。そして20世紀 後半には消費社会が誕生し、宗教に対する理性の勝利は決定的になったかに見えた。 物質主義の時代には、消費社会の価値観が人々を支配し、宗教は生活から完全に締め出 された。個人の満足は内面的なものではなく、生活水準の向上によってもたらされるもの となり、宗教はその役割を剥奪されたからである。 だが、宗教を歴史のかなたに葬り去る前に、消費社会の本質と仕組みを見ておくことは 無意味ではない。物質主義を礼賛していた人々も、生活の豊かさが保証されなくなれば、 あっさりと宗旨替えすると思われるからだ。 人々を眩惑したグローバルな繁栄は、奇跡的にも過去50年間続いてきた政治的・社会 的安定に大きく依拠していた。この安定が崩れれば、必然的に繁栄にも翳りが差す。 あいにくと、消費社会は自らの破滅を準備してきた。20世紀の繁栄は、来世紀に大き なツケを残すことで支えられてきたからだ。しかも、現代の物質文化にどっぷり浸かって いる人には気の毒と言うしかないが、消費社会は自らの矛盾に気づいていない。 消費社会は「持続」ということとはおよそ無縁だ。伝統的な社会では、宗教や社会規範 や道徳律が理性に歯止めをかけていた。それらの規範は社会を硬直させたが、集団の長期 的なニーズには適っていた。 160 :卵の名無しさん :01/11/24 22:58 ID:??? ●軌道修正がきかない暴走機関車 それとは対照的に、消費社会はあらゆるものを物質的欲望に還元する。消費社会そのも のが生み出す不満すらも例外ではない。その中で消費拡大主義はエスカレートの一途をた どる。迫りくる破綻に備えて調整することができない暴走機関車だ。 この暴走する怪物は、やがてはクラッシュする運命にある。なぜならそれは、あり得な い前提の上に成り立っているからだ。すなわち、資源は無尽蔵にあり、自然はいかなる人 為的収奪にも耐え、市場は効率的に機能するという前提である。 生態系が崩れ、気候が変動し、経済・政治的な混乱が広がるにつれ、人々はそのような 前提の虚妄性に気づくだろう。 足下から安定が揺さぶられれば、多くの人々が消費社会の神話に背を向け、自分たちの 置かれた苦境を説明するものとして、宗教に救いを求めるだろう。人はいよいよ追い詰め られたら考えを切り替えるものだ。もはや物質的な豊かさが期待できないとなれば、人々 は非物質的な充足感に慰めを求めるだろう。 とはいえ、人々はどこにそれを求めるのか。今日すでに世界中に見られる原理主義の復 活(キリスト教、イスラム教、ヒンズー教など、あらゆる種類の原理主義だ)に、その答 えの一部を見いだせる。 社会的混乱に直面したとき、一部の人々は時代の流れに逆行する形で内に閉じこもる。 イランのイスラム革命が明らかにしたように、グローバルな繁栄の最中ですら、一国の人 々が一世代以上にも渡って、禁欲的かつ残酷な神権政治を受け入れるといった事態があり 得るのだ。
●かつて生態系保護は宗教の一部だった 主要な宗教の一部の分派が時代錯誤的な試みに走る一方で、混乱の中から意味ある教訓 を引き出そうとする一派も出てくるだろう。生態系に対してわれわれが犯した罪の代償を、 次の世代が支払わねばならない状況下で、すでに世界の主要な宗教の内部では、自然の教 えを教義に採り入れようとする動きが出てきている。 われわれが今陥っている苦境は、少なくとも部分的には、自然をただのモノ――もっぱ ら人間の快楽とニーズのためにつくられた無尽蔵な冷蔵庫――とみなす、現代の一神教の 信仰と無関係ではない。 学者や神学者は今、古代のキリスト教やユダヤ教やイスラム教 の経典を渉猟し、神の創造物である自然の不可侵性を、原点に立ち返って問い直している。 人類の歴史を通じて、生態系保護の考え方はタブーとして文化の中に組み込まれてきた。 世界各地の先住民族は、生態学の知識など持ち合わせなくても、タブーを犯せば豊穣と多 産が脅かされるという思いから、森林なり生物なりを保護してきた。 このような畏怖 の念は、どんな生物多様性保護の国際条約よりも、自然のシステムの保護に効果を発揮す る。「地球の生命維持システムを不用意にいじることは極めて危険なゲームだ」という危 機意識が広がる中で、そうした畏怖の念がより現代的な衣装をまとって再浮上しつつある。 ●「何でもあり」の消費社会はもはや過去のものに このような危機意識は宗教的なトーンを帯び、将来的には再び宗教的な畏怖の念が、生 態系保護のルールを支えるようになるかもしれない。 さらに、安定が崩れれば、よりラ ディカルな宗教上の実験も盛んに行われるだろう。新旧の衣装をまとった汎神論が勢いを 盛り返すこともあり得る。 霊感を受けた予言者が、既成宗教よりもうまく21世紀の混沌とした世界を説明する、 まったく新しい宗教を興す可能性もないわけではない。歴史を振り返っても、波乱の時代 にはこういう現象が起きるものだ。 21世紀半ばに消滅していることがほぼ確実なのは、消費社会である。静かに終息する にせよ、大破綻を迎えるにせよ、持続不可能なことはすでに証明済みだ。著名なコラムニ ストのハーバート・スタインの言葉をくだいて言えば、永遠に持続できないものは、しょ せん持続しないのである。 人類が、20世紀の代表的な発明品である、資金と技術革新、生産と分配の偉大なシス テムを完全に放棄することはまずありえない。だが、良きにつけ悪しきにつけ、消費社会 のあとに来るのは、今日の自由気ままな「何でもあり」の環境よりも、はるかに厳しい文 化的・宗教的な抑制のもとに機能するシステムではないだろうか。
● アメリカに作られたテロリスト 今、西洋の敵である人物は、以前には西洋の友だった前歴がある。 追放されたサウジの億万長者で、ワシントンからケニヤとタンザニアのアメリカ大使館爆 破事件の背後にいる立案者にしてそれ以前の一連のテロ攻撃に関与していると告発された オサマ・ビン・ラディンは、かつて自由戦士としてCIAに歓迎されていた。 彼は、1980年代にはソ連のアフガニスタン占領軍と戦ったモジャヘディン・ゲリラの戦士、 財政家、新人募集者としての役割をCIAに歓迎された。彼の軍は、CIAによって兵器を供 給され、MI6からは英国製ブロウパイプ対空ミサイルを供給された。 北東アフガニスタンのホスト(Khost)にある彼のキャンプ――木曜日の合衆国巡航ミサ イル攻撃のターゲット――は、CIAの援助によって作らたものだ。 ビン・ラディン氏は、敵の敵は味方という原則によって合衆国に後援されていた。彼もお そらくは同じような計算をしたのだろう。アフガニスタンのソビエト占領がうち負かれた 時点で、ビン・ラディン氏は同じイスラムの敵と見なした合衆国に敵対するようになった。 超イスラム教徒タリバンの指導者も、西側からパキスタンに供給された兵器を装備してい たが、そのタリバンによってアフガニスタンで護られていたあいだ、彼の数千の中東出身 の戦士が、対ソ戦から故郷のエジプト、アルジェリア、イェメン、スーダン、サウジアラ ビア、その他に戻った――仕事がほとんどなく、政治的には独裁状態である地域における 一種の武装イスラム教徒のディアスポラ(離散)である。 ビン・ラディン氏は40代のとき、おおよそ3億ドル(約1億9000万ポンド、450億円)も の資産を幸運にも、サウジの建設王である養父から相続した。以前の仲間のハレド・フア ワズ(Khaled Fuawaz)はリーダーズ・ダイジェスト最新号での回想で「ビン・ラディン 氏はアフガニスタンの戦争のとき、彼のファミリー企業を使って山を通す新道建設のボラ ンティアを申し出た」と述べている。 ロシアのヘリコプターに身をさらすような運転手が見つからないときには、彼は自らブル ドーザーを運転し、フアワズ氏がそれを維持した。 アフガン・モジャヘディンへの彼の支援は、最初、サウジアラビアによって促された。し かし、まもなく、彼の目的が中東から西側、特にアメリカを操ることだとはっきりした。1990 年のイラクのクウェート侵攻後、合衆国がかかわらないようにバグダッドをうち負かす援 助を申し出て、サウジ防衛長官、皇子スルタンと会見したと報告されている。
ある匿名のサウジ公務員はリーダーズ・ダイジェストに語った。「ビン・ラディンは王子 サルタンの前で地図を広げた。彼はアメリカの援助なしにイラクをうち負かす方法につい てのあらゆる計画を有していた。王子サルタンは、イラクの戦車、航空機、生物化学兵器 をどうするのかという計画を尋ねた。ビン・ラディンは『我々は信仰によって彼らを破る』 と述べた」 西側諜報機関によると、ビン・ラディン氏とその部下たちは、一連のテロ攻撃にかかわっ てきた。これには、1995年リヤドでのサウジ国民兵訓練センター爆破、1年後のダーラン 知覚の軍事兵舎爆破――ここではアメリカ人が19人死んだ――を含む。彼はダーラン攻撃 を「賞賛に値するテロリズム」と述べながらも関与を否定した。 彼は、1993年ニューヨークの世界貿易センター爆破事件の黒幕ラムジ・ヨウセフとのつな がりがあり、その追従者たちは昨年11月のエジプト・ルクソールでの旅行者虐殺と結びつ けられてきた。 1994年、王室批判のために、ビン・ラディン氏はサウジ市民権を剥奪され、家族から勘当 された。そしてスーダンに移動することを余儀なくされた。彼は合衆国の懲罰の脅しのも とに1996年にそこから追放され、アフガニスタンに戻った。ワシントン・ポストが昨日報 じたところによると、彼が過去15か月間すごしてきた場所は、木曜日の合衆国攻撃の場所 の200マイル南で、強化基地として使用しており、カンダハール(Kandahar)市の 外で重 装備された丘の上の施設である。 2月には、ビン・ラディン氏によって支援される新しいグループ――ユダヤと十字軍に対 するジハードのためのイスラム国際戦線(the Islamic International Front for Jihad Against Jews and Crusaders)――が声明を発表した。「我々は――神の助けのもと――神を信じ、神の 命令を果たそうと望むすべてのイスラム教徒は、どこでもいつでもアメリカ人を殺し、彼 らが見つけたカネを奪うよう、命ずる」。この命令は、エジプト、パキスタン、バングラ デシュのイスラム武装指導者によって署名されている。 水曜日、ロンドンのアラビア語新聞、al-Hayatがグループから、新しい「聖なる戦闘作戦」 を誓約し、合衆国に対して「どこからでも打撃を続ける」と警告するさらなる声明を受け 取った。 オサマ・ビン・ラディンは、実際のところ、合衆国の有名人というわけではないが、もし これから数週間のうちにアメリカ人を殺害するという誓いを実行するなら、多分そうなる だろう。 合衆国国務省によって「世界のイスラム教過激派活動家で最も重要な資金支援者の一人」 とレッテルを貼られたビン・ラディンは、ここ数年の多くの主要なテロ攻撃と主導権に関 連がある――世界貿易センター爆破事件、クリントン大統領と法皇暗殺計画、サウジアラ ビアとソマリアでの合衆国軍攻撃など。
彼は数百万ドルを使って、スーダン、フィリピン、アフガニスタンのテロ訓練キャンプに 資金を出し、チェチェン、タジキスタン、さらにボスニアで、革命を煽動し、北アフリカ じゅうのイスラム原理主義軍とともに戦うために、聖戦士を送り込んだ。 1958年生まれのビン・ラディンは、サウジアラビアの最も裕福な建設業者の52人の息子の うちの十七男である。サウジの情報源の記憶では、彼は普通の青年だったが、強烈な信仰 が現われ始めたのは、彼の一族の会社が再建にかかわったメッカとメディナの古代の聖な るモスクに魅了されたときであった。 1980年代、ビン・ラディンは快適なサウジの自宅を離れ、ソ連に対するアフガン聖戦に参 加した――皮肉にも、合衆国がCIA経由でアフガン・レジスタンスに30億ドルを出資した のはこの戦いのためだった。 ビン・ラディンはアフガンのアラブ人のリーダーとなり、地域のヒーローとなったが、最 初から最後まで合衆国の影響からは慎重に距離を置いた。戦争は、合衆国政府の憎悪と、 過激なビン・ラディンの政策を結びつけた。 後、彼はサウジ王家を「イスラム教徒には不十分だ」と述べ、運動を過激化させるために、 暴力の使用をますます主張するようになった。サウジ政府はビン・ラディンを追放したの で、スーダンに亡命した――しかし、合衆国、エジプト、サウジの圧力で、五年後、その 国からも追放された。1996年、彼はアフガニスタンへ亡命した。 タリバーンと親密な元ムジャヘディン司令官によれば、アフガニスタンでビン・ラディン は、隠遁者で片目のモハメド・オマルの指揮下、カブールのタリバーンの攻略に出資し、 オマルの最も信頼される顧問となった。 ビン・ラディンは、一族の50億ドルの資産のうち、3億ドルを個人的に統制しているとい われている。テロの財政家としての彼の役割は中枢的である、と専門家はいう。なぜなら、 彼は彼自身の私的なテロネットワークを構築し、投資することで、過激派運動への投資に 革命をもたらしたからである。 ビン・ラディンは運動に、彼自身の財産だけでなく、商才をも捧げた。そして、「イスラ ム救済財団(Foundation for Islamic Salvation)」と呼ぶ漠然としたネットワークを通じて― ―その情報源は、合衆国、ヨーロッパ、中東の企業からカネを集めていると述べる――強 力な修道者は、世界中のテロ運動の振興に資金を送り込んできたのである。 John Miller: ABCNEWS.com:ニューヨーク、6月12日 ――もし彼が望まなければ、私 達は「世界で最も危険なテロリスト」を発見していなかっただろう。オサマ・ビン・ラデ ィンは伝えるべきメッセージを持っていた。彼はアメリカ人がそれを知り、恐れてほしが っている。 専門家はよく言う。テロは劇場だと。スポットライトの中にいなければ、聴 衆に感動を与えることはできない。私達はテロリストに舞台を与えることについて ABCNEWSを批判する電子メールを数多く、ここ数日受け取っている。
しかし、ビン・ラディンの脅迫は信頼できるものとなり、国務省は中東を旅行するすべて のアメリカ人に警戒するよう警告した。私達の見地からすれば、彼は大衆が知る必要のあ る人物である。 ●国境を越える 彼のキャンプに至るために、私達はある接触者とともにパキスタンの最北端の町に旅行し た。彼は私達を3日間かけて、ビン・ラディンのためにチェックした。アクラムと自称す るこのエージェントは、私達の装備を点検し、質問をし、信任状を確かめた。西洋人がほ とんど旅したことがない地域に入っていると言われた。そして、伝統的なイスラム教の衣 服を着るように言われた。 国境の手前の最後の町で、アクラムは長い髭とターバンの老人に会った。彼は責められて いるようだった。私達は裏口を通って、老人の家の後ろの壁で囲まれた中庭に追いやられ た。中には、カラシニコフ機関銃が壁にかけられていた。戦車と手榴弾を図示するポスタ ーがあった。私達は食事を与えられ、眠れるなら寝るように言われた。アフガニスタンへ の旅は何時間もかかるだろう。私達は夕暮れに出発することになった。 ●タリバーンを避ける アクラムは、国境に向かったのと同じトラックの後ろに私達と乗ったが、別の人たちもい た。国境はタリバーン市民軍に統制されている。タリバーンは生き物をビデオ撮影するこ とを禁じており、さらに厄介なことに、ビン・ラディンにこれ以上公式声明をさせたくな いと言っていた。 私達のカメラ装置を運ぶためにトラックが必要で、選択が与えられた。ドンがベールをか ぶり、トラックの後ろで女性の旅行者に変装するか、闇の帳が下りた山々を歩いて、アフ ガン国境監視者に見られないように進むか。歩いて超えることが、成功率が高いと思われ た。私達のガイドは、何マイルにもわたって乾いた河床へと導いた。1時間半後、私達は 最後の丘を下った。私達は今、アフガニスタンにいた。私達の装備を積んだトラックは、 山の下で待っていた。 ●執拗な攻撃 私達は何時間も岩ばかりの谷を進んだ。道に似たようなものはなにもなかった。私達はビ ン・ラディンのいくつかのチェックポイントで止められた。私達のカメラ機材は取り上げ られた。ビン・ラディンのメンバーは、すべての装備を内も外もチェックしようとした。 彼らは、私達の装備を心配していると言った。隠された発信機で、ビン・ラディンの場所 を空襲でピンポイント攻撃できるというのだ。ひじょうに疑い深い人たちだった。
ここもやはりポセビン関係者か・・・?
