がいたい。すぐにレスを返す。
>嘘じゃないよ。ほんもの。さ、早く情報希望。あの3枚のgifはなんだった?
オタから。
>あせってもらっては困るよヒロくん
>まだこっちの条件に答えてもっらてない
>ほんものというならあと2枚別アングルを所望
だめだ。意地になってる。どうもこういうところが大人気ない。オタの悪いところだ。
とはいえ送らないではレスもない。絶対に。
缶コーヒーを持って笑ってる彼女の画像。
それから決定的な、ぼくとふたりで写ってる画像の2枚を送った。すぐにレスが来た。
>嬢様幾ら?おれも買う
>つか、めちゃめちゃいい女。おれも好きになった
>これじゃ不公平だ。おまえはおれに分けのわからん何かを突然送りつけてくる
>おれは必死になって解読する。おまえだけ得。おれは損。こんな馬鹿な話があるか?
だめだ。相手にするのはやめた。
ポットに1杯だけ残った最後のコーヒーをすする。すごく美味い。
カーテンを開けて部屋から見える都内の風景を眺めた。
鳥が飛んでて、申し訳程度に緑もあって、そんなに悪くない。
ウインカーを点滅させながらゆっくりとカーブを進む車。
雨が降り始めたせいで、足早に歩くサラリーマンの黒い点。
風景を眺めてると、姫様との数日がまるで嘘のように思えた。
頭の中で、風景から人の動きを線で結んで切り取ってみる。
もちろんそこから何かを拾ってくるほど、ぼくは頭がいいわけじゃないし
閃きに突然襲われる天才であるはずもない。
でも、高速で移動する点を眺めるのはぼくにはどこか息苦しかった。
ホテル壁面に遮蔽されて、動かない点。
それがいまのぼくだ。
姫様の中へ逃げ込もうとするぼく。気まぐれにぼくを求める姫様。
つよい風が吹いて、大きなぴかぴかの窓に雨粒を叩きつけた。
雨粒は人を結ぶ線と重なって、頭のなかで弾け飛んだ。
ああ、そうだ。
ぼくには奥の手、オタが目の色を変えて飛びつくワイルドカードがあったんだ。
>オタ。君はたしかぼくが持ってるエアジョーダンに興味があったよね
>企業プレミアム
>邪魔だから捨てようかと思ってたとこなんだけどさ
効果はてきめんで、すぐにレスがあった。
>もうすこしお待ちください
>分かり次第すぐにお送りします
オタのことだ、どうせ放っておいたんだろう。
最寄駅の改札を出ると、彼女はもう来ていて
駅前のパン屋のカフェでコーヒーを飲んでいた。
パン屋のガラスに貼られた大きなロゴを通して、ぼくに手を振った彼女。
こういうときって、不思議にすぐ気づくんだよな。
会計は済ませてあるのか、彼女はすぐに腰掛けてたストールから降りると
足早に店から出てきた。
ぼけっと立ったまま彼女をみつめるぼく。
白いコート。キャラメル色の細い、踵の高いブーツ。長く降ろした髪。上品な化粧色。
心底驚いてしまった。
デートクラブから呼び出されてくる女の軽い匂いなんてどこにも残ってなかった。
はじめて会ったときの子供っぽさも、酔いつぶれてホテルまで運んだときのだらしなさも
昨夜泣いた可哀想な姉としての彼女もどこかへ消えて
近づき難いどこかのお嬢様が目の前にいた。
過去を詮索するなんてとんでもない。どこか存在感のない綺麗さ。
ぼくはすぐに、彼女を家へ連れ帰ったときの
「家族全員にたいする悪影響とそのダメージ」について考えてみた。
上がりまくる親父。キョドる弟。
白いコートを着た雪女が室内を完全冷凍したみたいに、空気もろともカチンと凍りつかせるだろう。
大げさなアメリカ製カトゥーンの1フレームが間違いなく我が家に再現されるだろう。
ぼくらは連れ立って家へ向かった。
だって、そうするしかないもんな。
小さな商店街を抜けるとすぐに郊外の田園風景。