二日間、私達はキャンプの兵舎で待った。私達は床に毛布で寝た。それから、第2夜、ビ ン・ラディンが会うと告げられた。カメラマンのリック・ベネットと通訳と私は、無蓋小 型トラックの後部座席に乗り込んだ。会ったことのない二人の男が運転していった。後部 窓は暗く着色されていて、窓を上げておくように命ぜられた。どこに行くかを見られたく ないのは明らかだった。 私達は3時間、道を、河床を来るまで走った。数マイルごとに、イスラムの服装の人が背 後の岩から飛び出し、銃を指さしてトラックを止めるように命じる。運転手は、進路を開 けさせるための通過証を忘れていた。チェックポイントごとに、彼らはビン・ラディンの 基地に無線で相談していた。 ●突然の発砲: さらに数マイル山を登ると、私達の上から機関銃が発砲された。着色ガ ラスをとおして私が見ることができたのは、二つの兵器からの銃口のきらめきであった。 心はこんな瞬間には駆けめぐる。だれが撃っているのか? なぜ? 弾丸は車に当たるの か?金属衝撃音は聞かなかった。ガラスも割れなかった。わたしは窓の線より少し下に下 がろうとしたが、私達3人が後部座席に押し込まれており、カバーする余地はなかった。50 発を数えただろうか。わたしの心は粉々になった。 しかし、わたしが見上げたとき、運転手とそのパートナーはまっすぐに座っていて、窓の 外を見ていた。彼らは心配していないようだった。わたしは落ち着いて座った――それは 単なる威嚇射撃だった――別のチェックポイントへ。彼らは無線を聴いていなかったので、 私達に驚いたのだ。それから彼らは私達をおどかした。彼らは窓を通して銃倉を押し、目 に閃光を光らせた。別の無線が鳴り、私達は丘の上に行くように言われた。 ●ついにビン・ラディンがあらわれる 私達がついて数分後、ビン・ラディンが到着した。彼の4輪駆動トラックに挨拶するため、 真夜中の空に数百の曳光弾を打ち上げた。「彼が着くときには、いつも大騒ぎなんだ」と ビン・ラディンの補佐官の一人が言った。 私達は、インタビューへの条件として、16の質問のリストを提出していた。ビン・ラディ ンは、その質問すべてに答えると言っていた。最後の数分に、私達は、追加質問はしては ならず、ビン・ラディンは答えを同時に翻訳させないといわれた。私達はニューヨークで それが翻訳されるのを待たねばならない。ビン・ラディンがアメリカ人を棺桶で故郷に送 り返すことを誓っているが、その一方で私達は彼の誠実さを見ている。私達は彼が言って いることはわからなかったし、翻訳者がインタビュー後に翻訳をくれるまでわからなかった。 山を下りて戻ったときには夜明けだった。私達は数時間、国境まで運転していった。私達 は乾いた不毛地帯を歩いて超えた。パキスタンに戻り、私達は老人の家に戻った。彼はバ ンを手配して「世界で最も危険な男」のテープと一緒に、私達をイスラマバードまで送っ てくれたのだった。
アフガニスタンのどこか、5月28日 ――武装イスラム闘士は、南アフガニスタンの山々 を歩いて、オサマ・ビン・ラディンの秘密の隠れ家にABCNEWS通信員ジョン・ミラーと そのクルーを導いた。サウジアラビアの億万長者は、私的なテロ・ネットワークに、これ から数週間以内にアメリカ人とユダヤ人を殺害するよう命じていた。これは、合衆国政府 が世界で最も危険なテロリストと考えている人物への、ミラーのインタビューである。 オサマ・ビン・ラディンは、敵についてはっきりと話した。その重要ポイントは次のとお りである。 重要ポイント アメリカ市民をターゲットにしている彼のfatwa 世界貿易センター爆破事件との関係 クリントン大統領暗殺計画との関係 合衆国破壊への熱望 サウジ王家破壊キャンペーン 次の標的の場所 全世界的テロとの関わり sheik Rahmanとの関わり ジョン・ミラー:ビン・ラディンさん、アメリカ人にとって、あなたは興味深い人物です。 富と安楽のあるところから、前線での戦いにやってきました。多くのアメリカ人は、それ は普通ではないと考えるでしょう。 オサマ・ビン・ラディン: ビン・ラディンのアフガニスタンの隠れ場所の正確な位置は、厳しく守られた秘密である。 (Magellan Geographix/ABCNEWS.com) アラーに感謝する。イスラムを理解していないなら、理解するのは難しい。我々の宗教で は、アラーは、アラーを崇拝するために我々を創造したと信じている。アラーは我々を創 造し、この宗教で我々を祝福し、聖戦「ジハード」を実行して不信仰者の言葉の上にアラ ーの言葉を掲げるように命じたのだ。 我々が財力があろうと従わなければならないというのは、信仰の一形態であると信じてい る。これは、立ち上がってイスラムに戻る理由は財政難だからだと主張する西洋人とアラ ブ世界の世俗論者への返答である。それは正しくない。実際、人々がイスラムに戻るのは、 アラーからの恩恵であり、彼らがイスラムに戻ることがアラーのために必要なのである。 これは奇妙なできごとではない。ジハードの時代、数千人の裕福な若者たちがアラビア半 島その他の地域を去った――そのうち数百人がアフガニスタン、ボスニア、チェチェンで なくなった。彼ら殉教者にアラーのお恵みがあるよう祈る。
ジョン・ミラー:あなたは、「世界最高手配者」とされています。アメリカ政府はあなた をとらえれば数百万円の懸賞金を払うつもりだという話もあります。これをどう思います か? それはあなたを悩ませるでしょうか? オサマ・ビン・ラディン:アラーを称えよ。アメリカ人が何を考えるかは気にならない。 我々が気にするのは、アラーを喜ばせることだ。アメリカ人は、自分の宗教や自分の権利 を信じている人たちに、自分たちを押しつける。連中は、テロリストであるパレスチナの 我々の子どもたちを告発している。その子どもたちは武器を持っておらず、聖人に達して さえいないのだ。同時に、連中は飛行機と戦車で国を防衛し、ユダヤ国家は、これらの子 どもたちの未来を奪うことを政策としている。 クリントンはQanaのために主張し、子どもの首を切り約100人を殺害した恐ろしい虐殺を 援護している。クリントンは、イスラエルが自己防衛の権利を持っていると述べ、主張す る。アメリカの主張や、我々の首への懸賞金がかけられた事実などを心配してはいない。 イスラム教徒として、我々の運命が設定されていると信じている。もし全世界が、我々の 時代が来る前に我々をみなつかまえて殺すと決定しようと、我々は死なないだろう。我々 の人生は設定されているのだ。アメリカがリヤド政権にどれほど大きな圧力をかけて我々 の財産を凍結し、この偉大なる大義に人々が寄与することを妨げようとも、我々はアラー を信頼している。 ジョン・ミラー:「もしアメリカ人が勇敢なら、連中は来て私を逮捕するだろう」とおっ しゃいました。私の国が何かそのようなことをすると考えているのですか? オサマ・ビン・ラディン:過去10年間、アメリカ政府の没落、そして、冷戦遂行の準備は あっても長期戦を戦う準備のないアメリカ兵の弱体化を見てきた。これは、ベイルートで の二つの爆破のあとで海兵隊が逃げ出したときに証明された。それはまた、彼らが24時間 未満で逃亡できることも示し、これはまたソマリアで繰り返された。我々はすべての出来 事に備えている。我々はアラーを信頼している。 ●アメリカ人に対するファトワ ジョン・ミラー:ビン・ラディンさん、あなたは全イスラム教徒に、できるところででき るときにはアメリカ人を殺すよう呼びかけるファトワを発行しました。それは全アメリカ 人を狙っているのですか、アメリカ軍だけですか、サウジアラビアのアメリカ人だけですか? オサマ・ビン・ラディン:我々がすでに述べたように、アラーは我々に、イスラムの土地 からすべての非信仰者を除去するよう、この宗教で命じた。特に、カーバ神殿があるアラ ビア半島から。第2次世界大戦後、アメリカ人はより攻撃的に、強圧的になったが、それ は特にイスラム世界においてであった。
235 :
1 :01/12/14 00:26 ID:AUNBYQnR
↑ ついにラデン登場
我々は、この質問がアメリカ人から出されたことに驚いている。それぞれの行動は、同様 の反応を導くだろう。我々は、イスラム教徒、イスラム教徒の子供と女性を悪から遠ざけ ておくために、このような処罰を用いなければならない。アメリカの歴史は、民間人と軍 人を区別していないし、女性と子供すら区別していない。長崎などへの爆弾を使った連中 なのだ。これらの爆弾は子供と軍の区別をつけることができるだろうか? アメリカは、 すべての人々を破壊することを防ぐような宗教を持っていないのである。 パレスチナにおけるイスラム教徒に対する諸君の状況は恥ずかしいものだ。アメリカに恥 というものが残っているとすればだが。シオニストとキリスト教の軍の間の協力のあった サブラ(Sabra)とシャティラ(Shatilla)における虐殺で、子供たちの頭上で家が破壊さ れた。また、イラクにおける臨時労働者の証言によれば、アメリカは100万人以上のイラ クの子供たちの死という結果に終わった処罰を遂行したのである。 これらすべてはアメリカの利益の名においてなされた。我々は、世界最大の泥棒にしてテ ロリストは、アメリカであると信じている。我々がこれらの猛攻をかわせる唯一の方法は、 同様の手段を使うことだ。 我々は、軍服を着た者と民間人の区別をつけない。彼らすべてがこのファトワの標的であ る。特にホバル(Khobar)爆撃後、アメリカの役人は、すべてのアメリカ市民が大使館の 治安部門に連絡をとってイスラム教徒と活動家についての情報を得るように呼びかけてい る。ファトワは、イスラム教徒の殺害者、聖地攻撃者、イスラムの領土を占拠しているユ ダヤ人の援助者をもすべて含んでいるのである。 ●世界貿易センター爆破 ジョン・ミラー:ラムジ・ヨウセフは信奉者でした。あなたは彼を覚えていますか? あ なたは彼を知っていましたか? オサマ・ビン・ラディン:ラムジ・ヨウセフは、世界貿易センター爆破後、有名なイスラ ム教徒となった。イスラム教徒なら誰でも彼を知っている。あいにく、私は事件前には彼 を知らなかった。 彼はアメリカの侵略からイスラムを守ったイスラム教徒として記憶している。イスラエル の利益を守るため、ユダヤ人を守るためにアメリカ政府がイスラム教徒を攻撃したのだと アメリカ人に知らしめるために、この事件を起こしたのだ。 アメリカ人は、ラムジ・ヨウセフに続く多くの若者を見ることになろう。 ジョン・ミラー:ラムジ・ヨウセフが逮捕されたとき、あなたが支払いをしていた迎賓館 にいたというのは本当ですか? オサマ・ビン・ラディン:ニュースで報道されて私が知っているのは、彼がパキスタンの ホテルで逮捕されたということだけである。
●大統領暗殺計画 John Miller: ワリ・カーン・アミン・シャー(Wali Khan Amin Shah)はマニラで逮捕され ました。アメリカ当局は、彼があなたのために働き、あなたに資金援助され、その地に訓 練キャンプを作り、その計画の一つとしてマニラ訪問中のクリントン大統領暗殺計画があ った、と信じています。 オサマ・ビン・ラディン:ワリ・カーンはイスラム教徒の青年である。アフガニスタンで は、彼は「ライオン」とあだ名されていた。彼は最もよい青年の一人である。我々はよい 友人であった。我々は、アラーが惨めな敗北によって彼らを追い払うまで、ロシアと、同 じ塹壕でともに戦った。あなたは、彼がわたしたちのために働いたと言ったが、我々のな かにはだれか他の人のために働く者はいない。我々はみなアラーのために働くのであり、 アラーの報酬を末のである。そして、クリントン大統領暗殺計画についてあなたは述べた が、それは驚くことではない。私はそれについて知らなかったが、驚きはしない。 私が言ったように、すべての行動は、同様の反応をもたらす。クリントンは、彼が殺した 者たち、その子供や母親を攻撃した者たちから何を期待するというのだ? それは驚くよ うなことではない。 ジョン・ミラー:合衆国の連邦当局は、現在も、エル・ホハル(El Khohar)とリヤドで 合衆国軍を攻撃するようにあなたが命じ、投資したという疑いについて捜査しています。 オサマ・ビン・ラディン:アメリカ政府をなだめるためにサウジ政府が人々を投獄したあ と、我々は人々とイスラム教徒を目覚めさせ、Ulimaからファトワを実行した。最も有名 なのは、デーク・サルマン・ビン・ファハド・アル・オデー(Dhekh Salman bin Fahd al-Odeh)と、サファド・ベン・アブデル・ラーマン・エル・アウリ(Safad ben Abdel Rahman el Awli)であった。 そこで我々がこれらのファトワを伝え、聖地から敵を排除するために人々を立ち上がらせ たので、人々の中には、ハレド・エル・サイード(Khaled el-Sa'eed)、アブデル・アジズ ・エル・メテム(Abdel Azziz el Me'them)、ハムード・アル・ハジェリ(Hamood al Hajery)、 ミスレー・エル・サムライ(Misleh el Samray)のように、聞き入れる者もいた。彼らの殉 教にアラーの恵みあらんことを。イスラエル国家の頭を高く上げ、アラーの地におけるサ ウジ政府のアメリカ政府との協力によって与えられた不名誉を取り除くよう、彼らは望ん できた。 預言者に祝福あれ、その計画に従ったこれらの若者が、偉大なる英雄であり、殉教者であ るとみなす。我々は呼びかけ、彼らは答えた。我々はアラーに、彼らを受け入れ、耐え忍 んだ彼らの親たちに恵みがあるよう祈る。 ジョン・ミラー:あなたはアメリカでテロリストのリーダーという烙印を押されていま す。あなたの信奉者にとって、あなたは英雄です。あなた自身ではどう考えていますか?
オサマ・ビン・ラディン:以前にも言ったとおり、私はアメリカがどう言うかは気にして いない。我々自身と我が同胞たちは、崇拝してその書と預言者に従うように我々をお作り になったアラーの崇拝者であると見なしている。私はアラーの崇拝者の一人である。私は アラーを崇拝しており、それはアラーの言葉を掲げて全イスラム領からアメリカ人を追い 立てるためにジハードを実行することも含まれる。 ● 合衆国破壊への熱望 ジョン・ミラー:アフガニスタンでムジャヒディーンがロシアを破るとは誰も考えていま せんでしたし、誰もが驚きました。将来、中東におけるアメリカの関与と、あなたのよう なグループのとる未来についてどうお考えですか。 オサマ・ビン・ラディン:アメリカの作ったNATOは、ヨーロッパとアメリカをロシアか ら守るために兵器を改良するのに4億5500万米ドルを費やしている。それでいて彼らは一 発も撃っていない。アラーはイスラム教徒、アフガニスタンのムジャヒディーン、他のイ スラム諸国出身の者とともに戦う者とともにいらっしゃる。我々はロシアと元ソ連邦と戦 って、言うまでもなく彼らをうち破ったが、アラーが破ったために彼らはいなくなったの である。学ぼうと思う者に対して、これは学ぶべき教訓である。 ソ連邦は1979年の12月の最後の週に侵入し、アラーの助けでその旗は数年後の12月25日に 引きずり下ろされて投げ捨てられ、ソ連邦と称するものは何も残らなかった。 預言者に祝福あれ、彼によって約束されたアメリカ人とユダヤ人に対するアラーの勝利と 我々の勝利を、我々は確かなものにしている。「審判の日は、イスラム教徒がユダヤ人と 戦うまで来ないであろう。ユダヤ人は木と石の影に隠れ、木と石は告げて語る、『イスラ ム教徒よ、私の後ろにユダヤ人が来て彼を殺した』と」。 我々は勝利を確信している。我々のアメリカとの戦闘は、ロシアとの戦いよりも巨大なも のだ。アメリカ人はかつてだれも犯したことのない非常に愚かな誤りを犯した。彼らはイ スラム教のシンボルである2億人のキブラ(Kibla)を差し押さえた。この反応は、イス ラム教徒の学者と若者を非常に奮い立たせたのである。 我々は、アメリカのための黒き日と、合衆国の合衆国としての終焉を予告する。そしてそ れは分裂状態となり、我々の土地から退却して、息子たちの遺体を集めてアメリカに送り 返すことになるであろう。アラーはそれを望んでいらっしゃる。
記念碑は三二年(昭和七年)に建てられたものという。四五年八月の日本敗戦に際し「日 帝の遺物だ」として破壊された。もとは台座があり高さ四メートルの塔のようになってい たのだが、台座と碑面の一部だけが残った。 その後、地元の警察分署前のドブ板に使わ れていたのを文化財調査の学者が見つけ、本署の倉庫に保管した。石碑は花こう岩で大き さは縦一・六メートル、横六十センチ。上部三分の一あたりで二つに割れている。 碑文は漢文で「接敵艦見之警報聯合艦隊欲直出動撃滅之本日天気晴朗波高(敵艦見ゆと の警報に接し、連合艦隊は直ちに出動しこれを撃滅せんと欲す、本日天気晴朗なれども波 高し)」となっている。 例の有名な一文である。この後に「平八郎書之」と刻まれている。 まだ石碑は保管されているのだろうか。復元話はどうなったのだろうか。 巨済島は 一九〇八年当時は巨済郡だったが今や巨済市になっていた。碑は市庁の物置にあった。保 管というよりバケツやホウキ、こわれたいす、不要の機材などとともに雑然と置かれてい た。ほこりをかぶり、刻まれた碑文もよく見なければそれとは分からない。 復元話の方は、郡庁など地元も日本人向けの観光資源として活用できると賛成し、日本 側から資金援助の申し出もあり、当時の全斗煥大統領にも慶尚南道視察の折に復元計画案 が報告されたという。 ところがこの話を地元の一部新聞が特ダネ報道したことから、抜かれた他紙の記者たち が「聖域に日帝の亡霊復活!」と一斉に非難記事を掲載し、つぶしにかかった。 「聖域」とは、既に紹介したようにこのあたりが秀吉の水軍を撃退した救国の英雄・李 舜臣将軍の「民族守護」の古戦場だからだ。 マスコミに反日キャンペーンを展開される ともうダメだ。ソウルの各種民族団体も騒ぎ出し復元計画は結局、流れてしまった。 この一部始終を知っている地元の郷土史家・李勝哲氏(市文化公報室勤務)に島を案内し てもらった。彼は「日本は百済(くだら)文化など韓国の文化をちゃんと保存している。わ れわれは韓国から日本文化をなくそうと熱心だが、日本に支配された恥辱も歴史は歴史だ。 残してなぜそうなったのか反省、教訓にすればいいのに、それを無くそうとするのは間違 いですよ」と力説する。今でも市当局に復元を建議しているという。 記念碑は東郷平八郎の旗艦「三笠」が停泊していた鎮海湾や、艦隊の主力が待機してい た加徳島が見える松真浦(ソンジンポ)にあった。今は畑になっている。 この鎮海湾や 加徳島での東郷艦隊の様子は司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に詳しい。その中で、東郷 艦隊の出撃に際して水雷艇(魚雷艇)のある艇長が「李舜臣提督の霊に(勝利を)祈った」と いうエピソードが紹介されている。 また日本のある海軍少佐が書いた本では「英国のネルソン以前の海の名将は世界史上に おいて李舜臣を除いてなく、朝鮮においては長く忘れられたが、かえって日本人の側に彼 への尊敬心が継承され、明治期に海軍が創設されるとその業績と戦術が研究された」とも いう。
●サウジ王室 ジョン・ミラー:サウジ王室の未来と、そのアメリカ、ならびに合衆国軍との関係はどう なると考えていますか。 オサマ・ビン・ラディン:歴史はあなたの質問への回答を示している。国益を売り、国民 を裏切り、イスラム国家から取り除く行動を行なったいかなる政府も、成功しないだろう。 ユダヤ人・キリスト教徒とともに立ち、聖なる神殿アル・ハラミエン(Al-Haramien)を ユダヤ人とアメリカ国籍その他のキリスト教徒に没収されたリヤドの指導者とその一族 は、滅亡するであろうと予言する。彼らはイスラム国家から離れてしまった。 我々は、イラン王室のシャーのように、ちりぢりになって消えるであろうと予測する。ア ラーは彼らに最も聖なる地の富を与え、石油からの未曾有の富を与えたが、彼らは罪を犯 し、アラーの贈り物の価値を貴ばなかった。我々は、イスラム国家に対する大惨状が、特 にイラクのイスラム教徒に起こったあと、破壊と離散があるだろうと予言する。 預言者は「猫のために女は地獄に行った。彼女はそれに食べさせず、自分の食事を猫から 隠した」という。彼女は猫に食べさせずに死に追いやったために地獄に行ったが、イラク のイスラム教徒の数百万人を隔離するために数十万の軍勢を送るのに合意して理屈を付け た者はどうなるのだろうか? ジョン・ミラー:サウジ政府は、アメリカ軍にとどまっていてもらいたがっていると思い ますか? オサマ・ビン・ラディン:これは違いを作るわけではない。アメリカの反対、侵略、貪欲 はいまだに存在しているからである。彼らは政府の言葉によって来た。政府がとどまって ほしいと考えようと離れてほしいと考えようと、違いは生まれない。若者たちがあなた方 に木の箱と棺桶を送るとき、あなた方はアメリカ軍人と民間人の遺体をそこに入れて去る ことだろう。あなた方が去るのはこのときだ。 イスラム大衆は、イスラム世界を解放することに向かって進んでいる。アラーは望んで いる。我々は勝つ。 ●次の標的 ジョン・ミラー:あなたのメンバーがソマリアのアメリカ人を相手にしたときの状況を詳 しく説明してくれませんか? あなたはどこにいたのですか? オサマ・ビン・ラディン:アラーが我々にアフガニスタンでの勝利をもたらしてくださ り、正義が明らかになり、イスラム国家のイスラム教徒を数百万人殺害した者たちが死ん だのち、イスラム教徒の精神から、超大国神話が取り除かれた。若者たちはアメリカを超 大国として見るのをやめた。アフガニスタンを離れて、彼らはソマリアに向かい、長い戦 いの準備をした。アメリカはロシアと同様になるだろうと考えて。
しかし、彼らはアメリカが30万人の大軍を送り込んだときには驚いて、世界中からさらに 多くの軍勢を集めた――パキスタンから5000人、インドから5000人、バングラデシュから 5000人、エジプト、セネガル、その他サウジアラビアなどからから5000人。 若者たちは アメリカ兵の士気の低いのに驚き、アメリカ兵は張り子の虎だという思いを以前よりもは っきりと認識した。数回の打撃のあと、世界の指導者、新世界秩序(ニューワールドオー ダー)の指導者による湾岸戦争と基盤施設の破壊――そして乳児用人工乳工場、食糧生産 に必要なすべての民間工場、橋、ダムの破壊――を残して、アメリカは鳴り物入りの宣伝 やメディア・プロパガンダもすべて忘れて、敗れて逃げた。 何度かの打撃の後、彼らはこの見出しを忘れ、死体と不名誉な敗北を引きずって逃げ、そ ういう見出しを使うのをやめた。そして、アメリカという名前は実態よりはるかに過大評 価されていることを思い知ったのだった。 これが起こったとき、私はスーダンにいて、この大いなる敗北を大いに喜んだ。それはす べてのイスラム教徒を喜ばせることである。アラーは、次の勝利がサウジアラビアのヘジ ャズとナジドであることを望んでおられ、それはアメリカ人にベトナムとベイルートの恐 怖を忘れさせるほどのものになるだろう。 ジョン・ミラー:多くのアメリカ人は、アフガニスタンで起こったような軍対軍の戦いは 双方の軍にとって栄光であるけれども、世界貿易センターのように民間人や子供が殺害さ れるような爆弾を仕掛けるのはテロリズムだと考えています。 オサマ・ビン・ラディン:彼らが受け入れているわけではない話をしているね。アフガニ スタンでの我々の勝利とロシアの敗退後、アメリカのメディアに誘導されている世界のメ ディアは、我々に反対するキャンペーンを始めた。ロシア人は1989年、ほとんど10年前に 撤退したという事実にもかかわらず、それは今でも続いている。本物のテロリスト、アメ リカ人に対してムジャヒディーンがとったいかなる行動もないのに、我々をテロリストと して糾弾するキャンペーンを行なってきたのである。これは一方的だ。 一方で、アメリカの政策は、民間人と軍人と子供、人間と動物を区別しているとは認めら れない。たとえば、私は以前に長崎と広島のことを話した。ここでは、彼らはすべての人 々を除去しようとした。イスラム教徒に対しては、イラクの子供たちの数十万人の死を証 言した西洋人とキリスト教徒の証拠がある。そして、Qana、イスラエル人とShattila、ディ ル・ヤシン(Dir Yasin)とボスニアがある。 十字軍戦士は、我々の母、姉妹、子供たちの虐殺を続けた。アメリカはいつも彼らを支援 する決定を行ない、イスラム教徒からのミサイルを防ぎ、セルビア人がイスラム教徒を虐 殺するのを認める決定を行なってきた。あなた方は、これらの行動を防ぐような宗教を持 っているのではない。だから、あなた方は同じような目に遭うことを反対する権利はない。 すべての行動は反応を導く。犯罪には処罰がふさわしい。同時に、我々の主要な標的は軍 人であり、そこに働いている者である。
我々の宗教は、戦闘員ではない無辜の子供、女性を殺害することを禁じている。自分自身 が塹壕に入る女性兵士は、男性兵士と同じ扱いを受ける。 ●全世界的テロ統合 John Miller: あなた方のように、アメリカを攻撃するための方法と手段を決定する別の集 団の指導者による高次の会議は存在しますか? オサマ・ビン・ラディン:アメリカ人が聖地に侵入後、イスラム世界にはかつて見たこと のない多くの感情が巻き起こった。大会議は数日前にパキスタンで開かれ、それにはパキ スタンの150人の学者が参加した。会議の目的は、聖地を解放するために働き、この地域 のイスラム大衆の間の努力を調整することであった。 また、アラーの祝福で、アフガニスタン、インド、その他のイスラム国家の学者たちから の個人的ファトワが通過したが、ここに偉大な合同ファトワが通過した。協力はこの宗教 の一般的支援者の間に広がりつつある。この努力から、「ユダヤ人と十字軍に対するジハ ードのための国際イスラム戦線」が作られ、それは他のグループとともに我々も加わって いる。これはユダヤ人と十字軍に対するジハードを遂行するイスラム教国家の奮起を調節 する最高会議を有する。 ジョン・ミラー:大多数のアメリカ国民はオサマ・ビン・ラディンの名前を知らないが、 まもなく知られることになるでしょう。アメリカ国民に何かメッセージがありますか。 オサマ・ビン・ラディン:アメリカ国民は、指導者の地位を売国的な指導者に委ねた、と 言いたい。これは、クリントン政権で特にひじょうに明らかになっている。アメリカ政府 は、アメリカの内部のイスラエル勢力を示すエージェントであると考えている。国防総省 や国務省のように現在の政府の機密省庁や、CIAその他の機密治安機関を見れば、我々は ユダヤ人がアメリカ政府で第一の発言権を持っており、それこそ彼らがアメリカを使って 世界、特にイスラム世界での計画を遂行する方法なのである。 聖地にアメリカ人がいることは、ユダヤ人を支援し、ユダヤ人の背後を安全にすることに なる。数百万人のアメリカ人が路上生活者で、生活水準以下、貧困ライン以下で生活して いるこの時代、イスラエルが我々の土地を占領して聖地に植民地を建設するのを助けるよ うにアメリカが向かっていることがわかる。 アメリカ政府は、ユダヤ人の利益のために、サウジアラビアにいるアメリカ人の生命を見 捨てている。ユダヤ人は聖なる書コーランの中でアラーが、ウソと殺害によって預言者を 攻撃した人々、マリアを攻撃して大罪によって彼女を告発した人々であると示しておられ る。彼らは、アラーの預言者を殺した人々だ――彼らは殺し、犯し、人類から盗まないだ ろうか?
彼らは、全人類は自分たちが使うために創造されたと信じており、アメリカ人は最も使い 勝手のいい創造物であると思っている。アメリカ政府は、アメリカを破壊に導き、アメリ カは次の10年間にも超大国であると信じて疑わない者たちもいる。 だから、一国民としてのアメリカ人に告げる。兵士の母たちに、一般のアメリカの母親た ちに告げる。自らの命と、子供たちの命を大切に思うなら、国益を求め、ユダヤの利益を 求めるのではない愛国的な政府を見つけよ。 専制政治が続くことは、アメリカに戦いをもたらす。ラムジ・ヨウセフその他のように。 自らの国益を求めて他人、他の土地、他の名誉を攻撃しないようなまともな政府を求めよ、 というのがアメリカ国民への私のメッセージである。 ジョン・ミラー:ビン・ラディンさん、わたしたちの聞きたいことはほとんど終わりまし た。私が尋ねていなくて、あなたが付け加えたいことはありますか? オサマ・ビン・ラディン:我々はイスラム教徒大衆との密接な関係があるということを強 調したい。アラーを称えよ。聖地解放問題は個人的な欲望ではなく、私は一人のアラー崇 拝者であり、そしてイスラム国家のアラーの兵士の一人なのである。運動は早く、軽く前 進している。そして、アラーの助けにより、我々のアメリカとユダヤ人に対する勝利を確 信している。我々は、反応の大きさに確信を得ている。彼らは立ち去ることを毎日遅らせ ている。そして彼らが毎日ぐずぐずしているあいだ、彼らはイスラム国家から新しい死体 を受け取ることになろう。 サウジアラビア政府は数か月前、断食月(ラマダン)に、数多くのミサイル、対空ミサイ ル、SAM、ストリンガー・ミサイルを押収した。海外で、250名の兵士の載った輸送軍事 飛行機に対してSAMミサイルが発射されるとき、アメリカ政府は国民にいいわけできる のだろうか? 彼らはその死を正当化できるのだろうか? サウジアラビア政府が押収し たものは、捕捉されていないものよりはるかに少ない。アメリカ政府は、もし固執するも のが残っているなら、特に聖地から、そしてすべてのイスラムの領土から息子たちを引き 上げる以外の方法はない。そして、我らの領土を占拠しているイスラエル政府とユダヤ人 を如何なる方法でも援助することを控えることだ。 ●シャイフ(長老)・アブデル・ラーマンとの関係 我々は、アメリカ政府のイスラム教徒に対するいかなる攻撃についても、また国民の利益 に反する我々の国々の政権に対する支援についても、完全な責任を課す。我々はまた、イ スラムの象徴、シャイフ・アブデル・ラーマンへの攻撃にも責任を課す。この方はアラー が真実を語るように勇気を与えた最も優れたイスラム教学者の一人と思われる。 彼は健康状態が悪いと聞く。そして60歳の年齢であって盲目であり、アメリカの扱いはひ どい。シャイフ・オマルの投獄は、イスラム教の宗教、そして諸国に対する攻撃である。 我々は、シャイフ・オマルの投獄に、そして他のアメリカにいるイスラム教徒の投獄に責 任を課す。
アメリカのジャーナリストに対する私の言葉は、「我々がなぜそれを行なったかを尋ねる な。彼らの政府が何をすることによって、我々自身を守らざるをえなくしたのかを尋ねよ」 ということだ。私の言うべきことはこれですべてである。 ジョン・ミラー:どうなさるつもりか、短くお答えいただきたいのですが、アブデル・ラ ーマンが先週発表した新しいファトワについて述べる機会はありましたか? オサマ・ビン・ラディン:ない。 ジョン・ミラー:あなたの持っている銃の話、それをどうやって手に入れたかをお伺いす ることができるでしょうか? アフガン戦争のとき、キャンプへの3日間攻撃にいたロシ ア人との接戦で手に入れたというような伝説がいろいろあるのです。 オサマ・ビン・ラディン:我々はロシアとの危険な戦いをくぐり抜けた。ロシアについて 語るのは、西洋に知られている残忍さと危険さで充分だ。彼らは我々に毒ガスを使い、私 はそれを浴びた。彼らは我々の場所に航空機を使い、我々は多くの兵士を失ったが、以前 と違って、多くの特殊急襲部隊攻撃を阻止することができたのである。 ジョン・ミラー:歴史によれば、1897年、テディ・ルーズヴェルトは前線で戦った栄誉あ る状況で成長した裕福な人物であり、軍とは別の自分の部隊を集め、自分自身のメンバー を厳選し、戦闘に赴きました。あなたは中東版のテディ・ルーズヴェルトに似ています。 オサマ・ビン・ラディン:我々はアラーの崇拝者であり、我々の任務を遂行する。我々の 義務は、すべての国家に、光と結合するよう呼びかけることだ。我々の第一の義務は、こ の宗教の民であることであり、この宗教のために戦うことである。 我々が発展してから、 アメリカの兵器は我らの頭上に、我らの子供と母親の頭上にやってきた。Qanaその他の ように。 西洋人は、我々が虐殺者であるかのような印象を持ってきた。彼らはまさに、 東欧、トルコ、アルバニアなど、イスラム教を保護し、数世紀にわたって幸福に共存して きた隣人たちに目を向ける必要がある。イスラム教徒を虐殺者としか報道せず、はるかに 多数の虐殺されてきた我々の数については示さない、ユダヤ・メディアの影響のもとに西 洋大衆は置かれている。 人々を光に導くのが我々の義務である。
どれだけの痛みを覚悟する必要があるか 小泉政権の登場で、改革が国民の圧倒的支持を集めている。改革なくして回復なし、痛み なくして改善なし(no pain no gain)、も今や国民のコンセンサスである。もっとも国民は、 どれほどの犠牲を払う必要があるのかについて、十分に覚悟ができているとは考えがたい。 株式市場は改革政権歓迎相場を演出のさなかにあるが、今後改革に伴う痛みが明らかにな るにつれて、下落場面に入っていくのではないか。今後改革進展の過程で予想される痛み とは、大きくわけて2つあるだろう。 まず予期される第1の痛みは、景気・雇用の落ち込みである。過去5年間、政府の需要創 造がなければ、経済は著しい縮小となっていたはずである。外需を除けば政府需要だけが 肥大化した。過去5年間、名目GDPがほぼ500兆円と横ばいの中で、政府部門債務は年 平均63兆円、対GDP比13%のペースで増加し続けた。この間、政府部門は家計貯蓄増加 額を100%吸収してきた。つまり、政府の需要創造で民間所得が維持され、それがまるま る政府にファイナンスされるという、ほぼ完璧な社会主義的貯蓄・投資循環が、1990年代 以降の日本経済の背骨となってきたのである。財政支出による景気下支えを批判する小泉 政権の下では、そうしたミルク補給は期待しがたい。それが途切れる時の痛みの大きさは 容易に想像される。 しかし、もっと深刻かもしれない第2の痛みは、国民財産の大規模な喪失であろう。少し 気が早いかもしれないが、今後日本で大規模な財産権の剥奪が起こることを予期しておく 必要がある。現在が明治維新、戦後の改革に続く近代日本で第3回目の開国、変革期であ るとの認識は多くの人々が共有する。
過去の変革期には体制の変化、既得権益の喪失などとともに、財産権が大規模に剥奪され た。第1回の財産権剥奪は、明治維新時の1869年から1876年にかけての士族階級を対象に した秩禄処分である。1986年の版籍奉還による家禄の削減に始まり、1876年の秩禄処分、 金録公債証書の交付で完了した。士族に永続的に保証されていた俸禄米を得る権利を、剥 奪し紙切れにしたことで、政府の所得は著しく増加し、新たな投資原資が調達された。そ れを基盤として新たな財閥が形成されたのである。第2回の財産権剥奪は、第2次世界大 戦後の新円への切り替え時である。1946年2月の預金封鎖、500円を上限とした現金引き出 し制限、1946年3月の旧円500円を限度とした新円交付と旧円の廃棄である。国民の金融資 産は紙くずとなり、旧来の資産家層は没落した。同時に進行したインフレで金融・産業資 本が救済された。これはその後の新興財閥勃興の起点となった。 それに対して今回予想される財産権の削減は国民の国に対する債権である。1人あたり個 人金融資産は、2000年時点で1093万円だが、そのうち607万円が預金、保険掛け金などを 通しての政府部門への債権(投資・融資)となっている。1人当たり個人金融資産は、1990 年から2000年までの10年間に747万円から1093万円へと346万円増加したが、このうち公的 セクターへの融資は303万円から607万円へと倍増した。なんと過去10年間に増加した個人 金融資産の88%が公的セクター向け債権だったのである。 1人あたり607万円(1人あたりGDPの1.5倍)という巨額の貯蓄をなぜ政府部門に融資 しているのか。国の担保資産は僅少である。また公的セクターは利払い、返済資金の原資 となるキャッシュフローも産み出さない。唯一の保証と言えるものは徴税権である。つま り「私は国に600万円融資する。なぜなら国は私に対して600万円の徴税権を持っているか ら」と言うことである。それはまさしくジョークの世界である。1人当たりの納税額は年 間ほぼ30万円である。600万円はその20年分に相当する。私が国に600万円も納税する(つ まり資産を減らす)ことなしには、私の国への融資も返済されないことになる。 経済成長の加速、増税(消費税主体)により超長期間にわたって返済をする、というシナ リオがあったが、今やそれは不可能である。刺激的財政の下でも名目経済は収縮し、税収 は減少、金融機関救済もあり財政赤字は拡大の一途、というのが現在の財政状態である。 いずれ家計の金融資産価値は、(1)インフレまたは(2)強制評価減(国の借金棒引き)で、 大幅な目減りを余儀なくされるだろう。今後訪れる経済困難、株安、円安、金利上昇のプ ロセスで、それが広く認識されることとなるだろう。国民は嵐が訪れる前に自分の資産防 衛を果たしておくべきである。
皆殺しの天使 (1) 十七世紀フランスの絶対君主ルイ十四世をたたえて作られたパリのバンドーム広場は、こ の町の名所の中でも最もパリらしい雰囲気を伝える場所として知られている。千二百門の 大砲を溶かして鋳造された中央の青銅の塔はナポレオンの像を頂き、世界の宝石業界のト ップを形成する宝飾店やショパン臨終の地となった旧ロシア大使館などの歴史的建造物が 広場をぐるりと取り囲んでいるからだ。 欧州の富の蓄積を象徴するかのようなその建築群の中でも、華麗さと重厚さでひと際、群 を抜いているのがホテル、リッツである。今年一月二十一日朝、氷点下三度の冷え込みの 中でリッツは異様ともいえる熱気に包まれていた。二階にある六つのスイートルームを使 って午前十時からシャネルの春夏オートクチュール(高級仕立て服)のショーが行われるか らだ。時間通りに集合することはめったにないフランス人の記者やカメラマンが緊張した 面持ちで招待状と身分証明書を示し、正面玄関を足早に通り抜ける。二階の廊下付近では カメラマンたちが最良の位置を確保するために殺気立った雰囲気さえ漂わせている。 突然、テレビカメラのライトが輝き、だれかが「マダム・シラクだ」と叫んだ。カメラマ ンたちが、その声の方向になだれを打って走り出す。招待客の一人、シラク大統領夫人が 到着したのだ。 ●熱気と喧噪 ファッション界でこう言われてからすでに久しい。高級仕立て服の時代は 去ったという指摘は大衆化が進む世界の現状の中でもっともらしい説得力をもって伝えら れてきたが、リッツを包む熱気と喧噪はオートクチュール・ショーが決して「死の祭典」 ではないことを物語っていた。 パリには年四回、ファッションの季節が訪れる。一月と七月にオートクチュール(正式加 盟十五社)、三月と十月にプレタポルテ(高級既製服=正式加盟二十六社)のショーが開か れるからだ。「パリ・コレクション(パリコレ)」とはそれらの総称であり、世界中から集 まる記者は各シーズン千人にも達している。そのパリコレのハイライトとされているのが シャネルのオートクチュール・ショーであることを私が知ったのは20世紀特派員の取材を 始めてからだった。 この町の数多くの国際イベントと同様、パリコレも事前に主催者のパリ・クチュール(服 飾製造業)協会に申請しておけば取材はほぼ可能である。ところがシャネルの場合、プレ タポルテの招待状は届くものの、オートクチュールの招待状が届くことは一度もなかった。 ●名前の魔力 「ココ・シャネルという創始者のロマンとなぞが染み込んだ名前の魔力、 メゾン(店)の持つ伝統の力、モード界をリードする現主任デザイナーのカール・ラガフェ ールドの才気。モード記者にとってシャネルは必見のショーですよ」 フランスの女性週 刊誌「エル」のフランソワーズ・デュク記者はこう語る。パリコレの中でも「シャネルの オートクチュール」は別格であり、招待状は厳選されたモード記者にしか届かないという わけだ。
勉強の歌
沢井をガンダムに例えると ジム(ガンダムのゾロ)
250 :
社長へ :01/12/15 00:32 ID:91/q4pyD
そろそろ合併考えた方がいいんじゃない!外資ゾロでも新薬でも儲かれば ゾロでも新薬でもやってくるんじゃないの〜? それと、2ちゃんじゃよく見るけど病院廻ってるMRっているの? おいら、見たこと無いンだけどサぁ〜??
久しぶりにこのスレッド見に来たけど まだポセビンねつ●のもみ消し工作がつづいているのか?
252 :
社長様へ :01/12/15 00:55 ID:j4r4JLwf
外資に売り渡さないで下さい。 将来の天下り先は温存しておきたいですから。
249から252は、一人芝居、
その招待状を何とか今年は手に入れ、私もちょっと緊張しながらリッツに出かけた。パリ コレの大半はルーブル美術館地下の広大なホールで開かれているが、シャネルは昨年から オートクチュール会場をリッツに移し、招待者も千五百人から三百五十人に絞った。「モ デルが目の前を通るので細部が分かるし、布地に触って感触を味わうこともできる。マド モワゼル・シャネルのショーの原点に戻したかったんです。それにリッツはシャネルゆか りの場所ですから」と株式会社シャネルの広報担当責任者ド・クレモントネール氏はその 理由を説明する。 九八年に創業百周年を迎えるリッツは数多くの逸話に彩られている。開館式にはマルセル ・プルーストが出席し、皇太子時代の英国王エドワード七世はこのホテルを定宿にしてい た。アーネスト・ヘミングウェーはパリ解放の四四年八月二十五日、米軍とともにナチに 接収されていたホテルに到着し「リッツを解放する」と叫んでいる。 そんな逸話の主人公の中でも最も有名なのがココ・シャネルである。彼女は一九三四年か ら七一年一月十一日に八十七歳で生涯を閉じるまで、このホテルに住んでいた。「ココ・ シャネルが使っていたスイートはいまも最も人気があり、空き部屋になることはめったに ありません」とリッツの担当者はいう。 カンボン通りにあるシャネルの店はホテルから歩いて五分ほど。「気に入らないとショー の直前に出来上がったドレスを全部ほどいて縫い直しを命じた」(アトリエ主任だったマ ノン・リグール氏)という完ぺき主義者シャネルにとって職住接近のホテル暮らしは、ぜ いたくである以前に仕事のための欠くことのできない条件だったようだ。 こうしたきらびやかな合理性はシャネルの服にも反映されている。「典雅だが着やすくて 着崩れしない」とフランソワーズ・ジルー氏は指摘する。フランスの代表的週刊誌「レク スプレス」の共同創立者でジスカールデスタン政権時代に女性の地位省、文化相を歴任し たジルー氏も閣僚時代にはシャネルを愛用した。 公式の場でオートクチュールを着用することは、フランスの大統領夫人や女性閣僚にとっ て半ば義務でもある。オートクチュールを含めたデラックス産業は石油、車、武器などに 次ぐフランスの重要産業なのだ。 第一次大戦後のパリで活躍した米国の写真家マン・レイの作品にシャネルの写真がある。 絵はがきになるほど有名なその写真の中のシャネルは横を向いてカメラを見ようともしな い。それは、ひとつの時代と一人の個人との恋愛にも似た緊張関係を示しているかのよう に見える。 皆殺しの天使(2) ひた隠しにされた少女時代 ガブリエル・ボンヌール・シャネルは一八八三年八月十九日、パリから南西約三百キロの ロワール川流域の町、ソーミュールで生まれた。豊かな川辺に中世の城が並び「フランス で最も美しい」といわれる地方である。詩人デュ・ベレーが「芸術の母フランス」と歌っ たのもこの地のことだ。
しかし、一九七四年にモード雑誌「ヴォーグ」の元編集長でゴンクール賞作家のエドモン ド・シャルル=ルーによる伝記「シャネル ザ・ファッション」が出版されるまで、シャ ネルの出生地はこの町ではなく、フランス中央部のオーベルニュ地方とされることが多か った。シャネル自身がそう語っていたからだ。「あたしは、オーベルニュの消ゆることの ない火山そのものだ。馬のたてがみのように黒い髪の毛、煙突掃除のひとのように黒いま つげ、オーベルニュの山の溶岩のような黒い肌」(「獅子座の女シャネル」)日本では虚実 が混同されて「オーベルニュ地方ソーミュール」などと紹介されてもいる。 ●出生証明書 ソーミュールを訪ねてみた。タクシーの運転手からホテルの受付まで大半の市民はいまも、 「シャネルの家」の所在地どころか、この町がシャネルの生地であることさえ知らない。 しかし、市役所ではさすがに確認することができた。ナポレオン以来の行政王国フランス らしく出生証明書が保存されていたからだ。 「一八八三年八月二十日午後四時、ソーミュール市救済院の職員、ジョセフィーヌ・ペル ラン、独身、六十二歳が出頭し、同救済院で昨日午後四時に出生した女児の出生証明書を 申告。女児は商人アルベール・シャネル、二十三歳、住所サン・ジャン通り二九番地、同 じく女商人ウジェニー・ドゥボール、二十歳の子で、同女は夫と同所に住んでいる。女児 の名前はガブリエル」この日、市庁舎には助産婦と思われるジョセフィーヌ・ペルランの ほかに救済院の職員二人が出頭した。三人とも読み書きができなかったため市長が署名し ている。また女児の両親の結婚証明書などいっさいの書類がなかったことから、届け出は 口頭で行われ、「シャネル」のつづりも「CHANEL」ではなく「CHASNEL」と 間違って記入された。両親が籍を入れるのは翌年十一月だ。 ソーミュールの名所に「ウジェニー・グランドの家」がある。バルザックが一八三二年に 発表した純愛名作「ウジェニー・グランド」の女主人公の家だ。正確にはモデルの女性が 住んでいた家なのだが、「ウジェニー・グランドの家」の標識が掲げられ、町中がその存 在を誇っている。バルザックはこの地方がお気に入りで、「谷間の百合」の主人公にもこ の地への愛着を述べさせている。 後にシャネルは「顧客の家に招待された初めてのデザイナー」とも言われるようになる。 一九〇〇年ごろまではどんなに成功した大デザイナーも、あくまで「出入り業者」であり、 顧客の家、つまり社交界から招待されることはなかった。フランスは現在も少数エリート が支配する国だが、こうした階級意識の残存が「シャネルの生家」より文豪バルザックの 小説のモデルの家を優遇する背景となっているのかもしれない。 シャネルの死後、多数の伝記が出版された。中でも正統派「シャネルの伝記」としてシャ ネル本社などが推薦するのが外交官で作家だったポール・モランが一九七六年に出版した 「獅子座の女シャネル」だ。