風の匂いに草の香りが混ざる。それでもどこからか運ばれてきた車の排気と
人口肥料の鼻をつく匂いもかすかにあって、とてもノスタルジックからはほど遠い。
彼女は自分の家のまわりの風景に似てると言った。
そうだね。都内も郊外も都市近辺はどこも似ている。
画一化された緑化計画と企画品でつくられた建造物。
どこもかしこも、まったく同じプラスチックがシームレスに並んでるように見える。
なんだか生きてるみたいだ。
現実は非現実的で、夢物語が現実。
映画のストーリーやテレビドラマの中に生きながら街に溢れる人。
いつの頃からか、ぼくは姫様をこの世のものでなく
どこかしら遠い夢の世界の住人として捉えるようになってた。
どうしようもない現実の中で苦しんでる姫様を。
これは推測だけど、
彼女がお守りとして後生大事に持ち歩いてるクマのぬいぐるみは
きっと彼女が小さかった頃、もっと小さかった弟に作ってあげた大事な品。
首に下げれるように首のとこに紐通しがのこってて
いまではそこがほつれて、中身のビーズが飛び出しそうになってる。
このクマがつまりぼくそのもの。
現実には存在するのに、存在しないもの、意識のないものとして扱われる、でも愛すべき対象。
クマのご主人様はとうの昔に死んだ。
でも造り手はいまでもその名残と記憶を愛してやまない。
彼女が何年も前に失った弟はいまなお彼女の側にいて、彼女を苦しめてる。
つまり間違いなく実在する現実。
ただいま。と言って玄関で靴を脱ごうとしているぼくに
母親は愚痴のひとつも浴びせてやろうとして飛び出してきたに違いない。
「どこをほっつき歩いてるのこの子は」
そう言ったきり口を開けたまま動かなくなってた。
白いコートを着た雪女の犠牲者第一号。
彼女は控えめな演技で「こんにちは」だか「お邪魔します」とか
とにかくそんなことを言ったと思う。
母は、彼女をみつめたきりしばらく動かなかった。
居間へ彼女を通してからが見ものだった。
馬鹿な弟も、普段は陽気な親父も、正座したきりそれこそ借りてきた猫みたいに大人しくなってた。
言葉がありえないほど丁寧になり
何度も自分の後ろ頭を叩きながら喋る弟は、まったく馬鹿そのものだった。
中学のときの同級生で、ばったり駅で何年かぶりに会った。と紹介しておいた。
彼女と軽く打ち合わせてたので、スムーズだった。
とはいえ、いままでまったく女気のないモテナイ息子がいきなりこんな美人を連れ帰る説明としては
やや足りてなかったのかもしれない。
ただ、彼女にはアドリブのセンスもあって、高校生になってから少しだけ付き合いがあったこと。
ぼくの母が育てていたセントポーリアの鉢植えを、実はこっそり一株分けてもらってたこと。
そんなわけで、お母様にはお伺いして一言お礼を言っておきたかったこと。
そんな話をさも事実のように、柔らかな笑みで語ってくれたので
家族の注意はそこに注がれた。
これにはぼくも驚いた。居間に通されるまでのわずかな時間に彼女は何をみたんだろう。
そしてそこに反応したのはぼくだけじゃなかった。
母が、ぼくが高校生の頃に、鉢植えがいくつも盗まれたけど、あれはおまえの仕業だったのかと言い出した。
実のところ母はひどく喜んでいた。自慢もたぶんに入ってる。
盗まれるほどの自分の技量に対してと、姫様が草花に興味があったこと。
もっと驚いたのは、それきり母と姫様は意気投合してしまったということ。
世の中何が起こるかさっぱりわからん。
母がもう充分だと言う姫様に、食べろ食べろと御節の残りを勧め。
親父は姫様にお酌してもらって、悔い無しといった感じだった。
馬鹿弟は馬鹿よろしく、デジカメを持ち出し彼女を撮影すると言い張り