モランは第一次大戦後の無秩序と狂騒の時代、そして同時にフランス芸術の栄光の時代で もあった一九二〇年代の「ラネ・フォル(狂気の時代)」に流行作家として活躍した。ちょ うどシャネルが認められ始めたころだ。十九世紀的なものすべてを葬り去ったとして「皆 殺しの天使」と呼ばれるようになるシャネルの本質をいち早く、見抜いたのもモランだった。 しかし、第二次大戦中、ビシー政府の外交官だったモランは戦後、「コラボ(対独協力者)」 として外交官を免職になり、年金もはく奪されて、スイスで一種の亡命生活を余儀なくさ れていた。「獅子座の女シャネル」の出版は一九七六年だが、その内容は四七年にモラン がスイスでやはり隠とん中のシャネルから聞いた話を一人称でまとめたものだ。シャネル が生前、自ら流布した《履歴書》を忠実に再現すると同時に、その孤独な姿が浮かびあが り、確かにシャネルの心の真実を伝えたということはできる。 シャネルはこの再会した旧友に夜を徹して自分の半生を語り続けた。少女時代については、 孤児同様の寂しい日々を送ったもののブルターニュ地方の金持ちの二人の叔母に預けら れ、修道院経営の学校で教育を受けたと述べている。 ●孤児院へ… しかし、実際はシャネルが十二歳だった一八九五年に母親が結核のため に三十三歳の若さで死亡し、以後十八歳まで仏中央部オーバジーヌの孤児院に預けられて いた。シャネルには一歳上の姉、二歳下の弟、四歳下の妹、六歳下の弟がいた。七歳下の 弟もいたが生後、まもなく死んでいる。母親が出産を繰り返す間、父親は常に不在だった。 そして父親はシャネルを孤児院に預けると、二度と彼女の前に姿を現さなかった。シャネ ルの洗礼名「ボンヌール」は「幸福」の意味だけに哀れだ。しかし母親の病死も父親が行 商人であることも貧困層の出身であることも孤児院で育ったことも非難されるべきことで はない。例えば同時代の米国であれば、むしろ輝かしい成功物語を際立たせることになる はずのこうした少女時代を、シャネルは生涯、ひた隠しにした。 ●実像と裏切り 「本が出版されたときはシャネルの神話を壊した、と非難ごうごうで した」とシャルル=ルーは当時を振り返る。彼女はモード記者として生前のシャネルと親 しかった。「ほとんど、毎週会って食事をした」という仲だ。それだけにシャネルの実像 を説き明かした彼女に、裏切られたという思いをもつ人も少なくなかった。その感情はシ ャネルに近い人ほど強い。 シャネルは生前、コレット、ケッセル、ミシェル・デオンら名のある作家に伝記を書かせ ようとしたが、結局、実現しなかった。六カ月間、シャネルのところに通って話を聞いた 後、執筆を放棄したミシェル・デオンは「彼女のいとこ、めい、おいなどに話を聞き、無 名時代の写真を見つけ、出生証明書を探し出し、第二次大戦後のスイスの生活を加え、彼 女が語る自伝とは別の伝記を書くことも可能だったかもしれない。しかし彼女への友情と 愛情と尊敬がそれを阻んだ。彼女のうそをそのままにしておきたかった」と告白した。
少女の瞳に焼き付いた騎兵 ココ・シャネルの生地、ソーミュールは十八世紀から騎兵学校の所在地として知られてい る。そもそもシャネルの父親がソーミュールにやってきたのも毎年、騎兵学校の広場シャ ルドネールで開催される騎兵たちのショー「カルーセル」を見物にやってくる観光客にク レープ菓子を売るためではなかったか。 現在は正式名を「陸軍機甲・偵察訓練学校」と呼ぶこの騎兵学校の起源は、ルイ十四世の 弟が率いる騎兵連隊が一七六三年にソーミュールに駐屯したときにまでさかのぼる。そし てルイ十五世の時代の軍人で、騎兵を重視したショワズールは、一七六六年から七〇年に かけて、広大な訓練場と校舎を建設し、騎兵養成学校を創立する。床や階段に大理石が使 われている壮麗な校舎は現在も使われており、フランス陸軍の往時がしのばれる。 ●伝統ある学校 ナポレオンは騎兵の用兵に天才ぶりを発揮したが、その騎兵隊もソーミ ュールで鍛えられたものだ。ロシアの帝政時代にはツァーの近衛兵がこの学校で学ぶなど、 外国から修練にきた将校も多かった。 日露戦争の沙河戦で秋山好古の騎兵が最左翼を守 ったのに対し、最右翼の「宮さま旅団」を指揮した閑院宮載仁親王もサンシール士官学校 のほかにここで学ばれている。 仏国防省の解禁秘密文書の中には、一八八八年五月十二日付で東京のフランス公使館戦争 省軍事アタッシェ、ブーグイン大佐が仏戦争相にあてた書簡が含まれている。そこには閑 院宮が「現在、ソーミュールの学校の生徒である」との記述もある。 日露戦争を前に、ロシアと同盟国だったフランスが日本に関する情報をかなり収集してい たことを、これらの秘密文書は明らかにしている。また、日本では当時、海軍は英国式を 取り入れたものの、陸軍は当初、徳川幕府のフランス式を引き継いでいたことから日仏の 軍事関係は現在よりずっと密接だった。 後にプロイセン(ドイツ)が普仏戦争に勝ったため、陸軍はドイツ方式に切り替えられるの だが、このことを残念がるフランス人がいまだに多いのにも驚かされる。彼らに言わせる と、第二次大戦でドイツと組んだ日本が敗戦する遠因はここにあるというのだ。 ただし 騎兵だけはフランス式を堅持した。司馬遼太郎の「坂の上の雲」によると、日露戦争で活 躍した日本陸軍の騎兵部隊の生みの親、秋山好古がフランス留学中、硬直美を基本とする ドイツ式は「人間の姿勢として不自然であるため騎手は長時間の騎乗にたえられなくなり、 疲労ははなはだしい」とみて、おりから訪仏した山県有朋にフランス式の有利さを直訴し たからだという。 「坂の上の雲」には、秋山好古が後年、陸軍大学校で講義したときの話も書かれている。 好古は講義の最初に「騎兵の特質とはなにか」の命題をかかげ、いきなりかたわらの窓ガ ラスをげんこで突き破って「これだ」と言った。 「騎兵は地上にたかだかと肉体を露出 している」と好古は講義を続ける。このため「容易に敵の銃砲火を受け、全滅する例も戦 史にはざらにある」「が、いかなる兵科よりも機動性に富み、効果的に奇襲に成功するこ とができる」「しかも騎兵は、一騎一騎はよわいが、これを密集させてよき戦機に戦場に 投入すれば信じがたいほどの打撃力を発揮する」というのだ。
この「打撃」を好古はガラスをやぶることで示し、しかし「打撃」を発揮した後に全滅す るかもしれない危うさを素手が傷つくことで表した。 ●頭を高々と… シャネルの生涯を考えているうちに、このエピソードを突然、思いだ した。機を見るに敏だった上、いつも頭(こうべ)を高々と上げて人生と時代に果敢に挑戦 しつづけたシャネルの生涯と、この騎兵の特質が二重写しになって見えてきたからだ。 何よりもシャネルのモード哲学が騎兵の特質を示していないだろうか。現在も世界中の女 性を魅了しているシャネル・スーツの原点は、女性が一人で自由に車の乗り降りができる ということを前提にデザインされた。そのモードはまず、十九世紀の絞りに絞っていたウ エストをゆったりと解放し、床に引きずっていたスカート丈も短めにして何よりも機動性 を尊重することから始まった。 「坂の上の雲」には久しぶりに会った兄の好古の服装を見て、弟の真之がその華やかさに 驚くシーンもある。陸軍士官学校から帰ってきた馬上の兄は「肋骨三重の上衣というのは 他の兵科とおなじであったが、金条(きんすじ)の入った真っ赤なズボンをはき、サーベル の刀帯も革ではなく、グルメットという銀のくさり」という姿だった。 軍服の中でも騎兵の制服は各国とも飛び切り華やかだとされているが、好古は常々、「身 辺は単純明快でいい」と言い、服装のことで真之を「歴とした男子は華美を排するのだ」 と叱責したこともあった。それだけに、この仏陸軍の影響を受けた派手な騎兵の制服に対 する真之の驚きは大きかったろう。 ソーミュールの「陸軍機甲・偵察訓練学校」の付属博物館には歴代の騎兵の制服が展示さ れている。黒、ブルー、ベージュなどの色鮮やかな制服の金ボタンや詰め襟スタイルは、 なんとシャネル・スーツの特色に似ていることか。 ●鮮やかな印象 また、シャネルが孤児院から出て最初に行った町、ムーランにはこの時 期、えり抜きの猟騎兵第十連隊が駐屯していた。 エドモンド・シャルル=ルーの「シャ ネル ザ・ファッション」によると「フランス最高の精華というべき男の集団」であり、 彼らは「薄手の綾絹の軍帽や、山羊の毛で七本の肋骨をつけ、三列の金ボタン、袖に巧み に飾り紐を縫いつけた長外套や、騎兵だけが着ているような空色のブルーの上着」で町を 闊歩していたという。 シャネル・スーツの原型が騎兵の制服にあったことは今ではほとんど定説になっているの もうなずける。騎兵の町ソーミュールはシャネルの生地であるばかりか、シャネル・スー ツのルーツでもあるわけだ。 シャネルが母親の腕の中で見物したはずの「カルーセルの ショー」は一八二八年に始まり、いまも続いている。人口約二万三千人の小さな町には毎 年、このショーを見るため三万人の観光客がやってくる。 そして最新型戦車の行進やオ ートバイの曲乗りなども登場するショーの最大の呼び物は、かつて幼い少女の胸にも鮮や かな印象を刻み付けたに違いない騎兵の乗馬演技である。だが、シャネルは生前、ソーミ ュールの名を口にしたことはなかった。
いい加減にしろ
おいおい、シャネルはパート3だろ。 場所を間違えましたね。
261 :
卵の名無しさん :01/12/15 17:32 ID:P6m+6ow2
ポセビン大問題になりそうだな この荒らしのために
262 :
1 :01/12/15 19:35 ID:rV0PLAmU
一人芝居じゃねくて自作自演だろバカ
点けたり消したり大変だなぁ〜。。。でも、ニュースソースとしてありがたい!
ケンタンあげ
恩恵も負の遺産も一身に: ココ・シャネルが生まれた一八八三年八月十九日付のフラン スの新聞、フィガロ紙は二人の人妻の不倫事件がトップ記事だった。見出しは「二つの裁 判」。 第一の事件は、副知事と情事を重ねていた人妻を夫が告訴し、人妻は三カ月の禁 固刑を言い渡された。ところが、副知事は無罪放免となっている。理由は彼が「公務員だ から」だった。 第二の事件は二年間、南米に出掛けた夫の留守に、「当然のことながら愛人を持った」人 妻の不倫事件である。ある日突然、帰国した夫はわが家に「自分の後任者どころか後継者」 がいるのを発見した。不倫で告訴された妻は「夫を裏切ったわけではない。死んだと思っ たからだ」と必死に主張したが、判決はやはり二年の禁固刑だった。夫は「妻の相手も訴 えたかったが公務員だからできなかった」と悔しがった−。 フランスは当時、「女は果樹が園芸家の所有物であるように、男の所有物だ」としたナ ポレオン法典によって結婚制度が厳しく規制されていた。カトリックの国フランスでは中 絶も協議離婚も一九七五年まで認められなかった。裏返せば、厳しい結婚制度の裏で愛人 を持つ習慣が大いに認められていたともいえよう。 この記事を書いたアルベール・デルプル記者は公務員重視の「裁判の不公平」を批判す る一方で、夫の後任者のみならず後継者まで作ってしまった人妻の不用心を「ちょっと早 すぎる」と批判した。突然、帰国した夫に対しても「予測できた事態」と、その無分別を 冷笑し、「現代に適合しないこうした古い法律のもと」では「バルザックの小説のような ことがたくさんある」と慨嘆している。 一方、当時の高級週刊紙で「世界新聞」と副題を掲げた「リラストラッション」の一八 八三年八月二十五日号は、十九日の日曜日に地方議会選挙が実施され、共和党が千四百四 十五議席中千十二議席を獲得して勝ったことを伝えている。 共和党は一八七一年に第三 共和政の初代大統領に選出されたティエールらが育てた党だ。共和主義的ブルジョアの政 党として二月革命の実現に努め、普仏戦争の開戦に反対し、パリコミューンに圧迫されな がら、徐々に支持を伸ばしていった。 ■ 波乱の時代: 同紙はまた一八八三年一−七月のフランスの貿易収支も報告している。 それによると、輸入が約二十八億フラン、輸出が約十九億五千万フランで、前年度比では 輸入が五千八百万フラン増加し、輸出は五千万フラン減少。「あまり好ましくない状況」 と指摘している。 参考までに十九日付フィガロ紙によると、当時のグレビェ大統領が自分のアパートを家 賃一年一万七千フランで貸していたが三年後に五千フラン値上げし、代償として借家人に レジョン・ドヌール勲章を与えたという記事がある。現在の日本の物価で考えれば、一フ ラン二百円前後だろうか。ちなみに約十年前の普仏戦争で、フランスがドイツに支払った 戦争賠償金は五十億フランだった。 さらに同紙を見ていくと、インドシナのトンキンで は戦闘が続き「安南人に多大な戦死者が出たが仏軍は二人が戦死、六人が負傷と善戦」と ある。仏遠征軍を率いるバデン大佐が苦戦している状況も伝えている。フランスは八月二 十五日にはユエ条約を締結してベトナム(安南)を保護国化した。
フランスは八三年にマダガスカル島遠征、八八年には仏領ソマリランドの建設と植民地政 策を活発化させていくが、その結果、ベトナムで中国(清)と軍事対立が起きるなど、植民 地政策遂行のために多額の軍事費と人命を投入しなければならず、クレマンソーら急進派 から攻撃されることにもなる。シャネルの生まれた日のフランスの政治、外交、経済状況 は波乱含みだったわけだ。 「馬上のサン・シモン」と呼ばれたナポレオン三世の第二帝政時代にフランスは本格的な 産業革命が展開し、鉄道網が発達した。 パリではオスマン男爵の都市計画によって狭い 曲がりくねった道路が拡充整備されている。 暴動やバリケード防止の政治的目的もあったが、凱旋(がいせん)門やコンコルド広場、シ ャンゼリゼ大通りが出現し、パリは光にあふれ、印象派の画家を育てたことも事実である。 しかし、第二帝政時代は一八六七年のパリ万博を頂点に陰りを見せ、普仏戦争で幕を閉じ る。パリコミューンで再び首都にバリケードが築かれ、それも壊滅。一八七一年には第三 共和政が発足し、一九四〇年のナチ・ドイツによるフランス占領まで続いていく。一八八 三年生まれのシャネルはこの第三共和政の恩恵も負の遺産も一身に背負い、その興亡を生 き抜いたことになる。 ■馬との関係 リラストラッション紙の「パリ通信」欄にはチュイルリー公園で開催中の 「パリ・イースキア祭り」の記事もある。イースキア島はイタリア南部の火山島で、温泉 や海水浴場のある夏の避暑地として知られている。紀元前五世紀にギリシャ人が建設した 町なので遺跡も多い。 記事は「パリをまだ離れられないパリジャンがチュイルリー公園にイースキア祭りを見に 行けば、切符を買った入場者は失望しないはずだ」と述べ、この有料イベントの盛況ぶり を伝えている。フランスの有名な有給休暇制度が始まり、一般国民がバカンスに出掛ける 習慣を持つようになるのは一九三六年のレオン・ブルムの人民戦線内閣時代からだが、記 事は十九世紀末にはすでにパリジャンが夏のバカンスに出掛けていたことを示している。 リラストラッション紙は題字が示す通り、イラストが売り物だ。シャネルが成人し、オペ レッタの歌手を夢見ていたころ、同紙の服飾ページを参考にしたという。この号ではアム ステルダムの万博や仏中部トゥールの町の火事現場や騎兵部隊の演習風景がイラストで紹 介されている。さらに「馬のプロポーション」と題する記事もあり、これには理想的な数 値を記入した馬のイラストが付いている。 シャネルの生地、ソーミュールは騎兵学校の 所在地だが、シャネルと馬はどうやら縁があるらしい。シャネルの最初の愛人エティエン ヌ・バルサンも、彼女が生涯で唯一、愛したといわれるアーサー・カペルも、彼女にプロ ポーズしたとされるウエストミンスター公も馬が生活の大きな部分を占めていた。
養われた規則正しい生活: 初春の柔らかな日差しの中、森の中の曲がりくねったなだら かな坂道を上っていくと、突然、視界が開け、そこに十字架をいただいた教会の尖塔が見 えてきた。 パリから約五百キロ。最寄りのブリーブ・ガイヤード駅にはフランス自慢の 新幹線(TGV)が停車しないので、電車だと四時間かかる。さらに十五キロ東のオーバジ ーヌ行きの列車は一日四、五本しかない。 空路ならパリからロンドンには三十分、ボス ニア・ヘルツェゴビナのサラエボでも二時間の距離だ。仏中西部リムーザン地方のこの人 口七千人の町はサラエボよりも遠くにあるともいえる。 ■シャネルの色: 町は中世がそのまま残っているような静寂に包まれていた。二軒ある ホテルは本格的な春がやってくるまで休業だ。 先刻見えた教会は中世の修道士が建てた 僧院の付属施設だった。標高三百メートルの小高い丘にある町に入り、僧院と教会の石造 りの黒い屋根とベージュ色の壁を仰ぎ見たとき、「あっシャネルの色」と思わず声が出た。 先入観のせいだろうか。屋根と壁の色は、パリのカンボン通りにあるシャネル本店の基本 色、黒とベージュと同じ色だった。この基本色は世界中のシャネルの店で使われており、 室内装飾を勝手に変えることは契約違反となる。この黒とベージュはシャネル・モードの 基本色でもある。 それに無駄をいっさい排した典型的なロマネスク様式も、ある意味で シャネルの原型といえないだろうか。シャネルの伝記「シャネル ザ・ファッション」の 作者、エドモンド・シャルル=ルーは、シャネルが十二歳から十八歳まで暮らしたのはこ の僧院だった、と推定している。 シャネルの母親が一八九五年二月六日、行商人の夫の後を追って疲れ果てて結核に倒れた のはブリーブ・ガイヤードだった。母親は逝き、五人の子供が残された。父親は最寄りの 孤児院にシャネルと長女ジュリアンを預け、そのまま姿を消した。幼い妹アントワネット は親類に預けられた。 二人の弟たちは農家の養子になった。男の子は労働力になるから だ。孤児だったり、親がいても育てる能力のない子供を町や市が面倒を見て、適当な農家 などに紹介し、養育費は国が持つ。そんな制度があった。弟たちはその後、父親と同様、 行商人になった。 シャネルはこの弟たちを含めた親類縁者について積極的に語ったことはない。孤児院生活 のことは口をつぐんだままだった。ただ一九四七年の冬、ポール・モランに自分の過去を 語ったとき、こう述べている。「そのときから、孤児ということばが、あたしを恐怖の氷 づけにしてしまいました。いまでも、小さな女の子たちのいる孤児院を見に行くのも、『あ の子たちは、みなしごなのよ』ということばを聞くのも、涙なしには、できない始末です」 (「獅子座の女シャネル」) ■暖房もなく…: オーバジーヌの僧院は十二世紀、教会が本格的な改革運動に初めてさ らされていたころ、当時の教会に愛想をつかした隠とん者、エティエンヌ・ドバジーヌが 建てたという。町の名前もこの聖人からきている。森をひらき、水を引き、神との対話だ けで過ごしていたこの世捨て人を慕って支持者が集まり、共同体が形成された。一一四七 年には、女性が共同体に参加しているというハンディがあったにもかかわらず、修道会か ら僧院建設の許可が出た。
268 :
卵の名無しさん :01/12/16 08:41 ID:0Jfcs3wA
フランス革命後、マリア聖心修道会が廃虚同然だった僧院を孤児院として買い取った。当 時の書類によると一八五九年六月二十一日に二万六千フランで購入となっている。 当初 は孤児のほかに寄宿生徒もおり、一八九〇年には孤児二十六人、寄宿生徒六人の記録があ る。有料の寄宿生徒の共同寝室が広いホールで天井には天使の絵が描かれ、暖房もされて いたのに対し、孤児の共同寝室は屋根裏部屋で暖房もなかった。 孤児は十二−十四歳が「守護天使組」と呼ばれてニワトリやウサギの世話を担当し、十四 −十六歳の「聖ジョセフ組」は畑仕事、十六−十八歳の「聖母組」は年少者の世話のほか 牛乳やチーズ作り、裁縫などの作業を行った。 夏は午前七時、冬は午前八時起床、夕食 は夏が午後七時、冬が午後六時、就寝は午後八時三十分だった。 シャネルは一九三一年九月、米国の作家ジュナ・ベルネスのインタビューに次のように答 えている。「睡眠は七時間か八時間が必要。窓は開けたまま寝ること。早起きして仕事は 懸命に、一生懸命にやりなさい。夜更かしは禁物。耳や目、考えや神経を研ぎ澄ましてお きなさい。夜更けすぎに面白いことなんか何もない」 シャネルは当時、社交界にも君臨 し、一九二一年に発表した香水「シャネルの五番」も大成功していた。一九三一年にはハ リウッドを制覇し、グレタ・ガルボやマレーネ・ディートリヒらが争ってシャネルと交際 することを名誉としていたころだ。 ■過去の遺物: 生活も不規則だったと思えがちだが、シャルル=ルーをはじめシャネル をよく知る人は「彼女はアルコールもほとんど口にしなかった」と証言する。こうした規 則正しい生活態度は、孤児院時代に養われたのかもしれない。「キッスや愛撫や、教師や ビタミン剤が、子供を殺してしまうだけではなく、不幸にし、ひよわな人間に仕立ててし まうのだ」(「獅子座の女シャネル」)とも警告している。 授業は孤児も寄宿生も合同だったから孤児たちには余計、つらいものがあったろう。寄宿 生はその後、姿を消し、「孤児(約三十人)がトゥルソー(僧院や寄宿舎に入る者が持参する 衣類一式)の製作を修道女と裁縫室で行っている」(一九〇二年三月四日付のブリーブ市の 副市長からコレーズ県知事にあてた書簡)という状態になる。 シャネルがオーバジーヌのこの孤児院にいたことを証明する記録はいまのところ何もな い。孤児院は一九六五年に廃止になり、現在は「生命の言葉」という宗教団体が研修など の合宿用に使用している。 シャルル=ルーは「ありふれた不幸というものはない。あるのは、その時代のさまざまな 不幸だ」と指摘している。社会保障制度が進み、それが財政赤字を圧迫するフランスの現 代では、孤児院はもはや過去の遺物なのかもしれない。
あたしは いつも傲慢だった: 子供の時間はゆっくりと流れる。青春が短く感じられるの は大人になってからだ。フランス中部の森の奥、小高い丘の上の元僧院を利用した孤児院 で、十二歳から十八歳までの六年間を過ごしたシャネルにとって、この歳月はどんなに長 かっただろう。 後の壮麗、華美なゴシック建築に比較して、十二世紀に建てられた典型的なロマネスク様 式の僧院と教会には彫像も飾りもない。その黒い屋根とベージュ色の壁。孤独な少女の目 には冷たく映ったに違いない建物に秘められた、凛(りん)とした力強さや温かさ、繊細さ にシャネルが気が付いたのはいつごろだろう。 孤児院の生活を忘れたころに、その美しさが蘇ってきたのだろうか。そして孤児たちが着 ていた白と黒の制服。エドモンド・シャルル=ルーの「シャネル ザ・ファッション」に は、白と黒の対照について、こんな記述がある。 「黒のスカートは、長持ちするように、そして大またで歩けるように、ボックス・プリー ツに裁ってあった。修道女たちのベールは黒く、彼女たちの頭を締め付けている糊のよく きいたまっ白いバンド…」 白もまた、シャネルが生涯、愛した色ではなかったか。孤独 だった少女時代について、シャネルはポール・モランにこう語っている。 「服を注文するカタログをながめては、お金を湯水のように使う夢にひたっていた。真っ 白な服、白い部屋、そして白いカーテン。白い色ばかりが夢にうかぶのは、あまりにもう す暗い家に閉じ込められていたせいだろうか」(「獅子座の女シャネル」) 《聖女の物語》 当時の孤児院の生活をしのばせる記録がある。一九〇五年に作成された 孤児院所有の家具などの目録だ。それによると、食堂には「二個の引き出し付きの長さ四 メートルの木製のテーブル二個」「二個の引き出し付きの三メートル八十センチのテーブ ル一個」「四メートルベンチ一個と三メートルのベンチ二個」「小さな二メートルのベン チ一個」「スプーン二十五個とフォーク二十五個」「二十五個のコップ」など。 教室には「壁にかかった黒板」「教師用の小さな机と網藁張りのいす」「生徒用の状態の 悪い机二個とその木製のいす」「フランスと欧州の地図二枚」「宗教ものの額縁四個」な ど。 共同寝室には「わら入りのマットレス付きの鉄製のベッド八個、各ベッドに敷布二 枚」「古いわら入りの鉄製のベッド五個」「小さな鉄製のベッド十六個」などなど。 さらに図書室には「ジャンヌ・ダルク五幕もの、ジョセフ・ド・ムーラン作」「ジャンヌ ・ダルクに関する他の本、ジョセフ・ド・ムーラン作」「気で病む男、ジョセフ・ド・ム ーラン作」「聖エティエンヌ・ドバジーヌの生涯」など。 ジョセフ・ド・ムーランは通常の仏文学史などには名前も記載されていないマイナーな作 家だ。しかし、感受性の鋭い少女時代にシャネルはおそらく、火刑となった救国の聖女の 物語を繰り返し読んだはずだ。そして、世捨て人同然の極貧生活を送りながら、当時とし ては珍しく男女混成の共同体を容認し、男女双方の熱い支持を得て僧院の建立に成功した 聖者の伝記も読んでいるだろう。
第二次大戦中、シャネルと交友があった元ナチ将校、テオドール・モームは戦後、シャネ ルの伝記を執筆中のシャルル=ルーにあてた書簡の中で、「彼女の血潮にはジャンヌ・ダ ルクの血が流れている」と書いたことがある。あながち「ロマネスクな推量」(仏週刊誌 レクスプレス、クリストファ・アグニュス記者)とは言い切れないかもしれない。 《裁縫の日々》 シャネルら孤児が修道女の指導の下で、熱心に行ったのが裁縫だった。 孤児たちはトゥルソー(僧院や寄宿舎に入る者が持参する衣類一式)を仕上げ、それは地方 の町やパリに卸されて孤児院のわずかな収入となった。 シャネルのアトリエの主任だったマノン氏は「マドモワゼル・シャネルはいつもハサミを 首から鎖でぶらさげ、気に入らない作品はほどいたが、針を持っていたのは見たことがな い」と証言するが、孤児院でみっちり裁縫の技術を習得したことは間違いない。 それにしても孤児院では毎日、着ていたのが白と黒の制服なら、毎日、目にしていたのも 修道女の制服だった。そして毎日、縫っていたのも他人の制服ということになる。幼い目 に映ったであろう生地ソーミュールの騎兵学校の士官たちの制服に、孤児院を出て最初に 行った町ムーランの猟騎兵部隊の制服、それにこれらの少女時代の制服群。 機能性と持久性と合理性。そして、そこから生まれてくる独特の美しさ。シャネルのモー ドの基本が制服を通して形成されていったことがうかがえる。 《成功の秘密》 孤児院の孤独で屈辱的ともいえる生活を、シャネルは頭を上げ、誇り高 く耐えた。 「あたしは、いつも、とっても傲慢だった。頭を下げたり、ぺこぺこしたり、 卑下したり、自分の考えを押しまげたり、命令に従うのは、大きらいだった」「傲慢さは、 あたしの性格のすべての鍵ともなったかわりに、独立心となり、または非社交性ともなっ た。それは同時に、あたしの力や、成功の秘密にもなっていったのである」(「獅子座の 女シャネル」) 孤児院はすでに廃止され、僧院の建物は現在、宗教団体の合宿場として使われている。し かし、僧院の創始者である聖者エティエンヌ・ドバジーヌの墓はいまも残っている。墓に は聖者の石像が横臥しているが、その顔の部分は擦り減っている。聖者の顔を愛撫(あい ぶ)すると願い事がかなうという言い伝えがあるからだ。 シャネルもこの静謐と薄闇が支配する教会の中で、聖者の顔を何度か愛撫したはずだ。シ ャルル=ルーの「シャネル ザ・ファッション」によると、孤児院を出てから数年後に出 会った最初の愛人、エティエンヌ・バルサンに、シャネルはこう言った。 「前にもエテ ィエンヌという名前の保護者がいたのよ。彼も奇跡を見せてくれたわ」 シャネルにとって、孤児院があった町の名前の由来でもある聖者、エティエンヌ・ドバジ ーヌ(オーバジーヌのエティエンヌ)こそが、最初の愛人だったとも言えよう。
最初の世間だったムーラン パリから南に約三百キロ。人口約二万七千のムーランは中世の建物が随所に残る典型的な フランスの地方都市だ。この町の中央広場に面して「ル・グラン・カフェ」がある。 ベルエポックの典型的レストランであるパリの「マキシム」と同じように、店内は鏡が張 りめぐらされ、高い天井には草花の蔦模様のフレスコ画が描かれている。ブルボン王朝の 十八世紀に大流行し、ナポレオン三世の第二帝政時代に復活し、さらに世紀末にも蘇った ロカイユ様式(貝、小石をセメントで固めた装飾や複雑な曲線が特徴)の典型だ。 店の奥にはスタッコと呼ばれる大理石の粉の入った化粧しっくいの付け柱(壁の一部が張 り出している柱)風の飾り露台も見える。隅におかれたピアノからはベルエポックの陽気 なシャンソンが今にも聞こえてきそうだ。 「私はかわいそうなココを見失ってしまった、 大好きな私の犬のココを…」 <人気カフェ> シャネルは孤児院を出た後、この町にやってきた。おそらくは修道会の 紹介でお針子として働きながら「カフェ・コンセール」の歌手を夢見ていた。まだ自分の 本当の才能に気が付かず、将来を探っていたころだ。 歌やショーなどのステージがあるカフェ・コンセール(演芸カフェ)こそ十九世紀の世紀末 とベルエポックの象徴だった。シャンパンなどを飲みながら風刺のきついシャンソンを聴 き、手品や軽業を楽しむ娯楽場兼社交場である。パリでは一八六〇年代から出現し、一八 八九年にはモンマルトルに「ムーラン・ルージュ」が開店して全盛期を迎える。 「ムーラン・ルージュ」の呼び物であるフレンチ・カンカンの、ちょっとエロチックで陽 気な踊りにパリっ子は熱狂した。ロートレックも「ディヴァン・ジャポネ(日本の長いす)」 とともにこのカフェを愛し、傑作を生んでいる。ここは今でも日本人をはじめ世界各国の 観光客を引き付けている。 こうした人気カフェではお針子出身の大テレザやモデル出身のイベット・ギルベールが大 スターとして人気を集め、女優たちより収入も多かったといわれる。ムーランのような田 舎町にもカフェ・コンセールは浸透し、パリ風の「ル・グラン・カフェ」は人気の中心だ った。 <黒い学生服> シャネルがこのカフェに出入りするようになるのはいつごろだったの だろう。十八歳以降は修道女を目指す者以外は預かれないという孤児院の規則のため、シ ャネルは十七歳のときに、姉のジュリア、そして親類の家にいた妹のアントワネットとと もにムーランにあった宗教施設の寄宿舎に送られ、ここで二年間を過ごす。 ムーランの近くの町には鉄道員を夫に持つ叔母が暮らしており、シャネル姉妹を引き取 る能力はなかったものの、バカンスには呼んでくれた。ムーランにはシャネルと同年の叔 母、アドリエンヌもいた。シャネルの伝記作者、シャルル=ルーはこうした関係でシャネ ル姉妹はムーランに送られたと推察している。
ムーランはシャネルにとって最初の世間だったとも言える。町には孤児院では見かけな かった男子学生がいた。少年たちは黒い学生服を着て、白いワイシャツに花形結びにした ネクタイをしていた。ネクタイは後に、シャネルによって断髪のボブヘアとともに「ガル ソンヌ(少年)・スタイル」として大流行することになる。 一九二〇年代のことだ。 若い叔母のアドリエンヌは美しく優雅で、親類にはなじめなかったシャネルもすぐ親し くなった。二人は二十歳になると寄宿舎を出て修道会の世話で、町の中心街、オルロージ ュ通りの洋裁店で働き出した。 ムーランの町のはずれ、アリエ川の向こうには猟騎兵連隊の宿舎があり、町には周辺の城 館の貴族たちの通う競馬場があった。シーズンの呼び物のレースには駐屯場の士官たちも 出場した。 またしても馬である。シャネルと馬はよほど、縁があり相性が良いのだろう。しかもこの 時代、ここに駐屯していた猟騎兵第十連隊は、騎兵の中でも「えりぬきの部隊」として知 られていた。名前には貴族を表す「ド」が付き、「聖ルイ王が騎士たちに十字軍遠征を呼 びかけた時代に後戻りしたような感じ」(「シャネル ザ・ファッション」)の若者たちだ った。 彼らは「武装を解くと、すぐに散歩に繰り出した。大げさにふくらませた真っ赤 な乗馬ズボンをはき、軍帽はあまり目立たないようにかぶっていた」(同)という。 <魅力を発散> こうした散歩着や、三列の金ボタンやそでに飾り紐を縫い付けた長外と う、騎兵の特徴の空色の上着などはパリの最高級店に注文したが、飾りひもの繕いや金ボ タンのつけ替えには町の店にやってきた。 シーズンにはこうした店は大繁盛だった。シャネルとアドリエンヌは臨時にこうした店に アルバイトにやってきた。士官たちが二人の美しい娘に気がつき、「ル・グラン・カフェ」 など流行のカフェに誘うようになるのは時間の問題だったはずだ。当時の写真を見ると、 アドリエンヌはふっくらとした官能美だが、シャネルの方はやせて大きな目と口、鼻ばか りが目立っている。 しかし、後のシャネルの友人で、ロートレックやルノワール、ボナールのモデルも務めた パリ社交界の女王、ミジア・セール(彼女については後述する)は一九一七年に女優のセシ ル・ソレルの家の夕食会で初めてシャネルと会ったときの印象をこう述べた。 「食卓で、私の注意はたちまち非常に濃い褐色の髪の、一人の若い女性に引かれた。彼女 は一言も発言しなかったが、抵抗しがたい魅力を発散していた」(オーサー・ゴールド、 ロバート・フィザル著「ミジア」) 上流階級の士官たちもミジアと同様の感想を持ったのだろう。彼らはたちまち二人をデー トに誘い出す。待ち合わせ場所はもちろん「ル・グラン・カフェ」や「ラ・ロトンド」な どの人気カフェ・コンセールだった。
「ココ!」と叫ぶ熱狂的な士官 フランス中部の町、ムーランにあるレストラン「ル・グラン・カフェ」のオーナー、モー リス・ポシュロンによると、この店が建設されたのは一八九九年だった。 費用は二十五 万フラン。 現在の金額に換算すると、四百五十万フラン(約一億円)前後だという。シャ ネルが通った開店早々の時期には、ベルエポックを代表する豪華カフェだった。 一九〇三年、二十歳を迎えたシャネルはこうしたカフェで士官たちに囲まれながら、いつ か田舎町からもお針子仕事からも解放され、パリで暮らす日を夢見ていたのだろうか。 フランス文明の輝かしい一ページ、ベルエポックの定義はさまざまだ。大修館の新スタン ダード仏和辞典では「二十世紀初頭の古き良き時代」となっている。 「普仏戦争と第一次大戦という二つの戦争の間(一八七一−一九一四年)の悲劇的時代。フ ランスはドイツとの戦争という固定観念と脅威に捕らわれていた時代」と定義するのは哲 学者アンドレ・グリュックスマンだ。 「だからこそ人々は消費社会に快楽を求め、今の 人生をより良く生き、謳歌しようとした。水平線のかなたには戦争が感じられ、いずれ危 険(戦争)という運命を避けられないと感じていた。危険と香水、快楽、女性、オペラ、オ ペレッタで代表されるベルエポックは隣り合わせのものだ」 一九〇五年、フランスの兵役制度は二年になり、兵役免除も廃止された。同年三月には日 露戦争でフランスの同盟国ロシアが敗北するのを見たドイツは、モロッコのタンジールに 上陸してモロッコにおけるドイツの権益を宣言した。単独でドイツと戦争に入ることを恐 れたフランスは国際会議(アルヘシラス会議)に訴え、米英の支持を得てやっとモロッコで のフランス、スペインの優位を確認することに成功したが、その後もモロッコでは反仏民 衆ほう起が起きるなど不穏な動きは続いた。 一九〇六年からは労働争議が頻発し、労働総同盟(CGT)はアミアン憲章を採択して社会 革命を目標にしたストライキなどあらゆる手段に訴えることを確認した。こうした中で誕 生した急進派のクレマンソー内閣は短命に終わり、一九〇九年にはかつてのゼネストの提 唱者、アリスティード・ブリアンの内閣が発足する。一方で国家主義も台頭し、戦争の脅 威は日に日に増大していった。 歴史学者ピエール・ノラもベルエポックを第一次大戦前までとして次のように定義する。 「ある種のクラスにとってのある種の平等、国全体にとってはある種の均衡と一定の財政 的繁栄、ある種の生活の楽しみ、ある種の平和、ある種の安定。つまりすべてが暫定的だ った。一方でアナキズム、社会主義があり、非常に惨めな生活を送っていた労働者がいた からだ」 そして「当時の人々はナポレオン三世時代を《第二帝政時代の祭典》と呼び、古き良き時 代として懐かしんだ。ベルエポックはそれぞれの人間の記憶の中に存在する」と総括する。 一方、歴史学者のミシェル・ヴィノックは「ベルエポックは神話だ」と指摘し「幸福な 時代は決して存在しないが、幸福な思い出というのは存在するからだ」という。
ムーランのシャネルにとって、この時代はベルエポックだったのだろうか。彼女はカフェ ・コンセール(演芸カフェ)の人気歌手を夢見ていた。孤児院出身の若い女性にとって、手 っ取り早い出世の道に思えたからではなかったか。 ムーランで最も繁盛していたカフェ・コンセールの一つ「ラ・ロトンド」の主人は彼女の 採用を決める。彼女の歌手としての才能より、集客能力を重視した結果かもしれない。彼 女にはその時点ですでに士官のファンがたくさんいた。 一九〇五年ごろ、ムーランのカフェ・コンセールには「ポーズ嬢」と呼ばれる女性たちがいた。 「スターの後ろに半円状に座った十人ほどの端役。彼女たちはサロンのような雰 囲気をかもしだして店の格が高いように見せ、スターが舞台から消えると、彼女たちが立 ち上がって代わる代わるシャンソンを歌い始める」(シャルル=ルー「シャネル ザ・フ ァッション」) シャネルも「ポーズ嬢」としてデビューする。持ち歌は二つしかなかっ た。「コ・コ・リ・コ」と「トロカデロでココを見たのはだれ?」だ。いずれもパリのカ フェ・コンセールではやっていた歌である。 舞台にシャネルが登場すると、観衆はいっせいに鶏のコッコッという鳴き声をまねる。「そ れが最後に、彼女のしゃがれ声で、とても雄鶏の鬨の声だとは思えないくらいおずおずと、 『コ・コ・リ・コ』が始まると、彼女を勇気づけることになるのだった」(「シャネル ザ・ファッション」) シャネルは後に「ココ・シャネル」と愛称で呼ばれるように なる。彼女自身は「父親がつけてくれた愛称」と説明したが、シャルル=ルーは「トロカ デロでココを見たのはだれ?」が起源だとみている。 「私はかわいそうなココ、私の大好きな犬ココを見失ってしまった、トロカデロで。私の 最大の後悔だ。男に裏切られるよりもずっとつらい」 歌のルフラン(繰り返し)の部分は 「ココ!ココ!」。ここで熱狂したファンたちはいっせいに「ココ!ココ!」と叫び、ア ンコールを求めた。士官たちにとってシャネルはいつしか「ココ」になったというわけだ。 しかし、シャネルはこの程度の成功では満足しなかった。ムーランは田舎町にすぎない。 五〇キロ先には鉱泉で知られる保養地のビシーがあった。富裕階級が集まり、猟騎兵たち も休暇を過ごしにしばしば、でかけていった。競馬場もカフェ・コンセールももっと立派 なのがある。 シャネルはここで運を試すことにした。その彼女を援助したのがシャネル の最初の愛人といわれるエティエンヌ・バルサンだった。
小さな挫折 服装ほどには成功しなかった フランス中部の保養地ビシーは鉱泉の町として有名であり、同時に一九四〇年六月の仏 独休戦条約によって、その年の七月から一九四四年八月までフランス政府が置かれていた ところとして世界史に名を残している。 ペタン元帥に全権がゆだねられ、「フランス国家(エタ・フランセ)」と名乗ったこのビ シー政府は「抹殺すべきあの四年間」(粛清裁判における検事総長アンドレ・モルネの言 葉)といわれるように、フランス人にとっては今でも触りたくない傷口だ。 もちろん、シャネルがこの町で歌手としての運を試そうとしていたころには、だれもこ の町がたどる過酷な運命について考えたことなどなかったろう。ましてシャネル自身この 町の運命が後年、自分の運命とも重なり合うことになるとは想像さえできなかったはずだ。 ●最初の愛人 「理想的な花婿候補」。これがシャネルの最初の愛人といわれるエティエ ンヌ・バルサンの当時の評判だった。シャネルの孤児院の聖人、エティエンヌ・ドバジー ヌと同じ名前だ。 「大きくもなく、すらりともしていなくて、口ひげも平凡で、丸顔」(「シ ャネル ザ・ファッション」)だったという。要するに気取った猟騎兵隊を見慣れたシャ ネルには、親しみやすかったはずだ。しかも名前には貴族の印の「ド」も付いていない。 家族はフランス中部の工業都市シャトールーに住み、金持ちで堅実でまじめだった。第 一次大戦前まで存在した典型的なフランスのブルジョア階級だ。バルサンはシャトールー の歩兵連隊の出身だったが、競走馬の飼育しか興味がなかったためムーランへの配置換え を希望した。ムーランでは東洋語研究所に潜り込んで、たちまち騎兵たちの仲間になり、 彼らのアイドルだったシャネルとも知り合うことになる。 シャネルが同じ年齢の叔母アドリエンヌとともにビシー行きを決心すると、バルサンは その準備も援助する。若い娘二人は、自分たちが勤めていたオルロージュ通りの店で、今 度は客として布地などを選んだ。 シャネルは自分のアイデアで作った帽子と服を身につけてさっそうビシーに乗り込む。 「きっちりとした肩、高いカラー、ぴったりした身ごろ、バックルできちんと締めたベル ト」(「シャネル ザ・ファッション」)。どこか騎兵隊の制服に似たその服はシンプルさ の中に、若い女性のしなやかな体を一層、強調し、その若々しさで見る者をハッとさせた。 アドリエンヌがコルセットやひもでがんじがらめに締め付けられていただけ、シャネル の服は引き立ったのかもしれない。 しかし、シャネルはビシーでは、服装ほどには成功 しなかった。彼女はアドリエンヌと一緒に質素な小部屋を借りて住み、レッスンを受け、 衣装も自分で工夫し、歌手を志して必死で頑張ったが、結局、ムーランのように簡単には、 雇用主は出現しなかった。 あのパリの人気歌手のテレザ・バラドンもお針子出身だったし、今や大女優より収入の 多いイベット・ギルベールもデビュー当時は一日二フラン、そしてモーリス・シュバリエ も最初は一日三フランだった。こうした事実をシャネルは知っていたのだろうか。