彼女にやんわり否定されて、心底落ち込んでた。
夕方になってぼくの部屋を見た彼女が、窓辺でやけに悲しそうに外の風景を眺めてるのを見て
ぼくはそろそろ行こうか、と切り出した。
彼女が帰ると聞いて、すっかりしょげてしまった親父。
駅へ向かう道の途中、泣き出してしまった姫様。
昨夜のように激しくではなかったけど、静かな鼻をすする音が夜道ではやけに響いた。
なんでわたしの両親は死んでしまったんだろう。
なんでわたしの弟は、まだ幼かったわたしを最後にひとり残して死んでしまったんだろう。
その理由が知りたい。この世で起こるありとあらゆることには何かしら理由があるんだと思う。
彼女はたどたどしい口調で、見つからない言葉にいらいらしながらそんなことを言った。
「ヒロはいいね。優しい両親と弟がいて」
彼女はそう言ったきり黙りこんでしまった。
セントポーリアの鉢植えの嘘とトリックを、ぜひ聞いてみたかったけど、
とてもそんな雰囲気じゃなかった。
渋谷駅に向かう山手線はひどい混みようで、姫様はぼくにもたれてご就寝。
まんざら悪い気はしなかった。
ぼくのシャツが姫様のヨダレで汚れようとも、ファウンデーションが付着して色が変わろうとも
ぼくは姫様が起きないように、電車の揺れに合わせて体をねじる。
電車が代々木駅のホームに滑りこむのと同時にケータイが震えた。
オタからだった。
珍しく長い文章で、2度に分けられて送信されてきた。
>お待たせ。苦労したよ
>この真っ黒な画像がほんとうに真っ黒、例えば#000000なんていう単色で塗られているなら
>10kなんていう重さにはならない。実際にはもっと軽い。
>じゃあなんでこの重さになっているかというと
>それは間違いなくこれが画像データだから
>ピクセルの配色にはバラつきがあるって証拠だ。
オタのメールに目を通した瞬間、それがオタにとっては造作もないこと
簡単に見破れるトリックだってことがすぐに分かった。
おそらく交換条件のスニーカと等価値になるよう、自分のやってることに
威厳を与えるべくもったいぶってるんだろう。
講釈をすっとばして、肝心の部分を探す。
>ピクセルが数色あるとして、その配置に意味があるとすると
>これはなにかコードを表してるのかもしれない。
>統計解析してみればすぐに分かるんだけど、生憎そんな高価なアプリは研究室に
ウザイな
>ふと思ったんだけど、これって画像をモノクロ変換して
>コントラスト調整すればいいんじゃないかなと思ってさ
ビンゴ!これだ。思ってたとおりだ。
>インド、デリーのペダルタクシィの画像が一枚
>マドラス、チェンナイのペダルタクシィの画像が一枚
>ボンベイ、ムンバイのペダルタクシィの画像が一枚
>デリーはあるいは違う場所かもしれない。院に通ってるインド人に確認してもらった。
>まあ、場所がどこにせよ全部輪タクの画像ってのもなんだかな、と思ってさ。で、ここからが重要。
>タクシィのナンバープレート。全部あとで手が加えられてる。
>数字ね。デジタルで。ひどい加工ですぐにわかるよ。とにかく送り返しとく。
>それにしてもさ。なんでこの製作者はこんな手のこんだことをするんだろうな。
>たぶんどこかにスタンドアロンで稼動してるPCがあって
>人が手でデータを運んでるわけだろ。嬢様がさ。秘密は守られてるだろうに。
>とはいえ、こうやっておれ達が覗き見してるわけなんだけどさ。
ありがとうオタ。
やっぱりお前は最高だ。
渋谷駅に到着しても、姫様はムズがって降りようとしなかった。
眠いのだ。仕方ないので、持ち上げて運ぶ。
うー。と姫様のうなる声。
今朝から、ずっと泣いてたからね。すこし気分転換しよう。