ビシーは金持ちの保養地だった。すでにローマ時代から鉱泉が出る町として知られてい たが、十六世紀から十七世紀にかけてアンリ四世のころに町として発達し、ナポレオンが 一八一〇年にパルク・デ・ソルス(鉱泉公園)を建設したことで飛躍的に発展する。 鉱泉はリューマチや肝臓病に効くといわれ、ナポレオン三世時代にはワインやごちそう に疲れた金持ちたちが重炭酸塩や炭酸が豊富な鉱泉を飲みに競ってやってきた。一九四〇 年夏にフランス政府がここに移動した理由も「ホテルの数が多く、官庁をはじめ行政機関 を収容するのに便利」(アンリ・ミシェル「ビシー政権」)だったからだ。 ●鉱泉飲み場 ビシーはムーランとは異なり、客の目も耳も肥えていた。歌手の職探しに失敗したシャ ネルは結局、「この土地に明るい猟騎兵隊第十連隊のある士官の推薦に力を得て、鉱泉会 社の事務所に職を探しにいき、“グランド・グリーユ鉱泉”の鉱泉くみに採用された」(「シ ャネル ザ・ファッション」)。 ビシーは現在も高級保養地の地位を保っている。穏やかな気候や町の周辺を流れるアリ エ川の風光が人を引き付けるのだろうが、夏には特に鉱泉治療にやってくる金持ちの年配 客でにぎわう。 パルク・デ・ソルスの中央にあるガラス張りの円屋根の建物の中には、共同鉱泉飲み場 があり、「グランド・クリーユ」「ショメール」などの会社名が記されている下には蛇口 が設置されていて、各自が自分で好きな銘柄の鉱泉を飲める仕組みになっている。 ●もっと高く シャネルの時代は、同じ建物ながら、鉱泉くみが深い洞くつのような奥の壁に並べられ たコップを取りに行き、鉱泉をそれにくんで湯治客に差し出していた。彼女はここでも愛 きょうをふりまいたわけでもないのに、何か人を引き付ける力があったらしく、「シャネ ル ザ・ファッション」によると「何本もの手がさし出された」という。 鉱泉くみの制服は白衣に白い長靴だった。長靴は足がぬれないためだった。この彼女が 履いていた白い小さな長靴も後に、彼女の手でファッションとして蘇ることになる。彼女 は何ひとつ、見逃さなかった。 しかし、シャネルがジリジリして暮らしていたのは想像にかたくない。自分はこんなと ころで何をやっているのだろう。この低空飛行をしているような感じ。自分はもっと高く 飛べるはずだ。自分には天職があるはずだ。 そのころ、両親から遺産を相続したバルサ ンはパリから北約八十キロの地、コンピエーヌの近くのロワイヤリュに広大な土地を購入 していた。ロワイヤリュはサラブレッドの調教地として知られる土地である。バルサンは きゅう舎を建て、馬を飼育し、騎手になることを夢見ていた。「女の騎手見習いはいらな いの」 シャネルがバルサンに対し、そう尋ねたとしても不思議ではない。
手作りの帽子 ぜいたくを手にジレンマ シャネルが最初の愛人、バルサンと暮らしたロワイヤリュはコンピエーヌの森に近い。 パリから北約八十キロのコンピエーヌもまた二十世紀の世界史でおなじみの場所だ。ここ にはフランスの栄光と屈辱、ドイツのフランスに対するおん念、そして両国の和解の歴史 が刻まれている。 第一次大戦の休戦条約は一九一八年十一月十一日、この森の中の引き込み線に乗り入れ た寝台車で結ばれた。この地が選ばれた理由について、コンピエーヌ休戦記念館に残る仏 側資料は「英仏連合軍総司令官フォッシュ元帥の司令部サンリスが首都パリに近かったの で、(報道機関などから)隔離し、敗戦した敵の尊厳を保障するため」と、フランスの敵国 ドイツに対する寛容性を強調している。 事実、フォッシュ元帥は寝台車の内部の写真の撮影を禁止したので、この時の歴史的写 真は存在しない。フォッシュ元帥や背広姿のドイツ側の休戦委員長、エルツベルガー(国 務大臣)などが条約文を置いたテーブルの前に勢ぞろいしている挿絵が存在するだけだ。 ●仏独の遺恨 条約の調印が終了して、寝台車から出てきた一行の写真だけがこの時の 雰囲気を伝えている。胸を張ったフォッシュ元帥ら仏側の軍人の姿は認められるがエルツ ベルガーの姿はない。 この時の寝台車はナポレオン三世が使用していたもので、室内装飾のグリーンのサテン には「N」の縫い取りがなされていた。フランスはすでに第三共和政時代だったが、アル ザス・ロレーヌ地方を分割された普仏戦争の敗北がきっかけになって崩壊した第二帝政時 代の栄光を示すことで、ドイツに対して「復讐」を果たしたことになる。 また翌年のベルサイユ条約はいっさいの戦争責任をドイツに負わせる過酷なものだった が、仏側によれば「ドイツの武装解除はごまかされ、参謀本部は一指もふれられず、賠償 は、最初に、それもアメリカの金で、支払われたにすぎなかった」(アンドレ・モロア「フ ランス史」)となる。フランスのドイツに対する遺恨と畏怖の強さが表れている。 そして二十二年後の一九四〇年六月二十二日、同じ寝台車で今度はヒトラーがフランス への「復讐」のために休戦協定を結んだ。仏側はこの時の情景を「仏代表団を騒音と白日 の中にさらした」(モロア)と、批判した。 この寝台車は第一次大戦の後には一時、大統領専用車として使用されていた。その後、 一九二一年から二七年までナポレオンの墓があるパリのアンバリッドで展示され、さらに、 当時のコンピエーヌ市長の運動と米国人の篤志家の寄付によってコンピエーヌの森に展示 場が設けられた。 ヒトラーは休戦協定の調印後、この展示場を破壊し、寝台車の方はベルリンに輸送して 展示した後、ベルリンに近い駅の構内に放置している。そして、米軍が近づいた一九四五 年四月には寝台車の焼却を命じた。ヒトラーのおん念のすさまじさがしのばれる。
ゾロあげ
●馬との日々 コンピエーヌの森には現在、記念館が建ち、寝台車の模型が置かれている が、これは一九五〇年一月十一日の記念式典の際に復元されたものだ。今ではドイツ人を 含む年間数十万の観光客が訪れる観光地になっている。 しかし、シャネルがロワイヤリュで暮らしていたころのコンピエーヌはまだ、ロワイヤ リュの栄光の陰に隠れていた。ロワイヤリュは「イギリス出身の由緒正しい調教師たちが 全部、この土地に居を構えていた」(「シャネル ザ・ファッション」)という栄光の馬の 町だった。 ここで「フランス最高の乗馬の仲間に入ろうとして時間と財産をすっかり費やしていた」 (同)バルサンとともに、シャネルも馬に明け暮れていた。出入りするのはきゅう務員や調 教師にバルサンの馬仲間という気楽な暮らしの上、中世の元僧院だった城館は広く、オー ブン付きの台所もあれば庭にはスカッシュ競技場もあった。 シャネルにとって、このロワイヤリュの暮らしは初めて知るぜいたくの味だったわけだ が、そうした日々を過ごしながら、彼女が相変わらずジリジリし、低空飛行をしているよ うに感じていたことは確かだ。競馬と乗馬だけが気晴らしの生活がいったい、いつまで続 くのだろう。 シャネルは乗馬服をあつらえるために、ロワイヤリュにある仕立屋によく通った。仕立 屋の主人はコンピエーヌの猟騎兵第五連隊で兵役を務め、その間に連隊の制服やきゅう務 員の服などの直しを通して本職の腕を磨いていた。 シャネルはここで、イギリスのきゅう務員がはいているようなひざから下の細い乗馬ズ ボンや飾りのない上着、小さなちょうネクタイを注文した。女性たちがまだベールやリボ ンで飾り立てていた時代だけに、彼女の服装は注目の的になった。 ●相次ぐ注文 こうした服装に合わせてシャネルが自分で作った黒い帽子はとりわけ新鮮 だった。バルサンのところには古い女友達もたくさん、訪れていたが、彼女たちは、この シャネルの黒い小さな帽子を次々に注文し、シャネルが作る新しい帽子を競ってかぶった。 女性にとって帽子がまだハンドバッグと同様、外出時のなくてはならない必需品だった 時代である。 時は一九〇八年。パリでは地下鉄(一九〇〇年開通)も珍しいものではなく なり、かしましかったエッフェル塔(一八八七−八九年に建設)をめぐる美醜論争にも、現 実に観光客が多数訪れる中で事実上の決着がついていた。一九〇四年にはオートレースの 国際グランプリ制度が創設され、一九〇七年にはレース用車は時速二百キロに達する。女 性たちの服装も変化しつつあった。 シャネルはやっと天職を見いだしたのだろうか。バルサンが友人のために帽子を作ると いうシャネルの暇つぶしを援助することになったのだ。バルサンが借りていたパリ・マル ゼルブ大通り一六〇番地のアパートの一階の部屋がシャネルの仕事場になった。この時期 にシャネルを大いに勇気づけてくれた人物がいる。バルサンの友人のイギリス人だった。
仕事してるかー
最も幸福な時期 “ボーイ・カペル”にひと目惚れ シャネルはなぜか生涯を通じてイギリス人やアメリカ人と相性が良い。 シャネルの服 を一九一六年に初めて活字で紹介したのは、米国のモード雑誌「ハーパーズ・バザール」 だった。時代が下って第二次大戦後の一九五四年、シャネルが十五年ぶりに店を再開した とき、フランスのマスコミが「時代遅れ」と批判したのに対し、米誌「ライフ」は特集を 組んでシャネルの復活を祝った。 シャネルの服がアングロサクソンの実用主義やスポーツ重視の精神と呼応するからだろ うか。それともシャネルがイギリス人との交際から受けた精神的な影響がモードにも反映 された結果なのか。生涯でただ一人、彼女が本当に愛したといわれるアーサー・カペルや、 結婚の申し込みをしたとされるウエストミンスター公もイギリス人だった。 似た者同士 一九一〇年二月、シャネルがバルサンの借りていたパリ・マルゼルブ大通り 一六〇番地のアパートで開いた帽子店は開店一周年を迎え、顧客は順調に増えていた。バ ルサンやその仲間の女友達に加えて、流行に敏感な上流階級の夫人たちがやってきたから だ。 ロスチャイルド男爵夫人やピニャテック公爵夫人、開店するにあたりバルサンらが 見つけてくれた専門家に加え、美人の妹のアントワネットも手伝いにやってきてお針子仕 事からモデル代わりまで務めた。 しかし店は住宅街の真ん中にあり、商売をする場所として適しているとはいえなかった。 それにシャネル自身がバルサンの見つけた専門家と手を切り、自分流の店で、「自分名義 で商売をしたかった」(シャルル=ルー「シャネル ザ・ファッション」)という事情もあ った。 シャネルはバルサンに借金を申し込んだが、断られてしまった。新たに牧場を入 手しようとしていたバルサンに余裕がなかったからだ。それにバルサンには「退屈しのぎ のはずだったのに」という思いがあり、女友達が本格的に商売をしようとしていることに 戸惑いがあったと思われる。 この時、バルサンに代わってシャネルの前に登場したのが、イギリス人のアーサー・カ ペルだった。一九〇八年の春、バルサンの競馬、乗馬仲間になったこの青年は仲間から「ボ ーイ・カペル」と呼ばれていた。「ボーイ(BOY)」はフランス人がイギリス人やアメリ カ人の若者に対して好んで使う呼称である。 この「ボーイ」という言葉には、フランス 人やイタリア人などラテン民族には欠けているアングロサクソン的なものへの憧憬の響き が含まれているようだ。 例えばフランスの報道機関は湾岸戦争やボスニア紛争で、「米軍派遣」のニュースを伝 えるとき、「GI」とともにこの「BOY」という言葉を多用した。無意識のうちにフラ ンス人の米軍への期待感が表明されているように思えた。 カトリック的なものに対する プロテスタント的なもの、ともいえようか。この相違について、ドミニク・モイジ仏国際 関係研究所副所長はこう指摘する。 「寛容と慈悲を尊び、ざんげすることで贖罪(しょ くざい)されるカトリックに対し、神と己の対峙(たいじ)という絶対的状態に自分を置く プロテスタントは、ともすればより厳格でより過酷な状況に自分の身を置く」 そこから 生じる日常生活の中での公平の感覚やきびきびした態度などは欧州大陸の住人にはまれな 特質だといっていい。
あげ
284 :
卵の名無しさん :01/12/18 00:43 ID:uumThNLZ
さぼりまくってた本社のF部長はまだいるのか?
シャネルは一九〇九年にバルサンと参加した狩猟会で一位になったカペルに初めて会っ たときの印象を「ほかの男とはちょっと違っていた。第一、魅力にあふれる美しい男だっ た。その無造作な態度、緑の瞳は感動さえあたえる」(「獅子座の女シャネル」)と語って いる。ひと目惚(ぼ)れだったわけだ。 シャネルの晩年十年間の友人で伝記「シャネル 孤独」の作家、クロード・ドレイも弁 護士のルネ・ド・シャンブランも「シャネルが唯一、愛したのは彼だけだ」と口をそろえ て証言する。 そして「獅子座の女シャネル」の中でシャネルは彼の魅力をこう続ける。 「同じ世代 の連中が、もらった財産をただ浪費している三十代に、彼はすでに自力で石炭の運輸業で 財産をつくり上げていた」 この事業への才能、仕事への愛着や意欲がシャネルを魅了し た最大の理由かもしれない。 シャネルは「父であり、兄であり、家族全員の役をすべて引き受けてくれたのだ」と述 べているが、仕事に対する態度という点では二人は一卵性双生児といえそうだ。 週末の 乗馬 カペルの出生もまたあいまいだった。銀行家の私生児ともいわれた。 ただし、行 商人で子供を孤児院に預けて行方をくらませたシャネルの父親と異なり、彼の父親はこの 嫡子ではない息子に一流の教育を受けさせた。また彼は父親からニューカッスルの炭鉱が 上げる利益も相続している。 その上、彼はポロの名手だったからイギリスの上流階級から受けいれられ、従ってフラ ンスの上流階級もこれにならった。スポーツマンであると同時に読書家でもあった。書架 にはニーチェやボルテールの著作、それにハーバート・スペンサーの「政治録」などが並 んでいた。 カペルもシャネルに恋したのだろうか。帽子店に熱中し、この時代には珍しく独立志向 の強いちょっと風変わりな若い女性に。「ごく自然にバルサンと入れ替わった。そして営 業権の取得に必要な金を前貸ししたのも彼だった」とシャルル=ルーは著作で指摘する。 一九一〇年の末、シャネルはついにカンボン通り二一番地に引っ越す。この通りにはい まもシャネルの本店があり、ココ・シャネルにとって生涯、切っても切れない場所になる。 新しい恋人同士は週末にはロワイヤリュで乗馬を楽しんだ。シャネルは当時の女性が馬 に乗るときの服装だったシルクハットにチョッキ姿の代わりに、開襟(きん)シャツや丸え りのブラウス、大きなシフォンのちょうネクタイをし、髪にはピケ地のヘアバンドをした。 そして以前には決して見せなかった快活さで、皆の前に現れたという。帽子の店の成功 に加え、愛する男性との生活。カペルもたくさんいた女友達と次第に手を切った。シャネ ルにとって、このころが生涯で最も幸福な時期だったかもしれない。 いずれにせよ、シ ャネルが歴史という舞台に登場するまでの時間は、あとわずかだった。
フランス版白木屋火災 “モードの犠牲”になった女性たち 「ひとつのモードが終わり、次のモードが生まれてくる。その変わり目のポイントに、 あたしはいたのだ。チャンスが与えられ、それをつかんだ。新しい世紀をあずかる世代に あたしがいて、だからこそ、そのことを、服装で表現しようとしたのである」(シャルル =ルー「獅子座の女シャネル」) シャネルが自分自身について語っているように、一世 を風靡(ふうび)した人物には常に時代との幸福な出会いがある。少しでも出会いがずれれ ば、モードの女王シャネルは誕生しなかったかもしれない。 時代の側に目を移そう。シャネルの登場を二十世紀は待っていた。そしてその前兆とし て、さまざまな事件が彼女の登場を予告していた。例えばフランス版白木屋火災というべ き大火が十九世紀末のパリで発生している。 旧来の着物の伝統が原因で多数の女性犠牲 者が出た白木屋百貨店の火災は、昭和の風俗史に示唆的な一ページを記しているが、フラ ンスでも同じように女性が「モードの犠牲」になった火災事件が今からちょうど百年前に 発生しているのだ。 ■焦げた遺体 一八九七年五月四日、パリのシャンゼリゼ大通りに近いジャングージョン 通りの広場で慈善バザーが開かれていた。一八八五年に始まったその慈善バザーは十三回 目を迎え、参加慈善団体は約百五十に増えて、地方の慈善団体の中には参加を拒否される ところが出現するほどの盛況ぶりだった。 前年までの会場は、バンドーム広場やあるいは貴族の館の一部などを借りて開催されて いたが、実行委員長のマッコー男爵らの尽力で、その年は特別に土地の所有者から無料提 供されたジャングージョン通りの空き地に仮設テントが設けられた。 開幕二日目のその日、オペラ座などの舞台装置を担当して好評だったフィリップ・シャ ペロンが中世的な装飾を施した会場では、貴族の夫人たちが参加者としてあるいは買い物 客として高価な宝石や服飾品などの陳列物を楽しんでいた。 会場にはアトラクションとして、リュミエール兄弟が発明したばかりの「シネマトグラ フ」の上映館も仮設されていた。午後になって気温が上がり、「暑い日になった」と負傷 者の一人は後に捜査当局に証言している。午後三時にはマッコー男爵の案内で教皇庁大使 (大使として各国に派遣された大司教)も会場を訪問し、参加者を祝福した。 午後四時。入場者は約千七百人に達していたとされる。その雑踏の中で火災が発生した。 午後四時十分、十五分、二十分、証言によって異なるが、「火事だ!」との声が上がる。 後は地獄絵。マツなどの薄い木材を多用した会場に、火が走る。帽子のリボンや花の飾り に火が燃え移り、長いスカートに足をとられ、きついコルセットのため身動きも容易にで きない女性たちが炎に包まれて倒れる。 消防署の迅速な消火と救済活動にもかかわらず、 死者百四十五人、負傷者約二百人の大惨事になった。犠牲者の大半は女性だった。男性の 死者は三人。この時間に入場していた男性の数自体が約五十人と少なかったこともあるが、 女性が「モードの犠牲」になったことは明白だ。
事件の百周年に当たり、出版されたばかりの「慈善バザーの火災から百年」(ドミニッ ク・パオリ著)によると、事件を担当したベルテュラス予審判事は、生存者の証言などか ら「長いすそは走ったり階段を下りたりするのに不便だし、締め上げたコルセットのせい で呼吸は十分にできないという婦人たちの服装がこういう場合、男性の服装よりハンディ になる。実用的でない服装が女性の犠牲者を多くした」との結論に達し、捜査報告書に記 入した。 女性の遺体の大半は黒焦げ状態で、逃げ遅れたことを証明していた。 遺体はすべてシャンゼリゼ大通りの展示場パレ・ド・ダンダストリ(工業館)に運ばれ、 そこで近親者が身元を確認した。身元の確認も容易にできない黒焦げの遺体の中にはオー ストリア皇女の姉妹であるダランソン公爵夫人らも含まれていた。 この時、事件を担当した法医学者のソケ、ビベルト両博士が歯型からの確認方法を思い 付き、彼女らを治療した歯科医が呼ばれてやっと身元が確認された。この事件後、法歯科 医学が発達することになる。それでも最終的に約十人の身元が確認できず、パリのペール ・ラシェーズの墓地に共同埋葬された。 ■事件の反響 火事の原因は、シネマトグラフの映写室の技師二人の過失によるものだっ た。映写中、アセチレンガスのランプが消えたため、映写技師ベラックが助手のバグラシ ョフに、手元が暗くて見えないから明るくするよう頼んだ。助手がマッチをすったところ エーテルに燃え移り、あっという間に火が燃え広がったという。 無知か不注意か規則無 視か。裁判ではマッコー男爵が五百フランの罰金だったのに対し、ベラックには一年の禁 固刑と罰金三百フラン、バグラショフには八カ月の禁固刑と二百フランの罰金が科せられ、 同年十二月十一日の控訴審で刑が確定した。 マッコー男爵は当時、弁護士だったレイモン・ポワンカレに弁護を依頼したが、勝ち目 がない、とみたポワンカレは断ったといわれる。 主催者の男爵の刑が軽かったのは、バ ザーの会場建設に当たり、建築家が火事の危険を指摘したのに対し「会場では禁煙にしよ う」と答えたほか、会場には正規の出口二カ所、臨時出口三カ所を設置し、さらに食堂の わきなどにもひそかに出口を設けて緊急時には千二百人が三分で脱出できるように配慮し たことが裁判で考慮されたからだとみられる。 多数の名士夫人が犠牲になったこの悲劇的事件に関しては翌五月五日から仏マスコミが 詳細を報道し、フェリックス・フォール大統領が事件現場に急行したことやオーストリア 皇帝に弔電を打ったことも伝えて、事件が普仏戦争後の複雑な国際関係にも影響を与えた ことを示している。外国紙も大きく取り上げ、米ニューヨーク・タイムズ紙は「パリの恐 怖の火事」と一面で報道している。 また、当時の仏大衆紙「ル・プチ・ジュルナル」は五月十六日付でイラスト入りの臨時 特集号を発行するなど事件の反響は大きく、後にシャネルの伝記を書くポール・モランも この事件にヒントを得た短編「慈善バザー」で、女性の服装をはじめとする風俗描写を交 えながら、当時の貴族階級の生活を皮肉っている。
288 :
卵の名無しさん :01/12/18 19:41 ID:GaqQriCE
ポセビンの責任者か?この荒らしは ヨシウラって誰?