そんなわけで、ぼくらはハンズ近くのアーケードに繰り出した。
迫り来るゾンビを撃ち殺すゲーム。そいつをまずふたりでやった。
はたで見てると簡単そうなんだけど、実際に遊んでみるとけっこう難しい。
弾のリロードが遅れてやられたり、避けようとして自分の体が動いたり。
一番つらかったのは銃を水平に長時間構えることだった。
姫様はすぐに耐えられなくなって、腕を降ろしてしまう。
で、ゲームオーバー。
すぐに追加コインを投入して再度参戦しても、あっという間にやられてしまう。
ぼくは途中から射撃を中止して、彼女を見ていた。
笑顔が戻っていて、楽しそうで、熱中している。
腕は平気かい?と大声で聞くと、「よゆ〜」とやはり大声が返ってきた。
無理して誘ってよかった。
レースゲームをやり、それからちっとも拾えないUFOキャッチャーに粘着して
喉が渇いたところで、アーケードを後にした。
店を出ようとドアを開くと、雨脚が強くなってた。
今年の正月はなんだかずっとこんな空模様だ。
弱い雨が降ったりやんだり、忘れてると強く降って気にすると弱くなる。
カラオケ店は歩いてすぐらしいけど、雨の中歩くとなると辛い距離だ。
寒さも水滴と湿度のせいで堪えるし、姫様の鼻の頭はもう真っ赤だった。
その時後ろから誰かが声をかけてきた。
「よう」
と言って傘を差し出してくれたのは、昨夜の彼女だった。
店の屋根というか、突き出したわずかなでっぱり伝いに歩き
そこで止まってるぼくらを見かねて、傘を持ってきてくれたらしい。
「事務室の窓から見えるんだよね」
彼女はそう言って笑った。
「助かるよー、カナ。仕事はもう終わり?」
「うん。事務室で着替えて煙草吸ってた。邪魔しちゃ悪いと思ってさ、声はかけなかった」
カナと呼ばれた子は、防寒用のアーミーコートを着ていて
動物の毛が縁に巻かれたフードいっぱいにドレッドが広がってて
雌ライオンにもたてがみがあるとしたら、きっとこんな感じだ。
引き締まった体。女っぽい服装じゃないのに、でもどこか色っぽい。
怒らせると、Xmanのウルバリンよろしく凶暴なライオンに変身しそうだ。
カナと姫様はしばらく立ち話をしていた。
会話の途中、カナがコートのポケットからフロッピィを取り出して
姫様に渡すのをぼくは見逃さなかった。
椎名林檎、椎名林檎、椎名林檎と3曲続いた。
4曲目はまた姫様で、椎名林檎だった。
5曲目のカナの椎名林檎がはじまると、姫様が楽曲リストをぼくに投げつけてきた。
「ヒロも歌うの。ほら早く入れて」
冗談ぽく「椎名林檎なんて歌えないよ」と言うと、熱唱中のカナが突然大笑いした。
「なんでもいいですよ。好きな曲。ほら入れて」
マイクを通したでかい声で急かされる。そういえばはじめてカナを見たときも急かされたっけ。
だけど困ったことになった。
気取るわけじゃないけど、この楽曲リストはぼくには無意味。
邦楽は聴かないから、知ってる曲なんてたぶん登録されてない。
だからカラオケにはほとんど行ったことがなかった。行ってもまわりをしらけさせるし。
中学の頃、ぼくはイギリス産ロックにはまった。
過ぎ去った時代の過去の遺物。ザ・フーにはじまって…
それにしても、何か探すかとぱらぱらめくるフリだけでもする。
そこで五十音リストのアーティスト欄の「E」にイーグルスを見つけた。
へぇ。イーグルスなんてあるんだ。
一曲だけでも歌っておかないと。ってことで「言い出せなくて」を姫様に指で示した。
数桁の識別コード。
これならなんとか歌えそうだ。
姫様は慣れた手つきでリモコンのスイッチを押す。
入力が完了した途端、緊張に襲われる。
どこにいてもそうなんだよな。目立ってしまうシチュエーションでは、ぼくは必ず緊張する。
緊張することがおかしな場合でも、心拍数が急カーブを描いて高まり、挙動不審に陥る。
可愛い女の子ふたりのいる密室で、心拍数の高まる男はたくさんいるだろうけど
挙動不審になる男は、たぶん少ないだろうな。
器の小さい男。楽しめない男。まわりをしらけさせる男。つまりぼく。
イントロがはじまると、緊張はピークへ。そこからはもう覚えてない。
テレビモニタに表示される英文の歌詞を必死に追った。
聴いたことのない曲が流れると、自然と視線が集まる。マイクを持った者に。
こういうことは以前にも経験したことがある。
歌い始めた途端、皆は興味を失うんだ。
そんな曲知らない。何歌いたいわけ?って具合に。
歌い終わると、次の入力がされてないのか、異様な静けさが戻ってきた。
ぼくはたった一曲のために汗までかいてた。
かっこわるすぎだ。
場を取り繕おうとして、次の曲、彼女達の好みを入力するために触ったこともないリモコンに手を伸ばす。
次の曲は?と促すように、その実、哀しみに満ちたすがるような視線をふたりに送る。
その瞬間だったと思う。
カナが「すげぇ」と言った。「かっこいいじゃん」
それから口調を変えて、ぼくを見て
「イーグルスわたしも好きですよ。あの。in the city歌えないです?」
思ってもみなかった感想と展開。
英語の歌詞は大好きだとカナが言ってくれた。
うん。歌えると思う。あろうことかぼくは2曲連続の暴挙に出た。
姫様はにこにこ笑ってた。
そこで注文してあった簡単な料理が遅れて届き、三人はゆっくり盛り上がっていった。
椎名林檎はさすがに飽きたみたいで、Jwaveで聴いたことのある当時のヒットナンバーが延々と続く。
女の声は好きだ。高い域でさえずるようなアリア。
心地よくてぼくはいつの間にか眠ってしまってた。
いつか見た夢。
子供の頃、近所の空き地に寝転がって見上げた冬の空。羽ばたく雀。
姫様が手を握ってくれてたと思う。たぶん。
彼女の気配がすぐ側にあって
マイクの振動と体を揺するタイミングがシンクロして伝ってくる。
派手な雷が近所に落下して、停電の中、闇に包まれて母の側で眠った幼かったあの日の夕方
あの闇と同質の、暖かい安心してじっとしていれる闇がここにもあって
ぼくはどこまでも深く、彼女の傍らで眠った。
姫様に揺り起こされた。
姫様の顔が目の前にあって、ぼくを覗きこんでた。
姫様の頭のうしろ、直線で結ばれた先にダウンライトがあり、逆光で顔が見えない。
ぼくは再び目を閉じ、記憶を手繰って姫様の綺麗な顔を目の前の気配に重ねる。
イメージが重なったその刹那
ぼくは半身を起こして姫様の髪に触れた。
煙草の煙がゆるやかに流動するこの部屋で、姫様の髪も煙草の匂いがした。
「カナはもう帰った。午前中はたいていダンスの練習なんだって」
ああ、そうかなるほど。彼女のあの筋肉はそのためなんだな。
しなやかな野生動物のような四肢。ゆっくり記憶を再生してみる。
そういえば、彼女はあまり笑わなかったな。
ふつうの女の子ほどには。
大きい瞳がよく動いて、ぼくを監視するように見てたっけ。
鼻をこする癖があって、両手はたいていポケットに納まってた。
外見ほどにはきつくなくて、話し掛けると、倍の量の言葉が返ってくる。
彼女は、いい、とか悪いとか、そんな言葉をよく使った。
いい曲だね。とか、その曲は嫌い、ではなく悪い曲、と言った。そんな具合に。
いつだったか、仕事で一緒した若いイラストレータの女性のことを思い出した。
彼女は企業に押し付けられた配色を、悪い色。と言った。
もちろん色の配合に、いいも悪いもないのだけど、そんな考え方をする彼女に
ぼくは密かに嫌悪感を抱いていた。