↑ バレたか
炎の中の旧モード 女性たちは新しい生き方を求めた ポール・モランの短編小説「慈善バザー」の女主人公、デフリュス伯爵夫人はその日、 三十歳年上の夫に「午後三時前にダランソン公爵夫人に慈善バザーの会場に来るようにい われたの」と告げて外出する。 しかし、行き先は若い愛人のサクシィフロン子爵の館だ った。彼は週刊誌「世紀末」にコラムを寄稿している文学青年だが、乗馬と女性とばくち に目がなく、借金に苦しんでいた。 結婚七年目を迎えたデフリュス伯爵夫人は「労働者の話ばかりのゾラ」や「下層階級の 物語の多いモーパッサンの小説」にも飽き、ちょうどフィガロ紙に連載中のピエール・ロ チの小説を愛読していた。 新しい思想の持ち主で、東京にも旅行したことがあるプレーボーイはたちまち伯爵夫人 の心を捕らえる。日本のコレクションを見に来ないか、とサクシィフロン子爵に誘われた 伯爵夫人が、きゅう舎もある彼の広大な館に人目を忍んで通うようになるのに時間はかか らなかった。 ●人形の装い この日もローズ色のモスリンのドレスに留め金がエメラルドの真珠のネッ クレスをつけた夫人は、夫の「賛嘆のまなざし」を受けながら自宅を後にする。 ところ が伯爵夫人を待ち受けていたのは、愛人の破産という悲しいニュースだった。 情事の後、 彼はこう告げる。 「馬を全部、売ることにした。君も彼らに最後のお別れを言ってくれ たまえ。人生は煙のようなものだ。あすになればきゅう舎もアトリエもなくなり、そして 僕も消える。破産したんだ」 二千ルイ金貨(四万フラン)の借金があると告白されて、伯爵夫人はネックレスを外し、 子爵のポケットにすべりこませる。 子爵は愛人の贈り物を金貨に換えるべく知り合いの古物商のところに行くが、相手は不 在だった。「慈善バサーを手伝いに行った」との留守番の返事に彼はジャングージャン通 りへと急ぐ。 午後四時前に慈善バザーの会場に到着した彼は古物商を探して、暑さと人込みの中を歩 き回る。そこに突然、「火事だ!」の叫び声が上がる。彼の周囲ではたちまち女性たちが 火に包まれていった。 「ルーシュ(レースやチュールのひだ飾り)やそで飾り、大きな麦 わら帽子、モスリンのドレス、フリルのついたタフタ、小さな絹の日傘、ベール、リボン、 羽根飾り、オーガンディやパーケル(目の詰んだ平綿織物)など女性の体をかすみのように 包んでいるこうした軽やかな布地のすべてが、まるで歓喜の炎のように燃え上がり、ふく いくたる香水や竜涎香(りゅうぜんこう)のローションがしみ込んだ生暖かい空気の中で燃 え盛る」 ポール・モランは、この火災の捜査を担当した予審判事の調書よりずっと文学的に、女 性が当時の「モードの犠牲」になった様子を描写している。
後にシャネルの伝記を書くことになるポール・モランはこの時、気が付いていたのだろ うか。シャネルこそが、この大惨事で燃え上がり、犠牲者を炎に包んだ十九世紀の代表的 モードを決定的に壊滅させる立役者になることを。ジャージーやツイードを多用し、スポ ーティーで機能的なシャネルのモードとこの時、炎上したモードは何と異なっていること か。 犠牲者の中には当時、流行の先端だったウォルトやドゥーセのドレスをまとってい た貴夫人が多数いたはずだ。 デフリュス伯爵夫人も新婚のころ、夫が注文した肖像画のモデルになったとき、「初め て作らせたドゥーセの舞踏会用の服」を着用した。 「金のギピュール(浮彫風の模様の レース)のベールが炎のようなビロードを覆っていた。ヒョウの毛皮の折り返しのついた そでなしの絹タフタの大きなマントに包まれた彼女は緊張してみえた。マントには流れる ような襞(ひだ)があった。彼女は非個性的で人形がケープを羽織っているようだった」 モランはここでも無意識のうちに「シャネル前」と「シャネル後」のモードの差異を指 摘している。 「シャネル前」のモードはどんなに素材がぜいたくで素晴らしい技術を駆 使してあっても、着ている人間を非個性的な人形のようにしてしまった。 「シャネル後」 のモードは逆に、着ている人間の個性を引き出すと同時に着心地の良いものであることが 優先条件になる。 ●外出の口実 慈善バザーを訪問した妻が火災の犠牲になったと信じて疑わなかったデフ リュス伯爵は、この遺体安置所で、妻のエメラルドの留め金付きの真珠のネックレスを発 見する。妻の愛人が夢中で逃げるうちに、落としたものだった。 一方、愛人を待ちくたびれて夜十時に帰宅した伯爵夫人は、悄(しょう)然として、真珠 のネックレスを機械的にコートでこすり続ける夫の姿を目の当たりにする。 慈善バザー は、当時の女性たち、特に上流階級の女性たちが、一人で大手を振って外出できる数少な い機会だった。 一八八五年の開始当時、参加慈善団体は十六だったが、大惨事のあったこの一八九七年 にはフランス全土から百五十以上の団体が参加し、国中の名家が漏れなく協力した。こう した現象に批判があったのも事実だ。 週刊誌「クリ・ド・パリ(パリの叫び)」は、慈善バザーが開幕する直前の号で、「慈善 バザーはあらゆる人間の服装の見せびらかしと待ち合わせの口実にすぎない」と手厳しい 記事を掲載した。 「人々は、ケーキ屋に行くかわりに社交的な義務を履行するために慈 善バザーに行く。また、慈善の課す寛容のおかげで、それまで閉ざされていた世界に入り 込むために行く人も多い」 心ときめかすことといえば新聞の連載恋愛小説か情事ぐらいだった貴族階級の女性たち や、そういう階級にあこがれる一般庶民が、「慈善」という大義名分を得て、いそいそと 参加した様子がうかがえる。 シャネルは自活の道と同時に自分の才能を生かして自分ら しく生きられる道を探していた。新世紀を前にして、新しい生き方を求めていた女性は彼 女だけではなかった。
292 :
東和の営業 :01/12/19 18:57 ID:O9+3w0s7
こんばんは このスレ腐ってますな おたくらの経営体質も腐ってますが(w
コルセットからの解放 旧大陸の価値観が揺れ動き始めた 「これは白のコルセット。娘のは黒だから、これは違う!」と一人の母親が勝ち誇った ように叫ぶ。「悲しいかな! 伯爵夫人は新しいコルセットをなさって出掛けました。そ の色は−」と小間使いが答える。ポール・モランの短編「慈善バザー」の一節だ。 フランス版白木屋事件ともいうべき一八九七年五月四日の慈善バザー火災の遺体や遺留 品はシャンゼリゼ大通りのパレ・ド・ランドストリ(工業館)に安置された。現在のグラン ・パレの敷地のあたりである。 遺体の多くは黒焦げで身元確認は困難をきわめた。遺留品が頼りだったが、犠牲者の貴 婦人たちは流行の薄地の衣装をまとっていたため、燃え残ったのはコルセットだけという ケースが多かった。 当時のコルセットは表面は布地でレースに飾られていたが、骨格は 鋼(はがね)や鯨の骨入りだった。それを背中と腹部に当て、二重のひもできつく締め上げ る。細くくびれたウエストを保つことはできるが、腹部を締め付けられ腰を曲げるのも困 難だった。 《男性のエゴ》 火災事件から六年後の一九〇三年六月十三日付の仏週刊紙「リリュスト ラッション」にマルセル・ティナル記者の署名入りで「ファンフレルーシュ(リボンやレ ースなどの飾り)」と題する記事が掲載された。 「モード新聞を読むのが面白い」と告白する記者はまず、「女性には他者のために生き、 美しく着飾って愛される装飾品であることが任務の者」と「あまり美人ではなく、あまり 幸福でなく、いや単に条件や精神、気分の相違にすぎないかもしれないが、自分自身のた めに生き、活動的な人生を送っている女性」がいると指摘する。そして前者がリボンやレ ースで飾られているのに対し、後者は「歩いたりバスに飛び乗ったり、おしゃれにささげ る時間を節約するためにテーラード・スーツを創作した」と書いている。 「私はこうした改革の悪口を言うつもりはない」と前置きしてはいるものの、この記者 の本音はまさにこうしたモードの改革の悪口を言うことだった。 「ルターの弟子であるオランダ人や英国人は、悪弊を廃止するだけでは満足せず、服飾 のプロテスタント主義、大改革を実施しようとしている」と述べ、「レースもきぬ擦れ音 もコルセットもなし」のその服装改革を嘆き、その代わりに「恐ろしくもこっけいなコン ビネーションが登場した」と悲憤慷慨(こうがい)する。 「彼女たちはコンビネーション の上に糊の効いたシャツを着て、つりひもでつった絹や毛織りのキュロットをはく。つり ひもの女性! ドンフアンも後ずさりすること間違いなし!」 彼女たちはこうしたやぼな下着の上にルダンゴート(ぴったりしたフロックコート)など を着用したという。今から見るとなかなかおしゃれでモダンなスタイルだったわけだが、 この記者は「パリジェンヌが朝は花開く花のように服をまとい、夜は花弁を一枚一枚、落 とすように脱ぐ習慣を放棄して、つりひもをつる決心をする前にラインの橋の下、流れが 流れ去りますように」と結んでいる。
この男性エゴ丸だしの記事には、男性の中にもカチンときた読者が多かったようだ。同 七月四日付の同紙でティナル記者は「美容のための教育」と題する記事を掲載し、まず男 性読者の投書を紹介する。 「私はコルセットもウエストを絞ったドレスも膨らんだスカートも好きではない。女性 の服装は大いに改革する必要がある。シンプルでしかも優美な現代風ギリシャ・スタイル をどうして採用しないのか」 この投書に対し、記者は、若くて美しい女性やダンスで鍛えた「イサドラ・ダンカン」 には確かに「現代風ギリシャ・スタイル」は似合うかもしれないが、体形が崩れた年配の 女性が着用したら、その場合、どんなことになるか想像したまえと反論する。 そして「コ ルセットなしに救済なし」と断罪する。つまりコルセットを着けていない見苦しい女性に は、神のご加護も望めない、というわけだ。 この記事から見て取れるのは、当時の欧州大陸の絶対的価値観であったカトリック的価 値観が日常生活の次元でもアングロサクソンに代表されるプロテスタント的実用主義や改 革主義の影響を受け始めた点だ。 また二十世紀を迎えたばかりの欧州でイサドラ・ダンカンが評判になり、その舞台衣装 にヒントを得た「現代風ギリシャ・スタイル」が流行の兆しを見せていたこともうかがえ る。イサドラ・ダンカンが欧州にわたり、パリで初公演をしたのは一九〇一年だった。素 足に薄物だけという舞台衣装で創作ダンスを披露する彼女は、パリでセンセーションを引 き起こした。 《ポワレ登場》 一方、モード史「ラ・モード」の中で、ブリュノ・デュ・ロゼルは「一 九〇三年の最大の出来事はポール・ポワレがオベール通りに店を構えたことである」と指 摘する。ポワレは女性からコルセットを追放した恩人として知られる人物だ。ドゥーゼの 店でオートクチュールの基本を学び、さらに一九〇一年から開店直前まではウォルトの店 で腕を磨いた。 世紀末の女性を苦しめたコルセットは一九〇〇年には医学研究家のガシ ュ・サロート夫人によって改良され、「健康コルセット」と呼ばれて登場する。ヒップま で包むトルソ形で、上半身はまっすぐに伸び、胸を解放していた。しかしコルセットであ ることに相違はない。しかもこのコルセットも下着屋がたちまち、さまざまな手を加えて 改良した結果、横から見ると胸は詰め物で極端にふくらませられ、ヒップは突き出され、 横から見るとSの字に見えるS字形スタイルの流行の誕生につながった。 ポワレはこうしたコルセットの代わりに胸の部分だけのブラジャーを用い、ハイウエス トのシンプルな服を考案した。またきぬ擦れの源である何枚も重ねたペチコートも追放し た。彼は日本のキモノや中国服からも影響を受けたとされるが、イサドラ・ダンカンの現 代風ギリシャ・スタイルが彼のモードの原点とする見方は多い。事実、二人は友人関係に あった。 このスタイルはフランス革命の時期にもはやったもので、ドレスのシルエット はI字形になった。ポワレは長身でやせぎすの夫人に着せ、それがよく似合って流行に一 役、買うことになった。ポワレの名は彼の派手な行為とともにパリの社交界にも君臨した が、やがてシャネルに取って代わられることになる。
避暑地の店 「いつも客でいっぱいだった」 一九一三年一月、ロレーヌ出身の愛国者、ポワンカレが熱狂的支持を受けてフランス 大統領に就任し、七月には三年兵役制が可決する。第一次大戦前夜のそんな時期にシャネ ルはカペルの支援で仏北部ノルマンディー地方のドービルに店を出した。 英仏海峡に面したドービルはクロード・ルルーシュ監督の映画「男と女」の舞台として 日本でも有名だが、当時から避暑地として人気を集めていた。町の中心街のノルマンディ ー・ホテルには金持ちが滞在し、近くのカジノは大入り満員だった。シャネルが店を出し たのはこの豪華ホテルとカジノの間、海岸にあと一歩のゴントオ・ビロン通り一三番地だ った。大きな白い日よけに黒い文字でシャネルの名前を記した。 今ではその場所に深紅の日よけを付けたカルティエの店がある。この通りで第二次大戦 前から店を出しているという服飾店の主は最初、このカルティエの店から十メートルほど 離れた場所をかつてのシャネルの店だと教えてくれた。 ところが、その場所にあるルイ ・フェローの店主は「ここではない」といってカルティエの店を示した。カルティエの若 い男性店主はそこが旧シャネル店であることを確認したが、「シャネルというのはてっき り、英仏をつなぐカナル(運河)から取った店名だと思っていた。人の名前とは知らなかっ た。驚いた」と言って逆に私を驚かせた。 シャネルが英国の影響を受けたことは確かだが、そうした情報がどこかで誤ってこの店 主に伝えられたのだろうか。フランスは今でも情報社会ではない面がある。マスコミより 口コミの世界だ。こういう社会だからこそオートクチュールが生き延びたともいえる。 シャネルが育ったオーバジーヌから車で約十五分、コレーズ県ブリーブ市近くの小村、 サント・フェレオールにシラク大統領の両親がかつて住んでいた家がある。実業家だった 大統領の父親は主としてパリに住み、大統領もパリで生まれたが、子供時代には時々、こ の両親の田舎の家にやってきたという。大統領の選挙区はコレーズ県だ。 ところがサン ト・フェレオール村を訪れ、すぐ隣の食料品店で教えてくれたその家の写真を撮っている と、近くの家の窓から顔を出してこちらを眺めていた年配の女性が「そこじゃないわよ、 その家の隣、隣よ」と叫んだ。 顧客を紹介 さて、このドービルのシャネルの店は「いつも、お客でいっぱいだった」(「シ ャネル ザ・ファッション」)という。シャネルはポール・モランに「手にふれるすべて のものを黄金にかえるほどの商才にたけたおんなと思い込まれている。これはまとはずれ。 計算するときは、いまでも五本の指で勘定する」(「獅子座の女シャネル」)と告白してい るが、天性の勘があったといえよう。 それから三年後にスペインとの国境近くの避暑地、ビアリッツに最初のオートクチュー ルの店を開くが、この店も海岸から緩やかな上り坂をのぼり切った四つ辻にあり、いかに も客が入りそうな好位置だった。
296 :
卵の名無しさん :01/12/19 23:34 ID:0F6KpGo/
公私混合社長で有名
シャネルの店がはやった理由は他にもあった。「シャネル ザ・ファッション」は「ロ スチャイルド夫人のおかげだった」と書いている。夫人は当時の上流階級の女性の典型と もいうべき存在で、ポワレの顧客だった。ところがわがままな夫人がポワレのモデルを傍 若無人に侮辱したため、ポワレは夫人を自分のレセプションから締め出してしまった。 今度は夫人がポワレに「仕返し」をする番だった。夫人はシャネルの店の顧客になった ばかりか、友人の貴婦人を大量に紹介した。その中には女優で社交界に君臨していたセシ ル・ソレルもいた。彼女たちはシャネルの店の帽子を愛用し、シャネルが始めたばかりの ドレスを注文した。そしてパリに帰った後も、シャネルの忠実な顧客となる。 「シャネ ル ザ・ファッション」によると、ドービルの店でシャネルは、典型的なイギリス製の服 地を二種類手に入れ、服を作った。その素材はカペルが着ていた編みセーターとフランネ ルのブレザーを取り入れたものだった。 出来上がった服のカットは、水兵服からヒント を得て、ゆったりしたものだった。コルセットを着ける必要はなかった。彼女自身もテー ラード・スーツに先の丸い靴を履いて町を歩き回り、開襟シャツに自分でデザインしたパ ナマ帽をかぶってポロ見物に出掛けた。カペルとの仲は公然化していた。 当時、正式に結婚していないカップルを上流階級は受け入れず、招待もされなかったが、 ドービルの別荘ではイギリスの上流階級が彼らに門戸を開いた。カペルの事業が成功し、 「スターの座を独占していた」(「シャネル ザ・ファッション」)ことが理由に挙げられ よう。 彼の会社の石炭船団は大きく発展した。ずっと年上の「虎」の異名を持つ政治家クレマ ンソーとも交流があった。南北戦争の通信員だったクレマンソーはアメリカ女性と結婚し ており、イギリス人のカペルとは馬が合ったのかもしれない。 クレマンソーは一九〇六年に首相になるや政教分離法を成立させ、累進課税も国民議会 を通過させた。しかし鉱山ストライキを軍隊で弾圧し、ジョレースなどの運動の激化を招 いたとして、一九〇九年には辞任せざるをえなかった。 当時は野にあったが一九一七年 にフランスを危機から救うべく首相になり、国内の敗北主義と戦い、フォシュ元帥を登用 して連合国最高司令官に任じて、フランスを救った。 秘密の傷 客がいっぱいのシャネルの店には、叔母のアドリエンヌも妹のアントワンヌも 手伝いにきたが、カペルは次第にシャネルから遠ざかっていった。カペルの当時の心境に ついて、「シャネル ザ・ファッション」の著者、シャルル=ルーはこう記述する。 「未 知の父という秘密の傷が彼をむしばんでいた。ユダヤ人排斥と国粋主義とが、前代未聞の 激しさで吹き荒れているフランスにおいては、数ある欠陥のうちでも出生のあいまいさと いう欠陥を発見されて、引きずり落とされてしまう重要人物の例はたくさんあった」 これを解決するには由緒正しい家の娘と結婚する以外なかった。シャネルは捨てられよ うとしていた。その焦燥がシャネルを仕事へと駆り立てたのだろうか。 一九一四年六月 二十八日、ボスニア・ヘルツェゴビナで一発の銃声が響いた。その音は避暑客でにぎわう ドービルの喧噪の中では聞き取りにくいものではあったが、世界を震撼(しんかん)させる ことになる。
第一次大戦 “19世紀的価値観”の崩壊 一九一四年八月二日、フランスで動員令が発布された。 「それは筆舌につくしがたい 歓喜だった。フランスはついにドイツ人から一八七〇年以来、受けてきた教訓を彼らに与 えるチャンスがきたのだ。あの悲しい戦争以来、われわれがアルザスとロレーヌを代価に して得た教訓を」 第一次大戦に第百十三歩兵連隊所属の軍曹として動員されたフランシス・ペローは人生 の黄昏を迎えた一九八三年、当時の仏国民のごく一般的感情を文書にして第一次大戦の証 言を収集していた医師、ジャンダニエル・デスタンベールのところに送った。 「サラエボでセルビアの狂信者にオーストリア皇太子が暗殺されたことで、セルビアと オーストリアは戦争状態に入った。同盟のルールによってドイツがオーストリアの側につ き、仏英は小国セルビアを支援しているロシアの側についた。対立した二つのブロックと の間で戦争が即刻、開始されるのは明白だ」と、この無名戦士は非常に簡潔、適切に状況 を説明している。翌三日、ドイツはフランスに宣戦布告を行う。 《悲しい現実》 ラ・マルセイエーズを歌って意気揚々と出征した彼らは「双方(仏独)と もクリスマス前には相手に教訓を与えて帰還できる」と思っていた。ところが同月二十二 日に国境を越えた連隊は、ドイツとの激しい交戦に遭遇する。そして、仲間が傷つき倒れ、 しかばねと化すという「悲しい現実」を突き付けられる。 早々に捕虜になったペローは それから一九一八年の戦争終結まで五十二カ月もの間、ドイツの捕虜収容所で暮らす。そ の間も衛生状態の悪さから疫病などにかかって仲間が次々に死んでいく。 「暇があったら、フランスとベルギーの国境の小さな仏軍墓地の白い十字架群を訪ねて ほしい。詩人ランボーが書いているように、《それは緑なす墓地で小川が歌っている》と いう真に魅力的な場所だから」 ペローはその証言をこう結んでいる。 第一次大戦に動員された二十歳から四十五歳ま でのフランスの男性は約四百万人。このうち約百五十万人が戦死し約百七十万人が負傷し た。また統計学上の推定によると、フランスはこの四年間に戦争がなかったら誕生したは ずの新生児約百五十万を失い、人口の急激な減少を招いた。第一次大戦による痛手はフラ ンスにとって、第二次大戦への不気味な序曲でもあった。 フランスには、二十世紀は第一次大戦とともに始まったと定義する学者が少なくない。 哲学者のアンドレ・グリュックスマンは「第一次大戦によってフランス社会が根本的に変 動したからだ」と説明する。第一次大戦の影響は、それまでの戦争とは比べものにならな いほど大きかったのだ。 確かにナポレオン時代、イタリアやエジプト、プロイセン、果てはロシアに遠征して戦 ったのはナポレオンと彼の率いる兵士(中には現場で調達した外人部隊もいた)だけで、フ ランス国民は国内でほぼ平常通りの日常生活を送った。ナポレオンが妻ジョセフィーヌの 浮気を心配して、しきりに前線からラブ・レターを送ったのもそのためだ。