仕事の進行に差し支えないかなと、そんな心配をしていた。
だけど、彼女もまたプロだった。
彼女の指定通りに進めると、最終的には彼女が最初に力説した
漠然とした曖昧な言葉で押し切った「いい色」が出来上がった。
ぼくにもそれは理解できた。
問題があるとすれば、ぼくはいまだにそのプロセスを上手く説明できないってこと。
間違いなくそこに存在するのに。論理的には上手く紐解けない。
姫様がいて、カナがいて。
ぼくはどれだけ姫様のことを理解できてるんだろう。
もちろん音符の連鎖に、いいも悪いもない。
でも彼女は、ぼくの歌った歌を、いい曲と言った。
面倒だな。単純に考えてみようか。
カナから見たぼくは、姫様の側にいる男としてふさわしかったんだろうか。
姫様はバッグからピンクのクマを引っぱり出して
ぼくになんどもキスさせたり、パンチしたり、意味不明な言葉で喋りかけたり
たまにジンジャエルを口に運んで、膝枕しているぼくの顔に垂らそうとふざけてみたりした。
「ねえ」とぼくは言った。
ん?と彼女。
「今日の昼間。ぼくの家で何をみたんだ?セントポーリア。あの嘘はぼくも驚いた」
彼女の口元に笑みがこぼれる。
「さあ、なぜでしょうねぇ」
「推理してみようか」
「いいよ。やってみて」
彼女の膝は最高に心地よかった。何度も寝返りをうち
さも考えてるふうを装ってその感触を楽しむ。
「少なくとも君はセントポーリアに詳しい。その栽培方法を知ってる。これは間違いないよね」
彼女はジンジャエルを口に含んだまま、うんうんと答える。
「問題は、なぜぼくの母がセントポーリアを好きだと分かったかってことなんだよね」
うんうん。
「家にセントポーリアの鉢植えはひとつもなかった」
うんうん。
「機材かな。有名なメーカの何かがあったとか。栽培に適切な鉢が転がってたとか」
彼女はクマをぼくの顔めがけてダイブさせた。
「ぴんぽん!正解です。玄関にね。たくさん栽培用ライトの残骸が残ってたの。
家のおじいちゃんが使ってたのと同じメーカ。それから居間の隅にあった空っぽのガラスケース」
「ふーん。なるほどねぇ。でもさ、そんなたくさん育ててなかったかもしれない」
「それはあり得ないですねぇ。鉢植え自体は小さいもん。
あのライトの量は昨日今日はじめた人じゃないってことくらい分かる。
単純にいっても10鉢。たぶんそれ以上あったんじゃないかな」
「ふーん。なるほどね」
「それに間違ってたとしても、ヒロのリカバリに期待してたし」
おいおい。
ぼくはテーブルの上に転がってたジンジャエルのペットボトルのキャップを
なんとなく、ピンクのクマの頭に被せてみた。
あれ。ぴったりだ。
トルコの兵隊みたいだ。
彼女はきゃあきゃあ笑った。
「よかったねクマ。明日はコカコーラのキャップの帽子を買ってあげるね」
彼女はそう言って両手でクマを抱いた。
きっと幾晩もそうしてきたせいで、クマのフェルトのボディはそんな色になったんだろうな。
汚いぬいぐるみは、愛された証拠か。
ホテルに戻るとぼくは真っ先にPCを起動した。
姫様がシャワーを浴びてる間に確認しておきたかった。
画像は届いていて、3枚ともいっぺんにブラウザに突っこむ。
ひどい画像だった。
何かフィルタでも施したんだろう。
モノクロのざらざらした感じは、何度もファクスして劣化したようにも見える。
まるでアンダーグラウンドのロックバンドのチラシだ。
オタの言ったナンバープレートを確認する。
すべて6桁の数字。
たしかにそれは、あからさまにコラージュされたように、
輪タクのホロにアングルの補正もされないままくっついてた。
そもそも輪タクにナンバープレートなんて付いてるんだろうか?
とにかく考えてもはじまらない。情報が少なすぎる。
ぼくは次に、彼女のバッグから白い封筒を引っぱり出した。
封はされてない。
中身はやはりフロッピィだった。
ブートして中を確認してみたけど、ファイルに触れることはしなかった。
見てもたぶん何もわからないだろう。
このPCには画像処理用のソフトウェアがインストールされてない。
それに交換条件の分、オタにはしっかり働いて貰うとしよう。
オタのアドレスを呼び出して、そこに全部突っこむ。
すべて送信が終わって、時計を確認した。
起動してから終了するまで10分。ちょっと時間がかかりすぎかもな。
慎重にやらないと。緊張感がなくなったときが一番危険だ。
やるからにはクールにやろう。完璧を目指そう。
カーテンを開け、窓の外を見ると雨脚が強くなってた。
眼下に広がる東京の街は死んだように静まりかえっている。
街灯のまるいドーム状の明かりとネオンサイン。
ぼくらはついさっきまで、このミニチュアの街の中にいた。
ここから見ている風景は、どこか遠くの街、子供の頃何かの本で見た異国の街のようにも思える。
絶対に訪れることない、ほんとうに実在するのかどうかさえあやしい
説得力に欠ける噂と、重みのない貼付写真でしか知りえないどこかの街。
ぼくはときどきこんなふうに考えることがある。
自分にとっての現実なんて、たかだか半径2メートル。
その目の届く範囲、そのボール状の球体の内側に入ってきた何かだけで成り立ってるんじゃないかって。
たいていの人は、その球体の外には自分の知りえない
巨大で膨大なデータが流れてることを信じて疑わない。でも、ほんとうにそうなんだろうか。
ぼくの手の届かない場所は、じつはからっぽ。
ぼくがノックしたドアにだけ電源が投入され、入り口のネオンがちかちかまたたいて
はい。スタート!って具合。
ぼくはときどき、自分のそんな閉鎖的な考え方を、自分の意志とは裏腹につき破ってみることがある。
漫画にでてくる、いびつな海上機雷の腕みたいに
球状の現実と夢の境界ラインを変化させて、その外にある何かを探ってみようとすることがある。
それは、獲得しえなかった仕事の後日談の裏側だったり
今回のように、偶然出会った姫様だったりもする。
結果はさまざまで、もちろん中には知らないほうがよかったと思えることもある。
姫様はクリスマスの夜、サンタクロースがぼくにDHLで送りつけた、たちの悪い冗談だ。
異空間に広がる針葉樹林のどこかの漫画みたいな家のなかで、意地の悪いサンタは
ぼくがいずれ来る現実に叩きのめされる様を、いまかいまかと待ち望んでるに違いない。
かまうもんか。とぼくは思った。
姫様がクマを大事にするように、ぼくにも彼女が必要なんだ。
バスルームのドアが開いて姫様がでてきたとき、
ぼくは寝そべってテレビを見ていた。
深夜枠の馬鹿なお笑い。ところが、その笑いは巧妙に練られており
つくり手が視聴者を馬鹿にするような構成になっていた。
見ているうちに引きこまれ、姫様がベッドを揺らして近づいてくるまで
ぼくは口をぽかんと開けたまま、間抜け面でブラウン管を凝視してたんだと思う。
風呂上りのいい匂いにつられて、ベッドの揺れる先に目をやったぼくは
おや?といぶかった。
丈の短いバスローブの下にはもう出かける下準備がととのったのか
細い脚には白いストッキングまでつけている。
「お出かけですかお姫様」
「なぜ?どこにも行かないよ?」
姫様はそう言ってサイドテーブルの上にあるメインライトのボリュームをつまんだ。
まるで映画でもはじまるみたいに、部屋から光が失われてゆく。
姫様はぼくの視線の先につま先で立ち、悪戯っぽく微笑んでから
バスローブを腰の位置でしぼった、タオル地のベルトをゆっくり抜きとった。
「気に入ってもらえたかな?」
ぼくは言葉がみつからなかった。無言。
ガータベルト。ガーターベルトだっけ?
姫様は全体が同じデザインでまとまった、なんていうかかなりセクシーな下着を身に着けていた。
華奢なチェストを覆うベアトップのビスチェから垂れる4本の紐の先に
4匹の金属でできた蝶がいて、そいつが太もものまわりにとまっている。
凝視していると下着は下着でなくなにか別のもの、彼女の皮膚のようにも見えた。
君がぼくを客と割り切ってくれてたら、どんなにか楽だったろうな。
君はぼくの気持ちまで満たそうとした。
それはたぶん、君的に言えば、嬉しかったから。なんだろうけど。
刺激も、あるピークを過ぎると人の脳はそれをカットするために
βエンドルフィンを放出すると何かの本で読んだ。
安心して、落ちつきたい。
ぼくはまさにそんな気分だった。