299 :
卵の名無しさん :01/12/20 00:51 ID:LsvsPElQ
沢井のMRカコイイ
あまりの給料の低さにバイトに精を出す沢井のMRを俺は 一人知っている
普仏戦争でもアルザス・ロレーヌ地方の割譲はあったが、フランス国民が大量に動員さ れ大量に戦死することはなかった。 グリュックスマンは次いで、フランス社会の変動と して「非キリスト教化の進展」を指摘する。 「宗教がもはや戦争を防止することができ ず、フランスのカトリックはフランス国家に、ドイツのカトリックはドイツ国家の側につ いた。つまり従来のキリスト教に基づく価値観の喪失だ」 歴史学者のミシェル・ヴィノックも「第一次大戦がベル・エポックに代表される幸福の イメージをはじめ、すべてを破壊した点で二十世紀の始まり」とみている点ではグリュッ クスマンと一致する。 《女性の解放》 アンドレ・モーロワも「フランス史」の中で、「いかにフランスが一九 一四年の戦争前には、幸福な生活を送っていたか」の例証として、アンドレ・ジーグフリ ードが指摘するところのフランス社会固有の「小市民」の存在を挙げている。 「小市民は小金を蓄え、小金利と小家屋と小庭とで満足していた。新聞は『小(プチ)パ リジャン』『小新聞(プチジャーナル)』だった」 そして小市民は(1)家庭的連帯の感情(2) 戦時中の国家に対する完全な忠誠(3)文化の尊重−を彼らの生活の柱にしていたと分析す る。こうした十九世紀的価値観が失われたのが第一次大戦だったというのだ。 ヴィノックはまた、「フランス人は今でも戦争というと、《大量殺りく》が行われ、家 族のだれかが亡くなった第一次大戦を指す場合が多く、《大戦》と呼んでいる。第二次大 戦では数週間で多くの戦死者を出したものの、休戦条約がたちまち結ばれたので、第一次 大戦ほど肉体的犠牲者が多くはなかった。第二次大戦の衝撃は精神的なもので、それは現 在でも尾を引いている」と指摘する。 「二十世紀は一九一四年から一九八九年までだ。つまりサラエボの銃声からベルリンの 壁崩壊までだ」と定義するのは、仏国際関係研究所副所長のドミニク・モイジだ。つまり フランスの二十世紀は第一次大戦から第二次大戦、そして東西冷戦と絶え間なく、大戦の 戦場であり続けたといえる。 昨年、八十歳を迎えたジャーナリスト、フランソワーズ・ジルーは、「二十世紀を一言 で説明すればオリーブル(ぞっとするような恐ろしい)な世紀だ」と総括する。 ただ、こうした第一次大戦の否定的な面の一方で、唯一、肯定的な面としてジルーが挙 げるのが女性解放だ。 グリュックスマンも「大量の男性が前線に四年間も動員された結 果、女性が男性の穴埋めをする必要が生じ、女性の解放が進んだ」と述べる。 シャネルが初めてオートクチュールの店をビアリッツに開いたのは第一次大戦中の一九 一六年だった。ココ・シャネルの伝記「獅子座の女シャネル」によると、戦争のため外出 する機会が増えた女性たちは同時に戦争のおかげでやせはじめてもいた。「ココのように おやせ」となって、シャネルの新しいシルエットが似合う女性が増えたのだ。
時代はここでもシャネルの登場を求めていた 初のオートクチュール 大西洋に面した保養地ビアリッツの地元新聞「ガゼット・ド・ ビアリッツ」は一九一六年三月十五、十六日の二日間にわたって「今シーズンの新製品」 と題する記事を掲載した。 その中に「マドモアゼル・シャネルがシーズンのためのあら ゆる新製品を取りそろえてヴィラ・ド・ララルドに売り場を開設した」とシャネルの初の オートクチュール店の誕生を伝える記述がある。 この記事の書き方から推察すると、シャネルは当時すでにかなり名が売れており、ビア リッツではその彼女の店の開店が待たれていたようだ。同紙は七カ月後の一九一六年十月 二十一日にはシャネルの店で「ソルド(バーゲン・セール)」が行われたことも伝えている。 ヴィラ・ド・ララルドは町の中心部にあり、カジノも近かった。このヴィラ(別荘)は一 八六七年に英国海軍の将校で、ナポレオン三世とも姻戚関係のあるウィルソン・ベラーズ という英国人が建設した四つのヴィラの一つで、当時は夫人の名を取ってヴィラ・ド・エ ミリアと呼ばれていた。 いまはこのヴィラの一部が書店「ブックストア」になっており、 店名が英語であることが、旧所有者の国籍を忍ばせている。 「ビアリッツの散歩道」(モニック・ルソー、フランシス・ルソー共著)によると、建設 当時は広いサロンと食堂に寝室十六室、数台の車が駐車できるガレージなどを擁し、ガレ ージの運転手の部屋と母屋が電話で直結するなど当時の最先端の近代設備も整っていた。 普仏戦争後の一八七五年にはビアリッツ市長の兄弟の弁護士に売られ、一九一八年十一 月には「数年前からすでに借家人だったデザイナー、シャネルが購入した」(同書)という。 このヴィラ購入の事実によっても、シャネルが順調に業績を伸ばしていたことが分かる。 ●完ぺき主義 シャネルの店は「ガゼット・ド・ビアリッツ」を通じて四月二十日、八月 九日、十八日、九月八日にお針子の募集を行っている。シャネル社のピエール・ブンツ氏 によると「シャネルは約六十人のお針子を雇っており、給料は良かったが、完ぺき主義の シャネルの要求で、しばしば徹夜をさせられ、夜の白むころまで仕事をすることが多かっ た」という。 大西洋に面し、スペイン国境に近いビアリッツは十九世紀初めには、ひな びた漁村だった。一八一三年にウェリントン率いる英軍部隊がナポレオン軍と戦い、戦死 した兵士がこの地に葬られたことから、まず英国の遺族たちが墓参にやってくるようにな った。冬でも温暖な気候や大西洋岸の景勝は遺族たちの悲しみをいやしただけでなく、英 国の人たちの間ではやがて保養地としても知られるようになった。 ビアリッツの名が一躍、有名になるのは、現在も豪華ホテルとして残るナポレオン三世 の別邸「ユージェニー宮殿」が一八五五年七月に完成したときである。少女時代からこの 地に親しんでいたナポレオン三世妃ユージェニーに説得された新婚の夫は一八五四年八月 に五万二千七百六十平方メートルを四万一千四十七フランで購入した。 これをきっかけにパリの社交界では、この温暖の地で復活祭を過ごすのが流行になる。 当時の人気デザイナーだったウォルト、ドゥーセ、ポワレも競ってこの地に別荘を建て、 店を出した。
303 :
卵の名無しさん :01/12/20 19:44 ID:LsvsPElQ
なんだで
304 :
卵の名無しさん :01/12/20 20:26 ID:OTiEXnGZ
いいかげんに荒らしをやめてくれ おまえのために後発会社MRは一層ミジメになるぞ
ユージェニーはパリ社交界の中心人物でその点では仏宮廷文化の伝統を引き継いだとい える。マリー・アントワネット、ポンパドゥール夫人らはフランス宮廷から世界、つまり 当時のフランスにとっての世界である欧州に向けて流行を発信していたが、ロココ時代に 似た裾幅の広いスカートの流行もユージェニーに負うところが多い。 このスカートを支えたのが麻(リン)と馬毛(クリン)を使った新型ペチコート「クリノリ ン」である。それまでは何枚もペチコートを重ねることで張りを持たせていたが、これだ と一枚で十分だった。ユージェニーはギロチンの露と消えたマリー・アントワネットをし のんで、赤いリボンを首にまくのを流行させた逸話でも知られる。 第一次大戦中、ドービルは空っぽになったが、ビアリッツはスペインが中立国だったお かげで戦火を免れることができた。 この時期にビアリッツを愛した芸術家にラベルやストラビンスキー、ロチ、コクトー、 ヘミングウェーらがいる。一九一八年の七月二十八日から九月二十八日までピカソはスト ラビンスキーの支援者でもあったエラズリッツ夫人の館「ミモザ館」に宿泊し、傑作「ビ アリッツの水浴女たち」を描く。 ●大戦下の服 後にシャネルと親しくなるディミトリ大公もユージェニー宮殿の近くの 「ミラメール・ホテル」にしばしば投宿した。ビアリッツの人気は一九二〇年代の「ラネ ・フォル(狂乱の時代)」で頂点に達し、第一次大戦前には年間四万五千人だった観光客が 一九二九年には七万人と倍増している。シャネルの店は一九三〇年代の初めまで続いた。 第一次大戦下でシャネルはどんなドレスを作っていたのだろう。 戦争中も発行を続け たモード誌「フェミナ」は、一九一七年六月十七日付でギャバジンや編み物による「シャ ネルのコスチューム」を紹介している。 「スカートの両脇に襞が取られ、上着の長さはセミ・ロングでベルトによってオリジナ ルな動きを見せており、カラーは高く、折り返しがありストラップを付けたポケットが非 常に新しい感じを与えている」 それに先立つ号では「シミーズ・ドレスは前年ほど流行していないが、ドレスの線は直 線で、繊細で体に密着していないようだ。この傾向は異常に柔らかな材質によって強調さ れている。ジャージーも昨年のものとはまったく異なっている。色はグレーやベージュで 明るい色は使用されていない。ブルーマリンは相変わらず使用されている。全体の印象は 非常に控えめである」と書いている。 ギャバジンやジャージー。そしてグレーやベージュ。この特徴こそ、シャネルのもので はないか。この記事はこの時代にシャネルがすでに流行を支配していたことを証明してい る。 一九一六年二月、フランス北東部の小都市ベルダンでドイツ軍の攻撃が開始された。 フランスのペタン将軍を英雄にしたベルダン要塞攻防戦はその後、九カ月も激しい戦闘が 続く。シャネルがビアリッツにオートクチュールの店を開いたのは、そんな時期だった。
死の地下壕 人は運命には逆らえない 確かに彼は恐るべき歴史的現象であったかもしれない。しかし同時に彼は、重要な歴史 的現象であった。したがって、我々としては、彼の存在を無視してしまうわけにはいかな いのである。(トレーバー=ローパー「ヒトラー最後の日」) アドルフ・ヒトラーの登場が果たして歴史的な特異現象なのかどうかという疑問は、ヒ トラーの死後五十年以上を経た今も問われ続けている。とりわけその疑問は、ヒトラーが ワイマール憲法で知られる自由な議会制民主主義のもとで登場したという事実に、より向 けられている。 ヒトラーが政権についた一九三三年一月からポーランド侵攻までの六年八カ月の間に六 百万人の失業者が雇用され、経済的奇跡と激賞された。三八年のベルリンオリンピックの 大成功は聖火リレーなどの形式として今も引き継がれている。ワイマール時代の無秩序と 政治の不在に不満をうっ積させていたドイツ国民の八割はその時、ヒトラーを熱烈に支持 していた。 そして、大衆のその熱気こそが後に大量虐殺というすさまじい結果をもたら す要因でもあったのだ。 ベルリンが空爆と砲撃でほぼ完全に破壊され最終段階に入っても、ヒトラーは徹底抗戦 を叫んでいた。まるでドイツを道連れに自爆したような異様な死の現場から、この話は始 まる。 《物資を調達》 二百五十万人のソ連軍(赤軍)によるベルリン総攻撃が始まったのは一九 四五年四月十六日のことだ。これに対し、わずか二十五万人しか残っていなかったドイツ 首都防衛軍は総崩れとなった。二十四日深夜、ベルリン攻略最高司令官のゲオルギー・ジ ューコフ元帥は、ヒトラーの立てこもる帝国総理府に向けて一斉砲撃を命令した。 当時、ベルリン経済局食料調達責任者だった医師のエルンスト=ギュンター・シェンク 大佐は、砲撃で混乱状態にあった総理府内の総統官邸地下壕に入り、「ヒトラー最後の七 日間」を見届けた数少ない生き残りの一人である。 「二十二日ごろだったと思う。私のところに帝国総理府防衛責任者だったモーンケ親衛 隊将軍から緊急電話があった」と九十三歳になったシェンクは話す。 「食料をできるだけ調達してほしい、できれば武器弾薬も」との命令だった。総統官邸 に立てこもるのに必要な物資を用意せよというのだ。市の秩序を保つべき役所の管理者は すでに逃げ出しており、兵士や部隊もそれぞれが最後の一戦に向かうなどと言いながら姿 を消していった。 シェンクはその時、シュプレー川沿いの臨時倉庫がまだ無事だったこ とを知った。 降り注ぐ砲弾や突撃してくる赤軍のことを考えれば、回収は至難の業だったが、とにか く特別部隊を編成し、総統官邸に三千人が三十日立てこもれるだけの食糧を確保するのに 成功した。そしてシェンク自身もヒトラーの死のろう城に加わることになった。
>サイズが496KBを超えています。512KBを超えると表示できなくなるよ だって。 いわゆる狙い通り?
総統官邸はすでに崩壊寸前だった。旧官邸の地下十五メートルにある総統地下壕は二階 建てで、四方を厚さ二メートル以上のコンクリート壁で防護していた。そこにヒトラーと 愛人エバ・ブラウン、そしてゲッベルス夫妻ら側近グループを加えた約三十人が生活して いた。そして地下道でつながる新官邸の地下室は臨時の野戦病院になっていた。 地上階には総統幕僚関係者や総統護衛隊員らが潜んでおり、加えて避難民となった一般 市民数百人も周辺にいた。モーンケ将軍が指揮する官邸防衛部隊は三百人程度だった。 ヒトラー警護を最後まで受け持ったのは武装親衛隊(SS)だったが、その内訳は特異な ものだった。正規のアドルフ・ヒトラー警護連隊ではなく、フランス・シャルルマーニュ 師団、スカンディナビア戦車歩兵師団の残存部隊やヒトラー・ユーゲントらヒトラーを狂 信的に信奉する外国人および少年兵が主力となっていたのだ。彼らは官邸の外の陣地にい て、定期的に食糧と弾薬を取りに来るだけだったので、実際の人数は見当もつかなかった。 《まるで病人》 一方、シェンクが徹夜で患者を診ることになる臨時野戦病院には著名な 外科医ウェルナー・ハーゼ博士がいたが、彼はそのときすでに重い肺炎に冒され、執刀す る体力も気力もなく、本来、内科のシェンクが二人の看護婦やヒトラー少女てい身隊員と ともに連日、五十人近くの市民や兵士の手術をしていた。 興味深いのは、壮大な建築で知られる総統新官邸の謁見用大ホールだ。ヒトラーが外交 官を威圧するために作らせた大理石づくりの長大なホールは臨時の台所と化していた。料 理用ストーブのわきに手りゅう弾がいっぱい詰まった弾薬箱が山積みにされ、シェンクは ゾッとしたのを今も思いだすという。 三十日午前三時半ごろ、シェンクは初めてヒトラ ーと直接会った。それはヒトラーがエバと自殺する十二時間前のことだ。 野戦病院に通じる階段にヒトラーがハーゼ博士とともに現れた。シェンクと看護婦二人 は直立不動の姿勢をとった。 「ヒトラーは落ち着いていた。まるで重病人のようで完全 に疲弊していた。しかし、例の規律を感じさせるあいさつをし、われわれ一人一人に『最 後までありがとう』と感謝とねぎらいの言葉をかけた」とシェンクは死を覚悟した独裁者 の姿を再現する。 看護婦の一人が「ジーク・ハイル・ヒトラー(総統万歳)、私たちは最後まで従います」 とヒステリックに叫んだ。ヒトラーはくるりときびすを返して、「人は運命(宿命)には逆 らえない。ひきょう者になってはいけない」と静かに言った。 それから数時間後、シェ ンクはヒトラーがエバやゲッベルスらとともにワインを飲んでいるのを見かけ、その直後 にハーゼからヒトラーの自殺の決意を聞かされた。 「死の直前」とシェンクはいう。ヒトラーは側近たち十数人を集め、一人一人の労をね ぎらいながら、勲章を手渡すように青酸カリ入りのアンプルを渡した。そして寝室で銃を 片手に持ち、青酸アンプルを口に含むと同時に自ら頭を打ち抜いた。 「ヒトラーの永遠 の同志を自認するヘーベル(外務次官)が私の目の前で死ぬとき、『総統と約束したから』 と言ってそんな死に方をしたので、私はヒトラーもこうやって命を絶ったのだと実感した のです」
死の地下壕(2) 灰になるまで焼きつくせ アドルフ・ヒトラーは一九四五年四月三十日午後三時三十分、総統官邸の地下十五メー トルにある地下壕で、青酸入りアンプルを口に含むと同時に愛用のけん銃ワルサー七・六 五ミリで自らの頭を撃ち抜いた。ウェルナー・ハーゼ医師が直接伝授したというこの「確 実な死」は、ヒトラーが望んだ通り即死だったと推測されている。 《銃声を待つ》 死の瞬間、地下壕にいたのは三十人前後。そのうち執務室のドアの前 で、今か今かと銃声を待っていたのは総統官邸官房長官、マルチン・ボルマン、帝国宣伝 相、ヨゼフ・ゲッベルス、ヒトラー・ユーゲント指導者、アルツール・アクスマン、そし て総統付き副官で親衛隊少佐のオットー・ギュンシェの四人だった。総統の死を確認する 特別命令を受け、本来ならドアの一番前で待たなければならなかった従卒の親衛隊少佐、 ハインツ・リンゲはその時、落ち着きをなくし、地下壕の非常口にいた。 このうち今も生存するのはギュンシェだけだが、彼は極度のマスコミ嫌いに陥っており、 産経新聞とのインタビューにも一切、応じなかった。代わりに総統執務室のすぐ向かいの 電話室にいた親衛隊軍曹、ロヒュス・ミッシェが当時の地下壕内の張りつめた雰囲気とそ の瞬間を証言した。七十九歳になったミッシェはソ連での抑留を経験し、現在はベルリン で年金生活を送っている。 「私が見た総統最後の姿は、なぜか足でした」とミッシェ はいう。 砲撃や爆撃音にかき消されながらもピストルの発射音とみられる鋭い音が壕 内に響いた。 その時、ミッシェは地上への非常口の階段のところにいた。「リンゲ、リンゲ、ついに その時が来た」という叫び声が聞こえた。ボルマンのようだった。ミッシェがとっさに総 統執務室の方をみると、リンゲとギュンシェが青ざめた顔で執務室にはいるところだった。 ボルマンの姿もあった。ミッシェはドアが開け放たれたままの総統執務室をのぞいた。 「まずエバの遺体。ダークブルーのスーツに白い襟がみえました。その横にヒトラー総統 の遺体がある。しかし、にょっきり突き出た足しか見えず、結局、金縛りにあったように 総統の顔は正視できなかった。わずか三十秒ぐらいの出来事でした」 ヒトラー自殺の場面で重要な役割を演じたのは、ヒトラーを継いでナチス党党首となっ たボルマン、そしてヒトラーの信任の厚かったギュンシェとリンゲだった。 ギュンシ ェはボディーガードを兼ねた総統付き副官という肩書だが、最後には個人的な話し相手に なるほど頼られていた。 一方、リンゲも一九三五年以来のヒトラー付き従卒で、私生活面のすべてを知る男とさ れる。二人ともソ連軍捕虜となったとき、モスクワで徹底的な取り調べを受けている。 そのリンゲが一九五五年にソ連での捕虜生活を終えて西ドイツに帰国、すぐにだした回 顧録(昭和三十年、産経新聞夕刊で五十回連載)では、ヒトラーは自殺の五日前に特別命令 をリンゲに与えていた。その命令とは「だれにも私の死体と分からせてはならない。灰に なるまで焼きつくせ」というものだった。 この遺体焼却についてミッシェは「(ヒトラ ーの)遺体は毛布にくるまれ、ギュンシェとリンゲが外に運び出し、エバはボルマンによ って毛布にくるまれ、ケムカが運び出した。
これで最期の一撃になるかな?